OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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私の姉は、誰もが疲れたときに疲れた顔を見せないひとだった。
ああ疲れた、面倒くさい、と彼女が言うときは決まってまだいけるでしょうというくらいで、私がもう無理だと思う頃にふと姉を見ると、けろっとした顔でなにも考えてないふうに前を見ている。
こいつ強い、と気付いたのは随分大人になってからだったけど、その頃にはすでに私もまるで屁でもないような顔で面倒ごとで溢れた日々をやりくりできるようになっていた。
でも、扉の重たい店は嫌いだ。
そのよいしょの力を出すのが億劫なときだってある。
「お疲れさまです」
真正面から聞こえた声に顔を上げたとき、ふっとバターが香った。溶けて焦げた、あの甘ったれた香り。
カウンターの正面から私におしぼりとコースターを差し出して、男はわずかに微笑んだ。
長い前髪が鬱陶しい、でも整えた髭が清潔な印象を与える。唇だけでありがとうと言ってジンを頼んだ。
男がカウンターの奥に立ち去ってから、お疲れに見えたかなと自分の頬を押さえる。日曜日の22時すぎにこんな大きな鞄を持って一人で飲みに来た女なんて、たいてい疲れてるものか。
目の前にナッツの小皿とグラスが置かれて、わりと一気に飲んだ。
「おかわりください」
振り返った男は少しも驚かずに「はい」と低い声で答えた。その手は大きな銀色の袋を持ち上げていて、中身を一気に大きな機械にぶちまける。
ざららららとコーヒー豆が大きな透明のカップに注がれて、やがて大きな音で削られていった。
「うるさくしてすみません」
いつの間にか手元に新しいグラスが届いている。男の手は豆を挽く機械を押さえたままだ。この男がお酒を作るわけではないらしい。
いいえ、と小さく答えた。
大きなコンロから、青い炎がはみださんばかりに燃えている。そこに二つ、ビーカーを思わせるコーヒーポットが危なげに置かれてあっという間にぶくぶくと沸き立ち始めた。
ひょいとそれを取り上げて、男がくるくると腕を回すととたんにコーヒーの香りが流れてくる。
ああいい匂い、と思ったら、あっという間に出来上がったコーヒーは他の席に運ばれていってしまった。
そうだ私のじゃないんだった。
コーヒーの匂いを感じながらお酒を飲んでいると、何か悪いことをしているような気まずさがある。
男はコーヒーを使っていたカウンターの反対側、私に背を向けて、何かフライパンを動かし始めた。
黒いエプロンは店のオレンジ色の光を吸い込んでしまって男がいるキッチンだけやけに暗い。
手元のナッツを無意識に口に運ぶ。しょっぱくてびっくりした。ああでもお酒にあって美味しいな。ポリンといい音がした。
やがてまた流れてくる。バターの匂いだ。甘く焦げて、じれったいみたいな、いい音と一緒に何かが焼けている。水分が染み出しては蒸発するじゅわじゅわした音が耳を通り過ぎて私の喉に直接やってくる。思わず唾を飲み込んだ。
男がフライパンからさっと皿に移してあっという間にどこかのテーブルへ持っていったあれは、フレンチトーストだった。黄色い表面に綺麗な焼き色がついて、ふうわりと湯気のたった美しいそれを思わず目で追い、唇が薄く開く。
ああ、美味しそう。
「何か食べる?」
声をかけられて、男がいつの間にか目の前まで戻ってきていることに気付いた。いつまでもフレンチトーストの残り香を探してしまっていた。
首を振りかけて、思いとどまり、ちらりとあの香りの行く末に目をやってしまう。
「フレンチトースト、食べる?」
まるで友達かと言いたくなるような口調で、男は言った。
「お酒と合わないわ」
「じゃあコーヒー飲む?」
今挽いたところだから美味しいよ、と言って男はコーヒーポットをまた火にかけた。
ごちそうさま、といって客が一人帰っていく。私の背後で扉が開き、また閉まる。
ありがとうございました、と低くはっきりと男は言ってカウンターに置かれた金を片手でさっと掴んで仕舞った。コーヒーを淹れる仕草とは打って変わって随分乱暴な気がして、思わず男の顔を見た。
目があって、前髪の隠さない片方の目が私に向けてそっと細くなる。
「食べようかな、フレンチトースト」
「コーヒーは?」
「……コーヒーも」
当然だとでもいうように、男は頷いた。
半分ほど残ったジンをすすっていると、やがてまたあの香りがやってくる。
バターは濃くて重くてしつこい記憶がからみあう。妙なノスタルジーを感じさせるから、好きじゃなかった。でもこんなにも近くで、すぐそこでじゅうじゅうと音を立てるそれはてらいなくああいい匂い、と思わせる。近すぎて拒めない。
「おまたせしました」
とん、と軽く置かれた大きなお皿に、台形のフレンチトーストがお互いに支え合うようにして二つ。ふわっと香ったのは、いつのまにかバターではなく砂糖とミルクだった。じわりと口の中が湿る。
手元にナイフがなかった。フォークを手に取ったとき、そばにコーヒーが置かれた。
フォークの側面をトーストに沈ませる。むっちりとした感触が手に伝わる。ぷつんときれいに切れた。
口に含む。男が見ている。口の中でも優しい。でも鮮烈な甘さと香ばしさがパンから染み出して、思わず手元のお皿を見下ろした。おいしい。
すぐに次の一切れを口に含む。弾力があるのにどこでこんなにたくさんのミルクを抱えているんだろうというくらい、口の中いっぱいにミルクが香る。追いかけるみたいにバターがやってきて、砂糖の甘さをコーヒーと一緒に喉の奥に流し込む。
「うまい?」
顔を上げると、男が笑った。私は黙ってうなずいて、次の一切れを口に運ぶ。
お腹なんて空いていなかったのに、四つ切りほどの厚さのそれはあっというまになくなった。コーヒーも同じタイミングで。
唇にトーストのかけらがついている。指で拭ってなめると、名残惜しい甘さがすっと舌の上に乗ってすぐに消えた。
しばらく、呆けたようにからのお皿を眺めていた。長くお風呂に使っていたような心地よい疲労感があった。
「傘、持ってる?」
カウンターの内側でカップを拭いていた男が突然尋ねた。
問われたことの意味がわからず少し長く男の顔を見つめる。男は困ったように少し笑って、「雨降ってきたよ」と言った。慌てて振り返って窓を探したが、ここは地下なんだった。持っていない。
「ここ、23時までなんだ。すぐ電車か何か乗る?」
「ううん、歩いて」
んー、と少し男は考えて、「待ってて」と言って奥に引っ込んだ。時計に目をやって、明日もあるしそろそろ帰らなきゃと財布を取り出していたら男は大きな黒い傘を手に持ってやってきた。
「よかったら使って」
「いいの?」
「誰かの忘れ物だから、もらってくれていいよ」
私は少し体を起こして、男を眺めた。コンマ3秒くらい。なにというわけでもなかった。ありがとう、と言ってお会計を頼む。
男は店の出口まで見送りに来た。傘を受け取ろうとしたら「上まで」というので、地上に続く階段を一緒にのぼる。店を出るとき少し周りを見渡したら、いつの間にか私の他に客はなかった。
外は結構な雨が降っていた。こういうところがよくない、と私は自分に顔をしかめる。雨が降るとわかっていたのに、会社に傘もおいていたのに、今日はまっすぐ家に帰れば雨が降り出す前には帰れると思ってあえて傘を持たなかった。結局寄り道をして、あーあと思う羽目になる。
姉は時々言っていた。「あんたって、ときどき自分からハズレくじ引きにいくよね」
たしかに、と思うことがままある。
「気をつけてね」と言って、一段低いところに立った男はわざわざ私のために傘を開いてくれた。
ありがとうと言って受け取ろうとしたとき、私たちは同時に上を見て「あ」とつぶやいた。
骨が折れている。しかも一本じゃなく二本。さらには傘のてっぺんに穴が空いていた。
あっけにとられて黙った私に、男も黙ってそっと傘を閉じた。
「傘、これしかないんだ」
男は傘を持たない方の手で整えた髭を撫でた。
「おれの傘はあるんだけど」
「あんたも傘をささないと帰れない」
「そうだね」
とりあえず、といって男は階下を指差した。
「店で待っててよ」
男がきびすを返すので、私も子供のようにそのうしろをついていった。のぼったはずの階段を、また降りていく。店の入口のオレンジ色のランプがちかっと一度点滅する。
タクシーは呼ばせてもらえないらしい。
私はまたしてもハズレくじを引こうとしてるのだろうかと考えながら、男が開けた店にまた入っていった。
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しゃぼん玉が鼻先でぱちんと割れた。偶然にも、そのタイミングでナミさんがくしゅんと可愛らしいくしゃみをしたのでおっと肌寒くなってきたかなとむき出しの細い肩に腕を回したら、触れるか触れないかのうちにぎゅっと手の甲をつねられた。
仕方なく、あと少しのところで彼女に触れられたはずの手を引っ込めて、代わりにナミさんが持っていた買い物袋をその手から取り上げた。
「持つよ」
「いいわよ。あんたの方がもういっぱい持ってる」
「大丈夫、貸して」
やんわりと、しかし少し強引に奪い取る。ナミさんは小さく「ありがと」とつぶやいて袋を手放した。
「しゃぼん玉、どこから飛んできたのかね」
「しゃぼん玉?」
ほら、と顔を上げて顎で指し示すと、彼女もつられて顔を上げた。上空の、そんなに高くないところをふよふよとこころもとなく泳いでいる丸がある。しばらく立ち止まって、ふたりでぼんやりとそれを見上げていた。
「本当だ、何だろ」
突然、ごーんと低く鐘の音が響き渡った。思わずびくっと肩を揺らして音のした方を振り返る。
「…なるほど」
遠くに、教会が見えた。小さく鐘が揺れているのが見える。耳を澄ませば、人々の歓声や拍手、鳥の羽ばたきの音なんかが聞こえてきた。
「結婚式ね」
「見てく?」
「なんでよ」
ふっと鼻で笑って、ナミさんは歩き出した。あわてて俺もその後を追う。
「いいなーってなるじゃん。想像膨らむじゃん」
「海賊が見に来てたら幸先悪いでしょ」
それもそうか、と思い直す。
どっかでメシ食べてく? と顔を覗き込んだが、ナミさんはしっかりと首を振った。
「帰りましょ」
うん、と答えながら、いつもよりかたくなな気がするその小さな背中を見下ろしていた。
*
食堂のドアノブには、その日からしばらく花冠が掛けられていた。おれたちが見に行かなかった結婚式に、ウソップとチョッパーがたまたま通りがかっていたのだ。道端にフラワーシャワーの花々が落ちていて、それが珍しく茎のついた生花だったからと拾い集めてきたのだという。なんという乙女メンタル。
チョッパーがそれを使って花冠を作った。きれいだからとドアノブに掛けた。しかし、生花は枯れる。すでにしおしおと花は下を向き、花弁は茶色く染まろうとしている。
夕食後の皿洗い中に人の気配を感じて振り返ったら、その花冠を指先に引っ掛けたナミさんだった。
「んあんナミさん」
「なにか温かいのある?」
「すぐ淹れるよ。それ、どうした?」
「枯れてきてたから」
捨てるのだろうかと思ったが、ナミさんはカウンターに花冠を置いて自身もその前に座った。
ナミさんが思いを巡らすようにじっと花冠を見つめるので、
「式、やっぱり見に行けばよかったな」
「そうね」
思いがけない返事に振り返ると、ナミさんはぷちっと思い切りよく花冠の花弁を一枚ちぎった。
手の指でその薄い花びらをこねている。
「……ウエディングドレス姿のナミさん、もう一度見てぇなあ」
「もうまっぴらなんですけど」
スリラーバーグの一件を思い出して舌を出す彼女に笑い返して、カップに注いだ紅茶を差し出す。おれだってまっぴらではあるが、ナミさんが美しかったのは事実だ。
ナミさんはまだ熱いはずのカップに口をつけて、ふとおれを見上げた。
「いいなって言ってたけど、したいの?」
「結婚?」
「うん」
「ナミさんとなら」
「そういうのいいから」
真顔で遮られて、うーんと頭を掻く。
「正直あんま興味ねえけど、海賊だし。でもバラティエで時々やってたからさ、式っつーか、披露宴。なんともなしにいいなーとは思ったよ」
「へえ。バラティエでできるんだ」
「海上だからなかなか大変だけどな、海好きにはたまらんだろうな」
「海賊向きね」
ふふっと笑った彼女が可愛くて、もっと近くで見ようとそれとなくカウンターを回った。
「私、ちゃんとそういうの見たことないな」
「じゃあ自分のが初めてになるな」
ナミさんがきょとんと目を丸くするので、あれなんかへんなこと言ったっけと口をつぐむ。
しかし彼女はなんでもなかったように紅茶に目を落とし、「そうかもね」と静かにつぶやいた。
隣に腰を下ろして、「どんなのにする?」とおずおず尋ねてみた。
「私の?」
「そう、ナミさんの」
「結婚式?」
「うん」
そうね、と彼女は少し考えるように前を向いて、ぽつりと「ココヤシ村かな、やっぱり」と言った。それがいいと思う、とおれは大きくうなずく。
「でも、村の人達に見られるのもなんかね、やだから」
「恥ずかしい?」
「そうかも」
「でもきっと見に来るよ」
「たぶんね」
ナミさんは歯を見せて笑った。故郷のことを思い出すとき、ナミさんはこの笑い方をする。
「ゲンさんと、ノジコと。あとはドクターくらいかな」
「ずいぶん少ないね」
「そうかしら」
ちっともそうは思わないとでもいうようにナミさんは首を傾げた。
「ドレスは? どうする?」
「あそっか。ココヤシ村じゃ買えないな。帰る前にどこかに寄らないと」
まるで食材の買い出しみたいな気軽さで言うのでつい笑ってしまう。
「ていうか、ウソップ作ってくれたりしないかな。お金が浮くわ」
「ああ、できちまいそうだな」
「浮いたお金で宝石買ってもいいわね」
これくらいの? と指で輪っかを作ると、ナミさんは「ううん、もっと。これくらい」と細い指で一回り大きな輪っかを作った。
「ダイヤモンド?」
「そうね、やっぱり」
ドレスよりずっと高く付きそうだ。
「靴は?」
「そうね、ドレスをゴージャスにしてシンプルなハイヒールでもいいし……ロビンと相談したい」
うんうんとうなずきながら、おれはいつ言おうかと小さな顔をちらちらと覗く。
「そうだ、ケーキ。ウエディングケーキはサンジくんが作ってくれるでしょ」
「もちろん」
「よね。料理のことは心配ないし」
あとは、と考えを巡らす彼女を前にして、ついに想像の中に自分が役割を持って登場してしまったので耐えきれずに言った。
「でもナミさん、ひとりではできないよ」
ナミさんは頬杖をついていた手から顎を少し浮かせて、ほんの一秒の間を開けて「わかってるわよ」と怒ったふりと笑ったふりを同居させながら言った。
「てか、する予定なんかないし。帰る予定もまだないし」
「でもいつでもできるよ」
「なんでよ」
「おれがいるから」
ナミさんはまた一拍の間を開けて、カウンターの上で両肘を組んでそこに頬を置いた。そしてにやりと笑っておれを見る。
「興味ないって言ったわ」
「それより先に、ナミさんとならって言った」
「ふうん。じゃあ、あんたのはどんな式にするの」
「そうだな、場所はイーストブルーの温暖でみかんが特産の小さい村かな。街からちょっと離れた丘に立ってる家で。ゲストはこの船の奴らと、家族が少し。花嫁さんは知り合いの鼻がなげえのが作ったドレスを着て、こんなでっかいダイヤモンドの指輪をはめてる。そんでウエディングケーキはもちろんおれが作る」
あはは、とナミさんは頬をつけたまま声を上げて笑った。
「それ、私の」と。
「そうだよ、おれたちの」
「ううん、私の」
「おれたちの」
私のだってば、と笑いながらナミさんが目を伏せた。そのすきにぎゅっと椅子を寄せて距離を詰める。肩が触れたがナミさんは気づかないふりをして目を伏せたままだ。
テーブルと距離の近い彼女の姿勢のまねをして、おれも背中を丸めて顔を寄せた。彼女の頬の温度が感じられるくらい近くで、触れた肩がじんと熱い。
「叶うかね」
「さあ」
「も少し先かね」
「少なくとも」
ナミさんはいやにはっきりと「まだ帰らない」と言った。それもそうだとおれはうなずく。
ナミさんがちらりと視線をよこした。
「くっつかないで」
「誰も来ないよ」
「そういう問題じゃあないのよ」
じゃあ、何が問題なんだろう。二人の間の温度と湿度はじゅうぶんなほど高いというのに。
部屋にはふたりだけで、肩が触れていて、頬もあと数センチ、少し動かせば指も絡まる。そっと膝を開くと彼女のそれにぶつかった。いそぎんちゃくの先っぽに触ったときみたいに、細い脚はぎゅっと縮まる。
「なんの話してたんだっけ」
言わせたくてわざと尋ねると、意外に素直なナミさんは言いにくそうにしながらも「けっこん」とつぶやいた。
そうだったね、とおれはしらばっくれる。
もしもナミさんが、と切り出すと彼女の視線がこちらに向くのがわかった。
「おれにウエディングケーキを作ってほしいときが来たら」
「作ってくれる?」
どうだろうな、と思う。考えようとするも、やっぱり考えたくなくてわざともやもやした気持ちのまま答えをだすのをやめてしまう。
答えないおれを、怪訝な顔で彼女が覗き見たので代わりに言った。
「キスしてもいい?」
「ケーキの話はどこいったのよ」
「キスしてから考えよっかなって」
呆れた顔で、彼女はカウンターから体を起こした。せっかくくっついていた肩が離れて、ひんやりした空気が触れる。
髪を後ろに払った彼女は呆れ顔のまま「律儀ね」と言って立ち上がった。
「キスするのにはお伺い立てるのに、私の結婚式は乗っ取るつもりなの」
「うん」としか言いようがない。「ケーキの話だけど」と切り出すと彼女はおれを見下ろした。
「頼まれたら作るよ。でも、おれとの式じゃなけりゃ乗っ取ってぶち壊すよ」
「最低」
そう言って笑ったナミさんが少しうれしそうだったので、今ならもしかしてと思って腰へ伸ばした手はやっぱり目一杯つねりあげられた。
→もどる
仕方なく、あと少しのところで彼女に触れられたはずの手を引っ込めて、代わりにナミさんが持っていた買い物袋をその手から取り上げた。
「持つよ」
「いいわよ。あんたの方がもういっぱい持ってる」
「大丈夫、貸して」
やんわりと、しかし少し強引に奪い取る。ナミさんは小さく「ありがと」とつぶやいて袋を手放した。
「しゃぼん玉、どこから飛んできたのかね」
「しゃぼん玉?」
ほら、と顔を上げて顎で指し示すと、彼女もつられて顔を上げた。上空の、そんなに高くないところをふよふよとこころもとなく泳いでいる丸がある。しばらく立ち止まって、ふたりでぼんやりとそれを見上げていた。
「本当だ、何だろ」
突然、ごーんと低く鐘の音が響き渡った。思わずびくっと肩を揺らして音のした方を振り返る。
「…なるほど」
遠くに、教会が見えた。小さく鐘が揺れているのが見える。耳を澄ませば、人々の歓声や拍手、鳥の羽ばたきの音なんかが聞こえてきた。
「結婚式ね」
「見てく?」
「なんでよ」
ふっと鼻で笑って、ナミさんは歩き出した。あわてて俺もその後を追う。
「いいなーってなるじゃん。想像膨らむじゃん」
「海賊が見に来てたら幸先悪いでしょ」
それもそうか、と思い直す。
どっかでメシ食べてく? と顔を覗き込んだが、ナミさんはしっかりと首を振った。
「帰りましょ」
うん、と答えながら、いつもよりかたくなな気がするその小さな背中を見下ろしていた。
*
食堂のドアノブには、その日からしばらく花冠が掛けられていた。おれたちが見に行かなかった結婚式に、ウソップとチョッパーがたまたま通りがかっていたのだ。道端にフラワーシャワーの花々が落ちていて、それが珍しく茎のついた生花だったからと拾い集めてきたのだという。なんという乙女メンタル。
チョッパーがそれを使って花冠を作った。きれいだからとドアノブに掛けた。しかし、生花は枯れる。すでにしおしおと花は下を向き、花弁は茶色く染まろうとしている。
夕食後の皿洗い中に人の気配を感じて振り返ったら、その花冠を指先に引っ掛けたナミさんだった。
「んあんナミさん」
「なにか温かいのある?」
「すぐ淹れるよ。それ、どうした?」
「枯れてきてたから」
捨てるのだろうかと思ったが、ナミさんはカウンターに花冠を置いて自身もその前に座った。
ナミさんが思いを巡らすようにじっと花冠を見つめるので、
「式、やっぱり見に行けばよかったな」
「そうね」
思いがけない返事に振り返ると、ナミさんはぷちっと思い切りよく花冠の花弁を一枚ちぎった。
手の指でその薄い花びらをこねている。
「……ウエディングドレス姿のナミさん、もう一度見てぇなあ」
「もうまっぴらなんですけど」
スリラーバーグの一件を思い出して舌を出す彼女に笑い返して、カップに注いだ紅茶を差し出す。おれだってまっぴらではあるが、ナミさんが美しかったのは事実だ。
ナミさんはまだ熱いはずのカップに口をつけて、ふとおれを見上げた。
「いいなって言ってたけど、したいの?」
「結婚?」
「うん」
「ナミさんとなら」
「そういうのいいから」
真顔で遮られて、うーんと頭を掻く。
「正直あんま興味ねえけど、海賊だし。でもバラティエで時々やってたからさ、式っつーか、披露宴。なんともなしにいいなーとは思ったよ」
「へえ。バラティエでできるんだ」
「海上だからなかなか大変だけどな、海好きにはたまらんだろうな」
「海賊向きね」
ふふっと笑った彼女が可愛くて、もっと近くで見ようとそれとなくカウンターを回った。
「私、ちゃんとそういうの見たことないな」
「じゃあ自分のが初めてになるな」
ナミさんがきょとんと目を丸くするので、あれなんかへんなこと言ったっけと口をつぐむ。
しかし彼女はなんでもなかったように紅茶に目を落とし、「そうかもね」と静かにつぶやいた。
隣に腰を下ろして、「どんなのにする?」とおずおず尋ねてみた。
「私の?」
「そう、ナミさんの」
「結婚式?」
「うん」
そうね、と彼女は少し考えるように前を向いて、ぽつりと「ココヤシ村かな、やっぱり」と言った。それがいいと思う、とおれは大きくうなずく。
「でも、村の人達に見られるのもなんかね、やだから」
「恥ずかしい?」
「そうかも」
「でもきっと見に来るよ」
「たぶんね」
ナミさんは歯を見せて笑った。故郷のことを思い出すとき、ナミさんはこの笑い方をする。
「ゲンさんと、ノジコと。あとはドクターくらいかな」
「ずいぶん少ないね」
「そうかしら」
ちっともそうは思わないとでもいうようにナミさんは首を傾げた。
「ドレスは? どうする?」
「あそっか。ココヤシ村じゃ買えないな。帰る前にどこかに寄らないと」
まるで食材の買い出しみたいな気軽さで言うのでつい笑ってしまう。
「ていうか、ウソップ作ってくれたりしないかな。お金が浮くわ」
「ああ、できちまいそうだな」
「浮いたお金で宝石買ってもいいわね」
これくらいの? と指で輪っかを作ると、ナミさんは「ううん、もっと。これくらい」と細い指で一回り大きな輪っかを作った。
「ダイヤモンド?」
「そうね、やっぱり」
ドレスよりずっと高く付きそうだ。
「靴は?」
「そうね、ドレスをゴージャスにしてシンプルなハイヒールでもいいし……ロビンと相談したい」
うんうんとうなずきながら、おれはいつ言おうかと小さな顔をちらちらと覗く。
「そうだ、ケーキ。ウエディングケーキはサンジくんが作ってくれるでしょ」
「もちろん」
「よね。料理のことは心配ないし」
あとは、と考えを巡らす彼女を前にして、ついに想像の中に自分が役割を持って登場してしまったので耐えきれずに言った。
「でもナミさん、ひとりではできないよ」
ナミさんは頬杖をついていた手から顎を少し浮かせて、ほんの一秒の間を開けて「わかってるわよ」と怒ったふりと笑ったふりを同居させながら言った。
「てか、する予定なんかないし。帰る予定もまだないし」
「でもいつでもできるよ」
「なんでよ」
「おれがいるから」
ナミさんはまた一拍の間を開けて、カウンターの上で両肘を組んでそこに頬を置いた。そしてにやりと笑っておれを見る。
「興味ないって言ったわ」
「それより先に、ナミさんとならって言った」
「ふうん。じゃあ、あんたのはどんな式にするの」
「そうだな、場所はイーストブルーの温暖でみかんが特産の小さい村かな。街からちょっと離れた丘に立ってる家で。ゲストはこの船の奴らと、家族が少し。花嫁さんは知り合いの鼻がなげえのが作ったドレスを着て、こんなでっかいダイヤモンドの指輪をはめてる。そんでウエディングケーキはもちろんおれが作る」
あはは、とナミさんは頬をつけたまま声を上げて笑った。
「それ、私の」と。
「そうだよ、おれたちの」
「ううん、私の」
「おれたちの」
私のだってば、と笑いながらナミさんが目を伏せた。そのすきにぎゅっと椅子を寄せて距離を詰める。肩が触れたがナミさんは気づかないふりをして目を伏せたままだ。
テーブルと距離の近い彼女の姿勢のまねをして、おれも背中を丸めて顔を寄せた。彼女の頬の温度が感じられるくらい近くで、触れた肩がじんと熱い。
「叶うかね」
「さあ」
「も少し先かね」
「少なくとも」
ナミさんはいやにはっきりと「まだ帰らない」と言った。それもそうだとおれはうなずく。
ナミさんがちらりと視線をよこした。
「くっつかないで」
「誰も来ないよ」
「そういう問題じゃあないのよ」
じゃあ、何が問題なんだろう。二人の間の温度と湿度はじゅうぶんなほど高いというのに。
部屋にはふたりだけで、肩が触れていて、頬もあと数センチ、少し動かせば指も絡まる。そっと膝を開くと彼女のそれにぶつかった。いそぎんちゃくの先っぽに触ったときみたいに、細い脚はぎゅっと縮まる。
「なんの話してたんだっけ」
言わせたくてわざと尋ねると、意外に素直なナミさんは言いにくそうにしながらも「けっこん」とつぶやいた。
そうだったね、とおれはしらばっくれる。
もしもナミさんが、と切り出すと彼女の視線がこちらに向くのがわかった。
「おれにウエディングケーキを作ってほしいときが来たら」
「作ってくれる?」
どうだろうな、と思う。考えようとするも、やっぱり考えたくなくてわざともやもやした気持ちのまま答えをだすのをやめてしまう。
答えないおれを、怪訝な顔で彼女が覗き見たので代わりに言った。
「キスしてもいい?」
「ケーキの話はどこいったのよ」
「キスしてから考えよっかなって」
呆れた顔で、彼女はカウンターから体を起こした。せっかくくっついていた肩が離れて、ひんやりした空気が触れる。
髪を後ろに払った彼女は呆れ顔のまま「律儀ね」と言って立ち上がった。
「キスするのにはお伺い立てるのに、私の結婚式は乗っ取るつもりなの」
「うん」としか言いようがない。「ケーキの話だけど」と切り出すと彼女はおれを見下ろした。
「頼まれたら作るよ。でも、おれとの式じゃなけりゃ乗っ取ってぶち壊すよ」
「最低」
そう言って笑ったナミさんが少しうれしそうだったので、今ならもしかしてと思って腰へ伸ばした手はやっぱり目一杯つねりあげられた。
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※Twitterで栗さん(@_iga_guri_)が呟かれていた
「【現パロ】6畳一間和室のワンルームに住んでる貧乏大学生ナミさんの部屋に入り浸る財閥の御曹司(元)のサンジ 」
のネタとイラストに触発されたサンナミ現パロです。書きたいところだけ書きました。
(栗さんから許可を頂いています)
がっつりR-18です。
なにか欲しいものある? と聞かれたので、「お金」と端的に答えたら、サンジくんは聞き違えたか冗談だと思ったらしく、「うんー?」と気のない声で聞き返してきた。聞き返しながら、私のむき出しになった足の付根を何度も押すように触ってくる。気が散ったが、「やめて」というのも面倒で好きにさせておいた。
「なに? お金?」
「うん」
「そうな、お金な」
いいよな、と何がいいのか私に同調するふりをして、サンジくんは執拗に私の太ももを触り続ける。暑くて、扇風機をつけようと手を伸ばすが、毛羽立ったラグマットの上にある扇風機のボタンに手が届くより早くサンジくんは私の腰を抱きかかえたまま肩で私を押し倒した。
「ちょっと」
「ううん、ナミさん全身すべすべ」
「もう、暑いの。ひっつかないで」
「ナミさんおれ18時から仕事だもん。あと1時間だから、もう一回」
腰に巻き付いていた両腕が、するすると体を撫でるように動き始める。そのたびに汗でぺたりと肌と肌が吸い付く。触れると濡れたようにひんやりとしているのに、その奥にある生きた熱がじわっと肌を汗ばませる。唯一まとっていた下着を指先で抜き取って、サンジくんは私の鎖骨に溜まった汗を嬉しそうに舐めた。
汗で濡れた手が私の脚を持ち上げるが、滑って二回ほど取り落とす。六畳一間の畳の上に、無理やり置いた一組で5400円だったマットレスベッドは、汗なのかなんなのかわからない湿気をたっぷりと含んでいて、とても心地良いとはいえなかった。
「ナミさん、首、持って」
サンジくんが私の手を取って、自分の首に巻き付かせる。暑さと下腹に迫る欲求の波で朦朧としながら、言われるがまま腕を伸ばしてサンジくんの頭をかき抱くようにして体を持ち上げた。
力強い手が私の腰を支えて、打ち据えられる。
金色の髪の先で揺れていた汗が、飛沫になって顔にかかった。
肩越しに窓が見える。壁にかけた時計の針が一つ動く。
お腹の中で熱い何かが喜びに打ち震えるみたいに、小刻みに収縮していた。
*
大学に行くと、掲示板に学生番号が張り出されていた。げ、という顔をしたら隣でビビが「これナミさんの番号?」と目ざとく気づいてしまう。
「そう、多分」
「多分も何も」
掲示された紙には、番号とともにいついつまでに学生課に来るようにと丁寧かつ有無を言わさぬ調子で書かれていた。私の他にも、3つ4つ学生番号が書いてある。
「行かなきゃ」
当然のようにビビが言う。そうね、と適当に相槌を打つ。確かに行かなければ、やがて電話がかかってくるだろう。それすら出ないでいたら、きっと緊急連絡先にしているノジコの携帯に電話がかかるに違いない。そんなことになったら、ノジコに怒られてしまう。
「なんでしょうね」
「なんでしょうね」
ビビの言い方を真似て言ってみるが、要件なんてわかりきっている。学費の件だ。
滞納はしていない。けれど、支払いは滞っている。どう違うのかと言うと、他の学生みたいに半年分をどーんと収めることができないので、月割で学費を入れているのだが、毎月の自動振込ができないとこうして呼び出しがあるのだ。自動で振り込まれないのは、もちろん口座にお金が足りないからで、月末までにはお願いしますね、と学生課で念を押されることになる。
「はあ、バイト行かなきゃ」
「学生課いいの?」
「バイトのあと5限あるから、そのときに行くわ」
「ナミさん、授業の間にバイト入れてたの?」
「最近ね、始めたの」
だって水曜日は、1限の次が5,6限という間延びした時間割を避けることができなかった。春の間は、課題をしたり友だちと過ごすことで時間をやり過ごしていたが、やっぱりそのぽかりと空いた時間が惜しくてバイトを入れることにした。
大学近くのケーキ屋さんだ。小さな店構えのかわいらしい店で、間口は狭いが中は広く、ケーキも種類が多くておいしい。気に入ってときどき訪れていたら、バイト募集の張り紙があったのでこれはと店先で応募したのだった。
店に入って右側は、2つ3つテーブル席がおいてあり、そこでケーキと紅茶を楽しむことができた。もとは、紅茶のリーフ専門店だったらしい。
異様に背が高くて陽気なアフロの店主は、開店後も開店中も開店後も、暇さえあれば客席で紅茶を飲んでいる。
ケーキもそのアフロ店主が作っているのかと思いきや、ケーキは隣のレストランから卸されてくる。レストランにはケーキのショーケースを置くスペースがないから、懇意にしている隣の紅茶屋を間借りしている形になるらしい。間借りと言っても売るのは紅茶屋の方なので、販売形態としてはレストランはケーキの卸売をしていることになる。
その、レストランのシェフがサンジくんだった。
初めて会ったのはひと月前にバイトを始め、3回目のシフトの日。給食を彷彿とさせる大きなプラケースを慎重に運ぶ若い男と、店の出入り口でばったり鉢合わせた。
「あ、ナミさんその方、隣のレストランの職人さんです」
アフロ店主ブルックが、音を立てて紅茶をすすりながら言う。ぺこんと彼に頭を下げて、さっさとその横を通り過ぎバイト服に着替えに奥へ引っ込んだ。
店に戻ると男は消えていたので、気にもしていなかったのだが、バイトが終わって夕方店を出ると、隣のレストランから彼は飛び出してきたのだった。
「ナミさん?」
声をかけられて、驚いて振り返る。男はにへらっと笑い、コックコートについたソースのシミを払うように服をはたきながら「ブルックに、聞いて」と遠慮がちに口を開いた。
「ああ、おつかれさまです」
「おつかれさま、あの、今帰り?」
「うん、今から大学の授業だから」
「えっ、今から?」
そう、とうなずくと、何故か男はぱあっと顔を明るくさせた。
準備していたのか、コックコートのポケットからすばやく何かを取り出して私の方に手を突き出す。
「おれ、夜まで店の営業あんだけど、よかったら授業終わったあと飯食いに来ねえ? 終わったら、連絡してもらえると」
私は彼が差し出した手の先に握られた紙切れを見下ろして、再び顔をあげる。
男はにへら笑いを崩さないまま、根気よく紙切れを差し出し続けている。
「授業終わるの、8時半とかだけど」
「全然いい、ちょうどいい。それくらいのほうが」
「……あなたのお店、すごく高そうだけど」
「まさか、お代なんていらねぇよ」
男は驚いたように手をぶんぶん振って、「出会った記念に」と意味のわからないことを口にした。
「ごちそうしてくれるの?」
「もちろん!」
でもなんで、とは聞かなかった。「わかった」と私はいい、紙切れは受け取らないまま「じゃあ」と踵を返す。
あっと彼は声を上げ、「待って、これ」と私を呼び止める。
相変わらず紙切れを突き出しているのかと思えば、私の前に半身を乗り出してきた彼が差し出したのは小さな茶色の紙袋だった。古紙の乾いたいい匂いと混じって、香ばしいバター生地の焼ける匂いがする。
「授業終わるまで腹減るだろうから、それまでのつなぎによかったら食って」
キッシュ、と言って、男は半ば強引に私の手に紙袋をもたせた。あまりの良い匂いに、私も受け取ってしまう。
男は私が受け取ったのにほっとしたように相好を崩した。一重の少し垂れた目が、すっと細く笑った。
「じゃあ、おれも仕事だから」
待ってる、と言って男は後ずさり、ぶんぶんと手を振った。
私はぽかんとしたまま、いい匂いの紙袋を待って、大学へと戻った。
講義室で、講義が始まる前に紙袋を開けてみると、とたんに濃い卵とバターの香りが広がって、周りに座った学生たちが振り返るほどだ。
形のいい三角のそれをかじると、まだほのかにあたたかく、ドライトマトのすっぱいところとベーコンのしょっぱいところがとても美味しかった。
そして私はのこのこと、講義の後に彼のレストランに向かった。なぜかもう何も考えることなく、大学を出た脚はそっちの方向へ進んだのだ。
上品な内装の店内に気圧されて、びくびくしながら足を踏み入れた私を、厨房から飛び出してきた彼は大喜びで出迎えて、まるで私が来ることを疑いもしなかったみたいに用意された席に案内してもらった。
「キッシュ食ったし、もう9時だからお腹に優しいもんがいいかなと思ったんだけど、どう?」
「おまかせする」
よっしゃと彼は大きくうなずいて厨房に戻った。
カチャカチャとカトラリーが小さくぶつかる音が響く店内に、私はぽつんと残される。心細い気持ちを抑え込むように、気丈に顔を上げて彼が戻ってくるのを待った。
「失礼いたします」と言って向かいに立ったウェイターが、水のボトルを二種類抱えて、赤と青それぞれのラベルを私に見せる。
遠い国の南の地方で取れたまろやかで飲みやすい軟水、スパークリングとノンスパークリングどちらがよいか訊かれた。
あっけにとられて二種類のボトルを見上げる私を、ウェイターは根気よく待っている。あわてて「じゃあ、普通の方で」と青いラベルを指さした。
口の大きな薄いグラスに、たっぷり水が注がれる。
ウェイターが去ったあと、恐る恐る水を口に運んでみたが、朝起き抜けに飲む水道水との違いはいまいちわからなかった。
「おまたせ~」
今日会ったばかりの男が皿を持って姿を見せると、なぜかホッとした。
男は私の目の前に、ほこほこ湯気を立てるリゾットと小さなサラダを置いた。
「海の幸のリゾット。口に合うといいんだけど」
「い、ただきます」
もう、口に含む前から絶対美味しいとわかっていた。だって立ち上る湯気が、そこに含まれる塩気と海鮮の香りが、私の胃をぎゅっとひねるみたいに刺激してくるのだ。
そしてやっぱり当然のようにおいしい。
「おいしい……!」
男は、私がキッシュの紙袋を受け取ったときの数倍嬉しそうに顔をほころばせた。よかった、と小さくつぶやく。
「今更だけど、あんたが作ったの?」
「うん。得意なんだ。海鮮」
「すごい、すごいのね」
男は照れたように鼻を鳴らして笑うと、「楽しんで」と言って一歩下がった。
「あ」
思わず声を上げた私を見下ろし、男が「なにか」というように見つめてくる。
続く言葉が見つからず、スプーンを持つ手をぎゅっとにぎる。
こんな格式高そうなレストランの、広いフロアに一人取り残されるのが不安だったのだ。
洗いざらしたジーンズとリブTシャツの私は、きっとこの店の中でとんでもなく異端だろうと思えたから。
なんてことを言えるわけもなく、私は「何でもない」と言ってふたたびリゾットを口に運ぶ。
男は少しの間私を見つめていたが、「ごめんね、おれ戻らねぇと」と言ってにこりと笑って厨房に戻っていった。
9時をまわり人も少ない店内だが、席に座るお客さんたちはみんな一様にしあわせそうに見えた。
私も、水を飲んでいたときに感じた心もとなさが、リゾットを口に含むたびにあたたかく喉を通るうまみによっていつしかわからなくなっていた。
リゾットとサラダを食べ終わったとき、男は戻ってきた。が、さっきと違いコックコートを着ていない。着替えてきたのか、私服だ。
「もう帰る?」
「うん。ごちそうさま。すごい美味しかった。本当にお代いいの?」今更払えと言われても困るけど。
「いいのいいの。おれも帰るからさ、よかったら送らせて」
「え、でも」
まだ閉店前のようだし、お客さんは残っている。気にして見ないとわからないが、厨房のほうがどこか殺気立っている気がしなくもない。
「いいのいいの」と彼は繰り返し、立ち上がった私の椅子をさっと引いてくれる。
「行こう」
男はサンジと名乗った。生ぬるい風が吹く夜道を歩きながら、男は、サンジくんは歩幅を合わせて隣を歩く。
聞けば、歳は一つ上だった。家は、あのレストランの2階。
「えーと、ナミさんちは」
「ここから15分位歩いたところ」
「いつも歩いて通ってんの? 危なくない?」
「夜にバイト入ったときは、駅からバスに乗るから。遅い時間に授業があるのは水曜だけだし」
ふーん、とサンジくんはなにか言いたげに、でも何を言うでもなく相槌を打った。
突然、私達の目の前を大きな野良猫が横切る。わっと彼が声を上げた。私も驚いたが、息を呑むだけで野良猫が私達の目の前を悠然と闊歩するのを思わず目で追ってしまう。
猫は植え込みの隙間にするりとその大きな体を滑り込ませて消えた。
「すげ、太ってたね」
「うん、デブ猫だったわね」
あははと彼が笑う。そのついでみたいに私の手を取った。そのままなんでもないみたいに歩き始める。
しばらく歩いて、突然彼が「どうしよう」と言う。
「どこまで送ろう。おれのポリシーに則って、君のいいっていうところまで送ろうと思うんだけど」
「え、別にどこまででも」
そうなの? というようにサンジくんは目を丸くした。
「じゃ、家の前まで送っていい?」
「いいわよ。家の周り暗いし、私はありがたい」
でも、そうね、と言葉をつなぐ。サンジくんは「なになに?」と楽しげに聞き返す。
「あんたびっくりするかも」
「びっくり? 何に?」
「見たらわかるわ」
言葉のとおり、サンジくんは私の家の前で立ち止まったとき、しばらく驚いたみたいに家の全貌を眺めていた。
小さな2階建てのボロアパートは、風が吹くだけでぎいと鳴く。
「じゃ、送ってくれてありがとう。ごはんも、おいしかった」
「うん、あ、えーと、ナミさん」
サンジくんは、ボロアパートから私に目を転じ、握った手を離さないまま少し言いよどむ。そして、意を決したように口を開いた。
「また会いたい」
サンジくんの顔を見上げると、まるで負けじとばかりに見つめ返してくる。
お腹の中でまだやさしく残っているリゾットの存在を感じ、そうねえ、と私は考える。考えているようで、あんまり頭は働いていなかった。
なんとなく、私もまた会えたらなと思っている。
それは、まだ一緒にいたいな、という気持ちにも似ていた。
だから私は、「じゃあ」と口を開いてボロアパートの二階、私の部屋の方を指さした。
「寄ってく?」
え、とサンジくんが私の指さしたほうを見やり、私に視線を戻し、またアパートの方をちらっと見て、ごくんとのどを動かした。
しばらく迷うみたいに口元を蠢かせて、やがて口を開く。
「いいなら」
「いいわよ」
私が背を向けてアパートに歩きだすと、彼の革靴がこつこつと後ろをついてくる音が聞こえた。
弁解するようにサンジくんは、「あの、ごめん、おれハナからそういうつもりだったわけでは」と私の襟足あたりにつぶやいている。
知ってる知ってる、といいながら鍵を開け、「狭くてごめんね」と彼を招き入れた。
玄関を照らす小さな灯りをぱちんとつけて、「鍵とチェーン締めて」と言おうと背後に立った彼の方に首を向けると、思いもよらない近さで彼は立っている。狭いのだから仕方がないが、息もかかるようなその距離に少し驚き、でもサンジくんが視線を外さないことに少しずつ気持ちが落ち着いていく。
そっと、子供の顔を優しく覗き込むみたいに、サンジくんが腰をかがめて私の唇に唇で触れた。
男の子の唇は、私のものより柔らかいような気がする。リップやグロスで見た目の質感をつくろった女の子のそれより、なんというか素材のままと言った感じで、いうなれば生々しい。
私の唇を挟んでいただけだったのが、やがておずおずと動き、濡れた舌が唇をなめ、口の中にぬるりと入り込んでくる。
彼の腕に触れると、いままでどこにあったのか、どこからともなくやってきた両手が私の腰をそっと掴んだ。
背中を服の上から這い上がる手が私を引き寄せるように抱きしめて、同時にキスが深く奥へ進もうとするので腰がぎゅっとしなる。
一度唇が音を立てて離れると、サンジくんは鼻先を触れ合わせたまま「やべ、うまいねナミさん」とつぶやいた。
上手いねなのか美味いねなのかわからないまま、私達は今度は息を合わせるみたいに呼吸して、深く唇を重ねた。
絡まり合うように抱き合ったまま靴を脱ぎ、どたどたとした足取りで玄関の明かりだけが照らす狭い廊下を奥へ進み、すぐそこにあるマットレスに崩れ落ちるみたいに倒れ込む。
キスは性急に、吸ったり舐めたり飲んだり忙しいのに、私の服を脱がす手付きは妙に緩慢で、襟元の狭いTシャツからすぽんと頭を出したときにはいつのまにか彼のほうも上の服を脱ぎ去っている。
サンジくんは私の上にまたがったまま、両手で私のお腹を掴むようにして、「綺麗だね」と言った。
お腹を撫でて、胸の上に手をおいて、そっと掴む。その手が動くたびに、じわじわと下腹部に水が溜まる。
長い指が鎖骨を撫でて、背中に回り、私を抱き起こすと、私の肩に顎を置いてゆっくりと下着の金具を外した。
「ここ、噛んでいい?」
サンジくんが、私の下着を取り去って、ちょうど肩紐があったあたりを唇でなぞる。
「噛むの?」
「痛くしないから」
返事も訊かず、彼は歯を立てた。
確かに、痛くない。痛くはないが、尖った硬いものが皮膚を押しやり骨に触れる感触が、鮮明に感じられる。
胸の上でうごめいていた指が先端に触れ、私が思わず呻くとサンジくんは嬉しそうにますます深く歯を立てた。
浅い歯型を、まるで謝るみたいに舌でなぞって、唇は胸の方へ降りていく。
力をかけられて背中側に倒れると、サンジくんは胸に顔をうずめるみたいにして舌でいろんなところに触れた。
ぴりっと電気が走って、思わず彼の背中に手を伸ばす。
汗ばんで、じっとりと濡れている。
「……あ、暑い?」
「うん、でもいい」
私も汗をかいている。その証拠に、私の胸にサンジくんが頬をつけると、ぺたりと張り付くみたいに離れなくなる。
鼓動を聞くみたいに、サンジくんはそのまま胸に頬をつけてしばらくじっとしていた。
さっきまでいじられていた胸の先端が、ヒリヒリと熱を持つ。何か、次の刺激を待つみたいに、ただのぬるい空気が揺れるたびに期待してしまいそうになる。
サンジくんの背中に浮かんだ汗を混ぜるみたいに手を這わせると、サンジくんが力を抜いて私の上にのしかかった。
平たい胸が私を押しつぶし、汗のせいでズッとどこかが擦れて音を立てる。
「きもちー。ナミさんの肌」
「……重いわよ」
「うん」
ごめんね、と言って体を持ち上げたサンジくんは、いきなり太ももの内側に手を伸ばしてきた。スカートからむき出しの素足は、触れられるのを待っていたみたいにほんのり熱を持っている。
私の一番柔らかい肉を確かめるみたいに、サンジくんは太ももをゆっくり押すように握って、少しずつ奥へと手を滑らせていく。落ち着いたその手付きにじれったさを感じるが、わざとだ、と思ってこらえた。
下着の上を指がかすめる。ほんの少し触れただけなのに、腰がはねた。
もう一度、今度はたしかに、指が下着の上からそっと撫でる。それだけで湿った音が私にも聞こえたからサンジくんにも聞こえたはずだ。うわ、と思うが代わりに口から高い声がこぼれでる。
ひた、ひた、と指が下着の濡れたところに触れたり離れたりして、そのたびに身じろいでしまう。サンジくんの顔を盗み見ると、嬉しそうに口角が上がっているのが見えた。
なんの前触れもなく、ぬるっと指が内側に滑り込んだ。
「あ」
すごい、とだけサンジくんがつぶやく。すごい、と私も思う。なんかすごい濡れてる、とわかる。
さっきまでの緩慢さがうそみたいに、指が一気に何本か入った。下着はつけたままなのに、隙間から入った指が抜き差しされるたびに大きな水音がどこにも響かずただ私達の耳にだけ届く。
頬がぼうっと熱くなる。下腹を満たす液体が気を抜くと全部溢れ出しそうになる。こらえるかわりにサンジくんの肩を掴むと、応えるように深く舌が差し込まれる。
手のひらが下着の布を押しのけて、おしりの方へ回ったので腰を上げて手伝った。くしゃくしゃになった下着が、彼の指に絡みつくみたいにして私の足から抜き取られていく。
「ナミさん、ゴム持ってる?」
「ある。そこの、棚の、下の引き出し」
指さしたとおりのところにサンジくんは手を伸ばし、玄関から漏れるオレンジ色の明かりだけがぼんやりと部屋を照らす中ごそごそと引き出しの中をかき混ぜて、目当てのものを取り出した。
一度唇を落として、サンジくんが体を起こす。こちらに背を向けて、じれったそうに下を脱ぎ去りゴムのビニールを破く音が聞こえる。
その背中にそっと触れると、サンジくんは振り返り、「ナミさん」と名前を呼んだ。手は下ろしたまま、キスして欲しいみたいに顔だけこちらに伸ばしてくる。
どうしようか少し迷って、でもやっぱり彼の望んだとおり私も顔を近づけて、唇を重ねた。
ゴムを付け終わったサンジくんが入ってくるのは一瞬だった。
入って、中で動いて、かき混ぜて、そのたびに深い泉から水がしたたるみたいに水の音が大きく聞こえて、それが下腹部の快感を増長させる。
ぶつかる肌の音も湿っていて、二人分の何かわからない体液が混じり合って私のおしりを伝って落ちる。
気持ちよかった。
なんかもうこめかみのあたりが白く光って、体の下半分はきっともう液状に溶けていて、息を吸うのだけど体の内側から弾けだす快感が吸い込む酸素を押し出しながら喉の奥からほとばしる。
最後の瞬間、サンジくんがぎゅっと私の体を抱きしめて絞り出すみたいに果てたので、その感触だけは夢から覚めたみたいに覚えていた。
「【現パロ】6畳一間和室のワンルームに住んでる貧乏大学生ナミさんの部屋に入り浸る財閥の御曹司(元)のサンジ 」
のネタとイラストに触発されたサンナミ現パロです。書きたいところだけ書きました。
(栗さんから許可を頂いています)
がっつりR-18です。
なにか欲しいものある? と聞かれたので、「お金」と端的に答えたら、サンジくんは聞き違えたか冗談だと思ったらしく、「うんー?」と気のない声で聞き返してきた。聞き返しながら、私のむき出しになった足の付根を何度も押すように触ってくる。気が散ったが、「やめて」というのも面倒で好きにさせておいた。
「なに? お金?」
「うん」
「そうな、お金な」
いいよな、と何がいいのか私に同調するふりをして、サンジくんは執拗に私の太ももを触り続ける。暑くて、扇風機をつけようと手を伸ばすが、毛羽立ったラグマットの上にある扇風機のボタンに手が届くより早くサンジくんは私の腰を抱きかかえたまま肩で私を押し倒した。
「ちょっと」
「ううん、ナミさん全身すべすべ」
「もう、暑いの。ひっつかないで」
「ナミさんおれ18時から仕事だもん。あと1時間だから、もう一回」
腰に巻き付いていた両腕が、するすると体を撫でるように動き始める。そのたびに汗でぺたりと肌と肌が吸い付く。触れると濡れたようにひんやりとしているのに、その奥にある生きた熱がじわっと肌を汗ばませる。唯一まとっていた下着を指先で抜き取って、サンジくんは私の鎖骨に溜まった汗を嬉しそうに舐めた。
汗で濡れた手が私の脚を持ち上げるが、滑って二回ほど取り落とす。六畳一間の畳の上に、無理やり置いた一組で5400円だったマットレスベッドは、汗なのかなんなのかわからない湿気をたっぷりと含んでいて、とても心地良いとはいえなかった。
「ナミさん、首、持って」
サンジくんが私の手を取って、自分の首に巻き付かせる。暑さと下腹に迫る欲求の波で朦朧としながら、言われるがまま腕を伸ばしてサンジくんの頭をかき抱くようにして体を持ち上げた。
力強い手が私の腰を支えて、打ち据えられる。
金色の髪の先で揺れていた汗が、飛沫になって顔にかかった。
肩越しに窓が見える。壁にかけた時計の針が一つ動く。
お腹の中で熱い何かが喜びに打ち震えるみたいに、小刻みに収縮していた。
*
大学に行くと、掲示板に学生番号が張り出されていた。げ、という顔をしたら隣でビビが「これナミさんの番号?」と目ざとく気づいてしまう。
「そう、多分」
「多分も何も」
掲示された紙には、番号とともにいついつまでに学生課に来るようにと丁寧かつ有無を言わさぬ調子で書かれていた。私の他にも、3つ4つ学生番号が書いてある。
「行かなきゃ」
当然のようにビビが言う。そうね、と適当に相槌を打つ。確かに行かなければ、やがて電話がかかってくるだろう。それすら出ないでいたら、きっと緊急連絡先にしているノジコの携帯に電話がかかるに違いない。そんなことになったら、ノジコに怒られてしまう。
「なんでしょうね」
「なんでしょうね」
ビビの言い方を真似て言ってみるが、要件なんてわかりきっている。学費の件だ。
滞納はしていない。けれど、支払いは滞っている。どう違うのかと言うと、他の学生みたいに半年分をどーんと収めることができないので、月割で学費を入れているのだが、毎月の自動振込ができないとこうして呼び出しがあるのだ。自動で振り込まれないのは、もちろん口座にお金が足りないからで、月末までにはお願いしますね、と学生課で念を押されることになる。
「はあ、バイト行かなきゃ」
「学生課いいの?」
「バイトのあと5限あるから、そのときに行くわ」
「ナミさん、授業の間にバイト入れてたの?」
「最近ね、始めたの」
だって水曜日は、1限の次が5,6限という間延びした時間割を避けることができなかった。春の間は、課題をしたり友だちと過ごすことで時間をやり過ごしていたが、やっぱりそのぽかりと空いた時間が惜しくてバイトを入れることにした。
大学近くのケーキ屋さんだ。小さな店構えのかわいらしい店で、間口は狭いが中は広く、ケーキも種類が多くておいしい。気に入ってときどき訪れていたら、バイト募集の張り紙があったのでこれはと店先で応募したのだった。
店に入って右側は、2つ3つテーブル席がおいてあり、そこでケーキと紅茶を楽しむことができた。もとは、紅茶のリーフ専門店だったらしい。
異様に背が高くて陽気なアフロの店主は、開店後も開店中も開店後も、暇さえあれば客席で紅茶を飲んでいる。
ケーキもそのアフロ店主が作っているのかと思いきや、ケーキは隣のレストランから卸されてくる。レストランにはケーキのショーケースを置くスペースがないから、懇意にしている隣の紅茶屋を間借りしている形になるらしい。間借りと言っても売るのは紅茶屋の方なので、販売形態としてはレストランはケーキの卸売をしていることになる。
その、レストランのシェフがサンジくんだった。
初めて会ったのはひと月前にバイトを始め、3回目のシフトの日。給食を彷彿とさせる大きなプラケースを慎重に運ぶ若い男と、店の出入り口でばったり鉢合わせた。
「あ、ナミさんその方、隣のレストランの職人さんです」
アフロ店主ブルックが、音を立てて紅茶をすすりながら言う。ぺこんと彼に頭を下げて、さっさとその横を通り過ぎバイト服に着替えに奥へ引っ込んだ。
店に戻ると男は消えていたので、気にもしていなかったのだが、バイトが終わって夕方店を出ると、隣のレストランから彼は飛び出してきたのだった。
「ナミさん?」
声をかけられて、驚いて振り返る。男はにへらっと笑い、コックコートについたソースのシミを払うように服をはたきながら「ブルックに、聞いて」と遠慮がちに口を開いた。
「ああ、おつかれさまです」
「おつかれさま、あの、今帰り?」
「うん、今から大学の授業だから」
「えっ、今から?」
そう、とうなずくと、何故か男はぱあっと顔を明るくさせた。
準備していたのか、コックコートのポケットからすばやく何かを取り出して私の方に手を突き出す。
「おれ、夜まで店の営業あんだけど、よかったら授業終わったあと飯食いに来ねえ? 終わったら、連絡してもらえると」
私は彼が差し出した手の先に握られた紙切れを見下ろして、再び顔をあげる。
男はにへら笑いを崩さないまま、根気よく紙切れを差し出し続けている。
「授業終わるの、8時半とかだけど」
「全然いい、ちょうどいい。それくらいのほうが」
「……あなたのお店、すごく高そうだけど」
「まさか、お代なんていらねぇよ」
男は驚いたように手をぶんぶん振って、「出会った記念に」と意味のわからないことを口にした。
「ごちそうしてくれるの?」
「もちろん!」
でもなんで、とは聞かなかった。「わかった」と私はいい、紙切れは受け取らないまま「じゃあ」と踵を返す。
あっと彼は声を上げ、「待って、これ」と私を呼び止める。
相変わらず紙切れを突き出しているのかと思えば、私の前に半身を乗り出してきた彼が差し出したのは小さな茶色の紙袋だった。古紙の乾いたいい匂いと混じって、香ばしいバター生地の焼ける匂いがする。
「授業終わるまで腹減るだろうから、それまでのつなぎによかったら食って」
キッシュ、と言って、男は半ば強引に私の手に紙袋をもたせた。あまりの良い匂いに、私も受け取ってしまう。
男は私が受け取ったのにほっとしたように相好を崩した。一重の少し垂れた目が、すっと細く笑った。
「じゃあ、おれも仕事だから」
待ってる、と言って男は後ずさり、ぶんぶんと手を振った。
私はぽかんとしたまま、いい匂いの紙袋を待って、大学へと戻った。
講義室で、講義が始まる前に紙袋を開けてみると、とたんに濃い卵とバターの香りが広がって、周りに座った学生たちが振り返るほどだ。
形のいい三角のそれをかじると、まだほのかにあたたかく、ドライトマトのすっぱいところとベーコンのしょっぱいところがとても美味しかった。
そして私はのこのこと、講義の後に彼のレストランに向かった。なぜかもう何も考えることなく、大学を出た脚はそっちの方向へ進んだのだ。
上品な内装の店内に気圧されて、びくびくしながら足を踏み入れた私を、厨房から飛び出してきた彼は大喜びで出迎えて、まるで私が来ることを疑いもしなかったみたいに用意された席に案内してもらった。
「キッシュ食ったし、もう9時だからお腹に優しいもんがいいかなと思ったんだけど、どう?」
「おまかせする」
よっしゃと彼は大きくうなずいて厨房に戻った。
カチャカチャとカトラリーが小さくぶつかる音が響く店内に、私はぽつんと残される。心細い気持ちを抑え込むように、気丈に顔を上げて彼が戻ってくるのを待った。
「失礼いたします」と言って向かいに立ったウェイターが、水のボトルを二種類抱えて、赤と青それぞれのラベルを私に見せる。
遠い国の南の地方で取れたまろやかで飲みやすい軟水、スパークリングとノンスパークリングどちらがよいか訊かれた。
あっけにとられて二種類のボトルを見上げる私を、ウェイターは根気よく待っている。あわてて「じゃあ、普通の方で」と青いラベルを指さした。
口の大きな薄いグラスに、たっぷり水が注がれる。
ウェイターが去ったあと、恐る恐る水を口に運んでみたが、朝起き抜けに飲む水道水との違いはいまいちわからなかった。
「おまたせ~」
今日会ったばかりの男が皿を持って姿を見せると、なぜかホッとした。
男は私の目の前に、ほこほこ湯気を立てるリゾットと小さなサラダを置いた。
「海の幸のリゾット。口に合うといいんだけど」
「い、ただきます」
もう、口に含む前から絶対美味しいとわかっていた。だって立ち上る湯気が、そこに含まれる塩気と海鮮の香りが、私の胃をぎゅっとひねるみたいに刺激してくるのだ。
そしてやっぱり当然のようにおいしい。
「おいしい……!」
男は、私がキッシュの紙袋を受け取ったときの数倍嬉しそうに顔をほころばせた。よかった、と小さくつぶやく。
「今更だけど、あんたが作ったの?」
「うん。得意なんだ。海鮮」
「すごい、すごいのね」
男は照れたように鼻を鳴らして笑うと、「楽しんで」と言って一歩下がった。
「あ」
思わず声を上げた私を見下ろし、男が「なにか」というように見つめてくる。
続く言葉が見つからず、スプーンを持つ手をぎゅっとにぎる。
こんな格式高そうなレストランの、広いフロアに一人取り残されるのが不安だったのだ。
洗いざらしたジーンズとリブTシャツの私は、きっとこの店の中でとんでもなく異端だろうと思えたから。
なんてことを言えるわけもなく、私は「何でもない」と言ってふたたびリゾットを口に運ぶ。
男は少しの間私を見つめていたが、「ごめんね、おれ戻らねぇと」と言ってにこりと笑って厨房に戻っていった。
9時をまわり人も少ない店内だが、席に座るお客さんたちはみんな一様にしあわせそうに見えた。
私も、水を飲んでいたときに感じた心もとなさが、リゾットを口に含むたびにあたたかく喉を通るうまみによっていつしかわからなくなっていた。
リゾットとサラダを食べ終わったとき、男は戻ってきた。が、さっきと違いコックコートを着ていない。着替えてきたのか、私服だ。
「もう帰る?」
「うん。ごちそうさま。すごい美味しかった。本当にお代いいの?」今更払えと言われても困るけど。
「いいのいいの。おれも帰るからさ、よかったら送らせて」
「え、でも」
まだ閉店前のようだし、お客さんは残っている。気にして見ないとわからないが、厨房のほうがどこか殺気立っている気がしなくもない。
「いいのいいの」と彼は繰り返し、立ち上がった私の椅子をさっと引いてくれる。
「行こう」
男はサンジと名乗った。生ぬるい風が吹く夜道を歩きながら、男は、サンジくんは歩幅を合わせて隣を歩く。
聞けば、歳は一つ上だった。家は、あのレストランの2階。
「えーと、ナミさんちは」
「ここから15分位歩いたところ」
「いつも歩いて通ってんの? 危なくない?」
「夜にバイト入ったときは、駅からバスに乗るから。遅い時間に授業があるのは水曜だけだし」
ふーん、とサンジくんはなにか言いたげに、でも何を言うでもなく相槌を打った。
突然、私達の目の前を大きな野良猫が横切る。わっと彼が声を上げた。私も驚いたが、息を呑むだけで野良猫が私達の目の前を悠然と闊歩するのを思わず目で追ってしまう。
猫は植え込みの隙間にするりとその大きな体を滑り込ませて消えた。
「すげ、太ってたね」
「うん、デブ猫だったわね」
あははと彼が笑う。そのついでみたいに私の手を取った。そのままなんでもないみたいに歩き始める。
しばらく歩いて、突然彼が「どうしよう」と言う。
「どこまで送ろう。おれのポリシーに則って、君のいいっていうところまで送ろうと思うんだけど」
「え、別にどこまででも」
そうなの? というようにサンジくんは目を丸くした。
「じゃ、家の前まで送っていい?」
「いいわよ。家の周り暗いし、私はありがたい」
でも、そうね、と言葉をつなぐ。サンジくんは「なになに?」と楽しげに聞き返す。
「あんたびっくりするかも」
「びっくり? 何に?」
「見たらわかるわ」
言葉のとおり、サンジくんは私の家の前で立ち止まったとき、しばらく驚いたみたいに家の全貌を眺めていた。
小さな2階建てのボロアパートは、風が吹くだけでぎいと鳴く。
「じゃ、送ってくれてありがとう。ごはんも、おいしかった」
「うん、あ、えーと、ナミさん」
サンジくんは、ボロアパートから私に目を転じ、握った手を離さないまま少し言いよどむ。そして、意を決したように口を開いた。
「また会いたい」
サンジくんの顔を見上げると、まるで負けじとばかりに見つめ返してくる。
お腹の中でまだやさしく残っているリゾットの存在を感じ、そうねえ、と私は考える。考えているようで、あんまり頭は働いていなかった。
なんとなく、私もまた会えたらなと思っている。
それは、まだ一緒にいたいな、という気持ちにも似ていた。
だから私は、「じゃあ」と口を開いてボロアパートの二階、私の部屋の方を指さした。
「寄ってく?」
え、とサンジくんが私の指さしたほうを見やり、私に視線を戻し、またアパートの方をちらっと見て、ごくんとのどを動かした。
しばらく迷うみたいに口元を蠢かせて、やがて口を開く。
「いいなら」
「いいわよ」
私が背を向けてアパートに歩きだすと、彼の革靴がこつこつと後ろをついてくる音が聞こえた。
弁解するようにサンジくんは、「あの、ごめん、おれハナからそういうつもりだったわけでは」と私の襟足あたりにつぶやいている。
知ってる知ってる、といいながら鍵を開け、「狭くてごめんね」と彼を招き入れた。
玄関を照らす小さな灯りをぱちんとつけて、「鍵とチェーン締めて」と言おうと背後に立った彼の方に首を向けると、思いもよらない近さで彼は立っている。狭いのだから仕方がないが、息もかかるようなその距離に少し驚き、でもサンジくんが視線を外さないことに少しずつ気持ちが落ち着いていく。
そっと、子供の顔を優しく覗き込むみたいに、サンジくんが腰をかがめて私の唇に唇で触れた。
男の子の唇は、私のものより柔らかいような気がする。リップやグロスで見た目の質感をつくろった女の子のそれより、なんというか素材のままと言った感じで、いうなれば生々しい。
私の唇を挟んでいただけだったのが、やがておずおずと動き、濡れた舌が唇をなめ、口の中にぬるりと入り込んでくる。
彼の腕に触れると、いままでどこにあったのか、どこからともなくやってきた両手が私の腰をそっと掴んだ。
背中を服の上から這い上がる手が私を引き寄せるように抱きしめて、同時にキスが深く奥へ進もうとするので腰がぎゅっとしなる。
一度唇が音を立てて離れると、サンジくんは鼻先を触れ合わせたまま「やべ、うまいねナミさん」とつぶやいた。
上手いねなのか美味いねなのかわからないまま、私達は今度は息を合わせるみたいに呼吸して、深く唇を重ねた。
絡まり合うように抱き合ったまま靴を脱ぎ、どたどたとした足取りで玄関の明かりだけが照らす狭い廊下を奥へ進み、すぐそこにあるマットレスに崩れ落ちるみたいに倒れ込む。
キスは性急に、吸ったり舐めたり飲んだり忙しいのに、私の服を脱がす手付きは妙に緩慢で、襟元の狭いTシャツからすぽんと頭を出したときにはいつのまにか彼のほうも上の服を脱ぎ去っている。
サンジくんは私の上にまたがったまま、両手で私のお腹を掴むようにして、「綺麗だね」と言った。
お腹を撫でて、胸の上に手をおいて、そっと掴む。その手が動くたびに、じわじわと下腹部に水が溜まる。
長い指が鎖骨を撫でて、背中に回り、私を抱き起こすと、私の肩に顎を置いてゆっくりと下着の金具を外した。
「ここ、噛んでいい?」
サンジくんが、私の下着を取り去って、ちょうど肩紐があったあたりを唇でなぞる。
「噛むの?」
「痛くしないから」
返事も訊かず、彼は歯を立てた。
確かに、痛くない。痛くはないが、尖った硬いものが皮膚を押しやり骨に触れる感触が、鮮明に感じられる。
胸の上でうごめいていた指が先端に触れ、私が思わず呻くとサンジくんは嬉しそうにますます深く歯を立てた。
浅い歯型を、まるで謝るみたいに舌でなぞって、唇は胸の方へ降りていく。
力をかけられて背中側に倒れると、サンジくんは胸に顔をうずめるみたいにして舌でいろんなところに触れた。
ぴりっと電気が走って、思わず彼の背中に手を伸ばす。
汗ばんで、じっとりと濡れている。
「……あ、暑い?」
「うん、でもいい」
私も汗をかいている。その証拠に、私の胸にサンジくんが頬をつけると、ぺたりと張り付くみたいに離れなくなる。
鼓動を聞くみたいに、サンジくんはそのまま胸に頬をつけてしばらくじっとしていた。
さっきまでいじられていた胸の先端が、ヒリヒリと熱を持つ。何か、次の刺激を待つみたいに、ただのぬるい空気が揺れるたびに期待してしまいそうになる。
サンジくんの背中に浮かんだ汗を混ぜるみたいに手を這わせると、サンジくんが力を抜いて私の上にのしかかった。
平たい胸が私を押しつぶし、汗のせいでズッとどこかが擦れて音を立てる。
「きもちー。ナミさんの肌」
「……重いわよ」
「うん」
ごめんね、と言って体を持ち上げたサンジくんは、いきなり太ももの内側に手を伸ばしてきた。スカートからむき出しの素足は、触れられるのを待っていたみたいにほんのり熱を持っている。
私の一番柔らかい肉を確かめるみたいに、サンジくんは太ももをゆっくり押すように握って、少しずつ奥へと手を滑らせていく。落ち着いたその手付きにじれったさを感じるが、わざとだ、と思ってこらえた。
下着の上を指がかすめる。ほんの少し触れただけなのに、腰がはねた。
もう一度、今度はたしかに、指が下着の上からそっと撫でる。それだけで湿った音が私にも聞こえたからサンジくんにも聞こえたはずだ。うわ、と思うが代わりに口から高い声がこぼれでる。
ひた、ひた、と指が下着の濡れたところに触れたり離れたりして、そのたびに身じろいでしまう。サンジくんの顔を盗み見ると、嬉しそうに口角が上がっているのが見えた。
なんの前触れもなく、ぬるっと指が内側に滑り込んだ。
「あ」
すごい、とだけサンジくんがつぶやく。すごい、と私も思う。なんかすごい濡れてる、とわかる。
さっきまでの緩慢さがうそみたいに、指が一気に何本か入った。下着はつけたままなのに、隙間から入った指が抜き差しされるたびに大きな水音がどこにも響かずただ私達の耳にだけ届く。
頬がぼうっと熱くなる。下腹を満たす液体が気を抜くと全部溢れ出しそうになる。こらえるかわりにサンジくんの肩を掴むと、応えるように深く舌が差し込まれる。
手のひらが下着の布を押しのけて、おしりの方へ回ったので腰を上げて手伝った。くしゃくしゃになった下着が、彼の指に絡みつくみたいにして私の足から抜き取られていく。
「ナミさん、ゴム持ってる?」
「ある。そこの、棚の、下の引き出し」
指さしたとおりのところにサンジくんは手を伸ばし、玄関から漏れるオレンジ色の明かりだけがぼんやりと部屋を照らす中ごそごそと引き出しの中をかき混ぜて、目当てのものを取り出した。
一度唇を落として、サンジくんが体を起こす。こちらに背を向けて、じれったそうに下を脱ぎ去りゴムのビニールを破く音が聞こえる。
その背中にそっと触れると、サンジくんは振り返り、「ナミさん」と名前を呼んだ。手は下ろしたまま、キスして欲しいみたいに顔だけこちらに伸ばしてくる。
どうしようか少し迷って、でもやっぱり彼の望んだとおり私も顔を近づけて、唇を重ねた。
ゴムを付け終わったサンジくんが入ってくるのは一瞬だった。
入って、中で動いて、かき混ぜて、そのたびに深い泉から水がしたたるみたいに水の音が大きく聞こえて、それが下腹部の快感を増長させる。
ぶつかる肌の音も湿っていて、二人分の何かわからない体液が混じり合って私のおしりを伝って落ちる。
気持ちよかった。
なんかもうこめかみのあたりが白く光って、体の下半分はきっともう液状に溶けていて、息を吸うのだけど体の内側から弾けだす快感が吸い込む酸素を押し出しながら喉の奥からほとばしる。
最後の瞬間、サンジくんがぎゅっと私の体を抱きしめて絞り出すみたいに果てたので、その感触だけは夢から覚めたみたいに覚えていた。
欄干にもたれて夜の空を見ていたら、ふっと意識を抜き取られそうになる。
眠りに落ちる間際のような、それよりももっと乱暴で一方的に、大きな見えない手によって。
厚い雲が空を覆って、黒々とした夜の空気はいくらか冷たい水分をはらんでいた。
降るかも、と思ったらはらりと風に乗って雪が顔をかすめていき、ちょうど医務室から出てきたチョッパーが階下で「おー雪だ」と嬉しそうに独り声をあげるのが聞こえた。
「遅いのね、チョッパー」
下に声をかけると、小さな耳がぴんとこちらを向く。私を見上げて、チョッパーは「ナミもな」と笑った。
「またそんな恰好でいると風邪ひくぞ」
「うん、もう寝るところ。あんたなにしてたの」
「本読んでたらこんな時間で。寒いと思ったら雪が降ってた」
「ね。この辺は春島の海域なんだけど、もう三月なのに雪が降るのね」
「三月は雪の季節じゃないのか?」
チョッパーが落ちてきた瞼をこすりながら尋ねる。どうだろ、ともう一度空を見上げた。
「風花が舞うくらいならあるんじゃない」
「かざはな?」
「こういう、ここの真上の雲が降らせた雪じゃなくて、どっかで降った雪が流れて飛んでくることを風花が舞うって言うのよ」
ふうん、とチョッパーは興味がなさそうに相槌を打ってあくびをした。
「雪だ」と言ったときにはらんらんと光が宿っていた黒目は、もう夢とうつつでまどろんでいる。
「早く寝なさい」
「うん」
男部屋へと歩き出したチョッパーがふと足を止めて、私を見上げた。
「ナミ、食堂に文房具を忘れてる」
「え?」
「インクのにおいがするぞ」
蹄がまっすぐにダイニングの扉を指す。
おやすみ、とチョッパーが呟いて、とこんとこんという蹄の足音が遠ざかっていった。
忘れてたっけ。確かに夕食後、食堂で書き物をしたけど、ノートと一緒に全部まとめて引き揚げた気がする。でも、言われてみればロビンと話しながらノートだけを持って女部屋に帰ってしまったのかもしれない。
食堂へ足を向けると、またどこかから飛んできた雪の破片が鼻先にぶつかってひやりと溶けた。
食堂の丸い窓は灰色に染まっていた。なんだ、もういない、と思いながらノブに手を掛けたら、曇りガラスの窓はぼんやりと奥の光を映している。そっと扉を開けると、キッチンカウンターの小さなランプだけがぽっと一角を照らしていた。
サンジ君がカウンターで立ったまま書き物をしていた。
「なにしてんの、こんな暗いところで」
ゆっくりと振り向いて微笑んだサンジ君は、もうずいぶん前から私がこちらに近付いてくるのに気付いていたんだろう。
サンジ君は何も言わず、また視線を手元に戻した。
深夜のサンジ君は、特に深夜ふたりきりのときのサンジ君は、昼間より一層穏やかであぶない。
でも、何も言わずに私から視線を外した彼に「おいで」と言われた気がして、私はのこのこと近づいてしまうのだ。
そっと背後から彼の手元を覗き込む。オレンジ色のランプに照らされて、便箋とインクの壺がぴかりと光っている。生真面目な罫線が何本も引かれた紙の上には、いくらかくせのある字が並んでいた。
「手紙?」
「うん」
サンジ君はペンをインク壺に差し込むと、不意に私の腰を抱いてくちびるを舐めた。
「私のかと思った」
「なに?」
「インク。においがするって、チョッパーが」
ああ、とサンジ君は頷いて、あっさりと私を離す。何か作ろうか、とカウンターの内側に回って鍋を手に取った。
「いらないわ。もう寝るから」
「そう?」
おかまいなしにサンジ君は、小さく薄いまな板と包丁を取り出して、壁にかけていた何かを手早く刻む。
「誰に書いてたの」
そんなの分かりきっていたのに尋ねてしまう。
故郷に手紙を書くのは、サンジくんとウソップ、それにチョッパーくらいだろうか。フランキーも一度、クーに何かを渡していたところを見かけたことがある。私は一度も書いたことがなかった。
サンジ君がワインの栓を抜く。とろりと濃くて重たいそれが鍋にしたたる。
サンジ君は一度だけくるりと中をかき混ぜて、湯気が上がったところですぐに火を止めた。
銀色の取っ手がついたグラスに温めたワインを注いで、カウンターの向こうから私に手渡す。
黒々と光った飲み物の上に、白い湯気がとぐろを巻いている。
カウンターの向こうから、サンジ君が手紙を引き寄せた。続きを書くらしい。
「私、いてもいい?」
「いいよ」
サンジ君は静かに、ペンを動かし始めた。
ごとん、と重たい音が響くのは、船室のどこかで積み荷が壁にぶつかるから。揺れる足元をものともせずに、サンジ君は自分だけ少し浮いてるみたいな安定感ですこしずつ便箋を埋めていった。
熱いワインを冷ますためにふうっと息を吹くと、グラスをかすめていった息は向かいにあるサンジ君の前髪を揺らす。
銀色の取っ手の部分ではなくガラスのところを手で包むと、ちりちりと手のひらがやけどする。もう熱くて無理だ、と言うところでぱっと持ち替えては、またガラスのところに触れるというのを何度も繰り返しながら時間が進むのを待っていた。
「座ったら?」サンジくんが言う。
「うん。あんたお風呂はまだなの」
「うん。これから」
ナミさんは、とサンジくんが手を止めないまま深く息を吸い込んだ。
「いい匂いがするね。湯冷めするよ」
「雪が降ってたわ」
「まじ? さみーと思った」
「だからあんたも」
うん、とサンジくんは手を止めない。
サンジくんはよく文字を書く。突然思い立つのか、私に「紙の端っこちょっとちょうだい」と言ってレシピを書きつけたり、立ち寄ったお店の料理をメモしたり。
「まめね」というと「そうかなー」と照れたように笑った。
彼の筆圧の薄い、少し角ばった美しい文字が好きだった。
たくさん文字を書いてきたのだろう。書き慣れた字をなめらかにつづってゆく彼の手の動きを追うように、細かな文字たちが列をなす。
ペン先が紙をこするしゅるしゅるという音が、長くて果てのないリボンをほどき続けるみたいに静かに響く。
「なにを話すの」
手紙で、サンジ君は、遠くにいる家族になんて話しかけてるの。
サンジ君は、「んー」と小さく唸って手を止めない。
「最近作ったメシのこととか」
「うん」
「釣った魚のこととか」
「うん」
「美味かったレシピだとか」
「料理のことばっか」
うわ、とサンジ君が小さく声を上げた。
濡れたペン先からまっくろな雫が滴り、紙を汚した。
「あーあ」
そう言いながら、大して気にしたふうもなく続きを書き始める。
「そればっかだよ」
「うん?」
「料理のことくらいしか話すことねー」
そう、と言って彼の前髪に触れた。
少し脂っぽくて、束になった髪をめくって隠れた目を覗き込む。
サンジ君はやっと私をちらりと見て、「恥ずかしいよ」とちっとも恥ずかしくなさそうに言った。
「私のことは?」
「うん?」
「私のことは、書かないの」
「書かないよ」
サンジ君はペンを置き、前髪をめくり上げる私の手を取って自分の頬に持っていった。
「ナミさんのことは、帰ったら話すよ」
こっち来てよ、とサンジ君が言う。
あんたが来たら、と彼の冷たい頬から手を引き抜くと、サンジ君はにっこり笑ってカウンターを回ってこちら側にやって来た。
私をふわりと抱き上げてスツールに座らせると、私の太ももに両手を置いて、彼より高くなった私の顔を見上げる。
「ナミさん遅いから。待ってたんだぜ」
サンジ君はちらりと調理台の方に視線を走らせる。
つられてそちらに目をやると、花のように飾り切りされたフルーツがお皿に盛られていた。
ふふっと俯いて笑うと、少し背伸びした彼の鼻と鼻先が触れ合った。私の髪が、サンジくんの肩に乗る。
「自分のぶんも自分で用意しなきゃいけないから、不憫ね」
「自分のぶんだろうと、ナミさんが食べてくれるならなんだっていいよ」
「お風呂が混んでたの。あいつらが珍しく入ってるのと重なっちゃって」
うん、とサンジ君が私を見上げ、くちびるをつける。
彼の顔を両手で持ち上げると、それに合わせて私の太ももに置かれた手にぐっと力がこもった。
「手紙はいいの?」
「いつでも書けるし。書かなきゃおれのことなんざ思い出さねーで楽しくやってるだろうし」
そう、と笑うと、サンジ君は嬉しそうに私の頭を引き寄せて、反対の手で脚をなぞって腰
を撫でた。
私もサンジ君もわかっている。
今日は、少なくとも絶対に今日だけは、彼の家族は彼のことを思い出すだろう。
はるか遠くに行ってしまった、小さなかわいい自分たちの男の子のことを思い出すだろう。
手紙は、本当は私たちこそ書かなければいけないのかもしれない。
あなたたちのかわいい男の子は、私たちのそばで元気に楽しくやっていますと。
ときどき大きな怪我をして、死んじゃったかなってくらい大きな怪我をしていることは内緒ですけど、と。
でも大丈夫です、生きてます。
彼は素敵な仲間と一緒に、毎日ご飯を食べて、笑って、怒って、飲み過ぎては吐いて、口説いてはふられ、それはとても楽しい日々ではないでしょうか。
側で彼の毎日を見ることができないのは、彼が大好きなあなたたちにとってはとても歯がゆいことでしょうけど、私たちが代わりに見ています。
何かを得てはほころび輝くその顔も、失っては傷つくその顔も、余すことなく見ています。
なぜなら私たちも、彼のことが大好きだからです。
あなたたちに負けないくらい、大好きだからです。
船が波に揺さぶられ、ランプの灯りが大きく揺らめく。
傾いた体をそのままサンジ君に預けて、耳のそばでおめでとうと囁く。
どうかたくさんの嬉しいことがこの人にありますように。
ありがとうと答える彼の額にくちびるをつけて、吹き込むように祈った。
*2018 Sanji Happy Birthday !
眠りに落ちる間際のような、それよりももっと乱暴で一方的に、大きな見えない手によって。
厚い雲が空を覆って、黒々とした夜の空気はいくらか冷たい水分をはらんでいた。
降るかも、と思ったらはらりと風に乗って雪が顔をかすめていき、ちょうど医務室から出てきたチョッパーが階下で「おー雪だ」と嬉しそうに独り声をあげるのが聞こえた。
「遅いのね、チョッパー」
下に声をかけると、小さな耳がぴんとこちらを向く。私を見上げて、チョッパーは「ナミもな」と笑った。
「またそんな恰好でいると風邪ひくぞ」
「うん、もう寝るところ。あんたなにしてたの」
「本読んでたらこんな時間で。寒いと思ったら雪が降ってた」
「ね。この辺は春島の海域なんだけど、もう三月なのに雪が降るのね」
「三月は雪の季節じゃないのか?」
チョッパーが落ちてきた瞼をこすりながら尋ねる。どうだろ、ともう一度空を見上げた。
「風花が舞うくらいならあるんじゃない」
「かざはな?」
「こういう、ここの真上の雲が降らせた雪じゃなくて、どっかで降った雪が流れて飛んでくることを風花が舞うって言うのよ」
ふうん、とチョッパーは興味がなさそうに相槌を打ってあくびをした。
「雪だ」と言ったときにはらんらんと光が宿っていた黒目は、もう夢とうつつでまどろんでいる。
「早く寝なさい」
「うん」
男部屋へと歩き出したチョッパーがふと足を止めて、私を見上げた。
「ナミ、食堂に文房具を忘れてる」
「え?」
「インクのにおいがするぞ」
蹄がまっすぐにダイニングの扉を指す。
おやすみ、とチョッパーが呟いて、とこんとこんという蹄の足音が遠ざかっていった。
忘れてたっけ。確かに夕食後、食堂で書き物をしたけど、ノートと一緒に全部まとめて引き揚げた気がする。でも、言われてみればロビンと話しながらノートだけを持って女部屋に帰ってしまったのかもしれない。
食堂へ足を向けると、またどこかから飛んできた雪の破片が鼻先にぶつかってひやりと溶けた。
食堂の丸い窓は灰色に染まっていた。なんだ、もういない、と思いながらノブに手を掛けたら、曇りガラスの窓はぼんやりと奥の光を映している。そっと扉を開けると、キッチンカウンターの小さなランプだけがぽっと一角を照らしていた。
サンジ君がカウンターで立ったまま書き物をしていた。
「なにしてんの、こんな暗いところで」
ゆっくりと振り向いて微笑んだサンジ君は、もうずいぶん前から私がこちらに近付いてくるのに気付いていたんだろう。
サンジ君は何も言わず、また視線を手元に戻した。
深夜のサンジ君は、特に深夜ふたりきりのときのサンジ君は、昼間より一層穏やかであぶない。
でも、何も言わずに私から視線を外した彼に「おいで」と言われた気がして、私はのこのこと近づいてしまうのだ。
そっと背後から彼の手元を覗き込む。オレンジ色のランプに照らされて、便箋とインクの壺がぴかりと光っている。生真面目な罫線が何本も引かれた紙の上には、いくらかくせのある字が並んでいた。
「手紙?」
「うん」
サンジ君はペンをインク壺に差し込むと、不意に私の腰を抱いてくちびるを舐めた。
「私のかと思った」
「なに?」
「インク。においがするって、チョッパーが」
ああ、とサンジ君は頷いて、あっさりと私を離す。何か作ろうか、とカウンターの内側に回って鍋を手に取った。
「いらないわ。もう寝るから」
「そう?」
おかまいなしにサンジ君は、小さく薄いまな板と包丁を取り出して、壁にかけていた何かを手早く刻む。
「誰に書いてたの」
そんなの分かりきっていたのに尋ねてしまう。
故郷に手紙を書くのは、サンジくんとウソップ、それにチョッパーくらいだろうか。フランキーも一度、クーに何かを渡していたところを見かけたことがある。私は一度も書いたことがなかった。
サンジ君がワインの栓を抜く。とろりと濃くて重たいそれが鍋にしたたる。
サンジ君は一度だけくるりと中をかき混ぜて、湯気が上がったところですぐに火を止めた。
銀色の取っ手がついたグラスに温めたワインを注いで、カウンターの向こうから私に手渡す。
黒々と光った飲み物の上に、白い湯気がとぐろを巻いている。
カウンターの向こうから、サンジ君が手紙を引き寄せた。続きを書くらしい。
「私、いてもいい?」
「いいよ」
サンジ君は静かに、ペンを動かし始めた。
ごとん、と重たい音が響くのは、船室のどこかで積み荷が壁にぶつかるから。揺れる足元をものともせずに、サンジ君は自分だけ少し浮いてるみたいな安定感ですこしずつ便箋を埋めていった。
熱いワインを冷ますためにふうっと息を吹くと、グラスをかすめていった息は向かいにあるサンジ君の前髪を揺らす。
銀色の取っ手の部分ではなくガラスのところを手で包むと、ちりちりと手のひらがやけどする。もう熱くて無理だ、と言うところでぱっと持ち替えては、またガラスのところに触れるというのを何度も繰り返しながら時間が進むのを待っていた。
「座ったら?」サンジくんが言う。
「うん。あんたお風呂はまだなの」
「うん。これから」
ナミさんは、とサンジくんが手を止めないまま深く息を吸い込んだ。
「いい匂いがするね。湯冷めするよ」
「雪が降ってたわ」
「まじ? さみーと思った」
「だからあんたも」
うん、とサンジくんは手を止めない。
サンジくんはよく文字を書く。突然思い立つのか、私に「紙の端っこちょっとちょうだい」と言ってレシピを書きつけたり、立ち寄ったお店の料理をメモしたり。
「まめね」というと「そうかなー」と照れたように笑った。
彼の筆圧の薄い、少し角ばった美しい文字が好きだった。
たくさん文字を書いてきたのだろう。書き慣れた字をなめらかにつづってゆく彼の手の動きを追うように、細かな文字たちが列をなす。
ペン先が紙をこするしゅるしゅるという音が、長くて果てのないリボンをほどき続けるみたいに静かに響く。
「なにを話すの」
手紙で、サンジ君は、遠くにいる家族になんて話しかけてるの。
サンジ君は、「んー」と小さく唸って手を止めない。
「最近作ったメシのこととか」
「うん」
「釣った魚のこととか」
「うん」
「美味かったレシピだとか」
「料理のことばっか」
うわ、とサンジ君が小さく声を上げた。
濡れたペン先からまっくろな雫が滴り、紙を汚した。
「あーあ」
そう言いながら、大して気にしたふうもなく続きを書き始める。
「そればっかだよ」
「うん?」
「料理のことくらいしか話すことねー」
そう、と言って彼の前髪に触れた。
少し脂っぽくて、束になった髪をめくって隠れた目を覗き込む。
サンジ君はやっと私をちらりと見て、「恥ずかしいよ」とちっとも恥ずかしくなさそうに言った。
「私のことは?」
「うん?」
「私のことは、書かないの」
「書かないよ」
サンジ君はペンを置き、前髪をめくり上げる私の手を取って自分の頬に持っていった。
「ナミさんのことは、帰ったら話すよ」
こっち来てよ、とサンジ君が言う。
あんたが来たら、と彼の冷たい頬から手を引き抜くと、サンジ君はにっこり笑ってカウンターを回ってこちら側にやって来た。
私をふわりと抱き上げてスツールに座らせると、私の太ももに両手を置いて、彼より高くなった私の顔を見上げる。
「ナミさん遅いから。待ってたんだぜ」
サンジ君はちらりと調理台の方に視線を走らせる。
つられてそちらに目をやると、花のように飾り切りされたフルーツがお皿に盛られていた。
ふふっと俯いて笑うと、少し背伸びした彼の鼻と鼻先が触れ合った。私の髪が、サンジくんの肩に乗る。
「自分のぶんも自分で用意しなきゃいけないから、不憫ね」
「自分のぶんだろうと、ナミさんが食べてくれるならなんだっていいよ」
「お風呂が混んでたの。あいつらが珍しく入ってるのと重なっちゃって」
うん、とサンジ君が私を見上げ、くちびるをつける。
彼の顔を両手で持ち上げると、それに合わせて私の太ももに置かれた手にぐっと力がこもった。
「手紙はいいの?」
「いつでも書けるし。書かなきゃおれのことなんざ思い出さねーで楽しくやってるだろうし」
そう、と笑うと、サンジ君は嬉しそうに私の頭を引き寄せて、反対の手で脚をなぞって腰
を撫でた。
私もサンジ君もわかっている。
今日は、少なくとも絶対に今日だけは、彼の家族は彼のことを思い出すだろう。
はるか遠くに行ってしまった、小さなかわいい自分たちの男の子のことを思い出すだろう。
手紙は、本当は私たちこそ書かなければいけないのかもしれない。
あなたたちのかわいい男の子は、私たちのそばで元気に楽しくやっていますと。
ときどき大きな怪我をして、死んじゃったかなってくらい大きな怪我をしていることは内緒ですけど、と。
でも大丈夫です、生きてます。
彼は素敵な仲間と一緒に、毎日ご飯を食べて、笑って、怒って、飲み過ぎては吐いて、口説いてはふられ、それはとても楽しい日々ではないでしょうか。
側で彼の毎日を見ることができないのは、彼が大好きなあなたたちにとってはとても歯がゆいことでしょうけど、私たちが代わりに見ています。
何かを得てはほころび輝くその顔も、失っては傷つくその顔も、余すことなく見ています。
なぜなら私たちも、彼のことが大好きだからです。
あなたたちに負けないくらい、大好きだからです。
船が波に揺さぶられ、ランプの灯りが大きく揺らめく。
傾いた体をそのままサンジ君に預けて、耳のそばでおめでとうと囁く。
どうかたくさんの嬉しいことがこの人にありますように。
ありがとうと答える彼の額にくちびるをつけて、吹き込むように祈った。
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