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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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跳ねる水が足元を濡らす。歪んだ鏡みたいにコンクリートが灰色の空を映して、そこに無数の白い針が降るようだった。
こんなどしゃ降りになるとは思わなかった。予想が外れたことよりも、こんな日に忘れた傘を取りに行こうとしたことの方にがっかりする。
傘を忘れたバイト先まであと三百メートルほどというところでシャッターの閉じた金物店の軒先に飛び込んだ。古びた軒に叩きつける細い雨がジャカジャカと音を立て、無性に不安な気持ちになる。濡れた足元から寒気が這い上がった。癖になりかけた何度目かのため息を落とした時、煙る視界の向こうから誰かが走ってくる。その足音は雨音のせいで聞こえないけど、どんどんこちらに近付いてきて、気付いた時には目の前に飛び込んできた。

「わっ」
「はっ」

わ、と声をあげたのは私の方で、は、と目を見開いたのは彼の方だった。ぶつかる寸前で彼はつま先に急ブレーキをかけて立ち止まり、驚いた表情で私を見下ろした。それもじっと3秒ほど、彼は私を食い入るように見つめた。

「あの」

こちらもつい息を詰めて見つめ返してしまったけれど、思い切って声をあげたら男はぱっと顔を背けた。スンマセン、と小さく会釈して私の隣に並ぶ。無言でこちらも会釈を返した。
男はまだ息を切らしていた。その呼吸音が、雨音よりも近く聞こえる。目の前に飛び込んできた透けるような金色の髪からはぽたぽたと水が垂れ、彼の肩を濡らしているようだった。とはいえこのどしゃ降りの中どこからか走って来たのだ、彼も私もすでに全身濡れ鼠のようになっていて、彼に至っては着ているコートの色が薄いグレーからほぼ黒に変わっていた。
雨は未だどしゃ降りで、ただ西の空を覗き込むように見ると上空の雲の動きが早い。あと十五分ほどで少なくとも小降りにはなるだろう。
不意に悪寒が立ち上り、くしゅんとくしゃみをした。鼻をすすって顔を上げたとき、「あの」と控えめな声が聞こえた。

「これ、よかったら」
「え」

隣の男が差し出したのは、腕から下げた紙袋から出したばかりらしい濃いブルーのカーディガンだった。暖かそうな起毛に目を落とし、彼を見上げる。男は何故か真剣なまなざしで、思いがけずまたすぐ視線を落とした。

「や、そんな、悪いので」
「でもそんな濡れたままじゃ風邪ひいちまう」
「でも」
「おれが気になるから。本当よかったら使って」

よかったらと言うくせに、彼が手を引っ込める気配はない。

「じゃあ、ごめんなさい、ありがと」

私がカーディガンを受け取ると、男はほっとしたように肩の力を抜いた。

「あ、でもこれ濡れちゃう」
「いいよそんなの」
「でも新品でしょう」

カーディガンにはまだタグがついていて、彼が腕から下げているのはその店の紙袋だった。買い物帰りらしい。
しかし彼は気にしないで、と肩をすくめる。申し訳なく思いつつ、受け取った手前そのまま上から羽織った。
新品のにおいがして、布地が触れた肩の部分が外気から守られる。温度差にまたくしゃみが出そうになったが、さらに彼に気を遣わせるといけないので我慢した。
同い年くらいだろうか。あまり見ないまっすぐな金色の髪。雨空の下ではくすんで見える。そういえば特徴的な眉の形をしていた、と彼が突然現れて見つめ合ってしまった数秒のことを思い出した。この辺りは同じ大学の学生が多いけれど、彼は見たことがない。

「このブランド、私も好き」

彼の提げる袋を指してそういうと、彼はなぜか慌てたように「えっ」と一度声をあげてから、自分の持っている紙袋に視線を落として「あぁ」といった。

「うん、おれも、よく買う」
「せっかく新しい服なのに、借りちゃってごめんね。しかも湿っちゃうし」
「や、いいんだ。こんな日に買い物に出たおれがどうかしてる」
「ひどい降り様ね」
「やむかな」
「あと十五分くらいでね」

え、と彼がこちらを振り向く。つられて私も彼を見上げると、思いの外近いところで目が合った。暗いブルーの目が大人びていて、しかしその表情はどこかあどけない。

「なんでわかるの?」
「なんとなく。得意なの、天気」
「へぇ……すげー」

あんまり素直に彼がすげーと言うので、ついふふっと小さく笑ってしまった。すると彼の方も気を緩めたのか、「今からどこか出かけるつもりだった?」と尋ねてきた。

「うん、傘をね、昨日忘れてきちゃって。取りに行くところだったんだけど間に合わなかった」
「もしかしてバイト先とか?」
「そう、よくわかったわね」
「や、なんとなく」

尻つぼみになる彼の言葉に首をかしげつつ、「あっちにね」と駅の方を指差した。

「そこの大通りの角を駅向いて曲がったところ、小さい花屋さんがあるの。知らないでしょ」
「あー、緑の屋根の」
「そう! よく知ってるわね。あそこでバイトしてるの」

へぇ、と彼は私が指さした方に目を遣った。ここからは見えないのに。大して意味もないだろうに、彼は「いいね」と言った。

「この時期やっぱり種類は少なくなるんだけど、ゼラニウムとかバラとか咲くのよ。あとクリスマスに向けて、ポインセチアとかね」
「じゃあ今度買いに行くよ」

冗談だと思い、「えー?」と笑い混じりに声をあげる。

「誰かにプレゼント?」
「そうだな、うん」
「いいわね、誰?」

すっと息を吸うような間があり、彼は静かに「君に」と言った。

「私? ふふ、ありがと」

素朴な冗談に、たいして面白くもなかったけれど私は続けてふふっと笑った。意外と気分が良かった。彼の方も、うふふとでもいうようにはにかんでうつむいた。
一人だと意味もなくかきたてられていた不安が、軒先に二人いるだけでずっと穏やかなものになる。空気はしっとりと湿っていて、肌寒く、どしゃ降りは少し緩んだ程度だったけれど、独り心細く立っていたときに比べて彼が隣にいるだけで大きな雨音もちっとも気にならなくなった。
不意に、シャーとぬれた路面を滑走する車輪の音が耳に飛び込んできた。意識するよりも早くそれはどんどんと近づいてきて、気付いた時には目の前の地面を車のヘッドライトが黄色く照らしている。あ、と思った瞬間、車は私たちの目の前の一方通行の道路を勢いよく走り抜けた。車が風を切り、浅い水たまりから水が跳ね上がる。咄嗟に目を閉じた。その瞬間どんと肩を小突かれて、目を閉じていても顔に影が差したのがわかった。
ぶおおと遠慮のない音を立てて車は走り去る。引き裂くみたいな水の音がまだ耳に残っている。おそるおそる目を開けると、隣にいたはずの彼が覆いかぶさるように私の前面に立っていた。彼の肩越しに見えたコートの襟がぐっしょりと濡れて水を滴らせている。

「え」
「っぶねェ、ナミさん大丈夫?」
「うそ、やだ庇ってくれたの」

盛大に上がったはずの水しぶきは私に少しも飛びかからず、彼の背中が一手に受けてくれていた。慌てて鞄からミニタオルを出そうと伸ばした手が、ふと止まる。

「え」
「え?」
「──なんで私の名前知ってるの」

シャッターに手をついて、私から視界を奪った彼の顔からすっと血の気が引く。
雨空の薄暗い逆光でもその色がよく見て取れた。

「私のこと知ってるの?」
「あ、おれ」

好きだ、と彼が言った。
は? と聞き返した。よく聞こえていたけれど、繋がらない会話の意味が分からなかった。顔色をなくした男の顔を見上げてもう一度「は?」と言った。

「好きだ、君が」

言葉をうしなう私の代わりに、唐突に彼はぎゅっと首を曲げて、地面に向かって「ックション」と盛大なくしゃみをした。



彼女とすれ違ったのは、10月末に出かけたウソップの大学祭の会場だった。適当にかき鳴らしてるだけなんじゃねぇかと思えるほど秩序のないロックバンドの音楽が、遠くの野外ステージからひっきりなしに聞こえてくる。すれ違う男女のほとんどがそろいのウインドブレーカーか珍妙な女装・男装をしていて、目がちかちかした。まだ行くのかよ、と腹立ちまぎれにウソップをど突けば、「お前が行きたいっつったんだろ!」とウソップはバンドの音楽に負けない声を張り上げた。
そのとき、人ごみの中でおれたちとすれ違った女の子がウソップに目を止めた。紺色のブルゾンが寒風にふくらんでいる。短いスカートからまっすぐ地面に向かって伸びた足が颯爽と交互に動き、あっという間におれたちのそばまでやって来て、そしてすれ違う。
「よ」とウソップが言う。「よ」と彼女も応えた。そしてそのまま後ろに流れるように消えてしまった。
はっと振り返るも、明るいオレンジ色の髪は有象無象の影に隠れていき、あっという間に見えなくなった。

「ウソ、ウソップおい今の子」
「学科の友だち。なぁおいおしるこ食わねー?」

ウソップの声が遠くに伸びていく。周囲の喧騒が片栗粉のあんみたいな膜につつまれて遠ざかる。最後に見えた艶のある一筋の髪だけがキラキラと光る粉を落としながら、まだそこにあった。

「サンジ? おい、おいっ」

ひじでど突かれて我に返る。「あの子の連絡先教えてくれ」と口をついてでてきた。

「またかよお前、ほんっと見境ねェのな」
「ちが、これおまやっべぇぞ」

語彙をなくしたおれは、突然突き落とされた底のない恋の穴になすすべもなく落ちていった。
ナミさん。ウソップと同じ大学同じ学科の優秀な特待生。駅前の花屋でバイト、その向かいのビルの二階にあるコーヒー屋がお気に入り。
勝手に連絡先なんか教えらっかという律儀であり友だち甲斐のないウソップのせいでこんな情報しか聞き出せず、あれきり彼女に会うこともできず、たった一度すれ違っただけの彼女の姿を目に浮かべてはただ衛星のようにおれはその周りをぐるぐると回っていた。
「紹介しろ、会わせろ、遊ぼう、一緒に、な」と必死でウソップをかき口説くも、「いいけどナミのやつが忙しいみてぇだ」とあくまで申し訳なさそうにされればぐぅと言わざるをえない。
あぁ、会いたい。彼女に会いたい。
意味もなく何度も花屋の前を通り過ぎる。室温管理がなされているのであろう分厚いガラス扉の向こうは黒々とした熱帯のような緑で一杯で、彼女はおろか働くスタッフの姿すら見えない。
彼女のお気に入りらしいコーヒー屋にも何度か足を運んだが、彼女に出くわすような偶然もなかった。何の因果か、その店で課題をするウソップにはすでに2回も出くわしたと言うのに。
おれはなんども頭の中でシュミレーションをして、彼女にあったら何から言えばいいのか、どうやってこの気持ちを伝えようかを日がな考えていた。

「いい加減諦めろ、あいつすんげ忙しいんだよ勉強とかバイトとか」

ウソップにはそう言われたが、友の助言など魚の骨より役に立たない。出汁も出ない。
おれはこんこんと、ナミさんのことだけを考え続けた。

それがどうだ。これまでおれがあんなにも繰り返し考えていたナミさんとの再会は、あっけなく叶ってしまった。繰り返し考えてシュミレーションした会話は何一つとして思い出すことができなかった。軒下に飛び込んで彼女と鉢合わせた瞬間、その魅力によってくだらない考えなどすこんと飛んで行ってしまった。
寒そうに肩をすくめる彼女は、ブルゾンを着た姿よりもずっと小さく見えた。髪の先に少し水滴がついている。
かたやおれは、コートの色が変わるほど頭の先からつま先までぐっしょりとみすぼらしく、消えてしまいたい。こんなことならコンビニで傘でも買っておけばよかった。いやでもそれじゃ雨宿りで偶然鉢合わせることもなかった、やっぱりこれでいいのだ。
年の近いおれを無害そうだと判断してくれたのか、少しずつ彼女の警戒心が解かれていくのがわかる。緩い笑みを見せてくれるようにもなり、有頂天になったおれは思わず彼女がバイトをしている花屋について触れてしまい、おっとと焦った。
ストーカーだと思われたらいけない。もっと仲良くなってから、実はと話せばいいだけだ。

「いいわね、誰?」

ナミさんが少しおれを見上げて言う。
誰? 何の話だったか。そうだ、花をプレゼントするとかしないとかだ。
あのうっそうと生い茂った、花屋と言うより熱帯植物屋のような店の奥から、彩り豊かな花を選び、あつらえ、彼女の目の前に差し出すところを想像してうっとりした。そうだおれはロマンチストなのだ。花をプレゼントするならナミさんがいい。驚いて目を丸めた後、嬉しそうに目を細める顔を見てみたい。

「君に」
「私? ふふ、ありがと」

ナミさんは少し驚いたように声を高くしたが、ちっとも心に響いた様子はなく笑われてしまった。そりゃそうか、誰だって冗談だと思う。
そのとき、おれたちが雨宿りする軒先の左手から車輪の滑走する音が水音共に近づいてきた。
厚い雨雲に覆われた空は暗く、ヘッドライトをつけた車の音がすぐに大きくなってくる。
ふと足元に目を遣ると、浅いが大きな水たまりができていた。やべ、と思うのと身体が動くのと、その車が目の前を行き過ぎるのはほとんど同時だった。
間一髪、背中で跳ねた水を受ける。一寸間をおいて、じわりと冷たさと湿気が滲みてくる。咄嗟にシャッターに手をついたせいで、ぎいっと金臭い音が鳴った。

「っぶねぇ、ナミさん大丈夫?」
「うそ、やだ庇ってくれたの?」

ナミさんはおれのすぐ目と鼻の先で向かい合い、目を真ん丸にしておれを見上げていた。濡れていないようだとホッとして、すぐに彼女との近さに思い当たる。でも、すぐに離れることができなかった。このまま見つめ合っていたいと思ってしまった。
しかしナミさんはひとりでに「え」と声をあげた。丸めていた目が少しずつ怪訝そうな色を帯び、身を引くように俺から離れてシャッターに背をつけた。彼女の変化に、おれも「え」と声をあげる。
なんで私の名前、と言った彼女に、さっと血の気が引いた。
あ、おれ、さっき、と自分の声が頭の中の遠いところで響く。
そうだ、おれがナミさんの名前を知ってたらおかしいだろうが。

ちがう、ちがうんだおれは君のあとをつけていたとかストーカーじみたことをしていたわけじゃなくて、そりゃ多少ナミさんがいたらいいなと思っていそうなところをうろうろしたりはしたけど、実際会えやしなかったしほんとなにも不審なことはなくて、名前を知ってるのはウソップってほら知ってるだろ、おれもあいつと友達なんだ、この前の文化祭のときすれ違ったんだけど覚えてないかなぁおれあのときから君のことが、

「好きだ」

は? と応えたナミさんの反応で、いろいろすっ飛ばしたことに気付いた。でももう戻れなかった。
ナミさんが聞き直すようにもう一度、「は?」と言う。

「好きだ、君が」

ナミさんはシャッターに付けた背をぴくりとも動かさず、おれを見上げていた。たぶん2秒ほどだと思うがおれたちは見つめ合い、ナミさんの口は少し開いていた。
やがて、おそるおそるナミさんが尋ねる。

「あの、私あんたのこと、全然知らないんだけど」

どっかで会ったことあるとか、という彼女は必死でこの状況を理解しようとしているのがわかる。賢い人なのだ。冷静に事を整理して話を進めようとしてくれる。おかげでおれも少し落ち着いて、同時に自分がいかにトチ狂った告白をしてしまったのかじわじわと理解してきた。
とりあえず彼女をおびえさせないよう、シャッターに付いた手を離して彼女から少し距離を取り、隣の位置に戻って彼女に向き直った。
えーと、と言葉を探す。

「実は前に君を、ナミさんを、学校で見かけてて。ウソップが、おれの友だちで」
「あぁー」

ナミさんがわかった、とでも言うように目線を上に上げて奴の顔を思い浮かべる仕草をする。そうそうそいつ。

「え、じゃああんた同じ大学の人?」
「や、おれは違う、文化祭で見たんだ。あの日からずっと」

言葉を切ると、ナミさんがその先を待つようにおれを見つめてきた。まっすぐに目を見る人だなと思った。
こんな美人にじっと見られたらたじろがない男などいない。

「ずっと、好きだと思ってた」
「一目ぼれってこと?」

ずばりとナミさんが言う。叱られたようにおれは「そう」と頷く。
ふっと風が吹くような音が聞こえて、顔を上げた。
ナミさんは口元に拳を当てて、笑っていた。

「なんだ、びっくりした。跡でもつけられてるのかと思って怖くなっちゃった」

おれがぽかんとしていると、ナミさんは「そっかウソップの友だちかぁ。最近会ってないんだけど」と言っておれのカーディガンを羽織った腕を前でくんだ。

「会ってる? あいつ元気?」
「あ、うん、一昨日会ったけど普通だった」
「そ」

ナミさんは笑みを残した顔のまま空を覗き込み、「少し弱くなってきたかな」と呟いている。
なんでもないようなその仕草に、おれは取り残されたような気持ちでかゆくもない頬を掻く。

「あの」
「なに」
「えーと、名前、ナミさんって呼んでいい?」
「うん? もう呼んでたじゃない。いいわよ別に」

なんでそんなことを聞くのだとでも言うように、ナミさんは軽い口調でそう言って「あんたは?」と言った。

「名前」

あ、サンジ、とばかみたいに呟くと、ナミさんは少し考えてから、うっすらと笑って言った。

「サンジ君」

あぁ、と膝から崩れ落ちそうになる。雲が割れて光がさし、世界中が明るく満たされるような気がした。

「あ、晴れてきたほら」とナミさんが空を指差す。つられて空を見ると、事実雲が割れて光がさしていた。
日の光を照らしたナミさんの頬がつやりと丸い。

「じゃあ、私行かないと」

ナミさんは足元の水たまりを跨いだ。濡れたアスファルトがてらてらと眩しい。

「またね、サンジ君。」

ナミさんはくるりと踵を返して、細く長い足をテンポ良く動かしてあっという間に歩いて行ってしまう。何を言う間もなかった。
おれの青いカーディガンの長い裾が、彼女の腰の下でひらひらと揺れていた。
その裾をつかまえて、もう一度好きだと言って、今日の日のことをいつか笑い話にできたらいい。
そう思いながら、水たまりを大きく跨ぎ越した。

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ランプが大きく揺れていた。船乗りでも酔ってしまいそうな夜だった。
空っぽの酒瓶が床の上をごろごろ音を立てて転がった。
サンジ君がそれをつま先で止めて、器用に足でまっすぐ立たせた。

「ナミさん湯冷めしちまうよ」
「うん」
「髪もちゃんと乾かさねェと」
「喉乾いた」
「ハイハイ」

サンジ君は肩をすくめて、カウンターの内側へと戻って行く。
キッチン台の上のランプだけが部屋の中を淡い色に照らしだして、その輪の外は沈み込むみたいに暗い。
床の上にひとり立たされた緑色の酒瓶と私は、睨み合うように向かい合う。
キッチンの扉に背中を付けて目を閉じると、船の揺れに合わせて体がぐらぐらと傾いた。

「昼間出したドリンクのシロップが残ってんだけど」
「それでいい」

カラカラとステアの音が彼の手元からこぼれて聞こえた。
できたよ、とサンジ君が背中を向けたまま私を呼ぶ。
今まさに再び倒れようとしている酒瓶を掴んで、通り過ぎざまに部屋の隅の空瓶入れに放り込む。
カウンターには細長いグラスに注いだシャンパン色のドリンクが置いてあって、そこだけ地上にいるみたいに不思議と揺れずに静かだった。
私が椅子を引いてスツールに腰かけると、サンジ君は大きなアルミ鍋にぱらぱらと何かを振り入れて、大きくかき混ぜた。
その腕が動くのに合わせて、エプロンの紐が腰の辺りで跳ねている。

不意に、耳元の髪から雫が落ちて肩にぶつかった。ひやりと寒気が走って鳥肌が立つ。
キャミソールの生地に水分が吸い込まれていった。

「さむ……」
「ほら、ちゃんと髪乾かさねェから」
「サンジ君が乾かして」

鍋をかき混ぜる手が、しばらく惰性で弧を描いて、そして止まった。

「サンジ君が乾かして」
「無理だよ」
「なんで、無理じゃない」
「おれ意外と完璧主義なんだよ」

どういうこと、と目を細くする。サンジ君は振り向かないまま言葉をつなぐ。

「髪乾かしたら梳いでやりたくなるし、それが終わったらベッドまで運んでやりたくなる。眠るまでそこに居てやりたくなるし、なんなら手も繋いでやりたい」
「それだけ?」
「それ以上はとても」

おどけるように肩をすくめて、「な」とサンジ君は肩越しに笑った。

「ここじゃどれもしてやれねェから、下手に手ェだせねーよ」
「ふーん」

意味もなくマドラーをからからと回す。
サンジ君はまた鍋に向き直って、くるりと一つかき混ぜるとお玉を持ち上げてカンと鍋の縁にぶつけた。

「冷めきっちまう前に早く布団入ったほうがいいぜ」
「あんたは」
「おれももう寝る。今日は店じまいだ」

空になったグラスを持って、私も席を立った。
カウンターを回ってキッチンの内側に入り、彼の背後に忍び立つ。
振り返ったサンジ君が穏やかに笑って私に手を差し出すので、その手にグラスを握らせた。

「ごちそうさま」
「お粗末さん」

おやすみ、と言いながら彼の口元に手を伸ばす。
火のついた煙草をつまみとると、サンジ君はそれを待っていたみたいに「おやすみ」と口にした。
唇が重なり、少し舌に触れた。
煙草と、その向こう側で深いソースの味がする。

お玉とグラスで手の塞がった彼に代わって、また煙草を口に戻してあげた。
「ごちそうさま」と彼が言う。

「──完璧にはほど遠いんじゃない?」
「そうかも。ナミさんのせいだ」

少し笑って後ずさると、彼も笑って後ろ手にエプロンの紐をほどいた。
待ってる、と聞こえない声で囁くと、すぐに行く、と彼の口が動く。
ランプと足元がゆらゆらと揺れて、冷めた身体が茹だるようだった。


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*Twitterで、#この絵にお話を付けてくださいというタグのお遊びで、
栗様のサンナミイラストにお話をつけさせていただきました!
イラストはお手数ですがタグを遡っていただければ……
Twitter利用されてない方はズビバゼン














みつけちゃった、と彼女は呟いた。

「ん、え、なに?」
「みつけちゃったの」

少し目を伏せてナミさんは言う。
不意に近づいて来たなめらかな頬とつややかな唇に目を奪われて、聞き返したのに頭に入ってこない。
ちかいちかいちかい、とそんなことばかり考えてしまう。

「ナミさ」
「ね、内緒にしてあげるから」

神妙な顔で、ナミさんはますます顔を近づけてくる。
襟ぐりの広いTシャツのよれた襟元が目に入る。そこから覗く鎖骨。白く、おれと彼女で影を落としている。
掴んで噛みつきたくなる。

「な、内緒……?」
「うん、だから」

いつのまにか腰元に彼女の手が回っている。
お尻を撫でるように触られて、首の後ろあたりから頭頂部に向かってカッと熱くなる。
応えるように彼女の腰に恐る恐る手を回すと、初めて彼女は微笑んだ。
ふっと気が遠くなりかけて、気を持ち直したところでさっと背後で彼女の手が動いた。

「こっちはもらうわね」

するっとケツのポケットから何かが出ていく。
スコスコと軽くなり、あれっと思ったときには目の前に財布があった。
おれのだ。

「冷蔵庫の野菜室の蓋の裏、封筒でへそくり、貼ってあるのは私たちだけの秘密にしてあげる」
「あ」
「代わりに、ね」

ナミさんはおれの目の前で財布の口を開け、中を確かめ「わあ」と目を輝かせた。
嬉しそうにんふふ、と笑うのでおれまでんふふと笑いそうになる。
が、ごそっと彼女の指先につままれた数枚の紙幣を確かめて、ひやりと冷静になった。

「んナミさん、それは」
「なによ、冷蔵庫の中のもらってもいいの?」

う、と言葉をつまらせた隙に、ずいぶん薄くなった財布が無造作にケツのポケットに戻された。
ポケットに突っ込まれた指先がケツを離れていく感触が名残惜しく、その手首を思わず掴んだ。
ぎょ、と目を丸めた彼女がなによと口先を尖らせる。

「返さないわよ」

いーよ、と答えて目の前の唇に唇を寄せた。
ひ、とでも言うように一緒引かれたけれど間髪入れずに押し付ける。

唇が離れた隙にずいぶん高くついたものね、と聴こえたが聴こえないふりをした。

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どうしてこんなことになったんだろ、と陳腐な映画のヒロインみたいに頭を抱えた。
頭でも痛いの、とロビンが本を読む片手間に尋ねる。返事はしなかった。
「どうしてこんなこと」と声に出してみても誰も答えは教えてくれないし、自分の頭で明快な答えがはじきだされる気配もなかった。
「こんなこと?」とまたもロビンがオウム返しに問いかける。

だって毎日顔を合わせるのだ。
そのたびにあぁ、とわけもないため息をつきたくなるのだ。
私が理解できない気持ちを彼が理解できるはずがない。
わかっているのに止まらない。
サンジくんが好きだ。
これは恋だ。






ねがいごと三回





ナミさん、口にチョコレートついてるよ。
その一言で堕ちた。ズドーンと堕ちた。
「ちょいと失礼」と節くれだった指で私の口もとを拭って、「ちいせぇ子みたいだな」と冗談交じりで笑った。
咄嗟に返事をできなかった私に、サンジ君は指先のチョコレートを手元の布巾で拭って熱々のポットに手を伸ばす。
コーヒーでいい? と訊かれたのに、私ははいとも言えずに彼が手を拭った布巾を凝視していた。

「ナミさん?」

ハッとして、「なんでもない、ありがと」と小さく言ってごしごし口元を擦った。
布巾についた茶色い染みが決定的にそこにある。
痛いくらい口元を拭って、拭い去れない気持ちの変化に愕然とした。



このところ船はしばらくどこにも停泊していない。
というのも、2週間前に寄った港町がとても食べ物が豊富で、それも安くて、大量に詰めるだけ船に詰めて出航したから寄港する必要がないのだ。
食料事情も安心、天候もこのところ大きな嵐もない。ルフィが騒ぎたくなるような心躍る島も幸い現れていない。
一度サイクロンに引っ掛かりかけたけど無事逃げ切って平穏な日々が続いている。
日々が平穏であればあるだけ、余計なことばかり考えてしまう。

朝起きて、洗面所の順番待ちをしているとき。
私の前でウソップがバシャバシャ水を飛ばしながら顔を洗っている。
そのおしりのあたりをぼんやりと見つめていたら、ぽんと肩を小突かれて振り返った。
小麦粉の袋を二つ抱えたサンジ君が、「ごめんナミさん、当たっちまって」と苦笑する。それから「おはよう」と。

「おはよー」
「紅茶淹れてあるよ。朝めしもすぐできるから待っててな」
「ん」

彼が去った後、ウソップが顔を洗い終わり、私が洗面台の前に立つ。
小さな鏡に映った姿がぴょんぴょんと寝癖だらけの頭なのを見ると、「もー!」と叫んで自分を殺してやりたくなるのだ。
突然怒り出した私に、立ち去る間際のウソップがぎょっと振り返る。
見てんじゃないわよ! と当り散らしてブラシで髪を撫でつけた。
最悪、最悪、と胸の内で繰り返すも、なにをこんなに悲しくなるのか自分でもわからなかった。

朝食を済ませたあと、三々五々とみんなが好き勝手に散って行く。
私は海図と双眼鏡を手に持ち甲板に出た。
頬を撫でる風は乾いて冷たい。ときおり鋭く笛のような音を立てた。
まっすぐ前を向く船首の先で、メリーが柔らかく笑っている。

「好きって言ったらサンジ君困るかな……」

すきとか、きらいとか、ばかみたい。
男とか女とか、付き合うとか別れるとか、面倒で仕方がない。
それなのにずどんと落ちたこの心はもう恋心以外の何物でもないとわかる。
それでいて私のことをすきだという彼の心が恋心であるのかは、さっぱりわからないのだった。
ぐらんと船が揺れると波しぶきが跳ね、足元を少し濡らす。しぶきを浴びたメリーも困った顔に見えた。

「そりゃそうかー」

しばらくしたらこんな気持ちも、流れ星みたいにすっと消えてなくなるかもしれない。
思えば芽生えも突然だった。勘違いだとしてもおかしくない。
そうだといいなという気持ちと、そうだったらどうしようという気持ちの両方が混ざり合ってはちりちりと痛む。
メリーに相談してても仕方ないか、と踵を返した。

「──おっと」

視線を落として振り返った矢先目に飛び込んできた革靴に、ぼとんと口から心臓が出ていきそうになる。
サンジ君は見張り用のブランケットを腕に掛け、頬をほりほりと掻いた。

「あ、寒いかなって、これ」

はは、と笑ったサンジ君は火のついていない煙草をぽろりと甲板に落とす。
サンジ君は煙草を落としたのに気付いて片手で受け取ろうとするも、手にぶつかるだけで煙草はやっぱり甲板に落ちた。
明らかに目を泳がせ、落とした煙草を拾おうともしないサンジ君に血の気が引いた。
──聞かれた。

「あっ、ありがと! ちょうど寒いなーって思って」

つかつかとサンジ君に歩み寄り、奪うようにブランケットをひったくる。
彼はハッと身じろいだ。

「あの、ナミさ」
「あったか! 最高! あったか! 気が利くわねーありがとう! 今のところ高気圧で安定してるみたいだけど、私もう少し海見てるわね」

子どもがやるみたいに頭からブランケットにくるまって彼に背中を向ける。
ああ、うん、とサンジ君は呆気にとられて立ち尽くしているようだった。
うわ、うわ、うわ、と無為な言葉が頭を駆け巡り、未だ立ち去らない彼の気配に背中がじりじり熱くなる。
聞かせるつもりなんてなかったのに、言うつもりもなかったのに、どうしてくれるのだと自分に対して沸騰するような怒りが沸く。
それでいて熱くなる頭の芯はとても冷えていて、お願いだから何か聞いて、今なんて言ったんだって聞き返して、そしたら好きだって言っちゃうから。もう言っちゃうから、と確かに叫んでいるのだった。
もうどう転んでもいいから、と。

しかしサンジ君は「そっか」と短く返事をすると、いつもの柔らかい声で「あったけー飲みもん準備しとくから、欲しくなったらキッチンな」と告げてあっさり立ち去ってしまった。
あ、と呟く。胸が冷えていく。
振り返るとちょうど彼がキッチンの扉の向こうに消えるところだった。
いなくなった空間を見遣って、呆然とした。
──聞こえてなかったのかしら。
だとしたらそれはそれで……と考えかけたところで足元に転がった真新しい煙草が目に入る。
ぱーんと頬を殴られたみたいなショックで、思わずよろめき船縁に肘をついた。
聞こえてないわけないじゃないか。あんなに狼狽えて目を泳がせたサンジ君なんて初めて見た。
聞こえていたのだ。
「好きって言ったらサンジ君困るかな」というあの言葉を聞かれてしまった。
そして現に、彼は困ったのだ。

船縁で肘を支え、その手で顔の片側を覆う。目を閉じると頭が重く、ごろんと海に落としてしまいそうだった。
ナミさん好きだー、と毎日のように聞いていた彼の声を思い出す。
私はこれからずっと、彼のこの声を思い出みたいに抱きしめて過ごしていかなきゃいけないんだろうか。
ちらりと視線を上げ、進行方向へまっすぐ伸びた白い首を見上げる。
──メリー、こういうときどうしたらいいの。
どうしたらいいの!




昼ごろになると薄い雲が晴れ、さんさんと陽気な日差しになってきた。
甲板は温まり、自然とみんなが外に集まりだす。
今日の昼飯は外で食おうぜーとルフィが寝転がりながら言い、サンジ君がサンドイッチをこしらえ始めた。
ロビンが「手伝うわ」と言ってキッチンへ向かうと、気まぐれにチョッパーも「じゃあおれも」と言って後を追う。

「あなたも暇ならどう?」
「え」
「作らない? サンドイッチ、一緒に」

ナミもいこーぜーとチョッパーが無邪気に手を振る。
暇そうにぼんやりしていた手前断りづらくて、「あ、うん」とつい答えてしまった。
ロビンのあとに続いてぞろぞろキッチンへ入る。
人気に振り返ったサンジ君は、いつものようにへらっと笑って「どうしたの?」と言った。

「お手伝いさせてもらえないかと思って」
「えっうそ、ロビンちゃんとナミさんが?」
「サンジ! おれもいるぞ!」
「テメーいらねぇから帰れ」

ひでーと半ば本気で起こるチョッパーをはいはいといなしながら、サンジ君は「いや実際ありがてぇな、量作るから作業多くて」と手元を動かしながら言う。
フライパンで二枚ずつパンを焼いていた。

「わざわざ焼いてんの?」
「ん、香ばしくて美味いぜー。それじゃロビンちゃん野菜洗ってくれる? チョッパーはロビンちゃんが洗った野菜をちぎって、ナミさんはおれが焼いたパンにバターを塗ってくれ」
「私とナミは逆の方がいいかも。ほら、洗い場は一つだから」

ふわっとテーブルにいくつもの手が咲き乱れ、サンジ君はなるほどとうなずいた。
それぞれが位置に着き、黙々と作業を始める。
レタスをザバザバと洗い、水気を切る。隣にいるチョッパーに渡すと、彼は蹄を器用に動かしてレタスをちぎった。
きゅうりは洗い、適当な大きさに切る。
サンジ君に言われ、チョッパーがそれを塩で揉んだ。
水を止めると、背後のテーブルでロビンの手が何本も同時にジャッジャッとバターを塗る音が聞こえてくる。
洗って切った野菜をそちらに持っていくと、サンジ君が「まかせるから適当に挟んで」と大量のチーズとハムを持ってきた。
そしてテーブルにいる私たちを見て、でれっと頬を緩める。

「あーいいなー、最高の景色だ。おれのためにレディ達が料理を」
「あんたのためにじゃないけど」

そこまで言って、ハッと口をつぐんだ。
なんだかすごくいつも通りだったことに驚いた。
ぽんぽんと口から飛び出す掛け合いにあまりに慣れていて、その意味だとか深く考えていなかったことに気付く。
さっきあんなことを聞かれてしまってもまだこんな憎まれ口を叩くなんて、と自分に呆れながらちらりと彼の方を見上げたが、サンジ君は意に介したふうもなく鼻唄をうたいだしそうな顔で缶詰を開けている。
──やっぱり聞かれてなかったのかもしれない。

サンジ君はくるりと背を向けてコンロへ向かうと、深い鍋に火を入れた。

「まだ何か作るの?」
「これじゃ肉っけが足りねーって騒ぐだろうから、もう一品。あーロビンちゃん、使って申し訳ねェんだけど、食料庫から干し肉2枚取ってきてくれねぇかな。あとチョッパーは手ェ洗って、そこにしまってある赤いシート甲板に出しておいてくれ」

はーいと二人が答え、各々言われた通りに部屋を出ていく。
じゅわっ、と油の跳ねる音を背中で聞いて、「え?」と彼の方を見遣る。
サンジ君はフライパンにばらばらと何かを振り入れてから、唐突にこちらを振り返った。
口元を強く引き結んだその顔に、「げ」と口から飛び出しかける。
つかつかと歩み寄ってきた彼は、私の腰かける椅子に手を置いて「聞いてもいい?」と短く鋭く言った。

「え、やだなに」
「ナミさんさっき」
「なにも言ってない」

サンジ君がわずかに眉を寄せた。
ああばか、これじゃ言いましたって言ってるのと同じじゃないか。

「ナミさんさっきおれの」
「やだ、やだ、こんなところで話したくない」

どんどん近づいてくる真剣な表情が恐ろしくて、顔を背けて目を伏せた。
サンジ君は少し考えるように口をつぐんでから、「じゃあ」と言う。

「今夜ここで待ってる。野郎共が寝たあとに。ならいいだろ」

ぱぁんと後ろで何かがはじけた。
サンジ君がふっと私から遠ざかり、火をつけたままのフライパンに戻るとトングで中身をひょいひょい取り出した。
まるで何事もなかったかのようなブレのない手つきに呆気にとられる。
ふーんとにんにくの香りが暖かい湯気と共に流れてきた。
ロビンが干し肉を手に戻ってくると、サンジ君は変わらぬ緩み切った顔で「ありがとロビンちゃん」と笑った。

その昼食でどのサンドイッチを食べたのか、私はひとつも覚えていない。




夕食を終えると飲んだお酒のせいかかーっと顔が熱くなって、緊張してるんだと思った。
でもひとりの部屋に戻るとなんだか心が落ち着いて、ついでに酔ったような気分も冷めて、なんだ気のせいかと息をつく。
お風呂から戻ったロビンと交代してシャワーを浴びていると、突然居ても立っても居られない気になってぎゅっと必要以上にノブをひねる。
すると間違えてお湯を冷水にしてしまい、冷たい水を頭から浴びてヒャーと叫んだ。
なにやってんだろ、と馬鹿馬鹿しくなるとその居ても立ってもという感情も消え去った。
まったくいそがしい。

皆が寝静まるにはまだ早い。
じりじりと月が昇っていく。

いやなら行かなくてもいいじゃない。何の事だかわからなかったの、とすっぽかして明日ケロッとした顔で朝ごはんを食べてしまえばいい。
何度もそんなことを考えて、結局キッチンの扉を開けたのは夜中の0時を回った頃だった。
サンジ君はちょうどエプロンを外して、口に咥えた煙草に火をつけていた。
顔を上げて私を認めると、彼も少し緊張した面持ちで、それでも少し笑って「何か飲む?」と尋ねた。

「うん、じゃあ」
「冷たいの? 温かいの?」
「……温かいの」

サンジ君がやかんを火にかける。
私はぐるりとテーブルを回って、調理場から遠いほうに腰かけた。

「来てくれねェかと思った」

背中を向けたままサンジ君がぼそりと言う。
急に核心に近づく一歩を踏まれたことにどきっとして、咄嗟に答えられなかった。
しゅー、とやかんが鳴りはじめるまで、私もサンジ君も顔を合わすことなく黙りこくっていた。
波の音よりも大きく、ゆだる水が音を立てる。

サンジ君は厚めのグラスを二つ手に取って、そこにウイスキーと何かの粉、はちみつを入れ、お湯を注いだ。
サンジ君も飲むんだ、とその手つきを眺めて思う。
くるりと振り返った彼は机越しにグラスを差し出した。

「熱いよ」
「ありがと……」

受け取ったグラスがとても熱く、とてもじゃないけどまだ飲めないやとテーブルに置いたとき、彼が口を開いた。

「おれはナミさんがすきだよ」

びくっと肩が跳ねた。
彼の言葉より、自分の過敏な反応に何より驚いた。
湯気が鼻先を濡らすまま、じっと手元に目を落とす。
「すきだよ」と彼は繰り返した。

「──そう、は、知ってるわ、だって」

毎日毎日聞かされてるんだもの。
サンジ君は咥えていた煙草を灰皿に置き、立ったまま私と同じ飲み物に口をつける。
その仕草が知らない人のようで、見ていられないと思った。

「おれは知らなかった」

サンジ君がテーブルにグラスを置く。

「ナミさんがおれのことを好きかどうかなんて、ちっともわからねェままだったよ」

彼はゆっくりとテーブルを回って、こちらに近付いてきた。
今すぐ席を立って距離を取りたい気持ちがしたが、咄嗟に脚が動かない。
サンジ君は片手で口元を覆うように撫でてから言う。

「独り言聞いちまってごめんな、なんていじわるな言い方したくねぇんだけど」
「じゃ、あ、もうやめて」

俯いて早口に言った。
サンジ君が足を止める。

「忘れて、なにも聞かないで。私も何も言わないから」
「──無理だよ」
「無理じゃない。いいからなにもなかったことにして。お願い」

サンジ君が急にすとんとしゃがみこんだ。
突然のことに驚いて足元の彼を見遣ると、私を見上げる顔と目線がかち合う。
何か言うより早く膝に置いていた左手をがっと掴まれた。

「なんでだよ、なんも問題ねーだろ。おれはナミさんが好きだ、ナミさんもそうだとしたら忘れる必要なんてどこにもない」
「い、いやなの、私が! こんなの絶対に嫌」
「こんなのってなんだよ」
「やだ、もうやだ離して来るんじゃなかった」

振りほどくつもりで立ち上がると、彼も立ち上がり私の手を握ったまま追いすがるように距離を詰めてきた。
がたんと大仰に木の椅子が音を立てる。

「は、離せっつってんでしょ!」
「なにがそんな嫌なんだよ、ぜんぜんわかんねぇ。おれのこと好きだってことじゃねぇの」
「だからそれがいやなの! すきだとか、そういう」

ばかみたい、と呟くと、サンジ君は私の手を離さないまま傷ついたように動きを止めた。
ばかみたいだ、もうこんなの、全部。
こっそりこんなところで顔を合わせているのも、人の耳を気にして少しひそめた声でこんな話をすることも、私の手を掴む彼の手が冷えていることも、全部全部。

「──なんにも、ばかみたいじゃねェと思うけど」
「いいの、もうわかんない」
「ナミさん抱きしめていい?」
「はっ?」

ぐんと腕を引かれて逃げる間もなく顎のあたりに彼の肩がぶつかる。腕の上から閉じ込められ、身動きが取れない。

「ちょ、あんたね」
「ナミさんすげぇいいにおいする」

鼻先で髪を払いのけ、こめかみの横辺りに顔を埋められる。
う、と思わず呻いた。
柔らかい何かが耳に触れ、足が震える。

「ずっとこうしてみたかったんだけど。もしナミさんもおれのこと好きならどんなにいいだろうって」
「勝手なこと言わないで」
「ナミさんはそういうこと、考えなかった?」

小声で訊かれて思わず考えた。
意外と身長差があるのねとか、口当たりのいい言葉を吐くくせに抱きしめる力は強いんだとか、やっぱり彼のこれはいわゆる恋心だったのだとか、実のところ知りたくてたまらなかったけどできるなら知りたくなかったことを考えた。
わかりきってることを聞かないでよ、と腹が立って俯いた。
一度抱きしめられたら癖になりそうで。

サンジ君は私を抱きしめたまま、あやすようにゆらゆら揺れた。

「なんもこわいことねーよ」
「……誰も怖いなんていってないんだけど」
「そう?」

からかうような声音にイラついて、こぶしでどんと肩を叩いてから背中に腕を回した。
抱きしめ返すと安心して、なにをいやだいやだと言っていたのかわからなくなりそうだった。
そのわからなさが怖かったんだと思い当たる。
だって彼を目で探している隙に殺されちゃったりしたら、私も彼もたまらないじゃないか。

「──サンジ君、いいにおいね」
「まだ風呂入ってねぇんだけど」
「美味しいにおいがする」
「あ、なんかそれやらしい意味?」
「ばかちがう」

サンジ君は短く笑うと、さっと私の顔を持ち上げキスをした。
至近距離で目が合い、鼻先が触れる。

「うわ」
「うわって、ナミさん」
「やだなんかやっぱもういや、離して」

両手をばたつかせて彼の腕からもがきでる。
「えー」と言いつつ私を解放するサンジ君に、私の方が名残惜しく感じ、理不尽だと思う。

「もういいでしょ、終わり、この話は終わり!」

椅子に座り直し、ぬるくなったグラスに口をつける。あ、おいし、と本音がこぼれ出る。
サンジ君ががたがた椅子を引いてきて、私の隣に寄り添うように腰かけた。
にんまり口角を上げて、「えへへ」と私にしなだれかかる。

「ちょっともう、やめて」
「ナミさん意外と奥手だね」
「だっ……」

殴るわよ! と隣を睨むが「そういうのも割とすきだよ」と彼はけろっとしているので振り上げたこぶしの持っていき場がない。

「いつかナミさんの口からちゃんと聞きてーなー」
「知らない」
「そしたらおれ、食い気味におれもすきだって言いたい」

ちらりと彼を見る。
試すような生意気な顔で、サンジ君も私を見る。

「聞きたくない?」

口を開きかけ、ぎゅっと閉じる。

「私相手に駆け引きしようなんて百年早いのよ!」

うへへと彼は笑い、「待ってるよ」と私の肩にキスをした。

拍手[35回]

「あなたといてもどこにもいけない」

白い紙に黒い字で、それぞれがそういう形の虫みたいに文字が並んでいる。
その羅列の中でこの一文がすっと目に飛び込んできた。

「何読んでんの?」

肩の上からひょこりと顔を出し、少し動けば頬が触れ合ってしまいそうな距離でサンジくんが私の手元を覗き込んだ。

「なんでもない。適当な小説」

言いながら本を閉じると、彼はふーんと鼻を鳴らして「買わないの?」と言った。
町の本屋はここしかないみたいで、町の人や私たちみたいな旅の人が陳列棚の間をたくさん行き来して店内は混み合っている。
手に取った本を棚に戻して、「買わない」と呟く。

「あんたの目当てのはあったの」
「ああ、あったあった。この島の郷土料理のレシピ集と、メモ書き用のノートと」

会計も済ましたぜ、とサンジくんは茶色い再生紙の袋を掲げてみせた。
そ、と答えて店を出る。
サンジくんは私の肩に軽くぶつかった男にメンチを切りつつ後についてきた。
店を出た瞬間、さっと手を握られる。

「ちょっと」
「ん?」
「何勝手に手ェ握ってくれてんのよ」
「デートだからじゃね」
「はぁ名目はどうでもいいんだけど」
「つれないナミさんもすきだあ」

いつもの台詞を聞き流して、振りほどこうともがくほどに深く絡め取られる指先にも気を止めず、頭を離れなくなったさっきの一文を繰り返し頭の中で読み上げる。

あなたといてもどこにもいけない。

いったいどんな登場人物たちがどんな遍歴を経て、どういう恋愛の末(あれは恋愛ストーリーだったんだろうか)ああ言ったのかなにもわからないけど、なんだかすごく腹の立つ台詞だった、と歩きながら考える。
いったい相手がどこに連れて行ってくれるつもりだったと言うのか。

「──ミさん、ナミさん。聞いてる?」
「あごめん、聞いてない」
「だからさ、ちょっと休憩してかね? 喉乾いたし、船までまだ歩かねーとだし」
「んーそうねー、今何時?」
「三時半」

な、とサンジくんは期待に目を輝かせて、犬みたいに私を見てくる。
確かに急いですぐに夕飯の仕度を始めないといけない時間でもないし、まだ戻らないクルーもいるだろう。

「いいわよ、じゃそこにしましょ」

適当に目に付いたカフェレストランにさっさと足を向ける。
ヤッターと飛び跳ねながら彼も付いてきた。
サンジくんは回り込むようにテラス席の椅子を引き、私を座らせる。
私が店では奥に入らないことをよく知っている。
私はジンライムを、彼はアイスコーヒーを頼んだ。

「ふー今日は暑いね」

サンジくんが荷物をテーブルに置き、ネクタイの襟元を引っ張りながら言う。

「しばらくは暑い日が続きそうだわ」
「夏バテに効くモンにしようかね今夜は」
「ここを抜けると一気に冬島の気候海域だから、油断してると風邪ひいちゃう」

おおまじか、とサンジくんは大げさに目を丸めてタバコに火をつける。
かしゅっと乾いた音で火花が散るのを眺めていたら、またさっきの小説が頭の中を横切った。

「いったいどこに行きたいんだか」
「ん?」

なに? とサンジくんが左耳をこちに向けて身を乗り出す。
声に出しちゃった、と内心慌てながら「なんでも」と付け加える。
しかし彼は「どこに行きたいって?」と食い下がってきた。

「なんでもないんだって」
「どっか行きたいって言わなかった?」
「そうじゃなくて……あんたどっか行きたい?」

ごまかす代わりに尋ねてみると、意外にもサンジくんは身を引いて腕を組み、「うーん」と真剣な顔で考え始めた。

「行きてェ場所か……あ、靴屋。新調したかったのに今日休みだったんだよ」

がくっと肘をつきそうになる。
あ、そ、と小さく答えたとき注文の品が届いた。
マドラーをカラカラ鳴らしてジンライムをすする。

「あとそうだな、船をつけたそこはずっと先まで茶色い大地が広がって地平線まで見えるんだ。なだらかな丘がずっと向こうまで続いてて人はいない。不毛地帯のそこをゆっくり登っていくと、向こう側の海にちょうどオレンジ色の夕日が沈んでて、岸壁にぶつかる波の音が足元から聞こえてくる。そういう景色を君と手を繋いで眺めていたいな」
「……何言ってんの?」

行きたい場所さ、とサンジくんはにっこり笑って、アイスコーヒーのストローを加えた。

「そんなところに私行きたくないんだけど」
「そう言わずにさ。辺り誰もいねーんだぜ。なにもないね、そうだね、僕たち二人だけだねって微笑みあって暮らすんだ」
「ちょっと待って、ほかのやつらは?」
「知らね、どっかにいるんじゃね」
「なにそれ」

どこかにはいるのね、とそんなところに笑えてしまう。

「微笑みあって暮らしてそんでどうすんの」
「どうしたいわけじゃねーんだ。てか別に不毛地帯じゃなくたって、ナミさんとならどこにでもいけるよ」

はっと顔を上げると、サンジくんは私の反応に何かを期待して目を輝かせた。
そしてもう一度、グラスを持つ私の手に手を添えてもう一度、「君とならどこにでもいけるよ」と言い直す。
やたらきらきら光る彼の片目を見つめ返して、私の頭にはやっぱりあの「あなたといてもどこにもいけない」の言葉が流れていた。

どこにもいけないわ、というのが悲観的にも楽観的にも聞こえるように、彼が言ったどこにでもいけるよ、という言葉もとても悲観的に、そして楽観的にかつ陳腐に響いたのだ。
それなのにあの腹立たしさは微塵もなく、なんだか、「そうね」と言って添えられた彼の手にそっと手を重ねたい気さえした。
どこにでもというのなら、早くどこかに連れて行って見せてよと思う挑戦的な気持ちと、いったいそれはどこなんだろうと心踊る気持ちが入り混じって
は目の前で弾けて消えていく。
ちょうどジンライムの炭酸が氷の間を滑り上がっては弾けるのと同じように。

サンジくんは私の手に手を添えたまま、突然くっと眉間にしわを寄せた。
くそ、と小さく悪態付いてから「ナミさん」と顔を近づける。

「おれの後ろ、男がいる。新聞か雑誌か何かで隠してなんか見てねぇか」

突然の真剣な声に意表を突かれたものの、言われた通りゆっくりドリンクをすすってから目を移す。
確かに紺のジャケットに黒いパンツを履いた体つきのいい男が、新聞を机の上に立てるように置いて、その内側で何かぺらんとした紙を見ていた。

「ほんと、見てる。なに?」
「ありゃおれたちの手配書だな。海軍だ」
「うそ」
「なーんか途中からやな感じがしてたんだ。おれらもすっかりツラ割れちまってるからな」

残念だが長居できなさそうだ、とサンジくんは背を丸めてコーヒーをすすり、灰皿に置いていたタバコを口に咥えた。
私は彼の手が重なっていた手を机から下ろしてスカートの下のふとももを撫でる。クリマタクトはきちんとそこにある。

「普通に出ちゃおうか。案外こっそりつけてくるだけで、後から巻けるかも」
「いや、店の外に6…7人。張ってやがる」
「うっそぉ、なんで私たちだけ」
「ナミさんが美人だから目立つのさ」

サンジくんは飲み物代を律儀にテーブルへ置くと、「さて」とでも言うように腰を上げた。
彼と私も飲みかけなのに、さも随分ゆっくりしたかのように立ち上がるので私も真似て立ち上がる。
と、サンジくんは突然私の腰を引き寄せた。
ちょ、と声が漏れて拳を振り上げかけたところで彼が「このままで」と囁く。

「こんな民間人入り乱れるところで急に撃っちゃこねぇさ。このまま民間人のふりして逃げ切れるところまで逃げよう。広いところで適当にのして、船まで一直線」
「わ、かった」

私たちは店内の喧騒を背中に聞きながら、優雅に歩いて外に出た。
わざと人の多い場所を移り歩いて、確実に後をつけてくる者たちの視界をくらませる。

「走って」

急にサンジくんが私の手首を掴んだ。
ぐいと強く引かれてつんのめるも、駆け出した足は力強く地面を掴んでぐんぐんスピードを上げていく。
サンジくんは魔法みたいにするする人波をすり抜けて、私をどこか遠くの見知らぬ場所へ連れていくようだった。

あなたといてもどこにもいけない。
どこかに連れていってほしくて、この窮地から救い出してほしくて叫んでいたのにという失望なのか、だからここから飛び出そうという希望なのか、前後の文脈のないその一文からはなにもわからない。

走りながら、結局どこにもいけなかったね、といつかサンジくんがあの優しい目で悲しく笑う気がして、不意に胸を打たれた。
今こんなにも力強く私の手を掴んで引いていくのに、どこにもいけないわけないじゃないと頬を張ってやりたい気さえした。
早く、立ち上がって、私の手を取って、走り出して。そしたら今度は私が引っ張ってどこにでも連れていってあげるから。

息を切らして走りながら、目の前を行く背中が立ち止まらないことをずっと祈っていた。
さっきの店に彼が買った本を置き忘れてきた、と不意に思い出した。

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 麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



我が家は同人サイト様かつ検索避け済みサイト様のみリンクフリーとなっております。
一声いただければ喜んで遊びに行きます。

足りん
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