OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
2016.9.4 GLC7の無料配布サンナミの再録です。
最後にkonohaさんから頂いたイラスト付き。
**
夜ふけの2時前、秋島の秋、港町の宿屋の一室。久しぶりに野郎の足が飛び込んでこない、しかも揺れないベッドでひとりゆったり眠るはずの夜だった。
海賊業。金品強奪、詐欺脅迫、誘拐騙取に暴行傷害。とりわけ金品強奪においては殊更頻繁で、彼女の得意分野はとある賭場でもブンブン発揮された。
その手際を初めて間近でみたときは、彼女の細くて小さな背中を眺めていたおれにも最後までなにが起こったのかわからなかった。
イカサマで巻き上げること数十万。トイレに行くと言って戻ってくると数個の見知らぬ財布と一緒だ。臆することなくドレスの胸元を引き下げて色仕掛けをしたかと思えば、見抜かれたらとっとと逃げる。
お付きのおれの仕事といえば、そんな奴らを蹴散らしてトンズラこくくらいで、しいていえば暴行傷害。彼女の悪業に比べりゃチンケなものだ。
稼いだ金の九割九分が彼女のふところに収まるわけだが、その日は稼ぎがよかったからかただの気まぐれか、気の大きくなった彼女はおれたち全員に一人一部屋取らせてくれた。
「たまにはハンモックじゃないベッドで、ひとりぐっすり眠ったら?」
女神かな、と思う。
とはいえ日が変わる頃まで宿の側の酒場で、5人でじゃんじゃん酒を飲み、食らい、騒ぎ尽くした。酒がないからもう出てけと酒場を追い出され、ゾロが使い古しのゴムのようなルフィを、おれが潰れて黙りこくったウソップをそれぞれの部屋に放り込む。
「それじゃまた明日ねー」
「うす」
「おやすみナミさん、いい夢を」
ひらりと手を振って部屋に入る彼女の背中を見送って、おれもその2つ隣の部屋に引っ込んだのだった。
シャワーを浴びて、パンツ一丁で狭い部屋を横切りバルコニーに出る。ぬるくて潮くさい夜風に酔った身体がなぶられる。煙草に火を付けて、なにも考えずに一本吸った。
酒臭い息が胃からこみ上げて、眠いようなだるいようなわかんねぇなと思いながらあくびをする。部屋に戻ると隣からゾロのいびきが粗く聞こえてきた。ハンモックの真下から響きわたるよりましだが、これじゃいつもとたいしてかわんねぇなと苦い思いでベッドに転がった。
ずくっと肋骨が痛む。まだ完全にくっついてない骨が、深く息をするとみしみしとしなるのだ。
あーあ、と声に出してもう一度あくびをしたら、すこんと意識が抜けるように一気に寝落ちた。
細くて高いレディの声がする。
呼ばれたわけではないのにふと目が覚めた。
廊下がやけに騒がしい。うとうとしていたような、深い眠りに落ちていたような、よくわからないまま時計を見たらまだ一時間ほどしか経っていない。
パンツ一丁で転がったので少々腹のあたりが心許なく、持ってきたTシャツを着てズボンを履いた。
どこぞの酔っ払いとそいつが買ったレディが喧嘩でもしてんのかね、と思いながら再びもぞもぞとベッドに戻りかけたそのとき、どん、とドアが鳴った。
は? と首をもたげてドアを見つめる。
と、またどんどん、と今度はよりはっきりとした意思を持って叩かれる。
「アァ?」
この酔っ払いが、部屋間違えやがってといきりたって扉に手をかけた。開ける寸前にまさか海軍じゃねぇだろうなとドアスコープを覗いたそこに、彼女はいたのだった。
少し濡れた髪がしっとりとウェーブを描き、つやつやとオレンジ色に光っている。
目を丸めて扉を開けたおれに、彼女は小さく手を上げて、かわいらしく「ごめんね?」と言った。彼女の少し伸びたTシャツの袖から覗く白い腕に一瞬目を奪われる。
「寝てた?」
「や、うん、え、ナミさんどうした」
「泊めてほしくって」
「泊め?」
うん、と彼女は至極素直な感じでうなずいた。船の上でいつもルフィやゾロにカリカリ怒ってている顔も可愛らしいが、なんだか今は愛玩用のナミさんと言う感じでとてもラブリーだ。
一瞬のうちにそんなことを考えて、彼女の「おねがーい」と言う声で目が覚めた。
「泊めてくれる?」
「え、あぁもちろん、どうぞ」
彼女のために大きく扉を開く。ナミさんはそうなるべきであることを知っていたかのようにひとつ頷いて、「ありがと」とおれの部屋に踏み込んできた。
「スクリンプラーの誤作動で部屋中水浸し。ほんっと最悪。今日買った服だってびしょびしょよ!」
そりゃあ災難だね、と苦笑する。苦笑するしかないだろう。お愛想程度に部屋の隅に置いてある一本足のテーブルにもたれて、仕方なしに煙草を吸う。彼女はたった一つのベッドの上に胡坐をかいて、枕をぼすんと乱暴に叩いた。
「それでナミさんもそんなビショビショに?」
「あ、ちがうの私はちょうどお風呂に入っててね、出たらぶーんってスプリンクラーが回ってたわけ。すぐにフロントに駆け込んだから、髪乾かしそびれちゃった。でももういいや」
半分乾いてくるんくるんと跳ねた毛先を指先でぴんとはじいて、彼女は「ごめんねーほんと」と笑いながら言った。
「寝てたでしょ。せっかく一部屋取れたのにね」
「ナミさんこそ残念だったね」
「ま、ね。でも私は船でもひとり部屋だし」
あそうそう、と彼女は言う。
「だからここの宿代、全員分チャラになったから」
「マジ?」
「うん、だって一人一部屋が、一人部屋に二人押し込められることになったのよ。ほかに部屋も空いてないって言うし……私物も濡れたしどうしてくれんのってすごんじゃった」
おつりおまけしてくれたわ、みたいな口調でとうとうとナミさんは語り、「あー疲れた」とついにはバタンとベットに仰向けになった。
「ちょっと狭いけど、サンジ君細いし。セミダブルだからいいわよね」
「ん、え、あ、ナミさん寝る?」
「うん。あ、サンジ君もおかまいなく」
ごろんと彼女は壁側に身体を寄せ、「あんたも寝るなら電気消してくれる?」と天井を指差した。
その小さな背中を見つめて、首の骨が襟足から覗く頼りなさにぞくっとした。いや興奮している場合か。
なにを試されているんだろう。背を向けた彼女の背中がなにか重要な命題を突きつける。
おれの一挙一動一投足がなにがしかのスイッチを押し、おれを破滅に導く気がする。
考えよう。
選択肢その1.「おれちょっと散歩してくる」
選択肢その2.「おれも隣で寝ていいの?」
選択肢その3.「お邪魔しまーす。いただきまーす」
3はない。まず3はない。いただいちゃだめだ。彼女のそぶりから、一ッッッ切そんな甘いそぶりは出ていない。たとえ甘くなくたってだめだだめだ。なによりおれの矜持に反する。
1は逃げだろう。逃げたいわけじゃない。いや、このにっちもさっちもいかない状況からはいささか逃げ出したい気分ではあるが、眠るレディに背中を向けて逃げるなど言語道断だ。
2、はなんだか情けない。ナミさんの言葉はすでにおれとひとつのベッドで眠ることを許しているのにあえて尋ねるなんて、なんとも情けない感じがするのだ。
結局どの選択肢も自ら潰して、一緒に煙草の先も潰して火を消した。
ナミさんは壁側を向きおれに背を向けて、既にして眠る体勢だ。彼女のためにも、幾分大袈裟でもない決死の思いで灯りを消した。
視界を失うとすっと肌が冷えた。汗をかいていたのだと気付く。数キロ先の港に波がぶつかる音が聞こえ、ふと足の下が揺れているような感覚になった。
手のひらで顔を撫で、たった2歩ですぐにベッドだ。膝からゆっくりと体重を乗せた。古くてかたいマットレスがぐっと物静かに沈む。そして、彼女がそうしているように、おれも彼女に背中を向けて横になった。ナミさんは何も言わない。
風が通り抜けるような細くて柔らかい呼吸の音が聞こえる。寝息なのか、ただの呼吸音なのかわからない。ぽんとベッドが揺れて、必要以上にどきっとする。ナミさんが脚をくずしただけだ。それなのに思わず身じろぎそうになり、強張った肩の力をゆっくりと抜かなければならない。
なにをこんなに、と苦々しい思いで、ああもうああもうと何度も胸の内で繰り返した。
向かい合わせの背中が熱い。
日差しに照らされるようなじりじりとした暑さではなく、それはやっぱり、おれの中から、あるいは彼女の中からじわっと染みだしておれたちの間の空気を熱しているように思えた。
「……眠れない?」
深い暗闇のどこかからスッと登ってくるような声だった。
すぐに答えられず、間をおいて「ナミさんは?」と問い返す。
「眠かったんだけど、フロントに怒鳴り込んだりなんだりで目が冴えちゃった。あとサンジ君が眠れてなさそうだったから」
「あ、悪ィ」
「ちがうちがう。で、サンジ君はやっぱり眠れないのね」
やっぱり? と背中合わせのまま問うと、彼女がくすくす笑ってベッドが小刻みに揺れた。
「うん、うちの誰より繊細そうだから」
だからあんたの部屋にしたんだけどね、とナミさんは変わらず可笑しそうに呟く。
「だから?」
「うん、ゾロとルフィはまず起こしても起きないでしょ。ウソップもべろべろだったし。その点あんたはわりとまだはっきりしてたし、部屋もきれいに使いそう」
「見る目があるね」
「でしょ」
うふふ、とナミさんは笑った。
突然ぐらんとベッドが大きく揺れた。驚いて肩越しにちらりと彼女の方を見ると、爛々と輝いた大きな目が暗闇の中でふたつ、じっとこっちを見ていてぎょっとした。
「え」
「お話でもする?」
お、おはなし? と問い返すと、ナミさんは静かに目を細めて、「眠れないんでしょ」と言った。
おずおずと、おれも彼女の方へ向き直る。
「なんの話?」
「そうね、なんでもいいけど……じゃあ、好きな食べ物は?」
えぇ、と驚いた声をあげると、ナミさんは声を出さずに肩を揺らした。
「好きな食べ物は?」
「えーと、じゃあ海鮮パスタ……辛口で」
「ふぅん」
「ナミさんは?」
「みかん」
「そっか……知ってたかも」
うん、と微笑んだナミさんが思いのほか嬉しそうで、おれまで嬉しくなる。
「じゃあー、今何が一番欲しい?」
「今?」
「いま」
ちらりとナミさんと目を合わせる。暗がりで、合っているのかどうかもわからないが、悪戯っぽく彼女が片眉を上げた気がした。
「……鍵付冷蔵庫かな」
「現実的ね。でも必須だわ」
だろ、と笑いながら、ナミさんは? とお決まりのパターンで問い返す。
「お金……はいつでも一番欲しいから、面白くないわよね」
「面白くなくても」
「じゃあ今はないかな」
意外な思いで目を丸くすると、「今はね」と彼女は念を押した。
「全部だわ、って思ったの」
「全部?」
「うん、7日前にね」
7日前。おれたちはその日、彼女の故郷を後にしていた。
「これが私の全部だわって思ったの。今はこれ以上もこれ以下もない、全部私のもの」
あんたたちのことよ、と彼女は目を伏せて小さく笑った。
「多分これから減ったり増えたりするの。そしたら足りない分が欲しくなったり、欲が増えてもっと欲しくなったりするでしょ? そしたらそのときにまた、欲しいって言うわ」
二の句が告げないおれにかまわず、ナミさんはふわあとあくびをした。
「そしたらサンジ君、そのとき……買ってね……」
ふっと軽い風で飛ばされるみたいに、彼女の意識がいなくなった。同時に瞼がすっと降りた。一瞬だ。
「ナミさん」
つい追いすがるように声をかけ、すぅと伸びたすこやかな寝息に息を呑む。バランスよく並んだ睫毛に目を奪われ、しばらくじっと見つめた。
その造形の美しさに性的な何かを感じないわけでもなかったが、彼女の信頼が圧倒的な強さでがつんとおれにぶつかって、おれはくらくらと、なすすべもなく、黙って彼女を見つめるしかなかった。
信じてるよと言わなくても、人はここまで誰かに何かを預けることができるのだ。
ナミさんは今おれと同じベッドだからこそ、こうして身を横たえて深く深く眠っている。
肩の力を抜き、シーツに頬を付けて彼女と同じ目背の高さになる。少し開いた口からは、歯磨き粉のミント、それに少しだけラムのにおい。
そっと顔を寄せた。
いい子だ。君はいい子だね、と言ってあげたい。手放しで誰かを信頼して、愛して、欲しいものを欲しいと言って泣きたいときに泣き叫ぶ強さを持っている。
どうかおれに守らせて。
いつか迷わず手を伸ばしておれを選んで。
そっと手を伸ばして彼女の手を握る。ほんのりと熱く、やわらかくゆるんでいた。
*
「ギャアア」
がつん、と脳天を揺さぶられて、肩から硬いものにぶつかった。いや、落ちたのだ。あとからぐわんぐわんと後頭部に痛みが広がってくる。
「あっ、あんたどういうつもりよ!」
「えっ、あっナミさんおはよ……」
「おはようじゃないわよ! 誰が抱きしめて服の中に手ェ入れていいっつったのよ!」
「あ、ごめんそんなことまでしてた?」
くわっ、とナミさんが鬼の形相になる。
抱きしめたのはおれの意志だ。手を握るだけでは朝起きたとき彼女がいなくなってしまいそうで、そっと肩と腰を引き寄せたら彼女の方からぬくもりを求めるみたいにすり寄ってきた。
ハー耐え切れんと思ったものの、おれも酒を呑んでいたせいかむくむくと燃えかける性的な欲望よりも眠気の方が勝ってしまい、いつのまにか寝てしまった。
服の中に手を入れてしまったのは、その、おれの手がいけない手だからだ、仕方がない。
彼女はベッドの上に仁王立ちし、Tシャツの胸元をぎゅっと握りしめておれを睨み下ろした。
「信ッじらんない! 女好きなのは知ってたけど仲間にまで手ェ出すなんて!」
「いやいや手ェ出すなんてそんな……てかおれのベッドに潜り込んできたのはナミさんの方で」
「仲間でしょ!?」
「でも好きな女だ」
ナミさんは息を呑み、Tシャツから手を離すと拳を両脇で握りしめたまま、詰めていた息を吐き出した。
「……そう、あんたが女好きで仲間も構わず手を出す最低野郎ってことはよくわかったわ」
「えっ、や、そうじゃなく」
「確かに警戒もせずのこのこあんたの部屋までやってきた私がバカだったわ! でも金輪際あんたのことは信じない! 今夜のことは私のミスもあるから10万ベリーに負けてあげるけど、今度やったらただじゃおかないから!」
そんじゃお邪魔様! と捨て台詞を吐いて、ナミさんはどすどすと部屋の出口へと向かった。
「あ、ナミさん」
「うるさい!」
「欲しいモン決まったら、教えてくれよ」
ナミさんは怪訝な顔で振り返り、虫を見るみたいな目でおれを見て、何も言わずそのまま出ていった。
水浸しの部屋へ戻るのかと思いきや、隣の部屋を蹴破る勢いで叩きゾロを、そしてルフィにウソップをたたき起こしていた。野郎共の呻き声をかき消すように、「さっさと船に戻るわよ!」とナミさんの怒声が響く。
痛む頭を掻いて、よろよろと立ち上がった。
なかなかハードな道のりになりそうだが、道がないよりましだ。このまま父親みてぇな友達みてぇな立場になるよりは、彼女にとってほかの奴らとは違う意味を持つ男になれる方がずっといい。
「燃えるねェ」
煙草に火をつけた。
以下あとがきから抜粋。
新刊が現パロだったので、無配では海賊を…!と思い、実は前々から妄想していた「やんごとなき事情で一つのベッドで眠らざるをえなくなったサンナミ」と言うのを今回消化することができました。
出会ったばかりで、当然のようにサンジはナミさんに恋に落ちてて、しかしナミさんにはまっったくその気がないがゆえの警戒心の無さ!
むしろアーロンの呪縛から解放されたばかりの爽快感から必要以上に開放的になってて、仲間内での男女の線引きなんてものが見えないくらいゆるゆるのガード、そんなナミさんとの苦悩の一夜。ひー萌える(私が
サンジは自分の行動でナミさんとの間に明確な男女の一線を引くわけですが、今後ナミさんを落とす過程でその一線が良くも悪くも作用するのではと考えるだけでごはん3杯行けるのでした。
最後にkonohaさんから頂いたイラスト付き。
**
夜ふけの2時前、秋島の秋、港町の宿屋の一室。久しぶりに野郎の足が飛び込んでこない、しかも揺れないベッドでひとりゆったり眠るはずの夜だった。
海賊業。金品強奪、詐欺脅迫、誘拐騙取に暴行傷害。とりわけ金品強奪においては殊更頻繁で、彼女の得意分野はとある賭場でもブンブン発揮された。
その手際を初めて間近でみたときは、彼女の細くて小さな背中を眺めていたおれにも最後までなにが起こったのかわからなかった。
イカサマで巻き上げること数十万。トイレに行くと言って戻ってくると数個の見知らぬ財布と一緒だ。臆することなくドレスの胸元を引き下げて色仕掛けをしたかと思えば、見抜かれたらとっとと逃げる。
お付きのおれの仕事といえば、そんな奴らを蹴散らしてトンズラこくくらいで、しいていえば暴行傷害。彼女の悪業に比べりゃチンケなものだ。
稼いだ金の九割九分が彼女のふところに収まるわけだが、その日は稼ぎがよかったからかただの気まぐれか、気の大きくなった彼女はおれたち全員に一人一部屋取らせてくれた。
「たまにはハンモックじゃないベッドで、ひとりぐっすり眠ったら?」
女神かな、と思う。
とはいえ日が変わる頃まで宿の側の酒場で、5人でじゃんじゃん酒を飲み、食らい、騒ぎ尽くした。酒がないからもう出てけと酒場を追い出され、ゾロが使い古しのゴムのようなルフィを、おれが潰れて黙りこくったウソップをそれぞれの部屋に放り込む。
「それじゃまた明日ねー」
「うす」
「おやすみナミさん、いい夢を」
ひらりと手を振って部屋に入る彼女の背中を見送って、おれもその2つ隣の部屋に引っ込んだのだった。
シャワーを浴びて、パンツ一丁で狭い部屋を横切りバルコニーに出る。ぬるくて潮くさい夜風に酔った身体がなぶられる。煙草に火を付けて、なにも考えずに一本吸った。
酒臭い息が胃からこみ上げて、眠いようなだるいようなわかんねぇなと思いながらあくびをする。部屋に戻ると隣からゾロのいびきが粗く聞こえてきた。ハンモックの真下から響きわたるよりましだが、これじゃいつもとたいしてかわんねぇなと苦い思いでベッドに転がった。
ずくっと肋骨が痛む。まだ完全にくっついてない骨が、深く息をするとみしみしとしなるのだ。
あーあ、と声に出してもう一度あくびをしたら、すこんと意識が抜けるように一気に寝落ちた。
細くて高いレディの声がする。
呼ばれたわけではないのにふと目が覚めた。
廊下がやけに騒がしい。うとうとしていたような、深い眠りに落ちていたような、よくわからないまま時計を見たらまだ一時間ほどしか経っていない。
パンツ一丁で転がったので少々腹のあたりが心許なく、持ってきたTシャツを着てズボンを履いた。
どこぞの酔っ払いとそいつが買ったレディが喧嘩でもしてんのかね、と思いながら再びもぞもぞとベッドに戻りかけたそのとき、どん、とドアが鳴った。
は? と首をもたげてドアを見つめる。
と、またどんどん、と今度はよりはっきりとした意思を持って叩かれる。
「アァ?」
この酔っ払いが、部屋間違えやがってといきりたって扉に手をかけた。開ける寸前にまさか海軍じゃねぇだろうなとドアスコープを覗いたそこに、彼女はいたのだった。
少し濡れた髪がしっとりとウェーブを描き、つやつやとオレンジ色に光っている。
目を丸めて扉を開けたおれに、彼女は小さく手を上げて、かわいらしく「ごめんね?」と言った。彼女の少し伸びたTシャツの袖から覗く白い腕に一瞬目を奪われる。
「寝てた?」
「や、うん、え、ナミさんどうした」
「泊めてほしくって」
「泊め?」
うん、と彼女は至極素直な感じでうなずいた。船の上でいつもルフィやゾロにカリカリ怒ってている顔も可愛らしいが、なんだか今は愛玩用のナミさんと言う感じでとてもラブリーだ。
一瞬のうちにそんなことを考えて、彼女の「おねがーい」と言う声で目が覚めた。
「泊めてくれる?」
「え、あぁもちろん、どうぞ」
彼女のために大きく扉を開く。ナミさんはそうなるべきであることを知っていたかのようにひとつ頷いて、「ありがと」とおれの部屋に踏み込んできた。
「スクリンプラーの誤作動で部屋中水浸し。ほんっと最悪。今日買った服だってびしょびしょよ!」
そりゃあ災難だね、と苦笑する。苦笑するしかないだろう。お愛想程度に部屋の隅に置いてある一本足のテーブルにもたれて、仕方なしに煙草を吸う。彼女はたった一つのベッドの上に胡坐をかいて、枕をぼすんと乱暴に叩いた。
「それでナミさんもそんなビショビショに?」
「あ、ちがうの私はちょうどお風呂に入っててね、出たらぶーんってスプリンクラーが回ってたわけ。すぐにフロントに駆け込んだから、髪乾かしそびれちゃった。でももういいや」
半分乾いてくるんくるんと跳ねた毛先を指先でぴんとはじいて、彼女は「ごめんねーほんと」と笑いながら言った。
「寝てたでしょ。せっかく一部屋取れたのにね」
「ナミさんこそ残念だったね」
「ま、ね。でも私は船でもひとり部屋だし」
あそうそう、と彼女は言う。
「だからここの宿代、全員分チャラになったから」
「マジ?」
「うん、だって一人一部屋が、一人部屋に二人押し込められることになったのよ。ほかに部屋も空いてないって言うし……私物も濡れたしどうしてくれんのってすごんじゃった」
おつりおまけしてくれたわ、みたいな口調でとうとうとナミさんは語り、「あー疲れた」とついにはバタンとベットに仰向けになった。
「ちょっと狭いけど、サンジ君細いし。セミダブルだからいいわよね」
「ん、え、あ、ナミさん寝る?」
「うん。あ、サンジ君もおかまいなく」
ごろんと彼女は壁側に身体を寄せ、「あんたも寝るなら電気消してくれる?」と天井を指差した。
その小さな背中を見つめて、首の骨が襟足から覗く頼りなさにぞくっとした。いや興奮している場合か。
なにを試されているんだろう。背を向けた彼女の背中がなにか重要な命題を突きつける。
おれの一挙一動一投足がなにがしかのスイッチを押し、おれを破滅に導く気がする。
考えよう。
選択肢その1.「おれちょっと散歩してくる」
選択肢その2.「おれも隣で寝ていいの?」
選択肢その3.「お邪魔しまーす。いただきまーす」
3はない。まず3はない。いただいちゃだめだ。彼女のそぶりから、一ッッッ切そんな甘いそぶりは出ていない。たとえ甘くなくたってだめだだめだ。なによりおれの矜持に反する。
1は逃げだろう。逃げたいわけじゃない。いや、このにっちもさっちもいかない状況からはいささか逃げ出したい気分ではあるが、眠るレディに背中を向けて逃げるなど言語道断だ。
2、はなんだか情けない。ナミさんの言葉はすでにおれとひとつのベッドで眠ることを許しているのにあえて尋ねるなんて、なんとも情けない感じがするのだ。
結局どの選択肢も自ら潰して、一緒に煙草の先も潰して火を消した。
ナミさんは壁側を向きおれに背を向けて、既にして眠る体勢だ。彼女のためにも、幾分大袈裟でもない決死の思いで灯りを消した。
視界を失うとすっと肌が冷えた。汗をかいていたのだと気付く。数キロ先の港に波がぶつかる音が聞こえ、ふと足の下が揺れているような感覚になった。
手のひらで顔を撫で、たった2歩ですぐにベッドだ。膝からゆっくりと体重を乗せた。古くてかたいマットレスがぐっと物静かに沈む。そして、彼女がそうしているように、おれも彼女に背中を向けて横になった。ナミさんは何も言わない。
風が通り抜けるような細くて柔らかい呼吸の音が聞こえる。寝息なのか、ただの呼吸音なのかわからない。ぽんとベッドが揺れて、必要以上にどきっとする。ナミさんが脚をくずしただけだ。それなのに思わず身じろぎそうになり、強張った肩の力をゆっくりと抜かなければならない。
なにをこんなに、と苦々しい思いで、ああもうああもうと何度も胸の内で繰り返した。
向かい合わせの背中が熱い。
日差しに照らされるようなじりじりとした暑さではなく、それはやっぱり、おれの中から、あるいは彼女の中からじわっと染みだしておれたちの間の空気を熱しているように思えた。
「……眠れない?」
深い暗闇のどこかからスッと登ってくるような声だった。
すぐに答えられず、間をおいて「ナミさんは?」と問い返す。
「眠かったんだけど、フロントに怒鳴り込んだりなんだりで目が冴えちゃった。あとサンジ君が眠れてなさそうだったから」
「あ、悪ィ」
「ちがうちがう。で、サンジ君はやっぱり眠れないのね」
やっぱり? と背中合わせのまま問うと、彼女がくすくす笑ってベッドが小刻みに揺れた。
「うん、うちの誰より繊細そうだから」
だからあんたの部屋にしたんだけどね、とナミさんは変わらず可笑しそうに呟く。
「だから?」
「うん、ゾロとルフィはまず起こしても起きないでしょ。ウソップもべろべろだったし。その点あんたはわりとまだはっきりしてたし、部屋もきれいに使いそう」
「見る目があるね」
「でしょ」
うふふ、とナミさんは笑った。
突然ぐらんとベッドが大きく揺れた。驚いて肩越しにちらりと彼女の方を見ると、爛々と輝いた大きな目が暗闇の中でふたつ、じっとこっちを見ていてぎょっとした。
「え」
「お話でもする?」
お、おはなし? と問い返すと、ナミさんは静かに目を細めて、「眠れないんでしょ」と言った。
おずおずと、おれも彼女の方へ向き直る。
「なんの話?」
「そうね、なんでもいいけど……じゃあ、好きな食べ物は?」
えぇ、と驚いた声をあげると、ナミさんは声を出さずに肩を揺らした。
「好きな食べ物は?」
「えーと、じゃあ海鮮パスタ……辛口で」
「ふぅん」
「ナミさんは?」
「みかん」
「そっか……知ってたかも」
うん、と微笑んだナミさんが思いのほか嬉しそうで、おれまで嬉しくなる。
「じゃあー、今何が一番欲しい?」
「今?」
「いま」
ちらりとナミさんと目を合わせる。暗がりで、合っているのかどうかもわからないが、悪戯っぽく彼女が片眉を上げた気がした。
「……鍵付冷蔵庫かな」
「現実的ね。でも必須だわ」
だろ、と笑いながら、ナミさんは? とお決まりのパターンで問い返す。
「お金……はいつでも一番欲しいから、面白くないわよね」
「面白くなくても」
「じゃあ今はないかな」
意外な思いで目を丸くすると、「今はね」と彼女は念を押した。
「全部だわ、って思ったの」
「全部?」
「うん、7日前にね」
7日前。おれたちはその日、彼女の故郷を後にしていた。
「これが私の全部だわって思ったの。今はこれ以上もこれ以下もない、全部私のもの」
あんたたちのことよ、と彼女は目を伏せて小さく笑った。
「多分これから減ったり増えたりするの。そしたら足りない分が欲しくなったり、欲が増えてもっと欲しくなったりするでしょ? そしたらそのときにまた、欲しいって言うわ」
二の句が告げないおれにかまわず、ナミさんはふわあとあくびをした。
「そしたらサンジ君、そのとき……買ってね……」
ふっと軽い風で飛ばされるみたいに、彼女の意識がいなくなった。同時に瞼がすっと降りた。一瞬だ。
「ナミさん」
つい追いすがるように声をかけ、すぅと伸びたすこやかな寝息に息を呑む。バランスよく並んだ睫毛に目を奪われ、しばらくじっと見つめた。
その造形の美しさに性的な何かを感じないわけでもなかったが、彼女の信頼が圧倒的な強さでがつんとおれにぶつかって、おれはくらくらと、なすすべもなく、黙って彼女を見つめるしかなかった。
信じてるよと言わなくても、人はここまで誰かに何かを預けることができるのだ。
ナミさんは今おれと同じベッドだからこそ、こうして身を横たえて深く深く眠っている。
肩の力を抜き、シーツに頬を付けて彼女と同じ目背の高さになる。少し開いた口からは、歯磨き粉のミント、それに少しだけラムのにおい。
そっと顔を寄せた。
いい子だ。君はいい子だね、と言ってあげたい。手放しで誰かを信頼して、愛して、欲しいものを欲しいと言って泣きたいときに泣き叫ぶ強さを持っている。
どうかおれに守らせて。
いつか迷わず手を伸ばしておれを選んで。
そっと手を伸ばして彼女の手を握る。ほんのりと熱く、やわらかくゆるんでいた。
*
「ギャアア」
がつん、と脳天を揺さぶられて、肩から硬いものにぶつかった。いや、落ちたのだ。あとからぐわんぐわんと後頭部に痛みが広がってくる。
「あっ、あんたどういうつもりよ!」
「えっ、あっナミさんおはよ……」
「おはようじゃないわよ! 誰が抱きしめて服の中に手ェ入れていいっつったのよ!」
「あ、ごめんそんなことまでしてた?」
くわっ、とナミさんが鬼の形相になる。
抱きしめたのはおれの意志だ。手を握るだけでは朝起きたとき彼女がいなくなってしまいそうで、そっと肩と腰を引き寄せたら彼女の方からぬくもりを求めるみたいにすり寄ってきた。
ハー耐え切れんと思ったものの、おれも酒を呑んでいたせいかむくむくと燃えかける性的な欲望よりも眠気の方が勝ってしまい、いつのまにか寝てしまった。
服の中に手を入れてしまったのは、その、おれの手がいけない手だからだ、仕方がない。
彼女はベッドの上に仁王立ちし、Tシャツの胸元をぎゅっと握りしめておれを睨み下ろした。
「信ッじらんない! 女好きなのは知ってたけど仲間にまで手ェ出すなんて!」
「いやいや手ェ出すなんてそんな……てかおれのベッドに潜り込んできたのはナミさんの方で」
「仲間でしょ!?」
「でも好きな女だ」
ナミさんは息を呑み、Tシャツから手を離すと拳を両脇で握りしめたまま、詰めていた息を吐き出した。
「……そう、あんたが女好きで仲間も構わず手を出す最低野郎ってことはよくわかったわ」
「えっ、や、そうじゃなく」
「確かに警戒もせずのこのこあんたの部屋までやってきた私がバカだったわ! でも金輪際あんたのことは信じない! 今夜のことは私のミスもあるから10万ベリーに負けてあげるけど、今度やったらただじゃおかないから!」
そんじゃお邪魔様! と捨て台詞を吐いて、ナミさんはどすどすと部屋の出口へと向かった。
「あ、ナミさん」
「うるさい!」
「欲しいモン決まったら、教えてくれよ」
ナミさんは怪訝な顔で振り返り、虫を見るみたいな目でおれを見て、何も言わずそのまま出ていった。
水浸しの部屋へ戻るのかと思いきや、隣の部屋を蹴破る勢いで叩きゾロを、そしてルフィにウソップをたたき起こしていた。野郎共の呻き声をかき消すように、「さっさと船に戻るわよ!」とナミさんの怒声が響く。
痛む頭を掻いて、よろよろと立ち上がった。
なかなかハードな道のりになりそうだが、道がないよりましだ。このまま父親みてぇな友達みてぇな立場になるよりは、彼女にとってほかの奴らとは違う意味を持つ男になれる方がずっといい。
「燃えるねェ」
煙草に火をつけた。
以下あとがきから抜粋。
新刊が現パロだったので、無配では海賊を…!と思い、実は前々から妄想していた「やんごとなき事情で一つのベッドで眠らざるをえなくなったサンナミ」と言うのを今回消化することができました。
出会ったばかりで、当然のようにサンジはナミさんに恋に落ちてて、しかしナミさんにはまっったくその気がないがゆえの警戒心の無さ!
むしろアーロンの呪縛から解放されたばかりの爽快感から必要以上に開放的になってて、仲間内での男女の線引きなんてものが見えないくらいゆるゆるのガード、そんなナミさんとの苦悩の一夜。ひー萌える(私が
サンジは自分の行動でナミさんとの間に明確な男女の一線を引くわけですが、今後ナミさんを落とす過程でその一線が良くも悪くも作用するのではと考えるだけでごはん3杯行けるのでした。
PR
コミック最新巻ネタバレ注意
残してしまったイカ墨のパスタを、別の小さなお皿に移した。
少し蒸し暑い、特別静かでもない、普通の夜の海で、カチャカチャと私がフォークを動かす音が目立つ。
食べ物を残すのは久しぶりで、残したものに自分で封をして冷蔵庫にしまうのも久しぶりで、手慣れない不器用な私の仕草が目についた。
「食欲ねーのか」
「ん……別に」
ルフィは珍しく私の残り物に手を出さず、隣に立って神妙な顔つきで一緒に冷蔵庫の黄色い光の中に閉じ込められていく小皿を見送った。
「美味かったぞ」
「わかってるわよ」
ルフィはそのままふいっと食堂を出ていって、私一人になった。
カウンターには今日のパスタのレシピを書いたメモが置いてある。
少し水が飛んで染みができている。
なくしてはいけない、と本に挟んで棚に戻した。
ふと唇を指で触って、その指を見てみると黒く墨が付いていた。
舌で舐めとると、魚介の深い旨みだとかぴりっと効かせた青唐辛子の刺激だとかが絡み合ってじわっと広がる。
美味しい。
美味しいのに、足らない。
圧倒的に足らない。
それはスパイスの調合だとか、原材料の良し悪しだとか、火の通し具合だとかではなくて、足らないものは明らかに私たちの方にあるのだった。
決定的に欠けてしまった彼を、私たちと、そしてこの淋しい彼のキッチンが、声を張り上げて呼んでいるのだった。
──すみませんどうしても書きたくて。
底抜けに悲しくて淋しくて、たまらなくサンジに会いたい彼らの気持ちがエネルギーになって、ボスボスとガソリンを燃やして早く彼を奪い返してもらいたいのでした。
残してしまったイカ墨のパスタを、別の小さなお皿に移した。
少し蒸し暑い、特別静かでもない、普通の夜の海で、カチャカチャと私がフォークを動かす音が目立つ。
食べ物を残すのは久しぶりで、残したものに自分で封をして冷蔵庫にしまうのも久しぶりで、手慣れない不器用な私の仕草が目についた。
「食欲ねーのか」
「ん……別に」
ルフィは珍しく私の残り物に手を出さず、隣に立って神妙な顔つきで一緒に冷蔵庫の黄色い光の中に閉じ込められていく小皿を見送った。
「美味かったぞ」
「わかってるわよ」
ルフィはそのままふいっと食堂を出ていって、私一人になった。
カウンターには今日のパスタのレシピを書いたメモが置いてある。
少し水が飛んで染みができている。
なくしてはいけない、と本に挟んで棚に戻した。
ふと唇を指で触って、その指を見てみると黒く墨が付いていた。
舌で舐めとると、魚介の深い旨みだとかぴりっと効かせた青唐辛子の刺激だとかが絡み合ってじわっと広がる。
美味しい。
美味しいのに、足らない。
圧倒的に足らない。
それはスパイスの調合だとか、原材料の良し悪しだとか、火の通し具合だとかではなくて、足らないものは明らかに私たちの方にあるのだった。
決定的に欠けてしまった彼を、私たちと、そしてこの淋しい彼のキッチンが、声を張り上げて呼んでいるのだった。
──すみませんどうしても書きたくて。
底抜けに悲しくて淋しくて、たまらなくサンジに会いたい彼らの気持ちがエネルギーになって、ボスボスとガソリンを燃やして早く彼を奪い返してもらいたいのでした。
理由はわからないけど、気付いたら私はぐずぐずと泣いていた。
涙で荒れた目の下の皮膚をこすりながら、どこかでこれは夢だと分かっていた。
泣いている自分を俯瞰しているような、それでいて泣いているのは私だという実感があり、悲しい気持ちに胸を塞がれながらも頭のどこかでこれは夢だからいつか覚めると冷静に考えていた。
逆上がりに失敗したとき、足を地面から離した瞬間「あ、回れない」とわかる感覚によく似ている。
と、次の瞬間にはもう目が覚めていた。
手足の感覚が戻り、頭を乗せていた腕にじわじわと痺れが広がっていく。
頬を指で触っても、そこはかさりと乾いていた。
ほのかに青い野菜の香りがしている。
「起きた?」
肩越しに振り返るサンジくんの姿に焦点が合い、ようやくここがダイニングテーブルであると思い出す。
腕の右側には蓋が開いたままのインク壺と乾いたペンが転がっていた。
「……紙……」
「皺になりそうだったから避けといた」
彼が指差す方に首を振ると、腕の左側に描きかけの海図がきちんと置いてあった。
二日前に立ち寄った、小さな春島とその周辺を記したものだ。
どこか遠くの方で頭が痛む。
う、と小さく呻いた背中を伸ばした。
「私どれくらい寝てた?」
「20分くらいかねえ。微動だにしなかったけどよく寝られた?」
「わかんない、なんか夢も見た気がするし」
サンジくんはタバコのフィルターを柔らかく嚙み潰し、笑った。
彼がつけた薄黄色のエプロンの真ん中に、水が跳ねたような丸い跡があった。
「野郎どもも昼寝してっから、静かだもんな」
「あそっか、まだ昼なんだ。なんか時間の感覚おかしくなっちゃった」
キッチンの掛け時計は午後4時を示している。
丸い窓から切り取られた空はまだ明るい。
ぼんやりと座ったままの私に背を向けて、サンジくんは何かをさくさくと小気味よく切り続ける。
コンロに掛けられた鍋から、きめの粗い湯気が換気扇に向かってゆっくりと立ち上っている。
部屋の中は青臭いような土の匂いが充満していた。
「なに作ってんの?」
「スープさ」
「野菜の?」
んー、と肯定のようなそうでもないような返事が返ってくる。
「見る?」
「んー、いい」
立ち上がるのが億劫だった。
「残念」
そう言ってサンジくんは乾燥棚から小さなカップを手に取った。
とぷ、と重い液体がカップの底を打つ音が私の耳にも届いた。
サンジくんはさも当たり前のようにカウンターを回って、私にカップを差し出した。
「熱いから気をつけて」
受け取ったそれは、薄黄緑色の中に小さな緑の粒が浮いたクリームポタージュだった。
「もっかい裏ごしするつもりだから未完成でわりぃけど」
「これなに?」
くんと鼻を近づけてみると、意外にも青臭さは微塵もない。
もったりとしたミルクの甘い香りに、新鮮で透き通った野菜の香りがする。
「ソラマメのポタージュ」
「ソラマメ?」
珍しい、とカップに口をつけた。
熱いとろみが唇に触れて、一瞬ひるむがそのまま口に含む。
まろやかな甘みと塩気が広がって、つぶつぶとした食感が面白い。
裏ごしいらないのにな、と思いながらおいしーと呟いた。
「旬のもんはうまいからな、よかった」
サンジくんは咥えていたタバコに火をつけて、カウンターの内側へと戻っていく。
腐ったキャラメルみたいな甘い匂いが、そんなにすぐに香るはずないのに、確かに私は感じる。
かき消すようにまたスープを啜った。
「なんか春ねえ」
「春だなあ」
「次の島は冬島なのよねえ」
「そらまた逆戻りって感じだな」
「やだなー」
カップを温めるように両手で包んだ。
少しだけ船が傾いて、壁にかかったフライパンがかつんとぶつかり合う。
サンジくんはおもむろに鶏肉をまな板の上にどかんと置いて、びーっと皮を剥いた。
「ナミさんそんな冬嫌いだったっけ」
「ううん、むしろ好きだけど。雪とか、食べ物もおいしいし」
「おれもわりと冬島好きだなあ」
「冬が嫌なんじゃなくて、春が名残惜しくて」
「あーそりゃわかるかもしんねえ」
薄手のコートが腰のあたりでぴらぴらと揺れる。
どんよりとした曇り空は霞かかって、生暖かいのに時折肌寒い風が髪に絡まる。
ぼんやりとした淡い空気の色に、いつのまにか頭のネジを抜き取られて狂いそうになる季節。
「なんか一線超えそうな気にならねえ? 春って」
不意にサンジくんがそんなことを言うのでどきりとした。
なにそれと言うと、いやあと彼もよくわからないと言いたげだ。
「なんか知らねぇうちにやばいことしちまいそう」
「……それって季節関係ある?」
「あるある、薄気味わりーような、でもちょっと気持ちいいみたいな暖かさなんだよな」
わかる。
そう言う代わりに残りのスープを飲み干した。
底には緑色の澱のようなものが溜まっていた。
それを見つめて、私は想像する。
サンジくんの筋張った手が鍋にどぷりと浸かる。
薄緑色の膜が張り付いたその手でポタージュをぐるぐるとかき混ぜて、引き上げた指先からそれがぼたぼたと滴るところを。
「一線って、なんの?」
「え?」
サンジくんは緩く笑った口元のまま振り返った。
「なんの一線を越えるの?」
「知りたい?」
サンジくんの手は薄緑色には染まっておらず、代わりに生肉の脂でてらてらと光っていた。
「知りたい?」と彼は微笑んだままもう一度訊く。
私はわずかに首を動かしたけど、頷いたのか首を振ったのか自分でもわからなかった。
「あとでね」
サンジくんは大きな音を立てて水を流し、手を洗った。
夕飯であのポタージュをみんなが飲むのだと思うと、このやりとりまで他の誰かの喉を通るように思われて落ち着かない気になった。
あとでっていつだろう。
執拗なほど長く手を洗う彼の背中をじりじりと見つめながら、ずっとそんなことを考えていた。
涙で荒れた目の下の皮膚をこすりながら、どこかでこれは夢だと分かっていた。
泣いている自分を俯瞰しているような、それでいて泣いているのは私だという実感があり、悲しい気持ちに胸を塞がれながらも頭のどこかでこれは夢だからいつか覚めると冷静に考えていた。
逆上がりに失敗したとき、足を地面から離した瞬間「あ、回れない」とわかる感覚によく似ている。
と、次の瞬間にはもう目が覚めていた。
手足の感覚が戻り、頭を乗せていた腕にじわじわと痺れが広がっていく。
頬を指で触っても、そこはかさりと乾いていた。
ほのかに青い野菜の香りがしている。
「起きた?」
肩越しに振り返るサンジくんの姿に焦点が合い、ようやくここがダイニングテーブルであると思い出す。
腕の右側には蓋が開いたままのインク壺と乾いたペンが転がっていた。
「……紙……」
「皺になりそうだったから避けといた」
彼が指差す方に首を振ると、腕の左側に描きかけの海図がきちんと置いてあった。
二日前に立ち寄った、小さな春島とその周辺を記したものだ。
どこか遠くの方で頭が痛む。
う、と小さく呻いた背中を伸ばした。
「私どれくらい寝てた?」
「20分くらいかねえ。微動だにしなかったけどよく寝られた?」
「わかんない、なんか夢も見た気がするし」
サンジくんはタバコのフィルターを柔らかく嚙み潰し、笑った。
彼がつけた薄黄色のエプロンの真ん中に、水が跳ねたような丸い跡があった。
「野郎どもも昼寝してっから、静かだもんな」
「あそっか、まだ昼なんだ。なんか時間の感覚おかしくなっちゃった」
キッチンの掛け時計は午後4時を示している。
丸い窓から切り取られた空はまだ明るい。
ぼんやりと座ったままの私に背を向けて、サンジくんは何かをさくさくと小気味よく切り続ける。
コンロに掛けられた鍋から、きめの粗い湯気が換気扇に向かってゆっくりと立ち上っている。
部屋の中は青臭いような土の匂いが充満していた。
「なに作ってんの?」
「スープさ」
「野菜の?」
んー、と肯定のようなそうでもないような返事が返ってくる。
「見る?」
「んー、いい」
立ち上がるのが億劫だった。
「残念」
そう言ってサンジくんは乾燥棚から小さなカップを手に取った。
とぷ、と重い液体がカップの底を打つ音が私の耳にも届いた。
サンジくんはさも当たり前のようにカウンターを回って、私にカップを差し出した。
「熱いから気をつけて」
受け取ったそれは、薄黄緑色の中に小さな緑の粒が浮いたクリームポタージュだった。
「もっかい裏ごしするつもりだから未完成でわりぃけど」
「これなに?」
くんと鼻を近づけてみると、意外にも青臭さは微塵もない。
もったりとしたミルクの甘い香りに、新鮮で透き通った野菜の香りがする。
「ソラマメのポタージュ」
「ソラマメ?」
珍しい、とカップに口をつけた。
熱いとろみが唇に触れて、一瞬ひるむがそのまま口に含む。
まろやかな甘みと塩気が広がって、つぶつぶとした食感が面白い。
裏ごしいらないのにな、と思いながらおいしーと呟いた。
「旬のもんはうまいからな、よかった」
サンジくんは咥えていたタバコに火をつけて、カウンターの内側へと戻っていく。
腐ったキャラメルみたいな甘い匂いが、そんなにすぐに香るはずないのに、確かに私は感じる。
かき消すようにまたスープを啜った。
「なんか春ねえ」
「春だなあ」
「次の島は冬島なのよねえ」
「そらまた逆戻りって感じだな」
「やだなー」
カップを温めるように両手で包んだ。
少しだけ船が傾いて、壁にかかったフライパンがかつんとぶつかり合う。
サンジくんはおもむろに鶏肉をまな板の上にどかんと置いて、びーっと皮を剥いた。
「ナミさんそんな冬嫌いだったっけ」
「ううん、むしろ好きだけど。雪とか、食べ物もおいしいし」
「おれもわりと冬島好きだなあ」
「冬が嫌なんじゃなくて、春が名残惜しくて」
「あーそりゃわかるかもしんねえ」
薄手のコートが腰のあたりでぴらぴらと揺れる。
どんよりとした曇り空は霞かかって、生暖かいのに時折肌寒い風が髪に絡まる。
ぼんやりとした淡い空気の色に、いつのまにか頭のネジを抜き取られて狂いそうになる季節。
「なんか一線超えそうな気にならねえ? 春って」
不意にサンジくんがそんなことを言うのでどきりとした。
なにそれと言うと、いやあと彼もよくわからないと言いたげだ。
「なんか知らねぇうちにやばいことしちまいそう」
「……それって季節関係ある?」
「あるある、薄気味わりーような、でもちょっと気持ちいいみたいな暖かさなんだよな」
わかる。
そう言う代わりに残りのスープを飲み干した。
底には緑色の澱のようなものが溜まっていた。
それを見つめて、私は想像する。
サンジくんの筋張った手が鍋にどぷりと浸かる。
薄緑色の膜が張り付いたその手でポタージュをぐるぐるとかき混ぜて、引き上げた指先からそれがぼたぼたと滴るところを。
「一線って、なんの?」
「え?」
サンジくんは緩く笑った口元のまま振り返った。
「なんの一線を越えるの?」
「知りたい?」
サンジくんの手は薄緑色には染まっておらず、代わりに生肉の脂でてらてらと光っていた。
「知りたい?」と彼は微笑んだままもう一度訊く。
私はわずかに首を動かしたけど、頷いたのか首を振ったのか自分でもわからなかった。
「あとでね」
サンジくんは大きな音を立てて水を流し、手を洗った。
夕飯であのポタージュをみんなが飲むのだと思うと、このやりとりまで他の誰かの喉を通るように思われて落ち着かない気になった。
あとでっていつだろう。
執拗なほど長く手を洗う彼の背中をじりじりと見つめながら、ずっとそんなことを考えていた。
朝起きるともう、彼女はいなかった。
スプリングの効いたソファからもそりと身を起こし、遮光カーテンの隙間から漏れる朝日の筋をぼんやりと眺める。
それだけで彼女が出て行ったのだとわかった。
狭いスペースに体を無理に収めていたせいで、腰と肩がギシギシと軋む。
腰に手を当ててひねると嫌な音が鳴った。
スリッパに足を突っ込むと、冷たさに体が震える。
三月の朝はほのかに温かく、しかし部屋に残った冷気は容赦がない。
長方形の小さなガラステーブルに昨夜のマグカップが残っている。
片手の指に引っ掛けるように掬い上げ、キッチンへ向かった。
*
「あんまり遅いから心配したよ」
ラスターをこなして帰ってきたおれよりもさらに遅く帰ってきた彼女の背中に、つい非難がましい声をかけた。
編み上げブーツの紐を解いていた彼女は、しこたま飲んだのだろうにけろっとした顔で、「あれ、メールしなかったっけー?」と顔も上げず言った。
「届いてねェぜ」
「あーごめん、じゃあ忘れてたわ」
よいしょ、と可愛らしい掛け声で立ち上がった彼女は慰めるようにおれの肩をぽんとひとつ叩いて、横を通り過ぎた。
そのまま一直線にキッチンへ向かい、水色のアラベスク模様が綺麗なお気に入りのマグカップに水を汲んで、コートも脱がずにがぶりと飲み干していた。
彼女が放り出したカバンがソファを陣取っていたのでそれを脇にどけて座る。
飲みかけのワインに栓をしようと手を伸ばすと、目を留めた彼女が「私も飲むー」と言って寄ってきた。
「ナミさんはもう相当飲んだろ。おれももう飲まねェから栓するよ」
「やだ、のむ」
そう言って彼女はずいとマグカップを差し出した。
水を飲んでいたのと同じものだ。
「酔ってんの?」
「はぁ? 酔ってないわよ。いいじゃない、毒を持って毒を制すのよ」
「はあ」
けらけらと笑う彼女はやはり少し酔っている。
楽しい飲み会だったようでなによりだが、どこか蚊帳の外にされたようなつまらない気分が胸に広がる。
彼女はおれからボトルを奪うと、自分でマグカップに注いでしまった。
「あーあー、せめてワイングラス出そうぜ」
「いいのよ家なんだから。グラスでもマグカップでも変わんないわ」
「確かに安いやつだけどさ」
グラスはワインを美味しくするし、香りも変える。
ただし今そんなつまらないことを言ったところで彼女は聞きやしないだろう。
マグカップに半分くらい注いだワインを、ナミさんは呷るように喉を鳴らして飲んだ。
「誰かに送ってもらったのかい」
「んー? 終電間に合ったから駅から歩いて帰ってきたわよ」
「え、まさか一人?」
「んもうサンジくんうるさい」
「ダメじゃねぇか、連絡してくれたら迎えに行ったのに」
「だってサンジくんも仕事終わったばっかじゃない。それにたかだか10分くらいへーきよ」
「危ねぇから連絡してくれって前も言ったろ、頼むから」
「んもうサンジくんうるさい」
二度目のうるさいをいただいて、カチンときた。
それ以上に彼女が帰ってくるまでの心労と呆れが濃いため息になって零れた。
「──心配してんだろ」
乱暴にソファにもたれかかってそう言うと、彼女は目のふちを赤くしたまま仁王立ちでおれを睨み、見下ろした。
「なによ、ちょっと遅くなっただけでしょ」
「それはいいんだって、ただ連絡」
「だからもう謝ったじゃない。いつまでもしつこいわね」
言葉を失って黙り込む。失意のせいではないことを、彼女はおれの顔を見てきちんと読み取った。
眉を吊り上げて彼女は続ける。
「別にいつも迎えに来てもらってるわけじゃないし。一人で帰るときもあるもん」
「その度におれは連絡してくれって再三言ってるけどな」
「たかが10分程度の夜道でしかも住宅街! なにが起こるってのよ」
「さあ」
たった一杯飲んだだけのワインが今更回ってきた。
彼女との応酬が若干ものくさくなってきて、投げやりな言葉を返す。
さあってなによ! と彼女は激昂する。
ああ怒ってる、怒らせた──と思いつつ、いつものように丁寧に彼女の心を掬って持ち上げてあげることができない。
優しくなれない自分に信じられないような思いを抱く反面、まあいいやと顔を背ける心がある。
面倒くさそうに口を閉ざしたおれに、ついには彼女も黙り込んだ。
深夜を刻む針の音が響く。アパートの外を通り過ぎるバイクの音が夜を引き裂く。
バイクが行き過ぎると、観葉植物の呼吸まで聞こえそうなほど静かになった。
彼女はきびすを返し、浴室へひたひたと歩いて行った。
そのままリビングには戻らず、しばらくすると寝室の扉が閉まる音がした。
胸にくすぶったものとかすかな頭痛をそのままに、ソファに背中から沈む。
目を閉じると彼女の怒った顔と笑った顔が交互に思い出された。
*
ワインの染みが赤黒く残ったマグカップを丁寧に洗う。
冷たい水ですぐに手の感覚がなくなった。
無心で手を動かしているうちに、身体はいつものルートを辿る。
気付いたらコーヒー豆をごりごりと挽いていた。
淹れるまえの豆の、新鮮で青臭い香りがかすかに広がる。
休日の朝はよくこうしてゆっくりコーヒーを淹れていた。
忙しい朝はもちろんインスタントだ。彼女がそれでいいと言った。
豆を挽くのはおれの役目だ。
豆の引っ掛かりを取りながら上手く回すのは少しコツがいる。
がるがるがるとリズムよく手を回していると、がるがるがりっと手が止まる。
おれは少し手の力を緩め、ミルを支える反対の手を撫でさするように少し動かしてからまたハンドルを回す。
すると簡単にまた、がるがるがるとハンドルが小気味よく回り始めるのだ。
彼女が豆を挽くと、引っ掛かったとき力任せにハンドルを引っ張ったり、ミルを机の角にぶつけてみたりと試行錯誤する姿が可愛くて、いつも笑ってしまう。
引いた粉をフィルターに落とし、水を入れてスイッチを入れた。
オレンジ色の灯りがともり、しばらくするとフスフスと音をたてはじめた。
朝めし、と思いながらキッチンカウンターを見渡した。
馬鹿でかいビニール袋の中に、食パンが2枚、しなっと力なく倒れている。
袋が馬鹿でかいのは、食パンを二斤まるごと買ったからだ。
二斤と言うと、あの、スーパーとかで売っているサイズがふたつ横にくっついた長さだ。
食パンの美味いブーランジェリーがあると彼女がどこかから聞いてきて、しかしそこは朝一で並ばないと途端に売り切れるとの情報で、ならば休みの日にと二人で朝の6時半から買いに行った。
自転車で、彼女を後ろに乗せて。
二月の冷たい朝の空気をぶった切るように、通勤中のサラリーマンを追い越して、家の前を掃くばーさんのスカートを巻き上げて、坂道を下った。
スピードを上げれば上げるほど彼女は嬉しそうに声をあげた。
調子に乗りすぎると、後頭部を殴られた。
目当てのパンを無事に買い、帰りはパンを抱きしめる彼女を乗せて坂道を上る。
必死の形相でペダルをこぐおれを、彼女は口をあけて笑った。
ほらー、がんばれー、と口先だけの応援をして、自分は腕に抱えた温かな食パンの焼きたての香りを吸い込み、しあわせそうな息をついていた。
パンは思わず取り落としそうになるほど美味かった。
トーストにして、シンプルに何もつけず食べたのだが、驚くほどきめが細かく焼いた表面は香ばしく、練り込んである生クリームの味がしつこくなくて美味かった。
「ウマッ」と「おいっし!」というふたりの声が重なる。
丸くした目を合わせると、ふたりとも次の瞬間には黙ってばくばくと食べ始めた。
おれが二枚目をトースターに乗せていると、彼女は「私もー」と言って、おれのパンの横にねじ込むように自分のそれを並べたのだった。
いつのまにか最後の2枚となっている。
普通の一枚と、片面が耳になっている一枚。耳になっている方をトーストした。
淹れたコーヒーをカップに移し、軽く焼き色を付けたトーストを皿に乗せる。
ダイニングテーブルに置きっぱなしの食卓塩をぼんやりと眺めながら、トーストをかじった。
え? と思い、一口かじったトーストを思わずまじまじと眺めた。
もう一口、大きめにかじってみる。
美味くない。
むしろ不味い。
こんな味だったっけ、と思いながら口の中のものを咀嚼してコーヒーで流し込んだ。
焼いた表面は口に刺さって痛いし、きめ細かいパン生地はもっちりとしたかみごたえがない。
二斤を食べきる前に湿気でやられたのだろうかと思いながら食べ続けていたが、向かい合ったイスの背を見ながら口を動かしているうちに、次第と腹が立ってきて、ついには食いかけのトーストを皿の上に放り出した。
なんだこれは。
なんだおれは。
淹れたてのコーヒーの、黒い水面に窓が写る。
白い光がダイニングを照らす。
こまごまと物の多いキッチンカウンターで小さな葉をたくさんつけたシュガーパインが、風もないのにほのかに長い茎を揺らしている。
コーヒーは苦く、トーストは不味く、彼女は出ていった。
おれたちの家を出ていった。
「ナミさん」
声はどこでもない場所に瞬く間に収納される。一瞬で吸い込まれていった。
身体のど真ん中にあるなにかおれを支える大事な部分が、すこんと抜き取られるのを感じた。
ナミさん。
乱暴に椅子を引き、食いかけのトーストが乗った皿をシンクまで連行する。
「クソが」と悪態をつきながら三角コーナーに向かって腕を突き出した。
しかし直前で手が止まり、結局は皿が割れる勢いでカウンターにトーストを放り投げた。
安物のプラスチックの皿からトーストは呆気なく浮かび上がり、カランと軽い音が響く。
彼女のいないこの部屋に、美味いものなどなにひとつない。
なにひとつ。
もう一言クソと吐き出して、弾かれたように踵を返した。
アパートの鍵をひっつかみ、玄関へ続く扉を叩き割る勢いで開け、部屋を飛び出した。
胸の真ん中に、何かがぶちあたった。
「キャア、いったぁ!」
やわらかく跳ね返ったそれは、鼻の頭を押さえておれを睨みあげた。
「ちょっと! 危ないでしょ、そんな走り出してきたら! 朝っぱらからなに慌ててんのよ!」
「な、ナミさ」
「……どこいくの?」
彼女は不審そうにおれを下から上まで眺め回した。
昨日の夜着替えた洗いざらしの部屋着。重力を無視した寝癖に、裸足の足は スリッパを履いている。
どこいくのよあんた、と彼女はもう一度聞いた。
「や……あれ? ナミさ……え?」
「寝ぼけてんの?」
「ちが……あれ、」
え、そうなの。おれは寝ぼけてたの。
そう聞き返したら、知らないわよ、と彼女は吹き出して、おれを押しのけて部屋に入っていった。
勢いを失ったおれは、すごすごと彼女の後に続く。
「あー寒かった。3月なのにこんなに寒いなんて。しかも遠い」
「ナミさんどこ行ってたの」
「これ」
マフラーを振り払うように解いた彼女は、長い髪を後ろに払いながら右手に提げたエコバッグをおれに差し出した。
思わず受け取るとずしりと重い。
底を支えるように手のひらで持ち上げると、生き物のように温かった。
「……パンだ。あそこの」
「そう。もうなくなりそうだったでしょ」
「一人で買いに行ってたのかい、あそこまで」
「そうよ、あんたの自転車漕いでね。あー寒かった」
言いながらナミさんはくるりと背を向けたが、すぐに、思い切ったようにまたこちらに顔を向けた。
「昨日はごめんなさい。心配させたのに、連絡もしないで」
「や……そりゃ昨日聞いたし、おれが」
「でもサンジくん怒ってた」
うつむいた彼女の声がほんの少し揺れる。
「怒ってたから」
ぎょっとして距離を詰めると、彼女の方からぶつかってきた。
怒ってなんかねぇさとすぐさま抱きしめると、彼女の髪からはまだ冬の朝の匂いがした。
鼻が鳴るのは寒さのせいだと言わんばかりに彼女は盛大に鼻をすすりあげ、おれの胸に頬をつけたまま、買ってきたのを食べると言う。
「一斤丸ごと、フレンチトーストにして。残りのもう一斤は、今晩食べるの」
「丸ごと!? そんで今日で食い切っちまう気!?」
「うん」
彼女はたまにわからないことを言う。
おれがわからないと言うとすごく怒る。
「──んじゃ、卵が4つはいるな。あとはちみつもあるだけぶち込んで甘くしよう」
「アイスも乗せたい」
「粉砂糖も散らすか」
「ベランダからミント取ってこなきゃ」
「豪勢だね」
「誕生日だから」
彼女が顔を上げる。
「誕生日だから」
形のいい唇を引き締めてわざとまじめくさった顔をしていたのが、次第にニヤニヤとした笑みが小さな顔いっぱいに広がった。
「誕生日だから、トーストはフレンチだし、アイスも乗るし、ミントも飾るのよ」
「──おれの誕生日だから」
「そう」
「君のために」
「私のために」
最高だ、と強く引き寄せる。
痛い痛いと嬉しそうな声が上がる。
おめでとう、と背中を叩かれて、ありがとう、と強く目を瞑った。
卵を割っていたら、彼女がなにこの食べかけ、とキッチンに放り出された食いかけのトーストを指差した。
笑ってごまかし、寂しく横たわったそれを口に詰め込んだ。
意味がなくても、理由がなくても、料理はできる。
人は食べる。おれは作る。
美味いかどうかは、彼女次第だ。
【Sanji Happy Birthday‼︎ 2016.3.2】
スプリングの効いたソファからもそりと身を起こし、遮光カーテンの隙間から漏れる朝日の筋をぼんやりと眺める。
それだけで彼女が出て行ったのだとわかった。
狭いスペースに体を無理に収めていたせいで、腰と肩がギシギシと軋む。
腰に手を当ててひねると嫌な音が鳴った。
スリッパに足を突っ込むと、冷たさに体が震える。
三月の朝はほのかに温かく、しかし部屋に残った冷気は容赦がない。
長方形の小さなガラステーブルに昨夜のマグカップが残っている。
片手の指に引っ掛けるように掬い上げ、キッチンへ向かった。
*
「あんまり遅いから心配したよ」
ラスターをこなして帰ってきたおれよりもさらに遅く帰ってきた彼女の背中に、つい非難がましい声をかけた。
編み上げブーツの紐を解いていた彼女は、しこたま飲んだのだろうにけろっとした顔で、「あれ、メールしなかったっけー?」と顔も上げず言った。
「届いてねェぜ」
「あーごめん、じゃあ忘れてたわ」
よいしょ、と可愛らしい掛け声で立ち上がった彼女は慰めるようにおれの肩をぽんとひとつ叩いて、横を通り過ぎた。
そのまま一直線にキッチンへ向かい、水色のアラベスク模様が綺麗なお気に入りのマグカップに水を汲んで、コートも脱がずにがぶりと飲み干していた。
彼女が放り出したカバンがソファを陣取っていたのでそれを脇にどけて座る。
飲みかけのワインに栓をしようと手を伸ばすと、目を留めた彼女が「私も飲むー」と言って寄ってきた。
「ナミさんはもう相当飲んだろ。おれももう飲まねェから栓するよ」
「やだ、のむ」
そう言って彼女はずいとマグカップを差し出した。
水を飲んでいたのと同じものだ。
「酔ってんの?」
「はぁ? 酔ってないわよ。いいじゃない、毒を持って毒を制すのよ」
「はあ」
けらけらと笑う彼女はやはり少し酔っている。
楽しい飲み会だったようでなによりだが、どこか蚊帳の外にされたようなつまらない気分が胸に広がる。
彼女はおれからボトルを奪うと、自分でマグカップに注いでしまった。
「あーあー、せめてワイングラス出そうぜ」
「いいのよ家なんだから。グラスでもマグカップでも変わんないわ」
「確かに安いやつだけどさ」
グラスはワインを美味しくするし、香りも変える。
ただし今そんなつまらないことを言ったところで彼女は聞きやしないだろう。
マグカップに半分くらい注いだワインを、ナミさんは呷るように喉を鳴らして飲んだ。
「誰かに送ってもらったのかい」
「んー? 終電間に合ったから駅から歩いて帰ってきたわよ」
「え、まさか一人?」
「んもうサンジくんうるさい」
「ダメじゃねぇか、連絡してくれたら迎えに行ったのに」
「だってサンジくんも仕事終わったばっかじゃない。それにたかだか10分くらいへーきよ」
「危ねぇから連絡してくれって前も言ったろ、頼むから」
「んもうサンジくんうるさい」
二度目のうるさいをいただいて、カチンときた。
それ以上に彼女が帰ってくるまでの心労と呆れが濃いため息になって零れた。
「──心配してんだろ」
乱暴にソファにもたれかかってそう言うと、彼女は目のふちを赤くしたまま仁王立ちでおれを睨み、見下ろした。
「なによ、ちょっと遅くなっただけでしょ」
「それはいいんだって、ただ連絡」
「だからもう謝ったじゃない。いつまでもしつこいわね」
言葉を失って黙り込む。失意のせいではないことを、彼女はおれの顔を見てきちんと読み取った。
眉を吊り上げて彼女は続ける。
「別にいつも迎えに来てもらってるわけじゃないし。一人で帰るときもあるもん」
「その度におれは連絡してくれって再三言ってるけどな」
「たかが10分程度の夜道でしかも住宅街! なにが起こるってのよ」
「さあ」
たった一杯飲んだだけのワインが今更回ってきた。
彼女との応酬が若干ものくさくなってきて、投げやりな言葉を返す。
さあってなによ! と彼女は激昂する。
ああ怒ってる、怒らせた──と思いつつ、いつものように丁寧に彼女の心を掬って持ち上げてあげることができない。
優しくなれない自分に信じられないような思いを抱く反面、まあいいやと顔を背ける心がある。
面倒くさそうに口を閉ざしたおれに、ついには彼女も黙り込んだ。
深夜を刻む針の音が響く。アパートの外を通り過ぎるバイクの音が夜を引き裂く。
バイクが行き過ぎると、観葉植物の呼吸まで聞こえそうなほど静かになった。
彼女はきびすを返し、浴室へひたひたと歩いて行った。
そのままリビングには戻らず、しばらくすると寝室の扉が閉まる音がした。
胸にくすぶったものとかすかな頭痛をそのままに、ソファに背中から沈む。
目を閉じると彼女の怒った顔と笑った顔が交互に思い出された。
*
ワインの染みが赤黒く残ったマグカップを丁寧に洗う。
冷たい水ですぐに手の感覚がなくなった。
無心で手を動かしているうちに、身体はいつものルートを辿る。
気付いたらコーヒー豆をごりごりと挽いていた。
淹れるまえの豆の、新鮮で青臭い香りがかすかに広がる。
休日の朝はよくこうしてゆっくりコーヒーを淹れていた。
忙しい朝はもちろんインスタントだ。彼女がそれでいいと言った。
豆を挽くのはおれの役目だ。
豆の引っ掛かりを取りながら上手く回すのは少しコツがいる。
がるがるがるとリズムよく手を回していると、がるがるがりっと手が止まる。
おれは少し手の力を緩め、ミルを支える反対の手を撫でさするように少し動かしてからまたハンドルを回す。
すると簡単にまた、がるがるがるとハンドルが小気味よく回り始めるのだ。
彼女が豆を挽くと、引っ掛かったとき力任せにハンドルを引っ張ったり、ミルを机の角にぶつけてみたりと試行錯誤する姿が可愛くて、いつも笑ってしまう。
引いた粉をフィルターに落とし、水を入れてスイッチを入れた。
オレンジ色の灯りがともり、しばらくするとフスフスと音をたてはじめた。
朝めし、と思いながらキッチンカウンターを見渡した。
馬鹿でかいビニール袋の中に、食パンが2枚、しなっと力なく倒れている。
袋が馬鹿でかいのは、食パンを二斤まるごと買ったからだ。
二斤と言うと、あの、スーパーとかで売っているサイズがふたつ横にくっついた長さだ。
食パンの美味いブーランジェリーがあると彼女がどこかから聞いてきて、しかしそこは朝一で並ばないと途端に売り切れるとの情報で、ならば休みの日にと二人で朝の6時半から買いに行った。
自転車で、彼女を後ろに乗せて。
二月の冷たい朝の空気をぶった切るように、通勤中のサラリーマンを追い越して、家の前を掃くばーさんのスカートを巻き上げて、坂道を下った。
スピードを上げれば上げるほど彼女は嬉しそうに声をあげた。
調子に乗りすぎると、後頭部を殴られた。
目当てのパンを無事に買い、帰りはパンを抱きしめる彼女を乗せて坂道を上る。
必死の形相でペダルをこぐおれを、彼女は口をあけて笑った。
ほらー、がんばれー、と口先だけの応援をして、自分は腕に抱えた温かな食パンの焼きたての香りを吸い込み、しあわせそうな息をついていた。
パンは思わず取り落としそうになるほど美味かった。
トーストにして、シンプルに何もつけず食べたのだが、驚くほどきめが細かく焼いた表面は香ばしく、練り込んである生クリームの味がしつこくなくて美味かった。
「ウマッ」と「おいっし!」というふたりの声が重なる。
丸くした目を合わせると、ふたりとも次の瞬間には黙ってばくばくと食べ始めた。
おれが二枚目をトースターに乗せていると、彼女は「私もー」と言って、おれのパンの横にねじ込むように自分のそれを並べたのだった。
いつのまにか最後の2枚となっている。
普通の一枚と、片面が耳になっている一枚。耳になっている方をトーストした。
淹れたコーヒーをカップに移し、軽く焼き色を付けたトーストを皿に乗せる。
ダイニングテーブルに置きっぱなしの食卓塩をぼんやりと眺めながら、トーストをかじった。
え? と思い、一口かじったトーストを思わずまじまじと眺めた。
もう一口、大きめにかじってみる。
美味くない。
むしろ不味い。
こんな味だったっけ、と思いながら口の中のものを咀嚼してコーヒーで流し込んだ。
焼いた表面は口に刺さって痛いし、きめ細かいパン生地はもっちりとしたかみごたえがない。
二斤を食べきる前に湿気でやられたのだろうかと思いながら食べ続けていたが、向かい合ったイスの背を見ながら口を動かしているうちに、次第と腹が立ってきて、ついには食いかけのトーストを皿の上に放り出した。
なんだこれは。
なんだおれは。
淹れたてのコーヒーの、黒い水面に窓が写る。
白い光がダイニングを照らす。
こまごまと物の多いキッチンカウンターで小さな葉をたくさんつけたシュガーパインが、風もないのにほのかに長い茎を揺らしている。
コーヒーは苦く、トーストは不味く、彼女は出ていった。
おれたちの家を出ていった。
「ナミさん」
声はどこでもない場所に瞬く間に収納される。一瞬で吸い込まれていった。
身体のど真ん中にあるなにかおれを支える大事な部分が、すこんと抜き取られるのを感じた。
ナミさん。
乱暴に椅子を引き、食いかけのトーストが乗った皿をシンクまで連行する。
「クソが」と悪態をつきながら三角コーナーに向かって腕を突き出した。
しかし直前で手が止まり、結局は皿が割れる勢いでカウンターにトーストを放り投げた。
安物のプラスチックの皿からトーストは呆気なく浮かび上がり、カランと軽い音が響く。
彼女のいないこの部屋に、美味いものなどなにひとつない。
なにひとつ。
もう一言クソと吐き出して、弾かれたように踵を返した。
アパートの鍵をひっつかみ、玄関へ続く扉を叩き割る勢いで開け、部屋を飛び出した。
胸の真ん中に、何かがぶちあたった。
「キャア、いったぁ!」
やわらかく跳ね返ったそれは、鼻の頭を押さえておれを睨みあげた。
「ちょっと! 危ないでしょ、そんな走り出してきたら! 朝っぱらからなに慌ててんのよ!」
「な、ナミさ」
「……どこいくの?」
彼女は不審そうにおれを下から上まで眺め回した。
昨日の夜着替えた洗いざらしの部屋着。重力を無視した寝癖に、裸足の足は スリッパを履いている。
どこいくのよあんた、と彼女はもう一度聞いた。
「や……あれ? ナミさ……え?」
「寝ぼけてんの?」
「ちが……あれ、」
え、そうなの。おれは寝ぼけてたの。
そう聞き返したら、知らないわよ、と彼女は吹き出して、おれを押しのけて部屋に入っていった。
勢いを失ったおれは、すごすごと彼女の後に続く。
「あー寒かった。3月なのにこんなに寒いなんて。しかも遠い」
「ナミさんどこ行ってたの」
「これ」
マフラーを振り払うように解いた彼女は、長い髪を後ろに払いながら右手に提げたエコバッグをおれに差し出した。
思わず受け取るとずしりと重い。
底を支えるように手のひらで持ち上げると、生き物のように温かった。
「……パンだ。あそこの」
「そう。もうなくなりそうだったでしょ」
「一人で買いに行ってたのかい、あそこまで」
「そうよ、あんたの自転車漕いでね。あー寒かった」
言いながらナミさんはくるりと背を向けたが、すぐに、思い切ったようにまたこちらに顔を向けた。
「昨日はごめんなさい。心配させたのに、連絡もしないで」
「や……そりゃ昨日聞いたし、おれが」
「でもサンジくん怒ってた」
うつむいた彼女の声がほんの少し揺れる。
「怒ってたから」
ぎょっとして距離を詰めると、彼女の方からぶつかってきた。
怒ってなんかねぇさとすぐさま抱きしめると、彼女の髪からはまだ冬の朝の匂いがした。
鼻が鳴るのは寒さのせいだと言わんばかりに彼女は盛大に鼻をすすりあげ、おれの胸に頬をつけたまま、買ってきたのを食べると言う。
「一斤丸ごと、フレンチトーストにして。残りのもう一斤は、今晩食べるの」
「丸ごと!? そんで今日で食い切っちまう気!?」
「うん」
彼女はたまにわからないことを言う。
おれがわからないと言うとすごく怒る。
「──んじゃ、卵が4つはいるな。あとはちみつもあるだけぶち込んで甘くしよう」
「アイスも乗せたい」
「粉砂糖も散らすか」
「ベランダからミント取ってこなきゃ」
「豪勢だね」
「誕生日だから」
彼女が顔を上げる。
「誕生日だから」
形のいい唇を引き締めてわざとまじめくさった顔をしていたのが、次第にニヤニヤとした笑みが小さな顔いっぱいに広がった。
「誕生日だから、トーストはフレンチだし、アイスも乗るし、ミントも飾るのよ」
「──おれの誕生日だから」
「そう」
「君のために」
「私のために」
最高だ、と強く引き寄せる。
痛い痛いと嬉しそうな声が上がる。
おめでとう、と背中を叩かれて、ありがとう、と強く目を瞑った。
卵を割っていたら、彼女がなにこの食べかけ、とキッチンに放り出された食いかけのトーストを指差した。
笑ってごまかし、寂しく横たわったそれを口に詰め込んだ。
意味がなくても、理由がなくても、料理はできる。
人は食べる。おれは作る。
美味いかどうかは、彼女次第だ。
【Sanji Happy Birthday‼︎ 2016.3.2】
──こちらは昨日から大雪で、朝から店の玄関が雪に埋もれて開かねェとかでひと騒動ありました。
こんな日でも酔狂なお客さんは(ありがたいことに)来るもんで、仕事が休みになったりはしません。
とはいえ来週のクリスマスには呆れるくらい予約が詰まってるので、今はクリスマス前のひと段落ってとこで客入りはぼちぼち。
てなわけで今日は2週間ぶりに丸一日休みがとれました。
今から君のクリスマスプレゼントを選びに行こうと思います。
*
サンジ君からの手紙を2段目の引き出しにしまい込み、部屋のカーテンを大きく開けた。
薄曇りの空は冬らしく、見える景色はなんとなく灰色がかっていて、窓が結露している。
昨日一日降り続いた温かな雨は夜のうちにやんで、今は地面が少し湿っている程度。雪なんて振る気配もない。
部屋着がわりの毛羽立ったパーカーを脱いで、裏起毛のセーターを身に付ける。
髪をひとつにまとめ、薄めのコートを羽織って、淡いクリーム色のマフラーをぐるりと巻いた。
買い物に行ってくる、とノジコに告げて家をでる。
ブーツに足を突っ込むと、ツンと冷たかった。
並木道は枝ばかりの木々が寒そうに立ち並び、根元には落ち葉がふかふかと敷き詰められている。
ときおり緑の葉を生い茂らせた木がぽんとあらわれ、そこには身を寄せ合って止まる小鳥の姿があった。
うってかわって街の中は店先に商店街のアーケードにバスのロータリーに、あらゆるところに電飾が巻き付いている。
とはいえ昼間なので光は灯っていなくて、露骨に電飾のコードが目についた。
ショーケースの中はクリスマス商戦まっただなかというように、でかでかと描かれたセールの文字にプレゼントやリボンの飾りつけが目立つ。
すれ違う人は心なしかいつもより身を寄せ合って、歩みもゆっくりとしている気がする。
例年より暖かな日になりそうな今年のクリスマスは、私のように人々は少し薄着だ。
目についた雑貨屋にふらりと立ち寄る。
ビビと何度か来たことのある店で、地下1階から5階までフロアごとジャンルに分かれてたくさんの品がそろっている。
一歩店内に入ると、暖かいとはいえ12月の外気になぶられ続けた頬が緩む。首元を引っ張ってマフラーを少し緩めた。
わかってはいたけど、ファンシーな女性向けの雑貨が多い。
エプロンを手に取って、花柄はだめでしょ、とまた戻す。
シリコン製のキッチン用品を見て回って、彼が琺瑯の高価な鍋一式を使っているのを思い出す。
部屋ばきのスリッパは……あっちの家だと部屋の中では何を履いているんだろう。
なんにしろ、フリルはなしだ。
望み薄と知りながらとりあえず5階まで昇りきって、単調な足取りでまた1階まで降りる。
外は少し人ごみが増していた。
どこかでお昼を食べようと目的を変えて街をぶらつき、こんがり焦げた焼き魚の香りに引かれて定食屋さんに入る。
日替わりの焼き魚定食を注文し、レジ近くのテレビを見るともなしに眺めていたら携帯が着信を告げて震えた。
「はいはーい」
「もしもしナミ、今日は何時に来られそうかしら」
ロビンの声の後ろからは、いつもの仲間たちのやんやと騒ぐ声が散り散りに聞こえた。
「16時には行こうと思ってるけど。なに、もうあいつら集まってるの?」
「えぇ、9時からいるわ」
9時! と思わず叫んだ。二つ隣の席の2人客が同時にこちらを振り返ったので、肩を縮めて声を落とす。
「そんな時間からなにやってんのよ」
「今はね、えぇと、折紙でほら、わっかを作って……部屋を飾りつけてるわ」
「何歳児だ」
ロビンはあくまでも楽しそうに笑って、「お料理は出来合いのを頼むつもりだけど、いいかしら」と言った。
「うん、一から作るのも手間だしね」
「ケーキはウソップが用意してくれるみたいよ」
こんなとき、彼がいたらね。
その一言をロビンが飲みこんでくれたのがわかる。
だから私も触れたりしなかった。
なるべく早く行く、と伝えて電話を切った。
「何歳児だ」のくだりの辺りで、定食は届いていた。
魚の皮がぱりっと焼けていてこうばしい。
私には少し塩辛く感じた。
温かいお茶を飲んで、身体の中からあったまったところで店を出る。
日が高く、道を行く人の中には上着を手に持っている人さえいる。
とはいえけして暑いわけではないので、私はきちんとマフラーを巻いて歩き出した。
紳士服のショップを覗いていると、すぐに店員が声をかけてくる。
プレゼント用ですか? の決まり台詞に、えぇ、まぁ、ともごもご答えつつ後ずさり、結局何も買わずに店を出ること数軒。
これまでサンジ君へのプレゼントを見立てたことも何度かあるんだから、気後れすることなんてなにひとつないのに。
次の店でも、これじゃないんだよなぁ、とジャケットやらコートやらをちらちらひっくり返し、値札を探してがさがさやってはため息をついて店を出た。
店を出たところで、見知った顔にばったりと出くわしてお互いに足を止めた。
まぁ! の形に口が開いたかと思えば、みるみるうちに顔がほころぶ。
ダークブラウンのタートルネックに水色の髪が良く似合っていた。
「ナミさん! 奇遇ね」
「わ、びっくりした。ビビはまだ行ってなかったんだ」
「えぇ、みんなへのプレゼントを用意してからいこうと思って」
そう言ってビビが両手に掲げたえんじの紙袋には、ビニール包装された品物がいくつも入っていた。
「うわ、すごい。そんなの用意しなくてもいいのに。たぶん誰もそんなの準備してないわよ」
「いいの。私がやりたいだけだから。それに選ぶの、すごく楽しかったし」
みてみて、とビビは往来でがさがさ紙袋を漁り始める。
「これはルフィさん。彼はたぶん一番大きいのを欲しがるでしょう。こっちは長鼻くん。ミスターブシドーへのプレゼントが一番重たくって……あ、中身はまだ内緒よ」
いたずらっぽく笑うビビは心底ここちよさそうに笑う。
私のもあるんでしょうね、と尋ねてみたら、もちろん、と自信満々に鼻先を上げて答えた。
「私、あとひとつ用意したら向かおうと思ってるんだけど。ナミさんはまだ買い物の途中?」
「うん、あとから行くわ」
「そう、今日は暖かいから街中も歩きやすいものね」
ふふっと唐突にビビが笑み零れた。
「なに?」
「ううん、ナミさん随分暖かそうなマフラーしてるから。今日は少し暑そうだなあって」
クリーム色のマフラーに手を遣る。なめらかな手触りに指先が埋まる。
「──うん、してきたんだけど結構暑いわね」
「明日は寒くなるみたいだからあったほうがいいかもね。似合ってるわ」
それじゃあとビビはふさがった両手を小さく動かして、揚々と歩いて行った。
手に触れたマフラーをほどいてみる。
冷たい空気が首筋に入り込んできて、少し気持ちいいくらいだ。
──サンジ君、ほんとうに遠いところにいるのね。
そのことが妙に実感されて、耐えようもなく苦しくなった。
サンジ君のいるところは本当に本当に寒いのだろう。
マフラーと薄手のコートなんてありえない、ダウンコートにマフラーに毛糸の帽子に、靴下を何枚も重ねて厚い手袋をはめて、彼は店先の雪かきをしたのだろう。
吐く息は濃く白く、湿った欧州の空気に彼の金髪は凍ってしまいそうになったかもしれない。
店に戻って熱いコーヒーを自分で淹れて、そうだナミさんにはマフラーを送ろうと彼は思い立つ。
ここはこんなに寒いのだから、彼女の冬もきっと寒いはずだ。
風邪を引いたら大変だから。
彼女はすぐに薄着をしたがるから。
今から君のクリスマスプレゼントを選びに行こうと思います。
──選んできました。
これを巻いて、暖かくして、風邪を引かないように。
絶対に君に似合うと思う。
今年のクリスマスは帰れないんだと、まだ秋の頃から聞いていた。
彼の方が泣きそうだった。
コースのメインを任されるようになったから、かきいれどきのクリスマスに帰ることはできない。
そんなの全然かまわないわー、でもかわりにクリスマスプレゼント奮発してね。
まかせてくれと彼は胸を叩いていた。
マフラーには、瀟洒なダイアモンドのネックレスがひっかかっていた。
──ばかね。本気にしちゃって。
ぐいと目元をぬぐって、私はマフラーをきつく巻き直した。
今ここに彼がいなくても、サンジ君のことを思えば歩く気力がわいてくる。
さぁさぁクリスマスも本番よと言わんばかりに、腕を組んで歩くふたりの姿が街の中で目立ち始めた。
そんな彼らの間を縫うように、ひとりタッタカ顔を上げて歩いていく。
ゆたんぽ、でいいか。
温かいし。向こうでも使えるし。あんまり高くないし。
かわいいカバーも買ってやるかと、電飾が灯り始めた街を私は歩いていく。
カレンダー
11 | 2024/12 | 01 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
カテゴリー
フリーエリア
麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。
@kmtn_05 からのツイート
我が家は同人サイト様かつ検索避け済みサイト様のみリンクフリーとなっております。
一声いただければ喜んで遊びに行きます。
足りん
URL;http;//legend.en-grey.com/
管理人:こまつな
Twitter
災害マニュアル
プロフィール
HN:
こまつな
性別:
女性
ブログ内検索
カウンター