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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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【それは狂気に満ちている 第三部 あいのことば】 の続編ですが、読まなくても一応大丈夫です。

間接的に性的描写がありますので、お気をつけて、スクロールでどうぞ。

















あっとこぼれた声は、塞がれた唇の奥、のどのほうへと吸い込まれるように引っ込んだ。
背中を滑るシーツのなめらかな生地。
冷えたそれが肌に吸いついて、まるで水の中に浮かんでいるような、重力を伴わない心地よさを感じた。
しかし息が苦しい。
本当に水の中のようだ。
ただ実際は、物理的にアンの口がふさがれているだけなのだけれど。
逃げるように顔を背けた。
息が苦しい。
しかし執拗に追ってくるものによってまた塞がれる。
 
くるしい、と目を開けたところで、自分が目を閉じていたことに気付いた。
瞬間飛び込んできたのは焦点の合わないぼやけた世界だ。
じわじわと焦点を重ねはじめた目が唯一捉えたのは、眉間の皺。
すぐに合わさる唇の角度が変わって、思わず目を閉じてしまった。
 
手足が自由なことに気付いた。
ただし、起き上がることはできない。
頑丈そうな両腕が、アンの顔の両脇に置かれている。
大きな右手によってアンの頭の左側が支えられ、左手によって右肩が押さえつけられていた。
自由な両手を、自分の身体と、それに覆い被さる厚い胸板の間に差し挟んだ。
思い切って、押す。
ふさがっていた唇が離れた。
 
 
「こ……殺す気か!」
「まさか」
 
 
淡い薄明りの中、ぼんやりと弧を描く口元が見えた。
ひとりだけ平気な顔しやがって、と心の中で悪態をつきながら呼吸を整える。
途中でむせた。
ふと、アンの左側頭部を支えていた手が動いて、アンの頬に指の腹が触れた。
 
 
「……?」
 
 
視線を上げる。
マルコの目は、アンの目を見返してはおらず、自分の指の先を見つめていた。
感情の読みにくい細い目。
マルコの指先は、アンの頬に線を引くように、こめかみのあたりから口元までなぞった。
二本の指がさらに顎先まで到達すると、またこめかみへと戻る。
それを何度も繰り返す。
その淡々とした仕草を、アンはただ黙って受け入れた。
マルコの目がまるで書類にひたすらサインしていくときのようであれば、「なにしてんの」と声をかけることができたかもしれない。
それができなかったのは、マルコの目が、アンさえも見たことのないものだったからだ。
いつのまにあたしは、マルコの細い目の奥でちらつくほんの少しの変化を捉えることができるようになっていたんだろう。
 
 
「……マルコ?」
 
 
おそるおそる、名前を呟くと、マルコはゆっくりとアンに視線を合わせた。
そして、子供をなだめすかせるときに浮かべるような笑みを浮かべた。
思わず息を呑む。
しかし次の瞬間に煌めいた凶暴にさえ見える目の光が、またたくまに再びアンを飲み込んだ。
 
マルコの高い鼻先が、アンの頬骨にぶつかる。
口の中で蹂躙する舌が、逃げるアンを絡め取る。
頬に添えられていた手のひらが、アンの首筋に貼りついた。
熱い。
マルコの4本の指が首裏に回り、アンの細い首は大きな手に握られていた。
このまま、マルコが親指に力を込めれば、あっという間にアンは絞殺される。
ロギアだという逃げ道は、覇気を使うマルコには通用しない。
 
命が素手で握られている感触がした。
マルコはきっと今、アンの命を握る手触りを感じているに違いない。
 
マルコに殺されて、ここで命が終わるとしたら、あたしは赦せるだろうか。
今死んだことを。
マルコに殺されたことを。
それでいいと思った自分を。
 
そんなわけあるかバカヤロー、と細首を握るマルコの手首を、アンは思いっきりつかんだ。
一瞬、深く差しこまれていたマルコの舌が驚いたように身を引いたが、すぐにまた深く侵入を続けた。
マルコの口角が、少し上がっているような気がする。
 
マルコの手首をつかんだものの、どうすればいいのかわからない。
太くは見えないのに、アンの指が作る輪の中にマルコの手首は収まらなかった。
硬い骨の感触が、手のひらにじかにつたわる。
ふと握る力を弱めて、マルコの手首から肘へと伝う血管を手探りで探した。
 
あった。
筋肉の盛り上がりに沿うように、緩やかなカーブを描きながら肘へと上がる太い血管。
それを人差し指で辿りながら、マルコの腕を擦るように上っていく。
肘に到達した。
肘の曲がる部分の内側が、汗で少し湿っている。
アンがそこを指でなぞると、まるで写し鏡のようにマルコの指もアンの首をなぞった
そのまま下へと降りていき、指は鎖骨の辺りにかかる。
いつのまにか、唇が離れていた。
とても近くに、マルコの静かな目がある。
マルコの腕に触れていたアンの手が、重力に負けて少しずり落ちた。
 
マルコの大きな手のひらは開いたまま、アンの胸の少し上、平らな部分に落ち着いた。
マルコの手は、珍しく熱い。
こくんと小さく喉を動かしたが、その動きはマルコの手のひらにすべて余すことなく伝わっているだろう。
ぱたんと、アンの手はシーツの上に落ちた。
 
 
「まだ、死にそうかよい」
 
 
しっとりと、湿った声だった。
アンはへへっと目を細くして、笑みを作る。
 
 
「ヨユー」
「言ってくれるよい」
 
 
マルコが不敵に笑い返したと思った瞬間、鎖骨の下にあったはずの手がアンの前髪を掴み、思いっきり下へと押し付けられた。
驚きに大きく見開いたアンの視界からマルコが消え、あっと思った瞬間には喉に鮮烈な痛みが走った。
 
 
「だっ……!!」
 
 
前髪もろとも額を押さえつけられて、頭は後ろへ反り返り、喉元がさらけ出されている。
マルコはそこにかぶりついたのだ。
いたいと言っているのに、喉に触れる硬い歯の感触が遠ざかることはなく、むしろより一層深く食い込んでいく。
 
マズイマズイこれはマジでダメだってマルコいたいいたいいたい血ィ出るダメヤバいいたいマルコもうムリやめていたい──
 
 
「っあ」
 
 
思いがけず、高い声が鼻から抜けるように出た。
その瞬間、首筋に食い込んでいたものがすっと離れた。
同時に押さえつけられていた額の手も離れる。
しかしきっと大きく歯形を残しただろうそこは、まだじんじんと鈍い痛みを残している。
アンは無意識にそこに手をやって、マルコを睨みあげた。
 
 
「なっ……なんなの!?ものすっごい痛かった!」
「その割にはいい声出てたよい」
「ハァ!?」
 
 
なんのこと、と問いかけた矢先、再びマルコが視界から消えた。
しかし今度は前髪を押さえつけられたわけではなく、マルコの頭が下へと引っ込んだのだ。
頬と顎のあたりにマルコの髪が当たるくすぐったさを感じたのと同時に、首筋を抑えていた手の指と指の間、魚人ならば水かきがあるだろうそこを生暖かいぬるりとした感触が滑った。
アンが驚いて手を浮かせると、すかさずマルコの手がそれを掴みシーツへ縫い付ける。
そして生暖かいものは、アンの首筋に直接触れた。
それがマルコの舌だと思い当たった瞬間、歯型のある部分を舐め上げられた。
うわぁともぎゃぁともつかない、もっと甲高いような声が喉の奥からほとばしった。
聞いたこともない自分の声にドキドキする。
 
 
「マルっ」
「余裕はどこ行ったんだよい」
 
 
首筋に舌を当てたままマルコが喉を震わして笑う。
そんなこといったって、と反論にならない言葉を小さく呟いても、見えるのは天井だけだ。
湿った生暖かさが喉の一番高いところを通って、アンの口から小さな悲鳴が漏れたそのとき、腹の辺りを這い上る何かの気配に気付いて背中が粟立った。
アンの右手を抑え込むのとは逆のマルコの手が、アンの剥き出しの腹を撫でる。
ひぁ、と喉の奥がひくついた。
いつのまにか歯型をなぞっていたはずの舌先が、鎖骨の辺りまで降りている。
アンはまるで天に救いを求めるように、上へと手を伸ばした。
しかし掴んだのは、マルコのシャツの裾。
アンを追い詰めるそのものに助けてとすがるなど馬鹿げている。
そう思いながらも、マルコの舌先が谷間に流れたアンの汗を追いかけるように下へと滑っていく感覚に耐え切れず、アンは手にした布地を強く引っ張った。
カクン、とマルコの腰が数センチアンの方へと引き寄せられる。
 
 
「う……」
「どうしたよい」
「うぅ」
 
 
至近距離で問われた声に、アンは呻き声でしか答えられない。
堅く目を閉じて、ひたすら首を横に振った。
手に握りこんだシャツを離すことができない。
アンはマルコが解放した手を顔の前に持っていき、腕で顔を隠した。
 
もうなにもわからない。
マルコのキスや身体を撫でる手のひらが、アンの五感をすべてどこかへ持って行ってしまう。
脚の先から頭のてっぺんまでぞわぞわと細かな粒が這い登るような、慣れない感覚に戸惑って、力は入らず、変わらず息が苦しい。
 
腕で顔を隠していても、じっとマルコが見下ろす視線は肌に沁み込んでいるように感じられた。
不意に、アンの手首にマルコの指が触れる。
折れやすい小枝をそっと持ち上げるときのような柔らかい触れ方。
アンの腕が、マルコによって顔の前から外された。
 
 
「マル…」
「よっと、」
 
 
マルコの小さな掛け声とともに、ふわりと体が浮かんだ。
えっと声を出す暇もなく背中がシーツから離れ、思わず目の前にあった肩に手を置いた。
アンの足はマルコの腰をはさむような形で、いつのまにかアンはマルコに向かい合って、マルコの胡坐をかいた足の上にぺたんと座り込んでいた。
マルコが持ち上げてそうしたのだと気付くのに、一瞬の間があった。
 
 
「マルコ?」
 
 
マルコは笑っているようにも、怒っているようにも困っているようにも、はたまた無表情のようにも見えた。
いろんな感情が混ざると、表情はなくなるのかもしれない。
マルコの手のひらが頬に触れた。
アンの顔は、マルコの手のひらの付け根から指の先までの間に収まってしまう。
軽く見上げる形でマルコと視線を合わせると、ゆっくりと唇が重なった。
 
先程の、貪り食われるような勢いはなく、ゆっくりと、唇の表面を食まれる。
それがマルコの気遣いだとしたら、本当に器用な人だと思った。
アンはそろそろと腕を伸ばし、マルコの首に両腕をかける。
そのまま抱き込むように引き寄せると、マルコのほうもアンの腰に手を回して引き寄せた。
身体の表面がすべてくっついているような感じがした。
 
構造も違う、凹凸のあるべき場所も互いに違う、感じ方も、呼吸のリズムも、目に映る景色も重なることはない。
それでも、どこか一部でも重なっていなければ、こんなに温かい気持ちにはなれない。
その一部が目に見えるところとは限らないからわからないだけで、きっとマルコとはどこかが重なっているに違いない、とアンも柔らかい唇をはさみ返しながら思った。
 
触れたときと同じく、ゆっくりと離れる。
アンはマルコの胸に顔をうずめて、マルコはアンの頭を胸に抱きこんで、離れたら二度と手に入らないものに執着するように、互いが互いを引き寄せて抱き合った。
 
厳粛な儀式のように、静かで、声もなく、当たり前に波の音だけが聞こえた。
 
マルコの肌はアンのそれに良くなじみ、ぴたりと吸いつく。
皮膚の向こう、張り巡らされた細い血管のその先、硬い骨といくつもの臓器に守られてマルコの心臓が動く。
鼓動は血を震わせて、鼓膜を通り抜け、アンの体内を駆け巡る血に溶けあってアンの心臓へと届いた。
 
 
シャツが邪魔だ。
 
 
アンの手がマルコの腰から、シャツを捲り上げるように背中側に滑り込むのと、マルコの手がアンのホルターネックの頼りない紐に手をかけたのは、ほぼ同時だった。
 
 
 

 
 
どん、と突き上げるように大きく船が揺れた。
いつのまにかシーツの波へと逆戻りしていたアンはその衝撃を背中に受け、マルコはベッドに片肘をついて体を支えた。
逆の手はアンを抱き込んでいる。
 
 
「……なんだろ」
「さぁ、寝ぼけた海王類でもぶつかったんじゃねェか」
「1・2番隊出動、とか言われないよね」
「見張りが何も言わねぇんだ、大丈夫だろい」
 
 
それでもアンは耳を澄ますように、窓の外の深い闇に神経を尖らせた。
マルコがよそ見をするなと言わんばかりにアンの太腿の裏を撫でたので、アンの集中はすぐに途切れたのだが。
 
吐き出す息が熱い。
首筋にかかるマルコの息が熱い。
体中を這い回るマルコの手も熱い。
自分の頬も熱かった。
 
ずっと、涙の薄い膜が張っているように視界がぼやけている。
ごしごしと目の辺りをこすっても、視界ははっきりしなかった。
マルコの顔がよく見えない。
不意に、腰が持ち上がった。
なんだろ、と問うようにマルコを見ると、霞んだ視界の中でマルコが困ったように眉を下げて少し笑うのが見えた。
なんとなくただならない空気を感じて、アンはごくりと生唾を飲む。
汗に濡れて、海藻のようにうねって頬にかかったアンの髪を、マルコが耳の後ろまで掻き上げてくれた。
同時に頭を撫でるように手が動き、心地よさに目を細めると、マルコは黙って頭を撫で続けてくれた。
自分が猫ならゴロゴロと喉が鳴っているに違いない。
アン、と半分掠れたような声が呼びかける。
マルコの指がアンの目元をぬぐうと、霞んでいた視界が晴れた。
 
 
「アン」
 
 
マルコが言葉を探しているように見えたので、アンはその顔をじっと見上げて待った。
しかし言葉は見つからなかったのか、必要ないと見限られたのか、マルコは開きかけていた口を閉ざした。
マルコはまずアンの左手を掴み、自身の背中に回させる。
反対の腕も同じようにした。
アンはされるがまま、わけもわからずマルコの背中に両腕を回してすがりつくようになっている。
軽いキスが降ってきて、唇が離れたと思った瞬間、突き上げられた衝撃に体がずり上がり、喉からは音にならない悲鳴が溢れた。
 
必死で、溺れたときにそうするように、マルコの背中にしがみつく。
しかし手が引っ掛かるところがなくて、考える余裕もなく爪を立てた。
下腹部の、想像も絶する場所の痛みに声も出ず呼吸が難しい。
 
裂ける裂ける、どこかわかんないけどどっか裂ける、と言葉より先に自身のピンチを知らせる声が脳内に響き渡る。
口を開けてもうまく空気が入ってこないので、逆に強く歯を食いしばってみた。
きゅぅ、と意味のない音が漏れる。
 
 
「アン」
 
 
遠くから、名前を呼ばれた気がした。
 
 
「おい、アン」
 
 
遠くない。ものすごい近くだ。
強く瞑っていた目を開けると、今度こそ本物の涙の膜によって遮られながらも、マルコの顔が見えた。
 
 
「大丈夫かよい」
 
 
必死で首を振る。横に。
意地を張る義理も余裕もない。
マルコは困った顔で、アンの目じりに浮かぶ水滴を、額に乗った汗の玉を拭ってくれた。
 
 
「ど……どうなってんの、今」
「入ってる」
 
 
端的に帰ってきた答えの意味を理解するのに、数秒要した。
理解したものの、だからと言って返す言葉もない。
金魚よろしくぱくぱくと口を開いたり閉じたりしていると、また名前を呼ばれた。
 
 
「もう、やめてもいいけどよい」
「や……やめたらどうなんの」
 
 
マルコは一瞬考えるように視線を彷徨わせたが、
 
 
「別に、どうにも」
 
 
と答えた。
 
 
「でも……今、やめたら、さ」
「ん?」
「もう二度とできない気がする」
 
 
アンは、自分としては必死の形相のはずなのだが、何故かマルコは一拍きょとんとして、そしてくつくつと笑いだした。
 
 
「あァ、そうかい」
「た、達成感ないっていうか……」
 
 
マルコはひとしきり笑っていたかと思うと、不意に身じろぎしたので、アンの下腹部にまた鋭い痛みが走った。
ひっ、と思わず声を漏らしてマルコの肩に掴まる。
これからやってくる痛みを、本能に近い部分が察知して、アンに歯を食いしばれと指令を出す。
しかし予知した痛みより先にやって来たのは表面に触れるだけのようなキスで、そちらに意識を引っ張られた瞬間また衝撃がやって来た。
 
 
 

 
 
マルコの背中を濡らす汗が、アンの手が引っ掛かるのを邪魔するようで憎々しい。
痛みを噛みしめていた口元は、いつの間にか浅い呼吸を繰り返す場所へと変わっていた。
 
律動が、アンの呼吸と、鼓動と、すべてのリズムを刻むものとリンクする。
その一定の音の狭間で、時折聞こえる苦しげな声がマルコのものだと気付いたときは驚いた。
まるで意思とは別のところから出ているようなその声は、アンの知らないものだった。
もしかしたらマルコ自身、知らないものかもしれない。
 
突然、マルコがアンの肩を片手で抱き込み持ち上げた。
そして、締め殺されるかという勢いできつく抱きしめられる。
下腹部を貫いていた存在が、音を立ててアンの中から消えた。
終わりを伝えるような深い吐息が耳元に落ちてきて、なぜだか、止まっていた涙が滑り落ちた。
 
 
しばらくの間、マルコはアンの肩に額を当てて息を整えていた。
アンも、マルコの背中に回していた手をぱたりとシーツの上に落として力を抜いた。
太腿の間がぬるぬるする。
 
 
「マ、マルコ」
 
 
マルコは重たそうに、頭を持ち上げた。
虚ろともいえる目が、ゆっくりとアンに焦点を合わせる。
大丈夫か、と問われた気がして、黙って頷くとマルコの目元が少し緩んだ。
 
 
「……マルコは?」
「あァ」
 
 
大丈夫だと伝えるように、軽く唇が重なった。
その一瞬前、ごめんなと聞こえた気がして、アンはマルコを見上げた。
目で問うアンとわざと視線を合わさないように、マルコはアンの頬にも唇を落とす。
風呂入るかよい、とかすれた声が呟いた。
 
 
「うん、汗と……なんかべたべたする」
 
 
シーツもそれらにまみれているだろうから、洗わなければいけない。
しかし身体は、いっこうに起き上がって風呂場に向かったりはしなかった。
マルコも起き上がる気配はない。
たとえ汗まみれで不快だとしても、もう少しこのままここにいたかった。
 
マルコはアンの隣に、ごろんと倒れ込むように横になった。
しかし抱き込んだアンを離すことはない。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
 
 
マルコの手を振り払ったことも、顔を背けたことも、声を荒げて拒絶したことも全部覚えている。
同時に、ひたすら追いかけ続けたことも、厭われてもめげなかったことも、好きだと叫んだことも全部本当のことだ。
 
頭を反らせてマルコの顔を覗き込むと、マルコが気付いて腕の中のアンを見下ろした。
特にいうことも思いつかなかったので、曖昧に笑ってみた。
マルコは、片眉を上げて応えたが、同時に緩く笑い返した。
 
この顔だ。
あたしだけのマルコ。
マルコだけのあたしは、きっと同じ顔で笑っているに違いない。
誰かをいつくしむ顔。
いとしいと思うこと。
 
 
アン、とマルコが首を縮めるようにして耳元に唇を寄せてきた。
何かが囁き声で呟かれたが、掠れたマルコの声では聞き取れなかった。
もう一度、というつもりで曖昧に笑うと、マルコは静かに口角を上げるだけで、もうなにも言わなかった。

拍手[97回]

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「おいこれ誰かオヤジんとこに」
 
 
持って行ってくれよ、という言葉は、かすめとられた書類が風を切る音に邪魔されて続かず、ことばの尻はぽとりとどこか下の方に落ちた。
 
 
「あたしが行く!」
 
 
書類を掴んだアンは、既にシャツの裾を翻らせて駆け出していた。
ブーツが床を叩く音は、太鼓のように高らかにその場に響く。
書類を手にしていたクルーと、その周りにいた数人は一瞬ぽかんとその後ろ姿を眺めるが、すぐに小さくなっていく黄色いシャツの背中に向かって朗らかな笑い声を上げた。
 
 
 
 

 
 
「オヤジっ」
 
 
船長室にぴょこりと顔を出すと、白ひげはいつものベッドの上で少し不機嫌そうに眉根を寄せて上体を起こしていた。
不機嫌の理由はその巨体から伸びる2,3本のチューブらしいと、パッと見ただけで簡単にわかる。
昨日は検診の日だった。
しかし白ひげはアンを捉えると、くいと眉と口角を上げて応える。
 
 
「おうアン、えらくご機嫌じゃねぇか」
「オヤジは、その、つまんなさそうだね」
「見ての通りだ」
 
 
こんな面白くないことはねぇ、と白ひげは大きく鼻を鳴らした。
その姿に苦笑しながらどこどこどこっとブーツの重い音を鳴らして白ひげに近づく。
白ひげのための大きなベッドはアンの身長3つ分くらいあるので、ドアから枕元まで非常に遠い。
さらに床の上に立つアンから、ベッドの上に腰かける白ひげの顔までもこれまた遠い。
アンは零れそうになるため息を飲み込んで、白ひげを見上げた。
憂鬱なため息ではない。感嘆の、ため息だ。
 
 
「これっ、オヤジにって、書類」
「あァ」
 
 
白ひげは薄黄色のチューブを嫌なものを見る目で一瞥してから、それを鬱陶しそうによけてアンに手を伸ばした。
アンから書類を受け取った手は、そのままアンの頭上へと伸ばされる。
 
 
「ありがとな、アン」
 
 
アンの頭なんぞすっぽりと包みこんでしまえるほど大きな手のひらが、アンに影を作りながらぽんぽんと軽くアンを撫でた。
同時に書類がガサガサと鳴る。
白ひげの手が離れると、アンは両手を後ろに回してもじもじと後ずさりした。
下唇を軽く噛んで、赤く頬を染めながらはにかむアンの姿は唯一このときしか見られない。
 
 
「あ、あたし今から、用事、ある」
「あァ、行ってきな」
 
 
こくこくっと頷いたアンは、最後に白ひげの顔をちらりと仰ぎ見て、一瞬交わった視線を大事そうにゆっくりと外してから、一目散に駆け出して部屋を後にした。
 
顔が熱い。息が上がる。
アンは目的の場所、医務室へと走りながら頬に手を当てた。
すれ違う隊員たちが、訝しげにアンを振り返る。
 
ああ、今日もオヤジがかっこいい!!
 
 
 
 
 

 
 
「もったいない」と数人の船医は何度も零したが、船医長である老人は黙って施術の準備を始めた。
彼はおそらく白ひげと同じくらい、もしくはそれ以上の年配のように見える。
年季の点で言えばこれ以上に信頼できる医者はいない。
本当にいいのかと何度も念押しする彼らを一喝して黙らせたのも彼だった。
 
 
「そこにうつぶせで寝ろ」
「なあ、背中じゃなくてもいいんじゃないか。その、反対の腕とか…首とか」
「うっさいなあ、いいの背中が」
 
 
アンはおもむろにシャツを脱ぎ捨てると、言われた通りのベッドにうつ伏せになった。
ベッドというより木のテーブルに薄いクッションとシーツを引いただけのような代物で、固い。
アンはドキドキと高揚する胸を自分の身体で圧迫して押さえつけた。
そうすると、余計に鼓動が内側で響く。
 
 
「それで、マークはどれにするんじゃ」
「え?みんなと同じの」
「みんなと同じっつったっていろいろあるんだよ、ホラ」
 
 
その場にいる船医たちは、それぞれ腹やら肩やらの服を捲りそのしるしをさらした。
なるほど、たしかに一種類ではない。
アンはひとりの船医の肩を指さして、それって、と呟いた。
 
 
「一緒だ、あの…一番隊の」
「ああ、マルコ隊長の?そうだぜ」
 
 
ふーん、と鼻を鳴らした。
交わる十字はおそらくどくろとぶっちがいを模したもの。U字に反り返ったしるしはいわずもがな。
抽象的なしるしもいいけれど、もっとはっきりと白ひげを示すものがいいと思った。
マルコの胸にあるあの目立つマークはマルコにしっかり馴染んでいるけど、それはマルコだからのような気がした。
ああそうだとアンは顔を上げる。
 
 
「オヤジは、しるし入れてないの」
「オヤジ?もちろんいれてるぜ、背中にでっかくどどーんとな」
「ああ、ありゃあ格好いい、壮観だ」
「どのマーク?」
「旗と一緒のだ」
 
 
アンはメインマストの上で風に翻るどくろを頭に浮かべた。
特徴的な白いひげと、その下で不敵に笑う口元がまさしくオヤジそのものだ。
アンはバタバタと両手足を動かして「それ!」と叫んだ。
 
 
「あたしもオヤジと同じの彫って!」
「あのどくろか?」
「そう!まったく一緒のな!」
「しかしありゃあ細けぇから痛みも長ぇぞ」
 
 
そんなのいいから、とアンはもどかしさに歯噛みしながら訴えた。はやく、はやくと白い背中をさらしている。
船医の老人はため息とともに、ガーゼに消毒液を垂らした。
とたんにツンとするどい匂いが充満する。
他の船医たちはしぶしぶといった顔で器具の消毒を始めた。
 
 
「これじゃな」
 
 
わくわくと弾む胸に自然と顔がほころんでいたアンの前に、ピッと一枚の紙が示された。
たしかに、海賊旗と同じどくろ。
アンは大きくうなずいた。
背中にひやりとした感触があって、絵を転写するための紙が貼られる。
アンは顎の下に置いた両手に顔を伏せて、緩む口元を隠す。
ぺらりと紙がはがれる音がした。
彫るのは手練れの老船医で、いる必要のない他の船医たちは遠巻きにうつ伏せのアンを見守っている。
怪我人が出ないただの航海中、船医というのは暇なものらしいとアンはこっそり思った。
いれるぞ、とドスの聞いた老船医の声にアンはまた大きくうなずく。
途端に、火の粉が一点集中したような熱い痛みが右の肩甲骨の下あたりを貫いた。
痛みを逃がすために浅い息を繰り返しながら、アンは嬉しくてシーツを強く握った
 
 
 
 
 

 
指にインクのにおいが染みつくほどの長い時間、それも強く、島の地図を手にしてしかめ面を継続させていたマルコのもとにノックの音が届いた。
遅い昼食の知らせだ。
この場合遅いのは昼食の準備ではなく食堂に赴くマルコのほうで、いつまでたってもやってこない一番隊隊長を案じてクルーが呼びに来るのだ。
そうでもしないとマルコは一食だろうと二食だろうと平気で抜く。
マルコは手にした地図が表す島にすっかり飛んでしまっていた意識を、ノック音で引っ張り戻された気がしてしばらく呆然とした。
机に向かって斜め右前にある四角い窓に目をやると、白い大きな鳥が呑気に横切ったところだった。
昼から夜になるのであれば明るさで時間の経過がわかるが、朝から昼になるのは同じ時間の経過でもまったくわからない。
自分はどれだけの間ここに座っていたのだろうと、どうでもいいことを考えながらマルコはメガネをはずした。
そういえば腹が鳴る。
時計を確認して、マルコは立ち上がった。
ドアの方へ歩きかけて、そう言えば新入りの書類に手を入れたのだったと思いだしてそれを取りに踵を返す。
隊長のいない2番隊は、『全員が交代でその日の日記のように』というのを自分たちで決めて報告書を書いている。
昨日は、まわりまわって新入りが初めてその報告書を書いたのだった。
 
「活動内容」
「朝めし、そうじ、ひるね、昼めし、やすみ、手合せ(4番隊)、ひるね、姉さんの手伝い、ひるね(すぐサッチに起こされたので10分)、晩めし、これを書く、ふろ(予定)、ねる(予定)」
 
全員が交代制で書くのだから、個性が出るのはわかる。
だがこれは出すぎだ。
「消耗品」の欄に、「甲板の後ろの方」という文字と、少し小さめに書かれた「ごめん」。
マルコが後甲板に確かめに行くと、既に補修されていたが大きくへこんだ跡があった。
やっぱり2番隊にも隊長が必要だろうかと思ったが、それはオヤジの采配に寄るのでマルコがどうすることでもない。
 
 
 
 
 
開きっぱなしの扉をくぐると、食べ物と男のちゃんぽんのような匂いの食堂の中はすでに人もまばら、非番のクルーが食後の一服をふかしている姿がぽつぽつとみられる。
厨房のカウンターへ歩いていくと、奥からサッチが遅いだの呼ばれる前に来いだの口うるさく叫んでいた。
そして、一番右端のテーブルに突っ伏した黒い頭を見つけて、ぎょっとした。
思わず足が止まる。
マルコの視線の先に気付いてサッチが苦笑した気配が伝わった。
 
 
「…なんであいつ裸なんだよい」
「やー、残念ながら素っ裸ではねぇよ」
 
 
むき出しの肩につながる薄っぺらい手はフォークを握ったままだ。
おそらく飯の乗ったままだろう皿に顔面を突っ込んだアンの姿はもう見慣れたもので、船の上では笑いの種になっているし、マルコも気が向けば頭をはたいて起こす程度だ。
しかしだな、とマルコがざらつく顎に手をやったそのときアンはがばりと顔をあげた。
 
 
「ああ、寝てた」
 
 
睫毛の上に米粒をのせたままアンはぱちぱちと数回瞬きをして、近くにあった布巾で顔を一度拭う。
そして何事もなかったかのように食事を開始した。
アンはすっかり気を抜いて、斜め前に立ってアンを凝視するマルコの視線には気付かない。
そしてマルコは、サッチが「素っ裸ではない」と言った意味を飲み込んだ。
なるほど、いつも着ているシャツを羽織っていないだけで、水着のようにも下着のようにも見える心もとない布を胸元にくっつけていた。
しかし、なぜ。
 
 
「おいマルコさんや、見過ぎ」
 
 
サッチの呆れた声にハッとして、それから的を得たその言葉に幾分ムッとしながらカウンターの上に置かれた自分の昼食を手に取った。
目に嬉しい格好をした年若い娘を見つめるなら鼻の下の一つでも伸びているべきだろうが、マルコの頭は「シャツはどうした」に支配されているので怪訝な顔になるだけだ。
マルコは皿を手にアンの向かいに座った。
 
 
「…ども」
 
 
マルコに気付いて、随分控えめな挨拶をする。
アンは上目遣いにマルコをうかがいながらマグカップの中身をすすった。コーンスープ。
マルコの昼食には付いていないところを見ると、コックの誰かがアンに貢いだものと思われる。
 
 
「今日はそんなに暑いかよい」
「は?」
「シャツ」
 
 
言外に「なぜ着ていない」という意味を含めたつもりだったが、何故かアンは途端に目を輝かせた。
ドン、と音を立ててマグを置く。
 
 
「じゃんっ」
 
 
跳ねるように立ち上がったアンは、机を挟みマルコの前でくるんと背中をさらして見せた。
幾つもの死線をくぐり抜け、偉大なる航路の後半の海の上で、それも世界最強とうたわれる男の下についてこの歳になり、もう驚くこともそうそうなかろうと高をくくっていたマルコは、眼前の背中に目を丸めた。
アンの背中でオヤジが不敵に笑っている。
 
 
「…こりゃぁまた」
 
 
でかく彫ったねい、とだけ言うと、アンはマルコの反応が不満だったのか少し口を尖らせた。
しかしすぐにいひひと笑う。
 
 
「いいねぇ、アン。それでこそ白ひげ海賊団って感じ」
 
 
サッチがおだてるように遠くから声をかけるとアンは素直にうれしそうな顔をした。
なるほど、だからシャツを脱いでいるわけか。
アンは限界まで首をひねって自らの背中を見下ろした。
緩くS字を描く腰のカーブが際立つ。
 
 
「昨日の朝彫ってもらって、昨日はずっとガーゼ貼ってたから今日がお披露目なんだ」
 
 
背中に大きく描かれた刺青を、宝物を自慢する子供のようにマルコに見せつける。
ここのところアンを笑わせるのは、いつだってオヤジだ。
 
 
「似合ってるよい」
 
 
そう口にすると、アンは少し驚いた顔を見せてマルコを見た。
そして変に口元を引き結んだ顔で再び椅子に腰を下ろす。
にやけてしまいそうな顔を引き締めるときのアンの常套手段だ。効果はゼロに等しい、ばれている。
 
 
「だが明日は上、羽織ってから降りろよい」
「なんで」
 
 
アンと視線を交わさず昼食のピラフを口に運ぶ。
目の前のアンが一気に不機嫌になったのが手に取るようにわかった。
 
 
「あたしもう上は着ないって決めた」
「男前な意気込みは船の上だけにしとけよい、明日は駄目だ」
 
 
む、と眉を寄せて反駁の声を上げようとしたアンは、途中でどこか引っかかったのか口を開いたまま、ん? と首を傾けた。
 
 
「…あした?降りるってどこに?」
 
 
気の抜けるアンの問いにガクッと目には見えない肩を落とし、アホウとたしなめた。
 
 
「昨日の夜、お前が報告書持ってきたときに言っただろい。明日は上陸だよい。寄港するから準備しとけっつったろい」
 
 
気付けば子供を叱るような声を出していた。
子供を叱ったことなんかないので実際のところ分からないが、その時はきっとこんな声が出る気がする。
基本、立ち回り的に叱る側の位置が多いマルコだが、他の隊員をたしなめるのとはどこか勝手が違った。それがどこかはわからない。
しかし叱られている当のアンには叱られているという自覚はてんでないらしく、のんきに「そうだっけ?」と首をかしげた。
 
 
「準備って、なにすればいいの?」
 
 
それも昨日言っただろうがこのバカタレがと、サッチあたりを叱るときのお決まりのセリフが飛び出しかけたが、それもこの娘には何の効果もない気がして思いとどまった。
エネルギーは大切に。
 
 
「…お前さんたちゃあ、身ひとつで白ひげに加わっただろうが。だから明日の島では自分の服やら身の回りのものやらを揃えるんだよい。部屋もからっぽだろい」
 
 
何がいるかわかんねぇならナースたちに聞きゃあいい、と昨日とまるで同じセリフを口にした。
「ああなるほど」とアンが昨日と同じようにうなずく。
 
 
「刺青を隠せとは言わねぇ。だがそんなデカデカと主張してわざわざ一般人を刺激すんのは考えモンだってことだよい」
 
 
だから明日はシャツを羽織れ。
しばし考えるように口をすぼめて両目を真ん中に寄せていたアンは、しかし神妙にわかったという。
刺激も何も、どうアングル変えても一般人には見えない輩ばかりの中で今更、という気もしたが口にはせず頷いた。
 
 
「じゃ、早速ねーさんたちのとこ行ってくる」
「ああそうしろ」
 
 
ガタゴト、騒々しく椅子を鳴らして立ち上がったアンは綺麗になった皿をカウンターまで運びサッチに声をかける。
 
うまかったありがとー。
はいよ、おそまつさん。
 
カウンターから踵を返したアンは、マルコの方を振り返らずに一直線に出口へと歩いていく。
歩幅は大きく、重そうなブーツが床を叩く。
扉の少し手前でアンは背中に垂らしていたテンガロンハットを掬い上げて小さな頭に深くかぶせた。
白く、背骨のラインがくっきりとわかる背中の上で白ひげが笑っている。
マルコの胸の刺青が、さわりと疼いた気がした。




拍手[50回]

 
一度自分の部屋へ戻って、着替えの用意を持ってもう一度外に出た。
階段を下り、4番隊の部屋群の方へと角を曲がると突き当りに部屋が見える。
上の階と構造は同じなのだからわかりやすい。
4番隊の部屋群は静まり返っていた。
時刻はもう夜の3時に近いだろう。
4番隊の隊長室は鍵が閉まっていなかった。
鍵を持ったままアンが中に入り、内側から鍵をかければ誰も入ることができないというわけか。
そっと覗くように顔だけ中に突っ込み、それからそろそろと扉を開いていき中に足を踏み入れる。
向かって右側にベッド。左側に本棚。正面にデスク。
この配置は確か2番隊の隊長室も同じだった気がする。
ただこの部屋は、やっぱり人の匂いがした。
デスクの上は数枚の書類が開かれたファイルから覗いていたり、カップが置かれていたり、ペンが散乱していたりと遠目に見ても結構汚い。
鍵は──悩んだがかけなかった。
もしかしたらサッチが、仕事に関する急用でどうしても部屋に入る必要が出てくるかもしれない。
 
アンは部屋の左奥の扉に近づきながら、大きな本棚に目いっぱい詰め込まれたたくさんの本の背表紙を目で追っていった。
やっぱり隊長だからだろうか、小難しい題の本がいくつかある。
しかし本棚の下方に集中していた分厚い本はアンにでも何かわかる。レシピ本だ。
そして上方には比較的薄い本が収まっている。雑誌らしい。
思わず立ち止まって眺めていたアンは、ハッとして歩き出した。
人の部屋の風呂を借りるだけならまだしも、ついでに部屋の物色なんて趣味が悪い。
 
風呂場の扉は開いていた。
中は白い浴槽と備え付けのシャワー。
入り口前の床にはアイボリーのタオルがひいてあった。
手前でブーツを脱いでそっとタオルの上に裸足をのせるとふわりと気持ちよく乾いていた。
着替えを入り口手前の小さな机に置いて服を脱ぎ、中に足を踏み入れた。
いつも使うシャンプーや石鹸はナースの風呂場に備え付けてあったのを借りていたので、アンに手持ちはない。
言えば快く貸してくれるサッチの顔が思い浮かんだが、熱いお湯を浴びて体を流せればそれでいい。
そう思いながら壁にかけてあったシャワーを手に取ったとき、ふと足元に薄い桃色がちらついた。
男の風呂場にはそぐわない色だと、何気なく視線を落とすと桃色の形の異なるボトルと同じく桃色のソープがシャワーの真下に置いてある。
コックをひねる手を止めてそれを凝視したが、どうも女物らしい。
まさかこれがサッチの愛用品か。…いや人の私物に口をはさむのはよくないけど、なんとなくフクザツ。
しかしすぐ、バスルームの左隅に立つ灰色のボトルが目についた。
どうもこれは男物らしい。となるとこれがサッチの使っているやつか。
じゃあどうして、こっちが隅っこにあってピンクのこれが真ん中に?
 
しばらく裸のまま冷たい床の上に立ち尽くしてから、思い当った事実にああと顔を歪めた。
勢いよくコックをひねると突然頭の上に冷水が降りかかったが、すぐに冷水はお湯へと変わっていき強張った肩の筋肉が弛緩する。
 
使用済みのはずなのに乾いていたバスマット。
真ん中に位置する女物のシャンプーと隅に寄せられた男物。
アンが部屋へと着替えを取りに戻ったあの少しの間で、と思うとますますアンを困らせた。
ぬかりない。し、そこがつかめない。
女物のシャンプーは、ナースの姉さんが使うものと同じ甘い花の香りがした。
 
 
 
 

 
 
翌朝は少し寝坊した。
明るい部屋の中で起きるのは、この船に乗ってから初めてだったので少し戸惑った。
 
昨日ようやくベッドに入れたのは3時半ごろだったと思う。
アンが手早くシャワーを終えて着替え、部屋の外に出てもサッチは見当たらなかった。
シャワーを終えたこともその礼も伝えたいのに、当人が見つからないのではどうしようもない。
仕方なく、濡らしてしまったバスマットは入り口手前においてあったタオルラックにかけて、部屋の鍵をデスクに置いて出てきた。
熱い湯を浴びてしばらくは目が冴えていたが、部屋に戻ると思い出したように眠気が再発し、ベッドに横たわると落ちるようにすとんと寝た。
 
 
(…すっきりしてる…)
 
 
時間や場所の間隔が全部吹っ飛んでしまったかのようにつかめず、しばらくベッドで上体を起こしたままぼうっと壁を眺めていた。
 
 
「アンー、メシ食いっぱぐれるぞー」
 
 
ドンドンと通り際に隊員がアンの部屋を叩いてくれた音で、やっと意識が下方から引っ張り上げられた。
 
 
慌てて食堂に行くと、中はすでに食後のブレイクモードでコーヒーの香りが満ちていた。
ブランデーの匂いがいつでもするのは、海賊船なのだからまあ仕様だ。
アンは食堂に駆け込んで、いつものカウンターにセルフ形式の朝食が置いてないことに愕然として立ち尽くした。
 
 
「く…くいっぱぐれ…」
 
 
通りすがりの3番隊隊員が苦笑付きで励ましてくれたがろくに返事も返せなかった。
アンにとって三食のうち一食を逃すことは一日の3分の1のエネルギーを取り損ねたということで、つまり有事の時は3分の2の力しか出ないということだ。
生存本能の危機に等しい。
 
マルコが忠告した通りになってしまった。
心配いらないと大口をたたいたのに、そもそもあの時は大口だなんて思ってもいなかったのに。
食堂の入り口に膝をつく勢いでアンは肩を落とした。
 
 
「何やってるんだ?」
 
 
随分上の方から聞こえた声に、アンが陰の差す顔を上げると大きな体がアンの背後に立ちアンを覗き込むように背をかがめている。
どうやらアンが入り口前に立ち尽くしているので、巨体が食堂に入ることができなかったらしい。
しかしアンは「朝飯逃した」ことに頭がいっぱいでそこまで考えが回らず、へにゃりと歪んだ眉のままその巨体を見上げた。
 
 
「…朝メシ…」
「寝坊したのか?」
 
 
コクコクと頷くと、巨漢──ジョズは困ったような苦笑いで少し笑いごそごそと身に着けた鎧の腰辺りを漁った。
 
 
「オレも昔は何度かやったよ」
 
 
すっと差し出された大きな掌の上には、小さな白い布袋。
アンがそれをぽかんと見つめ、同じ顔のまま高くにある顔を見上げるとジョズは促すように手のひらを揺らす。
 
 
「腹の足しにはならないかもしれないが」
 
 
アンは顔の前のそれをそっと持ち上げて中を覗いた。
ふっと甘い香りが広がる。
 
 
「…クッキーだ…」
「もうそろそろ仕事始まるだろう。もらいものだが、よかったら食え」
「いいの?」
 
 
強面の顔は、にこりと笑いながら大きく頷いた。
 
 
「ありがと…!」
 
 
小さな袋のクッキーを宝物のように手のひらで包み、アンが顔を上げてそう言うと、ジョズは一瞬戸惑ったように視線を彷徨わせたが、すぐに笑顔を取り戻してアンの頭に大きな掌を置いた。
 
アンはすぐさまその場でクッキーを一つ取り出し口に放り込む。
 
 
「うまい!」
「そ、うか」
 
 
それはよかった、ともう一度笑ってジョズはそそくさとアンを残し食堂の奥へと歩いていく。
アンは大きなその背を見送って、ジョズの微妙な違和感に首をかしげながらもうひとつクッキーを口へ放り込んだ。
ウマイ!
 
 
 

 
 
午前中の仕事(今日は洗濯当番だった)が終わると、アンはいの一番に食堂へと駆けだした。
もらったクッキーはウマかったけどさすがに腹の足しにはならなかった。
異臭を放つ洗濯物を詰め込んだ巨大な籠をいくつも洗濯槽まで運び、全手動の洗濯機を回し、それらすべてを甲板に干すだけで半日が簡単に過ぎてしまう。
クッキーから得たエネルギーは、クルーの洗濯物を回収し始めたころにはすでに切れていた。
 
セルフ形式の朝食・夕食とちがって、昼食はワンプレートだ。
アンが食堂に着いたころには、既に食堂と厨房を隔てるカウンター前にプレートを受け取るクルーが列をなしていた。
3番隊クルーが多いところを見ると今日は非番らしい。
アンも意気込んで彼らの後ろにぴたりと並んだ。
腹の音がうるさい。
 
アンの腹の音が届いたのか、前に並んでいた数人のクルーが振り向いた。
ぱちりとアンと目があった途端、人相のいいとは言えない彼らの顔がぱあっと明るくなった。
 
 
「おうアン、やけに早ェな」
「腹減ったの」
 
 
そうかそうかと一様に頷く彼らは、また一様に自身の上着やズボンのポケットをまさぐりだす。
異様なその光景にアンがぽかんとしていると、またたく間にアンの目の前にいくつものごつい手が差し出された。
 
 
「これやるよ!」
「こないだの島で買ったヤツだけどまだ食えるぜ!」
「こっち!そんな腐りかけのよりこっちのが旨いぜ!」
「テメェのこそ明らかに色おかしいだろ!」
 
 
目の前で屈強な男たちが押し合いへし合いしながら、アンに様々な小さな包みを渡そうとアンを取り囲む。
自分の物の方がおいしい、いやこっちのほうがとどうやら食べ物らしいそれらを手に喧嘩まで始まる。
虚を突かれたアンは、やっとのことで言葉を発した。
 
 
「…もらっていいの?」
「もちろん!」
 
 
男たちの怒声のような野太い声が重なった。
アンの薄い手のひらに次々と包みが置かれていく。
片手では受け取りきれず両手を差し出したがそれでも積み重なるそれらは手の隙間からこぼれていく。
アンの背後からも、「抜け駆けすんな!」と叫びながら何人かが駆け寄ってきた。
細かい菓子がアンの腕で抱えきれないほど山積みにされていく。
ひとつもらうごとに「ありがと」「さんきゅー」と返していたアンも、その数の多さにいつしか目が回ってしまった。
気の利く一人がアンに大きな麻袋を一つ手渡してくれたのでそれに入れていったが、突如始まったプレゼント攻撃が一息ついたころにはその袋もいっぱいになっていた。
まるで泥棒のようにお菓子のつまった袋を肩に担いだアンは、なにもしていないのに得た収穫に自然と顔がほころんだ。
 
 
「すごい、おやつ何日分もある!」
 
 
アンがひひっと笑うと、先ほどまで隣り合う敵を押しのけながらアンの前まで進み出ていた男たちの頬がだらんと緩んだ。
 
しかし突如、カンカンッと鋭い金属音が食堂に鳴り響いた。
 
 
「そんなモンでアンを釣った気になってんじゃねぇぞ野郎共!」
 
 
片手に金属のお玉杓子を掲げたサッチは、カウンターの向う側で鼻息荒く仁王立ちしていた。
虚を突かれた男たちとアンはぽかんとサッチを見つめ返す。
 
 
「コックを出し抜いてアンの胃袋掴もうなんて百年早ェんだよ!」
 
 
顎を反らせながら、サッチはカウンターにどかりと大きな皿を置いた。
昼食用のワンプレートよりひとまわりもふたまわりも大きい皿に、いつもと変わらない昼食が山盛りと、大きな骨付き肉が肉汁を滴らせて二本。
皿の隅には小皿に盛られたプリンとたっぷりの生クリーム。
アンの目が一瞬で奪われ輝いたのと同時に、男たちはまずいものを飲んだかのようにゲッと顔をしかめた。
そして一斉に反駁の声が上がる。
 
 
「ズリィっ!サッチ隊長それはずりぃっすよ!」
「アンタそれでも隊長か!」
「うるせぇ、テメェ今権力使わねぇでいつ使う!」
 
 
いーっと子供のように歯を剥いたサッチは、アンに向かってにぃっと笑う。
 
 
「サッチ特製・対アン用スペシャルプレートだ!」
「あ、あたしの?」
 
 
目の前のカウンターに突き出された大きなプレートの料理たちは、アンを待ち構えてキラキラしているように見えた。
 
 
(…肉が光ってる…!)
 
 
「ありがとサッチ!!」
 
 
両腕で抱きかかえるようにプレートに手を伸ばしながらそう言ってサッチの鼻の下が伸びたのと、右側からサッチのリーゼントにさくっと細長い何かが刺さったのはほぼ同時だった。
 
 
「テメェその食費はどっから落ちてると思ってんだよい」
「おっまえ、オレのリーゼント傷つけやがって!」
 
 
ぷすりとサッチが頭から抜いたのはペン先のついた鋭利な羽ペンで、それを投げたマルコは少し離れたカウンターの先、そしらぬ顔でカップにコーヒーを注いでいる。
サッチはそのマルコにもいーっと子供のように歯を剥いて、アンに顔を寄せた。
 
 
「いいじゃんなー、アンが笑うってんだからこんくらいの食費なんて安いもんだっての」
 
 
いつもに増して口を尖らせたサッチは、アンに「はいっ」とプリン用の小さなスプーンを差し出した。
サッチの権力行使に口をはさんだマルコも、たいして本気でないようでもう何も言わない。
アンはマルコの顔をちらりと盗み見て、サッチの笑顔を見上げて、またあの何とも言えない困った感情が表れていたたまれなくなった。
それを隠すようにもう一度、今度は少しぶっきらぼうにサッチに礼を言って皿を抱え、ブーツを高く鳴らしてカウンターを離れた。
そして席に着くと、一息入れる間もなくプレートの中身をかきこんだ。
もらった菓子が詰まった袋は足元に下ろしてある。
 
 
知らなかった。
あたしが笑うとみんながよろこぶ。
あたしがよろこぶとみんながそれはうれしそうに笑う。
 
感情の共有はとても心地よかった。
 
 




 
 
 

 
 
「ロジャーの子?」
 
 
そう問うた白ひげは特にアンの返答を求めたわけではなく、ぐびりと酒の壺を傾けた。
白ひげのベッドの向かいにある手ごろな木箱に腰かけたアンは、俯いた顔を上げることができない。
神妙な顔で訪れたアンを白ひげは至極楽しげに迎え入れ、アンにとっては不吉なその言葉を聞いても顔色一つ変える様子がない。
それさえもアンにとっては恐ろしかった。
海賊王と唯一互角に渡り合ったという伝説の男は、どのようにその海賊王の子を突き放すのだろう。
 
 
「…そうか驚いたな。そうだったのか…性格は親父に似つかねェがなァ」
 
 
口では驚くと言いつつも、グラララと笑う声には少しの変化もにじまない。
アンは自分の脚の先を見つめたままぽつりと零した。
 
 
「敵だったんだろ」
 
 
白ひげは酒壺を口から離すと、じっとアンを見据えた。
 
 
「追い出さないの」
 
 
賭けのようなものだった。
それもアンにとって、限りなく負けに近い賭けだ。
アンが持つ手札はこれ以上ない程弱く、突かれたらすぐにも崩れる、もうイカサマでごまかしようもない。
負けを認めたも同然の気分でさらに深く俯いたアンの耳に届いたのは、変わりなく豪快な笑い声だった。
 
 
「大事な話ってェから何かと思えば小せェ事考えやがって」
 
 
誰から生まれようとも、人間みんな海の子だ。
 
 
アンが見開いた目を白ひげに向けると、ようやく交わった視線に白ひげがさらに口角を上げた。
笑うと白ひげは深く刻まれた皺が目元に増えた。
巨大な男の視線は初めて対峙した時と変わりなく鋭く光っている。
それでも、小さなアンの身体を柔らかく包んだ。
 
 
「オレのことはオヤジと呼べ」
 
 
オヤジ。
声には出さず呟いた。
忌々しくて仕方のなかった言葉が魔法のようにアンを包む。
 
 
「家族はいいぜ、アン」
 
 
白ひげは、ベッドのわきのサイドテーブルに酒壺をどかりと置いた。
とぷんと中身の揺れる音がやけに響いた。
 
 
 
「かぞ、くなんて」
 
 
震える下唇を押さえつけるように噛みしめた。
ギッと睨みつけると、金色の双眸が静かにアンを見つめている。
いつのまにか立ち上がっていた。
両脇で握りしめた拳がアンの意思とは別に小刻みに震える。
格好悪いと思ったが、どうしようもなかった。
 
 
「…『家族』なら…ずっとここにいていいって言って!あたしから絶対にもう何も奪わないって約束してよ!!」
 
 
白ひげはアンを見据えたまま、瞬きするような微かな動作で頷いた。
 
 
「約束しよう」
 
 
アンの頬を伝い輪郭をなぞり、鎖骨を辿る水滴が肌に染み込む。
ぼやけた視界の向こうにいるはずの男が、なによりも大切なものに思えた。
 
 
「──あたしとずっと一緒にいるって約束して…」
 
 
白ひげは、また同じ動作で頷いた。
 
 
「あァ、約束しよう、アン」
 
 
アンが白ひげの胸にしがみつくように飛び込むと、白ひげの大きな腕がそっとアンを包み込んで抱きしめた。
 
 
 
 

 
それからのことはよく覚えていない。
海に出てから、自分以外の誰かに弱さをさらしたのは初めてだった。
もしかすると自分自身に自分の弱さを突きつけたこともなかったかもしれない。
 
白ひげの膝の上で、固い腹筋に頭をのせて横になった。
膝を抱えて丸くならずに身体を伸ばして横になったのは、子供の頃もなかった気がする。
それでも温かい白ひげの膝の上にいると、10歳にも7歳にもそれより幼いころにも戻ったようだと思った。
10歳のアンも7歳のアンもこんなにも大きな温かさを知っているはずはないのに、なぜか懐かしい気分になる。
白ひげの大きな指が鼓動のように、規則的なテンポでアンの肩を叩いた。
 
…少し、ジジイに似ているかもしれない。
昨日と今日は、サッチといい白ひげといいよくガープのジジイを思い出す。
ガープに頭を撫でられた記憶はない。
ルフィとまとめて強引に抱きすくめられたことはある。
すぐそこに感じた身体は堅く大きく、頬にあたった髭が痛く、何より照れくさくて仕方なくて暴れるように抵抗した。
似ているのは、そのときの温度かもしれない。
 
 
 
じんわりと体温が上がってきた。
それと同時にうとうととまどろむ。
少し体を動かして横向きになると白ひげの膝からカクンと右足が落ちた。
しかしすぐに白ひげがひょいとつまんで戻してくれる。
目は開いているはずなのに、見える景色はどこまでもぼんやりしていてつかめない。
あたしなにしてんだろ、と何度も疑問が頭をよぎったがそれさえも考えられない。
ふぅーん、と白ひげが大きく息をついた。
 
まどろみの中で聞いた声は夢だったかもしれない。
 
 
『アン──お前にゃあ、ちぃと生きにくい世の中かもしれねェなァ…』
『特にお前みたいな我の強い奴はな』
『…だがお前にはもう父親と、兄貴が1600人もいる。みんながお前を守るだろうよ』
『アイツらァおめぇが可愛くて仕方ねェみてェだ。まさか妹ができるなんて思ってなかっただろうからなァ…』
『誰かがお前の傍にいる。一人にゃあなりたくてもなれねェだろう』
『何も奪いやしねェさ。与えたくて仕方ない奴らだ』
『家族ってのはいいぜ、アン。理由も理屈もいらねェで、無条件で愛してやれる』
 
 
 
目に映る景色はゆっくりと滲み、こめかみを温かい水が流れた。
 
 
 
 
 
 
 
The best way to make children good is to make them happy.
(良い子を育てる最良の方法はしあわせにしてやることだ)

拍手[33回]

 
 
「おっ、はよー、アン」
「はよう」
「おう、今から朝飯か!?」
「うん」
「アン、飯食ったら今日は二番隊中央甲板だかんなー!」
「わかった」
 
 
白ひげに仲間入りしてひと月ほど。
船が4つもあり、あまつ1600人もの大所帯ともなると顔を合わせるのは同じ隊のクルーばかりと限られてくるが、少なくともその二番隊の彼らとは、馴染んだと、思う。
入団4日目の朝から2番隊隊員を筆頭に流行したアンの頭を撫でる行為は、どうしてこうなった、と今でも思うがまだ続いている。
朝の挨拶、寝る前の別れを告げるとき、ほんの些細なやり取りの間に、彼らは勇み喜んでアンの頭を撫でる。
ひとりだけ、ぽんぽんと軽く叩く仕草では収まらずしつこく撫で続けてきた奴がいたが、一度牽制をかけてしまえばそれ以上はなかった。
もしかしてそういう習慣なのだろうかとも思ったが、アンのほかにそんなことをされているクルーは見当たらない。
それはいつのまにか2番隊内では収まらずにほかのクルーにも伝播され、今ではアンの前に列をなす勢いだ。
ただひたすら不思議な気分にはなるが別に不快なものではなかったので、アンは黙って受け入れ続けている。
いつのまにか自然と呼ばれるようになった名前にも違和感がない。
「船長」という肩書を失って、アンという単体になって、身ひとつで受け入れられることに初めは抵抗があったが、いざ「アン」と声をかけられたら、迷わず振り向けた。
振り向いてから、あ、と思い当ることもしばしばあった。
 
 
また、散らばってしまった元スペードの仲間たちに偶然会った時には近況を聞いてみるが、彼らも自分の隊でそこそこうまくやっていると聞く。
難しい性格の奴はいたが悪い奴はいないのだから当然だ。
それに彼らの寝床はきっと、各隊の大部屋に割り振られている。
寝食を共にしていれば、馴染まない方が難しいだろう。
 
しかし一方アンは、ひとり個室だ。
隣の部屋から聞こえてくるのは男たちがかけに講じたりバカ話に大笑いするにぎやかな声。
一人寝には慣れていた。
しかしそのにぎやかさがスペード海賊団を思い出させて、少ししんみりしたりもする。
だから夜は早く寝た。
遠くのざわめきを聞きながら目を閉じると潮騒と混じって耳に心地よい気がしたが、夢見はずっと良くなかった。
朝は早く目覚めた。
部屋の中にある小さな長方形の窓から光が入ってくる。
日が昇るのとほぼ同じくらいで起きた。
まだ誰も、少なくとも2番隊のクルーは誰も起きていない。
静かで、穏やかで、微かに揺れるベッドの上でアンはひとりだった。
 
一日のうちで交わす会話は朝の挨拶と、日中の雑務での事務的なやりとり。
気さくに掛けられる声はいくつもあったが、そのどれもにどう返していいのかわからず曖昧な顔をしている間に相手は苦笑いを残して行ってしまう。
こんなにも自分がコミュニケーションが下手くそだとは思わなかった。
頭を撫でられた後も、どんな顔をしていいのかわからない。
スペードの仲間と話すときはそうではないのだ。
近況を報告し合い、船が広すぎてなかなか合わないなと小さく笑って、他の仲間がどの隊で何をしているなどの情報を交換して、じゃあまたと別れるそのときまではとても楽しいひと時だ。
それに、たまたま袖擦りあった見知らぬ人間と酒場で飲み明かす機会があったとしたら、その時の方がきっとアンは上手に話ができる。
それくらいできなければ今まで女の体一つで海を渡ってこられたはずがない。
この、まだ相手のことを何も知らないのに突然確約されてしまった仲間という関係を持て余して仕方がない。
 
 
アンが夜中トイレなど野暮用でひとり廊下を歩いていると、すれ違った2番隊は声をかけてくる。
それこそ他愛のないもので、だからこそ返答に困る。
さらに重ねて言葉をかけようか、このまま会話を終わらせようか相手が悩んでいるのがはっきり伝わった。
そして今このときも、同じ状況だったが今度は勝手が違った。
 
 
「あ、アンは風呂まだなのか」
「うん、今日は11時」
「そうか」
「…」
 
 
また、だ。
必要ないのにお互いを困らせる嫌な種類の沈黙。
アンに声をかけた若い隊員は、あーっと、と困り顔でこめかみを掻いている。
もう最近はこうなったら、アンはサッサと立ち去ることにしていた。
「じゃあ」と止めた足を一歩踏み出したその時、「そうだ!」と隊員が大きな声を出した。
 
 
「な、に」
 
 
大きな声に思わず目を丸めて振り返ると、彼は遊びを思いついた子供のような顔で笑っている。
キラキラしてるぞ、こいつ。
 
 
「水曜の夜はな、あそこ、一番端の大部屋でポーカー大会なんだ。知らなかっただろ?」
 
 
空の隊長室の隣を指さした隊員は、キラキラした顔のままアンにずいと寄る。
うんと頷きながらアンは思わず身を引いた。
 
 
「そう、これに誘えばよかったんだ!これぁ2番隊だけしかいねぇんだからお前がいない理由がねぇ!そう、そうさ!」
 
 
自分の発案に隊員は何度もうなずく。
引き気味のアンはお構いなしだ。
 
 
「まぁどの隊でも同じようなことはやってるだろうがよ、うちの隊は水曜日で、あそこの部屋で、つまり今やってるわけよ!アンも来い!」
「えーっと、」
 
 
でもそれってあたしが行っていいの、の言葉は続かなかった。
隊員の大きな声を聞きつけて、どこからともなくわらわらと2番隊員が集まってきたからだ。
 
 
「あ、アンだ」
「なに、お前水曜日のポーカー知らなかったのか」
「じゃあ来いよ、今日はアンの初日だかんな、掛け金は誘ったこいつが出すってよ」
「おい勝手に決めんな!」
「まあなんでもいいから」
 
 
早く来い!と誰もが笑顔でアンを手招く。
面食らったアンはしばらく立ち尽くしたままぽかんとしていたが、おずおずと一歩踏み出すとアンを囲んだ男たちの勢いに押されて流されるように大部屋へと入ってしまった。
なんだかみんな、やけに嬉しそうな顔をしている。
 
 
 
そして始まったポーカー大会。
そこらじゅうに酒瓶が散乱し、イカサマがあっただのなかっただのという喧嘩はすぐに始まるしで部屋の中は無秩序極まりなかったが、それはアンが戸惑うくらい──楽しかった。
正直ポーカーは……得意ではない。
元スペードの船員いわく、「アンはすぐ顔に出る」から。
今回もそれはきちんと発揮された。
 
 
「はっ、アンの奴また負けてらぁ!」
「うるさいな、もう一回!」
「お前今日は掛け金ねぇからいいけど、本当だったらもう無一文になるところだぜ!」
 
 
ううう、と唸る顔からは持ち前の負けず嫌いがにじみ出る。
世の中にポーカーフェイスというものがあるのだとしたら、アンとは無縁に違いない。
男たちは酒を飲みながらかけに高じ、真っ赤な顔をして大きく笑った。
一方アンが見せる笑顔は手持ちがいいカードになったときのニヤリとした顔だけだったが、くるくる回るアンの表情は見ていて飽きない。
その表情の目まぐるしさ故にポーカーには向いていないのだが。
 
そろそろ夜も更けてきた頃、ふとアンがああ!と思い出したように顔を上げた。
 
 
「どうしたアン」
「風呂入るの忘れてた!!」
「あー」
 
 
そう言えば、風呂はまだだとかいう会話を交わしていたんだったとアンを最初に誘った隊員は記憶をたどる。
しかしアンはま、いっかと再び手元のカードに顔をうずめ始めた。
 
 
「風呂いいのかよ」
「一日くらいいい」
「ハッ、男らしくていいぜ!」
 
 
確かに今日は日中2番隊と3番隊で手合せがあり、アンも参加したので汗をかいた。
少し気持ち悪いと言えば気持ち悪いが、朝一でナースのもとに駆け込めば風呂を開けてくれるかもしれない。(ナースの風呂は覗き防止のため、ナース長によって鍵が管理されていた)
 
そうしてポーカーの熱は冷めることなくむしろどんどん上がっていったが、今日の朝も例にもれずアンは早かった。
現在時刻は夜中の2時。
アンを唐突に眠気が襲った。
 
 
「…ン、アン!」
 
 
ハッと覚醒すると、アンを含め輪を作る数人がアンの顔を覗き込んでいる。
 
 
「お前の番だぜ」
「あ、ごめ」
「なんだアン眠いのか」
「お子様だなあ」
 
 
うるさいっと歯を剥いても、今はもう笑ってあしらわれてしまう。
しかし眠いことは確かだ。
アンは小鼻に皺を寄せて、あくびをかみ殺した。
 
 
「…ねむい」
 
 
ぽつりとつぶやくと、男たちは一斉に笑った。
もう部屋に戻んな仔猫ちゃんとまで言われるが、反抗する思考能力さえとろとろと溶けて流れていく。
一度眠いと認めてしまうと眠気は猛烈な速さでアンを眠らせにかかった。
こっくり、と船を漕ぐ。
 
 
「おいおいアン、本当もう部屋戻れって」
「んー…」
 
 
返事はするが、行動が伴わない。
男たちは困り顔で顔を見合わせた。
思わぬところで子供っぽさが前面に出てきた、そのことへの驚きも少々混じっている。
 
 
「ほらアン立てって」
 
 
アンの隣に座った男が、既に肩を落とし何度も船を漕ぐアンを立たせようと腕を取った。
しかしすぐさま、男は顔を歪めてアンの腕を振り払うように手を離した。
 
 
「っつ…!」
「おいおいおい、なんだよお前」
 
 
周りの男たちが半ば引き攣った顔でからかうような声を上げる。
男に腕を振り払われたことで、アンの意識もハッと覚醒して今自分が何をしでかしたのかに気付いた。
 
 
「あ…ごめん…」
「…いや、急に悪かった…」
 
 
アンの腕から手のひらに伝わった熱は、触った本人にしかわからない。
男は赤くなった手のひらを隠すようにもう片方の手で包み込んだ。
妙な沈黙が落ちて、アンはごめんともう一度呟き立ち上がった。
 
 
「やっぱ眠い、もう寝るな」
「ああ、そうしろそうしろ」
 
 
男たちは思い出したように笑みを見せ、一様にアンに手を振った。
誘ってくれてあんがと、と去り際に言うと男たちは一層笑みを深くした。
 
 
 

 
 
やっちゃったなー、と口の中で呟きながら薄明りのついた廊下を歩いた。
こればっかりは、特に眠りなどで意識が飛んで行ってるときなどはアン自身にもどうしようもないのだ。
悪魔の実を食べて、この能力を手に入れて、自然とできるようになった自己防衛。
初めは単純に、無駄に手を下す必要がなくなったと喜んでいたけれど。
この力で何人ものスペードクルーを灼いた。
アンに触れられると触れられないの境はアン自身にもわからない。
相手がその境界線を越えてくれるのを待つしかほかはないのだ。
いつかそのときはやってくるのだろうが、そのときはまだだったらしい。
男くさくて酒くさい、物の散乱した大部屋のにぎやかさを思い出して胸の奥でどこかがツンとひっかかった。
たしかに楽しかったのに──
 
 
アンは大部屋から自分の部屋には直帰せず、一つ階段を上った。
外の空気に当たりたかったのだ。
甲板へつながる扉を開けると、外は少し冷えていた。
ここは──春島海域と言っていたっけ。
比較的暖かな海域でも、夜はやはり冷えるのかもしれない。
今日の空は曇っていた。
紺色の空は分厚い雲に覆われていて霞んでいる。
かすかに月明かりが一部からにじみ出ていた。
眠気はいつの間にかどこかへ行ってしまった。
冷たい空気を目いっぱい鼻から吸い込んだそのとき、背後の扉が開いた。
 
 
「あれ」
 
 
アンが驚いて飛び退いたのに反して、扉を開けた相手はまるでアンがそこにいるのを知っていたからドアを開けたかのように平然としている。
気配がなかった。驚いて当然だ。
 
 
「まだ起きてたのアンちゃん」
「…えーっと、」
 
 
誰だコイツ。
明るい茶色の長髪が夜目でもよくわかる。
長い前髪は生え際からピンでとめてあった。
黒いTシャツと七分丈のボトムスといったラフな格好の男は、人当たりの良い笑顔でニッと笑った。
その笑顔で、ああなんだか見覚えがあると思ったがどこで見たのかも名前も何も思い出せない。
 
 
「風邪ひいちまうぜー」
「ええ、と、2番隊…?だっけ」
 
 
アンが顔を覚えている人物と言えば2番隊か1番隊の隊長くらいしかいない、そう思って口に出してみたが、男が心外そうに眉をひそめたのを見てしまったと思った。
 
 
「ええーっ!オレのこと忘れちまったの!?」
 
 
ショック!超ショック!泣く!と夜中とは思えないテンションで男が叫んだので、アンは思わず辺りを見渡した。
メインマストから見張り当番の男が一人、驚いた顔をして見下ろしてきたが誰かが起きて出てきた気配はない。
男はハアアアと予想以上の落胆を示して膝に手までついた。
 
 
「ごっ、ごめんっ…誰?」
「サッチってんだよおお、4番隊の隊長ですよおお」
「うそ」
 
 
アンが即答すると、男はますます肩を落とした。というよりガクッと前につんのめった。
だって、とアンは言い訳をするように言葉を重ねる。
アンの知っているサッチという男は、たしかコックで、いつも白い服を着ていて、日によって違うスカーフを巻いていて、何より目立つのはそのリーゼントだ。
確かにそのサッチが4番隊隊長であるという情報はあとから聞いた。
だが今目の前にいる男は、アンが知っているサッチたるべき情報を何も持ち合わせていないように見える。
まるで別人だ。
 
 
「まあね、オレのかっちょいいリーゼントが今はないからね…」
 
 
男はやっと顔を上げ、そう言ってひとり納得したらしい。
アンは何となくもう一度ごめんと謝った。
 
 
「で、なにやってたの」
「…別に…ちょっと外出てみただけで」
 
 
そっちはと聞こうとしたら、サッチが急に腰をかがめてアンに近づいたのでアンはつい言葉を飲み込んだ。
代わりに「なに」と怪訝さを含んだ言葉がこぼれる。
 
 
「いや、お前風呂入った?」
「…やっぱクサイ?」
「いやいやそうじゃねぇけどさ。髪が潮っぽいからさ」
 
 
なんとなく。違った?と間近で首を傾げられる。
小首をかしげるおっさんなんて初めてだ。
 
 
「今日は…ちょっと気付いたら風呂の時間過ぎてて…入りそびれた」
「あらら」
 
 
そうなの、と苦笑いを返した男の左のこめかみに、大きく走る傷が見えた。
この傷は確かにあのサッチという男にもあった。
ジジイの傷と同じ場所だと思ったからなんとなく印象に残っている。
 
 
「風呂場は一応空いてっけどー…この時間じゃ水しか出ねぇしな…」
 
 
アンはすでに風呂に入ることなどすっかり諦めていたのに、サッチが真面目に思案し始めたのでアンは慌てて首を振った。
 
 
「風呂は別にもう」
「ああ!そうだ、2番隊の隊長室の使えよ」
「隊長室?」
「おー、隊長の部屋にゃぁ個人用のバスタブとシャワーがついてんだな」
 
 
特権ってやつだ、と悪戯っぽく笑う。
つまり誰も使っていない2番隊の隊長室のシャワーを使えと。
 
 
「隊長室のシャワーにだけはいつでも湯が出るんだよ。使ってないっつっても2番隊んとこのも出ると思うぜー。見に行くか」
 
 
えっと声を上げたアンに背を向けて、サッチは今自分が出てきた扉から船室へと戻っていく。
条件反射か、アンはつい遠ざかる背中を追いかけた。
 
 
「別にいいってば」
「まーまー見てみるくらいいいじゃん。それに潮ついたまま寝ると次の日の方がくっせぇぞ」
 
 
カラカラと笑う男は足を止めない。
結局数分もしないうちに2番隊の隊長室まで来てしまった。
鍵は閉まっていなかった。
初めて見た隊長室は、アンの個室の2倍以上は大きく、大部屋よりは一回り小さい。
しかし部屋に向かって左奥に一つ扉がついていた。あれが隊長専用の風呂場へ続くのかもしれない。
 
 
「うわっ、きたねぇなぁ」
 
 
とサッチがこぼした通り、たしかに部屋の中は空き箱やごみが適度に散らかり、埃を薄くかぶっていていかにも使われていない部屋だ。
サッチは迷わずアンが風呂場と検討をつけたドアに向かって歩いていく。
アンもおずおずとそのあとに続いた。
 
 
「ああー、こりゃ」
 
 
無理だな、とサッチが肩をすくめた。
その肩口から風呂の中を覗き込むと、風呂の中は部屋以上に衛生的に問題がある気がした。
水回りというのは汚れやすい。
きっと排水溝には埃がつまっているだろうし、床のタイルは水垢が目立つ。
さすがのアンでも少し腰が引けた。
せっかく連れてきてもらったけど、という言葉はでも頼んでないしという気持ちが先走って口にしなかったが、
 
 
「やっぱりいいよ」
 
 
そう言っても、サッチはアンに背を向けたまま何やら思案するよう腕を組み立ち尽くしている。
アンの言葉が聞こえなかったはずはない、聞こえているならどうして返事をしないの、どうしてあたしのことをそんなに真剣に考えるの。
 
急にサッチが振り向いた。
 
 
「これ使え」
 
 
ぱっと手を突き出されて、反射で手をだし何かを受け取った。
 
 
「鍵…?」
「オレの部屋のシャワー使え」
「はっ」
「だいじょぶだいじょぶ!アンが使ってるときはオレ部屋出てるから」
「えっ」
 
 
鍵預けときゃあ安心だろ?とサッチはぽふぽふアンの頭を軽く叩く。
 
 
「でもっ、それじゃあたしが使ってる間アンタどこにいるの」
「さあー、まあ場所なんていっくらでもあるし。隊員の部屋にでもいるからよ」
 
 
ニッと笑いながらも、サッチはまだアンの頭から手を離さない。
 
 
「…いやー…いいよ」
「えっ、なんで!オレッチの風呂そんな汚くないぜ?」
「や、そうじゃないけど…悪いし」
 
 
そういうや否や、突然アンの額にピシッと小さな衝撃が走った。
サッチの指がアンの額をはじいたらしい。
アンが虚を突かれた顔で見上げると、サッチは憤懣やるかたなしとでも言いたげな顔で「おバカちゃん」と呟いた。
 
 
「な…なんだよ」
「下手くそな気ぃ使ってる暇あったらさっさと行ってその潮くせぇ頭洗ってこい!ほら行った行った!オレの部屋はこの部屋のちょうど真下!」
 
 
サッチはアンの腕を掴み2番隊の隊長室から追い出すと、ゴー!と叫んで廊下の先を指さした。
行けと言っているらしい。
サッチの声の大きさに、ポーカーをしていた部屋の中から2番隊隊員が一人顔を出して怪訝な顔で覗いている。
なんだよやっぱり潮くさいんじゃないか、とアンはすんすん自分の肩口の匂いをかきながら、仕方なく歩き出した。

変なオッサン!



拍手[14回]

湯気が充満し視界を曇らせる脱衣所の中は、筋骨隆々の男たちでひしめいている。
浴場は海賊船とは思えないほどの広さを誇るが、その分脱衣時はとても狭く、服を脱ごうと腕を動かせば必ず横の誰かにぶつかる。
ついでに言えば、船での雑務に加え戦闘訓練などで一日を過ごした男たちから発せられる熱気は同じ男同士でも避けたいほどすさまじく、よって狭い脱衣所の空気は熱気とにおいでむわんと淀んでいた。
しかし何年もの月日をここで過ごしてきた彼らはそんなことを気にする繊細な感性を持ち合わせていないし、何よりそんな理由で風呂に入らない方がよほど汚い。
 
大浴場は週に数回決まった曜日にお湯が張られて、基本はシャワーで済ます。
今日は数少ない方の、湯が張られた日だった。
原則風呂の時間は隊別に割り振られており、深夜に近い今の時間帯は2番隊が自由に使える時間である。
一日の疲れた体を持て余した男たちがどんどんと風呂場へ吸い込まれていく。
50人近くが一斉に入ったので、一瞬で脱衣所は蒸されて熱気がたちこめた。
 
 
「おい、お前服からメシのかけら落ちたぞ。ガキかてめぇは」
「お前オレの服の上にパンツ乗せんな汚ぇな」
「…オレ今日はあの日だからシャワー」
「男のお前に何の日があるっつーんだよ風呂ギライめ。ほらいくぞ」
「ねぇこの籠使っていいの?」
「ああ、そこに服入れんだ。間違われねェようにな」
 
 
ばさりとシャツを脱ぎながら答えた2番隊員は、襟元から頭を抜く一歩手前の状態で動きを止めた。
聞き違いでなければ、今発せられたのは男にしては随分高い、聞きなれない声だった気がする。
ああ、聞きなれないのはそれもそのはず、最近一気に仲間が増えたのだ。
この騒がしさの中だ、声の高さは聞き間違いかもしれないし、風邪ひいてるやつがいるのかもしれない。
でも…見るのが怖い。
男は半脱ぎのシャツの中で数秒逡巡し、それからそっとシャツから頭を抜いて隣を確認した。
 
 
「シャワールームだけ使うときもここで脱ぐんだよね?」
 
 
ヒッと情けない声が出た。
 
 
「おまっ!…え!?なんっ……!?」
 
 
シャツから頭を抜いて開けた視界の中いの一番に見えたのは、むき出しの細い肩だった。
アンは脱いだシャツを無造作に籐の籠の中に放り込むと、次は大ぶりの珠のネックレスを外しだした。
隣の男の慌てっぷりはまったく視界に入っていないようである。
 
 
「なんでここにいるんだよ!」
 
 
悲鳴に近い男の声によって、脱衣所中の男の視線が一斉にアンに集まった。
 
 
「なんでって…シャワー浴びるんだけど」
「!?」
 
 
湯気で曇る視界のなか、がたいの良い野郎共の間でひと際小さなアンを認識した瞬間、一斉に男たちはタオルを自身の下半身の前に広げた。
タオルを持たずに悠々と歩いていた男などは、ただ右往左往して誰かの陰に隠れるしかない。
かぽーんと高らかな音が遠くで響いた。
 
 
「ずっと思ってたけどさ、この風呂場のかぽーんって、なんの音なんだろう…」
 
 
硬直した男たちの中で、アンは真面目くさった顔でそう言った。
 
 
 
 
 

 
 
「私たちのお風呂場?」
 
 
アンの言葉をそのまま返したナースは、気まずそうに切り出したアンを見てからぽんと手を打った。
 
 
「そう言えばあなたとお風呂で会ったことないわね。時間が合わないだけかと思ってたけど。今までどうしてたの?」
 
 
そう聞かれても、アンはうんまあ、と口ごもるしかない。
しかしナースは特に気に留めたふうもなく、場所は知ってるかしらとアンに使い方の説明を施してくれた。
 
あの日、アンが初めての大風呂へと赴いた日は、週に数回の大浴場が解放される日だと聞いていた。
しかしまだ慣れない場所で丸腰になって、しかも水につかるなんて能力者にとっては致命的だ。
あくまで丸腰であることがではなく、浴場で水につかってしまうことが問題なのだ。
だから仕方ない、風呂は諦めてシャワーだけの日々になるのだろうと半ば覚悟していた。
風呂場と脱衣所の使用時間は隊によって割り振られているとマルコに聞いていたので、アンは大部屋の前に貼ってあった表を確認してきちんとその時間帯に部屋を出た。
タオルと、着替えと、石鹸とかはあるのかな。
わからなかったので隣の部屋の隊員に聞くと、大浴場にもシャワー室にもあるとのこと。
衛生用品に関しては何の手持ちもなかったアンは、それはよかったと勇んで部屋を出た。
風呂場が近づくにつれて、中から喧騒が漏れ出して廊下にまで響いている。
扉を開けると、中からいろんなにおいの混じった熱気がアンの顔にぶち当たってきた。
 
うっわ、と思ったものの、ここは男所帯なのだから当然だと思えばなんてことはない。そのあたりの順応性はあるほうだ。
正面のくもりガラスの向こう側が大浴場らしい。
脱衣所の床には薄いカーペットが引いてあったが、既に濡れそぼっていてブーツでふむとぐちゃりとなって少し不快だ。
脱衣所の中はいくつかの本棚のようなものが立っていて、その棚は四角く区切られている。
中には籠が収まっていた。
着替えをしている男たちはその壁のほうを向いてごそごそと脱ぎ着していた。
アンは裸、もしくは半裸の男たちの中をてくてく歩いて行って、まずはシャワールームを確認する。
こっちが大浴場、ここがシャワールーム。
あ、着替えを入れるものがない、ってことはあの脱衣所で脱いでここまでこなきゃなんないのか、めんどうだな。
随分混んでたけど着替える場所はあるのかな、そんなことを思いながらまた脱衣所へと戻ると、壁際の棚に人ひとり分入ることのできる隙間を見つけたのでアンはすかさずそこに滑り込んだ。
隣の男に聞くによると、この籠は脱いだ服や着替えを入れて置くものらしい。
それなら、この籠ごと持ってシャワールームに入ってしまえばいいじゃないか。
そうすればその中で全て済ますことができる。
そう思い立ったアンは、先にシャツだけ脱いでおこうとボタンに手をかけた。
そして事は起こった。
 
アンを見て硬直した裸の男たちは、はっと我に帰るや否や蜂の子を散らすように慌てふためき押し合いへし合いの末大浴場へ引き返してしまった。
入浴前か入浴後で服を着ている男たちは、生唾を飲み込んだ自分を叱咤してそそくさと出ていく。
あっというまに脱衣所は閑散としてしまった。
 
 
「…なんだよ…」
 
 
まるでアンを避けるように目を逸らして出ていった男たちの態度に、アンは鼻白んだ顔でつぶやいた。
実際、男たちが突然の「女」の登場に驚き逃げたのは事実である。
これがもしアンではなくただの女であれば、あれよあれよというまにハエのようによってたかっていたかもしれないが、白ひげとアンの戦いをその目で見たクルーたちには生唾を飲み込むのが精いっぱいだ。
おかしな目で見て燃やされたらたまったもんじゃない。
その場に残っていたのは、アンと数人のそれなりに歳を取った古株だけだった。
古株の男の一人が、アンに向かって苦笑する。
 
 
「お前、いきなり入ってきたらいくらなんでも驚くだろうが」
「だって今2番隊の時間だろ?」
 
 
どこに驚くところがある、とアンは半ば憤慨して言い返したが男の苦笑はますます深くなるばかりだ。
 
 
「船乗りには目の毒だっつってんだよ」
「着替えはシャワールームでするつもりだし」
「そうだとしても、まぁ野郎どもの恥じらいをわかってやってくれよ」
 
 
苦笑いで目元に浅く皺を刻んだ男は、脇の間に服の塊を持ってそのまま脱衣所を後にしてしまった。
恥じらいをと言われても、スペード海賊団の時にそんなもの男たちが感じている気配はなかった。
少なくともアンは感じなかった。
こんなに大きな大浴場などもちろんなかったので誰かと一緒に入るということはなかったが、クルーが脱衣中のところにアンが『忘れ物!』と言って突然入り込んでも誰も動じはしなかった、はずだ。
そのクルーたちと白ひげの彼らの違いがわからない。
結局アンはその日、納得のいかない気持ちを抱えたまま手早くシャワーを済ました。
 
次の日は浴槽に湯は張られないので全員シャワーを使わねばならないが、脱衣所は変わらず大盛況となる。
しかしアン乱入という当然だが未だかつてない事態を経験した彼らは、おちおちパンツを脱いではいられない。
結果、アンの動向をうかがうことになった。
浴場が2番隊の時間になって、アンがまだ部屋にいると確認した瞬間一斉に2番隊員は風呂場へ押しかける。
見張り役の隊員が残って、アンが風呂に入る準備をして部屋を出たらすぐさま報告し一斉に風呂を出る。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、それなりに中年に近づいた者が多い彼らは、うら若き娘に裸体を見せるのは非常に苦痛で、かつ申し訳ないようなやりきれない気分になるのだから仕方ない。
 
そんなふうにして3日はやり過ごした。
だがこれから毎日風呂の時間になればアンを避けているのでは非常に面倒だし、なによりアンとの距離がいつまでたっても埋まらなかった。
事実アンは自分が風呂に入る時間になると誰もいなくなることに気付いていたし、それに対して納得がいっていないことにも気付いていた。
もうこれはアンに、ナースの風呂を使ってくれと頼むべきではないかという案が立ち上がり始めていた4日目の夜、アンの隣の大部屋のドアがコツコツと誰かの来訪を知らせた。
扉の外側に立っていたのはきまり悪そうな顔をするアンで、肩をすぼめているので小さく見える。
アンは「あたしはナースの風呂を借りるからもうあたしに気ぃ使ったりとかそういうのはいい」と俯きながらはっきりと言った。
 
 
「…そ、うか?」
 
 
アンに対面した古株のクルーは安堵を隠しきれず問い返した。
アンはこくりと頷く。
その場にいた数人のクルーたちも、なんとなくアンに申し訳ないような気まずい気持ちを抱えながらそれでもやはり安心して、思わず頬を緩める。
 
 
「いや、オレたちも悪かったな。いやな気分にさせて」
「…あたしが、マルコの言うこと聞かなかったから…」
 
 
少し尖らせた唇でそう言った意味はよくわからなかったが、とにかくこっちこそごめん、と殊勝に謝ったアンの頭にクルーは思わず手を伸ばした。
 
 
「ありがとな」
 
 
ぽんぽん、とアンの頭の上で二回手を跳ねさせてから、しまったと思った。
気が強くついこの間までぐるると警戒心むき出しだった者に、まるで子供にするように頭を撫でてしまった。これは気を悪くされても仕方ない。
手を微妙な位置で宙に浮かせたまま、クルーは反応のないアンの顔を覗き込むように窺った。
きょと、と大きな瞳が男を見つめ返していた。
予想外の表情に男が驚いて思わず顔を引くと、アンはついさっき男に軽く叩かれた部分にぽんと自分の手を置いた。
 
 
「今のなに?」
 
 
なにって、とたじろいだ男もアンに倣って目を丸くする。
 
 
「…こう…頭を…ぽんぽんって…撫で…」
 
 
って何の説明をしてるんだオレは、とセルフ突込みを入れかけたところで、背後のクルーが息を呑んだ音が聞こえた。
 
目の前の娘が、はにかんだ。
笑っているとは随分遠い気がするが、それでも頭に手を置いたまま、ほんの少し頬を緩めた。
ぽかんとアンを見つめ返した男に、アンは自身がはにかんだことにも気付いてないそぶりで「じゃあそういうことで」と勝手に話を切り上げ立ち去ってしまった。
残された男はアンがいなくなってもしばらくその場に立ち尽くしたままである。
後ろのクルーの呟き声で、やっと我に返った。
 
 
「…超かわいい…」
 
 
 
 
 

 
 
かくして風呂騒動は決着がつき、アンはだいたい決まった時刻にナースの風呂場を借りることとなったらしいとマルコはその翌朝食堂にて2番隊隊員に聞いた。
 
 
「まじでー、オレ2番隊ならよかったのに」
 
 
テーブル挟んで向かいのサッチが本気とも冗談ともつかない戯言を呟いたが聞き流して、マルコはあのとき「好きにしろ」と言った自分が正しかったのか間違っていたのか判断しかねる、と隠れて渋い顔をした。
まあ今更悩んでも詮無いことではあるし、結局ナースの風呂を使うことに落ち着いたのなら文句はない。
 
 
「ナースの風呂場か…桃源郷だな」
「お前その顔絶対外でさらすんじゃねぇぞい。オヤジに悪い」
 
 
サッチが朝からだらしない顔をさらにだらしなく緩めたことを諌めてコーヒーをすすったとき、視界の端で食堂の扉が開いたのが見えた。
渦中の人物、アンである。
マルコの言葉に口を尖らせていたサッチは、アンの登場にお、と心なしかテーブルに身を乗り出した。
 
 
「そろそろ馴染んでくれましたかねぇ」
「さぁな」
「なに、冷たいじゃん。隊長様自ら世話焼き係申し出たんじゃなかったっけ」
「誰が」
 
 
フンとマルコが鼻を鳴らし、サッチが肩をすくめた少し遠くで、一人の2番隊員がアンに声をかけた。
ざわめいた食堂の中声までは聞こえないが、動作でわかる。
おそらく朝の挨拶だろう。
愛想よく声をかけたその男に、アンは相変わらずの仏頂面で言葉を返した。
男の陽気そうな顔は変わらない。
そして彼はアンとすれ違う瞬間、アンの頭をぽんぽんと二回ほど撫でた。
 
 
サッチもマルコも、思わず自身の動作を止めて見入ってしまった。
愛想がいいというより、あれは馴れ馴れしすぎやしないかと思わせるそぶりだったからだ。
あんなことをすれば、牙むき出しでフーフー言われるのは目に見えている。
しかしアンは、少し眉間に皺を寄せてその手を受け止めただけで、何を言うでもなく普通にその男とすれ違った。
眉間に寄ったその皺も、いやがっているというより困っているように見える。
マルコとサッチが呆気にとられているうちに、アンとすれ違う2番隊の男たちは次々にそろいもそろってアンの頭を撫でていく。
その顔は気味が悪いほどの笑顔、笑顔、笑顔だ。
その男たちに比べて、当のアンは何となくげんなりしているように見えないでもない。
気付けば呆気にとられているのは二人だけではなく、その場にいた2番隊以外のほとんどがその光景に目を奪われていた。
 
 
「…どゆこと?」
「…オレが知るかよい」
 
 
他の隊が知らぬ間に、どうやら随分と馴染んでしまったみたいだ。
 
 
「なんなのあいつら全員、孫にほだされたジジイみたいな顔しやがって」
 
 
たしかに、と頷きはしなかったがマルコは否定もしなかった。
 
 
「なんにしたって羨ましいじゃないの」
 
 
たしかに、と頷きはしなかった。


拍手[17回]

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