OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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小さな水面に数滴水を垂らすと波紋は広がり水は波立つ。
しかし海に数滴の雨が落ちたところで海面に何ら大した変化はない。
スペード海賊団が白ひげ海賊団に吸収され従うべき船長を変えたのは、そういうことだった。
しかし数滴の雨は雨なりに、小さな波紋をいくつか作るわけで──
アンを含むスペード海賊団のクルーたちが『白ひげ』に加わってまず行われたのは、16ある隊への振り分けだった。
これは15人の隊長が会議により話し合い、最終判断を白ひげに仰ぐことで決定する。
しかしアンが2番隊であることは、白ひげが会議の前から決めていた。
隊長席が空席のその隊は、これというまとめ役がおらずともひとりひとりの芯が太いので特に揺らぐこともなく保っている唯一の隊だ。
『アンは2番隊だ』
マルコが相談を持ちかけると、白ひげは一も二もなくそう言った。
随分と上方にある金色の瞳は淀みなくマルコを見下ろし、そしてどこか楽しそうで、マルコはただ黙って頷いた。
そして決めなければいけないアン以外の元スペード船員たちだが、彼らの中には専門職のものもいる。
手に職を持つ彼らは、同じく手に職を持つ白ひげ海賊団の職人たちによってサクサクと拾われていった。
コックはサッチの4番隊へ、航海士は航海士長のもとへ、といった具合である。
アンが白ひげに降伏を示した翌日、全員の振り分けが終わった。
アンを含む全員が静かに受けいれ、各隊長たちが彼らにあらゆる指示を与える。
そうして彼らが各隊長に従い去っていくと、中央甲板には自然と一人ぽつんとアンだけが残った。
アンを迎えに来る二番隊隊長は存在しないのだから当然だ。
アンは去って行った元スペードのクルーたちの背中を見て、少し首をひねり、そしてまた小さくなっていく彼らを見る。
どこか心許なさそうな顔つきは年相応だ。
アンが佇むのは甲板のメインフロア。そこは大きな円形にくぼんでいて、正面には白ひげの椅子。周りは3段ばかりの階段が囲んでいる。
白ひげの椅子の横でその陰に半ば隠れながらマルコはそんなことを思い、手元の書類に視線を落としたまま口を開いた。
「アン」
アンがぴっと顔を上げ、その視線がマルコを見つけた。
すぐさまとたとたと駆け寄ってくると、マルコの目の前でぴたりと止まった。
書類から顔を上げると、所在なげな表情でうつむきがちに立つアンの後頭部が見えた。
どこか釈然としない表情なのは、まあ昨日の今日だからということで黙認する。
アンはちらりと視線だけ上げてマルコを見上げた。
「…あんたが2番隊?」
「マルコ」
「え?」
「アンタじゃねぇ、マルコだ。最初に言ったろい」
きょと、と黒い瞳が丸くなった。かと思えば見る見るうちにむっと眉間に皺が寄り、アンは見上げていた視線をすぐさま外し「隊長」と呟いた。
まったく可愛げのない。
マルコは書類を筒状に丸め、ペンを尻のポケットに突っ込むとアンに背を向けて歩き出した。
「付いて来い」と後から言葉だけ投げられる。
アンは明らかにいやいやという様子でその言葉を受け取り、マルコの数歩後ろを歩きだした。
むすっとした顔つきが背を向けていてもわかるようだ。
マルコの長い足は船上を行き来し、一つずつ船の中を案内していく。
細かい生活のルールなど、覚える事はアンの頭の中に山となって積み重なる。
初めはマルコの説明に無言で頷きを返すか、あるいはわかったと不愛想に呟くだけだったが、そうして幾つもの説明を施して歩いていくうちに、ふとマルコが気付いた時にはアンはマルコのぴったり横へ、そしてマルコの声を一つも聞き漏らすまいとするかのように真摯な様子で頷きを繰り返している。
あいかわらず言葉少なだったが、それだけアンの必死さがうかがえる。
この船での生活に慣れようと、もしくは腹をくくったのかもしれない。
結構なことだとマルコはこっそり笑った。
「ここが大浴場とシャワールーム。野郎はここを使うがお前は違う」
「なんで?」
タンとシャワールームへと続く扉の背を手の甲でたたいたマルコは、ぽっかりと開かれたアンの口をしばらく見つめた。
なんで?ともう一度言葉が出てくる。
マルコは扉に手の甲を預けたまま、先の言葉を繰り返した。
「ここは、野郎共が使う」
「うん、じゃああたしも」
「お前は違う」
すると今度は、なんでだよと険を含む声が返ってきた。
アンの言わんとすることが何となくわかってきたマルコは、ああーと不明瞭な声を天に向かって発してからアンを見下ろした。
「お前はナース達の風呂場を使え」
「あたしはナースじゃないっ」
「んなこたわかってるよい、そうじゃなくてお前は」
「あたしは戦闘員だっ!」
マルコの言葉を遮り、アンは息まいてそう言った。
風呂場を誰が使うかのくくりは戦闘員かそうじゃないかは関係ないだろうと、この娘に言ったところで聞き入れられる気がしない。
マルコは半ば投げやりな気分になって、放り投げるように言った。
「じゃあ好きにしろい」
途端にアンは満足げに顔を緩めて、「次!」と案内を迫った。
もう知るもんか。
「食堂の場所はわかるだろい。飯は三食時間になれば鐘が鳴る。敵襲の鐘と間違えんなよい。席はまあ好きなところに座れ」
「わかった」
長い廊下を歩きながら、マルコは思いつくまま船の中での生活のルールを説明していく。
マルコがこぼすように話していくそれを、アンは丁寧に一つずつ拾いながら飲み込んでいるようだった。
「大所帯だからねい、気ぃ抜いてると食いっぱぐれるよい」
まんざら嘘でもないそれをついでのように言ってみると、隣を歩くアンからふっと息の音が聞こえた。
気のせいかと思ってちらりと横目で見てみると、気のせいじゃない、笑っている。
「そこんとこは心配いらない」
初めて見た、自身に溢れた顔。
きっとこれが何も着ていない、コイツの素顔。
そりゃあ結構と頷いた。
「雑多だがこれが船ん中の地図だ。今いるこの階の階下が1,2番隊の部屋群。その下が3,4番隊。一番下がナースたちの部屋と倉庫だ」
アンの手の中で広げさせた地図を指さしながら淡々と説明を加えていくと、アンは地図の視線を落としたままこてっと首をかしげた。
「なにかあるかい」
「…隊って…確か16こじゃ」
「そうだよい」
「なんで1から4番隊までの部屋しかないの?」
当然と言えば当然の疑問だが、マルコにとって当たり前すぎて考えたことがなかった。
「いくらこの船がでかくても、さすがに1600人全員の寝床はねぇよい。見たことねえかい、モビーのほかに白ひげの船はあと3つある」
「…まじか」
「その3つに5~8番隊、9~12番隊、13~16番隊の部屋があるんだよい」
そんじょそこらの海賊とは規模が違うのだ。
改めてそれを思わぬ形で知らしめられたアンは目を丸めたままぽかんと口を開いた。
「各隊の隊長どもはだいたいモビーに…この船にいるがな」
さあ次だ、とマルコがさっさと歩を進めると、後ろから慌てた足音がついてきた。
*
淡々と船内の説明をしていく男の声を一つも取りこぼすまいと思うと、自然と肩は横に並んだ。
ここで新しい生活を始めなければならないと腹をくくったのだから、覚えるべきことは全部頭に叩き込んで人の手を焼かせることはしたくない。
持ち前の意地が幸いして、マルコの説明はするすると頭に入ってきた。
それにしてもこの男の喋り方は、淡泊だが簡潔で要点をついていて、いかにも人の上に立ち説明を施すことに慣れているというタイプ。
「洗濯は当番制。大部屋の前に表が貼ってある。洗濯室はここ。やり方は適宜聞け。以上、次」
といった具合だ。
アンはちらりと横の男の顔を盗み見た。
変な髪型。揺れてる。
眠そうな目。ずっと不機嫌そうな顔ばかりしている。
分厚い唇はたくさん話していてもあまり動かない。それでも声はよく通るバリトン。
目のふちに刻まれた小皺が少し年齢を感じさせた。
マルコと言った。
この男が、これからあたしの上に立つ。
「照れるだろい」
マルコはアンの方を見ることもなく、事務的な説明の間に挟むようにそう言った。
ぎょっとして、思いっきりマルコの顔を見上げても当人の顔は至極平静としている。
見てるのばれてた。
不意を突かれたことに驚いて、ついでになぜか悔しくて、アンは思いっきりフンと鼻息付きで顔を背けた。
何が照れるだ、顔色一つ変えないくせにつまんねぇ顔しやがって!
*
そうして一通り船の中を巡り廻った頃には、廊下の丸窓から差し込む日の光がだいぶと赤くなっていた。
アンがその光にふと目をやっていると、マルコもそれに気付いたのか「ああ随分かかっちまったねい」と言った。
「まあ概略はこんなもんだろい」
概略にしては随分多い。
「そのうち晩飯だが、その前にお前さんの寝床だけ言っとかなきゃなんねぇな」
「寝床?ここの大部屋だろ?」
今二人が歩く廊下には、突き当りの隊長室からずらりと20ほどの部屋のドアが向かい合いながら林立している。
そこが数人ずつの隊員に割り当てられているのだと、アンは教わったばかりだ。
しかしマルコはアンの問いは無視して、並び立つ部屋の一番端、階段の隣にあたる部屋の扉を開けた。
「ここがお前さんの部屋だよい」
促された気がして、アンはひょいと首を伸ばして部屋の中を覗いた。
先程覗いた大部屋よりも随分と小さい。
大部屋が5,6人用だとすればここは明らかに一人用、頑張っても二人というところか。
「もともと空き部屋で倉庫代わりだったから空樽やら空き箱やらとっちらかってるが、その辺は自分で好きに捨てるなりしろい。片づけは飯の後だな、同じ隊の奴に手伝ってもらえよい」
「えっ、ちょっと」
待って、とアンはマルコを見上げた。
「あたし、ここで寝るの」
「不満かい」
「そうじゃねぇよ!」
どこか揶揄するようにひょいと片眉を上げながら言われたことにカッとして、声を荒げてしまった。
おっとっと、と慌てて俯きながら言葉を足した。
「その、別にもう今更寝首かいたりするつもりないんだけど」
ぼそぼそ言った言葉に返事が返ってこなかった。
怪訝な顔を上げると、目の前の男は、顔の下半分を大きな手で覆ってアンから顔を背けている。
アンが眉をひそめたままマルコの顔を覗き込むと、細長い指の隙間から見えた口元が笑っていた。
「おいっ!」
抗議の声を上げると、悪いと簡単に謝られた。それも悔しい。
「誰もお前が夜襲しかけてくるから部屋分けるなんて言ってねぇだろい」
「じゃあなんで」
「社会的配慮だ」
「しゃかいてきはいりょ?」
なんだそれはと問うと、マルコはあっさり
「船の上で男数人の中に女一人放り込むほど、うちは人道外れちゃいねェよい」
いくら海賊といえどな、と答える。
その返答にすかさず反駁の声を上げようとしたアンの眼前に、マルコはまるで『ストップ』というように手のひらをかざした。
「『女だから』は聞き飽きたかい」
今まさにアンが口にしようとしていたことを先に掬われて投げられた。
アンが言葉に詰まると、マルコは軽く口元を緩めた。
「別にお前さんの性別上、保身が必要だからっていうわけだけじゃねぇ。だが確かにお前は女で、それ以外は男で、飢えた男は据え膳の女をほっとかねぇ。いくら同じ船の仲間だとしても、だ。お前さんが自分の手で自分の身くれぇ守れるっつっても、いらねぇいざこざは起こさないに越したことはない。違うかい」
返す言葉はなかった。
アンが投げつけるはずだった文句も責め苦も全て綺麗に包装されてリボンまでついて帰って来たみたいな感じだ。
「お前の部屋はここ」
いいな、と無言で問われてアンは黙って頷いた。
「じゃあそのうち晩飯だ、食堂行くかい」
「あっ、ちょっと待って」
マルコが立ち止まり振り向くと、アンはずっと遠くに小さく見える突き当りの部屋を指さした。
「じゃあアンタ…マルコの部屋はあそこ?」
一応の確認に、と思って聞いたつもりで、すぐに肯定が帰ってくるとばかり思っていたアンは、マルコの「いや」という返答に目を丸くした。
「だ、だってアンタ2番隊の隊長だろ?」
「いや、オレァ1番隊だよい」
さらりと帰ってきた予想外の返答にアンがますます目を丸めると、マルコは「言ってなかったかよい」としれっとした顔で答えた。
「スペードの奴はたまたまオレの隊にこなかったし、2番隊には隊長がいねェ。そういうわけでオレがお前さんの面倒を見たってわけだ」
「そ…なの」
なんだ、同じ隊じゃないのか。
そんな声が頭の中をよぎって、慌てて振り払った。
だからなんだというのだ。
他に質問は、と問われて首を横に振ると、じゃあ食堂だとマルコは先に立って歩き出した。
アンは背中側に落としていたテンガロンハットを、ギュッと頭の上に押し付けて目深にかぶった。
マルコはアンを食堂まで連れて行くと、「野郎どもの中に交じってりゃあメシの仕組みは教えてもらえるよい」と言って目線でアンに進むよう促した。
「…マルコは行かないの」
「オレァちょっとやることがある」
「…くいっぱぐれるよ」
そう言うと、マルコは初めて声を上げて笑った。
「その分お前が食え」
そのまま踵を返したマルコは、食堂に背を向けて来た道を戻りだした。
もしかしてあたしを食堂まで連れてきただけだったのか、とアンが思い当った矢先、アンの視線の先でマルコに一人のクルーが歩み寄り何か言葉の応酬をしながら数枚の紙を手渡した。
そこでようやく、そうだあの男にはあたしを船中見て回らせる以外に、毎日の仕事があったはずだと気付いた。
書類を受け取ったマルコは、朝から変わらない気だるげな足取りでアンから遠ざかっていく。
いやだな、と思わず口の中だけで呟いた。
感謝してしかるべきかもしれないのに、それより早く悔しいと思ってしまう。
あの男はいつもアンの言おうとする言葉を先回りして解釈し、かみ砕いて返してきた。
ことあるごとにカッとしてしまうアンに反して、マルコはそのアンの熱を静かに冷ますようなことばかり言う。
まるでお前は子供だと言外に言われているような気がした。
けしてバカにしているような目はしていなかったのに。
アンは角を曲がっていったマルコの残像を振るい落とすと、いいかげん減って仕方のなかった腹を満たすべくいい匂いのする方へと歩き出した。
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ナースと一緒に風呂から上がり、脱衣所で手渡されたのはなめらかな手触りの長そでのシャツとズボン。
落ち着いたクリーム色に黄緑色の水玉が薄く散ったそのパジャマを、アンは目の前に広げてぼんやりと見遣った。
「気に入らない?」と言われて、黙って首を振り大人しく袖を通した。
ナースは動きやすそうなネグリジェの上にショールを羽織ると、アンの濡れた髪を指さしてきちんと拭くように指示する。
無遠慮に拭こうとしてこないところがアンを嫌な気持ちにさせないので、これまたやりづらい。
脱衣所を出ると、ぴゅうっと冷たい風が首筋を撫でた。
ナースは寒そうにショールを掻き抱く。
アンはそっと、服の上から自分の腕をさすった。
ぺたりと油の浮いた肌ではない。
サラッとした生地の感触が良く手に馴染む。
腕をさするアンが寒がっていると思ったのか、ナースは「暖かいものを食べましょうね」と声をかけた。
「ああそう、少し寄り道してもいいかしら。部屋からカルテを」
「…あたしひとりで行けるから」
「だめ。私も行くわ」
アンの提案をぴしゃりと跳ねのけたナースは、さあこっちよと闊達に歩を進める。
アンはむぅと口をつぐんで、彼女の後に続いた。
すっかりこの人のペースだと分かりながら、抵抗できないのだ。
風呂に入る前、借りる服を取りに寄った際に思ったことだが、ナースの部屋はものすごく遠かった。
階段をいくつも降り角は数回曲がり、同じ板張りの床が延々と続く長い廊下を歩いていく。
経験上道を覚えるのは苦手じゃないアンでも、こうも同じ景色の中では一度で覚えられそうもない道筋だった。
こうともなれば、ここから食堂へ行くのにも彼女の水先案内がなければ辿りつけないだろう。
そう言えば、こんなにも船内を歩き回るのは初めてだ。
船の奥深く、ナースたちの寝室にやっとのことで辿りつくと、彼女はすぐだからちょっと待っていてと部屋の扉を開けたままそこにアンを残して中に入っていった。
あいかわらず部屋の中からは柔らかな、まったりとした甘いにおいがかすかに香る。
埃や汗の男くささとは無縁な一角がこの船の上に存在するなんて、余所者は誰も想像さえしないだろう。
アンが少し屈んだナースの背中を見るともなしに見て佇んでいたその時、警戒心の一端が異質な気配にぴくりと反応した。
それとほぼ同時に、カランと耳慣れない木の音が聞こえる。
アンが素早く音のした方に顔を向けてしばらくすると、10メートルほど離れた角の向こうから人の姿が現れた。
薄桃色の布が幾重にも重なったような変わった服装。
カランというおかしな音はその人間の履くこれまた変わった靴のせいのようだ。
黒髪はどういう構造なのかさっぱりわからない様子で後ろにまとめられていて、額から垂れた一筋の髪が歩調に合わせて微かに揺れる。
目を伏せ気味に歩いているからか、やたらと長い睫毛が遠くからでも濃く見えた。
(…女?ナース?)
それにしてもラフな格好をしている。
ラフというか…動きにくそうな格好だ、とアンはその場から動くこともせずに身体はナースの部屋に向けたままその人間をまじまじと観察した。
(あ、男だ)
懐手をしたその男の襟元が少し開いていて、そこから胸板がちらりとのぞいていた。
不意に、男は顔を上げた。
アンはそれにつと身じろぐ。
しかし男は目の前のアンになんの頓着も見せず、まるでそこにアンがいることに気付いていないかのようにするりと水のような動作でナースの部屋の隣に入っていった。
今までこの船のクルーはアンを目にすると何らかの反応を見せたので、この男の無関心さは逆に癪なような気分になる。
アンを見もしなかったのだ。
いつのまにかアンの目の前まで戻ってきていたナースは、首だけ回して横に睨むような視線を送っているアンをいぶかしげに見下ろした。
「どうかした?」
ハッとして視線をナースに戻すと、思わぬ近さに彼女がいる。
なんとなく気まずい思いで首を振った。
ナースは不思議そうに首を傾けたが、特に気に留めた様子もなくお待たせと言って部屋を出てきた。
そしてナースが部屋に鍵をかけているそのとき、隣の部屋からあの男がでてきた。
「あら隊長」
「おう」
ゆっくりとこちらを向いた男は、今度こそナースとアンを捉えて静かに笑みを浮かべた。
隊長、ということはこの男もあのへんな髪型男二人に引き続くオエライガタの一人ということだ。
「今日は早番か」
「ええ、もうお風呂いただきました」
「そうかい、俺ァ随分いいタイミングででくわしたみてぇだな」
男の無遠慮な俗な言葉にナースはちらりとも嫌な顔は見せず、逆に「高く取り損ねたわ」と笑ったくらいだった。
男は肩に木箱を一つ抱えていた。
「で、ノラ猫の丸洗いに成功ってことか」
男は確かにアンを目に捉えてそう言った。
突然視線が交わってアンが虚を突かれた顔をすると、ナースは失礼ですねと赤い唇を小さく尖らせた。
大人びた人なのにそんな仕草は可愛く見える。
ナースはアンの肩に軽く触れた。
「もうノラには見えませんでしょう?」
「ああもちろん」
そこまでの会話を聞いて、アンはやっと自分がノラ猫と評されていることに気付いた。
失礼ねと言ったナースさえアンが少なくとも風呂前まではノラであったことを否定しない。
ノラ猫扱いされたことを怒ればいいのか、もうノラではないことを喜べばいいのかアンが葛藤している間に二人の会話は進んでいく。
「で、どこ行くんだ」
「食堂に。彼女のお夜食を作ってもらいたくて」
「ああ、それならまだサッチがいるぜ」
「あらちょうどよかった」
「それに俺も今から厨房に用がある。お前さんが良けりゃあ預かるぜ」
そう言って男はアンを見据えた。
その視線を感じてアンも男をちろりと下からねめつけるように見上げる。
小鼻をひくつかせて警戒心丸出しのアンに反して、男はずっと涼しい顔をしていた。
「それじゃあ頼もうかしら。私パパさんのところに用がありますの」
「おう行ってこい行ってこい」
アンがぎょっとした顔を隠さずナースに視線を移しても、彼女はそれを意にも介さず二回ほどアンの肩を軽くたたいた。
「イゾウ隊長と行ってきなさいな」
アンは何と言っていいのかわからないがとりあえず口を開いた。
しかしそこから何かがこぼれる前に男に先手を取られる。
「付いてきな」
男はすでに歩き始めていた。
ナースはさあ行ってらっしゃいと言わんばかりの笑顔で見送ってくる。
もういい食堂へは行かないと言ってしまえば簡単だが、そう言ってしまうと今の今まで世話を焼いてくれた彼女の面目をつぶしてしまう気がしてそうとは言えず、アンはしぶしぶ男の後を追って歩き出した。
しかしはたと思い当ってすぐに足を止める。
「あのっ」
振り返ると、ナースはまだ笑顔でアンを見送っていた。
アンの呼びかけに、笑みを浮かべたまま首をかしげる。
「いろいろ…ありがとう」
ナースは首を傾げたままきょとんと眼を丸めてから、さらに目を細めてアンに手を振った。
優しくて綺麗な笑顔は眩しいほどで、アンはすぐに目を逸らしてしまった。
*
カラン、カロン、と軽い音が静かな廊下によく響く。
いくつか階を上ると騒がしい部屋の前を通ったり、数人のクルーとすれ違ったりもしたがその妙な足音だけはいつまでもくっきりとアンの耳に届いた。
男は何も話さず、荷を持ったのと反対の手を懐に仕舞ったままわりとゆっくりな足取りで歩いていく。
アンを振り返ることもしないが、アンがちゃんとついてきていることに関して自信にあふれた背中をしていた。
それに加えて、妙な雰囲気を持つ男だと思った。
雰囲気と言うか、においに近い。
独特の、あやしげなにおいがする。
実際に男からはアンが感じたことのない香りが漂っている、ような気がした。
この男についていくといつの間にか全く知らないところに連れて行かれてしまうような気分になる。
しかしだからと言って今更ついていくのをやめようという気にもならなかった。
「お前さん火ぃ持ってるか」
「は?」
不意に声をかけられたアンは、考えていたことが考えていたことだったので思わず剣呑な声を返してしまった。
男は軽く振り返り、流し目でアンを捉える。
懐の中からするりと細長い棒状のものを取り出していた。
ちょいちょい、と示すようにそれを動かす。
「火だよ、火」
「…何に使うんだよ」
思いっきり怪訝な顔つきでそう問い返すと、男は一瞬きょとんと眼を丸めた。
が、すぐににっと口角を上げた。
「た、ば、こ」
「…それが?」
「煙管しらねぇのか」
「キセル?」
「ここに火ぃ入れてこっから吸うんだよ。で、火は」
せっかちなのか早く喫したいだけなのか、男は立ち止まってアンの返答を待った。
思わずアンは答えに窮した。
火を持ってるかなんてアンには愚問だ。
お望みなら丸ごと焼いてやったって足りないくらいの火力を持っている。
それを知らないはずはなかろうに、男はアンに火を持っているかと聞いた。
もしかしたら知らないか、忘れているのかもしれないが、どちらにしろアンがこの男の一服に手を貸してやる義理はない。
アンはぶっきらぼうに口を開いた。
「そんなもん持ち歩いてるわけねぇだろ」
「そりゃそうか」
案外あっさりと納得した男は再びアンに背を向けて歩き出した。
男の問いを切り捨てるように答えたつもりだが、このパジャマ姿ではいまいち決まらないのが残念でならない。
アンは半ば煮え切らない思いのまま、また男の背を見ながら歩き出す。
「お前さんまだオヤジに挑んでんだっけ」
また不意に、しかも今度はかなりディープな方の話題を振られて、アンはまたすぐに言葉を返せなかった。
まるで世間話をするような軽さで男は言葉を続ける。
「わけぇなあ、あんだけ暴れりゃ電池も切れるわな」
「で、お前さんとしちゃああとどれくらいは襲撃したいわけ。百超えたらもう見上げた根性だと思うがな」
くっくと一人声を出して笑う男の後ろ姿を、アンは軽く呆気にとられて見つめた。
男はまた流し目で、ちらりとアンを振り返る。
その男の髪色のような、真っ黒の瞳がアンと同じだ。
「んなことしてる間に歳食っちまうと、もったいねぇけどなあ」
最初から最後まで、まるで独り言のような台詞だった。
しかし最後の言葉はするりとアンの心に入ってきて、そこでずんと重みを増してどきりとした。
その重さにアンが戸惑っているうちに、二人は大きな扉の前まで到着していた。
やっと食堂だ。
*
イゾウは肩に担いだ荷物を食堂に入ってすぐのところにどかりと下ろした。
暇なら格納庫からイモでも取ってこいとサッチに言われて反発したのは言うまでもないが、愛してやまない刻み煙草をカタに取られたら話は別だ。
思いつく限りの罵倒・悪態を吐きながら遠い遠い格納庫へとイゾウは赴いた。
結果として、そこで思わぬ拾い物をしたのでサッチの無体はよしとしておく。
イゾウが食堂に入ってすぐ荷物を下ろすと、カウンターの向こう側にいたサッチがめざとくそれを見つけて叫んだ。
「あっ、テメッ、そんなとこに置いたってしょうがねぇだろ!こっちまで持って来い!」
「食堂まで持って来いって言ったのはおめぇだろうが。残念ながらそこは食堂じゃねぇ。厨房だ」
「屁理屈こきやがってこの女男…!」
目の上の傷をひきつらせたサッチだったが、イゾウの背後でちらついた人影を目に留めて、お、と口をすぼめた。
思わぬ来客である。
「…イゾウさんそれはお土産?」
「少なくともテメェにではねぇな」
二人の言葉に、食堂に坐してそれまでの会話を気にも留めていなかった数人がつと顔を上げて入口を見遣った。
イゾウの後ろに付いてきたのは、記憶とはずいぶん見目の異なる娘。
油でてらてら光っていた髪は少し湿ってはいるがすとんと下に落ちていて、鳥の巣状態ではなくなっていた。
ぎらぎらした目は相変わらずだが、黒ずんだ肌が白く光っている今はそれもあまり目立たない。
こざっぱりとした女もののパジャマの裾を握りしめて、それでもまるでなにかと勝負しているように毅然と視線を上げていた。
イゾウが歩き出すと、娘も少し間を空けてついていく。
歩く二人から離れた席に座ったクルーたちは無意識にもアンから目を離せず、そして二人が一つの席の前で立ち止まった際に彼らの視線も止まった。
「座ってな」
イゾウがテーブルを顎でしゃくってみせると、アンはうなずきのように見えないでもない、というほど微かに首を動かした。
その席の隣には巨体のジョズが、そして向かいにはマルコが座っている。
「サッチ」
「へいへい、とんだプレゼントぶちかましてくれるもんだぜ。おい嬢ちゃん、今作るからちょいと待ってんだぜー」
イゾウの一言で事態を飲み込んだサッチは、すぐさま調理に取り掛かろうととりあえず目の前にかけてあった鍋に手を伸ばした。
しかし座ってなと言われ頷いたかのように見えたアンは、まだそこに立ち尽くしている。
視線は食堂に入ってきたときとは変わって、少し下がり気味だ。
「お前が座ってても立っててもメシの出来も速さもかわんねぇよい」
マルコが手にしている書類から目を離さずにそう言っても、アンは身じろがない。
イゾウはアンに向かい合うようにして同じく立ち尽くし、アンの様子をうかがっている。
ジョズも目を細めてそれを見守る。
アンが何かを伝えたがっているのは明白だった。
アンは意を決したように視線を上げた。
「…あたしにメシはいらない。代わりに、仲間に…スペードの奴らに温かいメシをやってくれ」
ぴりっとした強い視線は、真向いで対峙するイゾウにも、遠くで佇むサッチにも、真横で見つめるマルコとジョズにもしかと届いた。
アンはそのまま90度に腰を折って頭を差し出した。
「…おねがいします」
しんと、息をするのも許されないような静寂が食堂を包んだ。
アンは頭を上げず、誰もが呆気にとられた顔で小さく折れた身体を見つめる。
ふっと、誰かが息を吐いた。
すると遠くからも、ふはっと吹き出す音が聞こえる。
すぐ近くの巨体からは、ふーん、とため息のような鼻息のような音がした。
それがただの呼吸の音ではなく笑ったのだと気付いたアンが憤慨交じりの顔を上げると、目の前の男はこぶしを唇に強く当てて頬をひくつかせていた。
そのこぶしは震えている。
明らかに笑うのをこらえている表情だった。
「なっ…!」
アンが愕然として声を上げると、彼らの笑いは決壊した。
「あっはっはっは!!…ふっ、はっ!」
一番に声を上げて笑い出したのはアンの目の前に立つイゾウ。
抱腹絶倒と言った様子で、笑いすぎて最後のほうは呼吸困難に陥っている。
マルコは書類を握りしめてくっくっくと喉を鳴らし、遠くではサッチがおたまを握りしめてにやにやしていた。
おまえら笑いすぎだとジョズがたしなめる。
発言を笑われるという屈辱に腹が立たないはずがないだろうが、アンは反発の声を上げるよりもまず驚き、そして戸惑ったような顔を見せた。
今の自分の言葉のどこに笑いの要素があったのか皆目見当がつかないと顔に書いてある。
「…な、んなんだよ…」
「や、ちょ…っと待て、あー苦しい」
腹を抱えてげほっとむせたイゾウは、親指で目じりを拭った。
おまえは爆笑しすぎだとサッチからヤジが飛ぶ。
「お前さんたちが似たもの同士すぎたんでな」
「は?」
本気でわからないといったようすのアンに、横からマルコが口をはさんだ。
「ついさっきお前さんの部下からも、おんなじ言葉を聞いたところだよい」
「え?」
マルコはかいつまんで説明した。
一応名目上という理由で牢に入れてあるスペード海賊団のクルーたちだが、特に白ひげのクルーが彼らに敵対心を持っているわけではない。
むしろ白ひげがアンを仲間に引き入れたがっている以上、彼らを無体に扱って野垂れ死にさせるつもりは毛頭ないのだ。
飯は三食、残り物ではあるが白ひげのクルーが食べているのと同じものを運んでいた。
初めはそれに口をつけなかった彼らだが、それに頭を悩ませたサッチが「お前らが餓死なんてしちまったらあのお嬢ちゃんが迎えに来たときどうすんだ」と一言説教をかますとがつがつ食べ始めた。
素直というか、単純な男ばかりであった。
ただ単純と言うわけではない。そこからはアンへの忠誠心がにじみ出ていた。
それから数か月が経ち今日に至ると、今度は逆にスペード海賊団クルーたちのアンの安否に対する心配が募ってきたらしい。
これまでも抱えきれないほどの心配をアンのために費やしてきただろうが、どうやらそれも限界に近い。
そして今日の夕食時、ついに彼らはサッチに伝えた。
「オレらの船長は、オレら全員分くらいのメシを一回で食う。オレたちのメシはもういらねぇからアンに食わせてやってくれ」
そう言って頭を下げたのだ。
その話を、先ほどの隊長会議で隊長たちはサッチから伝え聞いたばかりだった。
その一部始終を、マルコは漏らすことなくしかし簡潔にアンに伝えた。
アンはぽんと口を開けてそこに立ちくしている。
パジャマ姿もあいまって、虚を突かれたような顔つきには本来の年齢がにじみ出ている。
とてもあどけなく見えた。
「そういうわけで心配しねぇでも、奴らにもちゃんと飯はいってるぜ。むしろお嬢ちゃんがちゃんとごはん食ってねぇほうが障りあるみてぇだ」
そう言いながら、サッチはいまさっきぴかぴかに磨き終わったばかりの調理器具をとりだした。
もう夜だかんな、米にしようとひとりごちる声が聞こえる。
イゾウはテーブルに置いてあったマッチを手に取り煙管に火をつけた。
それは美味しそうに煙を吸い込む。
マルコは書類をバインダーにはさむと眼鏡を外した。
ジョズがアンのために体をずらして席を大きく空ける。
「ま、座んな」
*
アンは口の中で内側の下唇を噛みしめた。
切れて血が出そうなほど、それは強く強く。
そして一二もなく踵を返して走り出した。
背中に彼らの視線を感じて、何かしらの声がかかってもそれは自分の心臓の音にまぎれてすぐに聞こえなくなった。
開いたままだった扉を通り抜けると、ちょうど前を歩いていたクルーとぶつかりかける。
それをすぐさまかわしてアンは振り返ることもせず走り続けた。
胸が痛い。
ここにいてはダメだと本能が告げる。
この船はアンをダメにしてしまうと声が聞こえる。
それでもここにいたいと思ってしまった。
それはどうしようもない事実で、アンにそれを隠す隙も与えなかった。
もうごまかしようがなかった。
アンは船室と外を繋げる扉を開けて甲板に躍り出た。
まだ足は走り続けている。
絡まって転びそうになるがそれでも走った。
信じられないほど広い甲板を走り続けて、ようやく後端に辿りつく。
そこでやっと立ち止まった。
踊り狂った心臓が勢い余って喉を通り口から飛び出ようとして呼吸を妨げる。
アンは船べりに手をついて、海に向かってむせた。
にじんだ涙はきっとそのせいだ。
次の日の朝、アンは白ひげにスペード海賊団全員の乗船希望を伝えた。
『生きてみりゃわかる』
その言葉と、本能よりも強く感じた自分の思いを信じてみようと思った。
汗で湿ったシャツを手に部屋を出た。
人の気配はすごく遠い。
もしかするともう夜も遅いころなのかもしれない、そう思いアンはいつものハーフパンツにホルターネックのトップ一枚で廊下を歩いた。
頭上でランプがじじっと音を立てて燃える。
羽虫が数匹飛んでいた。
すうっとどこからか冷たい風が肩を撫でる。
冷気が背中を駆け上がり、アンは体温を上げた。
便利な体、と我ながら思う。
しかし手足の先はなぜか冷えたままだった。
まだ船の構造がよくわからないので、なかば徘徊に近い形で船内を彷徨った。
広い船だ。
スペード海賊団の船をすっぽり飲み込んでしまうだろう。
しかしところどころで年季を感じさせる傷や、しみがある。
アンは同じ景色が続く廊下を思いつくままに歩いた。
食堂に行きたかった。
せめて食堂でなくてもいい、水のあるところへ行きたい。
喉もカラカラだし、ついでに顔を洗いたい。風呂なんて贅沢なことは言ってられなかった。
アンはもう何度目になるのかよくわからない角を曲がった。
「あら」
「!」
淡々と歩き続けていたためか、ぼうっとしていて不覚にも曲がったすぐ先の人の気配に気付けなかった。
ぶつかる寸前のところで互いが急ブレーキをかけて立ち止まる。
アンは飛び退いた。
「ごめんなさい、考え事をしていて」
ごつい体に対面することを予想していたアンは、目の前に現れたしなやかな体に目を白黒させた。
とても久しぶりに、女を見た気がする。
薄いピンクのナース服と、びっくりするほどかかとの高いニーハイブーツを履きこなした彼女はアンの顔を覗き込むように見た。
背の高い方だと思われるアンでも、彼女には見下ろされてしまう。
アンは何を言っていいのかわからず目を見開いたまま彼女を見つめ返した。
もし出会ったのが船員の男だったとしたら意にも介さずすり抜けていただろうけれど、なぜだかそうすることができなかった。
見つめてくる女の金色の瞳が綺麗で、半ば見入っていたのかもしれないと後になって思う。
ナースは口元に小さく笑みを浮かべた。
「ひさしぶりね」
アンはぎょっとして身を引いた。
形のいい唇から鈴のような高い声がまろびでてきたことにも驚いたが、なにがどういうわけで彼女と自分が久しぶりなのか見当がつかなかったからだ。
こんな美人と自分は知り合いじゃない。
そんなアンの心を読んだのか、ナース(服装からして多分そう)は一層笑みを深くした。
「お腹がすいたのかしら」
「…べつに」
「そーお?」
ふいと顔を背けたアンに気分を悪くしたふうもない。
なんでこの女はこんなまじまじと見てくるんだとアンは気が気でなかった。
「あなた…」
いつのまにかまるでアンを鑑識するかのような視線で見ていたナースは、少し眉を眇めて呟いた。
「悪いけど、少し…、いいえ、とても。汚いわね」
汚いと評されたアンは、思わず素直に自分の身体を見下ろしてしまった。
脚はすすけた汚れが付いていて貧相で、ズボンは擦り切れやほつれがひどい。
手にしたシャツは言わずもがなボロボロで、髪の毛もおそらく然り。
自分じゃわからないけど、きっとにおいもひどいに違いない。
黙って自分の身体を検分するアンを見下ろして、ナースは突然ぱんっと胸の前で手を合わせた。
その音にアンが驚いて顔を上げると、ナースは男なら目を回すほど綺麗な顔でにっこり笑って言った。
「お風呂に入りましょう!」
「ふ、」
「私もちょうど今から入るのよ。服は貸してあげるからそれに着替えなさいな」
「え、」
「大丈夫、男湯とは別に私たちの大浴場があるのよ。もちろん全然小さいけれど」
「ちょ、」
「それにしてもあなた、そんな恰好じゃ身体が冷えるわぁ。女の子に冷えは大敵よ。お風呂で温まりましょう」
「な、」
「人前じゃ恥ずかしいかしら?大丈夫、今日はまだ早いから他のナースはまだ仕事中。私は今日早番だから、今なら私たちだけよ」
「ち、」
「さあお風呂はこっち!ああその前に私の部屋によって着替えをとってこなくちゃ」
雨あられのようにアンに降りかかってきた言葉はアンがまともな言葉を返す前に完結してしまい、いつの間にかとられた腕を半ば引きずられるように引っ張られてアンはナースについていくしかなかった。
*
ナースが自室だと言ってアンを招き入れた部屋もそうだったが、この女湯なるものも海賊船とは思えない小奇麗さだった。
白いタイルはまぶしく、並べられた洗剤類やケア用品は装飾も美しい。
そしてなにより風呂場全体がいい香りで包まれている。
アンは始終きょときょとと視線を彷徨わせて落ち着かないが、ナースは平然とした顔のまま脱衣所でおもむろに服を脱ぎ去った。
「立ちんぼしてても仕方ないでしょ。諦めなさい」
そう言われ、アンもおずおずと布きれ同然の衣服を脱いでいった。
ナースに指示されるがままに頭を洗い顔を洗い体を洗い、これを使いなさいあれをああしなさいと言われてなぜだが従順にしている間に全身ピカピカになっていた。
頭を洗ってあげると言われたときはさすがに拒否したが、ナースに手渡された石鹸で体を洗ったら、腕やら脚やらつるっつるする。
そもそもこんなにも泡の立つ石鹸で体を洗ったことなんてあっただろうか。
全身くまなく洗ったことでべたついていた髪も体もさっぱりしたが、嗅ぎ慣れない花の香りがふんわりと漂うことには違和感しか感じない。
自分の肌の慣れない感触を確かめるようにアンが何度も自分の腕をこすっているのを、ナースは小さく微笑んでみていた。
浴槽は数人が手足を広げて入れるほどの広さで、アンはこんなに大きな風呂に入るのは初めてだった。
口の下あたりまで身体を湯に沈めてから、ああシャワーだけで良かったのにと気づいたが今更遅い。
熱い湯は傷に染みて全身がピリピリしたが、同時に張りつめていた何かがゆるゆるとほどけていきそうな感覚を味わう。
慌てて気を張り直しても、長くは続かなかった。
少し離れたところではナースの細い首から上が見えている。
金色の豊かな髪が上にまとめられて後れ毛から滴が落ちる様はこれまた目を回すほど美しいが、海賊船には似合わない。
静かな水面が少し傾いた。
静かに湯につかっていると、船体に波がぶつかる外の音がよく聞こえる。
波が唸る轟音は獣の唸り声のように空恐ろしい夜の音だった。
しかしナースの先程の「早番」という言葉からすると、まだそう遅くない時刻なのかもしれない。さらに彼女の口ぶりでは、ナースは他にまだ数人いるらしい。
スペード海賊団にも船医はいたが、ナースなんて洒落たものは当然いない。
そういえばまだアンが甲板の隅を陣取ってうずくまっていたとき、ちらりと何か医療器具が運ばれているのを目にした覚えがある。
運んでいる人間まで気にしなかったのでそれがナースだったかはわからないが、運ばれている医療器具がおそらく白ひげの物だと感づいて、そんな老いぼれに指先であしらわれる自分にむかっ腹が立ったのは覚えていた。
アンがナースを盗み見ていたのに気付いたのか、ナースはアンを振り向いてニコリと笑った。
慌てて目を逸らし、今度は鼻の下まで湯につかる。
ナースとはいえ、この船の人間と馴れ合ってしまった。
後悔のような罪悪感のような気持ちでいっぱいになった。
浮かんできたのはスペード海賊団のクルーたちの顔だ。
彼らはまだこの船の牢に入れられているんだろうか。
アンに食事が与えられたように、彼らにもちゃんと与えられているんだろうか。
ここは敵船の上、その望みは薄い。
アンに食事が与えられていることさえ、そもそもおかしなことなのだ。
いくら自分を仲間に引き入れようとているやつらだとはいえ、かたくなに拒み続けるアンにそろそろ白ひげ船員たちも愛想が尽きてきたはずだった。
──早くここを降りよう。
せめてクルーだけでも海へ逃がして、自分はここで白ひげに挑み続ける。
そのうち相手にされなくなるかもしれないけど、意味のないことかもしれないけど──
「ねぇ」
ちゃぷん、と水音が響いた。
ナースが動かした手のあたりから波紋が広がってアンにまで届く。
声をかけたナースはアンと視線を合わせることなく呟くように口を開いたので、アンもナースのほうを見ることはしなかった。
返事も、なんといっていいのかわからずだんまりを続けた。
「あなたいくつかしら」
いくつ?とアンは心の中で反芻した。
なに、かず?あ、歳のことかと納得がいくまで数秒かかる。
しかしナースの言葉を理解したものの、すぐに答えられなかった。
そのままの歳を言ったら馬鹿にされるだろうか。
ガキのくせに息巻いてと鼻先で笑われるかもしれない。
警戒心が水の中をつたって彼女に気付かせたのか、ナースが苦笑した雰囲気が湯気の向こうから伝わった。
「言いたくないならいいけど」
そう言われると黙っていられないのが性だ。
「…18」
ちゃぽん、とまた水音が鳴る。
どんな反応が返ってくるかと思えば、ナースはまあ、と間延びした嘆息の声を上げた。
「若いわねぇ」
しみじみとしたその声はなんとも呑気で、アンが想像していた張り詰めた雰囲気は微塵もない。
思わずちろりとナースを横目で見てしまった。
「洗ったらみるみる綺麗になるんだもの、女として妬けるわね」
やっぱり若さには勝てないのかしらとぶつぶつ呟く横顔はアンが今までまともに見たことのある女という生き物の中で一番きれいだと思ったが、それを上手に伝える語彙も方法もアンは知らない。
そもそも「女」であることを意識させる言葉は大嫌いだった。
性別の裏にくっついてくる附属的な意味は自分に損しかもたらさないと知っていた。
それなのに、この人の言葉には嫌な感じがなにひとつ滲んでいない。
なぜか懐かしい感じがした。
「服は洗ってあげましょうね。それまでは私たちのお古だけど、それを着なさい」
「…」
「それにあなた、お腹がすいたでしょう。今日のお昼はサッチ隊長がごはんを持って行かれたみたいだけど、それまで丸2日も寝ていたんだもの」
「ふっ…!?」
バカなと叫びそうになって、慌てて押しとどめた。
まさか、二日もあそこで寝ていたなんて。
そう、思い出した、最後の記憶。
明け方を狙って白ひげの部屋を襲撃した。
肌寒くなってきた朝に早く起こされた白ひげは不機嫌そうな顔で、寝ぼけ眼のままアンを張り飛ばした。
そのまま甲板に叩きつけられたアンは悪態をつきながらよろよろと立ち上がり、手ごろな船べりにもたれかかってうずくまった、確か。
そうして皆が起きだしてきて騒がしくなってきた頃、あのリーゼント男がアンに朝食を運んでくれた。
突き返して押し問答する段階はとうの昔に踏んでいたので、アンは大人しく受け取ってそれを食べる。
おなかが満たされたアンは甲板の、ちょうど日陰になっていたマストの下で横になったはずだった。
あれが二日も、いや三日も前のことだったなんて。
バカみたいに警戒も忘れて眠った自分を殴りたくなった。
というか、あれだ、ふとんおそるべし。
ちくしょう誰だあたしをベッドに運んだ奴は。
っていうかあたしは寝ている間に誰かに運ばれたのか!?
そんなことできる人間、いるはずない。
嵐の吹き荒れるがごとく混乱するアンを尻目に、ナースはアンを諭すようにゆっくりと言葉を続けた。
「人は疲れると眠るけど、眠るのもすごく体力のいることなのよ。おなかもすくわ。ここを上がったらごはんをもらいにいきましょうね。きっとまだコックさんたちは起きているから」
思わずうなずいてしまったのをごまかすように、アンは鼻先まで湯に沈めた。
それから少し顔を上げて、口を水面から出す。
「…今、何時?」
「時間?11時くらいかしら」
夜更けだとばかり思っていたが、そうでもないらしい。
しかしまだ深夜でもないというのにアンの部屋の周りに人気はなかった。
疑問が顔に出ていたのか、ナースは首をかしげるような動作でアンを促した。
アンがおずおずとその疑問を口にすると、ああそれなら、とナースはしたり顔で口を開いた。
「あなたが寝ていた部屋は1番隊の部屋群。1番隊は今日は見張り当番だから、全員船中にちらばってて誰もいなかったのよ」
なるほど、と言うしかなかった。
どうやらこの船には隊が組まれているらしいということも、その一つの隊が空っぽになるような仕事が割り振られているということも同時に理解した。
素直に感心する顔をしたアンに、ナースはさらに目元を緩めた。
「隊長は部屋にいたでしょうけどね」
「…隊長…」
「あなたがいた部屋の隣の部屋よ」
ぎょっとしたアンを見て、ナースはおかしそうにくすくす笑った。
「静かな人だから、隣の部屋でもいるのかいないのかわからないわ」
ナースはそう言ったが、静かだとかいう物音云々の話ではなかった。
気配が微塵もなかったのだ。
もしずっとあそこにいたのだとしたら、気配に敏感なアンに一ミリたりともそれを悟らせなかったということになる。
そのうえアンが足を痺れさせて悶えていたときも、いらだって枕を投げた時も、その音を聞かれていたかもしれないのだ。
アンはいたたまれずに頭まで湯に突っ込んだ。
ナースは驚いて目を丸めたが、湯の中からごぼごぼと上がってくる水泡を見ておかしそうに笑った。
湯の中でぎゅっと目をつむったとき、あ、と思い当った。
彼女から感じる懐かしさの所以をわかってしまったのだ。
金色の髪も華やかな香りも目立つ顔だちもなにひとつ似ていないけれど。
言葉が丸く縁どられているような優しさや、柔らかいのにまっすぐな視線が。
とてもマキノに似ていた。
→
*
ふんわりと身体を包む素材のぬくもりに、アンはぼんやりした頭のまま本能的にそれに体をすり寄せた。
決して手触りがいい毛布ではないけれど、むしろ少しガサガサしているが、何故だろう安心する。
しかしすぐにその状況の「おかしさ」に気付いて、がばっと身を起こした。
どこだここは。
ベッド、ベッドだ。そんでどこかの部屋の中…
少し埃っぽいけど、不潔だとかすぎたないわけではない、小さな部屋。
アンは警戒する野生動物さながらの鋭い視線で辺りを見渡し、とりあえず危険がないと分かって肩の力を緩めた。
──本当は、危険なんてここにはないのかもしれないと薄々気づいてはいたのだけれど。
それを認めてしまえばこの『船』に屈してしまうことになるような気がして、なかなか簡単に認められることではなかった。
それに──船の上に女は御法度だと、古臭い考えを持つ輩がこの海にはまだゴマンといる。
『女は船に乗せてはいけない、海の女神が嫉妬して、船を沈めてしまうから』
そんな言い伝えの裏に隠された、船乗りの男たちの汚い欲望の塊をアンはよく知っていた。
(…それにこの船の船長はジジイだしっ…)
古臭さから行ったらピカイチだ。
『オレの娘になれ』
あの言葉の意味はまだ分からないけど。
不意に、アンは扉の外に人の気配を感じた。
身体を包むベールのようにアンの周りに張り巡らされた警戒心は、数メートル離れドアを隔てたところにあるヒトの息遣いさえ敏感に感じ取った。
アンは膝にかかっていた毛布を取り払うと、ベッドの上で跪くような形になって扉を睨んだ。
ドクンと心臓がはねる。
「もっしもーし、サッチの宅配サービスでーす。仔猫ちゃん起きてる?」
間延びした男の声がドアの向こうから聞こえた。
アンの口が小さく「は?」の形で開く。
お邪魔しマース、と扉が開いた。
「お、起きてる起きてる。おはようさん。ってなんて格好してんだ」
部屋の中に入ってきた男は、臨戦態勢のアンを目にしてぱちくりと瞬いた。
男がドアを開けた瞬間から、いろんな匂いがアンの鼻腔に飛び込んできた。
香ばしいパンの香り、温かいスープの湯気とスパイスの香り、甘いにおいもする。
アンの意識は自然とそっちに引っ張られた。
男はそれに気付いたのか、気さくな顔つきでにかりと笑った。
「腹ァ減ったろ?昼飯だ」
ベッドの上で固まったままのアンそっちのけで、サッチという男はサイドテーブルに大きな木のトレーを置いた。
匂いの発生源は言われずもがなこれだ。
アンの視線はトレーとサッチの間を行ったり来たりしてせわしない。
「すきっ腹に詰め込みたいのはわかるけど、それじゃ腹壊すといけねぇ。そういうわけで今日はサッチのスペシャルメニューだ」
アンの前に仁王立ちで腰に手を当てたサッチは、トレーの中身について堂々と説明し始めた。
パンは胃にやさしくふっくらやわらか、ビタミンを取るために人参が練りこんである。
スープは玉ねぎトロットロ、たまごでとじたあっさりめの味わい。
デザートはおなかにやさしいホットプリン。
アンの視線は、もはや動くことをやめていた。
トレーの中身に釘づけだ。
サッチは、まあごたくはいっかと小さく笑った。
「たんとお食べ!」
アンはサッチを見上げることもせず、というよりも湯気を立てる食べ物たちから目を離せずに、スプーンを手に取った。
スープ皿を手に取ると、じんとぬくもりが冷えた指先から手のひら全体に伝わって、スプーンですくって唇をつけると味うんぬんよりその暖かさに鳥肌が立つように体中が痺れた。
なにかを口にしてやっと気づいた。
おなかがぺこぺこだ。
「うまい…」
思わずこぼれた一言に、目の前の男が破顔した気配が伝わった。
それでようやく、アンはサッチの存在を思い出した。
サッチは、旨いかそりゃ当たり前だと一人頷きながらアンが座り込むベッドにすとんと腰かけた。
アンはぎょっとして身を引いた。
皿の中身が大きく波打つ。
「なっ…なんっ…!」
「いんや、構わず食ってくれ」
サッチはにこにこ顔を崩さずにアンを促した。
アンは怪訝な顔でサッチを横目に捉えたまま、スープ皿を置いてパンを手に取る。
かじるとほのかに甘い。
隣のサッチは鼻唄交じりにリーゼントを手で撫でつけていた。
アンが食事をするその間、何をするでもなくずっとそこに座っていた。
『出てけよ』と、アンののど元まで出かかった。
しかし結局、それが口からこぼれ出ることはなかった。
なんでだろう、と自分に尋ねる気持ちは、「これおいしい」「こっちもおいしい」そんな思いが覆いかぶさるように邪魔をするのでうまく考えられなかった。
「…おまえさあ」
アンがプリンの最後のひと口を口に含んだその時、サッチが口を開いた。
不意を突かれたアンは驚いて最後のひと口を味わう暇もなくごくんと飲み込んでしまう。
アンは黙ったままサッチのほうを見やった。
子供が怖いもの見たさに壁の向こう側を覗く仕草に似ている。
いつのまにかにこにこ顔を消したサッチは、腰かけたままベッドに後ろ手をついて自分のつま先を眺めていた。
唇を突き出しているのは拗ねているわけではなく、この男の子供くさい癖だ。
「呑めるほう?」
「は?」
今度こそ声に出して聞き返してしまった。
真面目な顔で何を言うのかと思えば、むしろ説教でも垂れ始めるのかと身構えていたにもかかわらず、サッチの言葉はアンの意表をついたところからでてきた。
アンが返事に窮してサッチの横顔を見つめていると、サッチはちらりと横目でアンを捉えた。
ぴくっとアンの小鼻が動く。
「いやだからさ、呑めるかって聞いてんの」
「…は?なに…酒?」
そうそうとサッチは頷いた。
「近いうちに宴すんだろうしさ、酒の好みくら知っとかねぇと」
「うたげ…?」
「おめーさんたちの歓迎会ってんだよ」
かんげいかい、と一句ずつその言葉を飲み込んで、アンは持っていたスプーンを目の前の男に投げつけてベッドの上に立ち上がった。
「かっ…!勝手なこと言ってんじゃねぇ!!誰がいつアンタらの仲間になるなんて…!!」
サッチは立ち上がり左肩にぶつかって転げ落ちたスプーンを拾い上げると、それと同時にサイドテーブルからトレーを持ち上げた。
壁に張り付いて息を切らすアンを静かに見上げた。
「鐘が鳴ったらメシだから、今度は食堂来いよ」
さっと掻き消えるように見えなくなった男の笑みは無表情に近くなり、そのまま扉の向こうに消える男の背中を、アンはただひたすら睨んだ。
ぱたんと丁寧に扉が閉まると、アンは壁に背中を預けたままずるずるとその場に腰を落とした。
なんであんなにも腹が立ったのか。
ごちそうさまも、ありがとうも言えなかった。
すごくおいしかったのに。
アンは跳ねるような動作でぼふんとベッドの上にうずくまった。
正座のまま腰を折って前に倒れ、両手で前髪辺りをわしづかむ。
先程食べたパンが喉元をせりかえしてきてもおかしくない体勢だったが、食べたものたちはすんなりと胃へ吸収されてしまったらしくその予兆もない。
ぽんと片手に乗ってしまうようなサイズのパンも、一皿のスープもアンの胃袋をいっぱいには満たさなかった。
それでも、あのときのように、もう一人の男が差し出した一杯のスープの時のように、胸だけはいっぱいになった。
あの男の料理には、アンの知らないものがたくさん詰め込まれていて、それでびっくりしたのだ。
当たり前のように受け入れてくれたって、こっちにはその準備ができていない。
アンはその日の夕方、食堂に行かなかった。
*
扉の横、壁に背を預けていたマルコは、部屋から出てきたサッチに何食わぬ顔で「怒らせてどうする」と言った。
「おっさん趣味わりぃなあ、盗み聞きかよ」
「てめぇの声のボリュームじゃ筒抜けだ、なにも盗んでなんざいねぇよい」
サッチは空になったトレーを左手のひらで支え、ほりほりと額を掻く。
「おれ早まった?」
「いいや、妥当だ」
サッチはちらりと横目でマルコを見遣ったが、マルコはまっすぐ前の壁を見ているだけでサッチの視線を受け流す。
部屋の中から、ばふんぼふんとベッドにとっては哀れな音が聞こえてきたが、暴れているわけではないのだろう。
興奮した猫が唸りながら悶えている様子が想像できた。
あの娘が一つ首を縦に振ればなんと簡単に事は済むことかなんて、思ってはいるが誰も口にはしない。
きっとそれが近い未来のことだろうといくら確信に近くても。
もはやひとりずもうで悩み悶えるあの娘を抱える準備は万端で、こちらはそれを望んでいるというのに。
ただその望みをうまく伝えることはマルコには難しくて、きっとサッチにも難しくて、まだ手が出せずにいる。
*
次にハッと目を覚ました時、アンは自分の目が開いているのか閉じているのかわからなかった。
一面真っ暗だったからだ。
しかしがばりと身を起こした瞬間、鮮烈な痛みが両足の膝から下を襲い、ぐあ、とカエルがつぶれたかのような声を上げてアンは倒れ伏した。
「つあぁっ…!」
ぴりりっと走った痛みの後に、ジーンと鈍い痺れが足先から太ももにまで伝わった。
どうやら奇妙な格好のままいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
アンは膝をついた四つん這いのような格好のまま、じんじんと音を立てて足を駆け巡る血の流れに歯をくいしばって耐えた。
痛いような、こそばゆいような痺れがアンに声も出させない。
(かっ、かっこわるっ…!)
しばらくそうしていると、痺れは少しの余韻を残してゆっくりと引いていき、アンはフッと詰めていた息を吐き出した。
すると考える余裕が出てきて、アンは未だ耐えの姿勢のままではあるが現実的なことに頭が回りだした。
今、何時だ?
夜、そう、夜だ。
少しずつ暗闇に慣れてきた目が小さな窓を捉えたが、そこから明かりが入ってこない。
ぬらぬらと黒い闇しか四角いそこからは見えない。
眠りにつく前にこなれたお腹がまたペコペコになっているから、数時間は眠っていたはずだ。
そこまで考えてはたと気づいた。
…ここはどこだ?
一度起きてリーゼント男が持ってきたスープやパンを食べた時、あれは何時のことだったんだ?
アンが自分の意思で行った行動は、ずいぶん昔のことのようで思い出せない。
分かるのは、少なくともアンは自分の脚でこの部屋へは来ていないということだ。
暗闇にすっかり慣れた目をしばたかせて、アンはゆっくりと上体を起こした。
「どこ行くんだよ」
何もない空間から突然聞こえてきた声に、アンはハッと身構えた。
しかしすぐに、あぁと肩の力を抜く。
なじみの声だ。
「どこにも行かないよ」
吐き捨てるように言ったつもりが、自分の口からこぼれ出た声は今にも消え入りそうで辟易とした。
「行く場所なんてないもんな」
からかうような、そして蔑むようなざらついたその声はどこまでもアンのカンに障ったが言い返すのもバカらしくて口をつぐんだ。
「図星でだんまりかよ」
「うるっさいな…」
声はきゃらきゃらと笑った。
「餌付けられて居座るの?スペード海賊団は終わるの?船員たちは」
「うるせぇな!わかってるっつって、」
「まさかあのジジイたちの情にほだされたの?」
アンは真っ暗な暗闇に、手元にあった枕を掴んで投げつけた。
白い塊はそのまま向こう側の壁にぶつかって、ぼとんと落ちた。
声はそれっきり聞こえなくなった。
苛立ちだけを残されたアンはベッドの上に膝立ちのまま落ちた枕を睨んだ。
わかっているけどわかりたくないことを、自分の声に告げられるほど腹立たしいことはない。
あぁ、とため息に交じって声が漏れた。
いつのまにか汗をかいている。
風呂に入りたいなあと霞がかった頭で思った。
→
風が凪いで空は青い。
暇を持て余した男たちは甲板の日陰で、日の高さには目もくれずに酒盛りを始めているそんな海賊船の上。
大きな、それは大きな衝撃音と何かがぶっ飛んだ爆発音がぐちゃぐちゃになったような、なんとも聞き苦しい音が船上に響いた。
「あれ、まだやってんのか」
「やってるやってる。懲りねえ上にしつけぇんだなアイツも」
「オヤジもよく相手してるぜ」
「まあオレアイツの顔まともに見たことねぇけど、まだガキだろ」
「ガキもガキ、まだ20も超えてねぇってよ」
「うっへぇ、よくやるぜ」
デッキブラシを顎置き代わりにして、掃除当番に割り当てられた男たちは音のした方に顔を向けて無駄口を叩きあった。
平和な船の上に一匹のノラ猫が入り込んだらしいという噂は、すでに船中に流布されている。
そのノラっぷりと言ったらもうピカイチで、とんでもない棘を持っているという噂だ。
ふと、男たちの視界に影が差した。
「口ばっか疲れさせてねぇで手も動かせよい」
陰の持ち主に目をやった男たちは慌てて姿勢を正し、すんませんっ! という言葉と共に忙しくデッキブラシを甲板にこすり付け始めた。
もうすぐ飯だから、という言葉にも威勢のいい返事を返し、床をまるで親の仇でも見るような顔で睨みながら必死で磨く。
その横を、声をかけた当の男が気だるげな顔つきで歩き去って行った。
マルコは先ほど爆音が鳴り響いた地点へと歩いていく。
また船大工どもに仕事が増えると小言を言われるのは壊した本人ではなく仲介役の自分なわけで、そう考えると頭が痛い。
まだ痛くはないがこれから痛むであろうこめかみを軽く指先で揉みながら角を曲がった。
散らかる木くず、倒れた扉、外れた蝶番と転がる人間。
また派手にやったもんだと眉間に皺が寄った。
ここしばらくマルコの両目の間には絶え間なく皺が刻まれている。
それと同時にため息も増えた。
まったくどうしてくれようかというほど、面倒で厄介な悩み事ばかりなのである、この船の上は。
足元に散らばった木くずを蹴散らし時には踏みつけながら転がる人間の元へと歩いていく。
真っ黒で、ぼさぼさに絡み合った髪の毛がくっついた頭がマルコのほうを向いていた。
うつぶせに倒れていた人間は、マルコが立てた足音を聞きつけたのか、ピクリと背中を揺らす。
そしてすぐさま上体を起こし飛び退くようにマルコと距離を取った。
背中を丸めて四つん這いになったようなその姿は本当に人を知らない野生動物のようで、驚き通り越して呆れてしまう。
よくもこうまで徹底して人を避けられるものだと。
薄黄色のシャツから頼りなく細い腕が伸びて、前かがみになった小さな身体を支えていた。
黒いズボンは少し擦り切れて、まるで街に浮浪する子供のようにみすぼらしく見える。
それに輪をかけて野生っぽく見せているのは、何をおいてもその目だった。
風呂に入らない上に海風にやられた髪の毛は油で光り潮気でかさつき、すっかりと顔を覆っている。
しかしその隙間から、大きな光がみえる。
暗闇の中で黄色く光る不気味な光のように、それはじっとマルコをまっすぐ照らした。
ギラギラと危なげに光る目つきは紛れもなく野生のそれだ。
マルコは臆することなく見つめ返した。
じっと視線を合わせて数秒もたたないうちに、そのノラ猫は血を吐いた。
げほっ、ごほっと数回むせかえって、乱暴に口元をぬぐう。
ああ、と今度こそ明らかなため息がマルコから漏れた。
「おいお前」
俯いていた目の光はギッとマルコを睨みつけたが、マルコが呼びかけたのは血を吐くほど弱りきったノラ猫にではない。
少し離れた甲板上を歩いていた一隊員を呼び止めたのだ。
「ナースから救急セット一通りもらって持って来い」
「うーっす」
従順な返事を返し、クルーは船室へと消えていく。
マルコはぐるると唸る動物をそこに残して、扉があった部分がすっかりさびしくなってしまった部屋、船長室へと入っていった。
再びぽっかり口を開いた出入り口からマルコが出てきたのはそれから十分にも満たないころだった。
あいかわらず散乱する木のかけらたちと、救急セットを抱えて所在なさ気にうろうろするクルーが一人。
ノラ猫はいない。
マルコは礼を言ってそれを受け取った。
中身が詰まってそこそこの重さのある箱を片手に、マルコは歩き出す。
少し行くと、すぐに小さな塊をふたつ見つけた。
ひとつはこれでもかというほど固く膝を抱えて小さくなっているし、もうひとつはその前でこぶしほどの白い塊を積んで遊んでいた。
白い塊? 包帯だ。
「ハルタ、何やってんだい」
「んー、怪我してたから、包帯を」
「用途はなしてねぇみたいだが」
「いらないって言うんだもん」
ていうかちょっと今いいところだから邪魔しないで、とハルタはマルコを見上げて少し睨むと、また目の前の包帯タワーに熱い視線をくれ始めた。
変なところで几帳面なハルタは、使いかけの包帯、少しよれた包帯、新品でまっさらな包帯を分けて綺麗に三角に積み上げていく。
こんなことを目の前で繰り広げられれば、へそ曲がりの頑固でなくても気が滅入るだろう。
また知らず知らずのうちにため息がこぼれていた。
「ほらハルタ、もう行けよい」
「邪魔しないでってばマルコ」
「包帯で遊ぶんじゃねぇよい、ねーちゃんたちに怒られんぞい」
「じゃあこのまま積んどいてもいい?」
「揺れで倒れたら散らばるだろい。片づけとけ」
ハルタは不満げに口を尖らせてマルコを見上げたが、やがて億劫そうな動作で積み上げた包帯を崩し始めた。
「災難だったな」
それは紛れもなくうずくまった者へと言われた言葉だったが、かたくなに縮こまったそれは動きもしなかった。
災難ってボクのこと?とハルタが口を尖らせてマルコを見上げた。
マルコは肩をすくめて、うずくまった脚の傍に救急セットを置いた。
*
冬島の気候に入った。
ノラ猫の襲撃は百回を超えた。
部屋にこもり書類を片していたマルコのもとに、困り顔の航海士が一人訪れた。
「すいません、私たちじゃどうしようもなくて」
何事かと彼に導かれるまま来てみれば、メインマストの真下で横になって膝を抱える子供がいた。
実年齢は子供と言うより大人に近いはずだが、膝を抱えてうずくまっていたのが何かの拍子にコテンと横になっただけ、という姿でじっと動かないそのカタマリは、寒さに震える子供のように見える。
「…これがどうかしたかい」
「マ、マストに上りたいんです」
「上りゃあいいじゃねぇかい」
「ムリなんですって」
「ああ?」
怪訝な顔を見せると、航海士は泣きそうな顔でいっぺん上ってみてくださいよとマルコを促した。
どういうことだと首をかしげながら言われたままに一歩踏み出して、すぐに気付いた。
気温がちがう。
足元から立ち上るすさまじい熱気が一気にマルコの顔を炙る。
視線を落とすと、すぐそこに発熱体が転がっていた。
その身体の周りの景色はぼんやりと歪み、陽炎が揺れている。
「ねっ?」
情けない顔でマルコに問いかける航海士は、これじゃ上に行きつく前にあぶり焼きにされてしまいますよと嘆いた。
確かに、と言わざるを得ない。
「観測ができません…」
困り果てた航海士がマルコに助けを求めたのも道理であった。
戦闘員ではない彼がこの発熱体をどうにかしようというのは至難の技だろう。
しかし、ふとマルコは思い当たった。
「こいつを起こしゃあいいじゃねぇかよい」
「そ、そんな」
ムリムリムリムリと首を振る男は、お願いしますからどうにかしてくださいとへこへこ頭を下げた。
目を覚ませばひとたび破壊の権化と化すとでも思っているのだろうか。
呆れたマルコはため息とともに再び足元を見下ろした。
しかしこのノラ猫、目の前でマルコと航海士がいくつも応酬を繰り返していたにもかかわらずピクリとも動かない。
顔は髪に隠れて見えないが、腹のあたりが微かに上下しているあたりから眠っているのだろう。それは深く。
まさしく死んだように。
マルコは静かにしゃがみこんだ。
途端に鮮烈な熱さが顔面を襲った。
(こりゃあ、)
熱から守るように片目をつむって、未だ眠りつづけるそれを起こそうと手を伸ばした。
しかしマルコは、あと一寸で肩に触れるというところで手を止めた。
背後では、航海士が遠巻きに見守っている。
マルコは上から伸ばしていた手をひるがえし、代わりに両手を横たわる身体の下に差し込み持ち上げた。
「ほらよい」
マルコは微動だにしないそのカタマリを胸の前に抱えたまま、メインマストを顎でしゃくった。
ノラ猫を起こしてくれるものだとばかり思っていたのだろう、航海士はぽかんと口を開けて、目の前の青い光を見つめた。
しかしすぐにハッとした顔で、ありがとうございますと頭を下げる。
マルコは航海士が顔を上げたころにはすでに荷物を抱えたまま歩き去っていた。
両腕に視線を落とすと、ノラ猫の体勢はあの鉄壁ガード姿勢から少し崩れていた。
あいかわらず脚はマルコの腕の中で小さく折りたたまれているが、両膝の間に収まっていた頭が今はマルコの腕の中からはみ出てカクンと垂れていた。
細くて白い喉がくっきりと目に焼き付いた。
船室に入ろうとマルコはドアの前で立ち止まったが、この両腕の荷物がどうしようもない。
片手を開けるために、マルコはゆするようにして小さな身体を肩に担ぎ直した。
そうしてやっと片手が開いたそのとき、横から現れた影がマルコの代わりにドアを開けた。
「いいモン持ってんじゃん」
「…んじゃあ代わってやるよい」
「馬鹿言え、焼け死ぬわ」
「テメェ、オレも熱いんだよい」
フン、と息を吐いてマルコはサッチが開けたドアの向こうへと踏み出した。
後ろからサッチは楽しげについてくる。
「カイロ代わりにゃもってこいってか」
「ガキの体温にしちゃあ可愛くない熱さだよい」
「違いねぇ」
サッチはクックと笑った。
で、どこ行くの?と呑気な声が続く。
「オレの部屋の隣、空き部屋あったろい。そこ放り込んどきゃいいだろい」
「隊長直々に面倒見てやるわけね」
「…冗談じゃねぇ」
マルコの呟きは意に介さず、サッチはマルコの肩口から両手と共にぶらぶら揺れているノラ猫の頭を覗き込んだ。
「…すっかり寝こけちまって」
「気絶してんのかい」
「いや、さっきオレの飯食ったから」
「ああ、だからかい」
闘いを挑んで、綺麗に負けて、疲れてボロボロになったところに温かい飯ときたら次は眠りしかやってこないだろう。
数日前マルコが何とかして餌付けに成功し、それからはサッチが餌付け当番となっていた。
額には、小さなガーゼが貼られていた。
自分で貼ったのだろう。
マルコは自室を通り過ぎ、開いている左手で隣室のドアを開けた。
埃臭いその部屋には幸いベッドが一つある。
マルコはその上に、荷物を放り投げた。
青い翼が溶けるようにして右手に変化した。
「荒っ」
「運んでやったんだ、上等だろい」
「あーあー可哀そうに子猫ちゃん」
ベッドのわきにしゃがみ込んだサッチは、それが発熱危険物であることを忘れて額に手を伸ばした。
アチッと聞こえるその背後で、マルコは部屋の隅に積まれた木箱の中から古ぼけた毛布を引っ張り出す。
サッチが指先にフーフー息を吹きかけながらマルコを振り返った。
「かけてやんの?やーさしーい」
サッチの軽口は無視して、マルコはノラ猫を放り投げたのと同じ要領で毛布をその上に投げかけた。
ぴくりとも動かない。
「…自己防衛本能だ」
寒さから身を守るため、自ら発熱して身体を守っていた。
そして他人が近づけば温度が上がる。
昏々と眠りつづける意識とは無関係に身体は必死に外的と闘おうとしていたのだ。
サッチは持ち前の下がり眉をさらに下げて、慈しむようにベッドの中を見下ろした。
「…難儀なもんだ」
近づいてやりたいのに、許してくれない。
本人もきっとそれを望んでいるはずだと思うのは、エゴだろうか。
二人の男は、小さくうずくまって眠るその娘を、しばらくのあいだ黙って見つめていた。
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