OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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久しく磨かれていない窓ガラスから、気持ちのいい空が見える。風が吹くのか、わずかに電線が揺れている。向かいの家の屋根に遮られた雲の切れ端がちらりと見えた。
いい天気だね、と呟いたけども返事がない。ラグにぺたんと座り込んで、テーブル上のマグカップにそっと手を添えたナミさんもおれと同じように窓の外を見ていた。
キッチンカウンターをぐるりと回っておれもナミさんの隣に腰を下ろすと、ナミさんが初めておれの存在に気付いたみたいに少しこちらを見て、「いい天気ね」と言った。
「秋晴れだな」
「行楽日和ね」
「どこか行きたい?」
うーん、とナミさんは考えるそぶりを見せたが、声でその気がないのがわかる。案の定、「べつに」とそっけない返事だった。
深い青のマグから、少し温度の落ち着いたコーヒーをすする。
「こういうお出かけ日和に家にいて、何をするでもなくいい天気だなぁって外を見てるのも贅沢ですきよ」
「おれも」
ナミさんはちらりとおれを見て、なぜだか苦笑した。きっと、おれがいつでもナミさんの言うことに「おれもおれも」と諸手を上げて賛同するので呆れているのだ。
「お昼、なに食いたい?」
「なんでもいいの?」
「もちろん。足りない食材は買いに行きゃあいいし」
「そうだけど、そうじゃなくって。なんでも作れるの?」
「だいたいは」
へえ、すごい、とナミさんが臆面もなく褒めてくれるので、おれはぐんぐんと嬉しい気持ちになって少しナミさんにすり寄り、腰に手を回した。
柔らかい毛足のセーターの、肩のところに顎をつけて喋るとナミさんはくすぐったそうに身をよじった。
「本当に何でもいいよ。ナミさんが来てくれるっていったときからすげぇ張り切ってる」
ふっと息で笑って、ナミさんはまた窓の外に顔を向けた。その顔が見たくなり、覗き込むが首の角度に限界があって彼女の表情までよく見えない。
一体どんな顔をして、どんな目で、そんなに窓の外ばかり見ているのか、見えないからこそ無性に知りたくなった。
不意に怖くなる。
おれの知らないナミさんを知るたびに、喜びと同時にちらりとよぎる不安。
いま、誰のこと考えてる?
絶対におれは聞かないし、聞けないし、きっとナミさんも言わない。
ナミさんもきっとおれのこういう臆病さに気付いている。
「ナミさん」
腰に回したのと反対の手を彼女の頬に伸ばす。少し触れると、すぐにナミさんはこちらを向いて、「サンジくん、手、つめたい」と笑った。
鼻先が触れて、ナミさんが目を伏せる。顔を傾けて、少し唇を開いて、あったかくてやわらかいそこを重ねる。
触れたところからなにかいいものがおれの中に流れてくる。少し離して、角度を変えて、もう一度触れるとナミさんは温めるみたいにおれの片手を両手で包んでくれた。
大丈夫よ、と言われた気がして、彼女をきつく抱きしめたくなったのに、ナミさんはおれの手を、と言うより指の方を、両手でぎゅっと握っているのでそれができない。
おれのことだけ考えて、と思う。
きっと今この瞬間、ナミさんの中はおれでいっぱいなはずだ。わかっている。でも足りなかった。
おれのことだけ考えて、おれにだけその顔を見せて。
窓の外には誰もいないよ。
*
秋晴れだな、とナミさんに言った次の日は、世界中の赤ん坊が泣き狂っているみたいに激しい雨だった。
秋雨ってもっとこう、大人しくしとしとと降るんじゃなかったっけ。そう言ったらナミさんは「台風の影響でしょ」と至極真っ当なことを言って、さっさとおれの家から出勤していった。できることなら、というより当然のように一緒に家を出て途中まで同じ道を辿って出勤するものだと思っていたおれは、ためらいもなく「私今日早いから」と言って先に出てしまったナミさんの背中をさみしく見送って、誰もいないいつもの家に鍵を閉める。心なしか置いてけぼりを食ったさみしさが音に滲んだ。
紺色の大きな傘を広げて、足元に跳ねる強い水しぶきに舌を打って、うつむきがちに会社への道を辿る。
頭はもう、家に帰ってからのことを考えている。
今日もナミさんはおれの家に帰ってくる。明日も、明後日も、彼女の仕事が詰まらない日はいつだって、彼女はおれの家に帰ってくる。
「そんなの悪い」と言って顔をしかめた彼女をなだめすかし、おれのためを思ってと半分すがって平日の夜は一緒に飯を食う約束を取り付けた。
この前振る舞ったおれの手料理が功を奏したのか、ナミさんは少し言いにくそうに「夜はサンジ君のごはん?」と尋ねた、あの可愛らしさよ。もちろん! とおれは叫び、でもたまには外に飲みに行こうな、と彼女の手を取ってにっこり笑った。
ナミさんは何が好きなんだろう。主食はコメの方が好きなのか、パンに合うものがいいのか、それとも酒に合うつまみをたくさん用意した方がいいんだろうか。食後にデザートは欲しくなる子なのか、どれくらいカロリーなんかを気にするのか。
思えばおれは、まだまだまだ、彼女のことを何もと言っていいくらい知らなかった。
恋人という大義名分を得たおれは、まるで一国の城の王になったような無的な気分で有頂天になっていたが実のところ無能もいいところで、ナミさんがおれのそばにいてもいいと思ってくれるからこそなれる王であり、そうでなければ、そう、考えたくもないが、そうでなければ、おれはまだなにひとつ持っていないのだった。
おれはナミさんの全部を知りたいし、全部が欲しい。そしてナミさんにもそう思ってもらいたい。
それは気持ちであったり、行動の一つ一つであったり、身体そのものでもあった。
柔らかくて内に潜れば潜るほど熱い彼女の中を思い出し、身体の芯がぶるっと震えた。いけねぇここは地下鉄、と思うものの、しっかり刻み込まれた記憶が未だ生新しい温度を保って目の前にスライドインしてくる。ぎゅっと目を瞑り、つり革を強く握って中心に集まろうとする熱を必死で分散させる。仕事のことを思い出して紛らわせようと、今日の予定を頭の中で立てたが圧倒的なナミさんの力には抗うのも馬鹿らしいと言ったふうに、気付けば書類の白はナミさんの肌の白さにとって替わっていたりした。
だめだ、ナミさん。
混みあう地下鉄の中、もぞもぞと右腕を動かし胸ポケットから携帯を取り出す。
「おれも家を出ました。朝早かったけど眠くなってねぇ? 今日も一日がんばって」
文面を読み返し、中学生みたいだ、と恥ずかしくなる。が、そのまま送った。
いいのだ。どうせおれはナミさんの前では中学生男子みたいなもんだ。
返事はわりとすぐ、おれが地下鉄を下りるより前に返ってきた。
「朝から企画書がたまっててげんなりしたわ。今は眠くないけど、お昼食べたら眠くなりそう」
文面の最後に付いていた「zzz」というかわいらしいマークに、携帯を握る手がほわっと温まる。
だらしなく緩んだ顔のまま「夜は何食べたい? 希望があれば、買い物して帰るよ」と送ったが、その返事はその日おれが家に帰るまで帰ってこなかった。
メールの返事はなかったが、19時頃会社を出て買い物をして帰路につく。大粒だった雨はすんと落ち着いて、朝の激しさなど素知らぬふうに空には薄い雲が伸びている。少し風が強かった。
ナミさんは薄着だったが寒くねェかななどと考えながら、スーパーの買い物袋を片手に揺らすのはわかりやすく幸せだった。
部屋に着いたら、朝飲んだコーヒーのマグカップを二人分洗って、あったかいブイヤベースを仕込もう。彼女が以前「ここ美味しいのよ」と言った駅から少し遠いパン屋にもわざわざ寄って、ブイヤベースに合うブールも買ってきた。
おれがこねてもいいのだが、時間がかかるしそんな楽しいことはナミさんも一緒のときに二人で作ってみるのもいいだろう。
海老の背ワタを取り、タラの切り身に塩をまぶす。二枚貝を砂抜きして、セロリを薄く刻む。鍋に火をかけたところで一服とタバコにも火をつけた。ケツに突っ込んだ携帯がぶるっと震えて、はらっと花が咲いたみたいなときめきを覚えて慌てて画面を覗き込んだ。
「急に飲みに誘われちゃった。遅くなりそうだから、今日は自分の家に帰るわね」
ふつ、と鍋の中が音を立てた。
ふつふつふつ、とスープのふちが気泡を立てて、海鮮たちがその身を揺らしながら赤や白に色を変えていく。
おれは携帯を、シンクとは反対側のコーヒーメーカーなんかが置いてあるカウンターに置いて、とりあえずめいっぱい煙草の煙を吸い込んだ。
そうだよ。こんなことだって十分あり得る。知っていた。
だって彼女の家はここではないし、今朝ここを出て行ったからと言ってまたここに帰ってくるわけではない。
彼女には彼女の仕事が、友達が、付き合いがあり、もちろんおれも同じで、たとえどれだけほしくてもおれが彼女のすべてを手に入れることなんてまったく不可能なのだ。
こんなのは世の中よくあることで、勝手にこちらがそわそわと浮足立って準備したことが相手の予想外の行動でまったく意味をなさなかったり、期待外れだったり、そういうがっかりする事態は正直面白くないほどありふれている。
だからそう、おれは訊いてはいけないのだ。
「飲みって、そこに男もいる?」
だとか、
「仕事の人?」
だとか、ましてや、
「あいつに会うわけじゃねぇよな?」
なんて、訊いてはいけない。
おれは鍋の中を覗き込み、あくを取って静かにトマトペーストを垂らした。
再び蓋をして、携帯を手に取る。
「了解、ナミさんに会いたかったけどしゃーねぇな。帰り遅くなるならあぶねぇし、駅から家まで送るよ」
送信し、じっと何もない画面を見つめていたらすぐに返事が来た。
「ごめん、もしかして夕飯準備してくれてた? 明日食べに行くわ。帰りはタクシーで送ってもらえると思うから大丈夫」
おれは何か返事をしたが、あんまり覚えていない。
とりあえず作りかけたブイヤベースを仕上げ、ブールを切って残りは冷凍した。
テレビをつけ、21時のドラマとバラエティが軒を連ねるラインナップにうんざりしてすぐに消した。
サラダとスープにパンじゃ足りず、結局くず野菜と肉を刻んでチャーハンを作ってかきこむように食べた。
ナミさんと食べる食事は、たとえ小鳥のエサみたいな少しのつまみであっても、彼女が美味しそうにそれらを口に運ぶ顔を眺めていれば、永遠に満たされていられた。
タクシーで彼女を家まで送るのはいったい誰なのか。
何かを食い、美味しいと笑い、アルコールで薄らと頬を赤らめるその顔を見るのはいったい誰なのか。
どうして彼女は、おれにもっと何かを求めてくれないのか。
おれは知っていた。
ナミさんが、「どうしようもないじゃない」と声を荒げて、涙にひりつく瞼で誰かを思って走って行けることを知っていた。
春の嵐みたいなその勢いのすさまじさに圧倒されて、だからこそ、そんなふうにおれも求めてもらいたかった。
じりじりと削るみたいに夜が深くなっていく。
だめだだめだ、と腰を上げ、ガチャガチャと皿を洗ってさっさと風呂に入った。何も考えられないくらい湯を熱くして、皿を洗うのと同じ要領で自分を洗ってさっさとベッドに滑り込んだ。
きつく目を閉じて案の定寝つけずにいたら、日が変わった頃に携帯がちかりと光り、
「今家に着きました。心配すると思って」
とナミさんからのメールが届き、それを読んでおれはやっと眠ることができた。
結局次の日から週末までナミさんが残業の日が続き、会えたのは土曜の夕暮れ前だった。
すっかり秋めいた晴れの空の下、ナミさんは薄手のコートを羽織ってひらりと優雅におれの部屋に現れた。
「ひさしぶり」
4日ぶりのナミさんはそう言ってかかとの高いグリーンのパンプスを脱いだ。
疲れているのか、リビングに続く短い廊下を歩く間にナミさんはあくびをした。
「仕事、忙しかったんだな」
「あ、ごめん。ちょっとね、でももうひと段落ついたから」
ナミさんはコートを脱ぎながら話す。
「昨日そのひと段落ついた案件の打ち上げが夜中の2時近くまであってさ、クライアントも一緒だったし全然酔えないのになかなか終わらなくて、仕事の中身って言うより最後のそれですっごい疲れちゃった。家に着いたのが3時くらいだったのかなぁ、起きたらお昼だったし、あ、ごめんね返事遅くなって」
「いんや」
「そうだあんたのところの新店、この前ポーラが行ったんだって。あ、ポーラって私の同僚ね。美味しかったし雰囲気よかったって言ってたわよー、デートだったのかなんだったのか訊かなかったけど。私もあれっきり行ってないし、ちゃんとご飯食べに行ってみたいな」
「そうだな」
ナミさんはおれにコートを手渡し、ふとリスのような丸い目でおれをじっと覗き込んだ。
「サンジ君、なんか変」
「え」
ナミさんはおれににじり寄って、ぐいと顔を近づけた。
「あんたこそ疲れてるみたい。ぼーっとしちゃって」
「や、違うんだこれは」
「なに?」
ナミさんから顔を背け、一歩後ずさる。おれのその仕草に、ナミさんはぎゅっと顔をしかめた。
「なんなのよ一体。怒ってるの?」
「まさか!」
「じゃあなんで避けるのよ」
避けたわけではなかった。ただ、たった四日ぶりの彼女があまりに変わりなく、矢継ぎ早に話す様子がまるで、そうまるで、「おれに会いたかった」と言ってくれているようで、ただくらりとしたそれだけだ。
おれは数秒口元をまごつかせてから、「ナミさんが可愛くて」と言った。
「はぁ」
気の抜けた顔で肩の力を抜いたナミさんは、「よくわかんないけど」と言ってぺたんとラグに座った。
しずしずとおれも隣に腰を下ろしたが、「あ、コーヒー淹れるな」とすぐに立ち上がる。そんなおれの慌ただしい様子にナミさんは呆れたみたいに少し笑ってくれた。
コーヒーマグを両手にリビングへ戻ると、ナミさんが腰を下ろしたテーブルの上にちょこんと小瓶が乗っていた。
おまたせ、と言って彼女の前にコーヒーを置くと、ナミさんは「ありがとう」と呟いてからその小瓶に両手で触れた。
「お土産」
「お土産? どっか行ってたの?」
「うん。木曜にプチ出張で。近場だけどね」
彼女のクライアントがアパレルショップで、最近の服屋というのは服だけでは飽き足らずにハンドクリームやアロマなんかの化粧品類、さらにはこうした食品なんかも売り出しているのだと言う。
これはそのクライアントが売出し中の、はちみつ漬けのナッツだった。
「へえ、うまそ」
「なんか流行ってんだって。食べたことある?」
「ない。チーズに合いそうだな」
「じゃあワインにも」
ナミさんが嬉しそうにくふふと笑う。思わず腕を伸ばして彼女の肩を抱き寄せた。ぐら、と彼女の身体が傾いて、ナミさんは「うわ」と驚いた声をあげた。
「ありがと、ナミさん」
「え、なに、そんなに嬉しかった?」
「そうじゃなくて」
ぐっとさらに力を込めて彼女を引き寄せる。膝がぶつかり、太腿に太腿が触れ、脇の下から差し込んだ手で彼女の細い肩を手のひらに収める。
ナミさんはおれの肩に顎を置いて、「どうしたの」と呟いた。
「やっぱりサンジ君、変よ」
「変じゃないよ、大丈夫」
こんなにも細いのにしっかりと暖かい彼女の身体を腕の中に感じて、おれはとてつもなくさみしかった。
ナミさん、ナミさんおれは、どうしても考えてしまう。
おれのいない日々を過ごす君は、一体どれくらいおれのことを思い出してくれたのだろう。
少なくともこの土産を買うときに、おれを思い出して、ああそれはとてもうれしい。でもそのとき隣にいたのは誰だった?
昨日の打ち上げは疲れたと言っていた、でも夜中の二時まで帰らなかった、そのときずっと一緒にいたのは。
とっくに終電も行ってしまった真夜中に、彼女をタクシーに乗せたのは。
一度も、本当に一度も、彼女が泣いてまで欲しいと叫んだ別の男を思い出した時間はなかったのか。
サンジ君、と彼女がおれを呼んだ。
「コーヒー冷めちゃう」
ナミさんは宥めるようにオレの背中をポンポンと叩き、おれがいやいや腕の力を緩めると、そこからすぽんと抜け出すみたいに顔を上げて、「心配してるの?」と言った。
「いや」
「うそ。いろいろ考えてた」
「いや……うん、まぁ」
「私のせいね」
ナミさんは大人びた顔で、諦めたみたいに少し笑った。
たまらず、おれは大きな声で「ちがう」と言って彼女の手を掴んだ。
「ごめ、おれ本当、ナミさんが思ってる以上にナミさんのことが好きなんだよ。できることなら毎日会いたいし、ずっと触ってたいし、おれ以外のやつは誰一人ナミさんのこと見てほしくねぇと思ってる。んなこと無理なのもわかってんだけど、わかってんだけど」
ナミさんは目を丸めておれを見上げ、気圧されたみたいにひとつ「うん」と頷いた。
おれは情けなく口元を下げて、「できれば、ナミさんもそうだったらいいのにって」とごにょごにょと言った。十分情けないことを言い散らかしているのにおれのなけなしのプライドが口を回らなくさせた。
「そんなの私だってそうよ」
ナミさんは丸い目のまま、ぽかんとおれを見つめて言った。
おれもぽかんと見つめ返して、「え?」と聞き返す。
「当たり前じゃない、会えない時間はこっちだって一緒なんだから」
「でも」
「そりゃ私はあんたほど、あんたのことばっかり考えてるわけじゃないけど」
そう言ってナミさんはひとりでくくっと笑った。
「サンジ君は顔に書いてある。『ナミさん』って」
おれがぺたりと自分の頬に触れると、ナミさんは笑いながらその上に自分の手のひらを重ねた。
ね、サンジ君、とナミさんは囁き声で言った。
「私だって、あんたが思っている以上にあんたのこと、好きよ」
鼻先に唇が触れ、それはまだ外の空気をまとって冷たかった。
ナミさんは浮かせていた腰を下ろして、また下からおれを覗き込む。
「でも、サンジ君にそんなにもいろいろ考えさせてるのは私のせいでしょ。私が別の男と会ってんじゃないかって考えてんでしょ」
ナミさんの薄い手を掴み、その細い指をぎゅっと握りしめ、「うん」と頷く。もはやごまかしようがないくらい、おれはどろりと濃くて重たい嫉妬をぐらぐらと煮たたせていた。
「そんなことはなにもないって、口で言うのは簡単だけど」
そうだ。おれのいない世界を平気で生きてしまえる彼女に寄りつく男たちに太刀打ちする術を、おれは十分に持ち合わせていない。
たぶんずっと、おれの前に、おれと彼女の間に、その「誰か」の影はちらつき続ける。そのたびにおれは胸の内に黒いものをぐらぐらと煮たたせて、こんなふうに彼女を困らせる。
「あんたが何考えてるのかわからないのは私も嫌だから、思ったことは全部言って。してほしいことも、全部」
「んなのかっこ悪ィよ」
「いいじゃない、そういうのも見たいの、全部」
ナミさんはおれの頬にまたぺたりと手のひらをつけた。ひやりと冷たいその手から、彼女の鼓動が伝わる。
紫色を帯びた空の光が窓から彼女の背中を照らし、その影に遮られた光がおれにもぶつかる。眩しくて、目を細めたらナミさんの親指がおれの頬を撫でるように少し動いた。
彼女の反対の腕を引き、おれの胸に彼女を落としこむみたいに引き寄せる。傾いた彼女の身体を抱きしめて、口を開いた。
「もっと」
「うん」
「もっと、おれといたいと思って」
「思ってるわよ」
「おれと同じくらいじゃなくてもいいから、もっとおれのこと好きになって」
「好きよ。同じくらい」
「全然だよ」
全然足りていない。おれの絶望的なほどに深い彼女への恋心など、絶対に彼女には追い付かない。
「もっとわがまま言って。会いたいなら来いって呼んで。おれに無理させて」
「いやよそんな」
「頼むから」
もっと欲しがってくれ。
ナミさんは膝でこちらににじり寄ると、あぐらをかいたおれの脚の間にすぽんと横座りに座り込んでおれの首に腕を回した。
「じゃあちょうだい。もっとちょうだい」
顔が引き寄せられる。ずくずくと腹の奥が疼く。鼻先が頬に触れ、唇が、おれのかさついた唇が彼女のやわらかなそこに、今まさに触れようとしている。
リスみたいだった丸い目が、昼間の猫みたいに細くなり、でも大きな瞳は夜みたいに真っ黒に光っている。
「何からあげたらいい」
「キスして」
この世の何よりおれが一番近い唇に食いついた。
見た目通りにやわらかく、信じられないくらい甘いそこからどんどんあたたかなものが滴る。一滴もこぼすまいと吸い尽くすみたいに舌で舐めとると、首に回された彼女の手の先がおれの襟足を撫でた。
唇を離し、「次は?」と囁く。
「もういっかい」
は、と彼女が息を繋ぐ隙さえ与えてあげられず、再び吸い付いてその唇の外側も内側も、舌の形も全部めちゃくちゃに舌で触れる。
襟足から肩甲骨に向けて彼女の手が滑り込んでくるのと同時に、彼女の薄いセーターの裾から平たい腹を撫でたらその身体が小刻みに震えるのがわかった。
部屋はすっかり薄暗く、ナミさんの後ろに見える四角い景色は紫色を通り越してゆったりと濃い青に落ちていこうとしている。
下唇を吸って離すとそこがぷるんと揺れた。
「次は?」
「次は……」
ナミさんの顔は逆光で、その表情はよく見えない。まだ一口も飲んでいないコーヒーの冷めゆく香りが部屋に満ちている。そのにおいを、自分たちが放つ濃い別の匂いでかき消そうとしている。
「好きにしていい?」
背中にじかに触れ、浮かび上がった背骨を撫でる。ナミさんは頷いて、疲れた唇でけだるげにおれの喉仏に触れた。
指先が痺れるほど、早く彼女の奥に触れたくてたまらず事を性急に進めようと気持ちがはやるのだが、おれと同じくらい熱くなったナミさんの呼吸を感じるたびにどきりとして、思うように手が進まずいい塩梅になった。
セーターを脱がし、以前の痩せ細っていた鎖骨がほんのりと丸みを帯びているのを触れて確認する。嬉しくなる。
その隆起を唇で辿り、骨のくぼみを舌で押すとナミさんは気持ちよさそうに短く高い声をあげた。
下着を外すと苦しそうだった胸元がこぼれて、すかさず下から掬う。
秋の乾いた空気をものともせずに、ナミさんの肌はしっとりと指に馴染み、まるでおれを待っていたみたいだった。そうであればいいのにと思いながらスカートの裾に手を滑り込ませると指がすぐ下着に触れたので、どんだけ短いスカートなんだと今更ながら心もとなくなる。
「ナミさん」
「なに……」
「もちっと、スカートは長めにしてくれると」
酔ったように焦点の外れていた目がゆっくりとおれに重なり、「は?」と妙に明瞭な声でナミさんは言った。
「他の男が見るだろ、ナミさんの脚を」
「綺麗だからいいでしょ」
思わず笑ってしまった。ナミさんも自分で言っておいて、悪戯がばれたみたいに笑っている。
思ったことは全部言ってと言ったくせに、ナミさんがそれを全部ハイハイと聞き入れるはずがない。ナミさんはでも、心なしか嬉しそうな声で、「そういうのもいちいち言って」とおれの肩に手を置いて囁いた。
「もっと心配させたいの。私も、サンジ君に私で一杯になってほしい」
「なってるよ、もう」
下着に触れた手をそのまま滑らせて、張りのある肌をなぞり、その丸みを手のひらに収めて、湿ったところまで指を運ぶ。
生地の上からなぞるだけでナミさんは苦しげに声をあげた。おれの服の裾を強く握ることが、気持ちいいと言っているのと同じだとわかっていたから、構わず指の先を布ごと沈めて、その音を聞いた。
反対の手を後ろ側から下着の内側に滑り込ませて、なめらかな肌を撫でてぐっとおしりをもちあげて、おれに押し付ける。ああ、と声をあげておれの肩を掴んだナミさんの手が、力みすぎてずるりとそこから外れた。
傾いだ彼女の身体を支えたついでに床に押し倒して、勢いのまま下を全部脱がせた。
片足を持ち上げて太腿の裏を舐めると汗の味がした。熱くて、濃い彼女の味がする。ナミさんは首を振っておれの髪を掴んだが、その手に引き寄せられるみたいに中心に顔を寄せた。
薄い毛を撫でて、ひくつくそこに舌をあてるととたんに水量が増して、溺れそうになる。
逃げるようにずり上がるナミさんの腰を引き戻して、こっくりと粘度のあるそれを丁寧に舐めとると、小刻みにナミさんの脚が震えて時折けいれんを起こすみたいに大きく揺れた。
顔を上げて口元を拭うと、ナミさんは細長い手足をぱたりと横に伸ばして大きく息を吸ったり吐いたりしていた。
おれが「ナミさん」と呼ぶと、虚ろな目がおれをとらえて、それしか知らないみたいにこちらに手を伸ばしてくる。
ああ、とおれも大きく息をついて彼女を抱きしめた。そのしなやかな上体を持ち上げて、おれの胸にぴたりと沿わせて抱きしめる。
片手でベルトを緩めて自身を取り出して、もはやそこも彼女の奥に触れることだけを思ってきつく腫れている。
入り口に触れると、ナミさんが過剰にびくりと身をすくませた。
「あ、ごめ、大丈夫?」
「だい、じょぶ」
ナミさんはおれの首に腕を回して引き寄せると、自らも首を持ち上げて唇を重ねてきた。
キスのしすぎでおたがいにだらしなく緩んだ口もとを惰性で重ねたまま彼女の中に押し入った。
入り口だけが狭く、入れてしまえば一気に奥まで入ってしまう。
う、と短く呻いたナミさんは、ぶるっと一度震えてから大きく息をついて、閉じていた目をゆっくり開いた。
「サンジく、ん」
「うん」
「あったかい……」
「気持ちいい?」
「うん」
すごく、とナミさんはおれの背を撫でて、もっと深くと言うようにおれの腰を下へと押した。
促されるまま腰を落として、引き上げて、そのたびに静かに響く水の音と、互いの汗が肌を吸いつかせては離れる音と、ナミさんの息遣いに耳を澄ませた。
身体を繋げる行為そのものも、おれがナミさんを心底求めていることも、またナミさんもやっぱりおれを求めていることも、その全部が喜びになって胸を浸し、ちかりと光ったのが果てる直前のきざしだったのかナミさんの目の強い光だったのかわからないまま、半ば意識を失うように何も考えられなくなった。
「痛い、背中」
おれのパーカーを苦しそうに胸元まで上げたナミさんは、うらめしげにおれを見てそう言った。
「だよな、ごめん」
「うそよ」
痛いのは本当だけど、と言ってナミさんはおれの胸に背中を預けてもたれかかった。
「おなかすいちゃった」
「おれも。なに食おう」
「なんでもいい。サンジ君が作って」
「そうだな、何にすっかなー」
すっかりと夕闇に落ちた部屋の中で、おれたちは電気もつけずにまどろんだままぼそぼそと話した。
ナミさんは「気持ち悪いからまだ履かない」と言って、下着をつけずにおれのシャツを腰のあたりに巻いていた。濡れて小さくなった彼女の下着は、床の上でくしゃりと丸まって、なんというか卑猥だ。
ついそれをじっと見てしまったが、ふと彼女を見たらナミさんは窓の方をじっと見ていた。
ああ、とまたあの苦しさがやってくる。
つい数分前まであんなにも満たされていた胸の内が、ひきつけを起こすみたいに痙攣し始める。
意を決し、おれは口を開いた。
「何見てんの、ナミさん」
「サンジ君」
「え?」
「サンジ君を見てる。ほら」
彼女が指を差す方を見ると、真っ黒い窓にはぽかんと口をあけたおれと、おれに身体を預けて力を抜き、緩やかに伸びた樹のようにおれにもたれかかるナミさんの姿が映っていた。
「かっこいいね、サンジ君」
知ってた? とナミさんは首を反らせて、天を仰ぐみたいにおれを見上げた。
「ずっと見てたいくらい」
顎の裏というか、ちょうど顎の先と喉仏の中心くらいにナミさんがキスをする。
彼女がふすふすと鼻を鳴らして笑うと、それに合わせておれの身体も揺れた。
ナミさんは窓に映るおれを見たまま、しばらくそうして笑い続けた。
fin.
いい天気だね、と呟いたけども返事がない。ラグにぺたんと座り込んで、テーブル上のマグカップにそっと手を添えたナミさんもおれと同じように窓の外を見ていた。
キッチンカウンターをぐるりと回っておれもナミさんの隣に腰を下ろすと、ナミさんが初めておれの存在に気付いたみたいに少しこちらを見て、「いい天気ね」と言った。
「秋晴れだな」
「行楽日和ね」
「どこか行きたい?」
うーん、とナミさんは考えるそぶりを見せたが、声でその気がないのがわかる。案の定、「べつに」とそっけない返事だった。
深い青のマグから、少し温度の落ち着いたコーヒーをすする。
「こういうお出かけ日和に家にいて、何をするでもなくいい天気だなぁって外を見てるのも贅沢ですきよ」
「おれも」
ナミさんはちらりとおれを見て、なぜだか苦笑した。きっと、おれがいつでもナミさんの言うことに「おれもおれも」と諸手を上げて賛同するので呆れているのだ。
「お昼、なに食いたい?」
「なんでもいいの?」
「もちろん。足りない食材は買いに行きゃあいいし」
「そうだけど、そうじゃなくって。なんでも作れるの?」
「だいたいは」
へえ、すごい、とナミさんが臆面もなく褒めてくれるので、おれはぐんぐんと嬉しい気持ちになって少しナミさんにすり寄り、腰に手を回した。
柔らかい毛足のセーターの、肩のところに顎をつけて喋るとナミさんはくすぐったそうに身をよじった。
「本当に何でもいいよ。ナミさんが来てくれるっていったときからすげぇ張り切ってる」
ふっと息で笑って、ナミさんはまた窓の外に顔を向けた。その顔が見たくなり、覗き込むが首の角度に限界があって彼女の表情までよく見えない。
一体どんな顔をして、どんな目で、そんなに窓の外ばかり見ているのか、見えないからこそ無性に知りたくなった。
不意に怖くなる。
おれの知らないナミさんを知るたびに、喜びと同時にちらりとよぎる不安。
いま、誰のこと考えてる?
絶対におれは聞かないし、聞けないし、きっとナミさんも言わない。
ナミさんもきっとおれのこういう臆病さに気付いている。
「ナミさん」
腰に回したのと反対の手を彼女の頬に伸ばす。少し触れると、すぐにナミさんはこちらを向いて、「サンジくん、手、つめたい」と笑った。
鼻先が触れて、ナミさんが目を伏せる。顔を傾けて、少し唇を開いて、あったかくてやわらかいそこを重ねる。
触れたところからなにかいいものがおれの中に流れてくる。少し離して、角度を変えて、もう一度触れるとナミさんは温めるみたいにおれの片手を両手で包んでくれた。
大丈夫よ、と言われた気がして、彼女をきつく抱きしめたくなったのに、ナミさんはおれの手を、と言うより指の方を、両手でぎゅっと握っているのでそれができない。
おれのことだけ考えて、と思う。
きっと今この瞬間、ナミさんの中はおれでいっぱいなはずだ。わかっている。でも足りなかった。
おれのことだけ考えて、おれにだけその顔を見せて。
窓の外には誰もいないよ。
*
秋晴れだな、とナミさんに言った次の日は、世界中の赤ん坊が泣き狂っているみたいに激しい雨だった。
秋雨ってもっとこう、大人しくしとしとと降るんじゃなかったっけ。そう言ったらナミさんは「台風の影響でしょ」と至極真っ当なことを言って、さっさとおれの家から出勤していった。できることなら、というより当然のように一緒に家を出て途中まで同じ道を辿って出勤するものだと思っていたおれは、ためらいもなく「私今日早いから」と言って先に出てしまったナミさんの背中をさみしく見送って、誰もいないいつもの家に鍵を閉める。心なしか置いてけぼりを食ったさみしさが音に滲んだ。
紺色の大きな傘を広げて、足元に跳ねる強い水しぶきに舌を打って、うつむきがちに会社への道を辿る。
頭はもう、家に帰ってからのことを考えている。
今日もナミさんはおれの家に帰ってくる。明日も、明後日も、彼女の仕事が詰まらない日はいつだって、彼女はおれの家に帰ってくる。
「そんなの悪い」と言って顔をしかめた彼女をなだめすかし、おれのためを思ってと半分すがって平日の夜は一緒に飯を食う約束を取り付けた。
この前振る舞ったおれの手料理が功を奏したのか、ナミさんは少し言いにくそうに「夜はサンジ君のごはん?」と尋ねた、あの可愛らしさよ。もちろん! とおれは叫び、でもたまには外に飲みに行こうな、と彼女の手を取ってにっこり笑った。
ナミさんは何が好きなんだろう。主食はコメの方が好きなのか、パンに合うものがいいのか、それとも酒に合うつまみをたくさん用意した方がいいんだろうか。食後にデザートは欲しくなる子なのか、どれくらいカロリーなんかを気にするのか。
思えばおれは、まだまだまだ、彼女のことを何もと言っていいくらい知らなかった。
恋人という大義名分を得たおれは、まるで一国の城の王になったような無的な気分で有頂天になっていたが実のところ無能もいいところで、ナミさんがおれのそばにいてもいいと思ってくれるからこそなれる王であり、そうでなければ、そう、考えたくもないが、そうでなければ、おれはまだなにひとつ持っていないのだった。
おれはナミさんの全部を知りたいし、全部が欲しい。そしてナミさんにもそう思ってもらいたい。
それは気持ちであったり、行動の一つ一つであったり、身体そのものでもあった。
柔らかくて内に潜れば潜るほど熱い彼女の中を思い出し、身体の芯がぶるっと震えた。いけねぇここは地下鉄、と思うものの、しっかり刻み込まれた記憶が未だ生新しい温度を保って目の前にスライドインしてくる。ぎゅっと目を瞑り、つり革を強く握って中心に集まろうとする熱を必死で分散させる。仕事のことを思い出して紛らわせようと、今日の予定を頭の中で立てたが圧倒的なナミさんの力には抗うのも馬鹿らしいと言ったふうに、気付けば書類の白はナミさんの肌の白さにとって替わっていたりした。
だめだ、ナミさん。
混みあう地下鉄の中、もぞもぞと右腕を動かし胸ポケットから携帯を取り出す。
「おれも家を出ました。朝早かったけど眠くなってねぇ? 今日も一日がんばって」
文面を読み返し、中学生みたいだ、と恥ずかしくなる。が、そのまま送った。
いいのだ。どうせおれはナミさんの前では中学生男子みたいなもんだ。
返事はわりとすぐ、おれが地下鉄を下りるより前に返ってきた。
「朝から企画書がたまっててげんなりしたわ。今は眠くないけど、お昼食べたら眠くなりそう」
文面の最後に付いていた「zzz」というかわいらしいマークに、携帯を握る手がほわっと温まる。
だらしなく緩んだ顔のまま「夜は何食べたい? 希望があれば、買い物して帰るよ」と送ったが、その返事はその日おれが家に帰るまで帰ってこなかった。
メールの返事はなかったが、19時頃会社を出て買い物をして帰路につく。大粒だった雨はすんと落ち着いて、朝の激しさなど素知らぬふうに空には薄い雲が伸びている。少し風が強かった。
ナミさんは薄着だったが寒くねェかななどと考えながら、スーパーの買い物袋を片手に揺らすのはわかりやすく幸せだった。
部屋に着いたら、朝飲んだコーヒーのマグカップを二人分洗って、あったかいブイヤベースを仕込もう。彼女が以前「ここ美味しいのよ」と言った駅から少し遠いパン屋にもわざわざ寄って、ブイヤベースに合うブールも買ってきた。
おれがこねてもいいのだが、時間がかかるしそんな楽しいことはナミさんも一緒のときに二人で作ってみるのもいいだろう。
海老の背ワタを取り、タラの切り身に塩をまぶす。二枚貝を砂抜きして、セロリを薄く刻む。鍋に火をかけたところで一服とタバコにも火をつけた。ケツに突っ込んだ携帯がぶるっと震えて、はらっと花が咲いたみたいなときめきを覚えて慌てて画面を覗き込んだ。
「急に飲みに誘われちゃった。遅くなりそうだから、今日は自分の家に帰るわね」
ふつ、と鍋の中が音を立てた。
ふつふつふつ、とスープのふちが気泡を立てて、海鮮たちがその身を揺らしながら赤や白に色を変えていく。
おれは携帯を、シンクとは反対側のコーヒーメーカーなんかが置いてあるカウンターに置いて、とりあえずめいっぱい煙草の煙を吸い込んだ。
そうだよ。こんなことだって十分あり得る。知っていた。
だって彼女の家はここではないし、今朝ここを出て行ったからと言ってまたここに帰ってくるわけではない。
彼女には彼女の仕事が、友達が、付き合いがあり、もちろんおれも同じで、たとえどれだけほしくてもおれが彼女のすべてを手に入れることなんてまったく不可能なのだ。
こんなのは世の中よくあることで、勝手にこちらがそわそわと浮足立って準備したことが相手の予想外の行動でまったく意味をなさなかったり、期待外れだったり、そういうがっかりする事態は正直面白くないほどありふれている。
だからそう、おれは訊いてはいけないのだ。
「飲みって、そこに男もいる?」
だとか、
「仕事の人?」
だとか、ましてや、
「あいつに会うわけじゃねぇよな?」
なんて、訊いてはいけない。
おれは鍋の中を覗き込み、あくを取って静かにトマトペーストを垂らした。
再び蓋をして、携帯を手に取る。
「了解、ナミさんに会いたかったけどしゃーねぇな。帰り遅くなるならあぶねぇし、駅から家まで送るよ」
送信し、じっと何もない画面を見つめていたらすぐに返事が来た。
「ごめん、もしかして夕飯準備してくれてた? 明日食べに行くわ。帰りはタクシーで送ってもらえると思うから大丈夫」
おれは何か返事をしたが、あんまり覚えていない。
とりあえず作りかけたブイヤベースを仕上げ、ブールを切って残りは冷凍した。
テレビをつけ、21時のドラマとバラエティが軒を連ねるラインナップにうんざりしてすぐに消した。
サラダとスープにパンじゃ足りず、結局くず野菜と肉を刻んでチャーハンを作ってかきこむように食べた。
ナミさんと食べる食事は、たとえ小鳥のエサみたいな少しのつまみであっても、彼女が美味しそうにそれらを口に運ぶ顔を眺めていれば、永遠に満たされていられた。
タクシーで彼女を家まで送るのはいったい誰なのか。
何かを食い、美味しいと笑い、アルコールで薄らと頬を赤らめるその顔を見るのはいったい誰なのか。
どうして彼女は、おれにもっと何かを求めてくれないのか。
おれは知っていた。
ナミさんが、「どうしようもないじゃない」と声を荒げて、涙にひりつく瞼で誰かを思って走って行けることを知っていた。
春の嵐みたいなその勢いのすさまじさに圧倒されて、だからこそ、そんなふうにおれも求めてもらいたかった。
じりじりと削るみたいに夜が深くなっていく。
だめだだめだ、と腰を上げ、ガチャガチャと皿を洗ってさっさと風呂に入った。何も考えられないくらい湯を熱くして、皿を洗うのと同じ要領で自分を洗ってさっさとベッドに滑り込んだ。
きつく目を閉じて案の定寝つけずにいたら、日が変わった頃に携帯がちかりと光り、
「今家に着きました。心配すると思って」
とナミさんからのメールが届き、それを読んでおれはやっと眠ることができた。
結局次の日から週末までナミさんが残業の日が続き、会えたのは土曜の夕暮れ前だった。
すっかり秋めいた晴れの空の下、ナミさんは薄手のコートを羽織ってひらりと優雅におれの部屋に現れた。
「ひさしぶり」
4日ぶりのナミさんはそう言ってかかとの高いグリーンのパンプスを脱いだ。
疲れているのか、リビングに続く短い廊下を歩く間にナミさんはあくびをした。
「仕事、忙しかったんだな」
「あ、ごめん。ちょっとね、でももうひと段落ついたから」
ナミさんはコートを脱ぎながら話す。
「昨日そのひと段落ついた案件の打ち上げが夜中の2時近くまであってさ、クライアントも一緒だったし全然酔えないのになかなか終わらなくて、仕事の中身って言うより最後のそれですっごい疲れちゃった。家に着いたのが3時くらいだったのかなぁ、起きたらお昼だったし、あ、ごめんね返事遅くなって」
「いんや」
「そうだあんたのところの新店、この前ポーラが行ったんだって。あ、ポーラって私の同僚ね。美味しかったし雰囲気よかったって言ってたわよー、デートだったのかなんだったのか訊かなかったけど。私もあれっきり行ってないし、ちゃんとご飯食べに行ってみたいな」
「そうだな」
ナミさんはおれにコートを手渡し、ふとリスのような丸い目でおれをじっと覗き込んだ。
「サンジ君、なんか変」
「え」
ナミさんはおれににじり寄って、ぐいと顔を近づけた。
「あんたこそ疲れてるみたい。ぼーっとしちゃって」
「や、違うんだこれは」
「なに?」
ナミさんから顔を背け、一歩後ずさる。おれのその仕草に、ナミさんはぎゅっと顔をしかめた。
「なんなのよ一体。怒ってるの?」
「まさか!」
「じゃあなんで避けるのよ」
避けたわけではなかった。ただ、たった四日ぶりの彼女があまりに変わりなく、矢継ぎ早に話す様子がまるで、そうまるで、「おれに会いたかった」と言ってくれているようで、ただくらりとしたそれだけだ。
おれは数秒口元をまごつかせてから、「ナミさんが可愛くて」と言った。
「はぁ」
気の抜けた顔で肩の力を抜いたナミさんは、「よくわかんないけど」と言ってぺたんとラグに座った。
しずしずとおれも隣に腰を下ろしたが、「あ、コーヒー淹れるな」とすぐに立ち上がる。そんなおれの慌ただしい様子にナミさんは呆れたみたいに少し笑ってくれた。
コーヒーマグを両手にリビングへ戻ると、ナミさんが腰を下ろしたテーブルの上にちょこんと小瓶が乗っていた。
おまたせ、と言って彼女の前にコーヒーを置くと、ナミさんは「ありがとう」と呟いてからその小瓶に両手で触れた。
「お土産」
「お土産? どっか行ってたの?」
「うん。木曜にプチ出張で。近場だけどね」
彼女のクライアントがアパレルショップで、最近の服屋というのは服だけでは飽き足らずにハンドクリームやアロマなんかの化粧品類、さらにはこうした食品なんかも売り出しているのだと言う。
これはそのクライアントが売出し中の、はちみつ漬けのナッツだった。
「へえ、うまそ」
「なんか流行ってんだって。食べたことある?」
「ない。チーズに合いそうだな」
「じゃあワインにも」
ナミさんが嬉しそうにくふふと笑う。思わず腕を伸ばして彼女の肩を抱き寄せた。ぐら、と彼女の身体が傾いて、ナミさんは「うわ」と驚いた声をあげた。
「ありがと、ナミさん」
「え、なに、そんなに嬉しかった?」
「そうじゃなくて」
ぐっとさらに力を込めて彼女を引き寄せる。膝がぶつかり、太腿に太腿が触れ、脇の下から差し込んだ手で彼女の細い肩を手のひらに収める。
ナミさんはおれの肩に顎を置いて、「どうしたの」と呟いた。
「やっぱりサンジ君、変よ」
「変じゃないよ、大丈夫」
こんなにも細いのにしっかりと暖かい彼女の身体を腕の中に感じて、おれはとてつもなくさみしかった。
ナミさん、ナミさんおれは、どうしても考えてしまう。
おれのいない日々を過ごす君は、一体どれくらいおれのことを思い出してくれたのだろう。
少なくともこの土産を買うときに、おれを思い出して、ああそれはとてもうれしい。でもそのとき隣にいたのは誰だった?
昨日の打ち上げは疲れたと言っていた、でも夜中の二時まで帰らなかった、そのときずっと一緒にいたのは。
とっくに終電も行ってしまった真夜中に、彼女をタクシーに乗せたのは。
一度も、本当に一度も、彼女が泣いてまで欲しいと叫んだ別の男を思い出した時間はなかったのか。
サンジ君、と彼女がおれを呼んだ。
「コーヒー冷めちゃう」
ナミさんは宥めるようにオレの背中をポンポンと叩き、おれがいやいや腕の力を緩めると、そこからすぽんと抜け出すみたいに顔を上げて、「心配してるの?」と言った。
「いや」
「うそ。いろいろ考えてた」
「いや……うん、まぁ」
「私のせいね」
ナミさんは大人びた顔で、諦めたみたいに少し笑った。
たまらず、おれは大きな声で「ちがう」と言って彼女の手を掴んだ。
「ごめ、おれ本当、ナミさんが思ってる以上にナミさんのことが好きなんだよ。できることなら毎日会いたいし、ずっと触ってたいし、おれ以外のやつは誰一人ナミさんのこと見てほしくねぇと思ってる。んなこと無理なのもわかってんだけど、わかってんだけど」
ナミさんは目を丸めておれを見上げ、気圧されたみたいにひとつ「うん」と頷いた。
おれは情けなく口元を下げて、「できれば、ナミさんもそうだったらいいのにって」とごにょごにょと言った。十分情けないことを言い散らかしているのにおれのなけなしのプライドが口を回らなくさせた。
「そんなの私だってそうよ」
ナミさんは丸い目のまま、ぽかんとおれを見つめて言った。
おれもぽかんと見つめ返して、「え?」と聞き返す。
「当たり前じゃない、会えない時間はこっちだって一緒なんだから」
「でも」
「そりゃ私はあんたほど、あんたのことばっかり考えてるわけじゃないけど」
そう言ってナミさんはひとりでくくっと笑った。
「サンジ君は顔に書いてある。『ナミさん』って」
おれがぺたりと自分の頬に触れると、ナミさんは笑いながらその上に自分の手のひらを重ねた。
ね、サンジ君、とナミさんは囁き声で言った。
「私だって、あんたが思っている以上にあんたのこと、好きよ」
鼻先に唇が触れ、それはまだ外の空気をまとって冷たかった。
ナミさんは浮かせていた腰を下ろして、また下からおれを覗き込む。
「でも、サンジ君にそんなにもいろいろ考えさせてるのは私のせいでしょ。私が別の男と会ってんじゃないかって考えてんでしょ」
ナミさんの薄い手を掴み、その細い指をぎゅっと握りしめ、「うん」と頷く。もはやごまかしようがないくらい、おれはどろりと濃くて重たい嫉妬をぐらぐらと煮たたせていた。
「そんなことはなにもないって、口で言うのは簡単だけど」
そうだ。おれのいない世界を平気で生きてしまえる彼女に寄りつく男たちに太刀打ちする術を、おれは十分に持ち合わせていない。
たぶんずっと、おれの前に、おれと彼女の間に、その「誰か」の影はちらつき続ける。そのたびにおれは胸の内に黒いものをぐらぐらと煮たたせて、こんなふうに彼女を困らせる。
「あんたが何考えてるのかわからないのは私も嫌だから、思ったことは全部言って。してほしいことも、全部」
「んなのかっこ悪ィよ」
「いいじゃない、そういうのも見たいの、全部」
ナミさんはおれの頬にまたぺたりと手のひらをつけた。ひやりと冷たいその手から、彼女の鼓動が伝わる。
紫色を帯びた空の光が窓から彼女の背中を照らし、その影に遮られた光がおれにもぶつかる。眩しくて、目を細めたらナミさんの親指がおれの頬を撫でるように少し動いた。
彼女の反対の腕を引き、おれの胸に彼女を落としこむみたいに引き寄せる。傾いた彼女の身体を抱きしめて、口を開いた。
「もっと」
「うん」
「もっと、おれといたいと思って」
「思ってるわよ」
「おれと同じくらいじゃなくてもいいから、もっとおれのこと好きになって」
「好きよ。同じくらい」
「全然だよ」
全然足りていない。おれの絶望的なほどに深い彼女への恋心など、絶対に彼女には追い付かない。
「もっとわがまま言って。会いたいなら来いって呼んで。おれに無理させて」
「いやよそんな」
「頼むから」
もっと欲しがってくれ。
ナミさんは膝でこちらににじり寄ると、あぐらをかいたおれの脚の間にすぽんと横座りに座り込んでおれの首に腕を回した。
「じゃあちょうだい。もっとちょうだい」
顔が引き寄せられる。ずくずくと腹の奥が疼く。鼻先が頬に触れ、唇が、おれのかさついた唇が彼女のやわらかなそこに、今まさに触れようとしている。
リスみたいだった丸い目が、昼間の猫みたいに細くなり、でも大きな瞳は夜みたいに真っ黒に光っている。
「何からあげたらいい」
「キスして」
この世の何よりおれが一番近い唇に食いついた。
見た目通りにやわらかく、信じられないくらい甘いそこからどんどんあたたかなものが滴る。一滴もこぼすまいと吸い尽くすみたいに舌で舐めとると、首に回された彼女の手の先がおれの襟足を撫でた。
唇を離し、「次は?」と囁く。
「もういっかい」
は、と彼女が息を繋ぐ隙さえ与えてあげられず、再び吸い付いてその唇の外側も内側も、舌の形も全部めちゃくちゃに舌で触れる。
襟足から肩甲骨に向けて彼女の手が滑り込んでくるのと同時に、彼女の薄いセーターの裾から平たい腹を撫でたらその身体が小刻みに震えるのがわかった。
部屋はすっかり薄暗く、ナミさんの後ろに見える四角い景色は紫色を通り越してゆったりと濃い青に落ちていこうとしている。
下唇を吸って離すとそこがぷるんと揺れた。
「次は?」
「次は……」
ナミさんの顔は逆光で、その表情はよく見えない。まだ一口も飲んでいないコーヒーの冷めゆく香りが部屋に満ちている。そのにおいを、自分たちが放つ濃い別の匂いでかき消そうとしている。
「好きにしていい?」
背中にじかに触れ、浮かび上がった背骨を撫でる。ナミさんは頷いて、疲れた唇でけだるげにおれの喉仏に触れた。
指先が痺れるほど、早く彼女の奥に触れたくてたまらず事を性急に進めようと気持ちがはやるのだが、おれと同じくらい熱くなったナミさんの呼吸を感じるたびにどきりとして、思うように手が進まずいい塩梅になった。
セーターを脱がし、以前の痩せ細っていた鎖骨がほんのりと丸みを帯びているのを触れて確認する。嬉しくなる。
その隆起を唇で辿り、骨のくぼみを舌で押すとナミさんは気持ちよさそうに短く高い声をあげた。
下着を外すと苦しそうだった胸元がこぼれて、すかさず下から掬う。
秋の乾いた空気をものともせずに、ナミさんの肌はしっとりと指に馴染み、まるでおれを待っていたみたいだった。そうであればいいのにと思いながらスカートの裾に手を滑り込ませると指がすぐ下着に触れたので、どんだけ短いスカートなんだと今更ながら心もとなくなる。
「ナミさん」
「なに……」
「もちっと、スカートは長めにしてくれると」
酔ったように焦点の外れていた目がゆっくりとおれに重なり、「は?」と妙に明瞭な声でナミさんは言った。
「他の男が見るだろ、ナミさんの脚を」
「綺麗だからいいでしょ」
思わず笑ってしまった。ナミさんも自分で言っておいて、悪戯がばれたみたいに笑っている。
思ったことは全部言ってと言ったくせに、ナミさんがそれを全部ハイハイと聞き入れるはずがない。ナミさんはでも、心なしか嬉しそうな声で、「そういうのもいちいち言って」とおれの肩に手を置いて囁いた。
「もっと心配させたいの。私も、サンジ君に私で一杯になってほしい」
「なってるよ、もう」
下着に触れた手をそのまま滑らせて、張りのある肌をなぞり、その丸みを手のひらに収めて、湿ったところまで指を運ぶ。
生地の上からなぞるだけでナミさんは苦しげに声をあげた。おれの服の裾を強く握ることが、気持ちいいと言っているのと同じだとわかっていたから、構わず指の先を布ごと沈めて、その音を聞いた。
反対の手を後ろ側から下着の内側に滑り込ませて、なめらかな肌を撫でてぐっとおしりをもちあげて、おれに押し付ける。ああ、と声をあげておれの肩を掴んだナミさんの手が、力みすぎてずるりとそこから外れた。
傾いだ彼女の身体を支えたついでに床に押し倒して、勢いのまま下を全部脱がせた。
片足を持ち上げて太腿の裏を舐めると汗の味がした。熱くて、濃い彼女の味がする。ナミさんは首を振っておれの髪を掴んだが、その手に引き寄せられるみたいに中心に顔を寄せた。
薄い毛を撫でて、ひくつくそこに舌をあてるととたんに水量が増して、溺れそうになる。
逃げるようにずり上がるナミさんの腰を引き戻して、こっくりと粘度のあるそれを丁寧に舐めとると、小刻みにナミさんの脚が震えて時折けいれんを起こすみたいに大きく揺れた。
顔を上げて口元を拭うと、ナミさんは細長い手足をぱたりと横に伸ばして大きく息を吸ったり吐いたりしていた。
おれが「ナミさん」と呼ぶと、虚ろな目がおれをとらえて、それしか知らないみたいにこちらに手を伸ばしてくる。
ああ、とおれも大きく息をついて彼女を抱きしめた。そのしなやかな上体を持ち上げて、おれの胸にぴたりと沿わせて抱きしめる。
片手でベルトを緩めて自身を取り出して、もはやそこも彼女の奥に触れることだけを思ってきつく腫れている。
入り口に触れると、ナミさんが過剰にびくりと身をすくませた。
「あ、ごめ、大丈夫?」
「だい、じょぶ」
ナミさんはおれの首に腕を回して引き寄せると、自らも首を持ち上げて唇を重ねてきた。
キスのしすぎでおたがいにだらしなく緩んだ口もとを惰性で重ねたまま彼女の中に押し入った。
入り口だけが狭く、入れてしまえば一気に奥まで入ってしまう。
う、と短く呻いたナミさんは、ぶるっと一度震えてから大きく息をついて、閉じていた目をゆっくり開いた。
「サンジく、ん」
「うん」
「あったかい……」
「気持ちいい?」
「うん」
すごく、とナミさんはおれの背を撫でて、もっと深くと言うようにおれの腰を下へと押した。
促されるまま腰を落として、引き上げて、そのたびに静かに響く水の音と、互いの汗が肌を吸いつかせては離れる音と、ナミさんの息遣いに耳を澄ませた。
身体を繋げる行為そのものも、おれがナミさんを心底求めていることも、またナミさんもやっぱりおれを求めていることも、その全部が喜びになって胸を浸し、ちかりと光ったのが果てる直前のきざしだったのかナミさんの目の強い光だったのかわからないまま、半ば意識を失うように何も考えられなくなった。
「痛い、背中」
おれのパーカーを苦しそうに胸元まで上げたナミさんは、うらめしげにおれを見てそう言った。
「だよな、ごめん」
「うそよ」
痛いのは本当だけど、と言ってナミさんはおれの胸に背中を預けてもたれかかった。
「おなかすいちゃった」
「おれも。なに食おう」
「なんでもいい。サンジ君が作って」
「そうだな、何にすっかなー」
すっかりと夕闇に落ちた部屋の中で、おれたちは電気もつけずにまどろんだままぼそぼそと話した。
ナミさんは「気持ち悪いからまだ履かない」と言って、下着をつけずにおれのシャツを腰のあたりに巻いていた。濡れて小さくなった彼女の下着は、床の上でくしゃりと丸まって、なんというか卑猥だ。
ついそれをじっと見てしまったが、ふと彼女を見たらナミさんは窓の方をじっと見ていた。
ああ、とまたあの苦しさがやってくる。
つい数分前まであんなにも満たされていた胸の内が、ひきつけを起こすみたいに痙攣し始める。
意を決し、おれは口を開いた。
「何見てんの、ナミさん」
「サンジ君」
「え?」
「サンジ君を見てる。ほら」
彼女が指を差す方を見ると、真っ黒い窓にはぽかんと口をあけたおれと、おれに身体を預けて力を抜き、緩やかに伸びた樹のようにおれにもたれかかるナミさんの姿が映っていた。
「かっこいいね、サンジ君」
知ってた? とナミさんは首を反らせて、天を仰ぐみたいにおれを見上げた。
「ずっと見てたいくらい」
顎の裏というか、ちょうど顎の先と喉仏の中心くらいにナミさんがキスをする。
彼女がふすふすと鼻を鳴らして笑うと、それに合わせておれの身体も揺れた。
ナミさんは窓に映るおれを見たまま、しばらくそうして笑い続けた。
fin.
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店に着いたのは電話があってから30分以上経った頃だったけど、その人はきっとその時間そこから一歩も動いていないのだろうと思わせるほど店の背景に同化して見えた。
私を目に留めて、ホッとした顔に胸が締め付けられる。
隣に座り、彼が飲むのと同じお酒を頼んで、しばらく黙っていた。彼は私に駆けつけさせたことを詫び、それから喜んだ。
なんら変わったことを話し始める様子はなく、私もそれをわかっていたのでいつものように聞いてときどき頷いた。本当は何か話があることを期待していたのだろうけど、そんなことは話を聞いているうちに忘れてしまった。
聞きながら、ぼんやりと、どうして私はサンジ君にあんな顔をさせてまでここにきてしまったのかとそればかりをぐるぐる考えて、考えても考えても答えは出なかった。来たかったから来たのだと、それ以外に言いようはなかった。
穏やかに話し、黙り込み、お酒を飲む男の横顔を眺めながら、ずいぶんと長く深く間違えてしまったんだなぁと思った。でも正解なんてどこにも用意されてなかったんだもんなぁとも思い、ちろりとお酒を舐めた。
ぼんやりする私に目を止めて、彼が「どうした」と私の腰を抱く。「何かパーティーだったのか」と訊かれ、そうだと答える。
「いいね、服」と腰を抱く指に表面を撫でられて、いつもなら粟立つはずの肌がしんと静かにしているのを感じて、サンジ君の言葉を思い出した。
私はああすればこうなるとか、これを言ったらおしまいだとか、そういうことが上手だから。
終わりは自分で決めなければならない。
「ねぇ」
切り出すと、彼はいつものようにグラスから指を離して少しこちらに顔を向けた。
「私のせい?」
彼は口元を引き結び、一度顔を背け、ごまかすみたいな緩く笑みを浮かべた表情で私を見たが、やがて観念したように「いや」と言った。「君のことはまだ」と。
そう、と答え、手持無沙汰でもう一度欲しくもないお酒を舐めた。
要するに、私なんて登場人物ですらないのだ。
男がいて、その男を取り巻く家庭があり、そこに亀裂を入れた女がいたけどそれは私ではなく、蚊帳の外にいる私のところに男が逃げて来るだけだ。
彼はゆっくりと首をふり、「ごめん」と言った。
今日何度口にしたかわからない言葉をまた別の人から聞く。全然違う意味を持って聞こえた。
口にするのは簡単なのだ、ごめんなんて、聞かされる方がずっとつらい。
ねえ、楽しいだけじゃなんにもならなかったわね。
男の横顔を見て、そっと呟いた。
楽しかった時間の分だけ二人ともたまらなく淋しくて、足元を絡め取られて、動けなくなって、そんなときがなるべくこないようにもっともっとたくさん会いたいと思ってしまった。会えば会うだけ淋しくなることはわかっていたのに。
この人の家で待つ誰かも、私ではない別の誰かも、そして私も、この人も、みんな何かの埋め合わせを別のところに求めて、しっぽを噛んだ蛇みたいにぐるぐる回り続けている。
私、と言った。
「もっと早く、終わらせようって言いたかったのに言えなくて」
好きだと思っていた。初めてだ、こんな気持ち、こんなにたまらなく誰かのことを好きになったりできるんだと。気持ちいいくらい晴れやかにこの人のことを好きだと思っていたときのことを思い返す。
同じ気持ちを返してもらえなくたってかまわなかった。好きでいてもらえるかなんてどうでもよかった。
学生時代の恋とは違う、これが本物なのだと、思い込んでいた。
からん、と高く小さく氷がグラスにぶつかる音が、バーカウンターの向こう側から聞こえる。足元を流れるみたいに音量の小さな音楽が聞こえてくる。男は黙ったままグラスについた水滴をなぞる。
本物なんてどこにもないんだ。同じように偽物の恋だって、またない。
一つずつ自分で向き合っていくことができるかどうかだ。
口を開く時、もしかして声に出すことができないんじゃないかと一瞬強く怯えた。だけど、私の喉はきちんとふるえたし私の目は他の誰でもなく隣の人をしっかりと見ていた。
ただ、手だけはすがるように冷たいグラスを握りしめていた。
「もう連絡してこないで」
ごめんなさい、ありがとう、さよなら、一瞬これらの言葉がさっと頭に浮かんだけど、どれも口にせず足の長いスツールから飛び降りるみたいに席を立ち、そのまま店を出た。
半地下にある店の扉から外に出ると、蒸し暑い空気がわっと身体を取り囲んでワンピースの裾が脚にひたひたと張り付いた。
そのまま高いヒールの音をコンクリートに打ち付けるように大きな歩幅で道を歩き、大通りまで一気にたどり着く。脚を止めると、店を出た時の男の顔や残されたその姿を想像してしまいそうで、一度ゆるめた歩幅をまた大きくして歩き続けた。
仕事かばんに無造作に放り込んであった携帯電話を歩きながら引っ掴み、指が勝手に通話履歴から彼の名前を探し出す。なにひとつ迷うことなく押して、長く続くコール音に耳を澄ませた。それは、どこか違う国にいる人を捕まえようとしているみたいに果てしない時間だった。
「はい」
低く落ち着いた声の振動が伝わる。
ゆっくりと息を吸って、「サンジ君」と呼びかけた。
「もう帰った?」
「いや、まだ帰り道」
「そう」
沈黙が落ち、お互い言うべき言葉を探しているみたいな空白が現れる。
あのね、と言いかけて、「ナミさんは?」と言う声に遮られた。
「え?」
「ナミさんは、もう帰ったのか」
「ううん、これから……あの、サンジ君」
うん、と彼が耳を傾ける気配が伝わる。言わなければ、と思うのに一度立ち止まってしまった言葉がなかなか出てこない。
私は歩道の端で脚を止めて、ちょうど赤になった信号を見つめながらしばらく息をひそめていた。
やっとのことで、静かに息を吸う。
「会いたい、今から」
そっと吐き出すみたいにそう言うと、サンジ君も電話口の向こうで少し息を吐くのがわかった。
うん、と短く返事が聞こえる。
「勝手でごめんなさい。だけど」
うん、とまたサンジ君が応える。
「今会いたいの。そっち行ってもいい?」
いいよ、と低くまっすぐな声が聞こえた。
最寄駅を確認して、彼の家までタクシーで行くと告げる。わかりやすいところまで迎えに行くから、地下街に続く階段のそばで待っていると彼は言った。
黄色い光のタクシーが大通りに連なっているのを見つけ、そちらに向かって歩きながら「じゃあ」と言って電話を切った。
タクシーに乗り、白いレースのカバーで覆われた座席に腰を下ろすとふうと心地よい吐息が漏れた。不思議と落ち着いた気持ちで、街の明かりが少しずつ少なくなっていくのを眺めていた。
地下街を示す明かりが見える。「ここで」と言ってタクシーを降りた。街路樹の間を通って歩道に降り立ち、明かりの方へと向かう。
サンジ君の姿が見えた。車道に背を向けて、こちらに横顔を見せている。別れた時と同じスーツ姿のままで、明るい夜の街から彼の形を型抜きしたみたいにそこだけすこんと黒い。
煙草を吸っているのだろう、口元に手をやる仕草が見えた。足が早まる。
私の足音に気付いたサンジ君がこちらを見た。ついに私は駆け出して、肩に掛けた鞄の紐を反対の手でぎゅっと握った。
サンジ君は走り寄る私を少しだけ驚いた顔で見て、それから口に咥えていた煙草を迷うことなくぽいと道に捨てた。煙草が地面に落ちるのと、私がサンジ君に掬い上げられるみたいに抱き着いたのと、ほとんど同じだった。深く煙草のかおりがした。
ぎゅっと首に腕を回すと、同じ力の分だけ私の腰に回された腕に力がこもる。
どれだけひどいことをしたのだろうと思い、でも許してくれるとわかってるからひどいことでもしてしまえるんだと、サンジ君の優しさを少しだけ疎ましく思った。
「すっげぇ劇的」
サンジ君がぽつりと言った。耳のすぐそばから声が聞こえる。
「……なにそれ」
「靴音が聞こえたと思ったら、美女が高いヒールの靴でこっち走ってきてそのまま飛びついてくんだもん。映画みてェ」
「ばかにしてる?」
「してない。喜んでる」
でもそんな靴で走っちゃあぶねぇよ、と言ってサンジ君は私を離した。
「おかえり」
ぐっと胸が詰まる。またごめんなさいの言葉が口から飛び出しかけて飲みこみ、小さな声で「来てくれてありがと」と言った。
サンジ君は私の手を取って少し笑うと、「おれの家でいい?」と私の目を見て尋ねた。
「いいの?」
「ナミさんがいいなら」
「私は……」
「あでも散らかってる」
そんなの別に、と言うとサンジ君は私の手を取ったまま「行こう」と歩き出した。
タクシーを降りた大きな通りから一本道に入ると、途端に住宅街になって夜は静かだ。
「パーティーは?」
「つつがなく終わりました。ナミさん紹介しろって野郎共がうるさくてうるさくて、さっさと帰ってきてやった」
「でも今帰り道だったんでしょ」
サンジ君は少しためらってから、「帰りたくなくて飲んでた」と言った。
その顔を見上げるけど、サンジ君はまっすぐ前を向いている。
「そのわりには酔ってないわね」
いつも赤くなっちゃうのに、と言うと、サンジ君も「なー、なんでだろうな」とたいして不思議そうでもなく言った。
「たぶん、わかってたんだ。ナミさん迎えに行かなきゃなんねぇこと」
「……すごい」
だろ、とサンジ君は朗らかに笑った。
「私が呼ばなかったらどうしてたの」
「それでもたぶん迎えに行ってたよ。今日じゃなくても、絶対」
私が答えられないでいるうちにサンジ君は「ここ」と言って脚を止めた。思った以上に近くて、半身を彼にぶつけてしまう。2階建てのかわいらしいアパートだった。私たちが玄関前に立つと、パッとサーチライトが自動でつく。
「かわいいアパートね」
「駅から近くていいんだ。上手い店も近くに多い」
サンジ君は私の手を離すことなくアパートのドアを開けると、そのまま階段を上っていった。
一段登るごとに、少しずつ頭が冷えて、それと反比例して胸が熱くなる。緊張している、と思った。
サンジ君は階段すぐの部屋の扉を開けて、「どうぞ」と私を促した。
「わ、え、広い!」
ありきたりな小さなドアの向こうは、びっくりするくらいずんと広い玄関が用意されていた。その向こうに続く廊下も幅広で両側にドアが二つある。玄関口は、外よりずっと涼しい。
ぱちんとサンジ君が電気をつけると、暖色の光でタイルの玄関が照らされた。
「なんか思ってた感じと違う」
「広いだろ。ここ、一つの階に二部屋しかねーんだ。間取り広くて気に入ってる」
外見からはただの古アパートっぽいところも好きなんだ、と言ってサンジ君は靴を脱ぎ、私も脱ぐように促した。
ひろい玄関にはほかに、サンジ君のスニーカーが一足揃えて置いてあるだけだった。
失礼、と言ってサンジ君は私の前に出ると、突き当りの扉まで歩いていく。またぱちんと電気をつけて、「どうぞ」と私を振り返った。
深い紺色のカーテンが引かれている。真ん中にテーブル。二人掛けのソファ。ベッドはない、と言うことはもう一部屋あるのだ。部屋の隅に大きな本棚があり、たくさんの本が置かれていた。
そのワンルームの隅に、広いキッチンカウンターがある。
「いい部屋ね」
「そ? あ、でもごめんやっぱ散らかってた」
とにかく座って、と言ってサンジ君は私をソファに座らせると、その背に掛けていた服だとかテーブルの上に置きっぱなしのマグカップだとか雑誌だとかを手当たり次第に引っ掴んでどこかに持っていった。
「なんか飲むー? つって、すぐに出せるのボトルコーヒーくらいしかねぇや。それか温かいの淹れるか」
「じゃあコーヒーおねがい」
うん、と答えてサンジ君はマグカップをシンクに置き、こちらに背を向けて冷蔵庫を開けた。その背中を見ていたら、サンジ君は急に降り返って「ナミさん」と言った。
「なに?」
「おれと付き合って」
え、と言葉に詰まると、サンジ君はなんでもなかったかのようにグラスを二つ手に取ってコーヒーを注ぎ入れた。ぽかんとする私にそのコーヒーを差し出して、ソファの隣に座るともう一度「おれと付き合って」と言った。
「なに、急に」
「急じゃないよ。知ってるだろ」
そうだ、なんにも急じゃないんだった。
納得させられかけて、慌てて「そうじゃなくて」と言う。
「まだ、コーヒーも飲んでないのに」
「そうだった。どうぞ」
特に飲みたかったわけでもないそれをごくりと飲む。ほのかに甘い。
聞いていい? とサンジ君が訊いた。家だからか、リラックスしたようにソファに片足を上げている。
「会えたんだろ?」
「うん」
「なんで戻ってきた?」
手の中に囲った黒い液に視線を落とす。天井の丸い灯りがふわふわと写って揺れている。
話が終わったから、と答えてもう一度コーヒーを飲んだ。
「話?」
「もう連絡してこないでって」
「ナミさんが言ったの?」
うん、と頷く。まだ数時間も経っていないそのときの様子が、ずっと前のことのように思えた。
「やっと終わったわ」
長い冬がずっと繰り返されるみたいな果てしない日々だった。楽しくて仕方のない時間も辛くて一人身体の中がからっぽになる時間も、すべて同じ重さで私の中に積もっていった。
「だからサンジ君に会いに来たの」
「おれに会ってどうするの? おれ、一度ナミさんに選ばれなかったんだぜ」
どきりとした。サンジ君のほうを見ると、真剣な顔をしているかと思いきや拗ねたみたいな表情を浮かべている。
「いつも選ぶのはナミさんの方だ。おれァ選ばれるの待ってるしかなくて、わりかしつらいんだぜ」
「ご、ごめ」
「おれを選ぶ? まだやめとく?」
上げた片足の膝に頬をつけて、サンジ君がじっとこちらを見る。
じりじりと焼けつくような目は私も知っている。これは恋だ。
「あんたが」
やっとのことで口を開く、私の口元の動きをサンジ君がじっと見ていた。
「私の特別になりたいって言うから」
うん、とサンジ君が答える。
「私の特別ってなんだろうって思って、そしたら、たぶん、今こういう時に会いたい人のことだと思って」
「おれのこと?」
「そう、でも、まだ選べない」
え、とサンジ君が私に伸ばしかけていた腕を引っ込める。その手を見て苦笑した。
「いっぱい待ったついでにもうちょっと待ってよ。あんたのこと、ちゃんと好きになりたい」
サンジ君は膝に押し付けて潰れた頬のままぽかんと私を見て、表情を変えることなく「えぇー」と言った。
「まじで。おれもう十分待ったよ。今日なんて一回手放して、悲しみにくれて一人酒だぜ。それなのにここまできてまだ待たせんの」
「いやになる?」
ぎゅっと口元を引き結ぶと、サンジ君は「いいや」と眉間にしわを寄せて言った。
「待つよ。大丈夫。その代わりおれがナミさんのこと好きなのとと同じくらいおれのこと好きになってくれよ」
「それって難しい?」
「心配いらねー」
突然がばりと頭を起こすと、長い腕をひゅっと伸ばして私を抱き寄せた。突然近づいてきた顔に、慄いて身を引くとそれを許さない腕にがっちりと腰を引き寄せられる。
「ちょ」
「ただしこの部屋を出るまでだ。それまでしか待たない」
「それって、もしだめだったら」
「おれのことを好きになるまでここからは出られない」
なにそれ、と笑うと鼻先に唇が落ちた。
そうやって、とサンジ君が呟く。
「笑う顔が見たかったんだ。そしたらもうおれのこと好きになってくれるかなんて本当は、どうでもいい」
ぎゅっと喉が詰まる。ひりつくような彼の痛みが私にも滲みた。
サンジ君の両腕が私の背後に回る。なめらかなワンピースの生地に皺を作り、その皺と皺の間を指が這う。
キスをする直前に「好きだ」なんて作り話みたいなこと、本当にあるんだと思いながら目を閉じた。そしてそれがこんなにも気持ちいいことを初めて知った。
緑の優しい生地のソファが重みでぎゅっと控えめな音を立てる。やわらかい感触が頭に触れ、腕置きの部分を枕のようにして押し倒されたのがわかった。
触れるだけだったキスの湿度がぬるりと高まり、ぎゅっと彼のジャケットを掴む。そこで、彼がまだ上着も脱いでいないことに思い当った。
「サンジく、上着」
うん、と唇を重ねたまま答え、舌を入れたまま器用に彼は上着を脱いだ。慣れた仕草でネクタイを引き抜き、ソファの下に放りだす。
「狭いな」
私の上でサンジ君がぽつりと呟く。うん、と私も答える。
困ったように彼は笑い「あっち、行ってもいい?」と玄関とは別の扉を指差した。
「まかせる」
サンジ君は緩む口元を引き締めるみたいに一瞬難しい顔をして、「ナミさんそれは」と弱弱しい声をだした。
「おれとならしてもいいってこと? もしかしておれじゃなくても」
「待って、ちがう」
私は目一杯力を込めて、彼を見据えた。そんな生半可な気持ちでここまで来たわけじゃない。
「言ったでしょ、あんたのこと好きになりたいの、ちゃんと。好きにならせてほしいから、」
「わかった、ごめん」
突然、サンジ君が私の膝の裏に手を差し込んで体を持ち上げた。うわっと可愛げのない声が飛び出し、慌てて彼の肩につかまる。サンジ君はそのままずんずんと扉の方へ進んで、脚で器用に扉を開けた。中は真っ暗だ。
サンジ君は私を腕に乗せるみたいにして片腕で抱き、入ってすぐの壁にそっと触れて明かりをつけた。
慌ててその手の上から私も手を伸ばし、つけられた明かりを消す。サンジ君が「あ」と言ったので何か言われるより早く私から口を塞いだ。
灯りのスイッチの上で重なっていた手がゆっくり私の指を絡め取って、そのまま体ごと引きずり込むみたいに柔らかい場所に倒された。
そのあまりの柔らかさに、二度とここから出なくてもいい、と溶けていく頭で考えていた。
*
夜中の3時頃目を覚まし、寝ていたことに気付く。隣にうつぶせで倒れ込む男の半身が暗がりの中ぼんやりと浮かんでいて、その男をつついてシャワー貸して、と言った。
あっち、と指を差された方に向かってベッドを抜け出そうとしたら、寝ぼけた腕が私の腰を引っ掴んでシーツの中に引きずり込んだ。
「ちょっと!」
「おれのこと好きになった?」
「ね、寝てたんじゃないの」
「今起きた」
頭までシーツをかぶって、秘密基地の中にいる子どもみたいに私たちはひそひそと話す。
「なぁ、ナミさん」
「なったなった。だからお願い、シャワー行かせて」
「適当すぎる」
「なによ不満?」
うーん、と彼は目を閉じたまま唸り、「いや」と首を振った。
「大丈夫。まだこれからだ」
そう言ってサンジ君は私を抱きしめたまま身体を起こし、「おれと付き合って」と何度目かになる台詞を口にした。
「今更そんなこと訊く?」
「だってもう急じゃないし、コーヒーも飲んだし」
「じゃあシャワー浴びてからね」
呆れたように笑うサンジ君からシーツをはぎ取って自分の体に巻きつける。向かい合った顔に向かって少し背を伸ばし、唇をつけた。
「サンジ君、私と付き合って」
え、とサンジ君が鯉のように口を開く。戸惑うその顔に、またもやごめんと言ってしまいそうになる。
でも私の口から言いたかった。たぶん、誰にも言ったことがないそれを、心待ちにしてくれている彼に言ってみたかった。
「好きよ」
あとタオル貸して、と言うと、サンジ君はそれに対して我に返ったみたいに「あ、うん」と応え、立ち上がってクローゼットの引き出しからバスタオルを引っ張りだしてきた。
「ありがとう」
受け取ると、サンジ君はまた呆然とした顔で「あの」と言った。
何を言われるのかと思いきや、彼は「服、おれのでいいなら出しとくけど」というので拍子抜けする。じゃあお願い、と答えて寝室を出た。
バスルームらしき小部屋の戸を開けてバスタオルを置いたところで、だだだとこちらに向かう騒がしい音が聞こえたのでぎょっとして体に巻きつけたシーツを握った。
ばんと扉が開いた。
「ま、まじで!?」
「ちょ、開けないでよ!」
「まじで、ナミさんまじで」
「何がよ、出てってよ」
「おれも、おれも好きだ」
ナミさんが好きだ、とバスルームの入り口に張り付いて、下着姿で、サンジ君は必死の形相でそう言った。気圧されて、私は黙って頷く。
「やった、やったー!」
ばっと腕を広げて、サンジ君はシーツごと私を持ち上げるみたいに抱きしめた。
その顔があまりに嬉しそうで、私の言葉一つでこんなにも誰かをしあわせにしてしまえるその威力に、思わず吹き出して笑ってしまった。
なにか見たことのない眩しい光が、このバスルームからどこか先へとすっと続いていくような気がした。
fin.
そういえば知ってる? と言って近付いてきたポーラは、私にお土産のラスクを差し出して自分もその袋を破きながら「離婚しそうなんだって」と言った。くい、と細い腰を鋭角に突き上げる独特の立ち方で、私を見下ろす。
「誰が」
そう言ってすぐ、誰のことを言おうとしているのか思い当り頬が強張った。彼女は私と彼がどんな関係にあるのか知らない。ただの噂話を私に面白おかしく打ち明けようとしているだけだ。
ポーラが口にしたのは思った通りの名前だった。
「あんた少し前一緒に仕事してたでしょう。なんか今やばいらしいわよあの人」
「やばいって」
「離婚の原因が不倫ぽいって話。あの人営業だったから、体裁悪いでしょ」
彼女はラスクをばりんと噛んで、「いやねぇ、こんなこと広まっちゃうんだ」とたいして面白くもなさそうに言った。
「そうやって喋り散らす女が多いからでしょ、この会社は」
「まぁね、でもきっと見せしめみたいな意味もあるでしょ。こわいぞー、不倫はやばいぞーって」
それだけ言って最後におまけ程度にふふと笑って、彼女は手に持ったマグカップからコーヒーをごくりと飲むと席に戻っていった。
時刻は夜の二十二時。私も彼女も手持ちの仕事が片付かず、あくびをかみ殺しながら上がらない効率にふてくされている時間帯だった。そんなお互いを気遣うためにときどき交わす世間話が、何故だか今夜は私にクリティカルヒットした。
そうなんだ、と思った。特別ひどく動く感情はなかった。ただ、その話に私は噛んでいるのだろうか、もしそうだとしたらあの男はどう動くのだろうか、と手続き的なことばかり考えた。
もう二週間近く連絡はなく、前回会ったときも特別変わった様子はなかったように思う。
もしかして、何かが変わっていたのに私が気付かなかったのかもしれない。気付けなくなってしまったのかもしれない。
もしかして、本当はずっとずっと前から、私が身動き取れなくなっていた頃から何かは変わっていたのかもしれないけど、私だけが知らなかったのだろうか。
会いたいと思うことは、例えば朝起きてお腹が減ったと思ったり、肌が乾くから化粧水をつけなきゃと思ったり、そういう日々の細やかだけど欠かせないことと同じように私の中に住み着いていた。
お腹が空いている時に「本当に?」と考えないのと同じように、会いたいと思った時にわざわざそれが本当なのかなんて、考えたことがなかった。
でも私は今、しんとした気持ちで考えている。
ポーラにもらったラスクの袋を破きながら、まぶされた砂糖が膝に落ちるのを払いながら、会いたいのは誰のためだろうと考えた。
*
「え、それってナミさん修羅場に巻き込まれかけてんじゃねえの」
サンジくんは、がやがやとうるさい周りの音に負けまいと声を張り上げた。おかげで、私のことを好きな男に別の男との痴情のもつれを話しているというのに不思議と深刻な雰囲気にならなかった。
「わかんない。なんにも言ってこないし、いつからこう、あっちの家庭がダメになってたのかとかも知らないし」
「でも間違いなくナミさん関わってんじゃん、だめだよもう手ぇ引こうぜ」
まるで同志のようにサンジくんはそう言って、大きなジョッキからビールをぐいと飲んだ。
その言い方に私は笑って、「手ぇ引くってなによ」と言った。
「だからさ、そんなやつやめておれと幸せに過ごそうぜ」
「そうねぇ」
「そうねぇって」
サンジくんは苦笑して、それ以上追及してこなかった。
どうしてサンジくんにこんな話をしてるのか、自分でもとんでもなく無神経だと思う。でも聞いてきたのはサンジくんの方からで、「最近どう?」なんて軽い口調で聞くので何のことかと思えば私のどうにもならない恋の話だったのだ。
聞かれたからとぺらぺら話す自分もどうかと思うけれど、誰にも言えなかった話を舌に乗せて声に出すというのは、淀んだ体の中を入れ替えるみたいな心地よさがあって次第に口も軽くなっていった。
でもさ、とサンジくんが少し控えめに、言いにくそうに口を開く。
「ナミさんからは連絡とってほしくねぇなー」
「とらないわよ。私からは連絡しない」
「そうなの」
「うん」
決めてる、と呟いてオリーブの実をつまんだ。
頻繁にメールをしてくる人だった。仕事が終わると「お疲れ様」という趣旨の一報が入り、それは私の仕事が終わったタイミングではなくあちらのタイミングなのだからこちらはまだ絶賛仕事中だったりしたのだけど、そういう自分勝手な連絡に振り回されているような感覚が楽しかった。
目上の人だから、こちらからわざわざメールを入れるような用はなく、どうでもいいことをメールするのもはばかられ、でもあちらからはどうでもいいような内容でふらっと立ち寄るみたいにメールが来る。
いつしか待つようになった。
仕事が忙しく連絡がないと心配で、初めは恐る恐る、やがては気軽にこちらからもメールを送るようになった。
日中、仕事で直接会っているのだ。それなのに仕事終わりのメールなんていう拙いツールでひっそりとおこなうやり取りは私の毎日をそっと華やかせた。
やがて一緒に立ち上げていた仕事がひと段落つき、プロジェクトは解散となった。
その人は異動が決まり、私は残留する。
同じ場所で過ごす最後の夜、いつもの通りメールが来て、初めて二人で外で会い、お酒を飲んで美味しいものを食べ、ホテルへ行った。
すべてにおいて淡々と決まっていたみたいで、何かを疑う余地もなかった。
本人の口から聞いたことはなかったけれど、家庭があることを知っていた。
それでもいいやと思ったわけでも、そんなの知らなかったと後悔したわけでもなく、ただ現実が私たちの戻れない足取りにそっと絡みついてくる、そんな感じだった。
仕事が終わって家にたどり着くまでの短い時間、わたしたちはメールのやり取りを続けた。
月に一度ほど二人で会い、ごはんを食べ、ホテルに行く。
わたしの顔をじっと見るその目はとても静かで熱くて、ちりちりと私の方の温度も上げられていくのだった。
「おれそういう我慢苦手だわ」とサンジ君が言う。
「そう? そういう手綱引くのうまそうなのに」
「やー、わりとおれ直情型よ。ナミさんのことになると全然我慢効かねんだもん」
そういってにっこり笑った。
ふうんと言って、彼の顔を見たままごくりとビールを飲む。
サンジ君は意固地になったように視線を外さず私を見つめていたが、やがてくにゅりと口元をすぼめて「惚れた?」と小さな声で言った。いいえ、と私も同じ音量で答える。
サンジ君は聞こえなかったみたいに話を続けた。
「我慢できなくなんない? 連絡しちゃったりしない?」
「しちゃったりするわよ、そりゃあ」
返事が来ないわけではなかった。ただ私が、こちらから踏み込んでしまったという罪悪感に似たなにかを抱えてしまうだけで、あちらからの連絡もこちらからの連絡も大した違いはない。
要は責任を負いたくないのだ。求めたら求めた分だけ責任が返ってくる、そんな気がして。
「ナミさんはさ」サンジ君が言う。握ったフォークでオリーブの実を皿の上で転がしている。
「賢いから。こうしたらああなるとかこれ言ったらおしまいだとか、そういうのが上手なんだ。だから、ナミさんが壊そうと思って壊さねぇと終わらないんだろうなって思うよ」
「そうかしら」
何事にも終わりはやってくる。それは私の意思とは裏腹に、圧倒的な唐突さと理不尽さで。でもサンジ君はそんなことはないと言う。私が全部決められるのだと、決めなきゃいけないと。
「それでも、連絡を待つ?」
「待……たない。待たないけど、私からもしない」
「終わらせましょうって言えないから?」
「わからない」
サンジ君は肩をすくめて、ずっと転がしていたオリーブをとうとう口に含んだ。すぐに種を吐き出して、「しぶい」と眉をすがめた。
「そういえばうちの店、今週末やっとオープンなんだ。前日の土曜日に内輪で前夜祭っつーか、パーティがあるからナミさんよかったら来ねぇ?」
「え、私行ってもいいやつ? うちの会社の誰か行くの?」
「いんや、ほんとちいせぇやつなのよ。ほとんどうちの会社と関係各社が少しだから、そんな気負わなくていいんだけど。空いてる?」
「うーん、何時?」
「16時受付開始で……おれその辺ちょっと手伝わねェとなんだけど、ナミさんは17時過ぎとか適当に来てくれて構わねェよ」
「そうね、少し仕事に行くつもりだったから……そのあとならそれくらいの時間に行けると思う」
「よっしゃ」
サンジ君は子どもみたいに顔をくしゃっとさせて笑うと、「着く時間分かったら電話して。近くまで迎えに行く」と言った。
*
その週、ポーラから聞いてしまったその話を他の誰かの口から聞くことはなかった。考えてみれば当たり前だ。そんなうわさ話ばかり喋っていられるほど暇ではない。とはいえ、忘れられるはずもなく、時折ふっと思い出しては胃のふちをずんと重くした。彼からの連絡は相変わらず途絶えていた。このまま、そっとフェードアウトさせるつもりなのかもしれない。それがありふれた結末だとわかっているけど、私たちに限ってそんなはずはないと思っている。そう思うこと自体、ありふれているというのに。
土曜日は予定通り仕事に出て、16時半ごろサンジ君に電話をした。数コール鳴らしても出ないので忙しいのだろうと思って切ると、間髪入れずに彼から折り返しがかかってきた。
「ごめん、取ろうとしたら切れちまった」
「今仕事終わったから出るんだけど。忙しかったら迎えに来てくれなくてもいいわよ。場所わかるし」
「やや、行く行く。とりあえず最寄まで来てくれる?」
うんと答え、調べた電車の時間を告げて電話を切った。サンジ君の背後はざわざわと騒がしく、たくさんの人が動く気配があった。化粧室によってお化粧を直し、少し大きめのイヤリングに付け替えてから会社をあとにした。
新しいお店はまだペンキの匂いがふんと香るような真新しさが、贈られたたくさんの花々で強調されていた。パーティーは立食形式で、スーツの男たちが木のように直立して談笑している。男ばかりだ。
サンジ君は私の荷物をクローク代わりの一角に預けると、きょろきょろと辺りを見渡す私の隣にそっと立ってこちらを見下ろし、意味なく微笑んだ。
「ね、なんか男の人ばっかり。ていうか女の人私だけじゃないの」
「あーうちの部署、男しかいねェんだよ。ボスっつーか上がそういう方針で」
「時代錯誤ね」
「ごもっとも。や、でも男尊女卑的な意味はなくて、ほんと、むしろ逆っつーか、究極のフェミニズムっつーか」
説明するほどのことでもないんだけど、とサンジ君が曖昧に笑うので、なんでもよかった私は適当にふーんと相槌を打った。
やがて拍手が起こり、誰だか偉い人が音頭を取って、それより偉い人が挨拶をし、また別の偉い人が挨拶をし、来賓が紹介され、気付けばビールグラスを持たされ、乾杯をした。
少し辺りに目を走らせたら、別の会社の人なのだろう女性がちらほらと目について少し安心した。
「ナミさん、メシ取りに行こう。ここのメニューになるやつおれも前試食したんだけど、結構うめーから」
サンジ君がそっと私の背中を支えて、食事の置いてあるテーブルまで促す。歩きながら彼はさっと私をもう一度見て、「今日のワンピース、かわいいね」と笑った。
「そ? ありがと。ドレスコードないって言われたけど一応パーティーだし、ワンピースが無難かなって」
シルバーのノースリーブワンピースの生地をそっと撫でる。光沢を押さえた色合いがお気に入りだった。
可愛い、似合ってる、と念押しするようにサンジくんが言った。
テーブルの前まで来ると、サンジ君は皿二枚を片手で持ち、私に「これ食べる?」「ナミさんこれうめーんだよ」と言っては次々に私の分と彼の分を取り、綺麗に盛り付けられたそれを最後にはいと渡してきた。
それをもりもりと食べている間、サンジ君はずっと私の隣にいたけれど時折仕事の関係者や同僚と思われる人が話しかけてきた。そのたびにサンジ君は露骨な顔で嫌そうに応対をしてシッシとでも言うべき仕草で追い払うように話を終わらせ、けろっとした顔で「ナミさんビールおかわりする?」などと言った。
「あんたそんな態度で大丈夫なの」
「かまやしねぇよ。おれがどんな態度だろうとあいつらにゃ些末なことだって」
私たちは立ったまま、いつも二人で呑むときと何ら変わらない話をして、いつもより少し控えめに笑った。疲れたら壁際の椅子に座って、一度だけサンジ君が「一瞬ごめん」と言って席を離れた以外はずっと私のそばにいてくれた。
彼以外に知り合いのいない私は、おかげで気まずい思いも疎外感も感じることなく、美味しい食事を好きなだけ楽しんでごくごくとお酒を飲んだ。
19時頃一度挨拶を挟み、料理がまた変わってほかほかと温かいメニューがまたテーブルにたくさん並ぶ。今度はピザとかグラタンとか重ためのメニューが多い。サンジ君がそれを取りに行ってくれるあいだ、私はぼんやりと座って彼を待った。
惰性でグラスを口に運んだが、空になっている。辺りを見渡して、入り口近くのカウンターがバーになっているのに目を止めてそちらに向かった。食事のテーブルは混んでるし、サンジ君はまだ戻らないだろう。
カウンターで彼の分と二人分、適当にジンのカクテルを頼む。待っている間ふとカウンターに手を置いて、あ、と思った。
これ、サンジ君がずっと探してたカウンターだ。深いブラウンで足が長く、触り心地はしっとりとよく馴染む。明るい光の中で見たらまた雰囲気は変わるだろう。たくさん緑を配置した店内に、この深いブラウンはよく映る。そうか、こんなのをずっと探してたんだ。
サンジ君はここにたくさんカップを並べて、料理がここからお客さんの元に運ばれて、夜はスツールを増やして、と私にいろんなことを話してくれた。その話を聞きながら私は、私たちはいくつもの家具屋を回り、仲卸業者を尋ね、合間にご飯を食べて夜はお酒を飲んだ。
少しずつ積もっていたんだなあと思う。
こんな私に、サンジ君は少しずつ楽しい時間を積もらせてくれていたのだ。
出来あがったカクテルグラスを二つ受け取り踵を返したとき、肩から下げた小さなバッグ──携帯とハンカチくらいしか入らない──がじじっと震えた。一瞬のことで気のせいかと思ったが、かばんは腰の辺りでじりじりと小刻みに震えている。
両手がふさがっていたので慌ててカウンターの端により、グラスを置いて携帯を取り出した。
画面を見て、本当は見る前から、携帯を取り出すときから、いや振動が伝わったその瞬間から、相手なんてわかっていたことに気付く。
考えるより早く私は顔を上げ、あたりを見渡していた。サンジ君の姿は見えない。まだテーブルの近くにいるのかもしれない。人が多かった。
何かを訴えるみたいに震え続ける携帯は悲しげに見えた。それをぎゅっと握り、目を閉じ、震え続けるそれを持って私はそっと会場から外れた。
電話に出ると向こうは嫌に静かで、相手の声だけがまっすぐに耳に入ってくる。
今から会えないかという問いかけに、私は答えず「今外に出てるの」と現状だけを伝えた。そうか、と一言帰ってきた。耐え切れず、「今どこにいるの」と訊いてしまう。一度二人で行ったバーにいるのだと言う。
そう、と答えて電話を切った。
会場に戻ると、その入り口の少し前でサンジ君が立っていた。中は禁煙で、彼が立つそこもきっとまだ禁煙なはずで、煙草を吸うなら外にでなければならないのにサンジ君は火のついた煙草を咥えていた。料理を取りに行ったのに手には何も持っていなくて、片方だけがポケットに入っていた。
私と目が合うとそっと口から煙草を外し、ポケット灰皿で火を消しながら静かに一言、「行くの?」と訊いた。
いつもの曖昧な優しさが影をひそめたその声に、私はほとんど金切声といってもいいような痛々しい声で「だって」と叫んだ。
「どうすればいいのよ、だって他のやり方知らないんだもん、どうすればいいかわかんないんだから行くしかないじゃない!」
「行かないで」
「無理よ、絶対に無理、私、もう」
「ナミさん」
いつの間にかすぐそばまで距離を詰めてきていたサンジ君に腕を掴まれ、私はぼろっと熱い水があふれるのを感じながら首を振った。
「ごめん、ごめんなさい。サンジ君」
「頼む。行かないでくれ」
「お願い、はなして」
「行ってどうなるっつーんだよ!」
初めて聞いた怒鳴り声に身をすくませると、サンジ君は誰よりも傷ついた顔を歪めて、掴んだ私の腕を引いて抱きしめた。
「ごめん、ナミさん。ごめん」
いやなんだ。
絞り出して絞り出してそれでも足りないみたいな声でそう言って、サンジ君は私の背中を強くかき抱いた。あまりの強さにかかとが浮いて、その苦しさでますます涙があふれる。
サンジ君、と私は彼のジャケットの背中に腕を回して服を掴んだ。
「知ってるの、どうにもならないことなんてみんな知ってる。それでも行きたいの。お願い」
離して。
やがて背中を抱く力がほどけ、かかとがそっと床に戻る。ゆるりと左腕が、右腕が解放され、サンジ君は私を離してふらりと後ずさった。
「ごめ」
「待って。謝らないで。鞄、取りに行こう」
サンジ君が私の手を取って歩き出すと、騒ぎに気付いてちらちらと会場の外を見ていた人たちがさっと捌けた。
サンジ君はクローク代わりのスタッフルームから私の鞄を取ってきて、こちらに差し出す。それを受け取ると、サンジ君の手がそっと伸びてきたので思わずぎゅっと目をつぶった。
少しかさついた親指が、私の頬の上を撫で、未だ残る水滴を拭い取った。
目を開いて見上げたその顔があまりに傷ついていることにまた泣きそうになるが、それがお門違いだとわかっているのでぐっと堪えてただ「ありがとう」と言った。
「駅まで送ろうか」
「ううん、タクシー使う」
「そう、気を付けて」
「うん」
ナミさん、とサンジ君はいつも通りの声で呼びかけ、少しためらう間を開けてから口を開いた。
「また」
サンジ君がいつもの、あの曖昧な笑い方で、緩く手を振った。
私は笑ったつもりだったけどたぶん上手くはない笑い顔で、「うん」と頷いてその店を後にした。
その夜、0時近くなって、私はサンジ君に電話をし、サンジ君が近くまで迎えに来た。
地下街に下りる階段の手前に立つ彼に駆け寄って、その勢いのまま抱き着き、彼は抱き寄せ、当然のようにキスをして、その日初めて私はサンジ君と寝た。
→
唇を離してサンジ君は私の顔をじっと見た。目を逸らさずに堪えたら、サンジ君はおもむろに立ち上がって「トイレ、と、会計もしてくる」と言って席を立った。
ふるりと揺れた唇に中指の先で触れた。
お酒の味と煙草の香りがした気がしていたけど、本当はそんなのわからなかったのかもしれないと思う。だって、もう跡形もない。サンジくんの味と香りを私が想像しただけだ。
触れただけの幼いキスに、まるで道に迷ったみたいに胸がざわついた。
サンジ君はなかなか戻ってこなかった。ぽんと放り出されたみたいな心もとない気持ちになる。たぶん五分も経っていないだろうに、少し腰を浮かせて辺りを見渡した。暖色の灯りで浮かび上がったフロアを、サンジ君がこちらに向かって歩いてくる。
「おまたせ」
「出る?」
そうだね、といってサンジ君が椅子に掛けていたジャケットを手に取ったので私も立ち上がる。机に手をついて立つと、ふらついてもいないのにサンジ君が私の二の腕に触れた。そのやわらかさに、サンジ君の触れ方のやわらかさというより彼が触れた私の腕のやわらかさにお互いびっくりしたみたいに見つめ合った。
つやつやと光る、綺麗な目だった。糸みたいに細い金色の髪は、暗がりではグレーがかって見えた。少し垂れた一重の目が、何かを言いたげにもどかしそうにじっと動かない。
息を吸うのも苦しいような数秒が気まずい。そっけなく「なに」と口からこぼれた。
「足元段差、気を付けて」
下を向くと、テーブルのすぐ下のフロアは彼の言うとおり一段下がっていた。あ、うんと色気のない返事をして、注意深く一段下りた。
店を出てすぐ、さりげなく腕時計で時間を確かめると二二時半を回ろうとしている。少し飲むだけなんて言って、二軒目に行って、あまつさえキスまでして、この時間。私には遅くも早くもなかった。
不意にサンジ君がぐいと私の腰に手を回し、歩き出した。サンジ君にしては強引な仕草だと感じて、「サンジ君にしては」ってなんだと苦笑してしまう。彼の何を知ってるつもりでいるんだろう。
腰に触れるサンジ君の指が熱い。
「ナミさん明日、休みだっけ」これまた唐突にサンジ君が尋ねた。
「うん、二連休」
「そっか」
それだけ言って、サンジ君は歩き続ける。どこへ向かっているのだろうと考えるまでもなく、足は駅の方へ向かっている。いつも通りだ。
このままなかったことになるのかな、とふと思い、それがさみしいと感じていることにひっかかる。さみしいと思う権利なんて私には。
「ナミさんおれ」
サンジ君の方を振り仰ぐ。サンジ君はちらりと私を見下ろして、真面目な顔つきのまままた前を向いてしまう。
「このまま押しゃあナミさんと一晩過ごすくらいできんじゃねぇかなって今思ってる」
「は、あ?」
間の抜けた声が出た。軽く流して小突くには受け止めすぎてしまったのだ。
「んでも、やめとくわ」
そう言ってサンジ君はこちらを見た。笑っていた。曖昧な、目元だけゆるく下げた、震えそうな口元。
「できちまうかもしれねぇけど、ナミさんがいいやって思ってくれるなら食いついちまいてェんだけど、おれ、特別になりたいんだよ」
ナミさんの特別になりたい、とサンジ君はわざとはっきりと発音した。
「とくべつ」
「ナミさんの中のそいつが今は特別なのかもしれねェけど、おれはおれのやり方で差別化をはかる。ナミさんが大事にしたくなるような特別を目指す。だから、ナミさんが押されたら一晩過ごしてもいいかなって思えるようなその辺の男とは違うってことを、今体現してみせる」
そう言い切って、サンジ君はぎゅっと口元を引き結んだ。
同時に信号に差し掛かり、それを目の端で確かめた彼は足を止めた。
私はぽかんとして、それからふつふつとわき上がる笑いをこらえきれずに口元を緩めてしまった。それを見たサンジ君が、つられたようにふにゃりと笑う。
「面白かった?」
「っていうか、それ自分で全部説明するんだと思って」
「口で言わなきゃおれのかっこいいところわかってもらえねーじゃん」
ふふっとついに吹き出すと、笑わないでくれよーとサンジ君がふざけて私の腰に当てた手をぐしゃぐしゃと動かした。くすぐったくて身をよじり、「ちょ、やめて」と笑いながら彼の手を押しのける。あははっとサンジ君も声をだして笑い、はぁ、と二人同時に息をついたその瞬間にぐいと引き寄せられた。
彼の鎖骨が間近に迫る。こめかみのあたりにサンジ君の呼気がかかり、ただ一言、「好きだ」と吹き込まれた。
うん、と答えて目を閉じると、少しずつ身体の奥の方へ、砂時計みたいに彼の言葉が落ちていった。
*
開け放した窓を閉め、クーラーのリモコンを積み上げられたカタログとカタログの間から抜き出してついに電源を入れた。カタカタと使い古されたプラスチックが震える音がする。
外の音が遮断されて、部屋の中はより一層扇風機の回る音でいっぱいになった。
「あついね」とサンジ君に返事を打つ。
こんなどうでもいいこと、なんで休みの日にまでわざわざと思っていた。でもそんなわざわざ行う小さな行為の一つずつに私は確かに救われていて、そのときだけはきちんとサンジ君のことを考える。
サンジ君から間髪入れずに返事が来て、「おれは今新しいシューズを見に来ています。ナミさんは?」と問われる。
私は立ち上がりながら汗でぬれたTシャツを剥ぎ取り、お風呂場に向かう。心の中でサンジ君に返事をする。
「今から友達とご飯を食べに行くわ」
シャワーを浴びて冷えた部屋で着替え、化粧をし、と支度をしていたら携帯が震え、サンジ君かなと思うが心の中で返事をしただけで実際にメールを返していなかったことを思い出す。そのときの着信はビビだった。
少し遅れそうだという彼女にゆっくりでいいよと言って、私も電車を一本送らせる算段をつけながらサンジ君にさっきの返事を実際に送り返した。
こういう、一つのことを考えながら違うことをできてしまう自分の器用さを少しだけうとましく思う。
もっと不器用に足掻くことができたら何事も楽だろうにと思いながら、長い髪を掬い上げてひとつに結った。
遅れると言ったにもかかわらず、ビビは約束の駅前で私より先に待っていた。
「早いじゃない」
「思ったよりキリよく終わらせられたの。それより今日は急にごめんなさい、せっかくの休みだったのに」
「なに言ってんの、休みだからこうして会うんじゃない。ほら行こ、おなかすいちゃった」
せかすように背中を突くと、ビビは嬉しそうに笑いながら歩き出した。
「いつこっちに着いたの?」
「昨日の夜。すぐそこのホテルに泊まってて」
ビビは私が大学時代を過ごした街に住んでいる。今日は仕事の都合で私の街まで来たのだという。大学で出会った友人で今でも付き合いがあるのは彼女だけだし、離れているにもかかわらずビビが仕事だと言って数か月に一度はやってくるので懐かしさはない。その馴れ合いをむずがゆくも嬉しく思うのは多分私だけじゃない。
「ナミさん忙しいの? なんだか痩せたわね」
「それ最近すごい言われるんだけど、まずいわね、やつれてるんだわ」
隣を歩くビビがじっと覗き込むように私の顔を見つめて「そうねえ」と真面目な顔で検分するので、「やめて」と顔を背けた。ビビはあははと悪びれずに笑って、「今日は美味しいものいっぱい食べて、英気を養って!」とはつらつと言った。
私の住む街なのにビビが予約を入れてくれたてんぷら屋さんで、私たちは美しく整った木目のカウンター席に座ってワインボトルの栓を抜いた。
「てんぷらなのにワイン? どきどきするわね」とビビが子犬のように目を見開いてグラスに注がれる赤い液体を眺めている。
乾杯、と口だけで呟いてグラスに口をつけた。カウンターの向こうで、じゅわっとてんぷらの揚がる元気な音が高く聞こえてくる。
「家でごはん食べてる?」とビビが訊く。私は曖昧に頷いて、それから首を振る。
「自炊してるのかって言う意味なら、あんまり」
「普通の時間に帰れてる? エナジーバーみたいなのかじるだけじゃだめなんだから」
「お母さんみたいなこと言うのね」
心配してるのに! と頬を膨らませるビビを笑っていなしながら、お母さんがそんなことを本当に言うものなのか知らないけど、言ってくれたらいいなぁと思った。
そういえば、サンジ君もよく私に似たようなことを言った。ごはん食べてる? 終電までに帰れるの? 夜道一人であるいちゃだめだよ。
「今ちがう人のこと考えてたでしょ」
「え」
どきっとして真横からビビの顔を見つめてしまった。ビビは口の片側だけを上げた小憎たらしい顔で私を見つめ返し、「図星だ」と笑った。
「まー私といるのに違う男のこと考えるなんてナミさんたら、妬けちゃう」
「なに言ってんの」
「前にナミさんが言ったのよ、私に」
そうだっけ、と目を丸める。ビビは「そうよ」といやにはっきり頷いて、「で」と何かを促した。
「誰のこと考えてたの? 聞かせて」
ビビがテーブルに肘をついて私に顔を向ける。そのタイミングで頼んだものたちがどんと目の前の一段高いカウンターに置かれた。
シンプルなアルミのバットにてんぷらが二つずつ。
しいたけ、まぐろ、うにをのりで巻いたやつ、アボカド、たまご。
ビビはそれらを手元に引き寄せてわぁと子供みたいに歓声を上げた。
「たまごって珍しくない? 食べたら爆発しそう」
「それを言うならアボカドも珍しいと思うけど。とりあえず」
いただきます、と声を合わせててんぷらにかぶりついた。まずは無難なしいたけから。さくっと軽快な歯切れのあと、じゅわっとだし汁が染みだした。
「あっ美味しい」
「たまごも! 半熟だー」
ビビがうれしそうに口から湯気をはく。二人同時にワイングラスに手を伸ばし、同じタイミングでまたテーブルに戻した。
「それで?」
「あんた意外としつこいのね」
「知ってたでしょ」
うん、と笑ってから口を開きかけ、あれ、私今誰のこと話そうとしてたんだっけと一瞬わからなくなった。
誰にも話したことのない話がある。話してしまえば相手も自分も確実に傷つくからだ。ときどき無性に誰かに聞いてほしい気分にならないこともなかったが、一度話してしまえばついた傷は広がる一方だとわかっていたし、話したからと言って私の気分が晴れるとも相手が聞いて楽しいとも思えなかった。
でも私、いまサンジ君のこと話そうとしてた。ビビがきらきらした目で私の話を待っている。話し終えたら「まぁ」と口を丸めるだろう。嬉しそうに私を小突くだろう。私はちょっと俯いて、怒ったみたいに「そんなんじゃないし」と言うんだ、とそんなことまで分かってしまう。
そんななんでもないことをしたいと思ったことなんてただの一度もなかったのに、それがすごく素敵なことに思える。
だってずっとできなかったから。
誰かに手放しで好きになってもらっているんだと友達に少し自慢げに話ができるなんて、私にはもうやってこないとどこかで思っていたのだ。
「ナミさん?」
ビビが少し眉を寄せて私の顔を覗き込む。
「あんまり言いたくなかった? その、なにか難しいの?」
ビビなりに気を遣ったその言い方が可笑しくて吹き出すと、ビビはさっと顔を赤らめて「なによ」と言った。
「ごめ、別にむずかしいことはなくて」
私はさらさらとワインを飲むみたいに、サンジ君のことを話した。仕事場で出会ったこと、一緒に外回りをして、ごはんを食べたこと、一緒の仕事が終わっても連絡を取り合って会っていること。キスをしたこと。
「まぁ」
想像通りの顔でビビは口元を丸くして、嬉しそうに「やったわね」と言った。
「やったのかな」
「やったーでしょう。いい人なんでしょ、いやなの? 変な顔なの?」
「変な顔ってあんた、ちがうけど。ちがうけど……」
「わかった。ナミさん他に好きな人がいたんでしょ。で、揺れてるんだ」
黙ってビビのグラスにワインを注ぐ。ビビはにやつきながらその様子を眺めている。
「いいと思うけどなー、その人。着実にナミさんとの距離を縮めてこようとする感じ。好感が持てる」
ビビは私からボトルを受け取り、私のグラスに注いでくれる。
「知ってるの? ナミさんが他に好きな人がいること」
「知ってる」
言ってから、ビビの発言を認めてしまったことに気付いた。けれどビビはそんなことにかまったふうもなく「本気で奪う気じゃないの」と真面目な目で手元のてんぷらを見つめながら言った。
「それでナミさんはなにか悩んでるの?」
「え」
「そのサンジさんはなにかナミさんを困らせてるの?」
「別に……」
あははっとビビが明るく笑うのでびっくりして彼女を見つめると、ビビは手元のメニュー表を指差して追加でえびのてんぷらを注文した。ナミさんも食べるでしょ? と言うのでとりあえず頷く。
メニュー表を戻したビビはグラスを手元に寄せながら、「びっくりした、痩せちゃうくらいつらい恋なのかと思ったから」と言う。
そんなことない、と言い返しかけて、自分の細い手首を見下ろしてどうしてこんなふうになってしまったのかと考え込んだ。
ビビと食べるこの店のてんぷらは驚くほどおいしい。ワインもつるっと一本空こうとしている。
でもふとある人を思い出す一瞬が心に入り込むと、途端に何もかもが身体の中を通り抜けていくだけになってしまうのだ。栄養も、美味しさも、全部通り抜けてもっと別の何かにしがみつくので精いっぱいになる。
サンジ君はそれを許さない。いっこずつ私の食べるものに意味を与えて、私の力にしようとする。
会いたい、と初めて思った。誰かの代わりにするのではなく、サンジ君に会いたい。
「いいなぁ私も、もう少し痩せたい」とビビが間の抜けたことを言うので、思わず考えていたことを忘れてふはっと笑ってしまった。
ビビは怒ったように「まずいのよ。仕事が遅くてもたっぷりごはんつくって待ってるんだもの。帰ったら食べちゃうでしょ」と自分の二の腕の辺りをさすった。ビビの家には大勢の従者に侍女、それに専属のコックなんかがいるのだ。
「あの人たち、私がずっと成長期のままだと思ってるのよ。食欲がないなんて言ったら病気かって騒ぎ出すし」
ぷりぷりしながら揚げたてのてんぷらに齧り付くビビの頬はつやつやと綺麗で、きっと毎日ごはんは美味しいのだろうと思った。
その後ボトルを二本空け、足取りの緩いビビを駅前のホテルまで送り届けるさなか、ビビが足取りと同じくらいゆるい口調で「ナミさん」と言った。
「私また会いに来るわ」
「うん。来て来て。私も行くから」
「次また痩せてたらゆるさない」
酔っぱらいの頼りない喋り方のくせに、妙に迫力のある声だった。気圧されたように私はうんと言う。
「ナミさんが好きな人と上手くいくといいなって思う。でも」
そう言ったきりビビが口を開かなくなったので、歩きながら寝ちゃったんじゃないかと心配になって彼女の腕を取った。ビビはゆったりと私にもたれかかるみたいにして、歩きにくそうに歩きながら、「でも」ともう一度言った。
「ナミさんを好きになった人のこと、ナミさんも好きになるといいなとも思う」
言葉に詰まって、ただビビの腕を支えて前に進んだ。駅前に着いたところでどこからともなくビビの家の人が現れて、ああやっぱりと思う。その人に丁重に礼を言われ、私は半分眠ったみたいなビビに「じゃあね」と言ってホームに向かった。
郊外に向かう週末の電車は混んでいて、運良く空いた席に滑り込むように座った。
たたんたたんと不規則に揺れる電車に身体を預けて目を閉じ、うとうととまどろむ。お腹の辺りが温かかった。
私を好きになった人のことを、私も好きになりたい。
そんなの、私だってずっと思っている。
→
ふるりと揺れた唇に中指の先で触れた。
お酒の味と煙草の香りがした気がしていたけど、本当はそんなのわからなかったのかもしれないと思う。だって、もう跡形もない。サンジくんの味と香りを私が想像しただけだ。
触れただけの幼いキスに、まるで道に迷ったみたいに胸がざわついた。
サンジ君はなかなか戻ってこなかった。ぽんと放り出されたみたいな心もとない気持ちになる。たぶん五分も経っていないだろうに、少し腰を浮かせて辺りを見渡した。暖色の灯りで浮かび上がったフロアを、サンジ君がこちらに向かって歩いてくる。
「おまたせ」
「出る?」
そうだね、といってサンジ君が椅子に掛けていたジャケットを手に取ったので私も立ち上がる。机に手をついて立つと、ふらついてもいないのにサンジ君が私の二の腕に触れた。そのやわらかさに、サンジ君の触れ方のやわらかさというより彼が触れた私の腕のやわらかさにお互いびっくりしたみたいに見つめ合った。
つやつやと光る、綺麗な目だった。糸みたいに細い金色の髪は、暗がりではグレーがかって見えた。少し垂れた一重の目が、何かを言いたげにもどかしそうにじっと動かない。
息を吸うのも苦しいような数秒が気まずい。そっけなく「なに」と口からこぼれた。
「足元段差、気を付けて」
下を向くと、テーブルのすぐ下のフロアは彼の言うとおり一段下がっていた。あ、うんと色気のない返事をして、注意深く一段下りた。
店を出てすぐ、さりげなく腕時計で時間を確かめると二二時半を回ろうとしている。少し飲むだけなんて言って、二軒目に行って、あまつさえキスまでして、この時間。私には遅くも早くもなかった。
不意にサンジ君がぐいと私の腰に手を回し、歩き出した。サンジ君にしては強引な仕草だと感じて、「サンジ君にしては」ってなんだと苦笑してしまう。彼の何を知ってるつもりでいるんだろう。
腰に触れるサンジ君の指が熱い。
「ナミさん明日、休みだっけ」これまた唐突にサンジ君が尋ねた。
「うん、二連休」
「そっか」
それだけ言って、サンジ君は歩き続ける。どこへ向かっているのだろうと考えるまでもなく、足は駅の方へ向かっている。いつも通りだ。
このままなかったことになるのかな、とふと思い、それがさみしいと感じていることにひっかかる。さみしいと思う権利なんて私には。
「ナミさんおれ」
サンジ君の方を振り仰ぐ。サンジ君はちらりと私を見下ろして、真面目な顔つきのまままた前を向いてしまう。
「このまま押しゃあナミさんと一晩過ごすくらいできんじゃねぇかなって今思ってる」
「は、あ?」
間の抜けた声が出た。軽く流して小突くには受け止めすぎてしまったのだ。
「んでも、やめとくわ」
そう言ってサンジ君はこちらを見た。笑っていた。曖昧な、目元だけゆるく下げた、震えそうな口元。
「できちまうかもしれねぇけど、ナミさんがいいやって思ってくれるなら食いついちまいてェんだけど、おれ、特別になりたいんだよ」
ナミさんの特別になりたい、とサンジ君はわざとはっきりと発音した。
「とくべつ」
「ナミさんの中のそいつが今は特別なのかもしれねェけど、おれはおれのやり方で差別化をはかる。ナミさんが大事にしたくなるような特別を目指す。だから、ナミさんが押されたら一晩過ごしてもいいかなって思えるようなその辺の男とは違うってことを、今体現してみせる」
そう言い切って、サンジ君はぎゅっと口元を引き結んだ。
同時に信号に差し掛かり、それを目の端で確かめた彼は足を止めた。
私はぽかんとして、それからふつふつとわき上がる笑いをこらえきれずに口元を緩めてしまった。それを見たサンジ君が、つられたようにふにゃりと笑う。
「面白かった?」
「っていうか、それ自分で全部説明するんだと思って」
「口で言わなきゃおれのかっこいいところわかってもらえねーじゃん」
ふふっとついに吹き出すと、笑わないでくれよーとサンジ君がふざけて私の腰に当てた手をぐしゃぐしゃと動かした。くすぐったくて身をよじり、「ちょ、やめて」と笑いながら彼の手を押しのける。あははっとサンジ君も声をだして笑い、はぁ、と二人同時に息をついたその瞬間にぐいと引き寄せられた。
彼の鎖骨が間近に迫る。こめかみのあたりにサンジ君の呼気がかかり、ただ一言、「好きだ」と吹き込まれた。
うん、と答えて目を閉じると、少しずつ身体の奥の方へ、砂時計みたいに彼の言葉が落ちていった。
*
開け放した窓を閉め、クーラーのリモコンを積み上げられたカタログとカタログの間から抜き出してついに電源を入れた。カタカタと使い古されたプラスチックが震える音がする。
外の音が遮断されて、部屋の中はより一層扇風機の回る音でいっぱいになった。
「あついね」とサンジ君に返事を打つ。
こんなどうでもいいこと、なんで休みの日にまでわざわざと思っていた。でもそんなわざわざ行う小さな行為の一つずつに私は確かに救われていて、そのときだけはきちんとサンジ君のことを考える。
サンジ君から間髪入れずに返事が来て、「おれは今新しいシューズを見に来ています。ナミさんは?」と問われる。
私は立ち上がりながら汗でぬれたTシャツを剥ぎ取り、お風呂場に向かう。心の中でサンジ君に返事をする。
「今から友達とご飯を食べに行くわ」
シャワーを浴びて冷えた部屋で着替え、化粧をし、と支度をしていたら携帯が震え、サンジ君かなと思うが心の中で返事をしただけで実際にメールを返していなかったことを思い出す。そのときの着信はビビだった。
少し遅れそうだという彼女にゆっくりでいいよと言って、私も電車を一本送らせる算段をつけながらサンジ君にさっきの返事を実際に送り返した。
こういう、一つのことを考えながら違うことをできてしまう自分の器用さを少しだけうとましく思う。
もっと不器用に足掻くことができたら何事も楽だろうにと思いながら、長い髪を掬い上げてひとつに結った。
遅れると言ったにもかかわらず、ビビは約束の駅前で私より先に待っていた。
「早いじゃない」
「思ったよりキリよく終わらせられたの。それより今日は急にごめんなさい、せっかくの休みだったのに」
「なに言ってんの、休みだからこうして会うんじゃない。ほら行こ、おなかすいちゃった」
せかすように背中を突くと、ビビは嬉しそうに笑いながら歩き出した。
「いつこっちに着いたの?」
「昨日の夜。すぐそこのホテルに泊まってて」
ビビは私が大学時代を過ごした街に住んでいる。今日は仕事の都合で私の街まで来たのだという。大学で出会った友人で今でも付き合いがあるのは彼女だけだし、離れているにもかかわらずビビが仕事だと言って数か月に一度はやってくるので懐かしさはない。その馴れ合いをむずがゆくも嬉しく思うのは多分私だけじゃない。
「ナミさん忙しいの? なんだか痩せたわね」
「それ最近すごい言われるんだけど、まずいわね、やつれてるんだわ」
隣を歩くビビがじっと覗き込むように私の顔を見つめて「そうねえ」と真面目な顔で検分するので、「やめて」と顔を背けた。ビビはあははと悪びれずに笑って、「今日は美味しいものいっぱい食べて、英気を養って!」とはつらつと言った。
私の住む街なのにビビが予約を入れてくれたてんぷら屋さんで、私たちは美しく整った木目のカウンター席に座ってワインボトルの栓を抜いた。
「てんぷらなのにワイン? どきどきするわね」とビビが子犬のように目を見開いてグラスに注がれる赤い液体を眺めている。
乾杯、と口だけで呟いてグラスに口をつけた。カウンターの向こうで、じゅわっとてんぷらの揚がる元気な音が高く聞こえてくる。
「家でごはん食べてる?」とビビが訊く。私は曖昧に頷いて、それから首を振る。
「自炊してるのかって言う意味なら、あんまり」
「普通の時間に帰れてる? エナジーバーみたいなのかじるだけじゃだめなんだから」
「お母さんみたいなこと言うのね」
心配してるのに! と頬を膨らませるビビを笑っていなしながら、お母さんがそんなことを本当に言うものなのか知らないけど、言ってくれたらいいなぁと思った。
そういえば、サンジ君もよく私に似たようなことを言った。ごはん食べてる? 終電までに帰れるの? 夜道一人であるいちゃだめだよ。
「今ちがう人のこと考えてたでしょ」
「え」
どきっとして真横からビビの顔を見つめてしまった。ビビは口の片側だけを上げた小憎たらしい顔で私を見つめ返し、「図星だ」と笑った。
「まー私といるのに違う男のこと考えるなんてナミさんたら、妬けちゃう」
「なに言ってんの」
「前にナミさんが言ったのよ、私に」
そうだっけ、と目を丸める。ビビは「そうよ」といやにはっきり頷いて、「で」と何かを促した。
「誰のこと考えてたの? 聞かせて」
ビビがテーブルに肘をついて私に顔を向ける。そのタイミングで頼んだものたちがどんと目の前の一段高いカウンターに置かれた。
シンプルなアルミのバットにてんぷらが二つずつ。
しいたけ、まぐろ、うにをのりで巻いたやつ、アボカド、たまご。
ビビはそれらを手元に引き寄せてわぁと子供みたいに歓声を上げた。
「たまごって珍しくない? 食べたら爆発しそう」
「それを言うならアボカドも珍しいと思うけど。とりあえず」
いただきます、と声を合わせててんぷらにかぶりついた。まずは無難なしいたけから。さくっと軽快な歯切れのあと、じゅわっとだし汁が染みだした。
「あっ美味しい」
「たまごも! 半熟だー」
ビビがうれしそうに口から湯気をはく。二人同時にワイングラスに手を伸ばし、同じタイミングでまたテーブルに戻した。
「それで?」
「あんた意外としつこいのね」
「知ってたでしょ」
うん、と笑ってから口を開きかけ、あれ、私今誰のこと話そうとしてたんだっけと一瞬わからなくなった。
誰にも話したことのない話がある。話してしまえば相手も自分も確実に傷つくからだ。ときどき無性に誰かに聞いてほしい気分にならないこともなかったが、一度話してしまえばついた傷は広がる一方だとわかっていたし、話したからと言って私の気分が晴れるとも相手が聞いて楽しいとも思えなかった。
でも私、いまサンジ君のこと話そうとしてた。ビビがきらきらした目で私の話を待っている。話し終えたら「まぁ」と口を丸めるだろう。嬉しそうに私を小突くだろう。私はちょっと俯いて、怒ったみたいに「そんなんじゃないし」と言うんだ、とそんなことまで分かってしまう。
そんななんでもないことをしたいと思ったことなんてただの一度もなかったのに、それがすごく素敵なことに思える。
だってずっとできなかったから。
誰かに手放しで好きになってもらっているんだと友達に少し自慢げに話ができるなんて、私にはもうやってこないとどこかで思っていたのだ。
「ナミさん?」
ビビが少し眉を寄せて私の顔を覗き込む。
「あんまり言いたくなかった? その、なにか難しいの?」
ビビなりに気を遣ったその言い方が可笑しくて吹き出すと、ビビはさっと顔を赤らめて「なによ」と言った。
「ごめ、別にむずかしいことはなくて」
私はさらさらとワインを飲むみたいに、サンジ君のことを話した。仕事場で出会ったこと、一緒に外回りをして、ごはんを食べたこと、一緒の仕事が終わっても連絡を取り合って会っていること。キスをしたこと。
「まぁ」
想像通りの顔でビビは口元を丸くして、嬉しそうに「やったわね」と言った。
「やったのかな」
「やったーでしょう。いい人なんでしょ、いやなの? 変な顔なの?」
「変な顔ってあんた、ちがうけど。ちがうけど……」
「わかった。ナミさん他に好きな人がいたんでしょ。で、揺れてるんだ」
黙ってビビのグラスにワインを注ぐ。ビビはにやつきながらその様子を眺めている。
「いいと思うけどなー、その人。着実にナミさんとの距離を縮めてこようとする感じ。好感が持てる」
ビビは私からボトルを受け取り、私のグラスに注いでくれる。
「知ってるの? ナミさんが他に好きな人がいること」
「知ってる」
言ってから、ビビの発言を認めてしまったことに気付いた。けれどビビはそんなことにかまったふうもなく「本気で奪う気じゃないの」と真面目な目で手元のてんぷらを見つめながら言った。
「それでナミさんはなにか悩んでるの?」
「え」
「そのサンジさんはなにかナミさんを困らせてるの?」
「別に……」
あははっとビビが明るく笑うのでびっくりして彼女を見つめると、ビビは手元のメニュー表を指差して追加でえびのてんぷらを注文した。ナミさんも食べるでしょ? と言うのでとりあえず頷く。
メニュー表を戻したビビはグラスを手元に寄せながら、「びっくりした、痩せちゃうくらいつらい恋なのかと思ったから」と言う。
そんなことない、と言い返しかけて、自分の細い手首を見下ろしてどうしてこんなふうになってしまったのかと考え込んだ。
ビビと食べるこの店のてんぷらは驚くほどおいしい。ワインもつるっと一本空こうとしている。
でもふとある人を思い出す一瞬が心に入り込むと、途端に何もかもが身体の中を通り抜けていくだけになってしまうのだ。栄養も、美味しさも、全部通り抜けてもっと別の何かにしがみつくので精いっぱいになる。
サンジ君はそれを許さない。いっこずつ私の食べるものに意味を与えて、私の力にしようとする。
会いたい、と初めて思った。誰かの代わりにするのではなく、サンジ君に会いたい。
「いいなぁ私も、もう少し痩せたい」とビビが間の抜けたことを言うので、思わず考えていたことを忘れてふはっと笑ってしまった。
ビビは怒ったように「まずいのよ。仕事が遅くてもたっぷりごはんつくって待ってるんだもの。帰ったら食べちゃうでしょ」と自分の二の腕の辺りをさすった。ビビの家には大勢の従者に侍女、それに専属のコックなんかがいるのだ。
「あの人たち、私がずっと成長期のままだと思ってるのよ。食欲がないなんて言ったら病気かって騒ぎ出すし」
ぷりぷりしながら揚げたてのてんぷらに齧り付くビビの頬はつやつやと綺麗で、きっと毎日ごはんは美味しいのだろうと思った。
その後ボトルを二本空け、足取りの緩いビビを駅前のホテルまで送り届けるさなか、ビビが足取りと同じくらいゆるい口調で「ナミさん」と言った。
「私また会いに来るわ」
「うん。来て来て。私も行くから」
「次また痩せてたらゆるさない」
酔っぱらいの頼りない喋り方のくせに、妙に迫力のある声だった。気圧されたように私はうんと言う。
「ナミさんが好きな人と上手くいくといいなって思う。でも」
そう言ったきりビビが口を開かなくなったので、歩きながら寝ちゃったんじゃないかと心配になって彼女の腕を取った。ビビはゆったりと私にもたれかかるみたいにして、歩きにくそうに歩きながら、「でも」ともう一度言った。
「ナミさんを好きになった人のこと、ナミさんも好きになるといいなとも思う」
言葉に詰まって、ただビビの腕を支えて前に進んだ。駅前に着いたところでどこからともなくビビの家の人が現れて、ああやっぱりと思う。その人に丁重に礼を言われ、私は半分眠ったみたいなビビに「じゃあね」と言ってホームに向かった。
郊外に向かう週末の電車は混んでいて、運良く空いた席に滑り込むように座った。
たたんたたんと不規則に揺れる電車に身体を預けて目を閉じ、うとうととまどろむ。お腹の辺りが温かかった。
私を好きになった人のことを、私も好きになりたい。
そんなの、私だってずっと思っている。
→
しとしとと穏やかに降り続けるのではなく、南の島のスコールみたいな突然の雨を一日のうちに何度か繰り返すようなおかしな梅雨が終わり、夏が来た。
サンジ君のお店の着工が始まり、私の仕事は終わった。カウンターは無事、あの日のうちに彼がこれぞというもの見つけて来て決まった。
夏に向けて新たな仕事が腐るほど舞い込み、腐らせまいとやっきになって片付けていく。冷房の効いた社内はじっとしていれば寒いが、あっちへこっちへと動き回っていたら羽織っていたカーディガンが暑苦しくてすぐに脱いでしまう。へたりと椅子の背にかかったカーディガンには、私が椅子の背にもたれて考え込むたびに皺が増えていく。
定時が終わり一時間たつと、今日は飲み会なのだと言って何人かが「おつかれさーん」と帰っていった。口の中でもごもごとお疲れ様ですを返し、いくつも立ち上げたブラウザのうち一つを消す。机の端に置いた携帯がぶぶっと細かく震えた。
サンジ君かな、と思った。仕事が終わるちょうどの頃合や休みに入る直前など見計らったように彼から連絡が来る。
飲みに行こうという誘いがほとんどで、私はそれに応えることもあれば断ることもあった。ごく平均的な頻度で私たちは二人で飲みに行く。
今日は金曜日だし、仕事も一息ついたと言えばついたし、明日は出勤するつもりだったけど遅くても構わないし、と思い画面に触れてスライドする。
だから、受信したメッセージがサンジ君からではなく喉が渇くほど待ち焦がれていたはずの相手からだったことにぎょっとして、あからさまに動揺した私は無駄に画面の何もない部分をととんとタッチしてしまった。爪が画面にあたりカツカツと鳴った。
一ミリも、一寸も、サンジ君だと疑わなかったのだと気付く。あんなにも待っていたのに。諦めていたつもりなんて微塵もなかったのに。
勢いよく開いてしまったメッセージを何度も読み返し、その意味が今日今から会おうという趣旨であることを、その意味を私が取り違えていないことを何度も確認する。
ああ、と人の少ない部屋にふるえる息が響く。
ため息なのか、感動しているのか、自分でもわからないけどとにかくどっと肩が重く胸が締まる。この苦しさが始まったとき、自分が止まらなくなることを私は知っている。息が吸えるまで、新鮮な酸素が胸に満ちるまで、なりふり構わず走って行ってしまう。もしかしたら目を血走らせて。
メッセージの画面を開いたまま固まっていた私の背後を誰かが通り、はっと振り返る。
ただ通り過ぎただけの人の気配が遠ざかり、ふっと息を抜いたとき、今度は明らかな意思を持ったように携帯がぶるぶると震えだした。
電話、と思い携帯を掴む。メッセージの送信主と同じ名前が表示される。デスクの上のファイルを閉じて、席を立った。
飲みに行ってからホテル、という陳腐だけどそれ以外の選択肢もない流れが多い。家には上げたことはないし、行きたいと言われたこともなかった。
私とセックスしたいのだとはっきり言われたことなどもちろんないし、私を見る目がいやらしいわけでもないのにお酒を飲んで店を出て、腰を抱かれたらもうあとはセックスするだけだと、そんなふうに思えてしまう。
好きだと自覚した瞬間とか、恋に落ちたその一瞬を私はなにひとつ知らされないまま気付いたらたまらなく好きだと思っていて、なにが、とかどこが、とかそういう具体的な理由付けが何もないから夢中になって好きでいられるのだと思った。
むしろその人を好きでいるための動機付けとしてセックスしているのではないかと思う。
好きでいる必要なんてなにひとつないのに、この気持ちを失ったときの自分が恐ろしくてたまらない。ぽかんと胸に空いた風穴はきっと広がり続ける。塞ぐことはできないだろう。
タクシーが家の近くの角につく。車を降り、窓の向こうを見る。暗がりの中ぼんやりと車内の様子が浮かび、ゆるゆると手を振った。向こうも手を振るのが見える。笑っていた。
向こうからは見えなければいいのに。マジックミラーみたいに鏡になっていて、あちらはただの鏡に向かって笑いかけているだけだと思えたら、私は見えない窓に向かって好きなように泣いたり笑ったりできるのだから。
タクシーが走り去り、角を曲がってすぐのマンションのエントランスに飛び込む。黄色い光がまぶしく、目を細めたら携帯が震えた。
「見送らなくていいから、早く中に入りなさい」というようなことが書いてあって、もう、どうしようもなく胸が潰れた。
*
次の週はばかみたいに忙しく、火曜日にサンジ君から飲みに誘われたが返信の時間も惜しいほどだった。木曜の夜にようやく一息つき、もう一生終わらないんじゃないかと思えた時間がたった4日間のことだったのを夢みたいに思う。全員が屍のようにデスクにへたりこんでいる。
明日以降交替で休みを取ることになった。幸い私はすぐ明日の休みがもらえた。
そっけない返事を返したきりだったことを思い出し、仕事が一息ついた旨の連絡をサンジ君に入れると数秒で返事が返ってくる。すぐに食いつく釣り堀の魚みたいだと思いながらメッセージを開くと、「疲れてるかもしんないけど、ちょっとだけ飲みにいかね?」と遠慮がちなお誘いの文言があった。
うーん、とデスクの上で唸ってしまう。
疲れているし、早く帰ってお風呂に入って足を揉んで寝たい気もしたけど、確かにお酒を飲んでお疲れさまと言ってもらい、バカな話に口をあけて笑いたい気分でもあった。
数秒迷っているうちに次のメッセージが届く。「生ガキ、食わね?」とあった。
よし、と足元に脱ぎ散らかした靴につま先を入れ、机の上を片づける。音を立ててパソコンのふたを閉じてからよしと思っただけで返事をしていないことを思い出して「今から出られるわ」とサンジ君に送った。
サンジ君に会うのは2週間ぶりくらいで、会ったときの第一声は「久しぶり」だったことをあとから不思議に感じた。彼と仕事をしていたときは毎日ほど顔を合わせていたのに、と思ったがむしろ仕事上の関係は終わったのにこうして付き合いが続いていることの方が不思議なのかもしれない。
「おつかれさま、大変だったのな」とサンジ君は自分のことのように眉をさげて笑った。
「私疲れた顔してる?」
「はは、少し。でもやつれてるわけじゃねぇし安心した」
「お店どっち?」
「こっち。近いからすぐだよ」
歩き出したサンジ君に並ぶ。まだ空は明るいのに街のネオンは星みたいにちらちらと光っている。焼鳥屋の前を通り過ぎたらふーんとこうばしい香りがして、今週は温かいものをちっとも食べていなかったことを思い出す。
「腹減ってる?」
「いま、減ってきた。なんか焼きたて、とか揚げたて、みたいなの食べたい。あ、でも今から生ガキ食べるんだった」
「いーじゃん焼カキもカキフライも食おうぜ」
おれも腹減った、すっげ腹減った、とサンジ君が繰り返す。子どもみたいに腹減った腹減ったと言い合いながら、私たちは店に着いてお酒より先にまず料理を注文した。
「カキ、あたったことある?」とサンジ君が訊く。
「ない。今のところ。あるの?」
「ある。学生の頃、フランスのオイスターバーであたって死ぬかと思った」
「熱が出るの?」
「熱も出た。吐いたし腹もいてーし、二日後帰る予定だったからもうおれだけ置いていけぇみたいな瀕死の戦士みたいな気分になった。ありゃまじでつれぇよ」
あはは、と高い声が出る。
生カキはつやつやとガラス細工のようで、レモンのくし切りや大根おろしが添えられている。
ちゅっと汁を吸うと潮の味が鼻に突き抜ける。すぐさま大きな身で口の中がいっぱいになり、でろりと濃く溶けた。
「うま」「うま」と口々に言い合い、サンジ君はうっすら赤い顔で私のグラスにワインを注ぐ。
「バケツいっぱいにさ、カキがもりもり入ってんの。ナイフでこじ開けてちゅるっと吸うんだけどもうめっちゃ美味いんだよ。とまんなくて。ありゃ食い過ぎもあったんだと思う」
「それだけ苦しい思いして、よくまた食べられるわね。言わない? 一度当たると食べられなくなるって」
「まぁちょっとこえーけど、食い過ぎなきゃ大丈夫だろと思って。だってめっちゃ美味いんだもん」
「食べられないものとかある?」
「ないかな、今まで食ったことあるモンの中では。ナミさんは?」
「私もないかな。あ、でもカエルの串焼きみたいな見た目がアレなやつは味とかの前に嫌かも」
「はは、ときどきあるよな居酒屋に。食ったことは?」
「ないない。あるの?」
「おれあるよ。鶏肉みてぇっつーけど、たしかに繊維質な感じは鶏肉に近いけど別物かなー、もう少しぷりっとしてて、脚の筋張った感じとか」
「あ、やめてやめて。気持ち悪い」
あははごめん、とサンジ君が笑う。彼のグラスが空になるが、ボトルも空になっていることに気付く。
「もう一本頼む?」
「うん、あ、それか店変える?」
「そうね、そうしよっか」
帰りたいなんて思っていたことを忘れ、私たちはがたごとと席を立つ。ボトル一本を彼と分けただけなので私はくらりともしなかったが、サンジ君は少しよろけて「おっと」とテーブルに手をついていた。
「大丈夫?」
へへ、と照れくさそうにサンジ君は笑い、「だいじょーぶ」と頼りない声で言った。
二軒目に入った和食のお店で突き出しにしじみのお吸い物が出され、日本酒を飲むみたいにくいっと流し込んだらしじみの滋味がじわりと口の中、喉、お腹へと染みわたって「くう」と声が漏れた。
「沁みるね」とサンジ君も嬉しそうに顔をしかめる。
「ナミさんお腹は?」
「食べられるけど、そんなにいらない」
「んじゃこの煮しめだけ頼んでい?」
サンジくんは店員を呼び止め注文すると、「ナミさんやっぱ少し痩せたな」と気遣わしげに言った。
「なーに、やつれて見える?」
「んなこたねぇよ、相変わらずビューティホーさ。でも、ただでさえほせーのにますます痩せたかなって」
「忙しかったしなー、あんまりごはんも入らなくて」
「お、じゃあ今日は調子いい方?」
よく食べてくれてんもんね、とサンジくんはまるで自分が作ったかのように言った。
そういえば、と私は思い当たる。
食欲を失い、食べることへの興味も関心も薄れた日々を送っていたにもかかわらず、私はサンジくんとごはんを食べるときには彼と同じようにもりもりと食べている。
次の日に胃がもたれたりすることなんかもなく、むしろ闊達として、でもそれに気付いていなかった。
ふふ、とつい笑いこぼす。
なになに、とサンジくんが訊く。
「ううん、サンジくんとごはん食べると妙に食欲湧くなあと思って。昨日とか、朝も昼も夜もろくに食べてなかったし食べる気もあんまり起きなかったのに」
そういやこないだのお昼の定食も美味しかったわよね、あのときも私ごはんぺろっと食べちゃったし、と思い出しながら言った。
返事がないので顔を上げたらサンジくんは中途半端な位置にグラスを持ち上げて、食い入るように私をみている。
え、と言葉を飲み込んだ。
「なによ」
「やーナミさん、それって結構殺し文句よ」
目を丸めると、サンジくんは困ったように頭を掻いてグラスに口をつけた。
「そんなつもりなかった?」
「うん」
「どうしてくれようか」
ほんとどうしてくれようかー、とサンジくんは柔らかい椅子のクッションに背中を預けて天井を仰いだ。
私は黙って透明のお酒を飲み下す。
「おれのこと嫌いじゃねーんだよなぁ」
「まあ」
「好きでもない?」
「あんたのいうそれとは多分、違う」
そう、そうなのだ、自分で口にしてそうだと納得してしまう。
サンジくんと過ごす時間は心地いいけど、彼と同じ気持ちを返してあげることはできない。
私の知る好きと彼に対する気持ちは違う。
「ナミさんの話、してよ」
「え?」
「聞きたくねーような、てか聞きたくねー気持ちが9割だけど、聞いておかねぇともうこれ以上行けねぇような気がするから」
これ以上ってなに、と思ったが黙ってお酒をすすった。
わかったことだと思いながら、「私の話って」と尋ねる。
「どういうところが好きなの、そいつのことは」
サンジくんは妙に真面目な顔で言った。
酔ってるの? と茶化そうかと思ったが、そんなこともできないような硬さがあったので喉元まで出たその言葉を引っ込める。
口を開くと、サンジくんがじっと私の唇を見つめるのがわかる。
また閉じても、サンジくんは視線を逸らさない。
「好きなところなんてないわよ」
ふん、とサンジくんは息のような頷きを返す。
「好きな人がいる、って聞いた気がしてたけど」
「そう言うのが一番近いと思っただけで、よくわかんないわ」
「でも、離れられないわけだ」
少し間を置いて、反駁の言葉も思いつかず、そう、と溜息のように言った。
離れられない、なんて他人事みたいで嫌だと思ったけど事実その言葉がぴったりでみるみるうちに私の胸に、私たちの関係に当てはまった。
「離してもらえないってわけじゃあなさそうだね」
サンジくんは大人びた口調でそう言ったけどその目は伏せられていて、彼が思い切ってそう言ったのだとわかる。
私を傷つける可能性が少しでもあることをわかりながら言わずにはいられなかったのだろう。
そう言う彼の一つ一つの優しさに触れながら、私は苛立つ。思うようにならない現状に、私のことを好きだという彼に、どうしようもなく離れられない自分に。
「おれは」とサンジ君は言う。
「ナミさんが仕事忙しいんだろうと思って、今週ずっと連絡したくてもできないのが嫌だった。嫌だったっつーか、もやもやしたっつーか、ああ会いてぇなーと思うといてもたってもいられなくて、一回、ナミさんが運よく出てきたりしねぇかなと思って会社の前通ったりして」
「うちの?」
「そう。気持ち悪ィよな、ごめん。でもほんと一回だけ」
サンジ君は薄く笑って、氷の溶けたお酒に唇をつけた。喉は動かず、飲んだというより唇を湿らせる程度に舐めただけみたいだ。酔っているのだろう。薄暗い店内の灯りでは顔色がわかりにくいけれど、テーブルにぽんと置いた手が赤い。
「ナミさんもこうなのかなって思った。おれみたいに、会いたくても会えないときもやもやして意味もなくうろついて、苦しくて」
「私は」
サンジ君が顔を上げた。一瞬目が合って、私から逸らす。
「……私も」
「苦しいよな」
うん、と俯くとじわりと涙が滲んだ。テーブルに肘をついて、手と指で頬を押さえて顔を隠す。
影が差し、頬を押さえた私の手の甲をサンジ君の指がするりと撫でたがすぐに離れた。
会いたいこととか、連絡を待つこととか、短い時間会えることとか、その時間のほとんどがセックスに費やされることとか、そのあとのぽかんとした時間、会計をする背中、別れたあとひとりで部屋に戻ること、言いようのないそういう私の恋にまつわる事象すべてが、きりきりと、ずくずくと膿むように、苦しい。
知らないくせにと思っていた。こんなにも苦しい恋は私だけの特別だと思っていた。
そんなことはない。関係がどうであれだれにとっても苦しく、私のような恋はありふれている。
サンジ君はそれを知っているから、こんな私に優しいのだ。
顔を伏せたまま、指の隙間から目だけを動かしてサンジ君を盗み見る。
痛いみたいに顔をしかめて、たばこのパッケージを剥いたゴミを手でもてあそんでいた。
こっそり指で涙をぬぐい、手を伸ばす。ハッとサンジ君が身じろいで、姿勢を正した。
私たちをへだてるテーブルは小さい。腕を伸ばすとすぐにサンジ君に届いた。その胸ポケットから真新しい煙草の箱を抜き取る。
「ナミさん?」
「一本ちょうだい」
「吸うの?」
「うん」
「吸ったことは?」
一度だけ、と答えて煙草を一本取り出す。火をつけてもらおうと先を彼の方に向けたら、煙草をひょいと摘み取られた。
「なによ、だめ?」
「いや、いいけど、いいんだけど」
サンジ君は私の手から煙草の箱も取り返すと、私から摘み取った煙草を元通り仕舞い込み胸ポケットへ戻した。
それから不意にテーブルに腕を突き、ぐいと私に顔を寄せた。
「煙草でいいならおれでもいいだろ」
あ、と思う間もなく唇が重なった。避けることもできたかもしれないけど、そんなこと考えつかなかった。
サンジ君の口からはさっき飲んでいた薄い焼酎と、いつもの煙草の味がした。
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