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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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浴室で身体を拭かずに出る癖がある。
今日もまた、風呂マットのふかっとした感触を濡れた足で踏みしめた後になって、ロビンはあっと思った。
その瞬間、勢いのある唐突さで目の前の脱衣所のドアが開く。

「あ、わり」

ルフィは既に赤いシャツを脱いでいて、小脇にはぐるぐる巻きにした大判のバスタオルを抱えていた。
悪いと言いつつ、ルフィは素知らぬ顔で脱衣所に入ってきて、空いている籠に持っていたバスタオルを突っ込んだ。
ルフィがあまりに平気の平左にしているから、ロビンも何を言うでもなく手を伸ばしてバスタオルを取り、そっと身体を覆った。

「お湯に入るの? シャワー?」
「今日はひとりだから、シャワーだなー」

能力者は、一人で浴槽に浸かることができない。
できるけど、普通はしない。

「ならよかった、もう冷めてしまったかもしれないから」
「ん? ナミもいるのか?」
「私だけだけど」
「おめー一人で風呂浸かったのか、あぶねぇぞ」

喋りながらルフィはズボンと下着をごそっと一度で脱ぎ去って、ぺたぺたと裸足の足を鳴らしてロビンの横を通り過ぎた。
浴室の戸が閉まると、すぐに激しい水の音が聞こえてくる。

ロビンは濡れた身体を拭いて、ハーフパンツとTシャツを身に付けて、濡らしてしまったバスマットを手に取った。
彼が出てくる前に取り替えてあげようと思ったのだ。
脱衣所を出るとき、ドアノブの下に付いた鍵が目に入る。
閉めた記憶も閉めなかった記憶もなかったから、きっと閉め忘れたのだろう。

もしも鍵を閉めていたら、浴槽にひとりで浸かったりしただろうか。
こんなにぎやかな船の上で、誰一人気付かず、鍵の閉まった浴室で溺れるとしたら。
髪の先から落ちたしずくが胸に当たって、ぶるっと肩が震えた。

昔なら逆のことを思ったはずだと、髪の先をぎゅっと絞りながらロビンは考える。
鍵も閉めずにひとりでお湯に浸かるなんて自殺行為だ。被殺人願望があるとも言える。
もしも誰かが押し入ってきて、湯に浸かるロビンに襲い掛かってきたら、なすすべもなく襲われるしかない。
だから、そもそも能力者は湯に浸からない。
そういうものだと思っていた。

脱衣所を出たところでチョッパーに出くわした。
青い鼻を小刻みに動かして、黒い目をくるくるさせながらチョッパーは「ロビンはいっつもいーにおいがすんな!」と自慢げに言った。

「そう、あなたも誘えばよかったかしら」
「んん、いいんだおれは! 昨日ウソップと入ったから」

チョッパーはとことこ蹄を鳴らしながら、キッチンの方へ歩いて行った。
そのふかっとした毛色のいい後ろ姿を見送って、ロビンは女部屋へと向かった。
バスマット、ルフィのために早くバスマットを敷かなければ、と頭の中で何度もつぶやく。



クロコダイルの屋敷で与えられた部屋は地下のワンフロアをぶち抜いたようにだだっ広く、柱が少なく全体が一望できるつくりになっていた。
白い壁、金色の装飾、豪奢な造りのソファに無造作にかけられた厚手のコート。
南側の一面は巨大なガラス窓で、黒い格子が牢獄のようにその全面を覆っていた。

「この部屋はおれも使うが、まあ基本的にお前のリビングだ。ベッドもここだがな」

クロコダイルがリビングと称したその部屋の隅には、キングサイズのベッドが鰐の牙のような4つの脚に支えられて横たわっていた。
ちらりとそこに目を遣るロビンをクロコダイルは正面からみすえて、鼻から大きく葉巻の煙を吐き出す。

「好きに見てくるといい。この国の最高建築、宮殿にも劣らねェだろう」
「いいわ、どんな部屋でも」

温度のない声で呟くロビンに、クロコダイルはわかったように息をつくだけでなにも言わなかった。

ここは今回のシェルターで隠れ蓑で、鳥かごだ。
頑丈そうな格子窓までついているし、うってつけじゃないかとロビンは窓の外の黄色い砂を眺めながら思った。

「ばかでけぇ風呂場も作った。女は風呂が好きだろう」

どこまで本気かわからない口調で、クロコダイルは目線をベッドとは反対側の小さな扉に移した。

「好きに泳げるくらいの広さはある。まぁ、泳ぐかはお前の自由だ」

この男は、私と二人だと妙に饒舌になる。
ロビンは肩に掛けたコートをするりと脱ぎ落した。
いらないことまで言っていると自分で気付いていないのか、はたまたわざとなのか。
こんなところに私の自由なんてない。この男が握っているのだから。

「じゃあお風呂に入るから出ていって頂戴」
「ああ? 着替えなら脱衣所でしろ。おれぁここで外を見てる」

黙ってじっと見ていても、クロコダイルは短くなる葉巻をいらいらとした手つきでガラスの机にこすり付けて消すと、また新しいものに火をつけるだけで出ていく気配はない。
風呂に入ると言った手前、所在なくなってロビンは浴室へと向かった。

象牙のように真っ白な浴室にはもうもうと湯気がたちこめ、すでに浴槽にはいっぱいに湯が張られていた。
趣味の悪い金色の鰐の口から怒涛のように熱い湯が吹き出して、視界が白く煙って仕方がない。
浴槽の向かいにはこじんまりとしたシャワールームがある。
頬に湯気が当たると、途端に砂にまみれた身体が痒く感じられた。
この国にいると、身体にまとわりつく砂が肌に張り付いて黄色に染まってしまう気がする。
あの男と数日行動を共にしただけで、髪からも肌からも葉巻のにおいが抜けなくなった。
それはどんなに身体をこすって洗っても、気が違ったようにこすっても、取れなかった。

閉めた浴室の扉の向こうは、静かだった。
クロコダイルは変わらずソファに大仰に腰かけ、値踏みするような目で外を眺めているのだろう。
ロビンは靴を脱ぎ、身体に張り付いた衣類を脱いだ。
なんとなく下着はそのままで、浴室に足を踏み入れた。

頭のてっぺんから熱いシャワーをあびると、身体の芯がじんじんと暖まって振動するように感じられた。
一瞬鳥肌が立ち、すぐにその温度に慣れると心地よさに目を瞑ってしまう。
額に強い水圧で熱い湯をあてたまま、ぼうっと立ち尽くした。

この国には間違いなく重要な歴史がある。
史学にとって重要で、重大で、守られるべき歴史がある。
伝え継がれるべき言葉が残されている。
クロコダイルが欲しているのはそういうものの一部だ。

私は、とロビンは前髪を掻き上げた。
私は、そう、たとえば乾いた大地のひび割れた裂け目だとか、かさかさに粉を拭いた子供たちの日に焼けた頬だとか、生命の育みを拒むように照りつける白い太陽だとか、この国の現状を含めた歴史を愛しいと思った。
きっと彼には一生わからない。

視線を感じ、ハッと振り向く。
クロコダイルが革靴を履いたまま浴室の入り口に立って、めんどくさそうな顔つきのままロビンを見ていた。
剥き出しの背中を伝う水滴が途端に冷たくなる。

「……仕事かしら、ボス」
「テメェはパンツのまま風呂に入るのか。変わった女だ」
「プライベートだと分かってるなら出ていって」
「せっかく豪華なのを造ってやったんだ。風呂にも入るといいぜ」

この男、既にも私に死んでほしいのだろうか。
意図を探り合うような視線の応酬をして、ロビンは目を逸らした。
それならそれでいいかと思ったのだ。
どうせいずれはこの男を私は殺すことになる。でなければ私が死ぬ。
でもそれなら、プルトンは。私がいなければこの男は一歩も欲望に近づけない。
 ふと気付いて、思ったままをロビンは口にした。

「私を抱くの?」

クロコダイルはシャツの上に羽織ったベストを脱ぎ捨てて、床に放った。
浴槽の縁に、ズボンが濡れるのもお構いなしに腰を下ろした。

「気分じゃねェな」

鉤爪の手が、もてあそぶように浴槽の湯をかき混ぜた。

「風呂なんざゆっくり入ったことねェだろう。溺れかけたら助けてやるから入れ」
「私は」
「入れ」

命令を、ロビンの身体の空いたスペースにぐっと押し込むみたいに言いつけられる。
出しっぱなしだったシャワーをぎゅっと止めると、床を流れる水の音だけがさわさわと響いた。
一段下がったシャワールームを出て、ゆっくりとクロコダイルに近づく。
その足の運びを、猛禽のような小さな黒目でクロコダイルは余すことなく見ていた。

つまさきを湯につける。
シャワーとは比較にならないけだるさが身体を埋め尽くし、片足を浴槽の底につけてしまうと後は滑り込むように胸までとぷんと身体が沈んだ。
湯の感触は柔らかく、ほんのすこし塩辛いようなツンとした香りが立ちのぼる。
浴槽の側面に背中を預けて、浮力で浮き上がった胸とつけたままのレースの下着を見下ろしながら、ロビンは詰めていた息を少しずつ吐き出した。

「いいだろう、この風呂は」
「──えぇ、とても」
「随分緊張感のある声だ」

クハハ、と喉を鳴らすように笑うクロコダイルの声を聞いて、この男は私のこういう声が聞きたかったのだと気付いた。
悪趣味。
限りなく弱ったロビンにいつでも助けてやると手を差し伸べて、生死をさまよいながら虚勢を張る姿をクロコダイルは笑いながら見下ろしている。

構わない、と思った。
力が抜けて浮かびあがろうとする腕をゆるゆると動かして、大きく水をかいた。
半月型の浴槽の中心へと、沈もうとする身体をたゆたわせながら慎重にすすんでいく。
どんな姿だって見ればいい。
ここに私の大切なものはひとつだってない。

じゃあそれってどこにあるの?

浮かび上がった疑問に足を取られるように、ロビンの身体は唐突に沈んだ。
とぷんとコーヒーカップが揺れた程度の水しぶきが上がり、静かに頭の先まで湯に浸かる。

湯が絶え間なく浴槽に流れ込む音は、水の中ではごおごおというよりばあばあと言っているように聞こえた。
目を開けると、水の中の霞む視界はうす紫色で、膝小僧にできた痣みたいな色をしている。
きれいでもなければ汚くもない。
無数の泡沫が上がったり下がったり繰り返すのに見入って、気づいたときには首根っこを掴まれて引き上げられていた。

はあはあと無感動に繰り返す呼吸を、クロコダイルはそれが収まるまでじっと見ていた。
引き摺られるように運ばれ、浴槽の淵にタオルをかけるような要領で身体を引っ掛けられる。

「期待してるぜ、ミス・オールサンデー」

クロコダイルはさっさと浴室を出て行った。
戸が開くと、クロコダイルの動きとともに大量の湯気が外に流れ出ていく。
ロビンはちらりと顔を上げてそれを見た。
クロコダイルの右足だけが、濡れそぼって色を変えていた。
片足を濡らしてもいいくらいには、私は必要なのだ。
あのときこの男が水に濡れたら形を持つと知っていたら脚の一本は奪えたかもしれないのにと、後になってときどき思い出すことになる。

ロビンは這い出るように浴槽から出ると、冷たいタイルの床に倒れ込んだ。
大切なものなんて結局どこにもなかったわと思いながら死ぬなんて絶対に嫌だと、強く思った。





薄黄緑色のバスマットを手にして脱衣所に戻ると、浴室の中のシャワーの音は消えていた。
ロビンが出てからものの5分もしていないのに、ルフィはもう入り終わってしまったのか。
なんとなく残念な気持ちで両手に乾いたバスマットを持って、ひらりと床に敷いた。
うつむいた拍子に脱衣籠が目に入る。
ルフィのズボンが、足から抜けた形のまま籠に収まっていた。
頭の中を巡っていた様々な言葉が動きを止める。
ぴちゃ、とどこかから水音が聞こえたのを皮切りに、ロビンは飛びつくように浴室の戸を開けた。

「ルフィ!」

迷うことなく目を向けた浴槽から、劣化したゴムホースみたいにたるんだ腕が垂れていた。
ああ、と叫んだつもりが空気を盛大に飲み込み息がつまる。
伸び切った腕にすがりつき、それをたどって浴槽の中を覗き込んだ。
まん丸に目を見開いたルフィが、腰ほどの高さの水に身体を浸らせて、首をそらしてロビンを見上げていた。

「おぉっ? ロビン?」

どうしたー? と間延びした声がわあんと風呂場に響く。
は、と短く息を吐き、ロビンは食い入るようにルフィを見つめた。
動かないロビンに、ルフィは少し間を置いてから、「ロビンによぉ」と話し始める。

「ひとりで風呂入んのあぶねーって言ったけど、おれもたまには貸し切りで入ってみてーから、水減らして入ってみた! おめーにできるならおれにもできるだろうと思って」

やっぱできた、とルフィは歯を見せて笑った。

ルフィの腕を掴む指に、途方もない力がこもる。
握りしめた指が白くなるほど強く。
ルフィがそれに気づいて、体の向きを変えてロビンの顔を覗き込んだ。
そして少し慄くように身を引いて言う。

「なに泣いてんだロビン」

膝をついた太ももに、ほたほたと水滴が落ちる。
熱い筋が頬を伝っていくのを感じながら、気付いたら腰を折り、ルフィの肩にしがみついて吠えるように泣いていた。

やっと見つけたのに、私の大切なもの、やっと見つけたのに。
こんなにもあっけなく遠ざかろうとする。

ルフィは若干狼狽えながらも、ぽんぽんとあやすようにロビンの背を叩いた。
な、泣くほどのことかよぉ、てかお前なんでそんな泣いてんだ。
ナミと喧嘩したのか? 腹でもいてーのか?
大丈夫だぞ、元気出せ。
おれがついてる。

しゃくりあげながら頭を持ち上げると、ぱっと顔を明るくしたルフィが「なっ」と力強く笑った。
彼が本当に疲れ切ってその身体をそこなうとき、大丈夫私がついてるわと言ってあげられるだろうか。
ロビンは泣き濡れた顔を拭って、小さく「ごめんなさい」と呟いた。

「あ、そーだ。さっき見えたんだけど」

ルフィは泣き止んだロビンの機嫌を繋ぎとめようとするみたいに、少し焦った手つきでロビンの胸の中心を指差した。

「ここ、痕残っちまったんだな」
「痕……あぁ、えぇ。塞がってくれただけよかったけれど」

鉤爪がえぐり突き抜けた胸の穴は、ルフィに聞かされたチョッパーが綺麗に縫合し直した。
それでも不気味な華のように丸い痣が胸の真ん中にぽっかりと残っていて、ときおりしくしくと痛むことがあった。

「ん、ほらここ」

そう言って、ルフィは自分のへその上辺りを指差した。
まるで背中を反らして威張っているみたいに。

「おれもほら、あいつにやられた痕がまだあんだぜー。くそ、思い出すとむかついてきた!」

目をこらすと確かにうっすらと、ロビンの胸にあるのと同じような傷痕がシミのようについていた。
激しい新陳代謝のせいか、すでに消えかけている。
そっと指を這わせると、ルフィはくすぐったそうに身をよじらせた。

「な、おそろいだ」

しっしっし、と笑うルフィに、ロビンもしっしっし、と声を上げて笑い返した。
一瞬目を丸めて、ルフィはすぐにしっしっし、とまた笑う。
しっしっし、しっしっし、と奇妙な笑い声が浴室の中の湿気に絡め取られながらふるふると響いていた。

嬉しくなって「私もあなたともう一度入ってもいい?」と訊いたが、ルフィは嫌そうに顔をしかめて「サンジに怒られる」と真面目な顔で答えた。
調子に乗りすぎたことを少し恥ずかしく思いながら、ロビンは浴室を出て乾いたバスマットで足を拭いた。


fin.

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まったく関係のない2話が続きます。


背中にのしかかる重みは命そのままの重みだ。
吹雪く視界は灰色に霞んで、頬にぶち当たる雪にはもう冷たさも感じない。
なのに、背中はうっすらと汗ばんでいる。息が上がる。
しがみつく力をなくし、ゆっくりとずり下がっていくローを揺すりながら背負い直し、足跡すらつかない雪原の丘を登っていった。
なんでこんなところでおれは革靴を履いているんだろうと、雪に埋まる足元を見た。先の尖ったそれはつまさきを締め付け、長い道のりを、それも雪深い山道を歩くには適していなかった。
冷えと全身の痺れのせいで、じうじうと軋むような音が身体の中から響いた。音なんて聞こえるはずがないのに、不思議なもんだと思う。
──いつかこの、永遠のような冬を抜けたら、ローを連れて街に行こう。
こいつにあたらしい服と靴を買って、お気に入りの帽子は修繕に出してやろう。まっさらな格好をして照れながら怒るローを想像すると、知れずと口角が上がる。
ローは力なく頬を預け、目を閉じていた。
──あぁ、早く春は来ねェかなぁ。






あの春の日まで




「君は白鉛病だね」

 しわがれた声がコラソンの足を止めた。ローは咄嗟に黒い羽根のコートに顔をうずめて身を隠した。
背中に回した腕に力がこもり、冷たい汗が首筋を這う。
振り返ると、上品な装いの老人がはるか高くにあるコラソンの顔と、その背中に乗った少年を見上げて目を細めていた。
のどかな町で、広場の中心から吹き上げる噴水の音が牧歌的に響き続けている。

──ばれた。
男を見下ろした数秒の間にいくつかの考えが頭をよぎる。逃げる、無視する、黙らせる──どれも実行できないまま、コラソンは口を開いた。

「──知っているのか」

おい、やめろよコラさん、とローがか細い声で、それでも痛々しく小さく叫ぶ。

「あぁ知っている。私は医者だ。いや、正確には医者だった」
「医者!? じゃあお前白鉛病を」
「治せやしない。それはもう、誰にも治せないんだよ」

ローが耳を塞ぐように帽子のつばを両手でつかんだ。小さな心を打ちのめした現実から自分を守るための、ローの癖だ。
どいつもこいつも、余計なことばかり言いやがる。
ローを支える方と逆の手で老人の胸ぐらをつかみ、枯れ枝のような老人の脚が宙に浮かぶほどまで引き上げた。

「おいジジイ、からかうだけなら余所を当たれ」

サングラスの下から睨みあげても、老人は怯えるでもなくただ息苦しそうに咳をして、「からかってなどいない」といやにはっきりと言った。

「ここでは話しにくい。私の家へ来なさい」
「いやだ、コラさん。もういい、行こう」

ローがコートの襟首を引っ張る。こんなに弱弱しい声を出す奴ではなかった。ガキらしくない低く呻くようなドスを聞かせた声で、斜に構えて人を睨みあげながらしゃべるような奴だった。
こんなふうにか弱い声を出すまで弱らせたのはおれだ。半年以上歩き回って実のない旅を続けるには、ローの心も体もひび割れすぎている。
それでも、だからか、コラソンはすぐさま老人の前から歩き去ることができない。ローが焦れて何度襟首を引っ張っても、怯まず見上げてくる老人を検分するように見つめ返した。
すがらせてくれるなら結構じゃないか。

「何かいい情報でも教えてくれるのか」
「情報……というより、提案がある。何よりその子供は衰弱しておろう。うちで休むといい」

きびすを返した老人の小さな背中を見つめ、ためらったのは最初の一歩だけだった。
コラさん、とローが怒ったようにとげのある声で今度は髪を引っ張り始める。

「まぁいいじゃねェかロー、白鉛病について何かわかるかもしれないぞ」
「信じらんねェ! 見ず知らずのジジイにほいほいついてくなんて、お前本当にドンキホーテファミリーの幹部なんて務まったのかよ! 罠だったらどうすんだよ!」
「そんときゃお前を連れて逃げるさ」
「またドジってひでェことになるのが目に見えてんだよ!!」

ぎゃんぎゃんわめくローをいなしながら確実に老人の後を追う。
コラソンに牙を剥くときのローが一番元気だ。弱りきった身体に血が巡り、目に光が灯り、歯を剥いてコラソンの名前を呼ぶ。
こんなにもいとおしい命はない。



頑丈な作りの塀。巨大な門扉。シンプルでありながら金をかけた匂いのする邸宅に、二人は案内された。
ひさしく座っていないスプリングの効いたやわらかいソファに腰を下ろす。ローは不思議そうに、革張りのそれを撫でていた。
あたたかい紅茶も久しぶりだった。一度目にまるごとカップをひっくり返したコラソンに給仕されたそれは二杯目だ。ローは甘いココアのカップを両手で支えて大事に飲んでいる。

「フレバンスの話は聞いているよ。私は医者として、何もできなかった」

老人が言う。
ローはカップから口を離し、また帽子の縁に手を遣った。

「フレバンスが外から医者を呼ぶことができなかったのは、もちろん進んで行く者がいなかったからだ。ただ、ゼロではない。馬鹿のように自分の中にある善意を信じてフレバンスに赴こうとした医者も少なからずいた」
「あんたもか、じいさん」

老人は答えなかった。

「まさか生き残りがいるとは思わなかったが、既に罹患した者を治療した報告は皆無だ。私に今すぐこの子を治療することはできん」

ただ、と老人は随分高くにあるコラソンの顔を見上げた。

「あんたらは治療法を探して旅していると言った。あてどなく彷徨っているに近い。苛酷すぎる。少なくとも、病んだ子供を連れて行うべきではない」
「そんなこと、コラさんもおれも重々承知してんだよ! 今更あんたにとやかく言われることじゃねェ!」

すかさず牙を剥いたローを静かに見下ろして、老人は小さく「すまない」と言った。
唐突な謝罪に、ローが言葉に詰まって息をのむ音が聞こえた。なだめるように、コラソンはローの帽子に手を置き、軽くその頭を引き寄せた。

「わかってんだ。でも、こいつやおれのいたところは異常だった。たとえ白鉛病じゃなくても、あのままではいられなかった」

老人は手元のカップを口に運び、「そうか」と小さく呟いた。そして一息置いた後、話し始める。

「私は今この家に一人でね」

ぐるりと家の中を見渡す老人の視線に釣られ、コラソンも顔を上げた。
整った調度品。質のいい家具と掃除の行き届いた室内は一人暮らしの老人らしくはない。だれか手伝う者を雇っているのだろう。

「妻に先立たれて仕事をやめてからも、細々と白鉛病の研究を続けていた。もはや症例が存在しないと思われている病だ。研究に学術的な価値はあっても実践的な価値は今現在見いだせない。少なくとも、それが共通見解だ」

生きた症例とも言えるローに、老人が目線を据える。ローは珍しく狼狽えるように、コラソンに身を寄せた。

「君を助けたい」

老人が吐き出すように言う。重たく、どしんと真正面からぶつかるようにローに、そしてコラソンに響いた。少なくともこの旅で初めて出会った、味方だった。

「治療法はわからない。この先見つかるかもわからない。しかし見つけたいと思う。少なくとも、君が大人になるまでの命を繋げるように」

ローが戸惑った顔で見上げてくるのがわかった。それでもコラソンは、その目を見つめ返すことができなかった。気付きながら、受け止め損ねた。老人が次に何を言うのかわかっていた。

「この子を私のところに置いていかないか」

「あ」とも「な」ともつかない小さな声をローはあげた。
人ごみの中で子供が母親を見失わないようにそのスカートの裾をぎゅっと握りしめる。そんな仕草で、ローはコラソンの太腿のあたりの生地を握った。
そのあとに続いた老人のさまざまな言葉は、コラソンの頭に物理的な痺れだけを与えて胸には届かなかった。
ただ、ローを手放すか手放さないか。そのことだけがぐるぐると頭を巡っては取り留めなく霧散して、しばらくするとまた集まって頭をぐるぐる回り始める。そんな感覚が熱を伴ってぼんやりとコラソンの頭を占めた。
 もしコラソンがローを老人に預けたら、ということを老人は丁寧に説明した。その喋り口調は信頼できる気がしたし、会って数時間の男の話をこんなふうに聞いていること自体がやっぱり間違っているような気もした。

「どうする」

 黙って話を聞くばかりだったコラソンに、老人が返事を促した。ローが服を握る力がぎゅっと強くなる。
 いやだとも、ふざけんなとも、ローは言わなかった。ただ不安げに、呆けたように黙りこくるコラソンを睨みつけながら、コラソンの言葉を待っていた。試されているのだとわかった。

「──考えさせてくれ」

 結局言えたのはこんなことで、老人はわかっていたかのように頷いた。




老人の屋敷を出ると、ローは堰を切ったように喚き始めた。

「なんだよあの態度は! 真面目な顔しやがって、『考えさせてくれ』だぁ!? 何を考えるってんだよ!」
「そ、そんな怒んなよ」
「煮え切らねェコラさんが一番腹立つんだよ! お前まさかおれをあんなジジイにおっつけようなんてつもりじゃねェだろうな」
「ち、」

ちがう、と言い切るより早く、何もない平らな地面に蹴つまずいて派手に転んだ。したたかにケツを打つ。
まったく、と言いながらローは小さな両手でコラソンの手を引っ張り上げた。

「すまん」
「そうやってドジばっかやってるくせに、妙なこと考えるんじゃねぇよ」

立ち上がってケツの砂埃を払う。ローは偉そうに腕を組んで、その顔を睨みあげた。

「もう出ようぜ、こんな街」
「待て待て、もう夕方だし、さっきのじいさんがせっかく泊めてくれるって言ってんだ。今夜はここに泊まろう」

老人は宿を持たない二人に、快く部屋を一室貸してくれると申し出た。
しかしローは依然として首を縦に振らない。

「いやだ! コラさんが変な気起こす前にさっさと街を出るんだ」
「次の街に着く前に夜になっちまう」
「そしたらいつもみたいに野宿すりゃいいだろ」
「馬鹿野郎、お前が」

お前がもう、野宿に耐えられる身体じゃないだろう。
言いかけて飲み込んだ。
一言でも自分の口が飛び出しかけたことが、とてつもなく哀しかった。

黙り込んだコラソンの顔を覗き込み、ローは「おれは絶対あんなところに泊まらないからな」とそっぽを向いた。
その小さな動きで、不意にローがよろめく。

「おい!」

慌てて受け止めると、ローは力なくコラソンの腕に寄りかかり、小さく「ちくしょう」と呻いた。

「馬鹿野郎、騒ぐからだ」

ローの身体から、何か大切なものが抜けていく。穴の空いた袋から空気が漏れていくように、かすかな音を立ててしぼんでいく。その穴は塞いでも塞いでも新しい穴が次から次に空いて、生かそうともがくコラソンを鼻で笑うようにローの何かを損なおうとしていた。

そっとローを抱き上げ、両手に抱えこむ。
随分と軽くなった。
ローを揺すればカラカラと乾いた音が鳴りそうで、そんな実感にぎゅっと胸が詰まる。喉と鼻に塩辛さが押し寄せ、コラソンは慌ててそれを飲み込んだ。
ぐったりと身体を預け、静かに息をするローをなるべく動かさないように、コラソンは老人の屋敷へと踵を返した。




ふくらみたてのパンのようにやわらかく盛り上がったベッドは、横たわるとどこまでも沈んでいった。
頬に触れる生地はなめらかで、さっぱりと乾いているのにひやりと冷たく、肌に心地いい。
老人が与えてくれてた寝室はその家具のどれもが上等に見える。ローの傷んだ身体を癒すには最適じゃないかと、やすらかに眠るローの額を撫でてコラソンは息をついた。

老人はローとコラソンに角部屋に静かな一室を与え、夕食の準備までしてくれた。温かいものを腹に入れて落ち着いたのか、ローは食事中からうとうとと微睡み、食事を終えるとどこかへ落ちていくように眠った。
白くまだらに染まったその手は、眠る子供のそれとは思えないほど冷たい。
ローがどこか、コラソンの手の届かないところに行こうとしている。それも追いつかないほどの速さで。

──それならいっそ、ここでゆっくりと暮らしながら少しでも延命する方法を探した方がローにとっていいんじゃないのか。
思えば思うほど、それよりほかにない気がして、いてもたってもいられなくなった。

そうだ、今すぐローを置いて出ていこう。
コラソンが悩む素振りをすればするほど、ローはふざけんなと怒るに決まっている。
そう、ローは怒るだろう。
おれを置いていくのかコラさんと、コラソンをなじるだろう。

それでもいい。
ローが少しでも長く生き延びて、自分の意志で生きられたらそれで。

善は急げだ、とコラソンは慌てて自分に触れる。
『凪』は全てを吸い込んで、コラソンの衣擦れの音さえ消した。

革靴に足を滑り込ませ、コートを羽織る。
荷物は──ローを背負う以外に、持っているものなんてなかった。
支度を終えると、コラソンは音も立てず扉を開け、そそくさと部屋の外に抜け出した。
ローが眠るベッドの方を振り向くことはできなかった。
ただ、諦めずに生きてくれよと、願うしかない。


静まり返った屋敷を抜け出すのは、造作もなかった。
あっけなく屋敷の門をくぐり、造りの立派なそれを一度だけ振り仰ぐ。
城のようだな、と思う。
幼いころのかすかな記憶がチリッと焼けるように脳裏に浮かんだ。

夜の街は静まり返っていたが、どこかに繁華街があるのだろう。遠くの方からざわめきが届く。
灰色の石畳を照らす街灯の光に沿って、あてどなく足を進めた。

どこへ行こうなあ、とたいして考えるつもりもなくぼんやりと思った。
もう兄の元へは帰れない。
いずれ海軍に戻るとしても、まずは本部と連絡を取ってルートを確認する必要がある。
その間、自分は何もすることがないのだと改めて気付いた。
ローの病気を治すという目的を失って、今こそ自分は自由なのかもしれない。

自由って、案外つまらないものだ。
おもむろにえりあしを引っ張る小さな手の感触もなければ、気に入らないと渾身の力で背中を蹴り上げてくることもない。
寝落ちたローの体温で暖まって背中が汗ばむこともないし、ローの帽子が風で飛ぶ心配をすることもないのだ。
本当に、これを自由というのだろうか。

じゃあローは、温かい飯を毎日食べてふかふかの布団でやすらかに眠って、あのじいさんにフラスコの中で育つ小さな芽みたいに大事にされたなら、たとえ長く生きたとしてもそれがローの望んだことだと。
おれは本気で思っているのだろうか。

ちがう、ちがう。

コラソンが歩みを止めると、街灯に照らされて長く伸びた影がぶれるように揺れた。

ちがう、きっとちがう。ローが望んでいるのは、おれがローに望んでいるのはそんなことじゃない。
ただ毎日一緒に繰り返す日々が明日も保証されていること。
たとえどんなに平凡でも、逆にどんなに荒れ狂った危険が伴っても、明日も一緒にいると言う当たり前がそこにあること。
おれたちが望んでいた自由は、そういうことだったはずだ。

思い立って屋敷を出たときと同じ性急さで、コラソンはすぐさま踵を返した。

「うおっ」
「ぎゃっ」

脛のあたりにどん、と柔らかい何かがぶつかる。ぶつかった何かは小さく叫び、跳ね返って尻もちをついた。

「ロ、ロー」
「馬鹿だなコラさん。『凪』だからって、周りの音まで聞こえねェのかよ」

いつもの帽子を深くかぶり、コートの代わりにシーツをぐるりと身体に巻きつけたローは両手を突っ張るようにして、自力で立ち上がった。

「い……いつからそこに」
「ずっと跡をつけてたんだよ。本当にコラさんは、ファミリーの幹部だったとは思えねェ気の抜けようだな」

呆れた息をついて、ローはいつものように腕を組む。吐く息は白い。

「急に立ち止まるから何かと思ったら、また急に振り返るんだ。びっくりするだろうが」
「そ……うか、びっくりしたか」
「うるせぇよ」

未だ状況が飲みこめずぼやっと立ち尽くすコラソンの脛を、ぺちんとローの手がはたく。

「おれを置いてこうとしやがって。馬鹿コラソン」
「す、すまん」
「ゆるさねェ。あんなジジイとなんか暮らすもんか」

ローがコラソンの足をよじ登ろうとしたので、いつものようにその身体を背中に乗せる。一連の動作が身体に染みついていた。
いつもの場所に収まって落ち着いたのか、ローの身体がすとんと重みを増した気がする。

「さあ行くぞ」

ロボットを操縦するコックピットに座ったように、ローはコラソンの襟足を握った。

「行くってどこに」
「コラさんやっぱりおれを迎えに行こうと思って、戻ろうとしたんだろ。でもおれから来てやったんだ。先へ行くんだよ」

さき、とコラソンは呟いた。
ローの冷たい頬が、コラソンの後ろ首に触れる。
その温度に刺激されるように、コラソンは歩き始めた。

「で、でもよロー。こんな夜更けに歩きはじめたら、今晩は確実に野宿だぞ」
「寝なきゃいいじゃねェか。おれはここで寝るけど」
「おまっ、ずるいやつだな!」

ローは小さく笑った。ひきつったしゃっくりのような下手くそな笑い方だった。

「寝る場所だとか、身体に障るだとか、そんなこと今更どうだっていいんだ」
「──そうか。そうだな」

よくはない。野宿は間違いなくローの身体に響くだろう。コラソンの背中で揺られながら眠ることも、冷たい夜風に頬をなぶられることも。
ただ、離れることよりは確実にマシだと思えた。

暗闇に沈んだ商店街のような通りを抜け、住宅の立ち並ぶ郊外へと足を進める。
ローとコラソンの吐く白い息が、短い軌道を描いた。

「──寒いな」
「まぁな」
「春島の春とかに行きたいなあ」
「フレバンスはずっと春みたいな陽気だった」
「いいところだったんだな」

うん、とローが頷いた。

「いつか春になったらよ、ロー。あったかい街で風船買ってアイスでも食おうぜ」
「風船なんていらねぇよ」
「そんで買い物するんだ。お前の着古した服と履きつぶした靴、新しいの買ってやる」
「コラさんもそのだせぇシャツ変えたら」
「うるせぇな!」

ひとしきり言い合ったのち口を閉ざすと、途端に夜の静寂が広がる。
とてつもなく静かで、もの悲しく、暗くて深い夜にのみこまれないようコラソンは必死で足を動かした。
どこかにあるはずの、ふたりの春の日まで。

「──楽しみだな」

ローは白い息をひとつ吐いて、「そうだな」と小さくこたえた。



fin.




************




おれの忠実なクルーたち。
死んだ人間と話をしたことがあるか。
おれはある。お前たちと離れているあいだ、ある男の船に乗っているときに。
正確には、『死んだことのある人間』だ。
そいつは、アフロで、女のパンツが好きだった。






最期の最期の最期まで





麦わらの一味の船は、ガイコツの奏でるバイオリンソロの音色で朝が始まる。
バイオリンと言えどその琴線が弾きだす音はけたたましく、一瞬で目が覚めた。驚いて顔の上の帽子を取り落したほどだ。

「うるせェな!」
「おやっ、ローさんお目覚めですか! おはようございます、相変わらずすごいクマ!」

ヨホホホホホ、と奇天烈な笑い声をバイオリンの音にからませながら、細身の身体はするすると船中を駆け巡って音楽を響かせ続ける。
毎日、毎日。

「どうにかならねぇのか、アイツのやかましさは」
「あら、ルフィよりましでしょ」

ナミが答えたそばから、船室の中、具体的にはキッチンの方からドシャーンとある程度の硬さを持ったいろんなものがこんがらかりながら床にぶちまけられる音があられもなく響いた。
すぐさま、サンジの怒声とそれにかぶさるルフィの笑い声が追いかける。

「ね」

何が「ね」だ。そろいもそろってやかましいだけじゃねぇか。
ノラ猫のようにふいっと顔を背けて立ち去るローの背中に、ナミが声をかける。

「静かな場所に避難するなら、アクアリウムバーがおすすめよ」

振り返ると、ウインクと共に指差された地下への階段。従うのは癇に障るが、いつか聞いた船の中の水槽というのも興味がある。
しかめ面を崩さないまま、しかし素直に階段を降りた。







「──静かに過ごせると聞いて来たんだが」
「ヨホホホホ奇遇! これまた奇遇ですね! ようこそショータイムへ! 何から行きます? ピアノ協奏曲? バイオリン交響曲? それかアカペラなんてのも」

次から次へとどこからともなく楽器を取り出すガイコツに眩暈すら感じて、思わず近くにあったソファへ座り込んだ。
薄青く染まった部屋は暗がりの中どこまでも広がっている気がして、ブルックの明るい声が遠くへと広がっていくように聞こえる。
あいかわらずヨホホ、ヨホホと笑い続けるガイコツに辟易として、ため息をふきだしながら顔を上げた。
その頭の後ろを、巨大な魚が一匹ゆったりと水中を横切った。

「こりゃあ、すげぇな」

思わず上げた声に、ブルックが動きを止める。
手にしていたバイオリンを、指の骨がポロンとひとつはじいた。

「ローさんは、静かな場所がお好きですか」
「──というより、うるせぇのは気に障る」
「無音というのもまた、寂しいものですよ」

そんな場所、地球上にはないかもしれませんが、とブルックはまたバイオリンをひとつはじく。

「いや、ある」
「え」
「ガキの頃、音のない空間を作り出せる人がいた」

ブルックの真っ黒な眼窩が、興味深そうに光った気がした。案外ホネでも表情はわかるもんだな、とローはその顔をまじまじと見た。

「悪魔の実、の能力者ですか」
「ああ」
「なんという」
「ナギナギの実」

ああ、凪、とブルックは呟いて、水槽を見上げた。
つられて水槽に目を遣ると、今度は小魚が群れを成して泳いでゆき、鱗が反射させた光で床がゆらめく。

「音楽家殺しの能力です」
「かもな」
「その人は?」

水槽からブルックに視線を戻す。
青白く照らされたホネの顔は、全部を知ったうえで聞いているように見えた。
口を開き、また閉じて、思いがけず答えあぐねる。
数秒間をおいて、「死んだ」と答えた。

「そうですか」

ところで、とブルックはバイオリンをおろし、ローの顔を覗き込んだ。

「問わず語りで恐縮ですが、私は一度目の人生を別の船で過ごしました」

もう50年以上前のことです、とブルックがおもむろに隣に腰を下ろした。
ローとの間に、人ひとり座れるより少し狭いくらい。男同士が隣り合うには少し近すぎる気もするが、このままの声音で離すにはちょうどいい。

「命を預けた人がいました。その船の船長です。それまでの人生の大半を彼と過ごした」

嵐が来て、宴を開き、敵襲もあればお宝にありつくこともあった。
歌が好きで、クルーの多くが楽器を奏でることができ、船はずっとずっと歌っていた。

「船長が船を去っても、私たちは歌うことをやめなかった」
「──死んだのか」
「いいえ。船を降りたのです」

ブルックの顔は、座ってもなおローよりずっと高いところにある。見上げるのが億劫で、水槽の作りだす淡い影を見ていた。

「病気でした。グランドラインを旅しながら治療を続けるにはあまりに過酷で、無謀と知りながら彼はグランドラインからの脱出を試みました」

離れてからの彼の行方も、生死もわからない。無事グランドラインを抜けることができたのか、そして病を治すことができたのか。はたまた、船を離れてすぐに海の底へと沈んだのか。

「海賊で、しかも船長です。冒険も半ばに、自らの船を離れることは死ぬより辛い。私も、彼を見送るとき、これは死ぬより辛いと思った。
──しかしいざ自分が死んで、ちがうとわかった」

アフロの影が、ゆっくりと動く。
なぜ自分はこんな話にまともに耳を傾けているのか、思考にぼんやりともやがかかったようになって考えられない。
アクアリウムバーが作り出す景色と、音のせいだ。そう決めつけてローは黙って続きを促した。

「肉のついていた私の身体から血が吹き出し、袋から破れたように魂が抜けていくのがわかります。ピアノの鍵盤をたたく力がなくなり、手を上げることもできず、まっすぐ椅子に座り続けることもできなくて私は倒れました」

ああ、死んでいく。そう思ったとき、はたとわかった。

「私の命が、この世からすぅっと離れていくと同時に、私が彼から、ヨーキ船長から、すぅっと遠ざかろうとしている感覚があった。そのときにわかったのです。彼は生きている。生きている彼の命から、私が離れていこうとしている。うれしくて、うれしくて──こんなにも辛いことはありません」

ブルックが立ち上がった。あまりの唐突さに目を剥いて、その背中を見上げる。ソファはきしみもしなかった。

「死ぬまでわかりませんよ。あなたが本当に死ぬときまで」

ブルックは長い足を軽やかに動かして、アクアリウムバーの中心にある太い柱をぐるりと廻ったカウンターに近づくと、柱に組み込まれた小さなドアのようなものを開けた。

「サンジさんからの差し入れです」

取り出したのは、こぶりのトレンチに乗ったティーカップ。湯気を立てていた。

「──からくり屋敷みてェだな。この船は」
「フランキーさんの力作だそうです」

温かい紅茶がなみなみと注がれたカップを受け取って、自分の手指が驚くほど冷えていることに気付いた。







何度も死にかけた。
意識が遠のくたびにあの船の奇妙なガイコツの言葉を思い出し、なにかがやってくるのを期待する。
そしてそのたびに、歯が軋むほど食いしばって涙をこらえた。
ああ、ほんとうの、ほんとうに、死んじまったんだなコラさん。

死のうとしている自分が生きたコラさんから離れていく感覚はちっとも訪れず、ただ痛みとぼんやりとした痺れを残して意識を手放す。
そして目を覚まして、あまりの安堵にえづくのだ。

まだだ、おれはまだ死なない。
だから、まだわからない。
おれが生きている限り、コラさんが生きている可能性はどこかにある。
最期の最期の最期まで、おれは諦めない。


fin.

拍手[6回]


【わがままな男】
 
 
港町というのは魚市場が多く、ゆえに集まる動物は決まっている。
今回麦わらの一味が停泊した街も、絶えずどこからか猫の鳴き声が聞こえていた。
しかしいざログもたまったさあ今夜出航だというその時になって、その鳴き声が彼らの足を引っ張った。
悪いのは猫ではなく彼らの船長である。
ルフィは両手のひらで囲うように黒い毛玉を抱いて船に登った。
 
 
「ダメよ」
 
 
ぴしゃりとナミの声がルフィの嘆願を断ち切った。
 
 
「なんでだよ!」
「当たり前でしょう、動物なんて飼えるわけないわ。エサ代だってバカにならないし…それにいったい誰が世話するのよ。敵襲だってあるのに」
「オレが全部面倒見るぞ!」
「子供はみんなそういうの。さ、早くもといたところに返してきなさい」
 
 
ナミはそれっきりふいとルフィに背を向けて、雲行きを読みに甲板先へと歩いて行った。
ルフィはむっと顔をしかめて、手の中の毛玉を見下ろした。
ルフィの足元でチョッパーが飛び跳ねた。
 
 
「ルフィっ、おれにも見せてくれっ!」
「おぉ、ほら」
 
 
ルフィがしゃがみこんで手の中の毛玉をチョッパーの眼前に示す。
にう、と小さく鳴いたそれはルフィの手の中でもぞもぞと動いて、ぴくんと小さな耳を震わせた。
 
 
「小さいなー…ルフィ、この猫まだ赤ん坊だ!」
「近くに親いなかったんだ。はぐれたのかもしれねぇ。なんか言ってねぇか?腹へったとか」
 
 
チョッパーは小さな黒猫に顔を寄せて耳をそばだたせた。
しばらくのあいだそうしていたが、んん?と唸って首を横に振る。
 
 
「まだ赤ん坊すぎるのかなあ、何言ってるのか全然わかんなかった。でもこんな仔猫だし、腹は減ってるかも」
「そうか!」
 
 
ルフィはパッと顔を明るくすると、きょろりと辺りを見渡してナミの隣でしきりと腰をくねらせているサンジを呼んだ。
 
 
「サンジ!この猫になんか食うもんやってくれよ!」
「あぁ?猫?」
「ちょ、ダメよサンジくん!餌付けたりしたら離れなくなっちゃうわ!」
「いいじゃねぇか、なぁー?」
 
 
ルフィは手の中の猫を危なっかしい手つきで甲板の上にそっと下した。
猫はぽろんと転がるように甲板に尻もちをついてから、ふにゃふにゃとした足取りで立ち上がった。
 
 
「あ」
「あ」
「あ」
 
 
その場にいる3人が同時にまぬけな声を上げた。
とてとてと歩き出した仔猫には、左の後ろ脚がなかった。
 
 
 
【冷たい女】
 
 
「ちょっと、この猫足が」
「ルフィ気付かなかったのか?」
「丸くなってんの拾ってきたから、全然気づかなかった。でもすげぇ、ちゃんと歩いてる!」
「へぇ、可愛いもんだな」
 
 
3本足の猫はサンジの足元へと歩み寄り、何人もの輩を弾き飛ばした黒い足にすいと顔を寄せた。
サンジはすっとしゃがみこんで猫の小さな顎の下を指で擦る。
するとノラとは思えない人懐っこさで、仔猫はその指に頬を擦りつけた。
サンジの頬は知らずと緩む。
それを見て、ルフィは満足げにうなずきナミはさらに顔を険しくした。
 
 
「よし、やっぱこの猫飼うぞ!」
「バカルフィ、ダメって言ったでしょう!?」
「じゃあメシだけいっぱい置いてってやる!」
「懐かれたら困るじゃない!」
「でもナミさん、」
「サンジくんも!飼えるわけじゃないんだから餌なんかやっちゃダメ!だいたい親がいたかもしれないんだから、ノラ猫なんか拾ってきたらいけないのよ」
 
 
サンジはう、と言葉に詰まって眉を下げたままナミを見上げた。
ルフィがフンと鼻息を荒くして仔猫を掬い上げた。
 
 
「ナミはケチだ!つめてぇ!オレはこの猫にメシをやる!」
 
 
ナミはルフィをキッと睨みつけると、ルフィと同じようにフンと息をついて顔を背けた。
 
 
「勝手にしなさい!」
 
 
ぷりぷりと湯気を立てながら、ナミは船室の中に足音高く入っていった。
ドアが荒々しい音を立てて、甲板の床が少し震えた。
 
 
 
【見境のない男】
 
 
「あぁー、ナミさぁん…」
 
 
サンジが情けない声で、ぴっちりしまったドアの向こうへ呼びかける。
そしてはぁと浅いため息をついてズボンのポケットからお決まりの精神安定剤とマッチを取り出し、火をつけた。
 
 
「むやみにナミさん怒らせるようなこと言うんじゃねぇよ」
「オレは悪くねぇ!サンジ、コイツの飯作ってくれよ!」
「あーあー、分かってるよちょっと待ってろクソザル」
 
 
よし!と素直に笑ったルフィは、手の中の仔猫を高く持ち上げて見せた。
黒い毛はノラらしくぼさぼさと毛羽立っていた。
 
 
「じゃあ今からお前のエサ入れ、ウソップかフランキーにでも作ってもらうか!」
「オ、オレもいくぞ!」
「おいちょっと待て、そんな仔猫べたべた触るもんじゃねぇ。人間の力なんざそんなちびた猫にとっちゃあすげぇ衝撃なんだぞ」
「お、そうなのか」
 
 
ルフィは慌てておたおたと仔猫を床に下ろした。
仔猫はのんきにあくびをし、ぱちぱちと黄色い目をしばたかせている。
 
 
「んじゃあおれらがウソップたちのところ行ってる間、コイツのこと任せたぞ!」
「は?」
「よしチョッパー行くぞ!」
「おー!」
「おい、ちょっと待っ」
 
 
サンジの続く言葉は、さっさと駆け出してしまった二人の背中に届くことなくぽとんとそのまま床に落ちた。
仔猫がみうみうと高い声で鳴く。
それがまるで自分を呼んでいるように聞こえて、サンジはため息とともに仔猫をそっと掬い上げた。
 
 
 
食堂の扉を開けると、テーブルにはナミが座っていたので一瞬足を止めてしまった。
それに目ざとく目を止めたナミは、何よと剣呑な声で聞く。
サンジは苦笑でごまかした。
片手に問題の仔猫を持っているのが何とも気まずい。
 
 
「いやあ、ナミさん部屋戻ったのかと思って」
「いいでしょ別に。喉乾いたの」
「すぐに何かお作りしますっ」
 
 
サンジはせかせかと歩いて、食堂の隅にあったじゃがいもの空き箱に仔猫を入れた。
しばらくここにいなおちびさんと小声で言いつけると、応えるように猫が鳴く。
サンジはすぐさまナミのためにみかんを絞りにかかった。
 
絞りたてのオレンジスカッシュを差し出すと、ナミは小さくありがとうと言って受け取る。
ナミのほうも幾分気まずそうな顔つきである。
その様子に少しほっとしながら、サンジは小皿にミルクを注いだ。
それをじゃがいもの空き箱の中に置くサンジの横顔を、ナミは小さく音を立てて冷たい飲み物をすすりながら眺めた。
 
 
「…サンジくんが猫好きなんて知らなかったわ」
「へ?や、別にそういうわけでもないんだけど」
「お腹すかせてたら放っておけないって?」
 
 
サンジは困ったように眉を下げて笑った。
 
 
「…ほんっと、デレデレしちゃって…」
「なに、ナミさん妬いた?」
「調子にのんじゃないわよバカ」
 
 
それでもサンジはデヘデヘとだらしなく目元を緩めて、そうかそうかと満足げにうなずきながら仔猫を撫でる。
ナミが否定する気も失せてため息をついたとき、食堂の扉が開いた。
 
 
 
【苦手な男】
 
 
「おや」
「あらブルック、」
「よう」
 
 
サンジとナミが現れたブルックに声をかけたにもかかわらず、ブルックは第一声を発したきり再び扉を閉めようとした。
 
 
「え!?ちょっとブルック、」
「おいおいなんなんだよ」
 
 
慌てて二人が声を上げると、狭く開いた扉の向こう側からブルックが少し顔を覗かせた。
 
 
「ヨホホ、いや、若いお二人の邪魔をしてしまったのかと思って」
「ああ、気が利くなブルック」
「バカ!ブルックも、変な気遣うんじゃないわよ」
「いいんですか?」
「いいもなにも、当たり前でしょ!」
 
 
ホラ早くとナミに急かされて、ブルックは「それでは」と扉をくぐった。
 
 
「んで、どうしたブルック」
「いえ、紅茶でもいただこうかと」
「ああ了解、座ってな」
 
 
すいませんサンジさん、と続こうとした言葉は、みゃうとか細い声が部屋の隅から聞こえたことにより飲み込まれた。
サッとブルックが身を固くした。
 
 
「ちょっと、今なんか聞こえませんでしたか」
「ああ、それならそこに猫が」
「ご冗談を。海賊船に猫がいるはずありませんでしょう」
「いやいやそれがな、さっきルフィの奴が」
 
 
みゃうみゃう。
 
ブルックがヒッと小さく声を漏らして骨の身体を文字通りますます固くした。
 
 
「…もしかしてブルック、猫嫌いなの?」
 
 
ナミが意外気に尋ねると、ブルックはこくこくこくと懸命にうなずいた。
 
 
「ね、猫だけはどうも昔から苦手で、というかアレルギーなんです、猫アレルギー」
「え、ほんと?大変、」
「ええ、猫が近くにいると体中痒くって痒くって…」
 
 
そこまで言って、本人も気付いたのか「あ」と声を漏らした。
 
 
「お前痒くなる皮膚ねぇだろ」
「ヨホホホホそうでした!!」
 
 
陽気に笑ったブルックは、しかし猫の潜む箱には近づこうとせず、一番遠い席に腰を下ろした。
 
 
「とはいえやはり、数十年苦手としてきたものと突然和解するのは難しい」
「そうね」
「今でもまだ気持ち的に痒いです」
「なんだよ気持ち的に痒いって」
 
 
サンジが呆れた声と共にブルックの前にティーカップを置いた。
ありがとうございますとブルックが深々頭を下げてカップを手に取ったとき、また台風のように騒々しい男がネコー!と叫びながら食堂の扉を開けた。
 
 
「うるっさいわねぇ」
「サンジッ!猫は?」
 
 
バタンと大きな音と共に部屋の中に飛び込んできたルフィは、顔をしかめたナミを気にも留めずきょろきょろと床の辺りを見渡した。
 
 
「バタバタすんじゃねぇ、埃が立つだろうが。猫はオラ、そこにいる」
「お、ほんとだ」
 
 
ルフィはひょこひょこと猫のいる箱まで近づくと、よいせと箱ごと持ち上げた。
ブルックが心なしかほっとしたような顔をする。
猫はルフィの到来に、びっくりしたように目を丸めた。
 
 
「どこ持ってく気?」
「ウソップがな、飼えねぇなら街で代わりの飼い主を探せばいいって言うからよぉ。ちょっくら探してくる!」
「探してくるっつったってお前、んな簡単に見つかるかよ。ただでさえ猫の多い街だ」
「いいんだ、おれはやる!」
 
 
猫の箱を抱えたまま、勇んで出かけようとするルフィをナミがちょっと待ってと呼び止めた。
 
 
「そういえばアンタ、まだ服出してないでしょう。ほつれたところ直してあげるから出しなさいって朝言ったのに」
「えぇー、いいよぉめんどくせぇ」
「バカ言ってないでさっさと選んで持って来なさい。他の奴らのはもうみんな直しちゃって、アンタのだけなのよ。ただでさえ無茶するからボロボロなのに」
「新しいの買えばいいだろ」
「冗談」
 
 
ハッと吐き捨てたナミの顔を見て、ルフィは反抗する言葉を飲み込んだ。
新しい服も靴も装飾品も、男連中より圧倒的に買う頻度が多いナミにそれについて反論することは無駄だとさすがのルフィも学習済みである。
ルフィはぶすくれた顔で、「じゃあこいつはウソップに預けてくる」と不満げに言った。
 
 
「そうしてちょうだい」
 
 
あーあつまんねぇ、とこぼしたルフィは渋々と猫の箱を抱えたまま食堂を後にした。
仔猫は箱の中で振動に揺られてコテコテ転がっていた。
 
 
 
【本当を言わない男】
 
 
「というわけで、だ」
 
 
ウソップは猫の箱を抱えて、ひとり波止場に突っ立っていた。
ルフィに押し付けられて、つい「お、おう」と受け取ってしまうのはいつものことだ。
ウソップはいつだってルフィの勢いに巻き込まれてしまう。
それを見ていたチョッパーが、オレもいくとウソップについて一緒に船を降りた。
行くかと互いに頷き合って、二人は街へと歩き出した。
 
 
「飼い主、みつかるかな」
「さあなぁ…親がいりゃあ一番いいんだけど」
「黒猫の親は黒猫か?」
「やー、そういうわけでもないんじゃねぇの」
 
 
チョッパーは、「オレがちゃんと言葉分かればいいんだけど」と心なしかしょんぼりと耳を垂らした。
ハハッとウソップは明るく笑う。
 
 
「人間だって赤ん坊が何言ってるかなんてわかんねぇだろ。気にすんな」
 
 
さあ一軒目だ、とウソップは適当に目を付けた家の戸をノックした。
 
 
「猫なんて飼わなくてもそこらじゅうにいるしねぇ」
「あら黒猫じゃない、だめよ黒猫は」
「まだこんなに小さい猫、どうして拾ったんだ」
「足がたらないんじゃ、ネズミも取れないから」
 
 
手当たり次第声をかけた家の主は、みな口を揃えてこのようなことを言って渋い顔をした。
箱を抱えて歩くウソップも、そのあとをついていくチョッパーも次第に士気が下がってくる。
こんなことをしていると自分が海賊であることを忘れてしまいそうだ。
箱の中の猫は自分が渦中にいるとは知らず、ミルクで満たされたおなかを抱えて丸くなっていた。
 
 
「よし、次こそ決めるぞ」
「おぉ、ウソップなんか作戦があるのか!?」
「あぁ任せとけ」
 
 
ウソップは町のはずれの大きな一軒家の戸を叩いた。
扉を開けた使用人らしき若い娘の鼻先に、ウソップはずいと猫を突きつけた。
使用人はぱちぱちと瞬いた。
 
 
「突然すまねぇオレはとある旅の男なんだが、この子猫の親猫と一緒に旅をしていてな。少し前にその猫からこいつが生まれたんだが、生まれながらにして足が一本足りてねェ。そんなこいつを薄情な親猫は見捨てちまって育てなかったんでおれがここまでこいつを育てた。しかし足の不自由なこいつを旅に連れていくことができねぇんだ。どうかこいつをオレの代わりに養ってやってくれないか。こんな大きなお屋敷のご主人ならさぞ心も広かろうと思ってこうして頼んでるんだ、どうか頼むよ」
 
 
とウソップが一息に喋るのを、使用人の娘も隣のチョッパーもぽかんと見つめて聞いていた。
よくもここまでぺらぺら口が動くものだとチョッパーが感心したその時、使用人の娘はふと目元を緩めながら猫の顎を擦った。
 
 
「かわいい」
 
 
仔猫はごろごろと喉を鳴らす。
これはきた、とウソップとチョッパーがぐっと拳を固めたそのとき、娘は「でもごめんなさい」と悲しそうに眉を下げた。
 
 
「うちのご主人は、猫がお嫌いなんです」
 
 
猫を敷地内に入れたら私が怒られてしまいます、と使用人は何度も頭を下げつつも早々と大きな扉を二人の目の前でぴしゃりと閉めてしまった。
ウソップもチョッパーも、ぬか喜びのむなしい余韻を握りしめてしばらくの間呆然と玄関口に立っていた。
 
 
「…帰るか」
「うん…」
 
 
ウソップは猫を箱の中に戻して、チョッパーと二人、とぼとぼ港の方へと下っていった。
 
 
【子供すぎる男】
 
 
船のタラップを上がると、日陰になった芝生の上でゾロが大いびきをかいていた。
船を降りたときにもここにいた気がする。
まったく平和なヤツだとウソップは隠すことなく大きなため息をついた。
チョッパーは箱の中から猫を取り出すと、芝生の上にそっと下ろした。
 
 
「ナミが飼ってもいいって言ってくれればなー…」
「そりゃあねぇよ。多分」
 
 
そういうと、チョッパーは少しむっとした顔つきでウソップを仰ぎ見た。
 
 
「なんでだよっ」
「だってナミの言うことは全部もっともだ。うちは貧乏だし、敵襲のときとか猫がいたら大変だろ」
「でもこんな小さい猫、ここにおいて行ったらすぐに死んじゃうぞ」
「…弱肉強食ってやつかなぁ」
 
 
チョッパーは納得のいかないと言った顔でうつむいた。
断固として飼わせてくれないナミも、早々と諦めてしまったウソップもみんなみんな冷たい。
船室で飼えばいいじゃないか。
おれたちが守ってやればいいじゃないか。
こんな小さな仔猫一匹くらい、人間離れした奴らが集まるオレたちなら簡単に守ってやれるじゃないか。
 
 
「アァ?なんだこいつ」
 
 
むすりと口を引き結んでいたチョッパーは、少し先から聞こえてきたゾロの声にハッと顔を上げた。
上体を起こしたゾロは仔猫の首元をつまんで顔の前まで持ち上げていた。
いつのまにか仔猫が自分で歩いて行ってしまったらしい。
 
 
「うあっ、ゾロっ、そんな持ちかたしちゃだめだ!」
「なんだ、こいつお前のかチョッパー」
 
 
チョッパーが慌ててゾロのもとへ走り寄ると、ゾロはぱっと猫をつまんでいた手を離した。
チョッパーがひっと息を呑む。
しかし仔猫は空中でひらりと身を返して、3つの足ですたりとゾロの膝の上に着地した。
 
 
「ルフィが拾ってきたんだ」
 
 
ウソップがチョッパーの後ろから声をかけた。
ゾロは興味なさそうに膝の上の黒い毛玉を見下ろしている。
 
 
「ナミが…飼っちゃダメだって」
「あたりめぇだ、こんなちいせぇの」
 
 
ゾロは固い指先で仔猫の頬に触れた。
ここでも猫は物おじせず、ゾロの指にすり寄っている。
しかしチョッパーはゾロの例に洩れない言いように、やはりむっと眉を寄せた。
 
 
「んで、コイツぁどうする気なんだ」
「それがよ、代わりの飼い主探しに行ってたんだけど見つからなくて」
「てめぇらも大概暇だな」
「年中寝太郎のお前に言われたくねぇよ」
 
 
サンジだったら食って掛かるところをウソップの言葉であればゾロは必要以上に波立たせない。
ゾロは「違いねぇ」と笑った。
 
 
「じゃあちょっとゾロ、その猫預かっといてくれよ。みんなにどうすればいいか相談してくるから」
「おぉ、そうしてくれ。そいつもお前の膝の上が寝心地良さそうだし」
 
 
ハッ?と怪訝な顔をするゾロを残してチョッパーが、そしてウソップがひらりと手を振って歩き去っていく。
仔猫はゾロの膝の上であくびを一つして、くるりと身体を丸めて眠りの体勢に入った。
ゾロは去っていく二人の背中を眉を眇めて見つめ、それから膝の上の黒い毛玉を見下ろして、まぁいいかと再び身体を倒したのだった。
 
 
 
【言葉の足りない男】
 
 
潮風がさわさわと髪を撫でる。
すっかり寝落ちていたゾロの顔の上に、軽い重みがとさりとのしかかった。
埃臭いような獣くさいような何とも言えない匂いが鼻を塞ぐ。
ゾロはアァン?と不機嫌な声を発して目を開けた。
とたんに瞼の上に弾力のある小さな肉球がのしかかる。
 
 
「うおっ、なんじゃぁこいつは」
 
 
ゾロが慌てて上体を起こすと、仔猫はコロコロとゾロの身体の上を転がって再び膝の上に着地した。
そういえばこんなのいたな、とゾロは寝落ちる前の出来事を思い返した。
あたりを見渡しても誰もいない。
いい天気だというのに全員船室に引きこもりと見た。
ルフィでさえいないのは珍しいな、とゾロはそこはかとなく考えながら大きな欠伸を一つした。
 
 
「あら、可愛かったのに」
 
 
起きてしまったの、と鈴のような声が左側から聞こえた。
少し離れたところで、ロビンは欄干にもたれて本を広げていた。
 
 
「…テメェいたのか」
「あなたがあんまり気持ちよさそうにそのこと寝てるから、うらやましくて」
 
 
いい天気ねとロビンは空を仰いだ。
つられてゾロも顔を上げた。
海鳥が旋回している。
 
 
「他の奴らは」
「部屋でその子について会議でもしてるんじゃないかしら」
「会議っつって…こんなもん置いてくしかねぇだろ」
「そうね」
 
 
ロビンはゾロの言葉を淡泊に受け止めて、ぺらりと本のページを捲った。
ゾロは何となく、その白い指の動きを横目で追う。
 
 
「心配だものね」
「何の話だ」
「その子の話よ」
 
 
オレはなにも言ってねぇ、というとそうかしらとロビンはゾロのほうを見ることなく微笑んだ。
なんとなくゾロは舌打ちを漏らす。
 
突然仔猫がすっくと立ち上がった。
転がるようにゾロの膝の上から芝生へと降り立つと、ぽてぽてとロビンの方へと歩いていく。
 
 
「あら」
 
 
ロビンが本を閉じた。
仔猫は何か言うように、ロビンの顔を見上げてみゃあと鳴いた。
ロビンは仔猫に手を伸ばして、しかし触れる寸前で少しためらう。
ゾロが目を細めた。
 
 
「…お前、猫嫌いなのか」
「いいえ、違うわ。少し…小さすぎるから」
 
 
怖いわ、と小さく呟いてからそっと猫を抱き上げた。
その指の動きは、本を触っている時のようになめらかで柔らかい。
 
 
「悪魔の女が猫にびびんのかよ」
「あら、酷い言いようね」
 
 
ロビンは抱き上げた仔猫を、鼻と鼻がくっつくくらい近くまで持ち上げた。
 
 
「でも黒猫は魔女につきものよ。似合うでしょう」
 
 
ゾロが口を開いたそのとき、ドカドカと荒々しい足音が甲板にいくつも降り立った。
 
 
 
【鉄でできた男】
 
 
ある男は手にサーベルを、またある男はハンマーを、とあらゆる武器を手にした海賊風情の男たちが下卑た笑いと共に甲板に足を下ろしていた。
その数ざっと30人ほど。
芝生の上に座り込んでいたゾロとロビンは、きょとんとその男たちを見つめた。
 
 
「海賊かしら」
「同業者だな」
「もう出航だって言うのに」
「こりゃ夜まで待ってられねぇな」
「ゾロひとりでお願い」
「テッメェ、いっつもいっつも押しつけやがって」
「平気でしょう」
「一人たのしそうに傍観するなと言ってんだ」
 
 
ゾロとロビンがまったく腰を上げようとせずにふたりでぽんぽんと会話を進めていく様子に、敵襲を仕掛けたはずの海賊たちは一瞬虚を突かれたようにたじろいだ。
しかし次の瞬間には熱気を振りまいて威勢のいい声を上げた。
無視するな、相手しろ、と騒ぐ声は大きさを増し、船室の扉がばたんと開いた。
 
 
「ぎゃぁっ、敵襲だ!」
 
 
大きな物音を不審に思ったらしいウソップが、目の前に突如現れた30人のむさくるしい男たちの姿を見て叫びを上げた。
なんだなんだとルフィたちが船室から飛び出す。
ロビンがふふっと笑った。
 
 
「取られちゃうわよ、獲物」
「おかしな言い方すんじゃねぇ。ったく、真正面から突っ切ってきやがってあいつらバカか」
 
 
たとえ寝込みを襲ったところで切り捨て御免なのは確実であろうが、ゾロは呆れたように息をついた。
ロビンは抱き上げていた仔猫を芝生の上に下ろす。
 
 
「それじゃあさっさと片付けてしまいましょう」
 
 
ふわりと花の香りが鼻腔をかすめる。
ゾロが柄に手をかけたのと、ルフィが「戦闘だぁ!!」と嬉しそうに叫んだのは同時だった。
 
 
 

 
 
ルフィが殴り飛ばした男が飛んで行った先は、ちょうど買い出しから帰ってきたフランキーのちょうど鼻先だった。
 
 
「ウォウ!あっぶねぇなルフィこの野郎!」
「おうおけーりフランキー!」
 
 
ルフィが陽気に手を上げる。
フランキーが甲板に足をつけたころには、既に名もなき賊たちはボロボロで、感心なことにまだ数人が何とか立っているだけだ。
フランキーは担いでいた大きな木箱を足元に下ろして戦況を見渡し、ん?とある一点に目を止めた。
 
 
「オイっ、なんだその猫はっ」
 
 
フランキーが指さした先に、全員が視線をやる。
ロビンがあらと呟いた。
甲板の隅にいたはずの仔猫は、いつのまにか奔放と闘いの中を歩いていた。
 
 
「おいお前っ、危ねぇぞ!」
 
 
チョッパーが慌てて走り寄るが、満身創痍の敵の一人が気付く方が早かった。
 
 
「んだぁこのチビは、邪魔くせぇ!」
 
 
男が足を振り上げる。
みっ、と鳴き声ともつかない声が全員の耳に貼りついた。
小さな黒い点が、ひゅんと真横に飛ぶ。
その身体はちょうどフランキーの腹部にぶつかった。
フランキーが呆気にとられて固まった間に、仔猫はフランキーの身体からぽとんとはがれ落ちた。
動かない。
 
 
「っあああ」
 
 
仔猫へと手を伸ばしかけていたチョッパーは、そのまま人型へと変わり大きな拳で男を殴り飛ばした。
男は声を発する隙もなく、欄干を超え海へと落ちる。
リーダー格らしいその男の姿が消えると、残っていた男たちは蜂の子を散らしたように慌てふためき始めた。
逃げようと自ら海へ飛び込む者もいる。
彼らの足はゾロの飛ぶ斬撃によって掬われ、あっという間に船の外へと吹き飛んだ。
残るのは一味と、甲板の上に横たわる手のひらほどの大きさしかない小さな死骸。
フランキーは腹にぶつかった小さな衝撃の原因を、唇を引き結んで見下ろしていた。
 
 
 
【慣れすぎた女】
 
 
ナミがすたすたと無言で歩み寄り、フランキーに向き合うように立ち止まった。
視線は足元に落ちている。
ナミの手がふらりと揺れる。
その手は横たわる黒猫に向かって伸びたかのように見えた。
しかしナミはしゃがみこむことなく、伸びかけたその手もぎゅっと握りしめた。
 
 
「…だから言ったでしょう」
 
 
ナミの背中を見て、チョッパーがぽろぽろ涙をこぼした。
食いしばる歯に伝わる震えから悔しさがにじみ出る。
ウソップがチョッパーの頭を軽く撫でた。
 
ナミは迷いのない足取りで、猫の死骸から踵を返した。
 
 
「その辺で伸びてる残った奴ら、適当に海へ捨てといてちょうだい。その猫も、グロテスクな内臓なんて見たくないわ」
 
 
ナミさん、とサンジが迷うような声をかける。
横たわる猫の口からは確かに、衝撃で飛び出た臓器が覗いて血が滲みだしていた。
ナミはサンジの声を無視して足を止めない。
そうしてロビンの隣を横切り船室へと引っ込もうとしたその時、ナミの髪を花の香りがする風が揺らした。
 
 
「こういう血には慣れてるし」
 
 
ナミが振り向くと、ロビンの背中とフランキーの足元に生えた白い手が二本、猫の身体を持ち上げているのが見えた。
つうっとその白い肌を下へ下へと赤い筋が伝う。
 
 
「私にはたくさん手があるから、汚れても平気なの」
 
 
お墓を作りましょうね、と穏やかに微笑むロビンの背中に、ナミは子供のように泣きついた。
 
 
 
 

 
小さな街の、猫がたくさんいる港。
そこで唯一護岸工事のされていない狭い浜辺に小さな穴を掘った。
木の枝で組まれた十字の横で、みかんの枝がかさかさと潮風に揺れている。
 
 

 
 
とあるやさしい海賊のはなし

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数週間悪天候に見舞われ、次の島への到着が予定よりもだいぶと遅れたころのことだった。
腹が減ったと唸りがなり駄々をこねるルフィがぱたりと甲板にあおむけに倒れ伏したその時、おれたちの上空に大きな影が差した。


──鳥だ!でけぇ!
──よしアレ食おう!!


全員が喉をそりかえらせて見上げた大きな怪鳥は、ばさりと優雅に身をひるがえして船を離れていく。
ルフィが慌ててその腕を目いっぱい伸ばした。



──駄目だ、アイツ速ぇっ。
──撃ち落とそうか?
──いくらお前でも届かねぇだろ、上に向かってじゃあ。
──うしっ、じゃあコレだ!



ルフィがはっしと親指を咥え込んだ。
すぐ隣にいたおれには、ルフィの骨がみしみしと軋む音が聞こえた。
巨人の太い腕が空高く伸びていく。
ルフィの膨らんだ指がその鳥を、まるで小さな玩具を扱うようにつまんだ。


──やった!


つままれた怪鳥は、ぴええぇぇと悲痛な叫びをあげてルフィの腕と共に落ちてくる。
芝生の甲板に叩きつけられた鳥は、茶色いまだらの羽をそこらじゅうに撒き散らかして、それからぱたりと動かなくなった。
ナミが少し嫌な顔をした。


──でけぇな。
──でかしたルフィ、これで一週間は持てるだろ。
──羽をむしるの、手伝いましょうか?


地面から生えた幾本もの白い手がしなやかに動いてぶちぶちと羽をむしっていく様を想像して皆がぞっと顔をしかめたそのとき、おれの頬にポトリと水滴が当たった。


──ああ、また雨だ。
──今回のは長く続きそう、波も荒れてきたわ、みんな持ち場について。
──おー…ってルフィ、お前そんなとこいると危ねぇぞ。ただでさえ小さくなってんだから。
──だいじょうぶだいじょうぶ…


ちょこんと、小さな身体が船べりに腰かけて足をぶらぶらさせている。
大きな鳥を捕まえられたのがよほどうれしかったのだろう。
相変わらずちいさな子供のように黒い瞳を輝かせて、笑っていた。


──あ。


ルフィの背後を、もりもりと高くなる波が黒く塗りつぶしていく。
それは生き物のようにうねり、真っ黒の水がルフィを呑みこんだ。
逃げるように引いていった波が消えると、そこにルフィはいなかった。



──ルフィ!!



ダンと荒波が船を叩く。
その音と、ゾロとサンジが海に飛び込む音が重なった。



──ゾロ!サンジ!


一緒になって飛び込もうとしたチョッパーを押さえていて、ルフィを助けに海へ飛び込むことはできなかった。
フランキーがばさりとアロハシャツを脱ぎ捨てて船べりに足をかける。


──ダメ!フランキー、舵を取って!!ブルック、部屋から毛布をありったけ!!



フランキーの小さな舌打ちが聞こえた。
激しくなった雨粒が砂鉄のように顔面を打ち付ける。
泣き叫ぶチョッパーを船べりから引きはがし、おれはマストに上った。
目の前が霞む。
畳んだ帆をおれはさらに強い力で締め付け直した。


──風が強い……流される!!3人は!?
──あそこよ!ゾロとサンジが…!


二人の頭が同時に海面に上がったところだった。
しかしすぐにふたりとも、唸り声を上げる海の中へともぐりこんでいく。
再び大きな波が船を傾けた。



──これ以上海に入ってたらゾロとサンジくんともはぐれる!!二人を船に戻して!
──待てよナミ!ルフィ、ルフィは!!
──……早く二人を!!



ロビンの手のひらからまたたくまに連なった腕が伸びていく。
まずひとつ、ぽこりと黄色い頭が浮かんだ。
ロビンはサンジの肩の服を掴んだ。



──しっかり持ってろ!!


フランキーがロビンを抱きすくめ、その腕を引っ張り上げる。
ロビンが大きく顔をしかめた。
端正な顔がいつも以上に白い。
サンジはトビウオのように海面から浮かび、勢い良く甲板へと戻ってきた。
ごぼっと咳き込んだサンジは、かじりつくように欄干を掴んだ。
次に、ずっと離れたところで緑の頭が浮かび上がる。
ロビンが再び腕を伸ばすと、ゾロは伸びてくる腕を確かに見た。
しかしゾロはロビンがその服を掴むよりも早く、再び海に潜った。


──ゾロ!!
──アイツ!


真っ黒な波が雨に交じって船の上に覆いかぶさった。
全員がサニー号に噛り付くようにして押し流されないよう力む。


──埒があかねぇっ


フランキーが金属音を響かせて先ほどゾロが潜ったあたりまで左手首を伸ばす。
そして海の中へと突っ込んだ。
やみくもに動かしただけの割に、あっさりとゾロが見つかった。
床にたたきつけられたゾロは、背中を丸めてうずくまったまましばらく動かなかった。
ゾロを囲むようにして立ち尽くすおれたちに雨は容赦なく突き刺さる。
ゾロは黙ったまま甲板に拳をぶつけた。
サニー号は痛んで悲鳴を上げた。









ざくざくと波が船にぶつかる音を聞きながら、おれたちはただ立ち尽くしていた。
船室にルフィ以外の全員が避難しても誰も体をふくこともなく全身から雨と海水を滴らせて、惨めに、無様に、床ばかりを見つめていた。


「……雨が止んだら、すぐ探しに行こう」


チョッパーがぽつりと呟いた。
ナミの髪からてんてんと水滴が落ちる。


「……明日の朝になっても、止んでいるかどうか」
「でも探しに行こう。行くだろ?」


当たり前だ、とおれひとりのかすれた声が船室にぽんと浮かんだ。
チョッパーは同意に安心したのか、少し頬を緩める。


「このままここにしばらく停まってるこたぁできねぇのか?」
「無理よ。ここは水深が深いから錨も下ろせない。波も荒いから危険。それに……ルフィはきっともう流されてる」
「……じゃあ、どうするんだ」



ナミはおれの言葉に、ゆっくりと顔を上げた。
その頬も魚の腹のように白い。



「ログの指す方へ向かうわ」


ブルックが黙ったまま素早く顔を上げた。
眼球のない真っ黒の穴は愕いてナミを見つめていた。


「待てよナミ!ル、ルフィは」
「ここにいてもルフィは見つけられない。それに……私たちの食料がなくなる」
「ルフィは泳げないんだぞ!!」
「こんな波じゃ常人だって泳げないでしょう!」


荒げたナミの声に、チョッパーがびくりと肩をすくめた。
その様を見て、ナミは気まずそうに目を逸らす。
再び嫌な沈黙が落ちた。


「アイツは死なねぇ」


うわ言のようにサンジが呟いた。
ああ、死なねぇとゾロが続く。
まるで遠く離れた場所にいる何かをじっと見据えているみたいに、二人の目は動かない。


「処刑台から何度も降りてきた男だ。能力者だろうとなんだろうと、海に落ちたくらいで死ぬようなタマじゃねぇよ」
「そ、うだ!ルフィはどっかの島に流れ着くに違いねぇ!!」
「海王類に助けられてるかもな!!」
「ヨホホホホクジラさんが助けてくれるんじゃないでしょうか!」


そうだそうに違いねぇと、おれたちは口々に言い合った。
ロビンでさえ、「船長さんなら泳いでしまうのでは」なんて言って少し笑っていた。
この近くに島なんてないことも、海王類が人間なんて餌同然に思っていることも、ルフィが泳げないことだって、誰もがわかっているのに。
わかっているなんて怖くて口にできなかった。
おれたちはそれを何度も繰り返し言えばいずれ真実になるような気がして、飽きることなく、びしょ濡れのまま、ルフィが生きているはずの理由を探し続けた。

船はログに従う。








翌日の昼前まで、雨は続いた。
波は高くサニーの頬を濡らし続ける。
ナミが机の上に海図を広げて視線を落としたまま動かなくなって、もうしばらく立つ。

ゾロは展望台で海を見つめ続けた。
サンジは温かいスープを九人分作った。
チョッパーは医務室から出てこない。
ロビンはナミの向かいの席で黙ってコーヒーをすすっていた。
フランキーは潜水艇が荒波の中でも上手く作動するよう工房にこもっている。
さっき男部屋で、ブルックがルフィの脱ぎ捨てた服を手に取っていた。
そしておれはこうしてなすすべもなく、水平線ばかりを眺めている。
ときおり食堂に戻ってロビンと二言三言かわすも、景気のいい言葉なんて現れるはずもない。



医務室の前を通りかかると、中からぐずりと水音がした。


「チョッパー?入るぞ」


ドアを開けると、薄暗い中ぼんやりと小さな影が浮かんでいた。
独特の、消毒薬のにおいがすうっと鼻を通る。
チョッパーの小さな耳がぴくんと跳ねるように動いたが、回転いすの上で縮こまるようにして俯いている顔はおれの方を見ようとはしなかった。


「チョッパー?」
「おれいやだ」


おれが室内に入り扉を閉めると、外から入り込んでくる光が一気に減った。
そのためチョッパーの姿が見えなくなってしまったが、すぐに目が慣れた。
チョッパーはこちらを見ていた。
大きく丸い目が、暗闇の中でも湿って揺れているのがよくわかる。


「ウソップ、こんなのおかしいよ」
「チョッ……」
「おかしいだろ、おかしい、おかしすぎる。ナミも、サンジも、ロビンも、みんなみんな」


まるでおれが責められているようで、頭は早く目を逸らしてしまいたいと思っているのに視線は一ミリたりとも目の前の小さな生き物から動かなかった。
チョッパーの目からほろりと滴が落ちた。


「なんでみんな、へ、へいきに、ルフィを放っていけるんだよ」
「平気なわけないだろ」
「それでも、おかしい、変だ。食料なんて、みんなで釣りすればいい。次の島になんていかなくていい」
「そうやって上手くいかねぇってアイツらにはわかってんだよ」
「ルフィが乗ってない船を進めるなんて絶対変だ!!」


チョッパーの声に扉が軋んだ。
おれは目を丸めて佇むしかできなかった。
チョッパーの顔はもうどろどろに濡れている。
ふわふわのはずの毛は涙でかさついて、その下に隠れた肌に張り付いていた。



「ルフィは泳げないんだぞ!それに、の、能力者は泳げないだけじゃない、もがくのだって難しいんだ。力が抜けて、苦しくて、塩辛い水が流れ込んできて、むせるとまた水を飲んで、そんでまた苦しくて」
「やめろよ」
「どこかに流れ着くなんて、そんなことがあるならおれたちがとっくにその島に辿りついてる。海王類に見つかったら食べられて終わりだ。そんなことになる前に、おれたちはすぐルフィを探しに行かなきゃなんねぇのに」
「チョ」
「なんでわかんねェんだよ!!」


それだけ叫んで、ぱたりと電池が切れたように机に伏してしまったチョッパーにおれは取りつくしまもなく、そのまま黙って部屋を出た。
情けなくも気圧されたようで、しばらく歩くことができず医務室の扉に背中を預けた。


ルフィが生きているとか、死んでいるとか、そんな心配を今までしたことがなかったから、心配の仕方がよくわからないんだろう。
アイツが闘いに負けたらとか、また無茶をしたらとか、そんな心配はしたことがあるけど、生き死にの心配をルフィに当てはめるのはそれこそ変な気がしてしまう。
今まで誰よりも近くでルフィの、みんなの命を預かってきたチョッパーは、ルフィの生死が自分の手にゆだねられなかったことが悔しいみたいに、怒っていた。


「ウソップ」


サンジがひょこりと食堂から顔を出した。


「飯だ」
「おう、チョッパーにも」
「アイツ食うか?」


首をかしげるおれに、サンジはあくまで煩わしそうに眉をしかめて後頭部のあたりをガシガシと掻いた。


「おれがあとから持ってくわ」


冷める前にお前は食え、とサンジはドアの向こうに頭を引っ込めた。
カツカツと下から上がってくる細い足音はブルックだろう。
おれはようやく医務室の扉から背中を引き剥がし、食堂へと足を動かした。

食料不足だと数日前からサンジは唸っているが、だからと言って急に食事が貧しくなるなんてことは一度もなかった。
素人が見ても栄養バランスは最高だとわかるし、なにより旨い。
フランキーはすでに机に頬杖をついており、おれに続いてブルックが入ってきた。
少し遅れてゾロも。
ナミとロビンが配膳を手伝っていた。


「量はちょいと少ないかもしれねぇが、我慢してくれ」


サンジはまるでそれが罪であるかのように申し訳なさそうに言った。
文句をいう奴なんてひとりもいない。
せめてひとりでも文句の一つ言ってくれていたら、少しはこの空気も軽くなったかもしれないのに。

温かいスープを飲みパンをかじると泣きたくなった。
おれはルフィのいない船で、なにメシ食ってんだろう?








その日の日が沈む前、幾分波が穏やかになったのでフランキーが潜水艇で探索に行った。
ナミは潮の流れが読めないから闇雲に探すしかないと言っていた。
ルフィはみつからなかった。

次の日の朝は、雲は多いがところどころ青色が覗く、風も凪いだいい空だった。
島影は未だ見えず、穏やかな風は一向に船を進めてくれない。
船底では懸命にパドルが動いているが、コーラ節約のためエコ運転中だ。
とろりとろりと水面に漂うおもちゃの船のように、サニーは海の真ん中に浮かんでいた。


展望台を上っていくと、金属と少しのゴムのにおいが鼻をかすめる。
そっと部屋の中をのぞくと、思った通りの背中が見えていた。
猫背気味の背中から滲みだすゾロの気迫は、今日は、いや一昨日のあの時から少しずつ増している。
それは同じ船に乗って同じ日々を過ごし背中を預け合う(おれには預けられないかもしれないが)仲であるからこそわかることのひとつだ。
しかしそれに反して、ゾロの背中は、日に日に薄くなっていた。
水彩画が少しずつ水で滲み溶けていくように、薄く、薄く…


「ゾロ。見張り代わるぜ」
「いい」
「よくねェよ。お前いつからそこにいると思ってんだ?ケツ床擦れしちまうぜ」
「筋トレするついでだから、いい」


ゾロはかたくなにこちらを見ようとしなかった。
ギンと鋭い視線を景色の変わらない海面に投げかけ続け、そうしていればいつかぽこりとあの麦わら帽子が浮いてくるんじゃないかと待っているかのように。

ルフィという大きな存在を見失って、それでもこうしてばらつかずにいられるのは、ゾロの力によるところが大きい、とおれは思う。
こいつがいなければおれたちは行く先もわからない。
本当の行き先へと船を導くことができるナミにおれたちが従うこともできなかっただろう。

諦めてゾロに背を向けると、背中合わせのまま名を呼ばれた。
首だけで振り向き、うん?と返す。


「島は。ナミはなんて言ってる」
「ああ…まだ先になるらしい。舵がとれる天候になったけどスピード上げらんねぇし」


そうかとゾロは呟いた。
なあゾロとおれは呼びかけた。


「ルフィ、見つかるよな」


ゾロの背中は猫背のまま動かなかった。


「死なないもんな、アイツ」


動かない背中はしばらくそのままで、少ししてようやくああと返ってきた。
おれは満足して部屋を出た。










その日の夕食時には、チョッパーが食堂に来た。
愛らしいはずの瞳は陰鬱そうで、それでも出されたサンジの料理はきちんと平らげて、とてとてとおぼつかない足取りで医務室に帰っていった。

今日の夕食は、パン二つと、野菜のスープと、鶏肉のソテー。律儀にみかんシャーベットのデザートまで。
肉が今日でなくなると、サンジは言った。
悪いことと言うのは重なるものだ。
ルフィが海に落ちる事件がなくても、我が船の食糧事情は深刻になっていたに違いない。
しかし、大丈夫だお前らの飯の面倒はおれに任せろと笑うサンジの頬は不健康そうだったが、その笑顔におれたちが幾分か救われたことは間違いない。

そしておれは相も変わらず、こうして今日もパンをかじっている。
隣に座ったブルックは、何を考えているのか厨房で忙しく動くサンジの背中をじっと見ていた。




翌朝は早く目が覚めた。
船底からぶるんと起動音が聞こえたからだ。
寝そべったまま、フランキーがまたルフィを探しに行ったのだとわかった。

食堂の扉を開けると誰もいない。
朝食の仕込みで朝の早いサンジもまだいないところを見ると、おれはどうやら相当早く起きてしまったらしい。
次第に脳が目覚めてくるのにあわせて、腹のほうも朝飯を期待してぐるるとうるさい。
ちょっと黙れと腹に喝を入れて、暇つぶしでもしようかと図書室へ向かった。

めったに足を踏み入れる場所ではない。
だからか、何となく遠慮がちにドアを開けた。
そして驚いた。
ロビンが座って本を読んでいる。


「ロビン!?」
「あら、おはよう」
「はよ、って、おめぇも朝早いな」
「ええ、本を読んでいて」


らしいな、と呟いておれはぐるりと辺りを見渡した。
書棚の前をなんともなしに歩いていく。
本棚に並べられた書物たちが怪物のように圧倒してくる気がして、本を手に取ることもなくうろうろと所在なくさまよった。
ちらりと端目でロビンを見てみると、ふわあと口を開けてあくびをしている。
なんだ眠いんじゃないかと少し笑ってから、ふと思い当った。

ロビンはいつも夜、サンジにコーヒーを入れてもらっていた。
就寝前の一杯の割にロビンが飲むコーヒーはいつも濃い。
宵っ張りのロビンはそれを飲みながら本を読んでいて、眠るのは2時ごろになることもしょっちゅうだといつだかナミがこぼしていたことがある。
それにおれは、ナミがロビンを起こしに行く場面に何度か遭遇している。
その日の天候と船の進み具合をチェックするために朝の空と海を目視するナミと違って、意外とロビンは朝に弱いのだ。

そんなロビンが今日は朝に、しかもわざわざ図書室で本を読んでいる。
おれの視線に気付いたロビンがこっちを見てはにかんだ。
あくびをしているところを見られたと思ったらしい。
おれはすぐに言葉が出てこなかった。
そんなもどかしい語彙たちを、喉に手を突っ込んでひっぱりだすようにしてようやく声を出した。


「ロビン、お前寝てねぇのか?」


口元にあてた手をぴたりと止め、ロビンはついとおれをみた。
そしてまた、あくびがばれたことに照れたのと同じ表情で笑った。


「そうだな?寝てねぇんだな?一昨日からずっとか?ここから海見てたのか?」
「そんな矢継ぎ早に質問しないで頂戴」
「眠れねぇのか?それともわざと寝ないのか?」
「どっちもよ」
「どっちもって……」


ロビンはソファの背にもたれたまま、首を回して窓の外に目をやった。
相変わらず重たく水分を含んだ雲がたちこめている。


「昔、心配事がある時は寝ないようにしていたの。そういう心配って必ず当たったから。すぐに逃げ出せるように、ね」


寝ないようにしていた習性のため、条件が当てはまれば今でも眠れなくなる。
大丈夫よとロビンは歌うように言った。


「あまり疲れてはいないの。敵襲もないし、あれから嵐もないし」


チョッパーだって気付いてない、大丈夫。
そう言ってふわりと笑う。
ロビンはパタンと膝の上の本を閉じた。


「そろそろコックさんも起きてるんじゃない?コーヒーを入れてもらおうかしら」


豆は切れてないみたいでよかった、と呟きながらロビンは部屋から出ていった。
逃げた、と思った。



ルフィがいなくなって、おれたちの中心がすっぽり抜けてしまった。
でもそれだけじゃなかった。
おれたちの行く先、未来が、またたく間に見えなくなってしまったのだ。

おれたち8人は断崖絶壁に並んで立っている。
先にあるはずの未来が抜け落ちてしまったから、一歩でも踏み出せば落ちてしまう。
つま先が崖を削るほど、もう、ギリギリだ。
危うい均衡をどうにか保ってオレたちはまだそこに立っていられるが、少しでも風に背中を押されれば簡単に足元をすくわれる。

このままじゃ誰かが倒れ落ちてしまうのは、目に見えていた。










ルフィとはぐれて四日経った。
せめてあいつの草履だとか、大事な麦わら帽子だとか、何でもいいから流れてこればいいのにと考えなしに思う。
でも流れ着いたそれらのモノを見て平常心でいられるだろうかと考えて、すぐに無理だと思った。

サニーのエネルギーであるコーラ樽は日に日に軽くなっていく。
懸命にパドルは動いてくれているが、サニー号はまるで後ろを振り返って行きたがらないかのように、思うように進んでくれない。

当たり前だが一昨日から毎日のおやつの時間が無くなった。
少し口寂しい気もするが、そもそもルフィがいなければおやつをせびる人間がいないのだ。
船乗りのくせに贅沢してたんだなあと、少し、反省する。



今日は一日、甲板でぼうっと過ごした。
フランキーは毎日一人で潜水艇に乗っている。
誰にも相乗りさせないのは、きっと長い潜水中に嵐に遭ってもしものことが起こったときを考えているんだろう。
アイツは言やあしないけど。

今日の朝も図書室をそっと覗いた。
ぐるりと部屋を囲むように備え付けられたソファの、昨日と全く同じ場所で、今朝もロビンは本を読んでいた。
もう声はかけなかった。


気が付けば、すでに太陽は水平線ギリギリにまで沈んでいた。
おれは欄干に手をかけたまま何時間過ごしていただろう。
そういえば釣り糸を仕掛けて置いたんだったと竿を上げたが、案の定軽い。
大丈夫、期待はしていなかった。
サンジにごめん今日も釣れなかったと伝えると、いつもなら『気合い入れやがれ長っ鼻』とどやされるところを、今日は仕方ねぇの一言で済まされた。

サンジは最近、短くなった煙草に火を点けず咥えている。
大量のストックがあるはずのそれも、そろそろなくなりそうなのかもしれない。
だからか、一段と沈みがちな食事時に唯一饒舌になるサンジも昨日の夕食時あたりから無口になった。
口を開くとニコチン不足の八つ当たりでもしてしまいそうなんだろう。



夕食を終えると、おれたちはすぐに各自の居場所へ引っ込むようになった。
長く食堂に留まっているのは片づけと仕込みに追われるサンジと、その手伝いをするロビンとブルック、そしてたまにおれ。
8人がすぐにばらばらになることはやっぱり少し寂しいが、みんなの気持ちはわかるから何も言えない。
ルフィがいない静かな空間を、少しでも味わいたくないんだろう。


「ウソップ、お前もういいぜ。先風呂入ってこいよ」
「おお」


サンジに暇をもらったので、遠慮なく風呂に入ることにした。
今誰か入っているだろうかと考えながら階下へと降りていくと、アクアリウムバーの中からことりと物音がした。
こんな時間にここで過ごす奴がいただろうか。
ブルックはよく水槽を見ながら何か楽器を弾いていたりするが、今ブルックは食堂でサンジの手伝いをしている。
フランキーか?
オレはドアを開けた。
覗き見するように少ししか開けられなかったのは、情けない話怖かったからだ。
なんとなく、誰もいないような気がした。
それなのに物音がするなんてホラー以外の何物でもない。

中は暗かった。
人影は見えない。
ひええと頭の中で情けない悲鳴が響く。
ネズミか?そうだそうに決まってる。

思い切ってドアを全開にしてやろうとノブを握り直したそのとき、背後からぬっと手が伸びてきておれが開けようとしたドアを押し返した。
突然のことに驚いて小さく声を漏らした。
煙たいにおいがする。


「サン……」
「しっ」


静かにしろと目で命じて、サンジはおれの頭の上からおれと同じようにバーの中をのぞいた。


「お前さっきまで厨房に……」
「ナミさん呼びに来たんだよ」


ひそひそと囁きあうおれたちは暗闇の中目を凝らす。
水槽と同じように空間をぐるりと囲むソファの一部に少しずつ人影が浮き出てきた。


「……ナミ……?」


ナミは酒を飲んでいた。
ゾロのように瓶を自分の横において、氷の入ったグラスを手に持っている。
たしかあの瓶はいつもゾロが飲んでいるキツイやつだ。
ナミはあまりひとりで呑むようなタイプではないから驚いた。
サンジも同じく驚いたようで、声を出すこともなくじっと見入っている。

グラスの中身をぐいと呑みほし、ナミはすぐに瓶を傾けた。
しかし瓶はもう空になっていたようで、ナミはソファへそれを放り投げた。
それと同時にとさりとソファに背中を預ける。
くしゃりと前髪を掴んだ左手が、震えていた。

おれたちはそっとドアを閉めた。


「紅茶入れてあるけど、お前飲むか」
「いや、オレいいや」


サンジは当初の目的を果たすことなく、食堂へと戻っていった。
おれは見てはいけないものを見たような、誰も責めていないのに責められているような、どうにもやりきれない気持ちを抱えて風呂場へと向かった。


歩きながら考えた。
ルフィを置いて、考えたくないけど、冷たい海に沈んでいくルフィを残して船を進めていくのはどんな気分だろう。
この船に乗るおれたちを行先へ届ける使命と、ルフィを思う感情の狭間に、ナミは潰されやしないだろうか。
気丈に、一切の迷いもなくまっすぐに立つ天才航海士は、ぺりりと一枚皮をはがせばただの女だというのに。
おれたちはナミの強さに甘えている。

そんでも酒はいけねぇよ。ナミ。

酒に頼るくらいなら、おれたちに頼ってほしい。
そんなにもおれたちは頼りないものだっただろうか。
ルフィがいない今、いいやそんなことないと自信を持って首を振ることはできない。








次の日は、雨だった。
ずっとおどろおどろしい雲が立ち込めていたが、どうやら限界が来たらしく雲に収まりきらなかった水分がぽつりぽつりと落ちてくる。
甲板で釣りをしたいところだが、いつ波が高くなるかわからない。
危険を避けて部屋で大人しくしているよう、ナミに言い渡された。
ちらりとナミの顔を覗き見るとすぐにばれて、とげとげしい声で「なによ」と返された。
なんにも、なんにも。

そしてその日の昼食のときだった。
相変わらず静かな食事風景で、メニューはピラフ。ちょっと小盛り。
サンジ以外の全員が席に着き、もくもくと平らげていった。
おれも例にもれず、食えるときに食わなければと懸命に口へと運ぶ。
隣にいるブルックが、スプーンを手に取ろうとしなかった。


「ブルック?食わねぇのか?お前一応腹減んじゃねぇの?」


ブルックの真黒な眼窩はいつかのように、夕飯のスープを味見するサンジの背中に向けられていた。
他の奴らもそれに気付き、ブルックとサンジへ交互に視線が注がれる。


「ブルック?」
「サンジさん、ご飯食べましょうよ」


サンジは振り向かずに言った。


「おーおー、後で食うからよ。これ先に仕上げちまいてぇんだ」
「そんなの後でいいじゃないですか。今一緒に食べましょうよ」
「おっまえ、わかってねぇなあ。スープってのは熱いうちに仕込んでだなあ…」
「いつからですか」


スープをかき混ぜるサンジの手が止まった。
ブルックの言わんとすることに気付いたおれを含むクルーたちが、目を見張ってサンジの背を見つめた。



「サンジさんいつから食べてないんですか」



サンジは微かに笑いを残した微妙な顔のまま振り向いた。
ああサンジも、嘘が上手い方じゃない。
サンジはぎゅっと眉間に皺を寄せてわざとらしく顔をしかめて見せた。


「なに言ってんだテメェ、ふざけたこと抜かしてねぇでさっさと」
「サンジくん」


ナミが立ち上がった。
ゾロは敵でも睨むかのような視線をサンジに据えている。


「食べてないのね?食料、もう足りないのね?」
「ナミさ」



ナミが唐突に、サンジのシャツの裾を捲り上げた。
サンジが慌てて引き下ろそうとナミの手を掴んだが、露わになったサンジの腹部におれたちは息を呑む。
フランキーの手からスプーンが落ちる。

ひとは、たった五日ばかりでこんなにも肉が削げ落ちてしまうもんなんだろうか。
サンジの腹はささやかな腹筋を残して、あばらが浮いていた。
痩せた腹部はとても成人男性のものとは思えず、病的に栄養が足りていないことは明らかだった。
ナミ自身もこれほどとは思わなかったのだろう。
服を掴んだ右手をそのまま、目を見張っていた。
サンジがナミの指を一本ずつほどくようにしてシャツからはずした。


「テメェ、どういうつもりだコック」
「どうもこうもねぇよ」


ねめつけるようなゾロの視線を避けて、サンジはぶっきらぼうに言い放った。


「オレァコックだ。この船の厨房を任されたオレが、テメェらにひもじい思いさせてまで名乗る料理人としての名はねぇ」


しんと冷えた沈黙が部屋を包んだ。
ぱた、と大きな滴が落ちた。


「死んじゃうわ、サンジくん」
「ナミさん」
「いやよ、こんなの」


──もういや。
そう言ってナミは泣き崩れた。
あれからナミがみんなの前で見せる初めての涙だった。
チョッパーが泣き出した。
フランキーがサングラスをかけて俯く。
ブルックが俯いて、大きな眼窩から大きな水滴を落とした。
ロビンさえも、静かに、頬を濡らす。
サンジは呆然と足元にうずくまるナミを見下ろして、ゾロは自分の膝小僧を睨み続けた。

そしてかく言うおれも、あられもなく泣いた。
泣いて、泣いて、それでも涙は止まらなかった。
だってこんなことがあるだろうか。
あのルフィが、いつでも底抜けに明るい顔で面倒事も厄介ごとも引っ掻き回しては大口を開けて笑い、何度も死にかけては這い上がって先へ先へと進んできたおれたちの船長が。
船から落ちて溺れ死ぬ未来が、いったいいつから用意されていたというんだろう。

それでもみんなわかっているんだ。
ルフィが生きてなんかいないことを、みんなわかっている。
食べるものがなくたって、おれたちはルフィさえいればやっていけたのだ。
人一倍腹が減ったとうるさいルフィがいてくれたら、その声を聞いていれば、おれたちは食料不足などとるに足らないことだと笑っていられた。
だけどこうしてルフィがいない今、おれは、おれたちはひとりずつほどけていく。
ルフィがおれたちをきつく結びつけてくれていたのに、あっけなく、ほどけていく。


もう戻ってこない。


ルフィが死んだ。


















「そりゃおめぇら、大変だったんだなあ」


頬袋をリスのようにふくらませて、ルフィは他人事のように感心してみせた。
その言葉を聞いて、またいくつもの拳と足がルフィに打ち込まれる。
ルフィは口の中の食べ物が飛び出さないよう口元を押さえて、殴られすぎて腫れた顔のまま、でもと言った。


「アレだな!うしろよければなんでもよし!みたいな」
「終わりよければ、でしょうが」
「それだ」


ナミに呆れ顔で訂正されても、ルフィは平気な顔でそうそうと頷いた。


「んでナミ、次の島はあとどれだけで着くんだ?」
「そうね、この間みたいな嵐にさえ合わなかったらあと五日ってとこかしら」
「五日かあ。まだまだだな」
「今までの航海を思えばすぐでしょ」



そうか?とルフィが腑に落ちない顔で首をかしげた。
ルフィがそうでも、おれたちにとって今日までの五日間の航海は、時が止まったかと思う程長かった。

ロビンがキッチンからトレイに乗った紅茶を運んでくる。
チョッパーは医務室でサンジを診ている。
フランキーがコーラのお代わりをロビンに頼んで、ナミがペン先の反対側でこめかみを掻いた。
ゾロがダンベルを持った片手を断続的に上下させながら新聞をめくる。
ブルックが気持ちよさそうにげっぷした。

ありふれた光景が、いま目の前にある。














どーんと、大きな水柱が上がった音がした。


「……なに?」


うずくまっていたナミが顔を上げた。
俯いていたおれも、泣きはらした顔を食堂の外、自然と扉の方へと向けた。
どーん、どーん、と絶え間なく激しい砲弾の音がする。


──敵襲だ。


みんながそう理解した瞬間、ほどけていた何かがものすごい速さでどこか中心に集まったのがわかった。

この広い海でちっぽけなおれたちが生きていくには、いつでもひとつでなくちゃいけない。
たとえいまルフィがいなくても。
愛すべきアイツの姿がこの船の上どこにも見えなくても、いつかアイツが帰ってくるときのために、おれたちは一丸となってアイツの目印とならなきゃいけない。


そのことを、おれがどうしてこの瞬間気付いたのかはわからない。
どうしてみんながこの瞬間に気付いたのかもわからない。
でもみんながこの瞬間に気付いたということはわかった。

おれたちはそういう一味なのだ。




「準備を」



ゾロが呟いた。
皆の目が据わり、各々武器に手をかける。
チョッパーがサンジに駆け寄った。



「開けるぞ」


ゾロがドアノブを回した。
外は雨。
ドアを開ければそこはいくつもの敵船が……


という景色を想像していたおれは、目の前のあっけない景色に目を見開いた。
みんなもそうだったのだろう。
それぞれおもいおもいの声を漏らしている。

さわさわと細かい雨が降る甲板の向こうには、一隻の軍艦が浮いていた。



「海軍だ」
「一隻だぜ」
「ほんとにこれだけか?」
「もっと後ろにいっぱいいないの?よくみて」
「いねぇって……うわっ」


またもや砲弾が放たれた。
それはひゅうっとこちらに飛んできたものの、サニー号の目前で落下する。
まるで敵意が感じられなかった。



「どういうことだ、こりゃあ」
「まるで私たちに何か言いたいようですが」
「海軍に知り合いなんていたか?」
「それはもう、たくさん」



おれたちが目の前の不可思議な光景に対して懸命に頭をひねっていると、聞こえてきた、声。

全員の視線が一斉に軍艦へと集まった。
聞き紛うはずがなかった。



軍艦から何か飛んでくる。
砲弾ではない。
砲弾より細長くて……赤くて……人型で……


「ル」
「おぉーい!!」


どがん、と砲弾の音より激しくて荒々しい音が間近で起こった。
おれたちの目の前、食堂の入り口でもんどりうって着地したルフィは事もなげに体を起こした。



「よっ!」



おれたちはやっぱりついに限界が来ていて、腹も減っているし、疲れているしで、白昼夢でも見ているのかとおもった。
それでも、固まってしまったおれたちを怪訝な顔で見つめる目の前の男は、ルフィ以外の何物でもない。
は同時に叫んだ。



「ルフィー!?」
「おうっ、よかったぞ出会えて!!」


チョッパーがルフィの腰元に抱き着いた。
ルフィはそれを受け止めて、嬉しそうにみんなの顔を見渡す。


「なっ、なん、なっ…」


言葉の続かないサンジに、ルフィはあっけらかんと笑った。



「おれ落ちたじゃねぇかよぉ。んで、流れて、雨もすげぇし波も高ぇしで、死んじまうかと思ったぜ」


あっはっは。
おれたちはぽかんとその顔を見つめることしかできない。
まだ、みんなの頬は涙で濡れているのだ。


「息も苦しいし、アタマももげそうでこりゃどうにかなっちまいそうだと思ったら、アレがあったわけよ」


そう言ってルフィが指さすは、先ほどルフィが飛んできた海軍船。
まさか、とみんなの視線が再びルフィに戻った。


「波が高すぎて、逆に沈まずに済んだんだわ……」


ナミが呟いた。


「ロープが伸びてたからよ、それに掴まってたんだけどさあ。力はいんねぇしやっぱ駄目だと思ったら、これがまたちょうどいいところでおれを引き上げてくれたんだよ」


ここからのルフィの話はいまいち要領を得なかったので、おれが要約させていただく。

つまりそうして軍艦に引き上げられたルフィは、一気に弱りきった姿を数百人の海軍の前にさらされた。
しかしそのときのルフィは、ギア・サードのおかげでまだ小型化していた。
すぐにルフィだと認識できなかった海軍たちが様子を見ているうちに、ルフィはすぐに元の大きさへと戻ってしまう。
引き上げたのが『麦わらのルフィ』だと気付いた海軍は慌てふためいてルフィを捕えようとしたが、小さな島への巡回へと廻っていた下っ端の水兵ばかりの軍艦の上、またたく間に押さえつけられてしまったのは海軍たちのほうだった。
それからルフィは適当な水兵に船を動かさせ、自分は軍艦の冷蔵庫を荒らし、サニー号を探していたのだという。


なんてこと、とおれたちは呆然とした。
ルフィはまるで健康体で、大量の食糧をひきつれて、帰ってきたのだ。

未だ二の句が告げず立ち尽くしているオレたちを、ルフィはさも不思議そうな顔で眺めまわした。
そしてひとこと。


「サンジ!腹減った!!」


またたく間にみんなの拳がルフィを襲った。
かくいうおれも、汚らしく泣き叫びながら、ルフィを殴り続けた。


やっぱりおれたちは単純で、馬鹿馬鹿しくて、とても脆い。
ただ、そういうおれたちを、おれは、とてもあいしてやまないのだ。


(2015.02.21 改稿)

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*現パロ注意!(【ハロー隣の~】+サンナミ設定です)









夏、女が薄着になっていくこの季節、男としては目に嬉しいものだと思っていた。

それがどうだ。
クーラーが壊れ熱風を噴き出すたった7、8畳ばかりの部屋の中。
熱にやられたパソコンの前で頭を抱えた男がせめてもの目の保養とばかりに同じ部屋にいる自身の彼女に目をやっても、そこには男の皺の寄ったTシャツにすっぽりくるまって暑さにうだる女の姿。

だらしがないうえに楽しくないことこの上ない。



「…お前オレの服勝手に着るのやめろい…」
「だってこれだと下履かなくていいから涼しーんだもん」


そういって、アンはベッドの上で俯せになったまま足をパタパタ動かした。
翻るTシャツの隙間から一瞬覗いた内股に免じて、これ以上追及するのはやめることにした。


ああそれにしても。



「暑ィ…」



首元を滴る汗がシャツの襟に吸い込まれていく。
熱に弱いパソコンはさっさと仕事を諦めたままブラックアウト。
大量の氷を投入したせいで薄くなったコーヒーはクソまずい。

アンはベッドの上でだらりと四肢を伸ばしたまま、ねぇマルコーとハリのない声を出した。


「アイス買いに行こうってばあ」
「お前朝も食ってたじゃねぇか。腹壊すよい」
「へっぷーん、あたし生まれてこの方お腹壊したことなんてありませーん」
「冷凍庫に氷入ってんだろい。食っとけ」
「氷はいやだってば!」



ねぇマルコ、アイス、アイス、コンビニ、コンビニ、とアンがせがむ。
しばらく無視を続けてパソコンの復旧作業を続けていれば、諦めたのかアンが静かになった。

やっと大人しくなった、とマルコが額の汗をぬぐったその時。
突然ぐいっとマルコの襟が後ろに引っ張られ首が締まり、ガラガラガラっと耳元で響く轟音。
大量の氷がマルコの背中を伝っていった。


「うおっ!!おまっ、なにすんだよい!!」
「ね、涼し?涼しくなった?コンビニ行く気になった?」


驚いたマルコが立ち上がると、背中からゴトゴトと十数個の氷が床へ落ちる。
製氷機片手ににんまり笑顔のアンはさも『してあげた』顏だ。


「馬鹿言ってんじゃねぇよい!見ろ床ビッタビタじゃねぇか!」
「いーじゃん涼しいじゃん。もう一回いっとく?」
「…」


絶句したマルコに、アンは氷の詰まった製氷機を机に置いて、はいっ、はいっ、と財布と部屋の鍵を持たせた。



「こっんっびっにっ!」



もうマルコには、氷のおかげで濡れた服を着替えコンビニに赴く以外道はなかった。
















「うはー!暑いねー!」


部屋の外に出るなり、うっと顔をしかめたマルコとは対照的に、アンは両腕を広げて暑い暑い!と叫んだ。


「…夏、好きかよい…」
「うん!でも冬もすき!」


セミの鳴き声がわんわんと鳴り響く。
なにが悲しくて午後二時という一日の中で最も暑い時間帯に、熱されたフライパン状態のコンクリートの上を歩かねばならないのか。
それを口に出そうにも、それは一瞬でアンのはしゃぐ声に飲み込まれる。


「セミいっぱいいる!ルフィとよく捕ったなー」


アンは電信柱や余所の家の樹を見上げながら前を歩いていく。
こういうところで歳の差が顕著に表れるもんだ、とマルコは隠すことなく大きなため息をついた。



「マルコ歩くの遅い!」


マルコの数歩先を歩いていたアンは、振り返ってマルコを待ち、その隣に並んだ。


「…これ以上老体に無理させんじゃねェよい」
「いっつも年寄扱いすんなって怒るくせに」
「…夏は別だ」


なにそれ、とアンがカラカラと笑う。
夏の似合う女だと思った。

















たらたらと歩くマルコと、それを励ましながら歩くアンの向かいから二人の男女が歩いてきた。
アンは喋るのに夢中で気づいてはいないが、マルコは遠目に一瞥をくれた。


男は片方の手に大きめのビニール袋、おそらくスーパーの袋を持ち、もう片方の手は女の手と繋がっていた。
男が冗談でも言ったのだろう、女は笑いながら空いている方の手でこめかみあたりを拭った。


不意にアンの言葉が途切れた。
視線を隣に落とすと、アンも向かいの男女を見ていた。



「アン?」
「え?あ、うん、それでね…あれ、なんのはなしだっけ」



忘れちゃった、とアンは俯いた。
そのつむじを見下ろして、マルコはもう一度、自分たちとすれ違おうとしている男女を見た。


楽しげにお喋りをやめず、手を繋いだふたりはマルコたちが来た方へと歩いていく。
男のほうが一瞬こちらを見た。
ふたりを、というより視線はアンに向かっていた気がする。


完全にすれ違ってから、アンは少し首を捻じってすれ違ったばかりの男女を振り返った。



「…知り合いかよい?」
「や、ちがう…」


しらないひと、と呟いたアンはさっきの元気はどこへ行ったのか、押し黙って俯いた。
マルコが怪訝な顔でアンを見下ろすと、アンは一瞬マルコの顔を仰ぎ見たがすぐに目を逸らし、また俯く。



「…マルコ」
「なんだよい」
「あの、さあ…」


煮え切らない言い方で、アンの視線は宙をさまよう。



「あの…、て…」
「あ?」
「…手を、さあ…」



手?と繰り返し、ああとマルコは再び若いカップルを振り返った。
なるほど、とアンの言葉が腑に落ちた。




「こうかよい」




揺れていたアンの手を取って握ると、アンは目を丸めてマルコを見上げた。
しかしそれはすぐに嬉しそうな顔に変わる。
アンは笑顔で頷いた。



「こんなおっさんと手ェ繋ぎたいとかお前も酔狂な奴だよい」
「おっさんじゃないもん、マルコだもん」
「…お前常日頃オレをおっさん呼ばわりしといて…」



まあいい、とマルコは少し湿ったアンの手を握り直す。
少し強く握ると、同じ力が返ってきた。



角を曲がると、眼前にはコンビニの看板。



「ねぇマルコ」
「なんだよい」
「帰りもしたい」
「…しょうがないねい」














***


「はい」
「ありがと」


伸びてきた手に中身の詰まった袋を手渡す。
サンジはそれをナミから遠い方の手にぶら下げ、スーパーの自動ドアをくぐると同時に空いている方の手をナミのそれと繋いだ。



「うわ、あつ…」
「冷房との温度差で鳥肌立つわ」
「ほんとだ、ナミさん鳥肌立ってる」



焼けるからちゃんと帽子かぶって、とサンジはナミの頭に手をかざして帽子を深く被せた。
ナミは大人しくその手に頭を任せる。



「もうみんな来てるかな」
「ウソップからさっき着いたっつってメール来てた」
「ゾロは間違いなくまだね」
「あいつぁ出不精だからまだ着いてねぇとすりゃ家か迷子だな」


たしかに、とナミが笑う。
こめかみに汗が伝い、目に入る前にそれを拭った。






20メートルほど先、向かいから1組の男女が歩いてくる。
すらりと背の高い女の方は、激しい身振り手振りをつけておしゃべりに夢中らしい。
そのスタイルに反して子供っぽい笑顔の可愛い人だと、ナミはこっそり覗き見ながら思う。
男の方は煙草をふかした完全なる中年。
女の方の話に適当な相槌を打っているように見えた。



「どうする?このまま店行ってもいいけど。ゾロ迎えに行ってあげる?」
「そうだな…ああ、でも野菜。悪くなっちまう」
「ああ、そっか。じゃあ一回店に戻ってからもう一度でよっか」
「んー…」


おざなりな返事。
訝しく思いナミが視線を上げると、サンジの視線はすれ違ったふたりから戻ってきたところだった。
コイツ、と少しの制裁をこめて繋がった手を動かし手のひらをつねってやる。



「ぃたっ!なに?」
「やらしい目で見てんじゃないわよ」



途端に目を泳がせ始めたサンジは、そんなんじゃないよと裏返った声で否定した。
やだなあナミさん、と笑う声がひきつっている。

サンジは少し顔を捻じり後ろを振り返ると、でもさあと腰をかがめた。



「今の二人、親子かな。それにしちゃ仲良くね?」
「ばか。どうみても恋人同士じゃない」
「え!?でも歳…」
「そう、あんたはわかんないのねー」


まるで達観した様子でため息をつくナミを見下ろして、それから再び件のふたりを振り返ったサンジは、あ、と呟いた。



「ナミさん、見て」
「え?」



振り返れば、先の二人。
先程より少し身を寄せて、二人の間で揺れていたはずの手が今はしっかりと繋がっている。



「ナミさん、すげぇ」
「でしょ」



ふふっと得意げに笑ったナミに、サンジは感心して息をつく。



「…なんか、いいな」
「ね。いいね」



サンジが握った手にきゅっと小さく力を込めると、サンジの手に包まれていたナミの手がもぞりと動く。
ナミはサンジの指に自分のそれを絡ませた。



「暑いね」
「暑いな」









しあわせなら手を繋ごう


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 麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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