OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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*twitterでいただいたネタで、ゾロたしです。
手に提げた小さな袋から、甘いにおいがする。
目の眩むほど遠い昔のように思えるが、まだ道場に通っていたころ、時折近所の民家から昼過ぎにこんな匂いがすることがあった。
粉と砂糖のシンプルな焼き菓子のにおいだ。
袋は薄水色のリボンで結んであった。薄茶色と濃い茶色の丸い菓子が二種類ころころと入っていた。
船までの人通りの少ない道を歩きながら袋を開け、一つ口に放り込んだ。
ガリッと硬い音がして、ざらざらと口の中で砕けた。ものすごく甘い。
船のコックが作った似たような菓子はよく昼のおやつで出てくるが、まったく違う種類の食いもんじゃないかと思った。
コックが作ったものは噛むときに歯が砕けそうな音はしないし、舌の上でいつの間にかなくなってしまう。口に入れる瞬間なんかしら砂糖ではない匂いがして、後味にあまり甘さが残らない。完ぺきに形取られていて、薄く焼き色がついたそれは見た目にも美味そうなのだ。
対してこれは作ったやつの指のあとまで分かるようである。
──硬ェな、と思いながらがりぼりと噛んでいたら、中身があと2つになっていた。
濃い茶色のやつがうまい、と思ったところで、そういやなんの警戒もなく食っちまったがまさか毒でも入ってんじゃねぇだろうなと少々ハッとする。
ハッとすると同時に、あの分厚い眼鏡の向こう側にある目を思い出した。
「あっお前なに食ってんだ!?」
唐突にルフィが角を曲がったところから現れた。
あやうくぶつかりかけて立ち止まったが、ルフィはむしろぶつかる勢いでゾロの元まで詰め寄ると、その手に握る小さな袋に熱い視線を注いできた。
「菓子? クッキー? 珍しいな」
「おう」
「どうしたんだ、それ、買ったのか? いいなー」
くれ、くれ、とでかい黒目が叫んでいる。
咄嗟にズボンのポケットに袋を押し込んだ。
「もらいもんだ。それよりお前昨日の肉屋行くっつってたじゃねェか。骨付き肉売り切れちまうぞ」
「あっおう今から行くところだ! ゾロは船帰んのか? この道まっすぐだぞ!」
「うるせぇなわかってるよ」
じゃーなー! と既に走って遠ざかるルフィの声が背中にぶつかる。
おう、と短く答えて船の方を向き直ると、今度は見慣れた黒いスーツの男がぶらぶらとこちらへ歩いてくるのが見えた。
サンジは手にした小さなメモに視線を落として、なにやら考え込んでいる様子だ。
黙ってすれ違おうとする間際、気付いて顔を上げたサンジと目が合った。
「お、剣士様のおかえりか。よく一人で帰ってこれたな」
「んだよその言い草は」
にやにやとサンジは髭を撫でながら笑って、
「おれぁこれからおれを待ちわびてるレディたちに愛を貰いに行くんだがよ、テメェは侘しく手ぶらだな」
「はぁ?」
「唐変木のテメェにゃ用のないイベントだろうがな、今日はレディが甘いチョコレートと一緒に愛を告白する日なのさ」
「んだそりゃ」
言ってから、ぴんときた。
やけに甘いあの匂いが自分の手から香っていた。
無意識に袋を押し込んだ左ポケットに手をやると、目ざとくサンジが目を留めて「なんか飛び出してんぞ」と言った。
「ハッまさかお前」
「あぁそういやこれ、そういう日だからか」
がさっと袋を出すと、サンジが胸ぐらをつかむ勢いで詰め寄って来た。
「テメェそりゃどこのレディから奪ってきやがった! それを持って可愛いレディが今日どこかの幸せな野郎に愛を伝えに行くはずだっつーのに!」
「あぁ!? 誰が奪ったつった、もらいもんだ!」
「どこのレディがお前なんぞにくれるってんだわきまえろクソマリモ!」
「馬鹿野郎、あの海軍の女剣士だ、テメェがいうような意味があるわけねェだろ!」
離れろ阿呆、とサンジを突き放すと、サンジは若干よろめきつつ数歩後ろに下がった。
引き攣った顔で、「まさかたしぎちゃんが」と呟いている。
サンジに掴まれたせいでよれた襟元を直しながら、中身の残り少ない袋に目を落とした。
サンジが言うような意味はこれっぽっちもたしぎは口にしなかった。
むしろ嫌そうに、決まり悪そうに、押し付けるようだった。
さんざ追いかけっこして、一二度剣を交えて、振り払って逃げようとした矢先、呼ばれた。
──ロロノア! 待ちなさい、ロロノア! ちょっ……待って!
切羽詰まった口調につい振り返ると、たしぎはずれた眼鏡を直しながら立ち上がり、腰に付けたポーチからごそごそと何かを取り出した。
けつまずきながら、立ち止まるゾロの元まで足早に近寄ると、ぎゅっと手元にこれを押し付けた。
せわしく眼鏡を指先で上げながら、たしぎは俯きがちに口を動かす。
「ああああああげます」
「あぁ!? なんだこりゃ」
「いいんです気にしないで、さっさと受け取って適当に食べてください」
「はぁ、どういうつもりだ」
「いいですか、ここでは見逃しますが、あなたたち一味を必ずこの島で捕えますから! 逃げられると思わないでください!」
勢いよく啖呵を切ると、さっきまで追いかけまわしていたくせにこんどはたしぎの方が逃げるようにゾロの元から立ち去って行った。
ラッピングされたクッキーと一緒に残されたゾロには、なにがなんだかである。
サンジは頭痛に耐えるように額を押さえ、「よし、よし、わかった。たしぎちゃんがお前にバレンタインのお菓子を『義理で』渡したっつーことは今なんとか理解した」と一人早口に呟いた。
「バレ?」
「いいか」
またもやずいとサンジが寄って来たので、思わず身を引く。
「義理だろうとなんだろうと、レディから今日この日お菓子をもらっちまったからには、テメェは必ずお返しをしなきゃならねぇ」
「はぁ?」
「テメェは男のくせに感謝の意を素直に表すこともできねぇのか? どうせそれもらったときに礼の一つも言えてねぇんだろ」
そういえばそうである。
ぐ、と押し黙ると、サンジは腹の立つ顔でハンと鼻を鳴らして笑った。
「本来なら一か月後にお返しをするもんだがな、あいにく明日出航の予定で次いつたしぎちゃんに会えるかわかんねぇんだろ。海軍がいるとなりゃナミさんは早く船を出すっつーだろうし……お前お返しのアテあんのか」
「んなもんあるわけねぇだろ」
「ハーーったくたしぎちゃんはなんでこんなマリモ」
「うるせぇな、じゃあなんか買ってこりゃいいんだろ」
「おうそうだ、きちんと彼女が喜ぶものを見繕えよ」
「酒か?」
ガスッと太腿の辺りを蹴られた。
「クソかテメェは、そりゃお前が喜ぶもんだろうが」
「おれがあいつの喜ぶもんを知ってるわけねぇだろ!」
「んじゃ手作りでもなんでもしてなんとか彼女を喜ばせろ!」
手作り。
コックが作るのか? と一瞬思ったが、すぐにいやちがうおれが作るのか、と思い直す。
想像だにできない作業だが、いいかもしれねぇな、と思った。
思ったのは、たぶん、たしぎにもらったこの菓子を食ったときの、あの作り手の温度がわかるような近さが案外よいもんだということを、ついさっき感じたばかりだったからだ。
「じゃあ教えろ」
「は?」
「教えろ。菓子。おれが作る」
*
船で待ってろと言い渡され、船に戻るとパラソルの下でウソップがなにやら背中を丸めて手元を覗き込んでいた。
おれの方を見もせず「おけーりー」と言う。
おうと答えてキッチンへ向かうと、ウソップが「サンジいねぇぞ、さっき出てった」と言った。
「すれ違ったから知ってる」
「あそー」
誰もいないキッチンに入り、椅子を引いて座った。
もう一度ポケットから袋を出し、机の上に置く。
中身はあと一つだ。
もう一つあったはずだったのに、サンジに食われたのである。
──お前それ、一個渡せ、おれに食わせろ。
──はぁ? なんで。
──悪いこと言わねェから一個食わせろ。教えろっつったのテメェだろ。
しぶしぶ一つをサンジに手渡すと、サンジはためらいなくクッキーを口に放り込んだ。
ガリッ、ジャリッ、ザリッと派手な音が、サンジの口から聞こえる。
しかしサンジは顔色一つ変えず、どこか遠くのゾロには見えないものを見ているような顔つきでクッキーを噛み締め、ゆっくりと飲みこんだ。
──よしわかった。しゃーねぇからおれが材料揃えて来てやる。お前は船で待ってろ。
そのままサンジはまっすぐ街の方へ、ゾロは言われるがまま船に戻った。
手持無沙汰で、酒、と思ったが、酒臭くしているとコックが帰って来たときにまたうるさいんじゃないかと勘が働いて、珍しく自粛しようと腰を下ろした。
ぼーっとしていると寝てしまいそうで、船を漕ぎかけるたびに「ロロノア!」と呼んだ甲高い女の声がこだまして、ハッと目が覚める。
何度かそれを繰り返しているうちに、サンジが帰ってきた。
「おうなんだ、いやに大人しくしてんじゃねぇか」
「テメェが待ってろつったんだろうが」
「おうおういい子だな……っと、よし早速始めるから手ェ洗え。洗剤で、肘までよく洗え。汚いからなテメェは」
「んだと」
噛みつこうとしてもしっしとあしらわれ、やり場のない腹立ちをぶくぶくと腹の中で煮えたぎらせたままどすどすと手洗い場に向かい、手を洗った。
言われた通り肘まで洗った。
ダイニングテーブルまで戻ると、サンジが買い物袋の中身をテーブルの上に広げている。
広げる、と言って、袋から出てきたのはバターがひとつ、それだけだった。
「あいにくこいつだけ切らしてたからな。買ってきた」
「これだけか」
「小麦粉・牛乳・砂糖は船にもうある」
「そんだけでいいのか」
「いい」
スパッと言い渡されると、「そうか」と身を引くしかなかった。
コックがおやつを作るときは、もっと、なんかよくわからない小瓶やらなにやらを駆使しているのように見えたのだが。
「なにを作る」
「あぁ、スコーンだ……っと、お前これ付けろ、エプロン」
顔に放り出された布を受け取って広げる。
紐がどうなっているのかよくわからずなんだか窮屈な感じになったが、とりあえず背中の方で結ぶことができた。
サンジはエプロンをつけたゾロを確かめると、一瞬何か言いたげな顔をしたが、「ん……まぁいいわ」とキッチンの方へ顔を向けた。
サンジはテーブルを挟んで向かい側に仁王立ちする。
「よしまず材料を量るところからだ。そこの量りでまず小麦粉を100g量れ」
「100gってどんだけだ」
「だからそれを量りで量るんだろうが!」
サンジが指さした器具をテーブルまで持ってきて、置く。
ここに小麦粉を乗せればいいのか、と小麦粉の袋を掴んだら、「待て、待て」と声が飛んだ。
「お前まさか直に小麦粉はかりにぶちまける気じゃねェだろな。まず量りにボウルを乗せろ。そんでメモリをゼロに合わせるんだ」
「あぁ」
成程、と一番でかいボウルをはかりに乗せたら、「あー待て」と少し小ぶりのボウルに変えられる。
メモリをゼロにしてから中に小麦粉をぶちまけた。
高いところから落としたせいで、ぶわっと一気に視界が煙った。
「うおっ、テメェもったいねェ入れ方すんな! メモリを見ながら慎重に入れろ!」
「入れすぎたならあとから戻しゃいいじゃねぇか」
「効率悪いし材料が湿気る! あークソ」
サンジは小刻みに革靴で床を叩きながら、身体の前で腕を組んだ。
こちらもうるせぇこと言うなほっとけと言い放ちたいところだが、ほっとかれたら途方に暮れるのはこちらなので、どうしようもない。
入れ過ぎた小麦粉はスプーンで袋に戻した。
「100gだ」
「よし、同じようにバターと砂糖も量れ」
言われた分量を、小さなボウルに入れて量る。
今度は特にサンジがうるさくせず、うまくできた。
「よし、じゃあこのボウルにバターと砂糖を入れて、ひたすら混ぜろ。お前のそのありあまった腕力使え。器具壊すなよ」
へらと一番大きいボウルを渡された。
ざっとバターを砂糖の上にぶちまける。
へらをバターに差してみたが、少し硬くてこねにくい。
ぐりぐりとまわしていたら、やがてバターがクリームのようにまったりと広がってきた。
「混ぜたぞ」
「アホウ、まだまだだ。もっと混ぜろ。白くなるまでだ」
「バターは黄色っぽいじゃねぇか」
「混ぜると白くもっとふわっとなんだよ!」
これが? と思いながらぐるぐると混ぜ続ける。バターが固いうちはなかなか力仕事だと思ったが、続けているうちにボウルの中が柔らかく、そして白く軽くなってきた。
「おぉ、やらけぇ」
「そうだ、もう少し続けろ」
器具がときおりボウルにカツンとぶつかる音と、サンジが煙を吐く浅い音だけが聞こえた。
持久走をしているみたいな爽快感があった。
「ん、よしもういい。んじゃ牛乳はかれ。三回に分けて入れて、入れるたびによく混ぜろ」
言われた通り量ったところまではよかったが、牛乳を入れる間際に「一気に入れるなよ」と言われて手が止まった。
三回に分けろと言われていたのを忘れて一気に入れるところだった。
だまってチョロチョロと牛乳を注いだ。
混ぜて、またもやサンジに言われた通りふるった粉を2回に分けてクリーム状のかたまりに入れていく。
せっかく混ぜてやわらかくなったクリームが、粉を含んでもったりと重い手ごたえとなってきた。
「混ぜすぎんなよ」
「どれくらいだ」
「もっと切るように手を動かせ」
「んなことしたら本当に斬れちまうだろうが」
その言葉にサンジからはなにも返事が返ってこなかったが、特に気にならなかったので顔も上げなかった。
切るように、でも斬らないように、と頭の中でぶつぶつ言いながら手を動かした。
「よし、もういい。ラップして冷蔵庫で寝かせるぞ」
「寝んのか? こいつが?」
「いいから冷蔵庫入れろ」
教え方がぞんざいになってきた、質問に応えやがらねェ、と腑に落ちない気持ちでボウルを冷蔵庫にしまった。
振り向くと、道具入れからサンジが銀色の丸いカップを4つその手にわしづかんでいた。
「型か」
「おう……あーでもどうすっかなー、これより小さいのねェしなぁ」
「あれをそこに入れるんだろ。その大きさでいいじゃねぇか」
いや、とサンジは型をかつかつその手の中でぶつけながら、考えるように上を向いた。
「おめぇのあれじゃ、おそらくたいして膨らまねェから。たぶんこの型じゃ深すぎる」
「あァ? 言われた通りにやったじゃねぇか」
「おう、あれでいい、膨らまなくていいんだ」
どういうこったと目を眇めると、サンジは「お前さぁ」と上を向いたまま言った。
「たしぎちゃんのあれ、あのクッキー、どうだった」
「あァ? 話変えんな」
「変わってねェよ。どうだった。味は。においは。食感は。おれがいつも作るヤツとくらべてどうだった」
「そりゃテメェ」
たしぎの菓子は、端が崩れていて、やたらとガリガリ硬く、砂糖の甘さが舌に残って、まずかねぇけど、コックのとは違う。
それを言葉にするのを一瞬戸惑った隙に、サンジが「おれのとはちがうだろ。当たり前だけど」と掬うように言った。
「おれが作ると、テメェに作らせたやつでもある程度は上手くできる。彼女のよりもはるかにな。テメェも上手にできたおれの菓子を渡してェわけじゃねぇだろ」
レディのプライドの守り方くらいそろそろわきまえた方がいいんじゃねぇの、とサンジは言った。
口を開いて何か言おうとしたが、咄嗟に出てくる言葉を見失うその隙にまたサンジが「んまこれでいいわ。ブサイクな形のができてちょうどいいだろ」
押し付けるように手渡されたそれを受け取った。
サンジがゾロの前に立ち、なにも持たない手で空をなぞって型にバターを薄く塗るそのやり方を教示する。
塗りすぎだアホ、と何度か言われ、そのたびになにかしら口答えして、たった4つの型にバターを塗るだけの作業で少し汗をかいた。
覗き込むように下を向いていたので首が痛い。
「んじゃ、さっきの生地をそこにいれて、あとは焼くだけだ」
少しだけひんやりしたボウルから生地をどろっと流し込む。
バターの乳くささがふっと浮かび上がった。
うまそうだな、と思う。
オーブンに型をよっつ均等に並べ、言われた通りタイマーをセットし、火を入れた。
「おっし、まぁなんとかなるだろ。んじゃ調理器具洗っとけ。おれは一服してくる」
反駁するより早くサンジはさっさとキッチンを出ていって、ふと目についたテーブルの上はごちゃごちゃと汚れていた。
こんなにもある、と面倒くささが先に立ったがなぜだかあんまり厭わしくない。
黙々と器具をシンクに運び、ガツガツと洗った。
机の上が片付くと心なしかさっぱりして、無酸素運動をしたあと詰めていた息を吐き出したときに似ていた。
ウーと低くオーブンがうなっている。
覗き込んだが暗くて中はよく見えない。
見えないのにオーブンの前にしゃがみこんで、褐色の影に沈んだその中をじっと見ていた。
甘い匂いがしてきた。
たしぎにもらったクッキーのにおいに似ていた。
それはやっぱり、コックが作る菓子のにおいとは少し違って、とてもシンプルなにおいだった。
すきだ。
おれはこのにおいがわりとすきだ、と思う。
唐突に背中の扉が開き、サンジが戻ってきた。
オーブンの前にしゃがみこむゾロの背中を見つけて、「ぶ」と口を腕で押さえて吹き出した。
「かーわいー。上手く焼けるか心配してんだ」
「あァ!?」
「まぁそういきり立つな。心配しねェでも失敗しやしねぇよ」
そう言った矢先、タイマーがじじじじじと鳴って思わず叩きつけるようにして音を止めた。
「ほらさっさと火ィ止めろ」と急かされて、あわてて火を消す。
オーブンのドアを開けると、熱気と濃い焼き菓子のにおいが流れ出して足首の辺りを温めるようにまとわりついた。
「素手で持つなよ」とミトンを渡されて、暗がりの中から天板を引っ張りだす。
薄茶色の焦げ目が4つ、綺麗に見えていた。
「んま上出来じゃないの」
頭上で見下ろすサンジが言う。
コンロの上に天板を置き、サンジが指し示したケーキクーラーの上にころころと型をころがした。
ぽこんと中身を取り出すと、ふわっと柔らかいパンのような丸が転がり出てきた。
カップに入れたものよりほんの少し大きくなった程度だ。
「もっと膨らむはずだったのか」
「あ? まぁお前がアホの様にぐるぐる最後混ぜやがったからな。まぁおれにとっちゃ予想通りの出来だ」
悪かねェよ、と言いながらサンジは浅い四角の皿を差し出してきた。
「冷めると多少締まってスコーンらしくなるけども、せっかく近くにいるんだ。焼き立て食ってもらえよ」
皿の上にスコーンを転がし、ほかほかと立つ湯気を目で追う。
これ、おれが作ったのか、と気付けば口走っていた。
「は? そうじゃねぇか。もう忘れたのか」
「おれぁ言われたことをしただけだ」
はぁ、とサンジは気の抜けた声を出して目を丸めた。
「レシピ本みて作るのとなにがちげーんだ。本見て作ったら自分で作ったんじゃなくて本が作ったことになんのか。ちげーだろ」
いいからさっさと渡してこいグズグズすんな、とケツを軽く蹴られる。
こんの野郎、と歯を剥いて振り返ったら、めちゃくちゃに洗った際へし折った泡だて器にサンジがちょうど目を留めたところだったので、すかさずキッチンから滑り出た。
甲板には帰ってきたときにいたウソップがいなくなり、がらんと空いていた。
*
ゾロを認めた途端、たしぎがさっと刀に手を掛けた。
答えるように手が伸びかけたが右手が皿でふさがっていて咄嗟に動けなかった。
町はずれの裏道だ。
ぽつぽつと町の人間が歩いている。
すれ違う人がときおりたしぎに声をかけ、挨拶をした。
そのたびにたしぎは律儀に頭を下げて答える。それを近づきながら見ていた。
戦闘心のないゾロを不可解げに見つめて、たしぎも刀から手を離す。
「……なにか。なんですかそれは」
「食え。礼だ」
礼? と首をひねってから、たしぎはぎゃっと短く叫んで飛びのいた。
「ああああアレのことですか? もういいんですすみません食べました!?忘れてください!」
「食った」
「すみませんヒナさんに教えてもらったレシピの通りに作ったはずが、私メモを見間違えたみたいで砂糖を入れ過ぎて……あとなぜだかものすごく硬くなってあの」
いいから、と言葉を遮って、皿をたしぎの鼻先に突き出した。
やっとたしぎの焦点が皿の上の焼き菓子に定まって、「これは」と呟く。
「礼だ」
「あなたが……作った? のですか?」
「おう」
「いま? さっき?」
「そうだっつってんだろ。いいから食ってみろ」
ちらっと小動物のような目がゾロを仰ぎ見て、スコーンに止まり、またゾロを見てから、おそるおそると言った態でたしぎの手が伸びてきた。
「あつっ」
まだ湯気が立つそれを指先でつまみ、たしぎはゾロがクッキーを口にした時と同じようにためらいなくかぷりとスコーンに噛り付いた。
「あふっ、あ、熱い! あ、でも」
おいしい、と口を押さえ、目を丸くして、たしぎが言う。
「おいしいです。ロロノア、これ」
「そうか」
言いながら、どこかつっかえが外れたような心地よさが腹の辺りに広がるのを感じた。
ふ、と唐突にたしぎが笑み零れた。
「おかしい、ついさっき渡したばかりなのに、もうお礼なんて。しかもあなたがお菓子作り」
「ばっ……笑うな!」
「だって……しかもこれ、あなたの船の食器ですか? お皿ごと持ってくるなんて」
ふ、ふ、と口を押えて笑ってから、たしぎがまた一口スコーンに噛り付く。
そのタイミングで身体が動いた。
たしぎが噛り付いたその反対側を、同じように噛ってやる。
思いもよらない──でもたしかに確信犯的に、至近距離で目が合った。
ぽろっとたしぎが落としかけたスコーンを慌ててゾロが受け止める。
「なっ……たっ……」
「ぼちぼち食える味だ」
「食べないでください!」
「ハァ!?」
「私があなたにもらったんですから! 勝手に食べないでください!」
「おれがやったやつなんだからいいだろうが!」
「ダメです! 一度貰ったら私のものなんだから許可を取りなさい!」
「ケチケチすんな!」
たしぎの代わりにもっていたスコーンの残りをばくっと一口で口に納めると、「ギャー」と悲鳴を上げてたしぎが飛びついてきた。
「なんてことを! 非道! 極悪人! 私のなのに!」
口の中でもそもそとする粉っぽいのを飲み込んで、やっぱりあんまり美味くはねェかもなと考える。
飲みこんで、「まだあるだろが」と皿を差し出したら皿ごとさっと奪われた。
そのまま背を向けてスコーンの皿を隠される。
この野郎と言いかけたら、「これは」と背を向けたままたしぎが遮った。
「飲み物が欲しくなります」
「あ? あー、確かに」
「紅茶がいいと思います。あと、ジャムやクリームをつけたらもっと美味しいかと」
はぁ、と相槌ともつかない声をこぼす。
「それらが美味しいお店を知っていますが」
「連れてってくれんのか?」
「あなたが勝手についてくるということにしてください。でないと私の立場が」
あやうい……と消え入りそうな声で言うのに思わず噴き出したら、「人の気も知らないで」と肩越しに睨まれた。
唐突にたしぎが歩き出したので、言われた通り勝手についてきていると思われたら癪だと思い大股で横に並ぶ。
「あの、これ」
「あ?」
「冷めたらすごく硬くなりそうですね」
「うるせっ、テメェが言うな!」
あははっ、とたしぎが口をあけて笑った。
ぎょっとして、その顔をまじまじと見下ろした。
見られていることに気付いていないたしぎは皿を大事そうに両手でささげ持ち、ふんふん、とほんの一小節ほどの鼻唄をおそらく無意識に歌った。
その顔を初めて誰に似ていると思うでもなく、いいなと思った。
「ここ、あなたの指のあとがついてる」とたしぎが、スコーンのへこみを嬉しそうに指でなぞった。
手に提げた小さな袋から、甘いにおいがする。
目の眩むほど遠い昔のように思えるが、まだ道場に通っていたころ、時折近所の民家から昼過ぎにこんな匂いがすることがあった。
粉と砂糖のシンプルな焼き菓子のにおいだ。
袋は薄水色のリボンで結んであった。薄茶色と濃い茶色の丸い菓子が二種類ころころと入っていた。
船までの人通りの少ない道を歩きながら袋を開け、一つ口に放り込んだ。
ガリッと硬い音がして、ざらざらと口の中で砕けた。ものすごく甘い。
船のコックが作った似たような菓子はよく昼のおやつで出てくるが、まったく違う種類の食いもんじゃないかと思った。
コックが作ったものは噛むときに歯が砕けそうな音はしないし、舌の上でいつの間にかなくなってしまう。口に入れる瞬間なんかしら砂糖ではない匂いがして、後味にあまり甘さが残らない。完ぺきに形取られていて、薄く焼き色がついたそれは見た目にも美味そうなのだ。
対してこれは作ったやつの指のあとまで分かるようである。
──硬ェな、と思いながらがりぼりと噛んでいたら、中身があと2つになっていた。
濃い茶色のやつがうまい、と思ったところで、そういやなんの警戒もなく食っちまったがまさか毒でも入ってんじゃねぇだろうなと少々ハッとする。
ハッとすると同時に、あの分厚い眼鏡の向こう側にある目を思い出した。
「あっお前なに食ってんだ!?」
唐突にルフィが角を曲がったところから現れた。
あやうくぶつかりかけて立ち止まったが、ルフィはむしろぶつかる勢いでゾロの元まで詰め寄ると、その手に握る小さな袋に熱い視線を注いできた。
「菓子? クッキー? 珍しいな」
「おう」
「どうしたんだ、それ、買ったのか? いいなー」
くれ、くれ、とでかい黒目が叫んでいる。
咄嗟にズボンのポケットに袋を押し込んだ。
「もらいもんだ。それよりお前昨日の肉屋行くっつってたじゃねェか。骨付き肉売り切れちまうぞ」
「あっおう今から行くところだ! ゾロは船帰んのか? この道まっすぐだぞ!」
「うるせぇなわかってるよ」
じゃーなー! と既に走って遠ざかるルフィの声が背中にぶつかる。
おう、と短く答えて船の方を向き直ると、今度は見慣れた黒いスーツの男がぶらぶらとこちらへ歩いてくるのが見えた。
サンジは手にした小さなメモに視線を落として、なにやら考え込んでいる様子だ。
黙ってすれ違おうとする間際、気付いて顔を上げたサンジと目が合った。
「お、剣士様のおかえりか。よく一人で帰ってこれたな」
「んだよその言い草は」
にやにやとサンジは髭を撫でながら笑って、
「おれぁこれからおれを待ちわびてるレディたちに愛を貰いに行くんだがよ、テメェは侘しく手ぶらだな」
「はぁ?」
「唐変木のテメェにゃ用のないイベントだろうがな、今日はレディが甘いチョコレートと一緒に愛を告白する日なのさ」
「んだそりゃ」
言ってから、ぴんときた。
やけに甘いあの匂いが自分の手から香っていた。
無意識に袋を押し込んだ左ポケットに手をやると、目ざとくサンジが目を留めて「なんか飛び出してんぞ」と言った。
「ハッまさかお前」
「あぁそういやこれ、そういう日だからか」
がさっと袋を出すと、サンジが胸ぐらをつかむ勢いで詰め寄って来た。
「テメェそりゃどこのレディから奪ってきやがった! それを持って可愛いレディが今日どこかの幸せな野郎に愛を伝えに行くはずだっつーのに!」
「あぁ!? 誰が奪ったつった、もらいもんだ!」
「どこのレディがお前なんぞにくれるってんだわきまえろクソマリモ!」
「馬鹿野郎、あの海軍の女剣士だ、テメェがいうような意味があるわけねェだろ!」
離れろ阿呆、とサンジを突き放すと、サンジは若干よろめきつつ数歩後ろに下がった。
引き攣った顔で、「まさかたしぎちゃんが」と呟いている。
サンジに掴まれたせいでよれた襟元を直しながら、中身の残り少ない袋に目を落とした。
サンジが言うような意味はこれっぽっちもたしぎは口にしなかった。
むしろ嫌そうに、決まり悪そうに、押し付けるようだった。
さんざ追いかけっこして、一二度剣を交えて、振り払って逃げようとした矢先、呼ばれた。
──ロロノア! 待ちなさい、ロロノア! ちょっ……待って!
切羽詰まった口調につい振り返ると、たしぎはずれた眼鏡を直しながら立ち上がり、腰に付けたポーチからごそごそと何かを取り出した。
けつまずきながら、立ち止まるゾロの元まで足早に近寄ると、ぎゅっと手元にこれを押し付けた。
せわしく眼鏡を指先で上げながら、たしぎは俯きがちに口を動かす。
「ああああああげます」
「あぁ!? なんだこりゃ」
「いいんです気にしないで、さっさと受け取って適当に食べてください」
「はぁ、どういうつもりだ」
「いいですか、ここでは見逃しますが、あなたたち一味を必ずこの島で捕えますから! 逃げられると思わないでください!」
勢いよく啖呵を切ると、さっきまで追いかけまわしていたくせにこんどはたしぎの方が逃げるようにゾロの元から立ち去って行った。
ラッピングされたクッキーと一緒に残されたゾロには、なにがなんだかである。
サンジは頭痛に耐えるように額を押さえ、「よし、よし、わかった。たしぎちゃんがお前にバレンタインのお菓子を『義理で』渡したっつーことは今なんとか理解した」と一人早口に呟いた。
「バレ?」
「いいか」
またもやずいとサンジが寄って来たので、思わず身を引く。
「義理だろうとなんだろうと、レディから今日この日お菓子をもらっちまったからには、テメェは必ずお返しをしなきゃならねぇ」
「はぁ?」
「テメェは男のくせに感謝の意を素直に表すこともできねぇのか? どうせそれもらったときに礼の一つも言えてねぇんだろ」
そういえばそうである。
ぐ、と押し黙ると、サンジは腹の立つ顔でハンと鼻を鳴らして笑った。
「本来なら一か月後にお返しをするもんだがな、あいにく明日出航の予定で次いつたしぎちゃんに会えるかわかんねぇんだろ。海軍がいるとなりゃナミさんは早く船を出すっつーだろうし……お前お返しのアテあんのか」
「んなもんあるわけねぇだろ」
「ハーーったくたしぎちゃんはなんでこんなマリモ」
「うるせぇな、じゃあなんか買ってこりゃいいんだろ」
「おうそうだ、きちんと彼女が喜ぶものを見繕えよ」
「酒か?」
ガスッと太腿の辺りを蹴られた。
「クソかテメェは、そりゃお前が喜ぶもんだろうが」
「おれがあいつの喜ぶもんを知ってるわけねぇだろ!」
「んじゃ手作りでもなんでもしてなんとか彼女を喜ばせろ!」
手作り。
コックが作るのか? と一瞬思ったが、すぐにいやちがうおれが作るのか、と思い直す。
想像だにできない作業だが、いいかもしれねぇな、と思った。
思ったのは、たぶん、たしぎにもらったこの菓子を食ったときの、あの作り手の温度がわかるような近さが案外よいもんだということを、ついさっき感じたばかりだったからだ。
「じゃあ教えろ」
「は?」
「教えろ。菓子。おれが作る」
*
船で待ってろと言い渡され、船に戻るとパラソルの下でウソップがなにやら背中を丸めて手元を覗き込んでいた。
おれの方を見もせず「おけーりー」と言う。
おうと答えてキッチンへ向かうと、ウソップが「サンジいねぇぞ、さっき出てった」と言った。
「すれ違ったから知ってる」
「あそー」
誰もいないキッチンに入り、椅子を引いて座った。
もう一度ポケットから袋を出し、机の上に置く。
中身はあと一つだ。
もう一つあったはずだったのに、サンジに食われたのである。
──お前それ、一個渡せ、おれに食わせろ。
──はぁ? なんで。
──悪いこと言わねェから一個食わせろ。教えろっつったのテメェだろ。
しぶしぶ一つをサンジに手渡すと、サンジはためらいなくクッキーを口に放り込んだ。
ガリッ、ジャリッ、ザリッと派手な音が、サンジの口から聞こえる。
しかしサンジは顔色一つ変えず、どこか遠くのゾロには見えないものを見ているような顔つきでクッキーを噛み締め、ゆっくりと飲みこんだ。
──よしわかった。しゃーねぇからおれが材料揃えて来てやる。お前は船で待ってろ。
そのままサンジはまっすぐ街の方へ、ゾロは言われるがまま船に戻った。
手持無沙汰で、酒、と思ったが、酒臭くしているとコックが帰って来たときにまたうるさいんじゃないかと勘が働いて、珍しく自粛しようと腰を下ろした。
ぼーっとしていると寝てしまいそうで、船を漕ぎかけるたびに「ロロノア!」と呼んだ甲高い女の声がこだまして、ハッと目が覚める。
何度かそれを繰り返しているうちに、サンジが帰ってきた。
「おうなんだ、いやに大人しくしてんじゃねぇか」
「テメェが待ってろつったんだろうが」
「おうおういい子だな……っと、よし早速始めるから手ェ洗え。洗剤で、肘までよく洗え。汚いからなテメェは」
「んだと」
噛みつこうとしてもしっしとあしらわれ、やり場のない腹立ちをぶくぶくと腹の中で煮えたぎらせたままどすどすと手洗い場に向かい、手を洗った。
言われた通り肘まで洗った。
ダイニングテーブルまで戻ると、サンジが買い物袋の中身をテーブルの上に広げている。
広げる、と言って、袋から出てきたのはバターがひとつ、それだけだった。
「あいにくこいつだけ切らしてたからな。買ってきた」
「これだけか」
「小麦粉・牛乳・砂糖は船にもうある」
「そんだけでいいのか」
「いい」
スパッと言い渡されると、「そうか」と身を引くしかなかった。
コックがおやつを作るときは、もっと、なんかよくわからない小瓶やらなにやらを駆使しているのように見えたのだが。
「なにを作る」
「あぁ、スコーンだ……っと、お前これ付けろ、エプロン」
顔に放り出された布を受け取って広げる。
紐がどうなっているのかよくわからずなんだか窮屈な感じになったが、とりあえず背中の方で結ぶことができた。
サンジはエプロンをつけたゾロを確かめると、一瞬何か言いたげな顔をしたが、「ん……まぁいいわ」とキッチンの方へ顔を向けた。
サンジはテーブルを挟んで向かい側に仁王立ちする。
「よしまず材料を量るところからだ。そこの量りでまず小麦粉を100g量れ」
「100gってどんだけだ」
「だからそれを量りで量るんだろうが!」
サンジが指さした器具をテーブルまで持ってきて、置く。
ここに小麦粉を乗せればいいのか、と小麦粉の袋を掴んだら、「待て、待て」と声が飛んだ。
「お前まさか直に小麦粉はかりにぶちまける気じゃねェだろな。まず量りにボウルを乗せろ。そんでメモリをゼロに合わせるんだ」
「あぁ」
成程、と一番でかいボウルをはかりに乗せたら、「あー待て」と少し小ぶりのボウルに変えられる。
メモリをゼロにしてから中に小麦粉をぶちまけた。
高いところから落としたせいで、ぶわっと一気に視界が煙った。
「うおっ、テメェもったいねェ入れ方すんな! メモリを見ながら慎重に入れろ!」
「入れすぎたならあとから戻しゃいいじゃねぇか」
「効率悪いし材料が湿気る! あークソ」
サンジは小刻みに革靴で床を叩きながら、身体の前で腕を組んだ。
こちらもうるせぇこと言うなほっとけと言い放ちたいところだが、ほっとかれたら途方に暮れるのはこちらなので、どうしようもない。
入れ過ぎた小麦粉はスプーンで袋に戻した。
「100gだ」
「よし、同じようにバターと砂糖も量れ」
言われた分量を、小さなボウルに入れて量る。
今度は特にサンジがうるさくせず、うまくできた。
「よし、じゃあこのボウルにバターと砂糖を入れて、ひたすら混ぜろ。お前のそのありあまった腕力使え。器具壊すなよ」
へらと一番大きいボウルを渡された。
ざっとバターを砂糖の上にぶちまける。
へらをバターに差してみたが、少し硬くてこねにくい。
ぐりぐりとまわしていたら、やがてバターがクリームのようにまったりと広がってきた。
「混ぜたぞ」
「アホウ、まだまだだ。もっと混ぜろ。白くなるまでだ」
「バターは黄色っぽいじゃねぇか」
「混ぜると白くもっとふわっとなんだよ!」
これが? と思いながらぐるぐると混ぜ続ける。バターが固いうちはなかなか力仕事だと思ったが、続けているうちにボウルの中が柔らかく、そして白く軽くなってきた。
「おぉ、やらけぇ」
「そうだ、もう少し続けろ」
器具がときおりボウルにカツンとぶつかる音と、サンジが煙を吐く浅い音だけが聞こえた。
持久走をしているみたいな爽快感があった。
「ん、よしもういい。んじゃ牛乳はかれ。三回に分けて入れて、入れるたびによく混ぜろ」
言われた通り量ったところまではよかったが、牛乳を入れる間際に「一気に入れるなよ」と言われて手が止まった。
三回に分けろと言われていたのを忘れて一気に入れるところだった。
だまってチョロチョロと牛乳を注いだ。
混ぜて、またもやサンジに言われた通りふるった粉を2回に分けてクリーム状のかたまりに入れていく。
せっかく混ぜてやわらかくなったクリームが、粉を含んでもったりと重い手ごたえとなってきた。
「混ぜすぎんなよ」
「どれくらいだ」
「もっと切るように手を動かせ」
「んなことしたら本当に斬れちまうだろうが」
その言葉にサンジからはなにも返事が返ってこなかったが、特に気にならなかったので顔も上げなかった。
切るように、でも斬らないように、と頭の中でぶつぶつ言いながら手を動かした。
「よし、もういい。ラップして冷蔵庫で寝かせるぞ」
「寝んのか? こいつが?」
「いいから冷蔵庫入れろ」
教え方がぞんざいになってきた、質問に応えやがらねェ、と腑に落ちない気持ちでボウルを冷蔵庫にしまった。
振り向くと、道具入れからサンジが銀色の丸いカップを4つその手にわしづかんでいた。
「型か」
「おう……あーでもどうすっかなー、これより小さいのねェしなぁ」
「あれをそこに入れるんだろ。その大きさでいいじゃねぇか」
いや、とサンジは型をかつかつその手の中でぶつけながら、考えるように上を向いた。
「おめぇのあれじゃ、おそらくたいして膨らまねェから。たぶんこの型じゃ深すぎる」
「あァ? 言われた通りにやったじゃねぇか」
「おう、あれでいい、膨らまなくていいんだ」
どういうこったと目を眇めると、サンジは「お前さぁ」と上を向いたまま言った。
「たしぎちゃんのあれ、あのクッキー、どうだった」
「あァ? 話変えんな」
「変わってねェよ。どうだった。味は。においは。食感は。おれがいつも作るヤツとくらべてどうだった」
「そりゃテメェ」
たしぎの菓子は、端が崩れていて、やたらとガリガリ硬く、砂糖の甘さが舌に残って、まずかねぇけど、コックのとは違う。
それを言葉にするのを一瞬戸惑った隙に、サンジが「おれのとはちがうだろ。当たり前だけど」と掬うように言った。
「おれが作ると、テメェに作らせたやつでもある程度は上手くできる。彼女のよりもはるかにな。テメェも上手にできたおれの菓子を渡してェわけじゃねぇだろ」
レディのプライドの守り方くらいそろそろわきまえた方がいいんじゃねぇの、とサンジは言った。
口を開いて何か言おうとしたが、咄嗟に出てくる言葉を見失うその隙にまたサンジが「んまこれでいいわ。ブサイクな形のができてちょうどいいだろ」
押し付けるように手渡されたそれを受け取った。
サンジがゾロの前に立ち、なにも持たない手で空をなぞって型にバターを薄く塗るそのやり方を教示する。
塗りすぎだアホ、と何度か言われ、そのたびになにかしら口答えして、たった4つの型にバターを塗るだけの作業で少し汗をかいた。
覗き込むように下を向いていたので首が痛い。
「んじゃ、さっきの生地をそこにいれて、あとは焼くだけだ」
少しだけひんやりしたボウルから生地をどろっと流し込む。
バターの乳くささがふっと浮かび上がった。
うまそうだな、と思う。
オーブンに型をよっつ均等に並べ、言われた通りタイマーをセットし、火を入れた。
「おっし、まぁなんとかなるだろ。んじゃ調理器具洗っとけ。おれは一服してくる」
反駁するより早くサンジはさっさとキッチンを出ていって、ふと目についたテーブルの上はごちゃごちゃと汚れていた。
こんなにもある、と面倒くささが先に立ったがなぜだかあんまり厭わしくない。
黙々と器具をシンクに運び、ガツガツと洗った。
机の上が片付くと心なしかさっぱりして、無酸素運動をしたあと詰めていた息を吐き出したときに似ていた。
ウーと低くオーブンがうなっている。
覗き込んだが暗くて中はよく見えない。
見えないのにオーブンの前にしゃがみこんで、褐色の影に沈んだその中をじっと見ていた。
甘い匂いがしてきた。
たしぎにもらったクッキーのにおいに似ていた。
それはやっぱり、コックが作る菓子のにおいとは少し違って、とてもシンプルなにおいだった。
すきだ。
おれはこのにおいがわりとすきだ、と思う。
唐突に背中の扉が開き、サンジが戻ってきた。
オーブンの前にしゃがみこむゾロの背中を見つけて、「ぶ」と口を腕で押さえて吹き出した。
「かーわいー。上手く焼けるか心配してんだ」
「あァ!?」
「まぁそういきり立つな。心配しねェでも失敗しやしねぇよ」
そう言った矢先、タイマーがじじじじじと鳴って思わず叩きつけるようにして音を止めた。
「ほらさっさと火ィ止めろ」と急かされて、あわてて火を消す。
オーブンのドアを開けると、熱気と濃い焼き菓子のにおいが流れ出して足首の辺りを温めるようにまとわりついた。
「素手で持つなよ」とミトンを渡されて、暗がりの中から天板を引っ張りだす。
薄茶色の焦げ目が4つ、綺麗に見えていた。
「んま上出来じゃないの」
頭上で見下ろすサンジが言う。
コンロの上に天板を置き、サンジが指し示したケーキクーラーの上にころころと型をころがした。
ぽこんと中身を取り出すと、ふわっと柔らかいパンのような丸が転がり出てきた。
カップに入れたものよりほんの少し大きくなった程度だ。
「もっと膨らむはずだったのか」
「あ? まぁお前がアホの様にぐるぐる最後混ぜやがったからな。まぁおれにとっちゃ予想通りの出来だ」
悪かねェよ、と言いながらサンジは浅い四角の皿を差し出してきた。
「冷めると多少締まってスコーンらしくなるけども、せっかく近くにいるんだ。焼き立て食ってもらえよ」
皿の上にスコーンを転がし、ほかほかと立つ湯気を目で追う。
これ、おれが作ったのか、と気付けば口走っていた。
「は? そうじゃねぇか。もう忘れたのか」
「おれぁ言われたことをしただけだ」
はぁ、とサンジは気の抜けた声を出して目を丸めた。
「レシピ本みて作るのとなにがちげーんだ。本見て作ったら自分で作ったんじゃなくて本が作ったことになんのか。ちげーだろ」
いいからさっさと渡してこいグズグズすんな、とケツを軽く蹴られる。
こんの野郎、と歯を剥いて振り返ったら、めちゃくちゃに洗った際へし折った泡だて器にサンジがちょうど目を留めたところだったので、すかさずキッチンから滑り出た。
甲板には帰ってきたときにいたウソップがいなくなり、がらんと空いていた。
*
ゾロを認めた途端、たしぎがさっと刀に手を掛けた。
答えるように手が伸びかけたが右手が皿でふさがっていて咄嗟に動けなかった。
町はずれの裏道だ。
ぽつぽつと町の人間が歩いている。
すれ違う人がときおりたしぎに声をかけ、挨拶をした。
そのたびにたしぎは律儀に頭を下げて答える。それを近づきながら見ていた。
戦闘心のないゾロを不可解げに見つめて、たしぎも刀から手を離す。
「……なにか。なんですかそれは」
「食え。礼だ」
礼? と首をひねってから、たしぎはぎゃっと短く叫んで飛びのいた。
「ああああアレのことですか? もういいんですすみません食べました!?忘れてください!」
「食った」
「すみませんヒナさんに教えてもらったレシピの通りに作ったはずが、私メモを見間違えたみたいで砂糖を入れ過ぎて……あとなぜだかものすごく硬くなってあの」
いいから、と言葉を遮って、皿をたしぎの鼻先に突き出した。
やっとたしぎの焦点が皿の上の焼き菓子に定まって、「これは」と呟く。
「礼だ」
「あなたが……作った? のですか?」
「おう」
「いま? さっき?」
「そうだっつってんだろ。いいから食ってみろ」
ちらっと小動物のような目がゾロを仰ぎ見て、スコーンに止まり、またゾロを見てから、おそるおそると言った態でたしぎの手が伸びてきた。
「あつっ」
まだ湯気が立つそれを指先でつまみ、たしぎはゾロがクッキーを口にした時と同じようにためらいなくかぷりとスコーンに噛り付いた。
「あふっ、あ、熱い! あ、でも」
おいしい、と口を押さえ、目を丸くして、たしぎが言う。
「おいしいです。ロロノア、これ」
「そうか」
言いながら、どこかつっかえが外れたような心地よさが腹の辺りに広がるのを感じた。
ふ、と唐突にたしぎが笑み零れた。
「おかしい、ついさっき渡したばかりなのに、もうお礼なんて。しかもあなたがお菓子作り」
「ばっ……笑うな!」
「だって……しかもこれ、あなたの船の食器ですか? お皿ごと持ってくるなんて」
ふ、ふ、と口を押えて笑ってから、たしぎがまた一口スコーンに噛り付く。
そのタイミングで身体が動いた。
たしぎが噛り付いたその反対側を、同じように噛ってやる。
思いもよらない──でもたしかに確信犯的に、至近距離で目が合った。
ぽろっとたしぎが落としかけたスコーンを慌ててゾロが受け止める。
「なっ……たっ……」
「ぼちぼち食える味だ」
「食べないでください!」
「ハァ!?」
「私があなたにもらったんですから! 勝手に食べないでください!」
「おれがやったやつなんだからいいだろうが!」
「ダメです! 一度貰ったら私のものなんだから許可を取りなさい!」
「ケチケチすんな!」
たしぎの代わりにもっていたスコーンの残りをばくっと一口で口に納めると、「ギャー」と悲鳴を上げてたしぎが飛びついてきた。
「なんてことを! 非道! 極悪人! 私のなのに!」
口の中でもそもそとする粉っぽいのを飲み込んで、やっぱりあんまり美味くはねェかもなと考える。
飲みこんで、「まだあるだろが」と皿を差し出したら皿ごとさっと奪われた。
そのまま背を向けてスコーンの皿を隠される。
この野郎と言いかけたら、「これは」と背を向けたままたしぎが遮った。
「飲み物が欲しくなります」
「あ? あー、確かに」
「紅茶がいいと思います。あと、ジャムやクリームをつけたらもっと美味しいかと」
はぁ、と相槌ともつかない声をこぼす。
「それらが美味しいお店を知っていますが」
「連れてってくれんのか?」
「あなたが勝手についてくるということにしてください。でないと私の立場が」
あやうい……と消え入りそうな声で言うのに思わず噴き出したら、「人の気も知らないで」と肩越しに睨まれた。
唐突にたしぎが歩き出したので、言われた通り勝手についてきていると思われたら癪だと思い大股で横に並ぶ。
「あの、これ」
「あ?」
「冷めたらすごく硬くなりそうですね」
「うるせっ、テメェが言うな!」
あははっ、とたしぎが口をあけて笑った。
ぎょっとして、その顔をまじまじと見下ろした。
見られていることに気付いていないたしぎは皿を大事そうに両手でささげ持ち、ふんふん、とほんの一小節ほどの鼻唄をおそらく無意識に歌った。
その顔を初めて誰に似ていると思うでもなく、いいなと思った。
「ここ、あなたの指のあとがついてる」とたしぎが、スコーンのへこみを嬉しそうに指でなぞった。
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一世一代の大決心だ。
心臓は喉の辺りまでせり上がり、瞳孔は開き切って夏の光がまぶしかった。
──ペル、ペル、聞いて。
──なんですか。
──あのね……もう、もう少ししゃがんで! 意地悪しないで!
──はいはいなんでしょう。
すっとしゃがみ込んだペルからふわりとサンダルウッドの香りがした。
ペルの部屋にいつも焚いてあるこれは深くて甘い。
──あのね、ペル、わたし──
言ってすぐ俯いて、しまったと思ったけど顔を上げられなかった。
だけどしまったと思ったのは俯いてしまったことだけで、一体どんな顔をして、どれだけ驚き、なんと言ってくれるのだろうと楽しみで仕方がなかった。
どきどきと胸は高鳴り心臓は飛び出しそうなのに、それはどこか緊張とはかけ離れていて、不思議な昂揚感だけが胸中をひたしていた。
──ありがとうございます。
顔を上げるとペルの顔がすぐ近くで、高い鼻が私のそれにくっついてしまうかと思ったほどだ。
ペルは切れ長の目をゆっくりと細くして、大きな口もいっぱいに広げて笑っていた。
──ビビ様、私もあなたが大好きですよ。
えっ、と思わず声に出す。
ペルは足を伸ばして立ち上がり、「そろそろ家庭教師の時間では? 先生が来てしまいますよ」と言ってさあさあと私を追いたてた。
その服の裾に追いすがりたくて手を伸ばすも、掴み損ねて中途半端に手が止まる。
──ペル、あの、
──ほら、ビビ様。イガラム様が呼んでいらっしゃる。
ポーチを抜けた玄関口で、イガラムが手を振って私を呼んでいた。
振り返ってペルを見上げてもにこりと笑うだけで、もう何も聞けなかった。
ちがうの、そうじゃなくて、と言いたかったけれど、なにが違うのか、そうじゃなければなんなのか、私にもわからなくてついに言えないままその場を立ち去った。
ぼんやりと授業を受け、お小言を聞き流し、呆れた顔で教師が帰った部屋でカルーと遊んでいたらぼろぼろと涙が止まらなくなって、その日は夕食の前まで泣いた。
その夜、腫れた目のまま浴室へ向かうところでペルとすれ違ったけれど、ペルはいつものように「ごゆっくりと」と笑って頭を下げただけだった。
そのとき、この恋はおわるのだと思った。
いつから始まったのかわからないように、いつのまにかきっと静かにおわるはずだ。
まっすぐで長い廊下をゆったりと遠ざかって行く背中を一度だけ見て、振り切るように風呂場へ駆けこんだ。
いつかおわるならそのときまで大事にしたい。
泣いてまで、惜しいと思った恋なのだから。
*
ひろい、でかい、信じられない、とひとしきりナミさんはひとりで騒いでいた。
ばっと手を広げて叫ぶ彼女は子どもみたいだ。
「あんたの部屋、うちのマンションワンフロアぶんくらいの広さよ!」
「郊外だから……」
「そういう問題じゃ、ない!」
いいなぁいいなぁとしきりにナミさんが言うから、気恥ずかしくて落ち着かない。
ナミさんと一緒にやってきたカヤさんとロビンさんも、物珍しげに家の中を眺めていた。
控えめにノックが響き、家のことを手伝ってもらっている女性が私の友だちのためにお茶とお菓子を持ってきたのには、彼女たちだけでなく私もすこし驚いた。
だってさっき夕食を食べ、今風呂から上がったばかりなのだ。
「お茶はともかく、こんな時間にケーキなんて」
「でも旦那様が」
「えーっうれしい、ありがとうございますいただきまーす!」
ナミさんが歯切れよく礼を言って、気をよくした彼女が部屋を出て行くとナミさんはにっこり笑顔を張り付けたまま私を振り返り、「どうなってんだか」と呟いた。
「想像以上のお嬢様ね」とロビンさんまで追い打ちをかける。
否定するほどのことでもなく我が家が仰々しいのは事実なので、諦めてケーキとお茶の乗ったワゴンをがらがらと部屋の中に引き入れた。
「そういううちが見たいってあなたたちが言ったんじゃないの」
「そうよ、そうだけど、予想以上」
ホットパンツの裾がくるりとめくれているのを指先で直しながら、ナミさんが「楽しい夜ねー」と素直な声で言う。
パジャマパーティーがしたい、とカヤさんが神妙な声で言いださなければ実現しなかった夜の集まりだ。
それならビビの家に行きたいと言い出したのは言わずもがなのナミさんで、みんな自分の寝巻を持ってうちに集まった。
友達を呼ぶわ、と言ったら張り切ったのはイガラムとうちのコックで、それなら夕食もうちで食べろ大浴場も使えと世話を焼くこと仕方なかった。
さっきまで仕事で父もペルもチャカも家を空けていたはずだけど、23時近くなって帰ってきたようだ。
「コーヒーと紅茶があるけどどっちにする?」
「わざわざふたつ淹れてくれたのかしら。お店みたいね」
私コーヒー、じゃあ私は紅茶を、と口々に言ってから、みんな自分の分は自分でカップに注いだ。
ケーキは銀のプレートに小さく切り分けて乗せられていたので、ソファで囲んだローテーブルに置いて取り皿だけ配る。
「夜更けのケーキ、最高ね」
たまらない様子でナミさんが呟くのに対し、カヤさんは背徳感で若干青ざめている。
「ビビさんの家はパティシエまでいるの?」
「まさか。父がお土産に買ってきたんじゃないかしら。あぁそういえば」
「これ」
かぶり気味に呟いたナミさんは、ケーキに落としていた視線を私に向けたかと思えばすぐに決まり悪そうに目を反らした。
あまりに可愛らしいので、つい吹き出してしまう。
「父に言ってあったの。おいしいレストランが、夜遅くまでパティスリーもやってるわって」
「……あそう」
「ここはベイクドチーズが定番人気だって言ってたわね」
ロビンさんがフォークを伸ばし、小さく切り分けた薄茶色のケーキを小皿に乗せた。
「ロビンさん食べたことあるの?」
「前にナミが買ってきてくれてそのときに」
「あら」
あらあらあらとカヤさんとふたりニヤつけば、「うるっさいなぁ」とナミさんはカップで隠すようにコーヒーを飲んだ。
「お酒じゃなくて、こういうのもいいわね」
ロビンさんが一口サイズのチーズケーキでコーヒー一杯をつなぎながら言う。
部屋は甘いにおいで満ちていて、話すみんなの口調もどこかしっとりと甘い。
「そろそろお酒も欲しくなってきた? 買ってあるわよ」
ナミさんが足元のビニール袋をがさりと持ち上げる。
「スーパーで買ってきたのと、あとノジコがなんかいいブランデーうちに置いてったから持って来ちゃった」
「ブランデーなら甘いのにも合うかも」
「ビビ、グラスある?」
「あるある」
酒好きふたりがお酒の気配を前に目に見えてそわそわし始める。
小ぶりのグラスを一応四つ手に取った。
「カヤさんも飲む?」
「あ、私きついのは」
「ビビは?」
「うーんどうしようかなー。私もお酒強くないし」
「紅茶に少し落としてもおいしいわよ」
あ、じゃあ、と言うとすかさず金色の液体がたぷんとほんの数滴私のカップに落とされた。
*
中庭に続く扉をバーンと開け放ち、夜風に身体を放りだすみたいな気持ちで中庭にまろびでた。
バルコニーを支える白い柱に身体を寄せるとひんやりと熱を奪われる。
真上にある部屋から、途切れ途切れにナミさんとロビンさんの声が聞こえた。
ブランデーのボトルはすっかり空になりかけているのに、彼女たちは顔色一つ変わらない。
カヤさんは日付が変わって1時間経ったところでソファのクッションに埋まって眠ってしまった。
雲が多くて蒸し暑い。
庭の植木からうぃんうぃんと得体のしれない虫が鳴いていた。
それなのにお酒の力か楽しい時間の余韻のせいか、浮足立つような気持ちがおさまらない。
「酔っちゃった……」
「随分と楽しそうで」
家の中から聞こえた声に重たい頭を動かす。
一瞬誰の姿も見えなかったけれど、暗がりの中目を凝らすと黒いスーツ姿のままペルが立っていた。
「まだ休んでなかったの?」
「なにかとすることがありまして」
「お父様に言っておくわ、ペルが過労で死んじゃう」
「ご進言ありがたいですが、それよりあなたこそこんな時間まで」
ペルが一歩進みでる。
暗がりには変わりなかったが、中庭の警備灯に照らされてその姿がよく見えるようになった。
「うるさかった?」
「いえ、気になりませんが……ケーキを食べていたのでは?」
「そうよ。あとブランデー」
ペルは一瞬目を丸めてからくしゃくしゃと笑った。
「随分大人な楽しみ方をするようになりましたね」
それには答えず、背を向けて庭先のベンチに腰かけた。
ぬるい夜風がふわふわと頼りなく髪先を揺らす。
「座る? もう行っちゃう?」
「──では、失礼します」
よいしょと跨いでペルが隣に腰かけた。
なんでこんなところにベンチがあるんだろうと、昔からあるそれをちっとも不思議に思っていなかったのに、不意にそんなことが気になった。
「疲れてる?」
「いいえ」
「嘘、こんな時間までお風呂にも入れないのに」
「入ろうと思えば入れましたが、少しダラダラしてしまって」
「ダラダラしてるペルなんて見たことない」
はて、とペルは首をかしげるそぶりをした。
「そうでもありませんよ」
「そうかしら」
ビビ様はご存じでないかもしれませんが、と妙に含みを持たせてペルは言う。
「私はだらけることもありますし」
「へぇ」
「面倒くさがり屋ですし」
「ふぅん」
「そしていくじなしです」
意外にも、とペルはみずから付け足した。
「……根に持ってる?」
「ちっとも」
「うそばっかり」
はははとペルが笑うとサンダルウッドの香りがした。
一日仕事で疲れたその身体から立ちのぼるように、彼の香りは今でも深くて甘い。
こみ上げる何かに耐え切れず、俯いた。
「──こんなの不毛だわ」
おわらせることなんでできなかった。
おわりを大人しく待っていることもできなくて、どうにかしてやりたいのにそう思うことしかできない。
いくじがないのは私だ。
「そうでしょうか」
「ペルが一番わかってるでしょう……!」
「私から身動き取れるはずがないということをあなたもわかっている」
ビビ様、と一言呼んでペルは立ち上がった。
「あまりお友達を放っておいてはいけません。それに夜更かししすぎると疲れますよ」
顔を上げた。
こちらが座っていると、立ち上がったペルの顔はあまりに遠いように思えた。
そうね、と放心して答える。
ためらいなく差し出された手を取って腰を上げたら、不意に強く引かれて足を一歩踏み出した。
ふっと濃くなる香りに脳髄が揺さぶられる。
額の辺りに囁かれた声が頭の奥に染みていく。
「なにを命じるか決めましたか?」
「──まだ」
「そうですか」
唐突にペルが離れた。ふわりとベンチを跨ぎ越し、バルコニーの下の影へさっと入り込む。
「ゆっくりでいいですよ。私はずっとお側にいますから」
おやすみなさいという言葉と一緒にペルの姿が消えると、引き潮みたいに香りも掻き消えた。
こんなことで喜ぶなと自分に言い聞かせながら、パントリーを漁ってとびきり良さそうなお酒を一本部屋に持ち帰った。
ナミさんたちは夜中の3時とは思えない歓声を上げた。
きっと彼にも聞こえたことだろう。
胸が潰れてしまう。
咄嗟によぎった考えで、はっと胸を押さえた。
ひゅっと軌道が狭くなり、覚えのある息苦しさが喉の奥からせり上がってくる。
いけない、と思う間もなく盛大に咳き込んだ。
人の行き交う駅の改札口、緑色の掲示板にたくさん貼られた色とりどりのポスターを背に、壁際に設置されたベンチにずるずると座り込む。
一度咳がせり上がると、調子づいたようにいつまでも息苦しさがやってきて、吐き出すばかりで空気を吸い込むことさえ難しい。
目の端に涙が滲んで、こんなところで、もう大人なのに、と哀しくなりそのことが余計涙を呼んだ。
震える手で鞄からミニタオルを取り出し、口元に当てた。
タオル越しに吸い込む空気は、外でも家でも同じ気がして慣れた洗濯物のにおいに少しだけ心が落ち着く。
止まらない咳をやり過ごすのにどれくらい時間が経ったかわからず、ベンチに片手をついてずっと自分のつま先を見ていた。
咳き込みすぎて頭の芯がぶるぶると痺れて痛く、咳き込む声もかすれているのにまだ止まらない。
そのときふと視界に、自分以外のつま先が現れてぎょっとした。
薄汚れたスニーカー、つまさきだけで自分の足全部と同じくらいのサイズだ。
「おいお前大丈夫か」
顔を上げかけるも、途切れ目なくやってくる発作に視界がぶれて、ただ男の人だと思い緊張が走った。
「なんか飲みモン……おい、これ飲め」
目の前にずいと差し出されたペットボトルが滲んだ視界の中ぼやけて浮かんだ。
飲めと言われても、そんな、と戸惑っていたら男性はきゅるきゅるとキャップを開け、飲み口を私の唇にぐいとぶつけた。
驚いて顔を上げた瞬間、ぬるくて甘い液体が口の中に入り込む。
咄嗟に飲みこみ、収まりきらなかった分が口の端からこぼれた。
恥ずかしさに一瞬で顔が熱くなる。
それでも飲み物が通ったことで手のひらを返したように気道が広がって発作がするすると奥へ引っ込んでいくのがわかった。
少しむせ、反動で新鮮な空気を目いっぱい吸い込む。
すぐにタオルで口元を押さえ、こぼれ出た言葉は「ごめんなさい」だった。
「苦しいか。救急車呼ぶか」
私の顔を覗き込む男性の言葉に、慌ててぶんぶん首を振る。
救急車のいたたまれなさを私は知っている。あれだけはいやだと思った。
「大丈夫です、もう放っておいて」という意味のことを言いたかったけれど、伝えるためにどういう言葉にすればいいのか咄嗟に出てこない。
「こんなところじゃなくてどっかで休んだ方がいい。誰か知り合いと待ち合わせたりしてねぇのか」
待ち合わせじゃないです、とかすれる声で言う。
男性は少し間をおいて、深めの息を吐いた。
そのことにわけもなくまた涙が出そうになる。
迷惑をかけてしまった、とまた頭の中に酸素が回らなくなる。
「おれの知り合いの家が近ェから、そこで休め。連れてくぞ」
「え」
ぐいと腕を引かれ、身体の前面が固い身体にごつんとぶつかって咄嗟に目を瞑った。
ぐわっと重力が全身にふりかかり、気付いたら広い背中に背負われていた。
ああ、ともきゃあ、ともつかない悲鳴がひくついた喉からこぼれ出た。
「安心しろ、おれんちじゃねェ。お前このままここに放っといたら死んじまいそうだ」
言うが早いか、男性はずんずんと進み始めた。
知らない人にあられもなく公衆の面前で背負われているということに頭が真っ白になり、ぱくぱく口を動かすも言葉が出てこない。
怖くはなかった。
ただ申し訳なくて、恥ずかしくて、男性が握りしめる白いポシェットバッグの革紐がぶらぶら揺れるのを知らないもののように感じた。
「あ、あああああの」
「あ?」
「だい、だいじょうぶです。私あの」
「お前ここで降ろしたら歩いて家まで帰れんのか」
「そ、」
ほんのりと痙攣し続ける脚が、むりだーと如実に言っていた。
「ちょっと待てよ」
男性は歩き出して5分もせず、ひとつのマンションの前で立ち止まった。
掴んでいた私のバッグの紐を首にかけ、その手でポケットから携帯を取り出してどこかに電話をかけ始めた。
「おい、今家にいるか。開けてくれ」
もう着いてしまった、と安堵のような絶望のようなどっちつかずの気持ちでマンションを見上げる。
ずらりと並んだベランダのうち3階の一つの部屋から、不意に人が現れてこちらを見下ろした。
その見覚えのある顔にあまりに驚いて、咄嗟にまた発作がぶり返しそうになった。
*
すっきりと綺麗なシーツが敷かれたベッドに寝かされて、人の家にもかかわらずついうとうとした。
ぼんやりとした頭の向こう側で誰かが一人で喋っている。
電話をしているようだ、と思いながらその声を耳慣れた心地で聞いていた。
──お前知り合いか。家にいる。あぁ? おれんちじゃねェ。
──いいからそんなら迎えに来い。住所? 住所……だからおれんちじゃねェんだって。
──お、ちょっと待てよ、住所は……
──おう、早く来い。あぁ? あほか手ェだすかおれんちじゃねェつってんだろ!
それきり声は聞こえなくなった。同時に誰が誰と話しているのか思い当り、勢いよく身を起こした。
「ウ、ウウウウソップさん……!」
「お、目ェ覚めたか」
掬い上げるような三白眼の目がこちらを向いた。
つくつくと上に立った短い、薄緑色の髪。
いつか見たことがある人だ、と思ったけどいつのことだったかぼやけた頭では思い出すことができなかった。
「あいつなら買い物行ってんぞ。おれが行くっつったのにおれじゃ帰ってこれねぇとか言いやがった」
「は、あの、今、電話」
「あぁ、あんたの携帯鳴ってたから勝手に出た。知り合いなら迎えに来るかと思って。迎えに来るっつってたぞ。電車乗ってるつってたしすぐ着くんじゃねェか。駅近いしな」
男性は一気にそう言って、テーブルに置いてあるペットボトルの水を手元に寄せてゴッと勢いよく飲んだ。
「ウ、ウソップさんでしたか」
「あ、わりぃ名前聞いてねェわ。男だったけど。急におれが出たからびびらせたみてぇでめちゃくちゃどもってた」
ウソップさんだ。
男性はペットボトルのキャップも閉めずにテーブルに置き、濃い茶色のテーブルの前、足の長い綺麗な椅子に深く腰掛けてぼんやりペットボトルのラベルを見ていた。
息がつまるように感じているのはどうやら私だけのようで、そのことに少し安心した。
「あの、あり、ありがとうございました」
「ん、おう気にすんな。よくあんのか」
「え、いえ、最近はあんまり」
「そうか」
ぶーーんと網戸の向こうをカナブンのような虫が音を立てて飛んで行った。
3階という高さは自宅の部屋と同じ高さなのに、見える景色は全然違う。
こっちの方がずっとおもしろいのに、と羨ましくなって窓の外を見ていた。
その間、男性もずっと何も言わなかったけれど、気づまりには思わなくなっていた。
やがてぴんぽんと明るい電子音が鳴り響き、「お、来たんじゃねェか」と男性が腰を上げて壁に取り付けられたインターホンまで歩み寄ったが、しばらくいろんなボタンを押した挙句私を振り返って「どうやって開けんだ、これ」と不機嫌そうに呟いた。
慌ててベッドから降り、受話器を上げて「もしもし」と答える。
「お、おお!? カヤか!? おっめーびっくりさせんなよ!」
「ごめんなさい、あの、今鍵を」
解錠のボタンを押すと、ぴっぴっぴと言いながらエントランスの扉が開く音がした。
受話器を置いて玄関まで行こうとしたが、男性が「3階だぞ。まだかかるだろ」と静かに言ったのでそれもそうだと引き返す。
所在なくて、なんとなく男性の向かいの席に腰を下ろした。
「よかったな」
男性がぼそりと呟くので、「はい」と神妙に頷いた。
やがて玄関がチャイムもなく開き、「カ、カヤー?」と怯えたようなウソップさんの声が聞こえて慌てて席を立った。
*
タクシーを呼びなさいという家主の言葉を丁寧に辞して、代わりに持って帰りなさいと買いだしてきてくれた飲み物や食べ物を紙袋ごとごっそりと渡される。
それらを全部ウソップさんが両手にぶら下げて運んでくれた。
駅までの短い道のりとはいえ、1リットルのスポーツドリンクが2本入った紙袋を抱えてウソップさんは汗をかいていた。
「私持つわ」
「ん? おお、いいよ気にすんな。それよりおめーなんでまた発作なんて」
最近全然なかったろ、とウソップさんは私の背中に声をかける。
私は両手の塞がった彼の代わりに切符を買いながら、「そうね、久しぶりで私も驚いた」と言った。
「そうねっておめー、ちゃんと診てもらえよ」
「うん」
改札をくぐり、ホームに上がるとすぐに電車が来た。
開いている二人分の座席にすとんとはまり込むように座る。
「あいついーやつだったな! 最初おめーの携帯に出たときはおっそろしー声だわ見た目もおっそろしーわで参ったけど」
はっは、とウソップさんは明るく笑って、紙袋の中を覗き込んだ。
「こりゃ熱出たときのラインナップな気もするが、ありがたくもらっとけよー。おめーどうせすぐ熱出すから」
「最近あんまりないわ」
「そうかぁ? 今日のことがあっとあんまり信用ならねェけどな」
「──ごめんなさい、迎えに来てもらって」
「はー? なに謝ってんだ。気にすんなよ、それにいつものことだしな。ま、今回は久々っつったら久々……」
「もう迎えに来てくれなくてもいいわ」
は? とウソップさんは丸い目をもっと丸くして、なんで? と尋ねた。
「迷惑だし……」
「はー? 何言ってんだ今更。おれが迎えに来なきゃだれが迎えにくんだ。おめーんちみんないそがしいだろ」
「タクシーで帰れるわ」
「お前一人でタクシーなんて乗ったことあんのか? 金の払い方わかるか?」
「わからないけど! ウソップさんはいっつも何かあればすぐに来てくれるから」
「それがなんかわりーのか?」
咄嗟に隣の彼を見上げると、彼は心底わからないと言う顔で私を見下ろしていた。
「急にわかんねぇこと言うなよー。いいっつってんだからいいじゃん。おめーになんかあったときはおれに任せろ」
「なんで……」
「は? なんでもなにも」
がたん、と電車が大きく揺れた。
肩がぶつかり、彼の抱えた紙袋ががさりと音を立てる。
向かいの網棚に乗っていた皮のカバンがごとんと横倒しになって、中からクリアファイルが少しはみ出していた。
「──明日から実習だから、今日ついでに借りてた本返すわね」
「ん、おお、読んだかあれ。めちゃくちゃ面白れぇだろ。職場で流行っててよー、原作が今度映画に」
止まらない彼の話を聞くともなしに聞きながら、網棚のカバンからファイルが少しずつ大きくはみ出ていくのを眺めていた。
──胸が潰れてしまう。
今日彼が来てから何度感じたかわからないこの感触が、もう発作を呼ぶことはなかった。
ただ常習化したみたいに、ほのかな痛みだけがあった。
「今晩メシ食いに来ていいか」と言われたとき、惰性で「勿論」と答えかけて思いとどまった。
息を止めるように言葉を吸い込んだ私に、彼が怪訝そうに振り返る。
結びかけの靴紐が、玄関に座り込んだ彼の肩越しに見えた。
「用事あんならいいぞ」
「──えぇ、そうね、今日はちょっと」
ゾロは少しだけ目をすがめ、返事もせずにまた俯いた。
何を考えただろう。
私と誰の予定を想像したのだろう。
今夜はナミたちと飲みに行く予定があるだけで、大した事情じゃないのに。
彼が想像した何かを私もまた想像し、彼の中で膨らんだいろんな思惑を夢見て私はわくわくする。
立ち上がった彼は、上り框からおりたせいで私より15センチほど背が低くなる。
私を見上げて「じゃあな」と言った。
今度いつ来るとか、今日はどうだったとか、そういう言葉は一切なく、別れのキスすらない。
「えぇ、じゃあ」
本当は「また」と言いたいのを堪えて、出ていく彼の背中を見送った。
16時ごろになるまでだらだらと掃除をしたり化粧を直したりして過ごし、たいして時計も見ずに適当に家を出て駅に着いたのは16時半を少し回った頃だった。
駅前にはすでにビビが待っていて、私を見つけて小さく手を振った。
「早いわね」
「ロビンさんも早いわよ。私はそこの本屋さんにいたんだけど、混んできたからでてきちゃった」
ふとビビの肩越し、50メートルほど向こうの柱の下でまるで人を待つようなさりげなさで佇む黒衣の男が見えた。
さりげないとは言って、その目は鋭い。私と目が合い彼は小さく会釈した。
「どうして離れて立ってるの?」
「なあに?」
「彼と。一緒に待てばいいのに」
「さあ。私が『じゃあ』って言ったからかしら」
ビビは私を見上げて、「どうしてそんなことを聞くの?」と言いたげな顔をした。
その無邪気さに、私は信じられない思いで微笑む。
いっときたりとも離れたくないとは思わないのかしら。
この50メートルの距離が死ぬほど欲しくなるときが、いつかやってくるとも知らずに。
「ロビンさんはどこかに出かけてらしたの?」
「いいえ、家にいたわ」
「そう、なんだか今日はお洒落だから」
そうかしら、と私は足元を見下ろした。
ベージュ色のパンプス、紺色のワンピース、レースのかぎあみショールと、パールのピアス。
どれもお気に入りではあるけど、特別お洒落をしたつもりはない。
ビビは含み笑いをして「デートだったのかと思った」と言った。
「デートねぇ」
「ふふ、ちがった?」
デートはしてない。セックスはしたわと言いかけて、ビビが私の肩越しに手を振った。
振り返ると、小走りでカヤがこちらへ向かっていた。
「す、すみません、お、お、おそく、なって」
「遅くないって、まだ時間前だから。カヤさん息切れすぎよ、大丈夫?」
「ご、ごめんな、さい、ちょっと走、ると、すぐ」
つるんと白い頬がほんのすこし血色良くなる。
はぁはぁと苦しそうに、しかし嬉しそうにカヤは顔を上げた。
「あとはナミさんだけね」
「えぇ、いつも通りってかんじね」
ナミは時間通りにしか来ない。
待つのが嫌いと言うより、そういう時間を節約するのが好きなのだ。
ぽつぽつと午前中なにをしていたかなど話していたらいつの間にか17時が近づき、駅の人ごみに紛れてナミが「お待たせー」と姿を現した。
今日はナミの知っている店に行く。
私たちはぞろぞろと横並びに連なって、人波を縫って歩いた。
薄暗い店内で、四人の爪と氷のつまったグラスだけがキラキラ光っていた。
丸い円卓を囲んで背の高いスツールに座り、光るグラスをぶつけて乾杯する。
がやがやと騒々しく、声を張り上げなければ仲間内の会話すらままならない。
そのぶんどんな話をしたってかまわないのだという気安さがあった。
ナミのおすすめと他数品を注文し、突き出しのマリネをつまむ。
「今度の休みはどっか行くの?」とナミが誰にともなく尋ねた。
「3連休になるんだっけ」
「学会の準備で全部潰れちゃうわ、私」
「カヤさん相変わらず忙しいのねー」
「でも社会人に比べたら気楽なのよ、きっと」
「ナミはどこか行くの?」
んーそうねぇと、ナミはまんざらでもない顔を作って箸を動かしている。
「まだ未定。でも仕事お休み取れたしどっか行きたい。ロビンは?」
「そうね、私も未定だけどどこか遠出したいわ」
「誰と?」
真顔のナミと視線がかち合い、すぐにナミはにやっと笑った。
「誰と遠出するんだって?」
「──イヤな子ね」
「え、なになになに?」
ビビが身を乗り出して私を見つめてくる。
「ロビンさんやっぱり彼氏いるの? 全然教えてくれないんだもの」
「どんな人? 年上?」
「待って待って、私も順番に聞きたいから」
ナミがビビとカヤを制するように彼女たちに手のひらを向け、私に向き直った。
「こないだ夜たまたま会ったとき、一緒にいた人とどうなったの? その前に会った人と違う人だったけど」
「どうって、どうもなってないわ。あの日一緒にいただけ」
「一緒に薄暗い怪しい店に入ってったじゃない!」
「怪しくなんかないわよ、普通の飲み屋さん」
「うそうそうそ、んじゃあその店の後どこに行ったのか言ってみなさいよ」
黙って肩をすくめると、ビビとカヤは顔を寄せ合って息を呑み、ナミは鼻にくしゃっと皺を寄せた。
「ほらね! どうせそれから会ってないんでしょ」
「そうねぇ」
「ちょ、ちょっと待って、ロビンさんの彼氏の話は?」
「彼氏なんかいないわ」
えーっ、とビビが音にならない声で叫んだ。
隣のカヤはなぜか熱いとも言える視線を私に送ってくる。
「だって私好きな人がいるもの」
濡れたグラスに指で線を書いていたナミの手がぴたっと止まった。
えーっ、とまたビビが今度は声に出して叫ぶ。
「すきなひと、好きな人!?」ナミの声は張り上げても張り上げても周りのざわめきと一緒に天井に吸い込まれていく。
「えぇ、半年くらい前からずっと」
「聞いてないけど」
「言ってないわ」
「ずるい!」
思わず笑うとナミはますます嫌そうに顔をしかめた。
それでそれで、とビビがますます身を乗り出す。
「どんな人?」
「年下ね」
「えーっ意外! いくつ?」
「あなたたちくらいかしら、もう少し上かも」
「知らないの?」
「そういえば」
ナミが空のグラスをゴンとテーブルに置き、すかさず店員におかわりを頼んだ。
「で、どこで知り合った馬の骨なのよ」
「ナミさん言い方」
「うちの大学の学生ね。もう卒業したけど」
「ど、どんな人?」
どんな人。
「鉄の球みたい」
「は?」
「無口で愛想もないし、感情の起伏もほとんどないみたい。身体もちょっと不気味なくらい硬くて丈夫」
「……それどうなの、一緒にいて楽しいの?」
「勿論」
無口だけど要らないことは何一つ言わないし、言うべきことをきちんと選んで口に出す。
愛想はないけど冷たいわけじゃない。
そしてときおり爆発するみたいに声をあげて笑う。
そういうところが好きなのだ。彼女たちには言わないけど。
はー、と感嘆のようなため息のような声をあげて、ビビはからからとグラスを揺らした。
「でも、まだお付き合いには至ってないのね。好きって言った?」
「いいえ」
「言わないの?」
「機会があれば」
「相手の人はロビンさんの気持ち知ってるのかしら」
「さあ」
柳に風、とナミが肩をすくめた。
「ロビンが本気出したら堕ちないわけないじゃん。怖いなぁもう」
「そんなことないわ、全然うまくいかないもの」
「そうなの?」とビビが声を潜めた。
ぜんぜんよ、と私は繰り返す。
好きだなんて言ったら彼はなんて言うだろう。なにも言わず、いつもみたいに黙って出ていってしまうんだろうか。
そんなことになるのなら何も言わず何もしない方がいい。
「うまくいかないって、例えば?」
ナミが枝豆を手で摘み取りながら尋ねた。
鮮やかな黄緑色を目で追いながら、「たとえば」と私は考える。
「名前を呼んでもらった覚えがないわ」
「え、それって一方的にあんただけが知ってる人ってわけじゃないんでしょ?」
「そうよ。それに誘ってもすぐに帰ってしまうし」
「すぐにって、ごはん食べ終わったらさっさと帰っちゃうみたいな?」
「とか、セックスが終わればすぐに服を着てしまうとか」
突然カヤの手から小エビのフリットに刺さっていたつまようじが跳ねとんだ。
慌ててそれを拾い上げる彼女に「大丈夫?」と声をかけてから顔を上げると、ナミは眉間に二本の指を当てて難しい顔をしていた。
「待って、待って」
「なに?」
「あんたたちどういう仲なの」
「付き合ってないわ」
「友達なの?」
「いうなれば」
「でもエッチはするの?」
「するわ」
出た、とナミは目を瞠った。
「あんた相変わらず面白いことしてるのね」
「なんにも面白くないわ。上手くいってないって言ったでしょう」
「と、年下なんでしょ? 遊び人なの?」
「ばかねビビ、転がしてるのはロビンの方に決まってんじゃない」
「そんなのじゃないわ」
私の反駁に耳もかさず、ナミは深くため息をついた。
「で、なにが上手くいってないんだっけ」
「セックスのあとすぐに服を」
「そうじゃなくて、なんでそこまでして付き合ってないのよ」
薄っぺらいローストビーフをフォークの先に引っかける。
カーテンのように揺れながら持ち上がった。
「付き合おうとも付き合ってとも、言ったり言われたりしていないからかしら」
ふむ、とナミは腕を組む。
ビビはずっとカラカラとマドラーを回して、カヤは終始うつむき加減だ。
しかしそのカヤが、ぽつりと口を開いた。
「うまく、いくといいわね」
「え?」
「その人と、ロビンさん。好きな人って言ったじゃない」
「──えぇ、そうね」
「迷わず好きだって言えるの、すごいと思うの」
すごいかしら、と尋ねると、カヤは思いのほか力強く頷いた。
そのとき携帯がぶるぶると震え、その振動がスツールに伝わって飲み物が小刻みに揺れた。
「私ね、ごめんなさい──あぁ」
「もしかして」
ナミが携帯の画面を覗き込もうと首を伸ばす。
着信はゾロだった。
昼間会ったばかりなのに珍しいと思いながら椅子から降り立った。
喧騒から遠ざかりながら、電話に出る。
「もしもし?」
「どこにいる」
「私? 外だけど」
ざわめきは電話の向こうにも伝わっているのだろう、ゾロは少し口をつぐんだ。
「どうしたの? なにか」
「酒飲んでるのか」
「えぇまぁ」
それきりまた沈黙が続く。
通話独特の電子音がサーっと鳴りつづけている。
店を出て扉を閉めると少し周囲の音が落ち着いて、ゾロの息遣いまで聞こえるようになった。
彼が出ていく背中を見送ったときの気持ちを思い出し、落ち着かせようと自分の鎖骨を撫でた。
「なにか忘れ物? 今外だから帰ったら」
「一人か」
「今? いいえ、人と一緒だけど」
「──場所、どこだ」
「駅のすぐ近くだけど」
店名を告げると、ゾロのいる方がにわかに騒々しくなった。大通りを歩いているのだと分かった。
「今から行くから待ってろ」
「え?」
「すぐ着く。いいな、動くなよ」
小動物ならその一声で殺せそうなほど凄味のある声を残し、唐突に電話は切れた。
つい通話口を見下ろしてしまう。
ゾロ。
私の想像が現実になって彼の胸を浸したのだと思うと、叫びたくなるほどうれしくなった。
私が誰と一緒だと思ったの、誰と一緒に何をしていると思ったの、それを想像してどう感じたの、全部聞きたい。
目を閉じて深呼吸し、再び目を開くと通りの向こうから走ってくる姿が見えて、言った通りの速さに笑いがこぼれた。
「ゾロ」
「帰るぞ」
軽く息を切らしながら、武骨な手が私のそれを掴む。
待って、と腕を引いた。不満げな顔が振り返る。
「どうして来てくれたの」
「お前が──」
「他の誰かといると思ったから?」
ゾロの切れていた息はすぐにも落ち着いていて、黒くて静かな目で私を見つめた。
「わかってんなら訊くな」
「じゃあどうして昼間そう言わなかったの」
「言われたかったのならテメェも態度で示せ」
「私の態度が良くなかったのかしら」
大きく口を開いて何か言いかけたゾロは、少し考えてから「ちがう」と言った。
「ちがうが、お前も悪ィ」
がしがしと頭を掻いて、またゾロは私の手を引いて歩き出した。
「帰るぞ」
「待って、帰るって言わなきゃ」
「何律儀なこと言ってんだ!」
「でもお金も払ってないし」
「アホか、ソイツに払わせとけ!」
「でもみんな私より下の女の子だし」
「は?」
ゾロが急に立ち止まったので、固い背中にぶつかりかける。
思わず彼の背に空いている方の手をついた。
「危ないわ」
「待て、お前誰と一緒に飲んでたっつった」
「友達よ。あなたと同じくらいの歳の女の子3人」
立ち尽くすゾロと私の沈黙を埋めるように、携帯が音を立てて震えた。
電話に出ると、さっきまで聞こえていた喧騒がわっと飛び出してきて、同時にくすくすと可愛らしい3人の笑い声が聞こえた。
その中からとびきりよく通る声で、ナミが「ガラスからまる見えなんだけど。帰るか連れてくるかどっちかよ」と言った。
「帰るわ」と迷わず答える。
「そうね、その方がよさそう」
「ごめんなさい、一旦戻って」
「いーわよ鞄持って出たんでしょ? 一杯しか飲んでないし私たちからのお祝いてことで」
じゃがんばって、と電話は無慈悲なほどあっさり切れた。
「帰っていいって」
するりと離れかけたゾロの手を慌てて掴み直す。
「ゾロ?」と覗き込むと、不機嫌と言うよりいっそ不健康そうに目を眇めた顔が振り返った。
「やっぱり全面的にお前が悪い。ややこしい言い方すんな!」
「そうね、ごめんなさい」
笑うつもりはなかったのだが我慢しきれずふっと笑うと、すかさず「笑うな」と叱られた。
ゾロは私の手を引いて、猛烈にガツガツと歩き出す。
少し心配になって口を開いた。
「ゾロ、ごめんなさい、怒らないで」
「怒ってねェ」
「すきよ、ゾロ」
「んなこた知ってる」
「セックスのあとすぐに服を着ないでいてくれたらもっとすき」
呆れた顔で振り返った彼は、「今んなこと言うな、襲うぞ」とさも馬鹿馬鹿しいとでもいうように呟いた。
息を止めるように言葉を吸い込んだ私に、彼が怪訝そうに振り返る。
結びかけの靴紐が、玄関に座り込んだ彼の肩越しに見えた。
「用事あんならいいぞ」
「──えぇ、そうね、今日はちょっと」
ゾロは少しだけ目をすがめ、返事もせずにまた俯いた。
何を考えただろう。
私と誰の予定を想像したのだろう。
今夜はナミたちと飲みに行く予定があるだけで、大した事情じゃないのに。
彼が想像した何かを私もまた想像し、彼の中で膨らんだいろんな思惑を夢見て私はわくわくする。
立ち上がった彼は、上り框からおりたせいで私より15センチほど背が低くなる。
私を見上げて「じゃあな」と言った。
今度いつ来るとか、今日はどうだったとか、そういう言葉は一切なく、別れのキスすらない。
「えぇ、じゃあ」
本当は「また」と言いたいのを堪えて、出ていく彼の背中を見送った。
16時ごろになるまでだらだらと掃除をしたり化粧を直したりして過ごし、たいして時計も見ずに適当に家を出て駅に着いたのは16時半を少し回った頃だった。
駅前にはすでにビビが待っていて、私を見つけて小さく手を振った。
「早いわね」
「ロビンさんも早いわよ。私はそこの本屋さんにいたんだけど、混んできたからでてきちゃった」
ふとビビの肩越し、50メートルほど向こうの柱の下でまるで人を待つようなさりげなさで佇む黒衣の男が見えた。
さりげないとは言って、その目は鋭い。私と目が合い彼は小さく会釈した。
「どうして離れて立ってるの?」
「なあに?」
「彼と。一緒に待てばいいのに」
「さあ。私が『じゃあ』って言ったからかしら」
ビビは私を見上げて、「どうしてそんなことを聞くの?」と言いたげな顔をした。
その無邪気さに、私は信じられない思いで微笑む。
いっときたりとも離れたくないとは思わないのかしら。
この50メートルの距離が死ぬほど欲しくなるときが、いつかやってくるとも知らずに。
「ロビンさんはどこかに出かけてらしたの?」
「いいえ、家にいたわ」
「そう、なんだか今日はお洒落だから」
そうかしら、と私は足元を見下ろした。
ベージュ色のパンプス、紺色のワンピース、レースのかぎあみショールと、パールのピアス。
どれもお気に入りではあるけど、特別お洒落をしたつもりはない。
ビビは含み笑いをして「デートだったのかと思った」と言った。
「デートねぇ」
「ふふ、ちがった?」
デートはしてない。セックスはしたわと言いかけて、ビビが私の肩越しに手を振った。
振り返ると、小走りでカヤがこちらへ向かっていた。
「す、すみません、お、お、おそく、なって」
「遅くないって、まだ時間前だから。カヤさん息切れすぎよ、大丈夫?」
「ご、ごめんな、さい、ちょっと走、ると、すぐ」
つるんと白い頬がほんのすこし血色良くなる。
はぁはぁと苦しそうに、しかし嬉しそうにカヤは顔を上げた。
「あとはナミさんだけね」
「えぇ、いつも通りってかんじね」
ナミは時間通りにしか来ない。
待つのが嫌いと言うより、そういう時間を節約するのが好きなのだ。
ぽつぽつと午前中なにをしていたかなど話していたらいつの間にか17時が近づき、駅の人ごみに紛れてナミが「お待たせー」と姿を現した。
今日はナミの知っている店に行く。
私たちはぞろぞろと横並びに連なって、人波を縫って歩いた。
薄暗い店内で、四人の爪と氷のつまったグラスだけがキラキラ光っていた。
丸い円卓を囲んで背の高いスツールに座り、光るグラスをぶつけて乾杯する。
がやがやと騒々しく、声を張り上げなければ仲間内の会話すらままならない。
そのぶんどんな話をしたってかまわないのだという気安さがあった。
ナミのおすすめと他数品を注文し、突き出しのマリネをつまむ。
「今度の休みはどっか行くの?」とナミが誰にともなく尋ねた。
「3連休になるんだっけ」
「学会の準備で全部潰れちゃうわ、私」
「カヤさん相変わらず忙しいのねー」
「でも社会人に比べたら気楽なのよ、きっと」
「ナミはどこか行くの?」
んーそうねぇと、ナミはまんざらでもない顔を作って箸を動かしている。
「まだ未定。でも仕事お休み取れたしどっか行きたい。ロビンは?」
「そうね、私も未定だけどどこか遠出したいわ」
「誰と?」
真顔のナミと視線がかち合い、すぐにナミはにやっと笑った。
「誰と遠出するんだって?」
「──イヤな子ね」
「え、なになになに?」
ビビが身を乗り出して私を見つめてくる。
「ロビンさんやっぱり彼氏いるの? 全然教えてくれないんだもの」
「どんな人? 年上?」
「待って待って、私も順番に聞きたいから」
ナミがビビとカヤを制するように彼女たちに手のひらを向け、私に向き直った。
「こないだ夜たまたま会ったとき、一緒にいた人とどうなったの? その前に会った人と違う人だったけど」
「どうって、どうもなってないわ。あの日一緒にいただけ」
「一緒に薄暗い怪しい店に入ってったじゃない!」
「怪しくなんかないわよ、普通の飲み屋さん」
「うそうそうそ、んじゃあその店の後どこに行ったのか言ってみなさいよ」
黙って肩をすくめると、ビビとカヤは顔を寄せ合って息を呑み、ナミは鼻にくしゃっと皺を寄せた。
「ほらね! どうせそれから会ってないんでしょ」
「そうねぇ」
「ちょ、ちょっと待って、ロビンさんの彼氏の話は?」
「彼氏なんかいないわ」
えーっ、とビビが音にならない声で叫んだ。
隣のカヤはなぜか熱いとも言える視線を私に送ってくる。
「だって私好きな人がいるもの」
濡れたグラスに指で線を書いていたナミの手がぴたっと止まった。
えーっ、とまたビビが今度は声に出して叫ぶ。
「すきなひと、好きな人!?」ナミの声は張り上げても張り上げても周りのざわめきと一緒に天井に吸い込まれていく。
「えぇ、半年くらい前からずっと」
「聞いてないけど」
「言ってないわ」
「ずるい!」
思わず笑うとナミはますます嫌そうに顔をしかめた。
それでそれで、とビビがますます身を乗り出す。
「どんな人?」
「年下ね」
「えーっ意外! いくつ?」
「あなたたちくらいかしら、もう少し上かも」
「知らないの?」
「そういえば」
ナミが空のグラスをゴンとテーブルに置き、すかさず店員におかわりを頼んだ。
「で、どこで知り合った馬の骨なのよ」
「ナミさん言い方」
「うちの大学の学生ね。もう卒業したけど」
「ど、どんな人?」
どんな人。
「鉄の球みたい」
「は?」
「無口で愛想もないし、感情の起伏もほとんどないみたい。身体もちょっと不気味なくらい硬くて丈夫」
「……それどうなの、一緒にいて楽しいの?」
「勿論」
無口だけど要らないことは何一つ言わないし、言うべきことをきちんと選んで口に出す。
愛想はないけど冷たいわけじゃない。
そしてときおり爆発するみたいに声をあげて笑う。
そういうところが好きなのだ。彼女たちには言わないけど。
はー、と感嘆のようなため息のような声をあげて、ビビはからからとグラスを揺らした。
「でも、まだお付き合いには至ってないのね。好きって言った?」
「いいえ」
「言わないの?」
「機会があれば」
「相手の人はロビンさんの気持ち知ってるのかしら」
「さあ」
柳に風、とナミが肩をすくめた。
「ロビンが本気出したら堕ちないわけないじゃん。怖いなぁもう」
「そんなことないわ、全然うまくいかないもの」
「そうなの?」とビビが声を潜めた。
ぜんぜんよ、と私は繰り返す。
好きだなんて言ったら彼はなんて言うだろう。なにも言わず、いつもみたいに黙って出ていってしまうんだろうか。
そんなことになるのなら何も言わず何もしない方がいい。
「うまくいかないって、例えば?」
ナミが枝豆を手で摘み取りながら尋ねた。
鮮やかな黄緑色を目で追いながら、「たとえば」と私は考える。
「名前を呼んでもらった覚えがないわ」
「え、それって一方的にあんただけが知ってる人ってわけじゃないんでしょ?」
「そうよ。それに誘ってもすぐに帰ってしまうし」
「すぐにって、ごはん食べ終わったらさっさと帰っちゃうみたいな?」
「とか、セックスが終わればすぐに服を着てしまうとか」
突然カヤの手から小エビのフリットに刺さっていたつまようじが跳ねとんだ。
慌ててそれを拾い上げる彼女に「大丈夫?」と声をかけてから顔を上げると、ナミは眉間に二本の指を当てて難しい顔をしていた。
「待って、待って」
「なに?」
「あんたたちどういう仲なの」
「付き合ってないわ」
「友達なの?」
「いうなれば」
「でもエッチはするの?」
「するわ」
出た、とナミは目を瞠った。
「あんた相変わらず面白いことしてるのね」
「なんにも面白くないわ。上手くいってないって言ったでしょう」
「と、年下なんでしょ? 遊び人なの?」
「ばかねビビ、転がしてるのはロビンの方に決まってんじゃない」
「そんなのじゃないわ」
私の反駁に耳もかさず、ナミは深くため息をついた。
「で、なにが上手くいってないんだっけ」
「セックスのあとすぐに服を」
「そうじゃなくて、なんでそこまでして付き合ってないのよ」
薄っぺらいローストビーフをフォークの先に引っかける。
カーテンのように揺れながら持ち上がった。
「付き合おうとも付き合ってとも、言ったり言われたりしていないからかしら」
ふむ、とナミは腕を組む。
ビビはずっとカラカラとマドラーを回して、カヤは終始うつむき加減だ。
しかしそのカヤが、ぽつりと口を開いた。
「うまく、いくといいわね」
「え?」
「その人と、ロビンさん。好きな人って言ったじゃない」
「──えぇ、そうね」
「迷わず好きだって言えるの、すごいと思うの」
すごいかしら、と尋ねると、カヤは思いのほか力強く頷いた。
そのとき携帯がぶるぶると震え、その振動がスツールに伝わって飲み物が小刻みに揺れた。
「私ね、ごめんなさい──あぁ」
「もしかして」
ナミが携帯の画面を覗き込もうと首を伸ばす。
着信はゾロだった。
昼間会ったばかりなのに珍しいと思いながら椅子から降り立った。
喧騒から遠ざかりながら、電話に出る。
「もしもし?」
「どこにいる」
「私? 外だけど」
ざわめきは電話の向こうにも伝わっているのだろう、ゾロは少し口をつぐんだ。
「どうしたの? なにか」
「酒飲んでるのか」
「えぇまぁ」
それきりまた沈黙が続く。
通話独特の電子音がサーっと鳴りつづけている。
店を出て扉を閉めると少し周囲の音が落ち着いて、ゾロの息遣いまで聞こえるようになった。
彼が出ていく背中を見送ったときの気持ちを思い出し、落ち着かせようと自分の鎖骨を撫でた。
「なにか忘れ物? 今外だから帰ったら」
「一人か」
「今? いいえ、人と一緒だけど」
「──場所、どこだ」
「駅のすぐ近くだけど」
店名を告げると、ゾロのいる方がにわかに騒々しくなった。大通りを歩いているのだと分かった。
「今から行くから待ってろ」
「え?」
「すぐ着く。いいな、動くなよ」
小動物ならその一声で殺せそうなほど凄味のある声を残し、唐突に電話は切れた。
つい通話口を見下ろしてしまう。
ゾロ。
私の想像が現実になって彼の胸を浸したのだと思うと、叫びたくなるほどうれしくなった。
私が誰と一緒だと思ったの、誰と一緒に何をしていると思ったの、それを想像してどう感じたの、全部聞きたい。
目を閉じて深呼吸し、再び目を開くと通りの向こうから走ってくる姿が見えて、言った通りの速さに笑いがこぼれた。
「ゾロ」
「帰るぞ」
軽く息を切らしながら、武骨な手が私のそれを掴む。
待って、と腕を引いた。不満げな顔が振り返る。
「どうして来てくれたの」
「お前が──」
「他の誰かといると思ったから?」
ゾロの切れていた息はすぐにも落ち着いていて、黒くて静かな目で私を見つめた。
「わかってんなら訊くな」
「じゃあどうして昼間そう言わなかったの」
「言われたかったのならテメェも態度で示せ」
「私の態度が良くなかったのかしら」
大きく口を開いて何か言いかけたゾロは、少し考えてから「ちがう」と言った。
「ちがうが、お前も悪ィ」
がしがしと頭を掻いて、またゾロは私の手を引いて歩き出した。
「帰るぞ」
「待って、帰るって言わなきゃ」
「何律儀なこと言ってんだ!」
「でもお金も払ってないし」
「アホか、ソイツに払わせとけ!」
「でもみんな私より下の女の子だし」
「は?」
ゾロが急に立ち止まったので、固い背中にぶつかりかける。
思わず彼の背に空いている方の手をついた。
「危ないわ」
「待て、お前誰と一緒に飲んでたっつった」
「友達よ。あなたと同じくらいの歳の女の子3人」
立ち尽くすゾロと私の沈黙を埋めるように、携帯が音を立てて震えた。
電話に出ると、さっきまで聞こえていた喧騒がわっと飛び出してきて、同時にくすくすと可愛らしい3人の笑い声が聞こえた。
その中からとびきりよく通る声で、ナミが「ガラスからまる見えなんだけど。帰るか連れてくるかどっちかよ」と言った。
「帰るわ」と迷わず答える。
「そうね、その方がよさそう」
「ごめんなさい、一旦戻って」
「いーわよ鞄持って出たんでしょ? 一杯しか飲んでないし私たちからのお祝いてことで」
じゃがんばって、と電話は無慈悲なほどあっさり切れた。
「帰っていいって」
するりと離れかけたゾロの手を慌てて掴み直す。
「ゾロ?」と覗き込むと、不機嫌と言うよりいっそ不健康そうに目を眇めた顔が振り返った。
「やっぱり全面的にお前が悪い。ややこしい言い方すんな!」
「そうね、ごめんなさい」
笑うつもりはなかったのだが我慢しきれずふっと笑うと、すかさず「笑うな」と叱られた。
ゾロは私の手を引いて、猛烈にガツガツと歩き出す。
少し心配になって口を開いた。
「ゾロ、ごめんなさい、怒らないで」
「怒ってねェ」
「すきよ、ゾロ」
「んなこた知ってる」
「セックスのあとすぐに服を着ないでいてくれたらもっとすき」
呆れた顔で振り返った彼は、「今んなこと言うな、襲うぞ」とさも馬鹿馬鹿しいとでもいうように呟いた。
大きなパールのイヤリングを付けてみたいと思っていた。
本当はピアスの方が格好がつくのだけれど、耳に穴を開けるなんてやっぱり怖くて私には到底出来そうもない。
そもそもアクセサリーをほとんど持っていないから、それを手に取ることが気恥ずかしくて自分に似合うのかすらもわからなかった。
ずっとずっと昔、家の誰かがおもちゃだけどシルバーのシンプルなネックレスをお土産に買ってきてくれたことがある。
ドキドキしながら首に付けると、一回り大人になれた気がしてすごくうれしかった。
でもすぐに、ネックレスが触れたところが猛烈に痒くなって外してみたら赤く鎖の跡が白い肌にくっきりと浮かんでいて、それを見たメリーがネックレスをどこかに持って行ってしまった。
それきりアクセサリーは付けていない。
だから、目の前に座った彼女の黒くまっすぐな髪の隙間からちらりと純白の光が見えたとき、あっと思わず声をあげそうになった。
チーズケーキを上品に口に運ぼうとしていた彼女は、伏せていた目を上げ、微かに微笑んで私を見た。
「なにかしら」
「あ、いえ、なにも、ごめんなさい」
誤魔化すように笑って胸の前で小さく手を振る。
隣に座ったナミさんとその向かいのビビさんがとめどなかった会話をふっと吸い込むように止めて、私たちを見た。
ロビンさんは不自然に間の空いた沈黙を埋めるように、「このチーズケーキすごくおいしいわ」と静かなのによく通る声で言った。
ナミさんがパッと大きく口を開けて「でっしょ!」と嬉しそうな声をあげる。
「こないだお土産でもらってねー、すごくおいしかったから他のケーキも食べてみたいと思ってたの」
「私のマロンケーキも洋酒が効いてておいしいけど……チーズケーキにすればよかったかなぁ。ナミさんのは?」
「ん、たくさんフルーツ乗ってるしタルト生地はアーモンドのかおりもいいし最高。あー来てよかった」
「カヤさんのは? シンプルないちごショートなんて、いつからってくらい私食べてないわ」
ビビさんが私のショートケーキに視線を向ける。
台形になったケーキの上にはバランスよくイチゴが乗っていた。
赤と白のコントラスト。ノートに引いた赤線の様に私らしい。
「私、ケーキと言えばこれなの。生クリームがすきで」
「ここの生クリームくどくなくておいしいのよねー。こないだ会社の人が買ってきてくれたケーキがさ、すんごく甘ったるくて油っこくてびっくりしたんだけど」
ナミさんがフォークの先を舐めながら離し始めた矢先、私のカバンからごく控えめな音楽が響いた。
特に気に留める程の音量ではなかったのに、向かいのロビンさんがいち早く気付いて「出たら?」と言ってくれた。
「あ、でも」
「なに電話? 気にせず出て」
「じゃ、じゃあごめんなさい」
鞄をつまむように持って、ナミさんの後ろを通って移動した。
肩をすぼめて店員に会釈をし、店の軒先に出てからやっと携帯を取り出す。
着信はまだ続いていた。
私に電話をかけてくるのは、家の者か彼くらいだ。
「もしもし」
「よぉー、今大丈夫だったか?」
「えぇ、外ではあるんだけど」
「かけ直すか?」
「大丈夫。なにか?」
「そうそうおめーが見たいっつってた美術館の特別展、チケット取れそうだから買おうかと思ったんだけどよ、日にち指定だからいつがいいか訊こうと思って」
「本当!? すごい、前売りはすぐに売り切れるって聞いてたのに」
「おれ様の人脈を使えばこんなもんよ。で、いつがいい?」
「えっと、特別展は来月いっぱいまでよね。明後日の月曜から来月の中ごろまで実習だから、それが終わってからならいつでも」
「おし、んじゃー22日の土曜でもいいか?」
「えぇ、ありがとう」
「おうおう、んじゃーな!」
歯切れよくあっさりと切れた携帯電話をカバンに滑り落とし、席へ向かった。
むずむずと胸が痒くなる。
「おかえりー」
ナミさんが少し椅子を引いて私を通らせてくれた。
椅子に座って一息つき、ふと顔を上げるとなぜか3人の視線が私に向いている。思わずびくっと頭が揺れた。
「な……なにかしら」
「んーん、今の電話、ウソップからでしょ」
「えっすごい、どうしてわかるの」
何故か三人が一様ににこにこしているのが気になった。
「わかるわよー。嬉しそうな顔しちゃって」
「あ、それはね、ずっと行きたかった美術展のチケットをウソップさんが取ってくれるっていう連絡があったから嬉しくて」
「へぇー、デートのお誘いだったわけ」
「デート? やだ、違うわよ」
思わず笑ってしまう。デートなんて響きが小恥ずかしくてくすくす笑い続けると、3人は一様にきょとんとしてみせた。
「ちがうの?」
「ちがうわよ、ただ美術展に行くだけだもの」
「えーっと」
ビビさんが顔に笑いを残したまま、少し困ったようにナミさんを見た。
「カヤさんとウソップさんは……付き合ってるのよね?」
尋ねられたナミさんがいとも簡単に「そうよ」と答え、当事者の私は驚いてごくんと喉を鳴らしてしまった。
一拍遅れて、慌てて「ちがうわよ!」と大きな声を出す。
「えっ」
「ちがうわよ、もうびっくりした。ウソップさんは友達よ」
「うそぉ。あんたたち付き合ってるんじゃなかったの」
「つ、付き合ってないわ。幼馴染だけどそんな関係じゃ」
ロビンさんがコーヒーカップに口を付けながら目元だけでくすりと笑った。
「ナミの早とちりだったわけね」
「うっそだぁ、絶対付き合ってるもん。めちゃくちゃ仲いいじゃないの」
「だってそれは……幼馴染だし……友達だし……家も近いし」
「じゃあそういうふうに見たことはないの?」
「ないない! だからそういうのじゃないんですって」
ぶ、と唐突にナミさんが吹き出す。
「まぁねー、たしかにウソップってそういうタイプじゃないのよねー。いいやつだし面白くてすきだけど、友達って感じすぎて」
「ナミは彼と大学が一緒だったのよね確か」
「そうそう、そもそもカヤさんより先にウソップと出会ってて、ウソップ通じてカヤさんと話すようになった感じ。ね」
大きな丸い瞳に見つめられて、どきどきしながら何度もうなずく。
うなずきながらも、出会いに関しては少しちがう、と思った。
ナミさんに初めて出会ったのは、蜃気楼が立ち上るような真夏の炎天下だった。
外に出るときは必ず帽子をかぶるように家の者からきつくきつく言い渡されていたにもかかわらず、私はうっかりと何も被らず真夏の日の下に出てしまい、あっというまに肌は真っ赤に焼けて打ち上げられた小エビの様になった。
その日は確かウソップさんと本屋で待ち合わせをしていて、家からたった1キロほどの道のりにもかかわらずその道中で小エビになってしまった私はふらふらと電柱の陰に隠れて立ち往生していた。
家に電話をして迎えに来てもらおうと思ったが、帽子を持って出なかったことはもちろんのこと、誰か家の者を付けなかったことや徒歩で行こうとしたことなどあれこれ叱られるのが目に見えていて、子どものようだけれどそれが嫌でためらった。
ウソップさんに迎えに来てもらおうと思ったが、きっと迎えに来てくれたその足で家に連れ戻される。それも嫌だった。
細長い日陰でうじうじと悩んでいた私の顔を、唐突に覗き込んだのがナミさんだった。
「あんた大丈夫? 気分悪いの?」
「あ……え、と」
「汗かいてないし、熱中症なりかけてんじゃない。どこかで休んだ方がいいわよ」
つばの大きな帽子をかぶったナミさんは、真面目な顔で私にそう言った。
「あ、はい……あの、でも」
「ひとり? 送ろうか?」
「や、すみません。あの、大丈夫です。ありがとうございます」
彼女にひとつ頭を下げたのがいけなかった。
ふっと目の前が一瞬緑色のようになり、視界がぶれる。
倒れかけた私をナミさんは慌てて受け止めて、「ちょっとぉ!」と驚いたような大声を上げた。
意識を失ったわけではなかったので焦って身体を持ち上げようとするのだけど力が入らず、すみませんとごめんなさいを繰り返して彼女の腕の中でもがいていた。
そしてそのまま、気付いた時には家のベッドに逆戻りしていた。
時刻は夕方で、様子を見に来たメリーに散々お小言を言われて、その最後にここまで送ってくれたのがウソップさんであると聞いた。
たしかに、ぼんやりと起きていた頭で彼の背中に揺られた記憶がある。
到着の遅い私を心配して迎えに来てくれたのだ。
メリーが私の部屋を出ていくと、見計らったように部屋の窓から飄々とウソップさんが顔を出した。
「よっす」
いつもと変わらない彼に安心して、今日のお礼を言って謝った。
いーってことよ、無理すんなと彼は優しい。
きっとメリーに嫌味の一つや二つ言われたはずなのに。
「私道で知らない女の子に声を掛けられて」
「あー、ナミな。おめーとナミが道でこんがらがってるところを見つけたときゃびっくりしたぜ」
「ナミ? 知ってるの?」
「おー、大学いっしょだ。たしかいくつか授業かぶってんだよな」
彼女はウソップさんに私を預けてそのまま立ち去ったという。
ヒーローのように突然現れて、凛々しい目で私を覗き込んだ気の強そうな女の子。
なんてかっこよかったのかしらと胸が熱くなった。
「またお礼が言いたい。会えるかしら」
「んじゃ今度ナミに会ったら言っとくわ。ひーなんかあれこれ訊かれそう」
ウソップさんが顔をしかめていった「あれこれ」を私は具体的に思いつけなかったけれど、数日後ウソップさんに呼び出されて出かけた喫茶店で、ナミさんは待っていた。
「えらい、ちゃんと今度は帽子かぶってるわね」と強気な顔で笑っていた。
彼女との出会いを思い出すと、眩しくもあり、果てしなく私とは違うと感じる。
フルーツタルトの最後のひと切れを惜しげもなく飲み込んで、ナミさんは含み笑いをした。
「でもさ、アイツがカヤさんのことどう思ってるかはわかんないわよね」
「あらナミ、聞いてないの?」
「聞いてない聞いてない! そもそもアイツとそんな話しないし、てっきり二人は付き合ってるもんだと思ってたから。最近カヤさんとどーお? って聞いても普通に元気だぜーとかどこどこに行ったとか返してくるし」
「それって、ウソップさんは付き合ってるつもりなんじゃないかしら」
神妙な顔で呟いたビビさんを、私含め他の3人はつと見つめてしまった。
「だって」と彼女は続ける。
「ふたりで出かけるんでしょ。彼から誘うんでしょ。しかもナミさんにそうやって訊かれて否定しないのもおかしいし」
「あ、ありえる」
目を丸くしてそう言ったナミさんの言葉をかき消すように、私はまたもや「ないない!」と声をあげた。
「そんな、だって、一度も、なにも、私」
「いやなの?」
突然手を伸ばされて頬をつねられたような程よい鋭さで、ロビンさんが尋ねた。
「ウソップとそんなふうになるのはいやなの?」
「い……」
いやだとかそんなこと、考えたことなかった。
「だって、お付き合いとかそんな……私まだ結婚のことなんて考えられないし……」
すっと息を呑むような音が聞こえて顔を上げたら、ナミさんとビビさんは同じタイミングで目をまたたかせていた。
え、と戸惑って思わずロビンさんを見る。
形の良い目がにっこりと笑う。
「あなたのそういうところを彼は大事にしたいのね」
そういうところ、と復唱してしまう。
隣ではナミさんとビビさんが顔を寄せ合って、眩しそうに目を細めていた。
「やだ、私もう浄化されて消えそう」
「まだ世界にはこんな綺麗な人がいたのね」
なんだか自分が中心の話になっていると落ち着かない。
俯いて話が反れるのを待ったのに、その甲斐なく彼女たちはどんどん切り込んできた。
「じゃあさ、ウソップに改めて付き合ってって言われたらどうする?」
「えっ考えられな」
「だめ、今考えるの」
厳しい言葉とは裏腹にナミさんは心底楽しそうだ。
今!? と卒倒しそうになりながら私は考える。
ウソップさんのことは間違いなく好きだし、でもそれが世にいう男女のお付き合いとなるとどうだろう、そもそもお付き合いしたら何をするんだろう。何をするのって今訊いてもいいのだろうか。ああでもそんなことを聞いたら本当の世間知らずのようで恥ずかしい。
「……ナミ、あんまり困らせちゃだめよ」
ぐるぐると考え続ける私にロビンさんが助け船を出してくれた。そのことにほっとするも束の間、今度はその彼女から切り込まれる。
「むしろ他の人でいいなって思ったりしないのかしら。ウソップじゃなくて」
「それも……あんまり考えたことがなくて」
「カヤさん高嶺の花すぎて他の男もなかなか手が出せないところもあるものね」
「ふふっでもさー、ウソップとキスしたりなんだりって考えるとさ」
「あ、鼻が」
3人口を揃えて「鼻が」と言った次の瞬間には、私以外の全員が臆面もなく吹き出していた。
「ね! 絶対顔にぶつかるわよねー!」
「やだ、具体的に想像したくないのに」
「笑ったら悪いとは思うのだけど」
ひーひーと笑い転げる3人を前に、私はカップを握る指先まで赤くなる。
けして気づまりではないけど、ただただどこか恥ずかしい。
「ご、ごめんねカヤさん」
目の端に滲んだらしい涙まで拭って、ビビさんが柔らかく笑う。
「ウソップさんのこと、ちょっと見方変えてみたらどう転んでも楽しいかもしれないわ」
「ん、そうね、ビビいいこと言うわ。楽しいのよきっと」
「えぇ私もそう思うわ。もちろん先のことを考えるのは大事だけど、今どうしたいんだろうって考えてみたら?」
「今……」
考え込んだ拍子に目線を下げたら、食べかけのショートケーキが目に飛び込んできた。
台形の大きさはほとんど変わっていない。食べるのが遅いのだ。
今どうしたいとか、具体的な望みなんてなにもないとわかっている。
ただずっとこうやっていられたらいいのにと漠然と思うだけで、いっぱいいっぱいだ。
「ま、ゆっくりね」
ロビンさんがそう言って肩をすくめたのを見ると、どこか気持ちが弛緩した。
私は何に付けても遅く、弱いから、ゆっくりねと言ってもらえると安心する。
「あ、やば。もうこんな時間」
腕時計をさっと見下ろしたナミさんは慌てて鞄を手元に寄せた。
「ごめん、私今から一個アポあって。もう休みなのに本当にやだ」
「あ、じゃあそろそろ出ましょうか」
「んーん、まだゆっくりしてていいから。ごめん先行くね」
自分の分の代金ぴったりをテーブルに置いて、ナミさんは高いヒールをカツンと鳴らしてぶれもしない足取りであっという間に去って行った。
リズミカルに揺れるウェーブしたオレンジ色の髪を見送って、どこまでもいいなぁと思う。
*
「これ」
美術館に入る手前で突然差し出された小さな紙袋を咄嗟に受け取った。
受け取ってから、彼を見上げて「これは」と尋ねる。
「んあー、こないだこういうの造ってる事務所と一緒に仕事して、いいのがあったから」
こういうの? と聞きながら紙袋をそっと傾ける。
ころんと白い球体がふたつ転がってきて、目を丸めた。
「おめーピアスは開けてねェだろ。アクセサリーもつける趣味じゃねェかもだけど、一応、一個くらいあったっていいかと思って」
「イ、イヤリング?」
「ん。あ、付け方わかるか?」
「た、たぶん」
一つをつまみ上げて耳元に持っていく。
小さな金具を指先でいじって耳たぶを挟もうとするのだが、やっぱり鏡を見ないと難しい。
苦戦する私に「なんかめんどくさそーだなー」と顔をしかめた彼が、「ほれ貸してみろ。おれ様のが器用だからな」と手を差し出した。
耳と頬に触れた感触を確かなものにする間もなく、彼はあっというまに両耳にイヤリングを付けてくれた。
「お、いーじゃん」
ひゅぅ、と口笛を吹く真似をして、ウソップさんは「んじゃいこーぜ」とさっさと歩き出した。
慌ててそのあとを追いながら、耳たぶにじわじわと感じる圧力が気になってなんども指先で耳に触れた。
私が思い描いていた大きなパールより二回り以上小さなそれは、確かに私の耳元で揺れていた。
宝石箱を買わなくちゃ、と思った。
家に帰ったら、これはそっとはずして宝石箱にしまっておこう。
スカスカの宝石箱はいつしかアクセサリーで一杯になる。
高いヒールの靴だっていつか履いて、ぶれることなくまっすぐに歩く。
それも全部、私の宝石箱に入れるのだ。
本当はピアスの方が格好がつくのだけれど、耳に穴を開けるなんてやっぱり怖くて私には到底出来そうもない。
そもそもアクセサリーをほとんど持っていないから、それを手に取ることが気恥ずかしくて自分に似合うのかすらもわからなかった。
ずっとずっと昔、家の誰かがおもちゃだけどシルバーのシンプルなネックレスをお土産に買ってきてくれたことがある。
ドキドキしながら首に付けると、一回り大人になれた気がしてすごくうれしかった。
でもすぐに、ネックレスが触れたところが猛烈に痒くなって外してみたら赤く鎖の跡が白い肌にくっきりと浮かんでいて、それを見たメリーがネックレスをどこかに持って行ってしまった。
それきりアクセサリーは付けていない。
だから、目の前に座った彼女の黒くまっすぐな髪の隙間からちらりと純白の光が見えたとき、あっと思わず声をあげそうになった。
チーズケーキを上品に口に運ぼうとしていた彼女は、伏せていた目を上げ、微かに微笑んで私を見た。
「なにかしら」
「あ、いえ、なにも、ごめんなさい」
誤魔化すように笑って胸の前で小さく手を振る。
隣に座ったナミさんとその向かいのビビさんがとめどなかった会話をふっと吸い込むように止めて、私たちを見た。
ロビンさんは不自然に間の空いた沈黙を埋めるように、「このチーズケーキすごくおいしいわ」と静かなのによく通る声で言った。
ナミさんがパッと大きく口を開けて「でっしょ!」と嬉しそうな声をあげる。
「こないだお土産でもらってねー、すごくおいしかったから他のケーキも食べてみたいと思ってたの」
「私のマロンケーキも洋酒が効いてておいしいけど……チーズケーキにすればよかったかなぁ。ナミさんのは?」
「ん、たくさんフルーツ乗ってるしタルト生地はアーモンドのかおりもいいし最高。あー来てよかった」
「カヤさんのは? シンプルないちごショートなんて、いつからってくらい私食べてないわ」
ビビさんが私のショートケーキに視線を向ける。
台形になったケーキの上にはバランスよくイチゴが乗っていた。
赤と白のコントラスト。ノートに引いた赤線の様に私らしい。
「私、ケーキと言えばこれなの。生クリームがすきで」
「ここの生クリームくどくなくておいしいのよねー。こないだ会社の人が買ってきてくれたケーキがさ、すんごく甘ったるくて油っこくてびっくりしたんだけど」
ナミさんがフォークの先を舐めながら離し始めた矢先、私のカバンからごく控えめな音楽が響いた。
特に気に留める程の音量ではなかったのに、向かいのロビンさんがいち早く気付いて「出たら?」と言ってくれた。
「あ、でも」
「なに電話? 気にせず出て」
「じゃ、じゃあごめんなさい」
鞄をつまむように持って、ナミさんの後ろを通って移動した。
肩をすぼめて店員に会釈をし、店の軒先に出てからやっと携帯を取り出す。
着信はまだ続いていた。
私に電話をかけてくるのは、家の者か彼くらいだ。
「もしもし」
「よぉー、今大丈夫だったか?」
「えぇ、外ではあるんだけど」
「かけ直すか?」
「大丈夫。なにか?」
「そうそうおめーが見たいっつってた美術館の特別展、チケット取れそうだから買おうかと思ったんだけどよ、日にち指定だからいつがいいか訊こうと思って」
「本当!? すごい、前売りはすぐに売り切れるって聞いてたのに」
「おれ様の人脈を使えばこんなもんよ。で、いつがいい?」
「えっと、特別展は来月いっぱいまでよね。明後日の月曜から来月の中ごろまで実習だから、それが終わってからならいつでも」
「おし、んじゃー22日の土曜でもいいか?」
「えぇ、ありがとう」
「おうおう、んじゃーな!」
歯切れよくあっさりと切れた携帯電話をカバンに滑り落とし、席へ向かった。
むずむずと胸が痒くなる。
「おかえりー」
ナミさんが少し椅子を引いて私を通らせてくれた。
椅子に座って一息つき、ふと顔を上げるとなぜか3人の視線が私に向いている。思わずびくっと頭が揺れた。
「な……なにかしら」
「んーん、今の電話、ウソップからでしょ」
「えっすごい、どうしてわかるの」
何故か三人が一様ににこにこしているのが気になった。
「わかるわよー。嬉しそうな顔しちゃって」
「あ、それはね、ずっと行きたかった美術展のチケットをウソップさんが取ってくれるっていう連絡があったから嬉しくて」
「へぇー、デートのお誘いだったわけ」
「デート? やだ、違うわよ」
思わず笑ってしまう。デートなんて響きが小恥ずかしくてくすくす笑い続けると、3人は一様にきょとんとしてみせた。
「ちがうの?」
「ちがうわよ、ただ美術展に行くだけだもの」
「えーっと」
ビビさんが顔に笑いを残したまま、少し困ったようにナミさんを見た。
「カヤさんとウソップさんは……付き合ってるのよね?」
尋ねられたナミさんがいとも簡単に「そうよ」と答え、当事者の私は驚いてごくんと喉を鳴らしてしまった。
一拍遅れて、慌てて「ちがうわよ!」と大きな声を出す。
「えっ」
「ちがうわよ、もうびっくりした。ウソップさんは友達よ」
「うそぉ。あんたたち付き合ってるんじゃなかったの」
「つ、付き合ってないわ。幼馴染だけどそんな関係じゃ」
ロビンさんがコーヒーカップに口を付けながら目元だけでくすりと笑った。
「ナミの早とちりだったわけね」
「うっそだぁ、絶対付き合ってるもん。めちゃくちゃ仲いいじゃないの」
「だってそれは……幼馴染だし……友達だし……家も近いし」
「じゃあそういうふうに見たことはないの?」
「ないない! だからそういうのじゃないんですって」
ぶ、と唐突にナミさんが吹き出す。
「まぁねー、たしかにウソップってそういうタイプじゃないのよねー。いいやつだし面白くてすきだけど、友達って感じすぎて」
「ナミは彼と大学が一緒だったのよね確か」
「そうそう、そもそもカヤさんより先にウソップと出会ってて、ウソップ通じてカヤさんと話すようになった感じ。ね」
大きな丸い瞳に見つめられて、どきどきしながら何度もうなずく。
うなずきながらも、出会いに関しては少しちがう、と思った。
ナミさんに初めて出会ったのは、蜃気楼が立ち上るような真夏の炎天下だった。
外に出るときは必ず帽子をかぶるように家の者からきつくきつく言い渡されていたにもかかわらず、私はうっかりと何も被らず真夏の日の下に出てしまい、あっというまに肌は真っ赤に焼けて打ち上げられた小エビの様になった。
その日は確かウソップさんと本屋で待ち合わせをしていて、家からたった1キロほどの道のりにもかかわらずその道中で小エビになってしまった私はふらふらと電柱の陰に隠れて立ち往生していた。
家に電話をして迎えに来てもらおうと思ったが、帽子を持って出なかったことはもちろんのこと、誰か家の者を付けなかったことや徒歩で行こうとしたことなどあれこれ叱られるのが目に見えていて、子どものようだけれどそれが嫌でためらった。
ウソップさんに迎えに来てもらおうと思ったが、きっと迎えに来てくれたその足で家に連れ戻される。それも嫌だった。
細長い日陰でうじうじと悩んでいた私の顔を、唐突に覗き込んだのがナミさんだった。
「あんた大丈夫? 気分悪いの?」
「あ……え、と」
「汗かいてないし、熱中症なりかけてんじゃない。どこかで休んだ方がいいわよ」
つばの大きな帽子をかぶったナミさんは、真面目な顔で私にそう言った。
「あ、はい……あの、でも」
「ひとり? 送ろうか?」
「や、すみません。あの、大丈夫です。ありがとうございます」
彼女にひとつ頭を下げたのがいけなかった。
ふっと目の前が一瞬緑色のようになり、視界がぶれる。
倒れかけた私をナミさんは慌てて受け止めて、「ちょっとぉ!」と驚いたような大声を上げた。
意識を失ったわけではなかったので焦って身体を持ち上げようとするのだけど力が入らず、すみませんとごめんなさいを繰り返して彼女の腕の中でもがいていた。
そしてそのまま、気付いた時には家のベッドに逆戻りしていた。
時刻は夕方で、様子を見に来たメリーに散々お小言を言われて、その最後にここまで送ってくれたのがウソップさんであると聞いた。
たしかに、ぼんやりと起きていた頭で彼の背中に揺られた記憶がある。
到着の遅い私を心配して迎えに来てくれたのだ。
メリーが私の部屋を出ていくと、見計らったように部屋の窓から飄々とウソップさんが顔を出した。
「よっす」
いつもと変わらない彼に安心して、今日のお礼を言って謝った。
いーってことよ、無理すんなと彼は優しい。
きっとメリーに嫌味の一つや二つ言われたはずなのに。
「私道で知らない女の子に声を掛けられて」
「あー、ナミな。おめーとナミが道でこんがらがってるところを見つけたときゃびっくりしたぜ」
「ナミ? 知ってるの?」
「おー、大学いっしょだ。たしかいくつか授業かぶってんだよな」
彼女はウソップさんに私を預けてそのまま立ち去ったという。
ヒーローのように突然現れて、凛々しい目で私を覗き込んだ気の強そうな女の子。
なんてかっこよかったのかしらと胸が熱くなった。
「またお礼が言いたい。会えるかしら」
「んじゃ今度ナミに会ったら言っとくわ。ひーなんかあれこれ訊かれそう」
ウソップさんが顔をしかめていった「あれこれ」を私は具体的に思いつけなかったけれど、数日後ウソップさんに呼び出されて出かけた喫茶店で、ナミさんは待っていた。
「えらい、ちゃんと今度は帽子かぶってるわね」と強気な顔で笑っていた。
彼女との出会いを思い出すと、眩しくもあり、果てしなく私とは違うと感じる。
フルーツタルトの最後のひと切れを惜しげもなく飲み込んで、ナミさんは含み笑いをした。
「でもさ、アイツがカヤさんのことどう思ってるかはわかんないわよね」
「あらナミ、聞いてないの?」
「聞いてない聞いてない! そもそもアイツとそんな話しないし、てっきり二人は付き合ってるもんだと思ってたから。最近カヤさんとどーお? って聞いても普通に元気だぜーとかどこどこに行ったとか返してくるし」
「それって、ウソップさんは付き合ってるつもりなんじゃないかしら」
神妙な顔で呟いたビビさんを、私含め他の3人はつと見つめてしまった。
「だって」と彼女は続ける。
「ふたりで出かけるんでしょ。彼から誘うんでしょ。しかもナミさんにそうやって訊かれて否定しないのもおかしいし」
「あ、ありえる」
目を丸くしてそう言ったナミさんの言葉をかき消すように、私はまたもや「ないない!」と声をあげた。
「そんな、だって、一度も、なにも、私」
「いやなの?」
突然手を伸ばされて頬をつねられたような程よい鋭さで、ロビンさんが尋ねた。
「ウソップとそんなふうになるのはいやなの?」
「い……」
いやだとかそんなこと、考えたことなかった。
「だって、お付き合いとかそんな……私まだ結婚のことなんて考えられないし……」
すっと息を呑むような音が聞こえて顔を上げたら、ナミさんとビビさんは同じタイミングで目をまたたかせていた。
え、と戸惑って思わずロビンさんを見る。
形の良い目がにっこりと笑う。
「あなたのそういうところを彼は大事にしたいのね」
そういうところ、と復唱してしまう。
隣ではナミさんとビビさんが顔を寄せ合って、眩しそうに目を細めていた。
「やだ、私もう浄化されて消えそう」
「まだ世界にはこんな綺麗な人がいたのね」
なんだか自分が中心の話になっていると落ち着かない。
俯いて話が反れるのを待ったのに、その甲斐なく彼女たちはどんどん切り込んできた。
「じゃあさ、ウソップに改めて付き合ってって言われたらどうする?」
「えっ考えられな」
「だめ、今考えるの」
厳しい言葉とは裏腹にナミさんは心底楽しそうだ。
今!? と卒倒しそうになりながら私は考える。
ウソップさんのことは間違いなく好きだし、でもそれが世にいう男女のお付き合いとなるとどうだろう、そもそもお付き合いしたら何をするんだろう。何をするのって今訊いてもいいのだろうか。ああでもそんなことを聞いたら本当の世間知らずのようで恥ずかしい。
「……ナミ、あんまり困らせちゃだめよ」
ぐるぐると考え続ける私にロビンさんが助け船を出してくれた。そのことにほっとするも束の間、今度はその彼女から切り込まれる。
「むしろ他の人でいいなって思ったりしないのかしら。ウソップじゃなくて」
「それも……あんまり考えたことがなくて」
「カヤさん高嶺の花すぎて他の男もなかなか手が出せないところもあるものね」
「ふふっでもさー、ウソップとキスしたりなんだりって考えるとさ」
「あ、鼻が」
3人口を揃えて「鼻が」と言った次の瞬間には、私以外の全員が臆面もなく吹き出していた。
「ね! 絶対顔にぶつかるわよねー!」
「やだ、具体的に想像したくないのに」
「笑ったら悪いとは思うのだけど」
ひーひーと笑い転げる3人を前に、私はカップを握る指先まで赤くなる。
けして気づまりではないけど、ただただどこか恥ずかしい。
「ご、ごめんねカヤさん」
目の端に滲んだらしい涙まで拭って、ビビさんが柔らかく笑う。
「ウソップさんのこと、ちょっと見方変えてみたらどう転んでも楽しいかもしれないわ」
「ん、そうね、ビビいいこと言うわ。楽しいのよきっと」
「えぇ私もそう思うわ。もちろん先のことを考えるのは大事だけど、今どうしたいんだろうって考えてみたら?」
「今……」
考え込んだ拍子に目線を下げたら、食べかけのショートケーキが目に飛び込んできた。
台形の大きさはほとんど変わっていない。食べるのが遅いのだ。
今どうしたいとか、具体的な望みなんてなにもないとわかっている。
ただずっとこうやっていられたらいいのにと漠然と思うだけで、いっぱいいっぱいだ。
「ま、ゆっくりね」
ロビンさんがそう言って肩をすくめたのを見ると、どこか気持ちが弛緩した。
私は何に付けても遅く、弱いから、ゆっくりねと言ってもらえると安心する。
「あ、やば。もうこんな時間」
腕時計をさっと見下ろしたナミさんは慌てて鞄を手元に寄せた。
「ごめん、私今から一個アポあって。もう休みなのに本当にやだ」
「あ、じゃあそろそろ出ましょうか」
「んーん、まだゆっくりしてていいから。ごめん先行くね」
自分の分の代金ぴったりをテーブルに置いて、ナミさんは高いヒールをカツンと鳴らしてぶれもしない足取りであっという間に去って行った。
リズミカルに揺れるウェーブしたオレンジ色の髪を見送って、どこまでもいいなぁと思う。
*
「これ」
美術館に入る手前で突然差し出された小さな紙袋を咄嗟に受け取った。
受け取ってから、彼を見上げて「これは」と尋ねる。
「んあー、こないだこういうの造ってる事務所と一緒に仕事して、いいのがあったから」
こういうの? と聞きながら紙袋をそっと傾ける。
ころんと白い球体がふたつ転がってきて、目を丸めた。
「おめーピアスは開けてねェだろ。アクセサリーもつける趣味じゃねェかもだけど、一応、一個くらいあったっていいかと思って」
「イ、イヤリング?」
「ん。あ、付け方わかるか?」
「た、たぶん」
一つをつまみ上げて耳元に持っていく。
小さな金具を指先でいじって耳たぶを挟もうとするのだが、やっぱり鏡を見ないと難しい。
苦戦する私に「なんかめんどくさそーだなー」と顔をしかめた彼が、「ほれ貸してみろ。おれ様のが器用だからな」と手を差し出した。
耳と頬に触れた感触を確かなものにする間もなく、彼はあっというまに両耳にイヤリングを付けてくれた。
「お、いーじゃん」
ひゅぅ、と口笛を吹く真似をして、ウソップさんは「んじゃいこーぜ」とさっさと歩き出した。
慌ててそのあとを追いながら、耳たぶにじわじわと感じる圧力が気になってなんども指先で耳に触れた。
私が思い描いていた大きなパールより二回り以上小さなそれは、確かに私の耳元で揺れていた。
宝石箱を買わなくちゃ、と思った。
家に帰ったら、これはそっとはずして宝石箱にしまっておこう。
スカスカの宝石箱はいつしかアクセサリーで一杯になる。
高いヒールの靴だっていつか履いて、ぶれることなくまっすぐに歩く。
それも全部、私の宝石箱に入れるのだ。
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