OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
*ホスト・兄妹パロネタです。こちら参照。
アンちゃん7歳、マルコ24歳で、まだオヤジと3人暮らしです。
ちょっとこのネタ無理だわーという人はご注意くださいな!
ネクタイを結ぶマルコの黒い背中を、床に座ったアンはぼんやりと見上げていた。
一日の中で、アンの一番嫌いな時間。
黒いシャツが照明を反射して白い光の筋を映した。
この、夜の闇よりも暗い色の服を着たときのマルコは夜になる前にアンを残してどこかへ行ってしまうから、黒は幼いアンにとって何より不吉な色だった。
不吉ということばをまだ知らないので、アンの胸の中には「あ、またこのいやな感じ」という形の分からない不安がもわんと浮かんでいる。
骨ばった手がきゅっと首元を絞めて、それからアンを振り返った。
「夕飯はマキノが来てくれるからよい」
「…ん」
「店の厨房には入んじゃねぇぞい」
「うん」
「寝るときは」
「マキノと一緒に戸締り」
マルコが口にしようとした言葉を先取りして呟くと、マルコは一瞬ぽかんとしてから少し笑ってアンを抱き上げた。
ふわっと身体の中身がひっくりかえるようなこの感覚が、アンは大好きだ。
マルコは片腕にアンを座らせるように抱き上げて、自分の顔より上にあるアンを見上げた。
「なにしょぼくれてんだよい」
「マルコなんじにかえってくるの?」
「アンが朝起きる頃には帰ってきてるよい」
「ねるときはいないの?」
「…いつもと一緒だよい」
「…ちがうもん」
不機嫌にちがうと言ったアンにマルコは返事をせず、じっとその黒い瞳を見つめた。
肩に置かれた小さな手が動いて、ぺたりとマルコの頬に触れた。
少し湿っていてほんのり温かい。
もう片方の手が反対の頬に触れる。
小さな指がそろそろと動いて、マルコの目の下の浅いくぼみをなぞった。
アンの視線は自分が動かす指先を辿っているが、目の奥深くに映しているのは別物だ。
マルコはアンを支えているのと逆の手でアンの手を包み、それからゆっくりとアンを下へ下ろした。
「行ってくるよい」
「…いってらっしゃい」
「マキノが来るまで大人しくしてろよい」
アンは黙って手を振った。
マルコはアンの少し尖った唇を見てから、裏口のドアを開けてその向こう側へと消えた。
*
オヤジの体調が近頃芳しくないのは、一緒に生活していれば火を見るよりも明らかだった。
顔色がよくない。楽しそうに酒を飲んだ後でも、必ず最後に呻くようなため息をついた。
それを指摘して病院に行くよう言ってもオヤジは笑い飛ばすか、逆にまるで子供を叱るようにマルコをいなしてごまかしてしまう。
飲み屋をしていれば酒に体を蝕まれるのは覚悟のうえ、むしろ本望くらいのつもりで彼の人はいるのだろうが、家族からしたらそれはとんだ未来だ。
だからマルコは、強行突破に出ることにした。
店ののれんを隠したのだ。
「おいマルコォ、うちののれんがねぇんだが」
「店はしばらく休業だよい」
「あぁん?」
怪訝な顔で眉間に皺を寄せたオヤジの目の前で、白い紙に赤のペンで太く『都合によりしばらく臨時休業』の文字を躍らせた。
呆気にとられるオヤジをカウンターに残し、マルコはすたすたと店の入口へと進みその紙を引き戸の表に貼りつける。
味気なく意味だけを伝えた張り紙の割には、「だれがなんと言おうと休みったら休み」という有無を言わさぬ強さがあった。
入り口から戻ってきたマルコは、オヤジがすぐさま反駁しようとするのを飲み込むように口を開いた。
「オヤジが病院に行くまで店は開かない。オレも手伝わない。酒も飲ませない。隠れて飲むなら全部捨てる」
な、の形に口を開いたオヤジに、マルコはとどめの一撃を刺した。
「アンはマキノの家に預けるよい」
顎を落としたオヤジを、マルコは初めて見た。
そのまま開いたオヤジの口にツバメが巣を作ってしまうんじゃないかというくらいたっぷりと時間が経ってから、ただいまー!と馬鹿に明るいアンの声が裏口から飛び込んできたのとオヤジが諦めてどでかいため息をついたのはほぼ同時だった。
「オレァ思うがな、マルコ。ありゃあ詐欺だ」
検査入院中のオヤジは、着替えを届けに来たマルコに向かって嫌味っぽくそう言った。
「アンをマキノんところに預けちまえば確かにオレはアンに会えねえ。マキノがそう計らうだろうからな。だが今こうしてオレが入院しちまったら、どのみちアンと会えねぇじゃねぇか」
「オレの心持ちが違うよい。今は別にアンをここに連れて来たらアンタと会わせられる」
「縁起の悪い病院なんてとこガキのくるところじゃねぇ」
「そりゃぁオヤジの都合だよい」
「お前は悪い息子だ、本当に悪い息子だ」
腕から信じられない量の血液を抜かれたり、逆に薄気味悪い液体を注ぎ入れられたり、はたまた白い箱の中に全身を通されたりをここ数日繰り返しているオヤジは、子供のように不機嫌になっていて、マルコにそっぽを向いた。
オヤジが入院することになって、それは半ば覚悟していたことだったのでマルコは特に慌てることもなかった。
病院にアンと一緒に見舞いに行けばいいと思っていたのだ。
しかしそれはオヤジが駄目だと言った。
おかしな理屈をこねくりまわして意味不明な形に形成してマルコに押し付けてきた。
『アンは病院に連れてくるな』
強く念を押すようにそう言われたので、いくらなんでも無理にアンを連れてくることはできない。
そのことで逆にアンの方が寂しそうなのが気にかかった。
アンにはすべてを話している。
「オヤジは身体の調子があんまりよくねぇから、調べてもらうためにしばらく病院に泊まりに行ってるよい」
「びょういんにおとまりできんの?」
「泊まらなきゃなんねぇんだよい、オヤジの身体のために」
少しの羨ましさをにじませたアンに、マルコは慌てて付け足した。
アンは病院を、絵本や教科書の挿絵による知識でしか知らない。
幸い信じられないことに、病気をしたことがないからだ。
まさか生まれた産婦人科病院のことを覚えてはいないだろう。
「しばらくオヤジには会えねぇが、我慢できるな?」
『会えない』ということばを聞いた途端、キラキラさせていたアンの目にすとんと影が落ちた。
少し寂しそうではあったが、それでもアンは笑って言った。
「マルコがいるからだいじょうぶ」
マルコも、アンがいるから大丈夫だと思った。
オヤジの店を閉じたからには稼ぎ手は今マルコしかいない。
焦って働かなければならないほど貯蓄に窮してはいないが、それでも検査の結果によってはオヤジがすぐに復帰できるのは難しいかもしれない。
それを思うと、少しでも今のうちに稼いでおきたかった。
きっとオヤジは家に帰ってこればすぐさま店を開こうとするに違いない。
しかし前と同じ量のメシを作り接待をできるとは限らないので、その分はマルコが補佐をしなければならない。
そうすると自然と夜の仕事に入る量が減るので稼ぎも減る。
いつのまにか、マルコが夜に稼ぐ額はオヤジの店で稼ぐ額をはるかに超えていた。
今までは常にオヤジが家にいたので、アンを残して仕事に行くことに何のためらいもなかった。
初めのうちは「どこにいくの」「なにしにいくの」「アンもいきたい」を繰り返していたが、今はもう笑っていってらっさーいと手を振ってくる。
しかしそれもオヤジがいたからだ。
今日は初めてアンをひとり家に残して仕事に行かなければならない。
なるべくアンが一人で家にいる時間をなくすべく、マキノやオヤジの店の常連の中で信頼できる誰かがアンを見ていてくれるときにだけ仕事を入れていた。
しかし今日はどうしても店に人が足らない、お願いだから来てくれと連絡が入った。
これがただの欠員であればマルコは躊躇なく蹴っていた。
しかし店から、今日はお得意さんが予約を入れているからいつもの倍、いや三倍は見越していると言われて心動いた。
金に流されたわけではない。
実際そうではあるが、金を手に入れることの向こう側にある安寧がちらついたのだ。
この仕事は、客の入れた金が自分の稼ぎにだいぶと反映される。
もし今日いつもの倍稼ぐことができたなら、オヤジにもしものことがあっても対応できる。
マルコは一瞬迷ってから、出勤の返事を返した。
元来迷う性質ではない。
ただ、アンをひとりで家に置いてきたときのあの何とも言えない息苦しさだけは勘弁してほしいと思った。
アンの湿った手の感覚が今もまだ頬に残っている。
柔らかい指の腹が目の下をなぞった、あの感覚が馬鹿みたいに名残惜しかった。
マキノはおそらく夜になる前に来てくれるだろうから、アンが一人でいる時間はほんの数時間だ。
心配事は何もない。
きっとアンが本のページを捲ってみたり見えない敵と戦ってみたりしているうちにマキノが来る。
『アンが一人』という事実に耐えられないのはマルコの方だった。
開店の1時間前に店に着いたが、気になることが多すぎて腹がすかなかったので夜は食べないことにした。
翌朝日が昇る前に家に帰って、アンが布団で変わりなく寝ていて、台所のテーブルにマキノからの置手紙があったのを見つけてやっと肩の力を抜いた。
*
「きょうもおしごといくの」
朝から不機嫌だったアンは、夕方になるにつれその度合いを増していた。
アンをひとりにさせたのはあの日一日きりだったが、あれから今日が4連勤目だった。
今日はオヤジの店の常連がアンの世話をしに来てくれる。
マキノに頼んだが、今日はあっちの店で宴会の予約が入っているのだとか。
アンが一人になるようなことであればなんとかして行くけどと言ってくれたが、他がいないわけではないので大丈夫だと言った。
他がいないわけではない。たしかに、そうだ。
ただ、マキノが一番安心で、適役だと思っているのでできれば毎回頼みたいだけだ。
今日来る奴がどうぞアンに何らかの悪影響を及ぼしませんようにと祈りながらネクタイを締めた。
頭が重いのは、きっとそういうアンにまつわる心配事がこんもりと山を作って頭の中に蓄積しているからだ。
そんな折に、後ろからアンのくぐもったような声が聞こえた。
マルコは振り返らず、ズボンのポケットの中身を確かめながら返事をした。
「ああ、夕飯は冷蔵庫に入ってるからよい」
「いかないで」
か細い声がひょろひょろっと飛んできて、マルコの背中にぶつかってぽとんと落ちるようだった。
驚いたのはその勢いのなさだ。
朝からアンの機嫌がよくないのはわかっていたが、虫の居所が悪いときがあるのはこの歳の頃にはよくあることだ。
だからマルコは若干目を瞠ってアンを振り返った。
「アン?」
「いっちゃやだ」
和室の、マルコのクローゼットの向かいに置いてある箪笥に背をもたれさせてぺたんと座っているアンは、マルコの顔を見上げずに呟いた。
「きょうはいかないで」
マルコはしばらくの間アンの頭頂部を見下ろしてから、ため息と一緒に腰を落とした。
アンと同じようにしゃがみこんでも、俯いているアンと視線は合わない。
「明日の朝には帰ってくるよい。昨日と一緒だろい?」
「きのういったならきょうはいかないで」
「そういうもんじゃねぇんだよい」
「きょうはいっちゃやだ」
「わがまま言うな」
少し声を鋭くさせても、アンは怯まなかった。
むしろ黒い目をこぼれそうなほど大きくさせて、マルコと視線を合わせる。
「きょうはマルコのおしごとはおやすみ!」
そういうや否や、アンはぱっと立ち上がって一目散に居間へと駆けていった。
なんだなんだと慌ててあとを追えば、居間と台所の境にある勝手口の三和土(たたき)の上で、アンは両手を後ろに回してドアを背につけてこちらを見据えていた。
台所のテーブルの上に置いてあった財布と車のキーが、ない。
アンとテーブルの上を数回視線を行き来させて、ますます驚いてアンを見つめた。
こんな意味のないわがままは初めてだった。
「アン、返せ」
「やだ」
「アン」
アンは無言で首を振る。
仕事に遅れるだろい、とまっとうな理由を口にしたが、口にしてからそんなことアンにとってはどうでもいいのだと気付いた。
アンがたまにとる不可解な行動は、たいていマルコが20前後の男であるがために理解できないことがほとんどだった。
そういうときはマキノや、時にはオヤジが答えを教えてくれてマルコにとってはほうと単純に新鮮な発見であったりする。
しかし今回の場合、どうもそういうわけではなさそうだ。
ずんと重い頭は、ただの重さから重石がごろんごろんと頭の中を転がっているような鈍い痛みに変わっていた。
その痛みと、変わらない状況に対する苛立ちが自然とマルコの眉間に皺を集める。
「…勘弁してくれよい」
思わずこぼれた深いため息とともにそういうと、アンはふにゃりと顔を歪めた。
鋭い声で咎めるよりも、アンはこういう人の気分に敏感だ。
それをわかっているからいつもは気を付けているのだが、今回は苛立ちが先だってその余裕がなかった。
アンは後ろ手にしていた両手を前に回して、手の中に納まりきらない財布とキーを抱きしめる。
歪んだ顔はいつしか涙目になっていた。
「マルコいかないで」
埒が明かない。
マルコは黙ってアンに歩み寄りその腕を取った。
アンがびくりと肩をすくめる。
アンの手には大きすぎる財布は、マルコによってひょいと取り上げられた。
あぅ、と震えた呻きが上がる。
車のキーはアンが握ったままだったが、もういいと思った。
「今日は電車で行く」
大人気ないと分かっていた。
アンに背を向ける瞬間、呆然とするアンの目からぽろぽろっと涙がこぼれるのも見えた。
それでも今はとりあえず仕事に行かなければということが先決で、アンのわがままはきっとオヤジがいないことへの不満もあるだろうから、明後日の休みにはオヤジに後から怒られてもいいからアンを病院へ連れて行ってやろうと思った。
アンが立ちふさがる勝手口からは出られないので店の玄関から出ようと一歩進んだそのとき、腰のあたりにぽんと小さな何かがぶつかった衝撃があり、すぐに足元でガチャンと金属音がした。
見下ろすと、車のキー。
この期に及んでとアンを振り返ったそのときに見えたのは、泣き濡れたアンの顔ではなく茶色い天井の木目だった。
*
電車で行くと言って踵を返してしまったマルコの背中は、アンのきらいな黒一色だった。
マルコが背を向ける前に見えた目と目の間にできたいくつもの線は、アンのすることに困り苛立ち疲れていることをアンに分かりやすく示していた。
それでもどうしても、今日は行ってほしくなかった。
マルコがここ数日ろくに寝ていないのを知っている。
アンが眠るときにいないのはもちろんのこと、朝目が覚めるとマルコはすでに台所でコーヒーを飲んでいた。
いつもはアンが学校に行っている間寝ているはずだが、学校から帰ってくると家の掃除洗濯夕飯の用意などすべて済ませてあるところを見るとマルコが眠る時間を家事に割いていることは明らかだった。
オヤジがいない今、すべてのことがマルコの肩にのしかかっている。
その中の一つに自分がいるのだと、アンはそこはかとなくわかっていた。
だからこそ今日は夜までアンと一緒に過ごして、同じ時間に隣で寝てほしかった。
それなのに、それを訴えれば訴えるほどマルコは遠くへ行ってしまう。
ゆらゆらと目の下の方に溜まって震えている涙は、マルコが行ってしまうことよりも思いが上手く伝わらないもどかしさによるものだった。
マルコが一歩踏み出す。
マルコの黒い背中は、もう二度とアンのところへは帰ってこないと言っているように見えた。
そう思いつくと、息と心臓が止まってしまうかと思った。
マルコがもう一度振り向いてくれるなら何でもいい、そう思って握りしめていたキーをマルコの背中に投げつけた。
投げつけて、とにかく何でもいいから、今は困らせてもいいから、思いっきり泣き喚いてでもしてマルコを引き留めようと思ったのだ。
キーは背中にぶつかる予定が、飛距離が足らず、緩い放物線を描いてマルコの腰にぶつかった。
マルコが足を止めた。
よしっ、とアンは息を吸い込む。
しかしその瞬間、目の前の大きな体がぐらりと傾いた。
アンは吸い込んだ息をどこに持って行っていいかわからないまま固まった。
どたんと大きな音がして、床が揺れた。
「あ」
ぽかんと開いた口から、意味のない音が漏れた。
マルコの脚がこちらに向いている。
長い腕が力なく床の上に横たわっていた。
倒れた勢いで黒いシャツがめくれて肌が見えていた。
アンは急いで三和土から上がりマルコの頭の方に回り、顔を覗き込んだ。
色のない頬と閉じた瞼、日に日に濃くなっていく目の下の濃さがアンに事態を飲み込ませた。
「マルコ」
叫んだつもりが、声にならなかった。
ぶわっと全身に虫が這ったような寒気が走り、両手足が震えだす。
横向きに倒れたマルコの腕と顔に両手を置いて、意味もなく辺りを見渡した。
だれもいない。
そうだ、いまはオヤジがびょういんだから、マルコとふたり──
震えるアンの手からも血の気が引いて、白くなってきた。
色の変わっていく自分の手を見つめながら、アンは横たわるマルコの隣で呆然と膝立ちになっていた。
「マルコ」
今度はか細い声が出た。
しかしマルコはピクリとも動かず分厚い瞼は閉じたままだ。
吐き気がした。
アンはぺたりとその場に座り込み、倒れたマルコの腕に額をつけた。
だれか、だれかを呼ばなくちゃ。
マキノが一番に浮かんだが、マキノの店まで歩いて行ったことはない。
いつもマルコかマキノの車で行っていたので、道がわからない。
オヤジの顔も浮かんだが、すぐに無理だと思った。
オヤジが病院に行ってから、一度も話さえしていない。
そこではっと思い当り、マルコの尻のポケットを探って携帯を引っ張り出した。
マルコがいつもこれを使ってオヤジやマキノと喋っていた。
震える手で携帯を開いた。
紺色の幾何学模様のディスプレイに目が回った。
右下に見える数字はおそらく時計。
それしかわからなかった。
圧倒的な不安がアンを押しつぶした。
「アンー」
カシャカシャ、と店の引き戸が揺れる音とアンの名前を呼ぶ声がした。
白いくもりガラスの向こうに細長い影が見える。
アンは顔を上げてそれを見つけると、一目散に店へと駆け出した。
震える足がもつれ一度床の上で派手に転んだがすぐさま立ち上がる。
家と店を繋ぐ廊下を駆け抜け、低い段差を降りて店の中を突っ切り、ぶつかるように入り口に到着した。
引き戸の向こう側の影はその勢いに驚いたように一歩下がったが、アンが戸を引くよりも先にその影が戸を開けてくれた。
「アン?なに走っ」
アンは現れたジーンズの脚に噛り付き、火がついたように泣き出した。
泣き叫ぶ声の間に、「マルコ」と「たすけて」が入り混じる。
店の入り口でアンにしがみつかれた男は、アンを見下ろして、それから廊下の向こう側で見えた不吉な人影に気付き軽く目を瞠った。
しかしそこからすぐさま倒れるマルコに歩み寄るわけでもなく、その場でひょいとアンを抱き上げる。
長い後髪が風に煽られ跳ねるように揺れた。
「ハイハイ、大丈夫大丈夫」
男はポンポンとアンの背を叩きながら「邪魔すんぞー」と誰にともなく行って、店を横切りアンとマルコの住居に足を踏み入れた。
抱き上げられたアンはとりあえず目の前にある肩にしがみつく。
もう「マルコ」ということば以外は忘れていた。
アンを抱いたまま、男は足元に倒れるマルコをじっと無表情で見下ろした。
あまりにその時間が長いので、アンは思わず泣き止んで男の横顔を見た。
倒れたマルコと同じくらい頬が白い。
そしてすっとしゃがみこみ、片手でマルコの顔をわしづかむとぐるんと仰向かせる。
男の指圧でマルコの頬が軽くつぶれた。
いっ、と息を呑むアンを傍らに男は「ああ」と呟いた。
アンは男の腕の中でマルコを見下ろし、ぎゅっと目を瞑る。
一度止まったはずの涙がまた目の端からじわじわと滲んできた。
マルコ、と小さく呟いた。
「こんなでけぇのがいきなり倒れてきたら誰でも怖い」
男は味気ない口調でそう言った。
女性の手のように白いそれでアンの後頭部を包むように支える。
そのままアンの頭を軽く肩に押さえつけるようにしてぽんぽんとあやした。
「マルコは大丈夫だよ。お前はちぃと寝ろ」
「だいじょうぶ…?」
「ああ、オレは医者だ」
まだ卵だけどな、と注釈を加えた声は低く穏やかで、質のいいシーツのようにアンをくるんだ。
それに加えて、男が言った「マルコは大丈夫」の言葉があとからアンの中に滑り込んでくる。
「大丈夫だよ」
アンの右目から一筋最後の涙がこぼれて、もう一度聞こえた大丈夫との言葉に守られるようにしてアンは男の腕の中で眠りに落ちた。
それでも最後までマルコの目が開かなかったことが怖くて怖くて、男の服の肩口を強く握りしめていた。
*
たった一日の入院は、入院前よりマルコの精神を疲弊させた。
まず、目が覚めて目に飛び込んだのが病院の天井ではなくオヤジの拳で、あれと思った瞬間には目の前に星が散り、再び暗闇に意識が落ちた。
二度目に起きたのは、明らかに腕に何か鋭利なものが突き刺さった痛みを感じたからだ。
「…いってェ!」
「おう、起きたか」
「てめぇ、点滴の針を患者の腕に垂直に刺すバカがどこにいる」
「そのバカはぶっ倒れるまで働くバカよりか幾分頭がいいらしい」
それを聞いて、ああオレは倒れたのだと思い当った。
そして同時に何より大切なことを思い出す。
イゾウはマルコの腕に墓標のように突き刺さる針をひょいと抜くと、今度は確かな場所にすいと針を入れた。
痛みもない。
「アンは」
「酒屋のねえちゃんところにいるよ。オヤジに聞いたらそこに連れてけって言うから」
自然と安堵の息が漏れた。
マキノのところにいるなら心配はない。
「なに安心してんだ過労死予備軍」
「誰が予備軍だよい」
「かわいそうに、オレァあのとき転がってるお前より先にアンの方が死んじまうんじゃねぇかと思ったぜ」
爆発したように泣くアンは、あのままだと確実に過呼吸になっていた。
それを防ぐにはとにかくこの状況から逃がすことが先決だと、イゾウはアンを眠らせた。
「大丈夫だ」ということばの効果は絶大で、素直なアンはすぐさま信じて眠りに落ちた。
おかげでイゾウは救急車を手配し取るべきところに連絡を取り、淡々と事態を好転させていくことができた。
「アンはお前と一緒に病院に来たのかよい」
「いや、お前さんを救急車ん中放り込んですぐオヤジに連絡取って、そのまんまあっちの家に送ってったから」
「そうかい」
それはよかったと心の中で呟いた。
いまならオヤジがしつこくアンを病院に連れてくるなと言っていた意味が分かる。
病院が辛気臭く縁起悪いのは確かだ。
そんな場所がガキには似合わないのもわかる。
しかしアンが来てはいけないのではない、マルコたちがアンに来てほしくないのだ。
病院服を着て白いベッドに横たわる姿の情けなさと言ったら、とマルコは溢れるリアリティを持って体感していた。
倒れ落ちるその瞬間を見られていたくせにという若干の今更感は否めない。
イゾウはマルコの頭の中を勝手にふたを開けて覗いたかのように言った。
「アンが格好悪い兄貴はいらねぇって言いだしたら言っといてくれよ。良品質の良物件がここにあるぜって」
「…最悪の欠陥品が何言ってんだよい」
イゾウはけらけらと笑って、手元のローテーブルに置いてあったファイルの中身にサラサラ何かを書きこんだ。
『バカ末期』とでも書いていたのかもしれない。
*
ほぼゼロと言っていい荷物を持って家に帰ると、家の中はがらんとしていた。
アンが家にいるはずだと思って帰ってきたのだが、誰もいないように見える。
マキノがアンを返してくれているはずだった。
「アン?」
静かな部屋に声が滲んでいく。
ガタン、と物音がした。いるらしい。
トタタタタと小さな足音が聞こえる。
風呂場へと続く廊下からアンが駆けてきた。
アンはマルコの姿を捉えると、パアアと顔中をきらめかせた。
この笑顔があれば世の中物騒なことなどなくなるのではと錯覚するほど眩しい笑顔だった。
「マルコ!」
アンは走り続ける足を止めることなく、そのままマルコに突進した。
どん、とマルコの脚にぶつかりよろめいたところをマルコが掬い上げる。
「おかえり!」
「ただいま、何してたんだよい」
「せんたく!」
洗濯?と聞き返した時、風呂場の方から微かにごぉおんと洗濯機が回る音が聞こえているのに気付いた。
「お前、洗濯機の使い方なんて知ってたのかよい」
「しらない!」
カニのように泡を吹く洗濯機を想像して、マルコは目を回しかけた。
退院早々重労働が待ち構えていそうな気配がぷんぷんしていた。
一方終始笑顔のアンは、んふふと笑ってうれしそうにマルコの頬に触れる。
「マルコ、げんきになったね!」
「ああ、もう大丈夫だ、悪かったよい」
アンは笑顔のままぶんぶん首を横に振ってから、つ、と人差し指をマルコの目の下にあてた。
「ここがくろくない」
アンはもう一度嬉しそうにくふくふ笑った。
アンがマルコの目の下をなぞるあの行為は、マルコの隈を心配していたのだとようやく合点がいく。
そして同時に、あのアンの不可解な行動はすべてマルコの心配につながっていたのだと気付いた。
こんな小さな少女に健康の心配をされていたのかと思うと、自分の不甲斐なさに眩暈がする。
マルコは頬に添えられたアンの手に自分のそれを重ねた。
アンは笑いながらもう片方の手もマルコの反対側の頬にぺたりと当てる。
マルコの手の中でアンの手はじんわりと温かく、それだけでとりあえずすべて大丈夫のような、そんな気がした。
アンちゃん7歳、マルコ24歳で、まだオヤジと3人暮らしです。
ちょっとこのネタ無理だわーという人はご注意くださいな!
ネクタイを結ぶマルコの黒い背中を、床に座ったアンはぼんやりと見上げていた。
一日の中で、アンの一番嫌いな時間。
黒いシャツが照明を反射して白い光の筋を映した。
この、夜の闇よりも暗い色の服を着たときのマルコは夜になる前にアンを残してどこかへ行ってしまうから、黒は幼いアンにとって何より不吉な色だった。
不吉ということばをまだ知らないので、アンの胸の中には「あ、またこのいやな感じ」という形の分からない不安がもわんと浮かんでいる。
骨ばった手がきゅっと首元を絞めて、それからアンを振り返った。
「夕飯はマキノが来てくれるからよい」
「…ん」
「店の厨房には入んじゃねぇぞい」
「うん」
「寝るときは」
「マキノと一緒に戸締り」
マルコが口にしようとした言葉を先取りして呟くと、マルコは一瞬ぽかんとしてから少し笑ってアンを抱き上げた。
ふわっと身体の中身がひっくりかえるようなこの感覚が、アンは大好きだ。
マルコは片腕にアンを座らせるように抱き上げて、自分の顔より上にあるアンを見上げた。
「なにしょぼくれてんだよい」
「マルコなんじにかえってくるの?」
「アンが朝起きる頃には帰ってきてるよい」
「ねるときはいないの?」
「…いつもと一緒だよい」
「…ちがうもん」
不機嫌にちがうと言ったアンにマルコは返事をせず、じっとその黒い瞳を見つめた。
肩に置かれた小さな手が動いて、ぺたりとマルコの頬に触れた。
少し湿っていてほんのり温かい。
もう片方の手が反対の頬に触れる。
小さな指がそろそろと動いて、マルコの目の下の浅いくぼみをなぞった。
アンの視線は自分が動かす指先を辿っているが、目の奥深くに映しているのは別物だ。
マルコはアンを支えているのと逆の手でアンの手を包み、それからゆっくりとアンを下へ下ろした。
「行ってくるよい」
「…いってらっしゃい」
「マキノが来るまで大人しくしてろよい」
アンは黙って手を振った。
マルコはアンの少し尖った唇を見てから、裏口のドアを開けてその向こう側へと消えた。
*
オヤジの体調が近頃芳しくないのは、一緒に生活していれば火を見るよりも明らかだった。
顔色がよくない。楽しそうに酒を飲んだ後でも、必ず最後に呻くようなため息をついた。
それを指摘して病院に行くよう言ってもオヤジは笑い飛ばすか、逆にまるで子供を叱るようにマルコをいなしてごまかしてしまう。
飲み屋をしていれば酒に体を蝕まれるのは覚悟のうえ、むしろ本望くらいのつもりで彼の人はいるのだろうが、家族からしたらそれはとんだ未来だ。
だからマルコは、強行突破に出ることにした。
店ののれんを隠したのだ。
「おいマルコォ、うちののれんがねぇんだが」
「店はしばらく休業だよい」
「あぁん?」
怪訝な顔で眉間に皺を寄せたオヤジの目の前で、白い紙に赤のペンで太く『都合によりしばらく臨時休業』の文字を躍らせた。
呆気にとられるオヤジをカウンターに残し、マルコはすたすたと店の入口へと進みその紙を引き戸の表に貼りつける。
味気なく意味だけを伝えた張り紙の割には、「だれがなんと言おうと休みったら休み」という有無を言わさぬ強さがあった。
入り口から戻ってきたマルコは、オヤジがすぐさま反駁しようとするのを飲み込むように口を開いた。
「オヤジが病院に行くまで店は開かない。オレも手伝わない。酒も飲ませない。隠れて飲むなら全部捨てる」
な、の形に口を開いたオヤジに、マルコはとどめの一撃を刺した。
「アンはマキノの家に預けるよい」
顎を落としたオヤジを、マルコは初めて見た。
そのまま開いたオヤジの口にツバメが巣を作ってしまうんじゃないかというくらいたっぷりと時間が経ってから、ただいまー!と馬鹿に明るいアンの声が裏口から飛び込んできたのとオヤジが諦めてどでかいため息をついたのはほぼ同時だった。
「オレァ思うがな、マルコ。ありゃあ詐欺だ」
検査入院中のオヤジは、着替えを届けに来たマルコに向かって嫌味っぽくそう言った。
「アンをマキノんところに預けちまえば確かにオレはアンに会えねえ。マキノがそう計らうだろうからな。だが今こうしてオレが入院しちまったら、どのみちアンと会えねぇじゃねぇか」
「オレの心持ちが違うよい。今は別にアンをここに連れて来たらアンタと会わせられる」
「縁起の悪い病院なんてとこガキのくるところじゃねぇ」
「そりゃぁオヤジの都合だよい」
「お前は悪い息子だ、本当に悪い息子だ」
腕から信じられない量の血液を抜かれたり、逆に薄気味悪い液体を注ぎ入れられたり、はたまた白い箱の中に全身を通されたりをここ数日繰り返しているオヤジは、子供のように不機嫌になっていて、マルコにそっぽを向いた。
オヤジが入院することになって、それは半ば覚悟していたことだったのでマルコは特に慌てることもなかった。
病院にアンと一緒に見舞いに行けばいいと思っていたのだ。
しかしそれはオヤジが駄目だと言った。
おかしな理屈をこねくりまわして意味不明な形に形成してマルコに押し付けてきた。
『アンは病院に連れてくるな』
強く念を押すようにそう言われたので、いくらなんでも無理にアンを連れてくることはできない。
そのことで逆にアンの方が寂しそうなのが気にかかった。
アンにはすべてを話している。
「オヤジは身体の調子があんまりよくねぇから、調べてもらうためにしばらく病院に泊まりに行ってるよい」
「びょういんにおとまりできんの?」
「泊まらなきゃなんねぇんだよい、オヤジの身体のために」
少しの羨ましさをにじませたアンに、マルコは慌てて付け足した。
アンは病院を、絵本や教科書の挿絵による知識でしか知らない。
幸い信じられないことに、病気をしたことがないからだ。
まさか生まれた産婦人科病院のことを覚えてはいないだろう。
「しばらくオヤジには会えねぇが、我慢できるな?」
『会えない』ということばを聞いた途端、キラキラさせていたアンの目にすとんと影が落ちた。
少し寂しそうではあったが、それでもアンは笑って言った。
「マルコがいるからだいじょうぶ」
マルコも、アンがいるから大丈夫だと思った。
オヤジの店を閉じたからには稼ぎ手は今マルコしかいない。
焦って働かなければならないほど貯蓄に窮してはいないが、それでも検査の結果によってはオヤジがすぐに復帰できるのは難しいかもしれない。
それを思うと、少しでも今のうちに稼いでおきたかった。
きっとオヤジは家に帰ってこればすぐさま店を開こうとするに違いない。
しかし前と同じ量のメシを作り接待をできるとは限らないので、その分はマルコが補佐をしなければならない。
そうすると自然と夜の仕事に入る量が減るので稼ぎも減る。
いつのまにか、マルコが夜に稼ぐ額はオヤジの店で稼ぐ額をはるかに超えていた。
今までは常にオヤジが家にいたので、アンを残して仕事に行くことに何のためらいもなかった。
初めのうちは「どこにいくの」「なにしにいくの」「アンもいきたい」を繰り返していたが、今はもう笑っていってらっさーいと手を振ってくる。
しかしそれもオヤジがいたからだ。
今日は初めてアンをひとり家に残して仕事に行かなければならない。
なるべくアンが一人で家にいる時間をなくすべく、マキノやオヤジの店の常連の中で信頼できる誰かがアンを見ていてくれるときにだけ仕事を入れていた。
しかし今日はどうしても店に人が足らない、お願いだから来てくれと連絡が入った。
これがただの欠員であればマルコは躊躇なく蹴っていた。
しかし店から、今日はお得意さんが予約を入れているからいつもの倍、いや三倍は見越していると言われて心動いた。
金に流されたわけではない。
実際そうではあるが、金を手に入れることの向こう側にある安寧がちらついたのだ。
この仕事は、客の入れた金が自分の稼ぎにだいぶと反映される。
もし今日いつもの倍稼ぐことができたなら、オヤジにもしものことがあっても対応できる。
マルコは一瞬迷ってから、出勤の返事を返した。
元来迷う性質ではない。
ただ、アンをひとりで家に置いてきたときのあの何とも言えない息苦しさだけは勘弁してほしいと思った。
アンの湿った手の感覚が今もまだ頬に残っている。
柔らかい指の腹が目の下をなぞった、あの感覚が馬鹿みたいに名残惜しかった。
マキノはおそらく夜になる前に来てくれるだろうから、アンが一人でいる時間はほんの数時間だ。
心配事は何もない。
きっとアンが本のページを捲ってみたり見えない敵と戦ってみたりしているうちにマキノが来る。
『アンが一人』という事実に耐えられないのはマルコの方だった。
開店の1時間前に店に着いたが、気になることが多すぎて腹がすかなかったので夜は食べないことにした。
翌朝日が昇る前に家に帰って、アンが布団で変わりなく寝ていて、台所のテーブルにマキノからの置手紙があったのを見つけてやっと肩の力を抜いた。
*
「きょうもおしごといくの」
朝から不機嫌だったアンは、夕方になるにつれその度合いを増していた。
アンをひとりにさせたのはあの日一日きりだったが、あれから今日が4連勤目だった。
今日はオヤジの店の常連がアンの世話をしに来てくれる。
マキノに頼んだが、今日はあっちの店で宴会の予約が入っているのだとか。
アンが一人になるようなことであればなんとかして行くけどと言ってくれたが、他がいないわけではないので大丈夫だと言った。
他がいないわけではない。たしかに、そうだ。
ただ、マキノが一番安心で、適役だと思っているのでできれば毎回頼みたいだけだ。
今日来る奴がどうぞアンに何らかの悪影響を及ぼしませんようにと祈りながらネクタイを締めた。
頭が重いのは、きっとそういうアンにまつわる心配事がこんもりと山を作って頭の中に蓄積しているからだ。
そんな折に、後ろからアンのくぐもったような声が聞こえた。
マルコは振り返らず、ズボンのポケットの中身を確かめながら返事をした。
「ああ、夕飯は冷蔵庫に入ってるからよい」
「いかないで」
か細い声がひょろひょろっと飛んできて、マルコの背中にぶつかってぽとんと落ちるようだった。
驚いたのはその勢いのなさだ。
朝からアンの機嫌がよくないのはわかっていたが、虫の居所が悪いときがあるのはこの歳の頃にはよくあることだ。
だからマルコは若干目を瞠ってアンを振り返った。
「アン?」
「いっちゃやだ」
和室の、マルコのクローゼットの向かいに置いてある箪笥に背をもたれさせてぺたんと座っているアンは、マルコの顔を見上げずに呟いた。
「きょうはいかないで」
マルコはしばらくの間アンの頭頂部を見下ろしてから、ため息と一緒に腰を落とした。
アンと同じようにしゃがみこんでも、俯いているアンと視線は合わない。
「明日の朝には帰ってくるよい。昨日と一緒だろい?」
「きのういったならきょうはいかないで」
「そういうもんじゃねぇんだよい」
「きょうはいっちゃやだ」
「わがまま言うな」
少し声を鋭くさせても、アンは怯まなかった。
むしろ黒い目をこぼれそうなほど大きくさせて、マルコと視線を合わせる。
「きょうはマルコのおしごとはおやすみ!」
そういうや否や、アンはぱっと立ち上がって一目散に居間へと駆けていった。
なんだなんだと慌ててあとを追えば、居間と台所の境にある勝手口の三和土(たたき)の上で、アンは両手を後ろに回してドアを背につけてこちらを見据えていた。
台所のテーブルの上に置いてあった財布と車のキーが、ない。
アンとテーブルの上を数回視線を行き来させて、ますます驚いてアンを見つめた。
こんな意味のないわがままは初めてだった。
「アン、返せ」
「やだ」
「アン」
アンは無言で首を振る。
仕事に遅れるだろい、とまっとうな理由を口にしたが、口にしてからそんなことアンにとってはどうでもいいのだと気付いた。
アンがたまにとる不可解な行動は、たいていマルコが20前後の男であるがために理解できないことがほとんどだった。
そういうときはマキノや、時にはオヤジが答えを教えてくれてマルコにとってはほうと単純に新鮮な発見であったりする。
しかし今回の場合、どうもそういうわけではなさそうだ。
ずんと重い頭は、ただの重さから重石がごろんごろんと頭の中を転がっているような鈍い痛みに変わっていた。
その痛みと、変わらない状況に対する苛立ちが自然とマルコの眉間に皺を集める。
「…勘弁してくれよい」
思わずこぼれた深いため息とともにそういうと、アンはふにゃりと顔を歪めた。
鋭い声で咎めるよりも、アンはこういう人の気分に敏感だ。
それをわかっているからいつもは気を付けているのだが、今回は苛立ちが先だってその余裕がなかった。
アンは後ろ手にしていた両手を前に回して、手の中に納まりきらない財布とキーを抱きしめる。
歪んだ顔はいつしか涙目になっていた。
「マルコいかないで」
埒が明かない。
マルコは黙ってアンに歩み寄りその腕を取った。
アンがびくりと肩をすくめる。
アンの手には大きすぎる財布は、マルコによってひょいと取り上げられた。
あぅ、と震えた呻きが上がる。
車のキーはアンが握ったままだったが、もういいと思った。
「今日は電車で行く」
大人気ないと分かっていた。
アンに背を向ける瞬間、呆然とするアンの目からぽろぽろっと涙がこぼれるのも見えた。
それでも今はとりあえず仕事に行かなければということが先決で、アンのわがままはきっとオヤジがいないことへの不満もあるだろうから、明後日の休みにはオヤジに後から怒られてもいいからアンを病院へ連れて行ってやろうと思った。
アンが立ちふさがる勝手口からは出られないので店の玄関から出ようと一歩進んだそのとき、腰のあたりにぽんと小さな何かがぶつかった衝撃があり、すぐに足元でガチャンと金属音がした。
見下ろすと、車のキー。
この期に及んでとアンを振り返ったそのときに見えたのは、泣き濡れたアンの顔ではなく茶色い天井の木目だった。
*
電車で行くと言って踵を返してしまったマルコの背中は、アンのきらいな黒一色だった。
マルコが背を向ける前に見えた目と目の間にできたいくつもの線は、アンのすることに困り苛立ち疲れていることをアンに分かりやすく示していた。
それでもどうしても、今日は行ってほしくなかった。
マルコがここ数日ろくに寝ていないのを知っている。
アンが眠るときにいないのはもちろんのこと、朝目が覚めるとマルコはすでに台所でコーヒーを飲んでいた。
いつもはアンが学校に行っている間寝ているはずだが、学校から帰ってくると家の掃除洗濯夕飯の用意などすべて済ませてあるところを見るとマルコが眠る時間を家事に割いていることは明らかだった。
オヤジがいない今、すべてのことがマルコの肩にのしかかっている。
その中の一つに自分がいるのだと、アンはそこはかとなくわかっていた。
だからこそ今日は夜までアンと一緒に過ごして、同じ時間に隣で寝てほしかった。
それなのに、それを訴えれば訴えるほどマルコは遠くへ行ってしまう。
ゆらゆらと目の下の方に溜まって震えている涙は、マルコが行ってしまうことよりも思いが上手く伝わらないもどかしさによるものだった。
マルコが一歩踏み出す。
マルコの黒い背中は、もう二度とアンのところへは帰ってこないと言っているように見えた。
そう思いつくと、息と心臓が止まってしまうかと思った。
マルコがもう一度振り向いてくれるなら何でもいい、そう思って握りしめていたキーをマルコの背中に投げつけた。
投げつけて、とにかく何でもいいから、今は困らせてもいいから、思いっきり泣き喚いてでもしてマルコを引き留めようと思ったのだ。
キーは背中にぶつかる予定が、飛距離が足らず、緩い放物線を描いてマルコの腰にぶつかった。
マルコが足を止めた。
よしっ、とアンは息を吸い込む。
しかしその瞬間、目の前の大きな体がぐらりと傾いた。
アンは吸い込んだ息をどこに持って行っていいかわからないまま固まった。
どたんと大きな音がして、床が揺れた。
「あ」
ぽかんと開いた口から、意味のない音が漏れた。
マルコの脚がこちらに向いている。
長い腕が力なく床の上に横たわっていた。
倒れた勢いで黒いシャツがめくれて肌が見えていた。
アンは急いで三和土から上がりマルコの頭の方に回り、顔を覗き込んだ。
色のない頬と閉じた瞼、日に日に濃くなっていく目の下の濃さがアンに事態を飲み込ませた。
「マルコ」
叫んだつもりが、声にならなかった。
ぶわっと全身に虫が這ったような寒気が走り、両手足が震えだす。
横向きに倒れたマルコの腕と顔に両手を置いて、意味もなく辺りを見渡した。
だれもいない。
そうだ、いまはオヤジがびょういんだから、マルコとふたり──
震えるアンの手からも血の気が引いて、白くなってきた。
色の変わっていく自分の手を見つめながら、アンは横たわるマルコの隣で呆然と膝立ちになっていた。
「マルコ」
今度はか細い声が出た。
しかしマルコはピクリとも動かず分厚い瞼は閉じたままだ。
吐き気がした。
アンはぺたりとその場に座り込み、倒れたマルコの腕に額をつけた。
だれか、だれかを呼ばなくちゃ。
マキノが一番に浮かんだが、マキノの店まで歩いて行ったことはない。
いつもマルコかマキノの車で行っていたので、道がわからない。
オヤジの顔も浮かんだが、すぐに無理だと思った。
オヤジが病院に行ってから、一度も話さえしていない。
そこではっと思い当り、マルコの尻のポケットを探って携帯を引っ張り出した。
マルコがいつもこれを使ってオヤジやマキノと喋っていた。
震える手で携帯を開いた。
紺色の幾何学模様のディスプレイに目が回った。
右下に見える数字はおそらく時計。
それしかわからなかった。
圧倒的な不安がアンを押しつぶした。
「アンー」
カシャカシャ、と店の引き戸が揺れる音とアンの名前を呼ぶ声がした。
白いくもりガラスの向こうに細長い影が見える。
アンは顔を上げてそれを見つけると、一目散に店へと駆け出した。
震える足がもつれ一度床の上で派手に転んだがすぐさま立ち上がる。
家と店を繋ぐ廊下を駆け抜け、低い段差を降りて店の中を突っ切り、ぶつかるように入り口に到着した。
引き戸の向こう側の影はその勢いに驚いたように一歩下がったが、アンが戸を引くよりも先にその影が戸を開けてくれた。
「アン?なに走っ」
アンは現れたジーンズの脚に噛り付き、火がついたように泣き出した。
泣き叫ぶ声の間に、「マルコ」と「たすけて」が入り混じる。
店の入り口でアンにしがみつかれた男は、アンを見下ろして、それから廊下の向こう側で見えた不吉な人影に気付き軽く目を瞠った。
しかしそこからすぐさま倒れるマルコに歩み寄るわけでもなく、その場でひょいとアンを抱き上げる。
長い後髪が風に煽られ跳ねるように揺れた。
「ハイハイ、大丈夫大丈夫」
男はポンポンとアンの背を叩きながら「邪魔すんぞー」と誰にともなく行って、店を横切りアンとマルコの住居に足を踏み入れた。
抱き上げられたアンはとりあえず目の前にある肩にしがみつく。
もう「マルコ」ということば以外は忘れていた。
アンを抱いたまま、男は足元に倒れるマルコをじっと無表情で見下ろした。
あまりにその時間が長いので、アンは思わず泣き止んで男の横顔を見た。
倒れたマルコと同じくらい頬が白い。
そしてすっとしゃがみこみ、片手でマルコの顔をわしづかむとぐるんと仰向かせる。
男の指圧でマルコの頬が軽くつぶれた。
いっ、と息を呑むアンを傍らに男は「ああ」と呟いた。
アンは男の腕の中でマルコを見下ろし、ぎゅっと目を瞑る。
一度止まったはずの涙がまた目の端からじわじわと滲んできた。
マルコ、と小さく呟いた。
「こんなでけぇのがいきなり倒れてきたら誰でも怖い」
男は味気ない口調でそう言った。
女性の手のように白いそれでアンの後頭部を包むように支える。
そのままアンの頭を軽く肩に押さえつけるようにしてぽんぽんとあやした。
「マルコは大丈夫だよ。お前はちぃと寝ろ」
「だいじょうぶ…?」
「ああ、オレは医者だ」
まだ卵だけどな、と注釈を加えた声は低く穏やかで、質のいいシーツのようにアンをくるんだ。
それに加えて、男が言った「マルコは大丈夫」の言葉があとからアンの中に滑り込んでくる。
「大丈夫だよ」
アンの右目から一筋最後の涙がこぼれて、もう一度聞こえた大丈夫との言葉に守られるようにしてアンは男の腕の中で眠りに落ちた。
それでも最後までマルコの目が開かなかったことが怖くて怖くて、男の服の肩口を強く握りしめていた。
*
たった一日の入院は、入院前よりマルコの精神を疲弊させた。
まず、目が覚めて目に飛び込んだのが病院の天井ではなくオヤジの拳で、あれと思った瞬間には目の前に星が散り、再び暗闇に意識が落ちた。
二度目に起きたのは、明らかに腕に何か鋭利なものが突き刺さった痛みを感じたからだ。
「…いってェ!」
「おう、起きたか」
「てめぇ、点滴の針を患者の腕に垂直に刺すバカがどこにいる」
「そのバカはぶっ倒れるまで働くバカよりか幾分頭がいいらしい」
それを聞いて、ああオレは倒れたのだと思い当った。
そして同時に何より大切なことを思い出す。
イゾウはマルコの腕に墓標のように突き刺さる針をひょいと抜くと、今度は確かな場所にすいと針を入れた。
痛みもない。
「アンは」
「酒屋のねえちゃんところにいるよ。オヤジに聞いたらそこに連れてけって言うから」
自然と安堵の息が漏れた。
マキノのところにいるなら心配はない。
「なに安心してんだ過労死予備軍」
「誰が予備軍だよい」
「かわいそうに、オレァあのとき転がってるお前より先にアンの方が死んじまうんじゃねぇかと思ったぜ」
爆発したように泣くアンは、あのままだと確実に過呼吸になっていた。
それを防ぐにはとにかくこの状況から逃がすことが先決だと、イゾウはアンを眠らせた。
「大丈夫だ」ということばの効果は絶大で、素直なアンはすぐさま信じて眠りに落ちた。
おかげでイゾウは救急車を手配し取るべきところに連絡を取り、淡々と事態を好転させていくことができた。
「アンはお前と一緒に病院に来たのかよい」
「いや、お前さんを救急車ん中放り込んですぐオヤジに連絡取って、そのまんまあっちの家に送ってったから」
「そうかい」
それはよかったと心の中で呟いた。
いまならオヤジがしつこくアンを病院に連れてくるなと言っていた意味が分かる。
病院が辛気臭く縁起悪いのは確かだ。
そんな場所がガキには似合わないのもわかる。
しかしアンが来てはいけないのではない、マルコたちがアンに来てほしくないのだ。
病院服を着て白いベッドに横たわる姿の情けなさと言ったら、とマルコは溢れるリアリティを持って体感していた。
倒れ落ちるその瞬間を見られていたくせにという若干の今更感は否めない。
イゾウはマルコの頭の中を勝手にふたを開けて覗いたかのように言った。
「アンが格好悪い兄貴はいらねぇって言いだしたら言っといてくれよ。良品質の良物件がここにあるぜって」
「…最悪の欠陥品が何言ってんだよい」
イゾウはけらけらと笑って、手元のローテーブルに置いてあったファイルの中身にサラサラ何かを書きこんだ。
『バカ末期』とでも書いていたのかもしれない。
*
ほぼゼロと言っていい荷物を持って家に帰ると、家の中はがらんとしていた。
アンが家にいるはずだと思って帰ってきたのだが、誰もいないように見える。
マキノがアンを返してくれているはずだった。
「アン?」
静かな部屋に声が滲んでいく。
ガタン、と物音がした。いるらしい。
トタタタタと小さな足音が聞こえる。
風呂場へと続く廊下からアンが駆けてきた。
アンはマルコの姿を捉えると、パアアと顔中をきらめかせた。
この笑顔があれば世の中物騒なことなどなくなるのではと錯覚するほど眩しい笑顔だった。
「マルコ!」
アンは走り続ける足を止めることなく、そのままマルコに突進した。
どん、とマルコの脚にぶつかりよろめいたところをマルコが掬い上げる。
「おかえり!」
「ただいま、何してたんだよい」
「せんたく!」
洗濯?と聞き返した時、風呂場の方から微かにごぉおんと洗濯機が回る音が聞こえているのに気付いた。
「お前、洗濯機の使い方なんて知ってたのかよい」
「しらない!」
カニのように泡を吹く洗濯機を想像して、マルコは目を回しかけた。
退院早々重労働が待ち構えていそうな気配がぷんぷんしていた。
一方終始笑顔のアンは、んふふと笑ってうれしそうにマルコの頬に触れる。
「マルコ、げんきになったね!」
「ああ、もう大丈夫だ、悪かったよい」
アンは笑顔のままぶんぶん首を横に振ってから、つ、と人差し指をマルコの目の下にあてた。
「ここがくろくない」
アンはもう一度嬉しそうにくふくふ笑った。
アンがマルコの目の下をなぞるあの行為は、マルコの隈を心配していたのだとようやく合点がいく。
そして同時に、あのアンの不可解な行動はすべてマルコの心配につながっていたのだと気付いた。
こんな小さな少女に健康の心配をされていたのかと思うと、自分の不甲斐なさに眩暈がする。
マルコは頬に添えられたアンの手に自分のそれを重ねた。
アンは笑いながらもう片方の手もマルコの反対側の頬にぺたりと当てる。
マルコの手の中でアンの手はじんわりと温かく、それだけでとりあえずすべて大丈夫のような、そんな気がした。
PR
Comment
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
カテゴリー
フリーエリア
麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。
@kmtn_05 からのツイート
我が家は同人サイト様かつ検索避け済みサイト様のみリンクフリーとなっております。
一声いただければ喜んで遊びに行きます。
足りん
URL;http;//legend.en-grey.com/
管理人:こまつな
Twitter
災害マニュアル
プロフィール
HN:
こまつな
性別:
女性
ブログ内検索
カウンター