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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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思った以上に機嫌のよいティーチの顔を見ないように、アンは俯いたままテーブルの脚を眺めていた。
警察と行政府の衝突のニュースは、アンやサボが予想した通り黒ひげを喜ばせている。
アンは彼らから招集がかかったときから、ティーチのこの世界を我が物にしたかのような顔を見るのが嫌で、ただでさえ気が進まないのに今回はさらに拍車がかかって気が進まなかった。
 
 
「ニューゲートの野郎、こそこそしてるつもりかホントに弱っちまったのかしらねぇが、どっちにしろ顔もだせねぇほどとはみっともねェ!」
 
 
ティーチは下品に大きな笑い声を立てながら、目の前のアンが表情を一ミリたりとも崩していないにもかかわらず、初めから終わりまでずっとこのニュースを喜んでいた。
黒ひげの思惑よりもずっと早くニューゲートの地盤が揺らいだのは、図らずとも彼らにとっては幸運に違いない。
 
こいつらの前で絶対に感情なんて晒したくない。
そう思いながらも、アンは内側で苛立ちがふつふつ煮えるのを押さえられなかった。
声さえ荒げさせなかったものの、顔はどんどんしかめっ面に近くなる。
 
 
「それで、次はどうすんの。最後でしょ」
「あぁ、それだがな、アン」
 
 
ティーチはさもなんでもないことのように言葉を口にしたが、アンはそれを聞いて開いた口が塞がらなかった。
 
 
「……は? どういうこと?」
「そのままの意味に決まってんだろう、これ以上分かりやすい説明の仕方はねぇぜアン」
「約束が違う!」
 
 
アンはこの事務所の中で初めて声を荒げた。
ぎゅっと手のひらを握りこんでティーチを睨む。
アンがどれだけ睨んだところでこの男が動じることは一切ないと分かっているので、余計に腹立たしさが募る。
 
 
「あたしがやらないと意味がない!! 最初からそういう約束だろ!」
「まぁ待てアン。よく考えてみろ、お前は三度もよくやった。オレたちのそれぞれの目的達成のために良く働いてくれた。お前にとっては三度とも失敗だっただろうが『黒ひげ』にとってはそうじゃなかった、これでも感謝してるんだぜェオレたちは。だからこそ、次でオレたちもお前ェにきちんと目的を果たしてもらいてェ。だからこそ、今度の盗みからは手を引け。オレたちはなんとかお前を使わずに髪飾りを盗み出してみせる」
「じゃあなんで最初からそうしなかったんだよ!! 最初からあたしなんていなくても、髪飾りを盗んで好きなようにできたはずだろ!」
「髪飾りの本物はお前のものだ。お前ェが最後の最後で本物の髪飾りを見つけた態でニューゲートを訴えることで今回の作戦はすべて成功する。もしおれたちが勝手に髪飾りを盗み出してからお前に近づいて、これはお前のものでニューゲートの野郎が実はあれこれしてたんだ、だからアイツを訴えてくれと言えばお前は言われた通りにしたか?」
 
 
言葉に詰まった。
理は適っている。
だからといって諦めきれなくて、アンは言葉を絞り出した。
 
 
「……あたしは最後までうまくやる」
「別にお前ェを今更信用してねェわけじゃねぇよ。ただ最後の一つともなると、格段に事をなすのは難しい。たとえ盗みに成功したとしても、お前がパクられちまったら何にもならねぇ、そうだろう?」
 
 
これが一番の安全策だ、とティーチは言い切った。
 
つまるところ、最後の髪飾りを盗むにアンはいらないというのだ。
黒ひげの手のものが事を行う。もうその算段はできていると。
いくらティーチの言葉が理にかなっていると言っても、到底すぐに納得できるものではなかった。
こんな中途半端に手を引きたくなどない。
 
ただ、いまここでアンが「嫌だ」とわめいてもティーチが意を返すことはないともわかっていた。
だからアンは黙って唇を噛み締めるしかない。
ティーチは気持ちの悪いほど猫なで声を出して、「お前ェを仲間外れにしてるつもりはねェから、へそ曲げるんじゃねェ」とアンを宥めた。
 
 
「もう準備は済んでんだ、実行は時期を見計らいつつ一か月後」
 
 
アンは静かに頷いた。
渋々納得したふうを装った。
心の中は、まったく黒ひげに同意したつもりはなかった。
 
あたしだけでやろうと決めた。
 
黒ひげの手を借りず、奴らが事をなす一か月後より早く、髪飾りをアン一人で盗む。
その結果がどうなろうと、少なくとも身の行き場は一つしかない。
 
 
 
 

 
 
サボとルフィには黙っていた。
反対されるに決まっている。
彼らはアンが反対意見などに納得したことがないのを知っているくせに、それでも反対するに違いないのだ。
 
道具はアンが持っていた。
ペンライトやピッキング工具、ロープの仕込まれた腕時計も全てアンの手にある。
アンはベッドの上にそれらひとつひとつを並べた。
ルフィは学校、サボは配達を頼んだ野菜がなかなか届かないので八百屋に直接出向いている。
なんてことのない平日の午後だった。
 
白いベッドの上に並んだ細かな工具を一つ一つ手に取り、それらを布で包んでは丁寧に拭っていく。
アン以外の人間の指紋を一切消し去るためだ。
ルフィやサボが勝手にいじっているとは考えにくいが、万一もある。
アンはこれでもかと言うほど丹念に、工具の一つ一つを隅々まで磨き上げる。
磨いた工具は黒いポシェットにすべて収めた。
 
役に立ったこれらの道具に、アンは思いを込めていいものか少し迷う。
こうして手入れをしていると少なからず情が移るものだ。
ただ、黒ひげに与えられたものだということが常に引っかかっていた。
奴らと関わるとどんなに素敵なものも薄汚れてくすむ。
 
全てのツールを磨き終わると、アンはマントを手に取った。
くるくると丸めてコンパクトにすると、それさえもギュッとポシェットに詰める。
さらには足を隠すための、薄手の長いパンツも同じ要領で丸めて押し込む。
そして黒いマスクと短髪のウィッグは、クローゼットにかかるコートのポケットに潜ませた。
 
ベッドの上にはポシェットひとつがちんまりと座していた。
そしてそれに向かい合うように、アンが座っている。
 
たん、たん、とリズムよく靴下を履いた足が階段を上る足音が届いた。
アンはポシェットを三つ並んだ一番窓側のベッドの下に滑り込ませると、「おかえりー!」と明るい声を上げて寝室を後にした。
 
 
 
 
夜は鍋を囲んだ。
ルフィがあれもこれもと好き勝手に材料を突っ込みすぎて中身が溢れる。
じゅわっと水気が蒸発する音ともに、焦り声と笑い声の混じった三人分の叫びがわっと弾けた。
ばーか、とサボが笑いながらげんこつを落とす。
昼間サボが八百屋に取りに言った野菜は、今夜の鍋のためのものだ。
 
 
「アン、肉が足りねェ!」
「もうこれで全部! 野菜も食べな」
「食ってるよぉ」
「ウソつけ、お前肉と野菜9:1くらいで食ってるだろ」
「最後の肉もーらい」
「あーーっ!!」
 
 
ルフィとサボは目を剥いて、ぱくりと肉を頬張るアンに悲痛な叫びを上げた。
残念でした、ごちそうさま! とアンは立ち上がって食器を下げにかかる。
くそ、やられた、と悔しそうにする二人に背中で笑い声を聞かせた。
 
しあわせだった。
うわあと叫んで走りだし、街中の人に伝えたくなるくらい、しあわせだった。
 
 
 
 

 
 
そっと寝室を覗き込んで、二人分の寝息を確認した。
ふたりとも、掛布団にすっぽりともぐりこんで深い寝息を立てている。
時刻はまだ21時を回った頃だ。
あまりに早い就寝の原因を、アンは先程シンクに水で流した。
さらさらと溶けていく粉を、もう二度と見たくもないと思った。
それでもあと一回分の同じものが、アンのポシェットには潜んでいる。
 
ソファで寝落ちたルフィをサボに運ぶよう頼んだら、ルフィをベッドに下ろした途端サボ自身も眠り落ちてしまったらしい。
大きなサボをどうやって運ぼうかと真剣に考えていたアンにとって、そのハプニングはありがたかった。
丁寧に、風邪を引かないように、ふたりに布団を掛けた。
アンのベッドの上は当然空っぽで、下に滑り込ませてあったポシェットは夕食後すぐに取りだしてあった。
今アンの腰に巻き付いている。
 
アンは細い隙間から、ふたりの呼吸を目いっぱい吸い込んだ。
健やかに眠る彼らのにおいを、身体に閉じ込めるように飲みこんだ。
音を立てずに戸を閉める。
いつの間にか得意になっていた忍び足で階段を下りた。
 
 
 
外は風が強く、そして冷たかった。
ぴんとハリのあるアンの頬をいたぶるように、鋭い風が吹く。
雲の流れが速く、月が見え隠れするせいで辺りの明るさもちらちらと変わった。
 
コートの下に着たワンピースは生地が薄く、肌に触れると冷たい。
剥き出しの足は寒いを通りこし痛い。
静かな通りに、甲高いヒールの足音だけが規則正しく響く。
 
宝石商の館は、なんとアンの家から数百メートルしか離れていない近所だった。
実生活に無関係であれば、存在だって知らないのも道理だ。
こんな事態でなければ、もしかすると一生互いに知り合うこともなかったかもしれない。
それでもアンは今、その家にむかって着実に歩を進めている。
今まで盗みに入っていた家々があまりに浮世離れした風貌だったのに比べ、宝石商の家は、並みの家より少し立派な程度。
特に目を引くところもない普通の民家だった。
石柱の門があり、その向こうにこじんまりとした玄関がある。
小さな出窓から、薄く黄色い光が漏れていた。
家の外に警備は一人もいなかった。
宝石商が保存する髪飾りは、彼の家ではなく仕事場の方にあるというのが、黒ひげからも聞いた情報だった。
宝石の鑑定をし、それを街のジュエリーショップに捌くための工房といっていい。
そこで客商売をするわけではないので、店と言うと少し意味合いが違ってくるからか、黒ひげはそこを『仕事場』とあらわした。
警察はその仕事場の方を厳重に警備しているに違いない。
だからこそ宝石商の家自体は他の民家と何も違わない、しんと夜の住宅街に馴染んでいる。
 
アンはここに来るのが初めてではない。
 
 

 
黒ひげの意に背くことを決めて一週間後のことだった。
サボには買い物と言って外に出た。
街の公衆電話から、電話帳を使った。
電話に出たのは、落ち着いた声の男だった。
宝石商本人だ。
 
 
『知り合いの結婚式に身に着ける宝石が見たいの』
『そう、悪いけど、お嬢さんね、僕の仕事はジュエリーショップじゃなくて、そういう店に宝石を売る仕事だからね。普通のお店に行ってもいいの見つかると思うよ』
『あなたのところで直接選びたいの』
『……もしかして誰かに僕を紹介してもらった? お嬢さん名前は?』
『ゴール・D・アンです』
『え? ゴ、ゴール?』
『はい、ゴール・D・アン』
 
 
電話口からシュッと細く息を吸う音が聞こえ、数秒の沈黙の後、男の戸惑い声が再び聞こえた。
 
 
『……あの、ゴール? もしかして、ゴール・D・ロジャーの親戚か何か……』
『娘です』
 
 
娘……と呟いたきり、男はぷつりと黙ってしまった。
アンは冷たい受話器を汗ばむ手でぎゅっと握る。
フルネームを口にするのは、アンにとってほとんど初めてだった。
隠してきたつもりはないが、世にさらせば面倒なことが増えると、嫌でも想像がついたからだ。
 
あ、と呻くような小さな声が電話口から漏れた。
 
 
『いやあ、びっくりしたな……といっても本当かどうかはわからないけど、だとしたらすごい話だ。ロジャーに子供がいたというのは知っていたけどね、あの事件で子供は警察に匿われって噂だったから』
『本当、です』
『うん、特に僕が生前のロジャーと交流があったわけでは全くないんだけど、あの男のお嬢さんと言われたら、聞き流すわけにはいかないよねぇ。え、それでなんだっけ、結婚式?』
 
 
男はそれから、アンに紹介の経緯を尋ねることもなく、直接会う日取りを決めた。
馴れ馴れしいほど愛想のよい男の声を遮るのに遠慮しながら、アンは『あの』と口を開く。
 
 
『父のことがあるから、あたしのことは警察に言わないでほしいの。もう、警察とはあんまり関わりたくないから』
『ああ、そうだね、今僕の周りは警察だらけだからね。もちろん、顧客の情報はしっかり守るよ。僕も客商売だから』
 
 
アンはなるべく丁寧に礼を告げ、最後まで「裕福な家の娘」の役どころを遵守するように、控えめな仕草で電話を切った。
 
嫌な汗が、冷たく背中に滲んでいたことを覚えている。
ロジャーの名を出すことの絶大な威力が、ひしひしと肩に見えない圧力をかけていた。
 
そうしてアンは約束の日に、その家を訪れた。
ルフィは学校で、サボは家にいたが、仕入れに行くと言って家を出た少し後を見計らい、アンも出かけた。
数時間はサボも帰ってこない。
 
教えられた住所に向かうにつれ、もしかするとそこには大勢の警官が待ち構えているのではないかと、内心足がすくむ思いだった。
だからこそ、ひっそりと住宅街の中に馴染んで佇むその住まいを見たとき、アンはむしろ信じられなくて、誰か隠れていやしないかと辺りの様子を窺ってしまったくらいだ。
 
アンを出迎えた男は、背の低い、丸いお腹をした中年だった。
穏やかそうな目元が、商売名からしてがめつそうな印象を与えるそれとは異なる。
男は一瞬顔を引いて、アンを視界前部に収めて眺めた。
アンは買ったばかりのカーディガンの裾を、後ろ手にきゅっと握りしめる。
入ったこともない街のブティックで、顔なじみの店員に「サボとルフィには内緒で」とおしゃれを楽しむふりして買ったものだ。
履き慣れないスカートが落ち着かず、もぞもぞと足を動かしたくなるが、じっと耐えるしかない。
 
 
『やあ、これはまた、想像以上だ』
『はじめまして』
 
 
硬く挨拶をするアンを、男は快く家の中に招き入れた。
深緑色のセーターに包まれた丸いお腹には宝石やお金などのがめついものはつまっていそうにないが、苦労して金持ちになったというような甲斐性は見受けられない、至って平凡な裕福さを醸し出す中年だ。
アンは、客間の立派な革張りのソファに案内された。
腰を下ろすとキュッとハリのある音がした。
なめした革のにおいが、どこか知った場所を思い出させた。
それがどこかを考えるより前に、男が『失礼』と言ってコーヒーを運んできたので、アンの思考はうちきりになる。
男はせかせかと、慣れない手つきでアンにコーヒーを給仕した。
その仕草をぼんやりとみていると、男はアンの視線に気付いて照れたような笑いを浮かべた。
 
 
「いやあ実は男やもめでね。しかも最近の話なもんだからこういうことに慣れなくて。家政婦さんってのも好きじゃないもんでね」
 
 
自分が不躾に眺めていたことに気付いて、アンは慌てて「いや」とか「はあ」とかいうようなことをごにょごにょ呟いた。
さて、と男が向かいに腰を下ろす。
 
 
「ロジャーの娘さんって言うのはほんとうみたいだね」
 
 
男の言葉に、アンは見るからにきょとん顔をさらしてしまった。
どうして、と口に出す前に男が喋り出す。
その顔にはほのぼのとした笑みが浮かんでいる。
 
 
「そっくりだから。そりゃあ言われてみればって感じではあるけど、それでもロジャーの顔は当然テレビでも街でもよく見たからわかるよ。いやあ懐かしいね」
「そう、ですか」
「会ったこともない故人を懐かしいなんて言うのは失礼かな」
 
 
そう言って男は困ったように笑ってこめかみを掻いた。
アンは思わず自分の頬に手を当てていた。
昔の写真を眺めても、自分で似ていると思ったことはなかった。
どちらかというと、他人に「お母さん譲りのそばかすがチャーミング」と言われることが幼いころにままあった程度だ。
だからこそ、面と向かって父さんにそっくりだと言われると、なんだか落ち着かない気分になった。
そんなアンをよそに男は相変わらず害のなさそうな素朴な目をしながら、おもむろにいくつか冊子を取り出した。
 
 
「これね、一応パンフレットみたいなものなんだけど。言った通り僕はジュエリーショップそのものじゃなくてそこに宝石を下ろす仕事だからさ、今ここに現物はないんだ。でもアン、君がこれこれこんな感じでってイメージを伝えてくれるなら、次の機会に僕がいくつか用意できるよ。ジュエリーショップに下ろす前だから、当然世に出回る前、ただ一つの石だ」
 
 
男が滑らしてきた冊子を手に取った。
手に取った流れでページを捲る。
赤や深い青、エメラルドグリーンの輝きが写真から溢れていた。
 
 
「僕のところを懇意にしてくれてる人はね、こうやって君みたいに直接僕のところに来るんだ。その辺のジュエリーショップに行って買えないって意味ではそれなりの価値も上がるからね」
 
 
そうだったのか、そういうものなのか、とアンが素直に感心を顔に表すと、男はそれを見て気分を良くしたようで、嬉しそうにソファの上で身じろいだ。
とはいえアンはもともと宝石に興味があってきたわけではない。
欠伸が出る前に冊子から目を上げた。
 
 
「あの、結婚式で着るドレスが赤だから」
「うんうんなるほどね。そうやってイメージを出して言ってくれるとありがたいよ」
 
 
僕も君には赤が似合うんじゃないかと一目見たときから云々と、男は話しながら自分も別の冊子を捲り始めた。
アンは一緒になって宝石を選るふりをしながら、こっそり大きな安堵の息を吐いていた。
 
赤い服には赤いアクセサリー。
別の色でアクセントにしてもいいけど、やっぱり同系色の色でまとめるとすっきりする。
自分の身につけるものにそのような小技を効かせるなど、今までのアンには考えも及ばなかったことだ。
先日店に来たお客さんが、ちょうど今度娘の結婚式だ云々と話していたのを耳にしたのだ。
純白のドレスに白く光るダイヤのピアスが映えていいのだと、お客のおばさんがまるで自分が結婚するかのように浮かれて喋っていた。
それを聞いて、アンはこの切り出し方を思いついたのだ。
 
 
「赤と言えばやっぱりルビーだけど、スピネルもいい色だよ。あとはガーネットとか……そういえば何のアクセサリーにするか聞いてなかったね。それによって大きさも値段も変わってくるけど」
 
 
男の小さな目に見られると、小さな子供にきゅっと手を握られているような感覚がした。
無碍には振り払えないような無邪気さが、今のアンには痛い。
 
 
「……髪飾りに」
「ああ、髪飾りね、赤の……」
 
 
再び冊子に落ちた男の視線が、さっとアンに戻ってきた。
つぶらな目の真摯さに目を逸らしたくなる。
男は一瞬、真顔をさらしてしまったことを後悔するような色を見せた。
自分が言える話ではないが、頭の悪い人じゃないんだな、と思った。
男はほんの数ミリ口を開いたままたっぷり逡巡してから、思い切るように口を開いた。
 
 
「あの髪飾りを、知ってるんだね」
 
 
アンがしっかり頷くと、男はああとため息のような声を洩らして冊子をぽいと机の上に放り投げた。
 
 
「いや、別段珍しいことでもないけどさ、ホラいまあの髪飾りの兄弟たちとでもいうかな、盗難騒ぎがあるだろう。でもだからこそ、あれは売り物じゃないんだ、知ってるんだろう?」
 
 
またもや頷く。
男は困ったように頭をかいた。
 
 
「一昔前は『同じものを』って言ってくるお客さんも少なくなかったんだ。今はやっぱり流行り廃りがあるからかな、とんといなくなったけど。君もそうかな?」
「は、母に、聞いたことがあって」
 
 
へえお母さんに、と男はあっさりとうなずいた。
この男は本物を持っている。
それが母さんのものだと知らずに持っている。
男は太い眉をそれらしくしならせて、困った顔を見せた。
 
 
「申し訳ないけど、やっぱりあれは売り物にはならないよ。僕があれを手に入れられたのはエドワード氏のはからいあってこそで、思い入れもあってね」
 
 
彼も今大変そうだけど、と男は芝居気のないため息を吐いた。
 
 
「エースだっけ? アイツに盗まれた髪飾りを持ってた他の人たちみたいに、あれを見世物にするのは僕はあんまり好きじゃないんだ。もちろん宝石は人に愛でられてこそ美しい。だけど好奇の視線にさらされればそれだけ色褪せる気もしないか。……そもそも本当にあの髪飾りを買えると思って来たの?」
「ひ、ひとめ見てみたくて」
 
 
男は一拍キョトンとすると、あははっと声を上げて笑った。
苦笑の後味が残る笑みには、世間知らずな良家の娘をほんのわずか憐れむような表情が混じっていた。
 
 
「アン、さすがにそれは無理な話だ。今ここで僕が君にひょいと髪飾りを見せてしまったら、警察のメンツが立たない、そうだろ。君の髪飾りの宝石は僕が腕に……というより目によりをかけて選ぶからさ」
 
 
おねがいします、とアンがぺこりと頭を下げると男は満足げに息を吐いて、また冊子を手に取った。
 
 
「ピンクサファイアでもいいと思うんだけどね、それかこっちの石は加工しやすいから」
 
 
男が写真を指差して話し始めたそのとき、アンの心はもうそこになかった。
 
『警察のメンツが立たない』
せっかく警備している髪飾りを簡単に人目にさらすことが?
今話題のそれを、ただの売り物のように扱うことが?
ちがう、と思った。
警察は髪飾りを警護などしていないのだ。
いや実際は、宝石商の仕事場の方は幾重もの警備に囲まれて物々しい雰囲気になっている。アンもテレビ越しにその映像を見た。
茶色い壁で、ぽこりと丸いドーム型の屋根が印象的なこじんまりとした工房を、紺色の制服を着た男たちがおぞましいほど規則正しく囲っていた。
ただ、彼らは小さなその建物をただ囲っているだけだ。
中身のない箱を手を繋いで守っている。
警察が守っている髪飾りは、本物ではないのだ。
警察の入れ知恵か宝石商本人の策略か、真意の出所はどこからかわからないが、そうにちがいないとアンは確信した。
だからこそ、男がアンに今ここで髪飾りを見せてしまったら警察のメンツが立たないのだ。
髪飾りは、仕事場の方で警護のもとにあることになっているのだから。
 
髪飾りは今、この建物のどこかにある。
背骨が冷えて、膝が震えそうになるのをぐっと堪えた。
男は自分の失言になにも気付かず、むしろ楽しそうにアンに宝石を勧めている。
 
男はいくつか選んだものを、次の機会に準備しようと言った。
アンは殊勝に頷いて、その次の機会の日時を決めた。
 
 
 

 
今思うと、黒ひげはこのだまし討ちを知っていたのかもしれないな、と思った。
もし通例通りアンが宝石商の持つ髪飾りを奪いに行っていたとしたら、黒ひげはアンを屋敷と仕事場のどちらに行かせただろう。
黒ひげは何食わぬ顔で、アンを飛んで火にいる夏の虫にしていただろうか。
 
今更考えても詮無いことだ。
アンはボタン式のインターホンを、色のない指先で押した。
 
扉を開けた男は、依然と何も変わらない平和な顔をしていた。
 
 
「一人で来たのかい? 夜の一人歩きは感心しないね」
「近くまで送ってもらって」
「ああ、それならいい」
 
 
それらしい嘘を、男は簡単に信じた。
以前と同じ客間に通される。
寒かっただろう、と男は茶を入れに奥へ引っ込んだ。
 
男の背中が扉の向こうに消えてすぐ、アンは部屋の四隅や調度品の影に目を走らせた。
とかげが素早く身を滑らせて移動するように、視線を辺り一帯に巡らせる。
この部屋には監視カメラの類はないようだ。
ただの客間に過ぎないからだろうか。
いくら普通の民家とはいえ、商人であればそれなりの資産を見込まれてもおかしくない。それを鑑みてのセキュリティは施されているだろう。
あるとすれば玄関、廊下、窓の傍、そして髪飾りが眠る部屋。
だとしても、この部屋にさえカメラがなければどうとでもなる。
たとえ廊下の監視カメラに不審な影が映されたとしても、その姿はアンではなくエースだ。
 
扉が開いた。
 
 
「いやあ、やっぱり少し時間がかかってしまった」
 
 
照れ笑いを隠さずに、男は持ち込んだトレーをテーブルにおいて、アンの前に湯気の立つカップを差し出した。
おたおたと慣れない仕草でアンに給仕する男の丸い手を見ていると、急に息がつまるような思いがした。
ソーサーを支える男の左手の薬指には、細いシルバーの指輪が光っていた。
太い指をぎゅっと締め付けるように、けして外れはしませんよと主張するかのように、指輪は華奢な弧を描いている。
この家に彼は一人だと言っていた。
最近やもめになってしまったのだと。
どんな理由でそうなったのかはわからない、考えればいろいろとあげることができるだろう。
 
 
「用意した石をいくつかを持ってくるから、飲んで温まって、少し待っててくれるかな」
 
 
そういってはにかみながら部屋を後にする男の、丸く肉のついた頬は柔らかい線を描いていた。
もしあたしが。
もしあたしがこれから、彼が持つ髪飾りを盗むつもりだと彼が知ったら、その柔らかい頬は固く冷たく強張ってしまうのだろうか。
彼が入れた温かくて少し苦すぎるコーヒーも、ただの濁った液体になってしまうのだろうか。
 
彼がどうしてエドワード・ニューゲートから髪飾りを買い入れたのかを想像した。
買い入れたそれを、彼は人目にさらすことをしていない。
この家のどこかで、大切に保管しているのだろう。
『宝石は人に愛でられてこそ美しい』と言っていた彼は、その宝石を誰に愛でさせたのだろう。
誰のために愛でたのだろう。
あたしが奪い去ろうとしているのは、彼が何かを、誰かを大切に思った証なんじゃないだろうか。
 
髪飾りはもともとあたしの母さんのものだ。
そう思い続けることが苦しいのは、今に始まったことじゃない。
だからこそ、ずっと苦しい。
 
アンはそっとコートのポケットに手を滑り込ませた。
爪の先で薄いビニールに傷をつけ、取りだしたそれを男のコーヒーの上にさっと振り掛けた。
白い粉がさらりと一振り真っ黒の水面に散り、すぐさま溶けて消えた。
半分ほど残ったそれを片手にアンは一気に自分のコーヒーを半分ほど飲み下し、その熱さと苦さに舌を参らせながら自分のカップに残りの粉をぶちまけた。
空のビニールをポシェットの外ポケットにしまいこんでコートの裾を直した時、男が戻ってきた。
両腕でガラスのケースを支えている。
 
 
「お待たせ」
 
 
男はケースをテーブルに置くと、慎重な手つきでガラスを持ち上げた。
ふかふかのソファのような黒い艶のある布地の上に、石が三つ並んでいた。
血のように真っ赤な石が左端。
真ん中に、今度は炎のような明るい赤の石がひとつ。
そして右端の石は、赤やオレンジというよりピンクに近い可愛らしい色をしたものだった。
男はアンに白い手袋を手渡した。
 
 
「手に取ってみていいよ。昼に見るのとはまた色合いが変わってしまうんだけどね」
 
 
アンは言われた通り手袋をはめ、ひとまずおそるおそると言った様子で左端の石に触れてみた。
俯いて石に視線を注いでいるようでいて、本当は男がコーヒーに手を伸ばさないかと気が気でない。
 
 
「それがルビー。8カラットのモゴック産だ」
 
 
アンは次に、真ん中の石に触れた。
 
 
「レッドスピネル、同じく8カラットでウラル産だよ」
 
 
それで、と男は流れるまま隣の石についても口にした。
 
 
「最後の一つがピンクサファイア。10カラットで今僕が持っている石の中で一番価値ある宝石だ」
 
 
それを聞くと、思わずサファイアに触れようとしていたアンの手が止まった。
目ざとく気付いた男が軽く笑う。
 
 
「ゆっくり選ぶといいよ。まだもう少し他にも用意してあるから」
 
 
言いながら、男の手がカップに伸びた。
 
 
 

 
ソファの肘掛けに上半身をもたれさせるようにして眠る男をそのままに、アンは急いでウィッグとマスク、そして手袋を身につけた。
ワンピースの上からパンツを履くとき、スカートが皺にならないよう気を配るのに時間がかかった。
その上からコートを羽織る。
ポシェットが腰についているのを確認して、部屋を出た。
 
邸宅内の構造はいわゆる振り分け式で、長い廊下にいくつかの扉が並んでいる。
客間は玄関に一番近い右側の部屋。
アンがそこから出るとさらに右に廊下が伸びていて、どうやらつきあたりがダイニングとキッチンのようだ。
さらに玄関の正面に階段があり、二階へ続いている。
 
今までのように、黒ひげが全ての手配をしていてくれた時のように、手掛かりはなにひとつない。
あるのは勘だけだ。
アンは階段を上った。
仔猫の鳴き声のような音を立てて、足元が軋む。
階上も一回と同じ構造で、奥へと伸びる廊下に面して左右に扉が2枚ずつ、そして突き当りに一部屋だ。
手前の右の部屋だけ少しドアが開いていた。
その部屋は無視して、左手前のドアに手を掛ける。
鍵はかかっていない。
通り過ぎて二枚目の右のドア、左のドアと同じようにノブを回す。
どちらも鍵はかかっていなかった。
最後に残ったつきあたりのドアは、他のドアと外見は何も変わらないシンプルな木の造りだ。
だがアンには、この扉だけが明るく見えた。
はっきりと強い輪郭を描いているように見えた。
ノブに手を掛ける。
鍵がかかっていた。
 
落ち着いて、息をひとつ吸い込んで胸の中に落とす。
ポシェットからピッキング工具一式を取り出して、作業を始めた。
知らず知らずに息を詰める。
静かな夜だ。
更けてもいない中途半端な夜の時間、自分の細い呼吸音だけが聞こえる。
ものの3,4分ほどで、ノブの中で小さな金属が音を立てて外れた。
工具をポシェットにしまい込み、そっとノブを回した。
3センチほどドアを開け、中を覗きこむ。
寝室だった。
細い隙間からやっとのことでベッドの足らしきものが見える。
その横にサイドテーブル、大きなクローゼット、置き時計。
ロココ調のドレッサーだけがシックなこの家全体の雰囲気から浮いていた。
アンはさらにドアに体重をかけて、ついに部屋の中に身を滑り込ませた。
部屋の中央に、正面の壁に頭をつける形でキングサイズのベッドが鎮座していた。
丁寧にベッドメイキングされているが、脚側の端のシーツが一部だけ取り残されて、めくれているのが目に留まった。
男が自らいそいそと慣れない手つきでベッドをメイキングしている姿が想像できた。
アンは壁伝いにドレッサーへと近づいた。
部屋の調度品の中で一つだけ浮いてしまったそれは、白の彫刻が美しい。
陶器のような縁取りに囲まれて、鏡が暗がりの中ぼんやりと光って見える。
 
せせこましいただの泥棒作業が始まった。
クローゼットの扉を開けると、中はウォークイン形式になっていた。
防虫剤くさい生地と生地の間に入り込み、ショーケースのような、それらしきものがないか探し漁る。
それともこの奥に隠し扉のようなものがあったりするのだろうか、と奥の壁を押したり突起を探したり軽く叩いたり、いろいろ試してみる。
実際アンには、髪飾りがどのような形で保存されているのかわからないのだ。
この部屋にあるのかどうかもわからない。
もしかするとこの家の中の小さな一室で、誰に見られるわけでもなくひっそりと咲いているのかもしれなかった。
もしかするとこの部屋のこんな暗いクローゼットの中で、こっそり身を潜めているのかもしれなかった。
しかしいくら探してもなにひとつとして、ハッと息を呑む仕掛けがあるわけでもショーケースそのものがあることもなかった。
 
アンは一度クローゼットから出て、部屋全体を見渡した。
出窓から月明かりが漏れている。
観葉植物が一つ、その光を受けていた。
ベッドの下をハズレ覚悟で覗いてみたが、やはりハズレだった。
時計に目を落とす。
午後10時半になろうとしている。
放っておけば男は3時間は目を覚まさないからいいとしても、あまり長居すべきではない。
日が変わる前にはここを立ち去りたかった。
月明かりが眩しいほど白い。
その白い筋が、ロココ調の彫刻をぼんやりと浮かび上がらせていた。
 
男の妻のものだろう。
ドレッサーの上は綺麗に片付いていたが、鏡はいつだれが見ても美しくその姿を移すようにと、磨き上げられていた。
華やかな化粧品の香りが、ふっと鼻をくすぐった気がした。
その香りがアンの遠い記憶のそばをそっとかすめて、どきりとした。
母さんの長い髪に、白い首筋に顔をうずめたときのことを思い出した。
 
アンはそっとドレッサーに歩み寄った。
ドレッサーの台の部分には、横に並んでふたつ引き出しがついている。
さらに右側にだけ、縦にふたつ引き出しが並んでいる。
アンは横並びの二つを同時に、静かに引いた。
茶色い木の肌が見える。
中は空だ。
引き出しを戻し、縦並びの上の一つを開けた。
滑りが悪く、アンが力の加減を強めるとゴトッと小さく音が鳴って引き出しが手前に引かれた。
 
それはあった。
なにに守られるでもなく、コロンと無造作に引き出しの中に一つだけ、真っ赤な花が咲いていた。
アンはしばらく息を詰めて、それを見下ろしていた。
 
それはまるで日用品の態をして、誰かがおもむろに髪に差すのを待っているかのように、雑とも言える収納の仕方で、空っぽのドレッサーの中に転がっていた。
男の妻は使っていたのだ、と思った。
美術館や資産家たちがショーケースに入れ警護に警護を重ね大事に大事にひけらかしていたそれを、男の妻は日常で髪飾りの用途で使っていたのだ。
母さんと同じように。
 
アンはそっと手を差し伸べて、髪飾りを掬い上げた。
宝石はキンと冷えていた。
手袋越しにもその冷たさを感じた。
 
そのとき、ぎっと木の床を踏みしめる軋んだ音が足元から伝わった。
アンはハッと顔を上げ、胸元に髪飾りを抱き寄せる。
誰?
 
寝室のドアは薄く開いていた。
部屋の壁に背中をつけて、その隙間から外の様子を窺い見る。
アンがいる寝室は二階の突き当りの部屋だ。
そこからは二階の廊下が一望できた。
人影は見えない。
ただ、またひとつギッと床の軋む音が響いた。
階段だ。
 
男が起きたのか、それとも別の誰かか。
その誰かを確認しようかすぐさま身を隠すべきか一瞬迷った。
その迷ったほんの一瞬で、階段を軋ませる人物の頭頂部が見えた。
いやに明るい月明かりが、その顔を判別する手助けをした。
 
アンは、「あ」とまるで知り合いに声をかけるような言葉を、慌てて飲み込まなければならなかった。
マルコが静かに、階段を上っていた。
ときおり床を軋ませながらも、ほとんど音もなく、いつものような眠そうな顔が暗がりの中ぼんやり浮かんでいた。

 
 
どうして、なんでマルコがここに、たったひとりで。
疑問と同時に、全身の血流が濃く体の中を巡り始めた。
手の先はものすごく冷たいのに、胸の真ん中ばかりがどくどくと言っている。
こんなときでも身体はマルコに会えたことを喜んでいる。
 
それでも頭は冷静に働いた。
凍ってしまおうとする身体を懸命に動けと叱咤し、アンの手は抱きかかえていた髪飾りをようやくポシェットに納めることができた。
アンは素早く扉から離れ、出窓に近づいた。
窓は外側に押し上げる形式で、おそらくアンひとりが外へ身を滑らすくらいならわけない程度には開くだろう。
ここは二階だが、跳べない落差ではない。
しかし出窓の金具は月明かりの下でも錆びて変色しているのがわかった。
長い間開かれることがなかったのだろう。
仮に開くことができたとしても、盛大に金属音を響かせるに違いない。
そもそも、本当にマルコは一人なのだろうか。
既にこの屋敷が警察一帯に囲まれている可能性は高い、むしろそうとしか考えられない。
何故マルコだけが、建物の中に入って来たのか、それも二階へ足を向けているのかはわからないが。
 
一度だけ、一段と大きく床が軋んだ。マルコが二階の廊下に到達したのだ。
足音はゆっくりと、嫌にゆっくりと近づいてくる。
知っているのだ、と思った。
マルコはエースがこの部屋にいることを知っている。
アンは出窓の取っ手に手をかけた。
鳥肌が立つほど冷たい金属の取っ手だ。
それを下に押すようにまわし、同時に窓を外側に押し出す。
カエルが這い回りながら鳴いているような、引きずった音がした。
外の空気がさっと入り込んできて、アンの襟足を後ろへ払った。
アンの横を通り過ぎた風が、吸いこまれるように背後に流れていく。
閉ざされた寝室に入り込んだ風は、逃げ道を求めるようにもう一つの出口へ駆けていった。
寝室の扉が開いて、マルコが立っている。
アンは出窓に手を突きながら、振り返る形でマルコの顔を捉えた。
 
エース、とマルコが呼びかけた。
 
 
「ひとりかい」
「ひとり?」
 
 
あたしは、と言いかけて言葉をのみこむ。
 
 
「こっちはいつも一人だ」
「そうだったな」
 
 
どういう意味だろうとアンが目を眇めると、マルコは寝室の扉から一歩中に進んだ。
マルコからアンの顔は、逆光でよく見えないはずだ。
そのぶんアンからマルコの顔がよく見えた。
目の下に刻まれた薄い皺までよく見えた。
 
しかしなぜか、今日は息が詰まるほど、身のすくむほどの殺気に似た気配を目の前の男から感じない。
銃口を向けられた時のような真摯な深い色の目は変わらないのに、穏やかとさえいえるマルコの様子に正直どんな顔をしていいのかわからない。
気を張り詰めていないと、エースの仮面は容易に剥がれて素のアンが出てしまいそうだった。
 
そんなことより逃げなければならない、逃げ道を見つけなければならない、そのための時間が欲しい。
 
 
「どうしてここに?」
 
 
アンが尋ねるとマルコは口を開いたが、逡巡するように数拍止まって、何か考えを振り払うかのように首を振った。
 
 
「後でゆっくり教えてやるよい」
「あとでなんて……ない」
「あるんだよい、エース。もういいだろい」
 
 
その声は疲れていた。
少し掠れていて、聞き覚えがあった。
カウンターを挟んだ向かいで、ふざけたことばかりを言うサッチをあしらうときの声にも似ていた。
顔も見にくい暗闇の中、うっすらと汗をにじませてアンを呼んだ時の声にも似ていた。
 
アンはそっと腰に手を伸ばした。
マルコの目はその動きさえ、じっととらえている。
アンの指の先に固いものが触れる。
 
 
「外にも、警察がいる」
 
 
マルコは思い出したようにつぶやいた。
エースを脅しているようには聞こえない。
もう逃げられないということを、これ以上ないほど静かにマルコは告げていた。
アンは腰から抜いた麻酔銃を構えた。
いまここで、とアンは口にした。
 
 
「いまここで、あんたを撃って逃げても、またあんたの仲間が追っかけてくるだろうな」
「ああ、そうだねい」
「逃げられると思う?」
「さあ、どうだろうな……」
 
 
マルコは所在なさ気に一度片手をゆらつかせてから、自身の首筋を擦った。
タバコが吸いたいのだろうと思い当る。
アンは銃を構えたまま一歩後ろに下がり、出窓に軽く腰を乗せた。
こちらから外を見た限りでは人の気配など微塵もしないが、いたるところで今にもアンが手の中に落ちてくるのを待ち構えている飢えた気配がある。
出窓にはカーテンがついていた。
アンはそれを銃を持たない方の手で音を立てて閉めた。
遮光カーテンで、月明かりが遮断されて一瞬暗闇が落ちる。
しかしすぐに目が慣れてきた。
マルコは相変わらずの距離を保ったまま立っている。
 
 
「そこから降りるのかい」
 
 
マルコが尋ねた。
 
 
「そう、だな。そうしたい」
「じゃあ最後にひとつだけ、訊かせてくれ」
 
 
マルコは表情のほとんどない顔でそう言った。
え? と聞き返したいのを堪え、アンは目線で続きを促す。
 
 
「お前、オヤジを知ってんのかい?」
 
 
そのときだった。
背後からなのか横からなのかはたまた正面からなのか、どこから聞こえたのかわからない銃声が少なくとも二発、アンの鼓膜を震わせた。
それを知覚した瞬間、出窓に軽く乗せた腰の両側を、強い衝撃が掠めた。
アンはその衝撃で前につんのめる。
ぶつん、と嫌な音が銃声のコンマ数秒後に重なって、腰についていたポシェットがアンから離れて前へと飛んで行った。
それがマルコの脚元へと滑り、アンが床に手をついた瞬間別の重みがアンの背中を押さえつけた。
気が付けば、床に顎をしたたかにぶつけたアンの視界には、いくつもの黒い足が見えていた。
あぁ、と冷たい敗北感が黒々と胸を侵食していく。
いつのまにか蓋をされていた聴覚が本来の仕事を始めたのか、あたりの音も耳に入り始めた。
トランシーバーの電子音、興奮した男たちの無理やり低く抑えられた声が重なる。
アンの背中を押さえる力が強くなり、背骨の軋む音が頭の中で響いた。
 
幾つも見える黒い靴の中で、マルコの脚だけはどうしてか、判別できた。
そのすぐそばにアンのポシェットが転がっている。
ベルトの部分が二か所焦げていた。
背後からそこを狙って狙撃されたのだと分かった。
出窓から見えていたアンの姿は、ずっと前から狙い定められていたのだ。
やっぱりあたしの頭一つじゃ足りなかったなと今更ながら思ったが、だからといって黒ひげの言う通りにすればよかったという後悔はちらりとも頭をよぎらなかった。
 
白い手袋をはめた手が、転がるポシェットに伸びた。
マルコの手ではない。
別の警察の、知らない男の手だ。
カッと、とてつもない嫌悪感が沸騰した。
 
 
「触るな!!」
 
 
首の上がらない体勢のまま叫んだアンの声に、あたりが一瞬息を呑んだ。
しかしすぐに背中を押さえつける力が一層強まり、ついでに頭まで押さえつけられた。
ずり、とウィッグが頭の上を滑る。
アンを押さえつける手はその感触に気付いたが、アンの目はポシェットを拾い上げた警官の手元に釘付けになっていて自分の上にのしかかる気配の変化に気付けない。
 
 
「触んな、それは、」
 
 
アンの咆哮に怯まず、ポシェットを拾い上げた男はマルコの隣でチャックに手をかけた。
ジッとジッパーが擦れた音を立てる。
アンの頭を押さえつけていた手が、ぶちぶちと髪が切れる感触を感じながらアンのウィッグを取り去った。
長い横髪が頬に垂れる。
クソ、と一度強く唇を噛んで、アンは叫んだ。
 
 
「それは、あたしの母さんのだ!触るな!!」
 
 
白い手袋の上にコロンと現れた髪飾りを、誰も見ていなかった。
床に流れる黒い髪が、その髪に隠された小さなマスクの顔が女のものであることに、周囲がある種の一体感を持って気付いた。
 
マルコが見ていた。


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 麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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