OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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19時の電車に揺られる毛先を見ていた。橙色の髪色は頭頂部から毛先まで等しく一色で、綺麗に染まっている。手入れを怠らないんだろう。ふと横に目を滑らすと、扉の横に掛けられた車内広告と同じ色あった。鮮やかなオレンジ。
襟の少し広いかぎ編みのニットはあたたかそうで、人いきれのこもった電車の中では暑かろうと想像する。黒い細身のパンツは、彼女のバランスの良さをこれ見よがしに主張していた。
オフィス街から帰宅するサラリーマンでぎっちり押し固められた車内が、一駅停まるごとにゆるくほどけていく。
隣に立ったオヤジのとんがった整髪料のにおいを感じながら肩をちぢこめていたところ、ようやく自然と立っていられる余裕ができた。隣のオヤジは一つ空いたシートの端っこに滑り込むように座った。
そのとき、前に立つ彼女の存在に気付いた。
真っ黒い画用紙を張り付けたような車窓に、彼女の顔が写る。うつむいて前髪が目元にかかっているので、かたちのよい鼻筋だけが見えた。
綺麗な子だ。大学生のようにも見えるが、シンプルな服装からすると仕事帰りか。
持っている荷物に視線を移す。大きめの黒。革製のしっかりとした作り。彼女の肩が少し下がって持ち重りしているところを見ると、たっぷり中に入っているらしい。
自分の視線が、彼女の頭の先からつま先まで眺めまわしていることに思い当り、いかんいかんと視線を外す。これじゃ痴漢と言われても、罪悪感から否定がしどろもどろになる。
そのとき、ぐんと電車がスピードを落とした。
車内が一斉に左に揺れ、立っている乗客が粒のそろった人形のように同じ動きで左に傾く。ぎゅうっとつり革が鳴る。
目の前の彼女もおれと同じように左に揺れ、おれはふんばった左足でまっすぐ体勢を立て直したが、彼女はそのまま左へ小さく一歩よろめいた。
彼女は吊り革を持っておらず、左肩に賭けた荷物の重さに引っ張られたのだ。
「あ」
小さく声をあげた。彼女の声かと思ったら自分のだった。
咄嗟に差し出した手が彼女の腕を支える。黒い鞄の紐が彼女の肩から肘までがくんと落ちた。その衝撃に耐えるよう、手に力をこめる。
「大丈夫?」
「は、はい」
すみません、と小さく頭を下げてから、彼女は視線を上げた。初めて正面から目がかちあう。
「あ」
ぽかっと口をあけたおれを、彼女は不思議そうに見つめ返した。
電車がホームへ滑り込み、窓の外が途端に黄色く照らされる。降りようとする乗客が何人か、扉の前に立つおれたちのそばにわらわらと寄って来た。
「あ、ありがとうございました」
もう疲れたあ、とでも言うような気の抜ける音ともに扉が開く。他の乗客に押し出されるように、彼女は電車の外へと吐き出された。
最後に見えたのはほんの少し口角を上げた彼女の横顔で、その残像を追いかけるように人ごみに消える彼女を目で追う。遠慮なんてあるわけもなく無情に扉が閉まり、電車はまた左に傾いて動き出した。
とりあえず明日も同じ時間に乗ろう、とオレンジ色の広告を見つめながら思った。
*
閉店の18時になっても客が引かず、腰の重いマダム達にやんわりと閉店を告げることを繰り返してようやく店を出られたのが19時の15分前。
黒のサロンを外してロッカーに突っ込み、財布やらなんやらをケツのポケットに突っ込んで勢いよくロッカーの扉を閉めると反動でまた開いた。しかし放っておく。
駅まで走りながら、なんでこんなに急いでんだっけ、と首をかしげそうになったが、なにぶん走っているので頭まで酸素が回らず考えるのをやめる。どうでもいいわ。
改札を抜け、階段を駆け降りている最中ホームに電車が滑り込んできた。
ただ、昨日乗った車両は階段から20メートルほど先だ。そこが一番、最寄駅での階段に近いから。
チクショウ、と舌で転がして走るのをやめない。
ホームに辿りついたときに電車の扉が開き、待っていた数人がそわそわと車内に流れ込む。その最後の一人として、昨日と同じ扉から飛び乗った。
みっともねェ。顎が上がり、息を深く吸い、長く吐き出して呼吸を落ち着かせる。それに合わせるように扉が閉まって電車が動き出した。
店を出た瞬間から今このときまで一切止まらず走って来たのだ。
ひざ、が、おれ、そう、と心の声まで途切れ途切れになる。
「ふふ」
鼻先で笑う声に顔を下げる。かすむ視界が邪魔をする。でも、橙色の小さな頭。
「あ、きのう、の」
「こんばんは」
彼女は息を切らすおれを笑って見上げた。初めて真正面からその顔を見た。
膨らんだ前髪が車内の空調で揺れている。昨日見逃した目は、大きくて鮮やかな茶色だった。
いた、いた。
「こ、んばんは、ごめ、い、息が」
「すごい走って来たからびっくりした。足速いのね」
だめだ、やめろ、今すぐ止まれおれの呼吸。彼女の前でこんなハアハアしてたら不気味にも程がある。たとえそれが15分間全力疾走しつづけたせいだとしても。
彼女の言葉に返そうとしたが、ダメだ喋ってたらもたん、と彼女に手のひらをみせて「待って」を示す。彼女は眉を少し上げて応えてくれた。
まぬけな無言の時間を過ごしてから、ようやく口をあける。
「昨日はどうも」
「それは私の台詞でしょ。昨日はありがと」
彼女は今日も荷物がたっぷり詰まっていそうな革のカバンを提げていた。ただ、昨日の轍は踏むまいというように、一生懸命手を伸ばして右手で吊り革を掴んでいる。
扉の前のつり革は短く、彼女の腕はぴんとまっすぐ伸び切っていた。
「いつもこの時間?」
「んー、どうだろ。たまたま」
そりゃそうだ。見ず知らずの男に帰宅時間を知らせるほど軽率には見えない。ただ、会話を続ける気はあるようで「そっちは?」と尋ねられた。
「おれはいつも。バイト先が店閉めて、片づけて出るからだいたい同じ時間」
「ふーん。大学生?」
いや、と否定した矢先、扉が開いた。いつのまにか次の駅についていた。途端、さっきとは比較にならない容量の人間が車内になだれ込んできた。オフィス街ど真ん中の駅だ。
あれよあれよという間に、懸命に吊り革を掴んでいた彼女の手はそこを離れ、おれも彼女も奥へと押し込まれた。
さいわい、反対側の扉の隅に彼女を配置させることができたのですかさずその前に立ちはだかる。
「毎日のことだけど、げんなりするわね」
潜めた声で、彼女が少し背伸びをするようにおれに言う。その仕草がまるで、親しい恋人同士が内緒話をするようで無用にもときめいた。
電車が揺れるたびにぎゅうぎゅうと背中に他人の圧力が加わる。彼女は座席と扉で作られた角にすっぽりとはまっているので、安定して立っていられるようだ。
無意識のうちに、彼女に壁を作って知らん者どもがぶつかってこないようおれは両手両足を踏ん張っていた。
「あ」
「なに?」
すこし口ごもって、彼女はほんのり下唇を噛みながら恥ずかしそうに言った。
「おなか鳴りそう」
「はは、なんだ」
聞こえないよ、と笑いながら、内心なんだそれぇー!! と悶絶する。おれの知っている女子とは、腹が減ってもけして自分からお腹が減ったとは言わない生き物だった。こちらが気を回して、なんか腹減ってきたなと言いだすまで微笑んでいるものだと。
彼女の世紀末的な可愛さを前にして、おれの経験値がいかに浅はかであったかを思い知る。
「これから晩メシ?」
「うん」
じゃあ、よかったら、おれと。口をつきかけたその言葉をのみこむ。だめだ、急すぎる。が、そう尋ねておいて会話終了もいささかまずい。
彼女を見ると、ほら、おれと目を合わしてはいないが「誘われるかなー、どうだろ」的な顔をしている。「まぁ付いてかないけど」と結論が出ていることまでわかる。
無難な落としどころを探って、結局「おれも」と小学生のような会話になった。
一駅二駅と停まり、昨日と同じように乗客が減り、ついに彼女が降りた駅まで辿りついた。彼女が肩に掛けた荷物を掛けなおしたことでそれに気付く。
わきに退くと、「それじゃあ」と言って彼女は開く扉の前に近づいていった。
「あ、気を付けて」と手を振ると、彼女は笑って小さく手を振り返した。
扉が閉まってから、名前くらいさっさと聞けよクソがと膝に手をついたことは言うまでもない。
*
いつもと同じ時間の電車に、その日彼女は乗らなかった。車内にちらちらと視線を走らせて、あくまでさりげなく、しかし丹念に彼女を探したが、やっぱりいない。
毎日同じ時間というわけでもないんだろう。彼女はどうやら働いているようだし、残業だとか職場の飲み会だとか予定があるはずだ。
毎日重たい鞄を提げて満員電車に肩を縮こめながら、それでもまっすぐな背中で前を向いている彼女を目に留めてまだ三日目だ。それでも、街中にあふれる疲れた顔のサラリーマンやOLたちと彼女は一線を画しているのがわかった。
それを思い、裏表のように自分のことが同時に思い出されて口に苦いものが広がる。
自分は彼女と同じか、おそらく年上だ。にもかかわらず、「仕事は?」と訊かれたときに一瞬口がまごつく。
カフェレストランでアルバイトとして雇われている自分は、いわゆるフリーターになるんだろう。どういう経緯でそこに行き着き、何を考えてバイトでいるのかなどの詳しいことはすっぱ抜いて、世間的に見ておれはフリーターだ。
「仕事は?」と訊いた奴におれの事情まで斟酌しろというのは無茶だし、おれはおれの矜持で今の仕事についているわけで、けしてバイトの立場に甘んじているわけではないのだが、そんなことまでわかってもらわなくとも構わない。
ただ、彼女のことを思うと視線が下がった。
社会的に同じ土俵に立っていないというのは、わりとつらい。
くだらない男のプライドかもしれないが、得てしてそういうものなのだ。
電車がゆっくりとスピードを落とし、アナウンスが駅名を告げる。彼女がいつも降りる駅だった。
明日は同じ電車で会えるだろうか。ああ、でも明日は土曜だ。もし平日の会社勤めなら明日は休日で、この電車には乗らないかもしれない。
となると次に会える可能性があるのは月曜──ああ、おれが休みだ。いや構わん。バイトがなくたっておれが電車に乗りゃあいいんだ。
電話のベルのような警告音とともに、ドアが閉まる。そのとき、ホームに並んだ3人掛けのベンチの真ん中に、俯いて座る橙色の髪の長い女の子がいた。
──彼女だ。
あと15センチでドアが閉まるその隙間に、咄嗟に膝を割り込ませた。がつん、とドアが膝を噛み、渋々といった態でまた開く。おれの奇行に、周りの数人があからさまにびくっと反応したが構わず自動のドアを手でこじ開けるようにして電車を降りた。
冷ややかな視線を背中に感じながら、彼女のもとへと向かう。彼女はうなだれるように首を折り、片手で額を押さえていた。気分が悪いのかもしれない。知れずと足が早まった。
しかしあと数歩というところまで来て足が止まる。
なんと声を掛けよう。
ここは彼女の最寄であっておれのそれではないし、にもかかわらず連続三日で会うことになりゃまるでストーカーだ。
偶然を装うか。今日はここの最寄で飲み会が──無理がある、この駅の周りは確か住宅だらけだ。いっそ君が見えたから降りたと言ってしまおうか。
ふと、彼女を挟んだ向かいに目が移った。立ち悩むおれと同じように、彼女を見ている視線がある。
ニット帽をかぶった男と、黒縁の眼鏡をかけた男のふたりだ。大学生のようなざっくりとした服装をしている。改札口へと昇るエレベーター前に立って話す奴らはそっと顔を寄せ合い、彼女を見て、笑った。
カッとこめかみの辺りが熱くなり、迷う間もなくおれは彼女の元へと歩み寄ると、どかりと遠慮なく彼女の隣に腰を下ろした。
びくん、とベージュのトレンチコートを着た腕が怯える。
彼女が顔を上げたのがわかったが、その顔を見下ろすことができずに真正面を見たまま口を開いた。
「こんばんは」
「あ、で、電車の」
そう、と頷いたものの、聞こえた声に歯噛みしそうになる。彼女の声はどこか湿っていて、横目に映る頬は赤らんでいた。
「寒いだろ、ここは」
「そう……そうね」
「ああいう連中もいることだし、場所変えませんかね」
ちらりと視線を移すと、彼女もつられたようにそちらを見た。おれとまともに目の合ったニット帽が、すかさず顔を背ける。ふん、と思わず鼻息が荒くなった。
「──気付かなかった」
「だろうな」
答えてから、もしかして「おれに」という意味だろうかと危ぶんだ。しかし「だろうな」と答えたおれに、彼女は不本意そうに少し眉根を寄せた。そのとき初めてまともに彼女の顔を見て、ぎゅっと喉がつまる。
──あぁ。
おれが腰を上げると、彼女も鞄を掴んで立ち上がった。ニット帽と眼鏡に背を向けて改札行きのエスカレーターに乗る。
彼女を先に乗せ、一段空けて後ろに続いた。
「ねぇ」振り返らずに彼女が言った。
「なんで、ここに」
「電車の中から君が見えた。気分でも悪いのかと思って」
改札階に辿りつき、トンと一歩を踏み出す。
横並びで改札を抜けて、自然に彼女が曲がったのと同じ方へ足を向けた。
「あのね」
「うん?」
「ナミっていうの」
「え」
「私。あなたは?」
あ、ナミ、ナミさん。おれ、おれはサンジ。たどたどしくそう言うと、彼女──ナミさんは小さく笑って、「ありがとうね」と言った。涙に焼けたあとはいつのまにかわからなくなっていた。気のせいだったのかと思うくらい綺麗に。
「一緒に下りてくれたおかげで、変なのに捕まらずに済んだわ」
「ん、ああいうの、よくあるの?」
んー、そうでも、と答える彼女は迷いなく角を曲がり、一つの出口へと向って行く。勝手に、よくあるんだろうなきっと、と想像した。なにしろこんな美人だ。
重たい鞄を肩に提げたまま両手をコートにポケットに突っ込んで、彼女は確かな足取りで階段を上る。
「私、今日も夕飯まだなんだけど。サンジ君は?」
「おれも、まだ」
訊かれるがままに答えて、一瞬ぼーっとして、呆けている場合かと自分で自分のケツを叩くように目が覚めた。
「あ、メシ。よかったら、一緒に。っていうかこの辺全然わかんねェんだけど」
しどろもどろになりながらそう言うと、ナミさんは肩を揺らして、笑った顔はオレに見せずに、「奇遇ね」と言った。
「私もいま、誘おうと思ってた」
駅近においしい洋食屋さんがあるの、とショートブーツのかかとを鳴らしながら彼女は言う。その足音がさっきよりも沈んでいないように聞こえて、なんで泣いてたのかとか聞きそびれたこともどうでもよくなった。
*
「こんばんは」
「こんばんは。おつかれさま」
「ナミさんも」
電車の中で落ち合うたびに、彼女はおれを見上げて屈託なく笑うようになった。
彼女が休みの土日は会えない。おれが休みの日は不規則だが、その日も会えない。シフトも入ってないのに無理して電車に乗るのはやめた。
会える日に、会えるからこそ、自然と口から滑り出る決まりきったあいさつが心地いい。
「今日はちょっと人少ないわね」
「あー、金曜だからな。飲みに行ってまっすぐ帰んねェんじゃねぇかな」
「あ、なるほど」
「ナミさんは? そういうのねーの?」
「あんまり行かないけどね、たまにはあるわよ」
ふうんと相槌を打って、「じゃあさ」と朝から何度もシュミレーションした台詞を舌にのせる。
「今からちょっと飲みにいかね? 次の駅に好きな店があんだ」
おれの趣味でよければ、と咄嗟に口から滑り出たそれは遠慮のようでいて、断られた時や幻滅された時の無意識の予防線だ。
ナミさんはあっさりと「いいわね」と言ってくれた。
よっしゃ、と小さく決めたガッツポーズの肘が後ろに立つ人の背中に当たり、あ、すんませんと背中越しに謝る。なんともきまらない。
先週の金曜に、初めて彼女と夕食を共にした。彼女がうまいと言った店はこじんまりとした個営業の洋食屋で、昼には古き良きケチャップのオムライスなんて出す喫茶店をしていそうなレトロな様子。しかし彼女が言った通り、料理はうまかった。
ナミさんはミートソースのラザニアにサラダとスープのセットを、おれはボンゴレのパスタにサラダとスープ、パンもつけた。食事を頼んだ後、彼女が迷いなく店員に赤ワインを注文した。
「サンジ君は?」
「あ、じゃあおれは白で」
咄嗟に頼んでしまったが、キツくないのだといいなと情けなく考えていた。すぐに顔が赤くなるから。
届いたワインで軽く乾杯する。グラスをつまむ仕草まで、まじまじと見てしまう。
「んーおいし」
一口舐めたワインを、いとおしげに見下ろして彼女は微笑んだ。長い睫毛の影が頬に落ちる。うっとりと見惚れていて、「そっちは?」と訊かれた声に必要以上にまごついた。慌てておれもグラスに口をつける。
「ん、うまい。ぶどうの風味が濃い」
「今日はちょっと飲みたい気分だったから、ちょうどよかった。一人のご飯もつまんないしね」
その言葉に、おれが彼女の必要となれたことが裏付けされた気がして救われる。少なくとも、毎日出会う怪しい奴というレベルから抜け出せた気がする。
酒の力を借りて、一歩踏み込むことにした。
「どんな仕事してんのか、聞いてもいい?」
「もちろん。出版社よ。編集のしごと」
「へぇ。いそがしそうだ」
「うん。でもね、私の部署は専門書、それも科学、生物分野」
物珍しさから目が丸くなる。その表情を見抜いて、ナミさんは子どもに見せるような優しい目をした。
へえ。顔には出さずに胸で呟く。少しお姉さんみたいな顔。あたらしい、と素直にうれしくなる。
「きらびやかなファッション誌とか、今を時めく文学なんかとちがって地味で本屋さんなんかでも埃被っちゃうこともまあ多いんだけど、それでも需要はあるの。大学の先生や、企業の研究者なんかのところに出向いて話を聞いたりね」
「カッコイイね。好きなんだ」
うん、と彼女はてらいなく頷いた。
「サンジ君は?」私の次はあなたの番、とでもいうようにナミさんはおれを見た。話を聞きながらこの展開を半ば覚悟していたので、すんなりと口が開いた。
「カフェで働いてる。店が18時に閉まるから、いっつもあの時間の電車で」
「へー、バリスタ?」
「や、本当はメシ作る方やりたくて」
そっか、じゃあ修行中なのね、とナミさんは笑った。そのまま口を閉ざしてワインを飲む。
この子は。
おれに全部を言わせなくても、与えられた情報から口にしていいことを瞬時に選んで話している。
──バイトなんだ。お店で料理のお手伝い? いつか自分の店持ちたいとかいう、夢? がんばって。
他人だからこそ軽く、きつく言えば無責任に口にされるそれは何一つ間違っていなくて、でも言われるたびにおれのどこかが傷つく。それがプライドなんてくだらないものでも、傷は沁みる。
だからそれらを一切口にせず、上にも下にも評価しない彼女の姿勢は新鮮で、心地よかった。
「どこにあるの? お店」
訊いてから、「あ、あの駅の近くか」とナミさんはひとりでに了解した。
「うん、でも駅から結構遠くて。歩いて15分くらい」
「今度行きたいな。いつが休み?」
「月曜日。よかったら仕事が休みの日にでも」
うん、お店の名前教えて、と言う彼女に店の名前を告げる。口先だけじゃないんだと、またぞろ嬉しくなる。
そこに料理が運ばれてきて、夜も8時近くなり腹をすかせたおれたちは、わりと色気なくガツガツとメシを食った。
彼女の食いっぷりもまあ良くて、おいしそうに頬張る表情がずっと目に焼き付いていた。
いつかおれの料理で。そんなことを思うのも無理はない。
その日を境に、なんとなく打ち解けたような気がして、幸い彼女の方も一線警戒のラインをひっこめてくれたようで、次の火曜から金曜まで毎日同じ電車だ。
一日に話せるのは、おれが電車に乗って彼女が降りるまでのほんの十数分。
周りの目もあって、目どころかぎゅうぎゅうの電車の中じゃろくに落ち着いて話もできないが、同じ苦痛を共有していることにすら喜びを感じてしまう。
初めて同じ駅で電車を降りる。まるでこれから一緒に帰るようで、胸が高鳴る。ナミさんは平然な顔で足取り軽いところを見ると、この展開に対して特に思うところもないみたいだ。安心するような、ちょっと残念なような。
「どんな店?」
「スポーツバーなんだ。こないだ、一昨日だっけ? 話してただろ、サッカーチームの。それでナミさんも嫌いじゃねェかなーと思って」
「へぇ。あんまり行かないから、面白そう」
よかった、と本音がそのまま滑り出る。
都心部から少し外れた夜の街は、程よくおれたちを喧騒に紛れさせてくれた。
*
「い、け──っ!!」気持ちよく二人の声が重なる。
天井の隅に取り付けられた42インチのテレビに緑のフィールド、そこに小さな青い影がちらちらと横切る。その動きを目で追っかけて、ナミさんはこぶしを振り上げて声を張った。
店内は同じチームのサポーターたちが一様に盛り上がり、異様な熱気を発しながら一種の一体感に包まれ、おれたちもまんまと彼らと仲良く酒盛りしながらテレビに釘づけだ。
「あ、だめだめ、ああん」
「おら、そこだっ、いけっ」
「だぁ──っ!」二人同時に頭を抱えた。
「ありえないよねえ、今の」
「あぁ、ありゃ間違いねェ。レフリー買収されてんじゃねェだろうな」
「もう、ああ、ハーフタイム」
甲高い笛の音と共に、店内の客たちの肩が落ちる。一点に集まっていた視線がばらばらとほどけて、思い出したように注文する声があちこちから聞こえた。
ナミさんも握りしめていたジョッキをぐっと呷って、はぁと旨そうに息をつく。白い喉がやけに光ってみえた。
「ふふ」
「なに?」
「サンジ君、顔まっか」
「あ、あぁ、おれすぐ赤くなるんだ」
「興奮しすぎたのかと思った」
そういう彼女は素面と全く変わらない顔色で、いや、少し頬は赤らんでいるか。でもそれも、熱狂的な応援のせいだろう。
「かわいいなぁ」
俯いてピスタチオの顔を剥いていたナミさんは、おれの言葉で小さな丸いテーブルから顔を上げた。
その真顔に、おれは「え?」と答えた。「なに?」とナミさん。
「おれ、なんか言った?」
ナミさんは少し考えるように首を傾け、まぁいいやというふうに首を振った。
「ねぇねぇ、私は明日休みだけど、サンジ君は仕事でしょ。遊んでていいの」
「いーのいーの。おれ朝あんまり早くないから」
「タフねぇ」
「毎日遊び歩いてりゃアレだけど、たまのことだし」
そっか、とナミさんは薄く笑った。
「休みの日とか何してんの?」グラスを見つめながら訊いてみる。
「んー。生活品の買い物とか、掃除とかしてたら終わっちゃうなあ。次の日休みだと思うと夜更かししちゃっうこともあるし、友達の家遊びに行くこともあるわね」
その友達って、男? 聞けるはずもなく、ふうん、と相槌をうつ。
「仕事で忙しいとさ、休みの日に遊ぶぞーってならねぇんだよな。休みだ、休まねぇとってゆっくりしちまって」
「そう! わかる!」
「んで毎週同じような休日ばっかで、つまんねってなる」
「そうなのよねー。なんか楽しい趣味でもあるといいんだけど」
趣味か、と相槌を打つ。おれはこうして、週に一回でも彼女と二人で過ごす時間が作れたら、その次の一週間はフル稼働できる自信があるんだけど。
それもあいにくおれたちの休日は噛み合わないから、またこんな機会があるとしても、こうして仕事終わりの一杯になるだろう。
──今更だけど、まさか。彼氏いねェよな。
思いつくと、まさに身の毛もよだつといったふうに足の先がすっと冷たくなった。
男がいたらこんなふうにおれと飲みに付き合ってくれねェよな。自分を安心させる言葉をかけ、でも、と考える。
おれは男の範疇に入れてもらえてすらいないのだろうか。
彼女の交友関係が一切わからないからこそ、彼女が男友達とどんな距離の取り方をするのか全く想像がつかない。
まだ出会って2週間も経っていない。ナミさんはそんなことを考えさせないあけすけな笑顔を見せてくれるから、まるで旧知の仲──いや言い過ぎた。親しい飲み友達的な会話のテンポだ。
でもおれは、彼女の仕事内容も、友人関係も、単純な生活のことも、何も知らない。
まだ、これからだよな。自分に言い聞かせ、いつか手に入れたい彼女を見据える。
「あ、ハーフタイム終わった」
新しいドリンクを店員から受け取って、彼女の視線が他の客たちと同じようにまたテレビに集まった。
「さっ、巻き返さなきゃ」
「すげぇファンになっちゃったね。一日で」
「にわかでごめんねー」
「いんや、うれしい」
ナミさんは猫のようにニッと目を細くして笑った。
それからのおれたちは前半戦と同じく、こぶしを振り上げ、声を張って、ときには近くの客と肩を組んでテレビに向かって声援を送った。
ナミさんはノリよく誰ともそつなく会話をこなし、たっぷりとスポーツバーの空気を楽しんでいるようで安心した。
しかしそんなことを考えてぼんやりしていると、他の客やナミさんに「ほらしっかり見て!」とどやされるので、いつしかおれもテレビにのめり込んでわいわいと騒いでいた。
*
「あ、終電」
試合が終わったタイミングで、ナミさんが呟いた。彼女の目の動きにつられて、自分も左腕に目を落としたがそこに時計はなかった。水仕事が公私ともに多いので、付ける習慣がない。咄嗟に店内に視線を走らせ、掛け時計で時間を確かめた。
いつのまにこんな、と呟いてしまう。日が変わる5分前だ。ここから駅まで10分、地下鉄の階段を降りて、少し地下道を歩いたらもう間に合わない。
「ごめん」
思わず謝ると、ナミさんは「何謝ってんの」と呆れた顔をした。目じりが下がっている。彼女も騒ぎ疲れて、少し酒がまわったのかもしれない。
「まーお店も0時閉店みたいだし、出よっか」
会計を済まして外に出ると、夜風が途端に足元をすくった。
ひゃーさむい、とナミさんが首をすくめる。
なんとなしに駅に足を向けながら、歩き始めた。もう間違いなく終電には間に合わないのに。
「楽しかったわねー」
「な、勝ったし」
「それね! 勝ったし!」
やっぱり勝負事は勝たなきゃ、と呟く彼女は男らしい。
「どうする、タクシーでも拾おうか」
「やだ、もったいない。歩くわよ私」
「ここから!?」
思わず声を高くすると、ナミさんは歯を見せて笑った。コートに襟に顎を隠すように夜風から顔を守りながら、「酔い覚ましにいいじゃない」
「付きあう? 私の方が先に着いちゃうけど」
そんなことを言われて、ここで別れる馬鹿がいるだろうか。
ここから彼女の最寄まで三駅、おれの最寄までさらに二駅。着くころには一体何時になるのだろう。
「あ、でもサンジ君明日仕事なんだった。やっぱタクシー」
「いや! 大丈夫、歩こうよ」
ナミさんは少し考えるようにおれを見上げ、「そ」と前を見て歩き始めた。
飲み屋の連なる通りを抜け、シャッターの閉まった百円ショップや花屋の軒先を歩く。看板も出ていない飲み屋の灯りをときおり通り過ぎると、炭火のいい匂いがした。
商店街を抜けると、広い国道に出る。この下をずっと地下鉄が通っているのだ。だからこの道沿いに歩いていけば、次の駅に着く。
歩道は広くて歩きやすく、おまけに人が少ない。オレンジ色の街灯が舗装された道と、おれたちを照らす。ふたりぶん、巨大な影が伸びていた。
「きれいな夜ね」
ナミさんが伸びをするように少し上を見上げて言う。
何を見つけたんだろうと目線の先を追いかけたが、ひたすら似たような道が続いているだけだ。空は少し雲が多く、街明かりで星は見えない。月は頭の後ろの方にあるようで、振り返って確認したがラグビーボールのような中途半端な形をしていた。
「仕事は楽しい?」ふいに彼女が尋ねた。
「まぁ、好きでやってるからなぁ。バイトの身分で融通が利いて楽だけど、もっと作る方に身を入れてェなあ」
酔ったせいか、弱音のような愚痴なような言葉がこぼれ出る。彼女相手になにを情けない。
しかしナミさんは、興味深そうに相槌を打った。「具体的にどんなことしてるの?」
「基本的にはサーブばっかだな。デザートはときどき作らせてもらうけど、ランチなんかのメインは盛り付けすらやらせてもらえねェ」
「ねぇ、サンジ君がはたいてるカフェって、もしかしていいとこ?」
「いいとこって?」
「だってカフェって、もっとざっくばらんとしてて、大学生のアルバイト君がマニュアル通り盛り付けてたりするんじゃないの?」
「あーたしかに、そういうとことは違うかも」
いいとこかはわかんねェけど、と苦笑がこぼれる。身内のことを話すような気恥しさがある。
「結婚式場と併設してんだ。披露宴のあとの二次会とかよくやってる」
「なんだ、やっぱりいいとこじゃない」
「全然。普通にお茶のみに来てくれて構わねェからさ」
来てよ、と漏らした声は半ば懇願するみたいに響いた。
その切実さに引かれやしなかったか心配になり、彼女の顔をちらりと窺う。形のよい唇が「うん」と動いた。
「はい、一駅目到着―」
地下鉄のりばへと続く階段口を通り過ぎ、彼女が楽しげな声で宣言する。足を止めずにそこを通り過ぎる。彼女の駅まであと二駅。
「ナミさんは? 仕事、どう?」
「うん、たのしいよ。私も好きでやってるし、合ってると思う」
そりゃあむかつくことは死ぬほどあるけど、とぽつんと落とすが、その顔は暗くない。
「だから先週、サンジ君がかっこいいねって言ってくれたの嬉しかった」
「え?」
思いもよらない言葉に、聞こえたくせに聞き返す。だって、と彼女は言葉を続けた。
「専門書って、それも科学に生物って、なにそれって感じでしょ。編集者って言ったら、小説家を捕まえて書けーって原稿奪ったり、ファッションの流行を押さえに街にスナップ取りに行ったり、そういうのじゃない?」
「──それも随分偏ってるような」
「でも私は、実際に自分がなる前そう思ってたから。だから自分はそういうことがしたいんだと思ってたのよ」
車のほとんど通らない国道を、気持ちの良いほど法定速度をぶっちぎったスピードで車が通り過ぎる。おれたちのもとにとどこおった残響が消えるのを待って、ナミさんは言う。
「偏った理想とはいえ思い描いてた仕事とは随分違ったけど、すごくいい。もちろん大変だけどね」
──やっぱめちゃくちゃかっこいーじゃねぇか。
急に、暴発するみたいに気持ちがとめどなく溢れた。
まだ出会って数週間だ。もっと話をしたい。彼女のことを知って、知ってもらって、それから、それから──悠長にそんなことを考えていたくせに、ぶっ飛ぶときは一瞬だ。
好きだ。ナミさん。
「君が好きだ」
は? 返ってきた返事はそれだった。
「どうしたのサンジ君」
目を丸くしたナミさんは、おれを見上げながらも変わらず足を止めない。
おれは一瞬止めかけた足を、慌てて彼女に合わせて動かした。
「どうしたもこうしたも……ナミさんが好きだ」
「やだ、まだ会ったばっかなのに」
冗談にお愛想で笑うみたいに、ナミさんは口の中で笑いながら前を見て歩き続けた。
や、ちょ、まじで、とおれはみっともなく言葉をつぐ。ここまで相手にされないとは。
「本気だ。本当はナミさんを見つけた瞬間から思ってたけど、会って、話してるうちにますます好きになった」
気持ち足早になったナミさんは、「うーん」とあくまで軽い口調で唸る。
「嬉しいけど……」
嬉しいけど。そのあとに来るのは間違いなく否定だ。がくっと折れそうな膝を奮い立たせて続きを待った。
「サンジ君とは友達でいたいかな。ごめんね」
はい、二駅目。
彼女の視線の先、まだ遠いが、二駅目の灯りが見えた。
言葉を失ったおれをナミさんは覗き込み、「やっぱり訂正」と突然言った。
「ごめん、サンジ君とはっていうのは嘘。サンジ君と友達でいたいのは私の事情で、サンジ君の事情はなにひとつ関係ない。私は今、そういう関係の人はほしくないの」
ほしくないとまでばっさり切られたくせに、図々しいおれの思考は言葉尻をつかんだように猛然と食いかかった。
「てことは、彼氏がいるわけでは」
「ない」
なんだ、そうか。
一安心してから、でもおれ振られたんだった、とまぎれもない事実がどんとのしかかる。
「はあぁ」
「ごめんねー」
重たいおれのため息を、ふっと軽い息で吹き飛ばすようにナミさんは言った。
→
19時の電車に揺られる毛先を見ていた。橙色の髪色は頭頂部から毛先まで等しく一色で、綺麗に染まっている。手入れを怠らないんだろう。ふと横に目を滑らすと、扉の横に掛けられた車内広告と同じ色あった。鮮やかなオレンジ。
襟の少し広いかぎ編みのニットはあたたかそうで、人いきれのこもった電車の中では暑かろうと想像する。黒い細身のパンツは、彼女のバランスの良さをこれ見よがしに主張していた。
オフィス街から帰宅するサラリーマンでぎっちり押し固められた車内が、一駅停まるごとにゆるくほどけていく。
隣に立ったオヤジのとんがった整髪料のにおいを感じながら肩をちぢこめていたところ、ようやく自然と立っていられる余裕ができた。隣のオヤジは一つ空いたシートの端っこに滑り込むように座った。
そのとき、前に立つ彼女の存在に気付いた。
真っ黒い画用紙を張り付けたような車窓に、彼女の顔が写る。うつむいて前髪が目元にかかっているので、かたちのよい鼻筋だけが見えた。
綺麗な子だ。大学生のようにも見えるが、シンプルな服装からすると仕事帰りか。
持っている荷物に視線を移す。大きめの黒。革製のしっかりとした作り。彼女の肩が少し下がって持ち重りしているところを見ると、たっぷり中に入っているらしい。
自分の視線が、彼女の頭の先からつま先まで眺めまわしていることに思い当り、いかんいかんと視線を外す。これじゃ痴漢と言われても、罪悪感から否定がしどろもどろになる。
そのとき、ぐんと電車がスピードを落とした。
車内が一斉に左に揺れ、立っている乗客が粒のそろった人形のように同じ動きで左に傾く。ぎゅうっとつり革が鳴る。
目の前の彼女もおれと同じように左に揺れ、おれはふんばった左足でまっすぐ体勢を立て直したが、彼女はそのまま左へ小さく一歩よろめいた。
彼女は吊り革を持っておらず、左肩に賭けた荷物の重さに引っ張られたのだ。
「あ」
小さく声をあげた。彼女の声かと思ったら自分のだった。
咄嗟に差し出した手が彼女の腕を支える。黒い鞄の紐が彼女の肩から肘までがくんと落ちた。その衝撃に耐えるよう、手に力をこめる。
「大丈夫?」
「は、はい」
すみません、と小さく頭を下げてから、彼女は視線を上げた。初めて正面から目がかちあう。
「あ」
ぽかっと口をあけたおれを、彼女は不思議そうに見つめ返した。
電車がホームへ滑り込み、窓の外が途端に黄色く照らされる。降りようとする乗客が何人か、扉の前に立つおれたちのそばにわらわらと寄って来た。
「あ、ありがとうございました」
もう疲れたあ、とでも言うような気の抜ける音ともに扉が開く。他の乗客に押し出されるように、彼女は電車の外へと吐き出された。
最後に見えたのはほんの少し口角を上げた彼女の横顔で、その残像を追いかけるように人ごみに消える彼女を目で追う。遠慮なんてあるわけもなく無情に扉が閉まり、電車はまた左に傾いて動き出した。
とりあえず明日も同じ時間に乗ろう、とオレンジ色の広告を見つめながら思った。
*
閉店の18時になっても客が引かず、腰の重いマダム達にやんわりと閉店を告げることを繰り返してようやく店を出られたのが19時の15分前。
黒のサロンを外してロッカーに突っ込み、財布やらなんやらをケツのポケットに突っ込んで勢いよくロッカーの扉を閉めると反動でまた開いた。しかし放っておく。
駅まで走りながら、なんでこんなに急いでんだっけ、と首をかしげそうになったが、なにぶん走っているので頭まで酸素が回らず考えるのをやめる。どうでもいいわ。
改札を抜け、階段を駆け降りている最中ホームに電車が滑り込んできた。
ただ、昨日乗った車両は階段から20メートルほど先だ。そこが一番、最寄駅での階段に近いから。
チクショウ、と舌で転がして走るのをやめない。
ホームに辿りついたときに電車の扉が開き、待っていた数人がそわそわと車内に流れ込む。その最後の一人として、昨日と同じ扉から飛び乗った。
みっともねェ。顎が上がり、息を深く吸い、長く吐き出して呼吸を落ち着かせる。それに合わせるように扉が閉まって電車が動き出した。
店を出た瞬間から今このときまで一切止まらず走って来たのだ。
ひざ、が、おれ、そう、と心の声まで途切れ途切れになる。
「ふふ」
鼻先で笑う声に顔を下げる。かすむ視界が邪魔をする。でも、橙色の小さな頭。
「あ、きのう、の」
「こんばんは」
彼女は息を切らすおれを笑って見上げた。初めて真正面からその顔を見た。
膨らんだ前髪が車内の空調で揺れている。昨日見逃した目は、大きくて鮮やかな茶色だった。
いた、いた。
「こ、んばんは、ごめ、い、息が」
「すごい走って来たからびっくりした。足速いのね」
だめだ、やめろ、今すぐ止まれおれの呼吸。彼女の前でこんなハアハアしてたら不気味にも程がある。たとえそれが15分間全力疾走しつづけたせいだとしても。
彼女の言葉に返そうとしたが、ダメだ喋ってたらもたん、と彼女に手のひらをみせて「待って」を示す。彼女は眉を少し上げて応えてくれた。
まぬけな無言の時間を過ごしてから、ようやく口をあける。
「昨日はどうも」
「それは私の台詞でしょ。昨日はありがと」
彼女は今日も荷物がたっぷり詰まっていそうな革のカバンを提げていた。ただ、昨日の轍は踏むまいというように、一生懸命手を伸ばして右手で吊り革を掴んでいる。
扉の前のつり革は短く、彼女の腕はぴんとまっすぐ伸び切っていた。
「いつもこの時間?」
「んー、どうだろ。たまたま」
そりゃそうだ。見ず知らずの男に帰宅時間を知らせるほど軽率には見えない。ただ、会話を続ける気はあるようで「そっちは?」と尋ねられた。
「おれはいつも。バイト先が店閉めて、片づけて出るからだいたい同じ時間」
「ふーん。大学生?」
いや、と否定した矢先、扉が開いた。いつのまにか次の駅についていた。途端、さっきとは比較にならない容量の人間が車内になだれ込んできた。オフィス街ど真ん中の駅だ。
あれよあれよという間に、懸命に吊り革を掴んでいた彼女の手はそこを離れ、おれも彼女も奥へと押し込まれた。
さいわい、反対側の扉の隅に彼女を配置させることができたのですかさずその前に立ちはだかる。
「毎日のことだけど、げんなりするわね」
潜めた声で、彼女が少し背伸びをするようにおれに言う。その仕草がまるで、親しい恋人同士が内緒話をするようで無用にもときめいた。
電車が揺れるたびにぎゅうぎゅうと背中に他人の圧力が加わる。彼女は座席と扉で作られた角にすっぽりとはまっているので、安定して立っていられるようだ。
無意識のうちに、彼女に壁を作って知らん者どもがぶつかってこないようおれは両手両足を踏ん張っていた。
「あ」
「なに?」
すこし口ごもって、彼女はほんのり下唇を噛みながら恥ずかしそうに言った。
「おなか鳴りそう」
「はは、なんだ」
聞こえないよ、と笑いながら、内心なんだそれぇー!! と悶絶する。おれの知っている女子とは、腹が減ってもけして自分からお腹が減ったとは言わない生き物だった。こちらが気を回して、なんか腹減ってきたなと言いだすまで微笑んでいるものだと。
彼女の世紀末的な可愛さを前にして、おれの経験値がいかに浅はかであったかを思い知る。
「これから晩メシ?」
「うん」
じゃあ、よかったら、おれと。口をつきかけたその言葉をのみこむ。だめだ、急すぎる。が、そう尋ねておいて会話終了もいささかまずい。
彼女を見ると、ほら、おれと目を合わしてはいないが「誘われるかなー、どうだろ」的な顔をしている。「まぁ付いてかないけど」と結論が出ていることまでわかる。
無難な落としどころを探って、結局「おれも」と小学生のような会話になった。
一駅二駅と停まり、昨日と同じように乗客が減り、ついに彼女が降りた駅まで辿りついた。彼女が肩に掛けた荷物を掛けなおしたことでそれに気付く。
わきに退くと、「それじゃあ」と言って彼女は開く扉の前に近づいていった。
「あ、気を付けて」と手を振ると、彼女は笑って小さく手を振り返した。
扉が閉まってから、名前くらいさっさと聞けよクソがと膝に手をついたことは言うまでもない。
*
いつもと同じ時間の電車に、その日彼女は乗らなかった。車内にちらちらと視線を走らせて、あくまでさりげなく、しかし丹念に彼女を探したが、やっぱりいない。
毎日同じ時間というわけでもないんだろう。彼女はどうやら働いているようだし、残業だとか職場の飲み会だとか予定があるはずだ。
毎日重たい鞄を提げて満員電車に肩を縮こめながら、それでもまっすぐな背中で前を向いている彼女を目に留めてまだ三日目だ。それでも、街中にあふれる疲れた顔のサラリーマンやOLたちと彼女は一線を画しているのがわかった。
それを思い、裏表のように自分のことが同時に思い出されて口に苦いものが広がる。
自分は彼女と同じか、おそらく年上だ。にもかかわらず、「仕事は?」と訊かれたときに一瞬口がまごつく。
カフェレストランでアルバイトとして雇われている自分は、いわゆるフリーターになるんだろう。どういう経緯でそこに行き着き、何を考えてバイトでいるのかなどの詳しいことはすっぱ抜いて、世間的に見ておれはフリーターだ。
「仕事は?」と訊いた奴におれの事情まで斟酌しろというのは無茶だし、おれはおれの矜持で今の仕事についているわけで、けしてバイトの立場に甘んじているわけではないのだが、そんなことまでわかってもらわなくとも構わない。
ただ、彼女のことを思うと視線が下がった。
社会的に同じ土俵に立っていないというのは、わりとつらい。
くだらない男のプライドかもしれないが、得てしてそういうものなのだ。
電車がゆっくりとスピードを落とし、アナウンスが駅名を告げる。彼女がいつも降りる駅だった。
明日は同じ電車で会えるだろうか。ああ、でも明日は土曜だ。もし平日の会社勤めなら明日は休日で、この電車には乗らないかもしれない。
となると次に会える可能性があるのは月曜──ああ、おれが休みだ。いや構わん。バイトがなくたっておれが電車に乗りゃあいいんだ。
電話のベルのような警告音とともに、ドアが閉まる。そのとき、ホームに並んだ3人掛けのベンチの真ん中に、俯いて座る橙色の髪の長い女の子がいた。
──彼女だ。
あと15センチでドアが閉まるその隙間に、咄嗟に膝を割り込ませた。がつん、とドアが膝を噛み、渋々といった態でまた開く。おれの奇行に、周りの数人があからさまにびくっと反応したが構わず自動のドアを手でこじ開けるようにして電車を降りた。
冷ややかな視線を背中に感じながら、彼女のもとへと向かう。彼女はうなだれるように首を折り、片手で額を押さえていた。気分が悪いのかもしれない。知れずと足が早まった。
しかしあと数歩というところまで来て足が止まる。
なんと声を掛けよう。
ここは彼女の最寄であっておれのそれではないし、にもかかわらず連続三日で会うことになりゃまるでストーカーだ。
偶然を装うか。今日はここの最寄で飲み会が──無理がある、この駅の周りは確か住宅だらけだ。いっそ君が見えたから降りたと言ってしまおうか。
ふと、彼女を挟んだ向かいに目が移った。立ち悩むおれと同じように、彼女を見ている視線がある。
ニット帽をかぶった男と、黒縁の眼鏡をかけた男のふたりだ。大学生のようなざっくりとした服装をしている。改札口へと昇るエレベーター前に立って話す奴らはそっと顔を寄せ合い、彼女を見て、笑った。
カッとこめかみの辺りが熱くなり、迷う間もなくおれは彼女の元へと歩み寄ると、どかりと遠慮なく彼女の隣に腰を下ろした。
びくん、とベージュのトレンチコートを着た腕が怯える。
彼女が顔を上げたのがわかったが、その顔を見下ろすことができずに真正面を見たまま口を開いた。
「こんばんは」
「あ、で、電車の」
そう、と頷いたものの、聞こえた声に歯噛みしそうになる。彼女の声はどこか湿っていて、横目に映る頬は赤らんでいた。
「寒いだろ、ここは」
「そう……そうね」
「ああいう連中もいることだし、場所変えませんかね」
ちらりと視線を移すと、彼女もつられたようにそちらを見た。おれとまともに目の合ったニット帽が、すかさず顔を背ける。ふん、と思わず鼻息が荒くなった。
「──気付かなかった」
「だろうな」
答えてから、もしかして「おれに」という意味だろうかと危ぶんだ。しかし「だろうな」と答えたおれに、彼女は不本意そうに少し眉根を寄せた。そのとき初めてまともに彼女の顔を見て、ぎゅっと喉がつまる。
──あぁ。
おれが腰を上げると、彼女も鞄を掴んで立ち上がった。ニット帽と眼鏡に背を向けて改札行きのエスカレーターに乗る。
彼女を先に乗せ、一段空けて後ろに続いた。
「ねぇ」振り返らずに彼女が言った。
「なんで、ここに」
「電車の中から君が見えた。気分でも悪いのかと思って」
改札階に辿りつき、トンと一歩を踏み出す。
横並びで改札を抜けて、自然に彼女が曲がったのと同じ方へ足を向けた。
「あのね」
「うん?」
「ナミっていうの」
「え」
「私。あなたは?」
あ、ナミ、ナミさん。おれ、おれはサンジ。たどたどしくそう言うと、彼女──ナミさんは小さく笑って、「ありがとうね」と言った。涙に焼けたあとはいつのまにかわからなくなっていた。気のせいだったのかと思うくらい綺麗に。
「一緒に下りてくれたおかげで、変なのに捕まらずに済んだわ」
「ん、ああいうの、よくあるの?」
んー、そうでも、と答える彼女は迷いなく角を曲がり、一つの出口へと向って行く。勝手に、よくあるんだろうなきっと、と想像した。なにしろこんな美人だ。
重たい鞄を肩に提げたまま両手をコートにポケットに突っ込んで、彼女は確かな足取りで階段を上る。
「私、今日も夕飯まだなんだけど。サンジ君は?」
「おれも、まだ」
訊かれるがままに答えて、一瞬ぼーっとして、呆けている場合かと自分で自分のケツを叩くように目が覚めた。
「あ、メシ。よかったら、一緒に。っていうかこの辺全然わかんねェんだけど」
しどろもどろになりながらそう言うと、ナミさんは肩を揺らして、笑った顔はオレに見せずに、「奇遇ね」と言った。
「私もいま、誘おうと思ってた」
駅近においしい洋食屋さんがあるの、とショートブーツのかかとを鳴らしながら彼女は言う。その足音がさっきよりも沈んでいないように聞こえて、なんで泣いてたのかとか聞きそびれたこともどうでもよくなった。
*
「こんばんは」
「こんばんは。おつかれさま」
「ナミさんも」
電車の中で落ち合うたびに、彼女はおれを見上げて屈託なく笑うようになった。
彼女が休みの土日は会えない。おれが休みの日は不規則だが、その日も会えない。シフトも入ってないのに無理して電車に乗るのはやめた。
会える日に、会えるからこそ、自然と口から滑り出る決まりきったあいさつが心地いい。
「今日はちょっと人少ないわね」
「あー、金曜だからな。飲みに行ってまっすぐ帰んねェんじゃねぇかな」
「あ、なるほど」
「ナミさんは? そういうのねーの?」
「あんまり行かないけどね、たまにはあるわよ」
ふうんと相槌を打って、「じゃあさ」と朝から何度もシュミレーションした台詞を舌にのせる。
「今からちょっと飲みにいかね? 次の駅に好きな店があんだ」
おれの趣味でよければ、と咄嗟に口から滑り出たそれは遠慮のようでいて、断られた時や幻滅された時の無意識の予防線だ。
ナミさんはあっさりと「いいわね」と言ってくれた。
よっしゃ、と小さく決めたガッツポーズの肘が後ろに立つ人の背中に当たり、あ、すんませんと背中越しに謝る。なんともきまらない。
先週の金曜に、初めて彼女と夕食を共にした。彼女がうまいと言った店はこじんまりとした個営業の洋食屋で、昼には古き良きケチャップのオムライスなんて出す喫茶店をしていそうなレトロな様子。しかし彼女が言った通り、料理はうまかった。
ナミさんはミートソースのラザニアにサラダとスープのセットを、おれはボンゴレのパスタにサラダとスープ、パンもつけた。食事を頼んだ後、彼女が迷いなく店員に赤ワインを注文した。
「サンジ君は?」
「あ、じゃあおれは白で」
咄嗟に頼んでしまったが、キツくないのだといいなと情けなく考えていた。すぐに顔が赤くなるから。
届いたワインで軽く乾杯する。グラスをつまむ仕草まで、まじまじと見てしまう。
「んーおいし」
一口舐めたワインを、いとおしげに見下ろして彼女は微笑んだ。長い睫毛の影が頬に落ちる。うっとりと見惚れていて、「そっちは?」と訊かれた声に必要以上にまごついた。慌てておれもグラスに口をつける。
「ん、うまい。ぶどうの風味が濃い」
「今日はちょっと飲みたい気分だったから、ちょうどよかった。一人のご飯もつまんないしね」
その言葉に、おれが彼女の必要となれたことが裏付けされた気がして救われる。少なくとも、毎日出会う怪しい奴というレベルから抜け出せた気がする。
酒の力を借りて、一歩踏み込むことにした。
「どんな仕事してんのか、聞いてもいい?」
「もちろん。出版社よ。編集のしごと」
「へぇ。いそがしそうだ」
「うん。でもね、私の部署は専門書、それも科学、生物分野」
物珍しさから目が丸くなる。その表情を見抜いて、ナミさんは子どもに見せるような優しい目をした。
へえ。顔には出さずに胸で呟く。少しお姉さんみたいな顔。あたらしい、と素直にうれしくなる。
「きらびやかなファッション誌とか、今を時めく文学なんかとちがって地味で本屋さんなんかでも埃被っちゃうこともまあ多いんだけど、それでも需要はあるの。大学の先生や、企業の研究者なんかのところに出向いて話を聞いたりね」
「カッコイイね。好きなんだ」
うん、と彼女はてらいなく頷いた。
「サンジ君は?」私の次はあなたの番、とでもいうようにナミさんはおれを見た。話を聞きながらこの展開を半ば覚悟していたので、すんなりと口が開いた。
「カフェで働いてる。店が18時に閉まるから、いっつもあの時間の電車で」
「へー、バリスタ?」
「や、本当はメシ作る方やりたくて」
そっか、じゃあ修行中なのね、とナミさんは笑った。そのまま口を閉ざしてワインを飲む。
この子は。
おれに全部を言わせなくても、与えられた情報から口にしていいことを瞬時に選んで話している。
──バイトなんだ。お店で料理のお手伝い? いつか自分の店持ちたいとかいう、夢? がんばって。
他人だからこそ軽く、きつく言えば無責任に口にされるそれは何一つ間違っていなくて、でも言われるたびにおれのどこかが傷つく。それがプライドなんてくだらないものでも、傷は沁みる。
だからそれらを一切口にせず、上にも下にも評価しない彼女の姿勢は新鮮で、心地よかった。
「どこにあるの? お店」
訊いてから、「あ、あの駅の近くか」とナミさんはひとりでに了解した。
「うん、でも駅から結構遠くて。歩いて15分くらい」
「今度行きたいな。いつが休み?」
「月曜日。よかったら仕事が休みの日にでも」
うん、お店の名前教えて、と言う彼女に店の名前を告げる。口先だけじゃないんだと、またぞろ嬉しくなる。
そこに料理が運ばれてきて、夜も8時近くなり腹をすかせたおれたちは、わりと色気なくガツガツとメシを食った。
彼女の食いっぷりもまあ良くて、おいしそうに頬張る表情がずっと目に焼き付いていた。
いつかおれの料理で。そんなことを思うのも無理はない。
その日を境に、なんとなく打ち解けたような気がして、幸い彼女の方も一線警戒のラインをひっこめてくれたようで、次の火曜から金曜まで毎日同じ電車だ。
一日に話せるのは、おれが電車に乗って彼女が降りるまでのほんの十数分。
周りの目もあって、目どころかぎゅうぎゅうの電車の中じゃろくに落ち着いて話もできないが、同じ苦痛を共有していることにすら喜びを感じてしまう。
初めて同じ駅で電車を降りる。まるでこれから一緒に帰るようで、胸が高鳴る。ナミさんは平然な顔で足取り軽いところを見ると、この展開に対して特に思うところもないみたいだ。安心するような、ちょっと残念なような。
「どんな店?」
「スポーツバーなんだ。こないだ、一昨日だっけ? 話してただろ、サッカーチームの。それでナミさんも嫌いじゃねェかなーと思って」
「へぇ。あんまり行かないから、面白そう」
よかった、と本音がそのまま滑り出る。
都心部から少し外れた夜の街は、程よくおれたちを喧騒に紛れさせてくれた。
*
「い、け──っ!!」気持ちよく二人の声が重なる。
天井の隅に取り付けられた42インチのテレビに緑のフィールド、そこに小さな青い影がちらちらと横切る。その動きを目で追っかけて、ナミさんはこぶしを振り上げて声を張った。
店内は同じチームのサポーターたちが一様に盛り上がり、異様な熱気を発しながら一種の一体感に包まれ、おれたちもまんまと彼らと仲良く酒盛りしながらテレビに釘づけだ。
「あ、だめだめ、ああん」
「おら、そこだっ、いけっ」
「だぁ──っ!」二人同時に頭を抱えた。
「ありえないよねえ、今の」
「あぁ、ありゃ間違いねェ。レフリー買収されてんじゃねェだろうな」
「もう、ああ、ハーフタイム」
甲高い笛の音と共に、店内の客たちの肩が落ちる。一点に集まっていた視線がばらばらとほどけて、思い出したように注文する声があちこちから聞こえた。
ナミさんも握りしめていたジョッキをぐっと呷って、はぁと旨そうに息をつく。白い喉がやけに光ってみえた。
「ふふ」
「なに?」
「サンジ君、顔まっか」
「あ、あぁ、おれすぐ赤くなるんだ」
「興奮しすぎたのかと思った」
そういう彼女は素面と全く変わらない顔色で、いや、少し頬は赤らんでいるか。でもそれも、熱狂的な応援のせいだろう。
「かわいいなぁ」
俯いてピスタチオの顔を剥いていたナミさんは、おれの言葉で小さな丸いテーブルから顔を上げた。
その真顔に、おれは「え?」と答えた。「なに?」とナミさん。
「おれ、なんか言った?」
ナミさんは少し考えるように首を傾け、まぁいいやというふうに首を振った。
「ねぇねぇ、私は明日休みだけど、サンジ君は仕事でしょ。遊んでていいの」
「いーのいーの。おれ朝あんまり早くないから」
「タフねぇ」
「毎日遊び歩いてりゃアレだけど、たまのことだし」
そっか、とナミさんは薄く笑った。
「休みの日とか何してんの?」グラスを見つめながら訊いてみる。
「んー。生活品の買い物とか、掃除とかしてたら終わっちゃうなあ。次の日休みだと思うと夜更かししちゃっうこともあるし、友達の家遊びに行くこともあるわね」
その友達って、男? 聞けるはずもなく、ふうん、と相槌をうつ。
「仕事で忙しいとさ、休みの日に遊ぶぞーってならねぇんだよな。休みだ、休まねぇとってゆっくりしちまって」
「そう! わかる!」
「んで毎週同じような休日ばっかで、つまんねってなる」
「そうなのよねー。なんか楽しい趣味でもあるといいんだけど」
趣味か、と相槌を打つ。おれはこうして、週に一回でも彼女と二人で過ごす時間が作れたら、その次の一週間はフル稼働できる自信があるんだけど。
それもあいにくおれたちの休日は噛み合わないから、またこんな機会があるとしても、こうして仕事終わりの一杯になるだろう。
──今更だけど、まさか。彼氏いねェよな。
思いつくと、まさに身の毛もよだつといったふうに足の先がすっと冷たくなった。
男がいたらこんなふうにおれと飲みに付き合ってくれねェよな。自分を安心させる言葉をかけ、でも、と考える。
おれは男の範疇に入れてもらえてすらいないのだろうか。
彼女の交友関係が一切わからないからこそ、彼女が男友達とどんな距離の取り方をするのか全く想像がつかない。
まだ出会って2週間も経っていない。ナミさんはそんなことを考えさせないあけすけな笑顔を見せてくれるから、まるで旧知の仲──いや言い過ぎた。親しい飲み友達的な会話のテンポだ。
でもおれは、彼女の仕事内容も、友人関係も、単純な生活のことも、何も知らない。
まだ、これからだよな。自分に言い聞かせ、いつか手に入れたい彼女を見据える。
「あ、ハーフタイム終わった」
新しいドリンクを店員から受け取って、彼女の視線が他の客たちと同じようにまたテレビに集まった。
「さっ、巻き返さなきゃ」
「すげぇファンになっちゃったね。一日で」
「にわかでごめんねー」
「いんや、うれしい」
ナミさんは猫のようにニッと目を細くして笑った。
それからのおれたちは前半戦と同じく、こぶしを振り上げ、声を張って、ときには近くの客と肩を組んでテレビに向かって声援を送った。
ナミさんはノリよく誰ともそつなく会話をこなし、たっぷりとスポーツバーの空気を楽しんでいるようで安心した。
しかしそんなことを考えてぼんやりしていると、他の客やナミさんに「ほらしっかり見て!」とどやされるので、いつしかおれもテレビにのめり込んでわいわいと騒いでいた。
*
「あ、終電」
試合が終わったタイミングで、ナミさんが呟いた。彼女の目の動きにつられて、自分も左腕に目を落としたがそこに時計はなかった。水仕事が公私ともに多いので、付ける習慣がない。咄嗟に店内に視線を走らせ、掛け時計で時間を確かめた。
いつのまにこんな、と呟いてしまう。日が変わる5分前だ。ここから駅まで10分、地下鉄の階段を降りて、少し地下道を歩いたらもう間に合わない。
「ごめん」
思わず謝ると、ナミさんは「何謝ってんの」と呆れた顔をした。目じりが下がっている。彼女も騒ぎ疲れて、少し酒がまわったのかもしれない。
「まーお店も0時閉店みたいだし、出よっか」
会計を済まして外に出ると、夜風が途端に足元をすくった。
ひゃーさむい、とナミさんが首をすくめる。
なんとなしに駅に足を向けながら、歩き始めた。もう間違いなく終電には間に合わないのに。
「楽しかったわねー」
「な、勝ったし」
「それね! 勝ったし!」
やっぱり勝負事は勝たなきゃ、と呟く彼女は男らしい。
「どうする、タクシーでも拾おうか」
「やだ、もったいない。歩くわよ私」
「ここから!?」
思わず声を高くすると、ナミさんは歯を見せて笑った。コートに襟に顎を隠すように夜風から顔を守りながら、「酔い覚ましにいいじゃない」
「付きあう? 私の方が先に着いちゃうけど」
そんなことを言われて、ここで別れる馬鹿がいるだろうか。
ここから彼女の最寄まで三駅、おれの最寄までさらに二駅。着くころには一体何時になるのだろう。
「あ、でもサンジ君明日仕事なんだった。やっぱタクシー」
「いや! 大丈夫、歩こうよ」
ナミさんは少し考えるようにおれを見上げ、「そ」と前を見て歩き始めた。
飲み屋の連なる通りを抜け、シャッターの閉まった百円ショップや花屋の軒先を歩く。看板も出ていない飲み屋の灯りをときおり通り過ぎると、炭火のいい匂いがした。
商店街を抜けると、広い国道に出る。この下をずっと地下鉄が通っているのだ。だからこの道沿いに歩いていけば、次の駅に着く。
歩道は広くて歩きやすく、おまけに人が少ない。オレンジ色の街灯が舗装された道と、おれたちを照らす。ふたりぶん、巨大な影が伸びていた。
「きれいな夜ね」
ナミさんが伸びをするように少し上を見上げて言う。
何を見つけたんだろうと目線の先を追いかけたが、ひたすら似たような道が続いているだけだ。空は少し雲が多く、街明かりで星は見えない。月は頭の後ろの方にあるようで、振り返って確認したがラグビーボールのような中途半端な形をしていた。
「仕事は楽しい?」ふいに彼女が尋ねた。
「まぁ、好きでやってるからなぁ。バイトの身分で融通が利いて楽だけど、もっと作る方に身を入れてェなあ」
酔ったせいか、弱音のような愚痴なような言葉がこぼれ出る。彼女相手になにを情けない。
しかしナミさんは、興味深そうに相槌を打った。「具体的にどんなことしてるの?」
「基本的にはサーブばっかだな。デザートはときどき作らせてもらうけど、ランチなんかのメインは盛り付けすらやらせてもらえねェ」
「ねぇ、サンジ君がはたいてるカフェって、もしかしていいとこ?」
「いいとこって?」
「だってカフェって、もっとざっくばらんとしてて、大学生のアルバイト君がマニュアル通り盛り付けてたりするんじゃないの?」
「あーたしかに、そういうとことは違うかも」
いいとこかはわかんねェけど、と苦笑がこぼれる。身内のことを話すような気恥しさがある。
「結婚式場と併設してんだ。披露宴のあとの二次会とかよくやってる」
「なんだ、やっぱりいいとこじゃない」
「全然。普通にお茶のみに来てくれて構わねェからさ」
来てよ、と漏らした声は半ば懇願するみたいに響いた。
その切実さに引かれやしなかったか心配になり、彼女の顔をちらりと窺う。形のよい唇が「うん」と動いた。
「はい、一駅目到着―」
地下鉄のりばへと続く階段口を通り過ぎ、彼女が楽しげな声で宣言する。足を止めずにそこを通り過ぎる。彼女の駅まであと二駅。
「ナミさんは? 仕事、どう?」
「うん、たのしいよ。私も好きでやってるし、合ってると思う」
そりゃあむかつくことは死ぬほどあるけど、とぽつんと落とすが、その顔は暗くない。
「だから先週、サンジ君がかっこいいねって言ってくれたの嬉しかった」
「え?」
思いもよらない言葉に、聞こえたくせに聞き返す。だって、と彼女は言葉を続けた。
「専門書って、それも科学に生物って、なにそれって感じでしょ。編集者って言ったら、小説家を捕まえて書けーって原稿奪ったり、ファッションの流行を押さえに街にスナップ取りに行ったり、そういうのじゃない?」
「──それも随分偏ってるような」
「でも私は、実際に自分がなる前そう思ってたから。だから自分はそういうことがしたいんだと思ってたのよ」
車のほとんど通らない国道を、気持ちの良いほど法定速度をぶっちぎったスピードで車が通り過ぎる。おれたちのもとにとどこおった残響が消えるのを待って、ナミさんは言う。
「偏った理想とはいえ思い描いてた仕事とは随分違ったけど、すごくいい。もちろん大変だけどね」
──やっぱめちゃくちゃかっこいーじゃねぇか。
急に、暴発するみたいに気持ちがとめどなく溢れた。
まだ出会って数週間だ。もっと話をしたい。彼女のことを知って、知ってもらって、それから、それから──悠長にそんなことを考えていたくせに、ぶっ飛ぶときは一瞬だ。
好きだ。ナミさん。
「君が好きだ」
は? 返ってきた返事はそれだった。
「どうしたのサンジ君」
目を丸くしたナミさんは、おれを見上げながらも変わらず足を止めない。
おれは一瞬止めかけた足を、慌てて彼女に合わせて動かした。
「どうしたもこうしたも……ナミさんが好きだ」
「やだ、まだ会ったばっかなのに」
冗談にお愛想で笑うみたいに、ナミさんは口の中で笑いながら前を見て歩き続けた。
や、ちょ、まじで、とおれはみっともなく言葉をつぐ。ここまで相手にされないとは。
「本気だ。本当はナミさんを見つけた瞬間から思ってたけど、会って、話してるうちにますます好きになった」
気持ち足早になったナミさんは、「うーん」とあくまで軽い口調で唸る。
「嬉しいけど……」
嬉しいけど。そのあとに来るのは間違いなく否定だ。がくっと折れそうな膝を奮い立たせて続きを待った。
「サンジ君とは友達でいたいかな。ごめんね」
はい、二駅目。
彼女の視線の先、まだ遠いが、二駅目の灯りが見えた。
言葉を失ったおれをナミさんは覗き込み、「やっぱり訂正」と突然言った。
「ごめん、サンジ君とはっていうのは嘘。サンジ君と友達でいたいのは私の事情で、サンジ君の事情はなにひとつ関係ない。私は今、そういう関係の人はほしくないの」
ほしくないとまでばっさり切られたくせに、図々しいおれの思考は言葉尻をつかんだように猛然と食いかかった。
「てことは、彼氏がいるわけでは」
「ない」
なんだ、そうか。
一安心してから、でもおれ振られたんだった、とまぎれもない事実がどんとのしかかる。
「はあぁ」
「ごめんねー」
重たいおれのため息を、ふっと軽い息で吹き飛ばすようにナミさんは言った。
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