OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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火曜日の昼に教えてもらった店へ出向くと、いらっしゃいませと爽やかな笑顔で振り返った店員が表情を固まらせた。あ、やっぱりまずかったかなと内心尻込みしながら、「こんにちは」と初めて昼間の挨拶を口にする。
「び……びびったー! 来てくれたんだ!」
「うん。時間休取れたから」
「ありがとう、席こっち」
サンジ君は、レジカウンターに差してあったメニューボードを手に取ると私の前を歩き出した。
店内は広く、ウッド調のテーブルが並ぶシックな作りになっている。テーブルにはスーツやドレスアップした人が歓談していて、結婚式の時間待ちをしているのだと容易に知れた。
入り口から入ってすぐの空間からさらに奥は、一段高いフロアになっていて、階段を上るとカウンターテーブルに椅子が並んでいた。
サンジ君は椅子を引いて私を座らせると、さっとランチメニューを開いてカウンターの内側へ回った。
店の一番奥、カウンターの隅で入り口からは見えない。一番上等な席。
「ありがとね。来てくれてすっげぇうれしい」
もう会ってくれないかと思ってた。そんな声が聞こえた気がする。実際言われたわけでもないのにそれを悟ってしまう自分に若干辟易しながら、「本当に来てみたかったんだもん」と笑ってみせた。
ランチは3種類あり、一番ボリュームの少ない日替わりを注文する。来てくれたお礼、と言ってサンジ君は厨房の目を盗むように紅茶を一杯サーブしてくれた。
「何時まで休み?」
「三時まで。職場からここまで一駅乗って、大目に見て30分前に出たら間に合うかな」
「忙しいのにありがとうな」
「お礼言い過ぎ。息抜きもしたかったし丁度よかったの」
「じゃあ、今度は職場の人とでもまた」
うん、と曖昧に頷いた。サンジ君はどこかひっかかる顔をして、でもすぐにぱっと温和な笑顔を取り戻した。
「今日も帰り、いつもと同じ時間?」
「ん、たぶん」
「そか、おれも」
照れたように、えりあしに手を伸ばす。その仕草はもう何度も見た。清潔なシャツに黒いサロン姿はよく似合っている。厨房から怒鳴るような声でサンジ君の名前が呼ばれると、彼は大仰に顔をしかめ、私に断ってから奥に引っ込んだ。
待ち合わせるわけでもなく、私たちはいつも同じ時間の同じ電車で会う。
サンジ君と出会ってから、残業も程よく切り上げて同じ時間に帰宅しているのでほぼ毎日の頻度で顔を合わせている。残業ゼロは厳しくても、早々と切り上げ続けているのは彼のせいじゃないんだけど、いっそそういうことにしてしまおうかと本気でもなく考えた。
仕事は好きだ。編集業はずっとやりたかった仕事で、配属されたジャンルは知識に不安はあったけど、よく言えば新鮮で、面白いと思った。
人と会うことにも気後れはないし、そこそこうまく立ち回りもできる。上司からの評判も良かったし、入社して3年でまだぺーぺーだけど、そこそこの信頼も積めたと思う。
ただ、職場に居場所がなかった。
一年ごとに少なからず誰かの異動はあり、新しい誰かを迎える。同じ部署には7名いて、男3の女4。私を省いたその他の女3があるとき私をはじいた。
理由はもうありふれていて、私が男の上司に取りいっただとか、取引先に色仕掛けをするだとか、主婦が読む三文小説のような稚拙な言いがかりだ。
たった3年目の私に仕事が回ってくるのは私がそれ相応の努力をしたからで、7年や8年務めているのにそれが来ない彼女たちに成果が出ないのは彼女たちの手落ちのせいだとどうしてわからない。
ただ、それを面と向かって言ってしまったのが私の3年目らしい幼さだった。今ならわかる。私は悪くないけど、幼かった。
徹底的に弾かれた。
昼食を一緒にする人がいなくなったくらいじゃへこたれない。
仕事関係の回覧が回ってこない。もちろんそれで業務に支障が出るにもかかわらず、彼女たちは平気な顔でそれをやってのけた。
指摘すると、しれっと「忘れてた」「もう知ってるかと思って回さなかった」だとかなんとでも言い逃れをした。だからってあんたたちの一存で仕事の回覧を打ち止めていいはずがない。同じいたずら──いたずらと言えるほど可愛くはないいやがらせ──が何度も続くと、もう正論で盾つくことが面倒になった。
同じ部内の男3は、もちろん異常な女たちの関係に早々気付いた。無能なバカ男ひとりは心配顔で私に近づき、ますます女たちのやっかみを買った。
上司二人は上についている人間だけあって、出先や残業で二人になったときなどにそれとなく私の様子を窺ってくれた。私が泣きつくことはないとわかっていただろうから、こちらが気付いているということだけを暗に示してくれて、泣きつけたらどんなにいいことかと歯噛みしながら笑顔で礼を言うしかなかった。
──ありがとうございます。でも私仕事楽しいんで。辞めたりしないので。
上司二人は一様にほっとして、君は悪くない、よくやっている、必ず来年には人事異動があるからそれまでがんばれと励ましてくれた。
男の上司にそれ以上のことはできないとわかるけど、励まされたからと何かが変わるわけではない。
針のむしろになって行う仕事は疲弊して疲弊して──
ある日、外回りを終えて夕方帰社した。金曜日で、月末だったこともあり、飲み会も多いのか、定時を一時間過ぎた社内にいつもより人は少なかった。
仕事場のフロアに上がってみると珍しく誰もいない。まれにあることなので、特に何も考えずパソコンを立ち上げる──と、セキュリティによってはじかれた。いつものパスワードを何度たたき込んでもシステムに入れない。
そうだ、同じ部内では、最後のひとりが総務に帰宅を告げると、その部内全員のハードがセキュリティのために封鎖される。それを解除するには、主任以上が持つ特別なピンコードが必要だ。
忘れられて、閉じられてしまったんだろうか。せっかく早くハードに保存したいデータを手に入れてきたばっかりなのに。
何気なく予定を書き込んだホワイトボードに目を遣って、顔が強張った。
青い文字で【帰社】と書いた字が、自分ではない筆跡で【帰宅】に直されている。
謎が解けた時ほど肩の力が抜けることはなく、しばらくそのまま立ち上がれなかった。予定を勝手に書き換えられて、社のハードからはじき出されて。
いつの間にこんなにこじれてしまったんだろう。修復する手間を惜しんだ私の怠惰のせいだとでも言うの。
総務に掛け合えばセキュリティは解除してもらえたかもしれないけど、結局そのままなにもせず会社を出た。総務に理由を訊かれたら面倒だということと、いい加減抗ってまで仕事をやり通すことに疲れていた。
そしてその帰り、そのときは無意識だったけどいつもより数本早い電車に乗れていた。疲れた頭が思考を止めて、ぼんやりとしているうちに最寄に着く。流れに身を任せて電車を降り、改札口へと昇るエスカレーターへと歩いているときにベンチが目に入ると、ふらふらと座り込んでしまった。
そこでサンジ君に会った。
隣に座った彼を見上げ、記憶を探る。私はその日まで、彼を彼だとは認識していなかった。既にその二日前から連日顔を合わせて言葉も交わしていたのに、失礼な話、記憶に残るほどの出会いじゃなかった。
サンジ君はいつの間にか私に向けられていた下衆な視線を蹴散らすと、連れ添って一緒に改札を出てくれた。
──いいひと。
サンジ君に抱いた感想は今も変わらない。一緒に飲んで騒ぐのも楽しかった。
真面目な顔で告白してきたのには唐突すぎて驚いたけど、それでも印象は変わらなかった。
いいひと。その評価をサンジ君が欲していないのは、よくわかっている。
15分ほど店の内装を眺めていると、ランチを持ったサンジ君が厨房のドアをくぐってカウンターの内側、私の目の前へやって来た。
「おまたせ」
サラダたっぷりのランチに、メインは白魚。スープとマリネもついている。キッシュは焼きたてでふっくらと湯気を立てていた。
ひとくち食べると、途端におなかが空いていることが自覚されるくらい、おいしい。味がはっきりしていて、サラダもメインもスープもさりげなく引き立てあう。
「おいしい!」と声をあげると、サンジ君は惜しげもなく嬉しそうな顔を見せた。
いい笑顔。
それからわりとすぐにサンジ君はまた呼び戻され、店内のあちこちで忙しく立ち働いているようだった。私は背中を向けているのでその姿は見えず、ひとりでゆったりと食事した。
思えば、肩ひじ張らずにお昼を食べたのは久しぶりかもしれない。
食べ終わった頃、デザートが出てきた。シフォンケーキとガトーショコラ。ベリーのソースが皿を彩って、チョコソースで文字が書いてあった。
それを読んで苦笑する。
「もう、こんなことして怒られないの?」
「デザートの盛り付けはもう一任されてるから。こんくらい平気平気」
得意げな顔でカウンターに手をついて、デザートを頬張る私を、食べている私より楽しそうに眺めている。
ああ、戻りたくないなあ。声に出すつもりはなかったのに、実際に出しはしなかったけど、代わりにため息がこぼれた。
怪訝そうに、というより心配顔で眉をすがめたサンジ君に、ちがうのよと言うふうに首を振る。
「仕事に戻るのが億劫で」
「ああ、そうだよな。ぎりぎりまでゆっくりしてって。紅茶、おかわりしない?」
差し出されたティーポットに、思わずうなずいてカップをかかげてしまう。
紅茶を注ぐ手元から、袖まくりをした腕、白すぎる襟、整えられた髭、ほんの少し上がった口角に伏せた目元まで辿るように見てしまった。
注ぎ切って「はい」と視線を上げた彼とおもむろに目がかちあう。
見られていたとは思わなかったのだろう、驚いて揺れる目、ほんの少し開いた口。私も自分が見ていたくせに、引き込まれるように視線を外せなかった。
サンジ君は私が視線を外さないのを見ると、揺れていた視線をゆっくりと私に据えた。その気があるなら逃さない。そう言われた気がした。
サンジ君はやさしいだろう。私がつらいと言えば諸手を広げて私を受け入れてくれる。何も知らないからこそ、余所者の寛大さで私を包んでくれるはずだ。
でもそれは今だけだ。今私は何かにすがりたいから、態よくそばにいてくれる彼が物欲しく感じているだけで、通常スタンスに戻れば忙しさにかまけてサンジ君をおろそかにしてしまう。今までの恋愛では何度も、何度も何度もそうやって関係を壊してきた。
目を伏せて彼から視線を外し、注いでもらった紅茶を口にする。二杯目もおいしかった。
「ナミさん」
顔を上げると、サンジ君はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
「帰るとき教えてね。それまでゆっくりして」
立ち去る彼の背中を、名残惜しいと思った。
予定通り二時半に店を出る。会計をしてくれたのは彼ではなかったが、店を出るときにサンジ君がやってきて「また電車で」と短く言った。
約束はできないけど、そんな面倒なことは言わず私も短く「うん」と頷く。そんなやりとりに満足したのか、サンジ君は私が来たときと同じ満面の笑みで送り出してくれた。
3時少し前に社に戻る。「もどりましたー」とどこにともなく一声かけながら席に向かうと、上司が困り顔で近づいてきた。その表情にこちらも顔を曇らせざるを得ない。なにかしでかしたっけ。咄嗟に不穏な想像がよぎる。
上司は私が担当している本の仮タイトルを口にした。
「あの主著者になる先生、2時40分ごろに来てるよ」
「え、その先生なら……」
「今日アポあるんでしょ」
「でも、4時の約束で」
そんなこと言っている場合じゃない。私は荷物を机の上に放り出し、かろうじて用意してあった書類をひっつかんで応接室へ向かった。
何度かやり取りをしたことのある年配の大学教授は、気難しいけどわからない人ではなく、仕事の話を重ねるうちに掴んだと思った著者の一人だった。
私が部屋へ駆けこむと、20分近く待たされた彼はむつりと口を閉ざし、私を見もしなかった。
彼のお茶を変えていたらしい女性社員が、私と入れ違いに部屋を出る。彼女と擦れるように視線が合った瞬間、悟った。
──やられた。
「も、申し訳ありません。お待たせしましたっ」
深く深く頭を下げる。ガラス窓の向こうから彼女たちがその姿を見ている。屈辱で、頭に昇った血が顔中を染めている気がして顔を上げられなかった。
謝り倒して謝り倒して、やっと仕事の話に持ち込めたのが3時半。もともと休みをとるつもりだったので、万一不測の事態があったらいけないと準備はしてあったのが幸いした。それでも帰社して一時間かけて詰められると思っていた気の緩みもあってか、ところどころ小さな痛いミスもあり、教授を送り出したときは疲れ切って椅子から腰が上がらなかった。
応接室の机に広がった書類を整理し、教授が手を付けなかったお茶を片づけていたら定時のチャイムが鳴る。
いつもなら、この時間から5時以降しか繋がらない著者に電話をしたり、翌日の軽い打ち合わせをしたりなんだで気付いたらいつもの電車の時間になっているのが常だが、今日はこの場に耐えていられる気がしない。
私のアポイントの時間を勝手に変えたのは誰か。いったいいつ。詰め寄ればシラを切られるに決まっている。教授の連絡先はもちろん私が保持しているデータだが、同じ部内の人間ならだれでも見られる。まさかこんなふうに使われるなんて、通常の社会人感覚ならだれが考えるだろう。同じ社内で利益を考えない足の引っ張り合いなんて、ばかばかしい。
定時に帰ったら、サンジ君には会えないな。ふと頭によぎった考えに手が止まる。いや、会えない方がいい。会ったらきっと、何かのタイミングに堰が切れてしまう。そんな姿をさらす気にはなれなかった。
デスクに戻り、上司に事の次第を報告して頭を下げる。珍しいねと労わられる声がざっくりと私を斬りつける。上司にはそのつもりはないのに、私が勝手にプライドで傷つく。きっと薄らと真相に思い当っている上司は、それでも根っから私のことも彼女たちのことも疑うことをしない。
来年になったら。異動の時期が来たら。そのときまでなるべく穏当に過ごせるように。
彼らの感覚が手に取るように分かって、救いがないなと肩を落とした。
おつかれさまです、という声がしぼまないよう、目一杯いつものようにハリを含ませて口にする。
どんなに強がっても、定時で逃げるように帰る私を見て笑う影がある。そろそろ折れそうだな、と他人事のように考えた。
『ごめん、今日は早く帰る』
あえて知らせる必要もないかと思ったけど、いつもの電車で私を見つけられなかったサンジ君がしょんぼりと項垂れる姿を想像すると、どうしても黙っていられなかった。
5時半でも帰宅者らしきサラリーマンは駅にたくさん溢れていて、ホームはいつもと同じかそれ以上に混んでいた。
明日も同じように朝が来て、仕事に行かなければいけないのだから。いつまでもへこんでいたって仕方がない。今日のは大層腐ったいやがらせではあったけど、幸い仕事に大穴を開ける羽目にはならなかった。私への嫌がらせできゅうきゅうしている彼女たちこそ、自分の仕事がおろそかになっているはずだ。私は私の仕事のことだけを考えて──
おかしくなりそうだ。
ホームに電車が滑り込んで、待っていた人々が車内に流れ込む。その様子をぼうっと眺めていると扉が閉まり、電車は行ってしまった。
人ごみの満員電車に乗るのはつらいから。次の電車、次の電車。
そう思うたびに次ぎに来る電車も満員で、都心の密度にげんなりする。
何度電車をやり過ごしても乗る気に慣れなくて、いつかのようにホームのベンチに腰を下ろす。
重たい鞄を隣の席に乗せた。そもそも鞄が重いのだって、一度ファイルを隠されて探し回ったことがあったから、持ち運ぶようになったのだ。
颯爽とサンジ君が現れて私の隣に座ったあのとき、私は随分と救われていたらしい。そう気付くと、無性に彼に会いたくなった。
丁度いいタイミングで、電車がホームに頭を突っ込んできた。
満員電車をいやがっていた足が驚くほど軽く動いて、電車に飛び乗った。
*
彼の店についたのがちょうど18時で、「close」 のプレートを提げたサンジ君が疲れた顔で入り口から出てくるところにちょうど鉢合わせた。
晩秋の18時は夜だ。初め、サンジ君は人の気配に気付かずあっさりとプレートをかけ、店のポーチに落ちていたビニールゴミを、顔をしかめて拾った。私の側からは店のライトでよく見えるのだ。
私が一歩踏み出すと、ようやくサンジ君が顔を上げる。見る見るうちに驚愕と喜びが入り混じった表情がそこに広がった。
「ナミさん……! え、ど、どして」
「ふふ」
可愛く含み笑いをして見たところで、何かが零れそうになる。「えへへ」と笑い方を変えてみると堪えられた。よし。
サンジ君は狼狽えながらも非常にわかりやすく嬉しそうで、「ちょ、ちょっと待っててすぐ片付けてくっから!」といったん店に引っ込んだ。しかしすぐに顔を出してきて、「やっぱ寒いから店ん中で待ってて!」と私を店内に引き入れる。
「閉店したんでしょ、悪いからいいわよ」
「へーきへーき、おれと店主しかいねェから」
押し切られて店内に入ると、厨房以外の灯りは落ちて昼間とは打って変わった寂しい雰囲気だ。サンジ君はレジカウンターのそばに丸椅子をひっぱりだしてきて、私をそこに座らせた。
「ちょっと騒がしいけど」と断ってから、店中のイスをひっくり返してテーブルに上げる。カウンター以外のすべてのテーブルのイスをそうしてしまうと、「よし」とサンジ君はサロンを解いた。その手ほどきに一瞬見惚れる。
「着替えてくる」
そう言って裏へと消えたサンジ君は、ものの2分ほどで戻ってきた。その間に、店の御主人と何か言いあっている声が聞こえたけど、私の前に現れたサンジ君は満面の笑顔だった。
「さ、おまたせ」
サンジ君は私がここへ来たことを、一体どう思ってるんだろう。なんにも聞かないで嬉しそうな顔で、慌てて着替えてきた私服は襟がよれている。
「うお、さみーね」
サンジ君はもう厚めのジャケットを羽織っていた。私は薄手のコートにストールで首元を隠していたけど、温かそうな彼の格好に目が行く。
サンジ君はポケットに勢いよく手を突っ込んで、「冬になっちまうなー」と空を見上げて呟いた。
「そういやさっきメール見た。わざわざ知らせてくれてありがとな」
「ううん」
結局会いに来ちゃったし。振った相手にどの面提げて、と思うと我ながらおかしかった。それでもサンジ君は気にもせず嬉しそうで、いつのまにかずいぶん私のことを気に入ってくれたらしい。
この人に優しくされたい。
ふいに突き上げた衝動に、自分の傷の深さが垣間見えた。
「──サンジ君」
「ん?」
「頭撫でて」
サンジ君が立ち止まる。私も足を止めた。人通りの多くない往来で、私たちは向かい合って黙りこくる。
ストールに口元を埋めてうつむいていると、彼の手が動いた。
ぽん、と頭に乗せられた重みがそのまま静止している。と思ったら、ゆっくりと髪をかき混ぜるように指先が動いた。
細い指。でも私のそれとは決定的に違う。
「サンジ君」
うん? ととびきり優しい声で彼が訊いた。
「抱きしめて」
頭を撫でていたのと逆の手が、私の手首を掴む。そのまま路地にひっぱり込まれ、自販機の横でぎゅっと抱き込まれた。
厚手のジャケットががさがさと鳴る。金具が顎に当たって冷たかった。顔を動かし、ちょうど良い場所に自ら収まる。ぎゅっと腕の力が強くなった。
「……いいの?」サンジ君がぽつりと訊いた。
「いいのよ」くぐもった声で答える。
「いまだけ?」
「……わかんない……」
サンジ君は私の脳天に直接吹き込むみたいに喋る。
小さな声で「ごめんね」と言うと、「いーよ」と小さく返ってきた。
サンジ君の腕の中は徐々に温かくなってきて、頬を預けると目が溶けそうに熱くなった。
がんばらなきゃ。
「──ナミさん」腕の力が少し弱くなり、サンジ君がためらいがちに口を開く。
「おれ、ナミさんなら便利な男でもいいよ」
「ごめん」とまた呟くと、大きく首を振る気配がした。
「いいんだって。便利だろうがなんだっていいから、いつでも来て。好きなように使って。だからいつかおれのこと好きになって」
うん、と答えた声は小さすぎて届かなかったかもしれない。
多分もう好きになってる。ためらいなく私を抱きしめた瞬間から、サンジ君は優しいいい人からとっくに抜け出していた。
最後に一度力強く抱きしめてから、サンジ君は私を離した。
サンジ君が照れ笑いで妙な雰囲気をごまかしたので、私も笑って「ありがとう」と言えた。
*
その日の夜は熱いお湯にたっぷりと浸かって、早く帰ったぶん頭をフル回転させて考えた。
そして次の日から逆襲のように私は動き始めた。
立ち上げすら難しいと言われて一度没になった企画を、もう一度起案し直して会議にぶちこんでやろうと目論んでいた。
一度没になったにはそれなりの理由があって、その筆頭が、著者たちがそろいもそろって企画そのものへの食いつきが悪くて原稿を出し渋ったせいだった。
もう一度起案し直してごり押せばなんとかなったのかもしれないのに、そのときは私もコスパが悪いと思ってやり抜かなかった。そしてそのままお蔵入り。
だけど時間をかけて案を練り直したら悪い企画じゃないと思えたし、なによりこれを通して名前を上げれば他部署からの引き抜きが期待できる。それが目的だった。
前々から声をかけていてくれたところがあったのだけど、そのとき断ってしまったせいもあってタイミングを失っていた。こちらから改めてその話を持ち出すのも厚顔な話ではあるんだけど、それをわかったうえで切出してみたら案外向こうも乗り気になってくれた。
「ただ、突然の引き抜きも不自然だから」
今回の企画を通せば、上からの人事考課がついて引き抜きも容易になろうという腹だ。
彼女たちの異動を待つのをやめて、私が出ていく。
逃げるんじゃない。私だけが先に行くのだ。
そう思うとずっと仕事に意味が見いだせた。
自然と会社にいる時間が短くなり、外回りに時間を使うようになった。相変わらず車内での私は女たちからはのけ者に、男たちからは腫れ物にされていたけれど、意識的に外へ目を向けるようにしていたらたいしたことではないと思えた。
なにより、歩き疲れてへとへとの足で帰りの電車に乗ればサンジ君がいた。
彼は、疲れた顔の私を大げさに心配してみせた。
「大丈夫? なんか目の色変わってね」
「平気。ちょっとね、狙ってるところがあるから仕事に力入れたくて」
「いーね、その上昇志向」
そういってサンジ君は自分のことのように嬉しそうに笑った。
まだ彼にはっきりと何かを伝えたわけでもなく、あれからもサンジ君はずっといいひとでい続けてくれている。
金曜日にはまた飲みに行って、今度は終電前にきちんと帰った。
健全な男友達みたいだと思いながら、グラスを握る手のこわばりだとか、満員電車の中で私をかばってくれる両腕だとかにいちいち動揺するようになって、私の中でも決定的に変わった気持ちが確かにあった。
実際に企画が現実的なものになり、机上に打ち出せたのが2か月後。手を組んでいたとも言える別の部署の上司から、私に正式に引き抜きのお声がかかった。
その日は折しもちょうど金曜日で、サンジ君が電車に乗ってくるまでの一駅を浮き足立って待った。
人の流れに押し込まれるように車内になだれ込んできた一軍の中にサンジ君を見つける。サンジ君も私を目に留めて、困ったような笑い方で目を細めた。
人が多すぎると、ときどき私たちは離れた場所で立ったまま視線を交わすことがある。次の駅について少し人が捌けるのを待ってから近付くのだ。
でもそのときは、私はサンジ君に会うのが待ち遠しくて待ち遠しくて、むっと顔をしかめる乗客の目をもろともせず人をかき分けるようにサンジ君の元へと近づいた。
「おつかれさま」
「おつかれさま。どしたの」
サンジ君は私の異様なほどの昂揚感に目ざとく気付いて、狭い車内で少し顔を寄せて小さな声で尋ねた。
うふふ、と含み笑いで応える。
私、サンジ君にいっぱい聞いてほしいことがあるのよ。
つらくてつらくて自分がいたたまれなかったことも、これからのびのびと叶えられそうな仕事のことも、自分本位に断った相手を今度は私から好きになったのだということも。
「あのね、今度──」
勢いよく話し始めたそのとき、がくんと身体が揺れた。
電車がカーブを描いて左に傾く。いつも通るコースだから慣れていたつもりが、興奮していたせいで気が散っていた。
ぎゅっとつり革が鳴る。たたらを踏む靴音。つんのめるように左へよろめいた私を、咄嗟にサンジ君の腕が支えた。
「あ、ありがとう」
「いんや。ここいっつも揺れるよな」
私に添えられていた手がそっと離れる。咄嗟にその手を逃がすまいと掴んだ。
愕いたように開いた目が私を見下ろす。見下ろされていることでようやく、彼がずいぶん私より背が高いことに気が付いた。いつも話すときは腰をかがめるように顔を寄せてくれていたから。
ぱっと窓の外が明るくなり、電車がホームに到達する。アナウンスが駅名を告げ、ゆるゆると景色が形をとどめて目に入り始める。
私の最寄駅だ。
手を離さない私に、困惑したようにサンジ君は何度も窓の外と私をかわるがわる見た。
空気の抜けるような軽い音と一緒に、重たい自動ドアがごーっと開く。
人並に押されて私は電車を降りる。サンジ君の手は離さなかった。
「えーと」
迷いない足取りで、人の流れは一斉にエスカレーターへと向かう。取り残された私たちは、閑散としたホームにぽつんと立っていた。
サンジ君は従順な子供のように私に連れられてまんまと電車を降りてしまい、困惑したまま不明瞭な声を発したきり続く言葉はなく、私の顔を窺った。
「……ナミさん?」
「えぇと」
気付けば私もサンジ君と同じ言葉を口にしていて、自分がまっすぐに気持ちを言葉にできるような素直さを持ち合わせていなかったことに思い当たる。
奇妙な沈黙が落ちて、いたたまれずに「飲みに行く?」と口をついていた。
「あ、うん、いく」
「じゃあこのへんチェーンとか少ないから、小さいけど私がときどき行く店が」
「じゃあ」
うん、いこう、ともごもごと言ってエスカレーターへと歩き出した。
なんで、こんな、急に恥ずかしくなるなんて知らなかった! と混乱しつつある頭が、それでもどこか楽しかった。
店に着くまでずっとどちらも手を離さなかったのがすごく、嬉しかった。
Fin.
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