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10
朝8時前にメールが来た。おれの太客のうち一番若い彼女だった。
『今日仕事早く上がれそう。おすし食べない?』
同伴の予定もない俺は、手癖のように『やった、喜んで』と指先だけで返事を打つ。
送信ボタンを押す間際、何故か指が止まった。いまいましいゾロの声が不意に蘇った。
──必死こいて金ためて、
振り払うように軽く目をつむり、送信ボタンを押す。
おれはおれの仕事をしているだけだ。誰を不幸にしているわけでもない。
携帯を枕元に放り投げ、ふたたび布団に顔をうずめる。
だいたい毎日11時前後まで眠っているが、仕事前に連絡をしてくる客のメールで起こされることもしばしばだ。
いつもならさっさと返事をしてまた寝付くのだが、なぜか今日は二度寝することができず、腹立たしい気持ちで体を起こした。もちろん、連絡をくれた客にではなく、ままならない自分に腹が立っているだけだ。
階下に降りていくと、ナミさんが一人で廊下の床に掃除用ワイパーをかけていた。
おれを目に留め、「あれ、早いのね」と言う。
「おはよナミさん。今日もかわいいね」
「ありがと。さっきウソップが出てったとこよ。朝ごはん食べる?」
いつも昼まで寝ているので、朝ごはんという概念がなかった。腹は減っていなかったが、
「ナミさんは? もう食った?」
「ううん、これから。さっき冷凍食品が届いたんだけど、業者が保冷用の氷溶かしちゃったとかで箱がビショビショで。先に掃除したの」
「そりゃおつかれさん。一緒に食おっかな」
ナミさんはにっこり笑って、掃除道具を片付けに行った。
彼女が焼いてくれたトーストを、彼女の向かいの席で一緒にかじり、おれが入れたコーヒーを二人で飲んだ。
上の部屋で、誰かが歩いている気配がする。ゾロだろう。降りてきてくれるな、と呪うように思う。
「今日も仕事?」
ナミさんがカップに視線を落としたまま言う。
居心地悪く「ああ、うん」と素早く返事をし、「パンおいしーね、どこの?」と話を変えてみる。
「いつもと同じ。スーパーで一斤158円のやつだけど。今日はどこでご飯食べるの?」
「えー……すし、だったかな」
「また? 奢ってもらえるんでしょ、いいなー」
ってサンジくんはそれが仕事か、とどうでもいいことのようにナミさんは笑った。
まあね、とおれも曖昧に笑う。どうしてこんなにも後ろめたいのだろう。
「ロビンと言ってたの。きっとサンジくんは年上の人にモテてるよねーって。ちがう?」
「……はは、鋭いね」
「でしょ。それでね、サンジくんにハマっちゃう若い女は、絶対本気になってるわよ。疑似恋愛なんかで割り切れなくって、入れ込んじゃうの。サンジくん優しいから、現実との境界が曖昧になっちゃって」
今朝のメールの彼女が頭をよぎった。ナミさんはおれの顔をちらりと見上げ、返事がないのを図星と捉えたのか、得意げに「当たった?」と言った。
「ナミさん」
「ん?」
「どうしておれのこと、そんなにわかるんだ?」
ふと顔を上げた彼女は、不思議そうにおれの目を覗き込んで、「べつに。ロビンもそうやって言ってたし」と少し鼻白んだ表情で答えた。
「どうすればいいと思う」
「え? 何を」
「本気にさせちまったら、どうしたらいいと思う」
「どうって……どうしたのサンジくん」
いや、と彼女の視線を引き剥がすように目をそらし、残りのコーヒーを一気に煽った。
「なんでもない、ごちそーさん。やっぱもうちょっと寝るわ。昨日帰ってきたの3時だし」
ナミさんはきょとんとおれを見上げ、「そう」と言った。
逃げるようにリビングを出るおれの背中をナミさんの視線が追いかけている。気づいていながら、振り向きもせずドアを閉めた。
18時に駅へ着くと、客の彼女もちょうど駅ビルから出てくるところで鉢合わせた。その小さな姿を目に留め、スーツの襟を引っ張って正す。おれはおれの仕事をするだけだ。
おれの仕事は、彼女に一刻の幸せを与えること。
お待たせ、早いねと声をかける。振り向いた笑顔は極上だった。
ああ、おれじゃなかったらいいのに。咄嗟に思う。
だってこんなにもかわいいのだ。手放しでおれを思う気持ちが溢れている。でも、おれは一ミリもそれに答えてあげることはできない。
彼女がおれの腕に腕を絡めてくる。歩きだし、ちがう、と思考を振り払う。
答えてやってるじゃないか。こうして一緒に飯を食い、店でサービスし、楽しい時間を共有している。彼女はそれを望んで、こうしておれに会いに来ているのだから、これでいいのだ。
彼女との会話の断片が、せめぎ合う思考の隙間に流れ込んでくる。
「あのね、もうすぐ入店記念日でしょう? だから今日はその前祝い。ふたりで」
彼女がおれを連れてきたのは、いつもよく行くエスニック料理屋でも気軽なイタリアンでもない、カウンターの高級寿司店だった。
うれしい? うれしい? と子犬のような目で彼女が問いかける。
早く、早く驚かなければ。
すっげぇ、いいの? うまそうな店! 早く入ろう。楽しみだな、嬉しいよありがとう──
「ごめん、やっぱやめよう」
え、とおれの腕を引く彼女の手が止まる。
「無理しないで。金、早く返してきた方がいい」
さっと彼女の顔が赤らんだ。ああ、恥をかかせた。もっとうまい言い方があったはずなのに、矢も盾もたまらず言ってしまった。
おれとの待ち合わせの前に、駅ビルから出てきた彼女がどこに行っていたのか知っている。以前カバンから消費者金融の封筒が覗いているのを見てしまった。その無人ATMが駅ビルに入っている。
あの、でも、と懸命に言葉をつなごうとする彼女を見ていられなかったが、せめてもの誠意と思い、彼女に視線を合わせた。
「ごめんな。おれなんかに、今までいっぱい金使わせて。でも、そうまですることじゃねぇんだ」
楽しいラインを超えてしまう客を何度も見てきた。彼女のように消費者金融やカードローンを繰り返し、いつの間にかずぶずぶと返済の沼に沈んでしまうのは、この世界ではよくある話だ。
でも、おれのせいではない、と顔を背け続けるのはもういやだった。
「同伴も、毎回無理してくれなくていい。ときどき店に来てくれたらそれで」
「でも、それじゃ、私」
「一番にはなれないよ」
ぴりっと彼女の顔がひりついた。
「誰も、あの店ではおれの一番にはなれない」
どんなに金を落としたとしても。
ぱん、と高い音がした。
頬を張られたかと思ったが、彼女がカバンを落としただけだった。
君が一番だよ、と言い続けてきたのに。彼女の顔にはそう書いてあった。
じゃあ店の外で一番にして、私を本当の一番にしてと、そう言いたいこともよくわかった。
「ごめんな」
彼女は黙ってカバンを拾い、背を向けて駅の方へと歩いていった。
羞恥で言葉が出ないのも、なにか言ったら泣いてしまいそうなことも手にとるように伝わった。
「あーあ」
小さくなっていくその背中を見送って、誰にともなく呟いた。
暑いこの季節の18時はまだ明るく、空の色が少しずつ薄黒くなっていくのを見上げてもう一度「あーあ」と声に出した。
店に行くと、案の定カルネが「あれっ、お前同伴は」とすっ飛んできた。
「なしになった。悪い」
「悪いじゃねぇよ馬鹿野郎。あん? 何があった、なんかやらかしちゃねぇだろうな」
盛大にやらかしている。押し黙るおれの胸ぐらをつかんで引き寄せると、息がかかるくらい近くでカルネがすごんだ。
「お前今の店の状況わかってんだろ。まさかあの客、切っちまったんじゃねぇだろうな」
「わかんねぇ、切れるかも」
突き飛ばすように胸を押され、一歩後ろによろめいた。黙って胸元を整える。
カルネは怒りすぎて言葉が出てこないのか、ただフンスフンスと鼻を鳴らしておれを睨んでいた。
あの、もうすぐ開店で、と黒服が口を挟んできたので、これ幸いと奥に引っ込んでさっさと開店準備を始めた。
スタッフ待合の入り口でゾロとすれ違う。
おう、と目で応えて部屋に入ろうとしたら、「あの女か」とぶっきらぼうな声が飛んできた。
「あん?」
「こないだ来てた、お前の客の」
カルネとの話が聞こえていたらしい。「ああ」と答えると、ゾロは聞いたくせに興味がなさそうにふんと言うだけで、手にしたゴミ袋を掴み直した。
去っていくその後姿を見送っていると無性にぐちっぽい気分になり、「なぁ」と声をかけていた。
ゾロが振り返る。
「おれ、辞めようかな」
「勝手にしろ」
「向いてねーしなぁ」
「知るか」
「お前は。どうすんの、まだ続けんの」
「……金にはなる。仕事も覚えたし」
確かに、黒服の仕事は他のバイトに比べて賃金は高く、ゾロは頻繁にシフトに入っているようだった。仕事も要領を得たのか、近頃はグラスを割る音を聞いていない。
自分のやりたいことを中心に据えて、単純に稼ぐために働いているからだろうか。きつい仕事にも関わらず、ゾロは文句も言わず黒服の仕事をこなしている。なんなら店に馴染んで、重宝されている。
「いいよなぁお前。辞めたらどうすっかな、おれは」
また知るか、と言われるかと思ったが、ゾロはゴミ袋をつかんだまま目を細め、
「好きなことすりゃいいだろ」
当たり前のことを、とでも言いたげだった。
「好きなこと」
阿呆のようにおれは繰り返す。
ゾロはそれきり背を向けて、ゴミ置き場のある裏口へ、のっしのっしと歩いていった。
好きなこと。ゾロにとってそれは、なにやら自室でやっている彫刻だかなんだかの創作のことなんだろう。
おれの好きなことってなんだろう。
考えて、いの一番にナミさんの顔が浮かんだ。
馬鹿野郎、それはまた違うだろうがと自分の頬を叩いてから、そのアホさ加減に少し笑った。
その日はよく飲んだ。
おれの客は予定していた彼女以外来なかったが、他のホストのヘルプに入ったり、飛び込み客の相手をしたりしながらなんとか閉店まで客入りをつなぎ続け、店の明かりを落とす頃にはいつもどおり泥酔していた。
酔いに任せてふらふらとレジカウンターに近づき、中で目を血走らせて売上を計算するカルネに声をかけた。
「おれ、しばらく休むわ」
「はっ?」
「とりあえず明後日までのシフト終わったら、そうだな、二週間」
「おい、待て待て待て何勝手なこと言ってんだ」
「いいだろ、お前明後日より先のシフトまだ組めてねぇじゃん」
「馬鹿野郎、だからってお前が抜けたら売上どうすんだ」
「おれがいなくても大丈夫だって」
ぱんぱんと明るく肩をたたいてやったら、怒るのも忘れたのかカルネはぽかんと口を開けておれを見ていた。
「そんじゃおやすみ」
言葉を失うカルネを残して、送迎担当の黒服を捕まえた。「送ってくれ」とそいつの肩をつかんで、カルネになにか言われる前にさっさと裏口へ向かった。
車の中でがーがー寝て、「着いたっすよ」と起こされたら二時前だった。
今日は店で寝てしまわなかったぶん、帰りが早い。
玄関扉を開けると、案の定リビングには明かりがついていた。
「ただいまー」と言いながら部屋に入ると、ぎょっとした顔でナミさんが振り返った。
いつものソファの角でパソコンを腿に乗せて、めがねをかけている。
「びっくりした。早いのね」
「店で寝落ちなかったからね。あー疲れた」
ネクタイを引きちぎるように緩めながら、ナミさんの隣に腰を下ろす。
ナミさんは、おれをつま先から頭のてっぺんまで眺め回して不審げに目を細めた。
「おれ、明後日行ったらしばらく休みだわ」
「そうなの」
「うん」
「……おすし、どうだった」
「美味かったよ」
こーんな、と両手を目一杯広げてみる。
「ばかでかい木のカウンターの、目の前で握ってくれるやつ。ナミさんも行く? おれと」
わずかに、彼女の眉が動いた。
行かない、と静かな声が答える。
「なんで。行こうよ。寿司好きだろ」
「サンジくん酔ってる。ちょっとうざい」
「酔ってるのはいつもじゃん」
ナミさんの方ににじり寄るが、彼女は身動きせず神経質な猫のような目でおれをじっと見ている。
ソファにかかとを上げて膝を折り、上体をそこに預ける。ぐらんと傾きそうになるのをこらえながら、彼女を見つめ返す。
「ナミさんさあ」
「なに」
「なんでこんなとこに閉じこもってんの」
「……閉じこもってるわけじゃないわ」
「でもちっとも外に出ねぇじゃん。何が怖いの」
「なにも怖くない。っていうかあんたに関係ないでしょ」
「関係あるよ。おれがナミさんと出かけたいの」
「そんなのあんたの都合でしょ」
「そうだよ。でも仕方ねーじゃん、好きなんだから」
ナミさんは一ミリも表情を動かさなかった。
「好きだから、ナミさんのこと。この家以外で関わりたい」
「……そんなこと押し付けないで」
「じゃあどうすんの」
ナミさんは、怪訝そうに眉根を寄せた。
「なにが?」
「みんないなくなるよ、いつか」
初めて、彼女の頬がこわばった。
「欲しい物が勝手に集まってくるって、そんなわけねーじゃん。今だけだよ。この家の奴らだって、今は楽しくても、いつかは出ていく。それぞれ新しい家を見っけて、他のやつと暮らすんだ」
ナミさんは顔を背け、自分の足の甲を睨むように俯いた。
それを見て、おれは彼女を傷つけてやりたいのだと今になって気づく。
わざとひどい言葉を選んで、彼女がひび割れる顔を見たいのだ。
「そんなこと、わかってる」
「わかってるから、おれとやったんだ? おれがナミさんに夢中になるってわかって、そしたら出ていかないもんな。いつでも好きなときにやれる」
強く肩を押されてよろめいた。バランスを崩し、ソファにひじをつく。
濡れたように光る彼女の強い視線がおれを刺していた。
「もう出てって」
「他のやつともやってんの?」
具体的な顔が浮かんだが、名前を口にだすことができなかった。
ナミさんの目から、すっと色が落ちた。
「だったらなに?」
おれは体を起こし、正面から彼女と向かい合う。
ごめんごめんごめん嘘、うそうそうそ。嫌なこと言ってごめんなー大好きだよナミさん嫌いにならないで。
そう言って抱きしめて、なかったことにしたい衝動に駆られた。
でも、それこそ嘘だ。
口にして初めて、ずっと言いたかったのだと、自分の黒くて凝った汚い思いを知った。
答えないおれから視線を外さずナミさんは立ち上がり、キッチンへと歩いていくとコップに水を入れて戻ってきた。
無言でおれに水の入ったコップを突き出す。
おれがそれを受け取ると、彼女はソファの離れたところに座り直し、パソコンを手に取った。
「それ飲んでさっさと寝て」
もうおれのことなど忘れたように、パソコンの画面を開いてパチパチとキーボードを打ち始めた。
「ナミさん」
「もう寝て」
「ナミさん」
「うるさい」
「ナミさん、みんなが出てっても、おれは出ていかない」
タイピングの音は止まらない。
「君が望むなら」
ナミさんは振り返り、呆れたように口を開いた。
「私が望むとでも思ってんの?」
「いてほしい? それとも出てってほしい?」
「私、管理人よ。出てこうが残ろうが、勝手にすればいい」
「言っていいんだよ。いてほしいなら、そうやって」
「調子に乗らないで」
「欲しいなら欲しいって、言えば」
ナミさんはパソコンを振り落とすように立ち上がると、おれの持つコップを奪い取って投げつけるように中身をおれにぶちまけた。
彼女は肩で息をしている。
首から下に降りかかった水が、襟から胸元にぬるく染み込む。
「あんたなんか大嫌い」
ナミさんはそのままリビングを出ていった。
そのとき彼女が蹴ったコップが、ごろんと音を立ててフローリングを転がった。
ソファの濡れた部分は色が変わり、奇妙な形のシミを作っていたが、残されたおれは尻が縫い付けられたように立ち上がることができなかった。
昨日の夕方、客の彼女がおれのもとを去っていったときのように、こうなることはわかっていたのに、さも自分が傷つけられたかのように身体が重く、おれは濡れた身体のままソファに沈むように倒れた。
あーあという言葉も出てこなかった。
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11
勝手に取ることにした長期休暇の前、最後の勤務日。
カルネは始終恨めしそうにおれを睨んでいたが、週休1日で働き続けたおれに労基に飛び込まれてはたまらないのだろう。休んでくれるなとは言われなかった。
これで客が離れたら、自分のせい。収入が減るのも、全て自分のせいだ。
誰に文句をいうこともできないが、誰かや何かのせいと思い悩むこともない。歩合制の良いところだ。
最後の仕事は、まあぼちぼちだった。
土曜日ということもあり、客入りは上々で、しばらく休むことを伝えていた常連が何組か来店したおかげで開店から最後までひっぱりだこだった。
あっちこっちでいい顔をしすぎて緩みきった頬を揉みながら、明かりが落ちた店内のソファに無様に転がった。
やりきった、という思いが満ちてきて妙に心地よい。
「おい、おい」
脇腹を突かれて目を開けると、カルネが青い髭の汚い面でおれの顔を覗き込んでいる。
「お前、このままやめたりしねーよな」
「あー、どうだろ。それもいいな」
「馬鹿野郎、冗談じゃねえ。おめーのじいさんになんて言やあいいんだ」
「なんでクソジジイのツラ立てなきゃいけねーんだ。店にちっとも顔出しやしねぇくせに」
よいしょ、とカルネを避けて上体を起こす。
この酒臭い身体とも、しばらくおさらばだ。
カルネは取り残された子供のようにおれを見上げ、「頼むからよ」と女々しい声を出した。
わかってる、と奴の肩に手を置い立ち上がる。
「大丈夫だ。辞めたりしねーから」
他に食う道もないしな、と言うと、ようやくカルネは少しほっとした顔を見せた。
相変わらず軋む玄関扉を押し開ける。アパートの中は静まり返っている。
各々が部屋にいるのだろうが、寝静まっているのか音一つしない。
リビングも、明かりが落とされていた。
あの日から、ナミさんは夜遅くまでリビングで仕事をしなくなった。
おれが帰ってくる頃にはリビングは真っ暗で、ナミさんの部屋から漏れる薄明かりだけがぼんやりと廊下を照らしていた。
今日も明かりが漏れているが、彼女のタイピングの音が聞こえてきたりはしない。
誰もいないリビングに入り、ひたひたと足音を忍ばせてキッチンで水を飲む。
ぬるい常温がまずく感じられ、冷蔵庫を開けて炭酸水を取り出した。
ボトルに直接口をつけて飲みながら、誰もいないソファを眺める。
もう、彼女はここでおれを待ったりはしないだろう。
日中も、必要最低限の会話しかしていない。誰かに訝しがられるほど人も集まらないし、集まればナミさんはするりとその場から身をかわすように姿を消した。
おれとの会話を避けていることは明らかだった。
そらそうだよな、と思う。半分以上飲んだボトルを冷蔵庫に戻し、暗闇に沈んだソファに脱いだジャケットを投げ出す。
あんなことを言って、大嫌いとまで言われて、おれに会いたいはずがない。
出ていって欲しいだろうな、とまで考えて、波のように後悔が押し寄せた。
あのとき彼女に押された肩が、今になって痛む。
──でも本心だ。
いや、本心だからと口にしていいはずがない。
ましてやおれは、彼女を傷つけるための言葉を正確に選んで、発してした。
嫌われて当然だ。
わかっていて、どうして言いたくなってしまったのだろう。
暗い廊下に出て、風呂場と彼女の部屋が向かい合う空間に近づく。風呂場は水の匂いがした。
彼女の部屋の扉に手のひらをあて、口の中で「ナミさん」と呼ぶ。
部屋の中から物音や彼女の気配を感じられるわけではなかったが、たしかにいる、と思った。
「ナミさん」
今度はしっかりと唇を動かした。部屋の中は深海のように静かだ。
「ナミさん、おれ、ここを出てくよ」
^きっとそれがいい。そうするしかないのだろうと、今日仕事前に着替えながら考えていた。
ぴりぴりと互いに見ないふりをして、でも逆にそれが意識していることの表れで、こんな緊張はきっと心が持たない。事務的な会話だけで済ますのもこのオープンなアパートでは限界がある。
なにより、そんな関係を彼女と続けるのも、彼女に続けさせるのも御免だった。
「二週間休みがあるから、ちょっと時間をくれねぇかな。その間に次の……家を探すから」
足元から漏れる明かりが揺らめいた気がした。でも、扉が開くことも、中から声が聞こえることもなかった。
「じゃあ……おやすみ」
好きだよ、と言い訳のように呟いてしまいそうだった。
どうしてだろう。昨夜の嗜虐的な気分とは裏腹に、彼女が恋しかった。
*
昼の街をぶらついていると、それだけで自分が健康であるような気になる。
朝型の生活には二日で慣れた。朝型というか、ただ日が変わる頃に寝て、眩しくなったら起きているだけだ。
午前中リビングに現れるおれを見て、ウソップやロビンちゃんは目を丸めていたが、休みなのだと言えば口を揃えてそれはいいと言った。
ロビンちゃんには「またブルックのところに行きましょう」と、ウソップには「うめーカレー屋がある」と昼飯に誘われた。さっそく今日の昼前にロビンちゃんとブルックの店に行き、彼女が普段は持ち運べない量のコーヒー豆をたんまり買ってきた。
待ち合わせをした駅前のモニュメントのふもとで、ウソップが帽子を深く被って手元の携帯に視線を落としていた。
近づいて「よお」と声をかける。おーっす、とウソップは携帯をポケットに仕舞った。
「こっちこっち」
ウソップが先導するように歩き出す。おれをちらりと見て、「なんか似合わねーの、お前」と笑われる。
「なにがだよ」
「いっつも真っ黒の服着てさ、昼過ぎに起きてきて。夕方になると出てったろ。どっぷり夜の人間って感じだったのに」
「おれも違和感しかねーよ」
「慣れる慣れる。って、二週間経ったらまた仕事に戻るんだから慣れたらだめか」
まーね、とつまさきを眺めながら適当な相槌を打った。
「ウソップおまえ、どこ行ってたの」
「ああ、パーツ屋。おれ土日しか動けないからさ。あさイチで行かねーと午後は混むんだよ」
「パーツ?」
「パソコンとか、電子機器の」
「なに、おまえそんなのいじってんの」
たしかナミさんが、ウソップは機械やネット設備にうといのだと言ってなかったか。
ウソップはなぜか照れたように笑って言った。
「それがさー、今役所もオンラインだクラウドだっつって新しい設備どんどん入ってくの。そういうのに明るいやつ、うちの部署にいなくてさ。おれが一番若いからっつーので発破かけられて勉強し始めたら面白くなっちまって。今、プログラミングもちょっとかじってんだ」
「へえ……すげーな」
阿呆のような感想がこぼれたが、素直に感嘆してしまった。
やってることがすごいというより、苦手なことに手を付けてモノにした上、興味を持って楽しんでいることが単純にいいなと思った。仕事に活かせていることも。
ここだ、と言ってウソップが扉を開けた小さなカレー屋は、開店したばかりなのか先客は2,3組しかいなかった。そもそもテーブルとカウンター合わせて6組ほどしか入らなさそうな狭い店だ。
しかし、おれたちがカウンターに腰を下ろすとあっという間に次々と客がやってきて席は埋まり、その10分後には外に列ができていた。
「すげー人気なんだな」
「な。開店前に並んでることもあるから、今日はめちゃラッキー」
お、来た、とウソップが顔を上げた。忙しそうな店員がはいはいっ、とおれたちの前にカレーを置いていった。
さらさらしたルーがたっぷりとかかった平たい銀の皿に、色鮮やかな野菜が10種類ほど並んでいる。なぜかこんにゃくも乗っていた。
「これこれ、あー久しぶり。いただきます」
ウソップがすぐさまスプーンで食らいついた。うまそうに頬張る顔を見るだけで口内に唾が溜まる。
野菜をよけてまずはルーだけを口に運ぶと、スパイスの香りと一緒に野菜の甘さが突き抜けるように広がった。そのすぐあと、薬膳のような舌慣れない味が鼻から抜ける。
「なんだこれ、うま」
「だろ、だろ!いやーよかった、気に入ってもらえて」
揚げ野菜はジューシーで、さっくりとした香ばしさがありながらカレールーを吸って旨味が増している。
なんで、と思ったこんにゃくも歯ごたえのアクセントになっていた。
カレー皿に覆いかぶさるような勢いでスプーンを動かすウソップを、ちらりと見る。
「お前、うめー店知ってんのな」
「男一人だとさ、やっぱ外食増えるじゃん。安くて手軽な店で済ませがちだけど、たまの休みにこういうとこ探すのが楽しいんだよな」
それからはお互い喋ることなく、無心でカレーと格闘した。あっち、と呟いて汗を拭き拭き食べた。
店を出る頃、待ちの列は店をぐるりと囲むように伸びていた。
男も女も子供も老人も並んでいる。鍋を持って並んでいる男女がいたのでそれを口にすると、「鍋持ってくると、ルーだけテイクアウトできるんだよ」とウソップがしたり顔で言った。
「あー腹いっぱい」
「量も多いからな。サンジ、細いのによく食うのな」
「レディにはきつい量かもな」
「だろ。だからロビンやナミは誘いにくくて。ゾロは時間合わねーしルフィはなかなか家にいねーし」
どちらともなくアパートまでの道を辿り始めた。
以前おれが作ったカレーを、ナミさんがはふはふと頬を膨らまして食べていた様子を思い出した。
「……ナミさんカレー好きじゃん」
「そうだっけ。でもまー、あいつ、家から出ねーし」
なんでもないことのようにウソップは言う。どうしてこのアパートの住人たちは、彼女が外に出ないことを当たり前のように受け止めているのだろう。
「なんか事情知ってんの、お前」
「ナミの? いや、知らねぇ。でも」
ウソップが言葉を切ったので奴の顔を覗き込むと、何度か首をひねりながら「ん? 関係ねぇのか? あれ」などと一人でぶつぶつ言っている。
「なんだよ」
「いや、しっかりとはおれも知らねぇから。でもなんかルフィのじーさんが関係してるとかなんとか」
「ルフィ?」
しかもそのじーさんとは。
「じーさんって、アパートの所有者なんだっけか」
「そうそう。ルフィのじーさんが持ってたボロアパートを改装して、ナミを管理人として住人の募集を始めたらしいのよ。その最初の頃に、なんか事情があったんじゃね」
ナミさんとルフィのじーさん。二人の結びつきにちっとも想像がつかない。
「どういう関係なんだよ」
「全然知らねぇ。本人に聞いたら?」
「……前に、はぐらかされたからな」
あー、とウソップは苦笑しながら足元の石を軽く蹴った。ナミってそういうとこあるよな、と言いたげだった。
少し考えるような間を空けて、ウソップが口を開いた。
「うちのシェアハウスってさ、結構居心地いいじゃん。っておれは思ってるんだけど」
「あぁ」
「ルフィやゾロみたいな変わりモンもいるけど、いいやつだし、適度に生活リズムもバラバラで、なんだかんだみんな大人だから仲良くやれてるっつーか」
相槌を打ちながら、ウソップが何を言いたいのか少しずつ見えてきた。
「その居心地の良さって、まぁナミがうまく管理してくれてるからってのが大前提なのよな。それもあって、あんまり個人の事情に口突っ込むのも野暮だなって気がしてて。だから、誰もなんにも言わねーんじゃねぇかな」
もっともだ、とおれは黙ってうなずいた。
相手を知りすぎることは、知ろうとむやみに深入りすることは、人間関係のバランスを崩す。
おれが犯したのは、そういうことだ。
「なぁ、お前これからちょっと時間ある」
「え、あるけど。もう帰るだけだし」
「ちょっと付き合ってくれねぇ。二時間くらい」
「いいけど、なにに」
「物件探し。おれ、アパート出るわ」
え、と口を開いたまま固まったウソップに、おれは下手だと自分でもわかる顔で笑った。
足を止めたウソップの肩を抱き、駅前の繁華街へと方向転換させる。
「役所の人間ならこの辺詳しいだろ。なるべくにぎやかな場所がいいな」
待てよ、おい、なんで、と泡を食って言い募るウソップを無視して、肩を抱いたまま歩いて行く。
そうだ、今の家とはまったく異なる場所に行こう。仕事場にもっと近いところにしたっていい。
さいわい荷物はたいして持っていないのだ。家さえ決まればすぐに出ていこう。
「新しい家が決まったら、近くのうまい店教えてくれよ」
そう言うと、ウソップは分厚い唇を歪ませて、なぜか泣きだしそうな顔をした。
*
おれが引っ越すらしいという話は、あっという間にアパートの住人たちに広まった。噂ではなく事実なのだから、別にいいが。
ナミさんにもその話は届いただろうが、おれに何も言ってこなかった。やっぱりあの夜、扉の前で話した声は聞こえていたらしい。
今月中に部屋は引き払うことになるが、満額の賃料を彼女のレターボックス(玄関前に各住人のものが設置されている)に入れておいた。
そうしておけば、彼女に食い下がる理由は一切ないだろう。
もしかしたら彼女のほうが金を払ってでも、おれに出ていってもらいたいくらいかもしれないが。
新しい部屋はまだ見つかっていない。
ウソップに部屋探しを協力してもらっているが、奴が存外口うるさいのだ。
おれは最低限の条件(家賃と、風呂付きであること)さえ整えばどこでもいいのだが、ウソップは「ここは治安が悪い」だとか「幼稚園が隣りにある。お前が周りをうろうろしてたら怪しい」だとか「なんかくせぇ」だとかそのたびにちくちく言って、おれの出鼻をくじいた。
「お前もういいわ、一人で探す」
「ばか言え、この街はおれの庭なんだ。いいところ見つけてやっから」
そう言ってはおれの不動産屋廻りに休みのたびに付いてきた。
ウソップが仕事の日に一人で回ることもあったが、もともと職業柄、居住に難色を示されることも多く、ほとんどの物件が大家の返事待ちで即決することはできなかった。
今日も二件内見に行ったが、目ぼしい部屋の大家がおれのプロフィールを見た途端敷金と礼金を吊り上げたので(不動産屋が電話口で話しているのが、漏れ聞こえたのだ)、腹が立って帰ってきてしまった。
アパートの中に入ると、なにやらリビングが騒がしい。男にしては高いルフィの声がにぎやかに響いている。
扉を開けてリビングを覗くと、案の定ルフィがばかでかい箱を抱えてナミさんと話しているところだった。
おれを目に留めて、黒目がちな丸い瞳が光った。
「おお、サンジ! お前久しぶりだなあ!」
「いやそりゃこっちのセリフだ。ひと月以上帰ってこなかったじゃねぇか」
ナミさんがふいと顔を背けてソファに向かったのを視界の端に感じながら、なんだその箱、とルフィの手元を覗き込む。中はがらくたにしか見えないプラスチックのパーツががらがらと放り込まれていた。ルフィの仕事道具だろう。
「なーサンジ腹減った。なんか作ってくれよ」
なあなあなあ、とまとわりつかれ、「わかったわかった」とルフィを押しのけてキッチンへ向かう。
ナミも食うだろ、とルフィが当然のように言った。
「うん」
平坦なその声に、思わず振り返った。ナミさんはおれの方を見向きもせずめがねを掛けて、よいしょとソファに腰を下ろしたところだった。
彼女がおれの存在を認め、「うん」と一言返事をしただけのことに、打ち震えるくらい感動した。
きっと、ここで料理をするのはもう数えるほどしかないからだろう。
一つひとつの工程を味わうように、おれは手を動かした。
ルフィが買ってきたというさまざまな肉(羊だったり牛だったり、ワニだったり)に下味をつけて焼いただけのグリルと、ありあわせの野菜のサラダをテーブルに並べる。
誰でもできるような料理になったしまったのが悔やまれるが、ルフィは歓声を上げて肉に食らいついた。
おれの斜向かいに座ったナミさんも、小さく「いただきまーす」と呟いて静かに食べ始める。
うめ、うめ、と言いながら口の中を一杯にして食べ続けるルフィがいるおかげで、どうにか間が持っていた。ナミさんはおいしいとも言わずにフォークを動かし続けている。
ふいにルフィが顔を上げておれを見た。
「サンジ、仕事は?」
「あー、休みなんだ、しばらく」
「ふーん、辞めたのかと思った」
「辞めねぇよ」
「こんなにうめーメシ作るんだから、サンジはさ、ここでコックすればいいのに。なぁナミ」
なぜ彼女に聞く。
背中に妙な汗をかいた。
白羽の矢が立った彼女は、つと顔を上げてルフィを見て、肩をすくめて視線を落とした。
「無理よ、そんなの」
「なんでだよぉ」
「誰がお給料払うのよ。住んでるみんなだって、毎食ここで食べるわけじゃないでしょ」
真正面から突っぱねられて、ルフィはふてくされた顔でおれを見る。なんとも言えずに、おれも彼女の真似をして肩をすくめた。
「それに」
ナミさんが言う。
「サンジくん、もうここ出てくから」
そうよね、と言うかのように、ナミさんが今日はじめておれと目を合わせた。
えぇー! と大げさに叫ぶルフィがおれに詰め寄る。なんでだよ、とぱんぱんの頬のまま迫られて、それを押しのけている間にナミさんが立ち上がった。
「ごちそうさま」
皿をシンクに運び、彼女はそのまますうっと滑るように部屋を出ていった。
その背中を目で追いかけながら、「近ぇよ」とルフィの肩を押して離れた。
ルフィはすねたように唇を曲げている。
「んだよ、つまんねぇな」
「仕事もあるし、近場にするつもりだから」
「じゃあ引っ越す必要ねーじゃん。なんで出てくんだよ」
なんでだろう。ナミさんと気まずくなったから。誰かに説明する言葉を探すと、とてもチープな理由に聞こえる。
ああ、そっか。ルフィが呟いた。
「だからナミ、機嫌わりーのか」
ルフィがぶちっと引きちぎった肉の切れ端が、テーブルに飛んだ。すかさずルフィがつまんで口に運ぶ。
「──おれが出てくから?」
「そうじゃねーの?」
おれの皿の肉まで食い尽くしていくルフィの頬が上下するのを、ぼんやりと眺めた。
ナミさんがおれを引き止めるわけがない。
わけがないのに、今日、彼女がおれの料理を食べたのは、などと考えても詮無いことが、ぐるぐると頭を巡った。
その日の夜、着信を知らせたスマホの画面を見て一秒ほど動きが止まった。
一、二年ぶりではきかないだろう。実家からだ。
「一度帰ってこい」
しわがれた、低い老人の声が有無を言わさぬ調子で言う。
おれが黙っていると、返事も聞かずに電話は切れた。数年ぶりの会話だというのに、情緒のかけらもない。
だけど、おれは行くのだろう。
カルネがなにか言ったのだろうか。休暇を取っていることをわざわざ咎めるために、家まで呼んだのか。
不可解なもやつきが胸に残ったまま、おれはベッドに倒れ込んで眠った。
眠っていたような、そうでもないような、淡い場所をいったりきたりしていた。
硬い床に横たえた身体がきしんだ。少しずつ目覚めていく頭が、今寝返ったら腰骨が床にあたって痛いはず、とか、下に敷いている方の肩がこわばっている、とかささいなことを考え出す。
ゆっくりと目を開けた。
明かりは消えていた。ダイニングテーブルの脚が見える。そこにつっぷすように眠る誰かの身体がぼんやりと見えた。
昨日は私の誕生日だったのだ。そのお祝いを、ここ、サンジくんの家でしてもらった。
ルフィやウソップやゾロなどいつもの仲間が集まって、それぞれ持ち寄るのはお酒ばかりで、ビビだけがルームウェアと香水をくれた。
そのビビも夜が更けると帰ってしまい、結局男たちばかりの中で日が変わるまで飲み続けた。
サンジくんはずっと立ちっぱなしでくるくるとキッチンとテーブルを行き来し、次々と私の好物ばかりを並べて最後には巨大なケーキまで出てきた。
そのケーキにルフィが私より先にフォークを突き刺したのでサンジくんがひどく怒り、私の代わりに泣き出しそうな勢いでルフィを罵りながら制裁を加えるので私はそれを見て腹を抱えて笑った。
あれは何時頃の話だったんだろう。
ゆっくりと横向きだった身体を回転させ、天井を仰ぐ。首のあたりにものが挟まっている感じがしたが、何を枕にしたのだったか忘れてしまった。
酔いはすっかり抜けてしまった。あー楽しかった、ちょっと疲れたな、という輪郭だけの感想が浮かぶ。
周りを見渡さなくてもわかる、一緒に飲んでいた彼らもきっと酔いつぶれて、そこかしこで雑魚寝しているのだろう。テーブルに突っ伏しているのはどうやらウソップのようだ。
サンジくんの家はきれいだ。リビングは広くて物がない。
掃除が行き届いているというより、忙しくて全然帰ってきていないからという感じがした。
水、もらおうかな。
起き上がろうと腕を動かしたら、思いの外近くに寝転がっていたらしい誰かの身体に触れ、びくりと手を引いた。
ぎこちなくこわばった首をそちらに動かしたら、つるりとしたサテン生地のシャツが見えてぎょっとした。
すぐそこにサンジくんが寝ている。気付いた途端、彼の体温が私にまで届いてくる。
まさか、と思い彼の身体をたどるように目線を上げると、仰向けに倒れたサンジくんの腕は私の方に伸びていて、私が首の下に敷いていたのは彼の腕だった。
おっと。なにがどうなってるの。
ここで寝転がった経緯は残念ながら覚えていない。最後に飲み干したのが白ワインで、最後の一本を惜しいと思ったことしか記憶がなかった。
サンジくんはきっと最後までつまみを作ったり甲斐甲斐しく片付けたり立ち働いていたはずで、私のほうが先に転がったはず。
でも、彼の腕を下に敷いているということは私がここに寝転がってしまったんだろうか。あえて、こんなにも近くで、まるで恋人みたいに?
ありえない。
サンジくんがいそいそと私の隣に横たわり、私の頭を持ち上げて自分の腕の上に乗せたというほうがずっと真実味があった。
ああ、きっとそうだ。この男ならやりかねない。
真意はともかく好きだ好きだとつきまとってくるし、たとえ私じゃなくても女が寝転がっていたら自分も隣に転がりそうな男だ。
でも今は彼も深く眠っているように見えた。遮光性のないカーテン越しに、街灯の光が薄く室内を照らしている。そのぼんやりとした灯りがサンジくんの顔を浮かび上がらせていた。
私からは彼の顎から見上げる形になるが、サンジくんは仰向けで、唇は薄く開いて細く寝息が聞こえているのが見えた。
私変な顔して寝てなかっただろうか。まじまじと見られてたらやだなぁ。
もう一度起き上がろうと肘に力を込めて床を押したとき、今度は急にサンジくんがみじろいだ。
ぎょっとして動きを止めた私の方にぐりんと寝返りをうち、私の頭の下に敷いている方の左腕がぐいと動いて持ち上がる。
え、え、と戸惑っているうちに、私の頭はサンジくんの左手にがっちりと抱え込まれた。
「ちょっ……」
思わず声を上げる。さいわいというかあいにくというか、サンジくんも周りに寝転がる誰も、なんの反応もしなかった。
腕に囲われるように頭が固定されたせいで顔を上げることができなくなったけれど、サンジくんの寝息は相変わらず続いている。枕か布団でも抱いているつもりか、さっきより落ち着いた寝息のようにさえ聞こえる。
急に顔が熱くなった。恥ずかしいとか照れてるわけじゃない。サンジくんの体温が高くて、暑いのだ。
もーどうしよ、と目だけを動かすも、サンジくんの喉元が暗く見えるだけであたりの様子は伺えない。部屋は高低差のある男たちのいびきでどちらかといえばうるさいくらいなのに、空気はしんと沈んでいる。
「ねぇ、ちょっと。ねえっ」
ひそめた空気だけの声で呼びかけてみる。サンジくんが驚いて跳ね起きれば、そう気まずさもなく済むだろうと思ったのだ。
でもサンジくんは起きない。ゆっくりと上下する胸の動きが伝わってくるだけだ。
んもー! と心で声を上げて、こみ上げるいらだちを押さえつける。どうして苛立っているのかわからないまま、でも「まあいっか」と再び眠る気には到底なれない。
今度はそっと腕を頭に伸ばし、サンジくんの指に手をかけてみた。
私の髪も頭もまるごと抱え込んだような彼の指を一本ずつほどいて、抜け出すことを試みる。
手に触れてみても、サンジくんの様子に変わりはなかった。いける、と確信し、そっと指を頭から離していく。
最後の一本が頭から浮かび上がり、髪の毛がするんと滑り落ちた。ほっとして頭を引き抜こうとしたそのとき、掴んでいた彼の指にぎゅっと力がこもったのが分かった。
「えっ」
思わず普通に声を上げた私の手をぐいと掴んで、なぜか頭上に持ち上げられる。さらには反対側の腕が私の腰のあたりにどさりと乗って、背中を押すように引き寄せられた。お互いの膝頭がぶつかって、サンジくんは動きを止めた。
私は片腕をバンザイした奇妙な格好で、より固く抱きかかえられてしまった。
──なんてこと。
繋いだ手を頭上に上げて、まるで伸びをしているみたいな体勢でサンジくんは変わらずすこすこと寝ている。
彼の寝相に巻き込まれ、私はなすすべもなく固まった。
暑いし、なんなのこいつ。人のことを抱き枕かなんかだと思ってる。
私はこのまま朝を迎えるんだろうか。他の誰かが起きて発見されるのが先か、サンジくんが起きて解放されるのが先か。後者であれと願わずにはいられない。なにやってんだお前らと笑われるのも、妙な勘ぐりをされるのも御免だ。
「ねぇ、起きてよもう……」
ダメ元で期待のない呼びかけをしてみる。と、ふいに寝息が吸い込まれたような気配を感じた。
ん、ともぐ、ともつかない呻き声が小さく彼の口から漏れた。
起きた!
私は握りしめられた手をゆらゆらとゆすり、「サンジくん、サンジくん」と小声で何度か呼びかける。背中に回されていた腕が動き、腰のあたりまでするっと滑った。
固く抱き寄せられていた力が緩み、彼と私の間に余裕ができる。ぱっと顔を上げると、薄目を開けたサンジくんがぼんやりとこちらを見下ろしていた。
「あ、あんたね」
「……ナミさ……」
薄目が再び閉じていく。ああだめだめ、寝ちゃだめだって。強めに手をゆすってみたら、握りしめられていた力がぱらっとほどけた。はっと期待に目をひらく。
ところが私の手を離したサンジくんの腕が大きく動いたかと思えば、私の肩をぐいと持ち上げて首の下に敷かれた腕は私の両肩を抱き込んだ。腰に乗っていた腕は再び背中まで滑って、再び強い力で抱きしめられる。
「いー夢……」
サンジくんが寝言のように呟く。
夢じゃないって!
寝ているとは思えないほど強い力で私を締め付け、サンジくんは頭をもぞもぞと動かしては身じろいだ。
撫でるように背中の手が動き、暑いのに鳥肌が立つ。
額になにか触れた。
サンジくんの鼻先が、私の前髪をかき分けて額に触れる。やわらかなものについばまれた。
咄嗟に顔をうつむかせる。逃げるみたいになった、と思うが後悔する暇もなく抱きかかえられた身体全体が彼の腕でぐいと持ち上げられる。
顔の高さがおなじになり、真正面からサンジくんの顔を捉えた。
目の前の薄い唇から私の名前がこぼれる。
「ナミ……」
思わずまじまじと彼の顔を眺めた。それ以上の何かが続くこともなく、半開きの唇からは寝息のような薄い呼吸が行き来する。
観念するように、身体の力を抜いた。すると不思議とサンジくんが私を抱き込む力も弱くなり、ほどよい安定感で身体を包まれる。
サンジくんの腕に頭をあずけて、彼の顔を眺めながら、薄暗闇の中静かに他人の体温を味わう。不意打ちの事故みたいなものなのに、どうしてかほんの少しの罪悪感を感じる。
誰かにこんなふうに包まれたのは久しぶりだった。
サンジくんの恋人はこうやって眠るのだろう。自分から眠る彼の腕の中に収まることだってできる。
今まで一度だってそんなこと望んだことはないはずなのに、まるでずっとそれが羨ましかったかのように私は目を閉じた。
起きたとき一体どうなるのか、いまも戦々恐々としている。騒がれるのは鬱陶しいし、変な勘違いも御免だ。
でもちょっとだけ、あと少し、日が昇るまで、誰も起きないでこのまま。
この体温の心地よさを知ってしまってこれから、どうやって一人で眠ることができるだろう。
本当はそのことのほうがずっとおそろしい気がするのだと、淡く霞んでいく頭でうっすらとわかっていた。
サンジくんも今まさにバスルームの扉に手をかけようとしていたところで、お互いがハッと立ち止まる。
「ああごめん」とすこしびっくりした顔のままサンジくんは言った。彼もトイレだろう。
「お先ー」と言って道を譲ろうとした私を、サンジくんがその肩で遮った。とん、と壁にもたれかかるようにして道を塞がれる。
は? と眉をひそめて顔を上げた途端、影が覆いかぶさるように唇が重なった。
私は少し眉根を寄せた表情のまま、ぽかんと間近にあるサンジくんの頬と、その向こうに見える壁を見つめた。
ぬちりと音がして舌と舌が触れたときようやく、キスをされている、と気付き、押しのけるように身体の間に腕を入れ、彼の胸を押した。びくともしない。
「ん、サンッ」
とっさに口を開いたら、ここぞとばかりに深く舌がもぐりこみ、おどろくほどなめらかに私のそれに絡みついて強く吸われた。う、と思わず声が漏れそうになるが、目だけを動かして廊下の先の扉を確認する。誰かが来そうな気配はない。
サンジくんが私の肩を掴み、壁に押し付けた。私たちの間に割り込ませた手はぺたりと彼の胸に張り付き、押そうとする力も入らないほど近く私を押しつぶすように彼の体ごとこちらに傾く。
一瞬唇が離れたとき、咄嗟に大きく息を吸った。でもすぐに角度を変えて重なる。やわらかく唇をはむようにしながら、舌が口内をもったりと行き来する。否応なく息が漏れた。
「ふ、んん、っ」
いつのまにか腰を抱かれ、片手で顔を包まれる。頬をすべるほのかな温かさについうっとりとして薄目を開けた。目を開けたことで、閉じていたことに気付いたのだけど。
ぼんやりとした視界の中でサンジくんと目があった。彼の頭の後ろにぶら下がったランプの、オレンジ色の灯りの周りを小さな羽虫が飛び回っている。
恥ずかしいくらい可愛い音を立てて唇が離れた。混ざった唾液が糸を引き、彼がひきちぎるように自身の唇を拭ってそれを取り去った。その仕草を、私はあい変わらずぽかんと見ていた。
私の顔を包む手のひらがゆっくりと下がりながら首筋を撫で、親指が鎖骨に触れたとき、今までのことをすべて理解したように突然肌が粟立った。
「あん、た」
かろうじてそれだけ言うと、サンジくんは自分の口を拭った手で私の唇をそっと拭い、あろうことか目を細めて笑った。
「かわいー、ナミさん」
サンジくんはふらりと揺れて私を通り過ぎると、そのままバスルームに入って扉を閉めた。
がちゃんと鍵をかける音が終わりの合図のようだった。
その音を皮切りに私は打たれたように歩き出し、何事もなかったかのように部屋に戻る。ベッドに潜り込むと、「もう寝るの?」と髪を乾かしていたロビンが珍しそうに尋ねる。布団越しにくぐもった声で「うん」と言った。
おやすみなさい、と彼女が私のベッドのそばの灯りを消してくれる。
「おやすみ……」
応えて、そっと唇に触れた。まだ湿っていた。
*
「いいにおいがするなぁ」とチョッパーが言ったとき、私はドリンクのストローを咥えたままロビンの読む本の背表紙を眺めてついうとうとしていたところだったので、半分夢の中で彼の言う「いいにおい」を探していた。
甘酸っぱいみかんジュース、青臭いみかん畑を通る風、ベルメールさんの透きとおったたばこの煙、火が通った甘辛いソース、サンジくんとすれ違ったときの、それらすべてが入り混じったにおい。
「ほんと、いいにおい……」
「え?」
ロビンに聞き返されて、はっと目が覚めた。彼女の顔を見上げると、聞こえていなかったようでわずかに首を傾げている。
男たちがやいやいと、チョッパーの言ういいにおいの元を探している。
目元をこすりながら深呼吸してみるが、いつもの潮臭い海の香りしかわからなかった。
「わかる? ナミ」
「まさか。ねぇチョッパー、どっちから?」
「あっち」
チョッパーの指差す方を海図からたどってみるが、海が広がるばかりだ。念の為双眼鏡を向けてみる。どこかの海賊船が船内BBQでもやっているのだろうか。しかしチョッパーが言うには花の匂いらしいし、と目を凝らすと見えた。
島だ。
海図に乗っていないということは、まだ測量もされていない、未知の島。ルフィが行きたがらないはずがない。案の定、ルフィは決まりきったように叫んだ。
「島があるのか!? 行こう!」
「行かないって。ログも指してないし」
「でも地図にのってねーんだろ? お前が地図に描けばいいじゃねぇか」
思わずきょとんとルフィを見つめ返した。
そうか、私が描けばいいのか。
いやいや、と思い直す。隣に腰掛けるロビンと目が合い、彼女がすべて理解したような顔でにこりと微笑む。慌てて口元を引き締めた。
「……ログが書き変わっちゃう」
「行き先地へのエターナルは持ってるじゃない」
「そうだけど」
ほら、いろいろ準備するんでしょう、とロビンに追い立てられて部屋に戻る。コンパクトで軽いリュックを掴み、測量室で筆箱や羊皮紙や計測器にコンパス、と手当たりしだいに放り込む。
ルフィたちの熱気が伝染ったみたいに、興奮していた。
船を島の入り江につけると、ざんと響いた碇の落ちる音が森の方へと吸い込まれていった。白い砂浜はしばらく誰にも踏み荒らされた様子はなく、森は茂っていたが明るくいくつか見知った果物の木が見えた。
明るくて過ごしやすそうな無人島だ。
といっても奇妙といえば奇妙なんだけど、と思いきり顔を反り返らせて島の真ん中にそそり立つ一本の大木を見上げた。
森は中心に行くほど山のように盛り上がっていたが、そのさらに中心にそびえ立った木は縮尺がちぐはぐに思えるほど大きく、なにより見たこともない白い花を無数に咲かせていた。
咲くというより、実っているという感じだ。風が吹くと花全体がぼってりとその頭を下に向けてゆさゆさと揺れ、時折花びらがふっとちぎれて舞い上がる。重たいのだろう、すぐに落ちてきた。
「……変な樹」
砂浜に降り立ってつい感想を漏らすと、いつの間にか後ろからついてきていたサンジくんが「バケモンみてーな花だな」と返事をした。
「あんた付いてくるの」
「うん、護衛。だめ? 邪魔?」
「だめって言ってもきかないでしょ」
へへっと笑ってサンジくんは私の隣に並んだ。荷物持つよ、と私のリュックをやわらかく取り上げる。
諦めて歩き出すとすぐにサンジくんは私の手を握った。いつものことなので「歩きにくい」と振り払う。ちぇー、というだけでちっとも堪えた様子がない。
しばらく歩いたところで砂浜がさっきよりも広く開けたので、ここを基準点とすることに決めて立ち止まった。
「今から測るから、あんたどっか行ってていいわよ」
「いい、ナミさんを見てる」
じっと彼を睨むように見据えると、にこにこと見つめ返されるので諦めて手を差し出す。私のリュックが返された。
折りたたみの三脚を立て、測量機を据え付け、測量を始めたらサンジくんのことなんて忘れた。
忘れた、忘れた、と何度も頭の中で繰り返しながら、数字をノートにぐりぐりと書きつけた。
「…ミさん、ナミさん」
肩を叩かれ、はっと顔を上げる。急に腕が重だるく感じられ、鈍く首筋が痛んだ。
「もう三時間も立ちっぱでやってるぜ、休憩したら」
彼の顔をぼんやりと見上げ、その手元に視線を落とす。お重のような箱の蓋を彼が取り去ると、きれいに並んだサンドウィッチと焼き菓子が現れた。いつのまに持ってきたのだろう。船に戻ったりしたのだろうか。
「喉乾いたろ」
水筒を差し出され、何も考えず受け取る。甘い水にライムを絞ったジュースが喉を通り、何も考えずにごくごくと飲み干す。ぬるいのに、美味しい。すごくのどが渇いていたことに気付いた。
ちょっと日陰に座ろうと肩を抱いて促され、よろよろと誘われるがまま木陰に向かう。シートの敷いてあるそこに腰掛けると、ようやくふっと肩の力が抜けた。
「すげぇ集中力。何度か声かけたけど、全然聞こえてねぇし」
「そうだったの、ごめん」
「いや、このままやり続けてぶっ倒れんじゃねぇかと思ってつい邪魔しちまった。小腹減らねぇ?」
二口程で食べ切れるサイズのサンドウィッチを差し出され、くわえる。サラミの塩気がじんと脳に染みた。
「おいしー」
「よかった、もっとあるよ。甘いのも」
「あんたずっと何してたの」
「おれァこの辺うろうろしたり、ちょっとバナナ収穫したり、船に戻って飲みもん持ってきたり、いろいろ」
「全然気が付かなかった」
「どう、捗った?」
「うん、次は標高の高いところに移動するわ」
「まだやるの? 日も暮れてきたし、明日にしたら」
「今何時?」
尋ねながらコンパスを取り出し、太陽の位置を確かめた。言われてみれば随分と低いところにある。「一六時半くらい」とサンジくんが答えた。
空はまだ明るいが、灯りのない無人島のことだから、急にとんと暗くなるだろう。
「少し高いところから見ておきたいから、登るだけ登るわ。測るのは明日にする」
「んじゃ、おれもご一緒に」
返事をせずに二個目のサンドウィッチをかじる。ぼんやりと水平線を見ながら口を動かした。サンジくんは私の隣に腰掛けてひとつサンドウィッチを食べたが、あとは煙草を吸っている。
暑くも寒くもない心地よい気温と、心地よい疲れが身体にまとわりついて力が緩む。
「あんた」
「ん?」
「この間のあれ、なによ」
「あれって」
「なんで突然キスなんてしてきたの」
サンジくんはしばらく黙り、「ああ」と思い出したように煙草を砂浜でもみ消した。
「もう一回する?」
「話聞いてた?」
はは、とサンジくんは笑って「嫌だった? ごめん」とまるで浅薄そうに謝った。ともするとカチンときそうなセリフだったのに、不思議と怒りは湧いてこない。代わりに呆れたため息がこぼれた。
すでに火の消えた煙草を何度も砂浜にこすりつけながら、サンジくんは間延びした声で「おれさー」と言った。
「ナミさんのことすげぇ好きなんだよ。好きだなーと思ってたら急に目の前に現れて、可愛かったから、つい」
「はあ」
「今も思ってるよ」
不意に指先が私の顎に触れ、唇の上に乗る。彼の指がすべると、ぱさついたパンの屑が私の唇から剥がれ落ちた。
「したいなーって。さすがにこの前みてぇなのは痴漢と一緒だから自分でもあんまりだと思ったけど」
でもまぁ、と言いながら彼の顔が徐々に近づく。
「ぶっとばされるかと思ったけど、そうじゃなかったから」
「……誰か来る」うつむこうとしたら急に指先に力がこもり、顎が持ち上げられる。
「来ないよ。わかるから大丈夫」
「サ、」
遮るように唇が重なる。
どうして私は、この間も、今も、避けて殴って叱りつけたっていいはずなのに、そうしないんだろう。
それどころか彼がそうしてほしいと思っているのに気付いて、薄く口を開けてしまう。
先日の性急さとは打って変わって何度か表面を確かめるみたいに押し付けあったあと、ゆったりと舌が入り込む。同時に片手を取られ、指先から手の甲、手首、腕から肘、二の腕までゆっくりと撫で上げられる。
ふぅ、と鼻から小さく息が漏れた。
舌を引っ込めて唇を離したサンジくんは、鼻先を私にくっつけたまま「かわいい、ナミさん」と言った。掴まれた二の腕に少し力がこもり、引き寄せられる。
「もう少ししていい?」
「やだ……」
ふっとサンジくんが鼻で笑った。間近で目が合う。
「でも気持ちいいだろ、ナミさんも」
慌てて視線を外し、「ちがう」と我ながら意味のないことを口走ってしまう。サンジくんは腕を掴むのと反対の手を私の首裏に回し、髪の生え際に手を差し込んで髪を梳いた。
「おれもすげぇ気持ちいい。キスしてるだけなのに」
そう言って今度は深くつながった。つ、と大きく互いの舌が鳴って、でもそんなことは構わないとでも言うように舌を絡め合う。
私の後頭部を手のひら全体でがっちりと掴まれていて頭は少しも動かすことができない。掴まれた腕を持ち上げられ、彼の肩に乗せられた。
そうしたいと思っていたように私は彼の肩を、背中側の服を掴む。
「ん、う」
より強く引き寄せられ、胸がくっつく。
ごくりと喉が鳴った。私のものなのか、彼のなのかわからなかった。少し離れた唇の隙間から息を吸う。すぐに塞がれ、代わりに唾液が混ざり合う。苦しくて、呼吸もままならず、ぎゅうと彼の服を掴むしかできなかった。
随分と長くキスをしていたように思う。時間の感覚などとうに失われていたし、早く暗くなってしまえとすら思っていた。
「は、ナミさ」
呼吸の隙間にサンジくんがささやく。首筋をすべる手のひらが頬にやってきて、こめかみをたどり、私の前髪をかきあげる。ひらけた額に唇が落ちた。
「触りたい。いい?」
「い……」
サンジくんの手のひらが、ぺたりと私の鎖骨と胸の間あたりに張り付いた。するりとそれが下に落ち、柔らかく胸に触れる。それだけのことに「あ」と声が漏れた。
しかしサンジくんはそれ以上何をするでもなく、不意にもう一度唇を重ね、強く唇を吸った。
ずっ、と音を出して離れると、「時間切れだ」と眉を下げて笑った。
私はさぞ間の抜けた顔をしてただろう。ともすると「へ」と言ってしまいそうな表情で彼を見上げる。やがて、遠くから「サーンジー! メシ! キャンプファイヤーすっぞー!」とルフィの声が聞こえ、すさまじく砂を蹴る足音も聞こえてきた。
ああ……と私は了解し、彼の肩に乗せていた腕を外す。
サンジくんは開いたままだった軽食の箱を手早く片付けると、立ち上がって私に手を差し出した。その手を掴んで私も立ち上がる。
一瞬視界が暗くなり、立ちくらんだ。薄暗い砂浜が見えなくなり、波の音だけが聞こえ、すぐ目の前に立つサンジくんの気配を強く感じた。
「い……」
「ん?」
暗くなった視界が徐々に見えるようになって、少し腰をかがめて顔を寄せたサンジくんがすぐ近くにいた。
煙草の香りを強く感じた。今までもそこにあったはずなのに、なぜか今になってより強く。
いかないで、と言おうとしていた。
近づいた彼の顔を掴んで、もう一度口づけてしまいたかった。
「なんでもない。片付けるわ」
「腹減った? ナミさん」
「さっきサンドウィッチ食べたしね」
他愛もない話をしながらサンジくんは私が測量機などを片付けるのを待ち、同時に歩き出す。向こうから駆けてきたルフィが私たちを見つけ、ぶんぶん手をふるのが見えた。
*
男たちが組み上げた流木や朽木の真ん中で、ぼうぼうと大きな火が燃えている。森の小動物たちは驚いて森の奥へ引っ込んだらしく、島についたときに聞こえてきたかすかな鳴き声や鳥の声は聞こえなくなっていた。盛り上がった酔っぱらいの声がいくつも重なり合って、はなから聞こえやしなかっただろうけど。
「おうナミ食ってるか!?」
「食ってる食ってる」
すでに焦点の合わない目をしたルフィがげらげらと笑い、串に刺した魚にかじりつきながら浜をうろうろしている。そのうちばたんと倒れて寝るだろう。
いつものことながら飲み比べのようなゲームが始まり、珍しく巻き込まれたサンジくんが調理台に肘をついてかろうじてのていで立っている。フランキーやロビンの踏み台にされるだけなのに、売り言葉に買い言葉で参加してしまったにちがいない。
言わんこっちゃない、という感じで、数分後にその長駆が棒のように倒れるのが見えた。
「今日は随分おとなしいのね」
素面のような顔でロビンが隣に腰を下ろした。サンジくんたちと一緒に飲み比べに参加していたはずなのに、ちっとも効いてる様子はない。
「思いのほか張り切っちゃったから、疲れたのかも」
「そう、順調?」
「ええ、でも明日だけじゃとてもやり切れないし、簡単なメモ程度に記録するだけにしておくわ」
「ルフィは『出航はナミの測量が終わったら』って言ってたわ。ゆっくり気の済むまでしたら?」
苦笑して、手元の酒に口をつける。ルフィの気持ちはうれしいけれど、測量したところで本に残すわけでもない。ただの趣味みたいなものなのに、航海士の私が航海を妨げるわけには行かなかった。
返事をしない私に、ロビンも特に何も言わず海の方を見ていた。
突然、ぼとりと目の前にネズミくらいの大きさの白い物体が落ちてきて、二人揃ってびくりと肩をはねさせた。同時に頭上を仰ぐように、あの樹を見上げる。
「び、びっくりした。花びらか」
「本当変わった樹ね」
「ロビンも知らない?」
「ええ、調べたらわかるかしら」
あげる、とロビンが持っていたグラスを私に差し出す。口をつけると、何かスピリッツの冷えた原液だった。
「あんたこんなの飲んでたの」
「サンジが飲まされてたのよ。かわいそうだから、こっそり交換したの。結局潰されちゃったけどね」
「弱いもんねー、あいつ」
「かわいいところがあっていいじゃない」
サンジくんが飲まされていたという酒を、私もひとくちずつ、しずく一滴程度を舌に乗せて溶かす。頬があたたまるのを感じた。
「こりゃあ酔うはずだわ」
「あなたも飲みすぎないで。疲れてるでしょう」
「こんな酒渡しておいてよく言うわ」
ロビンがふわふわと笑う。顔色の変わらない彼女だが、多少は酔っているのかもしれない。
目の前に落ちた花びらを眺めて「不気味だけど、きれいね」と言うと「そうね、白かと思ったら薄紫で」と返ってきた。
「こんなに目立つのに、どうして地図にないのかしら……」
花びらの輪郭が緩む。指先からグラスが滑り落ちそうになる。とん、と砂の上に置いた。
気づけばキャンプファイヤーの火は消えて、あたりは静まり返っていた。砂浜ではぽつぽつと黒い塊が、それはルフィだったりブルックだったりするのだけど、横たわっていた。車座になっていたフランキーたちもいつのまにかそのまま眠っている。
ゆっくりと背中を伸ばすとぽきりと鳴った。キャミソールの肩が冷えている。手のひらでさすりながら立ち上がり、あたりを見渡した。
船には明かりがついていないが、ロビンもいないし部屋に戻ったのかもしれない。私も戻ろう、と船に向かって歩き始めた。
波がチャプチャプと船の側面に当たる音が心地よく聞こえる。さっきまでうとうとしていたのに、妙に目が冴えていた。月が明るくて、白い浜はベージュのように染まっていた。細かい砂がサンダルの隙間から指の脚に潜り込むのが心地良い。
船のタラップを通り越し、船尾まで砂浜を歩く。月明かりが船の影を作っていた。それにすっぽりと身体が隠されるとなぜだか少し安心した。
ずっと、なにか悪いことをしているような気分が抜けていなかったことに気がつく。夕方のキスから、ずっとだ。
胸に触れた手のひらの感触を思い出す。冷えているはずの首筋が熱くなる。
あんなものじゃ足りなかったのだ。
「ナミさん」
呼びかけられて、はっと振り返った。タラップから降りたサンジくんがこちらに足早に歩み寄ってくる。
「どこ行くの、危ないよ」
「どこにも行かないわ、ちょっと歩いてただけ」
「さっきまで寝てたのに、いねぇからびびった」
サンジくんは腕にかけていた毛布を私の肩に羽織らせて、「んな格好で」と口うるさく言った。
羽織った毛布のはじをありがたく胸の前にかき寄せて、「寒くないけど」とうそぶく。サンジくんの表情は船の影になって見えない。
「あんたこそ、さっきまで潰れてたんじゃないの」
「目ェ覚めて、あたまいてーと思って水飲みに行こうとしたらナミさんも寝てたから、毛布とりに行って」
「ふうん」
「船に戻る?」
「うーん、うん」
ごまかすように足元に視線を落とし、足元の砂をかき混ぜる。サンジくんは釣られて下に視線を落とした。
波打ち際がそこまで来ている。
「散歩でもする?」
「……疲れてるから」
「でも寝ないんだ?」
「あんたこそ、頭痛いんじゃないの。船に戻ったら」
「ナミさんを置いて?」
サンジくんが笑うのが、今度ははっきりと分かった。心にもないことを、と見透かされたような気がした。
思い切ってじっとサンジくんの顔を見上げると、サンジくんもこちらを見下ろしていた。互いに暗すぎて、どんな顔をしているかわからなかったけれど、引き寄せられるように唇を重ねた。
はさんで、吸って、舌を差し込む。私に羽織らせた毛布の下から手を入れて、サンジくんの手のひらが私の腕と肩を撫でた。手の力が緩み、毛布はあっけなくかかとのあたりに落ちた。
夕方、あんなに長く長く舌を重ね合わせて、互いの感触を確かめたのに、どうしてまだこんなにも欲しいのだろう。
今までどうして欲しがらずにいられたのかわからないくらい、求めていた。
サンジくんの手がゆっくりと腰に回り、引き寄せられる。身体がくっつき、背中を直に撫でられる。薄いキャミソールはめくれあがり、冷たい背中に同じくらい冷えた手のひらが乗った。
「冷えてんじゃん」
「……あんたの手も、冷たい」
「料理人の手だからね」
でも、この間の突然のキスのときは熱かった。そう言おうか迷った隙にまた口を塞がれる。
片手はお尻の上を、もう片手は胸を柔らかく押し上げる。重なる口の隙間からわずかに息が漏れる。下着が外され、直に触られると紛れもない声がこぼれた。
ざん、と強い波が船の横腹に当たる音ではっとする。
「ま、って。ここで?」
「だってもう我慢できね。昼間からずっと、触りたくてしょうがなかった」
「でも」
「早く済ます、なんて言いたくねぇけど」
おもむろにサンジくんの指が、スカートの隙間から下着の中に入り込んで私の中心に直接触れた。「あっ」と小さく叫んで彼の肩に掴まる。
「濡れてる」
「やだ……」
「夕方から? キスしたときから待ってた?」
「知らな、あ」
「かわいい。かわいいのに、暗すぎてなんにも見えねぇ」
本当は少し目が慣れていた。お互いの顔くらいなら、その表情がわかるくらいには。サンジくんの指が下着を太もものあたりまでずり下げる。深く指が埋まり、こみ上げる声を彼の肩に口を押し付けてこらえた。
波の揺れる音の隙間から、サンジくんの指が立てる水の音が小さく混ざる。膝が笑い、ほとんどしなだれかかる私をサンジくんは身体の前面で受け止めてから指を引き抜いた。
はあ、と肩で息をしていたら急に抱き上げられて、スルスルと下着が落ちる。サンジくんは足で均すように毛布を広げると、その上に私ごと腰を下ろした。
「入れてい?」
「ん、でも」
「砂、痛かったら言って」
ちょ、と中途半端に飛び出た制止を聞かず、先が中心にあてがわれる。刺激と熱への期待で下半身がぐずぐずと崩れてしまいそうになり、なんとか彼の肩につかまった。
「ナミさんが腰落として」
「やだ、むり」
「むりじゃないって、ほら」
ひそひそとささやきあいながら、サンジくんは私のお尻を引き寄せる。つぷり、と埋まった。
「あ」
「もっと来て」
言われるがまま、膝立ちの状態で腰を沈めていくと徐々に繋がりが深くなる。ああ、と声を漏らす私の首筋に唇を当て、サンジくんも浅く息を吐いた。
「上手。ナミさん、気持ちい……」
「や、あんた、声でかいって」
「これくらい聞こえないよ。みんな寝てるし、波の音もある」
「でも、ああっ」
不意に突き上げられて声が飛び出す。咄嗟に手で抑える私を、サンジくんがじっと見ている。口を抑えたまま首を振るが、サンジくんは動くのをやめない。指の隙間から、もうどうしようもない音がこぼれていた。
擦れ合うたびにしびれににた何かが脊椎を駆け上がる。知らないうちに腰が揺れ、恥ずかしいのに自分でいい方を探してしまう。
ごめん早い、とサンジくんが漏れる息の隙間から言った。
「早く、しないと」
「くそ、もったいねぇのに」
突き上げが速くなり、噛み締めた口の隙間からきゅうと鳴き声のような音が漏れる。身体を突き抜ける快感に身を委ねるようにサンジくんの動きと同時に体が揺れ、脚に力が入らなくなって、強い震えが来る前触れのように視界もぼんやりと揺れた。
「ああ、だめ、いっ……」
いいよ、と言ってサンジくんが素早く私に口づけた。痺れとはかけ離れた強い電気が脚の先から頭まで走り抜け、気付いたらぐったりとサンジくんにもたれていた。
汗ばんだ身体が重なったまま、互いにはあはあと荒い呼吸を繰り返している。着たままの服がしっとりと濡れていた。
頬へのキスで促されて顔を上げると、何度も唇へ小さなキスが落とされる。ぼうっとしたままそれを受け入れて、じわじわと水が滲みるように私たちが混ざりあった現実を感じた。
「脚、大丈夫? 痛くない?」
「ん……平気」
「よいしょっと」
またがっていた私を持ち上げて、おしりからサンジくんのあぐらをかいた膝の上に座らされる。スカートを押し下げて、さっきまでつながっていたところを隠した。
「しちゃったなー」
サンジくんが私を横抱きにしたまま、ゆらゆら揺れてそういうので思わず少し吹き出した。
「こんなつもりじゃなかった?」
「いんや、こんなつもりだった」
ナミさんは? と訊かれ、どうかしら、と答える。
「ずるい」と言いながらもどこか嬉しそうに何度も軽いキスを落としてくるのを笑って避けるふりをした。
本当は、夕方のキスのときから、ずっと待ってたのだろうし多分待ってたこともばれていた。
「──船に戻る?」
「ううん、戻らない」
今度ははっきりと答えた。おれも戻りたくねぇなあ、とサンジくんが言う。ずっとこうしていたかった。
サンジくんの膝の中でけだるい身体を預けてゆらゆらして、潮が満ちて二人のつま先が濡れるまで。
ゾロは訊かれたことの意味を考えるようにじっと私を見据え、「何も」と怪訝そうに言った。
「そうなの?」
「そういうお前は」
布切れのように横たわったシャツを手に取り、頭からかぶる。「あなたのことを考えてたわ」と言うと「ふーん」と興味がなさそうだ。
「なに笑ってんだ」
「いいえ」
「おら、服着ろ」
大雑把に私の衣服を掴み投げてよこす。初めてしたとき、「いつまで腹出してんだ」と同じように服を投げられて気恥ずかしい思いをしたことを思い出した。
「そろそろ出るか」
「シャワー、使わないの」
「どうせ船で動きゃ、また汗かくからいい」
私は入ってから行く、と言うと「おう」とゾロは短く答えた。
小さな宿の、少しくぐもったベージュ色の壁に囲まれて、ゾロはベッドから立ち上がる。窓からは傾いた日の赤い光が差し込んでいる。外からは小さく、自転車のブレーキのような音が聞こえた。
「先戻ってるぞ」
「えぇ」
刀を三本しっかりと腰に差し、いつものいでたちでゾロは部屋を出ていった。私達はいつもばらばらに部屋を出る。時間をずらして船に帰る。何かの偽装工作をしているようで、本当はふたりともそんなに気にしてはいない。でも、なんとなくのお作法でそうしている。ちなみに船で寝たことはない。
ゾロに投げられた服を抱え、裸足でベッドから立ち上がる。狭いバスルームまでの道のりすら億劫なのに、これから船に帰るなんて、とけだるい気持ちが湧き上がる。しかし胃は空腹でぐるりと動く感覚がした。そろそろサンジがコンロに火を入れるだろう。
どうしてあんなことを訊いたのだろう。
熱すぎるくらいの湯を浴びながら、知りたくもないのに、と目を閉じた。
*
ログの指さない島についたのは久しぶりだった。ナミが広げた海図のどこにもその島は載っていない。当然無人島だ。
数日前に前の島を出たばかりだ。ナミは当然ログが指し示す次の島へと向かっていた。
その航海の途中、ふとひくひく小刻みに鼻を動かしたチョッパーがどことなくうっとりとした表情でつぶやいた。
「いいにおいがするなぁ」
カードゲームに興じていたルフィが顔を上げ、「なんだ、うまいもんでもあるのか」と嬉々として立ち上がる。
「ううん、花の匂いだ」
「なんだ」
あっさりと興味を失ったルフィはまた甲板に腹ばいになり、ウソップのカードの山に手を伸ばす。
チョッパーのまねをして少し上を向き、空気の匂いをかいでみるが潮の匂いばかりでなにもわからない。
「わかる? ナミ」
「まさか。ねぇチョッパー、どっちから?」
「あっち」
チョッパーは明確に十字の方向を指差した。ナミはテーブルに積んだ本の下から海図を引っ張り出して広げるが、すぐに首をひねる。
「そっちに島なんてないけどなぁ。ていうか、この付近にはもうこの前の島以外ないはずだけど」
「でもたしかに花の匂いがするんだ。木に咲く花な気がする」
「植木の商船が近くを通ってるのかしら」
ナミは日差しを嫌って、パラソルの下から立ち上がりもせず双眼鏡を覗き込んだ。
「あ」
「いた?」
「ううん、島」
島!? と叫んでルフィが立ち上がる。その勢いで甲板にカードが散らばり、ウソップが「おいぃ!」と声を上げた。
「島があるのか!? 行こう!」
「行かないって。ログも指してないし」
「でも地図にのってねーんだろ? お前が地図に描けばいいじゃねぇか」
ナミが意表をつかれたように目を丸くした。そういえば、久しくナミが測量をしているところは見ていない。
フランキーががしがしと甲板の端まで歩いていって、ぐっと身を乗り出して双眼鏡を構えた。
「森……と、なんだありゃ、でっかい木が生えてやがる。ま、無人島だな。言ってる間に通り過ぎちまうぞ。どうすんだ船長」
当然、私たちは舵を切り、島へと向かう。
いかりを下ろす音を聞いてキッチンから出てきたサンジは、「なんだこりゃ」と目の前の景色を見上げた。
白い砂浜は美しく、もう長く人が降り立っていないのか波の力で真っ平らに均され、強い太陽を反射して眩しい。
奥は鬱蒼とした自然のままの森が広がっているが、そう深くはなさそうだ。木々の隙間から漏れた光でぼんやりと森の中が見通せる。
一番目を引くのは、森の真ん中に山のようにそびえ立つ一本の木だ。
幹は建物のように太く、まっすぐと猛々しく伸びたその先の枝ですらその辺の樹の幹より太い。
そして枝の先には巨大な白い花がいくつも咲いていた。咲いていると言うより、まるで実っているようにずっしりとその頭を下に向けて垂れている。ときおり風に吹かれて花びらの一枚が海岸に落ちてきた。大きな椰子の葉くらいの巨大な花びらだ。
「サンジー!弁当!」
「さっき昼飯食ったばっかだろうが」
そう言いつつ、軽食の入った袋がぽいぽいと投げられる。島に寄ると聞いてすぐに準備を始めたに違いない。嬉しそうにそれを掴んだルフィやウソップは、どたどたと船を行き来して着替えに荷物にとさわがしい。
「あれ、ナミさんも行くの?」
「うん、私もなにかもらえる?」
「もちろん、あ、てか待って、おれも行く」
すでに動きやすい格好に着替え、測量グッズを詰めた小さなリュックを背負ったナミは軽いシューズの靴紐をぎゅっと締めている。慌ただしくキッチンに戻り、また飛び出してきたサンジはきれいに包まれたお弁当をナミに差し出し、当然のようにその後を追っていく。
いってらっしゃい、と声をかけた私を振り返り、サンジは首を傾げた。
「ロビンちゃんも行かねぇの? 見張りならマリモが上で寝てっから、置いてきゃいいぜ」
「えぇ、もう少しあとで行くわ」
キッチンにロビンちゃんの分も軽食があるから、と言い残し、構わずずんずん島へと入っていくナミを追って、サンジも慌てて船を降りていった。
人気の散った甲板をしばらく見つめ、パラソルの下、さっきまで座っていたチェアにまた腰を下ろす。「ちとうるさくするぜー」と断りを入れてフランキーが横切ったかと思うと、しばらくして船底の方でカンカンと金属を打つような音が足の裏に響いてきた。
チョッパーが数キロ先から感じたという花の匂いは、島に着いてもまだわからなかった。チョッパーも、近づいてもあまり匂いは濃くならないとほっとしたように言っていた。
日差しを遮るパラソルから覗き込むように、島の真ん中の樹を見上げる。こんなにも目立つ島がまだ誰にも見つかってないなんて。
ぼんやりと座っていると、日陰が動き腕がちろりと舐めるように焼かれた。避けるように立ち上がり、見張り台を見上げる。
嫌がるだろうな、とわかりながら、ゾロのいるところへと向かった。
トレーニングをしているのだと思っていたら、サンジの言ったとおり、見張り台をぐるりと囲む半円形のソファに体を横たえてゾロはいびきをかいていた。
昼食の後からずっと寝ているらしい。よく眠っているが、長く眠っていることは珍しい気がする。中途半端な距離で立ち止まり、意味もなくゾロの寝顔を見つめた。
窓の外に目をやると、さっきよりずっと近くにあの樹が見える。少し揺れているのがわかった。怖いくらい大きな花が、いくつもいくつも粒を揃えて同じ方向にゆさゆさと揺れる。
重たそうで、今にもぼとりと椿のように落ちそうなのに、落ちることなく頭を垂れている。
「……なにしてんだ」
さっきまでいびきをかいていたゾロが、腕を枕にしたままこちらを見ていた。ソファの幅はゾロの身体には窮屈そうで、少し身じろげばごろんと転がり落ちそうだ。
「島に着いたのよ」
「島ァ?」
むくりと体を起こし、ひとつ伸びをしてから目を細めて眩しそうに外に視線をやったゾロは、「なんだありゃあ」と巨大樹に目を留めて声を上げた。
「もう次の島か、ずいぶん早く着いたんだな」
「いいえ、チョッパーが島に気付いて、ルフィが寄っていこうと」
「あぁ」
合点が行った、というようにゾロはまた興味を失い身体を横たえた。
「まだ寝るの?」
「あいつらはどうせ降りたんだろ。静かでいい」
「あなたは行かないの?」
「お前こそ、何してんだ」
訊かれて、曖昧に笑い返す。ゾロは怪訝そうにちらりとこちらを見て目を閉じたが、すぐにまた起き上がった。
「街があんのか」
「いいえ、無人島みたい」
「野生の動物でも狩ってくるか。どうせ外で食うだろ今日は」
「いるかしら。静かな島だけど」
ふーん、と妙に子供じみた相槌を打って、ゾロは座ったままぼんやりと空を見ていた。私もなんとなく同じ方向を見つめてみる。
「出かけねぇのか」
「まだ暑いから。日差しも強いし」
「無人島にゃ興味ねぇか」
くっと笑ったゾロの顔を見て、少し気が緩む。近づいて、隣に座りたい気がしたがこのまま立ってゾロを見ていたいとも思った。
「今何時だ」
「二時……前くらいかしら」
「寝すぎた」
立ち上がり脇においた刀を掴んだゾロは、「おれも下りる」と告げて甲板へと続くはしごへと向かった。すれちがいざま、「お前は」と再び訊かれる。
「フランキーが船にいると言ったら出ようかしら。彼がいなければ、見張り代わりに残るわ」
「あいつ、もういねぇぜ」
気配でわかるのだろう。「そう」と言うとゾロは少し考えるように視線を外し、おもむろに私の手を引いた。おどろいてたたらを踏んだ私の顔に顔を寄せ、ゾロが言う。
「誰もいねぇ。どうする」
ばかみたいに目を丸めるしかできなかった。数秒見つめ合って、ゾロがくくっと笑う。
「お前もそんな顔すんだな」
冗談だ、とゾロは手を離した。代わりに唐突に唇が触れた。ほんの少し湿った温度が混ざり、すぐに離れた。何も言えなかった。
「おれァ下りるぞ」
「──えぇ」
どうぞ、という言葉を投げかける前にゾロの背中は下へと消えた。
ぽつんと一人見張り台にいても仕方がないので、私も甲板へと下りる。さらにがらんとしたそこでまたパラソルの下に座り、傘の向きを変え、本を開いた。
思いついてアイスコーヒーを入れ、サンジがこしらえてくれた軽食のケースを持ってきて蓋を開ける。小さなサンドウィッチと焼き菓子が入っていた。粉砂糖のまぶされた小さなクッキーを口に含み、島の方を見つめる。
遠くからルフィの雄叫びが聞こえた気がした。
日が少し傾いた頃ブルックが戻ってきて、「代わりますよ、どうぞお出かけしてきては」と言ってくれたけれど、「ありがとう」と応えるだけで腰は上がらなかった。
新しい島の、まだ知らない空気だとか、見たことのない植物だとか、そんなものよりも、私はなにかの余韻をもっと味わっていたかった。
*
「特にこれと言って何もなかったわ。平和そのもの」
そう言って戻ってきたわりにナミの頬は上気し、腕に抱えたノートには集めたデータがびっしりと書き込んであるのだろう。これから測量室にこもり、夕食までの短い時間でもがりがりと線を引くに違いない。
ひとり、またひとりと戻ってきたクルーたちは声を揃えて「特になんにもなかった」と言っていたが、おのおのが果実だったり燃料代わりの薪だったりを拾ってきていて、いそいそと浜辺でキャンプファイヤーの準備を始めた。
せわしなく働くクルーたちの中に、ゾロの姿を見つけた。サンジやフランキーとせわしなく枕木のような大きな流木を運び、珍しくサンジと喧嘩を始めることもなく巨大な焚き火を組み立てていく。空島の宴を思い出し、懐かしさのようなものに頬が緩む。
「ロビンはどこも行かなかったのに、楽しかったのか?」
不意に足元にいたチョッパーが私を見上げ、尋ねる。
「ええ、景色はいいし、浜辺のバーベキューも楽しみよ」
「バーベキューじゃねぇぞ、キャンプファイヤーだ!」
おしりから飛び乗るように私の隣の椅子に腰掛けたチョッパーは、いつもの青いリュックからいくつかパウチのようなものを取り出して整理を始めた。島にはいくつか薬草が生えていて、貴重なものもあったのだという。
これが胃の粘膜を保護するから痛み止めと一緒に飲むといいんだとか、塗るととてもしみるけれどやけどによく効くのだとか、彼の言葉に耳を傾けながら空を見ている。すこしずつ青は暗く、黄色みが混じってくる。やがてうす赤くなったかと思えばすとんと幕を落としたように夜になった。船に明かりを灯し、浜辺の焚き木に火を入れる。サンジがせわしなく船と浜辺を行き来して調理道具を島へと運び、フランキーはアクアリウムから引き揚げたサメのように巨大な魚を担いでいった。
サンジに手伝いを申し入れると野菜を切るように頼まれたので、チョッパーと並んで浜辺の即席調理台で野菜や果物の皮を向き、串に刺した。ゾロはすでに酒瓶を傾けていたが、調理用の酒だったようでサンジに奪われたのを皮切りに殴り合い蹴り合いの応酬が始まる。
「もう、うるさい!」とナミが測量室から顔を出す。火の粉が飛ばないように船から少し離れたところで準備を始めたのに、彼らの声は船室にまで届いたらしい。サンジが「もうすぐ焼けるよー」とぶんぶん手をふる。
ウソップが島の反対側の岩場で釣ってきたというこまかいが大量の魚を、サンジが油に放り込む。大きな音が上がり、ルフィたちの歓声にこちらの期待も高まる。
なだれ込むように始まった宴に、目の前で爆ぜる大きな火に、喉を通るお酒によるものとはまた別の酔いが回る。頬が熱くなるがすぐに海風が鋭くぶつかり冷やされる。
鮮度の良い刺身に、目の前の火で焼いた魚や野菜に、臆面もなくかじりつく。パンツが汚れるのも気にせず砂の上に座り、踊りだしたクルーを見て笑った。
どんどんと夜は深くなる。月の位置が高くなり、ひとり、またひとりと砂浜のあちこちに横たわり始める。めずらしくサンジがすでにうつ伏せで倒れており、宴の中心から離れたところではブルックとフランキー、そして珍しく潰れていないウソップが車座になっていた。
夜風が身にしみたが、なんとなくこの空間から抜け出すのがもったいなくて立ち上がれずにいたら隣に座るナミが船を漕いでいる。彼女も肩をむき出していたので、やっぱり毛布をとってこようと立ち上がった。
誰もいない船はしんと暗く沈んでいて、さっきまでのどんちゃん騒ぎがひどく遠い場所にあるように感じられた。薄明かりを頼りに女部屋から予備の毛布を持ち出して甲板に出ると、さっきまで寝ていたはずのサンジがひらりと登ってきた。私を見てにこりと微笑むので、黙って毛布を差し出すと「ありがとう」と受け取って船を降りていった。
上着を羽織って浜に戻ろうと思ったが、のどが渇いたのでキッチンに立ち寄る。水を汲み、一口飲むととたんに眠気ににた心地よさが頭と胸に充満してふらりと身体が揺れた。自分の体が傾いたのか、波による船の揺れなのかわからないまま近くの壁によりかかり、もう一口水を飲んだ。
「明かりくれぇ点けろよ」
頭を壁につけたまま首だけで振り返る。声でゾロだとわかっていたが、たしかにそこにゾロがいることに軽く驚いた。明かりを点けろというくせに彼自身、暗いままのキッチンにやってきてごそごそとパントリーを漁り始める。
「……サンジに怒られるわ」
「今更」
目当ての酒を見つけたのか、小さいが胴の太い酒瓶を持ち上げて彼が笑ったのがわかった。すぐに栓を抜く音が響く。
身体の向きを変え、背中を壁に預けた。私に目を留めて、ゾロが瓶から口を離し珍しそうに言う。
「酔ってんのか」
「さあ……楽しかったから」
暗すぎて表情も見えなかったのに、ゾロが「へぇ」というように片眉を上げた、ような気がした。
「お前も飲むか」
「おいしいの」
「まぁ、ぼちぼちだ」
彼が瓶をこちらに突き出したので、少し迷ってから近づき、受け取ってゾロがしたようにそのまま瓶に口をつけて飲んだ。おいしいよりも先に熱い、と感じる。目の縁が燃えるようにひりひりとして、それからじんわりと脳の奥がしびれた。
黙って酒瓶を返すと、ゾロが小さく笑ったのがわかった。スツールを引き、彼が浅く腰掛ける。
「戻らないの?」
「ここで飲めば次の酒がすぐあるだろ」
一口飲んで息をつき、どんとカウンターに瓶を置く。その仕草を目で追っていたら、物欲しそうに見えたのかゾロはまた私に酒瓶を突き出した。差し出されるがままに受け取って、また口をつける。今度はさっきよりも美味しさが早くやってきた気がしたけれど、その分脳の痺れる範囲が広がったようにも感じられた。
「ふらついてんぞ」
ゾロが面白がるように言う。苦笑して、彼の向かいのダイニングテーブルの椅子に腰を下ろそうとしたらおもむろに腕を引かれた。
「座れ」
え、と声を上げる。太ももがゾロの膝に触れ、ぐいと腰が持ち上げられた。上体がぐらつきとっさにゾロの肩を掴む。暗闇に慣れた目がゾロの顔を捉え、間近に視線を交わした。
「……どうしたの」
「何が」
「あなた、今日、昼間から……少し」
「なんだよ」
「おかしいみたい」
くっとゾロが笑った。腕が回され、腿に手のひらが触れた。驚くほど熱い。
「触りてぇと思うのはおかしいか」
「思うの」
「ああ。お前を見てるといつも思う」
腿に触れたのとは反対の手が私の膝の裏をなでた。冷えていたそこが急な熱に驚いて、鳥肌が立つ。手が腿裏に登ってきて、息が漏れそうになるのをこらえた。
「……知らなかったわ」
「へぇ、そりゃあ勉強不足だな」
不意にゾロが首筋に顔を寄せた。鎖骨に舌が当たり、腰に回されていた手が腹から胸へとのぼる。今日一日シャワーも浴びていないのに、と思うがすぐにどうでもよくなる。思考が霧散して、ばらばらと足元に落ちていく。
厚い手のひらで柔らかく胸を揉まれると腕の力が緩み、だらりとゾロの肩に両腕を回してぶら下がった。服の上から何度も押し上げられるだけのことが、どうしてこんなに甘ったるい行為になるのだろう。
ゾロのこめかみに唇を付けて、尋ねる。
「まだするの」
親指が先端をかすめ、反対の手がパンツのボタンを外した。訊かなくてもわかっていたし、私自身その先に触れられることをもう待っている。
ゾロは律儀に「ああ」と答えた。腰が持ち上がり、ずるりとおしりの下までパンツが脱げた。中途半端に引っかかったのをそのままに、ゾロの手が後ろから下着の中に滑り込む。
相変わらず熱い手が臀部を掴み、邪魔だというように手の甲で下着を押し下げた。膝に乗った私を見上げ、ゾロが素朴な顔で呟く。
「お前はいっつも肌が冷てェ」
「そう……?」
「生きてっか心配になる」
突然前からぬるりと指が滑り込んだ。あ、と高く叫んで肩を掴み直す。中に深く入るでもなく、入り口と突起のあたりを何度も柔らかくこすられ、彼のためにゆるゆると開いた脚が小刻みに震えた。
反対の手でぐっとTシャツの襟を引き下げられると、広い襟元は肩から落ち、容易に胸がこぼれた。下着を鼻先で押しやるように、ゾロが顔を埋める。押しやられた布の端から飛び出した先端を淡く噛まれて下があふれるのがわかった。
水の音が響いて、ゾロの手が絶え間なく塗り込めるように動く。
「ゾ、」
「なんだよ」
「あなた、もう」
「おれのことより、集中しろ」
指が一度に二本ほど、唐突に入った。あまりになめらかな様子に気づかなかったほどだ。すぐに中をかき混ぜられて、息が苦しくなった。
いつもならもう彼自身を入れているのに、どうして、と思うがゾロに答える気はなさそうで、私の方も口を開くと快感を漏らすしかできないし、彼の言う通り私は自分を気持ちいい方へと導くことに集中するしかなかった。
ああ、と身を震わせて何度も高い声を出す私の頬にゾロが唇を押し当てる。こんなのは初めてだった。
いいか、と訊かれて何がかもわからず何度もうなずく。ちゃんと言え、と呼吸の間際にささやかれて彼の肩を両腕でぎゅうと囲った。
「いい、きもち、いい」
ひたひたとやってくるなにかが怖くて固く目をつむる。溢れるものがゾロの手を濡らしている、こんなところで、と思うとますます閉じた目の景色は白く爆ぜ、やがて強く足の付根から痙攣した。
は、と短く息を吐く。快感と気だるさが彼の指が埋もれているところから頭の先まで電気のように走り、余韻だけで声が漏れた。
「は、あ、ゾロ」
名前を呼ぶと答えるように唇を塞がれる。そうだこれがほしかったのだ。強く吸うと勢いよく舌が滑り込んできて、より強く口内を吸われた。
唐突に腰が持ち上がり、パンツと下着もろとも引き抜かれて両足でゾロの両膝にまたがった。驚いて顔を上げた途端、熱いかたまりが布越しに触れた。
さっきまで、どうかするとまだ今もびくびくと震えている私のそこに、ゾロのものが服のままあてがわれる。そのまま強く押し付けられた。
「や、待っ……あっ」
先端が服のまま今でも入りそうなほど強くこすりつけられ、あっというまに私のしたたるもので濡れていく。ゾロの短い息が聞こえた。
「ゾ、ロ、なんで」
ゾロは答えず私の腰を掴み、腕の力だけで持ち上げて私たちを押し付け合う。むき出しの私のそことゾロの服をまとったままのものがまるで裸同士みたいに湿り気を帯びて混ざり合い、さっき波のように引いていった快感としびれが唐突に戻ってきた。
ひときわ大きな水音が鳴ったとき、ゾロが息を吐いて動きを止めた。私もぐったりと彼にしなだれかかる。
「ゾロ……入れて」
「お前の部屋、あいてるか」
「部屋?」
きっとこの船には誰もいない。どうかすると朝まで帰ってこないだろう。
「あいてる、けど、もしかしたらナミが帰ってくるかも」
「おれらがいりゃあ入ってこねぇだろ」
「そんな」
不意にゾロは私を抱いたまま立ち上がり、すたすたと扉に向かって歩きだした。
「ゾロ! 私の服」
うるさそうに足を止め、ひったくるように私のパンツたちを掴み上げると、ゾロは足早に私の部屋へと向かった。
当然空っぽの部屋はベッドが2つ並んでいて、「どっちだ」という問いに指をさして私の方を答えると、私を背中からおろして横たえた。
彼がズボンを脱ぐのを横たわったまま見て、「どうして今日はすぐにしなかったの」と改めて尋ねた。
最中に頬に唇が触れたのも、私だけ先に果てるようにいじられたのも、こんなにも長く入れないままなのも初めてだった。もちろん、真昼間にキスをされたのだって初めてだ。
私の片足を持ち上げながらずしりとのしかかってきたゾロは、訊いた私がまるで恥ずかしいことを言ったように思えるくらいじっとこちらを見据えてから「そうしたかっただけだ」と言った。
先端がぐっと押し込まれ、あっと短く声が漏れる。あっというまにずぶりと全部飲み込んだ。
「はあ、それが、どうしてって、訊いたの」
「お前こそ今日はよく喋る」
勢いよく突き上げられ、怒った猫のような甲高い声がほとばしった。咄嗟に、いけない、と息を呑みこんだが今はここに誰もいないのだった。もちろん壁の薄い安宿なんかでもない。
指より数倍熱くて大きなものに内側の壁をこすられ、比べ物にならない刺激に声が、そして意図せずあふれる水が大きな音を出す。
「い、ゾロ、ゾ」
口をふさがれ、両足を大きく持ち上げられる。お尻が浮かび上がり、あられもない格好に羞恥で顔を塞ぎたくなるが拳で顔をおおうとすぐにゾロの手に払いのけられた。
「隠すな」
「や、だって」
そのまま強く突かれ、背中がずり上がるたびにゾロに引き戻されて深くつながる。ゾロの息が深くなり、ひときわ大きく出し入れされたかと思えば急に身体をひっくり返された。
ひ、と情けない声が出た途端背後から胸を強く掴んで持ち上げられる。そのまままた、深く突き刺さる。
「やぁ、もう……」
脚ががくがくと震えだす。指先が胸の先端に触れ、激しく出し入れされたところが突然熱く感じた途端、中で彼のものが大きく震えたのがわかった。同時にゾロの反対の手がわたしの下の突起をこすり、突然のことに体勢が崩れるのも構わずゾロの腕を掴んで高く声を上げた。
ゾロの腕を掴んだまま、ずるずるとベッドに胸から崩れ落ちる。背中にどさりとゾロの重みがのしかかった。どくどくと動く彼の心臓の音がはっきりとわかる。彼が出したものか私のものなのか、あるいはその両方で太ももがひどく濡れていた。
ゾロがごろりと転がって私の上から隣に滑り落ちる。私を抱いたまま、大きな呼吸を何度も繰り返していた。ずるっと緩慢に引き抜かれ、まだ入っていたのだと気づく。
しばらくの間、二人分の呼吸に耳を澄ましていた。落ち着いてくると、思わずうとうととまどろみそうになる。身体の向きを変え、ゾロと向かい合った。
じっと見つめていると、「なんだよ」とゾロがきまり悪そうに言う。
「見てただけ」
ふん、と鼻を鳴らされるが、かまわず唇を寄せると応えるように彼の方も口を寄せてくれる。柔らかく触れ合った。
どうして今日は、とまた尋ねたくなるが、思いとどまった。私はたいして知りたくもないことばかり口にする癖がある。
何もわからないままでいい。
ゾロが仕返しのように私を見つめ返してくるので、「なあに」と尋ねた。
「いいと思って、お前の顔」
「顔?」
思いもよらない言葉に目を丸めると、ああ、と至って真面目にゾロはうなずいた。
「見てぇと思った。いろいろ」
「顔……」
どういうことなのか深く考え込みかけるが、腰が引き寄せられて思考が中断する。
「このまま寝ていいか」
「えぇ、あ、でも……」
誰か帰ってきたら、と頭をよぎるがすぐにどうでもいいかと思い直す。私もこのまま、永遠に横たわっていたいような気分だった。
永遠に横たわって、私の顔を見たいと言ったゾロのことをずっと考えていたかった。
濡れたままの足の間は気持ち悪くても、裸の身体が冷えてきても、朝が来て、慌てて服を着てクルーが帰ってくるのに間に合わせることになったとしても、なにもかもがかまわなかった。
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麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
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