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スプーンに盛られた一口分が、パクリと口の中に消える。
うもうもと頬が上下して、喉が少し動く。
そんな咀嚼を一つするたびに、アンはスプーンを握るこぶしをテーブルにつけては悩ましげなため息をついた。
「何アン、今日は勢いのらねぇな」
アンの斜向かいで、イゾウが湯呑に口をつけたままアンに問う。
んー、と肯定ともつかない声を発して、アンは再び皿の中身を口へと運んだ。
「腹減ってねェのかよい」
「そういうわけでも…んー、ないんだけどなー…」
「夏バテかよい」
今日は特に暑ィからねい、と隣でマルコがアイスコーヒーをすすった。
サッチが厨房から三枚の皿を両手に載せてやってくる。
アンのための「おかわり」である。
鼻唄交じりにやってくるその姿を、アンはぼうっとかすむ視界の向こうで捉えた。
「何、アンまだそっち残ってんのか」
「んー、ごめんおいしいんだけどねえ。今日はもういいや」
「まじ?夏バテ?」
サッチも先程のマルコと同じくそうアンに問うと、アンはそうかもと笑うだけで席から腰を上げた。
「あたし先部屋戻るね」
「おー」
ひらりと長椅子を跨いだアンは、とてりとてりと幼時のような足取りで食堂の正面扉へと歩いていく。
どうにも違和感満載なその後ろ姿を眺めていた、隊長たちをはじめとする男たち一同だったが、不意にサッチがおおう?と頓狂な声を上げたことで視線を集めた。
「なんかここ、焦げてね?」
そういって手を伸ばす先の長いす、今先程アンが座っていた部分が丸く黒い跡を残している。
そして空になった大皿が数枚積まれたテーブルにも、ところどころ黒くくすぶった跡が。
まさかと合点の行った男たちがその火種に目をやったその瞬間、およ?と呟いたアンの歩みが止まった。
かと思えば左右にふらふら揺れ出して、終いにはその細い体が一枚の薄い紙切れとなったかのように崩れた。
その一連の映像に目をひん剥いた男たち全員が、アンを受け止めるべく一歩を踏み出す。
しかしアンの膝が床につくよりも早く、その体は風を切った男の腕によってとさりと受け止められた。
じゅうっと皮膚の焼ける痛々しい音が近辺に響く。
しかしマルコはそのまま顔色一つ変えることなく、両腕を青い翼へと変化させた。
全身を不死の羽毛で包まれたアンは、力なく腕を垂れて目を閉じている。
「ナースを呼べ、あとオヤジに報告。コックどもは療養の準備だよい。…さっさと動け!」
その一声で、男たちは弾かれたように動き出した。
*
「道理でやたらとあの席暑ィと思ったよ」
ナースたちへの指示説明を終えたマルコに、袂へ手を収めたままのイゾウが声をかけた。
マルコはその声の主を振り返ることもなく、手中の書類の文字に斜線をかける。
「アンがやられんだ、ただの菌じゃねぇかもな」
「わかってるよい」
「んじゃあいつは隔離か」
「ああ」
きゅ、とマルコのペン先が紙の上で止まった。
イゾウは視線をそこに留めたまま煙管を取り出す。
紙の上のペン先は、一度大きくたわんだかと思えば次の瞬間に弾け飛んだ。
まるでそれを予期していたかのように、イゾウは静かな顔で自分のほうへ飛んできたペン先を顔を背けて避けた。
「今日唐突にだったんだ、気づけるわきゃねぇ」
「朝からアイツはおかしかった」
「だからって自分責めて腹ぁ立ててりゃ世話ねぇな」
マルコは先のないペンを握りしめたまま押し黙った。
いつもの元気や勢いが人並み外れているアンだからこそ、気づくべきだった。
マルコがそう言いたいのはイゾウにだってわかる。
自分だってそうだからだ。
一概にマルコにだけ言えることではないと、誰もが思っている。
だがマルコがことアンに関してはひときわ高くプライドに似た責任感を持っていることも、知っている。
それは恋人に対するものというより、親から子へのそれに近い。
「アンは、自分の部屋か」
「…いや、原因がわかるまでは医務室に近い空き部屋を無菌に近づけて隔離だよい」
船の中で流行り、感染る病ほど怖いものはない。
時にはそれがまるっと一つの海賊団を飲み込んでしまうことさえある。
そういう危険因子をまき散らさないためにも、一人無菌室で隔離されたアンの姿を思い浮かべ、マルコとイゾウはどちらともなく苦い顔を見せたのだった。
*
その日の夜、浮かない顔がそろいにそろった食堂からマルコは一足早く立ち去った。
階段を下り二つ角を曲がれば目的の部屋がある。
ノックしようと右手を持ち上げたものの迷い、結局そのままドアノブに手を掛けた。
「マルコ隊長?」
不意に現れた高い声に、マルコは無意識のうちに素早くノブから手を離した。
声の主を振り返れば、束となったカルテと思われる書類を手にした一人のナース。
古株の一人だ。
「ここにいたんですね」
「ああ…悪い、無菌ってのぁわかってたんだが」
やっぱ入っちゃまずいのかよい、ときまり悪そうに頭を掻くマルコに、ナースは思わず笑ってしまった。
「今、そのことについてまず隊長に話そうと思って食堂まで行ってたんですけど。
入れ違いになっちゃったみたいですね」
くすくすと上品に肩を揺らすナースをぽかんと眺めていれば、ナースは目元に笑い皺を作ったまま、
「アン隊長、大丈夫ですよ。溶連菌感染症、ってわかります?」
「溶連菌?」
「えぇ、一昨日上陸した島で貰ってきたんでしょうね、もしかしたらほかに症状のある人が出るかもしれないです。
でも幸いアン隊長はもともと専用の食器使っておられますし、そう広がることはないかと」
アンの食器は、特注特大サイズ。ブレンハイムと同じものだ。
そういうことを得意とするクルーの手によって鮮やかに絵付けされている。
「ああ…そうかい、じゃあ隊員たちに報告」
「アン隊長の容体と今後の体制、クルーたちへの消毒の義務付けは全部報告してきましたから」
どうぞごゆっくり、と意味深な笑みを見せて、ナースはマルコが用のある部屋の隣、ナースたちの部屋の扉に手を掛けた。
「おい、感染症なんだろい。入ったらいけねぇんじゃねェのかよい」
「もちろん出るときは消毒、してくださいね。それに隊長は大丈夫でしょう?
不死鳥だもの」
消毒液は部屋の中ですからと言い残し、今度こそナースは隣室に消えた。
楽しげだったことがいささか気になる。
「オレをなんだと思ってんだい」
とりあえず誰も聞くことのない呟きを漏らして、マルコは再びドアノブに手を伸ばした。
*
熱い額に手をのせると、そこは常人よりは熱いがもう皮膚を焼くほどではない。
思い至って布団の端を捲れば、案の定アンの細い手首は、片手ではあるが海楼石の手錠がはめられていた。
不意にアンが身じろいだ。
うっすらと瞼が持ち上がる。
「起こしたかよい」
「ん…マル、」
こてんとこちらに首を転がして、潤った黒目がマルコを捉えた。
ぼんやりと焦点の合わない瞳は、何を言うでもなく目の前の男を見つめている。
多分何も考えていないのだろう。
マルコも特に何を言うでもなく、見つめられるがままその瞳を見返していた。
「…手…」
不意にアンが自身の右手を持ち上げた。
ぱさりと布団から腕が現れ、くすんだ紺色のような金属がジャラリと鳴った。
「熱がすげぇからよい、能力が制御で来てねェ。気分悪ぃだろうが我慢しろよい」
「…やだあ…」
眉を眇め、取ってくれとでもいうようにベッドの横の木の椅子に腰を下ろしたマルコの眼前でふらりふらりと手首を振る。
我慢しろ、とマルコはその腕を布団の中に戻した。
「…あたし…びょうき…」
「溶連菌感染症だとよい」
「よーれん…」
「そうたいしたもんでもねぇ、夏風邪だと思え」
なつかぜ…と呟いたアンは、視線を天井へと戻した。
「夏風邪はなんとかがひくって言うが、その通りだよい」
「…るさい…」
くくっと空気を含んだ笑いを漏らすと、アンは仰向けのまま顔をしかめて見せた。
応える元気があるならまあ大丈夫か、とマルコは汗で額に張り付いた黒髪を払ってやる。
「っと、もう晩飯終わったんだがねい、なんか欲しいもんあるかい。食いたいもんとか」
「…よるごはん…終わったの…」
「言っとくが普通の飯は食えねェよい。消化に悪いからねい」
「…今日ごはんなに」
食えねぇって言ってんだろがと言いつつも今日のメニューを教えてやると、アンは呼気に大きなため息を混ぜて吐き出した。
「…あたしのぶん…とって、」
「また作ってもらやぁいいだろい、しばらくは食えねぇよい。それより今何もいらねぇのかい、なんか食えそうなもん」
「んぅ…」
アンはしばらく考えをめぐらすように目を瞑り、真剣な面持ちで口を閉ざした。
数秒後、再びこてんと首をこかすと口を開いた。
「サッチ…プリン…アイス…」
「はいはい」
言われるまでもなくサッチを筆頭にアンの病人食は作られているのだろうが、ご指名とあればアイツはいくらでも作るだろう。
マルコは、サッチを喜ばせるのは癪だがと思いつつもアンの要望を伝えるべく立ち上がった。
「…マルコ」
「あ?」
「…どって…くる…?」
口より下を布団の中に隠して呟かれたため、言葉はもごもごと聞き取りづらい。
しかしマルコは数秒考えたのちアンの言いたいことを捉え、その額に大きな手を被せた。
「すぐ戻ってくるよい」
口の端に笑みをのせてそう言えば、アンも安心したように赤くなった目元を緩めた。
「…マルコ…」
「まだなんかあんのかよい」
「…プリン…に、生クリーム…」
「はいはい」
どこのお嬢様だかと思いつつ、まあそう変わんねぇかとひとりごちて、マルコは食堂へと赴くためアンの部屋を後にした。
*
扉を開けると、今度は眠りが浅かったのかアンはすぐに起きた。
ナースに着せられたのだろう、クリーム色のシャツを着ていた。
「起きられるかい」
「ん・・・へいき…」
よいせと腕を突っ張って上体を起こすアンを、支えるようにして手伝う。
そしてその膝の上に、持ってきた盆を置いてやった。
「おぉ…」
標準サイズのプリンに、ぽってりと生クリーム。
その横に彩られた柑橘類のフルーツ。
そして水分補給のための栄養ドリンクと、薬。
アンは要望通りの食べ物たちに感嘆の声を出したものの、同じく乗せられた粉薬を目に捉えて顔をしかめた。
「くすりぃ…」
「それ食ったら飲めよい」
「こな、やだぁ…粒がいい…」
「ガキくせぇこと言ってねぇでさっさと食え」
しばらくぶすくれていたアンだったが、諦めたのか食欲に負けたのかしぶしぶスプーンを手に取った。
が、掬った量が、いつもより少し少なめと言うだけでどう考えても病人の口のサイズに合わない。
そもそもプリンを2、3口で食べてしまおうというのがおかしい。
それでもアンは小さなスプーンで、生クリームとプリンをごっそり掬った。
「おいおいおいゆっくり食…」
「あ、」
小さなスプーンの上で重力に負けたプリンは、まっさかさまにアンの腹の上に落ちた。
ぺしょっと、無残にも腹の上で潰れている。
「あああああ…」
「言わんこっちゃねェ…」
マルコが慌てて盆の上の布巾に手を伸ばした隙に、アンは腹の上に落ちたプリンを指とスプーンで掬いだした。
「おいそんなん食うんじゃねぇ」
「だってもったいない…」
言ってる傍からアンは腹の上のプリンを掬い、迷いなく口へと運んだ。
その味がお気に召したのか、一人にへっと笑う。
「ったく…おら、手ぇ出せ」
熱が出ると子供返りするというがここまでかと、マルコは半ば辟易しながらアンの指を丁寧に布巾で拭っていく。
シャツの腹部も荒くではあるが拭いてやり、マルコはアンからスプーンを奪い取った。
「ああっ」
「おめぇ手元もおぼつかねぇんじゃねぇかよい」
スプーン返してと真赤な顔でわめくアンをすっきり無視して、マルコはアンのプリンを標準的な一口サイズで掬った。
「ほら」
「えぁっ、」
「口開けよい」
つんつんとプリンをのせたスプーンの先でアンの唇を突いてやる。
食わせてやるっつってんだよいと言うと、アンは発火しそうな勢いでますます顔を赤らめた。
「う、あ、」
「いらねぇなら食っちまうぞ」
「いるっ!」
慌ててあがっと口を開ければ、スプーンとプリンの冷たい感触が口内に触れる。
するりと溶け込んだほどよい甘さに思わず顔を緩ませると、スプーンを握るマルコの頬も心なしかゆるんだようだった。
アンが口の中のものを飲み込んでしばらくすると、再び甘い匂いが口のあたりに持ってこられる。
今度は喚くことなく小さく口を開くと、先と同じようにプリンが滑り込んできた。
その動作を何度も繰り返す。
二人ともが何を話すでもなく、淡々とマルコはプリンを運び、アンはそれを食べていった。
「…おいしかった」
「そりゃよかったよい」
「ありがと」
よいとそっけなく応えたマルコはアンの膝の上から盆を退け、アンの右手に液体の入ったコップ、左手に薬の包みを持たせた。
アンがうえっと顔を歪ませても、マルコはさぁ飲めと言わんばかりの表情でアンを追い詰める。
「…この、さぁ…こなだと、さぁ…コフコフするんだもん…」
「じゃあ明日の薬は粒にしとくよう言っといてやるよい、だが今日はそれを飲め」
いやだ、だめだ、むりだ、むりじゃない、と似たような応酬をいくつも繰り返して数分、アンは諦めたのかぐっとコップを握りしめた。
勢いのまま口の中にばさばさと薬を放り込み、すぐさま水を含む。
ぎゅっと目を瞑った一瞬の動作だった。
「~~っ、オェッ、まずっ、」
「ほらよい」
口直し、とマルコは甘い栄養ドリンクの入った別のコップをアンに手渡す。
アンはすぐさまそれを受け取り喉に流し込んだ。
「はああ~」
アンが目を閉じたまま安堵の息をつくと、ふわりと大きな掌がアンの頭上をかすめた。
しかしアンが目を開けてマルコを見ても、マルコは何を言うでもなく再び食器の乗った盆を手に取る。
「すぐ戻ってくるからよい、ちょっと寝ろ」
「…あ、うん…あ、マルコ仕事は…」
「ここでする、気にすんな」
いいから寝ろと言い残して、マルコの背中は再びドアの向こうに消えた。
アンは火照った頬を押さえて、ぼんやりと木の扉を見つめていた。
*
ペン先が紙の上を踊る音と、一定の呼吸音。
ときおり息が詰まったような苦しげな声を出しては寝返りを打つ。
そのたびにマルコはペンを置いてアンの顔を覗き込んだ。
(…暑そうだよい)
いくら額に張り付いた髪を払ってやっても、アンは不快そうに顔をよじる。
ナースに熱が上がっているようだと告げたが、
「夜には熱は上がるものなんです。薬も飲まれたので、しっかり汗かいて眠れば大丈夫ですよ」
と替えの氷枕を手渡されただけだった。
アンの頭を持ち上げ、新しい氷枕を入れてやると気持ち良かったのかすうっとアンの顔が和らいだ。
額と首元に冷えたタオルをあてて汗を拭いてやる。
「ん…きもちい…」
「そうかい」
ぼんやりと目を開けたアンはにへりとその目を細めた。
しかし、ぺたりと自身の首元を触って、うへぇと顔をしかめた。
「べたべた・・・」
「あぁ、風呂ぁ入れねぇからよい。着替えるかい」
「んぅ…脱ぐ…」
もぞりと半身起こしたアンは、窮屈そうにシャツのボタンに手を掛けた。
「ちょっと待て、替えがねぇから持ってきてやるよい」
「いい…もう着ない…」
「アホウ、おい、待てって」
言ってる傍からシャツを脱ぎ捨てたアンは、いつものホルタ―ネック姿で再びシーツの中へと埋もれていく。
「それじゃ治んねぇっつってんだ、ったくなんか着るもん持ってきてやっから」
「いい…」
「よくねェよい」
「…じゃあそれでいい…」
そう言ってアンがつんと引っ張ったのは、マルコが羽織る白いシャツ。
オレに脱げってかと呟くも、アンはシャツの裾を握りしめたままただぼんやりとマルコを見上げている。
「…オレァまだ着替えてねぇからよい、これ一日来てたから汗くさいよい」
「いい…」
「オレのがいいなら別の持ってきてやるから」
「いらない…」
「…あのなぁ、」
それがいい、と握りしめたシャツをそのままに目を閉じたアンを前にして、マルコは閉口する。
熱も酒もタチが悪いことには変わりねぇな、と自身のシャツを脱ぎ取った。
「ほらよい、体起こせ」
ずるずると這い上がってきた上体をしっかり立たせて、ばさりと幾回りも大きなサイズのシャツを羽織らせる。
上から下まできっちりボタンをしめてやり、長すぎる袖を幾重にも曲げて指先を出してやる。
アンはされるがまま、首を上げたり手を伸ばしたりしつつ、頭をふらふら揺らしていた。
「ほい完成」
さあ寝ろ、と額を小突くとアンの身体はあっけなく陥落した。
もぞもぞとシーツの皺と皺の間に埋れて行くアンを眺めながら、マルコはいつのまにか肌を伝っていた嫌な汗を拭った。
きっちり上まで閉められたシャツの襟元に顔をうずめるようにして、アンはすんすんと鼻を鳴らす。
マルコは思わずやめてくれと言いたくなったが、アンが満足げな顔ですうと眠りに落ちたのでマルコの肩からも力が抜けた。
(…こりゃあ敵襲でもあったほうがマシだよい)
全身を襲う疲労感を持て余して、はあとため息と共に首筋をさする。
しわくちゃになった掛け布団でアンの身体を覆い、この厄介娘がと軽く額に手のひらをこすりつけた。
「…ルコ、」
「あ?」
いつもなら一度寝れば生半可な刺激では起きないアンが目を覚ましたことに半ば驚きつつ声を返す。
しかし当の本人は目を閉じたまま。
うわ言かと背を向ければ、再び囁かれる自分の名前。
「…なんだよい、さっさと寝ろって」
「…きょうの、マルコ…なんか、へんだ…」
未だ目は閉ざしたまま、しかし今度ははっきりとそう呟いた。
アンを覗き込むように腰を屈めていたマルコはその言葉に軽く目を見張ってから、吐息を吐き出すついでにベッドの傍の椅子に腰を下ろした。
「変って、なにが」
「…マルコが、やさし…」
オレはいつも優しいだろうがと憤然と返せば、少しの後嘘だあと返ってきた。
こんな状態で普通に会話が続いていることが不思議で仕方ない。
「…でも、だめだねえ…」
「なにが」
「…こんなふうに…マルコがやさしいと、病気も、いいなって…」
びょうきしたことなかったけどこんないいものだとおもわなかったよ。
そう言ったかと思えば、今度こそ寝たのだろう、ことんと首が傾いて規則正しい寝息が続いた。
「…バカタレ」
ぺんと額をはたくつもりで手を伸ばしたものの、すぐに迷ってその手は頬に伸びた。
不謹慎な言葉への制裁の代わりに額へは唇が落ちた。
ああも騒々しいアンの声がこうも懐かしくなるなんて。
こっちこそ心労で死にそうだと、大きくついた溜息は途中で笑いに飲み込まれた。
あの喧騒に早く会いたい
(…空港はどこも一緒なんだ…不思議)
飛行機と空港を繋ぐスロープを降りきる瞬間、すごくドキドキした。
だけど下り立ってみれば空港のフロア内は行きに見た景色とほとんど同じで、違うのはすれ違う人の外見だけだった。
現地の時間は夜の9時。
とりあえずその日は街中の小さなホテルで夜を過ごした。
*
携帯の画面と、店の看板を何度も何度も確かめてそこに書かれている文字を確認する。
間違いなく、サンジ君がお世話になっている店だ。
立派な門構えがあるわけでもなく、特別大きいわけでもない。
人がゆっくりと通り過ぎていくだけのストリートに面して、ベージュ色の壁に囲まれたそこは静かに上品さを醸出していた。
現在時刻10時。
店は準備中で、窓越しの景色から見たところコックらしき人が数人慌ただしく動いているだけだ。
(…サンジ君は…いないわね…)
ガラスからひょこひょこと顔をのぞかせるあたしは中から見たらさぞ滑稽だったのだろう。
気が付けば、面長で薄茶色の目の若い男性が茶色いメインドアを開けてあたしを見ていた。
「あ、」
『ごめんね、まだ開店前なんだ。観光客?あと1時間で開くからそれまで待って』
突然するんと流れ始めた言葉はなめらかにあたしを通り抜けていくだけで、最初の『ごめんなさい』しかわからなかった。
しかしそれでも喋らなきゃという気持ちだけが先走って口をぱくぱくさせるあたしを不思議に思ったのか、その男性は肩をすくめながらあたしに何か問うてきた。
たぶん、『店に何か用?』とかいうようなことを言っている、のだと思う。
あたしは必死で覚えてきた言葉を引っ張り出した。
「サッ、サンジ!」
『サンジ?』
『サンジは、この店で働いてますか?』
男性はきょとんとあたしを見つめた。
その時間があまりに長かった(ような気がした)ので、もしかして言葉が通じなかったのかとあたしが焦り始めたころ、男性は一瞬にして相好を崩してああと笑った。
『君、「ナミ」だ!』
『あっ、あたし?そうだけど、』
『サンジなら今いないよ、聞いてないの?
『…聞いてない』
突然むっつりとしたあたしの表情を読み取ったのかそのフランス人男性はありゃ、というような声を発したがそれでも楽しそうな顔は変わらない。
『そうかそうか、いやでもサンジが言ってないのも仕方ないよ、うん』
『あの、彼は今どこにいるの?』
男性はあたしの言葉を聞いて、少し上を仰ぐようにして考えてから何かを呟き、あたしに向かって愛想よくにこりと笑った。
笑うと深い顔立ちの向こうで目が細くなって、結構いい男だ。
『サンジ今、日本にいるよ』
*
ウソップがガタタッと音を立てて椅子から腰を上げる。
その動作は無言だったが、無言というより絶句だ。
「…まじで言ってんの、なあそれまじで」
「だからそう言ってんだろ」
4杯目のラーメンをすするルフィの隣でゾロが面倒くさげにウソップを見上げた。
かたやウソップは青くなった顔をひきつらせたまま固まっている。
「…何時にこっち着くんだよ」
「今日の昼過ぎっつってたか」
「もうすぐじゃねぇか!…ああもうなんてこった…ナミ…」
「なあなんで今日はナミいねぇんだ?」
「だっかっらっ!フランス行っちまったんだよ!最初に言ったろうが!」
「眉毛と入れ違いじゃねぇか」
「だぁかぁらぁさっきからおれはそれを…!!」
言っても言っても伝わらないもどかしさやら、向こうで真実を知ったナミの気持ちやらいろんなものが一気に押し寄せて、ウソップはぐたりと椅子に座り込み後ろに背中を預けた。
そんなウソップにおかまいなくルフィは最後の汁まで残さずすすって、汚れた口元のままにかりと笑った。
「そうか、サンジ帰ってきてんのか!いいなあ、ひさしぶりだな!」
「それどころじゃねぇよぉ…ナミ早く帰ってこい…」
「帰ってくるだろナミも!」
「そんなすぐトンボ帰りできるとも限んねぇだろ」
いや、とゾロが口を開いた。
「グル眉が帰ってきた理由くらいわかりゃああの女のことだ、すぐ帰ってくんだろ」
「は?」
「おう、そうだな!しししっ、ナミは絶対帰ってくるな!」
「え、なんだよサンジが帰ってきた理由って」
慌てて二人の顔を交互に見やるウソップを、ゾロとルフィの二人もまたきょとんと見返した。
「なんだおめぇ、わかってなかったのか」
「おれでもわかったぞー!」
呆れたふうなゾロと楽しげなルフィを前にして、ウソップはただ目を白黒させる。
おっちゃんおかわりー!とルフィの呑気な声が店内に響いた。
*
ぽかんと間抜けな顔で立ち尽くすあたしを、フランス人男(アランと名乗った)はまあおいでよと店内に招いてくれた。
準備中なんじゃと言えば、ナミだからいいよと言われ、最初は意味の分からなかったその言葉も、店内で彼があたしを紹介した途端全員があたしを訳知り顔で温かく迎えてくれたことによってなんとなくわかった。
(…サンジ君が、あたしのこと)
料理長らしく立派なひげをたくわえたおじさんが現れてあたしを上階へ案内するよう言ってくれた。
彼がおそらく、ゼフ料理長の知人の料理人なのだろう。
すれ違いざま料理長の視線が柔らかったので、ここでのサンジ君の生活に少し安心した。
『上階はここで修業してる料理人の部屋になってるんだ。僕の部屋も、もちろんサンジの部屋もあるよ。ここがそれ』
そう言ってアランがカギを差し込み一部屋を開けた。
勝手に開けてもいいのかと問うたが、大事なものは全部持って帰ってるだろうから大丈夫だよと朗らかに笑うだけだった。
6畳ほどの小さな空間。
ドアの正面に小さな窓が二つ。
壁に寄り添うベッドとスタンド付のテーブル。
小さなクローゼットと本棚が入ってすぐドアの向こうにある。
ここでサンジ君は三年間、寝起きして、料理の勉強をして、アランみたいな友達を呼んで、生活していたんだ。
そう思うとほんの一瞬だけサンジ君の匂いを感じた気がした。
テーブルの上には写真立てが一つあり、バラティエのコックたちとサンジ君が三年前の姿で勢揃いしていた。
本棚にはフランス語の本がほとんどだったけど中には日本語の本もあり、フランス語を勉強するための本もあった。(それはもう埃をかぶってはいたけど)
服は粗方持ち帰ったのかクローゼットは空っぽに近い。
だが物が残っているところを見ると、サンジ君はまたここに帰ってくるんだろう。
『…ナミ』
ドアは開いたまま、入り口付近の壁にもたれていたアランがゆっくりと諭すような口調であたしを呼んだ。
『なんでサンジが日本に帰ったかわかってるんだろ』
『…』
『ならナミも早く帰りなよ』
アランの言葉を聞き流して、あたしは部屋の中を見渡した。
彼がこれからも生活していく空間。
『…この部屋』
『ん?』
『この部屋、あたしのもの、何もないのね』
持っていくと言っていた、あたしが彼にあげたものや、あたしの写真も。
ルフィがサンジ君の旅立ち前にあげていた意味の分からない置物やバラティエの写真はあるのに。
そう言えばアランはしばらくあたしを見つめて、それからゆっくりと目を細めた。
『言っただろ?サンジは『大事なもの』全部持って帰ってるんだよ』
初めてナミの写真見せられた時に率直な感想述べたら蹴りが飛んできたから焦ったよ。
下衆な目で見るなとか言って。自分が見せたくせに。
ナミは気象予報士なんだろ?あれ、ちがうか、これからなるのか。
どっちにしろオレより若いのに全然オレより頑張ってるって、すごい自慢してたよ。
だから自分も負けないようにここに来たって言ってた。
アランの話す言葉で理解できたのは最初の方だけで、あとはほとんどわからなかったのに、あたしはどうしようもなく泣きたくなった。
『早く日本に帰ってやんなよ。『強くて可愛いオレのナミさん』』
あたしはずずっとみっともなく鼻をすすった。
『…いやよ。まだ観光もしてないのに』
『ハハッ、本当にサンジの言ってた通りだな』
それじゃあ帰りたくなるようなことを教えてやろうと、アランは初めて少し意地悪な顔をした。
*
急な帰国に面倒な手続きは山ほどあったけど、あたしの必死さが伝わったのかどうにか明日の日曜日の14時には着く便がとれた。
アランの店から空港までは100キロほど離れているうえに、一度ホテルまで無駄にでかい荷物を取りに戻らなければならないこともあって予想以上に手間取り、よって空港に着いたころには、夜の早いこの地域の緯度のせいもあって既に日は落ちていた。
来てよかったと、心底思った。
まあ費用がもったいないと言えばそうなんだけど、それでも。
19時発の便に乗るまであと2時間はある。
それまでどこかカフェで気を落ち着かせてゆっくりしようかと搭乗券を握りしめてトランクを転がしていたそのとき、空港内のアナウンス音が響いた。
『パリ発成田行○○航空12便、機体整備により運転時間見合わせ──』
「……はああああ!?」
手の中の搭乗券を何度も見直す。
聞き間違いであることを願って電光掲示板を見に行ったが、間違いなくあたしの乗るはずだった便が運転見送りと記されている。
「…どうしてこう悉く…」
あまりの運の悪さにどうしようもないと思いながらも自分に嫌気がさして、ほとんど倒れ掛かるようにして空港のベンチに座り込んだ。
どうしても明日には帰りたい。
それにもしまたサンジ君がフランスに帰ってくるなんてことになったら入れ違い第二弾勃発。もう笑い事じゃない。
「…どうしよ」
滲んできた涙を押し戻すように俯いてぐっと目を閉じたそのとき、カツンと細いヒールの音があたしの前で止まった。
「ナミさん?」
高くまとめられた水色の髪が、ふわんと目の前で揺れた。
「…ビビ…!?」
「わっ、やっぱりナミさん!すごいっ、偶然!ナミさんもパリに来てたなんて!!」
髪の色に似あった薄い色のワンピースに上着を羽織った姿のビビはあたしの手を握って、一人興奮して声を高くした。
「えっ、なにっ、なんで、ビビが」
「私はパ…父の仕事のお手伝いでこっちに来てたの。手伝いって言っても私の勉強もかねてるんだけど…
父はまだ仕事があるから、私だけ先に帰るように言われたの。ペルも一緒よ!」
ビビのお父さんは、広く貿易業を扱う会社の代表取締役…創業者直系の社長だ。
そんな社長令嬢であるビビはなんの縁あってかあたしたちと仲良くなり、その仲は切れることなくずっと続いていた。
少し離れたところでペルさんがあたしに小さく会釈した。
「ナミさんもこれから日本に帰るのよね?」
「うん…でも便が遅れてて…もしかしてビビも一緒の便?」
ビビはあたしの手を握ったまま小さく笑って首を振った。
「私はここの滑走路を借りて、うちの自家用機で帰る予定だったの。一緒に帰りましょ!」
しばらくぽかんと口を開けていたのだが、ビビの言葉の意味をやっとのことで理解したあたしが立ち上がった勢いそのままにビビに抱き着くと、慌ててペルさんが飛んできた。
*
「ほんっと、ほんっとにありがと!」
「いいのよ、サンジさんによろしくね。あとみんなにも。本当は家まで送ってあげられればいいんだけど…」
これから自身の勉強の予定が入っていて、なかなか帰ってこないお嬢様を業を煮やして待っているチャカさんがいる身分であるビビに、あたしはすぐに首を振った。
「ビビも経営学の勉強、頑張って。いつかこの借りは返すから!」
「そんなのいいわよ。それに『今日』だもの」
ビビは悪戯を仕掛けた子供のような顔で笑って見せた。
「…ありがとう」
「また一緒にご飯行きましょうね!」
大きく手を振って歩いていくその姿に、あたしも目いっぱい手を振りかえした。
「…さて、と」
ウソップに電話して今着いたと言ったら泣いて喜ばれた。ついでに少し怒られた。
理不尽だと分かりつつ謝っておいて、あたしはとりあえずちょうど来たバスに飛び乗った。
*
荷物もそのままにバラティエに行き、強面ぞろいのコックたちに迎えてもらった。
しかしそこに目的の影はなく。
「あのクソガキ、帰ってきたら荷物だけ部屋にほっぽってさっさと出てっちまった。休店日なのをいいことに昨日から帰ってきてねぇよ」
顔をしかめて話すゼフ料理長に、じゃあサンジ君はどこにいったのと聞いたのだが、
「俺はあんたんとこに行ったんだと思ってたんだから、知らん」
とばっさり切られた。
仕方なく店を出たのだが、こうまですれ違うのはもう何かの呪いか誰かの因縁かというほど禍々しいものを感じずにはいられない。
深くため息をついて、トランクの取っ手を掴みボストンバッグを肩にかけた。
「ナミさん」
火のついてない煙草をゆっくり口元から離したサンジくんは、少し目を丸めてあたしの前に立っていた。
その距離、5メートルほど。
「…や、びっくりした。ごめんナミさんフランス行ってくれてたんだって?あいつらに聞いてさ…
オレも急いであっち帰ろうとしたらまたあいつらに止められて。
あ、昨日はルフィんちで雑魚寝しちまって…さっきまでロビンちゃんの店にいて、それで」
サンジ君が言葉を切ったのは、あたしが無言で詰め寄って来たからだろう。
迫力に押されて固まったサンジ君の顔めがけて、あたしは荷のつまったボストンバッグを振り上げた。
バコッと何かがつぶれる音がしたけど、それはけしてサンジ君の顔ではなくあたしのバッグの中身だと思う。
「…あ、あいかわらず手厳しい…」
後によろめいたサンジ君は頬を押さえて苦笑したけど、あたしは笑ってなんかやらない。
バッグをボスンと下に落として、両手で彼の胸を突いた。
「…ナミさん、」
「このバカ。もっと他に言うことあるでしょうが」
俯いたまま吐き捨てるあたしの両手を、サンジ君の両手が掴んだ。
唇が、震えて仕方ない。
「…久しぶり、ナミさん」
「遅いわ。…なんで連絡くれなかったの」
「それは本当にごめん。一回でもあんたの声聞いたら、その、もうオレ駄目な気がして」
「手紙ぐらいくれてもいいじゃない」
「ナミさん忙しいと思って、返事書かなきゃって思わせるの悪いかなって」
「なんで賞のこと教えてくれなかったの」
「知ってたの?」
「ついこの間知ったわ。雑誌に写真載ってた。候補って」
「あーこっちでも…や、ていうかアレ、結局駄目だったんだ。オールブルーは取れなくって、副賞で」
「それでも知りたかった」
「…ごめんな」
サンジ君はあたしに顔を上げるよう促すように、額にキスを落とした。
「心配だった?」
その言葉にまたとてつもなくイラっとした。
ので、彼の両手を力の限り振り払い、その顔を仰ぎ見た。
「当たり前でしょこのバカ男!!
あ、あたしのこと忘れたんじゃないかとか向こうで女作ってんじゃないかとか、ルフィが教えてくれなかったらあんたが生きてるのかさえわかんなくて、あたしのほうこそ死にそうだったわよ!
何年経ったと思ってんのよ、3年よ!3年も放っといて「びっくりした」じゃないわよ!
なにが『大事なもの』よ、本当に大事だと思ってんならあたしごと掻っ攫ってでもフランス連れてきなさいよ!
そりゃあんたが頑張ってるのは知ってるけど、けど、あたしだって、そんなに強くない」
やっと上げることのできた顔と一緒に、言葉の勢いは終わりを迎えるにつれて小さく下がっていった。
あー、と不明瞭な声を発して後頭部を掻いたサンジ君は、ゆっくりとあたしの頬を包んで上を向かせた。
「ナミさんを泣かせるつもりなんてなかったんだけど、ごめん」
「…謝ってばっかなのもむかつくわ」
いつものように眉を眇める笑い方をしてから、サンジ君はゆっくりキスをした。
3年ぶりのそれは全然甘くなかったのに、唇が触れただけで心臓がぺちゃんこになりそうなほど潰れた。
「オレはあんたとどれだけ離れても、百万光年離れても、誰よりも近くにいるよ」
「…クッサ」
サンジ君は穏やかな顔でいいんですーと呟いた。
「ナミさん、誕生日おめでとう」
「…あたしもう21よ」
「本当は18も19も20の誕生日も、祝いたかったんだけど」
「…もういいわよ」
ぐずっと鼻をすすって煙草のにおいの染みついたシャツに顔をうずめようとしたその時、いかにもな咳ばらいが、しかもいくつも、重なって聞こえた。
「あー、若いのは結構。だがそういうのは往来でやるもんじゃねぇぜ」
コック服に身を包む男たちが頬を緩めて店内から顔をのぞかせる。
それからすぐに、サンジ君の怒号が往来に響いて店内の机がひっくり返った。
*
ざわめく店内は少し照明が落とされて薄暗いが、あちこちに手作り感あふれる飾りつけが施されていて思わず笑ってしまう。
ロビンの店で開かれたあたしの誕生パーティー、という名のただの集まりは上々の盛り上がりを見せていた。
あちこちに引っ張りまわされていたらしいサンジ君は、よれたシャツを整えながらぐったりした顔つきであたしの横に腰を下ろした。
そして、あたしが今の今まで忘れていたことを口にした。
「誕生日プレゼント?」
「そう、何がいい?」
あたしは自分の額をぴしゃりと叩いた。
「…あたしとしたことが、すっかり忘れてたわ。そのために帰ってきたっていうのに」
「え?そのため?え?」
「副賞の、賞金!アランが教えてくれたの!それで誕生日プレゼント買ってもらえって!」
意気込んでそういうと、サンジ君は上を仰ぐように背もたれにもたれかかり、何か呟いた。
悪態ついたように聞こえないでもない。
「…んー、まあもともとそのつもりだったけどさ…」
「ね、あたし指輪がいい」
「指輪?なんか欲しいのがあんの」
「そういうわけじゃないんだけど」
「なに、じゃあやっぱダイヤとか?」
「ううん、サファイアがいいの」
「サファイア?」
あたしはにっこり笑顔付で大きく頷いた。
今はまだ、小さな石でいい。
小さくていいから、色褪せないあの海の色を、あんたがその目に湛える青をあたしも手放さずにいたい。
身の軽い彼のことだから、いつどこで何をしているかなんてわかったもんじゃない。
だからせめてサンジ君と同じあの青で、あたしたちの莫大な距離を埋めたいと思った。
気休めでもいいのよ、
彼のいう百万光年の距離を、想いは光の速さで進んでいく。
「なあさっきからずっと言いてぇと思ってたんだが」
「なに?」
サンジ君はあたしの髪を掬うように手に取った。
一束がするりとその手から零れ落ちる。
「髪の長いナミさんも堪んねぇな」
fin
最後の夜は二人で過ごそうと、サンジ君が言った。
「せっかくだからどこかいいところに行こうよ。オレ運転してもいいし」
オレたちには場違いなんじゃと思えるほどのレストランとか、と彼は指折り数えてここやあそこやといくつものお店の名前を上げていった。
だけど私は首を振り、いつものようにいたいと言った。
サンジ君は少しの間私を見つめてから、ゆっくりと笑った。
混雑時を外したつもりでも日曜の夜のバラティエはまだまだかきいれ時で、数個のグループが入り口付近で席の空きを待っていた。
受付のボーイは私たちの姿を見ると、なめらかな動作で通してくれた。
客用フロアの一番奥、入り口からは見えない少し静かな席が私とサンジ君の席だ。
レストランの内装やその他諸々の装いを見れば、ここは『一見さんはご遠慮』のようにも見えるがそんなことはない。
あらゆる人々がただおいしいものを求めてくるだけの場所が、ここバラティエだ。
厨房に近づけばコックたちの怒号が聞こえてくる。
頭の足りない奴らが入り込めばたちまち太い腕がそれを抑え込む。
祝い事には盛大なる料理と、全力で拍手を。
彼の家は、とても素敵な場所だった。
少し豪華な夕食を、彼の仲間たちが仕上げてくれた料理をその席で終えて、私たちは帰り道を辿った。
道中、サンジくんはひとり上機嫌だった。
足取りは軽く、身振り手振りをつけてよく話しよく笑う。
夜道は暗かったけど、彼の金髪がやけに明るく見えた。
「ナミさんはあと一年、や、もう一年しか制服着ねぇんだな」
「なんで私が名残惜しそうなのよ」
私の買い物袋を肩から下げたサンジくんは私を見て笑っただけで、それからすぐにはい到着ーと足を止めた。
窓から煌々とあかりがもれている、一戸建ての前。
サンジくんは変わらぬ笑顔のまま、私に買い物袋を差しだした。
「風邪、ひかないように」
「ん」
「勉強もがんばって」
「そっちこそ」
サンジ君は困ったように笑った。
「いつになるかは、わかんねぇけど」
必ず帰ってくるよ。
サンジ君はまっすぐに私を見つめて、瞬きもせず、まるで視線全てで包み込んで忘れまいとするかのように、海をたたえた瞳に私を焼き付けた。
彼が背を向ける。
ストライドの長い足が彼を運んでいく。
上空で飛行機が近く、轟音を立てて飛んで言った。
*
「ナミー、飲み物どうする」
「オレンジティー」
「了解」
小銭を投げると、ウソップは上手にキャッチして込み合うカウンターへと歩いて行った。
大学のカフェテリアは雑然としていて、無秩序で、生暖かい人の温度であふれている。
私はやっと見つけた二人席に腰を下ろして伸びをした。
軋んだ背骨が縁起でもない音をたてた。
「お待たせ」
「ありがと」
二人分の昼食をトレーに乗せて人ごみを潜り抜けてきたウソップは、息をついて腰を下ろした。
「ゾロからメール来てた」
「ゾロ?」
「今週末こっち帰ってくっから、メシ行こうって話んなって」
「そう、久しぶりね」
「2年の夏に一回…それきりか」
「あいつも冷たいわね、全然帰って来ないんだから」
「忙しいんだろ。今週もたまたま休み出ただけだっつって」
大変ねーとランチを口に運べば、本当なーとウソップがコーラをすすった。
「そういやオレ、こないだの木曜ルフィにあったわ」
「あ、そう。何してた?」
「レストランの食品ディスプレイに張り付いてた」
「なにそれ」
その相変わらずな姿に噴き出して、変わらないわねというとウソップも呆れたように眉を下げて笑った。
「まぁあいつもそれなりに忙しくしてっし、そう会えねぇからなぁ。サンジだって、」
そこで言葉を切ったウソップは、ちらりとあたしを盗み見た。
平気な顔をして嘘ばっかりつくくせに、こういうときだけ素直で、優しい。
「…サンジも、帰ってこねぇしな」
「そうね」
「何年だっけ」
「…あたしたちが高3になる前の春…だから、3年、かな」
そうかと呟いたウソップは人であふれかえるフロア内から目を逸らすように窓の外に目をやった。
サンジ君がフランスに立って、4回目の夏が来ようとしている。
私たち3人を残して卒業したゾロは、剣道の有名な大学へと進学した。
プロのオファーが来ているとの話も聞いたけど、本人はそう乗り気じゃないんだとか。
高校の体育教員免許取得のため、勉強中らしい。
そしてゾロと同じく卒業したサンジくんは言わずもがな料理の修行のため、フランスの、ゼフ料理長の知人の元へと旅立った。
これにはサンジくんと料理長の間で何かと悶着はあったらしい。
口には出さないがきっと一生をかけて料理長に恩を返し、その彼からすべてを学ぼうとしていたサンジくんにとってその申し出は意に反するものだった。
もちろんフランス行きを進言したのはゼフ料理長その人で、よってサンジ君との対立はすさまじかったとか。
結局サンジ君が説き伏せられた結果になったのだけど、最後までサンジくんは渋っていた。
それでもやっぱり本場に行くことは彼にとって楽しみじゃないはずがなく、勇張り切って旅立って行った。
そしてその一年後、私とウソップ、そしてルフィが高校を卒業した。
ルフィはお兄さんのエースが働く会社に、まずは下働きとして就職した。
もっぱら力仕事らしく入社してしばらくは会うたびに腹が減った腹が減ったとうめいていたものだ。
だけどルフィの人懐っこさや不思議な魅力、そしてもちろんその体力も買われて今では結構重宝されているらしい。
そして私とウソップは、地元の同じ大学へと進学した。
ウソップは美術学部デザイン学科へ、あたしは理学部気象学科へ。
よって毎日顔を合わせられるのは私とウソップだけ。
ルフィやゾロとはたまに会うけど、サンジ君とは3年前のあの時以来一度も会っていない。
ついでに言えば、手紙も、電話だって一度もない。
生きてるのか死んでるのかだって……これは、知っている。
ルフィがバラティエに行った際、サンジ君がちゃんと今でもフランスのレストランで修業して働いていると料理長に聞いたと、嬉しそうに話してくれたことがある。
「おめーには連絡してると思ったけど、サンジの奴何やってんだ」
そう言ってルフィが顔をしかめた時も、私は曖昧に笑うしかなかった。
「サンジの奴、フランス語も話せたわけじゃねぇんだ、それに料理の勉強もあって忙しいんだろうよ」
ウソップはそう言って慰めてくれたけれど、忙しいんだろうと言い聞かせて過ごすのに3年の月日は長すぎた。
思えば、待っていてほしいなんて一言も言われなかったし、帰って来るとは言っていたけど私のもとにとは言わなかった。
昼休みも半ばを過ぎると人波は落ち着き、穏やかな午後の雰囲気を醸し出し始めた。
梅雨が去った後の空は目を細めねばならないほど明るく輝いて、夏のきざはしをしっかりと肌に感じさせる。
「ウソップ次は?」
「4講目。でも休講。ナミは?」
「私もこれで終わり。ね、これから買い物行くんだけど付き合ってよ」
「いいけど、なんだよ」
「スーパー。今日卵が安いの」
「…荷物持ちな」
しょうがねぇのと立ち上がったウソップの肩を感謝を込めて軽く叩く。
窓越しの景色は濡れたように光り、確実に夏は近づいていた。
*
壁面に幾重ものツタが巻き付いたアンティーク調の小さな建物。
そこの木造の扉をもたれかかるようにして押し開ければ、カランと軽くベルが鳴った。
「いらっしゃい」
「あー、涼しー」
カウンターでグラスを磨いていたロビンはその手を止めて涼しげに笑ってくれたが、だらけた私たちの姿を見て暑いわねと苦笑した。
「もうダメ…溶ける…」
「ロビン聞いてくれよ、ナミの奴オレに卵3パック牛乳2本入った買い物袋持たせてこいつんちまで運ばせんだぜ!」
「お疲れ様、今日は何にする?」
「オレンジスカッシュー」
「オレアイス」
人のいないカウンターに半ば倒れ掛かるように座り込むと、ちょっと待ってねとロビンが準備に取り掛かった。
季節が変わらない限り私たちのお気に入りもそう変わらないのに、ロビンはなぜか毎回注文を聞いてくれる。
ロビンが豆を挽き始めると室内に香ばしくツンとしたコーヒーの香りがゆったりと、音楽のように流れ出した。
ロビンが一人で切り盛りする小さなカフェは、昔から私たちのたまり場だった。
私たちの高校から少し坂を上ると道の左側に見えてくる小さな看板と、香るコーヒー、そしてロビンの穏やかな声が、いつもいつも私を癒してくれた。
3年前のあのときもずいぶんお世話になったものだ。
「ナミ、勉強は順調?」
「もっちろん。でも気象予報士試験って馬鹿みたいに高いのよねー。そうホイホイ受けらんないから、できれば来年の8月に一発で合格したいの」
「確か国家試験なのよね。ウソップも、この間雑誌で見たわ、素敵ねあのデザイン」
「だっろー!?やっとオレの実力が世に認められてきたってわけよ」
ふふんと顔を反らせるウソップの前に、そして私の前にもおまたせとそれぞれの品が置かれた。
しぼりたてのオレンジスカッシュと淹れたてのアイスコーヒーの氷がカランとなると、耳から涼しくなるようだった。
「やっぱロビンのコーヒーはうめぇなー」
「オレンジスカッシュも!まぁうちのみかんなんだから当たり前だけど!」
ロビンは私たちの好き勝手なコメントに、嬉しそうに笑みを返した。
「みかんはナミのおうちから入荷したて。コーヒーもコックさんに教えてもらった淹れ方で大繁盛よ」
大繁盛という程人の入りが激しい店ではないのだが、それでもロビンは満足そうに笑って見せた。
「あぁ、そういやサンジが教えてたな…」
「ええ。…ナミ、連絡はまだ、」
「ないわ。なーんにも」
自棄になったように肩をすくめてみせると、ロビンは静かに目を伏せた。
悲しんでくれてるようにも、呆れているようにも見えた。
「…何してんだろ、あいつ」
「…修行だろ、だから」
「3年も、彼女に一切連絡できない修行ってなんなのよ。手紙くらい書いてよこしてくれたっていいじゃない。電話だってしてこないし!なに!?あっちの切手代も電話代もそんなに高いわけ!?」
「いや金の話じゃねぇだろ」
ウソップは呆れ顔で口をはさんだが、饒舌に滑り出した言葉はするすると後を絶たない。
「じゃあなに!?私に飽きたわけ!?忘れたわけ!?フランスでブロンド美女でも捕まえたって言うの!!」
どんとカウンターに拳をぶつけると、ウソップが慌ててその手を止めにかかった。
「おま、落ち着けって」
「飽きたなんて言うならこっちから捨ててやるんだから!もう、あいつの顔も…顔も忘れそうなのに」
顔だけじゃない。
声も指の動きも仕草も視線の運び方も全部、記憶は風化した。
それなのに思いばっかり薄れることなく莫大なかさを増していって、私だけが辛いような気がして悔しくなった。
そんなはずはないこと、わかってるのに。
「ナミ、あなたから連絡したことあるの?」
ロビンが唐突に尋ねた。
勢いを失って視線を落としていた私は、その言葉にゆっくり顔を上げた。
「してない」
「ならおあいこじゃない」
「でも!あっちは海外だし遊びに行ってるわけじゃないんだから邪魔したくないし、第一こっちから連絡したんじゃ高くついて仕方ないわ!」
「海外なのはコックさんから見ても同じでしょう。それに彼もあなたが勉強してることを知ってる。お金の件は…まああなたなら仕方ないかもしれないけど」
ロビンの言葉にぐ、と喉が詰まった。
「こっちから連絡して、繋がらなくなってたら嫌じゃない」
ロビンから視線を外して、カウンターの木目を眺めながらぼそりと呟けば、つむじのあたりにロビンの溜息が降りかかるようだった。
そこで唐突にウソップが、んぉ?と奇妙な声を上げた。
「なによ」
ウソップは店の入り口に重ねられた雑誌類を引っ張ってきていたらしく、その一冊を開いていた。
私の返事には耳もかさず食い入るようにそれを見ていたかと思えば、ちょっとこれ見ろ!と私のほうに押しやった。
なに?とロビンもカウンターの内側からぐるりと回ってフロア側へとやってきた。
『21歳にして オールブルー賞候補に選出』
白のコック服に身を包み真摯な瞳で包丁を構え立つ男の横顔。
紛れもなくサンジくんだ。
「『オールブルーはあらゆる分野において最高の料理人の称号を得た者に贈られる賞である』…サンジじゃん!すげぇ!おいナミ、サンジちゃんと頑張ってんじゃねぇか!」
「うちにこんな雑誌があるなんて全然気づかなかったわ…これいつの記事かしら」
「今年の…3月に刊行されてる」
「じゃあ記事の出来事はもっと前ね。今年か…もしかすると去年のことかも」
ウソップが記事を読んでいく。
サンジくんが修行中の身であること。
彼の身の上や経歴、はたまた細かいプロフィールなんてのも。
思考が追い付かず、少し開いた唇の間から息をするのがやっとだった。
「日本ではあまり取り上げられなかったから…気づかなかったわね」
「でもこの賞受賞したら日本でも騒がれんだろ!そったらナミ、サンジも帰ってくんじゃ」
「私」
ごめん帰ると呟いて、ロビンのほうに御馳走様とグラスを押しやった。
おい、とか待てよ、とかウソップの慌てたような声とロビンの視線を背中に浴びながら、照り返しの激しいコンクリートの上へと飛び出した。
*
家に帰ってインターネットで調べればすぐに出てきた、この三年間における彼の業績。
こんなに有名になってることすら知らなかった。
ともするとファンクラブさえできていて、すうっと胸のあたりが冷えていった。
こういうことに素直にやきもちも妬けないあたしだから、彼は帰ってこないんだろうか。
3年前より少し伸びたまま整えられた髪と、形の変わった顎髭。
食材を見る目は相変わらずまっすぐで、羨ましかった。
パソコンのウィンドウ越しじゃなかったら、ぶっとばしてやるのに。
パソコンの電源を落とすと、起動音がフェードアウトしていった。
そのまま重力に任せて後ろのベッドに倒れこむ。
身体はふわんと受け止められたのに、心だけはどこまでもずぶずぶ沈んでいった。
私だけがこんなにも好きだなんて思いたくない。
そんなことしてしまえば3年前の彼の言葉全てが嘘になる。
溢れんばかりに囁かれる愛の言葉は私だけのものじゃないのね。
ベッドに放り投げてあった携帯に手を伸ばし少しいじると、私には判別のつかないアルファベットの羅列と少しの数字。
あの日、最後に別れてから来たサンジくんからの最後のメール。
『向こうで世話んなるとこの住所と店の名前。何かあったら』
「…何かって、何よ…」
一年目の夏は、サンジくんは今何やってんだろうねとウソップとルフィの3人でお昼ご飯を食べながら過ごしていた。
二年目の夏は、始まった大学生活に対する諸々の期待や不安もあって、気が紛れた。それでも忘れたことなんてなかった。
三年目の夏は、彼の安否がわからなくて腹を立てたり落ち込んだりを繰り返してみんなに心配かけた。連絡してこない理由を探し始めたのもこのころから。
そして今年は、いい加減疲れてきた。
なんで私ばっかりこんなあれこれ考えなきゃいけないのよ。
あいつが勝手に行っただけなのに、なんで私が心配しなきゃいけないの。
なんでサンジくんは私のことが気にかからないの。
「…行ってやろうかな」
突然現れて、はあいこんにちは。あらその子可愛いわね、よかったね綺麗なフランス人の彼女ができて…
「笑えないわよ!!」
ひとり叫んでクッションを部屋の扉に投げつけると、階下から『ナミ暴れてんじゃないよ!』とベルメールさんの尖った声が飛んできた。
*
次の日大学でウソップに会ったときウソップは気まずそうに笑ったので、ああ昨日は悪いことしたなと反省した。
昨日は無神経なこと言ってごめんなんてあいつから謝ってくるんだから、お人好しもここまで来ると病気だ。
「私フランス行ってやろうと思って」
「ああフランスなあ…ってはあ、おま、何突然」
「サンジくんのところ行って、ちゃんとけじめ着けてくんのよ。向こうで私のことなんか忘れて幸せにしてたらもうそれでよし。多少のことは言わせてもらうつもりだけど」
「行くっつったってお前場所わかってんの」
「住んでるところは聞いてあんのよね。店の名前も。もし変わってたとしても人に聞けばなんとかなるでしょ」
「聞けばって、お前フランス語なんて話せんのかよ」
「一応第二外国語はフランス語やってたけど、まあ本場じゃ通じないでしょうね。大丈夫、ノリよ!」
ウソップはしばらくぽかんと丸くなった目であたしを見つめていたが、私が本気であることを理解したのか溜息をついて頭をかいた。
「…いつ行くんだよ」
「今日の16時発」
「今日!?」
もうだめだオレお前がわかんねぇ、と今度こそウソップは頭を抱えた。
「…ウソップ」
やるだけやってみるのよと静かに言えば、顔を上げたウソップはなぜか少し泣きそうな顔で、そうかと笑ってくれた。
「14時には空港にいるつもりだから、次の授業受けたら行くわ」
「…せっかく明日の土曜、ゾロ帰ってくんのにな」
「謝っといて」
それじゃと手を振るとウソップも相変わらず心配げな視線はそのままで手を振り返した。
ふらりと一つの影がスタジオに現れると、ざわりと空気が揺れたのがアンにもわかった。
振り返ったそこには、先ほどまで後ろに流されていた髪を一つにくくりまとめた姿でアンに片手を上げるイゾウがいた。
「こりゃあ玄人たちも顔負けの別嬪になったな」
「イゾッ、あた、あたし変くない?こんなかっこ、落ち着かなくって」
「いんや、似合ってんよ」
ワンピースの裾をきゅうと握りしめるアンの手をやさしく包んで、その手をほどいてやる。
服が皺んなっちまうぜと言えば、慌てて手のひらで伸ばし始めた。
アンが着せられたクリーム色のワンピースは膝あたりまでの長さで、すっと細い足が伸びているあたりがアンの細さを物語っていて女の子らしさを強調している。
スカートの裾あたりは細やかな花柄で彩られていて、上品だが華やかな作りになっている。
襟ぐりはそこそこ開いているのだが、下品なほどではなく、丁寧にレースで縁取られていた。
ふんわり膨らんだ半袖から細い腕がしなやかに動くたびにどことなく甘い香りがする。
それはおそらく整えられたアンの髪から香る整髪剤の香りだろう。
アンもそういった自分の様子に違和感があるようで、さっきからもぞもぞと尻が落ち着かないのだ。
「あ、あたし、その、ポーズ?とかわかんないんだけど」
「あぁ、お前さんはなんも考えなくていい。そこの部屋っぽい一角があるだろ?そこで好きに動いてくれりゃぁいいだけさ」
「すきに?」
大きく頷いてやると、アンはほうっと息をついて顔を綻ばせた。
「よし、んじゃちょいとみて来い」
ポンと肩を叩かれて、アンはおずおずと立ち上がった。
*
頭上にたくさんのライトがぶら下がるそこは白く照らされて、自分の肌の色まですうっと明るくなる。
6畳ほどの空間に作られたその一角をくるりと見渡してから、アンは窓際(のように作られたところ)のウッドデッキに置かれた小さな置物を手に取った。
木で造られたカモ。
そしてその後ろには、小ガモが三匹。
(へへっ、かわいい)
カモの置物をもとの場所に戻して、その隣にちょこんと佇んでいた観葉植物に目を止めたアンは、思わず噴き出した。
(なにこれなにこれ)
くくっと笑いをかみ殺して植物の小鉢を両手で包むように持ち上げると、アンは嬉々としてイゾウを振り返った。
「イゾウ見てこれ!マルコ!マルコに激似!!」
手にした小鉢を突き出すように掲げれば、三脚に乗ったカメラを覗き込んでいたイゾウはそこから顔を上げた。
「イゾウもう撮ってんの?」
「アン、そりゃあソテツってんだ」
アイツの髪型にしちゃあ細過ぎるだろうよと笑ってやると、アンも確かにと笑い返した。
「うちにもこれ欲しー」
「マルコにねだってみろよ」
「ダメ、これ今度見たら笑っちゃうから、絶対考えてることばれると思う」
だから買ってもらえなさそう、としょんぼり、しかしどこか楽しそうにアンは手の中の小鉢をもとのデッキに戻した。
アンが今いる一角を囲んでいる白い板は、この『部屋』の壁を模しているのだろう。
四角い木の枠が二つ、壁にくっついている。
そしてその木枠の内側には、アンティーク色の強い小さな少女の人形が腰かけていた。
まるでその木枠がフォトフレームで、女の子が写真から飛び出して足をぶらぶらさせているかのようで、そのかわいらしさにアンは口の形をほおと伸ばした。
(なんかこの部屋、なんていうか、すごく、お洒落だ)
言ってしまえば生活感はまるでないが、絵になる部屋だと思った。
(雑誌に乗せる写真にすんだから、当たり前か)
ふいに一歩足を後ろに引いた際、とんとふくらはぎの裏あたりに何かが当たる。
振り返れば、茶色のローテーブルと、その向こう側に茶色いソファ。
ソファの上には白と茶色のクッションが一つずつ。
なんとも肌触りの良さそうなそれに目を奪われたアンは、すすすとそちらに近づいた。
触れてみたクッションは、さらりとアンの指先を受け入れて、やんわりと跳ね返す。
期待を込めた瞳でイゾウを振り向けば先と同じ姿勢のイゾウがにこりと頷いたので、アンはえいとソファに腰を下ろした。
(やばい!ふかふか!)
うちのせんべい布団を積み重ねたってこうはならない、とアンは存分にその柔らかさを満喫し、ぎゅううと腕の中のクッションを抱きしめた。
*
そんな風に室内を存分に楽しんだアンは、ちらりとイゾウを盗み見た。
(撮影、まだかな)
さっきからイゾウはカメラをいじったり周りのスタッフと話したり、一向にアンに呼びかける気配がない。
そしてアンはふと唐突に、マルコを思い出した。
メール返すの忘れてた、ちゃんとお昼食べたかな、たぶん食べてないだろうなあとパソコンに噛り付いていた背中を思い浮かべる。
今あたしがこんなことしてるなんて微塵も思ってないんだろうなと考えると悪戯をしているような気分になって、ふふっと笑った。
「アン」
声の先を振り返れば、カメラの三脚を畳むイゾウが片手でアンを手招いていた。
「お疲れさん、もういいぜ」
「? 写真は?」
「おかげでいいのが撮れたぜ」
にいと笑ってカメラを顔の高さまで掲げるイゾウにアンが首を傾げれば、ああやっぱ気づいてなかったかとイゾウは苦笑を見せた。
「お前さんが部屋ん中見て回ってる時にもう撮ってたんだぜ。
フラッシュたいてバシャバシャやってたんだが、えらく見入ってたからこりゃ気づいてねぇかもなぁって思ってたけど」
きょとんと目を点にしたアンの頭を、イゾウは両手で挟むように包む。
そのままわしゃわしゃと髪を撫でると、アンはほわっと素っ頓狂な声を上げた。
「やっぱお前さんは最高の被写体だな、こりゃ高くつくぜ。オレァあいつにぼったくられても文句ぁ言えねぇな」
「イゾッ、イゾウ!」
犬を撫でるようにアンの髪をかき混ぜる大きな手を掴んで制止の声を上げれば、ははっと笑ってイゾウはその手を止めた。
「アン、土産の菓子まで奮発すっから、もう一度撮られてくれやしないか」
今度はアレ着けて、とイゾウの親指が指し示す方向を確認したアンは、いいっと大きく顔をしかめたのだった。
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麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。
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足りん
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