OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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おい、と後ろから呼ばれて振り返る。仰ぎ見たその顔で、呼ばれたのが一度ではなかったことに気付いた。
そっと微笑みを乗せて、「どうかした?」と尋ねた。
「電話、鳴ってる」
「あぁ」
差し出されたそれを受け取るとき、肩の骨が軽い音を立てた。そこに手をあてて、電話に答える。私の授業をサポートしてもらっている学生の一人から、来週の授業についての確認の電話だった。
そう、そのとおりでいいわ、えぇ、任せるわ、となおざりな返事をして電話を切る。
「ありがとうゾロ。全然気が付かなかった」
「二時間も同じ場所に座りっぱなしで、よくそう文字ばっかり見てられるな」
「もうそんなに?」
机の上の小さな置時計で時間を確かめると、いつの間にか午後三時を回っている。感覚では、さっきお昼を食べたばかりなのに。
「ごめんなさい。退屈したでしょう」
「べつに」
そっけなくそう言って、ゾロは深いベージュのソファにごろんと横になった。
私が仕事をする間、ゾロは静かな動物のように、最近よくこうしてここで眠ったり雑誌を眺めたりしている。けして私の邪魔をすることはなく、かといって気を遣っている様子もなく彼は自分が話したいときに口を開き帰りたいときに「帰る」と言って本当に帰ってしまうのだった。
今また横になったゾロの姿を見て、まだ帰らないでいてくれるのだとホッとする。
少し休憩しましょうか、と言って腰を上げると今度は膝がきゅっと軋んだ。
「コーヒーでいい? そう、この前生徒さんからいただいたお菓子があったはず」
「最近多いな」
「なに?」
「仕事。朝から晩まで電話やらメールやら」
そうねぇ、と曖昧な返事をしてケトルに水を入れる。キッチンカウンターには、まだ封の開いていないプラスチックケースに入った上品なアーモンドクッキーがある。
それを手に取って、ゾロに「開けて」と手渡した。
「帰った方がいいか」
「え?」
「邪魔なら帰るぞ」
えぇ? と私にしては大き目な声で振り返った。ソファから身体を起こしたゾロは、大きな手でクッキーの箱を囲うように持ってじっとこちらを見ている。
「どうしたの。邪魔なわけないじゃない、むしろ退屈させてしまって、せっかく来てくれてるのに」
「おれがいると、なんだかんだ気を回すだろテメェは」
「したいからするのよ」
おかしな人、と笑いながらドリップパックの袋を引き裂く。真空状態から空気に触れたコーヒーの香りが、ふわっと華やかにひろがった。
「あなたがいると捗るの。放っておいてしまって申し訳ないけど。電話が鳴ったら持ってきてくれるし」
いつだったか、私の電話が鳴るのを嫌って携帯を壊そうとした彼を思い出す。当時のゾロも懐かしくて愛しいけれど、今の彼の方がもっと好きだ。
私のことをよく知ったゾロを、私もまた果て無く知りたいと思う。
「無理すんなよ」
ゾロは封を開けたクッキーのパッケージを机の上に放り出し、またソファに横になってしまった。
カップにふたつ淹れたコーヒーをその机に運び、珍しい言葉に私はしばしば目を丸くした。
「優しいのね」
けっ、とでも言うべき顔をして、ゾロは答えなかった。
私は熱いコーヒーに口をつけ、彼が開けたクッキーに手を伸ばす。甘ったるい砂糖とアーモンドの香りを、濃くて黒いコーヒーで飲み下した。
*
大学の研究室をそろそろ片付けないといけないと思うのだけど、毎日の授業に研究に、出張の準備に講演の手伝いにと何かとやることが多くてなかなか手が付けられないまま部屋は荒れに荒れていた。
こんなところで日中過ごしていることを、ゾロは知らないのだと思うとすこし可笑しな気分になる。
私の自宅に初めて上がったとき、ゾロは「ずいぶん小ざっぱりとした部屋だな」と物珍しそうに呟いた。
それは、仕事道具や本はこの研究室にすべて詰め込んでいるからで、自宅に家具をほとんどおかないからだ。かわりにこちらがひどい有様なのを私は黙っている。綺麗好きだと思われたかったのかもしれない。
午前中にひとつ授業に出て、昼過ぎまで研究室で学生のレポートを読んだ。夕方までにひとつ仕上げたい論文があったのだけど、一五時に学生が数人、研究の相談にやってくることになっている。
結局自分の研究に手を付けるのは夜になるだろうと思い、諦めて研究室に学生のためのスペースをあけた。
足元に転がった地図を端に寄せ、積み上がった本を逆の端に寄せ、本棚の一番上の段から学生たちが研究している分野の本を取り出しておく。
控えめに扉がノックされ、「どうぞ」と言ったらまだ子供のような学部生の顔が二つ覗いた。「いらっしゃい」と微笑むと、彼らはおずおずと部屋に入ってくる。
学生たちが帰るころには十六時を過ぎていた。彼らに出したコーヒーのカップを洗っていたら、スカートのポケットに入れた薄い携帯がふるえた。
ゾロかしらと思って取り出すが、画面を見て「なんだ」と思う。
「はい」
「もしもし、私。今大丈夫?」
「えぇ」
「電話が私で、なーんだナミか、って思ったでしょ」
「どうしてわかるの?」
ナミはからから笑って、「そうだったとしても普通『どうしてわかるの?』なんて言わないもんよ」と気にしたふうもなく言った。
「今夜ひま? 急だけど」
「今夜……ごめんなさい、まだ帰れそうにないわ」
「そ。まぁ突然だし無理よね。カヤさんがほら、あっちに行っちゃうからその前に集まれたらと思ったんだけど」
研修医のカヤは、医者として本職に就く前にかねてからの念願だったらしい海外留学に行くことが決まっていた。
私以外の三人の都合がついたので、急遽今夜と言う呼び出しだったのだ。
「遅くなってもいいから、来れそうなら連絡して? カヤさんもあんたに会いたそうだったし」
「えぇ」
じゃあね、とあっけなく電話は切れた。
電話を机に置いて、淡いグレーのコートを羽織る。朝から何も食べていないことに気付いたのだ。コーヒーばかり飲んでいるから、口の中が渋くまずい。
財布を手に研修室を出たところで、廊下が随分と冷えていることに気付く。鍵を閉める自分の手がやけに冷たい。
少し疲れていた。
忙しいと言って時間に追われる仕事ではないし、なにより仕事の量は自分で決めることができる。私は張り切っているのだ。カヤが海外留学に行き、ビビが自分より上の大人たちをひきつれて家業を回し、ナミが完璧な自分を維持したうえで昼夜を問わない仕事の呼び出しに応じる姿を目の当たりにして、羨ましくなってしまった。
私にも燃やせるエネルギーがあることを、確かめてみたいのだ。
研究室は六階で、エレベーターが下から登ってくるのをじっと待つ。2,3,4、と増える数字を眺めていた私は、少しずつ視界が狭くなっていくのに気が付いていなかった。
初めは、ヒールがぽきんと折れてしまったのかと思った。足元からすこんと力を抜かれるみたいに、私は立っていられずその場にくずれていた。
おい、と遠くで慌てた声が聞こえる。
低くて響かないその声は誰か知っているものだったけれど、霞がかった思考の中それがゾロではないことに私はがっかりして、返事をする気も失ってそのまま目を閉じた。
薄い薬品のにおいと真っ白な光に気付いて目を開けた。作られた清潔さがやけに目立つ白い天井から壁に目を転じ、自分が同じくらい白いベッドに横たわっていることに気付いた。ゆっくり身体を起こすが、頭の中身がそれと一緒にごとんと動いたように感じて倒れた時と同じように視界が狭くなる。
大学の看護室だった。いつのまにかそこに寝かされていた私が起き上がると、常駐する看護師が慌てて飛んできた。
「先生。いま、救急車を呼ぼうかと」
「いえ、必要ないわ。ごめんなさい」
言われなくても倒れた原因なんてわかっている。寝不足と過労だ。自分でもわかるような理由で病院に運ばれたらたまらないと思い、私はベッドから足を下ろした。
「誰が私をここまで?」
「ええと」
まだ学生のような看護師は、「背が高くて、黒いコートで、ここに傷があって」と身振り手振りでその人を表して見せた。
「あぁ、サーね。よかった。お礼を言っておかなくちゃ」
あなたもありがとう、と告げて立ち上がる。ヒールは折れてなどいなかった。
「もう少し休んで行かれた方が」
「大丈夫。今日はもう帰るわ」
荷物だけ取りに行かなくちゃ、と一人ごちて看護室を出た。
外はすっかり暗くなり、腕時計で時間が一八時を回っているのを確かめる。研究室に戻り机に置きっぱなしの携帯をカバンに落とし込んで、すぐに部屋を出た。
エレベーターがやってくるのを、また数字が2,3,4と上がるのを見つめながらじっと待つ。既視感を覚えてまた倒れてしまいそうだと考えていたところで、隣に人が立つ気配がした。
「随分治りが早ェな」
「サー……運んでくれたんですってね、ありがとう」
男は全館禁煙の注意書きには目もくれず、太い葉巻からたっぷり煙を吹かせて私の礼には答えず言った。
「目の前で倒れられて跨ぎ越して行くほど悪人じゃねェんだおれは」
「迷惑をかけたわ」
「まったくだ」
折よくやってきたエレベーターに乗り込み、四人で一杯になってしまうほど小さな箱の中はすぐに葉巻の匂いで一杯になる。
「やわになっちまったみてぇだな」
「何?」
「この程度の忙しさで倒れるような女じゃなかったろうが」
「もう若くないもの」
サーはふっと鼻を鳴らして、珍しく笑った。研究棟を出て、大学の門に向かって私と同じ方向に歩く彼も今日は帰るらしい。
来週の講演会は、サーも出席するはずだ。同じ学科で研究室も隣の彼とは何度かタッグを組んだことがあった。彼も私のことをよく知っている。必要以上に。
広い学園内の並木道は夜の風でざわざわと音を立てていた。人気はないのに、置きっぱなしの自転車や図書館の窓から洩れる灯りなんかで未だ学生たちの気配がたっぷり残っている。
私がその空気を深く吸い込んだ時、ふと思いついたみたいにサーが言った。
「送ってやろうか」
「え? いえ結構よ。電車に乗ってしまえばすぐだもの」
大学の門の手前に差し掛かっていた。サーは左に折れて駐車場へ向かうはずで、私は右に折れて駅へ向かうつもりだった。
しかしサーは口に挟んだ葉巻をつまんで煙を吐き出すと、脚を止めてじっと私を見下ろした。
「送ってやろうか」
「……サー」
そういう目で見るのはやめて、と喉元まで出かかった。でも言ってしまったら何か彼の思うとおりのことを認めてしまう気がして、言わなかった。
何でもかんでも思うとおりになると思わないで、とこの男にはいつも言ってやりたくなるのだが、まだ言えたためしがない。
「今日は帰るわ。明日も、明後日も私はまっすぐ帰る」
サーはばかにするみたいに、口の端を上げて少し笑った。私から視線を外し、どこかを見ながらまた深く煙を吐いた。
「おつかれさま」
「あぁ」
くるりと背を向けて、大男はコートの裾を揺らしながらゆっくりと歩いて行った。
一仕事終えたような気分で私も踵を返す。門の石柱を通り過ぎようとしたところで、その影に寄りかかるように立つ人の気配に気付いて驚いた。
私が気付くより一瞬早く、名前を呼ばれる。
「ロビン」
「まあ」
ゾロは眠たげな目で私を見て、「おう」と短く言った。
「驚いた。迎えに来てくれたの」
「電話、出なかったぞ。壊れてんのか」
「え、あぁそういえば。ごめんなさい、しばらく確認してなかったの」
鞄から携帯を取り出すと、ゾロからの着信と「いまどこにいる」「むかえにいく」という短いメールが入っていた。ごめんなさい、ともう一度謝る。
「いつから待ってたの? 中に入ってこればよかったのに」
「今着いたところだ。お前が歩いてくんのが見えたから、待ってた」
そう、と答える。ゾロは何か言いたげに私を見て、言葉を探している。私はじんわりと足が痛んでくるのを感じながら、それを待った。
やがてゾロは、「あいつ」と私の背後に視線を移した。「えぇ」と答えて続きを待つ。しかしゾロは「あいつ」と言ったきり、そのあと押し黙ってしまった。
「……ゾロ。帰りましょう」
ゾロは子どものようにむすりと口を引き結んでいる。かわいいと思ったが、やっぱり私は少し疲れていた。サーとのやり取りのこともあり、早く家に帰ってゾロの胸を枕に眠りたかった。
ゾロが歩き出す。私が横に並んでも、ゾロは何も言わなかった。いつものことなのに、やれやれと思ってしまう。
駅に入る直前で、ゾロが脚を止めた。
「ゾロ?」
「今日は、おれァ帰るわ」
え? と聞き返しながら、私は登りかけた低い階段を一段降りた。ゾロは階段に足もかけず、じっと私を見上げてから目を逸らした。
ゾロの家は大学からほど近い。彼はいつも歩きか自転車で大学まで通っていたのだ。こういう関係になってから、彼が私を大学まで迎えに来てくれることは幾度もあったが、そのときはいつも電車に乗って私の家まで帰るのが、二人にとっての帰宅だった。
「どうして? 何か用事があったの」
「いや、お前ェ疲れてるみてぇだし」
「そんなこと」
そうだ、私は疲れている。疲れているからこそ、あなたと一緒に帰りたいのに。
どうしてわからないの、という思いが一瞬溢れて、口からこぼれるより先に見えない質量を伴って私の肩を重くした。
「いいわ、わかった。迎えに来てくれてありがとうね」
おやすみなさいと言うと、いつもの仏頂面でゾロは「あぁ」と言った。
私は踵を返し、階段を上って駅の改札口へ向かう。改札を通る寸前、振り返ったが、もう彼の姿はどこにもなかった。
*
どこか遠くで電話が鳴っている。柔らかい毛足の毛布に顔を埋めてその音を他人事のように聞いている。
ゾロ、電話を取って。口の中で呟くも、彼がそこに居ないのなんてわかっている。
身体が重い。肘が痛い。頭が熱い。鼻がつまって、息を吸うとつんと痛んだ。
コール音はなかなか切れなかった。今日は日曜で、授業もないし研究棟も閉じている。家に持ち帰った仕事を少し片付けるだけのつもりだったのに、いったいだれがどういうわけでこんなにもけたたましく電話をかけてくると言うのだ。
腹立たしい気持ちで起き上がり、殺風景な自室の隅で鳴り続ける携帯電話を取りに立ち上がった。
床がひどく遠い。裸足の足で触れたそこが冷たくて気持ちいい。
「ロビンさん? あの、こんにちは。私、カヤです」
「あら、ごめんなさい出るのが遅くて」
電話口で、彼女が小さく息を呑む音が聞こえた。
「ロビンさん……体調がよろしくないの? ひどい声」
「そう? 平気よ。何だったかしら」
「あの、この前会えなかったから。でも、それより休んで。今日お仕事は?」
「今日はお休みだわ」
「よかった。あの、ごはんは? 食べられるの?」
「えぇ」
するりと嘘を吐いた。食事なんて、あの日研究室で倒れた朝からろくに食べていなかった。相変わらずコーヒーばかり飲んでいたが、不思議と空腹を感じなかった。
カヤはしばらく考えるように黙ったが、「ゆっくりして。また連絡します」と言って電話を切った。
長いコールは彼女らしい生真面目さゆえだったのかと思いながら、携帯を机に置いた。その割には要件も言わなかったけどいいのだろうか。
顔を洗おうと洗面所に行って鏡を見ると、唇は乾燥で皮がめくれて、目元は落ちくぼんだように黒く影が乗り、それなのに頬は妙に赤く色づいていた。
ひどい顔、と自分に悪態づいて冷たい水で顔を洗った。
何か口にした方がいいのはわかっているのだけど、用意をするのも口に運ぶのも億劫で仕舞いには考えるのもやめてしまった。
部屋に戻って着替え、携帯の着信を確かめる。
ゾロに会ったのは、一昨日、駅前で別れたあのときが最後だ。
昨日は彼が仕事で連絡はなかった。今日ももう昼に差し掛かろうとしているが、未だ連絡がない。
サーとの一連のやり取りを聞いていたのだろう。そして何かを想像し、考えたのだろう。相変わらず不埒な私はそれを嬉しく思ってしまうが、ゾロを傷つけてまでそんな思いをしたいわけではなかった。
はあ、と熱い息を吐いて、私は不肖な子どものようにまたもぞもぞとベッドに潜り込んだ。
もしかして、私とサーの何かをゾロが想像したのだとしても、彼はちっとも傷ついたりしないのかもしれない。むしろ呆れ返って、こんな女の家にはもう来ないのかもしれない。
もう来ないのかしら。
ゾロ。
するすると私をなめらかに通り過ぎていくたくさんの人たちの中で、初めてゾロが脚を止めて私の手を掴み、引っ張って一緒に歩こうとしてくれたのに。何かの拍子で手が離れたとき、私は自分からそれを掴み直すことができない。
臆病すぎて嫌になる。
熱のせいだと分かりながら、そんなことを鬱々と考えてまた眠った。
家のチャイムが鳴ったとき、浅く眠っていただけの私はすぐに目を覚ました。インターホンの方に顔を向けると、画面がぼやっと荒い映像を映している。
誰か来た、と思ったが遠目には誰だかわからない。何か複数の影が動いているように見えた。
横になったままその映像をぼうっと見ていたら、携帯の着信が甲高い音で鳴り始めてびくっとした。
仕方なく身体を起こし、着信の名前を確かめて電話に出た。
私がはい、と言うより早く声が聞こえる。
「もしもーし。開けてー。大丈夫? 生きてる?」
「ナミ」
「あっよかった生きてる。ね、とりあえず開けてよここ」
もう一度インターホンの方に顔を向けた。青っぽい画面に頭が三つ。見知った可愛い顔たちだった。
ふっと思わず吹き出してしまう。
「ダメよ、私今ひどい顔してるの」
「だから来たんじゃないの。どうせろくなもん食べてないんでしょ、いろいろ買ってきたから」
オートロックの施錠ボタンをおしてあげると、電話口から「あっ開いた」とまた別の声が聞こえて、「んじゃあとで」と言って電話が切れた。
ドアを開けた途端ナミは「わっ、ほんとにひどい顔」と言って呆れたように目を丸め、ビビは心配そうに「病院に行かなくていいかしら」と言い、その後ろでカヤが申し訳なさそうに上目づかいの小さな声で「ごめんなさい」と何かに謝っていた。
どやどやと入ってきた彼女たちは、私を押しやるようにベッドに寝かせてふわりと布団をかけ、またどこかから引っ張り出してきた薄い毛布をさらにその上に掛け、中身のつまったビニール袋を二つほど机の上にどさりと置いた。
ナミの冷たい手がぺたりと私の額に触れる。
「そんなに高くないみたいだけど、あんた平熱低いんでしょ。けっこうきついんじゃないの」
「さあ……」
「だめね、とりあえず何か食べないと」
勝手に台所使うわね、と言ってナミとビビがキッチンの方へ向かい、ふたりで少しひそめた声で話しながら何か用意を始めた。
なんだかすごいことになってきた、と思いながらその様子を眺めていたら、いつの間にかベッドのわきにカヤがひざをついていた。
「ごめんなさいロビンさん、やっぱりどうしても心配で」
「えぇ、ありがとう。よっぽどひどい声してたのね私」
カヤはそれには答えず、ほんのりと笑って「少し触ってもいい?」と言った。薄い水色のセーターを、彼女には珍しく肘のところまで腕まくりしている。頷くと、まず私の額に触れ、首を角度を変えて何度も触った。
「少し捲るわね」
私が頷くのも確認せず、布団と毛布をめくり上げると私の腕を取り、脈に指をあて、それから脇の間にさっと手をあてて胸の辺りを少し押すように触った。
そして布団を元通りに戻すと、困ったように笑って「やっぱりごはん、食べてなかった」と言った。私は口元だけ笑ってごまかす。
「ナミさんたちが食べやすいものを用意してくれるから、少し食べて。私たち、すぐに帰るから」
「えぇ。ありがとう」
「お仕事忙しかったのね。休んで栄養を摂ればよくなるわ」
カヤはにこりと笑うと、すっと立ち上がってナミたちのいるキッチンの方へ向かった。
以前駅で倒れた彼女をゾロが拾ってきて、ここのベッドで寝かしたことがあった。今はすっかり立場が逆転してしまっている。年下の彼女たちに寝かしつけられて世話を焼かれていることを気恥ずかしく思いながら、遠くの方で聞こえる物音や可愛らしい声に耳を澄ますのは心地よく、いつのまにかまた眠ってしまっていた。
ほんの少しの時間うとうとしただけだと思っていた。だから目を開けて、妙に部屋が小ざっぱりと片付き、ほんのり温かいような人の気配が残っているのにしんと静かで誰もいないのを確かめて、さっきまでの光景は夢だったのかと思った。
ガタッと椅子が床を叩くような物音がして、そちらに頭を持ち上げた。
ゾロがダイニングテーブルから腰を上げ、こちらに歩いてくる。
「目ェ覚めたか」
しばらく、呆然と彼を見上げた。ゾロは私の様子を確かめるみたいに覗き込み、「おい」と眉をすがめる。
「ゾロ?」
「んだ、おれのこともわかんなくなっちまったのか」
ゾロはからかうみたいにそう言って、私の額に分厚い手をあてた。何を確かめたのか、首を傾げ、「まだつらいか」と言った。
「どうしてここにいるの」
「あん? 今日はお前ェ仕事休みだろ」
「そうじゃなくて」
不意にゾロがぺチンと私の額を叩くので、あっと声をあげてしまった。
「要らねェこと考えてねぇで、たまには何も考えず寝とけ」
そうは言って、ゾロはどすんと私のベッドに腰を下ろすので私はもぞりと身体を起こし、ぼんやり彼を見た。起き上がった私を見る彼の目がいつも通りで、仏頂面の三白眼のくせにどことなく優しいその目に見つめられて、だるい身体がほろっとくずおれるように感じた。
そのまま体を傾けて、彼の肩に額をつけた。
「ゾロ、もう来てくれないのかと思った」
「なんでだよ」
「わからないけど」
手のひらで顔の片側を隠すように覆い、ぎゅっと目を閉じた。ゾロの肩は硬くて、私が頭を押し付けてもびくともしない。
不意にゾロの逆の手が、私の首筋に張り付いた髪を後ろに払いのけた。指先が肌に触れたけど、それだけで彼の手は戻っていってしまう。
「ゾロ」
「めし、食うか。なんか鍋に入ってっぞ。冷蔵庫にも」
あとこれ、と言って紙切れを一枚手渡される。肩から顔を上げそれを確かめると、小さなメモ帳に細い筆先の綺麗な文字で「お大事に」と一言、そして鍋に入っている雑炊と冷蔵庫に詰めた食材のことが書いてあった。
「あの子たちに会った?」
「いや。そこのテーブルに置いてあった。あとウソップから連絡が来た」
「あぁ、カヤね」
ゾロがカヤを拾ってきた一件以来、彼女を迎えにきたウソップとゾロで交流が生まれたらしく、幾度か会っているらしい。ウソップから教えられてきてくれたのかと思うと、嬉しい半面何故だか少しがっかりした。
「ちょうどお前ェんちに行こうとしてたときだったから、ちょうどよかった」
「そうなの?」
ゾロは頷き、「なに食う」と立ち上がった。
「じゃあ、せっかくだし作ってもらったものと……なにか冷たいもの」
「冷たいのっつって、いろいろあるぞ。ちょっと待てよ」
ゾロはどすどすと冷蔵庫まで歩いていくとその中を覗き込み、「リンゴ、ミカン、イチゴ、プリン、ゼリー、ヨーグルト」とあるものを片っ端から読み上げ始めた。
「あなたが食べたいものでいいわ」
「阿呆、お前が食うんだろうが」
そう言いながら、適当なのか本当にゾロが食べたかったのか、プリンを掴んでこちらによこしてきた。鍋に火をかけて温め直してもらう間、そのプリンを小さくすするように食べる。
甘くて濃くて、じんわりと喉の奥が溶けるみたいにやわらかくなっておいしかった。
ダイニングに腰かけたゾロはペットボトルの水を飲んで、「いつから具合悪かったんだ」と言った。
「さぁ……金曜日、学校でも少しおかしな感じだったから、多分そのときかしら」
「おれが迎えに行った日じゃねェか。なんでそのとき言わねんだよ」
「あなたが来てくれたから言わなかったのよ。具合が悪いなんて言ったら、帰ってしまうでしょう」
言わなくても結局帰ってしまったけど、と恨みがましく言ってみる。
ゾロは痛いように顔をしかめてしばらく押し黙ったのち、「すまん」と短く言った。
「どうして謝るの」
「帰ってほしくなかったんだろ」
頷くと、「そうならそうと言え」とゾロは不機嫌そうに呟いた。
「おれぁあんとき、お前があいつとどこか行く予定だったのかと思って」
「あいつ?」
「あのでけー奴」
「あぁ、サーね。彼と別れてからあなたと会ったんじゃない」
「行きたかったけど断ったのかもしれねーだろ」
私は目を丸めて、彼を見つめた。
「ゾロ、あなたそんなことも考えるのね」
「ばかにしてんのか」
違うわ、と思わず笑ってしまった。ゾロは不愉快そうに目を細くして私を見た。
来て、と私は彼を手招く。ゾロは迷いなく立ち上がり、また私のベッドに腰かけた。その身体に寄りかかり、太い首筋に猫のように頬をつけた。
「あなた以外と行きたいところなんてないもの。どこにも」
ゾロがこの部屋に来てくれるのなら、もうどこにも行く必要はない。ずっとここにいて、永遠にこうしていたい。
ゾロは一度だけ私の後頭部を撫で、ぎゅっと自分に押さえつける。布団越しに私の膝をくるりと撫でて、立ち上がった。
ぐつぐつと煮えた鍋の火を止めてダイニングの鍋敷きの上にどんと置く。
「来れるか」と彼が言うので私はベッドから起きだし、器やスプーンを用意して彼と向かい合って座った。
あの子たちが作ってくれた雑炊を、彼が私よりたくさん食べるのをとてもうれしい気持ちで、ずっと眺めていた。
fin.
そっと微笑みを乗せて、「どうかした?」と尋ねた。
「電話、鳴ってる」
「あぁ」
差し出されたそれを受け取るとき、肩の骨が軽い音を立てた。そこに手をあてて、電話に答える。私の授業をサポートしてもらっている学生の一人から、来週の授業についての確認の電話だった。
そう、そのとおりでいいわ、えぇ、任せるわ、となおざりな返事をして電話を切る。
「ありがとうゾロ。全然気が付かなかった」
「二時間も同じ場所に座りっぱなしで、よくそう文字ばっかり見てられるな」
「もうそんなに?」
机の上の小さな置時計で時間を確かめると、いつの間にか午後三時を回っている。感覚では、さっきお昼を食べたばかりなのに。
「ごめんなさい。退屈したでしょう」
「べつに」
そっけなくそう言って、ゾロは深いベージュのソファにごろんと横になった。
私が仕事をする間、ゾロは静かな動物のように、最近よくこうしてここで眠ったり雑誌を眺めたりしている。けして私の邪魔をすることはなく、かといって気を遣っている様子もなく彼は自分が話したいときに口を開き帰りたいときに「帰る」と言って本当に帰ってしまうのだった。
今また横になったゾロの姿を見て、まだ帰らないでいてくれるのだとホッとする。
少し休憩しましょうか、と言って腰を上げると今度は膝がきゅっと軋んだ。
「コーヒーでいい? そう、この前生徒さんからいただいたお菓子があったはず」
「最近多いな」
「なに?」
「仕事。朝から晩まで電話やらメールやら」
そうねぇ、と曖昧な返事をしてケトルに水を入れる。キッチンカウンターには、まだ封の開いていないプラスチックケースに入った上品なアーモンドクッキーがある。
それを手に取って、ゾロに「開けて」と手渡した。
「帰った方がいいか」
「え?」
「邪魔なら帰るぞ」
えぇ? と私にしては大き目な声で振り返った。ソファから身体を起こしたゾロは、大きな手でクッキーの箱を囲うように持ってじっとこちらを見ている。
「どうしたの。邪魔なわけないじゃない、むしろ退屈させてしまって、せっかく来てくれてるのに」
「おれがいると、なんだかんだ気を回すだろテメェは」
「したいからするのよ」
おかしな人、と笑いながらドリップパックの袋を引き裂く。真空状態から空気に触れたコーヒーの香りが、ふわっと華やかにひろがった。
「あなたがいると捗るの。放っておいてしまって申し訳ないけど。電話が鳴ったら持ってきてくれるし」
いつだったか、私の電話が鳴るのを嫌って携帯を壊そうとした彼を思い出す。当時のゾロも懐かしくて愛しいけれど、今の彼の方がもっと好きだ。
私のことをよく知ったゾロを、私もまた果て無く知りたいと思う。
「無理すんなよ」
ゾロは封を開けたクッキーのパッケージを机の上に放り出し、またソファに横になってしまった。
カップにふたつ淹れたコーヒーをその机に運び、珍しい言葉に私はしばしば目を丸くした。
「優しいのね」
けっ、とでも言うべき顔をして、ゾロは答えなかった。
私は熱いコーヒーに口をつけ、彼が開けたクッキーに手を伸ばす。甘ったるい砂糖とアーモンドの香りを、濃くて黒いコーヒーで飲み下した。
*
大学の研究室をそろそろ片付けないといけないと思うのだけど、毎日の授業に研究に、出張の準備に講演の手伝いにと何かとやることが多くてなかなか手が付けられないまま部屋は荒れに荒れていた。
こんなところで日中過ごしていることを、ゾロは知らないのだと思うとすこし可笑しな気分になる。
私の自宅に初めて上がったとき、ゾロは「ずいぶん小ざっぱりとした部屋だな」と物珍しそうに呟いた。
それは、仕事道具や本はこの研究室にすべて詰め込んでいるからで、自宅に家具をほとんどおかないからだ。かわりにこちらがひどい有様なのを私は黙っている。綺麗好きだと思われたかったのかもしれない。
午前中にひとつ授業に出て、昼過ぎまで研究室で学生のレポートを読んだ。夕方までにひとつ仕上げたい論文があったのだけど、一五時に学生が数人、研究の相談にやってくることになっている。
結局自分の研究に手を付けるのは夜になるだろうと思い、諦めて研究室に学生のためのスペースをあけた。
足元に転がった地図を端に寄せ、積み上がった本を逆の端に寄せ、本棚の一番上の段から学生たちが研究している分野の本を取り出しておく。
控えめに扉がノックされ、「どうぞ」と言ったらまだ子供のような学部生の顔が二つ覗いた。「いらっしゃい」と微笑むと、彼らはおずおずと部屋に入ってくる。
学生たちが帰るころには十六時を過ぎていた。彼らに出したコーヒーのカップを洗っていたら、スカートのポケットに入れた薄い携帯がふるえた。
ゾロかしらと思って取り出すが、画面を見て「なんだ」と思う。
「はい」
「もしもし、私。今大丈夫?」
「えぇ」
「電話が私で、なーんだナミか、って思ったでしょ」
「どうしてわかるの?」
ナミはからから笑って、「そうだったとしても普通『どうしてわかるの?』なんて言わないもんよ」と気にしたふうもなく言った。
「今夜ひま? 急だけど」
「今夜……ごめんなさい、まだ帰れそうにないわ」
「そ。まぁ突然だし無理よね。カヤさんがほら、あっちに行っちゃうからその前に集まれたらと思ったんだけど」
研修医のカヤは、医者として本職に就く前にかねてからの念願だったらしい海外留学に行くことが決まっていた。
私以外の三人の都合がついたので、急遽今夜と言う呼び出しだったのだ。
「遅くなってもいいから、来れそうなら連絡して? カヤさんもあんたに会いたそうだったし」
「えぇ」
じゃあね、とあっけなく電話は切れた。
電話を机に置いて、淡いグレーのコートを羽織る。朝から何も食べていないことに気付いたのだ。コーヒーばかり飲んでいるから、口の中が渋くまずい。
財布を手に研修室を出たところで、廊下が随分と冷えていることに気付く。鍵を閉める自分の手がやけに冷たい。
少し疲れていた。
忙しいと言って時間に追われる仕事ではないし、なにより仕事の量は自分で決めることができる。私は張り切っているのだ。カヤが海外留学に行き、ビビが自分より上の大人たちをひきつれて家業を回し、ナミが完璧な自分を維持したうえで昼夜を問わない仕事の呼び出しに応じる姿を目の当たりにして、羨ましくなってしまった。
私にも燃やせるエネルギーがあることを、確かめてみたいのだ。
研究室は六階で、エレベーターが下から登ってくるのをじっと待つ。2,3,4、と増える数字を眺めていた私は、少しずつ視界が狭くなっていくのに気が付いていなかった。
初めは、ヒールがぽきんと折れてしまったのかと思った。足元からすこんと力を抜かれるみたいに、私は立っていられずその場にくずれていた。
おい、と遠くで慌てた声が聞こえる。
低くて響かないその声は誰か知っているものだったけれど、霞がかった思考の中それがゾロではないことに私はがっかりして、返事をする気も失ってそのまま目を閉じた。
薄い薬品のにおいと真っ白な光に気付いて目を開けた。作られた清潔さがやけに目立つ白い天井から壁に目を転じ、自分が同じくらい白いベッドに横たわっていることに気付いた。ゆっくり身体を起こすが、頭の中身がそれと一緒にごとんと動いたように感じて倒れた時と同じように視界が狭くなる。
大学の看護室だった。いつのまにかそこに寝かされていた私が起き上がると、常駐する看護師が慌てて飛んできた。
「先生。いま、救急車を呼ぼうかと」
「いえ、必要ないわ。ごめんなさい」
言われなくても倒れた原因なんてわかっている。寝不足と過労だ。自分でもわかるような理由で病院に運ばれたらたまらないと思い、私はベッドから足を下ろした。
「誰が私をここまで?」
「ええと」
まだ学生のような看護師は、「背が高くて、黒いコートで、ここに傷があって」と身振り手振りでその人を表して見せた。
「あぁ、サーね。よかった。お礼を言っておかなくちゃ」
あなたもありがとう、と告げて立ち上がる。ヒールは折れてなどいなかった。
「もう少し休んで行かれた方が」
「大丈夫。今日はもう帰るわ」
荷物だけ取りに行かなくちゃ、と一人ごちて看護室を出た。
外はすっかり暗くなり、腕時計で時間が一八時を回っているのを確かめる。研究室に戻り机に置きっぱなしの携帯をカバンに落とし込んで、すぐに部屋を出た。
エレベーターがやってくるのを、また数字が2,3,4と上がるのを見つめながらじっと待つ。既視感を覚えてまた倒れてしまいそうだと考えていたところで、隣に人が立つ気配がした。
「随分治りが早ェな」
「サー……運んでくれたんですってね、ありがとう」
男は全館禁煙の注意書きには目もくれず、太い葉巻からたっぷり煙を吹かせて私の礼には答えず言った。
「目の前で倒れられて跨ぎ越して行くほど悪人じゃねェんだおれは」
「迷惑をかけたわ」
「まったくだ」
折よくやってきたエレベーターに乗り込み、四人で一杯になってしまうほど小さな箱の中はすぐに葉巻の匂いで一杯になる。
「やわになっちまったみてぇだな」
「何?」
「この程度の忙しさで倒れるような女じゃなかったろうが」
「もう若くないもの」
サーはふっと鼻を鳴らして、珍しく笑った。研究棟を出て、大学の門に向かって私と同じ方向に歩く彼も今日は帰るらしい。
来週の講演会は、サーも出席するはずだ。同じ学科で研究室も隣の彼とは何度かタッグを組んだことがあった。彼も私のことをよく知っている。必要以上に。
広い学園内の並木道は夜の風でざわざわと音を立てていた。人気はないのに、置きっぱなしの自転車や図書館の窓から洩れる灯りなんかで未だ学生たちの気配がたっぷり残っている。
私がその空気を深く吸い込んだ時、ふと思いついたみたいにサーが言った。
「送ってやろうか」
「え? いえ結構よ。電車に乗ってしまえばすぐだもの」
大学の門の手前に差し掛かっていた。サーは左に折れて駐車場へ向かうはずで、私は右に折れて駅へ向かうつもりだった。
しかしサーは口に挟んだ葉巻をつまんで煙を吐き出すと、脚を止めてじっと私を見下ろした。
「送ってやろうか」
「……サー」
そういう目で見るのはやめて、と喉元まで出かかった。でも言ってしまったら何か彼の思うとおりのことを認めてしまう気がして、言わなかった。
何でもかんでも思うとおりになると思わないで、とこの男にはいつも言ってやりたくなるのだが、まだ言えたためしがない。
「今日は帰るわ。明日も、明後日も私はまっすぐ帰る」
サーはばかにするみたいに、口の端を上げて少し笑った。私から視線を外し、どこかを見ながらまた深く煙を吐いた。
「おつかれさま」
「あぁ」
くるりと背を向けて、大男はコートの裾を揺らしながらゆっくりと歩いて行った。
一仕事終えたような気分で私も踵を返す。門の石柱を通り過ぎようとしたところで、その影に寄りかかるように立つ人の気配に気付いて驚いた。
私が気付くより一瞬早く、名前を呼ばれる。
「ロビン」
「まあ」
ゾロは眠たげな目で私を見て、「おう」と短く言った。
「驚いた。迎えに来てくれたの」
「電話、出なかったぞ。壊れてんのか」
「え、あぁそういえば。ごめんなさい、しばらく確認してなかったの」
鞄から携帯を取り出すと、ゾロからの着信と「いまどこにいる」「むかえにいく」という短いメールが入っていた。ごめんなさい、ともう一度謝る。
「いつから待ってたの? 中に入ってこればよかったのに」
「今着いたところだ。お前が歩いてくんのが見えたから、待ってた」
そう、と答える。ゾロは何か言いたげに私を見て、言葉を探している。私はじんわりと足が痛んでくるのを感じながら、それを待った。
やがてゾロは、「あいつ」と私の背後に視線を移した。「えぇ」と答えて続きを待つ。しかしゾロは「あいつ」と言ったきり、そのあと押し黙ってしまった。
「……ゾロ。帰りましょう」
ゾロは子どものようにむすりと口を引き結んでいる。かわいいと思ったが、やっぱり私は少し疲れていた。サーとのやり取りのこともあり、早く家に帰ってゾロの胸を枕に眠りたかった。
ゾロが歩き出す。私が横に並んでも、ゾロは何も言わなかった。いつものことなのに、やれやれと思ってしまう。
駅に入る直前で、ゾロが脚を止めた。
「ゾロ?」
「今日は、おれァ帰るわ」
え? と聞き返しながら、私は登りかけた低い階段を一段降りた。ゾロは階段に足もかけず、じっと私を見上げてから目を逸らした。
ゾロの家は大学からほど近い。彼はいつも歩きか自転車で大学まで通っていたのだ。こういう関係になってから、彼が私を大学まで迎えに来てくれることは幾度もあったが、そのときはいつも電車に乗って私の家まで帰るのが、二人にとっての帰宅だった。
「どうして? 何か用事があったの」
「いや、お前ェ疲れてるみてぇだし」
「そんなこと」
そうだ、私は疲れている。疲れているからこそ、あなたと一緒に帰りたいのに。
どうしてわからないの、という思いが一瞬溢れて、口からこぼれるより先に見えない質量を伴って私の肩を重くした。
「いいわ、わかった。迎えに来てくれてありがとうね」
おやすみなさいと言うと、いつもの仏頂面でゾロは「あぁ」と言った。
私は踵を返し、階段を上って駅の改札口へ向かう。改札を通る寸前、振り返ったが、もう彼の姿はどこにもなかった。
*
どこか遠くで電話が鳴っている。柔らかい毛足の毛布に顔を埋めてその音を他人事のように聞いている。
ゾロ、電話を取って。口の中で呟くも、彼がそこに居ないのなんてわかっている。
身体が重い。肘が痛い。頭が熱い。鼻がつまって、息を吸うとつんと痛んだ。
コール音はなかなか切れなかった。今日は日曜で、授業もないし研究棟も閉じている。家に持ち帰った仕事を少し片付けるだけのつもりだったのに、いったいだれがどういうわけでこんなにもけたたましく電話をかけてくると言うのだ。
腹立たしい気持ちで起き上がり、殺風景な自室の隅で鳴り続ける携帯電話を取りに立ち上がった。
床がひどく遠い。裸足の足で触れたそこが冷たくて気持ちいい。
「ロビンさん? あの、こんにちは。私、カヤです」
「あら、ごめんなさい出るのが遅くて」
電話口で、彼女が小さく息を呑む音が聞こえた。
「ロビンさん……体調がよろしくないの? ひどい声」
「そう? 平気よ。何だったかしら」
「あの、この前会えなかったから。でも、それより休んで。今日お仕事は?」
「今日はお休みだわ」
「よかった。あの、ごはんは? 食べられるの?」
「えぇ」
するりと嘘を吐いた。食事なんて、あの日研究室で倒れた朝からろくに食べていなかった。相変わらずコーヒーばかり飲んでいたが、不思議と空腹を感じなかった。
カヤはしばらく考えるように黙ったが、「ゆっくりして。また連絡します」と言って電話を切った。
長いコールは彼女らしい生真面目さゆえだったのかと思いながら、携帯を机に置いた。その割には要件も言わなかったけどいいのだろうか。
顔を洗おうと洗面所に行って鏡を見ると、唇は乾燥で皮がめくれて、目元は落ちくぼんだように黒く影が乗り、それなのに頬は妙に赤く色づいていた。
ひどい顔、と自分に悪態づいて冷たい水で顔を洗った。
何か口にした方がいいのはわかっているのだけど、用意をするのも口に運ぶのも億劫で仕舞いには考えるのもやめてしまった。
部屋に戻って着替え、携帯の着信を確かめる。
ゾロに会ったのは、一昨日、駅前で別れたあのときが最後だ。
昨日は彼が仕事で連絡はなかった。今日ももう昼に差し掛かろうとしているが、未だ連絡がない。
サーとの一連のやり取りを聞いていたのだろう。そして何かを想像し、考えたのだろう。相変わらず不埒な私はそれを嬉しく思ってしまうが、ゾロを傷つけてまでそんな思いをしたいわけではなかった。
はあ、と熱い息を吐いて、私は不肖な子どものようにまたもぞもぞとベッドに潜り込んだ。
もしかして、私とサーの何かをゾロが想像したのだとしても、彼はちっとも傷ついたりしないのかもしれない。むしろ呆れ返って、こんな女の家にはもう来ないのかもしれない。
もう来ないのかしら。
ゾロ。
するすると私をなめらかに通り過ぎていくたくさんの人たちの中で、初めてゾロが脚を止めて私の手を掴み、引っ張って一緒に歩こうとしてくれたのに。何かの拍子で手が離れたとき、私は自分からそれを掴み直すことができない。
臆病すぎて嫌になる。
熱のせいだと分かりながら、そんなことを鬱々と考えてまた眠った。
家のチャイムが鳴ったとき、浅く眠っていただけの私はすぐに目を覚ました。インターホンの方に顔を向けると、画面がぼやっと荒い映像を映している。
誰か来た、と思ったが遠目には誰だかわからない。何か複数の影が動いているように見えた。
横になったままその映像をぼうっと見ていたら、携帯の着信が甲高い音で鳴り始めてびくっとした。
仕方なく身体を起こし、着信の名前を確かめて電話に出た。
私がはい、と言うより早く声が聞こえる。
「もしもーし。開けてー。大丈夫? 生きてる?」
「ナミ」
「あっよかった生きてる。ね、とりあえず開けてよここ」
もう一度インターホンの方に顔を向けた。青っぽい画面に頭が三つ。見知った可愛い顔たちだった。
ふっと思わず吹き出してしまう。
「ダメよ、私今ひどい顔してるの」
「だから来たんじゃないの。どうせろくなもん食べてないんでしょ、いろいろ買ってきたから」
オートロックの施錠ボタンをおしてあげると、電話口から「あっ開いた」とまた別の声が聞こえて、「んじゃあとで」と言って電話が切れた。
ドアを開けた途端ナミは「わっ、ほんとにひどい顔」と言って呆れたように目を丸め、ビビは心配そうに「病院に行かなくていいかしら」と言い、その後ろでカヤが申し訳なさそうに上目づかいの小さな声で「ごめんなさい」と何かに謝っていた。
どやどやと入ってきた彼女たちは、私を押しやるようにベッドに寝かせてふわりと布団をかけ、またどこかから引っ張り出してきた薄い毛布をさらにその上に掛け、中身のつまったビニール袋を二つほど机の上にどさりと置いた。
ナミの冷たい手がぺたりと私の額に触れる。
「そんなに高くないみたいだけど、あんた平熱低いんでしょ。けっこうきついんじゃないの」
「さあ……」
「だめね、とりあえず何か食べないと」
勝手に台所使うわね、と言ってナミとビビがキッチンの方へ向かい、ふたりで少しひそめた声で話しながら何か用意を始めた。
なんだかすごいことになってきた、と思いながらその様子を眺めていたら、いつの間にかベッドのわきにカヤがひざをついていた。
「ごめんなさいロビンさん、やっぱりどうしても心配で」
「えぇ、ありがとう。よっぽどひどい声してたのね私」
カヤはそれには答えず、ほんのりと笑って「少し触ってもいい?」と言った。薄い水色のセーターを、彼女には珍しく肘のところまで腕まくりしている。頷くと、まず私の額に触れ、首を角度を変えて何度も触った。
「少し捲るわね」
私が頷くのも確認せず、布団と毛布をめくり上げると私の腕を取り、脈に指をあて、それから脇の間にさっと手をあてて胸の辺りを少し押すように触った。
そして布団を元通りに戻すと、困ったように笑って「やっぱりごはん、食べてなかった」と言った。私は口元だけ笑ってごまかす。
「ナミさんたちが食べやすいものを用意してくれるから、少し食べて。私たち、すぐに帰るから」
「えぇ。ありがとう」
「お仕事忙しかったのね。休んで栄養を摂ればよくなるわ」
カヤはにこりと笑うと、すっと立ち上がってナミたちのいるキッチンの方へ向かった。
以前駅で倒れた彼女をゾロが拾ってきて、ここのベッドで寝かしたことがあった。今はすっかり立場が逆転してしまっている。年下の彼女たちに寝かしつけられて世話を焼かれていることを気恥ずかしく思いながら、遠くの方で聞こえる物音や可愛らしい声に耳を澄ますのは心地よく、いつのまにかまた眠ってしまっていた。
ほんの少しの時間うとうとしただけだと思っていた。だから目を開けて、妙に部屋が小ざっぱりと片付き、ほんのり温かいような人の気配が残っているのにしんと静かで誰もいないのを確かめて、さっきまでの光景は夢だったのかと思った。
ガタッと椅子が床を叩くような物音がして、そちらに頭を持ち上げた。
ゾロがダイニングテーブルから腰を上げ、こちらに歩いてくる。
「目ェ覚めたか」
しばらく、呆然と彼を見上げた。ゾロは私の様子を確かめるみたいに覗き込み、「おい」と眉をすがめる。
「ゾロ?」
「んだ、おれのこともわかんなくなっちまったのか」
ゾロはからかうみたいにそう言って、私の額に分厚い手をあてた。何を確かめたのか、首を傾げ、「まだつらいか」と言った。
「どうしてここにいるの」
「あん? 今日はお前ェ仕事休みだろ」
「そうじゃなくて」
不意にゾロがぺチンと私の額を叩くので、あっと声をあげてしまった。
「要らねェこと考えてねぇで、たまには何も考えず寝とけ」
そうは言って、ゾロはどすんと私のベッドに腰を下ろすので私はもぞりと身体を起こし、ぼんやり彼を見た。起き上がった私を見る彼の目がいつも通りで、仏頂面の三白眼のくせにどことなく優しいその目に見つめられて、だるい身体がほろっとくずおれるように感じた。
そのまま体を傾けて、彼の肩に額をつけた。
「ゾロ、もう来てくれないのかと思った」
「なんでだよ」
「わからないけど」
手のひらで顔の片側を隠すように覆い、ぎゅっと目を閉じた。ゾロの肩は硬くて、私が頭を押し付けてもびくともしない。
不意にゾロの逆の手が、私の首筋に張り付いた髪を後ろに払いのけた。指先が肌に触れたけど、それだけで彼の手は戻っていってしまう。
「ゾロ」
「めし、食うか。なんか鍋に入ってっぞ。冷蔵庫にも」
あとこれ、と言って紙切れを一枚手渡される。肩から顔を上げそれを確かめると、小さなメモ帳に細い筆先の綺麗な文字で「お大事に」と一言、そして鍋に入っている雑炊と冷蔵庫に詰めた食材のことが書いてあった。
「あの子たちに会った?」
「いや。そこのテーブルに置いてあった。あとウソップから連絡が来た」
「あぁ、カヤね」
ゾロがカヤを拾ってきた一件以来、彼女を迎えにきたウソップとゾロで交流が生まれたらしく、幾度か会っているらしい。ウソップから教えられてきてくれたのかと思うと、嬉しい半面何故だか少しがっかりした。
「ちょうどお前ェんちに行こうとしてたときだったから、ちょうどよかった」
「そうなの?」
ゾロは頷き、「なに食う」と立ち上がった。
「じゃあ、せっかくだし作ってもらったものと……なにか冷たいもの」
「冷たいのっつって、いろいろあるぞ。ちょっと待てよ」
ゾロはどすどすと冷蔵庫まで歩いていくとその中を覗き込み、「リンゴ、ミカン、イチゴ、プリン、ゼリー、ヨーグルト」とあるものを片っ端から読み上げ始めた。
「あなたが食べたいものでいいわ」
「阿呆、お前が食うんだろうが」
そう言いながら、適当なのか本当にゾロが食べたかったのか、プリンを掴んでこちらによこしてきた。鍋に火をかけて温め直してもらう間、そのプリンを小さくすするように食べる。
甘くて濃くて、じんわりと喉の奥が溶けるみたいにやわらかくなっておいしかった。
ダイニングに腰かけたゾロはペットボトルの水を飲んで、「いつから具合悪かったんだ」と言った。
「さぁ……金曜日、学校でも少しおかしな感じだったから、多分そのときかしら」
「おれが迎えに行った日じゃねェか。なんでそのとき言わねんだよ」
「あなたが来てくれたから言わなかったのよ。具合が悪いなんて言ったら、帰ってしまうでしょう」
言わなくても結局帰ってしまったけど、と恨みがましく言ってみる。
ゾロは痛いように顔をしかめてしばらく押し黙ったのち、「すまん」と短く言った。
「どうして謝るの」
「帰ってほしくなかったんだろ」
頷くと、「そうならそうと言え」とゾロは不機嫌そうに呟いた。
「おれぁあんとき、お前があいつとどこか行く予定だったのかと思って」
「あいつ?」
「あのでけー奴」
「あぁ、サーね。彼と別れてからあなたと会ったんじゃない」
「行きたかったけど断ったのかもしれねーだろ」
私は目を丸めて、彼を見つめた。
「ゾロ、あなたそんなことも考えるのね」
「ばかにしてんのか」
違うわ、と思わず笑ってしまった。ゾロは不愉快そうに目を細くして私を見た。
来て、と私は彼を手招く。ゾロは迷いなく立ち上がり、また私のベッドに腰かけた。その身体に寄りかかり、太い首筋に猫のように頬をつけた。
「あなた以外と行きたいところなんてないもの。どこにも」
ゾロがこの部屋に来てくれるのなら、もうどこにも行く必要はない。ずっとここにいて、永遠にこうしていたい。
ゾロは一度だけ私の後頭部を撫で、ぎゅっと自分に押さえつける。布団越しに私の膝をくるりと撫でて、立ち上がった。
ぐつぐつと煮えた鍋の火を止めてダイニングの鍋敷きの上にどんと置く。
「来れるか」と彼が言うので私はベッドから起きだし、器やスプーンを用意して彼と向かい合って座った。
あの子たちが作ってくれた雑炊を、彼が私よりたくさん食べるのをとてもうれしい気持ちで、ずっと眺めていた。
fin.
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