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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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ガラガラと、耳をつんざく激しい音がわっと広がった。
粉塵が舞う。
あらゆる種類の楽器を一斉に奏でたような、無秩序で騒々しい爆音とともに、目の前に高くそびえていた建物は下から崩れた。
その音が止むと、あたりは呆気にとられた人が息を呑むあまり、静寂に包まれる。
オレもその一部だった。
 
やがて、崩れたがれきの頂点の一枚岩がガランと持ち上がって、転がり落ちた。
その頂点で立ち上がったのは、一人の男だ。
いや、少年と言った方がしっくりくるような、まだ幼い面影の。
少年は眩しい光の球を背に、ある少女の名前を呼んだ。
 
『お前はおれの仲間だ』
 
彼女は不器用に笑いながら、大粒の涙をこぼして『うん』と言った。
その横顔を遠目に見て、純粋な勝利に喜ぶオレの後ろで、もう一人のオレが静かに納得していた。
これは無理だ、と思っていた。
 
この男と、彼女の間に入ることのできるものは誰もいない。
 

 
 
青のバラード

 
 
ゆるい風がかさかさと青い葉の間を通り過ぎる。
瑞々しく茂った葉はお互いを弾きあって、さわやかな音を立てた。
オレはみっともなくしゃがみこんで背中を丸め、軍手をはめた手で雑草を抜く。
ついでにいらない枝も慎重に剪定していく。
以前この木のご主人にやり方を教わって、今ではすっかりオレの仕事になっている。
細くて丈夫な枝は、時折いたずらに手の甲を引っ掻いたりするので、彼女の陶器のようなそれに傷がついては大変とオレが申し出た。
 
つんとすっぱいにおいと、繁る葉の青臭いにおいに顔をうずめていると気分が良かった。
その香りは、その香りの雰囲気は、彼女に似ている。
爽やかで、明るくてはっきりした柑橘の香り。
日の光を存分に受けてどこまでも甘くなる果実だ。
 
本当のことを言うと、みかんの樹なんかじゃなく本物の彼女の胸に顔をうずめたいところだが、そんなことできるはずもなく。
だからこうして甲斐甲斐しく彼女の代わりに木々を世話していると思うと、我ながら情けないような、自分でもばかだなーというような気分になる。
 
 
ぷちんとしおれた枝の先を切り取ったところで、ふと木々の根元でさっとうごく影が目についた。
みかんの樹は平然と風に揺れ、つねにかさかさと音を立てているので物音はまぎれてわからない。
剪定をちょうど終えて、軍手を脱いで鋏を置き、影の走った方へそっとにじりよった。
音もなく足をあげ、そして思い切りかかとを落とす。
 
 
「イッテェェ!!」
「くぉらクソゴム。テメェまたナミさんのみかん盗み食いしようとしやがって」
 
 
ばさっと落ちた麦わら帽子が、ころころと風の力で数メートル転がった。
ルフィはくそぉ痛ェと涙目で頭を撫でさする。
 
 
「いいじゃねぇか! こんなにいっぱいある!」
「だまれ、ナミさんのみかんにゃこのオレが指一本触れさせん!」
「くそっ、ナミのヤロー、けちけちしやがって!」
「テメ、ナミさんのこと悪く言うんじゃねェよ」
 
 
ぐいとよく伸びる頬を片側に思い切り引っ張ってやる。
ルフィは「いひゃいいひゃいごめんなひゃい」と黒い目をぱちぱちしばたかせた。
ふん、と息を吐きながらオレは手を離した。
ゴムの弾力はすぐさま元の形状に戻る。
ルフィは「おーいてぇ」と赤くなった頬を擦っていた。
 
ルフィに打撃は効かない。
斬撃やよほど鋭い突きでない限り、この男の身体に物理的な力はどれほど強力であろうと無力だ。
それでも、いつだったか聞いたことがある。
 
『なんでか、ナミに殴られっとスゲェ痛ェんだ』
 
そのときは嘘をつけ、と鼻で笑ったものだった。
なにしろルフィは、鉄の金棒で頭を殴られようと、何十メートルの上空から堅いコンクリートに叩きつけられようと無傷なのだ。
その男が、細腕の彼女に一発ゴツンとやられただけで痛いと叫ぶなど、ありえない。
そう思っていた。
 
しかし事実一緒に生活をしていると、ルフィがナミさんによる制裁を食らうのは日常茶飯事で、ルフィはそのたびに涙目で許しを請う。
「この船で一番強いのはナミだ」とまで豪語する。
言葉の裏や表も考えないあいつのことだ、嘘はない。
事実、彼女の拳骨はルフィに効いていた。
 
かたや、彼女以外のクルーの制裁はどうかというと、それも効いた。
盗み食い、おやつの取り合い、常軌を逸したわがままをルフィが発揮させれば、構わず誰かの拳が飛ぶ。
ルフィは痛ェと叫ぶ。
つまるところ、仲間の拳はルフィに効いた。
どういう原理だろうと深く考えようとしたことはある。
すぐにやめたので、答えはわからない。
もとより悪魔の実などという平気で人を馬鹿にするような実が存在している時点で、その細かい原理を考える程の徒労もない。
 
 
ルフィはちぇーと舌を鳴らしながら、転がった麦わら帽子を追いかけた。
 
 
「ルフィ、ナミさんは。なにしてる」
「さぁ、知らね。見てねェけど」
 
 
お前の方がよく知ってんじゃねェのかと言い残して、ルフィはさっさとみかん畑を降りていった。
そのセリフに少し気をよくした自分が、これまた少し情けない。
 
黄色い麦わら帽子が太陽にきらりと反射して、魚のうろこのように光って消える。
植木の縁に腰を下ろして、ぼんやりとその光に目を細めていた。
 
 
そう、あれはいつだったろう。
なんでもない午後、なんでもない敵襲があった。
 
まだ名もないオレたちを襲う船は多い。
こちとら小さな帆船に五人の乗組員。
身なりはボロく、船長と名乗るはまだ年端もいかぬ少年だ。
船影を認めるが早いか、すぐさま大砲を打ち鳴らされることもあれば、夜襲を仕掛けられることもあった。
どちらにせよ、今もこうしてオレたちが航海を続けているということはそういうことで、つまるところ負けたことはない。
沈むのはいつだって相手様だった。
 
ただ、たった一度肝を冷やした戦いがある。
それがこれだ。
なんでもない午後の、なんでもない敵襲。
 
優雅なおやつの時間をナミさんに届けるべく準備にいそしんでいたオレの足元が、急に大きく縦揺れした。
カップを温めていた湯が跳ねて外に零れる。
同時に大きな砲弾の音が、船室を震わせた。
小さく舌を打って火を止めた。
カップが割れないよう棚に戻し、外に出る。
甲板にはすでに、赤いボロのシャツと、襟の伸びた白シャツに緑の腹巻姿が二人そろって海の向こうを見据えていた。
階段の手すりには、情けなく震える長っ鼻と麗しきナミさんが掴まっている。
オレは手すりを飛び越え一気に甲板へと降りた。
 
三隻か、とゾロが呟いた。
なるほど目の前、水平線の上に乗っかるように、三つの船影が見える。
船の大きさからして軍艦ではないので、おそらく同業者だろう。
船はどんどん近づいてくる。
次第にむさくるしい雄叫びもわあわあと耳に届いた。
波がメリーの腹にぶつかり、どどーんと鬨の声を上げたように聞こえる。
しかし敵船の雄叫びより、メリーが上げた鬨の声より、俺には興奮で今にも飛び出そうとうずうずするルフィの鼻息の音が、何よりも大きく聞こえていた。
 
敵は二隻がメリーを挟むように回り込み、正面の一隻がやたらと大砲を打ち込んでくる。
 
 
「クソ、遠戦ならまけねぇぞ」
 
 
背後でウソップが呟き、だかだかと地下へもぐりこんだ。
こちらも大砲で迎撃するつもりのようだ。
 
やがて回り込んできた二隻が接近し、肉弾戦となった。
正面の一隻は、早々とウソップが狙撃し沈めている。
すぐ後ろで、金属がぶつかりはじけ飛ぶ甲高い音がする。
後ろ首をかすめる風は、斬撃が作り出す旋風だろう。
 
オレの視界には常にナミさんがいた。
そうあるよう意識し続けていた。
彼女はキャアキャアと可愛らしく叫びながら、自身の三段棒で容赦なく敵をなぎ倒していた。
そんじょそこらのか弱いだけのレディとは違う。
そういう意味で頼もしくもあり、また心配でもあった。
彼女はオレがこんなにも心砕いているなどつゆ知らず、無茶をするからだ。
 
数人の男を束にして蹴り飛ばした時、目の端に映る彼女の背後から忍び寄る男の影を見た。
ハッとして振り返ったとき、サーベルを手にしたその男は横っ面に鉛玉を撃ち込まれ、ぎゃあと声を上げて倒れた。
床下の扉を開け閉めしながら、モグラのように顔を出したり引っ込めたりして敵を狙うウソップが、ナミさんの背後にいた男を狙撃したのだ。
ハッとして振り返ったナミさんは、ウソップを目に留めてニッと笑う。
ウソップは偉そうに顎を逸らせて、ぐっと親指を立てた。
しかし別の男がウソップの頭上に刀を振りかざすと、長鼻は青い顔ですぐさま床下へと引っ込んだ。
オレはすかさずその男の頭にかかとをめり込ませ、潰す。
 
おおかた片付いてきたと見え、船へと引き返す姿が目立ち始めた。
 
 
「逃がさないで! あっちのお宝や食料、いただいちゃうわ!」
 
 
ナミさんが叫ぶ。
ゾロの放った斬撃が風を巻き起こし、何人もの敵を海へ落とした。
こうなるともはや自ら進んで海に飛び込み、何とかして逃げようとする者もいる。
敵は半壊した正面の一隻を目指して泳ぎ、二隻は諦めたようだ。
 
 
「ま、二隻あれば上出来でしょう」
 
 
まだ残る敵もいるのに、ナミさんはあっけらかんとそう言う。
しかしかく言うオレも、他の奴らも、もう闘いは終わったものだと思っていた。
残る敵と言っても、ほとんどが倒れ伏しているかほうぼうと逃げ出すところだったからだ。
 
 
「酒蔵があるかもな」
 
 
ゾロは見てもいない敵船の中を想像したのか、ニヤついている。
オレも、今夜はきっと宴だろうなと腕の鳴る思いで、靴をとんとんと床にぶつけて汚れを払った。
 
それはもう、完璧な終焉だった。
息を吐き、戦いの余韻を楽しみ、その後の収穫に思いを馳せても十分なほどには。
 
それでも銃声は鳴った。
 
オレは海へと落ちる寸前の男の手から、銃が煙を吹くその瞬間を目の端でとらえていた。
その弾道はあやまたず男の向かい、残された二隻に目を向けるナミさんへと向かっていた。
オレは銃声よりも早く男が握る銃に気付いていたが、足を踏み出し彼女を守るには遅すぎた。
頭の中でこれほど大音量に警鐘が鳴ったことはない。
銃声が響いた瞬間、オレは届かない彼女に手を伸ばすように宙を掻いていた。
 
 
ドン、と重い音の後、ひゅんと鋭く風が鳴る。
跳ねかえった銃弾は、なにもない空中に放たれ、やがて失速して海に落ちた。
 
ナミさんは咄嗟に自身を抱きしめていた。
彼女の前には、ルフィが足を踏みしめて立っている。
フン、と鼻を鳴らしてルフィは言う。
 
 
「あー、びびった!」
 
 
一瞬張りつめた空気がルフィの声ですぐさまほどけ、誰もが一様にほっと息を吐いた。
 
 
「ったく、焦ったぜ!」
「往生際が悪ィな」
 
 
ウソップは額の汗をぬぐう仕草をし、ゾロは男が落ちた海を見下ろし吐き捨てる。
オレも伸ばした手を引っ込めて、大きく息を吐いた。
吐き出しそうなほどせりあがった心臓が、ゆっくりと元の位置に戻っていく。
それと一緒に、苦いものもせりあがってきた。
ルフィよりも早く動かなかったこの脚が、自分が憎い。
 
ナミさんはゆっくりと身体を抱きしめる腕をほどいて、固くなっていた肩を落とした。
 
 
「ありがとルフィ」
「おう」
 
 
ルフィはシャツの穴の開いた胸の部分に指を突っ込んでいる。
彼女を守った傷跡だ。
ナミさんは三段棒を折りたたみながら、死ぬかと思ったわと呟いた。
 
ルフィは開いた穴の焦げ跡をなぞるように指を動かしながら、まるで「はらへった」と言うのと同じように、口を開いた。
 
 
「オレがお前を死なせるわけねェだろ」
 
 
ウソップとゾロは聞き流した。
聞いてもいなかったかもしれない。
ナミさんさえも、ルフィのその言葉に何を返すでもなく、さっさと棒を仕込み直すと残された戦利品に目を向けていた。
ただオレだけが、その言葉を聞き流せずに立ち尽くしていた。
 
「そうね」とくらい、返事をしたらいいのに。
まるで当たり前のように、空気が肌に触れるのと同じ感覚で、ナミさんはルフィに守られていることを受け入れている。
ルフィにとっても、それは責任や義務などではなく、きっとただ自分がそうしたいだけの気持ちで動いている。
 
ナミさんを自分のものだと言っていいのはこの世でたった一人、ルフィだけだ。
 
その事実にオレは打ちのめされた。
目の前で繰り広げられたたった数秒のワンシーンを、オレはいつまでも巻き戻して何度も見ていた。
立ち尽くすオレを、鈴のような声が呼ぶ。
 
 
「サンジ君! なにぼーっとしてんの? さっさとお宝捜してきて!」
 
 
ナミさんはくいっと親指を敵船に向けて、オレを促した。
「はいナミさん」と条件反射が勝手に口を動かした。
 
剥き出しの足が白い。
細い足首からふくらはぎにかけてのラインが最高だ。
腰から背中へと昇る引き締まったカーブはそそられる。
そしてなにより、豪快に男たちに指示を飛ばすその顔は輝いている。
 
かわいい、クソかわいい。
 
よし、と足を踏み出した。
彼女の元まで歩み寄り、少しだけ腰をかがめて顔を寄せる。
 
 
「綺麗なものがあったらナミさんのために取ってくるよ」
「いらない。金目のものを取ってくるのよ」
 
 
すげなく顔を背けて、さっさと行きなさいと言うようにナミさんは手を振った。
了解、と船べりに足を掛けた。
 
結局オレはいじましくも美しいガラスの装飾を見つけたが、「ガラスはお金にならないもの」の一言で受け取ってもらえなかった。
しかし敵船はいくつか宝箱を乗せており、新しい海図と古いログポースも見つかったためナミさんは至極ご機嫌だった。
だからオレもうれしい。
彼女がうれしいなら、オレもうれしい。
 
 
 
 
気付いたら唇の端でたばこのフィルターを挟んでいた。
ポケットからそれを取り出し火をつけた経緯を全く思いだせない。
無意識とは怖いもんだ、と思いながら軍手を脱ぐ。
足元に一組の軍手を放りだし、脚も投げ出して、深く煙を吸い込んだ。
ニコチンが肺一体に沁み渡り、頭がぼうっとする感覚がたまらない。
どこぞの不良少年みたいに物陰で煙を吹くオレを咎めるように、みかんの葉は頭の後ろでかさかさ音を立てつづける。
 
ちくしょう、と思わないでもない。
みっともなく嫉妬だってする。
なれるものならルフィになりたい。
ルフィになれば、あの台風のような勢いでナミさんさえも自分の中に取り込んでしまえる。
そのくせ太陽のような朗らかさで、彼女を強く守ることができる。
夕焼け色の髪をした彼女は、太陽の男にはぴったりだ。
 
オレは太陽の周りを回る衛星のように、けして近づくことはできずに、いつまでもぐるぐる回り続けている。
このままだと、きっと衛星は太陽の熱に負けて消滅する。駆逐される。
爆発して塵となる。
 
それでもオレは、回ることをやめられない。
太陽になれないと分かっていても、近づきすぎてその身を焦がしても、青くちっぽけな衛星はいつまでもまわり続ける。
けして自分のものにはならない太陽を、目を細めて眺めながら、物欲しげな顔で、いつまでもぐるぐると。
 
まだ長い煙草を床でもみ消した。
一度下へ放り捨てたが、そこがナミさんのみかん畑の前であることを思い出し、また拾った。
軍手も拾い上げて、キッチンへと足を向けた。
どこからか地鳴りのように、ゾロのいびきが聞こえる。
 
 
 

 
ホットにするかアイスにするか悩んで、外は程よく暖かいがまだアイスでは体を冷やすと思い、ポットを温めた。
出来上がった紅茶をカップに注ぎ、トレンチに乗せてキッチンを出る。
階段を下り倉庫へ入り、ナミさんの部屋の扉にノックの手を伸ばした。
手の甲が木の扉に触れる直前、中から聞こえた聞きなれた声に動きが止まる。
 
ふたりの声はよく通った。
ついさっきまで感傷的になっていたこちらとしては、今一番聞きたくない組み合わせだ。
「ナミさんは」と尋ねた自分に「知らね」と答えたルフィを疑いたくもなる。
オレは素知らぬ顔と言うのを作り、改めて扉を叩いた。
 
彼女は裁縫をしていた。
麦わら帽子を手に、呆れ顔の余韻があるのはルフィと話していたからか。
そのルフィは彼女を後ろから囲うように、彼女の手元を覗き込んでいた。
 
 
「ち、け、え、んだよテメッ、いつだれがナミさんを後ろから抱きしめるように覗き込むことを許可したァ!!」
 
 
すかさずルフィを蹴散らすと、ルフィはひょうひょうといっこうに堪えた気配のない顔で、彼女から離れた。
うるさい、と彼女からため息とともにお言葉をいただいたので、オレは肩をすくめて謝る。
 
紅茶を彼女のデスクに置いたが、ナミさんは帽子に視線を落としたまま気のない返事をするだけだ。
そんなことにもすっかり慣れてしまったオレは、未練たらしくいくつか言葉を連ねてから彼女の部屋を後にした。
 
 
あのカップを下げるとき紅茶がしんと冷え切ったまま残っていても、オレは平気だ。
口を付けた後さえなくとも、問題ない。
 
傷はつく。
茂みの中を歩き回ったあとのような、細かいひっかき傷がいくつも、薄らと、ある。
それでもいい。
 
だって始まってしまったから、とオレはキッチンの灰皿に残っていたシケモクに火をつける。
予期せぬほどのスピードでオレの恋は進む。
彼女がレストランを訪れたあの日から。
泣き崩れる背中を見たあの日から。
 
オレはルフィにはなれない。
衛星は太陽にはなれない。
青は赤にはなれない。
 
それでもいい。
 
口をすぼめて煙を吐く。
ぽわっと空気中に浮かぶ白いハート型が遠ざかる。
オレはラブコック。
彼女を愛するために生まれた男だ。
 
わがまま、気まぐれ、守銭奴。
なんだっていい。
そこがいい。
それでさえいとしい。
 
オレの恋はまだ始まったばかりだ。

拍手[36回]

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──今日一日オレとデートしてください。
──いいんだよ、オレ今クソ楽しいから。
──好きだ。ずっと、これからも、あんただけは特別だ。
 
──おれはほんとうに、あんたのことがすきだった。
 
 
彼がそう言ったとき、ちょうど砂時計を横倒しにしたように時間が止まった。
何の時間だったかなんて、あたしにはわからない。
 
 
 
 
姫と王子の交響曲
 
 


 
おなかに両手を当てて、膝を抱えるようにして横になっていた。
息をするのも億劫だ。
困ったわね、とロビンが頬に手を当てる。
 
 
「やっぱり船医さんを呼びましょう。あなたこれじゃ食事もできないわ」
「ちょっと横になってればじきに良くなるもの、平気よ……」
 
 
口ではそう言いながら、額はじっとりと脂汗で湿っていた。
ずくずくと痛む下腹部と腰を切り取って捨ててしまいたい。
下着の中が何とも不快だ。
一か月に一度やってくる忌まわしいそのしるしは、今回いつも以上にあたしを苦しめていた。
 
 
「あなた、いつもこんなふうじゃないわよね」
「うん……」
「もう少し温かくしたら良くなるかしら。湯たんぽでも……」
「へいき、だいじょうぶよロビン。ありがとう」
 
 
立ち上がりかけたロビンを声で押しとどめる。
ロビンは少し長くあたしを見下ろして、「そう」とまた腰を下ろした。
 
 
「少し眠りなさい。あなた眠いんでしょう」
「うん、なんでかね……でもまだお昼」
「外の様子ならみんなで見てるから心配いらないわ」
「そう……じゃあおねがい。何かあったらすぐ」
「はいはい」
 
 
ロビンは宥めるようにひとつぽんと布団の上からあたしを叩いて、長い足で部屋を出ていった。
彼女の言うとおり、猛烈な眠気が体の中に充満しているような感じがする。
少し気を抜くと、またたく間にこてんと寝入ってしまうだろう。
これも腹痛、腰痛に続く面倒な症状の一つだ。
あぁ、こんなにひどいのは久しぶり。
 
額を手のひらで拭うと、嫌な汗がにじんでいてげんなりする。
腹痛には波がある。
その波が引いている今のうちに眠ってしまおう。
今日は盛大に甘えさせてもらうことにする。
眠気に身を任せるよう目を閉じた。
船の揺れがゆりかごのように心地よく、すぐに意識は遠のいた。
 
 
 

 
ありがとう、と彼はまっすぐ前を見ていった。
 
 
『楽しかった、遅くまで付き合わせてごめんな』
 
 
サンジ君はセーターとパンツの入った袋を差し出して、すぐそこにあるメリーの横顔を仰ぐ。
積もり始めた雪がメリーの頭上にも降り注いでいた。
 
 
『あいつらロビンちゃんに迷惑かけてねェといいけど』
 
 
ナミさん、ロビンちゃんのこと労わっといてくれよな、とあくまで申し訳なさそうに笑った。
彼の手から紙袋を受け取ると、彼の肩に触れていた紐の部分がほんのり温かい気がしたがそんなはずはなかった。
 
足元気を付けて、とサンジ君はあたしをタラップへと促す。
一段登るたびに乾いた木の音がした。
しばらくして後ろから続く靴音は、中身の詰まらない空っぽの何かを外側から叩くような、淋しいほど軽い音だった。
 
 
 

 
──…っと早く言ってくれりゃあ……あぁ、……だよな、ごめん。
──…かった、じゃあこれだけ置いて……
 
 
ふっと目を覚ましたのは、遠くから名前を呼ばれた気がしたからだ。
ただし呼びかけられたわけではない。
あたしの名前を口にする誰かの声に、無意識が反応していた。
 
頭は覚醒したものの、目を開くのが億劫だ。
体温で暖まった布団の中も居心地よく、動く気にならない。
みのむしのように布団の中でじっと丸まっていた。
お腹を抱え込むように手足を縮めていたので、四肢はすっかり強張っている。
お腹の痛みは寝ている間にどこかへ行ったようだ。
しかし腰だけがまだ鈍く違和感を残している。
 
困ったな、と低い声が聞こえた。
他の誰でもないその声に、なぜだか瞼がピクリと動いた。
サンジ君?
 
 
「ナミさん、ナミさん」
 
 
声だけでゆっくり体を揺り起こされるような感じがした。
重たい瞼を開いて少し首を動かすと、長い前髪を下に垂らしてあたしを覗き込む顔がある。
 
 
「ごめんな、寝てんのに。まだ腹いてェか?」
「ん……今少しよくなった。ロビンが……?」
「うん、湯たんぽ持って来た。あっためるといいんだろ?」
「……ありがと」
 
 
もぞもぞと手を動かし、サンジ君が持って来た重たい容器を受け取る。
布団はもはや体の一部のようだ。
湯たんぽを体内に取り込むように、それを中に引きこんだ。
じんわりと温かい。そっとお腹に抱え込んだ。
 
 
「熱くねェ?」
「うん、ちょうどいい」
「そうか、あの、オレらもう先昼飯食っちまって、一応ナミさんの分も用意してあるんだけど食える?」
「ん……うん、お腹すいてきた」
「じゃあ持ってくるな」
 
 
え、と慌てて身を起こす。
 
 
「いいわよ、あたしがキッチン行くから」
「今から温め直して準備するから、ナミさんはここで寝てな。体調悪ィときくらい盛大に甘えりゃいいんだよ」
 
 
サンジ君はにっこり笑って、あたしが身体を倒すのを待っている。
渋々と再びベッドに頭をつけた。
彼は満足げにひとつ頷いて腰を上げる。
そして、すぐだから、と部屋を出ていった。
 
 
──甘えりゃいいだなんて、よっぽど甘やかしてるヤツがよく言うわ。
 
サンジ君は変わらず優しく、甘く、あたしにデレデレしていた。
おはようの後に「今日も一段と綺麗だ」などの言葉は忘れないし、事あるごとに「ナミさん素敵ダー」と叫ぶ。
彼の中で、それは外してはならないスタンスなのだろう。
自信で決めたそのスタンスを遵守しようと意固地になっているように、あたしには見えた。
 
彼の気持ちは、あの春島の、寒い冬の景色の中に一人取り残されてきてしまった。
彼のあたしに対する気持ちは、凍える雪景色の中でひっそりと凍ったまま、春になって夏になって秋が来て、そうしてまた冬がやってきても溶けることなく凍り続けるだろう。
今はまだ不器用な切り口が覗く彼の心も、いつしか他の何かで埋まる。
きっとあたし以外の何かで埋まる。
あたしよりもずっと、素直な何かで埋まるのだろう。
 
 
──眠たい。
 
頭の中の窓辺にカーテンを引くように、さっと考えることをやめた。
 
サンジ君はすぐに戻ってくると言ったけど、また寝落ちてしまいそうだ。
彼が戻って来たときにあたしが寝ていたらどうするだろう。
起こすだろうか。
そっとまた部屋を出て、寝かしておいてくれるのだろうか。
どちらにしろ、あたしに触れることはない。
 
そっと目を閉じた。
すぐに靴音が聞こえてきた。
 
 
「ナミさん入るよ」
 
 
扉が開くと、食べ物のにおいがすーっと部屋に入り込んできて小さくぐぅとお腹が鳴った。
完全に胃袋を掴まれている証拠だ。
身体を起こした。
 
 
「……ありがと」
「いんや、膝に置いていい?」
 
 
サンジ君はトレンチごと、布団越しにあたしの膝の上に置いた。
深めのスープ皿には美しく巻かれたロールキャベツ。
それと一緒にふかふかと湯気を立てるパン。
ヨーグルトとフルーツのデザートもついている。
小さな小鉢には青菜と小魚の和え物が入っていた。これだけ少し異質だ。
その異質さに軽く首をひねってから、気遣いに気付いた。
途端に気恥ずかしくなって、ぼそぼそといただきますを言う。
 
 
「また下げに来るから、食ったら適当に置いておいてくれりゃいいよ」
 
 
うん、と頷いたあたしを見下ろして、サンジ君が柔らかく笑った。
俯いているあたしにもわかる。彼が笑ったのがわかる。
そのまま彼は部屋を出ていった。
 
 
フォークを手に取って、ロールキャベツをつついた。
中にはお肉がつまっていた。
じゅっと肉汁がしみだして、スープに溶けた。
口に含むと熱くて、なかなか噛みしめられない。
 
パンをもそもそと口に運ぶ。
あったかくてやわらかい、布団みたいだ。
あったかくてやわらかい、別のものを思い出す。
 
 
好きだと言ったじゃない。
あたしのこと、特別だって言ったのに。
 
 
 
きゅう、と情けなく喉が鳴った。
パンを噛みしめた口から絶えず細く声が漏れ出る。
塩辛い水分を吸い込んで、パンがしおれた。
ぱくぱくと口に放り込んだ。
小鉢の中身もかき込むようにたいらげる。
お腹が満たされれば満たされるほど、食べたものに押し出されるように涙がでた。
 
 
かわいそうなサンジ君の気持ち。
あたしのせいで置いて行かれてしまった、船から追い出されてしまった。
こんなにも温かい船なのに、あたしが追い出したサンジ君の気持ち。
 
それがいまになって、こんなにも惜しいだなんて。
 
 
 ──人間は、好きだの感情から始まって、恋慕から嫉妬、憎しみ、哀しみや寂しさとかいろいろな感情を発生させながら、生殖活動に至るまでの関係を育む、らしい。
 
 
いつかチョッパーが言っていた。
淡々と小さな口から紡がれる言葉をあたしは鼻で笑い飛ばした。
今だってよくわからない。
だって好きだの感情から始まるものが全てじゃない。
 
大嫌いから始まった。
嫌いだった。
甘い言葉も締まりのない顔もわざとらしいほど低い声も。
ときたまちらつかせる冷静な言葉も真面目な顔も、あたしを呼ぶ声も。
 
大嫌いだった。
 
 
気付いてしまえば早かった。
あたしは皿の乗ったトレンチを布団の上に置き去りにして、ベッドから飛び出した。
ドアノブをひねるのももどかしく外へと出る。
良く晴れた日差しが眩しくて目がくらんだが、かまわず辺りを見渡した。
 
 
「ルフィ! ルフィ、どこ!!」
「んぁあ?」
 
 
呑気な寝起きのような声が船首から聞こえた。
迷わず船の進行方向へと走り出す。
ルフィはメリーの上に仰向けで寝転がり、甲板側に頭を向けて今にも落ちそうなほど頭を反りかえらせてこちらを見下ろしていた。
珍しく一人だ。
あたしは息を切らせて叫ぶ。
 
 
「ルフィ、お願い、島に戻って!」
「んだ、ナミ。とつぜん」
「ねぇ、戻ってほしいの、お願い!」
「島って、この間の?」
「そうよ、あの島に戻りたいのよ……!」
「つったってナミ、もう1週間も経ったじゃねェか」
 
 
そうなのだ。もう出航から一週間は経ち、既に次の海域がすぐそこまで迫っている。
いっぱしの航海士が言い出すことではない。
それでもあたしはもどかしく、地団太を踏むように、「あぁもう」と呻いた。
 
この一週間で打ちのめされた。
特別から大勢の一人へと舞い戻った虚無感。
馬鹿馬鹿しいとあしらっていたいくつもの言葉でどれだけ調子に乗っていたかということ。
失くしたものを惜しいと思うくらいには、大切に思っていたこと。
 
ルフィが船首に沿ってくるんと翻り、甲板に降りてきた。
 
 
「んだ、忘れモンでもしたのか?」
「……そう、そうよ」
「取りに帰るほど大事なモンならしゃーねぇな、おれぁ別に戻ったっていいけどよ。どうせ船動かすのはお前だし」
 
 
しししっ、とにんまり口角を上げて笑ったルフィは、「お」とあたしの背後に視線を移した。
 
 
「おやつだ!」
 
 
ルフィは軽いフットワークでするりとあたしを通り過ぎた。
ルフィの走り出したその先を振り返るその瞬間、潮風に混じって甘いバターの香りが届いた。
サンジ君が片手に掲げた大きなお皿に山積みのマドレーヌ、それにルフィが飛びつく。
積み重なった無造作さからすると、きっとあたしとロビン以外、男たちのおやつなのだろうに、ルフィがひとりで皿の上のマドレーヌをお構いなくホイホイ口に放り込んでも彼は何も言わない。
ただぼんやりと、どちらかというと唖然と、あたしを見ている。
あたしは唇を噛み締めて、思いっきり目の前の男に強い視線を据えた。
ルフィがもごもごと口を開く。
 
 
「ナミがさ、もっかいあの島に戻りてェっつーからよぉ、おれあそこの肉もっかい食いてェなぁー」
「ルフィ」
「干し肉もうめぇけどよぉ、やっぱさっきまで生きてた奴がうめぇよなぁ」
「ルフィ」
「んん?」
「テメェ一人で食ってねぇで他の野郎共にももってけ。後甲板でウソップとチョッパーも昼寝してんだろ」
「んぉ」
 
 
ルフィはぱぱぱっと人の域を超えたスピードでいくつかマドレーヌを口に突っ込むと、サンジ君から受け取った大皿を抱えてえっさえっさと後甲板へと走り去った。
その後ろ姿を背景に、「なによ」とあたしは締まらないほど揺れた声で彼を睨み据える。
 
 
「笑えばいいわ。ふざけんなって怒ったって当然よ。わかってる、わかってるもん」
 
 
サンジ君は微かに困ったような、それでも極限まで感情の読めない静かな目であたしを見つめていた。
無遠慮に彼に歩み寄った。
サンジ君は後ずさったりしない。
薄いその胸板に、ドンと拳を打ち付けた。
まるですがりつくように、彼の胸に肘をつけてスーツの襟を掴んだ。
 
 
「ねぇ、もう本当にあたしのこと好きじゃないの!? あ、あんた、本当に、もう、」
 
 
息がつまった。
言葉にしたのは自分なのに、自分が吐いた言葉が改めてあたしに衝撃を与えた。
ざあっと潮が引くように体が冷たくなる。
怖かった。
あたしのことを好きじゃないサンジ君が怖い。
好きでいてもらえないことがこんなにも怖い。
 
いや、と小さく洩れた。
小さくてもそれはれっきとした悲鳴だ。
 
 
「いやよ、ねぇ、あたしのこと好きじゃないサンジ君なんて、いやよ……!」
 
 
襟を掴んだ手が白くなるほど強く握った。
身体はもう彼の胸に倒れ込むほど傾いている。
ここまで無様になってしまえばもうどこまでいっても同じことだ。
彼が思いだすまで、気持ちを取り戻すまで離れてやらない。
 
「なんだよそれ」と吐き捨てるような低い声がつむじのあたりから聞こえて、思わず握りしめた手を緩めそうになった。
負けそうになる。
ぎゅっと目を瞑った。
しかしそれと同時に、ふっと息の洩れる音がする。
こころなしかサンジ君の身体が震えている気がして、あたしはおそるおそると顔を上げた。
 
彼は片手で顔の下半分を覆い、堪えきれない笑いを洩らしていた。
そしてぎょっとするあたしに、「あぁもう」と一言つぶやいてから思い切り吹き出す。
その顔にもその声にも、さっきの冷たい影はない。
 
 
「メチャクチャすぎんだろ、ナミさん」
「だ、だって」
「あんまりメチャクチャなこと言うからいじわるしてやろうかと思ったけど、無理だった、笑っちまった」
 
 
サンジ君は肩に手を置いて、あたしを彼から引き剥がした。
 
 
「それで、もしオレがもう好きじゃないっつったらどうすんの」
「……もう一度、好きになって」
「なんで?」
「なんでって……わかんないわよ!!」
 
 
サンジ君はまた、盛大に吹き出した。
 
 
「あんたそりゃねェだろ、ここはさぁ……」
「わかんないんだもん、とにかくいやなのよ!」
「ほんっとメチャクチャだ」
 
 
サンジ君は笑って、あたしの肩に手を置いたまま顔を伏せた。
ぎゅっと肩を掴まれて、身体が固くなる。
ナミさん、と呟いた声に笑いの余韻は残っていたが心なしか真剣に聞こえた。
 
 
「簡単じゃねェんだよ。好きになるのも、その逆も。そうは見えねェかもしれねェが、オレァこれでもいっぱいいっぱいなんだ」
「うん……」
「オレは本気で、ナミさんとはただのクルーに戻るつもりでああ言った。あの島の、あのとき、覚えてんだろ?」
 
 
頷いたあたしに、サンジ君は顔を上げて弱弱しい笑みを見せた。
 
 
「もしかすっと、もっとずっと前から決めてたのかもしれねェってのは思うんだ。ナミさんがちっともオレのこと好きになってくれねェからとかそういうんじゃなくて、なんだろ、もういいかなって思っちまった」
 
 
もういいかな──
それはあたしに対する見切りをつけたということだろうか。
 
そのときクーと場違いにカモメが鳴いて、あたしたちは同時に顔を上げた。
サンジ君はカモメの影が消えた空を見上げたまま、ナミさんが、と呟く。
 
 
「オレのこと嫌いでも、かわいーなーって馬鹿みたいに傍から見てられればそれでいいかなって、割り切ったらすごく、楽になりそうな気がして」
「……それで」
 
 
楽に、なったのだろうか。
あたしへの気持ちを切り捨てたサンジ君は楽になれるのだろうか。
あたしへの気持ちはそんなにも辛いものだったの。そんなこと知らなかった。
教えてくれなかったじゃない! と理不尽な怒りが湧いた。
 
サンジ君は空よりも深い青色の目をあたしに戻した。
 
 
「楽だよ。スゲェ簡単に毎日過ぎてく。ぽっくり死んでても気付かねェかもしれねェなってくらい、なんにもない」
 
 
そして、照れたように笑った。
ほんと、ナミさんの言うとおりだよ、と。
 
 
「あんたのこと好きじゃないオレなんて、オレだっていやだ」
 
 
サンジ君の手が、すとんとあたしの肩の両脇から滑り落ちるように離れた。
彼の手が触れていたところをはじめに、ぶわっと全身の毛穴が広がって、鳥肌が立った。
歓喜と、安堵と、興奮が入り混じって総毛立ったのだ。
思わず自分の両腕を掻き抱いた。
サンジ君は困った顔で、曖昧な笑いを浮かべているんだろう。
 
ばかね、サンジ君、あたしだってこんなにも嬉しい。
 
 
「……なんか言ってくれよ」
「……かった…」
「え?」
「よかった……」
 
 
俯いてぽつりと漏らすあたしは子供みたいだ。
そんなあたしの手首を、サンジ君がおもむろに掴んだ。
えっと思う間もなく引き寄せられる。
鼻面を彼の胸にしたたかぶつけた。
痛いじゃない、と文句を言う余裕もないほど身体が締め付けられる。
あぁ、と洩れた吐息を聞いて、言葉を失った。
あたしが鳥肌を立てたように、サンジ君も今、歓喜と、安堵と、興奮でいっぱいなのだ。
 
 
「忘れモンなんてしてねェよ。オレはちゃんと持ってる、置いてきてなんかしちゃいない。できるわけがねェんだ」
 
 
好きだ。ずっと、これからも、あんただけは特別だ。
 
いつか聞いたセリフが、今度は確かな切なさを伴って胸に流れ込んだ。
あたしはこれが欲しかった。
 
意地を張って、欲しいものを欲しいと言えず、たくさん迷って、きっとこれから何度も失くしかけるだろう。
そのたびにあたしは慌てふためいて、今日のようにかっこ悪くあがく。
サンジ君、サンジ君と名前を呼んで、早く答えなさいよと理不尽に怒りながら彼を求めるだろう。
いつか素直に言葉を口にできるようになるその日まで。
 
 
「ナミさん、顔見せて」
 
 
サンジ君が腕の力を緩めて、あたしを見下ろした。
かさついて長い指が、あたしの顔を両側から包む。
間近で見下ろされて、気まずくなって目を逸らすと「だめだ」と言われて顔の向きを変えられた。
 
 
「だめ、もっとよく見せて」
「やだ、なに」
「頼む、ちょっとじっとしてて」
 
 
サンジ君はあたしの頬を両手で挟んだまま、じっと見下ろしてきた。
真摯な視線が降り注がれている。
ゆっくりと片手が動いた。
指の先が頬をなぞり、こめかみへと動き、前髪を掻き上げて額をあらわにさせる。
まるであたしの輪郭全てをなぞろうとするかのように、青の視線が動く。
最後に、あたしの身体を丸ごと抱えなおすように抱き込んで、満足げな吐息が落ちてきた。
 
その吐息と同時に吐き出された言葉を聞いて、腰から背骨を伝って駆け上るような震えに襲われた。
 
 
 ──オレのモンだ。
 
 
まるで、ルフィやゾロと敵の取り合いをしているときのような。
あの獲物はオレがやると、舌なめずりをしながら見定めているときのような低い声。
捕食獣の、飢えたような男くさい声にあたしは身を震わせて快感を感じた。
 
 
ばかで調子のいい女好きのサンジ君。
楽しそうに幸せそうに料理をするサンジ君。
心底切なげに眉を寄せて、好きだと囁くサンジ君。
そして今のように、本能のままに男のサンジ君。
 
彼をまるごと大事にしたくなった。
そのかわりたくさん大事にしてほしいと思った。
サンジ君のやり方で、ゆっくり大事にしてほしい。
 
 
あたしがコテンと彼の胸に頭を預けたとき、うおーー!とむさくるしい雄叫びが船室を挟んだ甲板の裏側から聞こえた。
あたしたちは同時に頭を上げる。
 
 
「くぉらルフィテメェ、おれの分まで食うなーっ!」
「サンジはどこだー! おやつ全然足んねぇぞ!!」
「サン……!」
 
 
チョッパーらしき最後の声は、もがっとくぐもった音を最後に途切れた。
そのあとに続いたルフィの「なんで邪魔すんだロビン」という声に、あたしたちは顔を見合わせる。
 
サンジ君が恥ずかしそうに笑ったので、思わずつられて、俯いてあたしも少し笑った。
 


 

 
小さなキャラベルにたくさんの夢を詰め込んだ。
ひとりの船長のもとに集う仲間たちと、食べて眠って息をする。
一生懸命生きていた。
 
そうして、恋をしている。
この船の上で、あたしたちは恋をしている。
 

fin

拍手[91回]

パンパンと手を叩いて、はい注目、とみなに呼びかける。
あるものは口にパンを咥えて、あるものはスプーンを片手に、またあるものは見向きもせずに咀嚼を続けて──
 
 
「注目って言ってんでしょうが食うのをやめろっ!」
 
 
あたしは隣で大忙しに食事を続けるルフィに拳骨を落とした。
その拍子にルフィの口から食べかすがぶっと飛び出し、向かいに座るウソップが悲鳴を上げた。
あぁ収拾がつかない、と頭が痛くなるが毎度のことだ。
あたしは声の調子を整えてから、構わず続けた。
 
 
「このままいけば明日の昼前に、次の島に着きます」
「おぉっ!!」
 
 
ルフィを含む全員の目がきらきらと光り、喜びのどよめきが上がった。
 
 
「なんて島だ!? 季節は!?」
「ちょうどいい、そろそろ刀を手入れに出してェと思ってた」
「火薬が切れかけてたんだ、新しい部品も調達したいところだぜ!」
「ナミ―!オレ本が買いたい!」
「テメェらうるせっ! ちゃんと最後までナミさんの話を聞けっ!」
 
 
好き放題話し始めた男共を、サンジ君が配膳のついでに背後から順に蹴りつける。
それで? と静かでよく通る声が促した。
 
 
「はい、気候は春島季節は冬。医療の研究が盛んで、いくつか病院や施設があるんだって」
 
 
ほんとかナミ! とチョッパーがつぶらな瞳をくりくりと輝かせた。
あたしはまぁ落ち着いて、と立ち上がった彼を座らせる。
 
 
「専門のお医者さんを求めて、患者さん自らこの島に足を運ぶことも多いんだって。症例毎や、子供のための施設もあるみたい」
「うおお、勉強になりそうだ!」
「そりゃまた現代的な島だな」
「街並みの雰囲気は普通の港町みたいだけどね」
 
 
ごほんと咳払いをして、すっとみんなの前に握った右手の拳を差し出した。
6本の細い紙片を握っている。
 
 
「はいいつもの。順番に引いてください」
「なに?」
 
 
疑問の声を上げたのはロビンだ。
あぁロビンはそういや初めてか、とウソップが講釈を垂れる。
 
 
「寄港するときはくじを引くんだ。あれに、上陸中の各自の仕事が割り振られてる。だいたい見張りの当番とかその程度だが、運が良けりゃあ寄港中ずっと自由だし、運が悪けりゃ、ま、引いてみりゃわかるか」
「そゆこと。ちなみにログは6日間で出航は一週間後ね。はいじゃあルフィから」
「おう」
 
 
ぴっとルフィが紙片を引き抜く。
ゾロ、ウソップ、チョッパー、そしてロビンが引いて、最後にあたしの手に残ったものをあたしも覗き込む。
各々の口からそれぞれの感想がこぼれだした。
 
 
「コックさんは引かないのね」
「サンジ君は決まった仕事があるからね、免除。さ、みんな仕事は確認した?」
「おれ三日目の見張り以外自由だ!」
「ちっ、荷物持ち……」
「おれ様も見張りだけ、さすがのくじ運だな」
「買い出しの手伝い、ってことはサンジの手伝いだな!」
「私の何も書いてないわ」
「ロビンのは当たり! あたしも見張りだけっと。はい、じゃあ仕事も決まったところで」
 
 
ロビンを除くみんなの目が、きらりと期待に光った。
ポケットから重たい布袋を取り出す。
 
 
「おこづかいを配ります」
「ィヨッシャー!!」
 
 
わっと歓声を上げて、男共は行儀よくあたしの前に縦に整列した。
こんなときだけ扱いやすい。
 
 
「はいルフィ」
「やった、肉買うぞ!」
「ゾロ」
「少ねェ」
「文句言うな! はいウソップ!」
「お、サンキュ」
「サンジ君。こっちがおこづかいで、こっちが食費用ね」
「ありがとナミさん」
「チョッパー」
「ありがとう、おれ、医学書買うんだ!」
「で、ロビンね」
「ありがとう……でも私の、みんなより少し多いみたい」
 
 
少しどころではなく、ロビンに渡したおこづかいはみんなのものに比べてずっと厚みがある。
えぇーっ! と途端に不満の声が上がった。
 
 
「ずりぃぞ! なんでロビンだけ」
「うるさい! ロビンは今回初めての寄港なんだから、いろいろ買うものがあんの! 女の買い物なめんじゃないわよ」
「それはよぉく知ってる」
 
 
ウソップが呆れ顔であたしを見たので、なによと睨みつけておく。
とにかく、と仕切り直してみんなを見た。
 
 
「いつも通り、無駄遣いはしないこと! ルフィとゾロはちゃんと服を新調してくること! 島の治安は悪くはないけど、駐在所くらいあるでしょうからはめを外さず大人しく楽しむこと。食事の都合はちゃんとサンジ君に伝えて、必要出費があればあたしにきちんと申し出ること。以上、質問は?」
「ナーシ」
「よろしい」
 
 
あたしが席に着くと、みんなもそろって食事を再開した。
そろそろデザート行くか、とサンジ君はテーブルを離れる。
ひとまず任務終了、とスプーンを手に取って、スープに浸かったじゃがいもを口に運んだ。
冷めてもおいしいんだものね、と咀嚼をするあたしに、ロビンがそっと顔を寄せてきた。
 
 
「お願いがあるのだけど」
「うん? なあに」
「またあとで」
 
 
ロビンは伏し気味の目でかすかに笑みを浮かべて、自分の席へと戻っていった。
その姿を目で追って、ううんなんだろうと首をひねった。
あとでと言うからには、あとでなのだろう。
なんだろう、おこづかいがまだ足りないとかじゃないでしょうね、などと思っているうちにデザートが運ばれてきて、そちらを心行くまで楽しんでいれば夕食はいつもの如く驚くほどの速さで過ぎていった。
 
 
 

 
 
「おいナミー、ロビーン、風呂沸いたぞー!」
「はぁい! ロビン先入って来ていいわよ、あたしまだ日誌書きかけで」
「わかったわ、じゃあお先に……ああそう、航海士さん、先ほどの話だけど」
 
 
そうだった、忘れてた。
なあに、と振り返ると、ロビンは少し離れたところで着替えを抱えて突っ立っている。
言い淀むように、下方に視線をさまよわせていた。
 
 
「なによ、もじもじしちゃって」
「もじもじなんて──あの、航海士さん、お願いが」
「それはさっき聞いたわ。もう、さっさと言っちゃいなさいよ」
 
 
じれったいので乱暴に急かすと、ロビンは黒い宝石のような目をあたしに向けて、口を開いた。
 
 
「お買い物に付き合っていただけないかしら」
「え? 買い物?」
「その、あなたも言っていたように、私買うものがたくさんあるでしょう。でもわからないの、私、何が必要なのかわからなくて」
 
 
あたしはぽかんと口を開けて、長身の彼女を仰ぎ見た。
常にしなやかな柳を思わせる彼女の口調が言い淀んでいることに驚いたのだ。
あたしがなにも言わないので、ロビンは困った顔でまた視線を下げた。
 
 
「別に無理にとは言わないの。この船に航海士さんはあなた一人だもの、忙しいのはわかって」
「あ、ヤダちがうって。買い物ね、いいわよ一緒に行きましょう」
 
 
ロビンは見るからに安心して、固い頬をようやく緩めた。
彼女のこんなにも素直な表情の変化を見るのは、初めてかもしれない。
 
 
「それじゃあ私お風呂に」
「うん、いってらっしゃい」
「……ありがとう」
 
 
ロビンは最後に花を思わせる可憐な笑みを見せて、女部屋を出ていった。
彼女を見送ってからも、しばらく閉まった戸を眺めつづける。
 
買い物だなんて、頼むようなことじゃないのに。
そもそもあたしはせっかく久しぶりのショッピングなんだから、女二人でお店めぐりもいいわね、なんて勝手に考えていたりもした。
前もって申し入れないと、一緒に買い物も行けないと思ったのだろうか。
 
何事にも通ずる彼女が、こんな回りくどい関わり方をしてくるなんて。
そう思うと、急にロビンがかわいく思えてきた。
上陸後の買い物では、目一杯ロビンに勧めて買わせてみるのもいいかもしれない。
 
悠長にそんなことを考えていたら、ロビンが風呂から上がってきてしまう。
いけないいけない、と慌ててペンを取った。
 
 
 
風呂上りのロビンが戻ってきて、入れ替わりにあたしもお風呂へと向かった。
春島の海域は夜が冷える。
入浴は欠かせない。
サンジ君を除く男共は毎日入らずに、よくも平気なものだ。
 
ほかほかと蒸気をのぼらせて、夜の甲板を横切った。
やっぱり空気は冷えていたが、外に出たついでにと星と雲の動きを確認しておく。
よし異常なし、と踵を返したところで、ちょうど船室の扉が開いた。
その向こうはキッチンだ。
扉を開けた男は、あたしを捉えた途端相好を崩した。
 
 
「風呂上りのナミさんはますます艶やかだなァ~」
「ハイハイそれはどうも……あ、片づけご苦労様」
 
 
サンジ君は煙草を挟んでいない方の口端をにっと釣り上げて笑った。
 
 
「ナミさんに労わってもらうと明日もますます頑張れるぜ」
「あっそ、そりゃよかったわ」
 
 
じゃあおやすみ、とあたしはさっさと彼の隣を通り過ぎる。
引き止められるかと思ったが、返ってきたのは「おやすみ、また明日」と言う心地いいほど穏やかな低音だった。
思わず立ち止まって、振り返ってしまう。
あああたしのバカ、と思うがもう遅い。
サンジ君はんっ? と目を丸めた。
 
 
「早く中入んねぇと風邪ひくぜ? 今日は一段と冷えるな」
 
 
あぁそういうこと、とあたしは足を止めた自分にせせら笑う。
そうねおやすみなさいと言うと、あぁおやすみ、と彼はまた言った。
しかしあたしの歩はまたたった数歩で止まる。
今度は彼が呼び止めたのだ。
「そうだナミさん」と。
 
 
「なに?」
「賭けしねェ?」
「賭け?」
「そう、おれと」
 
 
真意を測りかねて、あたしは眇めた目をサンジ君に向けた。
サンジ君は依然にこにこと愛想がいい。
サンジ君はおもむろに後ろのポケットに手を突っ込み、何かを引き出した。
お札だ。
あたしが今日渡したお小遣い、否、あれは食費用の方だ。
サンジ君はその数枚の札束からたった一枚を抜き出すと、残りをあたしに差し出した。
ますます怪訝な顔になる。
 
 
「こっちは返す」
「どういうこと?」
「オレは明日の島で、この一千ベリーだけで次の航海分の食料をまかなってみせる」
 
 
は、と口をついた疑問が白い息になって空中に浮かんだ。
ちょうどあたしのはてなマークを表している。
 
 
「何言ってんの、そんなことできるわけ」
「もしおれがそれをできたら、上陸の最後の一日だけ、ナミさんにはオレの言うことをきいてもらう」
 
 
ひゅっと短く、冷えた空気を吸い込んだ。
絶句だ。
あ、あんた、とようやく言葉が漏れるまで、少々時間を要した。
 
 
「あんた、まだ諦めてなかったわけ」
「逆に聞くが、オレがナミさんを諦めると思ってたわけ」
「だ、だって」
 
 
サンジ君は面白がるように片眉を上げて、あたしの顔を覗き込んだ。
だって、に続く言葉を飲み込んであたしは唇を噛む。
そんなあたしを見下ろしながら彼はいつもの苦笑を浮かべて、言い淀むあたしを救った。
 
 
「いや、ナミさんビビちゃんが船降りて、やっぱしばらくへこんでただろ? ロビンちゃんが来てくれたからまだよかったものの、やっぱりな。それからすぐにやれ黄金郷だやれ空島だっつって、ナミさん頭使ってばっかだったし。そんな時に口説いたってうざってぇだけかなぁって」
 
 
彼はへらりと笑って、今まで控えめにしてきたラブコールの理由を打ち明けた。
 
 
「……あんたって、本当変なところに気を回すのね」
「惚れた?」
「なんでよ」
 
 
フンと顔を背けるあたしに、サンジ君は「それで」と一歩詰め寄った。
 
 
「どう? 乗らねェ?」
 
 
あたしはすぐさま、そんなもの、と突っぱねるつもりだった。
それでも口ごもったのは、賢いあたしが待てよとストップをかけて大急ぎでそろばんをはじき始めたからだ。
 
彼がもしその賭けに失敗したとしても、損得勘定で言えば何ら困ることはない。
そしてもし、万一成功したとしたら、つまり千ベリーで次の航海の食費をまかなえたとしたら、それこそ大助かりだ。
問題は彼が出した条件、最終日に彼の言うことにあたしが従わなければならないということで──まったく、なんて俗っぽい条件だろう。
 
 
「計算高いナミさんも素敵だ」
 
 
サンジ君は明らかに面白がって、あたしの言葉を待っていた。
考えて考えて、頭の中のそろばんをこれでもかと弾き、ええいと口を開いた。
 
 
「──わかった、乗るわよ」
「さすが、そうこなくちゃ。言っとくけどナミさん、最後になってトンズラこくとかなしだぜ」
「わっ、わかってるわよ! 女に二言はないわ」
「ヨシ」
 
 
満足げなその顔を、目一杯嫌な顔を作って見上げる。
そしてアッと気付いて声を上げた。
 
 
「そうだ! もしあんたが失敗したときの条件聞いてないじゃない! もしあんたが負けたら、アンタはあたしに何してくれるのよ」
「あぁ」
 
 
まるで考えていなかったというふうなサンジ君に、あたしはああ危ないと息を切らす。
負けるわけがないと自身に溢れたようなその態度が悔しい。
 
 
「なんでもいいよ、そうだな、オレの全貯金はたいてナミさんが欲しいもの、買おうかな」
「言ったわね、絶対よ」
「男に二言はねぇな」
 
 
顎鬚を撫でながらにやりと笑うサンジ君をじと目でにらんでも、その顔は涼しい。
彼はおもむろに手を伸ばして、半乾きのあたしの髪を手に取った。
 
 
「楽しみにしてるよ」
「……無理よ、どうせ」
 
 
サンジ君は不敵にも紳士的にも見える笑みを浮かべて、髪に口づけた。
 
 
「おやすみナミさん」
「たっかいモノ請求してやるわ。……おやすみ」
 
 
彼の手がするりと離れた。
間近で澄んだ碧眼がにっこりと笑い、そのまま遠ざかった。
 
 
部屋に戻ると、ロビンが「ずいぶんゆっくりしてたわね」と微笑んで、ブレスダイヤルを手渡してくれた。
髪を乾かしながら、覚悟しなさいよ、絶対高いもの買わせてやる、と胸のうちでやたらと意気込む。
 
翌日目を覚ますと、ロビンが「あなたダイヤだとかルビーだとかぶつぶつ寝言で、怖かったわ」と寝不足気味の目をしばたかせて言った。
 
 
 

 
昼食を目前にしたその日の昼前、予定通り島を発見した。
浮足立つクルーたちに檄を飛ばして、一斉に寄港の準備を始める。
船は裏海岸の殺風景な入り江に接岸した。
 
 
「よーし上陸だァ!」
 
ルフィが鬨の声を上げ、我先にと船を飛び下りた。
ルフィに続きウソップ、チョッパーが、そしてゾロが続々と船を降りていく。
今日の見張り当番はあたしだ。
上陸初日に、と思うとがっくりするが、半日であることを思えばお得感はあるのでいいとする。
 
 
「私も少し街の様子を見てくるわ」
 
 
そう言って、ロビンも厚いコートを羽織って船を降りた。
振り返って手を振った彼女に、船の上から『買い物は明日ね』と口だけを動かす。
ロビンははにかむような笑みで頷いた。
 
 
さて残るは、と振り返った。
ちょうどタイミングよくサンジ君が、うう寒いと低く唸りながら首をすくめて船室から出てくる。
 
 
「クソ、あいつら何も言わねェけど昼飯いらねぇんだろうな」
「勝手に食べてくるでしょうよ。ね、あたしのは?」
「あぁもちろん、ナミさんのは作ってあるよ。今ならまだ温かい、もう食う?」
「サンジ君は?」
「オレもちょっと出てくるけど、まぁすぐ戻るかな」
「そう、それじゃあそのとき一緒に食べようかな」
 
 
何気なくそう返したのだが、サンジ君の頬がでれんと緩んだのでしまったと思った。
 
 
「んナミさんオレとふたりでランチしてくれるのかい? すぐ帰ってくるよダーリン」
「ふたりで、を強調するな! 先食べちゃうんだからね!」
「あぁ待って待って、本当すぐ帰るから待ってて? オレが温め直すから」
 
 
機嫌直して、と宥めるようにサンジ君はあたしと視線の高さを合わせた。
 
 
「……いいから早く行けば」
「行ってらっしゃいのキ」
「早く行け!!」
 
 
半ば追い出すように船から降ろした。
 
 
 

 
ひとりになったあたしはキッチンでお茶を入れて、すぐさま女部屋に引っ込んだ。
船が錨をおろして静かなうちにできるだけ海図を書き留めておこう。
貴重な時間だ。
見張りと言えどこんな寒い中女の子を外に放り出しておくなんて冗談じゃないわ、と言うのが本音である。
 
カリカリとペン先を動かした。
インクのにおいと、紙をこする乾いた音だけが時折五感を刺激する。
夢中で時間が過ぎていた。
ぐぅとお腹が鳴ったのは、午後の一時を回った頃だった。
 
辺りは変わらず静かだ。
船にはあたししかいない。
完成したジャヤへの海図を紐に吊るすと、ううんと伸びをして出口へ向かった。
そろそろサンジ君に帰ってきてもらわないと、本当に先にお昼を食べてしまいそうだ。
 
甲板に出ると、白い粉がちらちらと舞っていて驚いた。
これを見るのはドラム以来だ。
 
 
「やだ、どうりで寒いと思った」
 
 
独り言だって言いたい放題だ。
腕をこすりながら船首へと近づいた。
 
 
「ねぇメリー、コックさんはまだ帰ってこないの? あたしお腹が空いて」
 
 
まだだね遅いね、ぼくもお腹が空いたよ──
勝手なセリフをメリーにあててみると、本当にそんな声が聞こえた気がして嬉しくなった。
いそいそと、コートを取りに部屋に戻る。
目一杯着込んで、手袋まではめて、船首の横から顔を出すように船縁に肘をついた。
メリーと肩を並べているような気になった。
 
 
「お昼は何なんだろう」
 
──サンジが作ってたね。
 
「温まるものがいいわね、そうね、サンジ君が温めるとか言ってたっけ」
 
──みんなお昼は帰ってこないの?
 
「たぶんね、『冒険』でしょうよ。ロビンが楽しんでるといいけど」
 
──ナミは?
 
「うん、あたしも明日は遊びに行くわ、ロビンと」
 
──サンジとの賭けも楽しみだ。
 
「あんたなんでも知ってるのね、ほんと……」
「ナミさん?」
 
 
完全に気を抜いて、だらりと欄干にもたれていたあたしは大仰に肩を揺らせてしまった。
振り返ると、きょとん顔のサンジ君が片手に袋を提げて立っている。
おかえり、という言葉がなかなかすぐに出てこなかった。
一人でぶつぶつ言っていたあたしはきっとかなり、おかしい。
あたしの独り言は彼にも届いていたことだろうが、サンジ君は少し垂れた目元をさらに緩めて、「ただいま」と笑った。
 
 
「お、おかえり」
「ちと遅くなっちまった、ごめんな。腹減ったろ」
「うん、もうぺこぺこ」
 
 
うわっと焦った声を上げて、サンジ君は「すぐ作るから!」と大慌てでキッチンへと駆けていった。
昨日彼が手にした千ベリーは、いま彼が手にしている袋の中身に変わったのだろうか。
 
 
少し遅れてあたしもキッチンへと出向くと、サンジ君はコンロに鍋を掛けながら、サラダ用のレタスをちぎっていた。
お皿だそうか、と声をかけると、ありがとナミさんと甘い声が言う。
なんかいいな、とサンジ君は呟いた。
 
 
「新婚みてぇだ」
「ハイハイ妄想お疲れさま」
「んナミさん、『ごはんにする?お風呂にする?それともわたし?』って訊いて」
「訊くか!」
「んじゃあナミさん、ごはんにする?お風呂にする?それともオレ?」
「ごはん」
 
 
つれねェなァー、とサンジ君はからから笑った。
彼の笑い声を呆れ顔で聞きながら、テーブルにパンの入った籠を置いてお皿を並べる。
温まったシチューを皿によそいながら、サンジ君はしあわせそうにたった一小節ほど、鼻唄を歌った。
 
 
いつもは7人が掛けるテーブルに、今日は二人分の食事の用意だけが並んでいる。
サンジ君はあたしの前にシチューとサラダを置き、そして自身の席にも同じようにセットする。
向かい合って、いただきますを言った。
 
一口食べて、あぁおいしい、あたたかい、としあわせで心地よい気持ちが溢れた。
いつものサンジ君の料理だ。
それなのに、どうしてだか違和感がふわふわと目の前を漂うような感覚が消えない。
サンジ君はごく普通にシチューを口へと運び、パンをちぎっている。
──あぁそうか。
 
 
「サンジ君がきちんと席について食事するの、すごく久しぶりに見た気がする」
「え、そう?」
「だっていつも給仕してばっかりでずっと立ってるじゃない」
「あぁー、いやそうでもねェよ? ちゃんと座って食ってるって」
「そうかしら」
 
 
彼はいつでも立ち働いていた。
彼の言うように一息ついて座る瞬間があったとしても、すぐさまどこからか「おかわり!」の声が飛んでくるのでゆっくり食べる時間などなかったはずだ。
 
せめて今くらいはゆっくり食べてほしい。
本音でそう思った。
 
 
「それで、買い物してきたの?」
「あぁ、午後はしばらく船にいるから、よかったらナミさん街見に行ってもいいよ」
「おこづかいで、じゃないわよねそれって」
 
 
サンジ君は昨夜の不敵な笑みを見せて、「内緒」と小さく言った。
 
 
「ま、楽しみにしててくれよ。最終日をさ」
「……言っとくけど、万一あんたが勝ったとしてもあんまりふざけた命令なんかしたらぶっとばすわよ」
「もちろん、心得てるさ」
 
 
サンジ君はおもむろにあたしに手を差し出した。
 
 
「おかわり、いる?」
「……いらない、止まらなくなっちゃうもん」
「嬉しいこと言ってくれんね。どう、一杯だけ」
 
 
あたしはおずおずと空のお皿を差し出した。
青い目が嬉しそうに細まった。
 
 
「で、ナミさんは昼間一人で海図描いて?」
「そうよ」
「メリーと話してたんだ」
 
 
あたしは受け取ったシチューの皿を危うく取り落としかけた。
熱ィんだから気を付けて、とサンジ君が慌てて支える。
 
 
「……やっぱり聞こえてた」
「そりゃ、だってナミさん結構でかい声でひとり喋ってんだもん」
 
 
サンジ君はからかうように片眉を上げた。
 
 
「で、メリーはなんて?」
「……サンジ君の貯金をどう使ってやろうかって相談してたの!」
 
 
ハハと笑ってサンジ君は床をとんとんとつま先で叩いた。
おいメリー、と呼びかける。
 
 
「オレが浮かせた金で、お前をクソきれいに治そうな」
 
 
その目は凪のようにやさしかった。
 
 
 

 
 
食事が終わると、サンジ君はあたしにお茶を入れて、自分はキッチンで何やら作業を始めた。
作業と言っても、無論彼のことなのでそれは料理だ。
サンジ君が買ってきた袋の中身を取り出すのを、あたしは後ろから眺めていた。
茶色い紙袋が大中小とみっつ、そしてりんごがふたつ。
たったそれだけだ。
 
 
「そっちの紙袋はなぁに?」
「んー、内緒」
 
 
背中で笑うサンジ君に、あたしは思いっきりかおをしかめて鼻に皺を寄せてみせた。
彼はリンゴを細かく薄切りにすると、それでコンポートを作り始めた。
そしてその片手間で、何やら生地をこねている。
あたしは何となく経過が気になったので、女部屋から一冊本を持ってきて座り直した。
上体全部を使って生地をこねる後ろ姿を、本を読む合間にちらちらと眺める。
どうするつもりなんだろう。
 
次第に、甘くて酸っぱい果実の香りが漂い始めた。
まさか今日のおやつを作っているだけじゃないわよね、とあたしは半目になって考える。
そうこうしているうちに彼は生地とコンポートを完成させると、それらでアップルパイの形成を始めた。
背中から見ていてもわかるしなやかな手つきで丸いパイを形作っていく。
そして、形成されたそれをオーブンに入れて、彼は「はいお楽しみー」と蓋を閉じた。
 
 
「どうするの?それ……」
「ナミさんのおやつは冷蔵庫に入れておくよ」
 
 
あたしの問いをするりとかわすように、サンジ君は見当違いなことを笑顔で答える。
知らないわ、と席を立った。
 
 
「部屋に戻るわ」
「ん、了解」
 
 
甘く焦げたにおいを背に、キッチンを後にした。
 
 
吊るした海図の乾きと出来を確かめてファイリングし、空島の白海、白々海の海図に取り掛かる。
あたしのほかに空に浮かぶ海を地図に描いた人がいるだろうか、と考えるとどうしようもなく胸がときめいて、また時間を忘れた。
あたしを現実に引き戻したのは、サンジ君のノックだった。
 
 
「ナミさん、おれちょっとまた出てくるよ」
「うんわかった……それは?」
 
 
サンジ君は片手で抱えるように、小さな包みを持っていた。
中身はバスケットだろうか、直方体を布が覆っている。
サンジ君はそれをポンポンと叩いて、にっと笑った。
 
 
「オレの秘密兵器」
「……なんだかよくわからないけど、とりあえずいってらっしゃい」
 
 
意気揚々と出かける彼を、あたしはわけもわからず見送った。
 
 
それから数十分後、まずゾロが帰ってきた。
物音で外に出たあたしに、ゾロはよぉと気のない挨拶をする。
腰に提げている刀が見当たらないので、本人が言っていた通り手入れに出してきたのだろう。
ゾロは一人「トレーニングでもするか」と呟いて甲板を横切ったが、不意に「ん」と鼻をひくつかせて怪訝な顔をした。
 
 
「んだ甘ったりぃな、クソコックがいるのか」
「さっきまで何か作ってたみたい。今は出かけてる」
 
 
フーンと鼻を鳴らして、ゾロはさっさと信じられない重さのダンベルを取りに倉庫へと引っ込んでいった。
時計を確認する。時刻はまだ4時前だ。
 
次に、ロビンとチョッパーが一緒に帰ってきた。
 
 
「おかえり、一緒にいたの?」
「帰り道で偶然。ね、船医さん」
「おう! オレは医療施設の見学に行ってたんだ。明日の約束も取り付けてきたから、今度はもっと奥まで見せてもらうんだ! っと買った本しまってこなくちゃ」
 
 
チョッパーは青いリュックを揺らしながら、男部屋へと降りていった。
濡れたように輝くその目は心底楽しそうだ。
表情に違いはあるものの、遺跡を前にしたロビンと似ている。
インテリコンビで気が合うのね、とこっそり笑った。
 
 
「どう、ロビンは楽しかった?」
「えぇ、活気があっていい街ね。食べ物屋さんも多いし、雑貨屋さんも……」
 
 
明日が楽しみね、とあたしが笑うとロビンもにっこり頷いた。
 
 
「コックさんは?」
「さあ、どこか行っちゃった」
「じゃああなた今日はずっと一人で? ご苦労様」
「ううん、お昼はサンジ君と一緒だったから……そうだ、おやつあるって言ってたっけ。食べない?」
 
 
ロビンを目で促してキッチンへと足を向ける。
ロビンは後に続いたが、「あなたのぶんしかないのでは」と淡々と言った。
だいじょーぶよ、とあたしは小さく笑う。
 
 
「あいつがあんたの分を作らないわけないじゃない。ほら」
 
 
冷蔵庫を開けると、琥珀色のゼリーがちんまりと二つ並んでいた。
器用にハート形にくりぬかれたリンゴが水泡のように浮かんでいる。
 
 
「うるさいやつが帰ってくる前に食べちゃいましょ。さ、ロビンスプーン取って」
「なんだか悪いことしてる気分ね」
 
 
そう言って、ロビンはこんななんでもないことにとても嬉しそうな顔をした。
 
 
 
夕暮れ時にウソップとルフィが帰ってきて、そのすぐ後にサンジ君が帰ってきた。
冒険するにはスリルがなさすぎるが、食いもの屋が多くていい街だーというのがルフィの感想で、ウソップはブリキ屋に行ったが閉店していたのでまた明後日に再挑戦だと意気込んでいた。
帰ってきたサンジ君は手ぶらだった。
「遅ェぞサンジ、メシー!」とルフィにへばりつかれてヘイヘイといなす姿はどことなく機嫌がいい。
結局なにをしてきたのかを聞くタイミングも見当たらず、みんなで夕食を取り明日の予定を確認しているうちに、その日は過ぎていった。
 
 
 

拍手[22回]


 
 
お出かけ用のワンピースにそでを通し、カーディガンを羽織る。
さらにその上から厚手のコートを着てあたしは部屋を出た。
今日の見張りはウソップだ。ルフィはさっさと探索に出ていていない。
チョッパーももう出かけているし、ゾロは朝食後の一眠り。
甲板ではロビンが待っていた。
 
 
「おめかししてくれたの?」
「そ、あたしたちの初デートよ」
 
 
じゃれるようにロビンの腕に腕を回す。
彼女の身体が揺れたので、笑ったのだと分かった。
レディたちおでかけかい、と上方から声がかかった。
顔を上げると、キッチンから出てきたサンジ君が上からあたしたちを眺めている。
 
 
「えぇ、コックさんあなたは?」
「オレもそのうち出かけるよ。気を付けて、楽しんできな」
「ありがとう」
 
 
ロビンがふわっと微笑むと、サンジ君もデレデレ笑って手を振った。
いってきまーす! と大きな声を上げて、あたしは船を降りた。
 
大通りへと向かう道を歩きながら、ロビンはここにあなたが好きそうな服屋さんが、とかこっちのお店は安かったわ、と昨日一人で収集してきた情報を披露してくれた。
うん、うん、とひとつずつ頷いて、あたしたちはいろんな店を何度も出たり入ったりした。
「全然ダメ、話にならないわ!」「まったくだわ」とふたりでぷりぷりしながら店を出ることもあれば、「あたしまでたくさん買っちゃった、ね、帰りにもう一度寄ってもいい?」「えぇそうしましょう」とにこやかに話しながら出ることもあった。
気付けばあたしの手にも、ロビンの手にも数個の紙袋がぶらさがっていた。
 
一度お昼ご飯を挟んで、あたしたちはまた明るい喧騒の街並みへと舞い戻る。
あたしはこっそり決めていた通り、ロビンの日用品をこれでもかと言うほど見立てた。
大きな鏡台もひとつ買う。
「こんな立派なもの」と言うロビンを「あたしも一緒に使うし、どうせ大きな新しいのが欲しかったからいいじゃない」と押し切った。
ひとつの雑貨屋で、絶対に二人では運びきれない量の雑貨類を買い込んだ。
ロビンの顔は苦笑いだ。
 
 
「ねぇ航海士さん、いい買い物ができたのは本当にいいんだけど、これじゃあ荷物運びが大変よ」
「心配いらないって」
「あら、あなたもしかして私の能力任せにする気?」
 
 
しなやかなロビンの分身が、咎めるように彼女の肩からこっそり生えてあたしを指差した。
笑ってその指先を軽くはじく。
 
 
「ちがうって、そのうちわかるわよ。さ、とりあえず店を出ましょ」
 
 
店の主人がひぃひぃ言いながらも出口まで荷物を運んでくれた。
 
 
「どうする気?」
「あと10分……少し休憩ね。あ、ロビンあれ食べない?」
 
 
通りの向こうには、ソフトクリームを売るファンシーな屋台が出ていた。
彼女の返事を聞かずに、買ってくるから待っててと荷物とロビンを残してさっさと屋台に向かって歩き出す。
ソフトクリームを二つ手にして戻ると、ロビンはぽかんとあたしを見て待っていた。
その表情と彼女が醸す凛とした雰囲気は、かなり不似合だ。
 
 
「なぁに? 変な顔しちゃって」
「いいえ、あなたもし男でも上手くやっていけたでしょうね」
「なによ、あたしとのデートが良すぎた?」
「えぇ、すばらしいエスコートでした」
 
 
ふふんと笑って、店先でソフトクリームを舐めた。
 
そしてコーンの最後のひとかけを口に放り込んだそのとき、あたしはお目当ての姿を見つけた。
 
 
「おーいゾロ! こっちこっち!」
 
 
手を振ると、緑頭のその男は険しい顔のままムスッと片手を上げて応えた。
ロビンが隣で首をひねる。
 
 
「剣士さん? どうして」
「ゾロの仕事よ。『荷物持ち』。ウソップに手ごろなお店を聞いて、この前でちょうど落ち合うように取り付けてあったのよね」
 
 
ゾロはあたしたちに歩み寄ると、足元に置いてある大量の荷物を見下ろしてますます顔をしかめた。
わかってたことでしょう、とあたしはあくまでからから笑う。
 
 
「ちゃんとチョッパーに案内してもらった?」
「おう」
「船医さんは?」
「まだ見るものがあるって本屋に戻った。あークソ、こんなのクソコックのやることだろうが……」
「文句言わない、自分のくじ運を恨みなさい。さ、持った持った」
 
 
ゾロはぶつぶつ言いつつも、素直に大量の紙袋を両腕に通し、両手で鏡台が入った大きな箱を持ち上げた。
 
 
「さー帰るわよ!」
「手ぶらのお前が張り切んじゃねェ! クソ、そういや今回は二人分か」
「そうよ、これからはずっと二人分なんだから、覚悟してよね」
「ちったぁ自分で運ぶっつー考えはねェのか!」
 
 
ぎゃーぎゃー噛みつくゾロを放って、さっさとロビンの腕を取った。
 
 
「いいの? すごい大荷物よ」
「へいきよ、腹に穴あいてたって1トンのダンベル持ち上げるような奴なんだから」
 
 
ロビンは数回気遣わしげに後ろを振り返ったが、結局あたしと並んで歩きだした。
曇った冬空に微かに夕日が滲む、寒い夕暮れ時だ。 
 
メリーが停泊する入り江へと曲がる角で、ちょうど反対からやって来た男があたしたちに気付いておっと顔を上げた。
あたしたちを見てへらっと顔を緩めて、後ろで紙袋をガサガサ言わせて歩く男を目に留めるとばかにしたような顔でふふんと笑う。
サンジ君はコートのポケットに手を突っ込んだまま、「おかえりレディたち」と白い息を吐いた。
3人並んで船へと向かう。
その後ろをどしどしとゾロがついてくる。
 
 
「サンジ君も、どこ行ってたの? そっちは中心街じゃないでしょ」
「もちろん、ナミさんとの賭けに勝ちに行ってるのさ」
 
 
いったい何を、とあたしは怪訝な顔をさらした。
サンジ君は余裕綽々と言った得意げな顔で煙草を取り出す。
不意に、隣を歩いていたロビンの歩みが遅くなっていることに気付いた。
振り返ると、彼女は後ろを歩くゾロを待っているように見える。
足を止めたあたしとサンジ君は、同時に首をひねった。
 
 
「どうしたんだろ、ロビン」
「さあ……」
 
 
まぁいいか、と再び歩き出す。
ちらりと後ろを振り返ると、ロビンはゾロに何か話しかけていた。
ゾロが顔をしかめて首を振っているところを見ると、荷物運びの手伝いでも申し出たんだろうか。
いまさら、なんでだろう。
 
アッ、とサンジ君が短く声を上げた。
 
 
「もしかしてロビンちゃんオレたちに気を遣ってくれたのかな~、いやぁ悪ィなぁ~」
「は? なんでそんなこと」
「さっすがロビンちゃん、オレとナミさんがあんまりお似合いだから。とはいえあのクソマリモと並んで歩かせるのは申し訳ねェけど」
「……ほんっと、しあわせな思考回路ね」
 
 
悪態をついても、サンジ君は変わらず嬉しそうにニヤニヤしていた。
あとでロビンのヤツ、問い詰めてやる。
 
 
「それで? いったい何しに行ってたのよ」
「もちろん、食費を稼ぎに行ってたのさ」
「だからどうやってよ。あの千ベリー、昨日のアップルパイで使っちゃったんでしょ?」
 
 
たとえあのパイひとつを売ったとしても、せいぜい千ベリーが色を付けて戻ってくる程度にしかならない。
そうだな、とサンジ君は呟いた。
 
 
「じゃあ明日、オレと一緒に来ねェ? 種明かしするよ」
 
 
自信ありげな彼を見上げて、あたしはむくむくと対抗心を湧き上がらせる。
見てやろうじゃないの。
 
 
「いいわ。連れてって」
 
 
よし決まり、とサンジ君は笑ってタラップに足を掛けた。
船の中は相変わらず、お腹を空かせてコックの帰りを待ちわびる我らが船長の悲痛な嘆きで満ちていた。
 
 
 

 
 
夕食後の団欒も入浴も終えたあたしは、予定通りロビンを問い詰めた。
まさかあんた、変な気遣ったんじゃないでしょうね、と。
買ったばかりの鏡台の前で髪を乾かしていたロビンは、表情も変えずに「えぇそうよ」と言い放った。
さらりと言われて、一瞬言葉に詰まる。
なんでそんなこと、と苦い顔をした。
 
 
「気を遣われるのがいやなの? 別にあなたに気を遣ったわけじゃなくて、私はコックさんに気を遣ったのよ」
「そういう屁理屈はいいのーっ!」
 
 
もう、と憤慨するあたしをちらりと横目で見て、ロビンはまた鏡に視線を戻した。
黒く艶を放つ髪から覗く彼女の横顔を見て、アッと声を上げる。
 
 
「あんた面白がってるでしょ!」
「いいえ、いいえ……ふふっ」
「笑うなーっ! もう、信じらんない! あんたもアイツも!」
 
 
勝手に人をネタにして! と怒りを込めて頬に化粧水を叩きこんだ。
ロビンはまだ笑いの余韻が残る声で、「それは違うんじゃ」と言う。
 
 
「少なくともコックさんは真剣でしょうよ」
「……知らないわ」
「ねぇ、何を賭けてるの?」
 
 
あたしは重たい口で、賭けの内容を説明した。
ロビンは表情を変えずに「あら」と呟く。
 
 
「それはそれは、コックさんも大きく出たわねぇ」
「でしょ、できるわけがないわ」
「でもあっちから言いだしたのでしょう、きっと何か手があるのよ」
「その手とやらを、明日種明かししてくれるんだって……もう」
 
 
どう思う? と思わず気弱な声で訊いていた。
 
 
「ほんとにあいつ、食費稼げるつもりでいるのかしら」
「さぁ、どういうアテがあるのか見当もつかないけど……彼ならやってしまいそうね」
 
 
ロビンにそう言われると、ぐっと現実味が増した気がしてしまう。
それを振り払うように、あたしはぶるりと首を振った。
 
 
「絶対負けない!」
「でもあなたが直接どうこうできるものではないじゃない」
「理屈言わないでよね!」
「もう、じゃあどう言えというの」
 
 
眉を下げながらもおかしそうに笑うロビンと、結局眠りにつくまであてどなくそんな話を続けた。
 
 
 

 
 
翌日は少し晴れた。
相変わらず空気は冷たいが、日の光が見えるだけで少し暖かい気になれる。
今日の見張りはルフィだ。
チョッパーは相変わらず懸命に医療施設巡りを続けていて、日がな船にいない。
今日こそと意気込んでブリキ屋に出向くウソップを、ルフィが羨ましそうに船の上から見送った。
ゾロは相変わらず二度寝の真っ最中だが、今日は手入れを頼んだ刀を取りに行くはずだ。
ロビンはどうするの? と尋ねると、少し部屋を整理したいからとりあえずは船にいると答えた。
昨日買い込んだ大量の品物は、まだ梱包を解いていないものもあるのだ。
 
やる気なくだらりと欄干にもたれたルフィが、すがるように声を上げた。
 
 
「なーサンジィ、お前出てっちまうのかぁ、おれの昼飯どうすんだよー」
「ちゃんと作ってあるよクソザル。キッチンに置いてあるから勝手に食え! おやつは冷蔵庫ん中だ。ロビンちゃんの分もあるんだから先に全部食っちまうんじゃねぇぞ!」
「へいへーい」
 
 
ぷらぷらと手を振るルフィと、にこやかなロビンに見送られてあたしとサンジ君は船を降りた。
 
 
「雲も晴れたしナミさんとのデート日和でなによりだ」
「なに日和ですって? 勘違いも甚だしいわ!」
「いいの、オレの心の中だけ……」
 
 
サンジ君は何かを閉じ込めるように胸に手を当てて、ひとつ息をした。
ばかじゃないの、とあたしは目一杯冷たく彼を見る。
よし行こうと彼は歩き出した。
昨日彼が歩いてきた、中心街とは反対の方向へと歩を進めていく。
 
 
「行き先くらい教えてよ」
「そうだな……一応、病院、かな」
「病院?」
 
 
病院でいったい何を、とあたしは目を白黒させた。
あまりに予想外の場所だ。
しかし彼は含み笑いで答えない。
着いてからのお楽しみ、だそうだ。
 
何度も、病院に何の用なの、そこでまさか日雇いでもしてるの、といろいろ訊き出そうとしたのだが、結局のらりくらりとかわされる。
手をつなぐつながないだとか、二人並ぶと恋人同士のようだとか、いちいち余計なことを言うサンジ君に呆れ果てて言葉を失いかけた頃、ようやく目的の病院に着いた。
 
彼がここだと言った建物のほかに、その一帯は大きな石造りの建物が林立していた。
このすべてが、病院かまたは研究施設なのだそうだ。
チョッパーはきっと、この建物のどれかに今もいるのだろう。
堅苦しく重圧的なその雰囲気に、ごくりと生唾を飲んだ。
緊張しなくてもいいよナミさん、と見透かされたのが悔しかった。
 
サンジ君に続いて一つの建物の中に入る。
建物の中は病院らしい殺風景な色合いで、静謐な雰囲気が漂っている。
死を連想させるほど重くはないが、やっぱり明るい場所ではない。
だが、彼の跡についていくにつれて次第にその色合いが変わってきた。
 
まず床の色が鮮やかな緑になる。
壁に色とりどりの模様が描かれた壁紙が貼られている。
落ち着きなくきょろきょろと辺りを見渡した。
彼は慣れた足取りですいすいと進み、一つの部屋の前で立ち止まる。
丁寧に、扉をノックした。
 
途端に、わっと弾けるような明るい声が中から響いた。
思わずびくっと身をすくませる。
サンジ君は笑いながら、少しだけ得意げな顔で、ドアを開けた。
 
 
「おにーちゃん!」
「まゆげのおにーちゃんおはよう!」
「ねぇ、今日のおやつは!?」
「今日はなにつくってくれるの!?」
 
 
植物の種が弾けるように一斉に現れたのは、一様に小さな顔だった。
それもたくさん。
「おーおー、うるせぇ」と乱暴に答えるサンジ君の顔は笑っている。
あたしは入り口に立ち尽くしたまま、ぽかんと口を開けていた。
彼の周りにまとわりつく子供の一人があたしに目を留めて、こちらに指を指しながら彼に尋ねた。
 
 
「あの人はだあれ?」
「ん? オレの大切なハニー」
 
 
キャアア、と数人の子供──きっと女の子──から、黄色い歓声が上がった。
唖然としていたあたしは否定するのも忘れて、ちょっと、とサンジ君に歩み寄る。
 
 
「どういうことよ、まったく意味わかんないんだけど」
「まぁ待って、そのうちわかるから……あ」
 
 
あたしたちが入ったその部屋の奥にあるもう一つの扉から、初老の女性が現れた。
白衣を着た姿からすると、医者かもしれない。
どうも、とサンジ君が小さく頭を下げる。
女性も穏やかな性格を思わせる静かな笑みを浮かべて、サンジ君より深く頭を下げた。
 
 
子どもたちの間を通り抜けて案内された部屋は、小さなキッチンとダイニングのようになっていた。
しかし子供たちの空間とちがって、普通の病院の事務室のように殺風景だ。
 
 
「おはようございます、今日もよろしくお願いしますね。もう少ししたら他の人も来るでしょうから……あの、こちらの方は」
「あぁ、オレの大事な仲間のひとり。彼女は料理できるわけじゃねェんだけど、ちょっとわけありで今日は一緒に」
「そう。初めまして、この病院で小児科医を担当しています」
 
 
手を差し出されて、慌ててそれに応えた。
こんにちは、と小さく言う。
 
 
「じゃあオレ、さっそく準備始めてもいい? もう人も来るんだろ?」
「えぇ、お願いします。あのあなたはどうぞこちらに」
 
 
勧められるがままにあたしはおずおずと席に着いた。
サンジ君は小さなキッチンへ向かうと、慣れた仕草で調理器具を準備し始めた。
私はてっきり女性も一緒に何かをするのかと思ったが、彼女があたしの向かいに腰を下ろしたので思いっきり驚いた顔をしてしまった。
女性は苦笑して言った。
 
 
「私はだめなの、料理は全然」
「あ、あの、彼は何するの?」
 
 
女性がぱちぱちと目を瞬いたので、あたしは慌てて付け加える。
 
 
「あたし、なんにも聞いてないまま連れてこられたの」
「あら、そう……えぇとね、ここは小児科で、あの、あっちの部屋にいる子供たちはみんな入院患者です」
 
 
女性が動かした視線を辿って、あたしも顔を向ける。
今いる部屋と子供たちの部屋の間の壁はガラス張りになっており、向こうの様子がよく見えた。
明るい壁紙の、絨毯の敷かれた部屋の中で子供たちが好き好きに遊んでいる。
せいぜい9,10歳が最年長だろうか。
小さな子だとまだ4歳くらいに見える子もいる。
そして、どの子も一様に細かった。
肌の色は極端に白いか、黄色くくすんでいるかのどちらかだ。
数人の頭はすっぽりと帽子で覆われていて、その縁から頭皮の地肌が覗いている子もいた。
 
 
「この子たちはまだ元気な方……遊ぶ力があるから。寝たきりの子もまた別の部屋にいるの」
 
 
あたしは返す言葉がわからずに、彼女の声に耳を傾けたまま子供たちを見ていた。
とても健康的には見えない彼らは、それでも誰もが楽しそうにはしゃいでいた。
明るい命がぱちぱち弾ける心地よい音が聞こえる。
 
 
「二日前、突然彼が、サンジさんが来てね。アップルパイを持ってたの。唐突に、これを子供たちにやってほしいってね」
 
 
船で彼が作っていたあのアップルパイだ。
あたしは目で先を促した。
 
 
「驚いたけど、とりあえず断ったわ。見ず知らずの人から突然手作りの食べ物を受け取るなんて、ましてやそれを子供たちにだすなんてできるわけないじゃない? でも彼があんまりにも子供たちにって頼むのよ」
 
 
彼女が言葉を切ったところで、部屋の扉が開いた。
数人の同じく白衣姿の中年女性がわらわらと入って来た。
 
 
「ごめんなさい、遅れちゃって!」
「彼がもう準備始めてるわ」
「はいはい」
 
 
彼女たちは軽く腰を上げた女性が示す通り、サンジ君のもとへと歩いて行った。
サンジ君は彼女たちと軽い挨拶を交わすと、どうやら指示を飛ばし始める。
その様子は、まるで料理教室だ。
あたしはその様子を呆然と見ていた。
つづけてもいいかしら、と女性があたしの顔を覗き込む。
ハッとして、どうぞと言った。
 
 
「でもね、たとえどんなものであれ、私は子供たちにアップルパイなんてあげられないのよ。アップルパイじゃなくても、ケーキも、クッキーも、チョコレートもダメかもしれない」
「……どうして」
「普通の小児科はね、本当はこことは別にあるの。もっと大きな総合病院の中に入ってる。ここはね、アレルギー症状がひどくて普通の子たちと同じ食生活を送れない子たち専門の小児科。私もアレルギー症専門の医者なの」
 
 
あたしはまじまじと目の前の彼女を見つめ、そしてこくりとひとつ唾を飲み込む。
なんとなく話の筋が繋がり始め、サンジ君の言う謎の答えが形を成し始めてきた。
 
 
「研究もかねて、彼らはここで厳密に管理された食事をしながら、治療をしてるの」
「治療って……アレルギーの?」
「いいえ彼らそれぞれの病気の治療よ」
 
 
あたしは無意識にガラス窓に目をやっていた。
絵本を読むあの子も、追いかけっこをするあの子とあの子も、口にするものに最善の注意を払いながら病気と闘っているのだ。
タブーの食べ物ひとつを口にするだけで昏倒するかもしれないという危険と、じわじわ脅かす病魔との両方に立ち向かう子どもたち。
それは言葉にできないほど、苛酷だ。苛酷だということしかわからない。
 
 
「それでサンジ君は……」
「そう、彼が言うにはね、そのアップルパイ、一切卵も小麦粉もバターも、砂糖さえも使ってないんだって。いったいなにで出来てるのかって訊いたら、大豆と水と米粉、あとはちみつですって。あんまり強く推すものだから、とりあえず私が試食をすることにしてね、いただいたの」
 
 
おいしかったのね、とあたしは呟いた。
女性は少し目を伏せて、照れるように「そうなの」と言った。
 
 
「本当は子供たちに食べさせるものは全て、病院側が検査を通したものだけなんですけどね、私は医者として最低ね。私が食べておいしいと思っただけで、子供たちにどうしてもあげたくなったの。もちろん研究科の人に本当にその材料で作られてるのか調べてもらってからね。それで子供たちにほんの少し、一切れずつだしたのだけど……もう大反響で大変」
 
 
そうだろう。
きっと甘いものなど久しく食べたことのない子だっていたはずだ。
そして何よりサンジ君の料理は格別なんだから。
 
 
「おいしい、これどうしたの、どうして私たちも食べていいのって子供たちが訊くからね、あのお兄さんが作ってくれたのよって教えたら、もうあれよあれよと大人気。もっと作ってもっと作ってって。そしたら彼が、材料をこっちで準備するならこれから一週間作りに来る、レシピも教える。その代わり無償ではできないから、雇う形にしてくれと」
 
 
キャアとおばさま方の黄色い歓声が上がり、あたしと女性は同時に視線を動かした。
その輪の中心で、サンジ君が何やら軽口をたたきながら楽しそうに生地を型に詰めている。
 
 
「…子どもたちのあんな顔見ちゃ、こちらからもお願いしますって言うしかありませんよねえ。それで、保護者達も子供たちの喜びようにあっさりオーケーで、病院側の許可も取って。ここの栄養士さんたちに彼のレシピを伝授してもらおうと声を掛けたらね、ほら、彼のルックスのせいもあって、釣れる釣れる」
 
 
女性は冗談交じりにそう言って、くすりと笑った。
なるほどね、と相槌を打って、再び彼に視線を転じる。
サンジ君とその周りのおばさま方がオーブンに入れようとしているあのマフィンも、大豆か何かで出来ているのだろうか。
 
はたと、サンジ君があたしの視線に気付いて顔を上げた。
にっこり笑ってウインクが飛んでくる。
おばさま方がちらちらとあたしを気にし始めた。
誰かが問うたのか、サンジ君が何か答える。
途端、ギッときつい視線が一斉にあたしに突き刺さった。
あからさますぎやしないか。
 
ちょっとやめてよね、勝手に人の敵増やすのは、と彼を睨んだが、サンジ君はへらりと笑っただけであたしの言い分には気が付かなかった。
女性が苦笑する。
 
 
「こういうこと。……あらやだ、私あなたにお茶も出さず。ちょっと待ってて」
 
 
女性は慌てた顔をして、それでもゆっくりとした仕草で席を立った。
 
ふと、小さな視線があたしを見上げていることに気付いた。
視線の出所を追うようにガラス窓に目を移す。
ガラスにへばりついた小さな少女が一人、こちらを見ていた。
目が合うと、恥ずかしそうに顔を伏せる。
その仕草が愛らしくて、あたしは小さく笑った。
 
こっそり、太腿に仕込んだ天候棒に手を伸ばした。
三つの棒のうち二本を取り外すと、少女は好奇心を顔いっぱいに浮かべてあたしの手元を凝視した。
よしよし、と二本の天候棒を交互に片手でくるりくるりと回転させる。
ただそれだけのことに、少女は目を輝かせた。
冷たい空気と温かい空気がぶつかって、ポンと灰色の雲が発生した。
かろうじて水分を含んだだけの薄い雲だ。
この部屋は乾燥していて、あまり丈夫な雲ができない。
少女は霧のような白い靄を、不思議そうに眺めていた。
 
ぽつぽつと、薄い雲から雨が落ちる。
ジョウロの水程度の雨だ。
たった十秒ほど降ると、雲はかすむように消えた。
その代わり、少女の目がこれでもかと言うほど見開かれ、茶色い瞳は潤みながら輝いて、窓に小さな額と手のひらがぺったりとくっついた。
 
あたしの足元には、バームクーヘンの切れ端ほどの虹がかかっていた。
 
少女を口を半開きにして見入っていたかと思うと、ヒャアと声を上げたような仕草をして、おもむろに振り返ると大きく飛び跳ねながらブンブン手を振って、他の子供たちを呼んだ。
おや、と思う間にわらわらと子供たちが集まり始め、ガラス窓に張り付いた小さな顔が足元に浮かぶ微かな虹に目をキラキラさせる。
 
 
「あらあらなあに、あなたたち急に」
 
 
お盆にお茶を乗せて戻ってきた女性が、ガラスの向こうを見て目を丸くした。
彼女の身体で窓からの光が遮られたため、虹はさっと掻き消える。
子どもたちがそろって落胆の表情になったことに、思わず声を上げて笑った。
 
 
 

 
焼きあがったマフィンを子供たちと一緒に食べた。
いつも小麦の焼き菓子を食べていると、やっぱり豆で出来たそれは少し水っぽくて味も薄い。
しかし舌触りのきめ細やかさや繊細な甘みは、やはりサンジ君が作ったものだ。
そして、十二分においしい。
子どもたちは一心不乱に食べていた。
小児科医の女性は、「食事をあまり食べない子までぱくぱくと……」といまだ信じられないと言った顔をしている。
 
サンジ君は子供たちにマフィンを振舞うと、またおばさま方と奥に引っ込んでレクチャーを開始したようだ。
彼が伝授したレシピを使えば、いつもの食事だって子供たちの喜ぶものに変わるかもしれない。
大成功のビジネスだ。
これに付加価値で子供たちの笑顔がついてくるとすれば、その報酬としては十分だろう。
 
──サンジ君はこの島に着く前から、こんなことを計画していたのだろうか。
最後の日、たった一日あたしを思い通りにするために?
 
楽しんでいるようにしか見えない彼をガラス越しに目で追って、あたしは胸の中にたくさんの不審を募らせた。
 
 
「おねえちゃん」
 
 
もじもじと、ひとりの子供があたしの背後から声をかけてきた。
さっき一番最初にガラスに張り付いていた少女だ。
 
 
「なあに?」
「さっきの……ちっちゃい虹、もう一度見たい」
「コレ?」
 
 
あたしがスカートの裾からちらりと青色の棒を覗かせると、少女は勢い良く頷いた。
 
 
「どうやってやったの?」
「うん?そうね……」
 
 
あたしはタクトに手を伸ばしたが、触れることなくスカートを直した。
にっと目を細めて笑う。
 
 
「魔法」
「えー!?」
 
 
うそだぁ、と少女は明るく声を上げた。
 
 
「本当よぉ、今は疲れちゃってもうできないもの」
「えっ」
 
 
少女は茶色い瞳を揺らして、あたしの目の前にずいと食べかけのマフィンを差し出した。
 
 
「わたしのあげるから元気だして、もういっかい魔法して?」
 
 
少女の目は息を呑むほど真剣で、あたしは言葉に詰まった。
大勢の子供が縦横無尽に走り回るこの部屋では、気圧をいじるのは難しい。
大きな雨雲を作っていいのならともかく、部屋の中で大雨を降らすわけにもいかない。
ゆっくり首を振った。
 
 
「──ごめんね、今度絶対見せてあげるから。これはあんたが食べなさい」
「ぜったい、ぜったいね」
「うん、絶対ね」
 
 
少女は小枝のような小指をあたしの指に絡めた。
あたしは細いそれをきゅっと握り返す。
 
 
「──約束ね」
 
 
少女は零れるような笑みを見せた。
 
 
 
あしたもきてね、ぜったい、ぜったいだからね、と何度も念押しする子供たちに手を振って、あたしとサンジ君は病院を出た。
結局あたしは一日子供たちに掴まっており、サンジ君も料理教室で忙しくしていた。
散々つつきまわされて疲れたはずなのに、まだ胸が騒がしい。
その騒がしさはけしていやなものではなく、中からほくほくと温かいものを抱いている気分になった。
まだ耳の奥で子供たちの甲高いざわめきがこだましている。
 
 
「おどろいたろ」
 
 
サンジ君は気持ちよさげに煙草の煙を吸い込んで、橙色の空に吐き出した。
 
 
「おどろいた、おどろいたわよそりゃ……あんたああいう病院があるなんて、なんで知ってたの?」
「いやー、ナミさんが医療の発達した島だっつーからチョッパーがあの夜張り切って調べててよ。夜まで興奮してやがるから声かけたら勢いよく説明されて、その中にあそこのことがちらっと」
 
 
煙草吸ってらんねぇってのがな、ちょいとキツイな、とサンジ君はここぞとばかりに紫煙を吹き出している。
 
 
「あんまり行って楽しい場所じゃねぇだろ」
「……そうね」
 
 
細すぎる身体は痛々しかった。
大事に大事におやつを食べる姿は、制限されるいつもの食事を連想させた。
 
「そうね」ともう一度呟く。
波の音が近づいてきた。
 
 
「オレは例の如く明日も行くけど、ナミさんどうする」
「明日……明日ロビンと買い物の続きがあるの。でもそのあとで行くわ」
 
 
サンジ君は少しだけ逡巡したように口ごもったが、結局なにも言わないまま船についた。
帰りを待ちわびていたルフィがおせぇぞと怒った。
夜ご飯はトマトソースのパスタだった。
 
 
 

 
翌日、上陸4日目の午前、あたしとロビンは見張りのチョッパーに見送られて街へと出かけた。
服と雑貨品を見立てた2日目に続き、今日は装飾品とケア用品を漁ろうと二人で言い合っていた。
道すがら、あたしは昨日のことをぽつぽつとロビンに話した。
ロビンは興味深そうに相槌を打って聞いてくれた。
 
 
「それはそれは、彼が活躍しないわけがないわね」
「でしょう、案外おいしいんだもんびっくり……」
「それにしてもコックさん、やっぱりしっかりした手があったのね」
 
 
ロビンはどうするのと一人で面白がっている。
 
 
「このままじゃコックさん、確実に稼いで帰ってくるわよ」
「それなのよ……でも」
 
 
ロビンは察した顔で、穏やかに笑って頷いた。
 
サンジ君がただあそこにお金を稼ぎに行っているだけには思えないのだ。
子供が好きだとか、かわいそうな子供たちだとか、そういうことではない。
ただ彼は、彼の作ったものを一番望んでいる人に与えることを楽しんでいるだけ。
あたしとの賭けはそのおまけでくっついているだけに過ぎない。
そのことにあたしが口を挟む余地はない。
海賊である前に、彼はどこまでもコックなのだ。
 
ロビンが寒そうに手をこすり合わせて「ねぇ」と細い声を上げた。
 
 
「私も一緒に行っていいかしら。今日もそこに行くのでしょう?」
 
 
どこかわくわくしているようにも見えるロビンに、いいけどと頷く。
街で軽くお昼を食べ、病院へと足を向けた。
 
 
 

 
ふわ、と咲いた白いハナに、子供たちはキャアアと叫んで後ずさった。
ロビンはあたしの隣、部屋の隅で四角いクッションに腰かけてにこにこしている。
ふわっふわっと白いハナは整然と咲き乱れ、ゆらりゆらりと風吹く草原のように揺れた。
一人の勇気ある子供がそろりと近づいてハナの腕に手を伸ばすと、ハナはぱっと花びらを散らせて消えた。
子供たちの目はもうこぼれんばかりだ。
 
すっかり人気を取られてしまったあたしは、大人しく彼女の隣に腰かけて手持無沙汰になっていた。
 
 
「あんたが船に来たばかりの頃を見てるようだわ」
「たしかに。あそこで私の手を追いかけているのが船長さん、くすぐられて転げまわってるのが長鼻くん。きゃあきゃあ言ってるあの子が船医さんね」
 
 
言い得て妙だわ、とあたしが息を吐いたとき、奥の部屋につながるドアが開いた。
途端に広がる、夢のように甘い香り。
子供たちの顔がぱっと上がった。
 
 
「おらガキ共、おやつだ!!」
 
 
わっと走り出した子供たちは一斉にサンジ君の足元に群がった。
踏まれまいとロビンのハナはパッと散る。
 
 
「彼もまるで船にいるときと変わらないわね」
「子供の扱いはルフィたちで慣れてるんでしょ」
 
 
子供たちはサンジ君と、その後ろに続くおばさま方の抱えるトレーの中から色とりどりのプリンを受け取ると、おそるおそるとつつきだす。
プリンは白かったり黄色かったり茶色がかっていたり、さまざまだ。
最後に彼はあたしたちのところにやってきて、恭しくプリンを差し出した。
 
 
「お待たせしましたレディたち、さ、どうぞ」
「ありがとう。これは何でできてるの?」
「レディたちのァ普通のプリンだぜ、小麦アレルギーの子は食えるからな。他は、牛乳を使ってねェだとか、卵を使ってねェとか、その両方だとか、いろいろ」
「さすがね」
 
 
いやあ~とサンジ君はいつものように体をくねらせた。
プリンはなめらかで舌触りがいい。
 
 
「ねぇコックさん、もう明後日でログがたまるでしょう。あなたずっとここに入りびたりで、買い出しやあなた自身のお買いものはどうするの?」
「買い出しは明日、チョッパー引き連れて朝市に行くよ。昼にここでガキ共のおやつと、マダムに残りのレシピを授けて、夕方またちょっと買い加えて完了。ここでの給料は先払いで今日の帰りにもらえるって話だ。オレの買い物っつーなら最終日があるから」
 
 
青い目がすっと横にすべってあたしを捉えた。
スプーンを咥えたまま、慌てて目を逸らした。
ロビンが微かに笑った気がして顔が熱くなる。
 
 
「やさしいな、ロビンちゃん」
「いいえ、ご苦労様。私たちまだ買い物の続きがあるもので、申し訳ないけどお先に失礼するわね。さ、航海士さん」
 
 
ロビンに促されてのろのろ立ち上がる。
サンジ君は空の容器を受け取って、にこやかにあたしたちを見送った。
子供たちの盛大な惜しみも聞いた。
 
 
 
「さぁさぁ、もう逃げ場がないわよあなた」
「面白がらないでくれる……」
 
 
ロビンはふふっと柔らかく笑って、自身の指先を撫でた。
 
 
「子供なんて久しぶりに触ったわ。折れてしまいそう……とても軽い音がしそうね」
「折れたときの想像まですんじゃないわよ」
「でもあの子たちは幸せね」
 
 
顔を上げた。
ロビンの頬は寒さで少し赤らんでいる。
 
 
「きっと親がわざわざあの子たちをこの島に連れてきて、あんな立派な施設で食事と治療を与えてもらえるんだもの。幸せだわ」
 
 
──幸せだわ。
そう言ったロビンの声は、柔らかかった笑い声と裏腹にほんの少し硬かった。
 
そうかもしれない。
入院施設の整った病院など、ほとんどの田舎町には存在しない。
一般家屋を使った診療所がほとんどだろう。
彼らの親は必死で情報を集めて、すがる思いでここまで来たのだろうが、そうしたくてもできない親もいる。
そうしてくれる親がいない子もいる。
どちらかと言うとあたしと、きっとロビンも、後者の方を多く見てきた。
そして近くに感じた。
 
 
「もう帰る?」
「そうね、一足先に帰りましょうか」
 
 
あたしたちはそれぞれ本日の収穫である紙袋をぶら下げて、まだ昼間のうちに船に帰った。
 
 
 

拍手[20回]

 
 
夕食後、ロビンがお風呂に行っている間、女部屋の扉が来客を告げた。
ロビンは少し前に出たばかりだから、誰だろう。
部屋の隅に置かれた宝箱の前に座り込んで、振り向くこともなくはあいと声を上げた。
 
そこにいるのがサンジ君であると、あたしはどこかで分かっていたのだろうか、ナミさん、と低い声を聞いても特に不思議に思わなかった。
 
 
「これ、今日もらってきた。あそこでの収入」
 
 
サンジ君は扉を開けたものの入り口に立ち尽くしたまま、そう言ってかさかさと紙の音をさせた。
 
 
「入っていいわよ」
 
 
少しの間が開いて、静かに扉が閉まる。
あたしも、大事に宝箱のふたを閉めた。
南京錠をカチリと締めて振り向くと、サンジ君は片手に茶色い封筒を持ってぼんやり立っていた。
 
立ち上がって、彼から封筒を受け取った。
中身を取り出し、一枚二枚とあらためる。
あたしが渡した食費を、軽く三万は超えていた。
あたしは黙って何度も数え直すが何度やっても変わりはない。
 
 
「え、え!? ど、どうしてこんなに」
「あー、なんか俺がレシピ教えてたあれ、マダム一人あたりにつきで計算してくれてたらしくってさ。あとやっぱりあそこの病院自体規模が半端じゃねェわ。あそこの医者が全くいくらもらってんのかってとこだな」
 
 
サンジ君は苦笑と共に胸ポケットに手を伸ばしたが、さりげない仕草でその手を下ろした。
両手で持ってそこそこの厚みがあると分かる封筒を、サンジ君に返す。
 
 
「……どーも、ご苦労様」
「あ、余った分は」
「あんたが稼いだお金でしょ、あんたのおこづかいよ」
「そう? んじゃ、これは明後日に」
 
 
サンジ君は丁寧な仕草で封筒を押し頂くと、それをおしりのポケットに突っ込んだ。
にやりと笑った顔が忌々しい。
 
 
「それで、ナミさんは覚悟決めた?」
「……みっともなくあれこれ言ったりしないわよ」
「あぁよかった。それじゃあ明後日、待ち合わせ決めていい?」
「どこか行くの?」
「まぁそれはお楽しみ。とりあえずオレは朝のうちにまた病院行って、最後のおやつ作ってくっからさ。そのあとで待ち合わせよう」
 
 
彼は中心街の入り口すぐのお店を指定した。
 
 
「ウソップが言ってた、なんかでけぇ派手な看板があるんだろ? そこの下で」
「わかったわ」
 
 
サンジ君は朗らかな笑みを見せたが、明らかにほっと安堵の息を吐いた。
途端にあたしの心が逃げるようにズズッと後ろに後ずさる。
ギュッと掴み直して、あたしは気丈に顔を引き締めた。
 
 
「お昼前でいいの」
「そうだな、じゃあ11時に。待ってるよ」
 
 
事務的な約束を取り付けるようなあたしの口調を意にも介さず、サンジ君は甘い声で締めた。
 
 
「んじゃそゆことで。おやすみナミさん」
「おやすみ……」
 
 
ぱたんと静かに戸が閉まる。
木の床を叩く彼の靴音が遠ざかる。
しばらくその音に耳を澄ましてから、わあっと叫んでベッドに倒れ込んだ。
 
 
「こんなはずじゃなかったのよ……!」
 
 
力なく一人愚痴をこぼす。
まさか本当に、サンジ君が勝ちに来るなんて思わなかった、本当に思わなかったんだもん。
枕に顔を押し当てて、うぐぐと声を漏らした。
 
勝てない賭けを彼が言いだすはずがない。
やれると踏んだら必ずやってのけてしまう。
知らないわけじゃなかった。
 
 
いったい何をさせられることだろう。
思いつく限りを考えるとぞっとして、背中がじんと痺れた。
 
 
 

 
翌日は再びあたしの見張り番が回ってきた。
だいたいあたしたち一行以外人も通りかからないうらぶれた入り江に見張りが必要かどうかは甚だ疑問だが、いまメリーには空島の黄金が積まれている。
いつもの貧乏海賊のままであれば、メリーそれじゃあちょっくら見張りよろしく、とでも軽口を叩いてみんなで街に外食しに行ったりするのだが、三億相当と踏んでいるお宝たちを残して船を離れるわけにはいかない。
あたしには、メリーの顔が宝船のふくよかさをたたえているように見えて仕方ない。
 
 
サンジ君は慌ただしく朝食を給仕すると、チョッパーの尻を叩いて朝市へと向かった。
 
 
「悪ィな、あとは好きにしてくれ、厨房ん中は放っといてくれていいから」
「いっぱい肉買ってこーい!!」
「朝市は野菜と鮮魚メインだクソゴム」
 
 
サンジ君はさー行くぞとチョッパー引き連れて、気の早いチョッパーは荷馬車になる気満々のトナカイ型で、二人仲良く街へと消えた。
 
残されたあたしたちは自分たちで食後のコーヒーを淹れ、それぞれが怠惰な朝の時間を楽しんだ。
あたしとロビンで洗い物を済ませ、天気がいいので洗濯をしてしまおうと男共をせきたてる。
こんなクソ寒いのにテメェらは追剥ぎか、とぎゃあぎゃあ反論を口にする奴にはすかさずロビンの制裁が加わり(ウソップは長い鼻をハナの手でひねり上げられた)、船の上は一斉に鉄なべをひっくり返したような騒々しさであふれた。
 
 
「サンジ君とチョッパーの洗い物も勝手に引っ張り出してきてちょうだい!」
「おーおー」
 
 
ウソップがばたばたと男部屋に降りていく。
すぐにいくつか服を掴んで戻ってきた。
 
 
「さー、さっさと洗うのよあんたたち!」
「お前も手伝えよっ!」
「もちろん、女物は自分たちで洗うわよ……って、あれ」
 
 
ウソップが抱えた衣服の山から、ひらりと紙切れが舞い落ちた。
あたしの足元に滑り込んできたそれを拾い上げる。
ウソップは気づかずに行ってしまった。
色紙を半分に折っただけの小さなものだ。
なんともなしに開いてみた。
 
つたないラブレターだった。
 
よろよろと頼りのない線が懸命さを伝える字で、めいっぱい想いを伝えるラブレター。
これはサンジ君のものだ。
病院の子供にもらったのだろう。
ポケットにでもすべり込ませておいたものが今落ちてしまったのだ。
 
手にしたそれをどうしようか悩んだ。
男部屋に持っていこうにも、あそこに彼のプライベートエリアはない。
誰かがゴミ屑と間違えて捨ててしまうのが関の山だ。
キッチンにしよう。
あそこは彼の領域だ。
騒がしい甲板を後にして、キッチンへと向かった。
 
 
サンジ君とチョッパーが山ほどの収穫を抱えて帰ってきた頃、甲板は色とりどりの衣服がはためいて開けた視界もままならなくなっていた。
 
 
「おーおー精が出るこった」
「おかえりぃ」
「肉買ってきたか!?」
「だから肉はまだだっつってんだろが……あ、オレのも洗ってくれたのか。サンキュ」
 
 
そう言ったあと、彼は思いだしたように「あ」と呟いた。
ウソップがん? と聞き返す。
いや、と首を振って、サンジ君はチョッパーにキッチンへ入るよう指示した。
 
 
「おかえりなさい」
「たっだいまぁナミさん、変わったフルーツ売ってたから買ってきたよ」
「カウンターに置いておいたから」
「え?」
「チョッパーもおかえり」
 
 
ただいまナミ! と元気に答えたチョッパーは、さっさと人型になると両脇に野菜の詰まった箱を抱えた。
服とシーツがはためく下で、男共がだらしなく大の字になっている。
なんとも気持ちよさそうで、あたしは本を取りに部屋へと戻った。
パラソルの下で読もう。
コートを着ればそう寒くないだろう。
甲板へと戻ってくると、ロビンが「考えることは同じね」と本を持って待っていた。
 
なぜだかその日、サンジ君以外誰も船を降りなかった。
まるで航海中と同じように、みんなでサンジ君が作り置いたお昼ご飯を食べ、カードゲームをしてあそび、おなかがすいてくるとサンジ君の帰りを待ちわびた。
空が赤く滲み始める前に彼が帰ってくると、いつもルフィがサンジ君にまとわりつきたくなる気持ちがわかる気がした。
他のみんなもそんな顔をしていた。
 
入院患者の保護者達がくれたのだと言って、サンジ君は野菜や肉類を荷台に乗せて持ち帰ってきた。
大きな肉の塊にルフィが歓声を上げて目を輝かせる。
牧場主が一頭捌いてくれたのだと、サンジ君はうれしそうに言った。
その日の夜は彼が持ち帰った報酬で作られたごちそうが並び、なだれこむように宴となった。
寒さなんてなんのその、甲板は熱気で燃え盛るようだ。
 
宴の余韻に火照る頬のまま、そういえばあの子にもう一度虹を見せてあげると約束して、それを果たしていないことを眠りに落ちる直前、思い出した。
 
 
 

 
「はいそんじゃ船長」
「ヨッシ野郎共!! 今日は最終日だ! ……そんで?」
「ほんっと締まらねェなテメェは」
 
 
はいナミ引き継いで、とウソップの手があたしに翻った。
 
 
「はい、それじゃ船長の言うとおり今日は最終日。各自お仕事ご苦労様。特に問題もなくいい寄港でした。不測の事態がない限り出航は明日の午前中、のんびり始めましょう。今日は見張りのゾロ以外全員自由です。ちなみに夜は冷えそうだから心得て。みんなおこづかいは残ってる?」
「残ってなかったらくれんのかよ」
「まさか。まぁ残ってる人はぱぁっと使うでも貯金するでもご自由に。はいじゃあ解散」
 
 
ヨーシ最後の食い倒れだー! とルフィは意気込んで立ち上がった。
ウソップ行くぞ! と声をかけて、お前オレのこづかいをアテにしてるだろ! と言い当てられて詰まっている。
しかし次第に、クルーたちは三々五々と好き好きに散っていった。
いつの間にかサンジ君もいなくなっていた。
 
 
あたしは必要以上にゆっくりと食後のコーヒーを飲み下した。
部屋に戻ると、ロビンがデスクの灯りの下で読み物をしていた。
あたしに気付くと顔を上げ、そろそろ準備しなくては? と促す。
 
 
「ロビンは今日一日どうするの」
「実は初日に街へ降りたとき、小さな遺跡を見つけていたの。大したものではなかったんだけど少し気になるから、今日は一日ここで調べものでもしているわ」
「そう」
「あなたは楽しんでいらっしゃいな」
 
 
返事をせずに、ぶすりとした顔で衣装棚の引き出しを開けた。
毛糸のセーターにパンツを合わせ、インナーには何枚も着込んだ。
クローゼットからコートを取り出してもくもくと羽織る。
 
 
「……いってきます」
「いってらっしゃい。土産話楽しみにしてるわ」
 
 
ロビンがにこやかであればあるほどどういう顔をしていいのかわからず、自然と仏頂面になって部屋を出た。
乾いた音を響かせてタラップを降りる。
空は晴れていた。
しかし気圧は低い。肌がそう感じていた。
夕方近くには少し降るだろう。
 
腕の時計を見下ろして、サンジ君との約束の時間にはまだずっと早いことを確認する。
街へと続く道、病院施設へと続く道、そしてあたしが歩いてきた入り江に続く道のみっつに分かれた三叉路で、迷うことなく一方へと折れた。
 
約束を果たさなければいけない。
細い小指の絡まった記憶を、きゅっと握りしめた。
 
 
たった数回行き来しただけで見慣れてしまった景色を辿り、病院へとたどり着いた。
ただし正面には回らず、小児科の部屋群がある面へとまっすぐ向かう。
たしかあの子供部屋には大きな窓があったし、いろんな形に切り取られた色紙が窓を彩っていた。
外から見てもわかるはずだ。
 
コートの襟を詰め、白い息を吐きながら二階の窓に目を走らせた。
あった、あそこだ。
建物の真ん中より少し右寄りの大きな窓に、いくつか色紙が貼りついている。
さいわいカーテンは開いていた。
あれだけ子供がいるんだ、誰か気付いてくれるだろう。
そう信じて、準備を始めた。
 
くるくると一本の棒を何度も回転させ、冷気の玉を量産する。
こんなにも寒いのにばかじゃないのかあたしは、と思いながらもどこか楽しくなってくるから不思議だ。
たくさん着てきてよかった。
もともと氷点下より少し高い程度の気温が、ぐんぐん下がっていく。
気温の数値がどれくらいかは、肌を指す冷気が教えてくれた。
後もう少し、もう少し低くなくてはいけない。
本来はマイナス10度から20度の気温が必要だが、そんなところまで下げていられないし、短い間に狭い範囲でなら氷点下少し下くらいでいけるだろう。
 
ヨシ、と手の動きを止めた頃には、周囲の気温とは裏腹にあたしの手首はじんと熱を持っていた。
すかさず熱気泡をいくつか発生させ、それで頭上に橋を作るよう大きくタクトを振る。
熱気は上へと昇り、思った通りの高さで薄い雲となった。
空の青さが透けて見えるほど薄い。
自然発生したものであれば、こんな雲から雨は降らない。
しかし雨を降らせることが目的ではないあたしには十分だ。
 
戦闘や実験以外で、こんなふうに天候棒を使ったことはなかったのですこし心配だったが、どうやらうまくいきそうだ。
ほっと息を吐いて薄い雲を見上げたとき、病院の窓に映る小さな影に目が留まった。
 
一人の子供が、おそらく背伸びをしてあたしを見下ろしていた。
見覚えのあるその顔は、ロビンのハナの手を追いかけまわしていたやんちゃもののひとりだ。
あたしがおおいと手を振ると、子供は小さく手を振り返した。
そしてすぐハッとしたような身振りをして後ろを振り返る。
ともだちを呼び集めているようだ。
 
しめた、これなら確実に気付いてもらえるだろう。
わらわらと小さな頭がたくさん窓辺に集まってきた。
その中の一つに、約束を交わした少女の姿があった。
顔色があまり良くない。調子が悪いのだろうか。
しかし少女はあたしを見下ろして、パッと顔を華やがせた。
 
おぼえててくれたんだね、と嬉しそうにするか細い声が聞こえる気がした。
 
団子のように横に連なる子供たちの顔の上に、小児科医の女性が現れた。
あたしを見下ろして、驚いたように目を丸くしている。
一人の子が窓を開けてとせがんだのだろうか、女性は困ったように首を横に振っていた。
そうだ、寒いから窓なんてあけなくてもいい。
もうすぐだ。
 
薄い雲の真下にいるあたしには、はじめ見えなかった。
ただ、部屋の中の子供たちが一斉にキャアっと声を上げたのが、外にいるあたしにも聞こえた。
 
空から、キラキラと細かい粒が落ちてくる。
雪でもない、雨でもない。
太陽の光を四方に反射して輝くそれは小さな氷の結晶だ。
 
魚が跳ねる水面の光にも似ている。
ちらちらとたまに虹色に光るのは太陽のいたずらだ。
ダイヤモンドダストは、あたしが作り出した小さなスペースに目一杯降り注いだ。
 
 
窓に顔を向ける。
小さな顔のどれもが、降り注ぐ細かい光に目を奪われて口を開けていた。
医師の女性までもが同じ顔をしている。
少女が思いだしたように視線を下げた。
ありがとう、と色の悪い唇が動いてゆっくり口角を上げた。
ダイヤモンドはまだまだ振り続けている。
 
あたしはそっとその場を後にした。
 
 
 

 
すっかり体が冷えたので、町に入るとすぐ暖かなコーヒースタンドに駆け込んだ。
なみなみとコーヒーの注がれた紙コップを両手で支えて、その湯気で頬を温める。
手袋をしていてもかじかんでいた手のひらが、コーヒーの温度でほぐされてじんじんと痺れてくる。
さらに、約束を果たせたことへの満足感が胸をほっこりと温めていた。
 
手のひらにぬくもりを感じながらぼうっと街並みを眺めていて、ふと時計に目を落とす。
長針が、短針より右側に回っている。
いけない。思い切って一気にコーヒーを飲み干して、あたしは足早に店を出た。
 
 
サンジ君は約束の大きな看板の下で、寒そうに細い身をさらに細くして所在なく立っていた。
紺色のコートの背中に近づいて、声をかける。
彼は勢いよく振り向いた。
その勢いのよさに、思わず身を引くほどだ。
 
 
「あぁ……ナミさん、よかった」
「来ないかと思った?」
「うん、実はどっちかと言うとそっちの色のが強ェんじゃないかと」
「……反故にしたりしないわよ」
 
 
そうだよな、とサンジ君は力なく笑った。
 
 
「それで、あたしになにさせる気なの」
 
 
ふんっと気丈に顔を上げてそう言ったら、サンジ君はぷっと吹き出した。
いやいやナミさん、とその顔は苦笑だ。
 
 
「そんな気ィ張らなくても、めちゃくちゃなこと言ったりしねェよ」
「あんただもん、信用ならないわ」
「ヒデェ言われよう……」
 
 
とほほ、とサンジ君は肩を落としたが、思い直すように顔を引き締めると「ナミさん」と静かに言った。
 
 
「なによ」
「今日一日オレとデートしてください」
 
 
一拍間をあけて、は? と聞き返した。
 
 
「デート? なにそれ」
「だから、オレと一日街で過ごして。恋人同士みたいにさ」
「それだけ?」
「そう。何か他考えてた?」
「べっつに……」
「それじゃ、了承いただけたっつーことでいい? つっても賭けの勝ちは譲らねェけど」
 
 
サンジ君ははいとあたしに手を差し出した。
節の目立つ薄い手だ。
あたしはその手と彼の顔を交互に見た。
 
 
「なによ?」
「手、繋ごう」
 
 
黙って彼の顔を見上げる。
そんな顔しないでよ、と渦巻き眉がかすかに下がって笑う。
 
 
「今日一日ナミさんはオレのもの。はい、手」
 
 
さんざん迷って、結局彼の手の上に自分のそれを置いた。
よし、と嬉しそうに握ったサンジ君の笑顔が寒空の下眩しかった。
ぎゅっと握られて、その薄さと硬さをダイレクトに味わう。
 
行こうか、とサンジ君は歩き出した。
 
 
「おなかすいてない? ご飯の前に行きたいところがあるんだけど」
「へいき。どこ?」
「んー、つっても決めてるわけじゃなくて……お、ここどうよ」
 
 
そう言って足を止めたのは、女物のブティックの前だった。
サンジ君はあたしの返事も聞かず、手を引いて中に入っていく。
いらっしゃいませ、と折り目正しく腰を折った店員の丁寧さは、その店の格式と比例していた。
ちょっと、と彼の袖口を軽く引く。
 
 
「ここ、女物よ。それに高そう」
「わぁってるって。いいんだ、金ならある」
 
 
そう言って彼は開いている方の手でコートのポケットを叩いた。
そこには一週間の収入を含む彼のおこづかいが入っているのだろう。
サンジ君はあたしとつないだ手をするりと離し、代わりに肩を支えてあたしを店員の前に押し出すようにした。
 
 
「彼女を仕立ててほしいんだ、コートは今着ているやつのままで、それに合うものを」
「かしこまりました」
 
 
縦長のラインが美しい店員の女性は、すっとその場を離れた。
サンジ君、と彼を見上げると至極機嫌のいい顔つきがそこにある。
 
 
「一度、オレがナミさんを仕立ててみたかったんだ。服、オレが選んでいい?」
 
 
あたしが呆気にとられているうちに、店員がいくつか服を手にして戻ってきた。
広げられたそれらを、彼は真剣に吟味した。
 
 
「ナミさんこれ着てみねぇ?」
 
 
その一言で、あたしは否応なく試着室へと連行される。
習い性で服を着替えて出てきたあたしを、サンジ君は緩んだ顔で出迎えた。
 
 
「すっげぇかわいい、似合ってるよ。あ、でもこっちも着てみねェ? 色的にこっちのがナミさんぽいかも」
 
 
店員がサンジ君の選んだ服をハンガーから外して、にこやかに渡してくる。
あれよあれよという間に、あたしは3,4回試着を繰り返した。
 
そうして彼が「これがいちばんかわいい、似合う」と太鼓判を押したのは、落ち着いた茶色の生地に薄いオレンジと黄色がマーブル模様に彩られたワンピースだった。
ぴったりと身体に寄り添うラインに対して、生地がなめらかで柔らかいのでやらしくない。
膝上で揺れるスカートにあしらわれた刺繍がかわいい。
丁度今履いているショートブーツにもよく合った。
 
 
「これください。彼女が着てた服、袋に入れてあげて」
 
 
お金を取り出しながらたのしそうに揺れる彼の襟足を、ただ呆然と見上げていた。
 
 
ありがとうございました、と深々頭を下げられて店を出た。
セーターとパンツが入った紙袋はサンジ君が肩から下げている。
今度は確かめられることなく自然と手を取られた。
 
 
「じゃ、メシ行こうか。何食いたい?」
「サ、サンジ君。服いいの?」
 
 
サンジ君はじっとあたしを見下ろした。
まっすぐすぎる視線に、あたしがたじろぐ。
 
 
「うん、やっぱりその服が一番いいな。今日が終わってもたまに着てくれる?」
「それは……うん、着るけど」
「いいんだよ、オレ今クソ楽しいから」
 
 
行こう、と手を引かれて歩き出す。
寒さに寄り添う人々が行きかう街の一部に、あたしたちも加わった。
 
 
 

 
適当なお店でランチをとった。
サンジ君はよくしゃべったが、ときたま黙ってカップに口をつける顔は知らない人のように見えた。
 
街を歩き、人と人の狭い間を通り抜けるとき彼は守るようにあたしを引き寄せた。
そのたびに肩と肩が重なるようにぶつかった。
繋がったままの手の甲は乾いていてかさかさ音を立てそうだったが、サンジ君の手のひらはかすかに湿っていた。
緊張しているようには見えないけど、見えないだけだろうか。
 
さらにいくつかお店を回る。
まるでロビンと買い物をするときのようにあてどなかったが、彼の完璧なエスコートはついこの間ロビンが喜んだあたしのそれとは比べ物にならなかった。
 
少し足が疲れた頃合いに一度休憩を挟む。
そのタイミングも絶妙だった。
サンジ君が心なしか向かいの席でそわそわしているので、「吸ってもいいわよ」と言うと申し訳なさそうに笑って煙草に火をつけた。
目を細くして煙を吐き出すサンジ君を見ていると、この人は船でいつも見ている人と同じだということを思い出すことができた。
 
 
「そうだナミさん、さっき実は病院の外にいただろ」
「見てたの?」
「いや、あとからガキ共に聞いた。もう興奮してすげぇ騒ぎよ。何したの?」
 
 
あたしは簡単に少女との約束と、細氷──いわゆるダイヤモンドダストを発生させた経緯を話した。
ナミさんらしいやと笑ったサンジ君は、同時に思い出したようにポケットにおもむろに手を突っ込んだ。
 
 
「これ、ナミさんが拾ってくれたんだ」
 
 
彼の手にチョンと乗るのは小さな色紙。
半分に折れたそれはつたない文字で綴られるラブレター。
落ちてたの、と答えた。
 
 
「洗濯するときにたまたまあたしが拾って」
「そうか、よかった。気付かずこれごと洗われるところだった」
 
 
レディの気持ちは大切に、とサンジ君は笑みに含みを持たせて、手紙を胸ポケットにしまい込んだ。
 
 
「何かわかんなかったから、中見ちゃったわよ」
「あぁ、そりゃいいよ……ってか仕方ねェさ」
「ね、なんて返事したの」
 
 
その子に、と胸ポケットを指差した。
サンジ君は灰皿に置いてあった煙草をひょいとつまんで口まで持っていく。
そのままなにも言わずに煙草を吸うので、このまま答えないつもりかと思った。
 
 
「好きな子がいるんだ」
 
 
そう彼が口を開いたのは、一服の後だった。
咥えた煙草を再び灰皿に戻し、とんと灰を落とす。
ぱらっと白黒の粉が散った。
 
 
「オレはもう、その子しか好きになれない。レディの気持ちはありがたいけど──ってとこかな」
 
 
色男はつらいぜ、と冗談を交えた語り口にほっとした。
だからあたしも、「その子の見る目が養われますように」と軽口をたたくことができた。
 
 
 

 
 
再び街へ出て、サンジ君はネクタイを一本新調した。
勘定をしながら、そういや自分の買い物すんのなんて久しぶりだな、と彼はぽつりとつぶやいた。
 
 
「そう? アラバスタとか、いろいろ売ってたじゃない」
「あそこのもんはまた異質だったろ。そういうのもいいとは思うが」
 
 
たしかに一風変わった香が焚かれた生地でできたキャラバンの衣装は、サンジ君の普段着には程遠い。
彼のフォーマルな服は、こういうなんでもない服屋さんで調達するしかないだろう。
そういえば以前、もうずいぶんと前な気がするが、私のために彼はネクタイを引き裂いてくれたのだった。
 
 
「なにふけってんの、ナミさん」
 
 
ふけってなんかないわよ、と言い返すあたしを笑っていなしながら店を出た。
 
日が暮れるにつれて、空にかかる雲が次第に分厚くなってきた。
頬に触れる空気も切れそうなほど冷たい。
予想の通り、天気はこれから崩れてくるだろう。
厚い雲の向こう側からかろうじて滲むオレンジの光に向かってゆっくり歩きながら、ねぇと声をかけた。
 
 
「そろそろ戻った方がいいんじゃない? 夕飯の準備があるでしょ」
 
 
足を止めてゆっくり振り返ったサンジ君は、微妙に困った顔でうつむいて頭をかいた。
 
 
「実は、さ。その、ロビンちゃんが」
 
 
──航海士さんとおでかけするんでしょう? 夜までゆっくりしていらっしゃいな。夕食は私たち適当に済ますから。平気よ、私のおごりで外に食べに行きましょうとでも言うわ。
 
あたしはぽかんと口を半開きにして、言いにくそうに話すサンジ君を見上げた。
だからさ、と彼は続ける。
 
 
「晩飯もオレと一緒に……だめ?」
 
 
返事を待つ彼の目はさながら捨てられた犬だ。
だめもなにも、と声を絞り出した。
 
 
「今日はあんたの言うとおりに、なんでしょ」
 
 
サンジ君はさっと安堵の表情を横切らせてから、そうだったなと笑った。
彼が掴み直すように、ギュッと握った手に力を込めた。
思わず身じろぐように手を動かすと、自然と指先が絡んだ。
あたしたちの手は第一関節だけを交互に組み合わせた不自然な形のまま、それでも繋がっていた。
 
少し早いけど、と言いながらレストランに入った。
格式ばったものではなくほのかな温かみのある雰囲気に、冷えて固まっていたからだがほぐれる。
コートを脱いで席に着くと、サンジ君はまた「やっぱりかわいい」と褒めてくれた。
 
料理は店の温かな雰囲気にそぐう家庭料理のフルコースだった。
前菜も、スープもメインもやさしい味で箸が進む。
サンジ君は初め気を付けていたようだったが、食べていくうちにコックの性か、口の中で食べ物を検分しているような顔を何度か見せた。
 
おいしいわね、とこぼしたあたしに、サンジ君はゆっくりと笑った。
青い瞳が泣く直前のように揺れて見える、そんな笑い方だった。
 
 
食事を終えて外に出ると、びゅっと冷気が首筋をなぶった。
すっかり暗闇の落ちた街並みに、ちらほらと白い粉が舞っている。
寒いと思った、とサンジ君は呟く。
 
 
「ナミさん脚寒ィだろ」
「うん、すっごくね。……あぁでも、おなかいっぱい。ごちそうさま」
「いいえ、オレも腹いっぱい。あー……」
 
 
サンジ君の声はなにかを噛みしめるようにも、そっと吐き出すようにも聞こえた。
外を歩く人の数は昼に比べるとずっと少ないが、それでも何人かが互いに暖を取るように寄り添って足早に過ぎていく。
あたしたちはこれからどこへ行くのだろう。
 
店を出て立ち止まるわけにもいかず、何となく歩き出した。
きっと二人ともどこへ向かうつもりもないのだろうが、自然とその行き先は船になっていた。
そっとサンジ君の手があたしの手を捉えて、再びつながった。
 
店を出た途端、サンジ君はぴたりと話すのをやめた。
だからあたしも何を言っていいのかわからず、ずっと口をつぐんでいる。
さらさらと注ぐ細かい雪が頬を滑り落ちていった。
沈黙は氷点下の寒さで凍ったようにふたりの間に滞っていたが、その中身はまだ液体でたぷたぷと揺れている、そんな感じがした。
沈黙にひびが入れば、中の液体はとろとろと漏れ出るだろうと思った。
漏れ出たらどうなるのだろう。
怖さと興味があたしをつつく。
 
ナミさん、と半分掠れた声が呼んだ。
足が止まった。
 
 
「ナミさん、どうしようオレ、帰りたくない」
「……サン……、どうしようって」
「帰りたくねェんだよ」
 
 
ナミさん、とすがるようにあたしを見つめる。
道の真ん中で立ち止まるあたしたちを、通行人が邪魔そうによけて歩いて行った。
そんな、とあたしは声を絞り出す。
 
 
「子供じゃ、ないんだから」
「そうだ、子供じゃない。大人の男として、オレは今ナミさんを帰したくない」
 
 
何かを言おうと口を開けると、冷たい空気が吹き込んで喉の奥を凍らせた。
なにも言うことができない。
鼓動ばかりが動いて、胸の奥がずくずくする。
どうして、いつものようにあしらうことができない。
 
突然、思わぬ近さから見知った声が飛んできた。
あたしとサンジ君は同時に声のする方へ顔を向ける。
まばらな人ごみの向こうで、ひときわ明るい笑い声を響かせる数人の歩く姿が見えた。
ロビンが外食に連れ出したその帰りだろうか。
案外楽しそうに盛り上がっていて、再びわっと笑い声が弾けた。
 
 
「ナミさん」
 
 
サンジ君が手を引く。
あたしを建物の影と影の間に連れて行く。
細い路地で隠れるように身を寄せて、仲間の一行をやり過ごした。
彼らのにぎやかな声が次第に遠くなっていく。
いつの間にか詰めていたらしい息をほっと吐いた。
するとサンジ君が思わぬ近さにいることに気付き、ふたたび息を呑む。
温かそうなコートの襟元がすぐそこにあった。
ナミさん、と聞きなれたその声は寒さのせいか心なしか震えている。
 
 
「オレの無理やりな勝ち負けに一緒にこだわってくれたり、一緒になってうまそうにメシ食ってくれたり、こうやって今みたいにあいつらから一緒に逃げてくれたり、正直そう言うのすげぇ期待する」
「きっ……」
 
 
そんなつもりはなかった、という言葉がどれだけむなしいものか、容易に想像がついた。
もてあそぶくらいなら初めから近付かせない方がましだ。
そうわかっているつもりだったのに、あたしの言動は彼を期待させたのだろうか。
彼のまっすぐな心を、もてあそんだのだろうか。
 
ごめんな、と彼はいい慣れているだろう言葉をぽつりと零した。
 
 
「ナミさん困るだろ。困らせるつもりじゃねェんだ、これはほんとに。ズルいよな、わざわざガキの遊びみたいな賭け事持ち出して、一日オレの言うこと訊いてなんざ、安っぽいよな……」
 
 
ハハ、と乾いた笑い声をあげて、彼は小さく鼻をすすった。
冷たい風が足元から吹き上げた。
 
 
「でもそれくらいどうしようもねェんだ。あんたの前ではどれだけでもかっこ悪くなれる。こんなに近くにいるのに、毎日オレの作ったメシ食って笑ってくれるのに、見てるだけなんて、拷問だ。死んだ方がましだ。いっそ楽にしてほしい」
 
 
暗い風穴が見えた。
冷たい風が吹き出す黒い穴だ。
明るく、朗らかで、凪いだ海のように穏やかに笑う、口が悪くて手の早いあたしたちのコックさん。
彼の胸に開いた針の穴ほどの黒い点が、今はあたしの目に見えるほど大きくなっている。
えぐって穴を広げたのはあたしだ。
 
彼が握る手の力を強くした。
その力を感じて、まだ手が繋がっていることに気付いた。
 
 
男の人とこうやって手を繋いだのは初めてだった。
協力し合うという意味で「手を組む」と言うのでも、物理的な力が必要で引っ張ってもらうのともちがう。
あたしの手よりも大きな手がふわっと全体を包んで、離れるときさえ撫でるようにやさしい。
その手が、するりとあたしの手から抜け落ちるように離れた。
 
とん、と肩に重みが乗る。
冷くて柔らかい髪が、頬と鼻先をくすぐった。
 
 
「ごめん、他どこも触らねェから、肩だけ貸して」
「サン……」
「好きだ。ずっと、これからも、あんただけは特別だ。だからもう終わる」
 
 
サンジ君はすっと顔を上げてあたしを見つめた。
青い瞳は澄んでいる。どこまでも曇りがない。
 
終わるんだ、と彼は繰り返した。
 
 
「オレは自分で自分の恋に幕を引く。あんたはそれを見ていっつもみたいにばかねって笑っててくれりゃいい」
 
 
サンジ君は透明度の高い海のような目を一瞬閉じて、また開いて、微笑んだ。
薄く開いた唇があたしの鼻先で言葉を紡ぐ。
 
あぁ、おれはほんとうに、あんたのことがすきだった。
 
 

「……帰ろうか」
 
 
かがめていた腰を伸ばして、サンジ君は静かにそう言った。
路地から出ると、ささめ雪は大きなぼたん雪に変わっていた。
明日の朝には積もるかもしれない。
ルフィがきっと喜ぶだろう。
 
雪で白くなってはすぐに元の暗い色に戻る地面を見つめながら、あたしたちは船へと歩いた。
 
 
──あんたのことがすきだった。
 
 
とろとろと漏れ出た液体は生暖かく、血のようにふたりの間から流れていった。
あたしもサンジ君も、それを拭おうとはしなかった。
 
 

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さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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