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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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         7.5(サナゾ注意)   10 11

12

人を呼びつけておいて、訪ねていくとジジイは夕方だというのにソファで寝こけていた。
「おい、おい」とつま先でソファを蹴る。ジジイは億劫そうに一度目を開けたが、おれを確認すると「なんだお前か」と言いたげな表情で、また目を閉じた。

「おいっ! クソジジイ、寝るなっ」
「うるせぇなぁ、チビナス」

やっと身体を起こしたジジイがあくびを噛み殺しながら頭をかき、いれっぱなしの茶をすするのを苛々しながら待つ。

「なにボケッと立ってやがる。新しい茶でも淹れねぇか」
「客人はおれだろうが!」
「甘ったれんな。自分ちで偉そうに」

そう言われるとぐうの音も出ない。おれはどすどすとわざと足音を立てながら、勝手知ったるキッチンへと向かった。
熱い茶の湯気を挟んで、ジジイと向かい合う。数年ぶりの実家のソファは、妙に尻に馴染んだ。

「チビナステメェ、店辞めるつもりか」

淹れたての茶をこころなしか嬉しそうにすすっていたかと思うと、おもむろにジジイは切り出した。

「は? 辞めねぇよ。カルネがなんか言ってたのか。てかチビナスって言うな」

おれの成績も、まぁ右肩上がりとは言えないが退職を迫られるほど悪くはないはずだ。

「休んでんだろ」
「あぁ……まぁな。たまにゃいいだろ。てかジジイこそ」

ジジイは、おれが勤めるクラブの他にもホストクラブを一軒、あとはホストたちが着るスーツを扱う紳士服店を一軒経営している。
親族から見てもまだカクシャクとしているジジイなので、常にそのどちらかの店には夕方頃から顔を出していたはずだ。おれの店には、おれがいるのでほとんど来ない。

「ああ、あっちの店は閉める」
「はぁ!? 儲かってねーのか」
「いや」

サンジ、と名を呼ばれ、思わず真顔で顔を上げた。おれを見据えるジジイと視線がかち合ってしまう。

「おれァ、やりたいことがあるんだ」

だから店は閉める。
まるで精悍な若者のように迷いのない目で言い切られ、二の句が告げなくなった。
なんのために自分が呼ばれたのか、訊こうと口を開く前から実は気付いている。
相槌も打てないまま、おれは間を持たせるために煙草に火をつけた。
「まだそんなもん吸ってやがるか」とジジイは苦い顔をしたが、無視して立ち上がる。
昔使っていた灰皿が、台所の隅に置きっぱなしになっていた。
磨き上げられたシンク、研いだばかりの包丁が数種類、大小様々な鍋。それらに目をやりながら、一服する。
ジジイが丁寧に整えたキッチンを、てらいなく美しいと思った。

ジジイの家から帰る道すがら、ふと目に留まってなんとなく立ち寄った不動産屋で、めぼしい物件を見つけた。
内見を申し込むと、実はまだ先住者がいて見ることができないのだと言われる。
なんだそりゃ、と諦めようとしたが追いすがられ、改めて詳細を聞いてみると、立地、家賃、内部設備などなどどれも希望にかなったものだった。
こちらのプロフィールも開示した上で、審査は大丈夫そうか念を押して見ると、不動産屋はすぐに管理会社とオーナーに電話で確認を取ってくれ、何も問題はない、形式的な審査はあるが、おれのプロフィールならおそらく大丈夫とのことだった。
内見ができないことが気になるが、なんとなくここで決まりそうな気配がしている。にこにこと愛想のいい不動産屋は感じが良かったし、茶を運んでくれた年上のレディは上品で綺麗だった。
結局仮押さえ、という形で申込書を出してきてしまった。
決まるときはトントン拍子で決まるものだ。
今のアパートからは仕事場の駅を挟んで反対方向のエリアになる。だいぶ離れるので、アパートの住人にばったり出会うということもないだろう。
諸々の書類が入ったビニール袋をぶら下げて、いよいよ出ていかざるを得なくなってきた、という思いが頭をよぎる。
ナミさんの部屋の前で「ここを出るよ」と言ったとき、自分では本気のつもりだったがちっとも具体的にイメージできていなかったのだ。
もう二度と、夜中のリビングで仕事をするナミさんに「おかえり」と言われることもなければ、毎月家賃を徴収しに来る彼女を早起きして待つこともない。
やっと寝付いたばかりの朝六時頃にウソップがどたばたと階下に降りる足音に起こされることもなくなるが、なにか作ってくれと住人たちがすがりついてくることも、大勢でテーブルを囲むこともなくなる。
寂しいのか? と胸に問うてみるが、特に、という感じだった。
ただ、いうなれば手持ち無沙汰というか、物足りないというか、そういう気分だった。
きっとこの物足りなさはすぐに埋まる。新しい日常に埋没して、忘れてしまうだろう。
ナミさん以外の部分は。

──などとぐじぐじ考えながら、コンビニに寄り道して350mlの缶ビールと無償に食べたくなったのでタン塩を買い、アパートの玄関を開けると真正面にナミさんが立っていて息が止まるかと思った。
ナミさんも驚いたように目を丸めて、手にしたフローリング用のワイパーを握りしめている。

「た、ただいま」
「……おかえりなさい」

ナミさんはおれに背を向けて、風呂場の手前にある掃除用具箱にワイパーを仕舞いに行った。
あーびっくりした、心のなかで呟いて、無視されなくてよかったとおれは内心胸をなでおろす。
リビングには明かりが灯っているが、人のいる気配はない。いつものことながら階上も静かだった。

「入れば?」

いつのまにか傍に戻ってきていたナミさんが、立ったままのおれを邪魔そうに避けてリビングに入っていった。
特に用はなかったが、ナミさんの言葉に許しを得た気分で彼女のあとに続いた。
ダイニングには、おれが買ったものと同じ缶ビールと枝豆、あとチーズが小皿に載っていた。飲んでいたのか。でも、さっきは掃除用のワイパーを持っていた。

「パントリーの奥の床が埃っぽかったから、掃除したの」

おれの心を読んだように、ナミさんが答えた。

「ああ、そう……ありがと」
「なんであんたがお礼を言うのよ」
「だって共用スペースだし」

ナミさんはダイニングの席に座りながら、つとおれを見たが、何も言わずに缶に手を伸ばした。
時計を見る。まだ一九時だ。

「ナミさんメシは?」
「おなかすいてないの」
「なにか作ろうか」
「いい。すいてないんだってば」

ナミさんはおれが手にぶら下げたビニール袋に目を留めた。

「……ビール?」
「あ、うん」
「あと、なに」
「タン塩」

ビニール袋から出してみせると、ナミさんは自分の手元に視線を落としてから、「ちょうだい」と平べったい声で言った。

「私のもあげるから」

お箸二つ出して、と言って彼女は枝豆のさやを口に含んだ。

ナミさんと向かい合って缶ビールのプルトップを開ける。空気の抜ける新鮮な音が弾けたが、おれはどうにも気が重かった。
ナミさんは以前のように闊達に話をしてくれるわけでも、笑顔をみせてくれるわけでもない。ただ淡々と、おれなどいないようにビールを飲んでは枝豆を口に運び、横においたパソコンをときどき眺めてカーソルを動かす。

「……仕事?」
「ううん、買い物。ここの日用品とか」

それも仕事だね、と言ってみるが、そうね、と彼女は言うだけだった。
おれが開けたタン塩を、ナミさんは「いただきます」と一枚持っていく。

「今日、他のみんなは?」
「さあ、朝にロビンと会ったきり、だれも見てないわ」

静かな室内は、深夜のようだった。でも、おれたちがよく二人で過ごした夜更けとはなにもかもが違う。

「家、決まったの」

ナミさんがチーズを齧ったついでのように言う。

「ああ……ちょうど今日、いいところがあって仮押さえしてきた」
「そう。いつ?」

不動産屋の説明によると、今の入居者が二週間後に出ていくので、そこから急いでクリーニング業者を入れて鍵を交換して、

「一ヶ月後には入れるらしい」
「ふーん」
「ナ、ナミさん」

ナミさんが、持っていた缶をテーブルに置く。空っぽの軽い音がした。

「この間はごめん」

ナミさんは、感情の読めない静かな目でじっとおれを見つめた。揺れる電車でこけないように踏ん張るように、おれはぐっとこらえて彼女を見つめ返した。
ナミさんは、興味を失ったようにふいと目をそらした。その仕草に、なぜか胸が疼く。

「いいわよ、別に。あんたの言うとおりだし」
「いや、違う、あれは」
「こっちこそ」

ナミさんは急に疲れたため息をついた。

「水ぶっかけてごめん」

彼女が本当に謝りたいと思っているわけではないことは、わかりきっていた。この場をやり過ごそうとしているだけだ。
おれは返事もできず、水っぽく光る薄いタンを見下ろした。
本当に、ナミさんにとっておれはもう、そのうち出ていく他人なのか?
おれはただ、このアパートで過ごした短い月日、一方的に心を揺さぶられただけだったのか?

「ナミさん、おれ」
「よかったわよ、あんた、出ていくことにして」

ナミさんは薄く笑っていた。

「こんな引きこもりにいつまでも執着してたんじゃ、時間がもったいないもの」

本気になる前で良かったわね。
ナミさんは立ち上がると、カラの缶と箸をシンクまで運び、手を洗うとそのまま出入り口の扉へと向かう。
すれ違いざまに見た彼女の表情に、おれは咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
さっきまでの淡白でしらっとした雰囲気が嘘のように、彼女は今にも粉々になりそうな、張り詰めた顔をしていた。

「本気って、本気ってなんだよ。本気だとか本気じゃないとか、一度も考えたことねェよ」

ずっと、ずっとずっと、好きだと感じた気持ちに忠実に動いていただけだ。
しかし頭の別のところでは、おれたちの始まり方が間違っていたんじゃないかともやもやとした不安が湧き上がってくる。
あの日、酔いつぶれる寸前で、彼女の蝶のような手のひらにひらりと招かれて身体を重ねた。
もっと丁寧に彼女との時間を過ごし、自分の気持ちを伝えていたらこうはならなかったんじゃないか。
──不意に、ナミさんがどういうつもりでおれを誘ったのかに気付き、雷に打たれたように動けなくなった。
ナミさんは、先に身体を明け渡すことで線を引いたのではないか。
セックスできたのだからもういいでしょうというように、精神的な繋がりまで求められないように先に布石を打っておいたのではないか。

「……もういい?」

ナミさんは手首を振りほどくことなく、ぽつりと呟いた。

「良くない。いいわけねェだろ。おれがここを出ていくのは、ナミさんのことを諦めたからとか一緒にいるのが気まずくなったとか、そんなクソつまらねェ理由じゃない」
「そんなことはどうでもいいのよ」

ナミさんは顔を上げた。さっきのため息のときのように、疲れた影のある目でおれを見上げる。

「私のこと知りたいのよね。じゃあ教えてあげる。私が家から出ないのは、隠れてたからよ。昔、お金が返せなくなって暴力団関係の店で働いてたの。借りた金額まで達しそうになっても騙されたり掠め取られたりしてすぐに借金が増えて、ずっといたちごっこだった」

四年よ。ナミさんはおれが掴んだ手首に視線を落とす。

「四年間ずっとそんな生活だった。店は二年前に検挙されて潰れて、組織も解体した。私はそのとき解放されたけど、行くあてがなくて、検挙に関わってたルフィのおじいさんが私に管理人の仕事をくれたの。仕事っていうのは建前で、匿われたのよ。組織は解体したけれど、所属していた人間は捕まったり捕まらなかったりで、私は最後までお金を返していないし……まぁ雪だるま式に増えた利息がほとんどだろうけど」

どう? とナミさんは挑むようにおれを見据えた。

「めんどくさいでしょう。厄介な女でしょ。出ていくなら早く」
「めんどくせェ」

彼女の目にピリッと痛みが走る。

「御託はいいよ。んなこと知らずに好きになったんだ」

引き寄せると、軽い布が風にそよぐようにナミさんの身体がおれの胸にぶつかった。
抱きしめて頭に鼻先をうずめると、彼女はおれを腕で押してもがくように暴れた。

「離して!」

いやだと言う代わりに掴んでいた腕を引き上げて上を向かせると、その唇に食らいついた。
びくりと細い身体がこわばったが、かまわず舌を差し込む。
それでもつっぱり続ける強情な腕に笑いそうになった。
胸を押してくる方の手も掴んで、彼女の両手をおれの腰に回し、おれも彼女の背中を引き寄せる。
隙間がなくなった互いの身体がじわっと熱くなる。
息を継ぐ瞬間薄く目を開けたら、彼女はこれでもかというくらい眉間にシワを寄せていた。
しかし、いつのまにか彼女の手はすがりつくようにおれの服をつかんでいた。
唇を離しても、彼女はおれの服を離さなかった。
頬に指を滑らせて、目元に触れる。濡れているような気もしたが、よくわからなかった。

「いやなことを……思い出させてごめん」

ナミさんはふらつきながら一歩おれから離れると、ナミさんは心底嫌そうに眉間をこすり、「だから言いたくなかったのよ」と床に向かって言葉を落とした。

「同情されるのもいや。下手に勘ぐられるのもいや。私はここで、誰にも見つからずに静かに暮らしたいだけなのに」
「でも、見つけちまったし」

おれが彼女を見つけてしまった。隠れて生きるにしては光りすぎていた。

「出たくないなら出なくていいよ。ずっとこの家の中にいたらいい。もしも外に出たくなったなら、おれが守るよ」
「簡単に言わないで」
「簡単だよ」

誰かを好きになることも、過去を飛び越えることも、驚くほど簡単なはずだ。
ナミさんは深く息を吸い、吐いた。

「もう寝る」
「……まだ二〇時前だけど」
「寝るのっ」

俯いたまま踵を返したナミさんは、よろけそうな足取りでリビングを出ていった。
おれは彼女が出ていった扉が音もなく閉まるのを最後まで見届けたあと、ぬはぁーーーやっちまったかなぁ~とでも叫んで床をごろごろ転げ回りたかったが、他の住人が降りてきては困るので、静かに机の上を片付けたのだった。




一週間ぶりの仕事は、拍子抜けするほど身体が覚えていた。酒の味は前日に慣らすつもりで飲んだ缶ビールが水っぽく思えるほどアルコール臭かったが、特別酔いの回りが早いということもなかった。
ゾロはおれが休みの間も普段どおり勤務していたようで、客にはおれのバーターとして飲まされていたらしい。
よほどいい思いをしたのだろう、ゾロは「なんだテメェ、もう戻ってきたのか」とがっかりしていた。
休み明けの数日は盛況だった。
お得意様に営業メールをばらまいておいたし、突然の休暇のお詫びも一人ずつに用意した。
お陰で売上は復帰してから一位、二位、二位、一位と好調だ。

「サンジくん」

名前とともに腕を引かれる。はっとして、ほんの一瞬跳んだ思考をすぐに眼の前のレディまで連れ戻し、「なに」と優しく手のひらを重ねた。
仕事をしている間は彼女のことを忘れられる。忘れられるが、オレンジ色の髪、似た声、おれの呼び方なんかにいちいちナミさんが脳裏をちらついた。
久しぶりにしたキスの感覚が、いつまでも生々しくこびりついている。
家が変わった程度のことで失くしてしまえる思いではないのだと身に沁みた。

閉店後、カルネがもじもじしながらおれを呼び止めた。
おれはというと、太客が二時間おかずに二人来たもんだからさすがに今日は飲みすぎて、さっきトイレで吐いてきたところだ。青白い顔で立ち止まった。

「んだよ。早く帰りてェのに」
「お前、店のこと、オーナーに聞いてんだろ」
「あぁ……まぁ」
「おれも誘われてんだ、実は」

そうだろうな、とおれは頷く。ジジイが昔から馴染みのあるカルネをほっぽり出すわけがない。

「いいんかな、ってな。その、本当に」
「なにがだよ」

もじもじすんな気持ち悪ィ、と吐き捨てても、カルネはいまだ手元をぐねぐね動かしながらつま先に落とした視線をさまよわせている。

「だっておれ、もう四〇だぜ。こんな歳になって、今更」
「それ、ジジイの前でも言えるか?」

カルネはぐぅと言葉を飲み込んだ。意図せず笑いがこぼれた。

「あのジジイこそいくつだよ。いい歳こいて夢見てんだから、行けるとこまで付き合ってやれよ」
「サンジ、お前は?」

こみ上げてきた酒臭いげっぷを飲み込んで、「考え中」と呟いた。
「車の用意できっしたー」とスタッフが入口付近からおれを呼んだので、一方的に話を切り上げたがカルネはそれ以上言い募っては来なかった。

家に帰ると、ここ数日と同じようにリビングは真っ暗に明かりが落とされている。
ナミさんは、以前に増しておれを避けるようになった。他の住人がいるときでさえ、その態度は露骨だ。
呆れたおれは、わざと彼女に声をかけてみたりする。すると、肉食獣に狙われた小動物のようにぴゅっと逃げるのだが、去り際、ものっすごく鼻に皺を寄せておれを睨んできた。
新しい家の手続きは着々と進んでいる。
勝手に家を決めてしまったおれに、ウソップはひどく落胆した。どうやら、うだうだと文句をつけておれの引っ越しをなしにさせる腹だったらしい。
ウソップが、引っ越しの理由を聞きたがっているのには気付いていたが、のらりくらりとかわしていたら、かわされていることに気づいたウソップは聞きたそうにしながらもけして聞いてはこなかった。
そういうところが、おれは好きだ。
久しぶりに帰ってきていたルフィは、またどこかへふらりと出掛けてしまったのか姿を見なくなった。
ロビンちゃんも、仕事が忙しいとかで部屋に閉じこもっている。
一度だけ廊下ですれ違ったとき、妙によそ行きの格好をしていたので驚いて「おでかけ?」と声をかけると、「えぇ、仕事でどうしても」と言って優雅な彼女には珍しく慌てた様子で出掛けていった。
五連勤後の休みの朝(といっても十一時近かったが)、腹が減って階下へと降りていったら、ナミさんがひとり、からんと静かなリビングの真ん中で佇んでいた。手には布巾のようなものをぶらさげていた。掃除中なのだろう。
こちらには背を向けていて、降りてきたおれには気付いていないようだ。
何かを見つめているのか、考え事でもしているのか、その身体は微動だにしない。あまりに動かないので、声をかけるタイミングを失って、しばらくのあいだ彼女の背中を見つめていた。
──寂しいみたいだ。
ふとそんな印象が浮かんで、彼女に投げつけた自分の言葉が不意に蘇る。

『欲しい物が勝手に集まってくるって、そんなわけねーじゃん』
『今だけだよ。この家の奴らだって、今は楽しくても、いつかは出ていく』

心も体もこのアパートの中に閉じ込めた彼女を傷つけるために投げたのに、今になって自分の言葉がえぐりとった彼女の傷の大きさに胸が痛んだ。なんという勝手な、と我ながら呆れてしまう。
何も感じていないかもしれない。そこで佇む彼女は、今日のランチのことでも、少なくなってきた洗剤の詰替のことでも考えているのかもしれない。
でも、とみにばらばらと動き出した住人たちの流れの中で、彼女一人がどこにもいけずに冷たい川の水に足を浸し続けているように見えてしまった。
掬い上げてやりたい。
でも彼女は望んでいない。
不意にナミさんが首を動かし少し俯いたあと、こちらを振り向いた。

「あ、」

おれをみとめてぎくりと身体をこわばらせ、すぐに目をそらして足早にキッチンへと向かう。
追いかけて距離を詰めると、彼女は素早く振り向いた。目がもう怒っている。

「な」

抱き締めて彼女の顔を胸に押し付ける。くぐもった声で暴れる彼女を羽交い締めにするように両腕で囲い、逃さなかった。

「ごめん」

ナミさんが動きを止めた。

「ごめんな」

なにに謝っているのかわからなかった。多分、彼女もわかっていないと思う。
毎日毎日呆れるほどたくさんの女性と過ごして触れ合ってそれでもどうして彼女だったのか、言葉でも時間でもなくどうして身体から繋がってしまったのか、触れないでと彼女が叫んでいるのにどうしてその心をこじ開けずに入られなかったのか、あの夜あんなふうに彼女を傷つけそれにまた自分も傷つき、何もかもを放り投げてしまいたいのにどうして今彼女を抱きしめているのか。

おれの腕から逃れようと暴れていた身体が一回り縮み、静かになっていた。
腕の力を緩めると、薄い紙が剥がれ落ちるように彼女の身体がおれから離れた。
かと思えば、次の瞬間伸ばされた両手がおれの首にかじりついた。
引き寄せられた身体が傾き、咄嗟に彼女の向こうにあったシンクに片手をつく。
首にぶら下がった彼女の身体を抱きとめた瞬間、するりと腕が抜き取られて彼女の身体が離れた。
肌に触れた温度が夢だったみたいに、ナミさんはそのままリビングを出ていった。

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         7.5(サナゾ注意) 

10

朝8時前にメールが来た。おれの太客のうち一番若い彼女だった。
『今日仕事早く上がれそう。おすし食べない?』
同伴の予定もない俺は、手癖のように『やった、喜んで』と指先だけで返事を打つ。
送信ボタンを押す間際、何故か指が止まった。いまいましいゾロの声が不意に蘇った。

──必死こいて金ためて、

振り払うように軽く目をつむり、送信ボタンを押す。
おれはおれの仕事をしているだけだ。誰を不幸にしているわけでもない。
携帯を枕元に放り投げ、ふたたび布団に顔をうずめる。
だいたい毎日11時前後まで眠っているが、仕事前に連絡をしてくる客のメールで起こされることもしばしばだ。
いつもならさっさと返事をしてまた寝付くのだが、なぜか今日は二度寝することができず、腹立たしい気持ちで体を起こした。もちろん、連絡をくれた客にではなく、ままならない自分に腹が立っているだけだ。

階下に降りていくと、ナミさんが一人で廊下の床に掃除用ワイパーをかけていた。
おれを目に留め、「あれ、早いのね」と言う。

「おはよナミさん。今日もかわいいね」
「ありがと。さっきウソップが出てったとこよ。朝ごはん食べる?」

いつも昼まで寝ているので、朝ごはんという概念がなかった。腹は減っていなかったが、

「ナミさんは? もう食った?」
「ううん、これから。さっき冷凍食品が届いたんだけど、業者が保冷用の氷溶かしちゃったとかで箱がビショビショで。先に掃除したの」
「そりゃおつかれさん。一緒に食おっかな」

ナミさんはにっこり笑って、掃除道具を片付けに行った。
彼女が焼いてくれたトーストを、彼女の向かいの席で一緒にかじり、おれが入れたコーヒーを二人で飲んだ。
上の部屋で、誰かが歩いている気配がする。ゾロだろう。降りてきてくれるな、と呪うように思う。

「今日も仕事?」

ナミさんがカップに視線を落としたまま言う。
居心地悪く「ああ、うん」と素早く返事をし、「パンおいしーね、どこの?」と話を変えてみる。

「いつもと同じ。スーパーで一斤158円のやつだけど。今日はどこでご飯食べるの?」
「えー……すし、だったかな」
「また? 奢ってもらえるんでしょ、いいなー」

ってサンジくんはそれが仕事か、とどうでもいいことのようにナミさんは笑った。
まあね、とおれも曖昧に笑う。どうしてこんなにも後ろめたいのだろう。

「ロビンと言ってたの。きっとサンジくんは年上の人にモテてるよねーって。ちがう?」
「……はは、鋭いね」
「でしょ。それでね、サンジくんにハマっちゃう若い女は、絶対本気になってるわよ。疑似恋愛なんかで割り切れなくって、入れ込んじゃうの。サンジくん優しいから、現実との境界が曖昧になっちゃって」

今朝のメールの彼女が頭をよぎった。ナミさんはおれの顔をちらりと見上げ、返事がないのを図星と捉えたのか、得意げに「当たった?」と言った。

「ナミさん」
「ん?」
「どうしておれのこと、そんなにわかるんだ?」

ふと顔を上げた彼女は、不思議そうにおれの目を覗き込んで、「べつに。ロビンもそうやって言ってたし」と少し鼻白んだ表情で答えた。

「どうすればいいと思う」
「え? 何を」
「本気にさせちまったら、どうしたらいいと思う」
「どうって……どうしたのサンジくん」

いや、と彼女の視線を引き剥がすように目をそらし、残りのコーヒーを一気に煽った。

「なんでもない、ごちそーさん。やっぱもうちょっと寝るわ。昨日帰ってきたの3時だし」

ナミさんはきょとんとおれを見上げ、「そう」と言った。
逃げるようにリビングを出るおれの背中をナミさんの視線が追いかけている。気づいていながら、振り向きもせずドアを閉めた。

18時に駅へ着くと、客の彼女もちょうど駅ビルから出てくるところで鉢合わせた。その小さな姿を目に留め、スーツの襟を引っ張って正す。おれはおれの仕事をするだけだ。
おれの仕事は、彼女に一刻の幸せを与えること。
お待たせ、早いねと声をかける。振り向いた笑顔は極上だった。
ああ、おれじゃなかったらいいのに。咄嗟に思う。
だってこんなにもかわいいのだ。手放しでおれを思う気持ちが溢れている。でも、おれは一ミリもそれに答えてあげることはできない。
彼女がおれの腕に腕を絡めてくる。歩きだし、ちがう、と思考を振り払う。
答えてやってるじゃないか。こうして一緒に飯を食い、店でサービスし、楽しい時間を共有している。彼女はそれを望んで、こうしておれに会いに来ているのだから、これでいいのだ。
彼女との会話の断片が、せめぎ合う思考の隙間に流れ込んでくる。
「あのね、もうすぐ入店記念日でしょう? だから今日はその前祝い。ふたりで」
彼女がおれを連れてきたのは、いつもよく行くエスニック料理屋でも気軽なイタリアンでもない、カウンターの高級寿司店だった。
うれしい? うれしい? と子犬のような目で彼女が問いかける。
早く、早く驚かなければ。
すっげぇ、いいの? うまそうな店! 早く入ろう。楽しみだな、嬉しいよありがとう──

「ごめん、やっぱやめよう」

え、とおれの腕を引く彼女の手が止まる。

「無理しないで。金、早く返してきた方がいい」

さっと彼女の顔が赤らんだ。ああ、恥をかかせた。もっとうまい言い方があったはずなのに、矢も盾もたまらず言ってしまった。
おれとの待ち合わせの前に、駅ビルから出てきた彼女がどこに行っていたのか知っている。以前カバンから消費者金融の封筒が覗いているのを見てしまった。その無人ATMが駅ビルに入っている。
あの、でも、と懸命に言葉をつなごうとする彼女を見ていられなかったが、せめてもの誠意と思い、彼女に視線を合わせた。

「ごめんな。おれなんかに、今までいっぱい金使わせて。でも、そうまですることじゃねぇんだ」

楽しいラインを超えてしまう客を何度も見てきた。彼女のように消費者金融やカードローンを繰り返し、いつの間にかずぶずぶと返済の沼に沈んでしまうのは、この世界ではよくある話だ。
でも、おれのせいではない、と顔を背け続けるのはもういやだった。

「同伴も、毎回無理してくれなくていい。ときどき店に来てくれたらそれで」
「でも、それじゃ、私」
「一番にはなれないよ」

ぴりっと彼女の顔がひりついた。

「誰も、あの店ではおれの一番にはなれない」

どんなに金を落としたとしても。
ぱん、と高い音がした。
頬を張られたかと思ったが、彼女がカバンを落としただけだった。
君が一番だよ、と言い続けてきたのに。彼女の顔にはそう書いてあった。
じゃあ店の外で一番にして、私を本当の一番にしてと、そう言いたいこともよくわかった。

「ごめんな」

彼女は黙ってカバンを拾い、背を向けて駅の方へと歩いていった。
羞恥で言葉が出ないのも、なにか言ったら泣いてしまいそうなことも手にとるように伝わった。

「あーあ」

小さくなっていくその背中を見送って、誰にともなく呟いた。
暑いこの季節の18時はまだ明るく、空の色が少しずつ薄黒くなっていくのを見上げてもう一度「あーあ」と声に出した。

店に行くと、案の定カルネが「あれっ、お前同伴は」とすっ飛んできた。

「なしになった。悪い」
「悪いじゃねぇよ馬鹿野郎。あん? 何があった、なんかやらかしちゃねぇだろうな」

盛大にやらかしている。押し黙るおれの胸ぐらをつかんで引き寄せると、息がかかるくらい近くでカルネがすごんだ。

「お前今の店の状況わかってんだろ。まさかあの客、切っちまったんじゃねぇだろうな」
「わかんねぇ、切れるかも」

突き飛ばすように胸を押され、一歩後ろによろめいた。黙って胸元を整える。
カルネは怒りすぎて言葉が出てこないのか、ただフンスフンスと鼻を鳴らしておれを睨んでいた。
あの、もうすぐ開店で、と黒服が口を挟んできたので、これ幸いと奥に引っ込んでさっさと開店準備を始めた。
スタッフ待合の入り口でゾロとすれ違う。
おう、と目で応えて部屋に入ろうとしたら、「あの女か」とぶっきらぼうな声が飛んできた。

「あん?」
「こないだ来てた、お前の客の」

カルネとの話が聞こえていたらしい。「ああ」と答えると、ゾロは聞いたくせに興味がなさそうにふんと言うだけで、手にしたゴミ袋を掴み直した。
去っていくその後姿を見送っていると無性にぐちっぽい気分になり、「なぁ」と声をかけていた。
ゾロが振り返る。

「おれ、辞めようかな」
「勝手にしろ」
「向いてねーしなぁ」
「知るか」
「お前は。どうすんの、まだ続けんの」
「……金にはなる。仕事も覚えたし」

確かに、黒服の仕事は他のバイトに比べて賃金は高く、ゾロは頻繁にシフトに入っているようだった。仕事も要領を得たのか、近頃はグラスを割る音を聞いていない。
自分のやりたいことを中心に据えて、単純に稼ぐために働いているからだろうか。きつい仕事にも関わらず、ゾロは文句も言わず黒服の仕事をこなしている。なんなら店に馴染んで、重宝されている。

「いいよなぁお前。辞めたらどうすっかな、おれは」

また知るか、と言われるかと思ったが、ゾロはゴミ袋をつかんだまま目を細め、

「好きなことすりゃいいだろ」

当たり前のことを、とでも言いたげだった。

「好きなこと」

阿呆のようにおれは繰り返す。
ゾロはそれきり背を向けて、ゴミ置き場のある裏口へ、のっしのっしと歩いていった。
好きなこと。ゾロにとってそれは、なにやら自室でやっている彫刻だかなんだかの創作のことなんだろう。
おれの好きなことってなんだろう。
考えて、いの一番にナミさんの顔が浮かんだ。
馬鹿野郎、それはまた違うだろうがと自分の頬を叩いてから、そのアホさ加減に少し笑った。

その日はよく飲んだ。
おれの客は予定していた彼女以外来なかったが、他のホストのヘルプに入ったり、飛び込み客の相手をしたりしながらなんとか閉店まで客入りをつなぎ続け、店の明かりを落とす頃にはいつもどおり泥酔していた。
酔いに任せてふらふらとレジカウンターに近づき、中で目を血走らせて売上を計算するカルネに声をかけた。

「おれ、しばらく休むわ」
「はっ?」
「とりあえず明後日までのシフト終わったら、そうだな、二週間」
「おい、待て待て待て何勝手なこと言ってんだ」
「いいだろ、お前明後日より先のシフトまだ組めてねぇじゃん」
「馬鹿野郎、だからってお前が抜けたら売上どうすんだ」
「おれがいなくても大丈夫だって」

ぱんぱんと明るく肩をたたいてやったら、怒るのも忘れたのかカルネはぽかんと口を開けておれを見ていた。

「そんじゃおやすみ」

言葉を失うカルネを残して、送迎担当の黒服を捕まえた。「送ってくれ」とそいつの肩をつかんで、カルネになにか言われる前にさっさと裏口へ向かった。

車の中でがーがー寝て、「着いたっすよ」と起こされたら二時前だった。
今日は店で寝てしまわなかったぶん、帰りが早い。
玄関扉を開けると、案の定リビングには明かりがついていた。
「ただいまー」と言いながら部屋に入ると、ぎょっとした顔でナミさんが振り返った。
いつものソファの角でパソコンを腿に乗せて、めがねをかけている。

「びっくりした。早いのね」
「店で寝落ちなかったからね。あー疲れた」

ネクタイを引きちぎるように緩めながら、ナミさんの隣に腰を下ろす。
ナミさんは、おれをつま先から頭のてっぺんまで眺め回して不審げに目を細めた。

「おれ、明後日行ったらしばらく休みだわ」
「そうなの」
「うん」
「……おすし、どうだった」
「美味かったよ」

こーんな、と両手を目一杯広げてみる。

「ばかでかい木のカウンターの、目の前で握ってくれるやつ。ナミさんも行く? おれと」

わずかに、彼女の眉が動いた。
行かない、と静かな声が答える。

「なんで。行こうよ。寿司好きだろ」
「サンジくん酔ってる。ちょっとうざい」
「酔ってるのはいつもじゃん」

ナミさんの方ににじり寄るが、彼女は身動きせず神経質な猫のような目でおれをじっと見ている。
ソファにかかとを上げて膝を折り、上体をそこに預ける。ぐらんと傾きそうになるのをこらえながら、彼女を見つめ返す。

「ナミさんさあ」
「なに」
「なんでこんなとこに閉じこもってんの」
「……閉じこもってるわけじゃないわ」
「でもちっとも外に出ねぇじゃん。何が怖いの」
「なにも怖くない。っていうかあんたに関係ないでしょ」
「関係あるよ。おれがナミさんと出かけたいの」
「そんなのあんたの都合でしょ」
「そうだよ。でも仕方ねーじゃん、好きなんだから」

ナミさんは一ミリも表情を動かさなかった。

「好きだから、ナミさんのこと。この家以外で関わりたい」
「……そんなこと押し付けないで」
「じゃあどうすんの」

ナミさんは、怪訝そうに眉根を寄せた。

「なにが?」
「みんないなくなるよ、いつか」

初めて、彼女の頬がこわばった。

「欲しい物が勝手に集まってくるって、そんなわけねーじゃん。今だけだよ。この家の奴らだって、今は楽しくても、いつかは出ていく。それぞれ新しい家を見っけて、他のやつと暮らすんだ」

ナミさんは顔を背け、自分の足の甲を睨むように俯いた。
それを見て、おれは彼女を傷つけてやりたいのだと今になって気づく。
わざとひどい言葉を選んで、彼女がひび割れる顔を見たいのだ。

「そんなこと、わかってる」
「わかってるから、おれとやったんだ? おれがナミさんに夢中になるってわかって、そしたら出ていかないもんな。いつでも好きなときにやれる」

強く肩を押されてよろめいた。バランスを崩し、ソファにひじをつく。
濡れたように光る彼女の強い視線がおれを刺していた。

「もう出てって」
「他のやつともやってんの?」

具体的な顔が浮かんだが、名前を口にだすことができなかった。
ナミさんの目から、すっと色が落ちた。

「だったらなに?」

おれは体を起こし、正面から彼女と向かい合う。
ごめんごめんごめん嘘、うそうそうそ。嫌なこと言ってごめんなー大好きだよナミさん嫌いにならないで。
そう言って抱きしめて、なかったことにしたい衝動に駆られた。
でも、それこそ嘘だ。
口にして初めて、ずっと言いたかったのだと、自分の黒くて凝った汚い思いを知った。

答えないおれから視線を外さずナミさんは立ち上がり、キッチンへと歩いていくとコップに水を入れて戻ってきた。
無言でおれに水の入ったコップを突き出す。
おれがそれを受け取ると、彼女はソファの離れたところに座り直し、パソコンを手に取った。

「それ飲んでさっさと寝て」

もうおれのことなど忘れたように、パソコンの画面を開いてパチパチとキーボードを打ち始めた。

「ナミさん」
「もう寝て」
「ナミさん」
「うるさい」
「ナミさん、みんなが出てっても、おれは出ていかない」

タイピングの音は止まらない。

「君が望むなら」

ナミさんは振り返り、呆れたように口を開いた。

「私が望むとでも思ってんの?」
「いてほしい? それとも出てってほしい?」
「私、管理人よ。出てこうが残ろうが、勝手にすればいい」
「言っていいんだよ。いてほしいなら、そうやって」
「調子に乗らないで」
「欲しいなら欲しいって、言えば」

ナミさんはパソコンを振り落とすように立ち上がると、おれの持つコップを奪い取って投げつけるように中身をおれにぶちまけた。
彼女は肩で息をしている。
首から下に降りかかった水が、襟から胸元にぬるく染み込む。

「あんたなんか大嫌い」

ナミさんはそのままリビングを出ていった。
そのとき彼女が蹴ったコップが、ごろんと音を立ててフローリングを転がった。
ソファの濡れた部分は色が変わり、奇妙な形のシミを作っていたが、残されたおれは尻が縫い付けられたように立ち上がることができなかった。
昨日の夕方、客の彼女がおれのもとを去っていったときのように、こうなることはわかっていたのに、さも自分が傷つけられたかのように身体が重く、おれは濡れた身体のままソファに沈むように倒れた。
あーあという言葉も出てこなかった。

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         7.5(サナゾ注意)   10

11

勝手に取ることにした長期休暇の前、最後の勤務日。
カルネは始終恨めしそうにおれを睨んでいたが、週休1日で働き続けたおれに労基に飛び込まれてはたまらないのだろう。休んでくれるなとは言われなかった。
これで客が離れたら、自分のせい。収入が減るのも、全て自分のせいだ。
誰に文句をいうこともできないが、誰かや何かのせいと思い悩むこともない。歩合制の良いところだ。
最後の仕事は、まあぼちぼちだった。
土曜日ということもあり、客入りは上々で、しばらく休むことを伝えていた常連が何組か来店したおかげで開店から最後までひっぱりだこだった。
あっちこっちでいい顔をしすぎて緩みきった頬を揉みながら、明かりが落ちた店内のソファに無様に転がった。
やりきった、という思いが満ちてきて妙に心地よい。

「おい、おい」

脇腹を突かれて目を開けると、カルネが青い髭の汚い面でおれの顔を覗き込んでいる。

「お前、このままやめたりしねーよな」
「あー、どうだろ。それもいいな」
「馬鹿野郎、冗談じゃねえ。おめーのじいさんになんて言やあいいんだ」
「なんでクソジジイのツラ立てなきゃいけねーんだ。店にちっとも顔出しやしねぇくせに」

よいしょ、とカルネを避けて上体を起こす。
この酒臭い身体とも、しばらくおさらばだ。
カルネは取り残された子供のようにおれを見上げ、「頼むからよ」と女々しい声を出した。
わかってる、と奴の肩に手を置い立ち上がる。

「大丈夫だ。辞めたりしねーから」

他に食う道もないしな、と言うと、ようやくカルネは少しほっとした顔を見せた。


相変わらず軋む玄関扉を押し開ける。アパートの中は静まり返っている。
各々が部屋にいるのだろうが、寝静まっているのか音一つしない。
リビングも、明かりが落とされていた。
あの日から、ナミさんは夜遅くまでリビングで仕事をしなくなった。
おれが帰ってくる頃にはリビングは真っ暗で、ナミさんの部屋から漏れる薄明かりだけがぼんやりと廊下を照らしていた。
今日も明かりが漏れているが、彼女のタイピングの音が聞こえてきたりはしない。
誰もいないリビングに入り、ひたひたと足音を忍ばせてキッチンで水を飲む。
ぬるい常温がまずく感じられ、冷蔵庫を開けて炭酸水を取り出した。
ボトルに直接口をつけて飲みながら、誰もいないソファを眺める。
もう、彼女はここでおれを待ったりはしないだろう。
日中も、必要最低限の会話しかしていない。誰かに訝しがられるほど人も集まらないし、集まればナミさんはするりとその場から身をかわすように姿を消した。
おれとの会話を避けていることは明らかだった。
そらそうだよな、と思う。半分以上飲んだボトルを冷蔵庫に戻し、暗闇に沈んだソファに脱いだジャケットを投げ出す。
あんなことを言って、大嫌いとまで言われて、おれに会いたいはずがない。
出ていって欲しいだろうな、とまで考えて、波のように後悔が押し寄せた。
あのとき彼女に押された肩が、今になって痛む。
──でも本心だ。
いや、本心だからと口にしていいはずがない。
ましてやおれは、彼女を傷つけるための言葉を正確に選んで、発してした。
嫌われて当然だ。
わかっていて、どうして言いたくなってしまったのだろう。

暗い廊下に出て、風呂場と彼女の部屋が向かい合う空間に近づく。風呂場は水の匂いがした。
彼女の部屋の扉に手のひらをあて、口の中で「ナミさん」と呼ぶ。
部屋の中から物音や彼女の気配を感じられるわけではなかったが、たしかにいる、と思った。

「ナミさん」

今度はしっかりと唇を動かした。部屋の中は深海のように静かだ。

「ナミさん、おれ、ここを出てくよ」

^きっとそれがいい。そうするしかないのだろうと、今日仕事前に着替えながら考えていた。
ぴりぴりと互いに見ないふりをして、でも逆にそれが意識していることの表れで、こんな緊張はきっと心が持たない。事務的な会話だけで済ますのもこのオープンなアパートでは限界がある。
なにより、そんな関係を彼女と続けるのも、彼女に続けさせるのも御免だった。

「二週間休みがあるから、ちょっと時間をくれねぇかな。その間に次の……家を探すから」

足元から漏れる明かりが揺らめいた気がした。でも、扉が開くことも、中から声が聞こえることもなかった。

「じゃあ……おやすみ」

好きだよ、と言い訳のように呟いてしまいそうだった。
どうしてだろう。昨夜の嗜虐的な気分とは裏腹に、彼女が恋しかった。




昼の街をぶらついていると、それだけで自分が健康であるような気になる。
朝型の生活には二日で慣れた。朝型というか、ただ日が変わる頃に寝て、眩しくなったら起きているだけだ。
午前中リビングに現れるおれを見て、ウソップやロビンちゃんは目を丸めていたが、休みなのだと言えば口を揃えてそれはいいと言った。
ロビンちゃんには「またブルックのところに行きましょう」と、ウソップには「うめーカレー屋がある」と昼飯に誘われた。さっそく今日の昼前にロビンちゃんとブルックの店に行き、彼女が普段は持ち運べない量のコーヒー豆をたんまり買ってきた。

待ち合わせをした駅前のモニュメントのふもとで、ウソップが帽子を深く被って手元の携帯に視線を落としていた。
近づいて「よお」と声をかける。おーっす、とウソップは携帯をポケットに仕舞った。

「こっちこっち」

ウソップが先導するように歩き出す。おれをちらりと見て、「なんか似合わねーの、お前」と笑われる。

「なにがだよ」
「いっつも真っ黒の服着てさ、昼過ぎに起きてきて。夕方になると出てったろ。どっぷり夜の人間って感じだったのに」
「おれも違和感しかねーよ」
「慣れる慣れる。って、二週間経ったらまた仕事に戻るんだから慣れたらだめか」

まーね、とつまさきを眺めながら適当な相槌を打った。

「ウソップおまえ、どこ行ってたの」
「ああ、パーツ屋。おれ土日しか動けないからさ。あさイチで行かねーと午後は混むんだよ」
「パーツ?」
「パソコンとか、電子機器の」
「なに、おまえそんなのいじってんの」

たしかナミさんが、ウソップは機械やネット設備にうといのだと言ってなかったか。
ウソップはなぜか照れたように笑って言った。

「それがさー、今役所もオンラインだクラウドだっつって新しい設備どんどん入ってくの。そういうのに明るいやつ、うちの部署にいなくてさ。おれが一番若いからっつーので発破かけられて勉強し始めたら面白くなっちまって。今、プログラミングもちょっとかじってんだ」
「へえ……すげーな」

阿呆のような感想がこぼれたが、素直に感嘆してしまった。
やってることがすごいというより、苦手なことに手を付けてモノにした上、興味を持って楽しんでいることが単純にいいなと思った。仕事に活かせていることも。

ここだ、と言ってウソップが扉を開けた小さなカレー屋は、開店したばかりなのか先客は2,3組しかいなかった。そもそもテーブルとカウンター合わせて6組ほどしか入らなさそうな狭い店だ。
しかし、おれたちがカウンターに腰を下ろすとあっという間に次々と客がやってきて席は埋まり、その10分後には外に列ができていた。

「すげー人気なんだな」
「な。開店前に並んでることもあるから、今日はめちゃラッキー」

お、来た、とウソップが顔を上げた。忙しそうな店員がはいはいっ、とおれたちの前にカレーを置いていった。
さらさらしたルーがたっぷりとかかった平たい銀の皿に、色鮮やかな野菜が10種類ほど並んでいる。なぜかこんにゃくも乗っていた。

「これこれ、あー久しぶり。いただきます」

ウソップがすぐさまスプーンで食らいついた。うまそうに頬張る顔を見るだけで口内に唾が溜まる。
野菜をよけてまずはルーだけを口に運ぶと、スパイスの香りと一緒に野菜の甘さが突き抜けるように広がった。そのすぐあと、薬膳のような舌慣れない味が鼻から抜ける。

「なんだこれ、うま」
「だろ、だろ!いやーよかった、気に入ってもらえて」

揚げ野菜はジューシーで、さっくりとした香ばしさがありながらカレールーを吸って旨味が増している。
なんで、と思ったこんにゃくも歯ごたえのアクセントになっていた。
カレー皿に覆いかぶさるような勢いでスプーンを動かすウソップを、ちらりと見る。

「お前、うめー店知ってんのな」
「男一人だとさ、やっぱ外食増えるじゃん。安くて手軽な店で済ませがちだけど、たまの休みにこういうとこ探すのが楽しいんだよな」

それからはお互い喋ることなく、無心でカレーと格闘した。あっち、と呟いて汗を拭き拭き食べた。
店を出る頃、待ちの列は店をぐるりと囲むように伸びていた。
男も女も子供も老人も並んでいる。鍋を持って並んでいる男女がいたのでそれを口にすると、「鍋持ってくると、ルーだけテイクアウトできるんだよ」とウソップがしたり顔で言った。

「あー腹いっぱい」
「量も多いからな。サンジ、細いのによく食うのな」
「レディにはきつい量かもな」
「だろ。だからロビンやナミは誘いにくくて。ゾロは時間合わねーしルフィはなかなか家にいねーし」

どちらともなくアパートまでの道を辿り始めた。
以前おれが作ったカレーを、ナミさんがはふはふと頬を膨らまして食べていた様子を思い出した。

「……ナミさんカレー好きじゃん」
「そうだっけ。でもまー、あいつ、家から出ねーし」

なんでもないことのようにウソップは言う。どうしてこのアパートの住人たちは、彼女が外に出ないことを当たり前のように受け止めているのだろう。

「なんか事情知ってんの、お前」
「ナミの? いや、知らねぇ。でも」

ウソップが言葉を切ったので奴の顔を覗き込むと、何度か首をひねりながら「ん? 関係ねぇのか? あれ」などと一人でぶつぶつ言っている。

「なんだよ」
「いや、しっかりとはおれも知らねぇから。でもなんかルフィのじーさんが関係してるとかなんとか」
「ルフィ?」

しかもそのじーさんとは。

「じーさんって、アパートの所有者なんだっけか」
「そうそう。ルフィのじーさんが持ってたボロアパートを改装して、ナミを管理人として住人の募集を始めたらしいのよ。その最初の頃に、なんか事情があったんじゃね」

ナミさんとルフィのじーさん。二人の結びつきにちっとも想像がつかない。

「どういう関係なんだよ」
「全然知らねぇ。本人に聞いたら?」
「……前に、はぐらかされたからな」

あー、とウソップは苦笑しながら足元の石を軽く蹴った。ナミってそういうとこあるよな、と言いたげだった。
少し考えるような間を空けて、ウソップが口を開いた。

「うちのシェアハウスってさ、結構居心地いいじゃん。っておれは思ってるんだけど」
「あぁ」
「ルフィやゾロみたいな変わりモンもいるけど、いいやつだし、適度に生活リズムもバラバラで、なんだかんだみんな大人だから仲良くやれてるっつーか」

相槌を打ちながら、ウソップが何を言いたいのか少しずつ見えてきた。

「その居心地の良さって、まぁナミがうまく管理してくれてるからってのが大前提なのよな。それもあって、あんまり個人の事情に口突っ込むのも野暮だなって気がしてて。だから、誰もなんにも言わねーんじゃねぇかな」

もっともだ、とおれは黙ってうなずいた。
相手を知りすぎることは、知ろうとむやみに深入りすることは、人間関係のバランスを崩す。
おれが犯したのは、そういうことだ。

「なぁ、お前これからちょっと時間ある」
「え、あるけど。もう帰るだけだし」
「ちょっと付き合ってくれねぇ。二時間くらい」
「いいけど、なにに」
「物件探し。おれ、アパート出るわ」

え、と口を開いたまま固まったウソップに、おれは下手だと自分でもわかる顔で笑った。
足を止めたウソップの肩を抱き、駅前の繁華街へと方向転換させる。

「役所の人間ならこの辺詳しいだろ。なるべくにぎやかな場所がいいな」

待てよ、おい、なんで、と泡を食って言い募るウソップを無視して、肩を抱いたまま歩いて行く。
そうだ、今の家とはまったく異なる場所に行こう。仕事場にもっと近いところにしたっていい。
さいわい荷物はたいして持っていないのだ。家さえ決まればすぐに出ていこう。

「新しい家が決まったら、近くのうまい店教えてくれよ」

そう言うと、ウソップは分厚い唇を歪ませて、なぜか泣きだしそうな顔をした。




おれが引っ越すらしいという話は、あっという間にアパートの住人たちに広まった。噂ではなく事実なのだから、別にいいが。
ナミさんにもその話は届いただろうが、おれに何も言ってこなかった。やっぱりあの夜、扉の前で話した声は聞こえていたらしい。
今月中に部屋は引き払うことになるが、満額の賃料を彼女のレターボックス(玄関前に各住人のものが設置されている)に入れておいた。
そうしておけば、彼女に食い下がる理由は一切ないだろう。
もしかしたら彼女のほうが金を払ってでも、おれに出ていってもらいたいくらいかもしれないが。

新しい部屋はまだ見つかっていない。
ウソップに部屋探しを協力してもらっているが、奴が存外口うるさいのだ。
おれは最低限の条件(家賃と、風呂付きであること)さえ整えばどこでもいいのだが、ウソップは「ここは治安が悪い」だとか「幼稚園が隣りにある。お前が周りをうろうろしてたら怪しい」だとか「なんかくせぇ」だとかそのたびにちくちく言って、おれの出鼻をくじいた。

「お前もういいわ、一人で探す」
「ばか言え、この街はおれの庭なんだ。いいところ見つけてやっから」

そう言ってはおれの不動産屋廻りに休みのたびに付いてきた。
ウソップが仕事の日に一人で回ることもあったが、もともと職業柄、居住に難色を示されることも多く、ほとんどの物件が大家の返事待ちで即決することはできなかった。
今日も二件内見に行ったが、目ぼしい部屋の大家がおれのプロフィールを見た途端敷金と礼金を吊り上げたので(不動産屋が電話口で話しているのが、漏れ聞こえたのだ)、腹が立って帰ってきてしまった。

アパートの中に入ると、なにやらリビングが騒がしい。男にしては高いルフィの声がにぎやかに響いている。
扉を開けてリビングを覗くと、案の定ルフィがばかでかい箱を抱えてナミさんと話しているところだった。
おれを目に留めて、黒目がちな丸い瞳が光った。

「おお、サンジ! お前久しぶりだなあ!」
「いやそりゃこっちのセリフだ。ひと月以上帰ってこなかったじゃねぇか」

ナミさんがふいと顔を背けてソファに向かったのを視界の端に感じながら、なんだその箱、とルフィの手元を覗き込む。中はがらくたにしか見えないプラスチックのパーツががらがらと放り込まれていた。ルフィの仕事道具だろう。

「なーサンジ腹減った。なんか作ってくれよ」

なあなあなあ、とまとわりつかれ、「わかったわかった」とルフィを押しのけてキッチンへ向かう。
ナミも食うだろ、とルフィが当然のように言った。

「うん」

平坦なその声に、思わず振り返った。ナミさんはおれの方を見向きもせずめがねを掛けて、よいしょとソファに腰を下ろしたところだった。
彼女がおれの存在を認め、「うん」と一言返事をしただけのことに、打ち震えるくらい感動した。
きっと、ここで料理をするのはもう数えるほどしかないからだろう。
一つひとつの工程を味わうように、おれは手を動かした。

ルフィが買ってきたというさまざまな肉(羊だったり牛だったり、ワニだったり)に下味をつけて焼いただけのグリルと、ありあわせの野菜のサラダをテーブルに並べる。
誰でもできるような料理になったしまったのが悔やまれるが、ルフィは歓声を上げて肉に食らいついた。
おれの斜向かいに座ったナミさんも、小さく「いただきまーす」と呟いて静かに食べ始める。
うめ、うめ、と言いながら口の中を一杯にして食べ続けるルフィがいるおかげで、どうにか間が持っていた。ナミさんはおいしいとも言わずにフォークを動かし続けている。
ふいにルフィが顔を上げておれを見た。

「サンジ、仕事は?」
「あー、休みなんだ、しばらく」
「ふーん、辞めたのかと思った」
「辞めねぇよ」
「こんなにうめーメシ作るんだから、サンジはさ、ここでコックすればいいのに。なぁナミ」

なぜ彼女に聞く。
背中に妙な汗をかいた。
白羽の矢が立った彼女は、つと顔を上げてルフィを見て、肩をすくめて視線を落とした。

「無理よ、そんなの」
「なんでだよぉ」
「誰がお給料払うのよ。住んでるみんなだって、毎食ここで食べるわけじゃないでしょ」

真正面から突っぱねられて、ルフィはふてくされた顔でおれを見る。なんとも言えずに、おれも彼女の真似をして肩をすくめた。

「それに」

ナミさんが言う。

「サンジくん、もうここ出てくから」

そうよね、と言うかのように、ナミさんが今日はじめておれと目を合わせた。
えぇー! と大げさに叫ぶルフィがおれに詰め寄る。なんでだよ、とぱんぱんの頬のまま迫られて、それを押しのけている間にナミさんが立ち上がった。

「ごちそうさま」

皿をシンクに運び、彼女はそのまますうっと滑るように部屋を出ていった。
その背中を目で追いかけながら、「近ぇよ」とルフィの肩を押して離れた。
ルフィはすねたように唇を曲げている。

「んだよ、つまんねぇな」
「仕事もあるし、近場にするつもりだから」
「じゃあ引っ越す必要ねーじゃん。なんで出てくんだよ」

なんでだろう。ナミさんと気まずくなったから。誰かに説明する言葉を探すと、とてもチープな理由に聞こえる。

ああ、そっか。ルフィが呟いた。

「だからナミ、機嫌わりーのか」

ルフィがぶちっと引きちぎった肉の切れ端が、テーブルに飛んだ。すかさずルフィがつまんで口に運ぶ。

「──おれが出てくから?」
「そうじゃねーの?」

おれの皿の肉まで食い尽くしていくルフィの頬が上下するのを、ぼんやりと眺めた。
ナミさんがおれを引き止めるわけがない。
わけがないのに、今日、彼女がおれの料理を食べたのは、などと考えても詮無いことが、ぐるぐると頭を巡った。

その日の夜、着信を知らせたスマホの画面を見て一秒ほど動きが止まった。
一、二年ぶりではきかないだろう。実家からだ。

「一度帰ってこい」

しわがれた、低い老人の声が有無を言わさぬ調子で言う。
おれが黙っていると、返事も聞かずに電話は切れた。数年ぶりの会話だというのに、情緒のかけらもない。
だけど、おれは行くのだろう。
カルネがなにか言ったのだろうか。休暇を取っていることをわざわざ咎めるために、家まで呼んだのか。
不可解なもやつきが胸に残ったまま、おれはベッドに倒れ込んで眠った。

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         7.5(サナゾ注意) 




なあお前どうしちゃったの、とカルネに声をかけられたのは平日の閉店間際、最後の客が店を出た直後だった。人の気配と薄く効いた冷房で霞んだようなフロアは、赤っぽいライトに照らされて突然安っぽいセットのようになる。遠くの席でがちゃんと大きくグラスが鳴った。かがみこむゾロのでかい背中が見えた。大方また、無理やり積み重ねたグラスを倒したのだろう。

「なにが」

煙草に火をつけ、わざとカルネの顔を見上げて煙を吐き出す。心底嫌そうに顔を背けて、「やる気あんのかてめぇ」と久しぶりにドスの効いた声でおれをねめつけた。

「──あるからこうして毎日来てやってんだろうが」
「だったらもっと飲んで飲ませろよ。最近同伴だって全然してねぇだろ。ちゃんと営業してんのか」

カルネが不機嫌なのは何もおれのせいだけではない。閉店より前に店がカラになるのは今日だけじゃない。昨日も、先日の日曜もだった。
目減りする売上にぴりついているのは知っていたが、カルネの言い分があてつけじゃないこともまた、おれが一番良くわかっている。
かつて一日中ひっきりなしだった営業のメールは朝に挨拶程度送るだけになっていたし、初見の客に熱心に売り込むこともしなくなった。
別に理由なんてない。なんとなく気が乗らないだけだ。たとえそのせいで給料が減ろうと、まあいいかと思えた。仕事中に早く帰りてぇなと思うことも増えたし、あー酔った、と思えばそれ以上は飲まなかった。
以前のようにどろどろに酔って帰ってしがみつくようにリビングのドアを開け、誰のかわからないコップで浴びるように水を飲んでシンクに手を付きはぁはぁ言うおれを、ぽちりとひとつだけつけたソファのライトのそばでナミさんがじっと見ている。
情けねぇとか、かっこわりィとか思わないわけではないが、別にその姿を見られたくないから歯止めをかけているわけではない。と思う。
別に理由なんてないのだ。

「へーへー努力しますよって」

立ち上がりながらカルネの肩を叩く。噛み付いてこないおれに拍子抜けしたのか、ぽかんとした顔でおれを見上げた。

「明日おれ同伴だからさ。22時入りな」
「ああ、おう」
「おれ今日は先帰っから。あのマリモに言っとけよ」

同じアパートなことは店も知っている。面倒だからとまとめて送られることが多いが、黒服のゾロのほうが後片付けや閉店作業で遅くなる。ただ、閉店後のソファでしばらく死んでいるおれが目を覚めるころ、ちょうどゾロの仕事が終わるのだ。またグラスが雪崩を起こす音が響いた。盛大な舌打ちが聞こえる。雪崩の元凶の本人だ。

「おつかれさん」

送迎の車を待たず、店を出た。しばらく歩き、大通りでタクシーに乗った。家の近くの路肩で金を払うとき、やっぱ車を待てばよかったとちらりと後悔した。
リビングは真っ暗だった。近頃こんな日が多い。ナミさんは自室で仕事をしているのか、それとも深夜の作業をやめてただ規則正しく眠っているのか。煙草臭いシャツを洗濯機に放り込むとき、向かいにあるナミさんの部屋からことりと物を動かす音がした。引き寄せられるように扉に近づく。小窓もない扉は、その向こうに明かりがついているのかさえわからない。

「──ナミさん?」

驚くほど心細そうな声が出た。何呼びかけてんだ。寝ていて、起こしたらどうする。
3つある洗濯機はどれも稼働していない。夜の22時以降は使用禁止だ。明日の朝いちで回す気だった。ランドリールームに戻り、使用中の札をシャツを放り込んだそれに貼る。洗濯機のひとつには、洗いっぱなしの濡れた洗濯物がしわくちゃの団子になって入っていた。大方ウソップかルフィが入れたまま忘れて寝たのだろう。よくあることなのでそのままにして、シャワーを浴びた。
いくぶんさっぱりした体で自室へ戻るとき、諦め悪くナミさんの部屋の前でもう一度立ち止まりかけたが、脚に力を込めて通り過ぎる。

「おやすみなさい」

はっとして振り返ったが、扉は開いたりしなかった。聞きたくて聞きたくて、ついに幻聴を聞いたのかもしれなかったし、たしかに扉を隔てた向こうからおれに向かって呼びかけられたような気もした。
すぐそこの薄い扉を今すぐ蹴り破って、中にいる彼女の顔を見たいと思った。いっそ扉越しでもいいから彼女と手のひらを合わせるだけでもいいとすら思った。

「おやすみ、ナミさん」

当然返事はなかった。濡れたタオルを首にぶら下げて、音を立てないように階段を登った。




今日の同伴客はおれと同じ歳ほどの若いレディだ。比較的年上の客がつくことが多いおれには珍しいタイプの固定客だ。太客というほどではないが、でも月に2回ほどはやってきておれを指名し、ボトルも毎回入れてくれる。まるで友人のように「そろそろ飯行かねぇ?」と誘えば同伴してくれるし、誕生日や入店記念日のようなイベントには欠かさずプレゼントを持ってやってきた。
彼女がいわゆる普通の恋をしていることはわかっていた。おれに同じものを求めていることも。
同伴先で飯を食ってから店に着き、ソファに腰を下ろした彼女の指先をギュッと握って視線を合わせる。

「待ってて、すぐに着替えてくる」

ほどけた顔でうなずいた彼女を黒服とサポートのスタッフに託し、裏に引っ込む。言葉通り急いで着替え、急いでいるくせに裏口を出て一本煙草を吸う。そこへ唐突に、ゴミ袋を両手に4つずつ鷲掴んだゾロが現れた。

「おう」
「おう」

短くうなずいたゾロがおれにケツを向けてゴミ箱にゴミを放り捨てる。その足元、スーツの裾が濡れて光っていることに気づいた。

「お前足元」
「あ? あー、さっき酒こぼした」
「着替えろよ。身だしなみ第一」

こんくらい、と面倒そうに顔をしかめたゾロを睨むと、珍しくそれ以上言わなかった。まだ長い煙草をもみ消し、裏口の扉に手をかける。

「お前のあの客」

不意にゾロが思い出したように言った。

「若ぇな。学生か」
「あ? いや、働いてる、さすがに」
「ふーん。お前のいつもの、いかにも金持ってる年上の女とはちげぇのな」

何が言いたいのか、ゾロにしては妙に饒舌な様子を怪訝に思い振り返る。濡れた足元を確かめるように覗き込みながら、ゾロはなんでもないことのように言う。

「必死こいて金ためて、ここに来てんだろ」
「……そうなんじゃね」

話を遮るように重たい鉄の扉を引き開けた。従順な飼い犬のようにつつましくおれを待つ彼女は、ごめん遅くなった、と腰をかがめて歩み寄るおれを見上げてほっとしたように笑った。その顔を見て、ぎっと腹の奥のほうがきしむ。同時にゾロの言葉が蘇る。
必死こいて金ためて、おれに会いにきてんだな。
言われなくとも、ずっとわかっていた。一軒目に行ったエスニックレストランも、2軒目でコーヒーを飲んだ洒落たカフェも、支払いは当然彼女がした。今も彼女は当然のように黒服から手渡されたワインリストを眺めている。
いつまで経ってもそのたびにぎしぎしと体のどこかをきしませるおれは、絶対にこの仕事が向いていない。
それをゾロに遠回しに、しかしある意味まっすぐと指摘されたような気がして気が重くなった。

「どれにしよう」

どれを飲みたいか迷っているのではない。どれくらいの価格のボトルを入れたらおれが喜ぶのか、自分の懐具合と相談しながらおれの顔色をうかがっているのだ。
美味いとか美味くないとか、つまみに合うとか合わないとか、ここではそんなことは一つも関係がない。
おれが顔を寄せて一緒にリストを覗くのをそっと待っている。痛ましくさえあるそのいじらしさに、「もういいよ」と言いたくなった。
おれも好きな人がいるんだ。何もかも放り出して、必死こいて働いてああ会いたいと思うこと、一つの心のように彼女の気持ちがわかる。
だからおれは1ミリも好きではない彼女の目を覗き込んで、あたかも好きだというかのように微笑むことができる。おずおずと上から3番目のワインを指差す彼女に指を絡めて、幸せな時間を共有しているかのように話ができるのだ。
おれの好意をそのままの好意として受け取って嬉しそうにする彼女を見て、ああ好きなんだなあと何度も思う。
おれも好きだ。
おれもナミさんが好きだ。
彼女の笑顔を見るたびに、ずっとそればかり考えていた。その日の売上は一位だった。

アパートに帰るとリビングも廊下も明かりがついていた。今日はゾロも一緒だ。まるで「やればできるじゃねぇか」と言いたげな顔で近寄ってきたカルネに「んでも別に飛び抜けてお前がよく売れたわけじゃねぇからな。今日もあいにく低空飛行だったんだからよ、もっと気合い入れてやってくれ、な」とケツを叩かれているうちにゾロと帰りの時間が重なった。

「明るいな。誰かいんのか」

ゾロも驚いたらしく、眠たげなあくびをさらしながらまっすぐ階段へと向かう。風呂も入らず寝る気らしい。2階の明かりは消えていた。
ゾロと別れてリビングの扉を開ける。

「あ、おかえりぃ」

ソファに半分寝そべったような形のナミさんが鷹揚に手を挙げる。隣に腰掛けたロビンちゃんがふわりと笑い、「お疲れ様」と言った。ふたりともワイングラスを手にしている。

「こりゃまた随分遅くまで」
「ねー、もうこんな時間か、びっくりしちゃう」

酔っているのか、ナミさんがけらけらと笑う。四肢を投げ出してソファに身を預けている。

「何かあった?」
「んーん、なんにも。久しぶりにロビンと夕食重なったから、それからずっと飲んでるの」
「サンジも飲む? まだあるのよ」

一体何本開けたのだろう。キッチンにおびただしい数の空きボトルが並んでいるのを想像し、苦笑する。

「もらおうかな」

美女が揃う空間にまじりたくて、いそいそと自分の分のグラスを取りに行く。一人がけのローソファに腰掛け、ロビンちゃんにワインを注いでもらうおれを、ナミさんがじっと見ている。

「今日は泥酔してないのね」
「なんとか」

ワインはキンと冷えていた。頭が冴える。しかし同時にぐっと喉のあたりに胃から酒臭い息がこみ上げるのをなんとか飲み下す。

「サンジくんって仕事中どんな感じなの」

興味があるのかないのか、おれの方を見もせずグラスの中身をしげしげと確かめながらナミさんが尋ねた。

「さあ、変わんねぇと思うけどなぁ。紳士で通ってるよ」

「でしょうね」と言うナミさんとロビンちゃんの声が重なった。二人は姉妹のように顔を見合わせ、くすくすと笑う。

「やさしー顔で笑って、甘い声で嬉しいこと言ったりしてるんでしょ」
「それよりサンジはきっと聞き上手だから、根気よく話を聞いてくれそう」

はは、と明らかな愛想笑いのおれを意にも介さず、二人は好きなことを言い合う。
ホストクラブってどんなのかなぁ、ロビン言ったことある? ないわ、前住んでて街にはたくさんあったけど。 私もない、高いんでしょ。 普通のお店でお酒を飲むのとはわけが違うでしょうね。 ふーん、どんないいことしてくれるんだろ。 男の人がみんな、自分のことが好きなような気になるんじゃないかしら。 それって楽しいの?

あははと声を上げて二人は笑った。明るくてまじりっ気のない彼女たちの声を聞きながら、おれはまぶたが重くなる。

あ、サンジくん寝てる。おーい。 やめなさい、疲れてるのよ。 飲むって言ったのに全然飲んでないわね。 仕事で飲んで帰ってきたんだもの。

そっとグラスが取り上げられたとき、顔を上げたがナミさんもロビンちゃんもおれを見てはいなかった。気のせいか、と思いグラスを持っていた手もだらりと下がる。

いっつもサンジくんすごいテイで帰ってくるのよ。でろでろに酔って、死にそうな感じであそこで水飲んでる。 まぁ。 なんかちょっとかわいいなーって思うのよね。 かわいいの?死にそうなんでしょ? うん、死にそう。でもなんか必死に帰ってきた感じが。 それ、サンジに言ったの? え、ううん、別に言ってないけど。

船を漕いでいた頭を自分の手で支える。まどろむというより、もう体のほとんどが眠気に浸っていて身動きが取れない。だからなんとか口と、舌だけを動かした。

「必死で帰ってきてんだよ」

二人の会話が止まった。笑いを噛み殺すような、こちらを伺う気配を感じる。

「なあに、サンジくん」

いつもより甘やかな声でナミさんが尋ねた。

「──会いたくて、ナミさん、寝る前に」
「うん」
「だから、帰ってきてんの」

ろれつが回っているのか、果たして言いたいことを言えているのかすらわからなかった。猛烈な眠気に思考を引きずり込まれながら、なんとか言う。

「おれを待って、起きて、たらいいのに」

そこでぷつりと途切れた。
気づいたら朝で、ぎしぎしとこわばった体を無理矢理に起こす。体には薄い毛布がかけられていた。キッチンはきれいに片付き、3つのグラスが洗ってすっきり乾いていた。しかしやっぱりゴミ箱付近の床には10本近いワインの空瓶が並んでいて、夢じゃなかったかと思った。

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         7.5(サナゾ注意)



8

ナミさんてなんの仕事してんの。
彼女が伸びをしたすきに尋ねた。大方書き物をしているだろうことは見当がついていたので、彼女の気を引くためだけに尋ねたようなものだ。
うーん? と語尾の上がった、応える気のない返事だけが帰ってきて空白が落ちる。集中してるときに話しかけちまったかな、と若干の申し訳なさとともに顔を覗き込むと視線がかち合った。

「翻訳。と、ちょっとした記事を書いたり」

へえ、と素直な声が出た。

「すげえな、英語?」
「ううん、ノルウェー語」

ノルウェー? と素っ頓狂な声を上げるとナミさんはほんの少し口角を上げた。リビングにはおれとナミさんしかいない。ルフィは最近帰ってこなくなった。ふらりとどこかに旅立って、長いとふた月以上帰ってこないこともあるらしい。その間の家賃はもちろん支払われないので、帰ってきたルフィは身ぐるみ剥がされる勢いで手持ちの現金をナミさんに徴収されることになるだろう。
今日は仕事が休みのおれは、日がなナミさんのそばにいる。
あいかわらずこのアパートの中でちょこちょこと雑務をこなしつつパソコンの前で仕事に没頭するナミさんを、飽きずに構っては若干うっとうしがられる気配を感じながら、でも結局呆れ混じりにナミさんがおれを見るまで根気よくそばにいる。

「ふるーい書物とか、研究書とか、翻訳された時期が古いと解釈も若干違ったりして。そういうのを今風にわかりやすく修正して、記事を書くときは考察を入れたりして、そうやって書いたものを売ってる」
「すげ、そんなのどこで勉強したの? 大学?」

ナミさんは顔を上げ、おれを見つめてにっこり笑った。

「サンジくんお腹すいた」
「はいただいま」

すくっと立ち上がってから、流された、と感じるがなにも言えない。ナミさんもぱたんとパソコンを閉じた。

「ロビンいるかしら。なにかお酒飲みたい」
「付き合うよ」
「休みの日くらい飲みたくないでしょ。いいわよ無理して付き合わなくて」

軽い足取りでパントリーに向かうナミさんに、おれは黙って苦笑するしかない。
毎晩酒臭さにげんなりして帰ってくるおれを見慣れている彼女には返す言葉がない。換気扇を回し、タバコに火をつけた。

「ロビンがいるならボトル開けるんだけどなー。いっか、ビールで」
「いねぇの?」
「たぶんね。午前中留守みたいだったし、帰ってきた気配もないから」

ぷしゅっと景気のいい音でナミさんが冷えていないビールを開ける。冷やしたやつを開ければいいのに、ナミさんはあんまり頓着しない。

「なに食いたい? 肉? 魚? 米?」
「なんでもいー。おいしいの」
「そういうのが一番得意なんだよなあ」

ナミさんが笑う声に気分を良くし、タバコを咥えたままフライパンやら片手鍋やらを取り出す。壁にぶら下がっているにんにくを取り出し、なにを作るとも決めないまま習い性で刻みだす。

「サンジくんて恋人いないの?」

背中から聞こえた声に、ぎくりと振り向いた。どうしてぎくりとしたのか自分でもわからないまま、ぎこちない口元で「なに?」と問い返す。
ナミさんはパントリーに背中を預けておいしそうにビールを傾けてから、「休みの日、いっつも家にいるから」と笑った。
口元からのぼる煙に視界を遮られ、それを振り払うようにまな板に向き直る。

「見ての通り。レディとは毎日のように話すんだけどなあ」
「みんなサンジくんに会いに来るのにね」
「なあ」
「そういやゾロ、あいつちゃんとやれてんの」

冷蔵庫のチルド室を覗く。切り身のサワラを発見する。取り出し、骨を抜く。

「やー以外にも。黒服の仕事はなかなか覚えねぇとかって店のやつがぼやいてたけど。客には妙に人気あるんだよな」
「ゾロってそういうとこあるわよね」

親しげに笑う声には返事ができなかった。愛想笑いすらできない顔を隠すように、うつむいてフライパンを火にかける。

「そのうちホストになっちゃうかな」
「さー、なれなれってカルネは、あー、店長は、言ってっけど」
「そしたらサンジくん辞めたら」

にんにくの香りが立つ。いいにおーいとナミさんが華やいだ声を上げる。おれは半分だけ振り向いて、彼女を見た。

「──なんで?」
「だって好きじゃないんでしょ。向いてないって言ってたじゃない」
「まあでも、辞めたら食ってけねぇからなぁ」
「何か他にしたいことないの?」

ぱちん、とにんにくが跳ねる。飛び出たそれをつまみ、口に運ぶ。

「ナミさんのところに永久就職しようかな」
「募集してません」

笑いながらナミさんが缶を置いた。かつんと高い音が小さく鳴った。

「ところでなに作ってるの?」
「あー、なんだろ。アクアパッツア? それかパスタにする?」
「決まってないの?」

じゃあアクアパッツァ、といいながらナミさんが白ワインを取り出した。おれは砂抜きして冷凍したアサリを凍ったままフライパンに放り込む。
なれた手付きでコルクを抜いたワインをどんとキッチンカウンターに置いたナミさんは、ふと思いついたみたいな口調で「でも、いいかもね」と言った。彼女が開けたワインをフライパンに注ぎながら「なにが?」と尋ねる。

「永久就職」
「え、まじで?」
「うん、ここでずっとこうやってごはん作るのは?」
「ナミさん雇ってくれんの?」
「あそっか、お給料払わないといけないんだった。じゃあなし」

からからと笑ってナミさんは背を向けた。グラスグラス、とつぶやきながら戸棚を漁っている。
なにを本気にしかけてるんだおれは。自分の心をなだめてフライパンに蓋をする。
確かに、こうやってめしばっか作っていられたらたしかにどんなにいいか。
ただそれが金銭の発生する労働となればまた話は別なのだろう。趣味を仕事にしたことはないので、漠然としたなんだかよさそうな気配があるだけで想像がつかない。
趣味を仕事にしているルフィに深いことを聞いたところでまともな返事は帰ってこないだろうが、一度尋ねていみたい気になった。
またひとつぱちんとフライパンの中が弾け、我に返る。
冷蔵庫の中、自分のスペースにしなびたプチトマトが転がっていたので、半分に切ったそれらを放り込む。魚も並べて、ナミさんが開けた白ワインを注いで蓋をした。

「結局ボトル開けちゃった」

2つのグラスを、頬を挟むように掲げてナミさんは笑っている。どうやら今日はご機嫌だ。

「少しは飲む? 無理しなくてもいいけど」
「のむのむ。ナミさん、パンかなにかあるとうめーんだけど」
「パンかあ。朝食用の食パンなら」

レンジ台の上のかごをのぞきこみ、ナミさんは「あ」と落胆の声を漏らす。

「しまった切れてる。いつもウソップが補充してくれるから任せてたんだけど、あいつ最近忙しそうなのよね。朝も早いし帰りも遅くて」
「んまー、じゃあシメはパスタか、米を入れてリゾットかな」
「それもおいしそうなんだけど……パン、つけて食べたいなあ」

ナミさんがちらりと時計を見上げる。18時を少し回ったところで、一番帰ってきそうなのはウソップだが、ナミさんいわく期待はできない。
意地悪をしたいわけでも困らせたいわけでもなかった。言うならば好奇心だ。彼女がどんな顔をして、おれになんと答えるのか知りたかっただけだ。

「んじゃナミさん、おれもう一品作るから買ってきてくれねぇかな」

フライパンを見下ろす。蓋の窓から中身が見える。クツクツと自ら出した水分で野菜と魚が煮込まれている。
いや、とおれは考える。もしかするとおれは、彼女を困らせてみたいのかもしれない。訊かれたくないことをあえて訊いて、口ごもる顔や逸らした視線の先を見たいのかも知れなかった。
ナミさんは、手に持ったグラスのふちをつーと細い指でなでた。

「それならいい、いらない」
「すぐそこのコンビニでいいんだけど」
「めんどくさい。いらない」

ナミさんはおれを捉え、「先に飲んでていい?」と微笑んだ。もちろん、とおれは応える。

フライパンごとテーブルにどんと置くと、ナミさんはおれのグラスに上手にワインを注いでくれた。跳ねた最後の一滴がまたグラスに落ちるところまで見て、グラスを持ち上げる。

「乾杯」
「いただきまーす、おいしそ」

もう一ヶ月以上、このテーブルが埋まる人数で食事をしていない。このアパートに越してくるまで、狭い自室の一人用のテーブルで食事することも、何ならキッチンで立ったまま食べることだってあったのに、ほのかに感じるこの物足らなさはなんと贅沢なことだろう。しかし目の前ではふはふと熱い白身を頬張るナミさんがおれをまっすぐに見て「おいしい」と笑うとその物足らなさも吹き飛んだ。つま先からしびれるような充足感に満たされる。

「よかった。いいワインだから魚もうまくなる」
「ネットで買ったやつよ。そんなに高くなかったし、飲みにくくてもサンジくんが料理に使うかなーと思って」
「十分うまいよ。ナミさん、酒選ぶの上手いよな」
「そう? ねぇサンジくん、さっき私にパン買ってきてって言ったのはわざと?」

ナミさんはフライパンからプチトマトをすくい、あぶなっかしい手付きで自分の皿まで運んだ。その動きを目で追って、おれはつい口ごもる。
くっきりとした目でおれの顔を見上げた彼女は、大人びた表情で笑った。

「怒ってないわよ、大丈夫」
「──ごめん」
「ううん、ずっと家にいるんだもん、気になるわよね」
「そういうわけじゃ」

ないんだけど、というおれの声は説得力なくテーブルに落ちた。ナミさんが小さく笑ったその息で吹き飛んでしまう。

「ロビンか誰かになにか聞いた?」
「いや」
「別になんでもなにも、理由なんてないんだけどさあ」

外は嫌い。
ナミさんはぽつりと、それでも断固たる、という感じでつぶやいた。

「ほんと便利な時代よね。パソコンがあればなんだって手に入る」
「そうだな」塩気の強いスープを口に含み、やっぱりパンがあればと諦め悪く考える。
「ロビンが意外とコンピューター関係詳しいのよ。インターネットの接続だとか、全部してくれたの。反対にウソップは全然だめ。役所ってそういうの疎いもんね」

サンジくんは? ナミさんはアサリの殻をフォークの先でカラカラと揺らしながら尋ねた。

「一通り自分でできるつもりだけど、詳しくはねぇかな。パソコン使って仕事したことねぇし」
「あそっか、サンジくんってずっとホストしてるの?」

おれは、と口を開いたところで玄関扉がぎいと大きな音を立て、おれとナミさんは同時に顔を向けた。廊下からひょこりと顔を出したのはウソップで、おれたちを目に止めて「おお」と意味のない声を上げた。随分疲れた顔をしている。

「おかえり。早いじゃない」
「おう、やっと一息ついたぜー。なにサンジ、お前休みなの」

おうと応えると、振り払うようにリュックやら帽子やらを身体から取り去ったウソップはそのままソファに脱力して倒れ込んだ。

「だああ疲れたああサンジめしいいい」
「おう作ってやるからよ、朝食用のパン買ってきてくれね?」
「いや鬼か!」

叫ぶウソップに、ナミさんが声を上げて笑った。
ごろんと寝返りを打って仰向けになったウソップは、瀕死の体で床に打ち捨てたリュックサックを指差した。

「買ってある。あん中、入ってる」
「え、まじで。お前やるな」
「すごいウソップよくやったわ」
「軽ぅ……」

そのままウソップはがくりと首を垂れ、目を閉じた。リュックをあさると5枚切りの食パンが一本、駅前のパン屋のロゴの袋のものが入っていた。
さすが、仕事のできるやつはちがう、見直したわ、お前もてるだろ、などなどナミさんと交互に囃し立てながらウソップが買ってきたパンをトーストし、おれはフライパンの中にウソップのぶんの具材を足して再び火にかけた。
いいにおーいと、ナミさんと全く同じセリフなのに震えるような死にかけの声がソファの方から聞こえた。

「おらできたぞ、食え食え」

よろよろと立ち上がり席についたウソップは、「あったかいめしだ……!」と涙ぐむようにして魚とパンを頬張った。

「なんでおまえそんな忙しいんだよ。公立図書館だろ、本のバーコードぴっぴってするだけじゃねぇの」
「ばっかお前、おれぁ司書じゃねぇんだよ。本の整理だけじゃなくてその管理も会計関係も人事も、役所のほか部署と連携取りながらいろいろやんなきゃなんねーの! 特にこの時期一斉の整理期間で……まあいいや終わったから。つーか図書館司書だってバーコードぴっぴが仕事じゃねぇからな」

トーストをスープに浸す。強い塩味とにんにくの香りで激しく美味いと感じる。顔を上げると、同時にトーストを口に含んだナミさんと目があった。通じ合ったような微笑みを交わし、しっとりと嬉しくなる。

「サンジのめしはほんとうめぇなあ、お前料理人になればいいのに」
「趣味だよ、プロに通用する味かねぇ」
「またまた謙遜しちゃって」

ナミさんまで囃し立てるように言うので、また本気にしそうになる。浮ついた心をなだめて、「なんにせよ食ってけねぇさ」とわざとそっけなく答えた。

「じゃあこのアパートで食堂のおばちゃんしてくれよ。金払うからさ」
「私とおんなじこと言ってる。どう、サンジくん」
「そりゃ平和そうだなあ」

笑って流したが、ウソップは「いい案だと思うんだけどなあ」と半ば本気のような口調でなおも言い募っていた。
ふとウソップは知っているのだろうかと気になる。
ナミさんが外に出ないことをどのように思っているのか二人のときに訊いてみたい気がしたが、いざ二人になったときにその場にいないナミさんのことを訊くのはどうも陰湿なように思えて、きっと話題にはできないだろうとわかっていた。

「あーごっそさん、うまかった」

にんにくの香りがいまだ強く残るダイニングで、三人共が満足げな息をつく。

「……寝よ」

すでに半目になっているウソップは立ち上がり、「めしさんきゅーな」と言い残してふらふらとリビングをあとにした。
ワインの最後の一杯を自分のグラスに注いだナミさんは、ウソップが階段を上る足音を聞きながら「こういうことなのよねぇ」と急につぶやく。

「どういうこと?」
「ほしいなあと思うと、私が外に出なくても向こうからやってくる」

立ち上がって、ナミさんはおれのぶんの皿とグラスも手にとった。

「作ってくれたお礼に片付けは私がやるわ。戻ってくれていいわよ」
「──もう少し二人でいてぇな」
「私まだ仕事があるの」

きっぱりとそう告げて、ナミさんは皿をシンクへと運んで洗い始めた。
どうしたもんかね、と一人になったテーブルで空いたボトルを眺める。洗い物を終えたナミさんは、おれの前を素通りしてソファのいつものスペースに収まるとメガネを掛け、パソコンを開いた。
どうしたいのか自分でもわからなかった。諦め悪くしばらくそこに居座り続け、煙草を二本灰にした。

「サンジくんの煙草の匂い、結構好きよ」

唐突にナミさんが言った。21時をまわり、パソコンを睨んだナミさんが一ミリもこちらを気にかけないのでそろそろ部屋に引き上げようかと思ったときだった。

「懐かしくて、ちょっと安心する」

疲れたのか少し目をしばたたかせてこちらを見た。なんと言っていいかわからず、真正面から彼女を見つめ返す。ナミさんは少し恥じらうように目を逸らし、またキーボードを叩き始めた。
灰皿を汚した吸い殻を、惜しい気持ちで捨てたのは初めてだった。

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 麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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