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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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その日は暑くて、洗濯を回して少し掃除をしただけでとんでもなく汗をかき、背中に張り付いたTシャツは気持ち悪くしわを作って色を変え、フローリングに乗せた足の裏が湿っているのもうんざりして、まだ昼だというのにもう自室に帰って冷やした部屋でシーツをかぶって丸まりたい気持ちになっていた。
でもそんな日に限って、いつ頼んだのかわからない荷物が、それも抱えるくらい大きな段ボール箱で届き、また汗をかきながら梱包を開いたら巨大な寸胴鍋で、二週間ほど前にテレビでどこかの国の老婦人が大鍋で魔女のようにシチューを煮る姿がなぜかとても魅力的に思え、作るあてもないのに彼女を真似て大きな鍋を通販で購入したことを思い出した。

「どうすんのよこれ」

誰にいうでもなくつぶやいて、つるりと輝く赤銅色の鍋肌に自分の顔を映してみる。いびつに歪んだ輪郭がぼんやりとうかびあがったのをため息を付きながら眺め、とりあえず鍋はコンロに置いた。
キッチンの壁にかけたホワイトボードに目を移す。今夜帰ってくるのはゾロだけか。ウソップは職場の飲み会で、ロビンは2,3日あけると言って出たきり帰ってきていない。ルフィもしかり。住人の予定を記すために立て掛けたホワイトボードだけど、まめに予定を書くのは私とウソップだけで、ほとんどが私の仕事上のメモで埋め尽くされている。宅配の予定だとか、家賃を集める日だとか。
冷蔵庫を開けてみたら使いかけの野菜がころころと所在なく横たわっていて、玉ねぎだけ5個入りが二袋も入っている。誰が買ったやつだっけ、と取り出してくるくる回してみるが記名もない。やっぱり各人の仕分けボックスを冷蔵庫内にも入れるべきか、と前から思っていたことを改めて思い直して、キッチンカウンターにとりあえず野菜を出してみる。
窓の外から差し込む光が暑い。ゴミ袋が切れそうだから、近くのドラッグストアに買いに行きたいのに、こんなに暑いんじゃ今日も結局出かけることはしないだろう。
3分の2ほどの人参の皮を向き、一口大に切る。
前に出かけたのは、こんなにも暑くなる前、そうだまだ桜の葉が青々と爽やかに茂っていたときだった。ルフィの大道芸を見るために駅前まで出かけたのが最後だ。
玉ねぎを無心で4つ皮を向き、つるりと美しい白いその実に包丁を差し入れる。しゃりりと心地いい音を手に感じながらまな板からあふれるほど薄切りにする。
今やパソコン一つあれば、ここで暮らす5人の日用品は私が一歩も動かなくたって届けてもらえる。チャイムが鳴ったら玄関を開けて、サイン一つでさっきみたいに荷物を受け取って、あるべき場所にそれらを収めてしまえばもうまるではじめからそこにあったみたい。
にんにくを刻み、油を注いだ鍋に包丁の先で払うようにそのかけらを入れる。威勢よくじゃらじゃらぱちぱちと音を立てて、ふわりと香りがたった。
管理人って楽じゃない。このアパートを引き継いだ当初はそれは大変だった。共用部分の掃除、日用品の補充、ゴミ出し、お金の管理、地域との些末なやり取り。住人同士のトラブルがそうなかったのは幸いだったけれど、自分以外の身の回りの世話をするのはここからここまでという線引が自分の中でできるまで、それは疲弊した。
それが今や、自分の生活の延長線上で管理人が務まっているのだから楽なものだ。瓶に入ったミックススパイスを振り入れて、色の変わった玉ねぎのかさがどんどん減っていくのを面白く眺めた。

「変わったにおいがする」

不意に音もなく開いたドアからゾロが入ってきた。おかえり、とつぶやいた声は炒める音にかき消されたが、ゾロは答えるようにうなずいた。

「んなでかい鍋で何作ってんだ。死体でも煮てんのか」
「そーよ今夜は血のシチューよ」
「そらいいな」

シンクの前でごくごくと水を飲んだゾロはコップを洗わず乾燥棚に戻し、鍋の中を覗き込んだ。

「今日、あいつらも帰ってくんのか」
「ううん。あんたと私だけ」

ゾロは怪訝そうに私の顔を覗き見た。その顔に答えるように言う。

「なんか大きい鍋買っちゃったのよね。あんたも食べるでしょ」
「血のシチュー?」

ぱちっと水分がはねた。あつ、と舐めた指の先をゾロがじっと見ている。その視線を感じる。無視して、わたしは淡々と鍋の中をかき混ぜた。

トマト缶を入れて塩で味を整えて煮込んだカレーを一口食べてゾロは「なんだ、うまいな」と意外そうに言った。

「でしょう。お肉入れなくてもおいしいの」
「辛くなくていい」
「あんた辛いのきらいだもんね」
「ウソップが作るカレーもうまいがなんでもかんでも辛くするから駄目だ」
「あいつ、相当こだわって作ってるわよ。スパイスの調合とか肉の仕入れとか」

6人用の食卓でふたり向かい合って食べるのはさみしいと思っていた。でも今夜は不思議と落ち込んだ気持ちにならない。華やかで慣れ親しんだスパイスの香りがわたしたちの間を元気に行き交うから、ふたりを意識せずに済んだ。
会話がなくても、わたしたちは気にもとめずそれぞれの食事を進めていく。ゾロは何を考えているのか、時折スプーンの動きを止めて宙をじっと見上げた。そういうとき、声をかけても答えはない。
ゾロは造形作家だ。
部屋にはよくわからない針金の人形みたいな骨組みや、大量の粘土や絵の具が散らばっている。売れているのかいないのかその世界のことはさっぱりだがここの家賃は滞りなく支払うし、ときおり豪華な肉や酒を買って帰ってくることもあった。でも、日中でかける仕事の殆どは食いつなぐためのアルバイトで肉体労働をしている。工事とか、足場組みとか。

「ごちそうさま。洗い物はあんたしてよ」

返事は期待していなかった。にもかかわらず、ゾロはいやに明瞭に「ナミ」と私を呼んだ。振り返るとゾロはあと二口ほど残したカレーの皿にスプーンを差すように置いて、まっすぐ私を見ている。
おまえ、とゾロの薄い唇が動く。

「おまえ、おれと寝られるか」

じっとその目を見つめ返すと同じ強さの視線が返ってくる。あと二口だけ残されたカレーがやけに貧相に皿に残っている。ごはんと混ざって、ちっともおいしそうじゃない。

「寝られるけど」
「そうか」

ゾロは残りのカレーをさらさらと流し込むように食べたあと「ごっそさん」と立ち上がり、私の横をすり抜けてたった30秒ほどで私のぶんの皿も洗ってしまうとこちらを振り返って「んじゃ」と言った。

「寝るか」
「……インスピレーション?」

ゾロは本気でわからない、といった顔で首を傾げた。
立ったままカレーの匂いの残る唇を重ね、ゾロの部屋で事を終えた。気だるい頭をぼんやりと持ち上げたら、隣で横たわっていたゾロが唐突に体を起こしてベッドの下に散らばっていた廃材のようなものをかきあつめ、床の上で組み立て始めた。
その丸まった背中を見下ろしながら、芸術家なんて嫌いだとはっきりと感じたことを覚えている。

ゾロに「寝るか」と言われたら寝たし、なんとなくそんな気分になって勝手にゾロの部屋に入ってみたら、始め部屋にいる私を見て一瞬ぎょっとした顔をするものの、ゾロはすぐにその状態を受け入れて当たり前のように私を抱いた。
ゾロに私は必要かといえば必ずしもそうではないだろうし、私にとってもそうだ。お互い、かけがえのない存在にはなりえない。
でも管理人としての私はゾロにとっては必要で、私だってこのアパートからゾロが出ていってしまえばさみしいと感じるだろう。ウソップやルフィ、ロビンでもそうだ。

サンジくんは秋風みたいにするりとこのアパートにやってきた。とらえどころのない身のこなしであっという間に人の懐に入り込む。ホストをしていると聞いて、ああ彼にとってはきっと天職なのだろうと思った。柔らかくほどける笑顔は甘く、低い声は落ち着いていて女性の心を持ち上げる。ひやりと首筋を撫でるような乾いた視線さえ見せなければ、私は誘ったりしなかった。
明らかに酒に飲まれてふらつく姿は夜の仕事をする人間とは思えない頼りなさで、苦しそうにシンクに手を付き水を飲んだサンジくんは酔っ払いらしく顔をほてらせているかと思いきや、存外どこか遠くに体温を忘れてきたみたいな冷えて乾いた目をしていた。
かわいそう。
手を伸ばし頬に触れたらきちんと温かくてほっとした。私の身体を見下ろして上下した喉仏は大きくてその動きを一瞬いとしく思った。
なにかをいとしく思ったことなど、もう、どれくらいぶりだろう。

私は満たされている。
隅々まで知り尽くしたこのアパートと、そこに暮らす人たち。気のいいやつらで、暮らしは快適だ。理解ある女友達だっている。遠く離れたところに暮らす姉は健康で、私を求める男の人はなんとふたりもいる。
どうしてこの場所から動く必要なんてあるだろう?
全部、集まってくるのだから。



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助かる、すげぇ助かるよサンジ、とカルネはおれににじり寄り、手を取って握った。
やめろ離せ、と顔を背けるが、カルネは青いひげづらを構わずおれに近づけて頬ずりしかねない勢いだ。雇われ店長であるカルネが近頃の人手不足にきりもみしていたことは知っていたので、うんざりしながらも黙って手を握らせておく。

「夏休みに入るまでっつってたバイトの黒服が、大学の試験期間だとかで予定より早くやめちまって。こんな合間の時期にバイト募集してもそうそう来るもんじゃねぇからよぉ、いやー持つべきもんはサンジだぜ」
「んだが知らねぇぞ。アルバイトのガキと違っておれと同い年くらいのやつだし、とてもじゃねぇが細やかな気配りができるタイプだとは思えねぇ」
「いいんだいいんだ、黒い服着て立ってりゃそれでいい。氷の交換くらいはできるだろ」

いつ来る、明日か、明後日か、と息巻くカルネを落ち着かせて、言やあ明日にでもくるだろうよと言えばすぐ連れてこいとのことだった。
実際、ゾロは翌日おれについて夕方四時頃店に来た。
物珍しいのか、ガキのように店の中をぐるりと見渡す様子は不思議とあどけなく見える。
カルネのあの様子じゃ採用は確実だろうが、一応面接じみたものをやるだろうと思い、普段どおりのよれたTシャツにハーフパンツという出で立ちでリビングに現れたゾロを捕まえて「お前もっとマシな服もってねぇのか」と尋ねてみたが「マシ?」とてんで理解していない顔をしていたので説明するのも面倒になり、そのままの格好で連れてきた。
案の定、カルネはゾロの風貌とガタイに一瞬ぎょっと身を引いたが、店に置いてある安い黒服用のスーツを着て出てきたゾロを見て、満足げにほうと息をついた。

「なんだ、サマになるじゃねぇの」
「馬子にも衣装だな」

まご? とまた理解していないゾロに「あーなんでもない」と手を降って、店の中をぐるりと案内して説明した。
黒服の仕事は、客の案内に始まりチェイサーや灰皿の交換、料理の配膳、会計や時間の管理、そして店の掃除や買い出しなど多岐にわたる。

「愛想よくして客の気分を乗せるのはおれらの仕事だが、黒服も愛想よくかわいがってもらわねぇと客はつかねぇ。気に入られりゃ、酒も飲ましてくれるし通ってもくれる。今日は試用期間だと思って他の黒服のまねしてろ」
「おう」

説明はそれだけだった。
本当にこいつは理解してんのかね、と不安になるも、黒服の先輩になる大学生アルバイトうしろにくっついてゴミ捨て場の説明を聞きに行くゾロのでかい後ろ姿はどこかちぐはぐで、妙に笑えた。

火曜日だということもあり、21時を過ぎてもソファはポツポツと空いている。
飛び込みでやってくる新規客に1時間半ほど付くのを2回繰り返してお会計を終えたので、一服しようとホールを出た。
スタッフ用の喫煙場所まで行く途中に狭い通路を抜ける。ちょうど厨房の横を通るので横目に中を覗いたら、ドリンカーの前でゾロが小難し顔をして細長いグラスを握りしめているところだった。

「おう、なに物騒なツラしてんだ」

ゾロはちらりと顔を上げておれを確かめると、「グラスがどれかわからん」と言う。
近付いていってオーダー表を見ると、ロングカクテルが数種類オーダーされていた。どれも似たりよったりのアルコールだが、使うスピリッツでグラスが分かれている。取り間違うことのないようにという配慮だが、作らされる側としては作る時点で間違えないよう気を配る必要がある。
しかも常連と違い新規客の多い週の前半かつ浅い時間帯は、ボトルではなく細かいドリンクのオーダーが多いのだ。

「ジンがこれ。モスコミュールとか、ウォッカがこっち。カンパリはこの口が広いやつ」
「ああ」

助かった、とぼそりと礼を言い、黙々と酒を作る。案外素直なやつだなと喫煙場所に向かい、一服済ませて戻ったらまた同じ顔でグラスを握りしめていたので若干不憫にさえ思えた。

「おい、それ作ったら他のやつと交代して一回出てこいよ」
「あ?」
「おれの担当客が22時過ぎに来るから、ホールの様子も見てみりゃいい」

店に活気が出るのもこれからの時間が本番だ。
おれがホールに戻って待機していると、ぬっとゾロがキッチンから出てきた。
それだけで、数名の客がゾロの方を見たのがわかった。いるだけで威圧感があるせいか、やつが動くと空気がかき混ぜられるような気がする。
自分の客の注意が逸れたのがわかったのだろう、担当しているホストたちが妙に大きな動作で立ったり大声を出したりして盛り上げようとし始めた。
ちょうどそのとき、来店を告げる声がかかり、おれの客が来た。出てきたゾロに「おれの常連さんだから、挨拶しに来い」というとおとなしくおれの後ろについてきた。
お客は、50に差し掛かろうかという歳のマダムだ。どこか中規模企業の代表でもしているのか、本人は上品で物静かだが楽しい雰囲気を好むらしくこの店に通ってくれている。そしてときどきタガが外れたような金の使い方をした。こちらがぎょっとするようなタイミングで、店で一番高いボトルを開けたり気に入った店子(ここではおれだ)の誕生日にバカでかい花とフルーツで飾り付けたケーキを用意してくれたりする。

「こんばんは」

腰掛けておれを待つ彼女に声をかけると、こちらを見てゆったりと微笑んだ。そして吸い込まれるように、おれの後ろに立つゾロに目線が動く。

「新しく入った黒服です。今日はご挨拶に」

目線で促すと、ゾロはぺこりと頭を下げた。口元は引き結んだまま、にこりともしない。張り倒してやろうかと思った。
しかし彼女は気分を害した様子もなく「よろしくね」と微笑んだ。
内心ホッとし、もういいあっちにいけ、というように小さく手で払う仕草をすると、ゾロはまたのっそりと店の隅へ戻っていった。

きっかけは、彼女が化粧室に席を立ったことだ。おれがエスコートしようとしたが、「場所はわかっているから」と断られた。にもかかわらず、帰ってきたときはゾロも一緒だった。そして、彼女は少女のような顔で言った。

「ねぇ、この人にもお酒を作って上げて頂戴」

何を話したのか、妙にわくわくとした表情で彼女はゾロをおれとは反対側に座らせて、手づからグラスを取って氷を入れようとまでする。慌てておれがそのグラスを取り上げて、ウイスキーを注いだ。

「お水は? 炭酸?」

甲斐甲斐しく彼女が訊く。

「あー、そのままで」

おい、と目でたしなめるが教えてないので通じるわけがなかった。
店では客にたくさん飲ませ、自分たちは薄い酒を飲んで長い勤務時間をやり過ごさねばならない。もちろん、自分も多く飲めればその分客のボトルも空くのでそれに越したことはないが、今日は無理をする日でもない。ぼちぼちいこうやというときに、ウイスキーをロックで舐める店子などいなかった。
そしてゾロは、あろうことかおれの注いだ酒を一気に飲み干し、そして一言、

「ああうめぇ」

嬉しげに息をついた。
くらりとめまいがする思いだった。薄い酒を飲み続けていただけなのに、酔いが回ったような頭の重さが急にやってきた。
しかし彼女は、ゾロの様子を満足気に眺め、まるで「ほらね」とでもいうようにおれを見るのだった。おれは理解しきれないまま、応えるように微笑み返すしかない。
そのあと、彼女はゾロを隣に置きながら、おれに対して仕事の話や近頃ついていけなくなった若者言葉なんかについて、ゆったりとした口調でいつものように話し続けた。しかしそのかたわら、ゾロのグラスが空くたびに甲斐甲斐しい妻のような手付きで酒を作ろうとし、そのたびにおれが慌ててゾロの酒を作ってやる、ということを繰り返した。
結局、彼女のボトルのほとんどをゾロが空け、彼女は新しいウイスキーのボトルと、店で3番目に高いシャンパンを一本入れて、日が変わる前、満足気に帰っていった。
彼女が帰ったあと、狐につままれたような気分でゾロを振り返ると、まるで顔色を変えない仏頂面がいた。

(なんてこった)

ゾロは黒服だ。固定客がつくことはない。彼女が、おれからゾロに乗り換える心配はないわけだ。
たまにいるのだ。ホストとのコミュニケーションの楽しみ方の一つとして、男に酒を飲ませたがる女性が。そういうレディたちには、それ相応の飲めるホストたちがついていた。おれのような中途半端な飲みっぷりでは気に入ってもらえないからだ。だから、おれを気に入ってくれている彼女は飲ませることに興味がないのだと思っていた。
だが違った。興味がないのではなく、おれができないからしなかっただけなのだ。それは純粋におれのことを気に入ってくれていたということで大変喜ばしいが、なんだか新たな扉を開いてしまったような罪悪感と、平気な顔で立っているゾロに対するうっすらとした嫉妬心に顔が歪んだ。

「おうおうおめーらコンビ、やるじゃねぇか」

閉店後、カルネが嬉しそうにおれの肩を抱いてくる。やめろ、と振り払うと今度はゾロに寄っていって背伸びしてまで肩を組んでいる。
イベントもない平日の夜にしては、おれの売上だけが飛び抜けていた。いわずもがな、ゾロが作った売上だ。
殊勝なことに、「運が良かった」とゾロはぼそりと呟いた。
そのとおりだと思う。どうかすれば、ゾロの態度に腹を立てて帰ってしまってもおかしくなかった。
わかっているだけましだなと思い黙々と身の回りを片付ける。
浮かれ喜ぶカルネだけが地に足のつかない感じがして、どうにも不安だった。




「あんたたち、最近いつもいっしょにいない?」

ナミさんにふとそう言われたのは、ゾロが店で働き始めて2週間ほど経ったころだった。今日もまた、おれたちは同じ場所に出勤しようとしていた。ただ、ゾロはおれより早く店に入って開店の準備をするが、おれは今日は同伴があるから早く家を出るだけであり、そうでなきゃ仲良く毎日一緒に出かけるわけではない。
んなことねぇよー、とおれはナミさんにすり寄った。ゾロは聞こえていないような素振りでリビングを出ていった。出かけるギリギリまで寝るつもりだろう。

「気味悪ィこと言わねぇでくれよ、おれだっていつも一緒はナミさんがいいに決まってる」
「でもさ、不思議とうまくいくもんね」

ナミさんはおれの言うことを無視してゴミ袋を力強く結び、コーヒーカップを洗うロビンちゃんを見上げた。

「本当ね、意外なところに天職ってあるものね」

そう、天職。
おれにホストは向いていないと確信する一方で、ゾロは今のクラブでの仕事が天職ではと思えるほどの仕事ぶりだった。
やつは相変わらず黒服のままだ。固定客はつかないし、早く出勤して開店準備をし、ホストよりも長く店に残って後片付けをしてから退店する。ソファには座らず、余計なことは喋らず黙々と氷を変えおしぼりを回し、ほとんど毎日入っているにも関わらず2週間経ってもカクテルグラスを覚えることができていない。
だがゾロがホールに出ると何人かの客は必ず吸い込むように会話を止めて、ゾロを見た。相変わらずの仏頂面で、にこりともしないゾロを敬遠する客もいるにはいたが、それ以上にゾロにも酒を勧めたがる客のほうが多かった。
ホスト側には、おれと同じように客の反対側に座らせて酒飲み係をさせるやつと、固定客がつかないとは言え自分よりも気に入られる様子を面白く思わずゾロを遠ざけるやつと、半々といったところか。
どちらにせよ、店全体の売上はぐんと伸びたはずだ。
ゾロはアルバイトの身分だが、売上のいい日にはおれたちと同様に臨時ボーナスが渡された。カルネは相変わらず喜々として、回って歌い出しそうな勢いだ。

「そうだ、ロビン、そろそろコーヒーも無くなりそう」
「あら、買っておかないとね」
「通販はいやなんでしょ」

行きつけの店があるのだといってたっけ。彼女たちの会話を尻目に、おれはリビングの壁にかかった楕円形の鏡を腰をかがめて覗き込む。ネクタイを締めあげ、整える。

「夕方、天気が悪くなるみたいだし、行っておこうかしら」
「明日からしばらく雨だしねー」
「サンジ、よければ一緒に行かない?」

ロビンちゃんの申し出に、おれは踵でくるりと振り向いて慇懃に礼をした。

「ィ喜んで」
「よかったわね、荷物も持って帰ってもらったら?」
「あれ、ナミさんは行かねぇの?」

うん、と応えると同時に、彼女は両手にごみ袋を持って立ち上がった。裏庭まで置きに行くのだ。不燃物は週に一回。6人も暮らしていると、それなりの量になる。ゴミの日までアパートの裏庭に置いておき、週に一回アパートの前の集積場までナミさんが運んでいる。
持つよ、と手を差し出すと「あらありがと」とすんなり手渡される。

「場所わかる? 軍手取りに行くから、案内するわ」

ナミさんがよいしょと立ち上がり、先に立って歩き始めた。出かける用意、しておくわねとロビンちゃんがひらりと手を上げる。
アパートの裏庭はリビングから見える庭のちょうど反対側、キッチンの裏手で北側なこともあり、日が陰り少しじめじめとしている。しかし、彼女が時折手をかけているプランターの花々がちょこちょこと咲いていて陰気ではなかった。日陰でも花は咲くもんだ。
「あそこ」とナミさんが指差した庭の隅に、使われていない物干し竿やプラスチックのたらいのようなものが重なっているスペースがあった。

「置いておくのは不燃物だけね。燃えるゴミは、動物に荒らされるといけないからきちんとゴミの日に出すの」

まぁ共用のゴミは私が出すから気にしないで、と言うナミさんに「はあい」と答え、指定の場所にゴミを置く。
ナミさんは半袖だった。近頃ぐっと気温が上がり、まだ若葉の季節だと言うのに日差しの強い日が続いている。真っ黒なスーツを着込んだおれといると、ずいぶんちぐはぐな様子に見えるだろう。
ふと思い出して言った。

「ナミさんも一緒にコーヒー屋行かねぇの? 仕事?」
「ううん、別に。でもいいの、私は」

行かない。きっぱりと、そしてさっぱりとした笑みを乗せてナミさんは言った。
おれはそれ以上言い募ることもできず、室外機の上においてあった軍手を拾い上げてさっさと屋内に戻っていくナミさんを慌てて追いかけた。


「じゃあ、行ってきます」

はーい、とナミさんはこちらを見もせずに手を振った。
おれとロビンちゃんは並んでてくてくと歩き出す。暑ィ、と思わずこぼす。

「この間はごめんなさい、余計なことをいろいろと言って」

歩き始めてすぐ、外の光に怯んだようにロビンちゃんが目を細めて言った。

「この間?」

本気で見当がつかなかったが、こちらを覗き込むように見たロビンちゃんを見つめ返していたら思い当たった。先日、朝、リビングでの会話のことだ。
いやいや、とおれはゆるく首を振る。

「こっちこそ、みっともねぇとこ見せた」
「みっともなくなんかないわ」

はは、と笑ってごまかして、煙草に火をつけた。
事実、思い返せばみっともないの一言に尽きる。
ロビンちゃんは全てわかっているようだった。おれたちの関係も、おれが彼女に抱く思いも、その外形のなさというか、もろさも。
彼女の言葉一つ一つに、つい率直に反応してしまったのだからもう言い逃れはできない。
煙を吐き出しきってから、口を開いた。

「うぬぼれてるわけじゃねぇけど」

ロビンちゃんがこちらを見る。黒いロングスカートが、彼女の足元で風にはためく。

「おれの手に負えないような人にゃ見えねーんだ」

振り回されてもいい。しがみついて、すがりついて、絶対に離さないと決めた。
二度目に彼女を抱いたあの夜、するりとドアの向こうに消えていったナミさんの気配が、ドアの向こうからしばらく消えなかった。木の板一枚隔てておれたちは、二人で作り出した余韻を持て余していた。
ロビンちゃんは顔にかかった髪を指先で払い、少し考えるふうに目線を落として歩き続ける。おれは彼女に煙草の煙が当たらないよう、風下を一歩下がって歩いた。どこかから、ピアノの練習をするつたないメロディが聞こえてくる。

「さっき、ナミを誘ったでしょう。一緒に行かないかって」
「あぁ、うん」

それが? というようにロビンちゃんを見たが、彼女は前に視線を据えたまま言葉を選んでいた。

「ナミは外に出ないわ」
「え?」
「文字通り一歩も出ないわけでも、家に閉じこもっているわけでもないけれど……そうね、少なくともあなたが引っ越してきて2ヶ月近くは、家の敷地外には出ていないと思う」

おれは言葉を失って、照り返しの強いコンクリートを見下ろした。
ショックを受けるようなことではないが、言われてみれば、と思ったのだ。
アパートの必需品を、彼女はすべて通販で賄っていた。買い物に出かけるところを見たことがない。どこそこに出かけた、という話も聞いたことがなかった。住人たちとちょっとした宴会をするときの買い出しも、だいたい買ってくるものを言いつけておれやウソップに行かせていた。
さっきだって、まるで悩む様子もなく、まるで「そういうものだから」とでもいうようにおれの誘いを断った。「私は行かない」と。
ふと思い出して、「でも」と言った。

「そういやいつだったか、ナミさん、ルフィの大道芸だったか、見に行ったって言ってなかったっけ。ほら、あそこの駅前でやってるとか言って」
「ええ、だからまったく外に出ないわけではないのよ。ふらっと出かけることはあるみたい。でもそうね、私が彼女が外に出るのを見たのは、駅前にルフィのバスキングを見に行ったその一回きりかもしれない」

着いた、と唐突にロビンちゃんが足を止めた。
彼女にぶつかる前に慌てて足を止める。煙草を口からつまんで顔を上げると、とたんにコーヒー豆の焼けるあの香りがふっと香った。
アパートから10分ほど歩いただろうか。駅に行くのとは反対方向だから、こんなにも近くにコーヒー豆を売る個人店があるとは知らなかった。なんせここは住宅街のど真ん中だ。駅からも遠い。
ロビンちゃんはためらいなく暗い店内へと入っていく。おれもおずおずとあとに続いた。

「こんにちはロビンさん」

足元から這い上がるような低い声が真横から聞こえ、おれは文字通り飛び上がった。声の主が思わぬ近さにいたからだ。
ロビンちゃんは振り返り、ゆったりと笑った。

「あらブルック、気が付かなかった。ひさしぶりね」
「ヨホホホホいらっしゃいませ」

店の主は、入口入ってすぐのスツールに腰掛けてティーカップを口に運んでいた。痩せて、やたらと足が長く、何よりも巨大なアフロがもっさりと乗っかっている。奇天烈な外見におれは及び腰でまじまじと男を見つめた。
ブルックと呼ばれた店主はおれに目を留め、「これはこれは」と小さく頭を下げた。

「はじめましてでしたね。ロビンさんのお友達ですか」
「ええ、うちの新しい住人よ。サンジというの」
「サンジさん。ブルックです、どうも」

差し出された手も妙に骨ばっていた。陽気な声と低い声が行ったり来たりする調子もどこか奇妙で、おれは気味の悪さを隠しもせずに軽く手を握り、さっと引っ込めた。
ロビンちゃんは「いつもの、300g挽いてもらえるかしら。あとなにか……おすすめのブレンドを200g」とおれの様子は意にも介さずに注文している。

「どうぞ座って」

ブルックは立ち上がると、自分が座っていたスツールともう一脚をおれたちに勧め、狭い店内のカウンターの奥へと引っ込んだ。店の中はずらりとコーヒー豆の詰まった麻袋やビン類が並び、おれは薬局を思い出す。あそこをコーヒーで染め上げたらこんな感じだろう。
「いつもの」というコーヒー豆を取りに行ったのかと思いきや、5分ほどして戻ってきたブルックはカップを二つ乗せたトレーを手にしていて、おれたちに「どうぞ」と差し出した。中を見下ろすが、濃いはちみつ色のそれはどうみても紅茶だ。

「いや、なんで紅茶」
「私、紅茶のほうが好きなんです」

おいしいのよ、ブルックが淹れる紅茶は。ロビンちゃんはおいしそうに湯気の立つカップに口をつけている。
はあ、とおれも腑に落ちない気持ちで茶を飲む。確かにうめぇな、とついカップの中を覗き込んでしまう。

やがて、ざりざりと豆がかき混ぜられる音と一緒に一層強いコーヒーの香りが漂ってきた。音楽のように、それはゆっくりと店の中に充満していく。
強い焙煎の香りで紅茶の香りはあっというまに飛んだが、口に含むと不思議とまた茶葉の香りはよみがえって鼻から抜けていった。
両立する二つの香りに酔ったように、おれはぼんやりと店の中を見たまま音に耳を澄ませ、匂いを感じ、紅茶を飲んだ。隣に腰掛けるロビンちゃんも口を開かないが、やけに心地よい時間だった。

「できましたよ」

ブルックが銀色の袋に包まれたコーヒーを手に出てきた。ロビンちゃんが金を払い、それを受け取る。

「もうすぐ初夏のブレンドを出す予定ですので、ぜひ」
「えぇ、また来るわ」
「サンジさんもぜひ」
「あぁ、ごちそうさん」

カップを返し、礼を言うとブルックはうやうやしく頭を下げ、出ていくおれたちを見送った。店の中がやけに暗かったせいか、外の日差しに思わず目がくらむ。

「面白いでしょう」

ロビンちゃんが手にする袋を受け取っておれは苦笑した。たしかに面白かった。

「こっちに引っ越してきたのも、あのお店が近くていいなと思ったから」
「前はどこに?」

ロビンちゃんは、ここよりもずっと遠く、西にある街を口にした。ビルの立ち並ぶオフィスとビジネスの街だ。

「好きなものが手の届く場所にあるところに住もうと思ったの。歩いていけるくらいに」

それはいいな、と思った。彼女は確かに、いつも幸せそうにコーヒーを飲み、普段着でふらりとコーヒー豆を買いに行く今の暮らしを愛おしんでいるように見えた。
そういえば彼女がなんの仕事をしているのか、訊いたことがない。
疑問を口にすると、ロビンちゃんは「今まで一度も不思議に思わなかったの?」と逆におかしそうに尋ねた。

「いや、いつもアパートにはいるみてぇだから、家でできる仕事だろうなとは思ってたんだが」
「家でできて、時間を問わなくて、数字やグラフを追っかけて、売ったり買ったりするものよ」

ぴんと来た。

「株だ」
「当たり」

なぜか恥ずかしそうに、ロビンちゃんはふふと笑った。

「すげぇな。おれはアホだから、そういうのはさっぱりだ」
「私は面倒くさがりだから、モニターの前に座ってキーを一つ押すだけで暮らしていける仕事を選んだだけよ」

「サンジはなぜホストになったの」とロビンちゃんが尋ねた。「稼げたからさ」とおれはすぐに答えた。

「あと、おれの入ってる店、おれのジジイがオーナーやってんだよ。一番手っ取り早くてぬるいやり方で食っていこうとしたわけよ、おれは」
「賢いやり方よ」

こんなにもきっぱりと肯定されたのは初めてだった。

「お酒は肌に合わないようだけど」
「問題はそれだけなんだよ」

笑いながら言っているうちに、あっという間にアパートにたどり着いた。買ったものを彼女に手渡して、玄関の前で別れた。
そのまま踵を返し、駅へと向かう。
静かな暮らしを求めてビジネスの街を出て、部屋の中で大金を動かすロビンちゃん。
紅茶が好きだと言いながらコーヒー屋を営むブルック。
酒が飲めないホストのおれ。
そして、おれたちの暮らしを管理し、明るく快活に笑うナミさんは家から出ない。

駅前でうろつく緑頭を見つけた。時折、仕事前に駅までの道をさまようこいつを捕まえることがある。どうも方向感覚のネジが外れているらしく、目と鼻の先にある駅に入れずあらぬ方向に行こうとしていた。

「おい、何やってんだ」

声をかけると、ゾロはおれに目を留めて「おう」と言う。駅舎に向かうおれのあとをおとなしく付いてきた。
夕方の、帰宅ラッシュに差し掛かる手前の空いた電車で、おれたちは横掛の椅子に対角に腰掛けて店の最寄りまで向かう。すぐさま寝こけたゾロの脛を小突いて起こし、店のある繁華街へと歩いていく。
ゾロは店へと、おれは今日の同伴客と待ち合わせの約束をしている別の料理屋へと、何を言うでもなく別れてそれぞれ向かった。

→7.5

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R-18!

6

夜はほとんどの住人が集まった。ルフィだけがいなかった。

「サンジくんの夕飯珍しいのに、聞いたらがっかりするわねあいつ」

ナミさんが焼いた手羽先にかじりつきながら言う。あふい、と目をぎゅっと瞑る仕草が愛らしい。立ったまま彼女の表情に目を走らせつつ、何食わぬ顔で手を動かした。
ナミさんとロビンちゃんの取皿に野菜やらいろいろを取り分けてから、下味をつけた別の肉をホットプレートに並べていく。
ゾロは、時間になったら何でもなかったみたいに降りてきて「おう、飯か」とダイニングを覗き込んで、パントリーから酒を取り出した。
ナミさんから「ボトルから直接飲まないでよ。みんなのぶんグラス持ってきなさいよ」と小言を言われてもどこ吹く風で、飲みたきゃてめぇでもってこいとボトルを傾げている。
「魚はねぇのか」とおれに注文までつけて、「貝ならある。あとイカ」と応えると「いいな」とにやっと笑った。
随分さっぱりとした性格というか、一度寝たら寝る前のことなんざ忘れてしまったみたいだ。
くやしいような、ほっとするような、色の違う煙が混ざり合って淀むような心地でおれはもくもくと肉野菜を焼く。

「サンジ、焼いてばかりいないであなたも食べて頂戴」

ひとりだけ優雅にワインを開け、ときどき野菜をついばむように食べるロビンちゃんがおれを気遣う。
やさしいなぁとやに下がって、言われたとおり肉を口に運んだ。

「サンジくん、そろそろ豚肉も焼いてー」

はぁい、と豚を包んだラップを剥がす。
するとナミさんがおれからその肉を取り上げて、「やっぱいいわ。私がやる」とおれの手からトングも奪った。

「いいよ、食べてなよ」
「いいって。それよりあんたも一度座って食べなさいよ。お酒も全然飲んでない」

そういうナミさんは、すでに二本目のビールを開けようとしていた。
少し悩み、言われたとおり腰を下ろして皿に放り込まれた肉と野菜に手を付ける。酒は、正直気が進まなかった。雰囲気で飲みたくなるもので、開けたはいいが連日の仕事で胃と肝臓はぐったりしている。

「ゾロ、お前次の仕事決まってんの?」ウソップが尋ねた。
「いや」
「家賃、遅れたらすぐ追い出すわよ」

まんざら冗談でもない調子でナミさんが言う。おれも気をつけねばと思う。

「前の仕事にほぼ毎日入ってたから金ならある」
「前って工事だろ? お前くらいしか毎日入れねーよ」
「体力なら売るほどあるもんね」

しかし次どうすっかな、とゾロは顎を撫でた。
するとウソップが思いつきをそのまま口に乗せたような軽い調子で、「サンジんとこ、バイトとか新しいホストとか募集してねーの?」と肉をかじりながらおれを見た。
「おれんとこぉ?」
思わず嫌悪感がにじみ出る。この緑頭が黒いスーツに身を包み、レディの横に座りおとなしく笑ったり酒を作ったりしている様子なんぞ、一ミリも想像できない。

「いやいや無理だろこいつに接客業は」
「わかんねーぞ、意外と人気出るかも」
「ぶ、ゾロがホストって」

周囲の反応をよそに、ゾロが考えるように視線を遠くにやった。おいおい、とおれが口を挟むより早く「アリだな」とゾロが言う。

「酒が飲める」

おま、とげんなりし、落ち着こうと手元の酒を飲み下す。

「おまえね、簡単に言うけど酒飲んでるだけの仕事じゃねぇからな。レディ方のお出迎えからお帰りまで神経張り巡らせて、朝起きたときからまめにメールやら電話やらで連絡取って、自分のお客の趣味やら好きなもんやら逐一覚えて、ぜってぇお前にゃできねぇ」
「やってみなきゃわかんねぇだろ」

それはそうだ。「ぜってぇ無理」念押しのように言ってから、たしか黒服がこないだ一人やめたな、とも考えている。ホストはともかくとして、黒服くらいならやってやれないこともないかもしれない。

「本気かよ」
「ん? ああ」

酒瓶を垂直に立て、最後の一滴まで飲み干して口元を拭うゾロが果たして本気で職を求めているようにはまったく見えない。が、黒服がひとり足らないだけで店の周りは悪くなる。だいたい黒服は学生くらいの若いやつがやるもんだが、多少とうが立っていても問題はない。

「しゃーねぇな、聞いといてやるよ」
「ああ、頼む」
「黒服な。雑用係なら空きがあったはずだ。黒服も客に気に入られりゃー酒も飲める」
「飲めるならなんでもいい」

すんなりとゾロが言うので幾分拍子抜けする。ウソップが「んじゃゾロの再就職にもっかい乾杯しよーぜ」とグラスを持ち上げるので、腑に落ちない気持ちのままグラスをぶつけた。

テーブルの上を片付ける頃、おれは立つことも億劫になっていた。赤い顔で息をつき、ソファに沈むと体から水が抜けるようにずるりと体が緩む。伸び切ったゴムのような心地だ。しかし片付けをせねば、と気合を入れて体を起こすと、柔らかな声でロビンちゃんに制された。

「いいわよサンジ、横になってなさい。片付けは私達がやるから」
「や、レディにやらせるわけには」
「いいって。結局あんた立ちっぱなし焼きっぱなしだったし。にしても本当弱いのね」

家だからという気安さのせいか、仕事のときと違って気を張る必要がなかったせいか、缶ビールとワイン少しでぐるぐると回りだした。
ソファの背に体を預け、天井を仰ぐと余計に体が波に揺れるような感覚がする。
結局レディたちのお言葉に甘え、片付けは任せることにした。遠くから、彼女たちの楽しげな声がこまかく聞こえてくるのもいいもんだ。
二人のどちらかがリビングの窓を開けたのか、煙たい空気がさっと流れていき、新鮮な夜の匂いがした。冷えた空気が心地よく、知らないうちにそのまままどろむ。
夢と現実の間のようなところで、淡い水彩画のような色がまぶたのうらに浮かんでは消える。

ぐぁ、と自分のいびきで目が覚めた。
跳ねるように体を起こす。もともと少量だった酒はすぐに抜けたようで、もう目が回るようなことはない。
キッチンは暗く静かで、おれのいるリビングの明かりだけがついている。
ぷあーっと遠くでクラクションのような音が鳴り響き、その音を目で追うように窓の方を見たらソファの端っこにナミさんがゆるりと座っている。こちらに足を伸ばしてパソコンを見つめていた。

「うわ、ごめんすげえ寝てた」
「うん、よく寝てた。いいわよ別に」

画面から目を離さずに言って、マグカップの中身をごくりと飲んだ。その喉の動きを思わず見つめている。
しまったな、と前髪をかきあげた。

「今何時?」
「22時半」
「うわ、やっべ。そんなに?」
「いいじゃない別に」

ナミさんは細いフレームのメガネをかけていた。細い鼻先にメガネを乗せた横顔は精緻な機械みたいに見える。
思わず手を伸ばし、彼女のこちらに伸ばしたつま先をそっとつまんだ。
怪訝そうにナミさんがおれを見る。
つ、と手を滑らして足の甲に触れる。細い骨が浮き出たそこは川の水みたいに冷えていた。
まだ酔いの欠片が残っているのだろうか。脳みその浅いところをさらうようにしかものを考えることができない。
短く切りそろえられた足の爪。薄いガラスのようなそこを指の腹で撫でる。ナミさんは動かなかった。おれの手の動きをじっと見ている。
足の甲をたどり、足裏に指を伸ばし、冷えたかかとを包む。筋張った足首を掴んだとき、ナミさんがパソコンを閉じた。
手が伸びてくる。おれの顔に触れるのかと思いきや、指先は顎の下に落ちる。
シャツの襟を、まるでカーテンの隙間から外を覗くときみたいに細い指がそっと払い、おれの鎖骨に触れた。
火が煙草の先を削るときに一瞬赤く灯るように、触れられた場所が熱を持つ。
おれはずっと彼女の足首を見ていた。丹念にそこを温めるように握り続けていた。
ナミさんの指はおれの鎖骨をたどり、シャツの下、肌の上を這い、肩の方に伸びていく。
するり、唐突にナミさんがおれの肩に手をかけた。
引き寄せられたような、自分から寄っていったような、どっちつかずのまま唇が重なる。
足首からふくらはぎに手を滑らせる。意味がないほど薄くて軽いスカートの中に、たやすく侵入する。
ナミさんの両手はおれの首を掴んでいた。そのままするするとシャツの中を出たり入ったりする。背中を這う冷たいその感触に矢も盾もたまらず、腰を引き寄せて深く舌を差し込んだ。
んう、とナミさんが小さく呻く。
触れたふくらはぎは頼りないほど細く、なのにやわらかくはりつめている。もっと奥へ、奥へ、と手がはやり、同時に彼女を引き寄せるように強く舌を吸う。太腿の裏に湿度を感じたとき、不意に我に返ったような心地で唇を離した。
スカートの中から手を出して、彼女の顔にかかった髪を払う。水面みたいに揺れた目がおれを見上げる。

「部屋に来てよ」

ささやくように言うと、ナミさんは少し視線を外し、小さな声で「いいけど」と言った。

「その前にお風呂入りたい。煙くさいし、服も髪も」
「無理、待てねぇ」

よいしょもなく彼女の腰を持ち上げた。
うわ、と声を上げ、とっさに彼女がおれの肩を掴む。一度自分の膝の上に座らせてから、勢いをつけて立ち上がる。肘でリビングの明かりを消した。
幸い廊下には誰もいなかった。誰かが風呂を使っているのか、水の音が小さく響いている。
三階まで登るあいだ、ナミさんはおとなしくおれの肩に掴まっていた。
自室に律儀に鍵をかけていたせいで、入るのに少々手間取る。

「下ろしてよ」

小さな声で彼女が言ったが、無視して片手で鍵を開ける。
下ろしてしまえば、とたんに彼女が逃げてしまうような気がした。窓の隙間から漏れる夜風みたいに、するりと薄いその身をかわして逃げ去ってしまうような気がしていた。
部屋に入ると、自室の気の置けない空気に包まれる。そんなところへ彼女を連れ込むことに成功したのだと思うと、より一層浮遊感が増す。いい意味で歯の根が噛み合わないような、喜びで浮足立つ一歩手前のような。
一度ベッドに腰を下ろした。ナミさんはおれの腿の上に腰掛けて、暗がりの中ぐるりと部屋を見渡した。ぼんやりとした窓の灯で、部屋の中は深い紺色に落ちている。

「初めて入った」

サンジくんの部屋、とナミさんは声を潜める。前髪をかきあげ、美しい額に唇を付けた。

「もう出なくていいよ」

本心だった。このまま二人で、ずっとここにいられたらと子供のように思う。
誰にも見られることはない。おれだけの彼女を手に入れる。

「おなかすいちゃうわよ」

ナミさんがまたおれの鎖骨を撫でる。骨をたどるように、ゆっくりと指を動かす。その指が下に落ち、おれの胸に手のひらを乗せた。
ずるんと皮が剥けるように、欲望が顔を出す。
小さな顔を両手で持ち上げ、飲み込むみたいに口付けた。シャツをしたからすくい上げ、ナミさんが少し慌てて手を上げてくれるよりも早く布切れを引っ張り上げて取り去る。
彼女の体を強く自分に押し付けて、苦しげな息が漏れるのも無視して、少し浮かせた腰から長いスカートを抜き取った。脱げきらなかったそれがナミさんの足首辺りに絡まっていたが、構うことなく太ももの裏を掴む。下着の隙間から指を差し込んで、布の切れ目に沿うように撫でると堪え切れない息が彼女の唇の隙間から漏れた。
うれしくなり、力を緩めるとナミさんが脱力したようにおれから少し離れた。その顔に、今すぐ残りの衣服も取り去ってすぐにでも入ってしまいたい気持ちが爆発しそうになる。
だが、ここはおれの部屋だ。共用のリビングではない。時間もまだ遅くない。急ぐ必要なんざないのだと自分を落ち着かせる。しかしそれがうれしくて、ますます気がはやる。
ナミさんの息が整うのを待って、訊いた。

「ナミさん、昨日もおれとしたくて待っててくれた?」

ナミさんがしたように、おれも彼女の細い鎖骨に指を這わせる。つまむだけで折れてしまいそうな頼りなさの下、今にも下着からこぼれそうな胸が彼女の呼吸で上下する。

「そういう、わけじゃ」

ないけど、と声が途切れる。
片手で彼女の胸を包むように持ち上げる。下着の上から指を先端に滑らせる。
「でも」と彼女が言う。

「そろそろ帰ってくるかなって、思って」

それだけ。
下着をずり下げる。柔らかな肌に唇を付ける。持ち上げて、掴んで、離して、撫でて、唇で吸う。
胸が苦しいほど喜びに満たされる。堪えていないと叫びだしそうなほど、そうでなければ彼女の体を強く掴んで握りつぶしてしまいかねないほど、力のようなものが体の奥から充足する。
とんでもないひとだ。
下着を取り去ったとき、彼女の手がおれの下に伸びて触れた。
不意を突かれ、思わず「う」とみっともなく呻いた。
しなやかな手がおれのものに触れようとうごめいている様子が見なくても想像でき、とたんに視界がちかちかと爆ぜそうになる。
このまま身を任せてしまいたい欲望を振り払うように、ナミさんをベッドに下ろして体を横たえた。
手が離れ、ほっとするのと名残惜しいのと両方の気持ちを抱えたまま彼女を抱きしめる。重、とナミさんがつぶやく。
下も抜き取ってすべて剥いてしまったものの、なぜだか惜しいような気にもなる。少しの布をまとった姿が余計にそそるのだろうが、正直もうそんな余裕はなかった。
膝で脚を割り、その間に触れる。ぬるりとすぐに指が滑って沈んだ。
ふ、と小さな息が愛らしい唇から漏れる。ゆっくりとナミさんがおれのシャツを掴んで引き寄せ、億劫そうに緩慢な仕草でボタンを一つずつ外していく。脱がされて、背中に直に空気が触れて汗をかいているのだと気付いた。
指で入り口を擦って、かき混ぜて、そのたびに細い悲鳴みたいな声が上がるのを、一つずつ飲み込んでいく。
滴った何かがシーツを濡らし、どんどんおれたちの間の温度と湿度も上がっていく。
ナミさんの手がおれの下に伸び、ジッパーを引き下げる。うわ、と声を上げそうになるのを堪えて彼女の手をベッドに縫い付けた。
なんで、というようにナミさんがおれを見上げる。そんな事をさせるくらいなら、もう入れてしまいたかった。繋がって、ずぶずぶに飲み込んでもらいたい。
「入れてい」と訊くとかすかに頷いたので、ベッドのそばの衣装ケースに手を伸ばし、手探りで目的のものを取り出す。
ナミさんの体に毛布をかけてからゴムの封を破いていると、そっと背中に柔らかな重みがのしかかってきた。
毛布を体に包んだナミさんが、おれの背中から前を覗き込む。

「つけてあげる」

両手がおれのものを包むように、少しずつゴムを引き上げる。指がきゅ、と締まるたびに目を瞑りそうになる。が、もったいなくてずっと見ていた。背徳感に似た何かがぞわぞわと坐骨のあたりから這い上がる。
付け終わるやいなや、もう紳士的に礼を言うこともできず彼女の足を持ち上げた。
勢いよく貫きそうになるのを鼻から呼吸で抜いて、ゆっくりと腰を沈める。

「ん、う」

食いしばるような彼女の声に不安になり、「痛い?」と尋ねるがナミさんはすぐに首を振る。何度も立ち止まりながら奥まで沈めきると、はあとおれたちは同時に息を吐いた。
熱く、吸い付くように飲み込まれている。そのまま持っていかれそうになる。どうかするとじっとしていても果ててしまいそうなほど、気持ちが良かった。
理性が残っているうちにと彼女の顔を見下ろすと、堪えるように眉間に皺を寄せている。
痛いわけでもないようなので、その皺のあたりに唇を付けて、浅く腰を動かした。

「ひ、あ、サンジく」

ナミさんの指が、はっしとおれの肩を掴んだ。その目が霞がかったように宙を見る。乾きかけた唇が小さく震えている。
おれを飲み込むそこは湿り続けていて、彼女の腰を持ち上げて動かすと肌を伝った液体がぬるりと触れた。
無心で動いた。離れたくなくて、ずっと彼女の肩や腰を抱きしめていた。
ナミさんもおれの肩を掴み、その手は首へと滑り、すがるようにおれの頭を抱え込む。
肌がぶつかる音も聞こえず、ナミさんの息遣いだけが耳に直接響いて頭の芯を痺れさせる。
「や、」とひときわ高い声でナミさんがないたのと同時に頭の裏が熱くなり、快感に押し流されるようにして果てた。

温かく湿った空気が部屋にこもる。ナミさんを潰さないよう、ベッドに四肢をついて体の力を抜いた。
ぐったりと手足を伸ばしたナミさんは上方を見上げたまま動かないので心配になってその頬に触れると、今おれの存在に気付いたようにこちらを見て少し笑った。
その顔があまりに可愛く、また意識を手放しそうになる。なんとか堪えて頬に、唇に、無数にキスをする。
黙って受け入れていたナミさんは、やがて「もういいって」と笑いながらおれの顔を押しのけた。

「お風呂」

ナミさんが身体を起こそうとする。それを遮るようにナミさんの身体に腕を絡ませて、抱き込んだ。

「待って、もうちょっとこうしてたい」

我ながら女々しいなと思ったが、離れたくなかった。このまま二人で疲れた身体を横たえて、気絶するように眠ってしまいたかった。朝、白くて健康的な光に照らされて目が覚めるまで。
しかしナミさんはおれの手をぺちぺちと叩いて、「もう離して」と身をよじる。
本気で嫌がっているようではなかったが、仕方なく力を緩めるとナミさんはけだるそうに身体を起こし、ふうとひとつ息をついた。

「ねむた……」
「ここで寝たらいいさ」
「お風呂に入りたいんだって」

ナミさんはベッドの下に散らばった下着を集め、身につけ始めた。仕方がないのでおれも身体を起こし、自分のパンツを探して身につける。
ぬるいお湯に長く身体を浸けていたように、身体が重く心地よい眠気が波のようにやってくる。
ナミさんも同じようで、ふわあとあくびをした。それでも、風呂に入るというのは本気のようで、彼女は立ち上がってしまう。

「先に入っていい?」
「一緒には?」
「だめ」

うなだれるおれを見下ろして小さく笑い、ナミさんは手早く衣服も身に着けた。
ついに出ていってしまいそうになったので、とっさにその手を取ってすがるように唇を付けた。
そのまま彼女を見上げると、ナミさんは「なんて顔すんのよ」と困ったように笑っている。

「また来てよ」

ナミさんは不意を突かれたように少し目を丸くして、おれに口付けられた指先を見た。
気持ちよかっただろ?
問われたことの意味を少し考えるようにかたまってから、ナミさんはおれの目を見つめ、「うん」と言った。

「すごくね」
「おれも」

指先から手のひら、手首まで唇を這わせてから、その手を離した。
ナミさんは手首を反対の手でぎゅっと握って、踵を返した。

「おやすみ」

部屋を出るとき、少し口元に笑みを乗せてそう言うと、ナミさんは暗い廊下に溶け込むようにさっと消えた。

 

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5


風が強いのか、窓がかたかたと揺れている。晴れているかと思っていたのに、外は薄曇りのようで乾燥した空気につんと鼻が痛む。
不意に、どこかからコーヒーの香りがした。ゆっくりと香りの元を探すように首を振ると、いつのまにかロビンちゃんが当たり前のようにキッチンでコーヒーを入れている。ついリビングの扉を見るが、閉まっている。ナミさんが夜に出ていったときも、閉まっていたはずだ。まったく気が付かなかった。
おれが食い入るように見る視線に気がついて、ロビンちゃんがこちらに目を留めてふわりと笑った。

「おはよう。早いのね」
「驚いた。ロビンちゃんも早いね」
「今日はたまたま。あなたも飲む?」
「うん、あー、いや、どうすっかな」

一睡もしていない疲れが、急に頭と肩のあたりに重く感じた。

「もしかして早く起きたのじゃなくて、ずっと起きてたのかしら」
「あー、うん、でももらう、淹れてくれるかな」

大きな目をすっと細めて笑い、ロビンちゃんはおれのマグカップを手にとった。
湯を沸かす音、コーヒーの粉がさらさらと流れる音が耳に心地いい。彼女のスリッパが静かに床をこする音でさえ、妙に安心させた。
目の前の机には、依然として不自然にえぐれたケーキがそのままある。表面が乾いて、まずそうだ。

「はい」

差し出されたコーヒーを礼を言って受け取る。机の上のケーキに気がついているだろうに、ロビンちゃんは何も言わずに一人がけのソファに腰掛けて、手にしていた本を開いた。
彫刻のようだな、とぼんやりと思う。なかなかこんな美人は見たことがなかった。左右対称の顔の真ん中に、高い鼻梁がまっすぐと伸び、少し張った肩から伸びる腕も、ジーンズに包まれた脚も、驚くほど長い。
無遠慮に見とれていて、ついと顔を上げた彼女と正面から目がかち合った。

「や、ごめん、あまりの美しさに目が離せず」
「昨日も遅かったの?」

彼女の長い指が、本の紙を優しく撫でる。その動きを目で追いながら、素直な子供のように「うん」と言う。

「ウソップは朝にシャワーを浴びるから、重なる前に使うといいわ」
「ああ……そうなんだ」

言いつつ、腰が持ち上がらない。手にしていたマグカップを口に運ぶと、彼女が淹れてくれたコーヒーは驚くほど濃く苦味がガツンと舌にぶつかったが、その後華やかな香りとともにすっと遠のいた。

「うまいな」

思わずつぶやくと、ロビンちゃんは嬉しそうににこりとして「その豆を売る、お気に入りのお店があるの」と言った。

「今度一緒に行きましょう」
「いいの?」
「ええ」

完璧な笑みを見せて、ロビンちゃんは再び本に視線を落とした。
なんか、いいな、と思った。
さざなみの立っていた心がならされて平らになり、やわらかい風が通るような気持ちになる。
ふと、自分は昨夜から変わらず酒とたばこの匂いをまとっていることに思い当たり、慌てて立ち上がった。

「ごめん、おれくせぇわ。風呂入ってくる」
「大丈夫よ。気にしないで」

そう言ってはくれたが、立ち上がった拍子にガツンと頭が痛んだ。せっかくの休みだし、少し長く寝たい。
目の前のケーキをどうしようかと少し逡巡していたら、ロビンちゃんが本に目を落としたまま「冷蔵庫に入れておけばいいわ。きっとルフィが食べてくれる」とさも当然のように言う。

「……こんなだけど、いいかな」
「ナミが食べたの?」

半分形の崩れたそれに目を留めて、ロビンちゃんはすべてを知っているかのようだ。うなずくと、子供のいたずらを咎めるようにほんのすこし眉をすがめて、言った。

「あの子のすることに、いちいち傷ついたらだめよ」

どういうことかと問う前に、「喜んでもだめ」とぴしゃりと言われた。

「意味なんてないの。少なくとも今のあの子にとっては。いちいち振り回されてると、あなたの身がもたないわよ」
「──ロビンちゃんは、いつからナミさんと」

ここに住む、一年くらい前から、と彼女は言った。

「自立しているようで、急に甘えてきたり、つっぱねたと思ったらふらふらと人の言うことをすぐに聞いて、すごく不安定」

立ち上がっていたおれは、また腰を下ろした。淹れてもらったコーヒーをまだ飲みきってもいないことに気づいたからだ。

「あなたのことを見極めてるのよ。どういう人か、自分にどんな損得をもたらすか」

ナミさんの、おれをじっと見つめる目を思い出した。暗がりの中目を凝らす猫のように、茶色い瞳孔を開ききった目。
人は興味のあるものや、好意を持ったものを見ると瞳孔が開く。彼女の瞳はいつも開きっぱなしで、すべてを吸い込み取り込もうかとするかのようだ。

「言われるがままに振り回されていたら、ずっとそのままよ。あなたがそれでいいのならいいけど」

黙ったままコーヒーを飲み下す。さっきよりもずっと苦く感じた。
振り回されたいわけでも、それが絶対嫌だというわけでもなく、かといってこのままでいいとも思っていなかった。
不意に、彼女の名前を呼ぶ声を思い出す。
斬りつけるみたいに、重くまっすぐ飛んできた。それに答える彼女の声も。

「ゾロは、ナミさんの」
「なんでもないわ。あなたと一緒」

私も、とロビンちゃんは付け足した。

「彼女が管理人。私達が住人。助け合って、お互い必要なときに求めたり求めなかったりするだけよ」

結局彼女のほうが先に席を立った。本はほとんど読み進められなかったようだ。去り際に彼女が申し訳無さそうに言った「考えすぎないで」という言葉が、おれをますます思考の淵に絡め取って離さなかった。




目が覚めたら昼過ぎで、5,6時間は寝られたようだ。眠る前にシャワーを浴びたので体はこざっぱりとしていたが、まだ少し酒の匂いがした。
やたらと腹が減り、昨日の夜に食った寿司からろくに食べてないんだったと思ったが、深夜に一口食ったケーキのことを思い出した。
リビングに降りていくと平日の昼間らしく、誰もいない。ソファで足を伸ばし仕事をするナミさんの姿もなかった。
冷蔵庫を開けてみると、今朝がた入れておいたケーキがない。ゴミ箱に、その箱だけが突っ込まれていた。ロビンちゃんの言う通り、ルフィあたりが食ったようだった。
うんめぇ! とてらいなく声を上げてものを食べるやつの顔を思い出すと、少し顔が緩んだ。

ぴーん、ぽーん、と甲高いチャイムの音が響き、驚いて玄関を振り返った。
誰もいない。
違う、来客のチャイムだと気づいて慌てて玄関に向かって扉を開けた。
宅急便だった。大きなダンボールを一つ渡されて受け取り、票にサインする。
中身は複数詰まっているようでがさごそと音がした。受取人はナミさんだ。送り人の名前も彼女になっている。つまり、彼女が注文していた品が届いたようだ。
彼女の部屋の前まで持っていこうか悩んで、内容物のところに「食品等」と書いてあるのに目が止まり、リビングまで運んだ。
ソファの隅に置いておいて、彼女の部屋に向かう。1階風呂場の斜め向かい、さっきの来客のチャイムも聞こえていたはずだった。
とんとん、と控えめに扉をノックする。反応はない。

「ナミさん」

声をかけるも、返事はなかった。でかけているのだろう。
なんにせよ、リビングに置いておけばいずれ気付く。他の住人に届いた荷物も、よくリビングに置かれていたので問題はなかろう。
一人で適当な飯を作り、テレビを眺めながらぼんやりと食った。うまかったが、最近は誰かと昼飯を一緒に食うことが多かったせいか、一人飯は味気なく、食べ終わったあとでなんとなくもったいないことをしたような気分になった。
食い終わったらすることがなくなり、洗い物ついでにシンクの周りを軽く拭き上げる。見慣れないフライ返しをどこに仕舞ったもんかと悩んで適当に開けた戸棚に、ずらりとたくさんのステンレスボウルやバット、ミキサーなんかが並んでいるのを見たらつい手が伸びた。
乾麺が入っていた戸棚を開くと、小麦粉や片栗粉と一緒に、一般家庭にかならずあるもんでもない強力粉があるのを先日発見していた。小麦粉やらは冷蔵庫にしまわねぇとなあとそれらをわしづかんで封がしてあるのを確認し、冷蔵庫に突っ込む。場所がなかったのでルフィのボックスに突っ込んだ。さすがに粉をそのまま食おうとはしまい。
腕をまくると、ひんやりと静かな空気が肌に触れた。
さあ作るぞと意気込むでもなく、気づいたら体が動いていた。

「わ、すごい」

急に声をかけられ振り返る。湯気で鼻先が湿っていた。

「なに? なんで茹でてるの?」

ナミさんは興味深そうに鍋の中を覗き込み、バットに並べたベーグルたちと鍋の中身を交互に見た。

「ベーグルは焼く前に茹でるのさ。中身が詰まってて噛みごたえあって、うまいぜ」
「へえ」
「おかえり。帰ってきたの気が付かなかった」

ナミさんはきょとんとおれを見つめ、「どこにも行ってないけど」と言う。

「あれ、そうなの」
「寝てた。もしかして声かけてくれた?」
「うん、荷物届いたから」

ほんとだーと言って、ナミさんはペタペタとダンボールの方へ歩み寄る。豪快に手で梱包を解いて、中身をあらためている。
酒や調味料のほか、共用の菓子やお茶、掃除用品などの日用品らしかった。ナミさんはそれをてきぱきとあるべき場所に収めていく。
その間にもおれは、茹で上げたベーグルを天板に並べてオーブンに入れた。
強力粉は使い切ってしまったが、おれ以外に使う当てもないからいいだろう。
火を入れてしばらくすると、香ばしい匂いが立ち上がってキッチンがほのかに温まった気がした。

「いいにおい」

ナミさんが目を細めて戻ってくる。家の中とはいえ、随分と薄着だ。胸元が開いた薄いカーディガン一枚に、ひらひらとした夏用のようなスカート。

「どうしたの? 急にパンなんて焼いて」
「いや、暇で。勝手にあるもん使っちまったけど」
「いいわよ。だって食べさせてくれるんでしょ」
「そりゃあもちろん」

ナミさんは嬉しそうに肩を上げ、「あとどれくらい? お茶いれるわ。おなかすいた」と言った。

ベーグルは3種類焼いた。塩をきかせたプレーンと、黒ごまを生地に練り込んだものと、ほうれんそうをまぜた生地にチーズをくるんだものと。
「すごい、お店みたい」と言って、ナミさんは3種類とも皿に乗せて食べ始めたが、ほうれんそうのを一つ食べただけですでにお腹いっぱいと言ったように手が止まった。

「しまった、半分に切ってから食べたら良かった」
「冷凍しとくから、また好きに食べてよ」

おれも彼女と一緒にプレーンをかじる。焼き立ては表面が柔らかく、手でちぎると中から湯気が立ち上った。手慰みに作ったにしてはうまくできたほうだ。

「本当に得意なのね、料理」
「好きなんだよ、むかしっから」
「ホストにしておくにはもったいないわね」
「おれもそう思うよ」

ふふっと彼女が笑う。湯気が揺れ、形を崩して消える。
昨日の妙に挑戦的な顔つきは、なりを潜めていた。もしかしたら始めっから、ナミさんはこんなふうにやわらかく笑っていただけだったのかもしれない。おれの酔って濁った目が、ナミさんを斜に構えて見ていただけなのかもしれない。

──いちいち振り回されてると、あなたの身がもたないわよ。

不意に、今朝のロビンちゃんの言葉が頭をかすめた。
振り回されているのか? おれは彼女に、彼女の表情や言葉に、いちいち傷ついたり喜んだりを、繰り返しているだけなのか?
もたげた疑問に思考停止していると、玄関扉が開いて閉まる音がした。

「誰か帰ってきた」

ナミさんが音のした方を振り返る。
リビングの戸枠をくぐるように入ってきたのはゾロだった。眠たげな目つきで、あいかわらず音もなくでかい図体を動かすやつだ。

「おかえり」

ナミさんが言う。
「おう」と短く答えたゾロは、テーブルの上に目を留めた。おれの代わりにナミさんが答える。

「サンジくんが作ったの。ベーグル。あんたももらえば」

いいでしょ、と問うナミさんに「もちろん」と微笑んで、「食うか」と尋ねた。

「食う」

おもむろに近寄ってきてベーグルを掴むと、ゾロは立ったままむしゃりとそれに食いついた。
手ェ洗えよ、とか立ったまま食うな、とか色々頭をよぎったが、それよりも先にこいつ腹減ってたんだなあとしみじみした。

「もう行儀悪いわね」
「うめぇな、でもかてぇっつーか、顎が疲れる」
「そういうもんなの!」

おれの代わりに怒って、ナミさんはゾロに座れと命じた。
おとなしく、ゾロはおれとナミさんが向かい合うテーブルの端に腰掛ける。やつのふくらんだズボンが妙に埃っぽいので「お前、仕事?」と尋ねた。

「ああ。今日竣工だったから、早く終わった」
「あんた今何してんだっけ」
「工事現場」

そりゃ似合っていいやと思ったが、確か前は警備か何かをしていると言っていた気がする。ころころと仕事を変えて食いつないでいるらしい。

「おい、もう一個食うぞ」
「ん、ああ」

むしゃむしゃと二個目を食うゾロを、呆れ半分に眺めた。ナミさんは興味がないように、手元に雑誌を寄せてぱらりとめくる。
昨夜も今朝も何度も繰り返し頭の中に二人の姿がよみがえったにもかかわらず、当人たちを前にして妙に心が凪いでいた。
二人のこなれた雰囲気に、いつの間にかおれ自身もこなれた様子で混ざっている。
ロビンちゃんの言を借りれば、おれたちは必要なときに求めたり求めなかったりするだけの関係で、それはゾロとナミさんの間でもそうなのだ。
深く考えすぎてはだめよ。そうだ。
深く考えてはいけない。
これ以上、彼女を求め続ける前に。

「今日、飯は?」
「そうね、どうしよっかな」

ちらりとナミさんが期待を込めておれを見たので、応えるように「今日は休み」と言った。

「ほんと? じゃあ夕飯作ってくれたり」
「もちろん喜んで」

やったあ、とナミさんは惜しげもなく嬉しそうに歯を見せて笑った。

「みんな揃うといいわね。全員揃って夕飯食べたことなんてあったかしら」
「ないかな。だいたいロビンちゃんかルフィがいねぇし」
「それよりも、ほとんどサンジくんがいないのよ」

言われてみればそのとおりだ。面目ねぇ、と頭を下げるとナミさんは立ち上がり、冷蔵庫を物色し始めた。

「とかいって、材料あるかな。何作ってもらおうな」
「大人数で食えるもんがいいよな、せっかくなら」

いつも多くても3,4人の飯しか作っていないので、肉か魚を焼いたのと副菜に汁物、その程度だ。

「そうだ、ホットプレート使お。たしかルフィのおじいさんにもらった古いのがあったはず」

見てくる、と言ってナミさんはリビングを出ていった。物入れにしている戸棚が廊下にあるのだ。
ゾロがいつもの食事終わりと同じように、パンと両手を合わせて「ごっそさん」清々しく言った。

「……おう」
「めし、何時だ」
「あー……ウソップが帰ってくる時間に合わせるから、18時半くれぇか」
「それまで寝る」

ナミさんが注いでやったお茶をぐいと飲み干すと、ぞろはくああとあくびをしてリビングを出ていこうとする。
つい呼び止めたのは、なにか言いたかったからでも、廊下でナミさんとすれ違うのを阻止したかったからでもなかった。でもその両方だったのかもしれない。
ゾロは怪訝そうにおれを振り返った。
おれは喉を開いたまま、言うべき言葉を探す。やたらと澄んだ黄みがかった視線が、直線でおれに突き刺さる。

「あー、カップ、洗ってけよ」
「そんくらいナミが一緒に洗うだろ」

踵を返しかけたゾロが、また立ち止まった。少し振り返り、言う。

「そのほうがお前も後ろから攻め込めるからいいんじゃねぇのか」

なんの話、と言いかけて、飲み込んだ。思い当たり、耳の奥で水の音が蘇る。ナミさんが食器を洗う、薄い背中に浮き出た肩甲骨。
見たのだ。キッチンで、キスをするおれたちを。あのとき玄関から出ていったのはこいつだった。

なかなかだろ、と聞こえた気がした。
空耳だった気もする。おれが勝手に想像した声を再生しただけだった気もする。
しかしおれは立ち上がり、ゾロに向かって足を振り上げていた。とっさに腕ですねのあたりを受け止められたものの、不意に蹴られたゾロはどんと思いの外大きな音を立ててリビングの床に膝をついた。

「いてぇな」

ゾロがおれをにらみあげる。
おれは食いしばった歯の隙間から空気を漏らし、負けずとにらみ下ろす。
なんであれ、理由が欲しかったのだ。こいつを蹴り飛ばしてやりたいとずっと思っていた。その理由が。

「ちょっとぉ、なにやってんの」

ナミさんが目を丸め、リビングの入口に立っている。その腕には大きな薄い箱を抱えていた。
ゾロが立ち上がり、「寝る」と短く言った。そのままナミさんの横をするりと通り過ぎ、階段を登っていく足音が聞こえた。

「なに、喧嘩?」
「いや……べつに」
「やめてよね、あんたたち相性悪そうだけど」

ダイニングテーブルに埃のかぶったホットプレートの箱をおろし、ふうとナミさんは息をついた。

「おこのみやき? やきそば? なんでもいいけど、いろいろ作って」

子供のように胸を膨らませ、遊びを考えるみたいな表情でナミさんが言う。
うん、そうだな、何にしような、答えながら、心は別のところにある。別のところで、きしきしと音を立てている。
こんなにも猛烈にほしいと思ったのは初めてだった。
屈託なく笑うその心に、おれの、おれだけの場所をあけてほしいと思ったのは、彼女が初めてだったのだ。


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4

仕事から帰るとリビングは真っ暗で、今日はナミさんも自室にいるようだった。
いや、もしかすると他の部屋にいるのかもしれないが、少なくともここにはいない。
暗闇の落ちた廊下に手探りで電気をつけ、キッチンで水を飲んだ。のどを通る水の音が耳の裏でいやに響く。
閉店した店内で潰れて一時間ほど寝たのち叩き起こされて帰ってきたので多少酔いが覚めていたが、アルコールが、鋼鉄のブーツを踏み鳴らすみたいに頭の血管を押しつぶす。
はあと息を吐くと、ぷんと酒臭さが広がった。肝臓腐ってねえかなとつぶやいて振り返ると、背後にぬっと人影が立っていたので悲鳴こそ上げなかったが俺は凍り付いたように立ち止まった。

「酒くせぇな」

人影は、その大きさのくせに足音もなく数歩こちらに歩いてくると、おれが水を飲んだコップをまた水で満たし、ぐいと飲みほした。
ゾロは濡れた口元を手の甲で拭い、大きく一つあくびする。動物じみたそのしぐさに、ようやくおれは緊張を解いて「なんだてめぇか」と口を開いた。

「こんな時間まで起きてんのかよ」
「明日ぁ夜勤なんだよ」
「お前、なんの仕事してんだっけ」
「……今は警備」

ふーん、と言いながら、この男と会話ができていることに心なしか安心している。昨日見た、切羽詰まって今にも人を斬りつけようかというような猟奇的な気配は、なりを潜めていた。

「お前、いつからここ住んでんだ」
「三年前かそこら」
「ふーん……なげぇな」
「普通だろ」

ゾロが、コップを洗うことなく乾燥棚にさかさまにして置く。
なあ昨日、と口を開くと、ゾロが眠たげな眼をこちらに向けた。

「んだ」
「いや……なんでもねェ」
「変な奴」

ぽつりとそれだけ言い残し、ゾロはまたひたひたとその図体に似合わない静かさで、リビングの出口から消えていった。捨て台詞のようなその言葉に小さな腹立たしさが立ち上ったが、なぜだかきちんと訊けなかった自分の情けなさが相まって、そのまま飲み込むしかなかった。



おれにとっての目覚めにはいささか早い朝の11時ごろ、ととと、と子供が楽しげに駆ける足音みたいな軽やかさで部屋の扉がノックされた。起き抜けの寝ぼけた顔で戸を開けたらナミさんが立っていて、ニッコリと笑う。あ、かわいい、と思う。ぱらぱらっと胸に小花が散る。

「おはよ。少し早かった?」
「や、うん、大丈夫。なにか?」

寝癖のついているであろう左側の髪をなでつけて、ずり落ちそうなスウェットを引き上げながら精一杯格好つけて微笑むと、さっと両手のひらを差し出された。

「お家賃、いただきに来ました」
「あ、はい」

そうか、もう引っ越してきて一ヶ月近くが経とうとしている。月末だった。
あわてて昨日着たスーツのポケットに入れっぱなしの財布を引っ張り出し、ちょうどの額を彼女の手のひらに乗せる。ナミさんは、几帳面に一枚ずつを銀行員のような手際の良さで確認すると、屈託なく光る目でおれを見上げた。

「お財布にたくさん入れてるのね」
「あ、たまたま。家賃もそろそろだと思って」

このシェアハウスは、家賃が引き落としではなく手渡しだ。初め説明を受けたときはめんどくせぇと口が曲がったが、こんなに可愛い管理人さんが毎月徴収に来てくれるのなら万々歳だし、つい色を付けて渡してしまいそうになる。
「はい、じゃあちょうど」と言って部屋を出ていこうとする彼女を引き留めようと、俺は慌てて言葉をつないだ。が、「いい天気みたいだね」というばかみたいなことしか出てこなかった。

「そう? ちょっと曇ってるわよ」
「あ、ほんと」
「でも、今くらいの時期が一番いいのかも。梅雨入り前で」

ナミさんが空気の匂いをかぐように、形の良い鼻を上へ向ける。つられて少し上を見ると時計が目に入り、今の時間を思い出す。ちょうど昼時だ。

「そろそろ昼だけど、よかったらメシ作ろうか」
「いいの? よかった、めんどくさいなと思ってたところ」

彼女に続いて部屋を出ながら「作るのが? 食べるのが?」と笑いながらきれいなうなじに尋ねる。
「作るのが。食べるのは好きよ」と彼女が答える。
ふたりで階段を降りていると、まるで新婚家庭のようだなあとうっとりするが、共用リビングの戸を開けたら男ばかりが三人揃っていて心底げんなりした。
ゾロのやつはリビングだと言うのにソファを占領し、寝こけている。
お、サンジだ、メシだ、と意識のある野郎どもがわらわらと寄ってくるのを押しのけて冷蔵庫の中を確認する。
おれがこうして昼飯を作るようになってから、冷蔵庫内のおれ専用スペースが増やされた。
というよりも、ナミさん含めここの住人たちはおれのスペースになにか食材を入れておけばメシにありつけると覚えたらしく、定期的に生野菜や肉魚類が補充されるようになった。
「秩序が戻って嬉しい限り」とナミさんが喜んだので、おれもそのスペースに奉納された食材を使い、その日いる奴らの分くらいは飯を作るようになった。
買ったばかりのような新鮮な白身魚が入っていたので、さっとムニエルにでもして、あとは副菜、と野菜室を覗き込む。そのかたわらでルフィがおれの手元を覗き込み、すかさず「肉がいい」という。

「今日は魚だ。肉がいいなら肉買ってこい」
「おれ今金ねえんだもんよぉ」
「お前大学生だろ、バイトとか仕送りとかねえのかよ」

つか何に使ってんだよ、と生態不明の男を振り返る。
張り付きそうなほど近くにいたのでいささかぎょっとするが、ルフィはいつも人との距離が近い。いつのまにか懐に入り込まれ、出ていってから「そういえば近かったな」と思わせるような自然なやり方で入り込んでくる。

「今週はいろいろ道具買っちまったからなあ、全部中古だけど」
「道具?」
「サンジくん知らないの、ルフィ、バスキングしてるのよ」

バスキング? 魚のパックを手に冷蔵庫の扉を閉めると、ルフィがあからさまにがっかりと眉を下げておれから二歩ほど離れた。

「バスキング。路上パフォーマーよ。この近くだとあそこの駅前でよくしてるわよね」

そう言ってナミさんはここから2駅先の駅名を口にした。駅前に大きな広場のある駅で、夜になるとストリートミュージシャンがわんさか出てくる界隈だ。
まじで、とルフィを見るといまだ恨めしそうにおれを見たまま「今日は肉がよかった……」と文句を垂れている。

「一度見に行くといいぜ、結構すごいんだぜこいつ」

ウソップがルフィに腕を回し、さり気なくおれから遠ざけてルフィをリビングへと引き戻していく。駄々をこねるルフィにまとわりつかれていると、おれの手元のスピードが落ちることを知っているのだ。

「猿よね」
「猿だな」
「おまえらしっけいだな!」

へえそりゃすげえ、と口先で答えてフライパンにバターを落とす。魚に塩とハーブをまぶし、軽く小麦粉をはたいた。

「ウソップ、パン焼いてくれ」
「お、今日ははえーな」
「おれの出がはえーんだよ。これ食ったらおれも出かける準備すっから、今日はかんたんなメシな」
「ふーん、用事?」
「いや仕事」

今日は同伴があった。美容院に寄って、土産のスイーツを買って行かなければならない。その前に風呂に入りたい。

「人気者ねえ」

ナミさんがふふっと笑って言った。背中を向けているので、その顔を確かめることができない。きっとパソコンに視線を落としたまま、ゆったりと肘をついて小説の一文でも読むように口にしたのだろう。ほんのすこしだけくちびるを動かす話し方で。

「ほいできた。おまえら持ってけ」
「おーほんとに早え」

ムニエルの付け合せはブロッコリーと舞茸のソテー、スープは昨日の残りのミネストローネにショートパスタを放り込んだ。おいしそう、とナミさんがパソコンを閉じる音が聞こえる。ほとんど同時に、彼女が「ゾロ」と呼ぶ声も。
今度こそ振り返った。ダイニングテーブルの向こう、ナミさんが手を伸ばし、ゾロの腹を薄い手のひらで叩いている。
「ごはん」という声にゾロがいびきを破裂させてむくりと起き上がる。二人から視線を引き剥がし、魚をよそった皿を5つ適当に並べた。

「ちょっとー、麦茶飲み干したやつ、ちゃんと次の作りなさいよ」

おれのすぐうしろから、ナミさんがかわいらしく怒る声が聞こえる。おれじゃない、を無言で示す野郎どものせいで彼女は腹を立てて大きな音で冷蔵庫を閉める。

「家賃上げるわよ」
「ごめんなさいおれです」

さっとウソップが手を上げたが、きっと奴ではないのだろう。ナミさんもわかっているかのように息をつくだけでそれ以上の追及はなかった。

「魚か」

席についたゾロが皿を覗き込み、寝起きの目をさらに細める。

「普通の焼き魚がよかった」
「文句言うなら食うな」
「そうだぞゾロ、お前もときどきは食材納めろよな」

へーへー、と気のない返事をするものの、ゾロは丁寧に両手を合わせ「いただきます」という。これをされるとおれは何も言えない。
食事は淡々と、おのおののスピードで済んでいく。特段これといった会話もないし、盛り上がる楽しい食事を繰り広げるわけでもない。
ただ全員が満足げに息をつき食べ終わるのを見ると、ぬるい水に足をつけたようなここちよさで満たされる。

「ごっそさん」

一番にゾロが食べ終わり、次にルフィ、ウソップ、と席を立っていく。おれはいつもわざとゆっくり最後まで食事をする。だいたいレディと同じスピードで。

「ごちそうさま。おいしかった」

二人きりの食卓でその言葉を聞き、薄い満足感が胸に広がる。さーっと広がり、伸びて消える。

「さーいっちょ午後もがんばりますか」

ナミさんが皿を片付けながら肩をぐるぐる回すので「肩でも揉もうか」と言いかけたがおっさんくさいなと思いやめた。
おれもこれから出かける準備をしなければならない。

「洗い物しとくわよ。仕事でしょ」
「いいの? じゃあお願いすっかな」

片手で拝む仕草をすると、ナミさんは「いいのよ」と軽く請け負ってくれた。
これがルフィやウソップだと間違いなく賃金が発生しているので、きっとおれの昼飯作りには対価が発生しているのだろう。

「今日はどこに行くの?」

部屋に戻りかけたおれの背中にナミさんが問いかける。足を止め、振り返った。少し考えてから口を開く。

「駅の方に買い物に行ってから、寿司、だったかな」
「へえ、そういうの全部向こう持ち?」

くしゅくしゅとスポンジを泡立てる頼りない音が届く。
肩甲骨の尖った背中に近付きながら、「どうかな」と言う。
背中に気配を感じたナミさんが振り返った。
泡にまみれた手で、すぐ後ろに立つおれを見上げる。
彼女を囲うようにシンクに腕を付き、覗き込んで唇に触れた。胸に骨ばった背中が当たり、足先から柔らかな刷毛で撫でられたようなむずがゆさが這い上がる。
ナミさんは何も言わなかった。
わりとすぐに舌を差し込み、薄目を開ける。
彼女の腹を片腕で抱き込んでも彼女の方から触れることはなかったので、きっとその手はまだ泡まみれだ。
強く吸うと小さな舌が答えるように動いたので、腹のあたりが熱くなる。わざと音を立てた。
がちゃんと音がして、はっと身を強張らせる。彼女から体を離し、振り返ったが誰もいなかった。誰かがそこの廊下を通り、玄関から出ていったのだろう。
じゃーと水の流れる音がして、ナミさんが何事もなかったかのように洗い物を再開した。その肩に額を乗せる。

「ナミさんとでかけてぇな」
「仕事でしょ。あんたにお金払わないといけなくなるからいやよ」
「仕事じゃないのをしてぇのさ」
「じゃあ私の仕事になるのかしら」

きゅっと音を立てて水が止まる。こらえきれなかった数滴が、吐水口から申し訳無さげに落ちた。

「管理人としての」

振り返った彼女の目がまっすぐにおれを捉え、静かに細まった。ぴんと伸びた茶色いまつげがわずかに揺れて、不意におれから視線を外す。

「さ、私ももうひと頑張り」
「仕事?」
「うん。月末だから忙しいの」

管理人業のかたわら、彼女はなにか書き物をしているらしい。メガネを掛けてソファで足を伸ばし、パソコンを睨む姿をよく見かけた。そういうときに声をかけても生返事しか帰ってこないが、何故か彼女は自室ではなく共用リビングで仕事をしていた。
忙しいの、という言葉のうらに、「もう行って」という意味を暗に読み取ってしまい、嫌われるのはやだなと思ったおれは素直に引き下がった。母親に「外で遊んで来なさい」と追い出された子供のようにしぶしぶといった感じで。

風呂に入り支度をして、14時頃に家を出るときにリビングを覗いたが彼女の姿はなかった。珍しく誰もいないがらんと冷えたそこを眺めて、おれも家を出た。



「ほい、今月」

封筒に入った薄い紙ぺらを手渡され、ういーっと返事のような呻きのような声とともにそれを受け取る。中を確かめることなく封筒を瞼の上に置いて、仰向けになって目を閉じた。
店のあちこちで伸びるスタッフの黒い体が汚れみたいに点在している。首筋からにおう酒臭さが、思い出したみたいに吐き気を誘った。

「サンジさん、今日一位っすよ」

黒服の男がグラスを回収しながらおれよりも嬉しげに声をかけてくる。まじで、と答えつつすぐに「それより水」と言うと、黒服は苦笑して水を取りに行った。
受け取った水を飲み干すと一瞬引いた吐き気が波になって訪れ、一度トイレで崩れ落ちるように吐いた。
帰るなら今だ。口をすすぎ、垂れた水をぬぐって頭を持ち上げる。毎度吐いてるわけではないが、特に今日は中盤で好調だという報告を受けたもんで調子に乗りすぎた。
給与明細をケツのポケットに突っ込んで立ち上がる。一度二度たたらを踏んで、黒服に「送ってくれ」と告げてソファに投げ出してあったジャケットを掴んだ。

「サンジさん、ケーキどうします」
「ケーキ?」
「ほら、今日もらったやつ」

小さなホールケーキに可愛らしいフルーツがあしらわれた、祝う対象のあいまいなそれを思い出した。誕生日でもなんでもないときにおれたちはよく祝われる。突然、何かが記念になる。

「食っていいよ」
「おれ甘いもんだめっす」
「おれ明日休みなんだよ」
「じゃあ持って帰ってくださいよ」

冷蔵庫から出してきます、と黒服はおれの返事も聞かずに厨房に引っ込んだ。おれが持ち帰らなければ、明日ゴミ箱行きだろう。甘党の誰かが食うかもしれないが、捨てられるかもしれない。
ケーキの箱を膝に乗せて車に揺られていると、まるでこれからこのケーキを持って誰かに会いに行くような気分になった。いまだ酒臭い息がこみ上げるのに、だ。
家の玄関は当たり前だがすでに消灯されていた。慣れた手付きで静かに鍵を開けて体を中に滑り込ませる。しかしどうしても、ここの玄関扉は音を立てずに閉めるということができない。がっちゃん、とわかりやすく金属の噛み合う音を響かせる。

「おかえり」

口を開けた暗がりから声をした。驚くことはなかった。予想していた、というほどではないが、頭のほんの片隅でやっぱりと思う。

「ただいまナミさん」

寝てないの? と空気だけの声で尋ねる。夕方に少し寝た、と帰ってくる声はどこかまったりと平べったい。
おれが近付いても、暗がりに立つ彼女は動かなかった。体を寄せ、そっと屈んで唇をつける。
う、と彼女が小さくうめいた。

「お酒くさ」
「ごめん」
「お風呂入ってよ」

彼女の頬に、額に、唇を滑らせながら考える。するのか、彼女はおれとしたくて待ってたのか、と酔った頭でぼんやりと思う。

「ケーキ食わね」
「なに、急に」
「もらいもん。知ってる?」

箱に書かれた店の名前を口にすると、よく見えないはずの彼女の目がちらりと光った気がした。

「知ってる。有名じゃない」
「食おうよ」

彼女の腰を抱き、リビングの扉を開く。
明かりはつけないままソファに座らせて、「皿とか取ってくるね」とキッチンへ向かうおれの袖を彼女が掴んだ。

「いい。洗い物が増えるから」
「いいっつって、ホールケーキなんだよ。小さいけど」

箱を開けて中を見せる。窓の灯にぼんやりと浮かび上がった箱の中身にナミさんは目を凝らし、「ほんとだ」と言った。

「なんのお祝い? サンジくん誕生日?」
「いんや」
「私が食べてもいいやつ?」
「もちろん」

流石にフォークはいるだろう。そう思って再び立ち上がりかけたとき、ナミさんはおもむろにホールケーキに指を突っ込んだ。
え、と声を上げることもできなかった。
細い指が、生クリームにめり込んでいる。そのまま四本ほどの指がケーキをごっそりと掻き出した。
小さく薄い手のひらの先に乗ったケーキが、おれに差し出される。

「サンジくん酔ってるのね」
「……もしかしてナミさんも酔ってる?」
「まさか。しらふよ」

どうぞ。
まるで遠くから獲物の品定めをする動物のように、ナミさんがおれを見据える。
喉を鳴らしそうになり、あわててこらえる。強く美しい獣のようなその顔に欲情していた。ただ、飲みすぎたせいか下半身は静かで、それも彼女にはばれているような気がした。
差し出されたスポンジと生クリームの塊に顔を近づける。ほのかに洋酒が香る。今にも落ちそうなひとかたまりが指の先にぶら下がっていて、おれはそれを指ごと口に含んだ。
舌を動かし指の間まで生クリームを舐め取ってから口を離す。ナミさんはじっとおれを見ている。

「──うまい」
「この店、シュークリームが有名なのよね、本当は」

ナミさんはおれがくい残した手の上のそれをみずからの口に運び、ぺろんとなめるように食べた。
知ってる? と言いながら、また彼女は容赦なくケーキに指を突っ込む。

「あまいものって、手で食べるともっとあまいのよ」

彼女は、今度はおれに食べさせてはくれなかった。自分の口に大きなかたまりを運び、ごくんと飲み込むみたいに食べてしまう。
口の端にクリームが付いていた。捕食中の動物を邪魔するような気持ちになり、手を伸ばすことができなかった。
やがてそのクリームも、小さな舌にぺろりと舐め取られてしまう。

「ごちそうさま」

不意にそう言って、ナミさんは立ち上がった。おれの足をまたぎ越し、汚れた手を洗うこともなくリビングを出ていこうとする。 
引き止める言葉もなく、「おやすみ」とつぶやいた。
ナミさんは立ち止まり、なぜかとてもくすぐったそうにこちらを振り返って「おやすみなさい」と笑って出ていった。

指の跡がはっきりと残る、えぐれたケーキが妙に扇情的だった。
そのせいか眠くもなく、手でケーキを頬張る彼女の姿を何度も思い返しているうちに窓の外は白んでいた。





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白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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