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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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「あっ、待ってずるい!」
「……」
「ぎゃー!!ぶつかった!!」
「……」
「おっ、ほっ、くっ」


手汗で滑るコントローラーを必死で掴み、大画面を走るカートがコーナーを曲がるとアンの身体も傾いた。
青色のカートが悠然とゴールテープを切り、紙吹雪が舞い華々しいファンファーレが鳴り響いた。
テレビゲームの話である。
ふかふかのカーペットに胡坐をかいて座り込み、マルコの隣でアンはがっくりと首を垂れた。


「あぁ敗けた……」
「想像以上に下手くそだったよい」
「マルコやったことないってウソだ!」


涼しい顔でコントローラーを置いたマルコは「お前さんが下手くそすぎんだよい」と声を出さずに笑った。
くそう、と悔しさを隠しもせずに顔を歪ませ、アンはコントローラーを握り直す。


「もう一回! リベンジ!」
「まだやんのかよい……もう18時か」


マルコの視線を追いかけて、アンも柱時計を見遣る。
針は18時を少し回っていた。


「もうそんな時間……」
「腹減らねェかい」


厚手のカーテンの隙間から、もう光は届いてこない。
マルコがゲーム機本体のスイッチを切ると、薄型テレビの大画面はぷつんと一面黒くなった。
静かになった広い部屋に、暖炉で薪の爆ぜる音が少しずつ存在感を増してくる。
言われてみればおなかも空いていた。
「へった」と答えると、「何か用意するかよい」とマルコが立ち上がった。


「作る?」
「簡単にできるもんがあるだろい」


冷蔵庫へと歩くマルコの後に続く。マルコは冷凍室の扉を開けて中を覗いた。
冷蔵室と同じように、ここも食品でいっぱいだ。
レトルトのピザ、ピラフ、カレーのような手軽な冷凍の惣菜が多種多様に詰まっている。


「うわあ、すごいいっぱい」
「こんなもんでよけりゃ、あっためるかよい」


こんなもん、と言ってのけるマルコは冷凍ピザをつまみ出して裏面の注意書きを読み始めた。
開けっ放しの冷凍室から冷気が帯になって流れ出す。


「あたし作ろうか」
「あ?」
「冷凍じゃなくても、冷蔵庫にもいっぱい野菜や肉入れてもらってるよ」


ほら、と上の扉を開けると、マルコは中のものを一通り見てから難しい顔をした。


「あー、だが時間も手間もかかるだろい。ここまでしてお前に料理させんのも」
「あたしはいいよ、こんなに食材があるなら作り甲斐もあるし」


マルコが良ければ、と付け足すと「おれぁもちろん構わねェが」と渋みを残したような顔でマルコが答える。


「でもそのピザも食べたい。解凍しようよ」


ん、と浅く頷いて、マルコはおもむろにピザの包装を破り、中身を取り出した。
チーズとトマトだけのシンプルなやつだ。


「電子レンジかよい」
「あ、うん」


マルコは周りを見渡すと、キッチンの隅に備え付けられた電子レンジに向かって素直にピザを運んで行った。
レトルト食品、電子レンジ、夜ご飯の準備とマルコ。
似合わない組み合わせのオンパレードに、アンは浮かんできたにやけを笑いかみ殺す。


「何つくろっかな……」


笑いをごまかすようにつぶやきながら、とりあえずサラダかとレタスとトマト、キュウリを取り出す。
チーズも2,3種類あるのでサラダに使おう。


「マルコチーズ大丈夫だっけ」
「あぁ」


電子レンジのスイッチを入れたマルコは、ぶーんと動き出した機械の前で律儀に待つつもりのようだ。腕を組んで、オレンジの光に照らされて回るピザを睨んでいる。
マルコに食事を作ったことは、それこそ数えきれないくらいあるはずだ。
それでもあたしはこの人がチーズを好きか嫌いかどうかすら知らないんだなあと、なぜかそんなことが頭をよぎった。


「シチューが食いてェ」


ぽんと放り投げられるみたいにしてかけられた言葉は、聞き間違えかと思って、もう一度という意味でマルコを振り返った。
キッチンの作業台に背中をもたれかけさせて、相変わらず電子レンジから目を離さないままマルコはもう一度「シチューが食いてェ」と言った。


「……あの白いやつ?」
「他に何があるんだよい」
「や……ビーフシチューとか」


そんなことが言いたかったわけではないのに、口をついたのはホワイトかビーフかというどうでもいいことで、マルコは少し考えるように首をひねると「じゃあそっち」と答えた。

さいわいビーフシチューの具材になりそうな牛肉にニンジン玉ねぎじゃがいもも、調味料となるソースやブイヨンまでそろっていた。
それじゃいっちょ作るか、サラダは煮込んでいる間に作ればいいやとアンはパーカーの腕をまくった。
コテージのキッチンはアンの店と同じくらいのスペースにもかかわらず、なぜかとても動きやすい。
作業台が広く、冷蔵庫とコンロへの移動がしやすいのだ。
冷蔵庫にはステーキ用の大きな牛ヒレ肉が入っていたので、取り出してサイコロ状にカットして下味をつけた。
真っ白なまな板の上で野菜をひたすら切り刻み、いつもはサラダ油を使うところ、バターがあったのでバターを敷いた厚手の鍋で炒める。
肉も放り込み、香りが立ってくると電子レンジが完了を告げる音を立て、マルコがピザを取り出す。
湯気と共にほんわりチーズの香りが漂い、急激にお腹が空いてきた。
平たい皿にピザを載せると、マルコはおもむろにピザを引きちぎった。
そして四角とも三角とも言えない形のそれを、アンに差し出す。


「食うかよい」


切らないの、と尋ねる前に口が動いた。
目の前に垂れ下がったピザにためらいなく食いつく。


「あづっ」
「気を付けろい」


とろけたチーズが上唇に引っ付いて火傷しそうになりながらも、なんとかマルコの指からピザを口で受け取る。
唇についたチーズを拭ってから、マルコの指は遠ざかっていった。
そしてまたピザを引きちぎり、今度は自分の口に運ぶ。


「……行儀悪いな」
「たまにゃいいだろい」


くすりとも笑わずそう言って、マルコはまた冷凍庫へ向かい中を漁り始めた。
くちの中に残ったトマトの皮を飲み込んで、結構おいしいもんだなと思った。


野菜と肉を炒めた鍋に、水と固形ブイヨン、少しだけ赤ワインを入れる。
ワインはエントランスホールのカウンターに並んでいたものを拝借した。
アンがそれを取って来ると、マルコがほんの少し目を丸くして「飲むのかよい」というので笑った。


「違うよ、料理用」


少しがっかりしたように見えるのは気のせいか。

鍋を煮込んでいる間、空いているコンロでフライパンを火にかけ、バターで小麦粉を炒める。
ケチャップを使おうとしたら、常温の保存棚にトマト缶があったので、トマト缶をフライパンに流し入れる。
ソースと赤ワイン、ブイヨンのかけらを加えて木べらでぐるぐるしていると、とろみがついてきた。
同時にまったりとしたビーフシチュー独特の香りが、バターの甘い香りと絡まるようにして立ちのぼる。
煮込んだ鍋の方を覗くと肉と野菜にまだ少し火が通っていなかったので、サラダを作ることにした。

ふとおもいだして電子レンジの方をみやると、またマルコが何かを取り出している。
冷凍庫に入っている冷凍食品をあらいざらい解凍してしまうつもりらしい。
ピザの隣には、フライドポテトとピラフがほかほかと湯気を立てて並んでおり、あらたにマルコがチキンナゲットをラインナップに加えた。
次の獲物を探すためまた冷凍庫へと赴くマルコを見て、ついにアンが吹き出すとマルコは至極不可解と言いたげな顔で「なんだよい」と眉根をよせた。





ダイニングの長いテーブルに、鍋ごと置いたビーフシチュー、大皿のサラダ、そして中途半端に引きちぎられたピザに始まり、マルコが次々と解凍していった冷凍食品たちが大皿で並んだ。
ダイニングには籠に入ったパンが用意されており、バゲットを適当に切り分け並べる。
マルコがテーブルの長辺の角に座ったので、アンは短辺の角に座る。
こんなにも広いテーブルで向き合うのは物寂しいと思ってしまったのだ。
巨大な食器棚から手ごろな皿を取り出し、軽く洗ってからシチューをよそった。
中途半端なピザに刺激され、空腹は限界まで来ている。
いただきます! と元気にスプーンを手に取った。


「あーっ美味しい! 上出来!」


時短で作ったわりには美味しくできているシチューを口いっぱいに頬張って、アンは自分にグッジョブと親指を立てる。
マルコも大きな肉の塊を口に入れ、飲みこみながら「美味いよい」とほんの少し頬を緩めた。
コクだとか野菜のうまみだとか、言い出せばきりがないしもっとおいしく作ることのできる料理なのかもしれない。それでもこうして自分もマルコもおいしいと思えるものを作れたことが、じわじわと嬉しくなって温かい水のようにゆっくりと胸に広がった。

サラダのために適当に作ったドレッシングもわりとおいしくできた。
マルコが温めまくった冷凍食品たちも、種類豊富なだけあって飽きない。
ジャンクなそれらをアンはあれもこれもと食べ過ぎるほど食べた。
食べている間はどうしてもマルコの顔より料理の方を見てしまって、あれがおいしいこれもいける、と食べるものの感想ばかりを口にしていて会話らしい会話などなかった。
それでも綺麗に空になったいくつもの皿を前にして、なんて楽しい食事だったんだろうと満たされた気持ちになる。
マルコも最後にまたひとこと「美味かったよい」と静かに笑った。


あれだけ食べたにもかかわらず、アンが「さっぱりするものが食べたい」と呟くと、マルコが「フルーツあったろい」と冷蔵庫を顎で指し示す。
そうだった! と喜んで立ちあがったものの、急に不安になってそっとマルコを振り返る。


「今更……だけど、こんな食い荒らして本当にいいのかな……」
「いいもなにも」


マルコはアンが料理に使った赤ワインを手に取り、ボトルの口に鼻を近づけて言う。


「手つかずにしてみろ、お前今度はベイに南の島にでも連れてかれるぞい」


マルコは椅子を引くと、そのまま食器棚に手を伸ばして適当なグラスを取り出した。
ワイングラスもそろっているのにこだわりがないのか、取り出したそれに埃がないか確かめるとトクトクと注ぎだす。
つまりは、遠慮なくもらっちゃったほうがベイも喜ぶってことだよな。
マルコの言葉をそう解釈し、アンは冷蔵庫の中からきんと冷えたブドウを取り出した。
軽く洗って皿に盛る。
勝手にワインを楽しみ始めたマルコは、ぼんやりとボトルに張り付いたラベルを眺めていた。
急に静かになった。
そう思った途端、バタバタッと大きな物音がして肩が跳ねた。


「なっなに!?」
「雪だろい。屋根かベランダから落ちたんじゃねェかい」
「あ、雪……びっくりした」


急に何かが壁を叩いたように聞こえた。
突然の音に驚いたのも本当だけど、それよりもこの家に二人以外の誰かが来てしまったのかと思って、それをまるで反射のように「いやだ」と感じたのだ。

アンは席について、ブドウを口に運ぶ。
皮ごと食べられるやつだ、と少し渋みのある皮を噛んだ。
ぷちんと弾けた実は甘い。


「──映画でも見るかよい」


いつのまに、と思う程残り少なくなったワインボトルから最後の一杯をグラスに注ぎ、マルコがおもむろにそう言って立ち上がった。


「映画?」
「いっこずつ全部、じゃねェのかい」


テレビボードの前にしゃがみ込むと、マルコはごっそりと棚の中からDVDのケースを取り出した。
物色するように、一枚一枚を手に取ってタイトルを確かめている。


「好きなの選べよい」
「あ、あたし映画とかあんまりわかんない」
「じゃあどういうのがいい」
「ど、どういうのがあるの」


返事が返ってこないかと思えば、マルコは手に抱えたDVDを一枚ずつ床に置いて分類し始めた。


「……アクション、コメディ、ヒューマンドラマ、アニメ、ラブストーリー」
「マ、マルコのおすすめで」


するとマルコがげんなりした顔を上げた。


「選べよい。おれはなんでもいい」
「ずる……」


渋々立ち上がってマルコの隣にしゃがみ込み、分類されたDVDを一枚ずつ見ていく。
一枚、ジャケットで気になったのがあったのでそれを手に取る。


「ん」


貸せとマルコが手を出したので渡すと、テレビボードの中の機械にマルコはDVDを入れ、いくつかボタンをいじった。
シュンシュンと音を立てて四角い機械は起動し始める。
しゃがみこんだままそれを見つめていた。


「──あたし、家で映画見るの初めて」
「映画館には行くのかよい」
「ちっちゃいころね、マキノが連れてってくれた」


たしかあれは当時朝に連載していた戦隊アニメの映画だったと思う。
ルフィが見たい見たいとあんまり騒ぐので、サボがマキノに頼んだのだ。
内容は忘れた。
少しずつ暗くなっていく照明にわくわくしていたら、急に大きな音とともに目の前のスクリーンで映像が映り出したものだからとても驚いたのは覚えている。
ルフィがじっとしていなくて時折声をあげたり歓声を送ったりしていたが、確か小さな映画館で客がほとんどおらず、マキノは好きにさせてくれていた。


「なにが観たいとかじゃなくてさ」


マルコは画面を見上げ、三角形のついたボタンを押した。


「あの雰囲気っていうか、映画館のにおいとか、そんなに知らないはずなのに懐かしい気がするの」


マルコはアンにソファへ行くよう指で示し、自分はダイニングへと戻って行った。
アンは言われたとおりテレビ正面のソファへ座りダイニングのほうを振り仰ぐ。
マルコはスナックの袋のようなものを逆さに開けて、ざらざらと皿へ移していた。
それを手に戻ってくると、アンの膝の上にぽんとふちの丸い皿を置く。
なんの変哲もないポテトチップス。


「カウチポテト」
「カウチ?」
「厳密にゃ違うが」


テレビ画面では青色の雲に会社のロゴが映し出され、オープニングらしい音楽が流れていた。


「映画もいいんじゃねェかい」
「なにが?」
「街にも映画館はあるだろい」
「あるけど」


マルコの言わんとしていることをはかりかねて首をかしげると、「今度」と前を向いたままマルコが言った。


「行くかよい」
「……映画?」
「なにが観たいか選んどけ」


洞窟の奥みたいな狭苦しい所を、彫の深い顔の俳優が神妙な表情で進んでいく。
ほのかなライトに照らされてぼやっと映るその映像を流し見ながら、アンは小さな声で「うん」と言った。


「で、なんでこの映画選んだんだよい」
「ケースに載ってた俳優がサッチに似てた。あ、この人」


マルコは返事をせずに煙草に火を点け、机の上の灰皿を引き寄せた。
マルコが少し腰を浮かして、また座るたびにソファが浮き沈みする。
靴を脱いで両足をソファに乗せ、膝を立てているアンはそのたびに少しずつ、二人の間にできた隙間の方へ尻がすべっていく。


「……食べる?」


スナックの皿を差し出すと、マルコは口の端で煙草を噛んだまま首を振った。
煙草があるんだからそりゃそうか、とアンは無言の空間を埋めるように音を立ててスナックを口に運ぶ。
映画は、登場人物が地面をこするように歩く足音だけを響かせていた。





映画の内容に引き込まれるわけでもなく、かといって飽きることもなくそのまま1時間ほど画面を眺めていた。
主演の男(サッチに似ている彼だ)は探偵もしくはそれに似た捜査官で、昔悔恨を残した敵の悪党を追ってふたたび抗争が始まる、そんな内容だった。
奪い合う宝と人質になる女、突然起こる爆発と逃げ惑う人々。
ときどき夜にテレビで放送する映画と要素は一緒だな、とアンは指についた塩気を舐めとる。
ふぁあ、とあくびが漏れた。
ちらりと横に視線を滑らせると、マルコはソファのアームレストに肘をついて、退屈そうに目を細めていた。
一応テレビを見ているものの、何か考え事をしているのかもしれない。


「……マルコ?」
「飽きたかよい」


訊こうかと思っていたことを先に返されて、言葉が詰まる。
マルコは? と聞き返す。


「別に。しいていえばお前がサッチに似てるとか言いだすからそうにしか見えなくて落ち着かねェくらいだよい」


サッチ似の彼は、羽目を外して無茶をしたがる厄介な性格のせいで警察をやめた過去があり、ときどきおどけてみせる顔はますますサッチに似ていた。


「この映画有名? サッチ知ってるかな」
「さあ。随分古いだろい、これは」


言葉を落とすように、突然マルコが立ち上がった。
そのまま廊下の奥へと消えて行ったので、トイレかな、とアンは画面に視線を戻した。
シーンはサッチ(に似た主役)とヒロインのロマンティックなキスシーンで、マルコと見るのは若干気まずい気がするのでいいときに席を立ってくれたと内心胸をなでおろす。
そういえば、夕食が終わって流れ込むようにリビングに落ち着いてしまったので、片づけを何もしていなかった。
ちらりとキッチンを見遣ると、シンクに洗い物が溜まっている。
映画が終わってからにしようか、それとももうやっちゃおうか。
画面ではねっとりとした夜のキスシーンが終わり、アンが悩んでいるとマルコが戻ってきた。


「なにそわそわしてんだよい」
「や……そういや片付け忘れてたなって」
「あぁ、んなモン食洗機にぶちこんどきゃいいだろい」


マルコがキッチンへ歩いていくので慌ててあとを追う。
シンクの正面に大きな機械が据えられているのは気付いていたけどこれが食洗機。


「店で使ってるのとずいぶん違う」
「お前さんとこのは業務用だろい」


マルコがひょいひょいと汚れた食器を乱雑に放り込み始めたので、その手を止めるよう「待って待ってあたしするから」と慌ててマルコの手から皿を奪った。
大人しく皿を奪われて、マルコは黙って手を洗う。


「マルコ家で洗い物とかする? 食洗機?」
「しねェな。家でほとんどもの食わねェからなあ……」
「……マルコ普段なに食べてんの?」
「ちゃんと人間の食いモン食ってるよい」


横に置いてあった洗剤をそれらしき箇所に入れ、「入」と「スタート」のボタンを押す。
映画よりも大きな音で食洗機が動き始めた。
ヨシ、とアンも手を洗う。


「あたし鍋とフライパン洗うから、マルコ座ってていいよ」
「あぁ」


リビングに戻りかけて、マルコが足を止めた。


「お前それ終わったら風呂入れよい。今湯張ってきたからよい」
「露天風呂! ……あるんだっけ」


マルコがほんのりと笑ったので、自分の顔が思わず輝いたのだとわかって恥ずかしくなる。
若干小さな声で「マルコ先に入っていいよ」とつけたした。


「いや、ちょっとやることがあってよい」
「仕事?」
「まぁ」


そういえばマルコが二日も連続で仕事を休むなんて、とんでもなく珍しいのではないだろうか。
休めたとしても、マルコ自身こうして仕事のことを気にしながらの休日なのかもしれない。
なんとなく申し訳ないような、決まりの悪い気分になる。
マルコは「2階にいる」と行って、そのまま階段の方へと消えて行った。
時刻は22時を少し過ぎたところだった。
洗い物を終えると、言われた通り風呂に入ろうとアンは寝間着を借りに二階へ上がった。
そういえばと思い立ち、「マ、マルコー?」と誰もいない廊下に呼びかけた。
しばらく間をおいて、クローゼット部屋の隣の部屋からマルコが顔を出した。
メガネをかけている。


「リビングの暖房と暖炉、消した方がいい?」
「あぁ、おれがあとでやっておくから気にすんな。お前も風呂あがったらそのまま二階上がってこいよい」
「わ、かった」


アンが頷くと、マルコはそのまま顔を引っ込めて扉を閉めた。
忙しそうだな、とアンは隣の部屋を開けて、ベイが書き残してくれた通り寝間着代わりの服を借りて部屋を出た。






テーマパークみたいな風呂で、アンはひとりはしゃぎまわった。
内風呂は床がやわらかく、家のそれのようにキンと目が覚めるほど冷えていない。
シャワーのそばにはシャンプーに始まりなにからなにまで、アンには過ぎる程の品々が揃えられていて、一つ一つ手に取りそれが何か確かめなければ気が済まないほどだ。
少し手狭な銭湯ほど大きな浴槽は薄いピンクの大理石で、お湯はさらりときもちよくアンの肌を撫でた。
ただ、外気が冷たすぎるせいでぴりぴりと痺れが走り、おもわず「うぅ」と声が漏れる。

サボとルフィもまた連れてきてやりたいな。
熱い湯につかって一番に思ったのは、そんな事だった。
自分だけがいい思いをするたびにあのふたりを思い出す。
アンのいない家で今、なにしてるんだろうと考える。
自分がいないふたりより、ふたりがいる空間に自分がいないということに隙間風のような寂しさがあった。
こんなのじゃいけない、いつかきっと離れることになるんだからと自分を奮い立たせるたびにむなしくなる。
黒ひげの一件以来、自分たち3人だけの生活が少しだけ周りと違う時間の進み方をしていて、それが世間の常識からすると奇妙だということが、少しずつ色が増えていくみたいに明らかになっていった。

口元のあたりまで湯につかって、目を閉じる。
冷えた鼻先に温かい湯が触れると気持ちよかった。

帰ったら、これからの話を改めてしなきゃいけない。
店のこと、サボの将来、ルフィの将来。
丘の上に残した父と母の家。
全部考えなければならないのに後回しにしてきたことばかりだ。
それからあたしは──

ふっと目がくらみ、危ないと慌てて浴槽の縁に腰かけた。
考え込んでいるとのぼせてしまう。
露天風呂にだけさっと浸かってさっさとでよう、マルコが待っている。

辺りを見渡すと、壁にふたつの小さな扉がついているのを見つけた。
ひとつがサウナで、もう一つが露天風呂へ続いている。
露天風呂のドアを開けると、急に冷気が裸のアンを取り囲んだ。


「うわ……」


真っ黒な視界の中に、白い絵の具を刷毛で塗ったようにむらのない白が伸びている。
ときおり雪が風で舞い上がり、風が白く染まっていた。
形の違う石がはめ込まれた浴槽からは絶え間なく濃い湯気があがって、アンの視界を塞ぐ。
氷の上に立っているみたいに、足には痛いほどの冷気が刺さる。
それでもアンはしばらく、ぼうっと景色を眺めていた。
風が吹き、ざわめくみたいに木々が音を立て、雪が舞い上がる。
アンは忍び足をするように、そっと湯に足を付けてゆっくりと身体を沈めていった。

顔が冷たく、頬がぴんと張る。
口をあけると、知らずと白い呼気がもやのように流れ出た。

なにこれ、すっごい気持ちいい。
心臓の音が頭の中で聞こえるくらい、血が巡っているのがわかる。
冷凍庫の中に頭を突っ込んだみたいに、耳がキンキンに冷えている。
ぼうっと湯につかっていると、意識だけがどこかに持って行かれそうだ。
のぼせるような気持ちの悪さがなくて、ただ眠気に似た心地よさが身体を包む。

──ハッとして頭を上げると、景色は何一つ変わっていなかった。
ただ降っていなかった雪が降り始めていて、自分が寝ていたのだと分かる。
口元に指をやるとよだれが垂れていて、やっぱりと恥ずかしくなってアンは慌ただしく湯から上がった。





温蔵庫からでたばかりの肉まんみたいに、身体から湯気が止まらない。
アンはふかふかのセーターのような寝間着を着て、風呂場を後にする。
出たところにスリッパが一足揃えて置いてあり、元から置いてあったのかマルコが用意してくれたのかわからないが、それを借りて二階に上がった。
風呂に入る前、マルコが顔を出した部屋の戸をノックする。
「入れよい」と中から声がした。
黒に近い茶色の扉を押し開けると、中は思いのほか広かった。


「ここ……図書室?」
「あぁ、っつーより書斎か」


リビングの半分ほどの広さのその部屋は、壁一面が書棚になっていて天井の方までうず高く本が並べられていた。
入ってすぐフローリングの床にはふかふかのカーペットが敷かれており、マルコはそこで靴を脱ぎ、部屋の真ん中の小さなテーブルにパソコンを置いていた。


「……入っていい?」
「当たり前だろい」


アンを見もせずマルコがそう言うので、アンはスリッパを脱いでそっとやわらかな毛足のそれに足を踏み入れた。
部屋の隅には巨大な座椅子のようなソファが置いてある。
空調が効いていて温かかった。
湯から上がったばかりのアンは自分の頬が上気しているのがわかる。
手の甲でそれを押さえながら、ぐるりと辺りを見渡した。


「これ全部……ベイの?」
「まさか。あいつの親族のにゃあ違いねェだろうが、ほとんど埃かぶってる代物ばっかだよい」


マルコはおもむろに立ち上がり、軽く伸びをして「んじゃ」と言った。


「おれも風呂入るかよい」
「あ、お風呂ありがと。すごかった、あの、露天風呂」
「あぁ……随分楽しんだみてェだねい」


すっとマルコの手が伸びてきたので、思わず大仰に身を引いた。
かまわずマルコの伸びた指がアンの頬をかすめる。


「熱い」


マルコの指は冷えていた。


「なんか飲むなら台所にあるが、ここが一番温けェだろうからここにいたらいいよい」


アンがひとつ頷くと、マルコはさっさとアンの隣を横切って部屋を出て行った。

マルコ、風呂上りどんな格好で出てくるのかな。
ふいによぎった考えに、どきりとする。
その動悸にまたびっくりして、誰もいない部屋をアンはきょときょとと見渡した。
さっきまで浸かっていた湯にマルコも入るんだ、などと余計なことを考えてはますます正気でいられない。
思えばさっきまでふたり以外誰もいない空間でご飯を食べたり、横に並んで映画を見たり、お風呂上りを家族以外に見られるのも初めてだ。
マルコはずっとずっと、この家に来てからどんな気持ちでいるんだろう。
思えば、いつも自分のことばかりでマルコがどう思っているのかには意識が薄かった。
ときおり足元に絡まるみたいにマルコの気持ちに触れることはあったが、マルコ自身がするりと誤魔化すみたいに、アンが気付く前にそれを取り去ってしまう。

ツンと胸が痛む。
不安のようないやな気持ちではなく、きっとこれは緊張だ。
とりあえずマルコが戻ってきたらどんな顔をしたらいいんだろう、どこを見て、どんなふうに話す?
カーペットの上をうろうろと落ち着きなく歩き回って、意味もなく並んだ本の背表紙を撫でてみたりしながらずっとそんなことを考えていた。





階段の軋む音が聞こえたとき、アンは読んでいた本からパッと顔を上げた。
読むというより、挿絵を眺めていたに近い。
マルコだ、と思ったときには扉が開いた。
襟ぐりの広い長そでのTシャツに、温かそうな生地のゆるいパンツ。
なんだ、とアンは若干力の入っていた肩を落とした。
たいしてサボと変わらない。

カーペットにぺたんと座り、両手をついて本を読んでいたアンを見下ろして、マルコはたいして意味もなさ気に「よぉ」と言った。


「なんか飲むかい」
「ん……マルコは?」
「──たしかブランデーがあったねい」


まるで、おいでと言われたような気がした。
踵を返して階下に下りていく背中にアンはついていった。
まだぬくもりがほのかに残るダイニングで、マルコはグラスを二つ取り出した。


「で、お前さんは何飲むよい」
「どうしよっかなー……」


グラスにブランデーがぶつかる音を聞きながら、保存棚を軽く漁るとわりとすぐに目当てのものが見つかった。


「これにする!」


アンが片手で突き出したココアパウダーの缶を見て、マルコはただ「あぁ」と言う。
アンが牛乳を温めて、少しの牛乳と粉を練って、それからゆっくり温かい牛乳をカップに注いでいく間、マルコはブランデーを少しずつ飲みながら待っていた。

両手でカップを抱えて階段をのぼるとき、マルコが「気を付けろよい」と言う。
ルフィに対して自分がそういうのと、なんにも変わらない。
照れくさいようなもの哀しいような、どっちつかずの気分で階段を上った。


マルコが仕事をしていたテーブルにカップを置くと、「なに読んでたんだよい」とマルコが尋ねた。


「わかんない。なんだろ」


マルコが呆れたように口をつぐんだので、アンは慌てて重たい本の表紙をひっくり返す。


「しんわ……神話だって!」
「だって、ってお前読んでたんじゃねェのかよい」
「よ、読み始めたばっかだったもん」


あぁそうかい、とでも言わんばかりの表情をされたので、アンは一話目の文章を急いで目で追った。
なんだか急に話が始まるなあと思ったら、どうやらアンが手にした本は数巻あるうちの一冊で、第一巻ではないようである。
床に這いつくばるような格好で本を見下ろすアンを真似するように、マルコも向かいから本を覗き込んできた。


「──有名な話だねい」
「そうなの?」
「たぶんな」


マルコの影がそっと離れ、「ソファに座れよい」と促される。
アンが素直に従うと、マルコはアンのカップと自分のグラスを手に、アンの隣に腰かけた。


──ある国の王女は、母親の失言のせいで神の怒りを買い、化け物の生贄に捧げられてしまう。
要するにそういう話なのだが、登場人物の名前は難しいし神様もたくさん出てくるし、と概略を掴むまでの文章も長く、時間がかかった。
大きな挿絵には、荒波のぶつかる大岩に裸の女性がくくりつけられている様子が描かれていた。
髪が乱れ顔を覆い隠し、表情は見えないが痛々しい絵だとアンは思う。


「──でもこの人自身は悪くないよなあ」
「まぁな、そんなもんだよい」


音を立ててマルコがブランデーを飲み下す。
アンはページをめくった。


──そこに別の怪物を倒した勇者が通りかかり、彼女を可哀そうに思った勇者は倒した怪物の首が持つ力で、海の化け物を退治して王女を救いだした。


「なんだ、ハッピーエンドじゃん」


ものものしい挿絵に脅されて、てっきり悲しい結末でも待っているのかと思いきや、ありきたりなヒーロー映画のような筋書きだったことに思いのほかがっかりする。

話はそこで途切れ、勇者が別の怪物を倒した話に時間が遡っていった。
生贄になった王女の名前はアンドロメダ。勇者の名はペルセウス。


「有名? この話」
「たぶん、つったろい」
「このあとどうなるの?」
「さあ」


読めば書いてあんじゃねェのかい、とマルコは興味の色も見せない。
ふーん、とページを数枚捲ってはまた挿絵のページに戻る。
よく見ると、挿絵の王女は髪の下で口を強く引き結んでいるように見えた。


「──お前は囮にさせられちまったが、生贄なんかじゃねェよい」


マルコは中身が半分になったグラスを、直接床に置いた。
その顔を振り仰ぐと、視線がかち合う。しかしマルコがすぐに逸らした。


「生贄なんかじゃねェ。そんなものにするつもりは一切なかった。オヤジも、おれも」


アンが本から手を離すと、ぱらぱらとページが勝手に進んでいった。
沈黙をごまかすみたいに、エアコンが思い出したように低い音を立てて温風を吹き出し始める。
暖かい風がつまさきをかすめた。
ココアの湯気が風にさらわれて消え去る。
そんなふうに思ってないよと言っても、マルコはきっとずっと思い続けるんだろう。
アンの肩の傷は一生消えない。


「それは、マルコが警察のひとだから、そういうふうに思うの? じいちゃんや白ひげのオヤジに一番近い偉いひとだから、あたしが巻き込まれたのを責めてるの?」


マルコはカーペットに視線を落としたまましばらくじっといていたが、やがてふっと笑って「ずいぶんまっすぐ訊くねい」と言った。
それから「それもある」と。


「オヤジはおれが悔やむのを見越して、おれには一切ばらさなかった。ただおれは何度もお前に、エースに会っていたのに、気付かなかった」


気付かれてたら困る、とアンが笑うとマルコも珍しくつられて笑った。


「他にやり方があったんじゃねェかとか、もっとああしていればとか、そんなもんは考え出したらキリがねェんだよい。ましてやこの仕事にそういう後悔は付き物だ。いつまでもかかずらっちゃいられねェ」


……んだがな、とマルコは歯切れ悪く言う。


「まだ思い出す。あんときほど心底驚いたのは初めてだったよい。手錠をかけた相手が男だと思ってたら女で、しかも惚れた女だったなんざ」


目を白黒させて、アンは思わず「ほ」と声を洩らす。
マルコは喉から絞り出すみたいに、くくっと笑った。
そしてまるで、この話は終わりだとでも言うみたいに腰を上げた。
ちょうどそのとき、階下で柱時計がぽーんと鳴り、24時を告げた。
手にしていた本を棚に戻し、マルコは言う。


「2階の突き当たりと、その手前左右の部屋が寝室だよい。おれぁ突き当たりで寝る」


飲みかけのブランデーをテーブルに置いたまま、マルコはアンに背を向けて部屋を出て行こうとする。
言葉を紡げずにアンがただマルコの背中を見送っていると、おもむろにマルコが踵を返した。
アンが座るソファの背に手をかけ、そこにかかっていた毛布でふわりとアンをくるむ。
されるがまま、茫然とマルコの顔を見上げた。


「おやすみ」


ほのかに甘い酒の香りに絡まりながら、低い声が落ちてくる。
おやすみ、と返したつもりが喉に引っ掛かって言葉は上手く出なかった。
そのままマルコは部屋を出て行った。
かすかな足音が遠ざかっていき、やがて扉の音ともに聞こえなくなった。

そのままぼんやりと扉を見つめていた。
首が痛くなったので天井を見上げると、扉の形が焼き付いて長方形の影が白い天井にぼやっと浮かんだ。
膝の上に置いた本がずしりと重い。
片付けようと手をかけたが、思い立ってページを捲った。
生贄の王女アンドロメダの行く末は結局どうなったんだろう。
読んだページを何枚か捲り、それらしき箇所を探した。
『アンドロメダを』という語句を見つけて手が止まる。


──アンドロメダを助けたペルセウスは、彼女を妻とする。アンドロメダには婚約者がいたが、生贄となっていた彼女を助けたペルセウスに当然軍配が上がった。二人はペルセウスの故郷へと旅立ち、しあわせに暮らした。


拍子抜けするくらい、ありきたりな結末だ。
そう思ったとき、本の隅にかかれた注意書きに目が止まった。
──このように、英雄が女性を怪物から助け出し結ばれるといったかたちの話を、アンドロメダ型またはペルセウス型という。

なんだ、じゃあこの話がありきたりなんじゃなくて、オリジナルがここなんだ。
ハッピーエンドは世の中に溢れている。
生贄は助けられるし助けられれば恋に落ちる。結婚したらそれはしあわせで。

アンは重たいそれをもとあった場所へと収めようと立ち上がった。
その拍子に肩から毛布が滑り落ちる。
その途端、今まで感じていなかった寒気がそっと忍び寄るように感じてアンは小さく身震いした。
飲み干したココアのカップをマルコのグラスの横に置く。
マルコが飲みかけのまま残した金色の液体は部屋の明かりの色を吸い、オレンジ色に近かった。
アンはそれをそっと口に運ぶ。
舌がピリッと痺れ、喉に触れるとそこがカッと熱くなった。

毛布を肩にかけ直すと、アンは部屋を後にした。
部屋の暖房を切るのを忘れなかった。





扉のノブは金属製で冷たかった。
それを温めるように手のひら全体でぎゅっと握る。
途端にどっと心臓が全速力で逃げ出すみたいに動き始めた。
この部屋の向こうにマルコがいる。
もう寝ているかもしれないけど、寝てないかもしれないし。
でもずっと運転してきてたぶん疲れてる。さっさと寝てしまったかもしれない。
ああでもずっとこんなところにいたら、それこそあたしが風邪をひいてしまう。
っていうかもしかして、ここにくるまでの足音にマルコが気付いていたりして──

ぐるぐる目がまわして思い悩んでいるうちに、手に力が入った。


「あ」


まぬけな声と共に扉が開いた。
真っ暗かと思いきや、奥の方で小さな明かりがついている。
部屋は思いのほか広かった。
大きなベッドがひとつ、いやふたつ。
明かりがついている方に、マルコが座っていた。
枕側の壁に背を預け、手には本を持っている。
まだ眼鏡をかけたままだ。
あ、とアンはまた意味のない声をあげた。
マルコがぱたんと本を閉じた。


「寝るかい」


う、うん、と頷くとマルコは眼鏡を外し、ランプの隣のサイドテーブルに置いた。
アンはささっと部屋に入り、後ろ手で扉を閉める。
ぎゅっと視界が狭くなり、暗さが増した。
ベッドの上でマルコがごそごそと動き、横にスペースをあけてくれる。


「ん」


掛布団の端をめくり、マルコがアンを見る。
アンがうつむきがちに近寄ると、マルコは灯りを消した。




ベッドは広く、二人が仰向けで横に並んでも肩が触れ合う心配をしないで済むほどだ。
アンはベッドまで近づくと、暗闇で見えないのに任せてえいとシーツの中にすべりこんだ。
ギッときしむベッドの音がやけに大きい。
マルコが腕を伸ばし、アンの上に掛布団をかけてくれた。
それからしばらくゴソゴソ音がしていたかと思うと、それもやがて止んだ。
アンはベッドに滑り込んだ時の体制のまま固まってしまって、マルコの方を向いたまま動くに動けなくなっていた。
好きに動けばいいんだけど、と思いながらも身体が動かない。
動いたら、何か大事な均衡を失ってしまいそうな気がした。
しばらくそのままじっとしていたが、唐突にマルコが鼻で笑って吹き出した。


「お前、そんなナリで寝られんのかよい」
「……寝られない」


ひときわ大きくベッドが軋んだかと思ったら、次第に慣れてきた視界の中、マルコの顔が見えた。


「来い」


腕を伸ばされ、頬から顎にかけて顔の下に手が差し込まれる。
アンが動いたのかマルコが動いたのかわからないまま、いつのまにか引き寄せられてぎゅっとマルコが近くなった。
首の下にマルコの腕があって、目の前に多分顎があって、脇腹の辺りにはマルコの反対の腕が乗っかっている。
おぉ、と声が漏れた。


「寝苦しいかよい」
「や、そんなこと、ない」


本当は両手をどうしていいかわからず、胸の前に引き寄せるように縮こめていたので寝苦しかった。
それでもしばらくすると、マルコの身体が触れている部分がじんわりと暖かくなってくる。

息をひそめていると、本当に静かだ。
アナログ時計がないのか、時計の針の音もしない。
外の風の音も、雪が落ちる音も、なにもない。
だから、静かだなと耳を澄ましていたときに急に呼びかけられて、大げさに驚いてしまった。


「なにっ」
「寝らんねェなら、無理してここにいることねェよい。そっちのベッドいっても、部屋移ったって」
「や、いい」


考える前に口をついていた。
寝苦しいし、落ち着かないし、何より寝苦しいし。
こんな状態で寝られるわけがないのに、ここから離れようという気にはならなかった。


「もう温かくなってるし……ふとんが」
「あぁそうかい」


くっくと笑いながら、おもむろにマルコがアンの手首を取った。
ぎょっとしていたら、その手をポンとマルコの身体に投げるようにまわされる。


「そんな縮こめてたら苦しいに決まってんだろい。乗せとけ」


腰の上あたりに腕が乗って、急に胸が楽になった。
お、重くない? と思ってもないことを訊く。
重かねェよいとマルコが律儀に答える。


「あ、あのさ」
「あぁ」
「この腕、痛くない?」


アンの首の下に入った腕を示すつもりでちらっと見る。
痛かったら抜く、とあっさりマルコが答えるので、「そう」とアンも引き下がるしかない。


「あ、あのさ」
「あぁ」
「こんなふうに誰かと近くで寝るの、久しぶりだから」
「あぁ」
「寝相悪くて蹴っ飛ばしたらごめん……!」


ぶあ、と聞いたことのない声をあげてマルコが吹き出した。
その声にぎょっとして身を引くと、そのあともマルコはいつものように押し殺したような声でくつくつと笑い続けた。
マルコが笑うとアンの身体も揺れる。


「な、なんなのさあ……」
「ああ、腹いてェ。んじゃお前さんが動かねェように固めとくよい」


そう言ったかと思うと、マルコはぎゅっと自分に引き寄せるようにアンをきつく腕の中に締め上げた。
顎がマルコの胸の上あたりにぶつかり、ぐぇっと声が漏れる。


「うぐ、く、くるしい……!」


唯一自由なマルコの背中に回した腕で、脇腹のあたりをバシバシ叩く。
と、すぐにアンを閉じ込める力は抜けるように緩くなった。
はあ、と息をついて視線を上げると、マルコが近い。

あ、と思ったら唇が触れた。
本当に軽く、撫でるみたいに表面をさらって、鼻の頭にふれ、髪が掻き上げられたと思ったら眉間にも。
他にもくるか、と待ち構えていたがもうどこにも唇は降ってこず、後頭部の髪を絡める指の動きだけが伝わった。
しばらくそのまま、目を閉じていた。


「──マルコ?」
「ん」
「マルコは寝られそう?」
「さあな」


余計なことは気にするなと言わんばかりに、後頭部をコツコツと指で叩かれる。
次第に瞼が重くなり、くらんとどこかに落ちるような感覚がアンを襲う。
それが何度か繰り返され、本格的にうつうつと夢を見始めたとき、不意にマルコが「アン」と呼んだ。
条件反射で「なにぃ」と答える。


「──家、出る気はあるかよい」
「いえ……あたしの……?」
「あいつらのことが気がかりだろうからよい、今すぐとは言わねェが」


一緒に暮らさねェかい、と言われたときにまたあの落ちる感覚に襲われて、そのまま上がってくることができなかった。
返事のないアンにマルコが小さく息をついたのも、唇にもう一度柔らかな感触があったのもぼんやり分かったが、どうすることもできなかった。
お前おれの酒飲んだだろ、とマルコが言うのも聞こえていた。


明日目を覚まして、起き抜けの顔でおはようと言って、パンでも焼くのかな。
そういう毎日が続くとしたら、考えたこともない未来とはいえ、それはそれですごくいいんじゃないかと思うのだ。

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【Reverse, rebirth】完結後の設定です。












氷のつぶてみたいな大きなピアスがよく似合っていた。それを揺らして、ベイはアンの顔のすぐそばでキスの音を立てる。
そしてぎゅっと腕を回して抱きしめられた。


「あぁよかった、本ッ当によかった!ごめんなアン、怖い思いさせちまったね」


こンの馬鹿どものせいで、とアンに腕を回したままベイは悪態づく。
氷漬けにしてしまいそうなほど冷たく薄い水色の目は、アンの背後にいるマルコとサッチを親の仇でも見るかのように睨んでいるのだろう。
後ろの気配が無言でたじろぐのを、アンはうなじのあたりに感じた。


「だ、だいじょうぶ。こっちこそ、ごめん」


おずおずとアンがベイの腕に触れる。
コーデュロイのジャケットが心地よく指先に馴染んだ。
ベイはアンからぱっと離れると、けがの調子はどうだい? 家は落ち着いた? 一度あんたの店に行きたいねえと矢継ぎ早に話し出す。
どれから答えたものかとアンがおろおろしながら言葉を探していると、助け舟のようにマルコが声をかけた。


「とりあえず座れよい、落ち着かねェ」
「はんっ、役立たずの男連中は黙ってな!」


触れたものにはひっかき噛みつかずにはいられない凶暴な猫のように、ベイは鼻の頭に皺を寄せてマルコの言葉を一蹴した。
あーあ嫌われた、とサッチが笑い声を立てると、それにすらベイはうるさいと牙を剥くのだった。


ベイが会いたがっているとアンに連絡が来たのは3日前、サボが車いすから松葉杖へと無事アイテムを変更した日のことだった。
アンが拘置所から逃げたその日、その場にいたはずのベイはもしかしたら黒ひげの手にかかっていたかもしれない。
十分その可能性があったからこそ、怖くて聞けなかった。アンの手を強く握って「あんたには強い力がある」とまっすぐな目で言ってくれた人が、もしかしたら自分のせいで被害に遭っているかもしれない。会いたいと口にすることすらできないまま、ときどき感じる重たい胸のしこりとなってずっとアンの胸に残っていた。そしてマルコやサッチを目にするたび、ほのかに痛む。

「お前を取調べした女のことを覚えてるかよい」店のカウンターに腰かけて、マルコは一番にそう口にした。なにか苦い記憶でもあるのか、若干眉根に皺を寄せて。
覚えてる、私も会いたい。すぐさま言ったアンのために、警察庁の来賓室がととのえられ、アンはマルコの車に乗ってそこへ招かれることとなった。
警察庁へ着いたら玄関口にサッチが立っており、車のドアを開けてくれる。
アンが助手席から、マルコが運転席から降りると、身体の大きな男が代わりに運転席へと乗り込み、マルコの車をどこかへ持って行ってしまった。
マルコはそれには目もくれず、行くよいとアンを促す。
巨大な建造物がぱっくりと口をあけて飲みこまれるみたいだ。そんなことを思いながら、空調のきいた建物の中へと足を踏み入れた。
案内された来賓室は12階で、入ってすぐの受付が並ぶ役所のような雰囲気とは打って変わって静かだった。
他の階のようにコンクリートタイルの床と違ってエレベーターから降りた瞬間紺色の絨毯が敷いてある。
突き当りの大きな茶色の扉をサッチがノックもせずに開けた。
その瞬間、ぱっと視界に飛び込んできたのがベイだった。
言葉通り、アンの方へと飛びついてきたのである。


ひとしきり再会の喜びを表して落ち着くと、ベイはマルコに言われたことなど忘れてしまったかのように「ささ、立ってんのもなんだし座ろうよ」とアンの手を引いてソファまで連れて行った。
ベージュのソファはふかふかで、立派な家具屋さんにおいてあるみたいなやつだとアンの尻は落ち着かない。
ベイはアンの横にぴったりと寄り添うように腰を下ろした。
マルコとサッチは居心地悪そうにして向かいへ腰かけた。


「そのうちなんか飲みモン持ってこさせるからさ、まぁゆっくりしてきなよ」
「お前んちかよ」


サッチがすかさず口を挟むが、ベイはもう耳を貸さないことにしたらしい。アンから視線を外さないので意味もなくそわそわした。


「それで、家は落ち着いたの?」
「うん、この間病院に行ったときにサボが松葉杖に変わって、なんとか自力で歩けるように……あ、サボってあたしの兄弟で。下の弟のルフィがもうすぐ卒業式だから授業もなくて、家にいるからうるさいんだけど」


自分でもたどたどしいとわかる言葉たちを、ベイはゆっくり頷きながら聞いてくれた。


「店はデリだけやり始めて、朝から昼までは働いてるんだけどルフィがそれなりに手伝ってくれるからなんとかなってて」
「そうかい」
「えと、それで昨日は3人で海に行ってて」


楽しかった? とベイが尋ねる。
下着まで海水で濡らしてしまって濡れ鼠のような格好で帰宅したことを思い出すと、口元がムズムズして笑ってしまった。
うん、と頷く。
するとベイがニヤッと笑ったまま顔を上げ、向かいに座る2人の男を流し見た。


「あんたらの話はちっとも出てこないねぇ」
「だっ、んなことねェよ! な! アンちゃんおれ週4で通ってるもんな!」
「あ、うん、サッチもよく来てくれるし、マルコも来てくれるし」


フーンとベイはつまらなさそうに鼻を鳴らす。
この3人はいったい仲がいいのか悪いのかさっぱりわからない。
ずっと黙ったままのマルコはそっぽを向いて、我関せずとばかりに煙草をふかしていた。
ところでさ、とベイが浅く座り直し、アンに向き直った。


「うちの課は毎年この時期に旅行をしててね」


唐突な話題に、アンはぱっちりベイと視線を交える。
はぁ、と気の抜けた声が漏れた。

「旅行って言っても大したもんじゃなくて、適当にぶらついてうちのコテージに泊まりに行くだけの慰安旅行なんだけど」


こてーじ? と首をかしげるアンに、ベイはほんのり笑いながら続けた。


「寒いときに寒い所はいやだって、課の連中が言いやがってさ。もういい歳のおっさんばっかりだから。ただ使わないまま荒れ放題になっちまっても困るから、毎年一回は行っておきたいんだ。それでね、アン、あんた行かない?」


あたし? と目を丸くするアンに、ベイは容易く頷いた。


「こっから車で3時間半の足も、食料なりなんなり必要なものはこっちで用意させておくからさ。ただあんたは行って、好きに使ってくれりゃあいいだけ。ガス電気水道が生きてるかだけ、確認しといてくれる?」


日程はいつでもいいから、好きな日を言ってよ、とベイはあくまでにこにこしている。
意味もなく向かいのサッチに視線を走らせると、先に話を聞いていたのかアンと目を合わせていつものように口端を上げた。


「やっと落ち着いてきたっつっても見舞いやらアンちゃん自身のけがの手当てやら、ばたばたしっぱなしだっただろ? いい息抜きになんじゃねェの」


そう言うサッチの隣に視線を滑らせようとした矢先、ベイが「ちなみに」と声をあげた。


「誰と行ってもらってもかまわないんだ。もともとうちの課の、さらに私が所属する部の7,8人が泊まってんだから、それくらいの人数は行けるんだけど」


弟たちと行くかい? そう言ってベイはおもむろにジャケットのポケットに手を突っ込んだ。そして引き抜く。指先に古びた鍵がぶら下がっていた。

サボやルフィと旅行か。3人で出かけたのは一番遠くて昨日の海岸だ。泊まりがけで行くことはほとんどない。小さなときにマキノやじいちゃんに連れて行ってもらったことはあるけど、3人だけで出かけたことはなかったはずだ。
相手の厚意を確認することがいつのまにか癖になっている。アンは差し出された手におそるおそる触れるように訊く。


「行ってもいいの?」
「もち……」


にっこり笑うベイの声が途切れたのは、向かいで大きくソファが軋んだ音に邪魔をされたからだ。
おもむろに立ち上がったマルコは一歩でベイの前まで迫り寄ると、ひょいと鍵をつまみ上げた。


「車はおれが出すよい」


鳥が巣を作りそうなほどぽかんと口をあけて、マルコを見上げる。
いきなりベイが、あぁ! と苛立った声を上げた。


「オヤジさんがやけにニヤニヤニヤニヤ嬉しそうにしてると思ったら! 本当だったって言うのかい!!」
「な、なにが」
「このマルコがあんたに入れ込んでるって」
「アン」


今日一番強い声で、名前を呼ばれて背筋が伸びる。
マルコを見上げると、その身体はもう出口の方へ向かっていた。


「送るよい」
「え、あ、うん」


慌てて腰を上げようとしたが、ソファに思いのほか深く腰が沈んでいてもがくように立ち上がる。
ただすぐに思い直して、もう一度すとんと座ってベイと視線を合わせた。
言うべきことがすぐに出てこなくて、しばらく黙ったまま見つめ合う。


「う、うちの店、日曜以外は毎日やってるから!」


ベイが似合わないきょとん顔をしたかと思えば、吹き出して大きく頷いた。


「わかった、また邪魔するね」


垂れた目じりが綺麗な弧を描く。ベイの笑顔に見送られて、マルコの後を追った。
背後ではベイのわざとらしい「あーあクソッタレマルコ」という笑いを含んだ声と、サッチの朗らかな笑い声が聞こえていた。





マルコの背中を追いかけて、いやに怖い顔をした男の待つエレベーターにアンもいそいそと乗り込む。
扉が閉まると、マルコが壁に軽く背中を預けて大仰にため息をついた。


「あの」


なんとなく口にしにくい雰囲気なのは気のせいか。


「マルコが車を出してくれるって言うのは、その」
「おれとじゃ不満かよい」
「不満じゃなくて……っていうかマルコの方が不満げだけど」


思ったことをそのまま指摘すると、しかめ面はますますひどくなった。


「あの、つまり、ベイが言ってたそのコテージに、あたしとマルコが行くの? その、一緒に」


無言でマルコはちらとアンを見下ろした。
そんな圧迫的な目で見ないでよ、と思った瞬間エレベーターがチンと軽い音を立てた。
目線で促されて箱から降りると、あとから降りたマルコはさっさと玄関ホールに歩いていく。
後をついて建物を出ると、目の前にはマルコの車が停めてあった。
いったいどういう仕組みになってんだと思いながら、来たときのように助手席に乗り込んだ。
車はスムーズに広いロータリーから公道へと滑り出る。


「日曜は休みなんだろい」
「うん」
「来週は」
「日曜? 休みだけど」
「じゃあ前日の土曜の昼に迎えに来るよい」
「えっ」


思わず声をあげたアンを、眠たげな目がちらりと流し見る。


「なんか問題あるかよい」
「問題っていうか……」


サボとルフィはきっと行ってこいというだろう。
ふたりのごはんは作り置きをしておけばいいし、なんなら土曜もデリを早く切り上げて──
そんなことを考えている自分が既に、すっかり行く気になっているのだと気付きハッとした。
ちがう、サボとルフィのことを盾にして悩んでいるだけで、本当はもっと違うことを考えている。
思えばマルコとこんなふうにふたりきりで話すことすらすごく久しぶりだ。
いつも店のカウンターで、お客さんがひっきりなしに入ってくるときにマルコは静かに座ってコーヒーを飲んでいる。
テイクアウトだけとはいえ、惣菜を詰めて計ってお金のやり取りをするのが3時間も4時間も続けばそれなりに疲れてくる。
やっと一息ついたころ、ルフィを交えて話をしたり、サッチがやってきたり。
ゆっくりふたりで話をしたのは、数か月ぶりかもしれなかった。
それなのに、突然ふたりで出かけることになるなんて。
急にどんな顔をしていいのかわからなくなり、あぁ、うん、別に問題はないけど、と誤魔化すようなことを口にした。
そうしているうちに車はいつもの家の前に横付けされる。
寄ってくかと尋ねると今日はこれから仕事があるからとあっさり断られた。
それじゃ、とそそくさと車のドアに手をかけると、おもむろに「アン」と呼び止められた。


「え?」


手を止めて振り返る。
運転席からマルコの腕が伸びていた。
頭の後ろを包むように支えられ、そのまま引き寄せられる。
身体はドアのそばにあって、首が伸びた不恰好な格好のまま唇が触れた。
目を見開いたままだったから、すごく近くにぼやっとマルコの眉間が見える。

音も立てずに離れた唇は感触だけを残して、じゃあなと動いた。
あ、うん、とまぬけな言葉を発してアンは車を降りる。
扉を閉めるとマルコはもう前だけを向いていて、さっさと車を発進させた。
もぬけの殻になったスペースを見つめていると、急激に足の裏からむず痒いような恥ずかしさがこみあげてきて、あぁ! と叫びたくなった。






いいなあー、いいなあー、とまとわりつくルフィを払いのけながら荷物を詰めるのはそこそこ手間がかかった。
こてーじってなんだ? 雪山にいくのか? 遭難するのか? うめぇもんが用意されてんだろ?
どこから得てきたのかわからない無茶苦茶な知識を口にして、サボにうるさいと背中を蹴られるまでルフィはアンの周りをうろちょろとしていた。


「寒い所なんだろ? 荷物少なくないか」


小ぶりなボストンバッグに収まってしまったアンの荷物を見て、サボが歯を磨きながら言う。


「うん、でも着替えはそんなにいらないって。そもそも一泊だし」
「アン! 歯磨きセット持ってけよ! あとシャンプーと、タオルと、石鹸と」


羨ましさの果てに世話を焼きたがるルフィがあれよこれよと洗面道具を持ってきたので「そういうのもいらないの!」と押し返す。
さっさと荷物を詰め込んで「風呂入る!」と叫びながら、アンは逃げるようにそれらを抱えて部屋を出た。
ただのお出かけを見送るみたいにふたりは平気で声をかけてくるけど、なんだかこっちはまっすぐふたりの顔を見られない。
ときおり胸にせり上がるいたたまれなさは恥ずかしさに似ていた。
そしてそれらはお風呂で頭を洗っているときだとか、鍋を煮込んでいるときだとか、チラシをひもで縛っているときだとか、アンが無防備な時に急襲を仕掛けるのだった。





マルコはきっかり11時に店の前に車を付けた。
あっおっさん来たぞ! と誰よりもうれしそうにルフィが声をあげたが、思ったより早くマルコが来たことにアンは慌てて顔を上げた。
今日は店を11時に閉めることにしていたから、作っておいた惣菜をいつもより少なめにしておいた。そのせいで早く売り切れてしまって、10時半には店を閉めることになってしまったのでお客さんはもういない。
ただまだ洗い物が溜まっているし、サボとルフィのご飯も2日分に分けていない。
慌てるアンを余所にルフィはマルコを招き入れ、早くしろよーとアンを急かす。


「ごめんマルコ、もうちょっと待って──」
「いいよアン、あとやっとくから」


ルフィの声で階段を降りてきたサボが、ゆっくりと杖を突きながら歩み寄ってくる。


「洗いモンだけだろ? 売り上げもおれがまとめとく」
「でもふたりのごはんの準備、やりかけで」


ほかほかと湯気を立てるおかずはまだフライパンの中だ。
あぁわけとくよ、とサボは簡単に頷いた。


「エプロンのまま行くなよ」
「……わかってるし」


なんとなく決まらないまま後ろ手でエプロンを外す。
階段のところに置いておいた荷物を手にとると、マルコが踵を返して車へと歩いて行った。


「……行ってくる」
「ん、行ってらっしゃい。気を付けてな」
「土産! 忘れんなよアン!」


あのむずがゆさが足元から登ってくる前に、アンは二人に背を向けてマルコの車へと早足で急いだ。

助手席へ乗り込むアンを、マルコはハンドルに手をかけたままじっと見つめてきた。
ボストンバックを胸に押し付けるように抱えて、マルコを見やる。


「な、なに」
「お前コートは」
「あ」


エプロンを外してそのままの格好で飛び出してきてしまった。
身体は温まっているし車内は空調が効いているので必要ないが、外に出たらコートなしでは辛い。
二階に上がったすぐそこにいつも来ているものが掛けてある。


「ごめ、ちょっと取って来……」
「あぁ、いい。行くよい」
「ちょっ」


バチンという重たい音ともにドアロックがかかる。
マルコはアンの手元からバッグを取ると、ぽんと後部座席へ放り投げた。


「シートベルト」


なにがいいんだかと思いながらも言われるがままベルトを引っ張り、金具を留める。
マルコはそれを確認し、ようやく車が動き始めた。






車はするすると北へと昇り、警察庁の前で右に折れた。
そこをずっとまっすぐ行ったところ、つまりは街の北東の角に橋が架かっている。
そこを越えればもうこの街の外だ。
そしてマルコの車はあっさりとそこを越えてしまった。
車内はほんのりと暖かく、そしてシートに染みついた煙草の香りがどことなく漂っている。
そういった香りをかき消すための芳香剤をなにひとつおいてないのが、マルコらしいと思った。
車が街を出て喧騒から離れると、微かに流れるラジオの音が耳に届く。


「腹、減っただろい」


唐突にマルコが言う。


「そういえば、うん」


朝慌ただしく食べてからずっと働きづめで、そういえばお腹が空いていた。
意識した途端、べこっと胃がへこんだような感覚がして腹が音を立てる。


「その辺で食うかよい」


マルコはそう言ったが、ほとんど街の外に出たことのないアンにとって「その辺」は未知の世界過ぎた。
ときおり見慣れない色の電車が走る線路があったり、同じ色の家が続く道沿いを走ったり。
窓の外を眺めているだけで自分がどんどん非日常へと運ばれているような気がした。
突然マルコがウインカーを出し、車をどこかの狭いスペースに停めた。なに? と尋ねかけてからそこが飲食店の駐車場だと気付き、アンもマルコに倣ってシートベルトを外す。


「ここ過ぎるとしばらく何もねェからよい」


マルコが車を停めたそこは小さな町のレストランといった様子で、入り口に小さな黒板が立てかけられていて、今日のメニューが綺麗な字でつつましやかにしたためられていた。
アイボリーの壁に茶色いレンガが埋め込まれた可愛らしい作りの店とその前に立つマルコはあまりにちぐはぐだ。


「なに変な顔してんだよい」


キーをポケットに放り込んだマルコは、いつものように難しい顔でアンを促した。
ドアを開けるとベルが鳴り、ミートソースやホワイトソース、チーズといった洋食の香りが身体を包む。
外気の温度との違いに少し鳥肌が立った。
席まで案内してくれたのは使い古したエプロンをつけたおばさんで、アンたちを席に座らせてメニューを渡すと慌ただしく中へと引っ込んでいった。
店内にはちらほらと客の姿が見える。若い男女や女性のグループが多い所を見ると、近くに大学でもあるのだろうか。
そんなことより、とアンは視線を戻してメニューをさらうように見た。
グラタンとサラダのセットもおいしそうだけど、アサリのパスタも気になる。日替わりは安くて量が多いのが定石だけど、確か外のメニューに今日の日替わりはカレーオムライスと書いてあった。昨日カレー食べたんだよなあ。
ちらりと視線を上げると、マルコはメニューから顔を上げて煙草を取り出したところだった。


「……決めた? なに?」
「パスタ」
「アサリのやつ?」
「あぁ」


「くそう取られた……」と呟くアンに、マルコは今日初めてほんの少し口角を上げた。
その顔のまま、アンのメニューを覗き込む。


「どれとどれで迷ってんだよい」
「グラタン……か、こっちのカツレツのセットもおいしそう」
「んじゃ両方頼めよい」
「えっ」


「そんなのアリ!?」と目を丸くするアンに、マルコは無責任なほど簡単に「アリだよい」と言って笑う。


「どっちかセットで、もう片方単品で頼めばいいだろうがよい。食えなきゃ食ってやる」


たやすくそう言われるとその気になって、結局カツレツをセットにしてグラタンを単品で頼んだ。
マルコはパスタのセットを大盛りにして、注文の品が来るまではたいして話すこともなく火のついた煙草をゆっくりと吸っては窓の外を見ていた。
そういうマルコを目の前にしていると、改めて今ここにふたりでいることがとてつもなく不思議なことに思えてくる。
なんとなく尻の座りが悪いような居心地と、誰も知らない──つまりは知った人がいない場所に二人でやって来たことへの開放感。
そのふたつが同居して、繊細な柔らかい刷毛で心の表面を撫でられるようなこそばゆさを感じさせるのだ。

20分ほど待って届いた料理は結局グラタンもカツレツもアンはぺろりと平らげて、マルコのパスタまで一口ちょうだいと言ってのけた。
マルコはためらいなくアンにフォークを渡してくれたので、嬉々としてパスタを絡め取る。


「あっ」
「なんだよい」
「アサリももらっていい?」
「好きにしろい」


んじゃ遠慮なく、と大きなアサリの身を口に運んでから、自分がまるでサボやルフィに対するみたいにマルコにも接していたことに気付いて咀嚼が止まった。
マルコが目を留め、どうしたと尋ねる。
いや、べつに、ごめん、と急にしどろもどろになりながら、口の中のものをろくに噛まずにのみこんだ。
パスタの皿に視線を落としたままありがと、とフォークを返す。
突然行ったり来たりする自分の感情に目が回りそうだ。







マルコの言った通り、昼食を摂ったレストランを過ぎるとあとはひたすら住宅がぽつりぽつりと現れる程度で、広がる麦畑であったり長い工場の塀であったり、殺風景な景色が続いた。
窓を開けて煙草の煙を逃がすマルコに、なんとなしに尋ねる。


「今から行くところ、行ったことあるの?」
「あぁ……随分前に何度か。アイツと同じ課のときがあってねい」


なるほど仲の良いはずである。
アンがふっと笑いをこぼすと、マルコは不可解なものを見る目でアンをちらりと見たが、なにも言わなかった。

それからまた1時間。同じような景色が続いていたかと思えば、視界にちらりちらりと映るものがある。


「あ、雪!」
「結構登ったからねい」


言われてみれば、運転席の窓から入り込む外気はするどく冷たい。
元来体温が高いほうな上に、食事をしたばかりで身体が温まっていて気にならなかったが、アンの住む町よりずいぶん標高が高いところまで来たらしい。
窓に額をくっつけると一瞬身がすくむほど冷たく、でも軽くほてった顔には気持が良くてそのまま窓の外を見ていた。
ぼたん雪はあっというまに車道の両側を白く染めていく。


「あと一時間はかかるからよい」
「うん?」
「寝てろ」


マルコの方を振り返ると、備え付けの灰皿に吸殻を放り込んだマルコは窓を閉め、何か空調のボタンをいじっていた。


「眠くないよ」
「暇だろい」


言われてみれば、暇だ。
運転を代わることができるわけでもないし、ただ座って外の景色を眺めているのは退屈といってもいい。
満たされたおなかはあったかく、心地よい満足感でいっぱいだ。
ただ少しでも微睡んでしまえばあっという間に時間が過ぎてしまう。


「もったいないから寝ない」


そう言うとマルコは、意味を汲み取りかねるとでも言いたげな顔でアンを見たが、「そうかよい」とだけ言って前を向いた。

こめかみのあたりを窓に付けて、白さを増していく外の景色を見遣る。
聞き取れないほどのボリュームに絞られたラジオがか細く耳に届く。
カーヒーターの稼働音が低く唸るように足元のあたりに響いていた。
道はただまっすぐで、マルコは地図もナビも見ることなく車を走らせる。
やがて道は真っ白に染まり、きゅるきゅると柔らかい雪を踏みしめるタイヤの音が聞こえてきた。





「……アン。起きろい」
「……んはっ!」


咄嗟に体を起こすと変な声が出て、口のあたりに少し垂れていたよだれをすかさず拭った。
一瞬どこにいるのかわからなくなるが、変な角度に折れ曲がって痛む首とすっかり慣れたマルコの車の香りで、今いる現実を思い出す。


「……寝てた!!」
「着いたよい」


フロントガラスの向こうには、木造の大きな家がそびえたっていた。
三階建てはありそうな立派な別荘だ。
落ち着いた色の枕木が、マルコが車を停めた場所から玄関まで道を作っている。


「ここ? すごい、でかい」
「課の旅行で宿にするのにゃちょうどいいんだよい」


行くぞ、とマルコは車を降りる。
助手席のドアを開けると、足を下ろしたすぐそこは一面の雪景色だった。


「すっ、すごーー!! 雪!! すごい積もってる!!」
「転ぶなよい」


後部座席からアンのボストンバック、それにマルコのものらしいナイロンのバッグを担ぐと、マルコはためらいなく玄関へと雪を踏みしめて歩いていく。
アンは初めおそるおそる足を踏み出し、踏んでも蹴っても茶色い地面が出てこないことに感動し、すごい、とさむい、を交互に繰り返しながらマルコの後を追いかけた。

ベイから預かった鍵で大きな扉を開ける。
中は薄暗く、ほんのり埃のにおいがする。
外と同じく家の中の空気もキンキンに冷えていた。
マルコは入ってすぐのカウンターに荷物を置いた。


「とりあえず全部の部屋の電気をつけて回るよい」
「全部?」
「ここを使う交換条件みたいなもんだい。つかねェ部屋があったら呼べ」


お前は一階、と言い渡すとマルコはさっさと廊下の向こうに歩いて行ってしまった。
きっとその向こうに階段があるのだろう。
アンはお邪魔しまーすと誰にともなく呟きながら、コテージ内へと足を踏み入れた。
入ってきた玄関扉が開けっ放しになっていたことを思い出し、重たいそれを引っ張って閉める。と、ブレーカーが落ちた時のように突然視界が真っ暗になった。
慌てて近くの壁を叩くように触り、電気のスイッチを探す。
手触りで目星を付けたボタンを押すと、今度は一気に視界が明るく開けた。
玄関だけでなく廊下の灯りのスイッチだったようだ。
そして明るく照らされた家の中の景色に息を呑む。
廊下だと思っていた入ってすぐのそこは、大きなエントランスホールになっていた。
真っ白なソファにベージュ色のカーペット。低いテーブルが据えてある。
背の高い椅子が4脚並んだカウンターには色とりどりの酒瓶が並び、壁には電気屋でしか見たことのない大きなテレビが貼りついていた。
テレビの横には引き出しや棚のついたウッド調のボードが置いてあり、その上には大きなステレオとスピーカーが鎮座していた。
深い朱色のカーテンはぴっちりと閉じていて、その向こうには雪景色が広がっているのだろう。


「……すんごい」


部屋の中を眺めまわしていると扉があったので、開けてみる。
中は真っ暗で、灯りのスイッチを探して押した。
また、リビングだ。
ただ今度の部屋はリビングとダイニング、そしてキッチンがひとつの大きな空間になっていた。
大きなシャンデリアがぶらさがり、煌々と光り輝いている。
リビングのつきあたりには暖炉があり、部屋の隅には薪が積まれていた。
ダイニングはいったい何人で食事をする気かといいたくなる大きなテーブルが据えられており、巨大な食器棚が壁沿いに屹立していた。
対面式のカウンターキッチンはからっと乾いて清潔だった。
キッチンの棚を見ると調味料や乾物、インスタント食品などがそろっている。
部屋が少し埃臭いのに対して、こういった食品は一切埃がかぶっていない。
もしかして、と隣にある大きな冷蔵庫を開けてみた。
当然電源が入っており、中にはぎっしりと食料が詰まっていた。
目を瞠って、中を物色する。
新鮮な野菜、肉、魚の切り身。いちごやりんご、ぶどうといったフルーツまで季節関係なくそろっている。
アンとマルコが来る前に、ベイが食料を用意してくれていたのだ。
至れり尽くせりのその状態に、アンはいたたまれないような申し訳ないような気分になりそわそわした。
今から帰ってベイのところに行って、ありがとう行ってきますと改めて告げたくなる。


「おい」
「おっ……!」


すっかり夢中になって冷蔵庫を覗いていたので、人の気配に気付かず変な声が出た。
マルコはほんのり呆れ顔で立っている。


「まだ二部屋しか点けてねェのかよい」
「マルコもう済んだの?」
「明かりつけるだけじゃねェか」


マルコはダイニングの壁まで歩くと、灯りとは別の小さなリモコンをいじる。
ピッという電子音と共に天井のエアコンが動き始めた。


「エアコンあるんだ……」
「当たり前だろい。こんな寒くちゃコートも脱げねェだろい」
「でも暖炉がある」
「ありゃ飾りみてェなもんで、なかなかあったまらねェんだよい」


それより、とマルコはアンを見る。


「部屋があったまるまでその恰好じゃ寒いだろい。来い」


アンの返事を待たずに踵を返したマルコは、先ほど消えた階段の方へと歩いて行った。
なんだなんだとついていくと大きな螺旋階段があり、そこをのぼるとホテルのように小さな扉がいくつも続く廊下が伸びていた。
マルコは二階に上がってすぐのドアを開けて中に入っていく。


「わっ、なにここ」
「ベイの衣装箪笥みてェなもんだ。あいつから、お前に好きなモンを好きなだけ持ってかせろって言われてんだよい」


マルコが明かりをつけると、アンの家のリビングほどの広さいっぱいのスペースを埋め尽くさんばかりの衣服がかかっていた。
そしてそれらは洋服だけでなく、靴、鞄、ショールや手袋などまでそろっている。


「まずコートだな。選んでこいよい」
「えっ、そんな」


ウソじゃん、とこぼすアンにマルコは真顔でさっさと行けとせかす。
だからあのとき、コートを取りに行く必要はないと言ったのか。
それにしてもこんなの聞いてない。


「あぁ、それでいいじゃねェか」


おもむろにマルコが入り口近くにあった深緑のモッズコートをつかんだ。


「他に気に入るのがありゃそれも持ってけ。ついでに他も全部変えちまったらどうだよい」
「えぇ……」


困惑するアンにお構いなく、着替えたら降りて来いよいと言い渡してマルコは部屋を出て行ってしまった。
とりのこされて、アンは自分の格好を見下ろした。
着古した白いパーカーとジーンズ。それに擦り切れたスニーカー。
なじんでいるぶんどれもお気に入りだけど、今日にはふさわしくなかったのかもしれない。
朝仕事をしてサボとルフィのご飯も作ったし、少し匂いが移っていてくさかったかな。
くんくんと袖のにおいをかいで首をかしげるも、ぶるっと急に足元から冷えが這い登ってきてそれどころじゃないかと思い直した。
本当にいいのかな、と思いながら部屋全体がクローゼットとなったそこを少し歩き、服を探す。
なるべくあったかそうなもの、動きやすくて着心地のいいやつ。
洋服はラグジュアリーなドレスからフォーマルなワンピースやジャケット、そしてラフなパーカーやジーンズまであらゆるタイプがそろっていた。
その中からアンは今着ているものに似た紺色のパーカーを手に取る。
似ているのは形だけで、アンのものよりずっと厚手で裏起毛になっており、着てみたら驚くほど温かかった。
ジーンズは…いいや、着替えてもそう変わらないだろう。
脱いだ服とマルコに手渡されたコートを手にして部屋を出ようとしたとき、出口のすぐそばに一脚の椅子が置いてあるのが目についた。
椅子の上に、封筒が置いてある。
かがみこんで覗くと、小さな文字で「アンへ」と書いてあった。
宛名を見なくてもわかる、ベイだ。

『寒いところ、こんな場所まで来てくれてありがとうね。
言った通り、家の中も置いてあるものも好きに使ってくれて構わないし、気に入ったのなら好きなだけ持って帰っていいよ。
この部屋の服も靴も全部あんたのモンみたいなものだから、好きなのを選んで。
寝間着代わりになるようなものも全部用意してある
マルコにいい思いをさせるのは癪だけど、楽しんでくれたらうれしいよ。
帰ってきたら今度は私が会いに行くからね』


ベイはあたしがマルコとここに来ることになると初めからわかっていたんじゃないか、そう思うと気恥ずかしさに俯きそうになる。
次々と与えられる好意はアンの手に余るほどで、感謝の言葉はひとことでまとまりそうになかった。

アンは古びたスニーカーを脱ぎ、薄茶のムートンブーツをありがたくいただくことにした。
めちゃくちゃあったかい。






階下へ行くと、マルコは暖炉に薪を放り込んでいるところだった。


「温まらないんじゃなかったっけ」
「使ってみてェんじゃなかったのかい」


こちらを見ずにそう言って、マルコは火種にライターで火を点けた。
なんでわかったんだろう。
ぽっと小さな赤色は、暗い暖炉の中でちらちらと揺れて頼りない。
「本当に火、つくの?」と尋ねると、「さぁな」とそっけない。
部屋の中はエアコンの暖房機能で少しずつだが温かくなっていた。
火種に薪をくべるマルコの横顔に、アンは声をかける。


「ねぇ」
「あ?」
「今からなにすんの?」


部屋には大きな柱時計が立っており、時刻は16時少し前を示していた。
窓の外は相変わらず銀世界で、寝てしまったせいでわからないが周りにこのコテージ以外の何かがあるとは考えにくい。
閉ざされたこの家にふたりきり。
なにすんの、と尋ねたくせに変に意識してしまう。
誤魔化すようにきゅっと唇を引き結んだ。
無事薪に火が燃え移ったのか、ぱちぱちと爆ぜる音が小さく聞こえる。


「家の中でできることなら、何でもできるよい」
「……なんでも?」


マルコは立ち上がると、すぐそばにあるソファの背もたれに腰を下ろした。


「来たやつが暇しねェように、たいていのモンが揃ってる。本が読みたきゃ2階に小さい書庫があるし、確かゲーム機の置いた部屋もある。ゆっくりしたきゃそこそこ広い風呂と露天風呂がついてる。確かジムもあったな。テレビは見ての通りそこにあるし、映画も何本か揃えてあるっつってたねい」


マルコはちらっとアンを見て、妙に楽しげに片眉を上げた。


「何するよい」


呆気にとられて、「じゃ、じゃあ」とアンは息継ぎするように言葉を繋ぐ。


「いっこずつ、全部!」


そりゃあいい、とマルコは俯いて笑った。
笑ったマルコに驚いて目を逸らしてから、もっと見ておけばよかったと後悔した。




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目を覚まし、いの一番に見えたのは無機質な白い壁で、聞こえたのは電子機器の稼働音のような、低い音だった。
そのまま天井をぼうっと見上げていると、いつの間にか医師や看護師がやってきて、アンの身体をあちこち見て回った。
されるがまま、アンは目を開いたり閉じたり、口を開いたり閉じたり、肩の傷を消毒してもらったりしていると、お腹が空いてきた。
お腹が空いたと言うと、もうすぐお昼だから、と看護師が言う。


「あ、やっぱりいいや。もう帰ってもいい?」
「ダメよぉ。怪我は肩以外大したことないけれど、今日一日は安静に」


たしなめるようにアンをベッドに押し戻し、看護師は部屋を出ていく。
アンはベッドからひょいと軽く足を下ろす。


「あたしの服、ないよね。これ借りて行ってもいい?」
「ちょ、だめよ!待ちなさい!」
「手当ありがとう。一旦帰るね」


慌てて伸ばしてきた看護師の手をするりと抜けて、アンはさっさと病院を後にした。
ぼんやりと、まだ夢を見ているような心地で歩いていたが、気付けば慣れた道を足が勝手に歩き、家に辿りついていた。

なんだか、すごく久しぶりな気がする。
家の扉の前に立ち、アンは妙な懐かしさを覚える。
実際家に帰るのは数日ぶりだった。
家の鍵は開いていた。
静かに扉を開き、閉める。
階上でがたごとと物音がしていたかと思うと、四足の動物が蹄で駆けてくるような勢いで、ルフィが二階から階段を駆け下りてきた。


「アンッ!」
「ルフィ」


久しぶりに見る弟は、相変わらず顔のパーツすべてを使うような笑い方をした。


「ただいま。留守番しててくれたの」
「おうっ!病院から、アンが目ェ覚ましたって聞いてすぐに行こうとしたんだけどよ、家の鍵は一個だろ。もしすれ違いになったらだめだと思って、待ってたんだ!」
「ありがと、ごはんは?」
「マキノが置いてってくれた!」


思った通り、彼女が世話を焼いてくれているようだ。
どうりでルフィが元気なはずだと思いながら、腰にまとわりつくような勢いで話しかけてくるルフィを連れて二階に昇った。
そうだ、とルフィがアンを見上げる。


「マキノ、今日も来るって言ってたぞ!」
「今日?」


ちょうどそのとき、まるでルフィとの会話を聞いていたみたいなタイミングで、インターホンがポーンと軽快な音を立てた。


「ほらな!」


ルフィが自慢げに鼻息を荒くする。


「ほんとだ。ルフィ、開けてあげて」
「おうっ」


ルフィが再び1階へと駆け下りる。
その背中を見送り、アンは自室へと戻った。
部屋で着替えていると、マキノとルフィの話し声が微かに聞こえる。
久しぶりに袖を通す私服は、慣れた洗剤の淡いにおいがして気が休まった。
すぐにアンもまた、階段を降りていく。


「マキノ!」
「あらっ!今ちょうどルフィに聞いたところよ、よかったわね、アン……!」


相変わらずシンプルないでたちで、マキノはアンを見上げた。
泣いた後のように、目の下を少し赤らめている。
実際少し泣いたのだろう。
途端に照れくさくなり、アンは俯き加減で笑った。


「お茶入れるね」
「ありがとう。怪我はひどくない?あれだったら私がするわ」
「大丈夫、ありがと」


ルフィが嬉しそうに、まぁ座れよとカウンターの椅子を引っ張り出している。
マキノは相変わらず声を出さずにくすくす笑って、ルフィのエスコートに従い背の高い椅子に腰かけた。
店のメニューにある紅茶を3人分作り、カウンターを挟んでお茶を飲んだ。
相変わらず働き者ね、とマキノが笑う。


「今日退院したばかりでしょう。つらくない?」
「全然。よく眠ってすっきりしてる」


マキノはにっこりと目を細めた。


「一応、今日と明日のぶんくらいの食べ物は2回の冷蔵庫に入れておいたわ。温めたら食べられるから」
「ごめん、なにからなにまで」
「いいのよ」


当然のようにマキノは微笑んだ。
聞きたいことがあるのに、あまりにほのぼのとルフィとマキノが笑い合うのでなかなか話を切り出せないでいた。


「そうだ、あたしお腹が空いてたんだ」
「アンッ、おれのも!」


二階にあがり、自宅用の冷蔵庫を開けると、二段の棚にぎっしりと、タッパ―が詰まっている。
惣菜のなつかしいにおいが、マキノの店の匂いがした。
適当にいくつか手に取り、温め直してルフィと分け合った。
マキノがアイスティーをすすりながら、にこにことそれを見ている。

食事を終え、一息つくと、マキノが立ち上がる。


「それじゃあ私、そろそろ帰るわね。アンも本調子じゃないし、今晩の分も冷蔵庫にあるからそれを食べなさい」
「あ、待って!」


慌ててアンも立ち上がると、マキノが可愛らしい仕草で首をかしげる。


「なあに?」
「……あのとき、なんであそこにいたの?」


あぁ、とマキノはなぜか照れくさそうに笑った。


「買い物に来ていたの。あのときはもう帰りのバスに乗っていて」


マキノは穏やかに笑いながら、再び椅子に腰かける。


「バスが止まったと思ったら、しばらく動かないの。何かなーと思って前を見たら、すごい渋滞で、びっくりしたわ。何事かと思ったら、検問をしていたのね。たくさんの車がすごくクラクションを鳴らしていて、それでも渋滞が全然動かないの。そしたらバスの運転手さんが、しばらく動きそうにないから降りる人はどうぞって言うの」


マキノの指先が、意味もなく空っぽのコップについた水滴をなぞった。


「仕方がないから降りるでしょ。でも荷物もそこそこあるし、歩いて帰るには遠いし、検問を抜けたら別のバスを拾おうかなって考えていたの。そしたら歩道にたくさん警察の人がいて、ここから先は歩行者もいけないっていうのよ。びっくりしていたら、大きな車が近くに停まって、そこからたくさん機動隊の人が出てきた。それで、ああ何か大変なことが起きてるんだって思ったところで、騒ぎの真ん中にあなたの姿が見えた」


マキノがアンを見る。
目を逸らせなかった。
マキノの隣でルフィが、妙に真面目な顔つきで話を聞いている。


「大きな男が、あなたの首根っこを摑まえていて、その男に向かって、よくニュースに乗ってる警察の方が銃を構えているの。息が止まりそうだった。咄嗟に、強盗か何かにあなたが巻き込まれたのだと思ったわ。その間も警察の人がぐいぐい私を押してどかそうとするから、突き飛ばして中に入ってやったの」
「マキノすげぇ!!」


ルフィが純粋な歓声を上げる。


「そしたら男があなたの頭に銃を突きつけた」


マキノはそのときを再現するように、ルフィの頭に人差し指を突きつける。
ルフィが、しししっと笑う。


「そしたらもう何もわからなくなって、機動隊の人を後ろから踏み倒して、男とあなたに向かって走っていって……そこからはよく覚えていないんだけど、気付いたら私は銃を握っていて、あなたの隣に倒れてた」


呆気にとられるアンを前に、マキノはずっと微笑んでいる。
いつのまにかガープさんもいて、とマキノが続ける。


「あなたが病院に運ばれてから、私、すっごくガープさんに怒られたわ。小さい頃みたいに、頭の上からそれはもうガミガミと。拳骨をもらわなかっただけマシね」
「じいちゃんの拳骨はすげぇ痛いんだ」


ルフィが思い出したように相槌を打つ。
マキノはルフィに笑い返して、アンを見上げた。


「あなたのしたことは全部聞いたわ。辛かったわねって言うのは簡単だけど、でも、辛かったわね」


マキノは立ち上がり、さて、と言う。
泣いたらいいのか笑えばいいのかわからないまま、アンはマキノを目で追った。


「ごちそうさま。そろそろ店を開ける準備をしなきゃ」
「メシありがとな!」


ルフィが元気に手を振る。
マキノも手を振り返し、それじゃあと踵を返した。


「なんで」


アンの声に、マキノが振り返る。
声をあげたものの、なにを訊くべきかわからず視線が彷徨った。
マキノもしばらくキョトンとしたままアンを見つめていたが、ふふっと零れるような笑い方をした。


「私が一番に叱ってあげるって、言ったでしょ」


じゃあね、と手を振って、マキノは店先の小さな扉をくぐり、出て行った。


「そんなこと言ってたっけ?」


ルフィがうぅんと首をひねってから、唐突にあくびする。
「片付け手伝って」と言うと、ルフィが渋々カウンターのこちら側へやって来た。
泡のついたスポンジを握りしめる。


「アン?」


ルフィが怪訝な顔で覗き込む。



──もしあたしが、捕まるような悪いことしても?
──そのときは、私が一番に叱ってあげるんだから!



目の前が、霞んで仕方がない。









片づけを終え、ルフィに自室の片づけを言い渡してから、アンもリビングの掃除を始めた。
案の定、脱ぎ散らかした服、食べこぼしが散乱している。
昨日一日ルフィ一人にしただけで、このありさまだ。
呆れかえりながら、簡単に部屋を整理する。
あらかた片付いたところで、ルフィがひょっこり顔を出した。


「終わったぞ」
「そ。ねぇ、ルフィ、サボがどこにいるか分かる?」


ルフィは、神妙な顔で頷いた。


「行こっか」








サボは、アンが目覚めた場所より大きな病院で眠っていた。
後で聞いたところによると、アンがいたのは警察病院だったらしい。
しかしサボは町一番の大病院で、口元を透明なカップのようなものに覆われたまま、目を閉じていた。
広い部屋だ。
ルフィに連れられて病室に足を踏み入れた瞬間、膝が折れそうになるのを必死でごまかした。
ルフィは一生懸命サボの容体を説明しようとしてくれたが、ルフィ自身がよく理解しておらず、いまいち要領を掴めなかった。
見たところサボは口元にマスクをしているものの、それ以外に物々しい機械に繋がれているわけでもなく、頬に大きなガーゼを貼って、眠っていた。


「サボ」


声を絞り出し、なるべきはっきり聞こえるように発音する。
サボはピクリとも動かなかった。


「ずっと寝てんだ。手術は終わったって言ってたけど」


個室の真ん中に位置するベッド、そのわきにあるサイドテーブルには、綺麗に2種類の花が生けられていた。
マキノかな、と思った。

ベッドのわきに、ちょうどふたつ丸椅子が置いてあったので、ルフィとそこに座る。
近くで見るサボの顔は、傷ついているもののとても穏やかで、シュコー、シュコー、と奇妙な呼吸音だけが違和感を残していた。

不意に、こつこつと硬い音がした。
ルフィと同時に、音のした方を見遣る。
開きっぱなしの扉のむこうには、ガープと、戸枠に入りきらないほど巨体のエドワード・ニューゲート、そしてマルコがいた。
壁をノックしたのはガープだ。


「じいちゃん」


ルフィと声が重なる。
いいかの、と断りを入れ、3人が病室に入って来た。
病院の個室とは思えないほど広い部屋にもかかわらず、途端に部屋は一杯になる。
威圧的な顔をした3人は、みな神妙な面持ちでアンたちを見下ろしていた。


「お前さんが目を覚ましたというから慌てて行ってみれば、勝手に帰ってしもうたというから、ここじゃろうと思って待っておった」
「じいちゃん、サボは助かったの?」


白髪の頭が首を動かしかけて、止まる。
少し考えて、ガープは口を開いた。


「わからん。爆発で下半身を火傷しておるし、地面に落ちた衝撃で両足は複雑骨折、内臓も傷ついてるそうじゃ。幸い頭を強く打たんかったらしいから、脳に異常はない。咄嗟に受け身を取ったんじゃろう。今はショックで眠っておるが、いつ目が覚めるかわからんらしい」


清潔な布団の中で、サボの足はぐるぐると包帯に巻かれ、固定されているのだろう。
サボは変わらず涼しい顔をしている。
じいちゃんを見たら、どう言うかな。


「アン」


顔をあげると、ガープは部屋の隅からがそごそとパイプ椅子をひっぱりだしてきて、座った。
ニューゲートも狭そうにしながら、それに倣う。


「すまんかった」


ガープは深く頭を下げた。
白くなったな、とアンはふさふさした髪を見下ろす。
皺だらけの顔が上がり、真正面からアンを見た。


「今更謝るのは卑怯じゃと思う。だがすまんかった。お前を危険な目に合わせた」


なんだったの?
純粋に、それが知りたかった。


「わしはロジャーが生きている頃から、黒ひげを追い続けた。あの手この手で証拠を隠し姑息に生きていくアイツを仕留めるには、証拠が足りず、20年も追いかけることになってしもうた。ティーチがアンを利用しようと考えているとは、初め、つゆとも思っとらんだ。今、奴はさるぐつわのまま刑務所にぶちこまれておる。舌を噛んで死なれたりしたら敵わんからな。いずれ吐かせるつもりだが、おそらく、あやつは初めからお前を狙っておった。ロジャーが死んだ、あのときから」


アンが浅く頷くと、ガープは少し驚いた表情をしたが、すぐに真顔を取り戻す。


「それならばと、わしらも黒ひげを泳がせた。いずれアンに危険が及ぶのは百も承知じゃったが、元よりアンはこちら側の人間、社会的な保護は絶大じゃ。わしも……白ひげもいる。言い方は悪いが死にさえせんだら、どうとでもしてやれる。アン、お前を餌に黒ひげをおびき出し、証拠が明確なうちに拿捕することが目的だったんじゃ。黒ひげは使ったコマを必ず殺す。じゃがそのコマがアンであれば、と考えた」
「…じゃあ、『エース』はあたしだって」
「知っておった」


思わずマルコに視線を走らせた。
ニューゲートの少し後ろに座る男は、静かにアンを見つめ返す。
アンの視線の先を心得てか、ガープが言う。


「知っていたのはわしと白ひげだけじゃ。マルコも、それ以外の人間は誰も知らんかった。お前が捕まる、あの日まで」


アンは、おそらくガープの意味する白ひげという男を見上げた。
天井近くに顔がある。
金貨のような瞳が、じっとアンを見下ろしていた。


「あんたはだれ?」
「……ロジャーと、仕事をしていた。アン、オメェが生まれた日も、アイツに呼ばれて一緒にいた」


低い声は、すぐ近くで太鼓を鳴らした時のように、足元からお腹のあたりまでをびりびりと揺すった。


「おれもそうだが、あいつも、ロジャーも命を狙われやすい立場だ。死ぬ前から任されていた。娘たちを頼むと」
「ロジャーとルージュが事故に遭った日のことを、話そうか」


ガープが口を挟んだが、アンはすぐさま首を振った。


「いい。知ってる」


正面の男3人が息を呑む。
それまで大人しくしていたルフィが、なに、なんだ、と騒ぎ出す。


「……ティーチが言ったか」
「うん」


なんだよっ!とルフィがむきになる。


「父さんと母さんは、黒ひげに殺されたんだ。事故は仕組まれてたんだって」


アンは床を見つめたまま、言葉を落とすように言った。
聞いたときは内臓がひっくり返るほど怒りが爆発したが、今はそれを口にしても、ただただしんしんと冷たい悲しみが足元に広がるだけで、不思議と怒りはあまり湧いてこなかった。
ただ、ルフィが「なんだとぉ!?」と形相を変えて立ち上がる。


「あいつ!!ぶん殴ってやる!!」
「ばか、いいから落ち着け」


ルフィの腕を引き椅子に座らせたが、ルフィはふんふんと鼻息を荒くして、わかりやすく腹を立てていた。
話を促すと、ニューゲートがおもむろに「マルコ」と呼んだ。
マルコが小さな黒い箱を取り上げ、ニューゲートに手渡す。
ニューゲートはまっすぐ、それをアンの前に差し出した。
受け取った箱は重くも軽くもなかったが、中に何かが入っているのはわかった。
箱は簡単に開く。
アンはそっと蓋を持ち上げた。


「これ」


宝石が緻密な曲線を描き、花弁を見事に表現している真っ赤な髪飾り。
箱から取り出し、手のひらに乗せるとあまるほどの大きさだ。
よくみると、花弁の一枚には母の名前が彫られていた。
それは本当に薄く、目を凝らさなければわからないほど薄く。
母さんのだ。


「裏を見てみろ」


ニューゲートが促すまま、アンは素直に髪飾りを裏返す。
髪を止める金属のバレッタ部分と、花弁の裏側が見えるだけだ。
ただ、よく見ると、ちょうどルージュの名が彫られた裏側に、何か細い線が彫ってある。
アルファベットが3文字。


「『アン』……」
「お前が生まれた日、ルージュが望んだんじゃ。いずれこれはアンのものになるからと」


そう言い、ガープは何かを堪えるように固く目を閉じた。


「それは確かにお前のモンだ、アン」


腰かけたアンのちょうど顔くらいの高さにあるニューゲートの膝。
その上に大きな握りこぶしがあり、それがぐっと強く握られたのがわかる。
アンは顔をのけ反らせて、ニューゲートを見上げた。
ガープと同じく皺だらけの顔は、彼の年齢を感じさせた。
確かニュースで、その容体は芳しくないと言っていた。
しかし目の前の大男はそれをつゆとも感じさせない威厳と、そして若々しさすら感じさせる目で、アンを見下ろす。


「ずっとお前を見ていた」


ニューゲートは、一音ずつ発音するかのようにとてもゆっくりと喋る。
彼が喋るたびに、相変わらず足元が揺れる感覚を覚える。
ただアンは、なにも言わずに金色の瞳を見上げつづけた。


「お前たちが学校へ行ったり、店を出したり、そういうことにおれァなにもしてやってねェ」


だがな、と言う。


「ずっとお前を見てきた。エースの逮捕はおれに取っちゃァお前の保護と同義だった。危険なことに巻きこんじまったが、おれァこの街ごと、お前を守りたかった」


それだけで十分だ、と思った。


「おれァ勝手に、娘みたいに思って」


紐にできた小さな結び目みたいな謎が、するりとほどける。
昔の家が、ロジャーとルージュ、3人の兄弟が暮らした家が、今もきれいであった理由。
この人はずっとあたしたちを見ていた。
あの大きな庁舎のてっぺんから、街ごとあたしたちを見ていた──


「わしを差し置いて勝手なことを抜かすな白ひげ」


ガープがニューゲートを非難すると、彼はうるさそうに大きな鼻に皺を寄せ、聞こえないふりをした。










サボがこんこんと眠り始めて、6日が経つ。
アンは日中のほとんどをこの病室で過ごしている。
ルフィはアンに追い払われるように学校へ行き、終わるとすぐさまここへ来る。
そして面会時間が終わる午後7時に、ふたりは家へと帰った。

マキノが持ってきてくれたのだろう花瓶の花は、もう2,3本だけになり後はしおれてしまった。
茶色く萎んだ花を抜き取り、アンは毎日水を変える。
看護師が毎日甲斐甲斐しくサボの身体を世話してくれるので、アンがサボに対してしてやれることはほとんどない。
ただ毎日そばにいて、ひとりごとを聞かせたりしているだけだ。
今日も何もすることがなくて、ベッドのそばに置いた低い椅子に座り、伏せるようにベッドに顎を置いていた。
スリ傷だらけの長い腕がすぐそこにある。
マキノが暇つぶしにと持ってきてくれた料理雑誌は粗方読んでしまったので、ページを捲るのが億劫になり閉じてしまった。
学校で居眠りするような格好で、雑誌の縁をなぞるように指を動かす。
遠くで子供の泣き声が聞こえた。
病院というのはとても静かな場所だと思っていたが、案外そうでもない。
医師たちの声で不吉な騒がしさが起こることもあるし、子どもが注射を嫌がって泣き叫ぶ声も聞こえる。
サボがいるこの部屋も、耳を澄ますと時計の針の音や点滴の落ちる音がわりと大きく響く。
うんと耳を澄ませば、サボの鼓動すら聞こえた。

なんとなしに、覚えのある歌が口をついた。
母さんが歌ってくれたことがあるのかもしれない。
歌詞の意味も曖昧で、よくわからない。子守唄だろうか。
アンは何小節か口ずさみ、途中でメロディがわからなくなってやめた。

自分で歌った子守唄に、うとうと微睡む。

ふわっと風がつむじあたりの髪をかすめていった。
窓、開けっぱなしだったかな。
とろとろとした睡魔がアンを絡め取る。
また、やけにゆっくりと風がアンの髪を揺らした。
何度かそれが繰り返され、気持ちよさに意識が遠のきかける。
風に温度があることに気付いたのは、その瞬間だ。

身体は動かなかった。
顔を伏せたまま、アンはくぐもった声を出す。


「……いつから起きてた?」


一呼吸置いて、掠れた声が降ってきた。


「アンの……下手くそな、歌で……起きた……」


血の通った手のひらが、ぽとんとアンの頭の上に落ちた。
涙が止まらない。








朝のうちに掃除に洗濯、ルフィの弁当など家事を済ませ、病室に行く。
ルフィが来て、夜の7時に家に帰る。
そのサイクルに、サボの着替えを工面する時間が加わった。

目を覚ましたサボは、当然すぐさま担当の医師らに囲まれ、まだ何度も何度も検査を受けている。
もちろん意識を取り戻しただけで、内臓の傷も完治していないし、両足の全快には4か月以上かかるだろう。
それでも、病室に行けばサボがふりむいて、よぉと声をあげる。
ルフィと大口を開けて笑う。
そのあとは決まって痛そうに、少し身をよじった。


「昼間ずっとおれのとこにいなくていいよ。家のことや店のことも、やることあるだろ」
「ここにいたら家は散らからないし、店だって埃払うくらいしかすることないし」


3人の店はアンが最後の仕事に出る前日から、ずっと閉店している。
知った客に会うと必ずと言っていいほど休業の理由を訊かれた。
ときおり察しのいい客は3人の誰かが病の床に伏しているのだろうと勝手に勘ぐって、大変ねぇなどの言葉をかけてくれた。
それがただの好奇心であれ心からの慰めであれ、アンはありがたく受け取る。
「休業中」の旨を伝える張り紙は、ひらひらと頼りなく風にさらされていた。


「病院なんてずっといるもんじゃねぇよ。辛気臭いし、ちょっとした風邪だって流行りやすい」
「あたしがかかると思ってんの?」


サボは動きにくそうに、鼻の頭を掻いた。
とにかく、と教師のようにアンに指を突きつける。


「ずっといなくていい。ルフィが来るし、そうだ、ルフィと交代で来てくれればおれも暇しなくていいや」


あとなんか読むもん買って来て、と体のいい御託で、病院を追い出された。
仕方のないので本屋に寄ってから、自宅に戻った。
本屋の紙袋を腕に引っかけて歩いていると、店のシャッターに寄りかかる人影を見つけた。
なで肩の長身が、アンに気付く。
サボの病室にガープとニューゲートと来た、あの時以来だ。


「目ェ覚ましたってねい」


マルコは薄いジャケットを羽織って、いつもの仕事服ではなかった。
アンが頷くと、よかったなとそっけなく言う。
通用口をくぐらせて、マルコを店のカウンター席に座らせておき、アンは2階へコーヒーを取りに行った。
即席で悪いけど、と差し出したカップを受け取り、マルコは店の中を見渡すように視線を動かした。


「店は、さすがにまだ開かねェのかい」
「サボがいないとね。あたしひとりじゃ何もできないし」
「あいつの怪我はどうだよい」
「順調だって聞いてるけど……」


アンにはそう思えなかった。
痛みに耐えて眠れない姿や、身体が抵抗して頻繁に熱を出す姿のサボを見ているから。
そのたびにどこかアンのお腹の底の方から、ちりっと何かが暴れ出そうとする。
マキノに止められなければ、アンは迷わずティーチを殺していた。
今でもきっと、目の前にあの男が現れたら同じことをするだろう。
それが怖くもあり、そしてそう思うことは間違ってないと自分を勇気づける気持ちもわいてくる。
マルコはじっと、カウンター席からアンを見ていた。


「サッチとイゾウの野郎が」


マルコは店の扉に話しかけるように、横を向いている。


「お前さんのメシを食いたがってるよい」
「あ、イゾウ……あのふたりにも、お礼しなきゃ」


マルコにしては大きな動作で、首を振った。


「んなもん要らねェだろよい。特にイゾウは自分のやらかしたことわかってねェからな。一度どこかにぶちこんだ方がいいかもしれねェ」
「でもあれはルフィが」


あとで聞いた話によると、ルフィを乗せてイゾウはまっすぐ黒ひげのアジトに向かわず、なじみの酒屋にバイクを向かわせた。
ルフィに、目的を訊いていたからだ。
てっきり目的はアンの救出かなんかだと思っていたイゾウに、ルフィが言う。
『アンは自分で逃げてくる。おれはおれたちの証拠を消しに行くんだ』
そういうことなら話が早い、燃やしちまえ。
その一言で、イゾウはバイクの小さな荷入れに入るだけのアルコールを、しかもとびきり度数の高いものをしまいこみ、黒ひげのアジトへ向かった。
なんだか楽しそうなイゾウに釣られ、楽しくなってしまったルフィは二人そろって陽気に酒を撒き、火をつけ、さっさと逃げてきたのだという。
建物を出てイゾウがすぐに消防隊を呼んだため、被害は目的の建物一軒で済んだ。
それだって偶然だ、とマルコは渋い顔をする。


「黒ひげの一件は絡んだ人間が多すぎる。逃げた奴も、ただ被害だけを受けた奴もいる。まだ処理が山ほど残ってる」


アンが盗んだ車の持ち主も、一方的に被害を受けた人の一人だろう。
マルコがついと顔を上げる。


「お前は」


背の高い椅子に腰かけたアンは、応えるようにマルコを見下ろした。


「そうしてカウンターの向こうで、ちょこまか動いてんのが性に合ってんだろうよい」
「ちょこまか……」


マルコは、インスタントコーヒーをやけに旨そうにすする。
眠たそうなその目が気になり始めた頃のことを思い出す。


「お前はもう好きなようにやりゃあいい。おれは」


おれは? 無言で促すと、マルコは肩を揺らして笑った。


「お前さんから飛び込んでくるのを待ってるよい」


ぱちぱちっと鳥のように瞬くアンを見て、マルコがまた笑った。
慌てて言葉をつなげる。


「じ、じいさんになるかもよ」
「いいよい」
「そしたらあたしもおばさんになっちゃう」
「構わねェな」


アンは狼狽え、目の前のカウンターを掴む。


「二度とここからでないかも……!」


マルコは子どもをあしらうように、鼻で笑った。


「そんときは、引きずり出してやるよい」
「さ、さっき待ってるって言った……!」
「おれァ耐え性がねェんだ」


言葉に詰まりアンが押し黙ると、マルコはついに声をあげて笑い出した。










知らないうちに季節はあっという間に春を通りこし、夏になっていた。
サボは車いすから松葉杖に変わり、ルフィは高校を卒業した。
サボが動き回るにはまだ不自由があるため、店に客を入れることはできなかった。
だから、カフェではなくデリだけを再開させた。
店内で食べるのではなく、アンの作った惣菜を店頭で売り、客はそれを持ち帰る。
多くの喜んだ顔が見られた。

サボの治療費は、見舞金と言って、警察と行政府の両方から莫大な金が降りた。
これまでエースが窃盗したレプリカの髪飾り、それに値する金額は各被害者に返金されたが、ニューゲートは一言もアンたちに黒ひげから渡された金を返せとは言わなかった。
申し出れば断られることもわかっていたので、残ったそれはありがたく生活費に使わせてもらっている。
その金の一部で買ったバイクはあのとき当然破損し、鉄くずに戻ってしまった。
サボが全快したら、お金を貯めて新しいのを買おうと思う。
しかし今は、ルフィがサボを羨ましがって免許を取りに教習所へ通っている。
免許が取れたら、配達サービスをするのだと意気込んでいる。


「うわっ冷てェー!」


ルフィが歓声を上げる。
海へ来ていた。
朝ごはんの後に誰かが言い出し、慌てて電車に乗ったから、ちょうど昼ごろだ。
ルフィは靴を脱ぎ散らかし、じゃぶじゃぶと蹴散らすように波間を歩いた。


「アンはまだ泳げないのか?」
「だって、卒業してから泳いだことなんてないもん」


サボは茶色い砂の上で、松葉杖にもたれて笑った。


「結局泳げるのはおれだけなのに、おれはこんなんだ」


ギブスに巻かれた足に日差しがかかる。
今日は朝方に雨が降っていた。
けしていい天気とは言えない曇り空だったが、分厚い雲の狭い隙間から差し込む光も、悪くない。


「腹減ってきたなァ」


波を踏みつけながら、ルフィが呟く。


「あ」


ルフィが鼻先を空へ向けた。
つられてアンとサボが顔を上げると、長い飛行機雲が雲の割れ目に沿うように走っていた。
もう飛行機雲に喜ぶような歳ではなくなり、海に来ても歩くしかすることがなく、靴が波にさらわれるのを心配したり。
アンは潮のにおいを浅く吸い込む。

ふと顔を戻すと、ふたりはまだ空を見上げていた。
口をあけて、鼻の穴を膨らませ、同じ顔をしている。

──まずはルフィを突き飛ばした。
顎を大きくのけ反らせ、ルフィは手足を大きく振って後ろへ倒れていく。
サボが目を丸めてルフィを見つめる。
すかさずサボの松葉杖を奪い取り、サボが短く叫びを上げた瞬間その肩を軽く突いた。
バランスを崩したサボは、簡単に背後へ倒れていく。


「えっ」


腕を引かれた。
ルフィ、サボ、アンが重なりながら浅い海の上に倒れ込む。
派手に水しぶきが上がった。
顔が思いっきり水の中に浸かる。
見計らったかのように、3人の頭上に波が被さった。


「ぅえっ、クソ、アンのやつ!」


3人もつれ合いながら身体を起こし、ルフィとサボの反撃はいつのまにか水の掛け合いの応酬になった。

砂まみれになってドロドロのまま電車に乗ったこの日のことを、ずっと覚えていようと思う。





FIN

拍手[16回]

ハンドルを切るたびに、左肩を無数の針で刺されたような痛みが走る。
北に向かって車を走らせていたアンは、いったん車を路側帯へ寄せた。
下手くそな運転のせいで、車輪は歩道に乗り上げ、不恰好な斜めの状態で停車したが、幸い通勤時間前の通りは閑散としている。

弾がかすった左肩からは、今でも絶えず血が流れ、アンの囚人服の袖を真っ赤に染め上げていた。
左手の指先が、ちりちりと痺れている。
あいにく車の中にはタオルのようなものもないので、止血をすることもできない。
肩から腕にかけて血が流れる感覚や、火が出ているような熱さのせいで頭ははっきりしていた。
この状態では、いずれ運転もままならなくなる。
それ以前に、黒ひげの誰かに見つかれば逃げることができないかもしれない。

瞬時にこれからの行先を考え直した。
家はだめだ、回り込まれているかもしれない。
これから行くつもりだった警視庁は遠い。そこまでアンの腕が持つかどうか、アン自身にもわからなかった。
ここから一番近い、手当のできる場所──

窓から外を見渡した。
雲の多い空、立ち並ぶ石造りの建物、シャッターの閉まった商店、植木鉢、電柱・・・
ハッと目の前が明るくなった。

お願い、まだ止まらないで。
痺れて感覚を失いかけた左腕を叱咤し、アンはアクセルを踏みこむと同時に大きくハンドルを切った。
北へ向かっていた車の頭を、南側に方向転換する。
ちらほらと通勤の車が姿を見せだし、乱暴な運転をするアンの車を驚いた顔や迷惑そうな顔で一瞥しては上手く避けて通り過ぎていく。
対向車とぶつからないことだけを念頭に、アンは南へと車を走らせた。
シートを流れる血が、太腿を濡らしていた。





「──うちは11時からしか診療はしない。しかも木曜は休みだ」
「でも開けてくれた」


下から覗き込むように顔を見上げると、ローは引き結んだ口元を少し動かしただけで、なにも言わなかった。
ローはアンの上半身に道を敷いていくように、真っ白な包帯を手際よく巻いていく。
すぐそばのサイドテーブルには血を吸ったガーゼが山を作っていた。
測ったかのようにちょうどよい長さで包帯が切れ、アンの肩のあたりに小さな金具でとめられた。


「ありがとう」


礼を聞き流すように背を向けたローは、机の上の小さな箱から、錠剤を取り出してアンに差し出した。


「飲んでおけ」
「なに?」
「増血剤だ」


ビタミン剤となんら外見の変わらないそれを受け取って、素直に飲み下した。
左肩を少し動かすと、痛みは走るが、断然動かしやすく痛みもひどくない。
先程飲んだ痛み止めもそろそろ効いてくるころだろう。
囚人服の上着にそでを通そうとしていると、器具を片づけていたローが呆れたように「お前」と言った。
暗殺犯だってもう少し景気のいい顔をしている、と思いながらローを見上げた。


「その服で行くつもりか?」
「だって、これしかない」


ローは言葉を紡ごうと口を開くそぶりを見せたものの、そのまま黙って踵を返し、奥へと引っ込んでいった。
その間に、アンは囚人服を頭から被った。
戻ってきたかと思うと、ローはおもむろに布きれを投げてよこした。


「着ていけ」


手に持って広げてみると、大きめのTシャツとハーフパンツ、まるでパジャマのような衣服だ。
ローの顔を見上げると、まずいものでも食べたように顔に皺を寄せてアンを見下ろしていた。


「そんな血まみれの服を着てうろうろしていれば、一般人に通報されてもおかしくねェ」
「そ、そっか。ありが」
「早く出ていけ」


憮然とした顔のまま、出口のドアを顎で指し示す。
言われなくとも腰を上げかけていたアンは、大きく頷いてもう一度「ありがとう」と言った。
ローは街の南側のはずれに位置する小さな診療所で、たった一人看護師もつけずに、医者をしている。
やってくるのは街の大きな病院まで辿りつくことのできない、町はずれに住む年寄りだとか、見るからに堅気ではない種類の人だとか、わりと特徴的な病人が多い。
なぜローがこんな場所で、と思わないでもなかったが、妙に威圧感を与える十数階建ての大病院の中で大勢の医者と働いているより、町はずれの小さな診療所でひとり無愛想に医者をしている方が、彼には似合っていた。
アンは車の中で行き先を考えたとき、電柱に書かれたとある別の病院の看板を目にして、ここを思い出した。
ローはアンたちの店に数回来たことがある、顔なじみだった。

身に付けかけていた囚人服をその場で脱ぎ捨て、ローに手渡された衣服を着る。
少し大きかったが、清潔な包帯がさらさらと擦れる感触は囚人服を着ているときよりずっといい。


「車で来たのか」


窓の外を見ていたローが、唐突に言う。
そうだけど、と言うと、ローは無言で背を向け、再び奥へと入っていった。
何事かとアンも窓の外をみやり、そして強く唇を引き結んだ。
診療所に少しぶつかったまま停められたアンの車から、少し離れた広い空間に、黒塗りのワゴン車が一台停車したところだった。


「跡つけられてたみてェだな」


戻ってきたローは、もっとうまくやれなかったのかとアンを詰るようにため息を吐いた。


「ご、ごめん、あんたにまで迷惑……なにそれ」


ローは肩に引っかけるように、黒く長い刀を持っていた。
隈に縁どられた目はアンを見ることもなく、出口へと向かう。


「迷惑なんてお前がここに来た時点で大迷惑だ。おれが相手してる間に、早く出ていけ」
「でも」
「どうせ近々この街を出ようと思っていたとこだ。追い出される方が後腐れなくていい」


アンが何かを言う前に、ローが扉を開けた。
淀みない足取りで、ローはワゴン車の方へと歩いていく。
慌ててあとを追いかけ、背中に向かって何度目かのありがとうを叫んだ。

目の端でローが長い刀を抜くのを見ながら、急いで車に乗り込み、適当にギアをいじる。
やけくそだ、とアクセルを踏み込むと、車はすごい勢いで後ろへ進んだ。
慌ててハンドルにしがみつき、再びギアを動かすと、車は前進に切り替わった。

ワゴン車から降りた二人のうち、一人の男がアンの車に銃を向けた。
すぐに銃声が響いたが、車に衝撃はない。
ちらりと後ろを振り返ると、ローが刀を振り下ろしたところだった。

坂を下り、再び北を目指す。
運転席の目の前にある様々なメーターはどれも訳が分からなかったが、デジタル時計だけが唯一確認できた。
時刻は朝の9時。

明けて数時間後の空は、まだ夜のような静かさを含んでいた。
いくつも浮かんだ雲はゆったりと流れていて、猛スピードで走り抜けるアンの車とはまったく似合わず、そのちぐはぐな加減が妙に目に焼き付いた。






ルフィからの連絡が鳴るはずの携帯を前に、動物園の熊以上にうろうろと、落ち着きを失っていた。
ときたまクロコダイルが鬱陶しそうにサボを一瞥するが、別段何を言うでもなくそこにいる。

イゾウはサボをクロコダイルの屋敷に送ると、代わりにルフィを乗せてバイクを走らせていった。
まるで散歩にでも出かけるような軽快さで、「んじゃ、行ってくらァ」と。
本来は、ロビンがルフィを連れて行き、イゾウは万一ロビンが追われた場合の足となる手はずだった。
しかしイゾウは、ロビンの説明を「しちめんどくせえ」と一蹴した。


「んなもん、おれがこのガキを乗せて行って、拾って帰ってくりゃいい話だろうが」


なにするか知んねェがよ、と付け加えたその顔は何の含みもなく、ただ本当にややこしい手順を面倒がっているように見えた。
ロビンは「あなたがそれでいいのなら」とあっさりと首肯してしまい、ルフィが反駁するはずもない。
サボすら、もはやすがるところがこの男しかないとわかっていたからか、反論する気にもならず、ただ「ありがとう」と呟いた。
イゾウは、今から行く場所にアンはいるのか、何か必要なものはあるのかと手短に尋ね、サボが簡単に答えると、浅く頷きルフィを連れて出て行った。


「うさんくせェ野郎だな」


クロコダイルが爬虫類の目つきでイゾウが消えたあたりを睨む。
あんたも似たようなもんだろう、と心の中で思った。


「あなたも似たようなものよ、サー」


サボがぎょっとしてロビンを見ると、白い陶器でできたような顔でロビンは平然としている。
クロコダイルはちらりと自分の秘書を一瞥したかと思えば、突然大きな声で笑い出した。


「違いねェ」


クハハ、と口をあけて笑う大男の姿を、サボは呆然と見上げる。




──それから数時間。イゾウとルフィが屋敷を出たのが午前3時だった。
そろそろ空も白みかけた頃だろう。
部屋にある大きな窓は、分厚いカーテンが閉じており外の様子は見えないが、端から白い光が漏れている。
もう最後に眠ったのはいつだったろうかとサボは重い頭を振る。
そしてそれが、アンが仕込んだ睡眠薬によって眠らされた時が最後だと思い当って、ずんと胃のあたりが苦しくなった。
クロコダイルがおもむろに、手元を操作して部屋の隅のテレビをつける。
途端にあらゆる音が箱から飛び出して、部屋の中にばらばらと降ってきた。
クロコダイルは椅子の手元を何度か操作してチャンネルをいくつか変えたが、めぼしいものはないのかすぐに電源を落とした。


「……なんだ?」
「ゴール・D・アンの脱獄は、まだばれてねェみてぇだな。それとも情報を伏せてるだけか」
「伏せているのでしょうね」


ロビンが口を挟む。


「気付かないなんて、拘置所に見張りがいる限りありえない」
「見張りがいればな」


クロコダイルは太い葉巻を口からは外し、静かに煙を吐き出す。
サボはロビンとクロコダイルを、交互に見つめた。


「どういう……」


そのとき、ロビンの胸元で電話が鳴った。
思わず立ち上がったサボには目もくれず、ロビンは落ち着いた手つきで携帯電話を取り出し、耳に当てた。


「イゾウか?」


サボの問いには誰も答えない。
ロビンは、えぇ、えぇ、わかった、と短く答え、すぐに電話を切った。
クロコダイルはそもそも興味なさ気に煙を量産している。


「黒ひげのアジトを、燃やしたそうよ」
「燃や……アンは!?」
「ゴール・D・アンがいるところとは別の建物ね。むしろ燃やした方が本地と言ってもいいかもしれない。あの人たちは、彼女のところに乗り込む前に、証拠隠滅を図ったようね」


ロビンの声はひたすら淡々としていたが、珍しく長く喋る顔はどこか生き生きとしたふうにも見えた。


「それで、アンとルフィは」
「モンキー・D・ルフィたちはなじみの酒屋によって、大量のアルコールを持っていった。それを黒ひげのアジトに撒いて、火をつけた」


恐ろしい人、とロビンは感情のこもらない声で呟いた。
サボは呆気にとられ、しばらく口をあけたままロビンを見上げていた。


「……滅茶苦茶だ」
「まったくね」


それでも、なんてルフィらしい。
弟の破天荒ぶりに口角を上げかけて、それでもすぐにアンのことを思い出す。
アンは、どうなった?


「ゴール・D・アンは逃げただろうって。彼らもよくわかっていないみたいだったけれど」
「情報の詰まった本拠地を燃やされたんだ、奴らも相当焦っただろう。逃げていてもおかしくねェな」


ぱらっと葉巻の灰が落ちる。
サボが立ち上がった。


「おれ、アンを探しに行く」


ロビンが慣れた口調で、サボをたしなめるように口を開いた。


「あなたはじっとしていなさいと」
「アンが逃げたならもう同じことだ。アンには足がない。おれが拾ってやる」
「あなたこそ足がないでしょう」


いや、と首を振る。


「おれたちの家まで乗せて行ってくれ。家にはおれのバイクがある」


ロビンはちらりと、上司の顔を覗き見た。
クロコダイルはどうでもいいと言いたげに、だるそうに手を振った。


「行きましょう」


ロビンが踵を返し、ドアへと歩き始める。
サボも勇み足で付いて行こうとしたが、思い正して、振り返った。


「ありがとう、いろいろ──」


クロコダイルは顔を向けず、返事もしなかった。
サボもすぐに背を向けて、ロビンの後を追った。
ちらりと柱時計を見ると、時刻は朝の6時を回っていた。








マルコが大通りの歩道へと飛び出すのと、サイレンを鳴らした車が大きなカーブを描いて大通りに侵入してくるのとは、ほとんど同時だった。
運転席のサッチがマルコに気付き、強引に路側帯に停車する。
マルコが素早く乗り込んだ。


サッチは車道をろくに確認もせず、すぐさま車を車線に移して走り出した。
助手席のマルコは上がった息を整えながら、ネクタイを乱暴に取り去った。
それで?と促しながら、サッチはサイレンをいったん切る。


「黒ひげのアジトだ、D地区にある」
「乗り込む気か? アンちゃんはそこにいんのか」


アンが脱獄した知らせは、マルコがサッチに電話をして二人が合流するまでの間に、サッチの耳にも入ったようだった。
マルコは答えず、シャツのボタンをいくつか外して額の汗をぬぐう。


「オヤジは知ってんのか」
「さあ」


サッチは運転席から横目を走らせて、唇を尖らせた。


「反抗期?」
「だまれ」


マルコがサッチを睨んだそのとき、視界の端で対向車線を猛スピードの車が北に向かって駆け抜けていった。
そしてそのすぐ後、別の黒い車が同じくスピードを出してサッチの車とすれ違う。


「速度違反だ。ジョズー」


サッチが呑気に交通課の同僚の名を呼ぶ。
しかしマルコは助手席の窓を開け、身を乗り出すように後ろを振り返った。
異変に気付いたサッチが、速度を緩める。


「止めろ!」


アンだ、とマルコが低く呟く。
しかしサッチはブレーキを浅く踏んだまま、止まることはしなかった。


「追やぁいいんだろ」


サッチが大きくハンドルを切る。
車が中央分離帯代わりの小さなブロックに乗り上げた。


「はいはいすまんよー!」


誰にともなく断りを入れて、サッチは強引に対向車線に車を押し入れ、北に頭を向けて走り出した。
指先でボタンを弾き、腹のあたりに響くような大音量でサイレンが鳴る。
穏やかでないその音に慄いたように、前を走る車たちが端に寄った。
すると前方遠くに、小さくなっていく車の背中が見える。
サッチがスピードを上げた。


「追ってどうするつもりだ」
「一台目の前に割り込め。二台目はおそらく黒ひげだ」
「一台目がアンちゃんってわけね」


サッチが前傾姿勢で、アクセルを踏み込んだ。
前を走る二台の車も、サイレンに気付いてかスピードを上げる。
しかし猛スピードの二台の前には、まだのんびりと走る車が数台いるのだろう、思うように進められていない。
ものの数秒で、サッチが距離を詰めた。


「撃つか?」
「持ってきてたのかよい」


気持ち悪いほどの準備のよさにマルコが鼻に皺を寄せる。
いや、とサッチが呟いた。


「おれのじゃねェよ。テメェのだ」
「おれの?」


ほらよ、とおもむろにサッチが腰から引き抜き、差し出してきた拳銃は、確かにマルコの型番が刻まれていた。


「ネタバレすっと、オヤジが電話寄越したんだ。持ってってやれってな」


──オヤジ。
いつでもまるですぐそこで見ているように、口角を上げ白い歯を見せて、笑っている。
ここにはいない父と呼ぶ男の姿を思い描いて、目がくらむような感覚を一瞬覚えた。


「構えろ」


サッチの車が、二台の車が走る車線から右車線に移動した。
斜め後ろからマルコは窓の外に身を乗り出し、2台目の車に銃口を向ける。
同じように、後部座席から身を乗り出してマルコの車に銃を向ける男と目があった。
マルコの方が速かった。
2発の銃声が響く。
両方マルコのものだ。
一発目は後部座席の窓ガラスを、二発目は前車輪をあやまたず打ち抜いた。
空気が空に向かって勢いよく抜ける音ともに、2台目がバランスを崩して中央分離帯のブロックにぶつかった。
その車を追い抜きながら、マルコはもう一発をフロントガラスに打ち込む。
1台目の車は背後の喧騒に混乱したのか、スピードは出ているもののふらふらと運転がおぼつかない。
あっというまにサッチが抜き去り、まるで行き止まりを作るように車体で1台目の進路を塞いだ。
フロントガラス越しに、目を見開いたアンの顔が見える。
急ブレーキにタイヤと地面が悲鳴を上げ、火花が散り、アンの車はサッチの車に半ばぶつかりながらも急停止した。


「行け!」


サッチが叫ぶ。
助手席から飛び降りると、コンクリートの地面に照り返した日差しが眼球を焼いた。
霞む視界の中、運転席でアンが哀れなほど狼狽した顔をしているのが見える。
サッチがすぐさま車を発進させた。

マルコは、アンが座る運転席側のドアに手をかけた。







「どけっ!!」


急に前方を塞いだ車から飛び出してきたのは、マルコだった。
ブレーキを踏みしめた右足が、まだジンジンしている。
何が起きたのかまだわからないアンの前に、突然マルコは現れ、アンが座る側のドアを開け、こう叫んだのだ。


「あ、」


アンの口から頼りない一音が零れる。
その瞬間、ふわっと体が浮き上がり、助手席側に体が飛んだ。
マルコが持ち上げ投げたのだと分かったときには、助手席のドアにしたたかに身体をぶつけていた。
脚も車内のそこらじゅう滅茶苦茶にぶつかり、アンは四肢を投げ出した不恰好なようすで尻だけが助手席のシートに着地する。
左肩に鮮烈な痛みが走り、顔をしかめたそのとき、車はもう走り出していた。
数メートル進んで、思い出したようにマルコが運転席側のドアを閉める。


「マル、コ」


マルコは汗をかいていた。
この男がこんなふうに汗を流しているところを、アンはほとんど見たことがない。
ただ一度、薄暗いマルコの部屋。あのときだけだ。

マルコはアンに目もくれず、手早くハンドルを切って大通りから横道に入った。
車の幅とほとんど同じくらいの細い路地を、マルコは迷うことなく大通りと同じスピードで駆け抜けてゆく。
時折ゴミ袋などをひき潰す鈍い音が足元から伝わる。


「どこに行くつもりだったんだよい」


マルコが問う。
アンは足を折りたたみながら、シートに座り直した。
湿った黒い壁が一瞬で目の前に迫って来ては、すぐさま遠ざかる。
頭の中が真っ白で、ただただすごいスピードで流れていく車窓の景色と、隣でハンドルを操るマルコの姿だけがくりぬかれたように、視界に映っていた。


「サボと、ルフィを」
「どこにいるかわかってんのかい」


わからない、と言いかけたアンは急ブレーキで舌を噛んだ。
驚いて前を見据えると、対面から猛スピードで車が直進してくる。
思わず叫んだ。


「マルコ!!」


無骨な手がギアをわしづかみ、マルコの車は前進していたときと同じスピードで後退する。
エンジンが焦げ付くような油臭さが鼻についた。
アンは思わずシートのヘッドレストにしがみつく。
身体をねじって背後を見るマルコが、小さく舌を打った。
唐突に、前方ですさまじい破裂音が響いた。
すぐさま振り向くと、フロントガラスに蜘蛛の巣のようなひびが入っている。
マルコがもう一度舌を打つ。


「掴まれ!」


マルコの声に、身体が無条件で従う。
アンは両腕で抱えるようにヘッドレフトにしがみついた。
車は急ブレーキをかけ、勢いよく前に向かって進んだかと思えばすぐに右折した。
身体が遠心力で外側に大きく振られる。
マルコの方へ飛ばされそうになるが、力の入る右腕だけでアンは必死にシートにしがみついた。
マルコの車が右に折れてすぐ、追っ手の車も同じ路地に侵入したのが見えた。


「追ってくる……!」
「そりゃそうだろい」
「ど、どこに向かってんの」
「サッチが上に連絡を入れる。そしたら街全体に厳戒態勢が敷かれる。それまで逃げるよい」


マルコは何度も、追っ手を振り払うように右折左折を繰り返した。
アンには今どこを走っているのかさっぱりわからない。


「逃げ……マルコは、なんで、逃げる必要ない!」
「アン」

マルコはバックミラーで背後を確認するそぶりをした。


「後ろ見ろ。いるかよい」


アンは振り返って背後を確認したが、追っ手の車は同じ路地にはいなかった。


「い、いない」
「一旦大通りに出るよい」


そう言って、マルコはすいすいと細い路地を進んであっという間に大通りへと車を出した。
さいわいひびの入ったフロントガラスはアンの面前で、マルコの視界は開けている。
南北に走る大通りを、マルコは南へと車を走らせた。
どこへ向かっているという様子もなかったが、マルコの運転には迷いがない。
先程大通りで発生した騒ぎのせいか、大通りには車が多かった。
マルコは何度か車線変更を繰り返しながら、南へと下っていく。

どこに行くの、と何度も聞きそうになった。
口を開くと泣き言が零れそうだった。
マルコが来てくれた。
今になってやっと実感した。一人じゃない実感。


「おい」


マルコが前を向いたまま、顎を指し示すように動かした。
その方向に顔を向けると、対向車線を走る小さな影がある。


「サボ!」


バイクにまたがるサボは、マルコが示したライトの点滅に気付き、道の端に停まった。
マルコはちょうど交差点に差し掛かったところで強引にUターンして、サボのすぐ横に車を付けた。
アンはドアを引っ掻くようにして開け、外に飛び出す。


「サ、サボ!」
「アン!無事か、怪我は!」


バイクから降り、サボはアンの両腕を掴んで頭のてっぺんからつま先まで点検するように、アンを見回した。


「平気、サボは?」
「おれも平気だ。ルフィには会ったか?」


アンが首を振ると、サボが大丈夫だとでも言うように頷いた。


「ルフィはイゾウが一緒だ。多分、無事だ」
「イゾウ?」


アンの声に、マルコの声が重なる。
ドア越しにサボとマルコが視線を交わし、サボが頷いた。


「協力してくれたんだ。ルフィを運んでくれた」
「なんで……」


おい、とマルコの声が遮った。


「お前、どこへ行くつもりだったんだよい」
「ルフィを迎えに行くつもりだ」
「じきに街中に検問が張られる。そうすりゃ自由に動けなくなる。なんでか知らねェがイゾウが一緒なら心配ねェよい。テメェは警察庁へ行け。保護してもらえる」


口を開いたサボを、アンの言葉が遮る。


「行って、サボ。ルフィもあたしも、大丈夫だから」
「ア、アンはどうするんだ」
「マルコがいるから」


不思議なほど、自然に口が動いた。
サボが言葉に詰まり、少し傷ついた顔をする。
アンはサボの手を握り、大丈夫、と言った。


「早く帰るから」


サボの返事を聞かず、アンは車に乗り込んだ。
ドアを閉めると、窓の向こうでサボがヘルメットをかぶっているのが見える。
なにに対してかわからないまま、ふたりは視線を交わして小さく頷いた。
サボがエンジンをふかし、北へと走り出した。
北に頭を向けていたマルコの車はサボを追いかけて少し走り、次の交差点で南方向にUターンする。
車とバイク、二つの車体が反対方向に走り始めて数秒後、アンの背後から一切合財の建物が崩れ落ちたような爆発音が響いて、地面が揺れた。


振り返り、声にならない悲鳴を上げる。
喉と喉がはりついて、声が出なかった。

50mほど背後、ついさっき別れたばかりの小さな車体が、ちょうど地面にぶつかって、バウンドした。
そのすぐそばに、倒れる影がある。
ガシャガシャと複雑な音を立てて、バイクが横倒しのまま地面を滑走する。
黒くて細長い煙が、逃げるように上空へと伸びていく。


──サボ。


息を呑み、自分たちだけ時間が止まったかのように、アンとマルコは振り返って立ち上る煙を見つめた。
しかし、すぐさま前に向き直ったマルコは車を停めなかった。
ドアに手をかけていたアンは、愕然として運転席を振り返る。


「と、止めて!!」


車は走り続ける。
マルコは深く眉間に皺を寄せて、アンを見ようとしなかった。
言葉にならない。
焦りと、怒りと、膨大な不安がむくむくとかさを増して心を埋め尽くした。


「止めてってば!!」


アンはマルコの掴むハンドルに飛びついて、無理やり足をねじ込んでマルコの足ごとブレーキを踏んだ。
車体が大きくぐらつき、轟音を立てて歩道に乗り上げ停車する。
歩道を歩く数人が、悲鳴を上げて車を避けた。

ぐ、とマルコが呻き声を洩らしたかと思ったら、次の瞬間、シートに叩きつけられるように抑え込まれた。


「ティーチが!!」


ブレーキを踏んだまま、アンをシートに押さえつけたマルコが叫ぶ。
首筋から汗が流れていた。


「お前を探している、バイクに爆弾でもしこまれてたんだろうよい、罠だ、お前を、引っ張り出すための」
「はっ、離し……」


もがいても、不自由な左肩と女の力ではマルコはピクリともしなかった。
悔しさと、憤りで涙があふれる。

サボ、サボ。


「ここでお前が出ていきゃ相手の思うつぼだ、ましてや今お前が駆け寄ってあいつに何ができる」


お前は逃げなきゃならねェ。
鼻と鼻が触れあいそうな距離で、マルコが言った。

薄い唇を、血が出る程噛み締める。
もう逃げるのはいやだ。

マルコの腕の力が弱まった瞬間、その手を払いのけてドアに手をかけた。
マルコの怒号が背中にぶつかる。
転げ落ちるように車から降りた。
コンクリートを掴み、地面を蹴って煙の方へと走り出す。
人だかりができていた。
通りがかった一般人が、血相を変えて倒れる人影を覗き込んでいる。
救急車、警察を、と人々が切迫した声でどこかに叫ぶ。
アンは人を薙ぎ払いながら人ごみの中を泳いだ。


「サボ、サボッ!!」


人をかき分けていくと、足元に転がる身体が目に入った。
長身がまっすぐ足を伸ばして横たわっている。
頬に大きな擦り傷を付けてサボは目を閉じていた。


「サ……」


甲高い悲鳴が人ごみの中からあがる。
大きな手に薙ぎ払われた野次馬が、サボのわきに倒れる。
アンが振り向くより早く、強い力が首根をわしづかんだ。
生臭く、淀んだ息が後ろから肩のあたりを滑り降りていく。
同時に、頬にねじ込まれるように硬く冷たい感触があった。


「アン。お前だけは許さねェ」
「ティーチッ……!」


無理やり首を回して背後を睨むと、すぐ近くに脂ぎったティーチの目がアンを見つめていた。
地面から引きはがすようにアンを引っ張り上げ、その頬に銃口をめり込ませたままティーチは歩き出した。
物騒な男の登場に初めは呆気にとられていた野次馬が、誰かの叫びをきっかけに騒然として逃げ惑う。
ティーチはそれらには目もくれず、道の脇に止めてある車までアンを引きずろうとしているようだった。
足をばたつかせコンクリートを必死で蹴ると、アンの抵抗をあざ笑うかのように右足の靴が脱げた。


横たわるサボだけがただ静かに、目を閉じていた。
黒い液体が、サボの背中から染み出ている。


「アン!」


顔を上げると、さらに強く頬に銃口が押し込まれる。
口が上手く動かない、情けない顔のままマルコを見上げた。


「マルコか」


ティーチが笑ったのが、手の揺れから伝わった。
マルコは銃を構えていた。
遠目に見えたマルコの瞳はいつもの通り青かったが、ただひたすら後悔の色が滲んでいるのがアンにも見てとれた。
見たこともない、追い詰められた顔。


「テメェひとりでどうするつもりだ。あぁ?」


高らかな笑い声が、騒然とした空間の中大きく響いた。


「ひとりじゃなかろうが」


ティーチの背中から、低く、それでも足の裏から沁み込むような声がアンにも届いた。
久しく聴いていない、それでも確かに知っている声だった。
ティーチが振り向く。
笑ったときと同じように、ティーチの動揺はアンの手に取るように伝わる。
じいちゃん、と上手く動かない口がくぐもった声を出した。

唐突にガチャガチャとした金属音がどこからともなく響きはじめ、首が回らないアンの前にも防護服を着て銀色の盾を構えた警備隊が現れる。
ティーチとアンをぐるりと囲み、それらはきっちりと隙間なく並んだ。


「アンを離せ。お前はもう終わりじゃティーチ」
「ガープ……テメェどこからきやがった」
「ずっとお前を追っていた。お前の手下も、ほどなく捕まる」


アンにはティーチの巨体が邪魔で、その姿は見えなかった。
それでも確かにガープと言った。
それに間違いない、低くてしわがれた声。
アンの視界には、銀色の盾と、マルコの姿しか見えなかった。
マルコも、細い目を見開いてティーチのさらに向こうにいる人物を見ていた。
ガープとティーチの会話だけが、ティーチの肩越しに聞こえる。


「ロートルが。とっくに引退したんじゃなかったのかよ」
「言ったろうが。ずっとお前を追ってたんじゃ。お前のねぐらは全部しらみつぶしに漁らせてもらうぞ。もう捜査員が入ってるがな」


ふんっとティーチが鼻息を吐きだす。
急に首を掴みあげられて、振り子のように足が大きく振れた。
ガープの姿が目に映る。
じいちゃん、と口が動くが、声が出ない。
ガープの顔に深く刻まれた皺は険しく、アンごとティーチを睨み殺すようだった。


「おれは死なねェ。こいつがいる限り、お前はおれを撃てねェ!」


ざらざらした笑い声が耳を突き抜ける。
あぁ、安っぽいサスペンスみたいだと、アンは他人事のように感じる。


「ガープ。おれがこいつを殺して、お前がおれを捕まえるのと、おれがこいつを解放して、お前はおれを逃がすのと、どっちがいい?」
「お前に退路はない、ティーチ」
「バカ言え」


ティーチが鼻で笑う。
自信に満ちた声だった。
その声が表す通り、アンから見てもガープの顔は引き攣り、青ざめていた。


「どうするガープ。おれを逃がすか。そうしてェだろうなぁ」


アンの首根を掴む指が締まる。
足が地面から浮き、つま先がコンクリートをかする。


「だがそれはナシだ。逃げるのはやめた。おれはここでアンを殺す」


耳の上に銃口が突き付けられた。
火薬のにおいが鼻につく。
視界に映るガープの姿が急に遠ざかるように、見えなくなった。
泣いているのだと気付いて、急に周りが静かになった。
死ぬんだな、と思った。

最期の景色が、血相変えたじいちゃんの顔なんて最悪だ。




急に、ティーチの身体ががくんと前につんのめり、銃口が頭から外れた。
硬い感触が消えた瞬間、アンはほとんど反射で手足をばたつかせる。
銃声が響く。
ティーチが断末魔の叫びをあげ、ますます身体を傾かせた。
身をよじると、ティーチの手が首から離れ、アンは地面に落ちて転がった。
ほとんど同時に、隣に何かが落ちる。
人だった。あと、なぜかそのすぐそばにニンジンがひとつ転がっている。
白くて細い指が、一丁の拳銃を掴んでいる。その手に拳銃はとてつもなく不似合いだった。
そして、見知ったオレンジ色のバンダナ。
アンは口をわななかせながら叫ぶ。


「──マキノ!!」


ぐふっと生き物が潰れた音がすぐそばから聞こえた。
ガープがティーチの上に馬乗りになり、押さえつけている。
ガープに殴られたのだろう、ティーチは顔から、そして足からも血を流していた。
素早く別の警官が走り寄り、ティーチの両手両足に鉄枷をはめ、さらにはさるぐつわまで噛ませた。
そのすべてが一瞬の出来事だった。
ティーチは憤怒の形相でガープを、そしていつのまにかそばにいたマルコを睨んでいる。


マキノは抱きしめるように胸に抱えていた拳銃を、驚いた顔でおぞましいものを振り払うように地面に落とした。


「アン、アン」


マキノの顔は青ざめ、深緑の瞳は涙の膜を張っていた。
細い指がアンの手を掴む。
マキノの手は、血が通っていないように冷たい。
ぶるぶると音が聞こえる程震えている。
アン、アン、とひたすら名前を呼ぶ唇は不健康な紫色に染まっていた。

頭の中がぐちゃぐちゃで、未だ死の縁に立たされているかのように心臓がバクバクと音を立てている。
マキノが滑り落とした拳銃が目に入った。

途端に、記憶と感情がごちゃ混ぜになって洪水のようにあふれ出した。
頭が壊れてしまう程痛む。
ティーチの汚い笑い声と、サボやルフィの笑い声が重なって響く。

アンの手がしなるように動き、拳銃を掴んだ。
膝立ちになり、取り押さえられたティーチに銃口を向けた。

洪水のように溢れた記憶と感情が過ぎ去ると、残ったのはただただどす黒い怒りだった。



「アン!」


何人もの怒声が聞こえたが、ひと際高い声がアンの手を止めた。
その瞬間に腕を引かれ、振り向きざまに平手が容赦なくアンの頬を打った。
指の間を拳銃が滑り落ち、無機質な音をたてて地面にぶつかる。
息を切らし、マキノはアンを睨む。


「バカなことはやめなさい」


感情を押し殺し、震えを必死で我慢している声だった。
マキノはアンの膝の横に落ちた拳銃を薙ぎ払うように遠くへ滑らせる。
腕を引かれ、アンはマキノの身体に倒れ掛かった。


「もう大丈夫よ」


マキノの身体は細く、しかも震えていて、これ以上ない程頼りなく、間違いなく自分より弱いのに、アンは咄嗟にすがるように目の前の身体を抱きしめた。
どうしよう、どうしよう、と弱弱しい声が口から零れ落ちる。
全身が大きく震えていた。

助けて、と口を突きかけた言葉が、唇の上で足を止めた。
誰にたすけてと言えばいいのか、わからなかった。
今まで誰にも、願ったり祈ったりしたことがないのだ。
マキノの肩越しに視線を走らせた。
集まる人だかりの中に知った人は何人いるだろう。
あのひとも、あのひとも、あのひとも違う。

願いも祈りも行き先がなかった。

マキノの震える手が、おぼつかないままアンの背中を撫でる。
喉が引くついた。
膝が笑い、身体が揺れる。
サボが横たわっていた場所に、もうその姿はなかった。
ただ黒い染みのようなものが不吉に広がっている。

おねがい連れて行かないで。

額をマキノの肩にこすり付け、音にもならない声で叫ぶ。


──父さん母さん、サボを助けて。


拍手[15回]

そのとき電話が鳴った。

突然響いた電子音に、サボの耳は臆病な小動物のように小さく動き、音源の方へ素早く首を振った。
クロコダイルが緩慢な仕草で携帯電話を取り出し、耳に当てた。
相手はロビンだろう。
課された仕事が完了したとの報告を受けているようだった。
クロコダイルは「御苦労」などとねぎらいの言葉一つなく、電話を切る。
その一つ一つの動作がいちいち面倒だとでも言いたげな顔をしている。
自分を見ているサボの視線に気付くが、すぐに鬱陶しそうに視線を外して葉巻に火をつけた。
彼の手元にある灰皿にも、その周りのテーブルの上にも、無残に散らばる灰が細かく積もっている。
クロコダイルは一息煙を吸い込んでから、吐き出すついでのように口を開いた。


「ゴール・D・アンが脱獄した」


脱獄、とオウム返しに呟いてから、サボはひゅっと息を呑んだ。


「黒ひげの手引きだ。先を越された。まぁ当然っちゃ当然だが」
「アンは今どこにいるんだ!?」


思わず声高になったサボに、クロコダイルは今度こそ口に出して「うるせぇな」と顔をしかめ言った。


「んなことオレの知ったことか。おおかた黒ひげのねぐらだろうよ」
「でもあそこは」
「黒ひげのアジトなんざこの街にゃアリの巣みてぇに散在してんだ、あいつらが場所に困るこたぁねぇ」
「どうにか場所を突き止めて……」


クロコダイルは何も言わなかったが、その目は一言「アホか」と伝えていた。
爬虫類じみた細い目の光に、サボは押し黙る。


「テメェにはテメェの領分がある。焦れて勝手に燃え尽きてりゃ世話ねェぞ」


ぞんざいなクロコダイルの言葉が、そのときばかりはほんの少しサボの肩を持っているような気がして、そうだオレは落ち着かなければと思い出すことができた。
顔を上げて大きく息を吐く。
黒光りする革のソファ、艶のある洋風の木製デスクが目に入る。
クロコダイルの弁護士事務室の中は硬質な雰囲気をまとって、冷え冷えとしていた。
ここに来て、もうすぐ一日経とうとしている。




ロビンに急かされるまま荷物をまとめて、サボとルフィは誰とも知れない男女二人の車に乗り込んで、ここまで連れてこられた。
クロコダイルの、ロビンの言葉をあまりに簡単に信じてしまったのは浅はかだったかもしれない。
アンの思いの静謐な強さに触れて、気が動転していたからかもしれない。
それでも、もうサボにも、きっとルフィにも、このときばかりは彼らを信じる以外ほかはなかった。
信じるべき確固たる枢軸であるアンがいない今、ほんの少しでも針が触れた方向へ進むしかないのだ。
たとえそれが間違っていても、そこからの軌道修正を自力でする覚悟をもって、サボは小さなメッセンジャーバッグを背負った。
「大事なものだけを持って」というロビンの言葉に従おうと、サボは性急に何を詰めるべきかと考えたが、思いつくものは何一つとしてなかった。
ルフィも全く同じな様子で、急いで二階に駆け上って各々のカバンをひっつかんだ後、一瞬の静寂が広がったのだ。

「何をもってけばいいんだ?」と問いかけるルフィに、サボは上手く言葉を返すことができなかった。
衣服などとるにたらない、食料をいま持っていく必要性も感じない、じゃあ金か?
そんなもの、と吐き捨てる自分がいた。

結局自分たちにとって、こんな小さなカバンに詰め込むことのできる大切なものなどたかが知れているのだ。
ルフィには「何かあったとき、力が出せるもんでも入れておけ」と応えると、ルフィはすぐさま台所へと駆け出していった。
サボはそっと寝室へと向かうと、クローゼットの中、分厚い毛布の下に隠すようにしまいこまれた一枚の写真を引っ張り出した。
そこにあるのは誰もが知っていた。
それでも触れることがあまりに痛くて、取り出してみることのできなかった一枚だ。
もしそれを、3人のうちの誰かが抱きしめた皺や涙の痕などが残っていたら平気でいられるわけがなかったからだ。

オレンジ色の空、濡れた髪を頬に貼りつかせた小さな3人、潮風に髪をなびかせる母と、彼女の肩を抱く父。
足元にはどこまでも黄色い砂が敷き詰められている。
今となっては誰に撮ってもらったのか思い出せない。ロジャーが道行く誰かに声をかけて頼んだのかもしれない。
今手元にある唯一の家族写真だった。

このときに行った海をサボは覚えていない。
アンとルフィは覚えているだろうか。
歯を見せて笑う家族の写真を目に焼き付けるように眺めてから、サボはそれをカバンの中に滑り込ませた。

そして、ロビンは「戻ってこれるかどうかわからない」と不穏なことを言ったが、いつ戻っても入れるように家の鍵を、そしてそれこそもしものために、バイクのキーをカバンに入れた。

ルフィは案の定、冷蔵庫の中の肉類を目一杯詰め込んだらしいリュックを背負っていた。
そのルフィも、今はサボとは別行動だ。
全ての計画は、ロビンの口から聞かされた。
闇の中白い手がぼんやりと浮かび上がり、ハンドルを握っていた。
助手席にはクロコダイルがどっしりと背中を座席に預けている。
ひとまずクロコダイルの事務所へと向かうと言ったその道中、ロビンは取扱説明書さながらの要領のよさで今後の計画を二人に話して聞かせた。


『おそらくあと数時間で、黒ひげもゴール・D・アン逮捕の知らせを受け取ることになる。そうすれば彼らも自身の駒の救出に向かうでしょうし、あなたたちの捜索も始まる。そうなる前に、あなたたちには自分で動いてもらうわ。
 モンキー・D・ルフィ、あなたは私と一緒に黒ひげの事務所へ。おそらくそこにはあなたたち3人にまつわる情報が収められてる。ゴール・D・アンが望むものを優先するなら、まずはそれを黒ひげの手元から奪わなければいけない。少なくとも、あなたたち二人の情報が黒ひげの手にあったという証拠を』
『どうやって?』


ルフィが短く問うた。
ロビンは答えなかった。
やり方はいくらでもあるという裏返しのように、サボには思えた。


『あなたたちの情報を奪い返すと同時に、黒ひげとゴール・D・アンのかかわりを示す証拠も手に入れられるはず。そしたらサボ、あなたはそれを持って警察に行くのよ』
『……随分正攻法なんだな』
『弁護士ですもの』


ロビンは手早く、アンが拘留されている拘置所の名を告げた。


『彼女が黒ひげとのかかわりを自ら口にしてくれさえすれば、すべては丸く収まるのよ。警察はとっくに黒ひげの存在に気付いてて、彼女からさっさと言質を取ってしまおうと意気込んでる』


しかしそうしないのは、ほかでもないサボとルフィのためだ。


『彼女がそれをしないと知って、黒ひげはタカをくくっているのだから、あなたたちが警察に直接証拠を突きつけてしまえば彼らに手はないわ』
『そんなに上手くいくか?』


思わず自信のない声がこぼれたが、そのことにサボ自身気が付かなかった。
警察はそもそもアンが黒ひげの仲間であると疑ったりしないだろうか。
ルージュの髪飾りを求めて、人の邸宅に忍び込んだのは事実だ。
その罪を問われたら言い訳は効かないし、アン自身反駁を口にするつもりはないだろう。


『やってみなければわからないわ』


ロビンはいっそ無慈悲なほど、臆面もなくそう言った。


『サーと彼女の契約は、あなたたちを黒ひげから逃がすこと。彼女を救うことはもともと契約にはないの。だからこれはあなたたちが勝手にすることよ。私たちが手を貸すことはない。危ないと思うならやめればいいわ』


やめねーぞおれは! とルフィがすぐさま大きな声を出した。
狭い車内にわあんと響く。
そう、とロビンは短く答えた。
クロコダイルは岩のように固まったまま、前を見つめてなにも言わない。

サボはふと思いついて、言った。


『オレもルフィと一緒に黒ひげの事務所に行ったらいけないのか?』


けして平穏なことになるとは思えないその場に、ルフィだけ送り込むわけにはいかないし、じっとそれを待っているのも苦痛だ。
しかしロビンは『あなたはいけない』とすぐさま答えた。


『あなたふたりに何かあったのでは、彼女との契約に反するわ』
『ル、ルフィ一人ならいいって言うのか!』
『彼にはたとえ何かあっても、死にさえしなければ後ろ盾があるから』


後ろ盾、とロビンが要ったその意味をすぐには理解できなかった。
ルフィも同じようで、首をかしげている。
ロビンは理解の遅いふたりを置いて、話を進めた。


『サボ、あなたには揚げ足を取られる要素が多すぎる。だから彼が行くのよ』


そこまで言われてハッとした。
ルフィには、絶大な権力を持つ直系の祖父がいる。
一方サボは身元の知れない孤児からの成り上がりだ。
ふたりの背景にえげつないほどの差があることを思い出し、そしてサボは黙って下唇を噛んだ。


『わかった』


低く抑えた声で頷くサボに、ルフィが任せろと芯の通った声で答える。
いつのまにかロビンが転がす車は、街のずっと西の果てまでやってきていた。





暗がりの中でぼうっと浮かび上がる灰色の建物は、まるで要塞のようだとサボは思った。
鉄格子の様な門が自動で上がって口を開けるのを、フロントガラス越しに眺める。
ルフィが素直に「おぉー」と感嘆の声を洩らした。
そこはクロコダイルの仕事場、つまりは弁護士事務所だと紹介されたが、どう見てもその風采は事務所とは趣を異しているようにしか思えなかった。
第一印象そのままに要塞か、はたまた城のようにしか見えない。

ロビンは自分以外の3人を車から降ろすと、敷地内の一角に無造作に車を停めて自分も降りてきた。
クロコダイルはあくまで自主的に動くそぶりは見せず、すぱすぱと葉巻を吸っては煙を吐き出している。


『こっちよ』


彼女がサボとルフィを目で促し、クロコダイルと肩を並べて歩き出した。
建物の中も見た目同様薄暗く殺風景だったが、陰湿なわけではなくただ物がない、使用していないという印象が強かった。
ひとつの部屋に通されたが、そこは客間のようで机とソファが形式通りにおいてある。
クロコダイルは迷わず歩を進め、定位置らしい一番奥の一人掛けソファにどっしりと腰かけてひときわ深く煙を吐き出した。


『ソファに掛けて、これを見て』


彼女は机を挟んで奥側に二人を座らせ、どこからともなくいつのまにか手にしていた一枚の紙を机の上に広げた。


『今から私と、モンキー・D・ルフィ、あなたの行動を説明するわ』


よしよし、とルフィが身を乗り出す。
「説明」や「計画」の類になぞることがことのほか苦手な弟を、サボは思わずちらりと横目で見たが、幼いルフィの顔は極めて真剣だ。


『この説明が終わったら、少し眠って』
『あ? 寝るのか?』
『もう夜が明ける。明るい時ならあっちも動きにくいでしょうけど、こっちが見つかりやすいのも同じ。起きたらすぐにあなたを黒ひげの事務所まで連れて行く。あなたは車を降りて、通常通り入口から中へ入りなさい。きっと黒ひげの仲間、もしくは手下がそこにいるわ』
『ティーチ自身はいないのか』
『いるかもしれないし、いないかもしれない。けれども私たちはいない可能性の方が高いと踏んでいる。なぜならこの事務所が一番彼と世間が強く結びついている場所だから』


なるほど、とサボは頷く。


『それに彼らは今ゴール・D・アンをなんとか手元に引き戻そうと躍起になっているはず。ティーチが最前線で動いていると考えてもおかしくないわ。ともかくルフィ、あなたは事務所に乗り込んでこの形のアタッシュケースをもちだしてくるのよ』


そう言ってロビンは二人の目の前にカタログ写真のような、アタッシュケースの写真を示した。
まるで何の変哲もない、普通の黒いケースだ。
ルフィがその写真を手に取り、目の前にかざして「わっかりにくいなぁ」と呟く。


『今まで黒ひげとエースにまつわる仕事をした時に、彼らはいつもこのケースを持ち歩いてはそこから書類を引っ張り出していた。おそらくこのケースの中に、エース関連の書類が詰まっていると見てまず間違いないわ』


サボは頷く代わりに写真に目を落とした。
クロコダイルとロビンもエースの仕事に噛んでいたのか。
この二人はいったいどこまで「こちら側」なのだろうと思わず疑心暗鬼になる。
ロビンはそんなサボを知ってか知らずか、サボと視線を合わすことなく言葉を続ける。


『私は同じ場所に車をつけて待っているから、ケースを奪ったらすぐに戻ってきてちょうだい。ひょっとすると……いえきっと、黒ひげの手先が不審な私の車に気付いて追いかけまわすことになると思うわ。私は逃げ切れるけど、あなたは、私がいなければ走って逃げるのよ』


あまりに簡単に言うので、ルフィは「おう」とすぐさま答え、サボも頷きかけた。
すんでのところで思いとどまる。


『ちょ、ちょっと待て、それじゃルフィが危ないだろう、あんまりだ』
『危ない橋を渡ることに決めたのはあなたたちじゃない』


ノックのようにすぐさま返された静かな声に、喉元が詰まった。
それでも、と咄嗟に反駁を上げる。


『ケースをどうやって奪うのかだって、何も方法がないわけだろう? 黒ひげの手先が何人いるか分からないのに、全部ルフィにやらせるわけにはいかない。やっぱりおれも行く』
『同じことを二度も言わせないで頂戴。あなたが戻ってこられなければ、ゴール・D・アンも戻ってこられないのよ』


紺色の大きな瞳から注がれる視線は鋭かったが、サボは負けじと目の前の女を睨み返した。
静かに睨み合うふたりの不穏さを断つように、ルフィがのんきな声を上げた。


『そんじゃあ誰かほかの奴に手伝ってもらおう』


サボとロビンは同時にルフィへ視線をスライドさせた。
ルフィの顔はどこまでも真剣だが、当人以外のふたりは思わずと言った様子で目を丸めた。
サボが慌てて言葉を紡ぐ。


『ほかの奴って、ルフィ遊びじゃないんだぞ』
『そんなことおれにだってわかってるぞ』


ルフィが苛立ったように声を尖らせる。


『アテがあるわけじゃねェけどよ、サボがダメならほかの奴におれを手伝ってもらえばいいじゃねぇか。おれはひとりでやっちまう自信があるけどな! でも心強いことに変わりはねェ』
『でも、アテがないのでしょう』


ロビンが呆れたように言葉を添える。
もうこの話をさっさと切り上げて行動に移したいと考えているのが、整った表情の少しの隙から見て取れる。
まったく隙がないわけではないのだ、この女も。
そう思うと少しサボの心にも余裕ができた。


『それにこんなことに簡単に巻き込んでいいやつなんて家族のほかにいるわけがない。当たり前に危険だし、『エース』のことも詳しくは説明できない。理由は言えないけど手伝ってくれなんて言えないだろ』
『そうか?』


ルフィがきょとんとサボを見つめ返す。
その目があまりに純粋で、思わずたじろいだ。


『そうかってお前』
『じゃあオレの友達に頼もう。サンジとか、ゾロとか』
『だからそれこそ巻き込むわけにはいかないだろ! ああもういい加減そこから頭を離せ、オレがお前と一緒に行く、必ず成功して帰ってくる、それで問題はないだろ!』
『こういうのはどうかしら』


兄弟の間にすっとロビンの声が挟み込まれた。


『要はケースさえ奪ってしまえば、こちらの勝ち。あなたたち、自分の身に対してあまり執着がないようだし。問題は帰り、私があなたを拾うことができなかったときね』
『ルフィが一人で乗り込むのも十分無茶な問題だと思うけど』
『それはそれ、どうにかして頂戴。とにかく私がいなかったときの代わりを用意したらどうかしら』
『代わりの足、ってことか?』
『それなら詳しく内容を話す必要もない、危険には違いないけど……一緒に乗り込ませるより幾分ましでしょう』


こんな夜更けに車を出してくれるような奇特な知り合いがいればの話だけど、とロビンは少し目を伏せて言った。
彼女自身このアイデアに対して期待を持っていないようだった。
それもそうだ、無茶苦茶なのは何も変わっていない。
ただ、隣に座るルフィだけがしししっと歯の隙間から漏らすようないつもの笑い声をあげえた。


『おれ、いいやつ知ってる!』







ルフィの言葉を信じて終了したロビン、サボ、ルフィの会議は結局そのままに、ルフィはロビンに言われるがまま進んで眠った。
よくぞ眠れるものだとサボは思ったが、こういうときに眠れるルフィは強い。
サボは当然一睡もできなかった。
そしてその日の夕刻、アンが脱獄したとの連絡が入った。







ルフィはロビンと、計画通り出ていった。
そしてサボはひとり、安いネオンに照らされる路地に来ていた。
湿った気配のあるそこは陰気で快い場所ではけしてなかったが、サボにはもちろんそんなことを気にする心の隙間なんてものはなく、実際目的の場所に着いてしまえばそこだけはけして陰気な雰囲気ではなかった。

陰気なんかじゃないことを知っていた。

しかし時刻は夜の一時を回っている。
こんな時刻になってしまったのは、最後までサボがルフィの提案を飲み込めなかったからだ。
折れてしまえばもっと早く来るべきだったのにと都合の良い後悔をして、どうしようもない。

訪問時間にはどうもだいぶ非常識で、むしろ夜が明けるのを待つほうがよいように思えた。
それでもそんな常識はちらりと頭をよぎっただけで、巨大な怪物のように迫りくる不安と焦りでサボはほとんど迷わず階段を駆け下りた。


おねがいだまだいてくれ。

鉄の取っ手を強く引いた。
鍵がかかっている。

ああ、とどうしようもない疲労感が押し寄せると同時に、はなから無理に決まっていたんだという投げやりな気持ちが胸の中にひたひたと溜まっていった。
そもそもサボ自身の身になにかあってはアンを助けられないという理由から代わりを探しているのだ。
自分の身代わりを立てるようなことを平気でしようとしている。
おれはなんて最低な、


「くそっ…」


目の前に立ちはだかる重厚な木の扉に、思わず拳を叩きつけた。

ルフィはすでにロビンと行ってしまった。
ここが最後の頼みの綱だった。
この綱が切れてしまえば、もうどうしようもない。


無理に決まっていたというくせに結局は期待していたのだと実感して、悔しさに歯噛みした。

もう誰でもよかったのだ。
アンとルフィを助けてくれるのなら、誰でも。



サボの背後を酔っ払いの高笑いが通りすぎる。
世間は通常の時間が流れ、酒を飲めば酔っ払うし面白ければ笑う。
今もこの街の何処かでこの瞬間を幸せだと感じる人間がいることが、どうしても信じられなかった。


不意に、背後から強い光が浴びせられ、扉に自分の影が強く現れた。
驚いて振り返る。
二輪車の騒々しい起動音が鼓膜と、横隔膜かどこか、腹の辺りに響いた。

逆光の影の中、バイクにまたがる姿さえもやけに洗練されたその男は、自身の店の扉にしなだれかかる誰かを不審な顔を隠しもせず見つめていた。
眩しさに目をやられて、サボからその表情は見えない。


「お前……アンの弟ツーか」


店ならもう閉めちまったぜ、と細い指先に鍵を引っ掛けて、イゾウはちゃらりとそれを揺らす。


顔を合わせたのが二回目の男を前にして、サボは泣き出す前のように体の芯が深く震えるのを感じた。
もうひとつのこと以外考えられなかった。


「頼む……お願いだ!」


階段を駆け上がり、イゾウの襟元に飛びつくようにしてすがった。
切れ長の目が一瞬にして大きく見開かれる。


「んだ、どうした」
「弟たちを助けてくれ!!」


白い眉間にシワが刻まれた。


「あいつになんかあったのか。アンはどうした」
「お願いだ、何も聞かないでルフィを迎えに行ってやってくれ。そのバイクでいいんだ、ルフィを安全なところまで運んでやって欲しい。危険なことなんだ、追われるかもしれない、でももうあんたに頼るしかないんだ、無茶苦茶言ってるのはわかって」
「お、おいちょっと待て」


イゾウがキーをひねると、空気の抜ける音ともに騒々しい稼働音が夜の空気に溶けていった。
離せよ、とイゾウがサボの手を軽く払って襟元から離させた。
長い足がバイクを跨いで、長身が正面からサボと向かい合う。


「こんな遅ェ時間にガキが、なにごちゃごちゃ言ってんだ」


見上げたイゾウの顔には、気味悪いものを遠目に見る色が浮かんでいるようにサボには見えた。
ついさっき、扉の前でサボを侵食した暗い気持ちがまた流れ込み、もはや返事をすることもできなかった。
心の底から感じた、初めての絶望だった。



おれが行かなきゃ。


弱々しく突き上げてきたその気持ちに動かされ、イゾウの脇を通り過ぎようとサボの身体はふらりと動いた。


「ほらよ」


不意に横から腕に硬いものを押し付けられ、サボの身体がよろめいた。


フルフェイスのヘルメット。



「ぐちゃぐちゃ余分なこと言ってねぇで、どこに行けってのをまず言いな」


ひらりとバイクにまたがって、イゾウは急かすようにサボに顎を突き出す。
ヘルメットを受け取ったまま呆然と立ち尽くすサボに「被り方もわかんねェのか?」と苛立った声がかかって、慌ててヘルメットの穴に頭を突っ込んだ。

ライオンの咆哮のように、バイクの重低音が深夜の路地裏から爆発した。










そのとき電話が鳴った。
引き金にかけられていたティーチの指がほんの少し揺れ、アンの眉間に押し付けられていた力が弱くなった。


「ラフィット!」
「はい」


コール音が急かすように甲高い音を響かせる。
ラフィットは素早くティーチに歩み寄ると、その背広のポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。


「はい」


ラフィットの声に被さるように、「ボス!!」という叫び声が電話から溢れ出た。
それはティーチの耳にもアンの耳にも入り、ティーチは顔をあげてラフィットを見た。
アンも思わず目を開ける。
電話から溢れるのは、地獄絵図のさなかにいる悶絶の声だった。


『ボス!ガキが一匹、いきなり乗り込んできやがって』
『おい、窓開けろ! うわっ、だめだ閉めろ!』
『締めあげようとしたバージェスがやられちまった!』
『早く水持ってこい!アレを失くしちまうと…! うあっ』
『そのガキがでけぇ容器背負ってやがって、中身ぶちまけたと思ったら』
『だめだ、もうおれたちまで巻き込まれる!! 逃げろ!』
『あ、あのガキ、部屋中にまいたアルコールに火ぃつけやがった!!』


話し手とその背後の声が入り混じり、壮絶な状況を伝えている。
ラフィットの顔がはじめて、色のない笑みを引き攣らせた。


『もうダメです、火がどんどんでかく……!』



健気に報告を続ける男の背後では、未だ断末魔の悲鳴が響き渡っている。
ティーチがアンの上から退いてラフィットの持つ携帯電話をもぎ取った。


「おい! てめぇら逃げんじゃねぇ! この女のデータ失くしたらオメェ、今までなにやってたことになる! そもそもそのガキってのはまさか」


電話の向こうはもはやティーチの言葉など拾う気がないらしく、わあわあとざわめく空気が伝わるばかりだ。


「おい! 返事しやがれこのクズ!そ のガキはどうした!おい!?」
「ティーチ」
「あ!?」


オーガーが鋭く呼んだ声に、ティーチもラフィットも反射的に顔を上げた。
しかしそのオーガーはティーチすら見ておらず、一心に自信が構える銃の先を見据えていた。
視線の追いつかない速さで指先が動き、銃が火を噴く。
咄嗟に狙いの先を追うと、開け放たれた窓。
まさに落ちていく肩口が見えた。
暗闇を背景に確かな血が散る。


「あのガキ……!」


ティーチが電話を放り投げ、窓辺に駆け寄る。
部屋は三階で、地上まで10m近くある。
アンは窓の真下、敷地内の芝の上に倒れていた。
肩を押さえている。
ティーチの鼻から嘲笑う調子で空気が抜けた。


「バカ女め、今更どうにもできねぇくせに……オーガー!事務所の様子見てきやがれ!逃げたバカは始末してこい!ラフィットはオレについてこい、行くぜ」


黒い大きな影たちが動き出した。






電話の向こうから聞こえた叫び声。
ティーチもラフィットも、オーガーさえも姿の見えない声の主を、血走った目で探すように電話を見つめていた。

事務所に火が放たれた。
ガキが一匹乗り込んで。

アンは仰向けに倒れたまま、笑いだすのを堪えることができなかった。
殴られた頬が引き攣って、表情は動かず声も漏れなかったが、それでも笑いはこみ上げた。
あいつらだと言わずと知れた。
アンが何よりもこわいと思っていた、黒ひげとサボ、そしてルフィの関与。
その証拠を、サボたちは自ら焼き捨てに来てくれたのだ。
ほかでもない、アンのために。

指の先に神経を集中させる。
動いた。
腕も足も、首も持ち上がる。
そろりと立ち上がると腰のあたりの鈍い痛みが骨に沁みたが、構っていられない。

出口は一つ、オーガーが背にした扉だけ。
いや違う。
アンは自身の背後の窓に視線を走らせた。
飛びつくように窓枠ににじり寄る。
窓は開いていた。
もうその奇跡だけで、すべてが上手くいく気がした。

下は覗かなかった。
確かここは三階だが、跳べない高さではない。
地面が針のむしろじゃない限り、多少足を痛める程度で済むはずだ。
脚の一本や二本、と思った。

窓枠に足をかけ、身を乗り出したそのとき、背後の張りつめた気配がアンの首筋にピリリと刺さった。
気付かれた、その勢いに背中を押されて、窓枠を蹴った。

ブワッと下から風に煽られた瞬間銃声が短く鳴り、少し遅れた肩からはじけた鋭い衝撃がやって来た。
身体が前に倒れる。
地面が近い。
しかし気付いた時には、アンは二本の足でしっかりと地面を踏んでいた。
とんでもない衝撃が、まるで足の裏で爆弾が破裂したみたいな衝撃が、足裏全体から膝、ふとももから腰に至るまでじんと響いた。
が、それだけだった。

案外いけるものだと頭をよぎったとき、思い出したように左肩が熱くなり、鮮烈な痛みにアンは思わず呻いて前にかがみこんだ。
肩を押さえると、生暖かいぬめりが手に触れる。
頭上でティーチの声がなにやら叫んでいた。


逃げなきゃ。
せっかくあそこから抜け出せたのに。サボとルフィが助けてくれたのだ。
肩に一つ穴が開いたくらい。


歯を食いしばり、地面に手をついて立ち上がった。
触れた地面はひんやりと湿った土と芝だった。
三階から飛び降りて無事でいられたのは、このおかげか。
今やまわりのすべてのものが味方になってくれるような心強さが、胸の奥から湧き上がって熱を発し始める。


辺りを見渡すと真っ暗で、目の前は二メートルほどの塀だった。
正面に回っては黒ひげと鉢合わせて馬鹿を見る。
アンは目の前の塀に右手をかけ、顎を置き、右側の腕力だけでよじ登った。
左肩から流れた血が囚人服に沁み込み、冷えていく。
その冷たさがアンの頭を冴えさせた。

降り立ったそこは人気のない道路。
アンはとりあえず建物の入り口から遠い方へと走り出した。
さすがについさっきとんでもない衝撃を支えたアンの足は、コンクリートを蹴るたびに悲鳴を上げた。
このまま走って逃げ切ることは不可能だ。
いずれ夜が明ける。
そのとき肩を血の色に染めた女が街中に立っていては、目立って仕方がない。
どうにかして、足を手に入れないと。

そう思いついてすぐ、一軒の家のガレージに車が停まっているのが目についた。
しかし民家に停められたものにキーがついているはずがない。
なによりアンは車の運転など一度もしたことがないのだ。


何か、あたしの足より速いものを。


路地を抜けると、少し広い二車線道路に出た。
右から一台、目玉のようにライトを光らせる車がやって来た。
アンは咄嗟に道に躍り出て、車の前に両手を開いて立ちはだかった。
当然のごとく、断末魔の叫びといっていいほど甲高くブレーキ音が響き渡る。


「なんだお前ッ……!! 危な」
「ごめん!」


アンは窓から身を乗り出して怒鳴る若い男を無視して、運転席側に回り込み扉を引いた。
バランスを崩した男が外側に傾く。


「うおっ」
「ごめんなさい! 車貸して!!」


言うや否や、アンは呆気にとられる男の襟を掴んで引きずりおろし、足を払って地面に伏せさせた。
滑り込むように運転席に乗り込んで、呻く男の眼前で車のドアを閉める。

目の前にはハンドル。とりあえずつかんだ。
足の先にはおそらくアクセルとブレーキ。
片方を思い切り踏んでみたが、とろとろ動いていた車が逆に止まってしまった。
じゃあこっちかともう一方を踏み込むと、車は唸り声を上げて猛スピードで進み始めた。
慌ててハンドルにかじりつく。
白み始めた空が、フロントガラスを突き抜けてアンの目の前に広がった。

夜明け前の道路は空いていたのが幸いした。
一度目一杯踏みしめたアクセルから足を話すのが怖くて、ずっと同じ強さで踏み続けている。
目の端に映る景色が一瞬で過ぎ去っていくことから、とんでもないスピードが出ていることはわかって、そのせいで余計振り返るどころかバックミラーを確認することもできなかった。

今自分はどこへ行こうとしているのか、さっぱりわからない。
運転しているというより、暴走する車に連れられていると言った方が正しい。
とりあえず黒ひげから離れて、それからサボとルフィのところに──

──それじゃだめだ。

ぎゅっとハンドルを握る手に力を込めると、汗をかいた手が滑りそうになった。
せっかく黒ひげとサボたちの関係を白紙に戻せたのに、アンがサボたちのもとへ行ってしまってはまた巻き込むことになる。

じゃあいったいどうすれば。

赤信号をえいと無視して通り過ぎたそのとき、ふっと懐かしい香りを嗅いだときのような自然さで、思いついた。
この車はちょうど北へ北へと進んでいる。
ひとつ角を曲がれば、この街のど真ん中を突き抜けるモルマンテの大通りだ。
その北の果てに行こう。
この街の最高権力があるところ、警視庁へ。

だってマルコがいるから。

黒ひげを守る理由がないからということでも、サボたちを保護してもらえるからということでもなく、なぜだか理由にもならないそのことが一番に、頭に浮かんだ。







アンがたった二日だけ留置されていた収容所だけでなく警察内部は、つつかれた蜂の巣のように混乱を極めていた。

エドワード・ニューゲートとマルコが直々に「エース」に、つまりはアンに会いに出向いた。
しかしアンがいるはずの牢はもぬけの殻。
呆気にとられたのは彼らを案内した看守だけでなく、ニューゲートもマルコも同じだった。
ただやはり、我に返るのは早かった。
素早く顔を上げ、マルコは隣の男を呼んだ。


「オヤジ」
「──まず館内を調べろ。看守も事務員も全員ひとところに集合させて、状況把握だ。それでもアンがいなけりゃ一課の出番だ、連絡しろ。マルコ、オメェはここを仕切ってな。オレァ……連絡するところがあるから先戻る」


有無を言わさぬ強さで言い切ると、ニューゲートはマルコの返事を聞かずに踵を返した。
いつものことだ、飲みこむのにはなれている。
しかしこのときはじめて、マルコの中で小さな石ころのように転がっていた反駁する気持ちが触れたら痛い場所に触れ、跳ねた。


「オヤジ! アンが脱獄したなら、奴らの手引きに決まってんだろい! こんなことになってもまだほかにオレにも言えねェことがあるってのかよい!」


ニューゲートは振り返りマルコを見下ろしたが、その目は怒っても悲しんでもましてやよくあるように楽しんでいるわけでもなく、ただひたすらに真摯で、もう何も言えなかった。
ニューゲートはただひとこと、


「オメェにとって大事なのと同じように、オレにとってもそうなんだ。わかるぜ」


それだけ言うと後はもう淀みない足取りでマルコと看守の前を後にした。

わかってたまるか、と苛立つ反面、頭のどこかでニューゲートの言う意味がわかっているようなどっちつかずの気持ちが、不安定に残った。
振り切るように声を上げる。


「館内一斉捜査だ、アンを探せ!!」





その後明らかになる収容所内の様子は、惨憺たるありさまだった。
おそらくニューゲートも拘置所を去るときに気付いたであろうが、まずマルコとニューゲートがアンの留置される部屋に入る前横切った通路に確かにいたはずの看守たちが、そろいもそろって消え去っていた。
彼らは館内のどこを探しても出てくることはなく、彼らの経歴はまるで不審なところもない一般の職員であったにもかかわらず、まるで雲隠れの如く消え去っていた。
おそらくもうこの街にすらいないかもしれない。
そして収容所の裏口、食料物資等が搬入されるためだけにある小さな入口を護っていた門衛が2人、その場で死んでいるのを発見した。
簡単に首を掻き切られて死んでいる。
惨憺たるといっても、死人はその二名だけだった。
それが多いのか少ないのかはともかく、この犠牲を踏み越えてまでアンを奪いにかかった黒ひげの暗さに足元が寒くなる思いがした。


収容所内で最も広い体育館に職員を集め、消えた看守11名と殺された2名、そして現在も収監される囚人たちの監視役を除く全員がそろった。
その中に知った顔を見つけ、相手もマルコを認めるとすぐさま足音高く歩み寄ってきた。
マルコが何を言うより早く、ぽってりとした唇が開いてベイは勢い良く息を吸う。


「こンの、役立たずだな!」
「なっ、テメェ、現場にいたのはオメェのほうだろうがよい!」
「何が現場だ、その現場を腐らせてんのはどこのどいつだい! 中枢にいるあんたらのほうだろうが! ぬけぬけとアンを奪われて、恥ずかしくないのかい! あたしは恥ずかしいね! かわいそうに……わかってんのかい、もうあの子こそ命の保証なんてないんだよ!! 一番守られなきゃいけないのは、あの子だってのに!!」


ベイは人目もはばからず、大声でそう言い切りマルコを睨みあげた。
不本意だと知りながら返す言葉がない。
啖呵を切ったベイもベイで、それきりぺしょんと眉を下げ、数十年来の付き合いがあるマルコも見たことがないような弱弱しい口調で、「早く助けてやんないと……」と呟き首を振ったきり、なにも言わなくなった。


不意に、自分は何をしているのだろうと、マルコは足元を見つめた。
なぜここにいるのかわからなくなったのだ。
ニューゲートに言われたから、そうしているのにちがいない。
自分がそうしたいと思ったからしているのではないと気付いた途端、猛烈な違和感に襲われて、いてもたってもいられなくなった。
まるでそれは思春期のように、唐突で、荒々しく。


「頼んだよい」
「は?」


まさに「は?」の形で口を開けたままのベイを残し、マルコは文字通り体育館を飛び出した。
ニューゲートと一緒に来たせいで今日は自分の車がない。
常にポケットにあるはずのキーの感触が今日はないことに舌を打ちながら収容所の駐車場まで出ると、公用車が2台止まっているのが目についた。
職員はほぼ全員体育館に集めている。
キーは事務室、いや事務室も全員が出払うせいで鍵をかけた。
なにもかも都合が悪い。
マルコは駐車場を大きく横切って、収容所の敷地内から道路へとでた。
走りながら携帯電話を取り出し、慣れた指が動くままに電話を掛ける。
コール音はすぐさま途切れ、相手に繋がった。


「おうよ」
「アンの収容所から一番近いモルマンテの通りまで車出してこい」
「ハァッ? オレいま聞き取り……」
「5分で来いよい」


通話終了のボタンを押すのも忘れて、そのまま携帯をポケットに押し込んだ。

はたしてマルコが走って大通りに出るのが先か、サッチが車をつけるのが先か。
きっとサッチはほつれたリーゼントをしきりに気にしながら、自家用車にサイレンを乗せてやってくるに違いなかった。



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白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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