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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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【魔法の手】



シャンパンの細かな粒が、次々と列をなしてグラスの上へとのぼっていく。それを眺めているふりをして、金色に透き通った液体越しに周りの人を一人ずつ確認する。

会場は、誰も大きな声こそ出していないものの、ざわざわと騒がしく食べ物とお酒の匂いでむせかえりそうになる。立食ブッフェの料理コーナーには、最初立ち寄ったきりよりついていない。食べ物を選んでいると、無防備になる気がするからだ。

まさかトングを構えた脇からだれに刺されるわけでもないのに、隙を作ってはいけない、と私は思っている。

向こうで二人談笑している男性の、背の高いほうは知っている、メガネの人は知らない。あちらでローストビーフをほおばる初老の男性は、彼が書いた本を読んだことがあった。固まって話しているあちらの3,4人の女性の中で、知っているのはあの人とあの人、ひとりは大学院の時同じゼミだった。


「こんばんは」


ふりむくと、知らない男性が一人、こちらを見下ろして微笑んでいる。何かの本の近影で見たことがあるような気がするが、名前は思い出せない。

あんなにも身構えていたのに、あっという間に隣に立たれて声をかけられてしまったことにがっかりする。

こんばんは、とそれでも懸命に愛想よく頭を下げた。

大学はどこか、院でついていた先生はだれか、医学生だったというと、どこの病院で研修をしたのか、近年の心臓手術の危険性と今後の見通しについて。その人は一気に私に話し始める。

けして早口でまくし立てているわけではないのに、私が「ええ」と相槌を打つやいなや次の話題に転じてしまい、聞いた話を飲み込む暇がない。


「もしよかったら、今度の休みに僕の研究室を見に来ませんか」

「え? いえ、私」

「いいんですよ。ちょうど研修医が研修を終えて戻ったところで、少し時間があるんです」

「いえそうではなくて、私」


来週から日本を離れるんです。

精一杯の早口でそう口にする。え、と男性の言葉が止まったところで、背後から名前を呼ばれた。


「カヤ、あなたと話したいという人がいるわ」


ロビンさんは、深いスリットの入ったスリーブドレスを足元に張り付かせたまま上品にこちらに歩み寄り、私の隣に立った。


「お話し中ごめんなさいね。彼女をお借りしてもいいかしら」


ああ、ええ、と男性はロビンさんを見上げて、のぼせたように口を開けたままうなずいた。

ロビンさんは私ににっこり微笑んで、行きましょうと踵を返す。

助かった、と思いながら、男性に会釈をして足早に彼女の後を追った。


「余計なお世話だった?」


歩きながら、ロビンさんが言う。


「いえ、困ってたから、ありがとう」

「そう見えたわ」


ロビンさんは私を連れて会場を出ると、人の少ないほうを選んでホールを歩いていく。


「彼とは話せた?」

「ええ、本当にありがとう。まさか、ロビンさんのほうでこんな機会を作ってもらえるなんて思ってもみなかった」


良かったわね、と彼女は鎖骨のあたりのパールを上品にきらめかせて笑った。


ロビンさんの研究チームが、その分野で権威のある雑誌に論文を掲載させた。その発表会を兼ねた説明会後のパーティーに、私が憧れる医学界の重鎮が来ると聞いた。彼女のチームが新たに発見した事実によって、古くから医学界の物理的根拠とされていた知識が疑わしいということがわかったのだ。医学界を震撼させる大発見でもあった。

彼女が属する史学と私の属する医学が噛み合い、それらの教授たちがこぞって来ると知ったロビンさんは、ありがたくもわざわざ私に、来賓の中でも有名なその人の名前を出して「この人、知ってるかしら」と尋ねた。


「えぇ、えぇ、もちろん。本を何冊か持っているわ。来週から私が行く病院に勤めたこともある方よ」

「なるほど。じゃああなたも来るといいわ」


何のことかと思いきや、こうして今日のパーティーに私を招いてくれたのだった。

おかげで、来週から私が留学する病院の様子や、街のことをその人に聞くことができた。何より医学界の権威に、「若い力に期待している」と言ってもらえたことが、私を舞い上がらせるほど喜ばせた。

ホールからエントランスにつながる広いエリア、湖畔の風景画が飾られている廊下の前でロビンさんは立ち止まった。


「引っ越しの準備もまだ最中でしょう。疲れたらいけないし、そろそろ帰るといいわ。送れなくて悪いけど」

「いえ、じゃあそろそろお先に失礼するわ。……次にいつ会えるのかは、ちょっと先のことになると思うけど」


ロビンさんはしなやかに眉をひそめて、「元気でね」と言った。

私の壮行会というものを、実はすでに彼女たちには開いてもらっていたので、お別れを言うのはこれで二度目になる。

永遠の別れというわけでもないのに、この地を離れたことのない私はだれかに「元気でね」と言われるたびに心臓がきゅっと痛む。


「ロビンさんも。今日は本当にありがとう」


彼女に手を振って踵を返す。数歩歩いたところで、「カヤ」とロビンさんが呼び止めた。


「ウソップにはもう言ったのよね」


私は言葉に詰まり、ごまかすように笑いながら首を振る。


「明日会うから」

「そう」


元気でね、とロビンさんが何度目かの言葉を口にする。

私はぺこりと頭を下げて、エントランスへと向かった。






荷物はあらかた送ってあった。書き込みで汚く皺の寄った医学書と生活用品を送ると、私の部屋はとたんにそっけなくなった。昔から天井にぶらさがっていた小ぶりのシャンデリアも、出ていく私を真顔で見下ろしている気がする。子供の頃、お中元などいただきものの空き箱に、きれいなハンカチを敷きビーズやボタンを並べ、誰も住むことのない箱庭を作ったことを思い出す。中身を取り除いてしまえば、それはタオルや焼き菓子が詰まっていたただの紙箱でしかなかった。

明後日、私は異国に旅立つ。その国の大学病院で、私は二年研究員として学び、その後同じ病院にとどまるか、日本へ戻るか選択することになる。どうしよう、どうすべきか、私はすぐに悩み始める。だから考えないようにしていた。二年も先のことなのだからと。


「カヤ」


呼び声にハッと振り向く。遮光カーテンを引くと、格子窓の向こうにウソップさんが見えた。いつものように、斜めがけしたバッグを提げて、今日は日差しが強いのか、帽子をかぶっている。つばの広いそれは彼によく似合っていた。

待ち合わせの時間までまだ30分はある。それに、駅の近くの喫茶店で待ち合わせるはずだった。

驚きながら、重たい窓を引き開ける。


「どうして、時間がまだ」

「仕事が早く片付いてよー、駅で待ってんのもひまだし、お前待ってコーヒー飲んでっと、お前が来たときまた飲まなきゃなんねーだろ。だから迎えに来た」

「なにそれ」


吹き出したとき、ウソップさんが私の背後に目を向けて、「アレ」とつぶやきながら覗き込むように窓枠に手をかけた。


「部屋、やけに片付いてんじゃねぇか。模様替え?」


明るく乾いた今日の日差しみたいに、ウソップさんが尋ねる。あ、と後ずさりたくなるが、見えないかかとを強く踏みしめて立ち止まる。

言わなければならない。


「ウソップさん、私引っ越すの」

「え? 一人暮らしすんの? まじ?」

「ええ、それで、私」

「なんだよ、引っ越しの準備ならおれ手伝ったのによ。まあお前荷物少なそうだし、手伝いなら執事たちにやらせりゃあいいもんな、人手は足りてるってか」

「あのね、ウソップさん、私」


彼がはっとズボンのポケットを押さえた。悪ィ電話だ、と言って私に背を向け、耳に当てた携帯に向けてしばらく話をしている。その背中を、私は半ば呆然とした気持ちで見つめた。


「悪ィ、なんかさっきおれが仕上げたやつに不具合が見つかったつって、事務所からすげー怒りの電話。ちょっと出てくるわ」

「えぇ、わかった。今日は……」

「また連絡すっから!わりーなー!」


慌てたふうに帽子を押さえ、後ろ手に手を降って、彼はあっという間に言ってしまった。私はまだ、部屋から一歩も出ていないというのに。

どうしよう。詰まって咳き込みそうになるときの癖で、私は自分の喉を両掌で包んだ。咳は出ない。でも、何かが詰まっている感触だけがある。

ここを発つのはもう明後日の朝なのに、まだ彼に、私が海外へ行くということを言えていない。


結局その日は、ウソップさんから「今日は夜までかかる」とメールが来て、会うことはできなかった。空っぽの部屋でしょんぼりと腰掛ける私のもとへメリーがやってきて、「ずいぶん片付きましたね」と感慨深そうに部屋を見渡す。


「ここまでさっぱりと片付けてしまわなくてもよろしかったのに」

「あまり捨てたりはしていないのよ。ほとんどが要るものばかりで、向こうに送ったから」

「なにか忘れ物がありましたら、ご連絡ください。持っていきますので」


うん、と言いながら手にした携帯電話の背を撫でる。メリーは、私が向こうに着いて3日後に、追いかけるようにして私のところに来てくれることになっていた。この家は、残った侍女たちに管理してもらうことになる。


「不安ですか?」


おもむろにメリーが尋ねた。


「ううん、楽しみ」


柔和な顔がにこっと笑い、「それはお心強い」と嬉しそうだ。


「ではご心配の種は、まだほかに」

「ええ、でも大丈夫。きっと」


私は震えることのない携帯を握りしめ、遮光カーテンの方へ歩み寄る。もう彼は仕事を終えて家に帰っただろうか。裏の塀を乗り越えて、整えた芝を踏んでこの窓辺にやってくる姿を想像して外を覗いた。

格子窓はくり抜いたみたいに一つ一つが真っ暗で、月も星も光らない静かな夜だった。





次の日、朝一番に彼に電話をかけた。一回ではつながらず、朝食の後に折り返しがかかってきた。侍女が食後の紅茶を運んできてくれたところだったけど、断って席を立つ。


「おはよーう」


軽やかなウソップさんの声に、いつもはほころんでしまう頬も今日はきゅっと締まっている。なんと行っても、今日こそは言わなければ。


「おはようウソップさん、あの、今日はなにか用事ある?」

「いや、あ、でも、ゾロに友達の引っ越し手伝い頼まれてんだった。おれの知らねーやつなんだけどよお、なんかいらねえもんばっか溜め込んで手荷物多いとかで。朝から昼までかかると思うけど、昼過ぎたら空くかな。あ、でも昨日の仕事が気になっから、ちょっとだけ職場覗こうと思ってたんだった。いやー昨日結局何時までいたと思う。23時だぜ。おれ休みだったってのによ」


ええ、うん、そうなの、まあ、と返事をしているうちに、いつものことながらウソップさんはあれよあれよと話し出す。いつのまにか話はまとめられ、「そんじゃ、行けそうだったら行くわ」といつものようにとらえどころのないまま電話は切れてしまった。

なんなら、電話で言ってしまうこともできたのに、やっぱり直接伝えたいと思うと口先が鈍って、その隙に彼は別の話題を持ち出してしまうから、私が言葉を挟むのは至難の業だ。

意図せずついたため息を、通りすがりの侍女に聞かれてしまう。気分が悪いのかと勘ぐられて顔を覗き込まれたので、慌ててそそくさと部屋に帰った。家にいても落ち込むので、メリーに「万一ウソップさんが来たら、連絡して」と言い残して大学にでかけた。

大学の研究室は、もうさっぱりと片付けてしまっている。別れの花束も、おとといもらってしまった。ただ、まだこの大学の学生ではあるので、その学生証を使って図書館へ行った。古くかび臭い本の匂いは、薬品の匂いと同じくらい私を落ち着かせる。乾いた紙が指先を切ることがあり、泣きたくなるけど、泣いたりしない。

二時間ほど本を読んでいたら、鞄の中の携帯が震えて慌てて取り出した。メリーかと思ったがちがった。

こそこそと図書館を出て、エントランスの端によって通話ボタンを押す。


「もしもし、今大丈夫かしら」

「えぇ、この前はありがとう」


ビビさんは、はきはきと明るく「よかった、携帯、もう解約しちゃってないかなって心配してたの」と言った。


「同じ番号を向こうでも使えるって聞いてるわ。メリーが手続きをしてくれたから、私はよくわからないんだけど」

「そう? ならよかった。ナミさんたちにも言っておくわね。そうそう、明日、10時50分のフライトだっけ。私とナミさんで見送りに行くから」

「えっ、ほんとう? 来てくれるの?」

「ええ、ナミさんが仕事の都合つけられたんだって。9時に空港で会えるかしら」


予想外のことに、思わず声が高くなる。うん、うん、と大きな声で答えてしまい、エントランスに立つ守衛の人にじろりと睨まれた。慌てて守衛に背を向けて、「うれしい!」と弾んだ声で答えた。


「ロビンさんはね、いま学会でこっちにいないんだって。残念だけどよろしく言っておいてって」

「うん、この前研究会のパーティーであったときにお別れを言えたから大丈夫。嬉しいけど、朝早いのに平気かしら」

「いいのいいの、ナミさんは朝型だし、私はなんとしても起こしてもらうから」


朗らかに笑うビビさんの声を聞きながら、急に胸が締め付けられる。

この子達になんども掬ってもらって、磨いてもらった私の落ち込みがちな心を、今もう一度だけ覗いてもらいたいと思った。

どうしよう、どうしようビビさん、明日のこと、まだ彼に言えていない。


「どうかした?」


笑い声のしぼんだ私に気づいて、ビビさんがそっと、笑い声の余韻に乗せるみたいにして尋ねた。

ううん、と言いかけて、言いよどみ、「あの、」と中途半端な言葉が落ちる。


「うん」


ビビさんが私の言葉を待っている。あのね、と言いかけて、でもこんな情けないこと、ここで言ったってどうにもならないじゃないと思いとどまる。明日から一人で見知らぬ土地に発つ私は、いつまで彼女たちに頼る気でいるのだと、頭の奥でくだらない意地が湧き上がる。

我慢強く私の言葉を待っていたビビさんは、ふと思い出したみたいに「そうだ」と言った。


「カヤさん、今日はなにかあるの?」

「今日? いえ、今は大学だけど」

「もしよかったら、おうちに行ってもいい? ほら、前にうちに泊まりに来てくれたじゃない。私もカヤさんのおうちに泊まってみたい」

「うち? とま、泊まりに来てくれるの?」

「だめ? ナミさんも呼ぶわ。夜遅くになるかもしれないけど、ナミさんも来ると思う」


だめじゃない、とビビさんの言葉にかぶさるようにして前のめりに言うと、彼女は「やった」と短く笑って「そしたら朝、一緒に行けるしね。カヤさんも車でしょう? うちも車を出してもらうから、ナミさんと後ろをついていくわ」


「ほん、本当に来てくれるの?」

「うん、急すぎる?」

「ううん、うれしい、あ、でもメリーに言わないと」

「だめならカヤさんがうちに来たらいいわ。最後の夜だからおうちで過ごしたいかなって、それだけだから」


メリーに確認する、と言って電話を切った。

ビビさん自身も言っていたけど、あまりに急な展開に、胸がドキドキする。不穏な動悸とは違うそのドキドキを、私は確かめるみたいに胸に手をおいた。


お昼を食べに自宅へ戻り、メリーに事の次第を話すと、「出発の準備はできていますし、よいでしょう」とあっさり承諾を得られた。夜更かしだとかお酒を飲むだとか、そういうことにうるさかったメリーは、一度だけ会ったナミさんたちのあっけらかんとした美しさにやられたのか、今はなんにも言わない。

ビビさんにOKだと返事をすると、夕方、食べ物を持ってうちに来ると言った。私の昼食の準備をする侍女を捕まえて言う。私の声を聞き漏らすまいと、数人の侍女が近寄ってくる。


「ナミさんは仕事終わりに来てくれるはずだから、遅くてもお腹に優しい食べ物を用意しておいて」

「かしこまりました。お嬢様のお部屋にお運びしますか」

「ええ、おねがい」

「カヤお嬢様、浴室のご準備は何時頃にいたしましょう」

「そうね、とりあえず22時までには……またお願いするわ」

「お嬢様、ご寝所は三名様の準備をしておきましょうか。それともお客様二名の……」

「私の部屋できっと寝ちゃうから、二人分のベッド持ってきてくれる?」

「お嬢様、カヤお嬢様、翌日の朝食は」


ああもう! と叫びたくなったが、代わりにこぼれたのは笑い声だった。目をてんとして口を閉ざした侍女たちは、一様に首を傾げている。もう、こんなふうに小うるさいほど世話を焼かれることはないのだと思うと、少し寂しいような、これまでの甲斐甲斐しい生活が可笑しく思えるような、とにかく笑いがこみ上げたのだった。





18時頃、ビビさんは一人で家にやってきた。


「迷わなかった?」

「ええ、西の外れにある大きなお屋敷だって言ったら、住所を言わなくても迷わず来られたわ」


彼女はその手に、大きなバスケットを提げていた。私がそれに目を留めると、嬉しそうに含み笑いをしてそれを持ち上げる。


「うちにあったお酒と、コックが作ったお料理持ってきたの。ナミさんは20時過ぎるって言ってたから、先に二人でいただきましょ」


自室に案内すると、ビビさんは私の部屋をくるりと見渡して「もうすっかり片付いてるのね」と感心したように言った。


「そりゃそうか。明日の朝には発つんだものね」

「ええ。あっという間で、間に合わないかと思った」

「忘れ物があったら、私持っていくわ。遊びに行くついでに」


けしてそんな暇があるはずもないのに、ビビさんはまるで本気の様子でそう言って笑った。


「じゃ、乾杯」


部屋の真ん中に、家のものに運ばせたテーブルと小さなソファだけをおいて、二人でグラスをかちんと鳴らす。

思えば、彼女と二人でお酒を飲むのは初めてだった。ビビさんにとっても初めてのはずなのに、くつろいだ様子でさっそく頬を染めている。


「ナミさん、迎えはいらないかしら」

「あ、大丈夫。ペルにお願いしてあるから」

「そうなの? うちのものに頼むのに」

「いいのいいの、どうせその辺にいるんだから」


ぱたぱた、と手を動かしてから、ビビさんはさっとグラスを口に運ぶ。グラスを置くと、さ、食べましょ、と彼女が持ってきたバスケットから、次々とまだ温かい料理を取り出して、テーブルに並べてくれた。


「お昼食べそこねちゃって。おなかすいてるの、すごく」


料理から目を離さず、ビビさんは取り皿を私に手渡す。


「そうなの? お仕事忙しいのね」

「ちょっとね。でもいいの、今からいっぱい食べるから」


言葉のとおり、ビビさんは自分が持ってきた料理を次々と平らげていった。彼女の家の、我が家とは少し違った味付けは新鮮で、ビビさんが「これはね」と説明しながら取り分けてくれるのも、まるで家族にするみたいで嬉しく思う。


「あ、ナミさん仕事終わったって。早いわね」


19時を回った頃、ナミさんからビビさんに連絡が入り、19時半にはナミさんがやってきた。真っ青な高いヒールに、タイトなワンピースが似合っていた。耳元で光る小さなピアスが、彼女の目の大きさと美しさをより際立たせている。


「おまたせー」


ナミさんも我が家に来るのは初めてのはずなのに、まるで親戚の家みたいに勝手知ったる感じで私の部屋に入ってきた。

そして私を見るなり、「はー、寂しくなるわね!」とまっすぐに言って、本当に寂しそうに笑うのだった。

侍女がナミさんのために用意した食事を、ナミさんは喜んで食べてくれた。お腹いっぱいになったビビさんはすでにして眠たそうだが、ゆったりとソファに腰掛けて私達の顔を交互に見ている。

ビビさんが持ってきてくれたお酒をぐいぐいと喉に流し込みながら、「今日ウソップに会ったんだけど」と唐突に言った。

え、と声が漏れる。どんと心臓が揺れる。


「カヤさん、この期に及んでまだ言ってないのね」

「もしかして、ナミさんが」

「ううん、私からは言ってない。っていうか、今日の夜カヤさんち泊まるのよねーって言ったら、なんかよそよそしい顔で「あ、そう」だとか言うから、こいつ落ち込んでんのかなあと思ったんだけど」


彼はナミさんに、「おれも昨日行くはずだったんだけどさ、仕事忙しくて。今日も無理そうだからまた時間作るってカヤに言っといてくれ」と言ったらしい。


「また時間作るって、あんた明日にはもうカヤさん行っちゃうじゃないってこのへんまで出かけたんだけど、もしかしてと思って言わなかった」


ナミさんは手のひらを床に向けて、顎の下辺りまで持ってきてそう言った。


「いいの」


ナミさんが短く問う。

ビビさんは、前日になってもきちんと言いたいことすら言えない私に呆れたのか、口を閉ざして私を見ている。


「よく、ないけど……昨日も、言おうとしたんだけど」


彼が忙しくて、と言いかけて、違う、と思った。ウソップさんのせいにしてはいけない。

伝えるタイミングは、もっと前から、どれだけでもあったんだから。

どうしてウソップさんにだけ言えなかったんだろう。

ナミさんたちにはすぐに伝えた。留学が決まって、興奮してメリーには電話をした。近所に住む仲良しの子どもたち三人にも、実はね、と既にお別れを伝えてあった。

ウソップさんには私から言うから、それまで内緒ねと言うと、彼らは一様に口元を押さえてうなずいてくれた。だからきっと、約束の通りウソップさんは何も知らないはずだ。

ウソップさんだけが、知らない。


「もう明日の朝には発つんだから、何も言わないまま行くわけにはいかないって思ってんでしょ」

「ええ、でも、もう」

「呼ぶ? ウソップさん」


ビビさんが、ソファに背中を預けたまま言った。私とナミさんは同時に、そのツルリとした頬に目をやる。


「もう仕事、終わってるんじゃないかしら。おうちも確か近所でしょ。たしかにちょっと遅いけど、言わないままよりは」

「ま、待って。私」


やっぱりこわい、と口に出していた。

スカートの裾をギュッと掴み、子供の頃みたいに、咳き込む直前みたいに、また喉元に何かが詰まる感覚をおぼえながら、言葉を絞り出す。


「一人で大丈夫かよって言われるのも、頑張ってこいよって言われるのも、こわいの。いやなの」

「……なんで?」


迷惑をかけたくない。足を引っ張りたくない。必要以上の心配もされたくない。でも、のびのびと手を振って見送られたりしたら、私はきっと行けなくなる。

彼のいない世界では生きていけないことを、私自身が思い出してしまう。

私が黙って行ってしまえば、彼は傷つくだろう。彼だけが知らなかったということに、ショックを受けるはずだ。

それでも私は、自分が傷つくほうがこわいと思っている。彼を傷つけてなお、こうして黙って行ってしまおうとしている。


「明日の朝、電話するわ。そのときに……」

「電話でいいの」


ビビさんが、そっと念を押す。

きっと、見えない電波を通すくらいでないと、私は彼に別れを告げられないだろう。

うつむく私の前で、彼女たちは呆れているようだった。

ま、カヤさんがそれでいいならね、と話をたたんで、ふたりはさっさと食事の後片付けを始めた。いつまでも酒瓶を傾けていた、ネフェルタリ家でのお泊りとはずいぶんちがう。


「明日は早いんだから、早く寝ないと」

「ナミさん朝起こしてね」

「はいはい」


ちゃきちゃきと片付けて、ふたりは侍女の案内のもとお風呂へ向かった。

まだ食べ物の匂いが残る部屋の窓を開けようと、カーテンに手をかける。

このカーテンを開けると、決まってウソップさんが格子窓の向こうに立っていた。

窓のそばに置いてあるスーツケースには、明日持ち出す荷物が詰まっている。

結局、窓を開けることはできなかった。

旅立つことを彼は知らないのだからこんな夜にくるわけはないのに、どうしても期待してしまう自分に嫌気がさす。

明日電話で、ウソップさんはなんと言うだろう。

きっと、なんで黙ってたんだと怒るはずだ。

ひとしきり怒ったあと、まったくしょうがねえな、と腰に手を当ててため息をついて、じゃあ元気でなとでも言ってくれるだろうか。

そうであればいいと思う気持ちと、そんなのはいやだと思う気持ちが混じり合ってぐちゃぐちゃとする。

泣きたいくらいどうしようもない気持ちなのに、諦めてしまったみたいに涙は出てこなかった。





翌朝、まだ眠る二人を残して顔を洗いに行こうとベッドを降りたら、背後からそっと歩み寄る猫のように、ナミさんが「電話、したら」とベッドに横になったまま声をかけてきた。


「……まだ、朝早いから」

「いいんじゃない。起こすくらいで」


がんばって。そういってナミさんはにっこり笑った。枕に頬を潰して、波打つ長い髪を広げたまま、きれいに笑った。

私は携帯を手に持って、そっと裏庭へ出た。

日陰となった裏庭の隅で、きれいに整えられたベロニカの花を見つめて携帯を耳元に当てる。

コール音は長く続いた。ひどく間延びして聞こえる。まだ寝ているのだ。きっと携帯はカバンの中に入れっぱなしだ。

かけ直せばいい。朝食の後にでも、空港についてからでも。確かな勇気もないまま携帯を耳から離した。

すると、どこかから未だコール音が響いている。あれ、と思い再び携帯を耳に当て、もう一度離して音を探す。携帯から聞こえる音とは、リズムが違った。

通話終了のボタンを押すと、ふたつのコール音はふつりと止んだ。

くしゃくしゃと芝生が踏みしめられる音が、早朝の澄んだ空気を通して聞こえてきた。


「ウソップさ」

「おーっす、早いな、朝」


ウソップさんは、寝間着にしているみたいなよれたTシャツと短パン姿で、いつものカバンはなく、携帯だけを握りしめて、ぐしゃぐしゃの頭で立っていた。

携帯、持っているならどうして出てくれなかったの。

こんな時間にどうして来たの。

笑う顔が、いつもよりひどく遠い。

私がなにか尋ねるより早く、「アレだ、今日は」と彼が口を開いた。


「仕事遅かったぶん、興奮してたのか眠れなくてよー。散歩してたら、このへんまで来ちまったから、ついでに」

「ウソップさん、私今日この家を出るわ」


彼が口をつぐむ。勢いに任せて私は言う。


「海外留学が決まったの。いつ帰るかは決めてない。もしかしたら、向こうの病院に勤めるかもしれない。……言うのが遅くなってごめんなさい」


言葉を発したとき、彼の顔を見ることができなかった。言い終わってからやっと顔を上げ、押し黙ったままのウソップさんの顔を見て、喉が詰まった。

発作より、ずっと苦しい。


「あ、な、何ーー!? おま、今日って、なんだよ急すぎるだろ! 海外ってどこ行くんだよ、一人でやってけんのかよー!」


彼の丸めた目が、驚いたように開かれた両腕が、懸命に動く。


「え、家はどうすんだ、空き家か? つーかあいつら寂しがるだろうよ、ちゃんと言ってあんのかー? まあな、おれさまがなだめてやるから心配しなくてもいいけどよ、んでもあんまりに急っつーか、内緒にするにもほどがあるだろ! おれには一番に教えてくれたってよかったのによ。まあな、さんざん世話になったおれには伝えにくかったっつーお前の気持ちもわからんでは」


ぼろっとこぼれた水滴が、着古した寝間着のワンピースの薄い生地に吸い込まれていく。ぼろぼろと、後を絶たないそれらを次々に吸い込んで、ワンピースは冷たく重くなっていく。


「うそつかないで」

「……あ?」

「知ってたのね、ほんとは、もっと前から、私が行くこと、ウソップさん知ってた」


あの子達に聞いたのね。そう言うと、ウソップさんはばたつかせていた手をおろし、ぎゅっと口を引き結んで私を見つめた。

言えなかったのは私のせいだけじゃなかった。

彼が聞こうとしなかったのだ。

知っていたから。

本当はもっと前から、私が行くことを知って、あえて聞こうとしなかったのだ。

当日初めて聞いたふりをして、慌ただしく私を送り出して、旅立つまでの間苦しまなくてすむように。

思い当たってしまえば、当然のことのように思えた。

別れを惜しまれても明るく送り出されても、弱い私は結局傷つくから、ウソップさんはずっとそれを避けてくれていたのだ。


「なんでこんなうそばっかり上手なの」

「……そらーおめー、あれだ」


あれだよ、と言ったきり、ウソップさんは押し黙った。私がぐずぐずと鼻を鳴らす音だけが裏庭に響く。

行きたくない。

はっきりと思ってしまった。

彼と離れたくない。


「カヤ」


顔をあげると、いつになく真面目くさった顔でウソップさんが私を見ている。


「お前、がんばれよ」


ず、と鼻をすする。

結局言っちゃうのね、と思う。


「頑張れよ。自分で決めたんだろ。この家、また戻ってくんだろ。この村の医者になんだろ。向こうの病院で働こうが好きにすりゃいいけど、絶対帰ってこいよ」

「わか、わからない。そんな先のこと」

「わからなくても、目指すんだよ。何も知らない場所に行けって言ってんじゃねーんだから。帰ってくるだけなんだから」


大丈夫だ。

はっきりとそう言って、ウソップさんが私に手を伸ばした。

涙で頬に張り付いた私の髪を、魔法みたいに何もかも作ってしまう手が、耳にかけてくれる。


「イヤリング、つけていけよ」


耳に触れた指が、もうどうしようもなくいとしくて、私は泣いた。

この手の温度を忘れてしまうほどの時間が過ぎていくのに、でもそれは全部自分で望んで決めたことなんだと、いつかここに帰ってくるためにどうしても譲れないことだったんだと、ああでも、こんなにも離れたくないのに、それでも私は行かなければならない。


「すげー顔」


顔も覆わず泣く私を軽く笑って、ウソップさんは帰っていった。

「じゃあな」と、まるで明日もまたここで会うみたいに、軽い足取りで、振り返りもせず。

いまだ暖かな涙が伝う私は、その背中を見送って、湿った服の袖で頬をぬぐった。



部屋に戻ると、ナミさんもビビさんも目を覚ましていて、テーブルに用意される朝食をきらきらした目で眺めていた。

私に目を留めて、なんでもないように「おはよ」と言ってくれる。

ぼたぼたに腫れた私の目を見て、二人は顔を見合わせた。

ふふっと、花が軽やかに揺れるみたいに笑って、ナミさんが「行ける?」と尋ねる。


「うん」

「よし、食べよ」


席に着く前に、部屋のカーテンを大きく開けた。

格子窓の外にはたっぷりと育った緑が見えて、まだ丸い朝日が木漏れ日となって部屋の中に差し込んでくる。

窓を開けて、そこに彼はいないけど、私は悲しくなかった。

もう大丈夫だと思った。

もう、この場所で彼が来てくれるのを待っている必要はない。

ひきつるように痛む胸を押さえて、息を吸っては涙をにじませて咳き込む私ではないから。

いつか私から、彼のいる場所に行かなければならないから。


fin.

拍手[6回]

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※他CP(サンナミ)色が結構出ています。





わたしは連絡を待っていた。一週間前、もやもやと晴れない気持ちのまま別れてしまったナミさんが、まるでなんでもなかったみたいに「今日空いてる?」と電話をかけてくるのを。

一度気にし始めると、そわそわと仕事の手が落ち着かなくなる。もしもこのままあるいは、と嫌な想像をしては一人ぞっとした。

与えられたり、生み出したり、あるいは自ら手放したりすることはあっても、思いがけず何かを失うことはひどく私を消耗させる。

苛立った彼女の顔を思い出してため息が落ちた。ついでのように狂った手元が筆差しを倒し、細かな雑音を立てて何本かのペンが机の上に散らばった。電話が鳴り、私が手に取るよりも早く、向かい側から白手袋のように色のない大きな手が受話器を掴む。


「失礼」


ペルは私の目を見てそう言ってから、受話器を持ち上げた。子機を持ったままペルは手帳をめくり、几帳面な声で「はい」を三回ほど繰り返し、「承知しました、お伝えします」と言って電話を切った。


「イガラム様からですが、本日の会食にはビビ様も同席する様にと」

「なぜ? 今朝出なくていいって言われたわ」

「お相手のたってのご希望だそうです。ぜひわが社の未来を担うご令嬢とお会いしたいと」

「私は会いたくないわ」


散らばったペンを直しながらふてくされて呟いたが、ペルはわざと無視した。もういちどため息をついて、「何時?」と尋ねる。


「十八時にホテルのロビーでと。私が送りましょう」

「ペルも一緒にいて。最後まで」

「いいえ。私は終わるころにお迎えに上がります」

「いいえ。最後までいるのよ。私と一緒に」

「いいえ、それはできません」


私は短く息を吸い、「だめ」と鋭く言った。八つ当たりだとわかっている。


「急ぎの仕事はないでしょう? お父様も私と同席してるんだから。絶対よ。勝手に帰ったら許さない」


ペルはじっと私を見下ろして、しばらく押し黙ったのち「承知しました」と答えた。

その答えに安心して、私はプライベートの携帯を開く。連絡はない。当然だ。私からも特に連絡をしていないのだから、何の返事を待っているというわけでもないのだ。それにナミさんはまだ仕事の時間だろう。彼女は忙しいから、私との小さな言い争いなど忘れてしまったかもしれない。それはそれでいい気がしたが、彼女が忘れても私は忘れたりできないだろう。

ひどいことを言った。わざと傷つけるみたいに。

もう一度だけため息をついて、重い腰を上げる。


「着替えてくるわ。こんな学生みたいな恰好じゃ行けないもの」

「ええ、お待ちしております」


仕事部屋を出るとき、ちらりと振り返ってペルを見る。私の机と垂直に並んだペルの机にある大きなモニター、そこから洩れる青い光がペルの白い頬に映えて、彼もとても疲れて見えた。





会場の扉をペルが押し開ける。その腕にわざとすこしだけ肩を触れさせながら、個室の席へと向かった。

席は四つ。父と、取引先の相手方、そして若い男がその隣にいる。わかっていてもげんなりした。お見合い然とした四人の会話は、仕事の話の間にちょくちょくと個人的な話題を斬りこんでは私の反応を窺う相手の様子に心を殺し、ただただ出された料理を平らげることに終始する。

父に反感を買われては困るから、多少お愛想程度に微笑んで「ええ」と「いいえそんな」を繰り返す。意見を問われれば答えたが、私の向かいに座る若い男のPR的な話にはそっと口をつぐんでその場をやり過ごした。

食事が一通り終わり、デセールの前の一息ついたタイミングで中座した。個室を出ると扉のすぐわきにペルが立っていて、私が黙って通り過ぎてホテルのロビーに向かうと後ろからペルも付いてきた。

豪奢なシャンデリアが眩しい。スーツケースを持ったビジネスマンの姿が目立つ。人の行き交うロビーのソファに腰を下ろした。ひざ丈のスカートのレースを蹴り上げるみたいに足を上げて、ペルを見上げる。


「もう帰りたい」

「あと少しでしょう」

「もういや。疲れたわペル」

「子供ではないのですから。お父上はこれも仕事と立派に務められているのです」

「お父様はお見合いじみたことをしてないんだからいいわよ。私はじろじろ見られて、ご機嫌伺いされて、お稽古は何をなんて訊かれてばかみたい」

「ビビ様」


たしなめるようなペルの声にすかさず「分かってるわよ」と答えて、促されるより早く立ち上がる。


「ごめんなさいペル。本当は忙しいのに、付きあわせて」

「二時間前にそのお言葉を聞きたかった」

「それは無理よ」


毛足の長い絨毯にヒールのかかとをもつれさせないように慎重に、しかし早足で個室へと戻る。ペルは私が個室へ入る直前、少し腰をかがめて顔を近づけた。


「終わったらビビ様のお好きなところに寄り道して帰りましょう。イガラム様には私からお伝えしておきます」

「ありがとうペル大好き」


一息にそう言って、言い切るタイミングでペルが扉を開けた。ペルの脚にスカートの裾を触れさせて、私は自分の席へとにっこり微笑みながら戻っていく。

デセールのジェラートは、ストロベリーかピスタチオか選ぶよう給仕の女性が言う。ピスタチオを選んだら向かいの若い男はなぜかがっかりしたみたいな顔をして、そのことだけが印象に残って帰るころには名前も忘れてしまっていた。


「大変お疲れさまでした」


ペルが私の肩にカーディガンを羽織らせる。父に「先に帰っています」と伝え、ホテルのボーイがドアを開けた車に乗り込んだ。


「お食事はいかがでした」

「美味しかったわ」


考えることなくそう答える。運転手がいるので、今日はペルが隣に座っている。その肩にもたれかかりたい気持ちがうさぎみたいに胸中跳ねまわっていたが、こらえて少しだけ彼の方ににじり寄って座った。


「ねえ、私の携帯持ってる?」


思い出してそう尋ねると、ペルはすぐにふところから私の携帯を取り出した。わざわざ言わなくても、ちゃんとプライベート用の方を差し出してくれる。

開いて、何の連絡もないそれを確かめてまた重い気持ちがしこりのように喉の辺りに溜まり始める。

「なにかお約束でも」とペルが控えめに尋ねた。


「ううん。違うの」


ペルがその続きを待つように黙っているので、観念して私は言う。


「ナミさんとけんかしちゃった」

「けんかですか」

「取っ組み合ったわけじゃないわよ」


わかっています、とペルが少しだけ笑う。その顔を見上げた時、「あ」と思い当った。


「ねえ、寄り道していいんでしょ。行きたいところがあるの」

「ええ、しかしあまり遠いところだと」

「近くよ、ここなんだけど」


携帯で地図を示すと、ペルはその光を見下ろして目を細め、からかうように私を見た。


「先程お食事をされたばかりでは」

「ちがうのよ、ここ、夜までパティスリーが開いてるの。ケーキ、買って帰りましょ」


言ってから、なんにも「ちがうのよ」の言い訳になっていないことに気付いたが気付かないふりをして運転手に行き先を告げた。





住宅街、高い塀に囲まれた広い敷地の家々が並ぶ静かな通りの一角にその店はある。アイボリーの塀には看板がかかっていたが、それを照らすライトは灯っていなかった。


「やっていないようですね」


見た通りのことをペルが淡々という。


「うそお」


お店は明らかに営業していなかった。看板のライトだけでなく、エントランスも明かりが落ちている。車の窓に張り付いて目を凝らすと、店の中は明かりがついているようだったが従業員がいるだけで客は入っていないようだ。


「月曜日、お休みなのかしら」

「残念ですね」


ちっとも残念ではなさそうにペルが言う。私をさっさと家に帰したいのだ。

がっくりとうなだれる。お腹はいっぱいだったけれど、この店の美しいケーキを買いたかった。食べたかったというより、あれもこれもと買いたかったのだ。


「発車しても?」


運転手が尋ねる。頷きかけたそのとき、店の玄関扉がおもむろに開いた。


「あ」


真っ白なコックコートが、ぽかりと穴が開いたように暗い店のポーチに浮かび上がって見える。金色の髪も夜の闇に白く浮いていた。


「ちょっと待ってて」


車のドアに手を掛けると、ペルが素早く「ビビ様」と強く言う。無視して車の外に出ると、音に気付いた男性が顔を上げた。

ちょうど煙草を咥えたところだったその人は、火のつかないそれをキャンディのように口に挟んだまま私を見て目を丸くした。

あの、私、と繋ぐ言葉を考えながら口にしたら、男性は「わあお」と呟いてさっと煙草を手に取った。


「ナミさんのお友達のレディだ」

「えぇ、あの覚えて」


いらっしゃるのね、という私の言葉を遮って、男性は穏やかそうな見た目に似合わない大きな声で「もちろん!」と言った。


「可愛いレディの顔はみんな覚えてるさ。この前はありがとうよ。料理は気に入ってもらえたかな」


丁寧に頭を下げられて、慌てて手を振る。


「ええとても。あの、今日はやっぱり」

「ああ、定休日。ごめん、もしかして食事しに来てくれた?」

「いえ、ケーキを」


ああ、と男性が、サンジさんが眉を下げて首の後ろをさすった。


「ごめんな。今日は売り物にするもん用意してなくて」

「いえ、おやすみだもの当然だわ。私が知らなくて、こんな時間にごめんなさい」


何を言うつもりで車から降りたのかすっかり忘れて、私はもじもじと手元に視線を落とした。

その様子を見たサンジさんは黙って煙草を咥え直し、「よかったら」と思い出したように口にした。


「試作っつーか習作っつーか、売り物にするつもりじゃなかったやつならあるんだけど、持って帰る?」

「えっ、いえそんな」

「いいのいいの。仕込みも終わってるしあとは作ったやつ片っ端から自分で食ってくだけだから、もらってくれると嬉しいな」

「でも」

「時間あるなら店ん中でちょっと待っててよ。すぐ包むから」


サンジさんは私の返事を聞かずに踵を返す。いいのかしらと後を追いかけたら、背後から砂を踏む足音が聞こえて私とサンジさんは同時に振り返った。


「すんません、今日店休みで」


サンジさんが、私に対するのとは明らかに異なるぶっきらぼうな口調で投げるように言った。ペルは答えず、私を見ている。


「ペル、ちょっと待っててってば」

「君の連れ?」

ペルは私からサンジさんに視線を移し、じっと店の敷地と道路の際の辺りに立っている。「すぐに戻るから」と少し声を強めて言うと、ペルは「ここでお待ちしております」と硬い声で言った。


サンジさんが何か聞きたげに、でも口を閉ざしたまま私とペルを交互に見て玄関扉を開けた。


「どうぞ。あ、君の名前聞いていい? あと連絡先も」


背中に強いペルの視線を感じながら、薄明りのついた店内に足を踏み入れた。


サンジさんは私を入ってすぐのソファに座らせて、厨房と思わしき方へ戻っていった。

人気のないレストランは音が良く響く。広い店内のどこかで、金属のボウルやフライパン、食器のぶつかる音が細かい粒のように散らばっている気配がある。


「ビビちゃん、寒くない?」


すぐに戻ってきたサンジさんは、トレンチいっぱいに全部で9種類ほどのケーキを乗せて戻ってきた。選ばせてあげようというのだ。恐縮しても「どうせおれが食うんだから」と彼はにっこり笑って私の足元に跪き、目の高さにトレンチを差し出してくれた。


「いつもは持ち帰ってナミさんに食ってもらうんだけどさ。今日は会えねーし、あんまりたくさん持ってくと太るっつって怒られるし」


彼女のことを思い出したのか、そう言いながらサンジさんの顔は途端に柔らかくなった。


「全部持って帰ってもらってもいいんだけど、多いと逆に迷惑かと思って。何人家族?」

「何人……いえ、じゃあ二つ」

「それだけ? もっといいよ」


いいの、と断って、あめのような艶があるコーヒー豆の乗ったケーキと、キウイのタルトを指差した。ペルと食べよう。まださっきと同じ場所で、生真面目に突っ立っているだろうから。今日はペルを待たせてばかりだ。


サンジさんがケーキを包みにもどった隙に携帯を開き、ナミさんへのメールの画面を表示させる。『いまサンジさんの』『ケーキが食べたくなって』『前にナミさんたちと行った』書きはじめを散々迷って送れないでいるうちに、サンジさんは戻ってきて私に小さな箱を差し出した。


「ありがとう。御代を」

「いやいや、売りもんじゃねーんだって。本当もらってくれるだけでありがたいから」

「そんな、申し訳ないわ」

「いいよ。また店がやってる時間に来てくれたら」


それもそうだわ、と笑うとサンジさんも歯を見せて笑った。

店を出るとき、サンジさんは「ナミさんをよろしくね」と言った。振り返って曖昧に笑うと、サンジさんは少し不思議そうに「あれ、あんまり会ってない?」と尋ねる。


「ううん、そんなことないんだけど」


なんだか不思議な気がしたのだ。

「ナミさんによろしく」でも、私が彼に「ナミさんをよろしく」と言うのでもないことに。

手を振る彼に小さく会釈して、やはり立ち尽くして私を待っていたペルの元に駆け寄った。


「ケーキ貰っちゃった」

「お知り合いなのですか」

「ナミさんの彼氏なの。前にごはん食べに来たことがあって」


ああ、と納得したように顔を上げたペルは、玄関ポーチに立つ彼に向かって深々と一礼した。サンジさんも慌てて礼を返している。運転手が開けたドアに私が乗り込み、続いてペルが乗り込んだ。


「帰ったら部屋に来てね。一緒に食べましょう」

「ビビ様、帰りましたら私は仕事が」

「終わってからでもいいわ。遅くなってもいいから」


いえ、とペルは言ったが、そのあとの言葉は続けなかった。絵の具のついた筆を滑らすみたいに車が走る。十分ほどで家に着いて、玄関前でペルと一緒に下りた。


「では私は仕事に戻りますので」

「絶対来てね」

「ビビ様、今日はもう」

「お願い。ケーキが悪くなるわ。それにほら」


箱の中を開いて見せる。思った通り、ケーキは六つも入っていた。選んだ二つ以外にも、宝石みたいに並んでいる。持ったときからわかっていた。だって二つの重さじゃない。


「こんなにあるのよ。私ひとりじゃ食べきれない」


ペルは口を引き結び、「では」と慇懃に言う。


「二十二時までに仕事が終わりましたらお邪魔します」

「待ってる」


迎えに出た侍女にケーキの箱を渡し、冷蔵庫に入れておいてと頼む。そうこうしているうちに、いつのまにかペルはいなくなっていた。





二十二時半になったが、ペルはまだ来ていない。入浴を済ませ、いそいそと紅茶の準備をする。侍女にケーキを皿に移してもらい、部屋まで運んだ。二十三時近くになった頃、部屋の扉がノックされて迎えに出たらペルが立っていた。


「おつかれさま。今終わったの?」

「ええ。ビビ様も本日はお疲れさまでした」

「入って」

「いえ」


今日はこれで失礼します。ペルが几帳面にそう言う。はいはいと聞き流して、ペルの背後にある扉を無理やり閉めた。ペルの仕事が長引くことも、約束の時間が過ぎても必ず私のところに一言言いに来ることも、今日はこれで失礼しますの言葉も全部織り込み済みだ。こうして強引に私が押し切ることだって、ペルもわかっていたはずだった。


「さ、紅茶でいい? お腹がすいたでしょう」


アメジストのような薄い紫が気に入っているカップに紅茶を注ぎ、皿に乗せてきた六つのケーキの前にペルを座らせる。

取り分けようとすると「私がやりましょう」とペルが手を伸ばすので、「いいの」とぴしゃりとはねのけた。


「コーヒー好きでしょう。これでいい?」


いただきます、とコーヒーのケーキをペルが受け取る。

彼が座るソファの隣に腰掛けると、張り詰めた革がぎゅうと鳴ってペルが少しこちらに傾いた気がした。


「うん、おいしい」


サンジさんのケーキはまるでふわふわと実体のない空気みたいなのにしっとりと甘く、ときどきハッとするような仕掛けが織り込まれていて一口食べては目を見張るような美味しさだ。

おいしいでしょう、とペルの顔を覗き込むと「ええ」と彼もケーキを見つめたまま言った。


「ケーキなど久しぶりに食べましたが、これは」

「ね、別物なの。すごいの。ナミさんはいつもこんなの食べてるのね」

「羨ましいですね」

「うん、でも」


思い出してちりっと胸の奥が焼けた。

大事なものを大事だと言わない彼女を、いなくなったらそのときだと達観したふりをする彼女を、私は強く非難した。

でも、の続きを待つペルを見上げると、ペルは穏やかに私を見下ろして言葉を待った。


この人を、私はどんなに大事にしたくてもできないから、彼が私に与えてくれるものを越えることができないから、できるくせにしない彼女に苛立ったのだ。

私の気持ちと彼女は関係ない、わかっている。


「なんでもない。ねえペル」


はい、と答えたペルはあっという間にケーキ一つを平らげている。余程お腹が空いていたのかしらと思いながら、クリームの残る彼の皿に目を落とす。


「キスしたことある?」


ペルの持つフォークがかつんと皿に当たり、私が彼の顔を見るとペルの切れ長の目がほんのりと見開かれて私を見つめ返す。

逸らしたりしないのだ、どんなときでも。


「私ないの。取っておいたわけでもないのに」

「ええ」

「どう思う?」


ペルはゆっくりと皿を机に置き、足元を見て言葉を探した。

ソファに手をつくと、彼の背広の裾が指に触れた。


「ビビ様には、ビビ様のお気持ちやご事情がおありですから。大事になさればよいかと」

「ペルは」


ソファについた手にぎゅっと重心を乗せると、思いのほか体が彼の方に傾いた。


「私にキスされたら奪われたと思うかしら」

「ビビ様」


ペルがみじろぎ、私から離れようとする。

むっとするとペルもわざと怖い顔をした。


「ビビ様、失礼ながら私は、今日はあなたの我儘に付き合い尽くしているのです。このようにわざと困らせることをなさらないでいただきたい」

「よくしゃべるのね」


疲れた色のペルの顔に触れた。

何かが振り切れていた。

彼が私を大切にするように私も、なんて殊勝な思いは確かにあるのに、もうそんなことはどうでもいいからとにかくその胸に飛び込みたい、触れてほしいと焦れるみたいに叫びたくなる。

なんでって、きっと、羨ましかったからだ。

ナミさんは、考えるよりも早く、好きな人に触れたいときに触れるだろう。強く情熱的に、好きだとその目で言えるだろう。

サンジさんは私に、よろしくねと言った。私よりずっと、ナミさんに出会ってからの時間は短いはずなのに、有無を言わせぬ正しさで、「おれの」ナミさんをよろしくねと言えてしまう。


「選んで、考えてって言うから困るんでしょう。考えなくていいの、私がそうしてって言ってるんだから」


考えることを放棄して、目の前の顔だけ見て、その香りを見つけようと探してみる。冷めていく紅茶の香りが邪魔をする。

初めてのキスはどんな色だろう。

どんな味がして、どんな思いで目を閉じるのだろう。

何度も何度も夢見たそれが叶うかもしれない気配に、私は自分の唇に残るクリームの甘さを感じながら胸を膨らませて彼を見つめる。


するりと指に冷たい何かが絡まってハッとした。

革張りのソファに突っ張っていた私の指の間を這うように、別の指がゆっくりと動く。

思わず触れていた頬から手を離し、自分の手元に視線を落とした。

私の手が、と思い、そこから言葉が思いつかない。

手が、ペルのそれにすっぽりと隠される。


「ビビ様」


ふと近くでペルの声がする。あまりの近さに顔を上げることができない。


「ビビ様」


なに、と幼児みたいなか細い声で応えた。さっきまでの威勢は一体、とペルは笑いこらえているに違いないのに、一向に噴き出す気配はない。

耳元に息がかかる。

肩をすくめそうになるのを、息を止めることでこらえる。

もうペルは何も言わなかった。私の名前を呼ぶこともない。

ただ、私の耳に触れたような触れないような、よくわからないまま何かがかすめていく。

それが手に被さった温度と同じであることに気付いて、私はますます俯いて、宙に浮いた方の手をぎゅっと握り込む。

その「何か」はゆっくりとこめかみに移動して、肌をなぞるみたいにまぶたへと動いた。

呼気が、まつげを震わせる。

見知った香りが部屋中を満たしている気がする。花のような紅茶の香りも気高いケーキの甘い香りも全て飲み込んで、私の一番すきなその匂いが頭の奥に染み込んでいく。

ぼんやりと視界がかすむ。ひたいに触れた尖った感触は、すぐに離れた。それがペルの鼻先であることに気づいて、重なった手の下で私の指がぴくりと身じろぐ。

それが合図だったみたいに、ふっと香りが遠のいた。


恐る恐る顔を上げると、困ったような、私を叱ったあとのような、どこかで見たことのある顔をしたペルがいて、私は心のどこかでほっとする。

顔を上げたらペルが知らない顔をして私を見ていたらどうしようと、知らず知らずのうちにおびえていたのだ。

目を合わせたはいいものの、なんと言っていいのかわからず目も逸らせない。

ペルが口を開く気配に、どきりと身構える。


「──もう一つ頂いても?」

「え?」

「ケーキを」


えっ、と今度こそ声を上げると、ペルが視線をテーブルの上へと動かす。皿の上に並んだままの残りのケーキが、いまだ甘いにおいを撒き散らしている。

えぇ、と反射のように応えると、ペルはさっと私の手を離し、腰を伸ばしてケーキを覗き込んだ。


「どれをいただいても?」

「……どれでもいいわ」


そうですか、とペルは言い、うちひとつのミントの葉が乗ったケーキを手で掴んで皿に乗せた。


「ビビ様は?」

「私はもう」


そうですか、と再び言うと、フォークを手に取りペルは黙々とそれを口に運ぶ。

呆気にとられたように私はその姿を見上げるほかない。

あまりに黙々と食べ続けるので、つい「おいしい?」と口を突いた。


「ええ。疲れた時には甘いものと言いますし」

「そうね、疲れてるものね」

「ビビ様もいかがですか」

「私はもう」


さっきと同じ言葉を口にしかけて、目の前に差し出されたカシス色のムースに気付いて口をつぐむ。

いかがですか、とペルが再び言った気がしたが私の脳が勝手に再生しただけかもしれない。

ムースから目を離すことができないまま、そろそろと口を開いた。

そっと唇にぬるくてやわらかい甘さが触れ、撫でるように口の中に入ってくる。

冷たいフォークが舌にあたり、私が舐めとったのを確かめてからそっと出て行った。

口の中でムースを押しつぶすと、細かい泡が繊細にはじけて溶けていく。

おいしい、とつぶやくと、口からこぼれたその言葉を拾って口の中に戻してくれるみたいに、ペルが私の唇に今度は確かな質感を伴って唇で触れた。

まっすぐで高い鼻梁は、やはり私の頬にあたって窮屈そうだ。


目を閉じて、今このときを全身で感じようと耳をすますのだけど唇の感覚以外なにもわからなかった。

なにもわからない、ということだけを、触れるだけの長いキスの間何度も何度も胸の内で呟いた。

そのときはそのときよ、と言ったナミさんもこんな気持ちになるのかしらとどこか遠くの方で考えていた。


fin.

拍手[11回]


私のスケジュール帳は真っ黒だ。
仕事、付き合いでの会食、友人と呼べるか怪しい人たちとの食事会、まぎれもない友人とのごはんの約束、取り寄せたバッグを店に取りに行く日、ノジコがうちに寄ると言ってきた日、重要度の様々なたくさんの予定が、私らしい文字でびっしりとスケジュール帳を埋め尽くしている。
サンジ君が「空いてる?」と言った日を確認するためにスケジュール帳を開いたら、向かいから遠慮がちに覗き込んだサンジ君が「真っ黒だね」と本当に感心したように言ったのだ。

「うん。忙しいの、今月」

顔を上げることなくそう言って、彼が「空いてる?」と言った日を確かめるとそこには18時に終わる出張の予定が入っていた。
「ごめん、だめだわ」と告げると、サンジ君は途端に悲しそうな顔ですんすんと鼻を鳴らした。

「じゃ、いつならいい?」
「うーん、またサンジ君のいい日に誘ってよ」
「おれはいつでもいいよ、空けられるよ」
「そんなことないでしょ」

実際、私はプライベートの予定もたくさん詰まっているが、サンジ君も不規則なレストラン勤務で予定は開かないはずだった。
混みあうカフェで向かい合う私たちは、うっすら漂う煙草とコーヒーの香りの雑然さに会話がかき消されまいと半ば声を張り上げていた。
全然だよ、とサンジ君は言う。

「おれ、ナミさんのためならいつでもいいんだもん。仕事もなんとかする」
「そこまでしなくていいわよ、ただごはん食べに行くだけなのに」

サンジ君はまた、ぺしょんと眉を下げて、何か言葉をコーヒーで流し込んで飲みこむみたいにカップに口をつけた。

そんなこと言わないでよ、って言えばいいのに。
私もぬるくなったコーヒーに口をつけ、上目づかいにちらりと彼の表情を盗み見る。
おれたち付き合ってんだろ? もっとデートしようよ。
そうやって言えばいいのに、彼は言いたそうな雰囲気だけをじゃんじゃん洩らしながらけして口にすることなく、ただ悲しそうにつまらなさそうに言葉を飲みこむのだった。
だからって、私は代わりに言ってやったりしない。だってそういうのは私の役割じゃないと思っている。
本当は役割なんてどうでもいいんだけど、わかっているんだけど、サンジ君がいつか自信を持って私に「おれたち付き合ってんだろ?」と言うのを聞きたいのだ。
だから、私から言ってやったりしないのだ。
事実、本当に付き合ってるのかどうか怪しいもんだと思っている。

「ね、じゃナミさんこのあとは?」
「特に何もないけど」

ぱぁっと彼は顔を明るくし、

「夕飯一緒に食うだろ? どっか食いに行く? それかうちで食べる?」
「サンジ君ちがいいな」

くぅー、と彼は歓喜の声を洩らし、「ィ喜んで!」と万歳をした。周りの客が振り返って見るほどの大声で。






「怠慢だわ」

ビビにそう言い切られ、私は目を丸めて彼女を見つめ返した。惰性で動かしたマドラーが氷をかき混ぜ、からからと音が鳴る。
私? と思わず隣のロビンに確認し、首をすくめられる。

「サンジさんがずっとそんなふうに追っかけてくれる保証なんてどこにもないのよ。なのに、『そこまでしなくていい』なんてひどい」

ビビは形のいい眉を吊り上げて、神経質に机の木目を爪でこすった。
なんでビビが怒ってるのよ、と私は笑うが、ビビは口元を引き結んだまま「怠慢よ」とまた同じ言葉を繰り返した。

「たしかにそうかもしれないけど、だからって私から追っかけるのはおかしくない?」
「なにが? ちっともおかしくなんてないじゃない」

好きなんでしょ、と断定されて、私は「さあ」と首をかしげた。ビビはますます眉を吊り上げて、「前から思ってたけど」と声を高くした。

「ナミさんは追いかけられるのが当たり前だと思ってるみたいだけど、確かにそうだとしても、追いかける人の気持ち、考えたこともないでしょう」
「なんで私が考えないといけないのよ」

ビビの剣幕に私まで尖った声をだすと、カヤさんが困ったように「ふたりとも」と言ったがそのあとの言葉は続かなかった。
ロビンは我関せずというふうに、追加でチキンの何とかを注文している。

「サンジ君が勝手に私のこと好きで、私はそれを知ってて、それであれこれ誘ったりしてるだけなのに、なんで私が帳尻合わせてあげないといけないの。考えるのはサンジ君の方でしょ」
「追いかけられなくなったらさみしいくせに」
「そしたらそのとき考えるわ」

わざとつんとすました声をだしたら、ビビは口を閉ざして、私を真正面から見つめた。
手元の細いグラスはあっというまに空になる。「おかわり頼むけど」と言ってビビを見たが、ビビは黙ったまま小さく首を振った。
ねぇ、と頬を緩めてビビの方に肘をつき身を乗り出す。

「なんであんたがそんな怒るのよ。サンジ君がそうやって怒るならまだしも」
「だって、ナミさんが、あんまり」

みるみるうちにビビの目に涙が溜まり、私はぎょっとして「やだ」と声をあげた。

「もー、なに泣いてんの」
「ちが、ごめんなさい、だって、ナミさん」

カヤさんがおろおろと自分のおしぼりをつかみ、ビビに差し出した。だいじょうぶ、と震える声でビビが応える。

はあ、と私は腑に落ちないまま肩の力を抜き、「泣かないでよー」とビビの肩をとんとんと向かいから叩いた。
しかしキッと顔を上げたビビは、泣いて気が抜けたかと思いきや目に強い力を込めて「ナミさん」と私を見据えた。

「絶対、絶対に後悔するわ。追いかけられなくなったらそのとき考えるなんて、そのときなんて、なんにも考えられなくなっちゃうんだから。ナミさんのそういうところかっこいいけど、かっこばっかりつけてたって仕方ないんだから」

そしてビビは自分のグラスを掴み、小さな声で「おかわり」と呟いた。

ビビはそのあと何でもない風にお酒を飲んで、笑い、私にも相槌をうったけど、なんとなく晴れない気持ちがお互いの中に残っているのがわかって、いつもなら終電間際まで話し続けるところ、22時前に「今日はそろそろ」な雰囲気が漂って駅前であっさりと別れてしまった。
ビビは迎えの車に乗り、ロビンはこのあと噂の年下男と落ち合う約束で、私とカヤさんで電車のホームに向かった。

「寒いわね」
「ね、冬ね」

と意味のない会話を繰り返すのは、話すことがないからではなくあまりに寒くてそれ以外のことを考えられないからだ。
だから、電車があたたかな光をはらんでホームに滑り込んで来たとき、私たちは同時にホッと息をついてその光を見つめた。
電車は混んではいなかったが座る席はほとんどなく、私たちは入ったのと逆側のドアの近くに立ってなんとなく顔を見合わせ、笑った。

「カヤさん、今日もあいつが迎えに来てくれるの?」
「いいえ、今日は一人で帰るのよ」
「えっ、へいき? 送ろうか」
「やだナミさん」

目を伏せて、口元に手を当てて笑う仕草がこんなにも似合う人がいるだろうか。
カヤさんはちらりと私を見て「男前ね、相変わらず」と言い、

「タクシーを使うように言われているから大丈夫。最近仕事の関係でもよく乗るのよ」

と誇らしげに背筋を伸ばした。

男前ね、と苦笑する。
いつもであればそれこそ誇らしいような気持ちになるのに、今日はビビとの会話がふとよみがえり、苦く胸を浸した。
カヤさんは気づかぬふうに真っ暗な窓の外を眺めながら、「ナミさんは? 駅から」と尋ねる。

「私はいつも通り。駅からそんなに離れてないしね」
「ひとり? 帰り道、本当に気をつけてね」
「うん、あ」

コート越しに、携帯の震動がじりっと伝わる。
画面に目を落とすといつもメールボックスの一番上にある名前が目立つように光っていて、『ナミさん今日はいつ頃帰り?』とサンジくんからメールが来ていた。

「やっぱり迎え、あるかも」
「そう」

カヤさんはそう言って嬉しそうに微笑み、次の駅で降りていった。
どうしたら彼女みたいに、友達の恋やその困難を聞いてやろうなんて微塵も思わずに、ただ嬉しいことにだけ静かに微笑んでいられるのか、私にはさっぱりわからなかった。

一人になった車内で、サンジくんに「今電車。あと二駅で着くわ」と返信する。
きっと彼は仕事場から自転車に飛び乗り、同僚の怒鳴り声を背に受けながら駅まで走ってくるはずだから返信は来ない。
そうまでわかりながら、どうして私は彼の顔を見て嬉しいと笑ったり、ぎゅっと苦しくなる喉の奥あたりのことを話したりできないんだろう。

ホームを降りて改札へ向かうと、機械の外側でサンジくんはこちらを向いていて、私に気付くとぱっと顔を華やかせた。
彼が笑うと、柔らかい金色の髪がハッとするほど明るく光る。

「おけーり。よかったちょうど、時間があって」
「自転車は?」
「そのへんに停めてきた」

サンジくんは当たり前のように私の手を取り歩き出す。
彼の手は水仕事から上がったばかりのように冷たい。
ひょーナミさんの手あったけぇ、と彼は二回ほど強く手を握った。

サンジくんの自転車は駅前の暗がりに横倒しになっていた。
倒れてる、と呟いたらサンジくんは「そういやスタンド立てるの忘れてた」とケロっとした顔で言って自転車を起こすと、「さ、かばん」と言ってこちらに手を差し出す。
ハンドバッグを手渡すと、それを自転車のカゴに乗せるわけでもなく肩に下げ、「行こうか」と歩き出した。
街灯のぽつぽつと灯る歩道を歩きながら、サンジくんは器用に片手でタバコに火をつけた。

「今日は何食ったの?」
「お肉」
「あー今流行ってんね、どうだった?」
「おいしかった。赤身の、厚く切ったステーキ」
「ソースは?」
「玉ねぎのと……黒い、酸っぱいやつ」
「バルサミコ酢?」
「そうそう」

甘酸っぱいその味が口の中によみがえり、耳の下がきゅっとすぼまる。
妬けるなあ、とサンジくんは呟いて、信号に足を止めた。

「一瞬うちに寄って自転車置いてってい? そこの角入るだけだから」
「いいけど、なんで? 帰り乗って帰らなきゃじゃない」

駅からサンジくんの家はすぐだが、私の家までは少し歩く。
うちからサンジくんの家までは下り坂になるので、なおさら自転車がある方がいいのに。

「こいつ邪魔なんだもん。手ェ繋いで歩きたいし」

サンジくんの手は、片方は自転車を引き、片方は私のかばんを肩から下げて煙草を吸うのに使っていた。

「手って」

呆れた顔で「そんなことのために?」と言いかけて、 飲み込んだ。

そんなことなんかじゃないのだ。
そんなこと、じゃない。
確かに私は歩き出した時、彼がさっとためらいなく私の手を取ったことにじわりと喜んだし、彼が自転車を起こすために手を離し、そのまま両手を塞いでしまったことを心から残念に思っていた。
それなのに口からこぼれるのは正反対のあれこれで、天邪鬼なつもりなんて微塵もなく本心だと思い込んでいた。
なぜならそれが私の役割だから。
追いかけるのはサンジくんの役割で、追われて喜ぶのは私の仕事じゃないから。
こちらから塞がろうとする手を追いかけたりしてはいけないのだ。

追いかける人の気持ちがわからないなんて嘘だ。
こんなにも追いたくてたまらないのに、自分の足に足を引っ掛けて転びそうで踏み出せないだけだ。

「ナミさん、青」

顔を上げると、サンジくんが怪訝そうに私を覗き込んでいた。その向こうで歩行者信号が青く浮かび上がっている。
あぁ、ともうん、ともつかない返事をして歩き出したが、横断歩道を渡ってすぐ足を止めた。

「自転車、乗せて」

暗がりの中、サンジくんの片目がこちらを向いて丸くなった。

「わざわざ置きに行かなくても、二人乗りすればいいじゃない。それなら速いしこの時間なら人も少ないから危なくないでしょ」
「えーと、いいけど、本当に大丈夫?」
「大丈夫。ほら乗って。今日ちょうどパンツだし」

言いながら運転手のいない自転車に、先にまたがる。
サンジくんが慌てて両手でハンドルを支え、私は彼に預けていた自分のかばんを受け取った。

「行くよ」

ぐい、と踏み出したペダルは力強くゆっくりと彼の足をつかまえて、初めはぐらぐらと揺れるかと思いきや、意外にもぶれることなくしっかりと地面を捉えてすぐにスッと走り出した。

「大丈夫ー?」

叫ぶようにサンジくんが言う。
うん、と叫び返して、彼のベルトを掴む手にぎゅっと力を込めた。
頬にあたる風は切れるほど冷たく、目にしみる寒さに涙がにじんだ。
しばらくサンジくんは前を見据えて一定のリズムでぐっ、ぐっ、とペダルを漕いでいたが、スピードに乗り始めると彼の背中から力が抜けるのがわかった。
深緑のモッズコートは、冷たくもその向こうにあるサンジくんの温度を確かに湛えていて、私はそこにそっと頬をつけた。

「眠たい?」

彼が尋ねる。

「ううん」

彼の吐く息が、白く夜闇に紛れて消えていく。

「もう着くよ」
「早いわね」
「うん、だから、手ェ繋いで歩きたかったんだ」

もう到着だ、とサンジくんは明かりの灯るスーパーを通り過ぎ、最後の角を曲がった。

「明日は? 会える?」
「わからない」

そっか、とサンジくんは呟いて、腰に回された私の手をそっと撫でた。

「でも、今日は泊まってけばいい」
「え?」

サンジくんがブレーキをかけ、するするとスピードが緩まる。

「泊まってけば明日も会えるし」
「え、いいの」

きゅっと彼がブレーキを強く締め、ほほが背中に押し付けられる。
もううちの目の前だ。
よいしょ、と自転車から降りて、マンションの自転車置き場を指差すとサンジくんはそちらに自転車を引いて行った。
わざと息を吐き、白いそれを眺めながらガチャガチャと鍵をかける音に耳をすます。
戻ってきたサンジくんは、迷子みたいな顔で自転車の鍵を指先に引っ掛けて、私を見つめた。

「おれ、初めてだ。ナミさんち」
「そうね」

オートロックを解錠し、すぐの階段を上る。背後からサンジくんも静々とついてくる。

部屋は当然ながら、しんと冷えていた。
ブーツを脱いで床に足をつけるとキンと痛いくらいだ。
あ、とサンジくんが声を上げた。

「着替えの下着、ねーや」
「あぁ……買いに行く?」

ぱちんと廊下の電気をつけると、神妙な顔で彼が首を振るのが見えた。

「今出たら、もう二度と来れねェかもだから」
「そんなわけ」

ふっと吹き出すと、いきなり腕を引かれて彼の胸に強くぶつかった。

「わかんねェだろ」

ぎゅう、と彼の体に擦れたコートが音を立てた。
タイツ越しの床の温度がみるみると体温を奪うのに、懸命にペダルを漕いでいた彼の体はまだ温かかった。
力を緩めたサンジくんは、ためらうことなく顔を傾けて口づけた。
すぐに唇を離して、腰を抱き、また強く力を込める。

「サ、」
「ナミさんは、どんなに近くてもおれのものにはならねぇ気がする」

それこそキスをしても、抱きしめても、身体を繋げても。
冷えた廊下に佇んで、そうかもしれないと思った。

誰かのものになるのは怖い。
たとえそれが、私の欲しい誰かでも。
所有したものは消費されるから、もしも私たちがお互いを所有しあえば、せっかく芽生えた恋とか愛とかそういうものはきっと擦り切れてしまう。
傷つきたくなかった。

おかしーな、とサンジくんがつぶやく。

「前は、どれだけでも好きだとか付き合ってくれとか言えたのに。こんなふうに側にいること許されちまうと」

ぽたん、とゆるんだ吐水口から水が落ちた。
サンジくんはその音を皮切りに私を離すと、「でも下着はいるな」と照れたように笑った。
そうね、と私も笑う。
まだ靴も脱いでいないサンジくんが「買ってくる」と踵を返すのをぼんやりと眺め、すぐに我に返って「私も行く」と後を追った。
「寒いから」と彼はやんわり押しとどめたが、いいのと譲らなかった。

寒々と白く光るコンビニの隅で、サンジくんが下着や歯磨きを買うのを待って、手を繋いでまたうちに戻った。
お風呂に入り、気の抜けた炭酸水を飲み干し、二人で冷えた布団に潜り込む。
ぴりぴりと冷たい布地が身体に触れて、足先がもぞもぞと動く。そのたびにサンジくんの脛に触れ、さっと足を引っ込めるのだがまたもぞもぞしてしまう。
ついに彼の脚に私の脚は挟み込まれてしまった。

「ナミさん明日、休みだね」
「うん」

明日は土曜日だ。サンジくんは朝から仕事のはず。
忙しい1日になるだろう。

そっと手を伸ばして彼の顎髭に触れると、サンジくんは差し出すみたいに首を反り返らせて、好きに触らせた。
柔らかい針みたいなその手触りを無心で楽しんでいると、誤って彼の唇に触れた指先がぱくっとくわえられた。

「あ」

うまい、と呟いたサンジくんはそっと私の指を離すと、そのまま顔を寄せて来て、ふわりと唇を重ねた。
サンジくんはあろうことかそのまま、ナミさん、と私を呼んだ。
唇がくっついているので、まみあん、と聞こえた。

「おれのものには、とか言ったけど」
「ん?」
「さっき、玄関で」

唇を離したサンジくんは、冷たい鼻先をくっつけて言う。そんなこたどうだっていいんだ、ほんとは、と。

「ただ、おれはナミさんのものにしといてね」

するすると鼻と鼻をこすりあわせて猫のように、サンジくんは目を細くした。

「あんたそれでいいの」
「いいよ、最高だ。おれはナミさんの」

言いながら、彼の瞼が閉じていく。
薄いそのまつげの色を見てつぶやいた。

「擦り切れちゃうわ」

サンジくんはぱちっと目を開けて私を見つめ、「何が?」と聞いた。
なにがって、と私は言い淀む。
口ごもる私に何を思ったのか、サンジくんはだいじょーぶ、と唇だけを動かした。
そのまま再び目を閉じて、唇は半分開いたまま、彼は動かなくなる。

「寝たの?」

数秒間があいて、「いんや」と返ってきた。
しかしそのまま、また微動だにしない。

「今日、忙しかったの」と聞いてみたら、サンジくんは夢の中から帰ってくる分だけの間をあけて、「うん」と目を閉じたままうなずいた。

「金曜日だもんね」

うん、とうなずく。

「お客さんいっぱい来た?」

うなずく。

「売り上げ上々?」

うなずく。

「サンジくんのお店、美味しいもんね」

うなずく。にへらっと口角が上がった。

「また食べに行くわ」

ん、と低く短い唸り声をあげて、サンジくんは身じろぎ、ついにすうっと伸びやかな寝息が聞こえた。
長い前髪が、見えているもう片方の目も隠すように垂れている。それを指先で払って、柔らかな瞼に唇で触れた。

この人はわたしの、わたしの。

印をつけるみたいに、もういちど強く、唇を押し当てた。

fin.

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おい、と後ろから呼ばれて振り返る。仰ぎ見たその顔で、呼ばれたのが一度ではなかったことに気付いた。
そっと微笑みを乗せて、「どうかした?」と尋ねた。

「電話、鳴ってる」
「あぁ」

差し出されたそれを受け取るとき、肩の骨が軽い音を立てた。そこに手をあてて、電話に答える。私の授業をサポートしてもらっている学生の一人から、来週の授業についての確認の電話だった。
そう、そのとおりでいいわ、えぇ、任せるわ、となおざりな返事をして電話を切る。

「ありがとうゾロ。全然気が付かなかった」
「二時間も同じ場所に座りっぱなしで、よくそう文字ばっかり見てられるな」
「もうそんなに?」

机の上の小さな置時計で時間を確かめると、いつの間にか午後三時を回っている。感覚では、さっきお昼を食べたばかりなのに。

「ごめんなさい。退屈したでしょう」
「べつに」

そっけなくそう言って、ゾロは深いベージュのソファにごろんと横になった。
私が仕事をする間、ゾロは静かな動物のように、最近よくこうしてここで眠ったり雑誌を眺めたりしている。けして私の邪魔をすることはなく、かといって気を遣っている様子もなく彼は自分が話したいときに口を開き帰りたいときに「帰る」と言って本当に帰ってしまうのだった。
今また横になったゾロの姿を見て、まだ帰らないでいてくれるのだとホッとする。
少し休憩しましょうか、と言って腰を上げると今度は膝がきゅっと軋んだ。

「コーヒーでいい? そう、この前生徒さんからいただいたお菓子があったはず」
「最近多いな」
「なに?」
「仕事。朝から晩まで電話やらメールやら」

そうねぇ、と曖昧な返事をしてケトルに水を入れる。キッチンカウンターには、まだ封の開いていないプラスチックケースに入った上品なアーモンドクッキーがある。
それを手に取って、ゾロに「開けて」と手渡した。

「帰った方がいいか」
「え?」
「邪魔なら帰るぞ」

えぇ? と私にしては大き目な声で振り返った。ソファから身体を起こしたゾロは、大きな手でクッキーの箱を囲うように持ってじっとこちらを見ている。

「どうしたの。邪魔なわけないじゃない、むしろ退屈させてしまって、せっかく来てくれてるのに」
「おれがいると、なんだかんだ気を回すだろテメェは」
「したいからするのよ」

おかしな人、と笑いながらドリップパックの袋を引き裂く。真空状態から空気に触れたコーヒーの香りが、ふわっと華やかにひろがった。

「あなたがいると捗るの。放っておいてしまって申し訳ないけど。電話が鳴ったら持ってきてくれるし」

いつだったか、私の電話が鳴るのを嫌って携帯を壊そうとした彼を思い出す。当時のゾロも懐かしくて愛しいけれど、今の彼の方がもっと好きだ。
私のことをよく知ったゾロを、私もまた果て無く知りたいと思う。

「無理すんなよ」

ゾロは封を開けたクッキーのパッケージを机の上に放り出し、またソファに横になってしまった。
カップにふたつ淹れたコーヒーをその机に運び、珍しい言葉に私はしばしば目を丸くした。

「優しいのね」

けっ、とでも言うべき顔をして、ゾロは答えなかった。
私は熱いコーヒーに口をつけ、彼が開けたクッキーに手を伸ばす。甘ったるい砂糖とアーモンドの香りを、濃くて黒いコーヒーで飲み下した。




大学の研究室をそろそろ片付けないといけないと思うのだけど、毎日の授業に研究に、出張の準備に講演の手伝いにと何かとやることが多くてなかなか手が付けられないまま部屋は荒れに荒れていた。
こんなところで日中過ごしていることを、ゾロは知らないのだと思うとすこし可笑しな気分になる。
私の自宅に初めて上がったとき、ゾロは「ずいぶん小ざっぱりとした部屋だな」と物珍しそうに呟いた。
それは、仕事道具や本はこの研究室にすべて詰め込んでいるからで、自宅に家具をほとんどおかないからだ。かわりにこちらがひどい有様なのを私は黙っている。綺麗好きだと思われたかったのかもしれない。
午前中にひとつ授業に出て、昼過ぎまで研究室で学生のレポートを読んだ。夕方までにひとつ仕上げたい論文があったのだけど、一五時に学生が数人、研究の相談にやってくることになっている。
結局自分の研究に手を付けるのは夜になるだろうと思い、諦めて研究室に学生のためのスペースをあけた。
足元に転がった地図を端に寄せ、積み上がった本を逆の端に寄せ、本棚の一番上の段から学生たちが研究している分野の本を取り出しておく。
控えめに扉がノックされ、「どうぞ」と言ったらまだ子供のような学部生の顔が二つ覗いた。「いらっしゃい」と微笑むと、彼らはおずおずと部屋に入ってくる。

学生たちが帰るころには十六時を過ぎていた。彼らに出したコーヒーのカップを洗っていたら、スカートのポケットに入れた薄い携帯がふるえた。
ゾロかしらと思って取り出すが、画面を見て「なんだ」と思う。

「はい」
「もしもし、私。今大丈夫?」
「えぇ」
「電話が私で、なーんだナミか、って思ったでしょ」
「どうしてわかるの?」

ナミはからから笑って、「そうだったとしても普通『どうしてわかるの?』なんて言わないもんよ」と気にしたふうもなく言った。

「今夜ひま? 急だけど」
「今夜……ごめんなさい、まだ帰れそうにないわ」
「そ。まぁ突然だし無理よね。カヤさんがほら、あっちに行っちゃうからその前に集まれたらと思ったんだけど」

研修医のカヤは、医者として本職に就く前にかねてからの念願だったらしい海外留学に行くことが決まっていた。
私以外の三人の都合がついたので、急遽今夜と言う呼び出しだったのだ。

「遅くなってもいいから、来れそうなら連絡して? カヤさんもあんたに会いたそうだったし」
「えぇ」

じゃあね、とあっけなく電話は切れた。
電話を机に置いて、淡いグレーのコートを羽織る。朝から何も食べていないことに気付いたのだ。コーヒーばかり飲んでいるから、口の中が渋くまずい。
財布を手に研修室を出たところで、廊下が随分と冷えていることに気付く。鍵を閉める自分の手がやけに冷たい。
少し疲れていた。
忙しいと言って時間に追われる仕事ではないし、なにより仕事の量は自分で決めることができる。私は張り切っているのだ。カヤが海外留学に行き、ビビが自分より上の大人たちをひきつれて家業を回し、ナミが完璧な自分を維持したうえで昼夜を問わない仕事の呼び出しに応じる姿を目の当たりにして、羨ましくなってしまった。
私にも燃やせるエネルギーがあることを、確かめてみたいのだ。

研究室は六階で、エレベーターが下から登ってくるのをじっと待つ。2,3,4、と増える数字を眺めていた私は、少しずつ視界が狭くなっていくのに気が付いていなかった。
初めは、ヒールがぽきんと折れてしまったのかと思った。足元からすこんと力を抜かれるみたいに、私は立っていられずその場にくずれていた。
おい、と遠くで慌てた声が聞こえる。
低くて響かないその声は誰か知っているものだったけれど、霞がかった思考の中それがゾロではないことに私はがっかりして、返事をする気も失ってそのまま目を閉じた。

薄い薬品のにおいと真っ白な光に気付いて目を開けた。作られた清潔さがやけに目立つ白い天井から壁に目を転じ、自分が同じくらい白いベッドに横たわっていることに気付いた。ゆっくり身体を起こすが、頭の中身がそれと一緒にごとんと動いたように感じて倒れた時と同じように視界が狭くなる。
大学の看護室だった。いつのまにかそこに寝かされていた私が起き上がると、常駐する看護師が慌てて飛んできた。

「先生。いま、救急車を呼ぼうかと」
「いえ、必要ないわ。ごめんなさい」

言われなくても倒れた原因なんてわかっている。寝不足と過労だ。自分でもわかるような理由で病院に運ばれたらたまらないと思い、私はベッドから足を下ろした。

「誰が私をここまで?」
「ええと」

まだ学生のような看護師は、「背が高くて、黒いコートで、ここに傷があって」と身振り手振りでその人を表して見せた。

「あぁ、サーね。よかった。お礼を言っておかなくちゃ」

あなたもありがとう、と告げて立ち上がる。ヒールは折れてなどいなかった。

「もう少し休んで行かれた方が」
「大丈夫。今日はもう帰るわ」

荷物だけ取りに行かなくちゃ、と一人ごちて看護室を出た。
外はすっかり暗くなり、腕時計で時間が一八時を回っているのを確かめる。研究室に戻り机に置きっぱなしの携帯をカバンに落とし込んで、すぐに部屋を出た。
エレベーターがやってくるのを、また数字が2,3,4と上がるのを見つめながらじっと待つ。既視感を覚えてまた倒れてしまいそうだと考えていたところで、隣に人が立つ気配がした。

「随分治りが早ェな」
「サー……運んでくれたんですってね、ありがとう」

男は全館禁煙の注意書きには目もくれず、太い葉巻からたっぷり煙を吹かせて私の礼には答えず言った。

「目の前で倒れられて跨ぎ越して行くほど悪人じゃねェんだおれは」
「迷惑をかけたわ」
「まったくだ」

折よくやってきたエレベーターに乗り込み、四人で一杯になってしまうほど小さな箱の中はすぐに葉巻の匂いで一杯になる。

「やわになっちまったみてぇだな」
「何?」
「この程度の忙しさで倒れるような女じゃなかったろうが」
「もう若くないもの」

サーはふっと鼻を鳴らして、珍しく笑った。研究棟を出て、大学の門に向かって私と同じ方向に歩く彼も今日は帰るらしい。
来週の講演会は、サーも出席するはずだ。同じ学科で研究室も隣の彼とは何度かタッグを組んだことがあった。彼も私のことをよく知っている。必要以上に。
広い学園内の並木道は夜の風でざわざわと音を立てていた。人気はないのに、置きっぱなしの自転車や図書館の窓から洩れる灯りなんかで未だ学生たちの気配がたっぷり残っている。
私がその空気を深く吸い込んだ時、ふと思いついたみたいにサーが言った。

「送ってやろうか」
「え? いえ結構よ。電車に乗ってしまえばすぐだもの」

大学の門の手前に差し掛かっていた。サーは左に折れて駐車場へ向かうはずで、私は右に折れて駅へ向かうつもりだった。
しかしサーは口に挟んだ葉巻をつまんで煙を吐き出すと、脚を止めてじっと私を見下ろした。

「送ってやろうか」
「……サー」

そういう目で見るのはやめて、と喉元まで出かかった。でも言ってしまったら何か彼の思うとおりのことを認めてしまう気がして、言わなかった。
何でもかんでも思うとおりになると思わないで、とこの男にはいつも言ってやりたくなるのだが、まだ言えたためしがない。

「今日は帰るわ。明日も、明後日も私はまっすぐ帰る」

サーはばかにするみたいに、口の端を上げて少し笑った。私から視線を外し、どこかを見ながらまた深く煙を吐いた。

「おつかれさま」
「あぁ」

くるりと背を向けて、大男はコートの裾を揺らしながらゆっくりと歩いて行った。
一仕事終えたような気分で私も踵を返す。門の石柱を通り過ぎようとしたところで、その影に寄りかかるように立つ人の気配に気付いて驚いた。
私が気付くより一瞬早く、名前を呼ばれる。

「ロビン」
「まあ」

ゾロは眠たげな目で私を見て、「おう」と短く言った。

「驚いた。迎えに来てくれたの」
「電話、出なかったぞ。壊れてんのか」
「え、あぁそういえば。ごめんなさい、しばらく確認してなかったの」

鞄から携帯を取り出すと、ゾロからの着信と「いまどこにいる」「むかえにいく」という短いメールが入っていた。ごめんなさい、ともう一度謝る。

「いつから待ってたの? 中に入ってこればよかったのに」
「今着いたところだ。お前が歩いてくんのが見えたから、待ってた」

そう、と答える。ゾロは何か言いたげに私を見て、言葉を探している。私はじんわりと足が痛んでくるのを感じながら、それを待った。
やがてゾロは、「あいつ」と私の背後に視線を移した。「えぇ」と答えて続きを待つ。しかしゾロは「あいつ」と言ったきり、そのあと押し黙ってしまった。

「……ゾロ。帰りましょう」

ゾロは子どものようにむすりと口を引き結んでいる。かわいいと思ったが、やっぱり私は少し疲れていた。サーとのやり取りのこともあり、早く家に帰ってゾロの胸を枕に眠りたかった。
ゾロが歩き出す。私が横に並んでも、ゾロは何も言わなかった。いつものことなのに、やれやれと思ってしまう。
駅に入る直前で、ゾロが脚を止めた。

「ゾロ?」
「今日は、おれァ帰るわ」

え? と聞き返しながら、私は登りかけた低い階段を一段降りた。ゾロは階段に足もかけず、じっと私を見上げてから目を逸らした。
ゾロの家は大学からほど近い。彼はいつも歩きか自転車で大学まで通っていたのだ。こういう関係になってから、彼が私を大学まで迎えに来てくれることは幾度もあったが、そのときはいつも電車に乗って私の家まで帰るのが、二人にとっての帰宅だった。

「どうして? 何か用事があったの」
「いや、お前ェ疲れてるみてぇだし」
「そんなこと」

そうだ、私は疲れている。疲れているからこそ、あなたと一緒に帰りたいのに。
どうしてわからないの、という思いが一瞬溢れて、口からこぼれるより先に見えない質量を伴って私の肩を重くした。

「いいわ、わかった。迎えに来てくれてありがとうね」

おやすみなさいと言うと、いつもの仏頂面でゾロは「あぁ」と言った。
私は踵を返し、階段を上って駅の改札口へ向かう。改札を通る寸前、振り返ったが、もう彼の姿はどこにもなかった。



どこか遠くで電話が鳴っている。柔らかい毛足の毛布に顔を埋めてその音を他人事のように聞いている。
ゾロ、電話を取って。口の中で呟くも、彼がそこに居ないのなんてわかっている。
身体が重い。肘が痛い。頭が熱い。鼻がつまって、息を吸うとつんと痛んだ。
コール音はなかなか切れなかった。今日は日曜で、授業もないし研究棟も閉じている。家に持ち帰った仕事を少し片付けるだけのつもりだったのに、いったいだれがどういうわけでこんなにもけたたましく電話をかけてくると言うのだ。
腹立たしい気持ちで起き上がり、殺風景な自室の隅で鳴り続ける携帯電話を取りに立ち上がった。
床がひどく遠い。裸足の足で触れたそこが冷たくて気持ちいい。

「ロビンさん? あの、こんにちは。私、カヤです」
「あら、ごめんなさい出るのが遅くて」

電話口で、彼女が小さく息を呑む音が聞こえた。

「ロビンさん……体調がよろしくないの? ひどい声」
「そう? 平気よ。何だったかしら」
「あの、この前会えなかったから。でも、それより休んで。今日お仕事は?」
「今日はお休みだわ」
「よかった。あの、ごはんは? 食べられるの?」
「えぇ」

するりと嘘を吐いた。食事なんて、あの日研究室で倒れた朝からろくに食べていなかった。相変わらずコーヒーばかり飲んでいたが、不思議と空腹を感じなかった。
カヤはしばらく考えるように黙ったが、「ゆっくりして。また連絡します」と言って電話を切った。
長いコールは彼女らしい生真面目さゆえだったのかと思いながら、携帯を机に置いた。その割には要件も言わなかったけどいいのだろうか。
顔を洗おうと洗面所に行って鏡を見ると、唇は乾燥で皮がめくれて、目元は落ちくぼんだように黒く影が乗り、それなのに頬は妙に赤く色づいていた。
ひどい顔、と自分に悪態づいて冷たい水で顔を洗った。
何か口にした方がいいのはわかっているのだけど、用意をするのも口に運ぶのも億劫で仕舞いには考えるのもやめてしまった。
部屋に戻って着替え、携帯の着信を確かめる。
ゾロに会ったのは、一昨日、駅前で別れたあのときが最後だ。
昨日は彼が仕事で連絡はなかった。今日ももう昼に差し掛かろうとしているが、未だ連絡がない。

サーとの一連のやり取りを聞いていたのだろう。そして何かを想像し、考えたのだろう。相変わらず不埒な私はそれを嬉しく思ってしまうが、ゾロを傷つけてまでそんな思いをしたいわけではなかった。
はあ、と熱い息を吐いて、私は不肖な子どものようにまたもぞもぞとベッドに潜り込んだ。
もしかして、私とサーの何かをゾロが想像したのだとしても、彼はちっとも傷ついたりしないのかもしれない。むしろ呆れ返って、こんな女の家にはもう来ないのかもしれない。
もう来ないのかしら。
ゾロ。

するすると私をなめらかに通り過ぎていくたくさんの人たちの中で、初めてゾロが脚を止めて私の手を掴み、引っ張って一緒に歩こうとしてくれたのに。何かの拍子で手が離れたとき、私は自分からそれを掴み直すことができない。
臆病すぎて嫌になる。
熱のせいだと分かりながら、そんなことを鬱々と考えてまた眠った。

家のチャイムが鳴ったとき、浅く眠っていただけの私はすぐに目を覚ました。インターホンの方に顔を向けると、画面がぼやっと荒い映像を映している。
誰か来た、と思ったが遠目には誰だかわからない。何か複数の影が動いているように見えた。
横になったままその映像をぼうっと見ていたら、携帯の着信が甲高い音で鳴り始めてびくっとした。
仕方なく身体を起こし、着信の名前を確かめて電話に出た。
私がはい、と言うより早く声が聞こえる。

「もしもーし。開けてー。大丈夫? 生きてる?」
「ナミ」
「あっよかった生きてる。ね、とりあえず開けてよここ」

もう一度インターホンの方に顔を向けた。青っぽい画面に頭が三つ。見知った可愛い顔たちだった。
ふっと思わず吹き出してしまう。

「ダメよ、私今ひどい顔してるの」
「だから来たんじゃないの。どうせろくなもん食べてないんでしょ、いろいろ買ってきたから」

オートロックの施錠ボタンをおしてあげると、電話口から「あっ開いた」とまた別の声が聞こえて、「んじゃあとで」と言って電話が切れた。
ドアを開けた途端ナミは「わっ、ほんとにひどい顔」と言って呆れたように目を丸め、ビビは心配そうに「病院に行かなくていいかしら」と言い、その後ろでカヤが申し訳なさそうに上目づかいの小さな声で「ごめんなさい」と何かに謝っていた。
どやどやと入ってきた彼女たちは、私を押しやるようにベッドに寝かせてふわりと布団をかけ、またどこかから引っ張り出してきた薄い毛布をさらにその上に掛け、中身のつまったビニール袋を二つほど机の上にどさりと置いた。
ナミの冷たい手がぺたりと私の額に触れる。

「そんなに高くないみたいだけど、あんた平熱低いんでしょ。けっこうきついんじゃないの」
「さあ……」
「だめね、とりあえず何か食べないと」

勝手に台所使うわね、と言ってナミとビビがキッチンの方へ向かい、ふたりで少しひそめた声で話しながら何か用意を始めた。
なんだかすごいことになってきた、と思いながらその様子を眺めていたら、いつの間にかベッドのわきにカヤがひざをついていた。

「ごめんなさいロビンさん、やっぱりどうしても心配で」
「えぇ、ありがとう。よっぽどひどい声してたのね私」

カヤはそれには答えず、ほんのりと笑って「少し触ってもいい?」と言った。薄い水色のセーターを、彼女には珍しく肘のところまで腕まくりしている。頷くと、まず私の額に触れ、首を角度を変えて何度も触った。

「少し捲るわね」

私が頷くのも確認せず、布団と毛布をめくり上げると私の腕を取り、脈に指をあて、それから脇の間にさっと手をあてて胸の辺りを少し押すように触った。
そして布団を元通りに戻すと、困ったように笑って「やっぱりごはん、食べてなかった」と言った。私は口元だけ笑ってごまかす。

「ナミさんたちが食べやすいものを用意してくれるから、少し食べて。私たち、すぐに帰るから」
「えぇ。ありがとう」
「お仕事忙しかったのね。休んで栄養を摂ればよくなるわ」

カヤはにこりと笑うと、すっと立ち上がってナミたちのいるキッチンの方へ向かった。
以前駅で倒れた彼女をゾロが拾ってきて、ここのベッドで寝かしたことがあった。今はすっかり立場が逆転してしまっている。年下の彼女たちに寝かしつけられて世話を焼かれていることを気恥ずかしく思いながら、遠くの方で聞こえる物音や可愛らしい声に耳を澄ますのは心地よく、いつのまにかまた眠ってしまっていた。

ほんの少しの時間うとうとしただけだと思っていた。だから目を開けて、妙に部屋が小ざっぱりと片付き、ほんのり温かいような人の気配が残っているのにしんと静かで誰もいないのを確かめて、さっきまでの光景は夢だったのかと思った。
ガタッと椅子が床を叩くような物音がして、そちらに頭を持ち上げた。
ゾロがダイニングテーブルから腰を上げ、こちらに歩いてくる。

「目ェ覚めたか」

しばらく、呆然と彼を見上げた。ゾロは私の様子を確かめるみたいに覗き込み、「おい」と眉をすがめる。

「ゾロ?」
「んだ、おれのこともわかんなくなっちまったのか」

ゾロはからかうみたいにそう言って、私の額に分厚い手をあてた。何を確かめたのか、首を傾げ、「まだつらいか」と言った。

「どうしてここにいるの」
「あん? 今日はお前ェ仕事休みだろ」
「そうじゃなくて」

不意にゾロがぺチンと私の額を叩くので、あっと声をあげてしまった。

「要らねェこと考えてねぇで、たまには何も考えず寝とけ」

そうは言って、ゾロはどすんと私のベッドに腰を下ろすので私はもぞりと身体を起こし、ぼんやり彼を見た。起き上がった私を見る彼の目がいつも通りで、仏頂面の三白眼のくせにどことなく優しいその目に見つめられて、だるい身体がほろっとくずおれるように感じた。
そのまま体を傾けて、彼の肩に額をつけた。

「ゾロ、もう来てくれないのかと思った」
「なんでだよ」
「わからないけど」

手のひらで顔の片側を隠すように覆い、ぎゅっと目を閉じた。ゾロの肩は硬くて、私が頭を押し付けてもびくともしない。
不意にゾロの逆の手が、私の首筋に張り付いた髪を後ろに払いのけた。指先が肌に触れたけど、それだけで彼の手は戻っていってしまう。

「ゾロ」
「めし、食うか。なんか鍋に入ってっぞ。冷蔵庫にも」

あとこれ、と言って紙切れを一枚手渡される。肩から顔を上げそれを確かめると、小さなメモ帳に細い筆先の綺麗な文字で「お大事に」と一言、そして鍋に入っている雑炊と冷蔵庫に詰めた食材のことが書いてあった。

「あの子たちに会った?」
「いや。そこのテーブルに置いてあった。あとウソップから連絡が来た」
「あぁ、カヤね」

ゾロがカヤを拾ってきた一件以来、彼女を迎えにきたウソップとゾロで交流が生まれたらしく、幾度か会っているらしい。ウソップから教えられてきてくれたのかと思うと、嬉しい半面何故だか少しがっかりした。

「ちょうどお前ェんちに行こうとしてたときだったから、ちょうどよかった」
「そうなの?」

ゾロは頷き、「なに食う」と立ち上がった。

「じゃあ、せっかくだし作ってもらったものと……なにか冷たいもの」
「冷たいのっつって、いろいろあるぞ。ちょっと待てよ」

ゾロはどすどすと冷蔵庫まで歩いていくとその中を覗き込み、「リンゴ、ミカン、イチゴ、プリン、ゼリー、ヨーグルト」とあるものを片っ端から読み上げ始めた。

「あなたが食べたいものでいいわ」
「阿呆、お前が食うんだろうが」

そう言いながら、適当なのか本当にゾロが食べたかったのか、プリンを掴んでこちらによこしてきた。鍋に火をかけて温め直してもらう間、そのプリンを小さくすするように食べる。
甘くて濃くて、じんわりと喉の奥が溶けるみたいにやわらかくなっておいしかった。
ダイニングに腰かけたゾロはペットボトルの水を飲んで、「いつから具合悪かったんだ」と言った。

「さぁ……金曜日、学校でも少しおかしな感じだったから、多分そのときかしら」
「おれが迎えに行った日じゃねェか。なんでそのとき言わねんだよ」
「あなたが来てくれたから言わなかったのよ。具合が悪いなんて言ったら、帰ってしまうでしょう」

言わなくても結局帰ってしまったけど、と恨みがましく言ってみる。
ゾロは痛いように顔をしかめてしばらく押し黙ったのち、「すまん」と短く言った。

「どうして謝るの」
「帰ってほしくなかったんだろ」

頷くと、「そうならそうと言え」とゾロは不機嫌そうに呟いた。

「おれぁあんとき、お前があいつとどこか行く予定だったのかと思って」
「あいつ?」
「あのでけー奴」
「あぁ、サーね。彼と別れてからあなたと会ったんじゃない」
「行きたかったけど断ったのかもしれねーだろ」

私は目を丸めて、彼を見つめた。

「ゾロ、あなたそんなことも考えるのね」
「ばかにしてんのか」

違うわ、と思わず笑ってしまった。ゾロは不愉快そうに目を細くして私を見た。
来て、と私は彼を手招く。ゾロは迷いなく立ち上がり、また私のベッドに腰かけた。その身体に寄りかかり、太い首筋に猫のように頬をつけた。

「あなた以外と行きたいところなんてないもの。どこにも」

ゾロがこの部屋に来てくれるのなら、もうどこにも行く必要はない。ずっとここにいて、永遠にこうしていたい。
ゾロは一度だけ私の後頭部を撫で、ぎゅっと自分に押さえつける。布団越しに私の膝をくるりと撫でて、立ち上がった。
ぐつぐつと煮えた鍋の火を止めてダイニングの鍋敷きの上にどんと置く。
「来れるか」と彼が言うので私はベッドから起きだし、器やスプーンを用意して彼と向かい合って座った。
あの子たちが作ってくれた雑炊を、彼が私よりたくさん食べるのをとてもうれしい気持ちで、ずっと眺めていた。


fin.

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大通りに面した一等地にその店はある。
白い外壁、青い屋根、焦げ茶色の看板に木製の立派な扉。
そしてその扉の中と外を繋いで、人がずらりと並んでいた。
 その様子を目の当たりにして、4人で立ち尽くした。

「ナミさんどうやって予約取ったの?」
「……電話」
「本当に取れてるの?」
「たぶんって言ったでしょ」

怪訝な顔で3人に振り向かれて目を逸らす。
とりあえず入りましょうと人の列に沿って店の中へと入った。
レジカウンターにいる男性スタッフと目が合って、彼が最初に電話に出た人だろうと思い小さく会釈した。

「予約されてます?」
「えーっとさっき電話を」
「あぁ、4名さん。ようこそ」

さくっと了解されてあっという間に席に案内されていた。
店の角の窓際の、びっくりするほど良席だった。
壁一面の大きなガラス窓から、綺麗に整理された小庭の緑が見える。

「ナミさん予約してくれてたの?」
「や、さっき電話したのが初めてだけど、実は知り合いがいて」
「えーっそうなの? すごい特別扱いでびっくりしちゃった」

ね、と顔を見合わせ笑うビビとカヤさんに、愛想笑いを返す。
濃いえんじ色の絨毯、ドーム状になった丸いフロア、隙のないギャルソンたちが秩序だってテーブルの間を行き交う。
ただ、他の3人が楽しげに辺りを見渡しているのに対して私一人冷や汗をかいている。
だってこの店すごく高そう。

「ね、ね」

テーブルの真ん中に身を乗り出すようにすると、他の3人もそろって顔をこちらに向けた。

「ごめん、なんかめちゃくちゃお高そうなお店に来ちゃった」
「えー、まぁそうね、ハイソな感じ」
「いいじゃない、たまには。みんな忙しかったんだし」
「そうよ、せっかくなら一番高いコース頼んじゃいましょうよ」

デザートまでたっぷりのやつ、とビビが笑ったところで、ふと隣に影が差した。

「いらっしゃいませレディ達。ようこそバラティエへ」




4人で朝から岩盤浴に行った帰り際、他の3人に隠れてこそこそ電話した。
まだ忙しい時間帯だろうに、電話はたったの2コールで繋がった。
随分野太い声のスタッフが、居酒屋のような威勢の良さで店名を告げる。

「今からランチ4人予約できませんか」
「あいにく満席で、このあとも予約が」
「あぁやっぱり。んーと、じゃあサンジ君はいるかしら」
「サンジ? おたくうちのサンジの知り合いで?」
「ん、えぇまぁ。でもごめんなさい忙しいときに。やっぱりい……」
「あちょいと待ち」

おいクォラサンジィ!! と電話口から少し離れたところで怒声が響き、思わず携帯から耳を離した。
んだクソ野郎、と答える声が確かに知ったもので妙に緊張する。

「はいもしもしお電話代わりました──」

営業用にしては随分低い声に笑いそうになりながら、「仕事中にごめん、私だけど」と抑えた声で言う。

「……え、ナミさん!?」
「ん、本当ごめん、代わってもらわなくていいって言おうとしたんだけど」
「なに、なになになに!? おれの声が聞きたくなった!? 聞きたくなったの!?」
「ちがうから落ち着いて。サンジ君のお店に友達とランチ行きたくて予約の電話したんだけど、今日は無理そうね」

ディナーは数か月先まで予約で埋まっていると聞いた。はたしてランチは、と一縷の望みをかけたのだけど、どうやら難しそうだ。
しかしサンジ君は至極あっさりとした声で「いやいけるよ?」と言った。

「え、でも今満席ってさっき」
「うんでも何人?」
「4人……」
「ん、了解。あとどれくらいで着きそう?」
「近いから15分くらい」
「わかった、気を付けて来て。待ってる」
「ほ、本当に大丈夫なの」
「大丈夫大丈夫、クソうめぇの作るから期待してて」

ナミさんの声が聞けて良かった。そう言って電話は切れた。
なんとなく腑に落ちない思いで出入り口の方へ行くと、すでにみんなきちんと化粧を施して、さっきまでのあどけなさが嘘みたいにきちんと整った姿で私を待っていた。

「ナミさんどこ行ってたの」
「あ、ちょっと電話。ランチのお店予約しとこうと思って」
「あらありがとう。予約できた?」
「うん、たぶん」

たぶん、と歯切れの悪い私の言葉には特に誰も引っかかった様子はなく、みんな一様にしあわせそうなほくほくとした身体でサロンを後にしたのだ。




厨房にいるもんだと思ったのに。
黒いベストに黒いサロンを下げて、きっちりギャルソンの格好をしたサンジ君を呆気にとられて見上げた。
目の前のテーブルにさっとメニューボードがひとつずつ差し込まれる。
サンジ君が4人を見下ろして丁寧に一礼した。

「おすすめのランチコースがそちらのメニューに。本日のメインは甘鯛のポワレか仔羊のグリル、春野菜を使ったストロガノフからお選び頂けます」

彼が顔を上げた瞬間目が合った。
左口の端を少し上げて、ほんの少しそれだけの仕草で私に応えた。
彼がいつも煙草を挟む方の口だと、私だけが知っている。

「じゃあ私、甘鯛」
「あ、私も」
「私はストロガノフを」

とととんと注文を済ませた3人が私を見る。
クリーム色のざらついたメニュー用紙の上を視線が滑る。
ナミさんは? と訊かれるかと思ったのに、サンジ君は黙って私の言葉を待っていた。

「……仔羊のグリル」
「かしこまりました。メニューをお下げしても?」

メニューボードを彼に差し出すと、丁寧な指先がそれを受け取った。
彼が立ち去ると、ビビがきょろりと辺りを見渡してから「ナミさんのお友達は? 厨房にいるの?」と無邪気な顔で尋ねた。

「──ん、そうだったかな」
「料理人なの?」
「うん」

すごーい、とビビとカヤさんは物珍しげにはしゃいだ。
カトラリーのぶつかり合う上品な音があちこちから響いてくる。
別のギャルソンが、私たちのテーブルにもカトラリーを行儀よく並べた。

「男の人?」と唐突にロビンが訊く。

「そう」
「聞いてないわね」

ちらりとロビンを見渡すと、いつかの仕返しだと言わんばかりの目で見つめ返してくる。
「言ってないもの」と小さな声で反抗的に呟いた。

「え、なに、そういう人なの? ナミさんの?」
「別にぃ。ちがう」
「うそ、見てみたいな、フロアにはでてこないのかしら」
「出てこないわ。料理作ってんだもん」

ていうか違うって言ってるのにと反論してみても誰も聞いていない。

「なるほどそれでこんなスムーズに人気店に飛び込めたのね」
「え、ってことはも上手く行ってる人なの?」

それこそ聞いてないわ、とビビが身を乗り出しかけたとき、会話を遮らないタイミングで「お待たせしました」と前菜が運ばれてきた。
かわいらしいカクテルグラスに入ったデザートのような冷菜だ。

「カリフラワーのムースとトマトのジュレのカクテルです」

かわいい、とカヤさんが声をあげた。
もったりとしたムースの上に透明のゼリーがかかっている。
ビビが一口含んで、声をあげた。

「この透明なゼリー、トマトの味がする!」
「トマトの凝縮液なんじゃない。凝縮すると赤くなんないから」
「へー、ナミさん詳しい」

ふるふる揺れるジュレはのど越しよく体の中へ滑り落ちていった。
まだ火照りの残った身体に優しく溶けていくようで心地いい。

「それで、どんな人? どこまで上手く行ってるの?」

忘れてないわよと言わんばかりに、すかさずビビが会話を繋ぐ。
金色のスプーンを咥えて、「聞きたいなぁナミさんの話」とわざとらしくにやけている。

「ちがうってばだから。ここに来たのはたまたま近くだったからで」
「じゃ、付き合ってはないわけね」
「そうよ!」
「ナミこそ特定の誰かと付き合ったりしないものね」
「おいしいごはん食べさせてくれて高いもの買ってくれたらそれでいいんだもん」

すがすがしいのね、とロビンが呆れたように笑った。
薄い橙色のとろりとしたスープがサーブされて、覚えのある舌触りに驚いた。
家の狭い台所で彼は丁寧に下ごしらえをして、店で出すのと同じものを私に食べさせたのだ。

「パプリカ? 甘くておいしー」
「メインまでにお腹いっぱいになっちゃいそう」
「これも噂の彼が作ってるのかしら?」

ロビンが目を伏せたままなんでもないことのように尋ねる。
「知らない」とそっけなく答えると鼻で笑われた。

「なんでそうまで隠したがるの。人のことは根掘り葉掘り聞くくせに」
「別に隠したがってるわけじゃないもん。まだそういう人じゃないだけで」

まだ、と言ってからハッと気付いて、「別に予定があるわけじゃないけど」とごにょごにょ訂正した。

「意地っ張りね」

ロビンが大人びた顔で笑うのが悔しくて、黙ってスープをすすった。
ビビとカヤさんはくすくす笑っている。
底の見えたスープ皿に天井の丸い灯りが映っていた。
サンジ君、ギャルソンの格好だった。
今日は作ってないのだろうか。

メインが運ばれてきて、自分が選んだのがなんだったか思い出せなかった私の代わりにカヤさんが「ナミさんは仔羊のグリルって」と小さな声で教えてくれた。
やわらかくてあたたかい肉を口に含む。
ソースの甘い味が濃い肉汁といっしょにじわりと沁みた。

「あーおいしい」

思わず低い声で呟く。
ふと他の3人の顔を見ると、一様に目を細くして黙って咀嚼していた。
言うつもりもなかったのに、つい口からこぼれ出た。

「おいしいでしょ」
「……うん、びっくり」
「久しぶりにこんなにおいしいもの食べたわってくらい」
「でしょ」

知ってるんだもの、と胸の内で呟く。少しだけ誇らしげに。
私の噂の彼の話からビビのこの間の旅行の話を聞いたり、カヤさんが学会で失敗した話のあとでロビンの年下の男の話題に急展開してみたり、忙しい私たちの会話の間、何度か背後を振り返りそうになった。
実際に数回振り返って、でもそのたびに広いフロアを行き来する黒いスーツのギャルソンたちの中にひときわ目立った金髪は見つけられなかった。

「いない?」

不意に訊かれて、また後ろを見ていたのだとそのとき気付いた。
否定のしようもなくて、苦い顔で「うん」と言う。

「忙しいのね、それに料理人なんでしょう? 手が空かなきゃ出てこられないでしょうね」

デセールの小さなパルフェをつつきながら言うロビンの口調が慰めるようで、落ち着かない気持ちになった。
別に会いに来たわけじゃないのだ。

「ナミさんから顔くらい出しに行ったら?」
「えっいいわよそんなの」
「どうして? 来てくれたら喜ぶわよ、きっと」

そりゃ喜ぶだろう。抱き着くような勢いで飛び跳ねるに決まっている。
でも邪魔をするわけにはいかない。

食後のコーヒーまで飲んで、気付いたら店に入って2時間近くたっていた。
コース料理はゆっくりしちゃうわねと言いながら近くの店員に会計を頼んだ。
しばらくして戻ってきた店員が私の背後に立ったので、お会計を受け取ろうと手を伸ばしたら代わりにギュッと指先を握られたので心底驚いて振り返った。

「お料理はお気に召していただけましたかな、レディ達」
「サッ……!」
「御代は結構です、君たちの顔をまた見せに来てくれたらそれで」

サンジ君はコック服のままだった。
やっぱり、最初はわざわざ着替えてきたのだ。
私の手を握ったまま、サンジ君は呆気にとられる私たちを見渡してにっこり笑う。

「帰り道お気をつけて」

すっと私の手を下ろして一礼すると、サンジ君はフロアの中で目立つコック服を隠すように店の隅を歩いてさっと厨房に続く扉の向こうに消えた。

「──なるほど」

最初に口を開いたのが意外にもカヤさんで、その一言を皮切りにロビンとビビも口を揃えて「なるほどね」と言ったのだった。




夕方から予定があるというビビのために早めに解散し、私も明るいうちに家へと帰った。
帰り道携帯がメールを受信し、相手がサンジ君だったので驚いてすぐさま時計に目を走らせる。
まだ16時で、これからディナーの始まる彼の店はまだまだ忙しいはずだ。

「夜会える?」という短い本文に、こちらも「外でなら」と短く返す。
家には上げないのだ。
付き合ってもない男を私は家に上げたりしない。

「じゃあおれんちに来てくれる? 迎えに行くよ」という返事に、「了解」とそっけなく返した。
家には上げないけど、あっちの家には上がってやってもいい。
何度かごはんを作ってもらった、ただそれだけだから。

23時近くになって、「ごめん遅くなった」と電話がかかってきた。
同時に部屋のベランダ側、道路に面した方から自転車のブレーキが止まる音がした。
テレビを消して、変な柄のヘアバンドを頭から外す。

「ほんっとに遅い。もうお風呂入ろうかと思ってた」
「ごめん、ほんっとにごめん! な、ちょっとだけだから会えね? おれメシ今からだからさ、なんか夜食作るし」

ナミさーん、出てきてー、と電話と窓の外と両方から聞こえる。
「ばか、声がでかい!」と一喝してから手櫛で髪を軽く整えて外に出た。

マンションのエントランスを出ると、サンジ君が咥え煙草で自転車にもたれていた。
「こんばんは」という馬鹿丁寧なあいさつに、「おつかれさま」と返すとほろほろと彼の頬が溶けるように緩んで笑った。

からからと自転車を引いて、私たちは夜道を歩く。

「今日、来てくれてほんっとありがとな。びっくりしたけどめちゃくちゃ嬉しかった。てか先に電話くれて良かったよ」
「や、こっちこそ……そうだお代! 全員分払ってくれなくてもよかったのに!」
「せっかくナミさんが可愛いお友達3人も連れて来てくれたんだもん、奢りてぇよ」
「それにしたって……予約も、無理したんでしょ」

ふわふわと夜闇に溶ける煙草の煙を目で追いながら、サンジ君は「ぜーんぜん」と言った。

「ナミさんのためならいつでも席空けるって前に言ったろ。有言実行」
「そんなことばっかりしてよく首にならないわね。いくら自分の家だからって」
「いやいやこんなことすんの初めてだぜ。さすがにしょっちゅうしてらんねぇよ」

ナミさんだけ、と顔を覗き込まれる。
わざとらしい、と顔を背けると「手厳しいなあ」と彼は朗らかに笑った。

「それにわざわざ出てこなくたってよかったのに」
「だってナミさんに会いてェじゃん。てか帰り際びっくりさせちまったな。言ってなかったの? おれのこと」
「言ってない。あんたこそ」

ビビたちに何か言うかと思ったのに。
私を口説くように軽い口から甘い言葉が音楽みたいに零れる様を想像していたから、昼間は少し拍子抜けした。
私に対してもあくまで客として接して、さっさと奥へと引っ込んだ。

「だってご挨拶するときは『ナミさんの彼氏ですどうも』って言いてェじゃん」

返事をしないでいたら、彼がぎゅっとブレーキを握って足を止めた。

「今度会ったら言ってもいい?」

ふと風向きが変わって煙草の煙が顔に当たった。
サンジ君は慌てて「わ、ごめん」とそばのガードレールで煙草をもみ消す。
夜風で煙たい香りがするする阻まれることなく流れていく。
私が歩き出すと、サンジ君も付き添うように歩き始めた。
夜中の0時まで開いているスーパーの前を通り過ぎたとき、サンジ君がふと「たこ焼き食いてェなぁ」と呟いた。

「買ってく?」
「んー、でもなんか作ろうかと思ってたし」
「仕事終わりだし面倒じゃないの? いいじゃない買ってけば」
「でもナミさんの夜食」
「私別にお腹すいてないし。あんたの買ったたこ焼きちょうだい」

「んじゃ寄ってくかぁ」と軽く方向転換して煌々と明るい店先に向かって歩いていく。

夜中に近い時間のサンジ君は大きな虎のようで、少し疲れた様子で肩を落として、けだるそうに煙草に手を伸ばす。
古びた自転車を駐輪場に停めて、すぐそばの灰皿に煙草を放り込んで、あくびをかみ殺したその顔をスーパーの灯りが白く照らすのを見上げたらとてつもなく不安になった。
いつのまにか巻き込まれて取り込まれてどこかに持って行かれそうな気持ちがした。
それはそれでしあわせなような気もして、それをすごくこわいと思った。

たこ焼きはなくて、焼きそばを買ってふたりで食べた。

拍手[27回]

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