忍者ブログ
OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 
シリュウが進んでいく通路は、不気味なほどに人気がなかった。
看守の姿どころか足音さえ聞こえず、この建物の中にはアンとこの男のふたりしかいないのではと錯覚しそうになる。
アンは始終きょろきょろと辺りを見渡し、足音忍ばせるように小走りを続けていたが、シリュウは自分の左右もアンがいる背後も一切振り返ることなく、淀みない足取りで進んでいく。
まるでこの建物全体がアンとシリュウの味方になり、外まで導こうとしているかのように感じた。
 
シリュウは薄暗い通路の突き当り、通用門のような扉の前まで来ると、懐から鍵を取り出して扉を開けた。
おそらく通常はそこにも門番が立っているはずだろうが、なぜだろう、人がいない。
外に足を踏み出すと、日差しのシャワーが頭のてっぺんから降り注いできて、目がくらんだ。
それはすでに西日だ。空が赤い。
シリュウは歩みを止めず、誰もいない裏庭を突っ切ろうとする。
あちこちにある監視カメラはほんとうに稼働していないのだろうかと、アンは気が気でない。
 
 
「この先に車を寄越してある。それでまっすぐいつもの事務所まで行ける」
 
 
いつもの事務所とは、あのティーチの税理士事務所だろう。アンは必死で足を動かしながら、無言で頷く。
シリュウの言うとおり、建物の角を曲がるとフェンスの裏手に黒塗りのセダンがアンたちを待っているのが見えた。
 
 
「……あんたは?」
「オレはまだここで仕事がある。先に行け」
 
仕事とは看守としての仕事だろうか、それでも黒ひげとしてのだろうか。
シリュウは四角い顎でアンに先を促した。
とはいえどうやってこのフェンスを越えるのだろうとアンが視線を前に戻すと、ちょうど目の前のフェンスには無理やりぶち抜かれたようなひしゃげた穴が開いていた。
短時間で無理にこじ開けたに違いない。
随分強引なやり方だ。
黒ひげの方も鬼気迫る状況に焦っているのかもしれない。
 
 
「それじゃ」
 
 
礼を言うのもおかしい気がして、アンは足早にシリュウから離れてフェンスに近づいた。
その自分の後ろ姿が、逃げるように見えていそうで悔しい。
事実逃げているのだから仕方がない。
穴をくぐる瞬間ちらりと背後を振り返ったが、シリュウの巨体はもうすでに煙のように掻き消えていた。
 
停まっていた車に近づくと、運転席に座る男が「早く」というように頷いた。
ラフィットだ。
アンは素早く助手席に体を滑り込ませた。
車は即座に、氷の上を滑るようなわずかな起動音とともに発進する。
ラフィットは顔をこちらに向けることなく口を開いた。
 
 
「お久しぶりですね、ゴール・D・アン」
「あっさり出てこられたけど、本当によかったの? 他の看守たちは?」
「……あなたが心配することは何もありません。そんなことよりも」
 
 
アンの勝手な行動をティーチは当然快く思っていないということを、ラフィットは回りくどいほど丁寧な言い回しで伝えた。
 
 
「ただし私たち黒ひげとあなたは、契約関係にあります。あなたは私たちの思惑通りエドワード・ニューゲートの地位を陥れてくれた。我々はそんなあなたの仕事ぶりへの対価を支払いきれていない。つまりあなたは結局、髪飾りを手に入れられていない。よってあなたの失敗によって警察に捕まったとしても、我々はあなたを救いださねばならない義務がある。これで説明はつきますか」
「……わかったよ」
 
 
黒ひげの本意がそれとは全く違うことを知りながら、アンはそうと言うしかなかった。
今はとりあえず、黒ひげのもとへ行くしかない。
 
 
「ふたりは……」
「はい?」
「……いい、なんでもない」
 
 
アンは言葉を打ち消すように首を振り、背もたれに背中を預けた。
ラフィットは見透かすような目を横には走らせてきたが、結局なにも言わなかった。
全てわかっているような口元の笑みが気味悪い。
 
サボとルフィの安否を聞きたかった。
しかしもし黒ひげがふたりを保護しているという答えを聞いてしまったら、サボとルフィはおそらく今向かっているティーチの事務室にいるはずだ。
ふたりを前にして、ティーチと対峙する気力を保つ自信がなかった。
またもしふたりが黒ひげの手から逃れられているとしても、それはつまりふたりが黒ひげから逃げたということ、アンが逃がしたということをさらけ出すことでもある。
わざわざこちらから言うことではない。
 
アンはむっつりと口を閉ざし、流れていく車窓を眺めていた。
日はとっぷりと傾いて、紺色に染まっていく街並みが滲んでいく。
不意に、ラフィットが激しくハンドルを左に切った。
アンは驚く間もなく身体を窓ガラスに押し付けられる。
 
 
「なっ」
「伏せてください」
 
 
ラフィットの口調はいつもとかわらず平坦なものだったが、アクセルを強く踏み込むよう足が動くのが見えた。
アンは素早く言われるがままダッシュボードの下に体を滑り込ませた。
 
 
「警察……?」
「行政府の人間です。いまやあなたの顔は割れている。車に濃いスモークはかかっていますが、念のためしばらくそのままで」
 
 
ラフィットは細い路地を猛スピードで潜り抜けていくようだった。
ただし誰かに追いかけられているようなひっ迫感をあまり感じない。
車の後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、耐えて大人しくじっとしていた。
 
しばらくすると、車はゆっくりとスピードを落とし、やがて停車した。
 
 
「お疲れ様です、降りてください」
 
 
いつもはアンを建物前に下ろし車を停めに行くラフィットが、このときはアンよりも早く車を降りた。
まるでアンを急かしているようだ。
アンは折りたたんでいたからだを伸ばしながら車を降りた。
そして違和感に気付く。
 
 
「……ここどこ?」
「いつもの事務所は今日ばかりは少し危険です。申し訳ありませんが今回はここでボスがお待ちしています」
 
 
ラフィットの感情の見えない口元の笑みはそのままだ。
上がった口角を見て、アンは凍りついた。
──やられた。
行政府の人間なんていうのは嘘だ。
アンは今、この場所が街のどのあたりに位置するのか全く分からない。
小さく息を呑むアンを意に介することなく、ラフィットは建物へと先立って歩き出した。
振り返り、早く、というようにアンを見つめる。
その目がぞっとするほど平らで冷たいことに、背筋が凍った。
 
行くしかない。
 
アンはラフィットの背中を追いかけて歩き出した。
 
 
 

 
建物の中は、いつもの事務室と何ら変わらない作りで、真ん中の皮張りのソファにはやはりティーチがどんと大きく座していた。
大きな窓が背後に並んでいる。
アンとラフィットが部屋に入ると、ティーチは顔を上げわざとらしいほど嬉しそうな笑みを見せた。
 
 
「おォアン、よく無事だったなオメェ!」
 
 
オレァお前が捕まったって聞いて心臓が止まっちまうかと思ったぜ。
ティーチはわざわざ立ち上がり、アンの元まで歩み寄ってきた。
ラフィットがすっとその場を離れ、広い部屋の書棚の方へと歩いていく。
固い顔のアンは、まるで激励されるようにティーチに強く肩を叩かれた。
 
 
「なんだって無茶しやがんだオメェはよ。作戦に納得いってねェのは気づいていたが、まさかこんな特攻やらかすたぁオレも計算違いだったぜ」
 
 
まぁいい座れ、とティーチはアンを促しつつ自身もソファに戻った。
アンは気を抜くと竦みそうになる足を叱咤して、ソファへと自分をいざなう。
どうしてだろう、今ばかりは初めて、この場所が怖い。
明るく電光が照らしているのに、いつかぽかりと闇が口をあけそうな空気がある。
アンは浅くソファに腰かけた。
 
 
「豚小屋はさぞかし陰気くせぇ場所だったろう、オメェにゃキツイ場所だ」
 
 
まるでかわいそうに、とでもいいたげな口調に寒気がした。
ティーチは懐から取り出した葉巻に火をつけた。
煙が瘴気のように部屋を蔓延し始める。
 
 
「シリュウの奴に聞かなきゃ、オレァ呑気に朝のニュースでお前の逮捕の知らせを聞くところだった。一歩遅けりゃお前を助け出す手筈もうまくいかなかったかもしれねェ」
 
 
いやあよかったよかった、とティーチはにやつきながら頷いている。
アンはいちばんに聞きたいことを胸の奥にぐっと押し下げて、当座の質問を口にした。
他に聞きたいこと、言いたいことがあるのはティーチも同じだろう。
腹の中を探り合うもどかしさ、禍々しさが向かい合う二人の間を行き来している。
 
 
「逃げるとき……看守がひとりもいなかったのはなんで」
「看守? あァ、シリュウのヤツが手を回したんだろう。アイツァオレの腹心だ、そこらで拾った使い捨てとは違う。そうか、ひとりもいなかったか!」
 
 
ティーチは玩具をもらって喜ぶ子供のように、いっそあどけないほどあけっぴろげに笑った。
大きく開いた口から灰色の煙が浮かぶ。
 
そう、ひとりもいなかったのだ。
あの建物の中にはまるでアンとシリュウだけのように静かで、物音も、足音さえしなかった。
 
アンが青い顔を上げてティーチを見据えると、ティーチはより一層嬉しそうに口角を上げた。
 
 
「……殺したの」
「看守が一人もいなかったってのなら、まぁそうだろうな。アイツにゃ5人だろうと10人だろうと手に掛けるのはお手のモンだ。オレァ『アンを逃がせ』と伝えたまでだがな」
 
 
ティーチは部下の仕事ぶりを純粋に喜んでいるだけに見えた。
その単純さが、より一層アンの血の気を引かせた。
膝の上で握った拳が震えるのを、抑えきれなかった。
 
あの建物には、収容所にはあの人が、ベイがいたかもしれないのだ。
アンの手を握って『しあわせになれる』と力強く言ったあの美しい女性が。
彼女の細い体の線を思い出した。
彼女の涼やかな色が、重たい赤黒さでかき消されていく。
 
収容所にいたすべての関係者が殺されたとは限らない。
ベイはアンの取り調べを終えて建物を出ていたかもしれない。
そうだ、そうに決まっている。
アンは震える拳をもう片方の手で掴み、無理やり押さえた。
その仕草をティーチがじっと見ている。
 
 
「結局髪飾りは、警察の手に行っちまったか」
 
 
ティーチは思い出を語るような口調でそう言った。
アンが顔を上げると、ティーチはやっとのことで笑みをしまいこんだようだ。
深呼吸するように葉巻を吸っていた。
葉が焼ける音が微かに部屋に落ちる。
街灯に集る虫の羽音のようだ。
 
 
「まだ欲しいか」
「……髪飾りを?」
「あァ、取り返したいか」
「……もういい……」
 
 
何を考えることもなく、言葉は自然と口をついていた。
疲れていた。
アンの身体も心もすべてが、ぼろぼろと、鳥に突かれた魚の身のように穴が開き崩れていた。
帰りたかった。
何も知らない、サボとルフィとアンの三人だけの日常に。
つまらないほど平和で刺激のない日々に。
 
きっと母さんは許してくれる。
よく頑張ったわねアン、と頭を撫でてくれる気がした。
そうだよあたしは頑張った、こんなにも頑張ったと母さんの膝にすがりたかった。
 
 
そうか、とティーチも静かに答えた。
 
 
「オレたちゃぁオメェのおかげでニューゲートを貶められた。ほっときゃそのうち警察は転覆する。政権は交替だ。この街の仕組みそのものががらりと変わるだろう。オメェさんらがそれにこれ以上巻き込まれる筋合いはねェ。オレらがオメェたちを外へ逃がしてやる」
 
 
ティーチはもたれさせていた背を上げて、ソファに座り直した。
 
 
「アン、オメェの弟たちはどこにいる?」
 
 
アンはティーチと正面から目を合わせた。
しまったと思ったのに、がっちりと視線を捉えられて逃げることができなかった。
ブラックホールのような底なしの闇色の目がアンを見つめる。
並びの悪い歯が覗く。
ティーチは笑っていた。
 
 
「アン、オメェ、弟たちをどこにやった?」
 
 
オレたちからふたりを逃がしただろう。
ティーチの笑みは、もはやそれとわかるほど大きくなっていた。
 
残念だぜアン、とティーチは言った。
 
 
「オメェがオレたちに全幅の信頼とは言わずとも、任せるべきところは任せてくれていりゃあこんなことにはならなかった。きちんとオメェに4つの髪飾りを手に入れさせてやれたし、オメェが無様にサツから逃げたり、無駄に弟たちを逃がしたりする手間もいらずに済んだ」
 
 
ティーチは咥えていた葉巻をガラスの灰皿に押し付けた。
燻る煙が淡く霧散していく。
──サボとルフィは黒ひげの手の中にいない。
クロコダイルは約束通り、ふたりを匿ってくれたのだ。
そのことに心底安堵すると同時に、先ほどのティーチの言葉に引っ掛かった。
「4つの髪飾りを手に入れさせてやれた」というのはどうもおかしい。
 
 
「……あたしが欲しかったのは母さんの、本物の髪飾りだけだ。もし初めに襲撃した銀行に本物があれば、あたしが手に入れる髪飾りは一つで済んでいた」
 
 
ティーチはきょとんとアンを見返すと、ゼハハ!と大きく笑い声をあげた。
 
 
「そうかそうか、そうだったな! いけねェ、いらんことまで言っちまった。まぁ今となっちゃどうでもいいことだ」
 
 
ティーチはあくまで楽しげに、懐から2本目の葉巻を取り出した。
一方アンの頭は、血液の代わりに冷水を入れらたようにしんしんと冷えていくのを感じていた。
同時に思考がはっきりとしていく。
 
この計画そのものが、仕組まれていたの?
 
もはや疑いようもないそれに、アンは止まっていた拳の震えがまた始まるのを手のひらでじかに感じていた。
 
ティーチはアンの顔色を覗き込むようにちらりと視線を上げ、大きく息を吐いた。
子供をなだめすかす前に大人がするため息のような音だ。
 
 
「髪飾りの話はほんとうだぜ、アン。オメェだって覚えてるんだろう、ルージュが髪飾りを持ってたことは」
 
 
ティーチは2本目の葉巻を吸う片手間のように、アンに話す。
 
 
「ただし偽の髪飾りをばらまいたのはニューゲートじゃねェ。オレだ」
「……あんたが」
「ルージュの髪飾りが稀代のものだと知っていた。これを使わねェ手はないと思った。偽の髪飾りをばらまいて、それらをまとめて街の重要資財に認定させた。本物にゃ劣るが、偽ものだって相当の金を出して作らせた立派な宝物だ。重要資財ってのはわかるか、街がそのものの価値を認めて、安全を保障してくれる財宝のことさ。そうすりゃ偽だろうとなんだろうと、街が髪飾りを守らにゃならねェ。ニューゲートの野郎はさぞかし腰を抜かしたこったろうなぁ、自分の預かった髪飾りのレプリカが、いつの間にやら本物を出し抜いて重要資財になんかなっちまってたら」
 
 
面白そうに笑うティーチを前に、アンはじっと座ってなどいられなかった。
立ち上がると、やっとこの男の顔が見下ろす位置にくる。
 
 
「……4つの髪飾りは、どれも偽物なんだな。本物は、警察が持ってるんだな」
「そうさ! ニューゲートの野郎が大事に大事に保管してやがるのさ! 馬鹿みてぇにロジャーに義理立てして、アイツァ本当に甘ったるい」
 
 
アンはずっとずっと、偽物の髪飾りを追いすがっていたのだ。
その事実よりも、本物が確かに存在するということに安堵する気持ちの方が大きかった。
母さんの髪飾りはこの街に実在する。
そう思うと、ついさっき折れかけていた気持ちがむくりと頭をもたげて立ち上がってきた。
 
もう終わりにしたい。
全てを放りだして逃げたい。
きっと母さんは許してくれる。
 
それでも、母さんが許しても、あたしは許せるの?
 
あたしはあたしを許せるの?
 
 
 
「ロジャーが死んだ時点で、オヤジがトップになるのはわかりきっていた。当然髪飾りの責任も奴にお鉢が回る。オレァ自分でばらまいた髪飾りをオヤジに押し付けて、それをまた自分で回収することでアイツを貶める作戦をずっと温めてたんだ。お前が育つまで、十年もの間な!」
 
 
オヤジとはニューゲートのことだろうとアンは考える。
ティーチは、自身がそう言ったことに気付いていない様子で話を続けた。
アン、オメェは上手くやってくれたと笑う。
 
 
「予想以上の働きぶりだった。もっと早く捕まっちまうかと思ったが、お前は最後までやりきった。多少動かしづれぇ所もあったが、些細なことだ。オレァ細かいことをぐちぐち言う性質じゃねェんだ」
 
 
ティーチはゆったりとソファに座ったまま、アンを見上げた。
この男が尋常な思考を持ち合わせていないのはよくわかった。
それでも、不気味に思わずにはいられない。
ロジャーが死んでから10年、いやもしかしたらそれよりもっと前から、ティーチはニューゲートを陥れるためだけに生きてきたのだ。
ひとつの計画のためにアンが成長するのを待ち、時が来れば嬉々としてそれを実行するいわば執念が異常だ。
ティーチはこの10年を、本人さえ知らないうちにニューゲートに捧げて生きてきたに違いない。
憎くてたまらない人物に自分が振り回されていることに気付かず悦に浸っている馬鹿馬鹿しさとはうらはらに、ティーチは真剣だ。
アンは目の前の男の果てしない闇の深さに、背中が冷たくなった。
 
 
「どうして、そんなにエドワード・ニューゲートを……」
「たまたまトップにいるのがあの男だというだけで、引きずりおろすのは誰だろうとかまやしねェんだ」
 
 
ティーチはどこか記憶の端に触れるように、目のぎらつきを奥に引っ込めた。
ぼんやりとどこか遠くを、遠い過去を見ている。
だが、そうだな、とティーチは息を継いだ。
 
 
「あの男のままごとみてぇな甘っちょろいやり方や、鬱陶しい信条にほとほと愛想が尽きたといやあ理由がつくか」
 
 
オレァあいつに行政府に登らされたんだ、とティーチは立ち上がったアンの膝のあたりを見るともなしに目をやった。
 
 
「だが行政府が転覆したとき、あいつは自分のお気に入りだけを警察内部に引き入れて、オレのことは目に掛けなかった。お前に警察なんて柄は似合わないとかなんとか、その場しのぎでしかない理由をつけて、オレを放りだしやがった」
「……あんた、行政府にいたのか」
「税理士は行政府が腐り落ちた後の肩書だ。……オレァ有能だった。警察との関係が険悪になって来たときも、当時はオヤジがオレを気にかけていたから、オレが橋渡しになって奔走した。すべては行政府──街のためさ。いつかオレァトップになってやると、そこらじゅうに脚ばかり運んで働いた。にもかかわらずあのジジイは」
 
 
いざ行政府が転覆したら、ニューゲートはティーチを救わなかった。
それはティーチの仕事ぶりの背後に後ろ暗い思惑があることを、現トップの男はわかっていたからではないかとアンにも想像できた。
ただそんな考えに至らないらしいティーチは、ただただ歯噛みしている。
徐々に脂ぎった黄色い目の光が戻ってきた。
 
 
「オレァあいつの『お気に入り』には入れなかった。今となっちゃその方が都合よく動けているが、とにかくあいつのそういうやり方がとことん気に入らねェんだ」
 
 
だがそれもここまでだ、とティーチはアンを見上げ、並びの悪い歯を見せて笑った。
 
 
「いずれそう遠くないうちに、ニューゲートは失脚する。警察内部はロジャーが死んだ時以上の混乱を見せる。行政府が力を盛り返す。そしたらおれの登場だ。オレァこの街のトップになってみせる」
「そ、そんなに上手くなんて」
「いくんだ、アン、オメェの緩んだ頭じゃ一生かけてもわからねェことがオレにはできる」
 
 
ティーチが不意に、アンの背後に目をやった。
その視線を辿り振り向きたい衝動に駆られたが、歯を食いしばって耐えた。
背後の扉から誰かが入って来た。
黒ひげの誰かだろう。
ラフィットは二人から離れた書棚の傍にじっと立っている。
振り返ってしまえば、顔を戻した時の景色が一変してしまう気がして、動けない。
 
 
「あとはオメェたちだけだ、アン。オメェとサボ、そんでもってルフィだったか。オメェら3人を片づけちまえば後腐れなくことは終わる」
「……最初から、そのつもりだったの」
「そうだ、オメェたちはここでお役御免だ。だがどうだ、幸せだったろう、母親の形見を追いかけるのは。最後の髪飾りを見つけたときゃあうれしくなかったか、アン」
 
 
どうだ、と笑いながら口もとをにやつかせるこの男に、アンは吐き気以上に胸が悪くなった。
瞬きすると立ちくらみのような眩暈が襲った。
いろいろな感情がせめぎあいながら、アンの喉を塞いでいく。
言葉にならない悔しさと怒りを、初めて感じた。
あたしは馬鹿馬鹿しいほど単純だったのだ。
馬鹿で、若く、無鉄砲だった報いかもしれない。
それでもここまで馬鹿をやらかしたのならもう一緒だ、とアンはわななく唇を開いた。
 
 
「あた、あたしはあんたらのこと、誰に言うつもりもない。もちろんサボとルフィだって」
「おいおいアン、まさかそんな口上が通るなんざ思ってねェよな?」
 
 
ティーチが立ち上がった。
優にアンの3倍はある横幅と、頭三つ分は高い位置にある視線がアンを圧迫した。
巨大な黒い塊に前方を遮られたような息苦しさに喘ぎそうになる。
思わず一歩後ろに足を引いたが、かかとがソファにぶつかってすぐに止まった。
ふたりの間を隔てるのは、低いテーブルだけだ。
 
 
「アン、オメェは甘かったんだ。欲しいモンを手に入れるのに、代償がないわけがねぇだろう? オメェは事あるごとに弟たちがどうだとか、人が死ぬのは嫌だとか、ったく反吐が出るぜ。オメェに関わる一連の事件で、どれだけ人が死んだか知っているか?」
 
 
ティーチは目を輝かせて、口の端に泡を浮かべ、憑かれたように話す。
 
 
「少なくともオレがオメェのために雇ったクズは全員死んだ。オレたちの仕事にゃ幹部以外の下っ端は入れ替え制なんだ。使い捨てさ。そんなことも知らねェでお前は」
「こ、殺してたの、あんたたちがずっと」
 
 
オレたちがじゃねェ、と言うティーチの目が黄色く光った。
 
 
「お前がだ。オメェに関わったせいで死んだんだ。そいつらのおかげでオメェは何にも知らずにのうのうと盗みを働いて、それが終わりゃあ呑気に生活して、全くいい気なもんだ。ちょっと考えりゃわかる話なのになァ。口止めと死は同義だ」
 
 
ちがう、と口をついた言葉はあまりに小さく、弱弱しかったがティーチには届いた。
しかしそれも鼻で笑い飛ばされる。
 
 
「何も違わねェさ、アン」
「あ、あたしが殺したんじゃない……」
「同じことだ。手を下したのはオレたちだが、原因を作ったのはオメェだ」
「殺さなくても方法はあっただろ!!」
「オレたちが始末しておかなかったら、オメェがここまでやってこれたか? 情報を金で売り買いできる時代だ。オレたちが金で雇った人間が、お前の情報を金で売らないとなぜ言い切れる」
 
 
乱暴に言葉を切ると、ティーチはおもむろにアンへと腕を伸ばした。
避ける間も与えられず、アンの襟首はティーチの太い指に絡め取られるように掴まれていた。
そのまま引き寄せられ、アンのかかとが浮く。
すねがテーブルにぶつかって鈍い音を立てた。
濁った葉巻のにおいが、生暖かい息となってアンの頬にぶつかった。
 
 
「まったく虫唾が走るぜ、ニューゲートと言いオメェと言いどうしてこうも甘い人間が生きてるのかオレには信じられねェ。ロジャーの奴も似たようなもんだ、オメェら家族のことを引き合いにだしゃ扱うのに事欠かねェんだからなァ」
「な、なんの話……」
 
 
ギリギリと締まる首元を解放しようと、アンは咄嗟にティーチの太い手首を掴んだ。
強く握るが、いっこうに堪える気配はない。
自然とアンの顔は歪んだ。
あぁ、とティーチは思いだしたような声を出した。
 
 
「そうか、オメェは知らねェよなァ。当たり前だ、知っていたらオレたちと手を組むはずがねぇもんなァ」
「だから、なんの話だっ……!」
「世の中には知らねェほうが幸せなこともあるって話さ」
 
 
不意に突き放されて、アンは後ろのソファに倒れ込んだ。
同時にひどく咳き込んで、生理的な涙がにじむ。
コイツの前で泣いてやるもんか、と言う意地がそれさえも飲みこんだ。
 
ティーチの言葉に、知りたくない事実が否応なくアンにも想像できた。
痛みや息苦しさとは別のものに反応する涙が滲みそうになるが、泣くわけにはいかないと必死で飲みこむ。
 
ティーチは足と手で無造作にテーブルを横へ押しやると、アンが転がったソファへと歩み寄った。
アンは即座に体を起こすが、腰を上げるより早く前髪を掴まれて無理やり上を向かされた。
ティーチの顔は逆光でもわかる、もう笑ってはいない。
 
 
「もう一度訊くぜ。弟たちをどこにやった」
「あいつらはもう関係ない……!」
 
 
途端に視界がぶれ、頭がい骨が振動するのを感じた。
頬の痛みより頭の揺れが先走り、一瞬なにが起きたのかわからなかった。
 
 
「クソ生意気な目をしてやがる。ロジャーと同じ目だ、胸糞悪ィ。この期に及んでまだそんな甘いこと言うったァ、根性が座ってるのかただの馬鹿なのか」
 
 
前髪を掴む力が強くなり、アンの頭はますます後ろへと反った。
口の中にじんわりと鉄くさい味が滲む。
ふん、とティーチは大きく息を吐いた。
 
 
「まぁいい。どうせ『黒ひげ』にかかりゃああんなガキ共なんざすぐに見つけてみせる。なに殺しゃしねェよ。若い身体ってのぁな、いくらでも金になるんだ」
 
 
そうだな、と目算するように黒いギョロ目が上を向く。
 
 
「内臓、目玉、角膜、血液……人の身体のパーツってのぁ貴重なんだぜ。しかも若けりゃ若いほどいいってもんだ」
 
 
濁流のように、ティーチの笑い声が部屋に響いた。
痛みや恐怖よりも大きな怒りがアンの胸に溜まっていくが、掴まれた頭も掴んだ太い腕もびくともしない。
サボ、ルフィ、お願いだから逃げ切って──
 
 
「ト、トップになんか、アンタがなれるもんか」
「あァ?」
 
 
開いている方の手で再び襟首を掴まれ、気道が狭まる。
それでもまっすぐにティーチを見ることはやめない。
目を逸らしたらその瞬間に負けて、飲みこまれてしまう。
 
 
「アンタは、この街のトップになんか、なれない。政権が代わろうと、絶対に」
「なぜ言い切れる。オメェに何がわかる!」
「マルコがいる!!」
 
 
叫び返したアンの声より、飛び出したその名前に虚を突かれたようにティーチは目を見開いた。
 
 
「マルコ?」
「エドワード・ニューゲートがいなくなっても、マルコがいる。他にも、アンタなんかには負けない人間が、警察にも、行政府にも、絶対にいる!」
 
 
ティーチはしばらくのあいだ、アンの勢いに飲まれたように黙っていたが、すぐに口元をゆるませて「そうか」と言った。
 
 
「マルコか……懐かしい、いたなそんな男も。確かにアイツァ少し面倒だが、オレたちの相手になりゃしねぇさ。アイツは典型的なオヤジの犬だ。オヤジが堕ちりゃあマルコが堕ちるも同じ話さ」
「ち、ちがう、マルコは絶対」
 
 
ぎゅっと襟首が締まり、否応なくアンの言葉は続かなかった。
ティーチの顔が近くなる。
 
 
「えらくマルコに肩入れすんじゃねェか。あいつとの追いかけっこがそんなに楽しかったか? それとも惚れたか? あの男に」
 
 
ティーチの冗談はどこかアンの琴線に触れて胸の奥が音を立てたが、気丈にアンは睨み返す。
こんなときにマルコの微かな笑い皺や穏やかな低い声がよみがえって、胸が詰まった。
まぁいい、とティーチは笑った。
 
 
「オメェにはしばらく眠ってもらう。よかったな、死ぬわけじゃねェ。まぁ次に目を覚ます頃にゃお前の身体の中身は空っぽだろうから、死ぬも同然か」
 
 
サービスだ、とティーチは付け加えた。
 
 
「抜け殻になったオメェの身体は、大好きな弟共の抜け殻と一緒に並べてやるよ」
 
 
冷え切った血液が、一瞬で沸騰した。
目の奥が真っ赤に染まる。
アンは渾身の力を込めて、両足でティーチの腹を蹴り込んだ。
長くて細い鋭利な脚はティーチのみぞおちに食い込み、巨体が九の字に折れ曲がった。
同時にアンを掴む両手が緩み、アンはすかさずその下から逃れる。
 
 
「オーガー!!」
 
 
嗚咽混じりにティーチが叫んだ。
出口を振り向いたアンの正面には、銃口がアンを見つめ返していた。
 
 
「動くな。いずれ貴様は撃たれる運命だが、ボスの命令がない限り今はそのときではない」
 
 
出口のドアに背をつけて、オーガーが細長い銃身を構えていた。
アンの背後で、のっそりとティーチが身を起こす気配がする。
 
 
「クソッ、調子に乗りやがってガキが……」
 
 
ティーチの腕がアンへと伸びる。
咄嗟に横に逸れて避けたが、その瞬間右足のあたりにキンと跳ねる尖った音が響いた。
 
 
「動くなと言った」
 
 
麻酔銃だと思っていたそれはどうやらそれほど穏やかなものではないらしいと、背中が冷たくなる。
一瞬竦んだ隙に、左横腹に激しい圧迫感と衝撃を感じてアンの身体は横に吹き飛んだ。
床に体をしたたかにぶつけ、倒れ込む。
リノリウムの冷たさが頬に触れた。
再び口の中が、温度のある生臭い味でいっぱいになる。
また別の場所を切ったらしい。
 
 
「テメェは今すぐにでも死にたいらしいな」
 
 
倒れたアンの身体を大きな足が跨いだ。
襟首を引き上げられて、少し開いた口の隙間から血が漏れた。
嘔吐感が何度もアンを襲い、それを抑え込むのに必死で生理的な涙を抑える余裕がどうしてもない。
左の目からだけ、一筋の液体が流れた。
霞んだ視界の中で見上げたティーチの顔は歪み、目は淀んでいた。
 
 
「もういい、テメェはもういらねェ、テメェは金になる価値さえねェ。さっさと大好きなオヤジ共のところへ送り込んでやる」
 
 
ティーチが腰からピストルを引き抜いた。
真っ黒の銃口がアンの眉間に触れ、ひやりとした金属の温度が伝わった。
 
 
「……ティーチ、それは予定とは違う」
「うるせぇ! お前らは黙って見てろ」
 
 
静かに反駁の声を上げたオーガーも、それ以上は言わず黙りこんだ。
まだ書棚の傍に立っているらしいラフィットも、微かに息を吐いた音だけをさせてなにも言わない。
至近距離にあるティーチの荒い鼻息だけがアンの耳に届いた。
拳銃の安全装置が外される音が、アンの人生の幕引きの音のように、重々しく響いた。
 
 
「じゃあな、アン。お前だけ人行き先に向こうに行ってろ」
 
 
ティーチの濁った白目が歪んだ笑と共にアンを見下ろす。
アンは生唾を飲み込んだ。
 
 
「あ、アンタが、アンタが殺したんだろ」
「あァ?」
 
 
ティーチが眉根を寄せて、引き金を引く指の動きを止めた。
 
 
「誰のことだ」
「父さんと母さんを、アンタが殺したんだろ!!」
 
 
悲鳴のように、室内に反響した。
意図しない涙が右の目からも、一すじ流れた。
自らの口から発したはずの言葉が、鋭く尖って胸を突き刺した。
 
ティーチが発する言葉のところどころに、ティーチがアンを見下ろす時の視線に、何も知らない愚か者を見るような優越感が混じっていることに気付いていた。
それがまさか、自分の殺した人間の子供が親の仇とも知らずにいることへの嘲笑とは思わなかったけれど、今ならわかる。
父さんと母さんはこの男が殺したのだと、アンの中に生きるふた親の血が告げていた。
 
ティーチは黙ったままピストルを下ろした。
 
 
「……なぜそう思う」
「と、父さんはニューゲートと一緒に街のトップだった。あんたがトップになりたいと思うのなら、ふたりとも始末したいって思うはずだ」
「それだけの理由で、オレたちが殺したってェのか」
 
 
アンが答えずにいると、ティーチはフンと鼻で大きく息を吐き、ピストルの柄を握り直した。
ティーチはたいして面白くもなさそうに、床に向かって言葉を落とした。
 
 
「そうだ。オレたちが殺した」
 
 
わかっていたはずなのに、それを自分の言葉で噛み締めたときよりもずっとずっと深く、おぞましいものが胸の奥に入り込んできた。
手が指の先から冷たくなっていく。
ティーチが不意にアンの襟首を離したので、アンは頭から床にぶつかった。
ごとりと鈍い音と痛みが響いたが、アンの頭は重たく、視界に映るティーチが父さんと母さんを殺し幸せな生活を奪ったのだという事実も、どこか遠いことのように感じた。
 
ティーチはアンにまたがったまま、銃口を覗き込んだ。
 
 
「悪運転する車とすれ違って運悪く? 交通事故? 馬鹿馬鹿しい。あの男がそんな理由で死ぬわけがねェだろう。とことんこの街の人間どもは呑気だ。ロジャーはニューゲートと一緒くたになってオレの邪魔をしようとしやがった。だから殺してやったんだ、仲良く夫婦一緒に、オレが雇った『当たり屋』にやらせてな」
 
 
ティーチは、体を起こさないアンを見下ろして、久しぶりの笑みを見せた。
 
 
「怒る気力もねェか。いっそすがすがしいだろ、死ぬ前に親の死因を知れてなァ。もうひとつ教えてやろう、ロジャーの野郎が死ぬ羽目になった要因だ」
 
 
ゼハハ、と短く笑ってティーチは目を光らせた。
 
 
「あの日、オレァあいつに教えてやったんだ。オレの仕事にいい加減口を挟むのをやめねェと、お前の大事なガキ共がどうなるか。例も出したな、そうだ、たとえば親の帰りを待つガキどものいる家が、くだらねェ放火犯の餌食になるとか──」
「ッ、アンタッ」
 
 
アンが上体を起こそうとした瞬間、強い力が肩を押さえつけ、アンの背中は再び床へと打ち付けられた。
 
 
「そうだ、オレァそう言ったんだ。もちろん直接じゃねェ、駒を介してだがな。ロジャーの奴ぁ馬鹿みてぇに狼狽えて、家へとんぼ返りよ。慌てりゃ運転も荒くなる。注意散漫にもなる。そこへ『当たり屋』がちょっと仕掛けりゃアイツの車は簡単に電信柱に突っ込んだ。呆気ねェにも程がある!」
 
 
ティーチは銃を持つ手を下ろし、どこか上を見上げてそう叫んだ。
それと同時にアンの肩を抑える手に力がこもる。
 
 
「オメェらはとことん馬鹿だ。家族だとか兄弟とか、守るモンを作るから結局自分自身が死んじまうのさ。現にロジャーはそうして死んだ。お前も兄弟を守りきれずに死ぬ。最後はオヤジだ、あいつも同じ末路さ!」
 
 
再び冷たい金属が、アンの眉間に触れた。
その冷たさに反して、熱を持った液体が目じりから溢れ、こめかみへと流れていく。
もう止めることなどできるはずがなかった。
サボでもルフィでもない、こんな男の前であたしは泣いている。
そう自分を詰ってみても、涙は止まらなかった。
ささやかな抵抗を示したアンの手は、ティーチの膝に踏みつぶされ、みしりと嫌な音を立てた。
 
 
「オメェはよくやった。ただしちと頭が悪かった。世の中生き延びるのは知恵と力のある者だ、今までだってそうやってこの街も作られてきたんだ」
 
 
ティーチの太い指が、再び引き金に引っ掛かった。
滲んで揺れる視界の向こうで、歯を見せて笑うティーチの顔が垣間見えて、最期の景色がこんなものだなんて、とアンは目を閉じた。
最後の一滴が両方の目から涙の軌跡を転がり落ちる。
 
 
押し付けられた床の冷たさは、水のようだった。
身動きの取れない身体は、重たく濡れた砂をまとっているようだ。
流れ続ける涙は、潮の味に似ているに違いない。
 
海を思い出した。
たった一度だけ家族5人で行った薄暮時のあの海を。
夕日が白浜を薄いピンクに染めて、その上に父さんと母さんが二人寄り添って立っている。
サボとルフィの甲高い声が水音と共に頭の中でよみがえる。
見上げた空には確か一本の飛行機雲があったはずだ。
いつかあそこにもう一度行けたら、そのときは真っ青な真昼の海に飛び込んでみたいと思った。



拍手[13回]

PR

 
 
2日前、アンの手に冷たい金属が触れたその直後。
立てと命じた声は、動揺を隠すような低く抑えた声だった。
抵抗しても仕方がない、とアンはのろのろ立ち上がった。
そのまま両脇を警官に挟まれ、否応なくアンは歩かされた。
マルコが去った道のりをアンも後を追う。
顔を上げることができなかった。
そうすれば、前を歩くマルコの背中が見えてしまうかもしれないと思うと、どうしても顔を上げることができなかった。
 
おぼつかない足取りで階段を降りながら考えたのは、家のことだった。
きっとサボとルフィはまだ眠っている。
何も知らずに、健やかな寝息を立てているに違いない。
布団をかけてきてやったけど、もうすでにはねのけているかもしれないなと考えるとほんの少し頬が緩んだ。
ふたりが目覚めた朝、きっとテレビもラジオもエース逮捕のニュースを流し始めるだろう。
ふたりがそれに目を留めないはずがない。
このまま何も知らず、眠り続けてくれればいいのにと思った。
 
しかしすぐ、あぁでも、と思い直す。
こうなることを見込んで、たった一本頼りの綱を作っておいたのだった。
どこまで信用できる人間かはわからない。
黒ひげを介して出会った弁護士だ、奴らと似たような組織かもしれない。
それでもアンの話を最後まで聞いてくれた。
男の方は面倒くさそうに、煩わしいことを言うなとばかりに縦皺を寄せていたが、それでも口を挟まなかった。
女の方も、男が「請け負った」と了解したと同時に強く頷いていた。
もうアンには信じられるものが限られている。
それならば、すがるべきところにはすがりたかった。
 
アンが捕まってしまった今、黒ひげは警察がアンの自宅やその家族に接触することを恐れて、サボとルフィを保護しにかかるだろう。
ふたりまで黒ひげの手に落ちてしまえば、もうアンに戻る場所はないように思えたのだ。
理屈より先に、サボとルフィには黒ひげと接触してもらいたくなかった。
それならば、昨日今日出会ったばかりの弁護士に頼った方がマシだと感じたのだ。
 
 
アンは歩かされるがままに階段を降り、屋敷の外へ出ていた。
その際応接間の横を通り過ぎたが、その中の様子は見えなかった。
宝石商はまだ薬のせいで眠っているはずだ。
目を覚まし、事の成り行きを知ったときに彼が知るはずのことを想像してみるが、少し前にそうしたときのように胸は痛まなかった。
もう痛むはずの心も止まってしまった、と思った。
 
夜は相変わらず月の光で明るかった。
アンは車に乗せられ、両側を同じく警官に挟まれる。
前を走り出した黒い車体を追うように、アンを乗せた車も始動する。
すると瞼が重くなり、アンはそれにさえ抵抗する気もなく目を閉じた。
こんなときによく呑気に眠くなるよなあと、我ながら呆れてしまう。
ただの現実逃避だとわかりながら、アンは車体の振動と眠気に身を任せて、車が停まるまでずっと目を閉じていた。
 
 
 
 

 
 
「でかしたな、マルコ」
 
 
一目散、というには必死さが足りないが、それでもマルコにしたらこれ以上ない程の猛進ぶりでニューゲートのもとを訪れたというのに、いつものソファにどっしりと腰かけたニューゲートがマルコの顔を見て一番に発したのは、そんな言葉だった。
 
扱っていた事件が収束を見た。
それは間違いない。
ただ、それだけでは終わらない何かがあるはずだと、そもそもこれはいったいどういうことなのだと突き詰めるつもりでやって来たマルコにとって、その言葉はあまりにも腑抜けたものに聞こえた。
憤慨したいがその行き場がないような、落ち着かない気分になる。
実際マルコは一瞬言葉を詰まらせ、ニューゲートの部屋の入り口で立ち止まった。
 
 
「どういうことだよい」
 
 
結局マルコが口にできたのは、シンプルなそんな言葉だった。
ニューゲートは、彼が白ひげと呼ばれる所以であるその大きなひげの下で、口角を上げて歯を見せるいつもの笑い方をして、マルコを目線で自分の向かいへといざなった。
全てを知る者の余裕の笑みのようにも、ひとまずマルコを落ち着けるための親が子に向けるそれのようにも見えた。
ニューゲートに逆らうことを知らないマルコは、やるかたない思いを消化不良のまま抱えながら、彼にしては荒々しい足取りで示された通りの位置へ腰を据える。
 
 
「……どういうことなんだよい、オヤジ」
 
 
結局はまた、同じ問いを投げかけるしかなかった。
もう自分の手に負えるものではないと、圧倒的な力の前にひれ伏したくなるような屈辱感を伴う圧迫感がひしひしとマルコを押しつぶそうとしていた。
気付けば、膝に肘をつき、目の前にやって来た手のひらで額を押さえていた。
痛んでもないのに、頭が痛む気がするのはもはや職業病だ。
 
 
「オヤジは、エースの正体を知っていた」
 
 
そうだろい、と押し付けるように問いかけた。
ニューゲートは何も言わない。
アンタはいつもそうだ、と子供のように喚きたくなった。
それでも、仕方なくマルコは言葉を続ける。
 
 
「エースが……アンだと、知ってたんだろい」
 
 
アンの名前を口にするときだけ、声がかすれた気がして、それがなぜかマルコの自尊心をわずかに削った気がした。
 
アン。
街の南に位置する小さな飯屋で、兄弟2人と共に店を営むあか抜けない娘だ。
サッチが初めにその店を気に入った。
マルコも次第にその店を、アン自身を気に入り頻繁に訪れるようになった。
アンは明るくどこかバカに真面目で抜けており、懸命に家計をやりくりする姿がけなげに映った。
いつのまにか、アンはおそるおそる店の外に、というより彼女が固く閉ざし続けた世界の外に踏み出すようになった。
その様子をすぐ近くで見守っていたと言っても、傲慢に過ぎることはないはずだ。
連れだしたのは誰だったか。
筆頭にサッチ、そしてイゾウ。あの元気玉のような弟も大きくアンの背中を押したはずだ。
そしてもうひとり、アンの背中を押したり引き戻したりするあの青年も、いずれにせよアンの何かを変えようとしたはずだった。
マルコの知らないところでも、アンを取り巻く多くの人間が彼女を導こうとしたのかもしれなかった。
 
アンがマルコと関係をもったことは、そのようなアン自身の挑戦の一つや、はずみではなかったはずだ。
自分がそう信じたいだけかもしれないと思いながら、マルコのその思いはすでに確信に近い。
ぼんやりとマルコを見上げたアンは男を知らなかった。
アンの意思を無視して、彼女に男を知らしめたとは思いたくなかった。
ほんの少しでもいい、自分が抱いたものと同じ温かみを、アンも持っていたと思いたかった。
一度でいいから、嬉しそうに、それもマルコのために笑う顔を見てみたかった。
わけのわからない仕事に翻弄されつつもどこか呑気にそんなことを考えていたと、自分を知る者が知れば世も末だと嘆くだろうが、マルコ自身はその感覚を悪くはないと感じていた。
そんな矢先だった。
そのわけのわからない仕事と、アンが一直線に結びつくことになる。
 
手錠を掛けられて、アンは収監された。
背中で聞いた細い金属音は、今も耳の奥にこびりついて離れない。
アンが今このときも、冷たい牢獄でひとり硬い壁に身を寄せているのかと思うと、いてもたってもいられないような久しく感じることのなかった焦燥を感じた。
それでもマルコはぐっと手を組み合わせて、深くソファに腰を下ろしている。
 
 
「アンは、アイツは誰なんだよい」
 
 
自身の手に遮られて、くぐもった声が落ちた。
ニューゲートが、大きく鼻を鳴らして息を吐く。
彼が話し始めようとすると、いつも空気がかきまぜられるような気配が満ちる。
 
 
「エースを動かしていたのは黒ひげだ」
 
 
ニューゲートの遠回りするような言葉に、マルコは微かに苛立った。
それはわかってるよい、と遠慮なく突っぱねる。
 
 
「アンは利用された駒だってのも想像がつく。オレが聞きたいのは、なんでオヤジが」
「オレがアンに初めて会ったのは」
 
 
ニューゲートに遮られ、マルコは途切れた言葉の先を飲み込んだ。
 
 
「アンが生まれたとき、その一回きりだ」
 
 
顔を上げると、ずいぶん高くにある金色の目は横にそらされ、広い窓の向こうを見ていた。
空はようやく白んできた明け方で、マルコは新しい一日を迎えようとするこの建物の外側が自分とは全く切り離された世界であるように感じた。
マルコの一日は、エース逮捕を挟んで、まだ昨日から終わっていない。
ニューゲートの低い声は、マルコにではなく、窓の外、それもずっと遠くにある誰かに投げかけられたかのように聞こえた。
 
 
「アンは、ロジャーの娘だ」
 
 
すぐには言葉が出なかった。
 
 
「ロ……ゴール・D・ロジャーのことかよい」
「あぁ、ロジャーとルージュの間に生まれた一人娘が、アンだ」
「……ロジャーに娘がいたのは知ってるが、その子供は街の外の施設に保護されたって」
「そりゃ通説だ。ロジャーが死んだのはお前が警察に入る直前か、いや、直後だったか? どっちにしろ若造だったテメェの知る所じゃねェ」
「……バカな」
 
 
そう呟いたものの、エースがアンであった今、何もおかしいものなどないような気がした。
というより、何が起こってもおかしくないような気がした。
アンがロジャーの娘であるとすれば、ロジャーと親交のあったニューゲートがアンを知るのも道理であり、当時から街の最上部の一端を担っていた彼がアンという秘密を知っているのも理解できた。
マルコは今は亡き男の姿と、たった一度だけ垣間見たことのあるその妻の姿を思い浮かべた。
思えば、アンはロジャーとルージュの血を継いでいる可能性がその容姿からも十分に見て取れる。
すべて、今となってはの話である。
 
 
「オレとガープの間で取り決めがあった。アンの出自を伏せること、その生活を守ること、オレァ直接アンにしてやれることはなかったが、気に掛けてはいた」
「ガープって、なんであのじいさんが」
「アンが一緒に暮らす兄弟に、黒髪のボウズがいるだろう。ありゃあガープの孫だ」
「まっ……ルフィってガキか」
「あぁ確かそんな名前だったか。そのボウズをガープがロジャーに預けた。2,3年ばかりはロジャーの家で過ごしたはずだ」
 
 
マルコは先程まで押さえていた頭がまた痛み出すのを感じていた。
アンがロジャーの娘で、ルフィはガープの孫で。
じゃあ、あのもうひとりのガキは?
 
 
「サボってボウズはルージュが拾った子供だったらしい」
 
 
マルコの考えを先回りして、ニューゲートが答えた。
 
 
「拾ったってのは」
「あいつはどこのだれとも知らねェ本物の孤児だ。いや、親はいるが……ロジャーとルージュが、頑としてあいつを生家にゃあ返さなかった。善意ある誘拐見てェなもんだ」
 
 
ニューゲートは自分の言った言葉が気に入ったのか、そこで声を上げて笑った。
ソファがぐらぐらと揺れる。
 
あの3人が本当の兄弟であるとは、マルコも思ってはいなかった。
ただ、それぞれの出自がマルコを取り巻く世界と思いのほか近くにあったことに目を剥いていた。
頭がくらくらする。
 
ニューゲートはマルコの混乱をわかったうえで、それがおさまるのをじっと待っているようだった。
空は完全に朝を迎え、腹立たしいほどの晴天がのっぺりと広がっている。
 
 
「黒ひげ……ティーチのヤツも、アンを知っていた」
 
 
ニューゲートは感情の見えない声で、そう零した。
何か大切なことが、今まで隠されてきた何かがこの男の口から話されるという予感がマルコにぶつかった。
 
『情』に疎いとさえ陰で言われるマルコだが、そこで聞いたことはおそらくマルコの情を揺さぶるものだった。
立ち上がり、今すぐアンのもとか、または黒ひげのもとへと行かなければならないと駆り立てられた。
話を聞き終えマルコが全てを知ることになるときには、いつのまにか朝を迎えたばかりのはずの一日が終わろうとしていた。
 
 
 

 
エース逮捕のニュースは、想像通り街中の紙面、テレビ、ラジオをにぎわせた。
マスコミはこぞってこれまでの事件を取り上げ、エース個人の情報を警察側から引き出そうと躍起になったが、それは警察がエースを捕えたことよりも難しいことであった。
エースが捕えられてから2日が経過したが、警視庁の石の扉は重く閉ざされたままである。
マスコミ各所は警察側のその態度に苛立ち、市民の声を持ち出して情報の開示を強く求めた。
その要求は今も続いている。
 
一方警察内部では、エース逮捕から2日後の午後、ある噂で持ちきりになっていた。
その情報が開くまで「噂」の形に留まっているのは、エースの事件に直接関係のない部署、交通課や生活安全部など、警視庁下部に所轄を構える面々の間においてである。
少年課のサッチなどはその噂が仲間の口々から囁かれる中で、ひとり知らぬ顔をしていた。
しかしエースに直接的な関連を持っていた各部署の間で、その情報は噂ではなく確かな事実であった。
 
我らが警視総監、エドワード・ニューゲートが直々にエースに会いに行く。
ようやく重い腰を上げたのであった。
 
エース事件に関係があると言っても、ニューゲートとエースの間にどんなつながりがあるのか知る者は一人としていない。
天と地がひっくり返るかもしれないという危機にさえ指を動かさなかった警視総監が、たった一人の泥棒が捕まったというだけで、なぜその泥棒に会いに行くのか。
歳をかさむにつれて徐々にではあるが大人しくなっていく警視総監が、実は破天荒な人物であることを誰もが知っている。
今度は何をするつもりだ、というおそるおそると言ったような好奇心の混じった興奮が、警視庁上部の間では渦巻いていた。
 
事実、ニューゲートは庁舎を出ると直属運転手が控える車に乗り込み、エースの収監される収容所へと着実に向かっていた。
縦にも横にも巨大な黒塗りのリムジンを、ニューゲートはひどく嫌っていた。
「これじゃオレが移動してるってのが筒抜けじゃねェか」と不満を漏らすのである。
しかし彼が収まるにはそれなりの空間が必要で、となるとこのリムジンが移動には最適であった。
まさかキャンピングカーを公用車にするわけにもいかない。
そういうわけでこのときも、ニューゲートはまたぶつぶつ文句を洩らしつつ、この巨大なリムジンに乗っていた。
 
後部座席に座る彼の正面には、マルコが位置している。
リムジンの中心を挟んで、彼らは向かい合っている。
彼らは乗車してから、一度も言葉を交わすことがなかった。
 
マルコがニューゲートのことをオヤジと呼んでいるのは、上層部の人間であれば多くが知っている。
また、その上層部とマルコの狭間に位置する数人もまた、ニューゲートをオヤジと呼んだ。
彼らはけして血のつながった親子ではなく、またマルコとその他の数人が本当の兄弟なわけでもないが、その呼び名が彼らの関係を形容するに最もふさわしいと誰もが思っていた。
しかし今は、マルコもニューゲートもむっつりと口を閉ざしている。
巨大なリムジンを苦も無く転がすのは、ニューゲート専用の運転手、クリエルである。
彼もまたニューゲートをオヤジと呼び、マルコと肩を並べて軽口も言い合える仲であった。
元来無口な男だが、クリエルはこのときも二人の沈黙に従って口を開きはしなかった。
ひたひたと忍び寄る何かに、自ら向かって行くような不気味さと緊張感が車内に張りつめていた。
 
 
クリエルは車を収容所の正面に付けると、素早く運転席から降り後部座席の扉を開いた。
のっそりと、しかし強く地面を踏みしめるような力強い足取りでニューゲートが降りる。
続いてマルコが降りた。
収容所は昨日から続く晴天の下でも、独特の陰鬱さと見えない臭気を放っているように感じた。
その平べったい屋根の上だけ、ぽこりと曇天が浮かんでいてもおかしくはない程、建物は暗く影が差している。
収容所の門前から入り口までの小さな庭だけがさんさんと健全に日の光を浴びているのが、どうも不似合に映った。
ぐるりと鉄網に囲まれた大きな犬小屋のようだ、とクリエルは歩いていく二人の背中を見送りながら思った。
ニューゲートとマルコはよどみない足取りで、収容所へと入っていく。
 
そこに収監されるアンに会いに行くためである。
アンは捕縛された2日前ここに収容され、今も変わらず囚われの身である。
看守の話によると、アンは警察の手から身柄を移される際も大人しく、一言も口をきかず俯いていたという。
アンへの事情聴取は昨日からすでに始まっている。
マルコたちのもとへは、アンが一言も言葉を発しないという苛立ち混じりの報告が上がっていた。
まるで抜け殻のように、人形のように、言われるがまま身体を動かすだけだという。
その報告を受けたマルコがあからさまに舌を打ったことに、報告を上げた部下は驚くよりも恐れおののいた。
感情をあらわにした上司を見るのは初めてで、かつこれ以上恐ろしいものはないと本能的に感じたからである。
そそくさとその上司の前を立ち去るほかはなかった。
 
エース対策本部内では、すでにエースが女であること、「アン」という名の女であることは知れ渡っていた。
さらにそのエース──アンが、黒ひげの手に握られていたことも周知である。
今後の彼らの仕事は、アンの口から黒ひげに関する情報を入手することであった。
エースという事件そのものが黒ひげによるものだと知りながら、警察が直接黒ひげと接触を試みなかったのは、黒ひげが警察より一枚も二枚も上手に行くことを恐れたからである。
マルコと同年代、もしくはそれ以上の年月を警察内部で過ごしたものは、黒ひげの、ティーチの抜け目なさをいやというほど知っていた。
エースより先に黒ひげに手を出せば、黒ひげは簡単にエースを切り捨てて手札を打ってくる。
最悪、警察が黒ひげと接触している間、黒ひげの手のものがエースの存在自体を消してしまうのは造作もないことであると知っていた。
デリートキーを押すのと同じ感覚で、黒ひげはエースを切り捨ててなかったことにしてしまうだろうと想像がついた。
もとより警察は市民の生活を保護し、安全を保障するために存在している。
犯罪者とは言え、警察までもエースを見捨てるわけにはいかなかった。
マルコの側からは、それをニューゲートが許すはずがないという事情も絡んでいる。
それらの理由を鑑みて、エースの事件を収束させるにはまずエース自身を捕まえる必要があった。
エースを捕えて、その口から黒ひげの情報さえ引き出せれば言質が取れる。
黒ひげは何よりそれを恐れるだろう。
エースの口を封じるために刺客を放つとも考えられなくもないが、エースを収監するということは警察側がエースを保護できると同義である。
エースを捕えてしまえば、同時に黒ひげから守ることができる。
 
そもそもこの事件は、おそらくエースつまりはアン自身が考えているよりももっと、大きな者同士が対立し合う事件であった。
警察と黒ひげであるとか、警察と行政府であるとか、街そのものとそれを脅かす組織であるとか、ともかくアンの頭上で行われるべき事件であり、それに巻き込まれたと言っても過言ではないアンに同情する対策本部の警察官は少なくなかった。
 
警察官としての正義感は、アンを捉えられたことによる高揚を感じている。
しかしそれよりも、たとえばマルコより上の世代であれば、アンのあまりの若さ、というより幼さに痛むものを感じずにはいられなかった。
聴取を取られる際に見せる憔悴しきった顔つきは痛々しい。
彼らの息子であるとか娘であるとかに近い歳のアンは、庇護すべき対象であると思わせた。
早くアンから言質を取り、黒ひげに詰め寄りたいというのが彼らの思いであった。
 
しかしそのアンが口を開かない。
 
聴取を取ってさっさと黒ひげを追い詰めたい警察側にとって、それは不測の事態であった。
アンと黒ひげが、たとえば「信頼」のようなものでつながっている可能性は少ない。
すぐさま黒ひげに関する情報を引き渡すべきである、そうすれば事件はほんとうの収束を見ると、警察は何度もアンを説得したが、彼女が口を開く気配はない。
アンの取り調べを行っている警官は、マルコの顔見知りである。
マルコとしてはその取調べ内容に問題があるのではと思わずにはいられないような人物であるため、一様にアンの口が堅いだけとは思えないのだが、その警官も腐っても警官である。
しなければならない仕事はしているはずだ。
そうして手をこまねいているうちに、ニューゲートが重い腰を上げた。
遅かれ早かれそうなっていただろうと、すべてを知ったマルコは思う。
 
ただの窃盗犯一人に警察総監が直接聴取を取りに出向くなど空前絶後の出来事ではあった。
その前代未聞の待遇に騒ぐ警察内で、アンの本来の出自と秘密を知る古株たちは大きな背中を黙って見送った。
ニューゲートの傍には、いつものようにマルコが控えている。
 
 
 
収容所そのものはとても小さな施設である。
もとより街自体が大きくなく、さらにはめったなことがない限り凶悪犯も現れることがないので、犯罪者の収容施設だって大きくある必要はない。
この小さな空き箱のような建物の中に、アンは収容されている。
ニューゲートとマルコは看守長の付添いのもと、アンのいる留置所へと案内される。
中は思いのほか明るかった。
鉄格子がはまっている窓がいくつもある。
底から外の光がふんだんに差し込んで入る。
寒々しいコンクリートの壁に囲まれたそこは清潔で、外から見たイメージとは必ずしも一致しない。
 
ふたりは建物の中で、何度めかのボディチェックを受ける。
最高権力者とは言えぬかりなく体中をまさぐられるが、ニューゲートはじっと耐えている。
マルコもそれに倣った。
 
 
「こちらの部屋です」
 
 
看守が立ち止まる。
マルコたちも足を止めた。
無機質な銀色の扉のむこうに、アンがいる。
扉には番号が振られている。421とある。
収容された囚人は、その番号が名前代わりとなる。
そこには小さな窓がついていた。中の様子を覗くことができる。
看守は自身のベルトから鍵を取り外した。
そして少し首を伸ばして、窓から部屋の中を確認する。
 
 
「421、開け……」
 
 
ハッと息を呑む音が、看守の口から飛び出し窓に跳ね返ってニューゲートとマルコにぶつかった。
 
 
「どうした」
 
 
マルコが短く問う。
看守は扉に張り付いて窓の中を覗きこんでいたかと思うと、泣きそうな情けない顔で振り返った。
 
 
「421が」
「扉を開けろ」
 
 
ニューゲートが低く、落ち着き払った声で命じた。
看守は必要以上に慌てふてめき、騒々しい音を立てて扉の鍵を開ける。
 
開いた扉の中は、しんと冷たい無人の部屋だった。
 
看守はもとよりニューゲートもマルコも、呆気なくいなくなってしまったアンの姿になすすべもなく、しばらくの間立ち尽くしていた。
 
 
 
 
 

 
 
留置所の中は、予想通りというか定例通りというか、ともかくアンが思ったそのままに味気なく冷たい場所だった。
しかし檻に放り込まれる家畜さながらの扱いを受けるかと思いきや、アンを引き渡した警察も引き受けた看守も、けして手荒な真似や乱暴な振る舞いは見せなかった。
事情聴取の時間までここで待機しろと命じ、警察と看守は部屋を出ていく。
アンを囲う留置所のさらにもう一つ向こうの扉の外に、見張りの看守は腰かけているようだった。
 
暗いコンクリートの箱の中でひとりになると、驚くほど一気に力が抜け、いつの間にか膝をついて座り込んでいた。
知らず知らずのうちに気を張っていたのだと思い知る。
コンクリートの壁は、外の音をすべて跳ね返しているのだろうか、アンの耳には何も聞こえない。
今は何時だろう、と周囲を見渡したが、牢の中に時計はない。
這うように扉へとスリより、立ち上がって小さな窓から外を覗くと、向かいの壁にちょうど壁時計がぶら下がっていた。深夜の3時だ。
そのままずるずると座り込み、扉に背をつけた。
冷たさが水のように背骨に沁みた。
 
結局あたしのしたことはなんだったんだろう。
四度も人の家に忍び込んで、泥棒沙汰を働き、結局なんにも手に入れられていない。
最後の最後に指先が触れた本物の髪飾りも、あっけなく奪われてしまった。
出来ることなら、誰かに尋ねてみたかった。
あたしがしたことは初めから意味なんてなかったのだろうか。
 
不思議なことに、涙は出なかった。
歯を食いしばるのは得意だ。
しかしそれは、サボやルフィの前では効かなかった。
あのふたりのまえでは気が緩む、タガが外れたように泣いたり怒ったりできる。
そうか、と思い当った。
今はあのふたりがいないから、泣くことができない。
一人では泣き方すらわからない。
 
そういえば、母さんたちが死んだときも大仰に泣き叫んだりしなかった。
状況の意味が分からなかったのと、それよりもサボとルフィと離ればなれになるかもしれないという目先の不安にいっぱいいっぱいで、落ち着いて両親の死を悲しんでいる余裕がなかったのだ。
ルフィは確か大泣きしていたな、と思った。
甘ったれで、末っ子のルフィを父さんも母さんも可愛がったから。
サボはどうだったろう。
不安で膝の折れそうなあたしが崩れ落ちないように、しっかりと手を繋いでいてくれたことは覚えている。
サボは泣いていただろうか。
 
急に、もう二人には会えないんだな、という事実が胸を突いて、心を硬くした。
 
哀しいと思うのに、涙はそれでも出なかった。
 
 
 
 
背中側のドアを叩く衝撃を感じて、顔を上げた。
ビクッと肩が跳ねたことで、自分が寝ていたのだと気付く。
 
 
「ゴール・D・アン。取調べだ。開けるぞ」
 
 
扉をあけられて、電灯の光ではない自然光がアンの顔を照らした。
いつのまにか朝が来ている。
アンを見下ろす看守がとても大きく見えた。
アンがのろのろ立ち上がると、看守は即座にアンの手を取り手錠をかけた。
そうして連れられるがまま、アンは聴取へと出向いた。
 
 
同じ建物の中の、事務室のような小さな部屋に通される。
無機質なテーブルを挟んで椅子が二つ。
ため息のようにけだるげに、暖房が吹き出し口から吐き出される音が満ちている。
アンは指示された椅子に腰かけ、言われた通り聴取の係が来るのを待った。
扉の前にはひとり、警官が見張りに立っている。
アンは手錠に繋がれた手を太腿の間に落とし、ぼんやりとテーブルの上に視線を流していた。
頭が重たく、ぼんやりとした状態が続いている。
脳みそはもう溶けて正常に働かない気がした。
なにを訊かれても、答えられる自信がない。
もうこの期に及んで何かを隠そうとする気はさらさらなかった。
黒ひげに関してもできることならすべてぶちまけてしまいたい。
しかし一方で、アンは自分がそれをできないことも知っていた。
 
もし、万一、あのクロコダイルという男がサボとルフィを匿うよりも早く黒ひげたちが接触していたら。
アンが黒ひげの情報を警察に売ったと知れば、黒ひげはサボとルフィを呑気に保護してはくれないだろう。
いや、そんなのどかな表現では済まない。
おそらくふたりは殺されてしまう。
ティーチはずっとアンに対し乱暴な扱いや凶暴な振る舞いをちらりとも見せることはなかったが、あのぎょろりと大きな眼の光はいつでもアンにその可能性を知らしめていた。
それがティーチの故意であれば、たいしたものだ。
思うつぼだと知りながら、アンはそれが怖くて口を割ることはできないだろう。
 
靴音が近づいてきた。
カン、と高い靴音が扉の前で止まり、扉をノックする。
見張りの警官が答えるより早く、外側から扉が開いた。
 
 
「何もこんな奥深くで聴取なんかしなくてもいいだろう、凶悪犯じゃあるまいし。迷っちゃったよ」
 
 
登場早々誰に向かってか文句を垂れた婦人警官を捉えて、アンは驚くよりも呆気にとられてぽかんと見上げてしまった。
スーツを着てはいるが、その着こなしはまるで私服のようにくだけている。
短いスカートから伸びる脚の先にはかかとの高いヒールをひっかけており、背は高くないのに姿勢がいいので天井から頭が吊られているみたいだ。
なにより目を引く水色の波打つ豊かな髪の毛が眩しかった。
 
アンに関する調書を手渡そうとする警官を「あんたもういいよ」の一言で追い払い、有無を言わさず部屋の隅に座らせると、婦人警官はアンを見た。
思わず背筋が伸びてしまう。
垂れた目は冷たい色の化粧できれいに縁どられていた。
 
 
「初めまして、アン。今日はあたしがあんたの話を聞くからね」
 
 
そう言って、アンの向かいの椅子を引いてそこにちょんと腰かけた。
テーブルに肘をついて、小さな顔を手で支える。
まるでアンと今からおしゃべりを楽しもうとするかのような姿勢だ。
 
 
「あたしはベイ。警察本部主任の、階級は一応警部補。本当ならもぉっと下っ端のヤツがあんたの取り調べをするもんなんだけど、可愛い子の相手は可愛い子がしないと。下衆な野郎じゃ話にならないじゃんねぇ、そう思わない?」
 
 
ベイはにっこり笑って、アンに同意を促した。
アンは頷けるわけもなく、まぬけ面のままベイを真正面から見つめるしかできない。
ベイはアンの返事を期待していたふうは見せず、「そんじゃ」とさっさと片手に持っていた封筒の中からばさっと紙束を引き出した。
「一応言っとかなきゃならないこともあるんだよねえ、あたしもこれ、仕事だからさ実は」と実はも何もないことを言い放ち、ベイはアンの名前に間違いがないことやアンには黙秘する権利があることなどを通り一遍に述べると、アンの理解を確認するそぶりも見せずに「はいおわり」と書類から目を上げた。
ベイがあまりにまっすぐ見つめてくるので、アンはいたたまれなくなって思わず目を逸らした。
何故かベイは嬉しそうに、うふふっと楽しげな笑みを漏らす。
 
 
「あんた、いくつだっけ、20?」
 
 
アンが頷くと、ベイも笑みを浮かべたまま頷く。
 
 
「朝ご飯は食べたの?」
 
 
朝……と考えた。
気付いたら眠っていて、聴取だと起こされて部屋を出てきたので、まだ何も食べていない。
腹の虫も気落ちしたようにアンに空腹を知らせないので、気付かなかった。
まだだと首を振ると、美しい笑みを湛えていたベイの顔が凍りついた。
その変容に、アンは何事かと肩を強張らせる。
ベイは後ろに椅子を飛ばす勢いでその場に立ち上がり、「ちょっとあんた!」と背後の見張り警官に向かって怒鳴り声を上げた。
 
 
「こんな若い子せまっ苦しい所にぶち込んで挙句メシも与えないなんて、あんたらどんな凶悪組織なんだい!!ぼけっとしてないで、何か食べられるモン持ってきな!!」
 
 
アンが口を挟む余地もないうちにベイが警官を怒鳴りつけると、その警官は血相変えて逃げるように部屋を飛び出した。
ベイは怒りを隠そうともせず荒い息を吐き、ドカッと椅子に座り直す。
 
 
「まったく、信じられないね。やっぱりオヤジの目の届ききらないところから腐ってきちまう」
 
 
すぐにメシが来るからね、とまるでアンをいたわるような口ぶりで言う。
ベイが現れてから戸惑い続きのアンは、まだ一言も口を開けていないのにおかまいなしだ。
 
結局ベイは、逃げるように飛び出した警官がサンドイッチを持って現れるまで、いかに職場の男たちがつまらないかを滔々と愚痴り、相変わらずアンには話す余地を与えず、いったいこの場は何のために設けられたのだろうかとアン自身が疑問に思うような時間が続いた。
警官が持って来たサンドイッチを勧められ、アンはおずおずそれを口に含んだが、乾ききった口の中はサンドイッチのパンにますます水分を奪われ、上手く飲み込むことができなかった。
何度もむせ返るアンを、ベイはまるで慈しむように見つめている。
その視線がまた、アンを戸惑わせて気になった。
やっとのことで胃の中にサンドイッチを収めたが、満腹感とは程遠く、腹の中はどんよりと重たい。
 
 
「食べられるときに何か食べておくのは、大事なことだよ。今は食べたくなかったかもしれないけど、これからどんどんエネルギーが必要になるからね」
 
 
ベイは目で警官に食事のトレイを下げるように示すと、軽く座り直した。
 
 
「約9か月前に始まる銀行、私人の邸宅、美術館にそれぞれ忍び込んだのは、アン、あんたで間違いないね」
 
 
隠すまでもない、とアンは頷いた。
 
 
「その目的はルビーの髪飾り、で合ってるかい」
 
 
それも頷く。
 
 
「それを狙った、理由を教えてくれるかい」
 
 
理由は簡単だ。
それがアンの母ルージュのものであったかもしれないからだ。
ただそれが、人の家に侵入した理由になるはずがない。
今ベイに、髪飾りがアンの母のものであったということを説明するのは比較的簡単だ。
ただそれを話してしまうと、その話をアンがどこで知ったのかというところに行きついてしまう。
するとどうしても黒ひげの話をするしかなく、それはアンにはできない。
よって、何も話すことができない。
アンが黙っていると、ベイは「質問を変えようか」と静かに言った。
 
 
「あんたの侵入方法は、今までずっと警察の裏をかいてきた。この街の最高峰の警戒をあんたはくぐりぬけていた。並大抵の下準備じゃ足らなかったはずだ。そういうのは、どうやって仕込んでいたんだい」
 
 
アンが恐る恐る顔を上げると、ベイは変わらずまっすぐアンを見つめている。
その真摯な顔を見ていると、もしかすると警察は黒ひげの存在を知っているんじゃないだろうかと思い当った。
思いつくと、もはやそうに違いないとさえ思えてくる。
それならさっさとティーチを探せばいいのに、どうしてこうもあたしに時間を割くのだろう。
 
やはりアンが答えないので、ベイはほんの少し口を尖らせて、鼻から息を吐いた。
あまり困ったり怒ったりしているようには見えない。
 
 
「あのね、アン。あんたは必死で何か大事なモン守るためにやってたのかもしれないけど、事実この事件に絡んで何人か人が死んでる。あんたの知らないところで、確実にコトは動いてる。もうあんたひとり足掻いたところで収まりきらない事態なんだよ。あたしはあんたを擁護することも責めることもできないけど、確実に言えるのは、あんたが黙ってたらなにも良くはならないってこと」
 
 
ベイは爪の先でとんとんと机の上にリズムを刻んだ。
アンもその仕草に自然と目を落としてしまう。
ベイの言葉は、まるでアンを圧迫する気迫はないのに、胸に重く落ちた。
だからといって、口を開くことはできない。
黒ひげのことを話すことはできない。
話したら、サボとルフィが殺されるかもしれない。
それすらも守ってとは、もう誰にも言えない。
 
黙りこくるアンを数秒見つめ、ベイは一度深く息を吐いた。
 
 
「うん、できればさっさと終わらせたいんだけどね、こんなこと」
 
 
こんなこと、というのはこの取調べというよりも、この事件そのもののように聞こえた。
というのも、ベイは別段アンとの話を切り上げようとしないからだ。
 
 
「あんたも昨日の今日で落ち着いてないことだし、また少し時間が経ったら話を聞きに来るよ。……ねぇアン、ちょっと手を出してみな」
 
 
手? と訝しがるアンを促すように、ベイは机の向こうに手を伸ばしてアンに手を出すよう示した。
アンはおそるおそる、手錠に繋がれた両手を机の上に乗せる。
ベイはそれを見てほんの一瞬嫌な顔をしたが、すぐさまアンの両手を取った。
ベイの手は、冷たい色の化粧や凛とした雰囲気に反してほんのりと温かったが、突然のことにアンはびくりと大仰に反応してしまった。
ベイはお構いなく、手を離さない。
 
 
「人ってのはね、だいたい手を見れば何をやってるのかわかるもんなんだ。あたしはそういうのが得意でね。……そう、あんたはね、薄い手のひらだ。指も細いし余計なモンがついてない。痩せすぎてはいないけど、苦労したんだね。でも指はちょっと荒れてるし、乾燥してる。料理するだろう、だからだね」
 
 
ベイは目を閉じて、アンの両手の甲をゆっくりと包みながら撫でる。
アンは不恰好に固まって、されるがままだ。
 
「指先まで冷えてる。当たり前だよねえ、こんなとこにいりゃ。こんな暗くて冷たいとこ、若い子の身体にはよくないんだよ。あんたはもっと、温かい所にいなくちゃいけない。ほら、あたしの体温でちょっと温かくなってきただろ」
 
 
ベイの言うとおり、アンの冷たい指先にベイの熱が移り始めていた。
アンはじわっと沁みるようなぬくもりを感じて、思わず肩の力を抜いていた。
ベイはアンの両手を包んでいた手を離すと、片手でアンの片手を握手のように握った。
 
 
「握り返してごらん」
 
 
何を考えることもなかった。
アンは自然と、ベイの手を握った。
ベイはゆっくりと、嬉しそうに笑う。
 
 
「しっかり握るんだね。あんたにはきっと強い力があるよ。しあわせを掴む強い力がある」
 
 
ベイは最後に、両手でアンの手を挟むように軽くパンと叩いて、手を離した。
 
 
「今回はこれで終わり。やっぱりちょっと顔が疲れてきてるね、当たり前だけど。時間はあるから、少しゆっくり眠るといいよ」
 
 
そう言うとベイは立ち上がり、書類を封筒に戻すとまた淀みない足取りで、振り返ることもなく部屋を後にした。
アンは自分で自分の片手を包んだ。
手錠の冷たさが、少し和らいだ気がする。
 
 
 

 
留置所に戻ると、アンはあまり経たないうちに眠った。
ベイに言われたからというより、身体が眠りたいと言っていた気がした。
簡素なベッドに横たわると、思考が途切れるのはすぐだった。
昼食で一度起こされたが、それもあまり喉が通らなかった。
しかしベイの言葉を思い出し、食べられそうなものだけいくつか選んで食べた。
少しずつ、溶けていた脳みそや霞がかってぼんやりした心が固まりだした気がする。
なにか、自分にできることが、やらなければならないことがあるような気がしてならないのだ。
こんな鎖につながれた牢の中で何ができるはずもないのに、なにかしなくちゃいけないというエンジンが少しずつかかり始めている。
そのためにはガソリンを燃やさなければならない。
アンは水でのどを潤しながら、少しずつ、それでも着実に食べ物を胃へと送り込む。
 
昼を少し過ぎた頃、また聴取に呼び出された。
同じ部屋に通され、今度はベイではない男の警官がやって来た。
しかめっ面の、堅苦しそうないかにも警官らしい男だ。
この警官とはベイとの様なやり取りがあるはずもなく、紋切り型の口調でベイが尋ねたのと同じようなことを尋ねられ、アンが答えないでいるとあからさまに苛立った表情を見せた。
他にも、侵入経路や逃走経路を図った方法や資金の出先などを尋ねられたが、すべて黒ひげにつながることだったのでアンも口を開かなかった。
結局この取調べでアンは一言も言葉を発さず、もういいと突き放されるように取調べは終わった。
アンはまた自動的に、留置所へと送り返される。
 
看守はアンを先に歩かせ、後ろからついてくる。
何度目かの往復にすっかり慣れたアンは、指示されるまでもなく留置所までの道を歩いていく。
留置所の手前のドアの前には、見張りの看守が一人座っていた。
看守たちは目配せし合いながら、アンを通過させる。
アンが留置所に入ると、看守は外側からアンの手錠を外した。
重たい扉が鼻先で音を立てて閉まる。
アンは楽になった手首を軽く振りながら、小さな窓から見える時計を覗いた。
すると、再び廊下に続く扉が開いた。
アンを連れて来た看守が一人、戻ってきたのだ。
この留置所にはアンしかいない。
他の囚人たちは別の部屋に留置されているようだった。
ということは、戻って来た看守はアンに用があるわけで、なんだろうと思っている矢先、看守はアンの留置所の扉の前まで歩み寄ってきた。
ガタイのいい大男だ。
深く帽子をかぶっているが、その影の下から覗く眼光は細く光って見える。
危なっかしいものを見たときのような冷やかさと緊張を同時に感じた。
 
 
「ゴール・D・アン。お前をここから逃がす」
 
 
看守は低く小さな声で呟くように言ったが、その言葉ははっきりとアンの耳に届いた。
それでも思わず、訊き返すような視線で男を見上げてしまう。
 
 
「黒ひげが近くまで迎えを寄越している。お前を助けに来た」
「あ、あんたは」
 
 
男はシリュウと名乗った。
 
 
「職はここの看守だが、オレも黒ひげの一人だ。見張りはオレが代わった、今はいない」
 
 
シリュウはアンの返事も聞かず、断ることもなく留置所の鍵を開け扉を開いた。
 
 
「そう時間はねェんだ、オレの後に付いて来い。まず見つかることはねェがな」
 
 
シリュウはさっさとアンに背を向け、外へとつながる廊下に向かって歩き出す。
アンは目の前で開け放たれた扉の前で立ち尽くしていた。
 
黒ひげが、助けに来たなんて、あるだろうか。
もう自分は見放されたものだとばかり思っていた。
それでいい、サボとルフィにさえ手を出してくれなかったらそれでいいと思っていたのに。
 
動かないアンを振り返り、シリュウは苛立たしげに「早くしろ」と急かす。
アンはちらりと頭上に視線を走らせた。
シリュウが目ざとくそれに気付き、「監視カメラなんざ潰してあるに決まってるだろう」と事もなげに言う。
 
そうか、これは助けに来たというべきではない。
奪いに来たのだ。
警察からアンを奪いに来た。
黒ひげはアンが余計なことを警察に話されてはならないと、駒のアンを回収しに来たのだ。
それなら納得がいく。
そうだとわかったうえで、今自分はシリュウについていくべきだろうか。
もしサボとルフィが無事クロコダイルに保護されていたら、アンが出向く必要はない。
このまま黒ひげと手を切ったっていい。
ただ、もし上手くいっていなかったら──そのときが怖い。
 
シリュウはアンが黙々と考えるのを、じっと見下ろしていた。
爬虫類じみた小さな目がアンを見透かすように光っている。
 
ベイの言っていたエネルギーは、今このとき要るのかもしれない。
 
 
「連れて行って」
 
 
シリュウは黙って歩き出した。
足音ひとつ立てずに素早く進んでいく巨体を、アンも静かに追いかけた。
 


拍手[19回]


連絡があったのは、その日の22時過ぎだった。
私用の携帯電話にかかってきた部下の張りつめた声に、すぐ向かうという返事と少しの指示を与えて電話を切る。
マルコはそのとき、ニューゲートの部屋から階下へとつながるエレベーターから降りた直後だった。
庁舎の玄関へとまっすぐ進むと、そこでエース対策本部の数名の慌てた顔に出くわした。
 
 
「警察長、先ほど連絡が入り」
「聞いた。オレも今から行く」
「なぜ、バレたんだ……」
 
 
まだ若い部下は、悔しそうに顔を歪めて率直な言葉をこぼした。
マルコはさっさと彼らを抜き去り自身の車へ急ぐ。
後ろから慌てて部下たちが追いかけてきて、公用車を出すと言った。
 
 
「いや、お前らは20分後に来いよい。そのときもサイレンは鳴らすな。一課が車出すだろうが、そいつらもしばらくの間押さえておけ」
「じゃあ、警察長おひとりで」
「……20分経ったら絶対来いよい。遅れるな」
 
 
まだ何か言いたげな部下の声を遮るように、運転席の扉を閉めた。
うすら寒い地下駐車場から出ると、外は月明かりで煌々と明るいいい夜だった。
庁舎から出てすぐに引っかかった信号待ちの途中、携帯を取り出して耳に当てた。
4回ほどのコール音のあと、ぷっと接続音が小さく鳴った。
 
 
「なに?」
 
 
電話に出た声は幼い。
ふつう、掛かってきた電話を取った第一声が「なに?」であるのもおかしな話だ。
しかし今は突っかかっている時間はない。
 
 
「お前らの班を例の屋敷まで出してくれ。指示はオレの部下に伝えとくから聞けよい」
「えぇ、僕もう家帰っちゃった」
「ふざけたこと言ってねぇで早く出て来い。エースの件だ」
「エースって言えばだれでも動かせると思わないでよね」
 
 
電話の向こうでハルタはぷりぷりと怒っている。
頼んだよいとだけ言って、一方的に電話を切った。
そしてすぐ直属の部下に電話を繋げて、ハルタに依頼する用件を指示した。
 
信号が青に変わる。
はやる心を押さえてアクセルを踏んだつもりだったが、いつもより重いエンジン音が響いた。
 
 
 
エースが宝石商の屋敷に出た。
宝石商の屋敷には監視カメラをしかけていない。
そこが宝石商自身の生活圏内であり、プライバシー云々の問題が持ち上がるからだ。
ただ、髪飾りがその家に保管されているというのに迂闊なセキュリティーではいられない。
そのため、髪飾りが保管されているという宝石商の寝室にだけ個体識別センサーを取り付けてあった。
それは、部屋に入り込んだ個体が特定の人物であることを認識するというシステムで、まだ世には出ていない。
警察の科学班が独自に開発した、いうなれば新兵器だ。
エースが現れ、宝石商が所有する髪飾りの保護が問題に上がった際、宝石商自身が髪飾りが自らの手を離れて保管されることを拒んだ。
髪飾りだけはどうしても、家においておきたいのだという。
そうしてエースにとられては本末転倒だという説得に、男は耳を貸さなかった。
そのためまだ開発途中であったセキュリティーシステムを急ぎ仕事で仕上げ、まだ仮の段階ではあるが何とか形になったそれを、男の屋敷に取り付ける運びとなった。
男の立会いのもと、それが男の寝室に設置される場面にマルコも立ち会った。
こんな日常的な空間に髪飾りが保管されているのかと、他の警官たちは目を剥いたり男をいぶかしんだりと反応は様々だった。
ただマルコは、静かな寝室の中ぽっかりと浮かび上がって見える白いドレッサーの存在に目を留め、この部屋が新セキュリティーシステムに守られなければならない理由に少しだけ触れた気がした。
 
そのシステムのもとでは、個人が寝室の空間内に存在するのを熱反応で感じ取り個体を識別する。
それが宝石商以外のものであれば、警察の監視システムに連絡が届く。
寝室その場でサイレンが鳴ったり警告音が響いたりすることはない。
寝室に入り込んだ何者かは、静かにねらいを定められ取り囲まれることになる。
しかしこのシステムの欠点は、限られた空間内でしか作動しないということ、すなわち寝室内のみしか個体識別反応が届かないということである。
何者かが寝室以外の場所をあやしく動いていたとしても、このシステムは感知できないのである。
それでも髪飾りがあるのは寝室であり、そこまでエースが到達できる可能性は低いとも高いとも言えないが、ともかくエースが現れれば警察に連絡は着く。
そして先程、その連絡がついたのだ。
連絡を受けた警察側はすぐさま宝石商に連絡を取ったが、反応はない。
当然何かが起こったのだと、警察は慌ただしく動き始めたわけである。
 
もう一つこのシステムの欠点を上げるとすると、それは通報がどうしても遅くなることである。
エースが寝室に入ってから警察への連絡があり、それから現場へ直行したとしても間に合わない可能性は十分にある。
それまでに宝石商自身に危害がないとも言い切れない。
警察側はむしろその点を強く強調し、髪飾りの保護をこちらに預けるよう男を説得したが、それでも男は首を縦に振らなかった。
 
宝石商の屋敷は街の南部、住宅街の中にひっそりと建っている。
マルコがそこに到着したのは、車を出してからおよそ15分後だった。
たったの15分など、エースは髪飾りを見つけさっさと逃げ出してしまうのに十分な時間だ。
無防備な保管の仕方を頑としても譲らなかった宝石商に、「すきにしろ」とさじを投げたのはこちら側だからもはや言い募ることはできない。
それでもあんなところに髪飾りを転がしておくのは、どうもエースにむざむざと盗ませてやるようなもんだと思ってしまう。
マルコは静かに、屋敷の前に車を停めた。
見たところ何の変哲もない。
夜更けとはいいがたい時間帯だが、あたりはしんと静まっている。
そもそも、こんな早い時間にエースが現れたことは今までなかった。
そのような違和感のせいだろうか、普通ならばエースが逃げていてもおかしくないというタイムラグがあるにもかかわらず、マルコの胸はこれからエースに対面するような予感にひしひしと疼いていた。
宝石商の屋敷に入る前にもう一度部下に連絡を取り、準備が滞りなく進んでいることを確認する。
電話を切ってすぐにトランシーバーの方に、ハルタから連絡が入った。
 
 
「マルコ、僕はもうそっち行っていいの?」
「あぁ、静かにな」
「誰に言ってんのさ、馬鹿にすんなよ」
「……殺すなよ」
「わかってるよ、それこそ誰に言ってんのさ。それより僕直々に撃たせるなんて、マルコよっぽどエースのこと殺したくないんだね」
「オヤジの意思だ」
 
 
それなら僕も気合が入っていいや、とハルタは朗らかな声でしっかりと呟き、通話を終わらせた。
これからきっと5分もしないうちに、ハルタが自身の射撃班を引き連れここにやってくる。
ハルタの部下たちが屋敷の周りに散らばり、四方からエースの姿を狙う。
しかし本命は、髪飾りの眠る寝室の窓の、正面に向かって立つ背の低いアパートからエースを狙撃するハルタ自身だ。
エースを傷つけず、かつ確実にエースの腰にいつも備え付けられているポシェットのベルトを打ち抜き、奴から引きはがす。
動きの定まらない敵をなかなかの距離から、確実に狙った部分だけを撃ちぬくという離れ業をできるのは、警察内にはハルタしかいない。
マルコは預かっていた宝石商の家のスペアキーを取り出し、音を立てず錠前を外した。
 
玄関入ってすぐのフロアは明かりがついていた。
すぐ右側の扉がリビングだ。
宝石商自身の安全確認が先決だと、マルコはリビングの扉に手をかけた。
 
 
部屋の中を視界に入れた瞬間は、そこに誰もいないのかと思った。
しかしすぐ、短く息を呑んだ。
ソファにぐたりと男が一人倒れている。
宝石商自身だ。
マルコは素早く歩み寄り、息を確認した。
 
健やかな寝息を立てている。
一瞬張りつめていた息を吐いたが、すぐにその空間の違和に気付いた。
男が倒れるソファの前にあるローテーブル、そこには冷めたコーヒーの入ったカップが二つ並んでいた。
ひとつは男の側に、そしてもう一つは向かいのソファ側に。
 
誰か客があったのか。
マルコの視線が宝石商の男からふたつのカップへ、そして向かいのソファへと動いて、止まった。
向かいのソファにコートが一枚投げ出されている。
女物だ。
マルコはテーブルを回って反対のソファに近づく。
そちら側のカップには、薄い口紅の痕が付いていた。
 
宝石商のもとに来ていた客は女で、かつこのコートの持ち主であると見て間違いないだろう。
ではその女はどこにいる?
 
マルコはリビングから廊下へと戻り、一階のフロアと二階へ続く階段を見比べた。
謎の女の正体はとりあえずいい、先に髪飾りを、そしてエースを目下の標的に据えた。
マルコは静かに階段を上り始めた。
厚い底の革靴は足音を立たせない。
しかし、年季の入った木の床は遠慮なく軋んだ。
静謐な家の中に、やけにその音が響く。
エースがこの家の中にまだいるとすれば、この音が聞こえたかもしれない。
それでもマルコの胸は焦らなかった。
そろそろハルタの班が屋敷に到着したはずだ。
マルコ自身の部下たちも。
 
二階が見える位置まで昇ってくると、突き当りの寝室の扉がほんの数センチ開いているのが見えた。
唯一鍵がかかっていなければならない部屋が開いている。
隙間からは中が見えない。
それでも何か、誰かがいるという確信は既にあった。
 
 
 
寝室の扉を開けると、中から冷たい風がマルコの顔をなぶった。
右側の出窓が開いていて、そこから外の空気が流れ込んだのだ。
月明かりを背に、エースがいた。
 
マルコに背を向けて、顔だけをこちらに回している。
ひどく無防備に見えた。
無表情だったが、その目は助けを求めているようにしか見えなかった。
窮地、という言葉が浮かんだ。
マルコ自身のことではなく、敵であるはずのエースの気持ちがはかられた。
その無防備さは、黒ひげの手の回し方とは少し異なる気がした。
だからこそ、黒ひげの手とは別のところでエースが動いたのではないかという意味を込めて「ひとりか」と尋ねたが、エースのその意は伝わらなかったようだ。
 
エースはマスクの下に隠された頬を一ミリも動かさず、相変わらず真摯な目でマルコを見る。
大きな黒い瞳が光っているのだろうが、あいにくマルコからは月明かりが逆光になっておりよく見えない。
 
エースが口を開いたので、少しだけ会話をした。
時間をわざと延ばそうとしているような印象を受けた。
焦っているようにも、諦めているようにも見えた。
早くこちら側に落としてしまわなければとより一層思わせる話し方で、今まで聞いたものより声が高く感じた。
 
エースが銃に手をかける。いつもの麻酔銃だろう。
手袋に包まれた黒い手は、銃を持つには小さすぎるように見えた。
まさか、とマルコは視界全体に映るエースの全身を眺める。
 
宝石商の客、コートの持ち主、謎の女はエースだったのではないか。
全ての疑問が一本の線でつながった。
小柄な体は、一度思い当ってしまえばもう女のものとしか思えなかった。
 
それならばますます、ずっとマルコの中で重たくしこりとなっていた疑問が大きく持ち上がってくる。
エースが女だとすれば、この女とオヤジ──エドワード・ニューゲートはどういう関係だ?
オヤジは確実に、エースの正体を知って、それでマルコに捕まえさせようとしている。保護させようとしている。
 
 
出窓の向こうで、ちかっと一瞬だけ光が瞬いた。
ハルタの合図だ。
おそらく出窓の壁には、一課の特殊部隊が貼りついて、部屋に突撃する機会をうかがっている。
さらにこの寝室のドアにもマルコの部下たちが数名、既に張っているはずだ。
 
エースの手に手錠がかかってしまえば、マルコが人目を避けてエースと言葉を交わす機会はなかなかやってこないだろう。
今既に何人かがマルコとエースの会話を聞いているとはいえ、マルコは今訊いておきたいことがあった。
答えが得られないとしても、疑問だけはぶつけておきたかった。
だから訊いた。
 
 
 
銃声が鋭く響いた。
ポシェットが足元まで滑ってきて、エースは出窓から突撃した特殊部隊の警官に取り押さえられ倒れた。
怒涛のように扉から部下たちが飛び込んできて、エース確保の様子におぉっと歓声のどよめきを上げる。
すぐそばまでやって来た一人の部下が、興奮を隠すことなく「やりましたね警視長!」と高い声を上げた。
マルコの胸ポケットで、トランシーバーがけたたましく受信音を鳴らす。
部下たちが一斉にそれぞれ本部と連絡を取り始めた。
鑑識や行政府、裁判所など手続きはいくらでもある。
さらにマルコ自身、ニューゲートに連絡を取らねばならなかった。
 
エースの顎が鈍く床にぶつかった音が、つま先から伝わった。
やっと終わったという感慨は、マルコの胸にこれっぽっちもなかった。
半年以上かかずらわっていた事件に収束の兆しが見えたにもかかわらず、取り押さえられ唇を噛むエースの姿を見下ろしても全く爽やかな気分にはならない。
 
マルコの隣で興奮し通しであった部下が、滑り落ちたポシェットを手袋の手で拾い上げた。
誰もがエース確保に浮足立っており、髪飾りの確認が後回しになっていたのだ。
 
 
「髪飾り、確認します」
 
 
部下は興奮から我に返ったのか、律義にマルコにそう言った。
マルコは黙って目で肯定を示す。
 
 
「触るな!!」
 
 
鋭い棘のような叫びが、下方から飛び出した。
エースだ。
各所との連絡に懸命になっていた周囲の警官たちが、ハッと動きを止めてエースを見下ろした。
ポシェットを手にした部下も、エースを取り押さえる特殊部隊も、マルコ自身も目を瞠って声の主を見る。
気付いてしまったマルコには、その声がもう女のものにしか聞こえなかった。
そして、ちくりとその声がどこかに引っかかった。
エースから目を離すことができない。
すぐそばで、部下がポシェットのジッパーを開ける音がじりじりと聞こえた。
エースは頭を押さえつけられ、またきつく唇を噛み締めている。
それは、と声が漏れている。
エースを取り押さえる警官が、おもむろにエースの髪を掴みあげた。
ウィッグらしきものがエースの頭から乱暴に取り払われる。
そして、本来の髪束がばさりと床に落ちた。
長く、黒く、月明かりの下で白い筋を浮かび上がらせている。
 
 
「それは、あたしの母さんのだ!触るな!!」
 
 
そう叫んだ声が、マルコの琴線に触れた。
知った声だった。
聞きたいとさえ思った声だった。
 
ちがう、ちがう、と言い聞かせる声がする。
それが頭の中で響く自分の声だと認識するのに時間が要った。
 
 
「女だ」
 
 
一人の警官が、わかりきったことを呟いた。
周囲が息を呑んでいる。
気付けば、マルコは倒れ伏したその女に歩み寄って、目の前に膝をついていた。
小さな顔に手を伸ばす。
張り付いたマスクに指をかけた。
 
黒い膜が剥がれ落ち、露わになった白い肌も、通った鼻筋も、大きな瞳も、マルコは知っていた。
ア、と口を突きかけたが、声にはならなかった。
40年近く生きてきて、これ以上の絶句という体験をしたことがない。
マルコの頭は、必死でこの状況に対する言い訳を、この状況が嘘であるための理由を探していた。
だって、なぜこんなことが起こり得る。
エースの正体がアンである理由がどこにある。
 
エース──アンは、一度だけマルコとまっすぐに視線を交わらせた。
水分を多く含んだ漆黒の瞳がマルコを捉え、そして興味を失ったように光をなくしてマルコから目を逸らした。
 
 
「……マルコ警視長?」
 
 
部下が、動きを止めたままのマルコに恐る恐るとかけた声を聞いて、我に返った。
立ち上がり、無理やりアンを視界から外す。
 
 
「引き上げるよい」
 
 
ハッ、と全員が整った敬礼を返し、部屋の出口へ向かうマルコの後に続く。
背後で聞こえた手錠の金属音に、これほど胸をかき乱されたことはない。
 
 
 

 
どこか遠くでブザーが鳴っている。
耳に障る音だ。
サボはその不愉快な雑音によって、深い眠りから引きずり戻された。
来訪者を告げるベルの音だ。
こんな時間に誰だ、と思いながら時計を確認し、時刻がやはり非常識な時間帯であることを確かめる。
 
隣のベッドでは、枕に足を乗せてルフィが寝ていた。
とんでもない寝相は見慣れたもので、まったくと思いつつサボは自然とさらにその向こうのベッドまで目をやった。
アンがいない。
トイレだろうかと思ったところでまたブザーが鳴った。
しつこいな、と苛立ち、そして頭が覚醒した。
アンがいない?
 
 
「ルフィ、起きろ」
 
 
枕に乗せた足を掴んで、サボ自身が立ち上がるのと一緒にベッドから落とした。
それでもルフィは唸ったまま起きようとしないので、軽く頬を叩く。
 
 
「起きろ、誰か来た。アンがいない」
 
 
ぱちっと、ルフィの目が開いた。
サボは床に転がるルフィを跨いで寝室を出た。
家の中は深々と冷えている。
その冷え込みは、身体の中にまで入り込んでくる。
寝起きでボケた思考は一瞬で吹き飛び、サボの頭は懸命に活動を始める。
そういえば、自らの意思でベッドに入った覚えがない。
ソファで寝こけたルフィを運んで、それきりだ。
 
暗い廊下の灯りをつけ、店へとつながる階段を下りる。
後ろからルフィがぺたぺたと付いてきた。
 
 
「サボ、なんだよ、アンはどこだ」
「わからない。でも誰か来た」
 
 
さっきから自分はそればかりだ。しかしそれ以外に言うことがない。
サボにだってなにがなんだかわからない。
ただなにか不穏な気配ばかりがある。
 
店の電気をつけ、冷たいコンクリートの床を横切って小さな扉を開いた。
途端に視界を塞ぐ大きな影に、ふたりは声を失った。
サボの背をやすやすを超える大きな男と、またサボの背を超える細身の女が二人立っている。
サボとルフィはその巨大な体躯に呆気にとられ、ぽかんと二人を見上げるばかりである。
男の方はスーツの上に豪奢な黒いコートを羽織り、髪を後ろになでつけていかにも堅気の人間には見えない。
なにしろ高い位置にあるその顔を、線路のような縫い痕が横切っているのだ。
男が口を開いた。
 
 
「夜遅くにすまねぇなんて挨拶は抜きでいいか、ニコ・ロビン」
「えぇ、早く本題に入りましょう」
 
 
ニコ・ロビンと呼ばれた女は、切りそろえた前髪の下で切れ長の大きな目をサボと、そしてルフィに向けた。
 
 
「サボと、モンキー・D・ルフィね。ゴール・D・アンの家はここで間違いないかしら」
「そ、そうだけど。アンに何か用か」
 
 
アンの名前が出て、思わずサボはくっと背筋を伸ばして男と女を睨みあげた。
サボとルフィ、そしてアンのフルネームを知っているということはこいつらも黒ひげの手のものか。
そうとなれば今アンがここにいない理由を何か知っているに違いない。
サボは気丈に視線を外すまいとした。
 
 
「あんたらは誰だ」
「オレたちの詳しい自己紹介はおいおいしてやるとして、簡単に言えばオレァゴール・D・アンに雇われた弁護士で、ニコ・ロビンはオレの秘書ってとこだ」
「弁護士? ア、アンに雇われたって……」
「サー、私が話してもいいかしら」
 
 
口を挟んだ女に、サーと呼ばれた大男は一瞬眉を眇めたが、すぐに「好きにしろ」と葉巻を取り出した。
女──ニコ・ロビンは、サボとルフィを見下ろし、大きな声を出さないで頂戴と断ってから、言った。
 
 
「ゴール・D・アンは警察に身柄を確保されたわ。エースが捕まった」
 
 
サボもルフィも、女を見上げたまま硬直した。
言葉も、息を呑むことさえもできなかった。
 
アンが捕まった?
 
ロビンは二人を見下ろして続ける。
 
 
「身柄の確保は約3時間前……昨日の午後11時すぎ、最後の髪飾りの持ち主の邸宅で、「エース」自身に怪我はなく拘束されたと聞いているわ。私たちがそれを知って、車を走らせたのが1時間前……今この事実を知っているのは警察、行政府、そして私たちと言ったところね。そろそろ黒ひげのところにも情報が行くとは思うけど。あなたたちの方にまだ接触はないでしょう」
 
 
ロビンの問いに、サボは口を開くことができなかった。
アンが捕まった、アンが捕まった、そればかりがぐるぐると頭の中を回る。
だって、なんで、そんなことがある?
アンはついさっき、おれたちと一緒に鍋を囲んでいたじゃないか。
黒ひげのもとへ出向くことも、最近はなかった。
もとよりアンは一言もそんなことをおれたちに洩らさなかった。
おれたちに黙って、アンは行ってしまったのか?
 
凍ったままのサボに構わず、ロビンは話を続けた。
大男は面倒くさそうに葉巻を吸いながら、それでもロビンに口を挟むことなく黙っている。
 
 
「私たちがあなたのもとに出向いた用向きは、先ほどサーの言った通りゴール・D・アンと私たちの間である契約があったから。それをあなたたちに伝えに来たの。黒ひげよりも早く、あなたたちにそれを伝える必要があった。もともとそう言う契約だったし、私たちにしかそれはできない」
 
 
ロビンはおもむろに、クリアファイルから紙切れを一枚取り出した。
小脇に挟んでいたらしいそれはピンと伸びたまま、サボとルフィの前に差し出される。
読みなさい、と静かに促され、サボの手がゆっくりと伸びた。
ルフィが横から覗き込む。
サボは書類に目を落としたが、視線は紙の上をつるつると上滑りするばかりで書いてある文字を読み取れない。
サボの頭は、まだ事実の整理がついていない。
 
 
「サボ、ことばが難しい。読んでくれ」
 
 
まだルフィの方がしっかりしている。
きちんと文面を呼んだものの、ルフィには意味が分からないらしい。
ルフィに促され、サボの目はのろのろと書面を捉えた。
 
 
その書面が意味する内容に、サボは初め何の意味も捉えることができなかった。
ルフィがサボの意訳を待って、犬のように黒目を寄せている。
「読んだ?」とロビンが尋ねる。
 
 
「彼女とサーの契約は成立している。そのための費用は黒ひげから出ているわ。だから私たちは仕事を全うするためにここまで来た。その書類の一番下に、サインをくれるかしら?」
 
 
事務的な最後のセリフは、ルフィに向けられたものだった。
自分に掛けられた言葉だと気付いて、ルフィは少なからずうろたえた顔でサボの服の裾を引いた。
 
 
「サボ、なんだよ、どういう意味だ」
 
 
書類には前書きの部分が小難しい言葉でいくつか書かれていたが、記された言葉を簡潔にまとめるとこうだった。
 
『ゴール・D・アンが相続し、所有する一切の財産をモンキー・D・ルフィに贈与する』
 
 
その書類にはしっかりとアン自身のサインと、そして血判が押してあった。
サボがその意をぽつぽつと口にすると、ルフィは素直に首をかしげた。
 
 
「なんでだ? おれ?」
「その書面には、財産のすべてをモンキー・D・ルフィにと書いてあるけど、実際彼女はサボ、あなたも含む二人に財産の譲渡を望んでいたわ。あなたには正式な戸籍がないから、法的な措置が取れない。だからとりあえずはモンキー・D・ルフィに対する文言として文書を作り、そのあとの融通はあなたたちで効かせればいいと、彼女は言っていたの」
「…なんだこれ」
 
 
力んだ拳が、両手で支えた書類をくしゃりと歪めた。
 
 
「どういう意味だよ!!」
「おい」
 
 
でけぇ声だすな、と大男があくまでけだるげにサボをたしなめる。
それでもサボの頭の中は、小難しい文書の文字とアンの顔とロビンの澄んだ声ばかりがぐるぐるとまわって、煮立った鍋の中のように無秩序に散らかっていた。
 
 
「な、なんでこんな、アンが今更財産云々なんて」
「おいおい、馬鹿かテメェは。自分の身内がやらかしてることしらねぇわけじゃねェんだろう」
 
 
大男は吸っていた葉巻を床に投げ捨て、目も落とさずに靴底ですりつぶした。
 
 
「こうなることを予測して、あの女はオレたちのところへ来たんだろうが。現にその通りになってんだろ」
「こうなること……」
 
 
サボの手から、皺の寄った書類がはらりと離れた。
粉屑になった葉巻の傍にひらりと寄り添うように落ちる。
 
 
アンはずっと前から、自分が捕まったときのことを考えていた。
アンがいなくなった後の二人のことを、考えていた。
自分は警察に身を明け渡す覚悟で、仕事に臨んでいたのだ。
いずれ3人の生活から抜け落ちるアンという存在を埋めるために、莫大な金の処理を施した。
あんなにも傍にいたのに、そのことにようやく今気が付いた。
 
アン、お前はずっとこんなことばかりを考えていたのか。
 
 
ロビンが足元に落ちた書類を拾い上げ、皺を伸ばしてルフィに差し出した。
 
 
「彼女の考えを汲むのなら、サインをしなさい」
「いやだ」
 
 
厳しいともいえるロビンの凛とした声を、それ以上にまっすぐな声が跳ねのけた。
 
 
「アンはバカじゃねぇのか!? アイツ、クソ、金って、おいサボ!!」
 
 
ルフィは言葉にならない何かをぶつけるように、サボの腕を掴んだ。
 
 
「アンを助けに行くぞ! 金がどうとかはどうでもいい、マキノに言って、じーちゃんに来てもらおう!!」
 
 
強い力が腕を締め付ける。
そのままぐらぐらと揺さぶられた。
揺さぶられるがまま、サボの頭は人形のように力なく揺れた。
真っ黒で、アンと同じ大きな瞳がサボを正面から射抜く。
 
 
「しっかりしろよ!! おれたち、どうせアンがいねェとダメじゃねェか、そうだろ!!」
 
 
ルフィの目は、これ以上ないというほど澄んで光っていた。
黄色い灯りの下でも、太陽のように眩しく光っていた。
アンと同じ目をしている。
こんなときに、どうでもいいことばかりがサボの頭を巡った。
 
 
「聞きしに勝るバカだなテメェは」
「なんだとテメェッ!」
 
 
口を開いた大男にルフィが食ってかかる。
男はコートのポケットに手を突っ込んで、ロビン、と言った。
 
 
「上手いこと説明しとけよ、オレァ先に車に戻る」
「わかったわ」
「10分だ。それで済ませろ」
 
 
背を向けた大男に、ルフィが牙を剥く獣のように唸る。
その視界をロビンが遮った。
 
 
「黒ひげはまだあなたたちに接触していない、そうよね」
「今日の話なら、そうだ。おれたちは今起きた」
 
 
ルフィの言葉にロビンがしっかりと頷いた。
 
 
「今すぐ出かける準備をしなさい。もうここに戻らないつもりで、大事なものだけ持って。荷物はできるだけ小さくして」
「……な、んで」
 
 
掠れたサボの声に、ロビンはにこりともしないまま言う。
 
 
「助けられるかどうかはあなたたち次第だけれど、このままだと黒ひげがあなたたちを匿うことになる。ゴール・D・アンがあたしたちに一番望んでいたのは金のことではないわ。黒ひげから、あなたたちを逃がすことよ」
 
 
ぽかんと口を開けたサボとルフィを見下ろす位置から、ロビンの視線がついと店の先まで動いた。
 
 
「サーの機嫌が変わる前に早く。10分よ」
 
 
ロビンが薄い背中を向ける。
サボとルフィは、弾かれたように住居へと駆け戻った。


拍手[33回]

思った以上に機嫌のよいティーチの顔を見ないように、アンは俯いたままテーブルの脚を眺めていた。
警察と行政府の衝突のニュースは、アンやサボが予想した通り黒ひげを喜ばせている。
アンは彼らから招集がかかったときから、ティーチのこの世界を我が物にしたかのような顔を見るのが嫌で、ただでさえ気が進まないのに今回はさらに拍車がかかって気が進まなかった。
 
 
「ニューゲートの野郎、こそこそしてるつもりかホントに弱っちまったのかしらねぇが、どっちにしろ顔もだせねぇほどとはみっともねェ!」
 
 
ティーチは下品に大きな笑い声を立てながら、目の前のアンが表情を一ミリたりとも崩していないにもかかわらず、初めから終わりまでずっとこのニュースを喜んでいた。
黒ひげの思惑よりもずっと早くニューゲートの地盤が揺らいだのは、図らずとも彼らにとっては幸運に違いない。
 
こいつらの前で絶対に感情なんて晒したくない。
そう思いながらも、アンは内側で苛立ちがふつふつ煮えるのを押さえられなかった。
声さえ荒げさせなかったものの、顔はどんどんしかめっ面に近くなる。
 
 
「それで、次はどうすんの。最後でしょ」
「あぁ、それだがな、アン」
 
 
ティーチはさもなんでもないことのように言葉を口にしたが、アンはそれを聞いて開いた口が塞がらなかった。
 
 
「……は? どういうこと?」
「そのままの意味に決まってんだろう、これ以上分かりやすい説明の仕方はねぇぜアン」
「約束が違う!」
 
 
アンはこの事務所の中で初めて声を荒げた。
ぎゅっと手のひらを握りこんでティーチを睨む。
アンがどれだけ睨んだところでこの男が動じることは一切ないと分かっているので、余計に腹立たしさが募る。
 
 
「あたしがやらないと意味がない!! 最初からそういう約束だろ!」
「まぁ待てアン。よく考えてみろ、お前は三度もよくやった。オレたちのそれぞれの目的達成のために良く働いてくれた。お前にとっては三度とも失敗だっただろうが『黒ひげ』にとってはそうじゃなかった、これでも感謝してるんだぜェオレたちは。だからこそ、次でオレたちもお前ェにきちんと目的を果たしてもらいてェ。だからこそ、今度の盗みからは手を引け。オレたちはなんとかお前を使わずに髪飾りを盗み出してみせる」
「じゃあなんで最初からそうしなかったんだよ!! 最初からあたしなんていなくても、髪飾りを盗んで好きなようにできたはずだろ!」
「髪飾りの本物はお前のものだ。お前ェが最後の最後で本物の髪飾りを見つけた態でニューゲートを訴えることで今回の作戦はすべて成功する。もしおれたちが勝手に髪飾りを盗み出してからお前に近づいて、これはお前のものでニューゲートの野郎が実はあれこれしてたんだ、だからアイツを訴えてくれと言えばお前は言われた通りにしたか?」
 
 
言葉に詰まった。
理は適っている。
だからといって諦めきれなくて、アンは言葉を絞り出した。
 
 
「……あたしは最後までうまくやる」
「別にお前ェを今更信用してねェわけじゃねぇよ。ただ最後の一つともなると、格段に事をなすのは難しい。たとえ盗みに成功したとしても、お前がパクられちまったら何にもならねぇ、そうだろう?」
 
 
これが一番の安全策だ、とティーチは言い切った。
 
つまるところ、最後の髪飾りを盗むにアンはいらないというのだ。
黒ひげの手のものが事を行う。もうその算段はできていると。
いくらティーチの言葉が理にかなっていると言っても、到底すぐに納得できるものではなかった。
こんな中途半端に手を引きたくなどない。
 
ただ、いまここでアンが「嫌だ」とわめいてもティーチが意を返すことはないともわかっていた。
だからアンは黙って唇を噛み締めるしかない。
ティーチは気持ちの悪いほど猫なで声を出して、「お前ェを仲間外れにしてるつもりはねェから、へそ曲げるんじゃねェ」とアンを宥めた。
 
 
「もう準備は済んでんだ、実行は時期を見計らいつつ一か月後」
 
 
アンは静かに頷いた。
渋々納得したふうを装った。
心の中は、まったく黒ひげに同意したつもりはなかった。
 
あたしだけでやろうと決めた。
 
黒ひげの手を借りず、奴らが事をなす一か月後より早く、髪飾りをアン一人で盗む。
その結果がどうなろうと、少なくとも身の行き場は一つしかない。
 
 
 
 

 
 
サボとルフィには黙っていた。
反対されるに決まっている。
彼らはアンが反対意見などに納得したことがないのを知っているくせに、それでも反対するに違いないのだ。
 
道具はアンが持っていた。
ペンライトやピッキング工具、ロープの仕込まれた腕時計も全てアンの手にある。
アンはベッドの上にそれらひとつひとつを並べた。
ルフィは学校、サボは配達を頼んだ野菜がなかなか届かないので八百屋に直接出向いている。
なんてことのない平日の午後だった。
 
白いベッドの上に並んだ細かな工具を一つ一つ手に取り、それらを布で包んでは丁寧に拭っていく。
アン以外の人間の指紋を一切消し去るためだ。
ルフィやサボが勝手にいじっているとは考えにくいが、万一もある。
アンはこれでもかと言うほど丹念に、工具の一つ一つを隅々まで磨き上げる。
磨いた工具は黒いポシェットにすべて収めた。
 
役に立ったこれらの道具に、アンは思いを込めていいものか少し迷う。
こうして手入れをしていると少なからず情が移るものだ。
ただ、黒ひげに与えられたものだということが常に引っかかっていた。
奴らと関わるとどんなに素敵なものも薄汚れてくすむ。
 
全てのツールを磨き終わると、アンはマントを手に取った。
くるくると丸めてコンパクトにすると、それさえもギュッとポシェットに詰める。
さらには足を隠すための、薄手の長いパンツも同じ要領で丸めて押し込む。
そして黒いマスクと短髪のウィッグは、クローゼットにかかるコートのポケットに潜ませた。
 
ベッドの上にはポシェットひとつがちんまりと座していた。
そしてそれに向かい合うように、アンが座っている。
 
たん、たん、とリズムよく靴下を履いた足が階段を上る足音が届いた。
アンはポシェットを三つ並んだ一番窓側のベッドの下に滑り込ませると、「おかえりー!」と明るい声を上げて寝室を後にした。
 
 
 
 
夜は鍋を囲んだ。
ルフィがあれもこれもと好き勝手に材料を突っ込みすぎて中身が溢れる。
じゅわっと水気が蒸発する音ともに、焦り声と笑い声の混じった三人分の叫びがわっと弾けた。
ばーか、とサボが笑いながらげんこつを落とす。
昼間サボが八百屋に取りに言った野菜は、今夜の鍋のためのものだ。
 
 
「アン、肉が足りねェ!」
「もうこれで全部! 野菜も食べな」
「食ってるよぉ」
「ウソつけ、お前肉と野菜9:1くらいで食ってるだろ」
「最後の肉もーらい」
「あーーっ!!」
 
 
ルフィとサボは目を剥いて、ぱくりと肉を頬張るアンに悲痛な叫びを上げた。
残念でした、ごちそうさま! とアンは立ち上がって食器を下げにかかる。
くそ、やられた、と悔しそうにする二人に背中で笑い声を聞かせた。
 
しあわせだった。
うわあと叫んで走りだし、街中の人に伝えたくなるくらい、しあわせだった。
 
 
 
 

 
 
そっと寝室を覗き込んで、二人分の寝息を確認した。
ふたりとも、掛布団にすっぽりともぐりこんで深い寝息を立てている。
時刻はまだ21時を回った頃だ。
あまりに早い就寝の原因を、アンは先程シンクに水で流した。
さらさらと溶けていく粉を、もう二度と見たくもないと思った。
それでもあと一回分の同じものが、アンのポシェットには潜んでいる。
 
ソファで寝落ちたルフィをサボに運ぶよう頼んだら、ルフィをベッドに下ろした途端サボ自身も眠り落ちてしまったらしい。
大きなサボをどうやって運ぼうかと真剣に考えていたアンにとって、そのハプニングはありがたかった。
丁寧に、風邪を引かないように、ふたりに布団を掛けた。
アンのベッドの上は当然空っぽで、下に滑り込ませてあったポシェットは夕食後すぐに取りだしてあった。
今アンの腰に巻き付いている。
 
アンは細い隙間から、ふたりの呼吸を目いっぱい吸い込んだ。
健やかに眠る彼らのにおいを、身体に閉じ込めるように飲みこんだ。
音を立てずに戸を閉める。
いつの間にか得意になっていた忍び足で階段を下りた。
 
 
 
外は風が強く、そして冷たかった。
ぴんとハリのあるアンの頬をいたぶるように、鋭い風が吹く。
雲の流れが速く、月が見え隠れするせいで辺りの明るさもちらちらと変わった。
 
コートの下に着たワンピースは生地が薄く、肌に触れると冷たい。
剥き出しの足は寒いを通りこし痛い。
静かな通りに、甲高いヒールの足音だけが規則正しく響く。
 
宝石商の館は、なんとアンの家から数百メートルしか離れていない近所だった。
実生活に無関係であれば、存在だって知らないのも道理だ。
こんな事態でなければ、もしかすると一生互いに知り合うこともなかったかもしれない。
それでもアンは今、その家にむかって着実に歩を進めている。
今まで盗みに入っていた家々があまりに浮世離れした風貌だったのに比べ、宝石商の家は、並みの家より少し立派な程度。
特に目を引くところもない普通の民家だった。
石柱の門があり、その向こうにこじんまりとした玄関がある。
小さな出窓から、薄く黄色い光が漏れていた。
家の外に警備は一人もいなかった。
宝石商が保存する髪飾りは、彼の家ではなく仕事場の方にあるというのが、黒ひげからも聞いた情報だった。
宝石の鑑定をし、それを街のジュエリーショップに捌くための工房といっていい。
そこで客商売をするわけではないので、店と言うと少し意味合いが違ってくるからか、黒ひげはそこを『仕事場』とあらわした。
警察はその仕事場の方を厳重に警備しているに違いない。
だからこそ宝石商の家自体は他の民家と何も違わない、しんと夜の住宅街に馴染んでいる。
 
アンはここに来るのが初めてではない。
 
 

 
黒ひげの意に背くことを決めて一週間後のことだった。
サボには買い物と言って外に出た。
街の公衆電話から、電話帳を使った。
電話に出たのは、落ち着いた声の男だった。
宝石商本人だ。
 
 
『知り合いの結婚式に身に着ける宝石が見たいの』
『そう、悪いけど、お嬢さんね、僕の仕事はジュエリーショップじゃなくて、そういう店に宝石を売る仕事だからね。普通のお店に行ってもいいの見つかると思うよ』
『あなたのところで直接選びたいの』
『……もしかして誰かに僕を紹介してもらった? お嬢さん名前は?』
『ゴール・D・アンです』
『え? ゴ、ゴール?』
『はい、ゴール・D・アン』
 
 
電話口からシュッと細く息を吸う音が聞こえ、数秒の沈黙の後、男の戸惑い声が再び聞こえた。
 
 
『……あの、ゴール? もしかして、ゴール・D・ロジャーの親戚か何か……』
『娘です』
 
 
娘……と呟いたきり、男はぷつりと黙ってしまった。
アンは冷たい受話器を汗ばむ手でぎゅっと握る。
フルネームを口にするのは、アンにとってほとんど初めてだった。
隠してきたつもりはないが、世にさらせば面倒なことが増えると、嫌でも想像がついたからだ。
 
あ、と呻くような小さな声が電話口から漏れた。
 
 
『いやあ、びっくりしたな……といっても本当かどうかはわからないけど、だとしたらすごい話だ。ロジャーに子供がいたというのは知っていたけどね、あの事件で子供は警察に匿われって噂だったから』
『本当、です』
『うん、特に僕が生前のロジャーと交流があったわけでは全くないんだけど、あの男のお嬢さんと言われたら、聞き流すわけにはいかないよねぇ。え、それでなんだっけ、結婚式?』
 
 
男はそれから、アンに紹介の経緯を尋ねることもなく、直接会う日取りを決めた。
馴れ馴れしいほど愛想のよい男の声を遮るのに遠慮しながら、アンは『あの』と口を開く。
 
 
『父のことがあるから、あたしのことは警察に言わないでほしいの。もう、警察とはあんまり関わりたくないから』
『ああ、そうだね、今僕の周りは警察だらけだからね。もちろん、顧客の情報はしっかり守るよ。僕も客商売だから』
 
 
アンはなるべく丁寧に礼を告げ、最後まで「裕福な家の娘」の役どころを遵守するように、控えめな仕草で電話を切った。
 
嫌な汗が、冷たく背中に滲んでいたことを覚えている。
ロジャーの名を出すことの絶大な威力が、ひしひしと肩に見えない圧力をかけていた。
 
そうしてアンは約束の日に、その家を訪れた。
ルフィは学校で、サボは家にいたが、仕入れに行くと言って家を出た少し後を見計らい、アンも出かけた。
数時間はサボも帰ってこない。
 
教えられた住所に向かうにつれ、もしかするとそこには大勢の警官が待ち構えているのではないかと、内心足がすくむ思いだった。
だからこそ、ひっそりと住宅街の中に馴染んで佇むその住まいを見たとき、アンはむしろ信じられなくて、誰か隠れていやしないかと辺りの様子を窺ってしまったくらいだ。
 
アンを出迎えた男は、背の低い、丸いお腹をした中年だった。
穏やかそうな目元が、商売名からしてがめつそうな印象を与えるそれとは異なる。
男は一瞬顔を引いて、アンを視界前部に収めて眺めた。
アンは買ったばかりのカーディガンの裾を、後ろ手にきゅっと握りしめる。
入ったこともない街のブティックで、顔なじみの店員に「サボとルフィには内緒で」とおしゃれを楽しむふりして買ったものだ。
履き慣れないスカートが落ち着かず、もぞもぞと足を動かしたくなるが、じっと耐えるしかない。
 
 
『やあ、これはまた、想像以上だ』
『はじめまして』
 
 
硬く挨拶をするアンを、男は快く家の中に招き入れた。
深緑色のセーターに包まれた丸いお腹には宝石やお金などのがめついものはつまっていそうにないが、苦労して金持ちになったというような甲斐性は見受けられない、至って平凡な裕福さを醸し出す中年だ。
アンは、客間の立派な革張りのソファに案内された。
腰を下ろすとキュッとハリのある音がした。
なめした革のにおいが、どこか知った場所を思い出させた。
それがどこかを考えるより前に、男が『失礼』と言ってコーヒーを運んできたので、アンの思考はうちきりになる。
男はせかせかと、慣れない手つきでアンにコーヒーを給仕した。
その仕草をぼんやりとみていると、男はアンの視線に気付いて照れたような笑いを浮かべた。
 
 
「いやあ実は男やもめでね。しかも最近の話なもんだからこういうことに慣れなくて。家政婦さんってのも好きじゃないもんでね」
 
 
自分が不躾に眺めていたことに気付いて、アンは慌てて「いや」とか「はあ」とかいうようなことをごにょごにょ呟いた。
さて、と男が向かいに腰を下ろす。
 
 
「ロジャーの娘さんって言うのはほんとうみたいだね」
 
 
男の言葉に、アンは見るからにきょとん顔をさらしてしまった。
どうして、と口に出す前に男が喋り出す。
その顔にはほのぼのとした笑みが浮かんでいる。
 
 
「そっくりだから。そりゃあ言われてみればって感じではあるけど、それでもロジャーの顔は当然テレビでも街でもよく見たからわかるよ。いやあ懐かしいね」
「そう、ですか」
「会ったこともない故人を懐かしいなんて言うのは失礼かな」
 
 
そう言って男は困ったように笑ってこめかみを掻いた。
アンは思わず自分の頬に手を当てていた。
昔の写真を眺めても、自分で似ていると思ったことはなかった。
どちらかというと、他人に「お母さん譲りのそばかすがチャーミング」と言われることが幼いころにままあった程度だ。
だからこそ、面と向かって父さんにそっくりだと言われると、なんだか落ち着かない気分になった。
そんなアンをよそに男は相変わらず害のなさそうな素朴な目をしながら、おもむろにいくつか冊子を取り出した。
 
 
「これね、一応パンフレットみたいなものなんだけど。言った通り僕はジュエリーショップそのものじゃなくてそこに宝石を下ろす仕事だからさ、今ここに現物はないんだ。でもアン、君がこれこれこんな感じでってイメージを伝えてくれるなら、次の機会に僕がいくつか用意できるよ。ジュエリーショップに下ろす前だから、当然世に出回る前、ただ一つの石だ」
 
 
男が滑らしてきた冊子を手に取った。
手に取った流れでページを捲る。
赤や深い青、エメラルドグリーンの輝きが写真から溢れていた。
 
 
「僕のところを懇意にしてくれてる人はね、こうやって君みたいに直接僕のところに来るんだ。その辺のジュエリーショップに行って買えないって意味ではそれなりの価値も上がるからね」
 
 
そうだったのか、そういうものなのか、とアンが素直に感心を顔に表すと、男はそれを見て気分を良くしたようで、嬉しそうにソファの上で身じろいだ。
とはいえアンはもともと宝石に興味があってきたわけではない。
欠伸が出る前に冊子から目を上げた。
 
 
「あの、結婚式で着るドレスが赤だから」
「うんうんなるほどね。そうやってイメージを出して言ってくれるとありがたいよ」
 
 
僕も君には赤が似合うんじゃないかと一目見たときから云々と、男は話しながら自分も別の冊子を捲り始めた。
アンは一緒になって宝石を選るふりをしながら、こっそり大きな安堵の息を吐いていた。
 
赤い服には赤いアクセサリー。
別の色でアクセントにしてもいいけど、やっぱり同系色の色でまとめるとすっきりする。
自分の身につけるものにそのような小技を効かせるなど、今までのアンには考えも及ばなかったことだ。
先日店に来たお客さんが、ちょうど今度娘の結婚式だ云々と話していたのを耳にしたのだ。
純白のドレスに白く光るダイヤのピアスが映えていいのだと、お客のおばさんがまるで自分が結婚するかのように浮かれて喋っていた。
それを聞いて、アンはこの切り出し方を思いついたのだ。
 
 
「赤と言えばやっぱりルビーだけど、スピネルもいい色だよ。あとはガーネットとか……そういえば何のアクセサリーにするか聞いてなかったね。それによって大きさも値段も変わってくるけど」
 
 
男の小さな目に見られると、小さな子供にきゅっと手を握られているような感覚がした。
無碍には振り払えないような無邪気さが、今のアンには痛い。
 
 
「……髪飾りに」
「ああ、髪飾りね、赤の……」
 
 
再び冊子に落ちた男の視線が、さっとアンに戻ってきた。
つぶらな目の真摯さに目を逸らしたくなる。
男は一瞬、真顔をさらしてしまったことを後悔するような色を見せた。
自分が言える話ではないが、頭の悪い人じゃないんだな、と思った。
男はほんの数ミリ口を開いたままたっぷり逡巡してから、思い切るように口を開いた。
 
 
「あの髪飾りを、知ってるんだね」
 
 
アンがしっかり頷くと、男はああとため息のような声を洩らして冊子をぽいと机の上に放り投げた。
 
 
「いや、別段珍しいことでもないけどさ、ホラいまあの髪飾りの兄弟たちとでもいうかな、盗難騒ぎがあるだろう。でもだからこそ、あれは売り物じゃないんだ、知ってるんだろう?」
 
 
またもや頷く。
男は困ったように頭をかいた。
 
 
「一昔前は『同じものを』って言ってくるお客さんも少なくなかったんだ。今はやっぱり流行り廃りがあるからかな、とんといなくなったけど。君もそうかな?」
「は、母に、聞いたことがあって」
 
 
へえお母さんに、と男はあっさりとうなずいた。
この男は本物を持っている。
それが母さんのものだと知らずに持っている。
男は太い眉をそれらしくしならせて、困った顔を見せた。
 
 
「申し訳ないけど、やっぱりあれは売り物にはならないよ。僕があれを手に入れられたのはエドワード氏のはからいあってこそで、思い入れもあってね」
 
 
彼も今大変そうだけど、と男は芝居気のないため息を吐いた。
 
 
「エースだっけ? アイツに盗まれた髪飾りを持ってた他の人たちみたいに、あれを見世物にするのは僕はあんまり好きじゃないんだ。もちろん宝石は人に愛でられてこそ美しい。だけど好奇の視線にさらされればそれだけ色褪せる気もしないか。……そもそも本当にあの髪飾りを買えると思って来たの?」
「ひ、ひとめ見てみたくて」
 
 
男は一拍キョトンとすると、あははっと声を上げて笑った。
苦笑の後味が残る笑みには、世間知らずな良家の娘をほんのわずか憐れむような表情が混じっていた。
 
 
「アン、さすがにそれは無理な話だ。今ここで僕が君にひょいと髪飾りを見せてしまったら、警察のメンツが立たない、そうだろ。君の髪飾りの宝石は僕が腕に……というより目によりをかけて選ぶからさ」
 
 
おねがいします、とアンがぺこりと頭を下げると男は満足げに息を吐いて、また冊子を手に取った。
 
 
「ピンクサファイアでもいいと思うんだけどね、それかこっちの石は加工しやすいから」
 
 
男が写真を指差して話し始めたそのとき、アンの心はもうそこになかった。
 
『警察のメンツが立たない』
せっかく警備している髪飾りを簡単に人目にさらすことが?
今話題のそれを、ただの売り物のように扱うことが?
ちがう、と思った。
警察は髪飾りを警護などしていないのだ。
いや実際は、宝石商の仕事場の方は幾重もの警備に囲まれて物々しい雰囲気になっている。アンもテレビ越しにその映像を見た。
茶色い壁で、ぽこりと丸いドーム型の屋根が印象的なこじんまりとした工房を、紺色の制服を着た男たちがおぞましいほど規則正しく囲っていた。
ただ、彼らは小さなその建物をただ囲っているだけだ。
中身のない箱を手を繋いで守っている。
警察が守っている髪飾りは、本物ではないのだ。
警察の入れ知恵か宝石商本人の策略か、真意の出所はどこからかわからないが、そうにちがいないとアンは確信した。
だからこそ、男がアンに今ここで髪飾りを見せてしまったら警察のメンツが立たないのだ。
髪飾りは、仕事場の方で警護のもとにあることになっているのだから。
 
髪飾りは今、この建物のどこかにある。
背骨が冷えて、膝が震えそうになるのをぐっと堪えた。
男は自分の失言になにも気付かず、むしろ楽しそうにアンに宝石を勧めている。
 
男はいくつか選んだものを、次の機会に準備しようと言った。
アンは殊勝に頷いて、その次の機会の日時を決めた。
 
 
 

 
今思うと、黒ひげはこのだまし討ちを知っていたのかもしれないな、と思った。
もし通例通りアンが宝石商の持つ髪飾りを奪いに行っていたとしたら、黒ひげはアンを屋敷と仕事場のどちらに行かせただろう。
黒ひげは何食わぬ顔で、アンを飛んで火にいる夏の虫にしていただろうか。
 
今更考えても詮無いことだ。
アンはボタン式のインターホンを、色のない指先で押した。
 
扉を開けた男は、依然と何も変わらない平和な顔をしていた。
 
 
「一人で来たのかい? 夜の一人歩きは感心しないね」
「近くまで送ってもらって」
「ああ、それならいい」
 
 
それらしい嘘を、男は簡単に信じた。
以前と同じ客間に通される。
寒かっただろう、と男は茶を入れに奥へ引っ込んだ。
 
男の背中が扉の向こうに消えてすぐ、アンは部屋の四隅や調度品の影に目を走らせた。
とかげが素早く身を滑らせて移動するように、視線を辺り一帯に巡らせる。
この部屋には監視カメラの類はないようだ。
ただの客間に過ぎないからだろうか。
いくら普通の民家とはいえ、商人であればそれなりの資産を見込まれてもおかしくない。それを鑑みてのセキュリティは施されているだろう。
あるとすれば玄関、廊下、窓の傍、そして髪飾りが眠る部屋。
だとしても、この部屋にさえカメラがなければどうとでもなる。
たとえ廊下の監視カメラに不審な影が映されたとしても、その姿はアンではなくエースだ。
 
扉が開いた。
 
 
「いやあ、やっぱり少し時間がかかってしまった」
 
 
照れ笑いを隠さずに、男は持ち込んだトレーをテーブルにおいて、アンの前に湯気の立つカップを差し出した。
おたおたと慣れない仕草でアンに給仕する男の丸い手を見ていると、急に息がつまるような思いがした。
ソーサーを支える男の左手の薬指には、細いシルバーの指輪が光っていた。
太い指をぎゅっと締め付けるように、けして外れはしませんよと主張するかのように、指輪は華奢な弧を描いている。
この家に彼は一人だと言っていた。
最近やもめになってしまったのだと。
どんな理由でそうなったのかはわからない、考えればいろいろとあげることができるだろう。
 
 
「用意した石をいくつかを持ってくるから、飲んで温まって、少し待っててくれるかな」
 
 
そういってはにかみながら部屋を後にする男の、丸く肉のついた頬は柔らかい線を描いていた。
もしあたしが。
もしあたしがこれから、彼が持つ髪飾りを盗むつもりだと彼が知ったら、その柔らかい頬は固く冷たく強張ってしまうのだろうか。
彼が入れた温かくて少し苦すぎるコーヒーも、ただの濁った液体になってしまうのだろうか。
 
彼がどうしてエドワード・ニューゲートから髪飾りを買い入れたのかを想像した。
買い入れたそれを、彼は人目にさらすことをしていない。
この家のどこかで、大切に保管しているのだろう。
『宝石は人に愛でられてこそ美しい』と言っていた彼は、その宝石を誰に愛でさせたのだろう。
誰のために愛でたのだろう。
あたしが奪い去ろうとしているのは、彼が何かを、誰かを大切に思った証なんじゃないだろうか。
 
髪飾りはもともとあたしの母さんのものだ。
そう思い続けることが苦しいのは、今に始まったことじゃない。
だからこそ、ずっと苦しい。
 
アンはそっとコートのポケットに手を滑り込ませた。
爪の先で薄いビニールに傷をつけ、取りだしたそれを男のコーヒーの上にさっと振り掛けた。
白い粉がさらりと一振り真っ黒の水面に散り、すぐさま溶けて消えた。
半分ほど残ったそれを片手にアンは一気に自分のコーヒーを半分ほど飲み下し、その熱さと苦さに舌を参らせながら自分のカップに残りの粉をぶちまけた。
空のビニールをポシェットの外ポケットにしまいこんでコートの裾を直した時、男が戻ってきた。
両腕でガラスのケースを支えている。
 
 
「お待たせ」
 
 
男はケースをテーブルに置くと、慎重な手つきでガラスを持ち上げた。
ふかふかのソファのような黒い艶のある布地の上に、石が三つ並んでいた。
血のように真っ赤な石が左端。
真ん中に、今度は炎のような明るい赤の石がひとつ。
そして右端の石は、赤やオレンジというよりピンクに近い可愛らしい色をしたものだった。
男はアンに白い手袋を手渡した。
 
 
「手に取ってみていいよ。昼に見るのとはまた色合いが変わってしまうんだけどね」
 
 
アンは言われた通り手袋をはめ、ひとまずおそるおそると言った様子で左端の石に触れてみた。
俯いて石に視線を注いでいるようでいて、本当は男がコーヒーに手を伸ばさないかと気が気でない。
 
 
「それがルビー。8カラットのモゴック産だ」
 
 
アンは次に、真ん中の石に触れた。
 
 
「レッドスピネル、同じく8カラットでウラル産だよ」
 
 
それで、と男は流れるまま隣の石についても口にした。
 
 
「最後の一つがピンクサファイア。10カラットで今僕が持っている石の中で一番価値ある宝石だ」
 
 
それを聞くと、思わずサファイアに触れようとしていたアンの手が止まった。
目ざとく気付いた男が軽く笑う。
 
 
「ゆっくり選ぶといいよ。まだもう少し他にも用意してあるから」
 
 
言いながら、男の手がカップに伸びた。
 
 
 

 
ソファの肘掛けに上半身をもたれさせるようにして眠る男をそのままに、アンは急いでウィッグとマスク、そして手袋を身につけた。
ワンピースの上からパンツを履くとき、スカートが皺にならないよう気を配るのに時間がかかった。
その上からコートを羽織る。
ポシェットが腰についているのを確認して、部屋を出た。
 
邸宅内の構造はいわゆる振り分け式で、長い廊下にいくつかの扉が並んでいる。
客間は玄関に一番近い右側の部屋。
アンがそこから出るとさらに右に廊下が伸びていて、どうやらつきあたりがダイニングとキッチンのようだ。
さらに玄関の正面に階段があり、二階へ続いている。
 
今までのように、黒ひげが全ての手配をしていてくれた時のように、手掛かりはなにひとつない。
あるのは勘だけだ。
アンは階段を上った。
仔猫の鳴き声のような音を立てて、足元が軋む。
階上も一回と同じ構造で、奥へと伸びる廊下に面して左右に扉が2枚ずつ、そして突き当りに一部屋だ。
手前の右の部屋だけ少しドアが開いていた。
その部屋は無視して、左手前のドアに手を掛ける。
鍵はかかっていない。
通り過ぎて二枚目の右のドア、左のドアと同じようにノブを回す。
どちらも鍵はかかっていなかった。
最後に残ったつきあたりのドアは、他のドアと外見は何も変わらないシンプルな木の造りだ。
だがアンには、この扉だけが明るく見えた。
はっきりと強い輪郭を描いているように見えた。
ノブに手を掛ける。
鍵がかかっていた。
 
落ち着いて、息をひとつ吸い込んで胸の中に落とす。
ポシェットからピッキング工具一式を取り出して、作業を始めた。
知らず知らずに息を詰める。
静かな夜だ。
更けてもいない中途半端な夜の時間、自分の細い呼吸音だけが聞こえる。
ものの3,4分ほどで、ノブの中で小さな金属が音を立てて外れた。
工具をポシェットにしまい込み、そっとノブを回した。
3センチほどドアを開け、中を覗きこむ。
寝室だった。
細い隙間からやっとのことでベッドの足らしきものが見える。
その横にサイドテーブル、大きなクローゼット、置き時計。
ロココ調のドレッサーだけがシックなこの家全体の雰囲気から浮いていた。
アンはさらにドアに体重をかけて、ついに部屋の中に身を滑り込ませた。
部屋の中央に、正面の壁に頭をつける形でキングサイズのベッドが鎮座していた。
丁寧にベッドメイキングされているが、脚側の端のシーツが一部だけ取り残されて、めくれているのが目に留まった。
男が自らいそいそと慣れない手つきでベッドをメイキングしている姿が想像できた。
アンは壁伝いにドレッサーへと近づいた。
部屋の調度品の中で一つだけ浮いてしまったそれは、白の彫刻が美しい。
陶器のような縁取りに囲まれて、鏡が暗がりの中ぼんやりと光って見える。
 
せせこましいただの泥棒作業が始まった。
クローゼットの扉を開けると、中はウォークイン形式になっていた。
防虫剤くさい生地と生地の間に入り込み、ショーケースのような、それらしきものがないか探し漁る。
それともこの奥に隠し扉のようなものがあったりするのだろうか、と奥の壁を押したり突起を探したり軽く叩いたり、いろいろ試してみる。
実際アンには、髪飾りがどのような形で保存されているのかわからないのだ。
この部屋にあるのかどうかもわからない。
もしかするとこの家の中の小さな一室で、誰に見られるわけでもなくひっそりと咲いているのかもしれなかった。
もしかするとこの部屋のこんな暗いクローゼットの中で、こっそり身を潜めているのかもしれなかった。
しかしいくら探してもなにひとつとして、ハッと息を呑む仕掛けがあるわけでもショーケースそのものがあることもなかった。
 
アンは一度クローゼットから出て、部屋全体を見渡した。
出窓から月明かりが漏れている。
観葉植物が一つ、その光を受けていた。
ベッドの下をハズレ覚悟で覗いてみたが、やはりハズレだった。
時計に目を落とす。
午後10時半になろうとしている。
放っておけば男は3時間は目を覚まさないからいいとしても、あまり長居すべきではない。
日が変わる前にはここを立ち去りたかった。
月明かりが眩しいほど白い。
その白い筋が、ロココ調の彫刻をぼんやりと浮かび上がらせていた。
 
男の妻のものだろう。
ドレッサーの上は綺麗に片付いていたが、鏡はいつだれが見ても美しくその姿を移すようにと、磨き上げられていた。
華やかな化粧品の香りが、ふっと鼻をくすぐった気がした。
その香りがアンの遠い記憶のそばをそっとかすめて、どきりとした。
母さんの長い髪に、白い首筋に顔をうずめたときのことを思い出した。
 
アンはそっとドレッサーに歩み寄った。
ドレッサーの台の部分には、横に並んでふたつ引き出しがついている。
さらに右側にだけ、縦にふたつ引き出しが並んでいる。
アンは横並びの二つを同時に、静かに引いた。
茶色い木の肌が見える。
中は空だ。
引き出しを戻し、縦並びの上の一つを開けた。
滑りが悪く、アンが力の加減を強めるとゴトッと小さく音が鳴って引き出しが手前に引かれた。
 
それはあった。
なにに守られるでもなく、コロンと無造作に引き出しの中に一つだけ、真っ赤な花が咲いていた。
アンはしばらく息を詰めて、それを見下ろしていた。
 
それはまるで日用品の態をして、誰かがおもむろに髪に差すのを待っているかのように、雑とも言える収納の仕方で、空っぽのドレッサーの中に転がっていた。
男の妻は使っていたのだ、と思った。
美術館や資産家たちがショーケースに入れ警護に警護を重ね大事に大事にひけらかしていたそれを、男の妻は日常で髪飾りの用途で使っていたのだ。
母さんと同じように。
 
アンはそっと手を差し伸べて、髪飾りを掬い上げた。
宝石はキンと冷えていた。
手袋越しにもその冷たさを感じた。
 
そのとき、ぎっと木の床を踏みしめる軋んだ音が足元から伝わった。
アンはハッと顔を上げ、胸元に髪飾りを抱き寄せる。
誰?
 
寝室のドアは薄く開いていた。
部屋の壁に背中をつけて、その隙間から外の様子を窺い見る。
アンがいる寝室は二階の突き当りの部屋だ。
そこからは二階の廊下が一望できた。
人影は見えない。
ただ、またひとつギッと床の軋む音が響いた。
階段だ。
 
男が起きたのか、それとも別の誰かか。
その誰かを確認しようかすぐさま身を隠すべきか一瞬迷った。
その迷ったほんの一瞬で、階段を軋ませる人物の頭頂部が見えた。
いやに明るい月明かりが、その顔を判別する手助けをした。
 
アンは、「あ」とまるで知り合いに声をかけるような言葉を、慌てて飲み込まなければならなかった。
マルコが静かに、階段を上っていた。
ときおり床を軋ませながらも、ほとんど音もなく、いつものような眠そうな顔が暗がりの中ぼんやり浮かんでいた。

 
 
どうして、なんでマルコがここに、たったひとりで。
疑問と同時に、全身の血流が濃く体の中を巡り始めた。
手の先はものすごく冷たいのに、胸の真ん中ばかりがどくどくと言っている。
こんなときでも身体はマルコに会えたことを喜んでいる。
 
それでも頭は冷静に働いた。
凍ってしまおうとする身体を懸命に動けと叱咤し、アンの手は抱きかかえていた髪飾りをようやくポシェットに納めることができた。
アンは素早く扉から離れ、出窓に近づいた。
窓は外側に押し上げる形式で、おそらくアンひとりが外へ身を滑らすくらいならわけない程度には開くだろう。
ここは二階だが、跳べない落差ではない。
しかし出窓の金具は月明かりの下でも錆びて変色しているのがわかった。
長い間開かれることがなかったのだろう。
仮に開くことができたとしても、盛大に金属音を響かせるに違いない。
そもそも、本当にマルコは一人なのだろうか。
既にこの屋敷が警察一帯に囲まれている可能性は高い、むしろそうとしか考えられない。
何故マルコだけが、建物の中に入って来たのか、それも二階へ足を向けているのかはわからないが。
 
一度だけ、一段と大きく床が軋んだ。マルコが二階の廊下に到達したのだ。
足音はゆっくりと、嫌にゆっくりと近づいてくる。
知っているのだ、と思った。
マルコはエースがこの部屋にいることを知っている。
アンは出窓の取っ手に手をかけた。
鳥肌が立つほど冷たい金属の取っ手だ。
それを下に押すようにまわし、同時に窓を外側に押し出す。
カエルが這い回りながら鳴いているような、引きずった音がした。
外の空気がさっと入り込んできて、アンの襟足を後ろへ払った。
アンの横を通り過ぎた風が、吸いこまれるように背後に流れていく。
閉ざされた寝室に入り込んだ風は、逃げ道を求めるようにもう一つの出口へ駆けていった。
寝室の扉が開いて、マルコが立っている。
アンは出窓に手を突きながら、振り返る形でマルコの顔を捉えた。
 
エース、とマルコが呼びかけた。
 
 
「ひとりかい」
「ひとり?」
 
 
あたしは、と言いかけて言葉をのみこむ。
 
 
「こっちはいつも一人だ」
「そうだったな」
 
 
どういう意味だろうとアンが目を眇めると、マルコは寝室の扉から一歩中に進んだ。
マルコからアンの顔は、逆光でよく見えないはずだ。
そのぶんアンからマルコの顔がよく見えた。
目の下に刻まれた薄い皺までよく見えた。
 
しかしなぜか、今日は息が詰まるほど、身のすくむほどの殺気に似た気配を目の前の男から感じない。
銃口を向けられた時のような真摯な深い色の目は変わらないのに、穏やかとさえいえるマルコの様子に正直どんな顔をしていいのかわからない。
気を張り詰めていないと、エースの仮面は容易に剥がれて素のアンが出てしまいそうだった。
 
そんなことより逃げなければならない、逃げ道を見つけなければならない、そのための時間が欲しい。
 
 
「どうしてここに?」
 
 
アンが尋ねるとマルコは口を開いたが、逡巡するように数拍止まって、何か考えを振り払うかのように首を振った。
 
 
「後でゆっくり教えてやるよい」
「あとでなんて……ない」
「あるんだよい、エース。もういいだろい」
 
 
その声は疲れていた。
少し掠れていて、聞き覚えがあった。
カウンターを挟んだ向かいで、ふざけたことばかりを言うサッチをあしらうときの声にも似ていた。
顔も見にくい暗闇の中、うっすらと汗をにじませてアンを呼んだ時の声にも似ていた。
 
アンはそっと腰に手を伸ばした。
マルコの目はその動きさえ、じっととらえている。
アンの指の先に固いものが触れる。
 
 
「外にも、警察がいる」
 
 
マルコは思い出したようにつぶやいた。
エースを脅しているようには聞こえない。
もう逃げられないということを、これ以上ないほど静かにマルコは告げていた。
アンは腰から抜いた麻酔銃を構えた。
いまここで、とアンは口にした。
 
 
「いまここで、あんたを撃って逃げても、またあんたの仲間が追っかけてくるだろうな」
「ああ、そうだねい」
「逃げられると思う?」
「さあ、どうだろうな……」
 
 
マルコは所在なさ気に一度片手をゆらつかせてから、自身の首筋を擦った。
タバコが吸いたいのだろうと思い当る。
アンは銃を構えたまま一歩後ろに下がり、出窓に軽く腰を乗せた。
こちらから外を見た限りでは人の気配など微塵もしないが、いたるところで今にもアンが手の中に落ちてくるのを待ち構えている飢えた気配がある。
出窓にはカーテンがついていた。
アンはそれを銃を持たない方の手で音を立てて閉めた。
遮光カーテンで、月明かりが遮断されて一瞬暗闇が落ちる。
しかしすぐに目が慣れてきた。
マルコは相変わらずの距離を保ったまま立っている。
 
 
「そこから降りるのかい」
 
 
マルコが尋ねた。
 
 
「そう、だな。そうしたい」
「じゃあ最後にひとつだけ、訊かせてくれ」
 
 
マルコは表情のほとんどない顔でそう言った。
え? と聞き返したいのを堪え、アンは目線で続きを促す。
 
 
「お前、オヤジを知ってんのかい?」
 
 
そのときだった。
背後からなのか横からなのかはたまた正面からなのか、どこから聞こえたのかわからない銃声が少なくとも二発、アンの鼓膜を震わせた。
それを知覚した瞬間、出窓に軽く乗せた腰の両側を、強い衝撃が掠めた。
アンはその衝撃で前につんのめる。
ぶつん、と嫌な音が銃声のコンマ数秒後に重なって、腰についていたポシェットがアンから離れて前へと飛んで行った。
それがマルコの脚元へと滑り、アンが床に手をついた瞬間別の重みがアンの背中を押さえつけた。
気が付けば、床に顎をしたたかにぶつけたアンの視界には、いくつもの黒い足が見えていた。
あぁ、と冷たい敗北感が黒々と胸を侵食していく。
いつのまにか蓋をされていた聴覚が本来の仕事を始めたのか、あたりの音も耳に入り始めた。
トランシーバーの電子音、興奮した男たちの無理やり低く抑えられた声が重なる。
アンの背中を押さえる力が強くなり、背骨の軋む音が頭の中で響いた。
 
幾つも見える黒い靴の中で、マルコの脚だけはどうしてか、判別できた。
そのすぐそばにアンのポシェットが転がっている。
ベルトの部分が二か所焦げていた。
背後からそこを狙って狙撃されたのだと分かった。
出窓から見えていたアンの姿は、ずっと前から狙い定められていたのだ。
やっぱりあたしの頭一つじゃ足りなかったなと今更ながら思ったが、だからといって黒ひげの言う通りにすればよかったという後悔はちらりとも頭をよぎらなかった。
 
白い手袋をはめた手が、転がるポシェットに伸びた。
マルコの手ではない。
別の警察の、知らない男の手だ。
カッと、とてつもない嫌悪感が沸騰した。
 
 
「触るな!!」
 
 
首の上がらない体勢のまま叫んだアンの声に、あたりが一瞬息を呑んだ。
しかしすぐに背中を押さえつける力が一層強まり、ついでに頭まで押さえつけられた。
ずり、とウィッグが頭の上を滑る。
アンを押さえつける手はその感触に気付いたが、アンの目はポシェットを拾い上げた警官の手元に釘付けになっていて自分の上にのしかかる気配の変化に気付けない。
 
 
「触んな、それは、」
 
 
アンの咆哮に怯まず、ポシェットを拾い上げた男はマルコの隣でチャックに手をかけた。
ジッとジッパーが擦れた音を立てる。
アンの頭を押さえつけていた手が、ぶちぶちと髪が切れる感触を感じながらアンのウィッグを取り去った。
長い横髪が頬に垂れる。
クソ、と一度強く唇を噛んで、アンは叫んだ。
 
 
「それは、あたしの母さんのだ!触るな!!」
 
 
白い手袋の上にコロンと現れた髪飾りを、誰も見ていなかった。
床に流れる黒い髪が、その髪に隠された小さなマスクの顔が女のものであることに、周囲がある種の一体感を持って気付いた。
 
マルコが見ていた。


拍手[15回]

 
庁舎の最上階には、そのエリアの主のほかに先客がいた。
 
 
「よっ」
 
 
広々としたソファにふんぞり返って、鷹揚に片手を上げたのはサッチである。
「おつかれさーん」と軽い口調でいたわりの言葉を投げかけるサッチの向かいでは、ニューゲートが楽しそうに口角を上げていた。
エレベーターを降りた瞬間からその姿は見えていたものの、部屋に入りいざその声を聞くとマルコの肩はやはり数センチ落ちた。
 
 
「テメェ何してんだよい。サボってんじゃねぇ」
「んだよォ、お前があっちやこっちに動きづめで全然捕まらねぇからオレから会いに来てやったってのに」
「だからってオヤジの部屋まで来るこたねぇだろうが。なんでまずオレに連絡せず一気にここまで来ちまうんだよい」
「だってマルコがいっちゃん長くいるのってせいぜいここだけだろ? それにここにいりゃオヤジにだって会えるし」
 
 
なっ? と同意を求められて、ニューゲートは目元に目いっぱい皺を寄せて笑いながら「違いねェ」と頷く。
サッチの言い分は確かにもっともで、ついでにニューゲートの機嫌がすこぶるよろしいそうなのでマルコはそれ以上強く言えない。
口を閉ざして目いっぱい顔をしかめ非難を表すしかない。
 
 
「まぁマルコ、ご苦労だったんだからとりあえず座りやがれ」
 
 
「そうそう、まぁ座んなさいよ」と後に続くサッチに辟易としながら、マルコは渋々サッチが座るソファの対岸に腰を下ろした。
すぐさま湯気の立つコーヒーが給仕される。
「おねーさんオレにもおかわり」と語尾を跳ねあげて笑顔でカップを差し出すサッチの調子の良さは、疲れた身にはげんなりすると同時にどこかすがすがしい。
そう感じてしまう自分にまたげんなりして、マルコは腰かけたと同時に口から洩れた深いため息をサッチのせいにしてごまかした。
 
 
「テメェの報告から聞こうか。それともこっちの話からいこうか」
 
 
 
やっぱり話があるのか、とマルコは顔を上げた。
サッチの言う「マルコに会いに来た」などおためごかしに過ぎない。
必ず何らかの本意があるはずだとは思っていたので、その言葉は特に意外ではなかった。
さらに、ニューゲートはフォッサにマルコを家に帰すよう言っておきながら、マルコがそれに背いて庁舎に戻ってくることまで読んでいる。
たとえマルコが何らかの気分でその命に従って帰宅したとしても、ニューゲートは「そうか」の一言で済ますだろう。
そういう、鼻につかないやり方で人の心の動きを掴むニューゲートの手腕にはやはり頭が下がる。
 
 
「こっちの要件のが手早いだろうから、こっちから」
 
 
マルコの言葉に、ニューゲートは静かに頷く。
 
 
「あっちの出した条件3つ、最初の会談でこっちが出した条件をのまねぇ限りはこっちも従わねぇってのを2時間かけて延々と。
冥王の方もうまい具合にこっちの弱点ついてくるからその応戦で大分と時間がもった。
ま、おおむね筋書き通りだよい。冥王の奴は絶対ェ面白がってるがな」
「あぁ、アイツの性格にゃあこっちだって免疫があらァ」
「結論は会談の開始前も開始後もなんにも変わっちゃいねェから、またメディアがやいやい言うだろうがもう放っておく」
「あァ、外は好きにさせておけ」
 
 
マルコの報告は以上だ。
そもそも報告と言っても何ら目新しいことはない。
すべてニューゲートが仕込んだ──フォッサの言葉を借りれば「出来レース」の──線路の上を順調に進みつつあるだけなのだから。
 
 
「それで?」
 
 
そっちの話は、と言うつもりでオヤジを、そして隣のサッチに視線を走らせる。
すると二人はたがいに目配せをするように、そろって視線を交わし合い少し目を丸くした。
 
 
「……なんだよい」
「いいや、相変わらず勘が良すぎて気味悪ィな」
サッチは両手を頭の後ろで組み、ばふんと音を立てて深くソファにもたれた。
「先に行っとくけど、オレァお前の『エース』の方には直接は関与してねぇんだかんな」
「じゃあ何の用だってんだよい」
「黒ひげの方だ」
 
 
そう口を挟んだニューゲートをハッと見上げると、彼は大きな背中を少し丸めて、膝に両手をついてマルコの方に少し顔を寄せた。
 
 
「まぁエースに一切かかわりがねぇってのも言いすぎか。エースと黒ひげに繋がりがあるのはもう確定だ」
「でもよオヤジ、そこまで分かりきってんならさっさとティーチの奴締め上げちまえばいいんじゃねぇか? アイツの方はまだオヤジが疑ってることに気付いてねぇから調子こいてんだろ?」
 
 
それができたらそうしている、とマルコは低く呟いた。
 
 
「できねェの?」
 
 
サッチはマルコを、そしてニューゲートをと順番に見上げた。
 
 
「もう充分だろ。物的証拠はねぇけど、どうせティーチの手の届く範囲なんざいくら広くたってオヤジにゃ負ける。あいつの手下から近付いて足元掬ってやりゃあ」
「できねぇっつってんだろい」
 
 
短く、しかしきっぱりとサッチの言葉を断ち切った。
サッチはすぐさま続く言葉を飲み込んだが、不満げにニューゲートを見上げる。
ニューゲートは苦笑のようなものをサッチに向けた。
 
 
「オレがダメだと言ったんだ」
「オヤジが?」
 
 
なんでまた、とサッチはぽかんと口を開けた。
マルコも初めはそうだった。
エースを追いかけるよりも、黒ひげに狙いをシフトして奴らがぼろを出す機会をうかがった方がいいのではないかと。
黒ひげを捕まえてしまえば、奴らを吊し上げてエースを引っ張り出すことができる。
黒ひげがそれほどエースを箱入りの如く大事にしているとは思えないので、彼らからエースの所在を喋らせることはそう難しくないだろう。
 
行政府をやめ、外面上「税理士」として看板を上げたティーチが裏でこそこそ何かをしているのは、警察側だって知っているのだ。
ただ奴らは証拠隠滅だけは非常に入念で、けして跡を残さない。
黒ひげに利用されてその悪事を否が応でも知ってしまった人間は、物理的にも書類の上でも存在を消されるからだ。
奴らは消えたところで問題一つないような人間をあえて選んで利用している。
 
だが今回は勝手が違った。
黒ひげは明らかにニューゲートを陥れようとしている。
あの髪飾りがニューゲートの監視下にあったのはマルコも知っていた。
ただ、マルコが知るその髪飾りは一つだけだ。
この世にたった、一つだけ。
二つも三つもあるなど聞いていない。
一つ目の盗難が通報された時、マルコは人生で初めて度肝を抜かれた。
まさかアレが盗まれたのかと。
しかし事実は違い、急いでその違和をニューゲートに問うと、彼は静かに何かを考えるそぶりをして、調べろとそう言った。
調べるも何も、髪飾りは一つしかないはずだろう! と憤慨したのはマルコの方である。
しかしマルコ自身ニューゲートにそうやって盾つくことの無駄さを知っているので、そのときはむっつりと黙って頷き、下の者に髪飾りの所在を調べさせた。
すると、髪飾りはこの街に四つもあると言う。
それぞれがこの街の成金たちによって保管されていた。
まるでそれがただの装飾品であるかのように。
たった一つしか存在しないと思っていた髪飾りが4つも、それもニューゲート以外の手にあると知ったときの驚きと、同時に湧き上がった怪しさは計り知れない。
意気込んでそれを報告したマルコに、ニューゲートはもう次の言葉を用意していた。
その四つの髪飾りも全て警察の、つまりはニューゲートの保護下に置く、それを各持ち主に通達しろと言うのである。
 
何故マルコが知る『一つ』以外に髪飾りがいくつもあるのか。
何故それをニューゲートが知らなかったのか。
そしてなぜ、彼は突如明らかになったその髪飾りたちを、自らの手のうちで守ると言うのか。
 
その髪飾りに真偽があるとするなら、間違いなく本物はマルコが知るたった一つだ。
 
しかしニューゲートは何一つ、口数の少ない彼の心のうちもマルコに話さない。
ここまで秘密にされると、いくら従順な彼の右腕を自負するマルコも怪訝に思わずにはいられない。
同時に、悔しいようなもどかしいような感じさえする。
 
警察組織は、ニューゲートの考えをマルコが共有し、まとめ上げて下部に指令を発することで機能してきた。
にもかかわらずこうしてニューゲートがマルコに口少なであればあるほど、マルコの方も動きが限られる。
だからこそこうして何度も「エース」を取り逃がしているのではないか──そう考えないではなかったが、だからといってそれがマルコからニューゲートに対する不信だとか不義だとかに直結することはありえない。
 
たとえなにがあっても──ニューゲートがマルコに何を話し何を隠そうと──マルコは彼を信じることに変わりはない。
 
ただ、自分が知らされていない何かがあるのが居心地悪いだけだ。
 
サッチは不機嫌に口を閉ざしたマルコと、身内にしか見せない少し困っているようにも見える顔のニューゲートを見比べて、大げさな素振りで肩をすくめた。
 
 
「オヤジ、あんまりマルコを振り回してやるなよ。ただでさえお忙しいご身分だ」
「わかってらァ。そもそもオレがお前ェらに隠し立てするほど後ろ暗いことなんざあるわけねぇだろう」
「そりゃマルコもわかってっだろうけどさぁ」
 
 
サッチがちらりとマルコの顔をうかがう。
これでは押し黙り続ける自分がまるで拗ねているようじゃないかと気付いて、マルコは渋々口を開いた。
 
 
「話さないだけ、だろい」
「分かってんじゃねェか」
 
 
ニューゲートはその巨体に似合わない嬉しそうな顔を見せて、声を上げて笑った。
 
「隠している」のではない。今はまだ「話さない」だけだ。
ニューゲートは時折そう言って笑った。
マルコはただそれを信じるしかない。
確かに彼がそう言うときはいつでも、時期さえ来ればマルコに全てを教えてくれた。
 
マルコは気分を入れ替えるため息を小さくついて、笑いの収まったニューゲートを見上げた。
 
 
「それで、サッチがなんで黒ひげと関係あるんだよい」
「おぉ、やっとオレの話んなった」
 
 
サッチが嬉々とした顔でソファの背から体を起こした。
マルコの方に身を乗り出して、どんな勢いある話なのかと思いきやテーブルのコーヒーに手を伸ばしてそれをすするのだから調子が狂う。
一度にカップのすべてを飲み干したサッチは、コーヒーくさい息を一つついてから本題を切り出した。
 
 
「オレが世話したことあるとびきりの悪ガキが3人、近頃立て続けに死んだ」
 
 
マルコの前に3本指を突き出したサッチの目は、もうふざけた色をしていない。
マルコの方も調子のいいサッチを相手にする脳から、仕事の脳へと頭の中を切り替える。
目線で先を促した。
 
 
「一匹目、実父ぶん殴って逃げ出して捕まった18そこそこのガキ。左官屋のオヤジに世話頼んで、近頃まじめに働いてると思ったら中央区の裏街で腹刺されて死んでた。4か月以上前だ。
二匹目、両親ナシで孤児院育ち、ヒネまくって悪い大人に捕まってヒンヒン言ってるところをオレがとっ捕まえた16のガキ。こいつはエースが2回目に忍び込んだ日の夜、あの屋敷の玄関で爆弾の箱抱えてやって来た。お前も知ってんだろ」
 
 
マルコは黙って頷いた。
堅い顔で静かに話を聞いていたが、突然つながったその悪がきとエースの関係に内心では目を剥いていた。
 
エースが財閥息子のコレクションルームに忍び込むにあたって仕込まれていた手筈の第一発目。
見知らぬ男が、あの日夜も更けた頃郵便配達を装ってふらりと邸宅の玄関に現れた。
いくら配達員を装っていたところで時間帯からして配達のある時間ではない。
不審に思った警備員たちが何名かその男に近づいたところ、突然男の持っていた小包が爆発した。
マルコがそれを知らされたのはそれから5分ほど後で、マルコが邸宅についた頃現場は軽くパニックに陥っており、爆弾を持ち込んだ男は息絶えていた。
その混乱の裏側で、エースはコレクションルームに忍び込んでいたわけである。
 
事件が収束して後処理だけになった頃、爆弾を持ち込んだ男がまだ20にも満たない子供であるということを知った。
それがサッチの「客」であるとは思わなかったが。
 
 
「3匹目、想像つくだろ」
 
 
サッチは立てた三本指の、薬指を小さく揺らした。
 
 
「19で土木建築会社勤務。下っ端でケナゲに働くガキだが、コイツは17のとき傷害致死で捕まってる。そんでこの間、美術館でまた捕まった」
 
 
マルコも覚えている。
取り押さえられて床に押し付けられた顔はまだ若かった。
エースのダミーだ。
 
 
「コイツは拘置所で自殺した」
 
 
サッチは立てた三本の指をぐっと握って、それから静かに腕を下ろした。
マルコも言うべき言葉がなく押し黙った。
エースのダミーとして使われたら最後、その駒は間違いなく黒ひげの手で始末される。
それを踏まえたうえで黒ひげから送り込まれる刺客に警戒していたが、ダミーは自ら舌を噛むという古典的な方法で、冷たい拘置所の中でひとり死んでいた。
自身の意思なのか、黒ひげにそう含まされていたのかはわからないが、どちらにしろそれを防げなかったのはこちらの手抜かりだったので、この件はマルコにしても痛い。
 
 
「一匹目はともかく、後ろの二匹は間違いなく黒ひげに雇われて、そんで殺された。用済みってわけだ。立て続けにオレの知ってるガキがお前んとこの事件にかかわってるってんで、もしやと思って一匹目の件も引っ張り出して調べてみたら、なんとこいつも黒ひげに手ェ貸してやがった」
「左官屋のガキなんだろい」
「一発目の盗難があったあの銀行、建て替え工事にこのガキも参加している」
 
 
あぁ、とマルコからは思わず嘆息に近い呻き声が漏れた。
一回目の盗難は、銀行のセキュリティーシステムが発動していたにもかかわらず、数分でやってくる警備が辿りつくより早くエースは盗みを成功させた。
そのためには中の構造を熟知していなければならない。
銀行内部の情報を手に入れるために、エースは、つまり黒ひげはそのガキを利用したのだろう。
 
サッチも疲れたようなため息をついた。
 
 
「これで最近不審死した3匹のガキ全員が、黒ひげとかかわりがあるっつーことよ。こうなりゃオレとしても安穏にゃいられねェってんで、オヤジのところに相談に来たわけよ。これ以上いたいけな悪ガキ共をホイホイ使い捨てされちゃたまんねェからな」
 
 
話は粗方わかった。
マルコがニューゲートを見上げると、彼もまたマルコを見下ろしていた。
 
 
「どうするつもりだよい、オヤジ」
「とりあえずサッチにはこのガキ共がどうやって黒ひげに付け入れられちまったのかを調べてもらう。原因がわかりゃ予防策もできるだろう」
「おう任せんさい」
 
 
サッチがふざけた調子を取り戻して、ドンと自分の胸を叩いた。
 
 
「ただ、黒ひげはあと一回確実にエースを使って髪飾りを狙う。その最後の一回でオレを底まで落とし込むつもりだろう。エースの被害者の金持ち共は全員黒ひげに少なくねェ金額掴まされてるだろうから、オレが法律的にも社会的にも負けを認めるまで追及を辞めねェ。オレを陥れる裁判の結果が出るまでにエースを捕まえて、黒ひげについて言質を取らせりゃこっちの勝ち。次の盗難でエースを取り逃がして、黒ひげに攻め入る要素を与えちまったらそのままオレァ裁判に負けて、あいつらの勝ちだ」
 
 
ニューゲートはゲームのルールを説明するように、淡々と自身の命運を分ける話をした。
しかしこれはゲームではない。
もしニューゲートが裁判に負けて、政権がひっくり返れば──のし上がってくるのは黒ひげだ。
負ければ最悪だがマルコにも、きっとニューゲートにも毛頭負けるつもりはない。
要するに、とサッチが口を挟んだ。
 
 
「エースを捕まえて、エースに黒ひげとのかかわりを吐かせりゃいいんだろ? 今までのガキ共みてぇにエースが始末される前に」
「そうだ」
「腕が鳴りますな、マルコさんよォ」
 
 
サッチが茶化すようにマルコを小突くので、マルコは鬱陶しげにその手を避けた。
そのときおもむろに、ニューゲートがマルコを呼んだ。
マルコがニューゲートの目を捉えると、そこにある金色の光がふっと慈悲ある色に滲んだように見えてマルコは息を呑んだ。
この目はオレに向けられたものではない、と咄嗟に気付く。
 
 
「エースを頼む」
「……あぁ、絶対ェ、」
 
 
捕まえる、と答えたマルコにニューゲートは同じ目の色のまま頷いた。
「エースを頼む」など、これから捕まえられる犯人に向けた言葉ではない。
それに気づきながら、いやしかしこの「頼む」は「頼むから捕まえてくれ」「エース捕縛は頼む」という意味に解釈もできる、とマルコは自分に言い聞かせた。
そうでもしなければ、ニューゲートがまるでエースを守ろうとしているように聞こえてしまう。
今までニューゲートの言葉の端々、行動の端々にそれを匂わすものがあったからなおさら、そう思わずにはいられなかった。
黒ひげを先に捕まえてエースを吊し上げようとしないのも、そう言う意図があるからだと考えればつじつまが合う。
ニューゲート自身に問い詰めたことはないが、ふと口をついて聞いてしまいそうだった。
 
オヤジは、エースの正体を知ってるんじゃねェのか──?
 
 
「んじゃ、マルコに言っとかなきゃならねぇことは言ったしオレはもう帰るぜ」
「あァ、頼むぜサッチ。おいマルコ、テメェも今日はもう帰んな」
 
 
立ち上がったサッチを労わるようにその頭に手を置いてから、ニューゲートはマルコにも促すように視線を向けた。
 
 
「オレの肩代わりみてぇなことばっかりさせて悪かった。次の会談はしばらく間を置くよう冥王にも言っておく。少し休みやがれ」
「……肩代わりしてるつもりはねェよい」
 
 
オレはニューゲートの動かす右腕として機能しているだけだ。
しかし突っぱねたようなマルコの言葉をニューゲートは笑い飛ばした。
サッチにしたように、マルコの頭に大きな手を乗せる。
 
 
「お前が疲れちまったらオレの腕が怠くなるのと一緒だ。いいから帰んなハナッタレ」
 
 
軽く頭を小突かれて、マルコは渋々と頷いたのだった。
 
 
 

 
サッチとは庁舎の駐車場で別れた。
しかしニューゲートの部屋を出てから別れるまでの数分、サッチはせっかくだから飲みに行こうとうるさくマルコを誘った。
 
 
「オレもう一週間も外で飲んでねェんだよ」
 
 
サッチはヘロヘロと弱い声で泣き言をさらしていたかと思うと、アッと声を上げて時計に目を落とした。
 
 
「まだ16時前じゃん。アンちゃんの店ギリギリ開いてんじゃね?」
 
 
マルコは考えるふりをしながら黙ってエレベーターを降りた。
なぁなぁ、と追いかけてくるサッチはしつこい。
 
 
「お前ももうだいぶアンちゃんとこ行ってねェだろ? もし店閉まっててもよ、またアンちゃん引っ張り出してイゾウんとこ行こうぜ」
「……オレァ今日は帰るよい」
「えぇーー!! なんでよ」
 
 
いちいち声の大きいサッチは派手に非難の声を上げて、ぶーぶーと文句を垂れた。
 
 
「なによ、本気でそんなに疲れてんのかよ」
「いや」
「じゃあ数時間くらい付き合えよー」
「イゾウのとこになら、お前ひとりでもよく行ってんじゃねェか」
「だから今からアンちゃんも連れて行こうぜってんだよ」
「テメェひとりで行け」
「んだよ、せめてアンちゃんと二人で行けくらい言ってくれたっていいだろ……って」
 
 
あ、と呟いたサッチは、途端にニヤニヤしてマルコの顔を覗き込んだ。
庁舎の玄関ホールを通り抜けて駐車場へと向かうマルコはその足を止めずに、目一杯嫌な顔を作る。
覗き込んでくるサッチの顔が不愉快極まりない。
 
 
「お前今日は飲みに行きたくはねェけど、オレとアンちゃんがふたりで行くのも気にくわねぇんだろ」
 
 
マルコは無言で、じろりとサッチを睨んだ。
マルコの手で落とされた犯罪者のみならず、警察関係者さえすくみ上るようなその目つきを、サッチはぱちくりと瞬いて見つめ返した。
 
 
「え、なに、ほんとに?」
「テメェの車はあっちだろい。さっさと帰れ」
「えぇー、マジかよオッサン」
 
 
サッチの顔はニヤニヤしたりキョトンとしたり、今は犬のように好奇心をちらつかせていて非常に忙しい。
マルコは「じゃあな」とろくに挨拶をすることもなく、サッチに背を向けて数メートル先の自分の車へと歩いた。
サッチはしばらく背中でぶつぶつ言っていたが、マルコが運転席のドアに手をかけたとき、「じゃあさァ」とのんきな声がかかった。
 
 
「アンちゃんの御付きのナイトたち、攻略しなきゃな」
 
 
ハッと鼻で笑うような返事を返して、マルコは車に乗り込んだ。
サッチはまだその場に立ったまま、ごそごそ煙草を取り出している。
車を発進させたマルコがその前を横切ると、サッチは子供くさい仕草で唇を尖らせて、しかし目元には笑い皺を描いてマルコに軽く手を振った。
 
 
 

 
家に帰るのは数日ぶりだった。
庁舎に寝泊まりすることが普通になってしまい、慣れすぎたのかソファで仮眠を取っても翌日腰を痛めるということがなくなった。
それがあまり良くない徴候であるというのはわかっている。
部屋の中は当然人気も火の気もなく冷え切っていた。
マルコが廊下を歩くとセンサーが反応して、ふわふわと歩く先に灯りが灯る。
 
リビングでは、一人用にしては大きすぎるカウチと近く使用した覚えのないシンプルなガラステーブルだけがマルコを出迎えた。
肌寒かったのでとりあえず暖房をつける。
堅苦しいスーツとネクタイを脱いでカウチの背に掛けた。
腹が減ったな、となんとなく思ったが冷蔵庫にはすぐ食べられるようなものは何もなかった。
しばらく帰っていないのだから当たり前だ。
クソ、何か食ってから帰ればよかった。
もう今から家を出るのは億劫すぎる。
とはいえやはりサッチの誘いに乗る気にはならなかったので仕方ない。
 
マルコは八つ当たり気味に、もはや脱力と言っていい様子でカウチに腰かけた。
ギュッと革が張りつめる音が響く。
 
目を閉じた。
身体はやはり思った以上に疲れている。
もう意地や虚勢を張って平気でいられる歳ではないのかもしれない。
気持ちはそのつもりでも、こうして身体に直接感じられるとごまかしようもない。
 
──オヤジも老いた。
本人は体の不調なども微塵も訴えず、実際外から見ていれば何ら問題があるようには見えない。
だが、彼の身体が病に蝕まれているということに関してはメディアの報道に間違いはない。
気丈なのは結構だが、そばにいるマルコからすれば心配の種は尽きない。
 
今世間から降り注がれるニューゲートへの不信は、彼の頑丈な体に刺さったところで彼自身びくともしないが、内側からじわじわと脅かしてくる病魔には彼も医者の手に頼る以外にすべはない。
 
もし今オヤジが倒れたら。
起こりうる事象は目を瞑ってしまいたくなるほど残酷だ。
 
マルコは目を開けた。
もうやめよう。
思考はこのままだと恐ろしいほど深みにはまっていくだけで救いがない。
立ち上がり、空と言ってもいいくらい閑散とした冷蔵庫の中から水のペットボトルを取り出した。
一息にそれを飲み下す。
少し寝ようと思った。
起きたときに腹が減っていればその時食べに出ようと決めた。
よほど空腹であれば勝手に目も覚めるだろう。
 
飲みかけのペットボトルをまた冷蔵庫に戻し、マルコは寝室へと向かった。
延々と伸びた廊下の一番はてのドアを開ける。
風呂に入るのも面倒で、シャツを脱ぎ捨てそのままベッドに倒れ込んだ。
 
しかしざらりとした肌触りにぎょっとして、すぐに体を起こした。
肌に触れたベッドの生地が、思っていたいつものそれではなかったのだ。
シーツのなめらかな肌触りを想像していたマルコは怪訝な顔でベッドを見下ろす。
ちっと舌打ちが漏れた。
シーツが敷いていない。
前に帰ってきた際洗ってそのまま代わりを敷くのを忘れていた。
 
ああ面倒だ。
 
敷かなければと思うのに、身体は意思とは別にまたベッドへと沈んだ。
こんな時一人暮らしは手の回らないところが出てきて困る。
いっそオヤジのように家事手伝いの人間を雇ってしまおうかと適当な思いつきが浮かんだが、自分の知らない間に知らない人間が部屋の中をいろいろ弄りまわしていると思うとゾッとして、実行に移す気には早々ならなかった。
 
もしかするとオレは死ぬ時、こうやってシーツも敷いていないベッドの上でひとりなのかもしれないな、とふと思った。
それは比較的穏やかな死に方だろう。
殉職が特別ひどいとも素晴らしいとも思わない。
ただ何となく、そう言うアクロバティックな死に方は自分には似合わない気がした。
──だからといってこんな最期も全くいいもんじゃねェがな。
 
バカなことを考えていると思いながら、意識は少しずつ手の届かない眠りの方へと引きずられつつあるのを感じていた。
そして、意識が滲むように遠ざかっていくにつれて、脳裏に鮮やかに浮かぶ姿があった。
 
女だった。
マルコよりずっとずっと年若いまだ子供のような女だった。
ありふれた生活感をにじませる街娘。
少しだけ笑顔が下手な娘。
 
(──アン)
 
 
名前を思い浮かべると、少しだけ眠りから意識が呼び戻されるほどむず痒い気分になった。
久しく顔を見ないと落ち着かないような気になりだしたのはいつからだろう。
それが心地よかった。
久しぶりに──おそらく初めて、こんなにも穏やかな感情を知った。
その気持ちに付ける名前はきっとあるのだろうが、そんなもので自分の感情を名づけてくくってしまうのは酷くもったいないような気がしていた。
人にも知られたくはなかった。
仕事では自分以外のほとんどの人間を口先ひとつで動かしている自分が、自身の感情を子供のような女一人に翻弄されつつあるという事実がとんでもなく滑稽に思えたからだ。
 
ただ、特別欲しいとは思わなかった。
しいていうなら──しいていうなら、なんだと言うのだろう。
本当に、それは穏やかな始まりだったというのに。
欲以外の何物でもないやり方で、オレはアンを抱いた。
 
そこにアンの感情はあったのだろうか。
 
 
ずぶん、と身体が沈むような眠気を感じた。
次に目が覚めたのは、翌日の朝遅いころだった。
 

拍手[16回]

≪ 前のページ   |HOME|   次のページ ≫
material by Sky Ruins  /  ACROSS+
忍者ブログ [PR]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア

 麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



我が家は同人サイト様かつ検索避け済みサイト様のみリンクフリーとなっております。
一声いただければ喜んで遊びに行きます。

足りん
URL;http;//legend.en-grey.com/
管理人:こまつな
Twitter


災害マニュアル

プロフィール
HN:
こまつな
性別:
女性
バーコード
ブログ内検索
カウンター