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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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「アン、いま2卓に座ったお客さんにA」
「ん、じゃあこれ5卓と6卓に持ってって!」


左手でフライパンを揺すりながら忙しく右手を動かすアンは手元から目を離すことができず、サボに返した返事はフライパンに向かっての必死な叫び声のようになる。
しかしその声は雑然とした店内で響くことなくざわめきのなかに吸い込まれた。

街の慌ただしい昼、なんでもない一風景は今日も元気に明るく人の声で満ちている。
陽気な日が続いている近頃、その天気が関係しているのかは不明だがサボたちの店はひっきりなしに人の出入りが続いて客入りは天井知らずもいいとこ、という具合に上がり続けていた。
商売繁盛は願ってもないことだが、3人または2人で切り盛りするには少し厳しい。
店が広くないので、客入りがいいといっても入れる人数に限りがあるものの、回転率もよいので客足が途切れないのだ。
一歩外に出れば涼しい風が吹く秋の昼だというのに、アンもサボも額に汗を流して立ち働いていた。


「ごっそーさん」


常連の鳶職人の一行が席を立ち、わらわらと店を出ていく。
彼らの代表者がまとめてアンに代金を手渡した。


「ありがと、また来てね!」
「言われなくても明日も来るさ」


いい歳の男がアンの笑顔に頬を染めて、照れくさそうにしながらも手を振って店を後にした。
サボも遠くから「ありがとう」の声を飛ばす。
彼ら一行が店を去ると、それを区切りにぴたりと客足が止まった。
いつのまにか午後1時半を過ぎている。
このあとはもうゆっくりと遅い昼を楽しむ客が訪れる、比較的穏やかな時間帯となる。
サボがひゅうと息の音を鳴らしながらこめかみの汗をぬぐうと、水気を切った手でアンも同じ仕草をしていた。
サボがその姿を目に留めているとアンはサボの視線に気づき、お客さんの邪魔をしないよう少し声をはばかりながらサボを呼んだ。


「サボ、ちょっと休憩。なに飲む?」
「ああ、じゃあアイスティー」


サボはシャツの腕をまくって、襟元をパタパタと動かして中に空気を送った。
遅いランチを楽しむOLのグループが小さく黄色い声を上げる。
アンが男性客に必要以上に可愛がられるのと同じ理由で、サボに向けられる視線も熱いものであることが多い。
店を始めて半年以上、すっかりその状況に慣れたサボは、誰かを敵に回すということを知らなさそうな爽やかな笑顔でその歓声を受け流した。

カラカラ、と過ぎ去った夏を思い出させる涼しげな音がして、サボはカウンターに視線を向けた。
アンがグラスにいくつか氷を入れた音だ。
サボと同じように袖をまくって、アンはしなやかに手を動かしてサボのためにアイスティーを作っている。
その細い肩の線を、サボは少し遠い場所から見るように目を細めて眺めた。
実際その距離は5メートルにも満たず、少し足を動かせばたった数秒で埋められる距離だ。
では心の距離──そんなものがあるのだとすれば――が離れているのかと訊かれると、そういうわけではない、とサボは自答する。
どういう場面だったかはもう忘れたが、それくらい自然に今朝もアンはサボに気兼ねなく触れた。
もし心の距離が離れつつあるのだとすれば、少なくともアンがその距離を測り直そうとしているのであれば、アンからの接触は避けるはずだ。

こんなことをおれが考えているから、距離を感じるんだ。

あの日、決定的に変わってしまった何かは変わってしまったまま元には戻っていない。
あれはどこをどう解釈しようともおれが悪かった。
そう思い続ければ救われる気がした。
アンもそう思ってくれていれば、あの日のことを全部サボのせいにしてくれていれば、サボは自分のことを責めていればそれで気が済む。
そうしてほしかった。
あの日、アンが謝ることなどなにひとつなかった。
それでもアンは「サボは悪くない」とかたくなに言い続け、あまつ「ごめん」とさえ口にした。
サボは壊れたように「違うんだ」を繰り返すしかできず、結局事態は何一つ好転することなく収束した。

『あたしはどこにも行かないよ』

あの言葉がすべてを総括していた。
アンはもう決してマルコと二人で会おうとはしないだろう。
サッチに誘われてサンジのいる店へ行くこともないだろう。
サボのいない新しい世界を申し訳なさそうに、しかし嬉しさを隠しきれずに話すアンの顔を見ることはもうできない。

決定的に変わってしまった何かとは、アンの細い足首に掛けられた足枷だった。
3人の居場所につながる重たい足枷の錠をアンは自分の手で放り捨てた。
枷を外すことを諦めた。
その鎖は、美しくいえば「絆」と言うんだろう。

アンの枷を外してやろうと試行錯誤していたはずなのに、サボはあの日その枷に頑丈な鍵をかけてアンに「決して外すな」と言い聞かせた。
「アンには家族と過ごす以外の世界を知ってほしい」と言う考えがどれだけ上っ面だけのものだったかを思い知った。
サボは自分で思っていた以上に、アンを手放す気などさらさらなかった。
アンはそれに気付いたのだ。

それを誤解だというには傲慢が過ぎることもわかっていた。

覆らないその事実に、サボは歯噛みするしかない。
アンはもう二度と、自由にはなれない。
こんなことがしたかったわけじゃないのに。


「サボ、できた」


アンが手招く。
サボは小さく笑って、カウンターへと歩み寄った。
「ありがとう」と目線で伝えたつもりだった。
しかしアンは一瞬困ったように目を泳がせてから、ごまかしきれていない曖昧さで笑い返して目を逸らした。
アンのその素振りは、責められて泣かれるよりも痛い。

サボは黙って、カウンターに置かれたアイスティーに口をつけた。
のんびりとした声が聞こえたのはそのときだった。


「よぉ、オヒサシブリさん」


空いた両手をポケットに突っ込んだ長身は、寒そうに肩を縮めていた。
男はちらりとサボに目を留めたが、カウンターのアンににこりと笑いかけた。
──ものすごい美人だ。


「イ、イゾウ、どうしたの」


アンは目を丸くしてその男の名前を呼んだ。
イゾウ。聞いたことのある名前だ。
たしかサンジが働く店のオーナー。
話でしか聞いたことのない彼を見るのは、これが初めてだった。


「どうしたって、ここァメシ屋だろう? メシ食いに来たんだよ」


イゾウは人気のないカウンター席に腰を下ろして、長い足を組んだ。


「適当になんか作ってくれよ。ちぃと時間的に遅いけど、まだやってんだろ?」


うん、と呆気にとられながら頷いたアンは、ランチのセットの説明をし始めた。
イゾウは機嫌よくそれを聞き、じゃあと注文を伝える。
アンは未だに驚きの残った顔をしているが、それでも手際よくランチを作りにかかった。

なるほど、アンに聞いていた通りの凛とした男前だ。


「アン、オレもう裏回ってるよ」
「えっ、でもまだ二時前だよ」
「今日はもうこれ以上混みはしないよ。なにかあったら呼んで」


サボはイゾウに少し視線を走らせて、軽い会釈をする。
イゾウのほうもサボを目に留めて、カウンターに肘をついて顎を支えるポーズはそのままにすっと目を細めた。
どうやら笑ってくれたらしい。
逃げるように店の表を後にするサボは、少しでもアンとイゾウがふたりで話を楽しめるようにと自分が気を回していることに気付いて、まるで罪滅ぼしのようなその行為にげんなりした。





「びっくりしたよ」


アンが扉の向こうに消えたサボを追っていた視線を手元に戻しながらそう言った。
イゾウは「そうか」と返して、してやったりと言わんばかりに小さく笑っている。


「なかなかお前さんがうちの店に来ねェからオレのほうから来ちまった。たしかにオレは一度もお前さんのほうに行ったことねェのにお前にだけ来い来いいうのは筋違いだと思ってよ」
「そんなことないけどさ」


アンはごにょごにょと言葉尻を濁す。
もう、この人の店に行く機会はそう多くないかもしれない。
その思いがアンにはっきりと言葉を口にするのをはばからせた。


「……でも来てくれてありがとう」


イゾウは薄い唇を隠すように覆った手の向こうでニッと笑った。
そして、サボが消えた扉にちらっと視線を走らせる。


「今のが噂の弟ワンだな」
「そう。弟ってわけじゃないけど」
「じゃ、にーちゃんか」
「うーん、どっちかっていうと」


なんだそれ、とイゾウは朗らかに笑った。
深く突っ込んでこないのはなんらかの事情があることを悟っているからか、単に興味がないからか。
どちらにしろ、その辺の事情をあまり楽しくは話せないアンにとってイゾウの反応はありがたかった。
イゾウは重たいフライパンを事もなくふるうアンの手元をじっと見ている。
アンはいたたまれなくなって、遠慮がちに声をあげた。


「いつもサンジの手際に慣れてるんだろうから、あんまり見ないでよ」
「ああ、別に比べちゃいねェよ。それにアイツの料理は、味は旨いが華がねェ」


華、と呟いて、アンはサンジが作ってくれたスイーツプレートを思い出した。
色とりどりの甘いソースで飾られたあのプレートこそ、華があるというのではないか。
アンがそのことを口にすると、イゾウは「ありゃあアイツお得意の女限定ってやつだ」と渋い顔をした。


「オレやほかの野郎共にゃ適当にぱぱっと作り上げた雑多モンしかださねぇよ」


そのくせ味は旨いのだから可愛くねェ、と悪態づいたイゾウにアンは思わず吹き出した。
サンジのその様がありありと想像できたからだ。


「じゃあそれこそ、あたしも一緒みたいなもんだよ。綺麗な盛り付けとか、せいぜいお皿を汚さない程度にくらいしかできないもん」
「お前さんが作った、ってブランドがありゃそれだけで華になるからいいんだよ」


イゾウは臆面もなくアンを赤面させることを口にして、笑って見せた。
アンは照れ隠しに「ハイ完成!」と必要以上に大きな声でイゾウの前にランチを差し出した。
イゾウはからかっているのを隠そうともしない声で笑いながら、それを受け取った。


「ん、うめぇ」


一口目を口に放り込んで、イゾウは顔も上げずにそう言った。
サンジのおかげで随分と舌は肥えているだろうに、イゾウのその言葉はただのお世辞にも聞こえなくて、それはただイゾウの処世術のようなものだと自分に言い聞かせながらもアンは嬉しさに少し頬を緩めた。

他の客がちらほらと帰り始める。
アンは店を後にする彼らに声をかけて、イゾウに断ってからカウンターを出た。
サボが裏に回っているので、テーブル席の片づけもアンがしなければならない。
アンはトレンチに手際よく客が食べ終わった皿を積み上げてテーブルを拭きながら、ちらりとイゾウに視線を走らせた。
まさかイゾウがやってくるとは思いもしなかった。
もしかしたらもう以前のように気安く会ったりはしないかもしれないと思っていたので、ひょんなことでこうして出会ってしまったことに戸惑いつつ、やっぱりうれしい。

薄く見えるイゾウの背中が、店の外から吹き込んだ風を感じたのか少し竦んだように見えた。
動きづめで汗さえかいていたアンは、季節がもう既に秋の深みに入っていることを思い出す。
きっとこの季節が冬に入るころ、アンに最後の仕事がやってくる。
そうすればもう何も思い悩むことはないのだ、とアンはテーブルを拭く手に力がこもった。
 
カウンターの内側に戻ると、イゾウがもぐもぐと咀嚼しながらスプーンで皿を指し、それから自身の口を指し、空いている左手の親指と人差し指で丸を作って見せた。
「おいしい」と伝えてくれているらしい。
見た目に似合わないその子供っぽい仕草に、アンは自分のしみったれた考えを一瞬忘れて、思わず素の笑顔をこぼした。



「サッチやマルコのヤツら、最近こねぇだろ」


食後のコーヒーをすすりながら、イゾウは唐突にそう言った。
イゾウに向かい合いながら洗い物をしていたアンは、その言葉に手にしていたコップを一つつるりと取り落としかけて慌てて受け止めた。
動揺がすぐに動作に出てしまうのは自分の悪い癖だと分かっている。
アンは顔を上げて、そう言えばそうだねと言うように軽く頷いた。


「でもイゾウの店には行ってるでしょ」
「いンや、うちにも来てねェ」
「そうなの?」
「アン、お前さんテレビや新聞は見てねェか」
「そこそこ見てるけど……でも全部流し見みたいな感じで」
「サッチはともかく、マルコがその辺をうろついてねェ理由はテレビのニュースでも見てりゃわかるだろうよ」
「……ってことは仕事の?」
「サッチのほうは知らねぇがな」


フーンと相槌を打って、たしかにそう言えば近頃ゆっくりとニュースを見たり聞いたりしていなかったからな、と思いだした。
テレビは基本誰が見るでもなく風呂上りにつけっぱなしだったりで、まともに意識してニュースを取り込もうとでもしない限り耳には入ってこない。
新聞は、文字を読むのが苦手なアンはあまり自分から読もうとしないのでハナから眼中なしだ。
それにしても何があったというのだろう。
以前の美術館襲撃から、かれこれもう2週間以上経っている。
あれほど堂々と盗みを働いたので警察が何かに勘付いてはいないかとアンとしては気が気でなかったが、特にアンに知らされる情報はない。
もし何か危険が迫っているのだとしたら、黒ひげが何らかの形でアンに接触してくるはずだ。
そうでないとすると、マルコを含む警察内部で何が起こっているというんだろう。
メディアが流すまとまりのない情報より、イゾウが直に知る話のほうがずっと信じられる。
そう思って、アンはおずおずと口を開いた。
多少のやましさが邪魔をする。


「イゾウは、その、マルコから何か聞いてるの?」
「まさかまさか。何の関係もないオレなんかにマルコが仕事のことで口割るわけがねェ。ただでさえ自分のことなんて訊かれない限り喋りゃしねぇ男だ」


それもそうか、とアンはそれ以上尋ねなかった。
なんとなく、マルコはイゾウにならいろいろと話している気がしたのだ。
しかしやっぱりマルコと言う男はアンが受けた印象と同じものを他の人にも与えているらしい。


「オレもニュースが言ってること以上はしらねぇよ」
「そう……」


イゾウはカップを口に付ける瞬間ちらりとアンを見てから、グイと一気に中身を飲み干した。


「ごちそうさん。美味かったよ」
「あ、もう行っちゃうの?」


イゾウが腰を上げたので、アンは思わず身を乗り出してそう口にしていた。
まるで引き止めたみたいな、と言うより完全に引き止めるつもりのその言葉の意味に、アンは言ってから気付いてハッとした。
言った言葉は返ってこないので、せめて乗り出した身体だけでも元に戻す。
しゅるしゅると小さくなって「ごめん、なんでもない」と言うしかなかった。
イゾウはきょとんと切れ長の目を少し丸くしてアンを見下ろしている。


「もう少しいたほうがいいか?」


完全にからかい口調のその声に、アンはますます俯いてブンブン首を振った。
それもそれで失礼だな、と気づいたがイゾウは意に介したふうもなく声を上げて笑う。


「お前さんのほうがオレの店にまた来てくれりゃあいい。いつでも開けるって言ったろう」


イゾウは少し腰を曲げ、アンと同じくらいまで目線を下げてそう言った。
アンが頷くのを待っている。
アンはまっすぐに漆黒の目を見返すことができず、かといって口を閉ざし続けるわけにもいかず、俯いたままコクコクと素早く頷いた。


「……また」
「よし」


イゾウは代金をカウンターの上に置き、ひらりと手を振って店を出ていった。
アンが視線を上げたとき、歩道に出た途端風に吹かれて寒そうに首をすくめるイゾウの後ろ姿だけ見えた。
果たすことの難しい約束をしてしまったという罪悪感が、じわじわと胸に広がった。




その日の夜、風呂上りにアンはイゾウの言葉を思い出してテレビを注視した。
サボはルフィと入れ違いに風呂に入っている。
ルフィが風呂上りの濡れた髪のまま、ぺたぺたと素足を鳴らしてアンの隣にやってくるとソファに深く腰掛けた。
その口にはアイスの棒が咥えられている。


「アンタ夕方も食べてたでしょ。お腹壊すよ」
「んなもん壊れたことねぇ」
「もう寒いのに」
「だからウマいんだろー」


その気持ちはわかるので、アンはそれ以上強く言えない。


「あんまり食べ過ぎてるともう買ってこないからね」
「うへぇ」


釘を刺されてルフィは顔をしかめた。
アイスの棒を口から出して、その裏表を確認して「ハズレだ」とつまらなさそうに言う。
テレビは、アンが見たこともないドラマを終えて10分間ほどのニュース番組に切り替わった。
どこで小さな火事があっただとかあの国で珍しい生き物が見つかっただとか、アンとは無関係の話題ばかりが続く。
どんな話題にしろ物々しい顔で話すニュースキャスターを、アンはじっと眺めつづけた。
めずらしいな、とルフィがぽつりともらした。


「なんでニュースなんて見てんだ?」
「別に、最近見てなかったから」
「フーン」


ルフィはたいして興味もなさそうにソファの上にあげた膝に顎をついて、ぼーっとテレビに視線を送っている。
ルフィが見たい番組が今日はしていないらしいことを幸いに、アンは短いニュース番組を眺めつづける。
短い放送時間はどんどん終わりに近づいていき、これはもうイゾウが言っていたニュースは触れられないのではないかと諦めかけたそのとき、最後の最後でそれはやってきた。

『警察庁、行政府と衝突。各トップによって連日会談が開かれるも平行線』

画面の下部を流れたテロップを見て、アンはこれだと身を乗り出した。
感情のこもらないキャスターの声に、ざわついた映像が重なる。
たくさんの後頭部が、どこかの建物の前でひしめいている。
彼らは一様にマイクやカメラを手にしていて、報道陣だと分かった。
建物の自動扉が開いた。
マルコだ。
テレビ越しだというのに、アンは一瞬でざわついた胸を思わず服の上から押さえた。
詰め寄る報道陣に一瞥さえくれることなく、マルコはそれらを押しのける黒スーツが開ける道を長い足でさっさと歩いていく。
どうやらこの建物で、今日の夕方行政府との会談とやらが行われていたらしかった。
マルコはその帰りを待ち伏せられ、報道陣の声とカメラのフラッシュの餌食になっているのだ。
アンが見ているニュースのカメラはこのひしめき合いの中で、まともにマルコの顔を捉えているほうだろう。
アンが知る眠たげな目の間にはそれは深く皺が縦に刻まれて、顔色は前回アンが出会ったときより数段悪かった。
あのときのマルコが今ブラウン管の向こうにいるというのが、うまく飲み込めない。
道の脇に止められた黒塗りの車の後部座席にマルコが乗り込み、苛立たしげなエンジン音とともにそれが発車すると、映像はスタジオに戻ってきた。

その後キャスターが簡単にまとめた経緯と、画面の上や下に流れるテロップを目で追って、アンは事の次第をなんとなく理解した。

つまるところ、警察庁と行政府で覇権争いが勃発したのだ。
原因はキャスターもはっきりと言っていた。
「エース」による盗難被害だ。
これまで「エース」によって被害を受けた3人が、束になって訴訟を起こした。
銀行に髪飾りを預けていた財閥の夫人。
旧貴族の御曹司。
そして美術館の館長。
彼らが一斉に、守りを固めていたのに盗難を防ぎきれなかった警察側を訴えたのだ。

通常であれば、警察側が不届きな泥棒から市民の財を守るのは当然の義務であるとはいえ、警察側に明らかな過失がない限りその守りが失敗したからといって訴えられることなどない。
ただ、アンが全ての始まりを知ることになった日、黒ひげも言っていた。
あの髪飾りは本物にしろレプリカにしろ、すべてエドワード・ニューゲートの監視下にあり、その牽制を利かせることで今まで守られてきたのだと。
ティーチの言い分からすると、髪飾りの持ち主たちはそれを手に入れる際、実質的な髪飾りの価値分だけではなく、余剰の、それも少なくない金をエドワード・ニューゲートに渡していたのかもしれない。
その金と引き換えに、彼らはおおやけに、胸を張って髪飾りをひけらかしながら絶対的な安全を得ていた。
それがことごとく一人の泥棒によって破られた。
そしてティーチの言っていた通り、そのすべてがエドワード・ニューゲートの責任問題に帰ってきたのだ。
もちろん街のトップである警視総監が亡きロジャーの妻から奪った髪飾りの模造品を流出させて稼いでいた、などいうことはメディアも知らないので、原告側である金持ち被害者たちが直接警察に髪飾りの監視と保護を依頼していたのにそれを警察側がことごとく果たしきれなかったというのが通説であるらしかった。

実際にティーチが言っていたのは、本物の髪飾りを取り戻しそれを世間に流した後、アンが自分で見つけた態を装ってニューゲートを訴えることで彼の地位が失墜することになる、と言うものだった。
だが現実はそれよりももっと早く進んだ。
展開の速さはともかくその流れはティーチが望んだとおりだったが、エドワード・ニューゲートの責任問題に目を付けたのは黒ひげだけではなかった。

行政府が、これを機に警察の持つあらゆる執行権を取り返そうとしている。
今まである程度の緊張感を保ちながらもけして爆ぜることのなかったそのふたつの機関が、いま地位の逆転を賭けて激しく争っていた。

行政府の言い分は、「警視総監が市民に訴えられるとは言語道断。エドワード・ニューゲートの警察内部での指揮力失墜がうかがえる。即刻警察側は対エース捜査本部の指揮権を行政府に移行し、それに従って動くべきである」というもの。

一方それに対する警察側の言い分は、「かつて腐敗しきり現在も明確な統制力を現さない行政府に対エース捜査本部の指揮権を含むその他執行権を譲渡することはできない」というものだった。

これらの情報をざっと説明したキャスターが番組の終わりの挨拶を告げるのを聞きながら、アンは頭をフル回転させて情報をなんとかわかりやすく噛み砕こうとした。
うう、熱が出そうだ。
ふと気が付くと、隣でルフィもうんうん唸っている。
おおかたマルコが出ているのに気付いて興味を引かれたのだろうが、ルフィが完全に理解できる問題だとは到底思えない。

身内に何人か警察の人間がいる、もしくはいたというひいき目が働いているとしても、それはアンの中でニューゲートの存在により相殺される。
それを踏まえたうえでも、アンが聞いた限りでは、この警察側の対抗意見は至極もっともであるように思えた。
それでも一連の報道を見る限り、どうも世論的な力の動きは行政府側に集まっているようだ。
その理由も、メインキャスターの隣に座るもう一人のキャスターが間々に挟むコメントから知ることができた。

エドワード・ニューゲートが行政府との会談に一度も直接姿を現していないらしい。
出向くのはマルコと、その他直属の部下たち。
たしかにテレビで会談前や後の様子が映されるとき、現れるのはマルコとマルコを取り巻くその他ばかりで、警視総監本人の姿が映し出されることは一度もなかった。
どうやらエドワード・ニューゲートが報道陣の前に直接姿を現したのは、もう半年も前のことらしい。
姿形の見えない街のトップに市民は不安と不信を募らせている。
彼がメディアに現れない理由は、ずいぶんと長い間患っている病がついぞ良くないからというものだった。
アンが記憶するいつぞやテレビで見たその警視総監の顔はたしかに70前後の老人のもので、持病の一つや二つ持っていたっておかしくはない歳である。
そもそも今まで小康状態が続いていたとはいえ、そんな老人にこの街の最大権力が預けられていたのかということのほうに驚いた。

一方行政府のほうのトップはというと、アンも何度かテレビ越しに目にしたことがある男で、このときもマルコが出てきた建物から数分後に姿を現した。
肩のあたりまである白い髪と、特徴的な形の白いひげが伸びた、風貌だけを見ればごく普通の老人と言って通るような男だ。
スーツよりもラフなシャツが似合うような平凡さ。
丸い眼鏡をかけたその顔もどちらかと言うと穏やかで、この男がマルコと激しく言い争い──公式見解では「会談」──を繰り広げているというのはどうも想像しにくい。
しかしその男のまっすぐ伸びた背や穏やかながらも凛とした顔つきは聡明そうで、彼よりいくらか年若いマルコが舌戦で押され気味であるというのも納得できた。

──なんだか大変なことになっている。
アンが知る限りでは、この街の政治状況がここまで揺るぐ事件は初めてだ。
もしかすると、ロジャーの事故死以来の大事なのかもしれない。

そこまで考えて、アンは不意にハッと体を起こした。
そしてどたどたとソファから落ちるように降りて、古新聞の積んであるカウンター下まで這うように寄って行くとそこを覗き込んだ。
そこからばさばさと数日前の新聞を漁る。
ただでさえ目を引くニュースの少ない地方紙は薄っぺらい。
こんな大事が起こったなら一面記事になるはずだ。

「何やってんだアン」


ルフィがソファから首をかしげつつ尋ねる声が背中にかかったが、アンは返事をせずに一週間前の新聞を引っ張り出した。
その一面は、やっぱりこの政治変動を大きく取り上げている。
一週間前──日にちを確認して、アンの新聞を握る力が微かに強まった。

マルコがアンに会いに来た日の、翌日だった。
そのふたつの出来事がどうつながるのかはわからない。
だけど、この事件がメディアによって取りざたされる以前にマルコは間違いなく大きな事件になると分かっていたはずだ。
そうだとしたら、マルコは確実に時間の融通が利かなくなることを知って、その前にアンに会いに来たのだ。
会いに来てくれた。また来ると言っていた。

アンは思わず新聞紙を掻き抱きたくなった。

ガチャンと静かな音を立てて、アンの背後で扉が開く。
地べたに座り込んだままアンは後ろを振り返った。
サボが身体から暖かそうな湯気を上げながら、首を傾げてアンを見下ろしていた。


「何してんだ? アン」


至極不思議そうにサボは尋ねた。


「今ニュース見ててよォ」


ルフィはとっくの前に食べきっているアイスの棒を咥えて、頭を後ろに反り返らせてサボの顔を仰ぐ。


「あのオッサンが出てるよくわかんねぇニュースでさ。ケーサツがどうとかギョーセーフがどうとか」
「あぁ」


サボが合点したようにうなずいて、首にかけたタオルで髪を荒っぽく拭った。


「サボ、知ってたの?」
「だって一週間くらい前から言ってるニュースだろ。オレは新聞も読んでるし」


たしかにこの積み上げられた新聞たちは、もはやサボ専読と言っていい。


「すごいことになってるだろ」
「やっぱり結構すごいことなんだ」
「そりゃあそうだろ、もしかすると数十年ぶりの政権交代かもしれないんだから」


フーンと相槌を打つものの、アンはいまいちそれを身に染みて感じてはいない。
サボはそれをわかっているようで、それ以上深くは言わなかった。
「たださ、」と話を繋ぐ。


「黒ひげはなんか言ってくるんじゃないか」
「多分ね。あれから会ってないから……」


あれからと言うのは、ラフィットから美術館の髪飾りがまたもやはずれであったことを知らされたときだ。
そろそろ彼らから連絡があってもおかしくはない。
アンには決定済みの計画を実行に移すための手筈を説明するだけで、それに至るまでの下準備はすべて黒ひげ側が前もって行っている。
その下準備がなければアンが3度も盗みに成功することなど到底できなかったし、その彼らの手練手管にはアンも舌を巻く。
驚くほど、黒ひげの手が及ぶ場所は広いのだ。
きっと今も既に最後の仕事に向けて、彼らは動いているに違いない。

アンはきっと遠くないうちに彼らの召集を受け、そこでティーチの喜んだ顔を見ることになるだろうと思うと、考えるだけで胸が悪くなった。

アンはまだ床に座ったままだったが、ふと顔を上げるとサボも風呂上りで上気した頬のまま幾分まずいものを飲んだような顔をしているので、もしかすると似たようなことを考えていたのかもしれない。
少なくとも黒ひげに関わることを。


「最後だから」
「うん?」
「気合い入れてるんだろうね」


言外に「黒ひげが」と言う意味を込めたのを、サボは汲み取ってくれたらしい。
苦い顔のままサボはこくりと頷いた。
だからこそアンの方も、生半可な気持ちでは失敗する。
少なくとも今アンを悩ます一切を割り切らない限りは。

アンは伏せた目の奥に浮かぶひとりの男の姿を、心の中で黒く塗りつぶした。





外は涼しい秋の風が吹いているはずなのに、議事堂を出るとそこは異様な熱気がもわっと滞留していた。
その空気にマルコが顔をしかめるより早く、けたたましい音とともにいくつもの鋭い光が目の中に飛び込んできた。
わかってはいたものの、マルコの眉間には否応なく皺が刻まれる。


「今日の会談の内容をお聞かせください!」
「今後の対策本部の指揮権を行政府と分割するというのはどこまで本当ですか!?」
「エドワード・ニューゲート氏の体調は!?」


詰め寄る記者のマイクが何本も顔の前に差し込まれて、同時に一方的に押し付けるばかりの質問が降りかかる。
会談の内容などいまマルコに聞かずとも、許可済みのいくつかの局のカメラが中に入って全てを押さえたはずで、結果はその映像を見ればすべてわかる。
ようはマルコから何らかの言葉を拾うことが目的なのだ。
言質、と言うほどはっきりと意味のあることでなくていい。
マルコの口から発された公的な言葉を警察側からの発言として取り上げ、行政府側からも同様にして、会談外、つまりは一般人に最も近いメディアの上にもう一つの戦場を作りたいだけなのだ。
しかしマルコのほうにその腹に乗ってやる義理はない。

マルコは突き出されるマイクの間を縫って公用車へと進んだ。
命じられるまでもなく、黒服のSPたちが記者たちを押しのけてマルコのための道を作る。
ぎゅうぎゅうに押し詰められた記者たちから、もはや悲鳴のような叫びが上がった。


「何かコメントを!」


騒がしい鶏の集団のような彼らの波を抜けて、マルコは一切口を開くことなく、SPが開けた後部座席のドアの内側に身を滑らせた。


運転席に座る男がバックミラーでマルコの顔を一瞥してから、ゆっくりとアクセルを踏む。


「庁舎に戻られますか、警視長」
「……こん中でまで堅っ苦しい喋り方はやめろい」


明らかにそう言われるのをわかっていたように、運転手は声を上げずに軽く笑った。


「オヤジからはマルコを家に返せと仰せつかってる」
「バカ言え、いま終わったところで報告も何もしてねぇのに、なんで帰宅なんて選択肢が出てくるんだよい」
「さあ。だが報告も何もあったもんじゃねェだろう。こんな出来レース」
「……口を慎め、フォッサ」


マルコは渋い顔をさらしたが、フォッサは運転の片手間に葉巻をくわえていそいそと火をつけているので、その表情に気付いていない。
いや、気付いているが気にしていないのか。
その面の皮の厚さに呆れながら、マルコも自身の胸ポケットから愛用の品を取り出した。

マルコの隣には、ひとりSPが座っている。
マルコが運転席のこの男と軽口までやり合う仲であるのは周知で、SPも慣れたことだろうが、マルコが今先程終えてきた会談の本当の意味での真意をSPは知らない。
マルコの付き人であるSPが知らないことを一介の運転手が知っているというのもおかしな話だ。
付き人として物理的にマルコのそばで全面的なサポートをするSPは、おそらく誰よりもマルコの一日の行動や細かい仕草までおのずと頭に入っているだろうが、だからといって馴れ合った関係になってしまうとやりにくい面もある。
SPの彼らとマルコは仕事として割り切った関係を絶対に崩さない。
マルコが煙草をくわえると、SPはそれこそ慣れたしぐさでライターを取り出したが口は開かなかった。
フォッサの言葉は聞かなかったことにしてくれるらしい。


「出来レースだろうとなんだろうと、全部オヤジの指示だ。外に悟られるわけにゃいかねぇだろい」
「そのオヤジにマルコを返してこいって言われてんだがな」


軽口の延長でそう言いながらも、フォッサは尋ねる視線でバックミラー越しにマルコを捉えた。
声に出さずとも、「で、どうする」と問われているのはわかる。
マルコは窓の外へと視線をスライドさせた。


「庁舎に戻る」
「……了解」


その言葉とともに吐き出されたため息の浅さで、フォッサが訊かずともマルコの返事を知っていたのだとわかった。
フォッサは警視庁の方へとハンドルを切り、太い葉巻を備え付けの灰皿に押し付けた。
その顔はもうすでにお抱え運転手らしい静かで真面目なものである。
こんな強面じゃ意味はないがな、とマルコは口にせず慣れた景色が車窓の外を流れていくのを眺めた。

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前日は朝からからっとした秋晴れで、高くて青い空を見ているだけでなぜかお腹がすくような日だったにもかかわらず、翌日は空一面に重たそうな雲が広がっていて、時折吹く風も冷たい冬を予感させる日だった。
そんな肌寒い日は人々も外に出たがらないからだろうか、今日はいつもと比べてほんの少しだけ、客入りがよくなかった気がする。
アンとサボはいつもより一時間近く早めに店を閉めることにした。
近頃日が落ちるのもずっと早くなってきたので、買い物も早めにいきたい。
夜は何か温まるものにしようと、アンはエプロンのひもを解いた。
 
 
「じゃあ買い物行ってくる。何か要るものある?」
「あー、仕入れ表用のノートがもうすぐなくなる」
「わかった、買ってくるね。あ、あと郵便局も行かなきゃ」
 
 
アンは財布に入っている金額を確かめ、それをいつものようにズボンの後ろポケットに突っ込む。
 
 
「そうだ、適当に何個かじゃがいもの皮剥いておいてよ」
「わかった」
 
 
じゃ、いってきますとアンがデシャップの外に出て、いってらっしゃいと答えたサボは背中を伸ばしながら住居へと続く階段を上がっていった。
 
 
シャッターのわきにある通用口のドアから外に出ると、途端に冷たい風が右頬にぶつかった。
風が強く、髪が一瞬で左へたなびく。
アンは空を見上げて、雨は降りそうにないなと確認した。
それでもこうも寒いとなるとあまり外に長居したくない。
アンは足早にいつものスーパーに足を進めた。
すれ違う人々はみな、昨日とは打って変わった寒さに身を縮めて帰り路を急いでいる。
二人以上で並んで歩く人々は、だれもが身を寄せ合って寒さをしのいでいるように見えた。
一人で歩くアンを冷たい風から防いでくれる人はいないので、アンは寒い寒いと口の中で呟きながらひたすら足を動かす。
 
そういえば最近サッチが店に来ないな、と思った。
サッチのことを思い出したのは、ガープのことを思い出したからだった。
ガープのことを思い出したのはマキノを思い出したからで、マキノを思い出したのはすれ違った喫茶店の女店主が彼女のように頭にバンダナを巻いていたからだった。
先日マキノがさらっと告白した思わぬ事実は、未だアンに動揺を与え続けていた。
マキノがルフィよりもずっと小さな子供だった時代があるというのは、想像しがたいが理解はできる。
きっと器量のいい愛らしい子供だったに違いない。
そんな可愛らしい少女が、あのじぃさんに……と思うとアンはなんだか意味もなく腕をさすりたいような気分になる。
いや、マキノも言っていたように、当時はまだガープだってじぃさんと言うにはまだ早い年だったはずだ。
しかし中年のガープを思い浮かべるのは、少女のマキノを想像するよりずっと難しかった。
白髪の混じった灰色の髪色は、当時は真っ黒だったのかもしれない。
顔の皺も少なかったことだろう。
ただ、老年である今よりパワフルなガープは想像するとぞっとした。
いやいやいや、と首を振る。
そしてサッチを思い出したのだ。
連想のキーになったのは言わずもがな目の上の傷だ。
サッチのあの傷を見るたびに、アンの脳裏にはうすぼんやりと、アンが意識しなくても常にガープが思い描かれた。
仕事でちょっとね、とその傷を撫でていた彼は近頃その仕事が忙しいのだろうか。
美術館の襲撃から一週間がたっていたが、その間サッチが店を訪れることはなかった。
しかし以前もときたまこうした間隔が開いて、最近来ないなあと思い始めた頃にふらりと現れるので、今回もそのパターンだろう。
 
アンはいつの間にか到着していた大型スーパーの自動扉をくぐった。
中は風がないぶん温かかったが、生鮮食品のコーナーはその一帯が冷えていて寒く、アンは肩に入れた力をそのままにスーパー内を歩いた。
サッチが店に来ないので、一緒にイゾウの店へ行くこともなかった。
あれからルフィもサンジのところへ行こうとは言いださないので、もうしばらくイゾウにもサンジにも会っていない。
アンは果物コーナーの前を横切りながら、この場所でイゾウとばったり出くわした時のことを思い出した。
真剣に果物を吟味する横顔や、口を開けて大笑いする整った顔がひどく懐かしかった。
アンは思いつくまま、いくつかの野菜と果物をかごに放り込んだ。
 
イゾウの店に行ったら、彼らに会えるだろうか。
少なくともイゾウには会えるはずだ。
サンジは、ルフィがもうすぐテストだと言っていたから夜遅くまで働いていないかもしれない。
サッチはアンの店に来なくても、イゾウの店には行っている気がした。
そういうとまるで小さく嫉妬しているようだが、ただそれがサッチなら至極自然なことに思えた。
会うたびにいがみ合ったり罵り合ったりしている彼らだが、年季が違うのだろうか、どこかアンには入り込めない場所がある。
それを見るのが、何故だかアンは好きだった。
 
ぶるっと背中を撫でるような寒気に体が震えて、アンは慌てて生鮮コーナーから移動した。
立ち止まって考え事をするには寒すぎる。
細かな日用雑貨を探しに、アンは食品コーナーより無秩序な気配のある雑貨コーナーへと足を運んだ。
 
マルコも、イゾウの店には行っているんだろうか。
事件から1週間たったとはいえ、マルコの肩にはいつもずっしりと仕事と責任がのしかかっているように見えた。
マスコミのほとぼりは冷めたとはいえ、今もマルコが自由に自分の時間を使う余裕があるとは思えなかった。
──あたしのせいなんだけど、と冗談を言うように心の中で付け加えた。
 
テレビや新聞、ラジオから目や耳に飛び込む「エース」の情報は事件後になると爆発したように熱を持って報道され、それが下火になると隙をつくように他の小さな事件や報道が流された。
初めの頃、アンはテレビをつけて「エース」の報道をしていれば無言でチャンネルを変え、「エース」をにおわす単語が耳に飛び込めばすぐさまラジオのスイッチを切っていた。
怖かったのだ。
いつその名前が「アン」に切り替わるかと、怖かった。
しかし今は、まるで他人事のようにそれらのニュースを聞いている。
テレビに映る被害者の屋敷を見ても、ただその場所をアンも知っているというだけで自分がここに忍び込んだという事実はたいしたことじゃないような気がした。
実際、アンは何度もこれが本当に他人事なんじゃないかと思った。
アンはアンとして今ここにいて、それとは別にエースと言う男がいて、小賢しい手で金持ちの家や美術館に忍び込んで盗みをし、世間を騒がす怪盗。
アンも一般市民の視線で、テレビ越しにエースの存在を知るだけの立場。
それならどんなにいいことか。
アンはあるはずのないことを空想しながら、籠に洗剤を放り込む。
午後三時過ぎのスーパーは少し混んでいた。
しかしいつもはもっと遅い時間に来ていて、これより混雑している。
平日の三時はどことなく怠惰な空気に満ちていた。
 
結局、スーパーで特に知った誰かに出くわすこともなく、アンはいつも通り大量の買い物を終えてスーパーを出た。
空は少し低くなっていた。
雲が厚みを増したのだ。
スーパーの中はやはりいくらか温かかったようで、途端に冷えた空気が身体の熱を奪う。
 
 
──どこか、アンの心の一番見られたくない、知られたくないものを隠す部分が少しだけ蓋を開けている感覚は、実のところ家を出たときから感じていた。
それが予感と言うのなら、そうなのだろう。
ただアンがあえて考えないように、気付かないようにしてやり過ごしていたから、その予感もじっとなりを潜めていたのだ。
 
スーパーを出て左に曲がると、そこにマルコがいた。
 
路肩に止めた見慣れた車に背中を預けて、たいしてうまくもなさそうに煙を吹き上げていた。
アンは足を止めた。
そうせざるを得なかった。
マルコがアンに気付いたからだ。
 
 
「よう」
 
 
マルコが声をかけた。
 
どうしてここにいるの。
なにをしているの。
あたしを待ってたの。
 
あたしも待ってたよ。
 
 
「買い物に行ったって、お前の弟が」
「家に行ったの」
 
 
ああ、とマルコは頷いた。
 
 
「仕事は?」
「忙しいよい」
 
 
それはアンの欲しい答えではなかったが、追求する気にはならなかった。
アンが一歩近づくと、マルコは開いたままの窓から車内に手を伸ばし、灰皿で煙草をもみ消した。
そのまま預けていた背を車から起こす。
アンの背後からやって来た2人連れが、笑い声を上げながらアンの横を通り過ぎる。
中途半端な位置に立つアンの肩と、通り過ぎる2人連れの1人の肩がぶつかった。
ぶつかった歩行者はちらりとアンを見たが、すぐに興味を失ったように相方との会話を続けて去っていく。
よろけたアンの身体は、マルコが差し出した腕に抱きとめられていた。
 
 
あたしはずっと、こうして欲しかったのだろうか。
きっかけを作ったのはマルコから。
あの雨の日、この車の中で、マルコがあたしにキスをした。
そうしたマルコの意図なんてわかるはずもなく、だからといって知りたいと強く思うこともなく、それでも確実に、少しずつでもマルコとの距離を埋めたいと思っていた。
そう感じるたびに、マルコが「エース」に向ける強い視線を思い出して身がすくんだ。
哀しかった。
あたしを見てほしかった。
 
 
アンは体の右側を支えるその腕に手を触れた。
深く呼吸をすると、意識がもって行かれそうにさえ感じるほど強く煙草の香りがした。
それは麻薬のように、アンの体内に沁み渡る。
 
 
「アン」
 
 
顔を上げると、ずっと近くでマルコが見下ろしている。
 
 
「車に乗れ」
 
 
左手に提げていたはずの買い物袋を、マルコの手が取り上げた。
マルコはそれを左側の後部座席に放り込み、アンに助手席に回るよう目で言った。
アンはふらふらと、中毒者のような足取りで助手席側に回り込んで扉を開け、中に乗り込む。
マルコがイグニッションキーを差し込むと、車は深いため息をつくような音を立ててエンジンを回し始めた。
 
 
「どこに行く」
 
 
マルコはフロントガラスに目を据えたままそう言った。
特に行くあてがあるわけではないようだ。
ヘッドレストに頭を預けて、アンは寝言を呟くように口を開いていた。
 
 
「ふたりになれるところ」
 
 
マルコは車を滑らすように発進させた。
 
 

 
20分ほど通りから外れた道を走った。
そしてマルコが車を停めたのは、中心街と郊外の境目あたりにある背の高いマンションの駐車場だった。
モルマンテ大通りのある中心街にはこのマンションほど大きな建物はいくつかあるが、このあたり一帯では群を抜いて目の前のマンションが高い建物で、夕日を浴びて銀色に光るその姿は気高い大型動物を思わせた。
 
 
「……マルコの家?」
「今は、一応」
 
 
一応、と言うその言葉に含むものを感じながら、アンはシートベルトを外した。
マルコも同じ動作をしたが、扉に手をかけることはしない。
どうする、とマルコが訊いた。
 
 
「行かなくてもいい。帰るかい」
 
 
マルコに顔を向けると、焦りや不安や怒りや悲しみなど、この世の動揺とは一切無縁に思える色をした目がそこにあった。
アンはぼんやりとその色を見て、ゆっくりと首を振る。
 
 
「帰らない」
 
 
車を降りると、冷たい空気が頬に触れて頭と視界がはっきりした。
車の中で感じていた眠気に似た心地よさを拭い取るように風が吹く。
マルコは慣れた足取りでマンションの玄関へ向かいオートロックを外すと、ホテルのロビーのようなホールを通り過ぎてエレベーターの前で立ち止まった。
アンはただ、黙って後についていく。
ホールの中は、人が住んでいる気配を微塵も感じさせない静けさが建物自体に染みついているようだった。
不意に、立ちくらみのように頭の中をかき回す感覚に襲われた。
立っていられないほどでも、身体がよろめくほどでもないそれは感じたことのない眩暈だった。
アンの内側にある意思が、アンに直接呼びかけているような気がした。
「早く、早く」と聞こえた。
なにが早くなのか、アンにはまだわからなかった。
 
エレベーターが小さな鈴の音を鳴らして到着を知らせる。
扉が開き、マルコが中に乗り込んだのでアンも後に続いた。
扉が閉まると、立ちくらみも頭の中の声もたちどころに消えた。
マルコが一つボタンを押したのでその手の先を目で追うと、そのボタンは「閉じる」のボタンだった。
それと「開く」、あとは緊急時のボタンしかない。
このエレベーターはマルコの家がある場所と地上を往復するためだけにあるのだ。
 
小さな舌打ちが聞こえた気がして、アンは顔を上げた。
舌を打ったのは間違いなくマルコで、下から覗いてもその眉間に微かな皺が寄っているのが見て取れた。
先程の穏やかさは微塵もなく、今は何かに苛立っているようにみえる。
マルコの名前を呼びたくなったが、少し口を開いただけでそれはできなかった。
マルコの手が、アンの手を掴んだからだ。
それに驚いて、声が出なかった。
エレベーターは上品な音とともに動きを止め、扉が開いた。
 
目の前には一枚の壁があり、他に行く手はなかった。
ドアらしきものもない。
マルコはアンの手を引いてその前まで突き進むと、壁にくっついた端末キーを叩いて何かを入力した。
すると、壁のように見えていたものの一部が横にスライドして口を開けた。
口の向こうに、ようやく部屋らしきものが見えた。
マルコはアンに驚く隙さえ与えず、アンの手を引いて中に入った。
 
 
「マル……」
 
 
アンが名前を呼ぶよりも早くマルコが振り向いた。
アンの背後で扉がスライドして閉じる。
閉じた扉に背中と頭が押し付けられた。
掴まれた手がきりきりと痛む。
呼吸を許さない荒々しさで口が塞がれていた。
思わず目を閉じた。
アンの手の甲を覆うように掴んでいた大きな手が動いて、アンの指を一本ずつ絡め取る。
つま先から下腹の辺りに電気のような刺激が走った。
咥内に入り込む舌の温かさを感じて鳥肌が立った。
それに応えたいという思いが、アンの舌を動かした。
空いている手がマルコの肩にかかる。
そのまま滑るように動いて、首に手を回していた。
 
息を継ぐ暇もなく、激しいキスが続いた。
少しの隙間から漏れる吐息とくぐもった声は全部マルコに吸い込まれる。
腰が引き寄せられて、掴まれていた左手が解放されたのでアンは両腕をマルコの首に回した。
アンの脚の間にマルコの膝が割って入る。
もつれあうように体が重なる。
唇が離れると、アンの口端から二人分の唾液が流れた。
マルコは構わずまたアンの手を引いて、部屋の中へと入っていく。
中の様子を見ている余裕などなく、アンは暗い廊下の一番奥の部屋へと連れられた。
灯りもなく、窓にはブラインドがかかり、外は秋の夕時で、暗闇の中で見えたのはぼんやりと浮かぶ大きなベッドだけだった。
アンもマルコも、靴を脱ぐことさえ忘れて、再び絡まるようにそこに倒れ込んだ。
 
 

 
その行為に意味や、ましてや目的なんてものがあるはずなかった。
強いて言うなら、それは空虚を埋める行為だった。
満たされていたはずの身体にマルコが穴をあけた。
それを埋めてもらわなければならなかった。
マルコがどういうつもりでアンに会いに来たのかはわからない。
仕事の忙しさに追われて、その憂さを晴らす場所が欲しかっただけかもしれない。
それとは別に、単純にアンの顔を見たいと思って来たのかもしれない。
どちらにしろ、アンが知る所ではなかった。
 
アンはゆっくり体を起こした。
ベッドの横に置いてあるシンプルな目覚まし時計で時刻を確認し、思ったほど遅くはないことを知った。
眠っていたのは20分ほど。まだアンが買い物に出ていたっておかしくはない時間だ。
右側を見下ろすと、アンに背を向けてマルコが寝ていた。
両腕を顔を向けた方向に伸ばして目を閉じる横顔をじっと見下ろす。
急に、この隣で眠る男が哀れに思えた。
アンが哀れむ立場ではないとは知りながら、それでもやりきれない気分になった。
一番哀れで惨めなのはアン自身だ。
甘さのかけらもない行為に満足した。
アンの上に乗るこの男に必死でしがみついた。
恋だとか愛だとかは一切なく、あるのは剥き出しの欲だけで、それを手放すまいと無様なほど必死になった。
可笑しなほど現実的だった。
そんなアンを抱いてしまったこの男が哀れだった。
 
 
「マルコ」
 
 
名前を呼ぶと、眇めた眉がピクリと動いて、分厚い瞼がゆっくり持ち上がった。
 
 
「……今、何時だい」
「5時半」
「あぁ……」
 
 
もぞもぞと体を起こしたマルコは、隣に座るアンをちらりと見て、少しだけ気遣わしげな視線を送った。
アンはそれをかわして衣服を身に着ける。
不意に腕が引かれて、アンはマルコの胸に倒れ込んだ。
 
 
「マルコ?」
 
 
問い返しても返事はなく、後ろ首から髪が掻き上げられて頭と肩を抱きかかえられる。
最後の最後に唯一ほんのすこしだけ甘さのある所作だった。
 
罪滅ぼし、同情、気遣いじゃなくて、なんというんだっけ。
そうだ、サービス。
最後に少しだけしあわせな気分にしてくれるサービスのようなもの。
アンは甘んじて受けることにした。
目を閉じて、頬に直接当たる胸の温かさ、その奥に潜む鼓動を感じる。
抱きしめ返すことはできなかったので、アンから離れた。
マルコは一度だけアンの髪を梳いて、服を着始めた。
 
 
「帰るよ」
「送るよい」
「うん、あ、車の中に買ったものそのまま」
「寒いから平気だろい」
 
 
それもそうか、とアンはベッドから足を降ろして窓らしき四角い枠に目をやった。
ブラインドがかかっているのでよく見えないが、5時半の秋の空はもう紺色の割合の方が多い。
今日は天気が悪かったので、特に外が暗く見えた。
アンは無意識のうちに下腹の辺りに手をやって、温めるように両手を置いていた。
立ち上がったマルコがそれを見て、少し眉を寄せる。
 
 
「痛いかよい」
「ううん、平気」
 
 
行こう、とアンが立ち上がる。
マルコはアンが外に出るのを待ってから、自分も部屋を出た。
 
 
帰りの車内は行きと同じく特に会話はなかったが、重たい空気と言うわけではなかった。
うっすらと漂う疲労感はどことなく心地よくさえあった。
家に着いたのは6時ごろで、マルコはいつものように扉の前に車を停めた。
アンが礼を言って出ようとすると、腕を掴まれた。
 
 
「また来るよい」
 
 
なんと返事をしていいのかわからず目を泳がせると、マルコは困った顔でアンの腕を掴む手を緩めた。
緩めただけで離しはしない。
 
アンはもう、以前のようにマルコとばったり出会ったりサッチと二人で来店してきた際、平常心で接することができる自信がなかった。
周囲にばれるからといって何が困るのかと訊かれたらわからないが、耳目にさらされて動揺する姿は見られたくない。
といっても、アンとマルコをうまく形容する関係とはいったいなんなのだろう。
 
マルコ、あたしたちっていったいなんなの?
 
 
「わかった」
 
 
とりあえずそう言うと、マルコは腕を離した。
その顔は了解したというより、諦めたという表情に近かった。
アンが車を降りて、家に入る前に一度振り返る。
いつもならそのときにはとっくにいなくなっているはずの車の影が、この日はまだ停まったままだった。
マルコはドアのノブに手をかけたまま振り返るアンを見て、微かに頷いたように見えた。
少しだけ笑っていた。
その日、マルコが笑うのを初めて見た瞬間だった。
 
 
 

 
家の階段を上がると、アンの視界には一番にダイニングの椅子に座るサボの背中が飛び込んできた。
ルフィはまだ帰ってきていない。
 
 
「おかえりー」
「ただいま」
 
 
サボは手元を動かしたまま振り向かなかった。
アンの方は何となく顔を合わせづらい理由があるので、そそくさと冷蔵庫の前に行って買ったものを詰め始める。
それと同時に今夜の夕食で使う材料を取り出して、そう言えばサボにじゃがいもの皮を剥いてもらうよう頼んでおいたのだったと思いだして振り返った。
そして、ぎょっとした。
 
 
「サッ、サボ……全部剥くつもり!?」
「え?」
 
 
なんのことだと言わんばかりの無垢っぷりで、サボは顔を上げた。
その手には半分だけ皮のむかれたじゃがいもが握られている。
サボの隣の椅子にはじゃがいものの箱がドンと置かれ、テーブルの右側には真っ白のじゃがいもがうず高く、左側には皮の残骸がこれまたうず高く積まれていた。
 
 
「数個って、あたし言わなかったっけ……?」
 
 
サボはじっとアンの顔を見上げて、それからようやく話がじゃがいものことだと気付いたらしかった。
というより、自分が今じゃがいもの皮を剥いているということに気付いた様子だった。
 
 
「う、わ! なんだこれ!」
「なんだこれじゃないよ」
 
 
サボの驚きっぷりに思わず吹き出して、アンは生ゴミのゴミ袋を手に取る。
ざかざかとじゃがいもの皮を袋に捨てながらサボを見ると、サボはいまだ信じられないといった様子で手の中でじゃがいもを転がしていた。
 
 
「どうしたの。そんなに皮むき楽しかった?」
「いや……ごめん」
 
 
サボはすっかり中身の減ったじゃがいもの箱を持ち上げて床に降ろし、ざるに積まれた白いじゃがいもを見下ろした。
 
 
「どうする、これ」
「うーん、できるだけ今日と明日で使い切るよ」
「いける?」
「うん、じゃがいもパーティーだ」
 
 
ひひひ、とルフィのような笑い声を上げてみたが、サボの笑い声は返ってこなかった。
不審に思って振り返ると、サボは白いじゃがいもを見下ろしたまま固まっている。
その目の中にアンの知った色がなくて、アンも顔に貼りついた笑みが一瞬で消えた。
虚ろといってもいい目の光が怖かった。
そっとサボに近づいて、その腕に触れる。
 
 
「……サボ? 大丈夫?」
「あぁ」
「でもなんか変だよ。顔色も悪いし……調子が悪いなら今日はもう早く」
 
 
アンが触れるサボの腕が、跳ねるように動いた。
アンの手は跳ね飛ばされて、アン自身驚いて身を引く。
振り払われたのだ、ということになかなか気づかなかった。
サボは何も言わない。
うつむいて、アンと目も合わせない。
背中に不可解な汗が流れた。
 
 
「サボ……?」
「マルコには会えたか?」
 
 
ドンっ、と心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
背中を流れる汗が一瞬で冷たいものにかわる。
サボは、アンがマルコと会ったことを知っている。
マルコにアンの居場所を教えたのはサボなのだ。マルコ自身がそう言っていた。
ただ、今のサボの口調はただその事実を確認するものではなかった。
 
 
「う、ん。スーパーの帰りに。サボ、会ったんでしょ……?」
「あぁ」
 
 
うしろめたいことをしたわけじゃない。
それなのに、なぜだか取り繕おうとする自分がいた。
 
 
「最近マルコ来ないから、少し話して」
「郵便局は結局行ったのか?」
「ゆ、」
 
 
行っていない。すっかり忘れていたし、そんな時間も余裕もなかった。
郵便局に行き忘れたことがサボにとって大して致命的なことであるはずもなく、そんなことをサボが言いたいわけではないと分かっていた。
サボがゆっくりと顔を上げた。
アンをまっすぐ見つめる視線は穏やかで、何も映っていなくて、アンは息を呑んだ。
待って、ちょっと待ってよ、と自分の声が頭の中で響いていた。
 
 
「……サボ、ねぇ、どうしたの?」
 
 
こんなにもおそるおそるサボに触れたのは初めてだった。
また振り払われるかもしれないと思うと、安易に手を伸ばすことができなかった。
もしまた振り払われてしまったら、心の脆い部分は一気に砕ける予感がする。
しかしサボはそうしなかった。
アンは両手でサボの両腕を軽く掴んで、正面からサボの顔を覗き込む。
近くで見ると、サボの茶色い目にはアン自身の姿だけが映っていた。
それなのに、サボがどこも見ていない気がするのはなんでだろう。
「アン」とサボが呟いた。
 
 
「なに?」
「マルコが好きか?」
 
 
サボの腕を掴んだ手の力が、一瞬緩んだ。
反射的に逃げようとしてしまった。
なんでそんなことを訊くの?
 
 
「マ……す、好きだよ、マルコも、サッチも」
「違うだろ」
 
 
違うだろ、とサボは繰り返した。
なに、なんなの、と疑問が混乱をきたしながら頭の中に浮かんでいく。
サボの考えていることがこんなにもわからない。
 
サボ、なんなの、どうしたの、と何もわからないふうなことを言いながら、しかしアンはどこかでサボの言いたいことを汲んでいた。
アンとマルコが何をしていたか、互いをどう思っているのか。
アン自身がいまいち把握しきれていない事実は、頭のいいサボになら簡単に想像できてしまうんだろう。
だから、どうしようもなくそれが理不尽な気がした。
「なんでそんなこと訊くの」という問いは、「なんでそんなこと訊かれなくちゃいけないの」に少しずつすり変わっていく。
あたしがマルコのことを好きだといったら、それでサボの何が変わるというの?
 
ただそれは、たったひとつの言ってはいけないことだと分かっていた。
だからアンは口を閉ざして、ただわからないふりをした。
 
 
「警察だぞ」
 
 
そんなことわかってるよだからなんだっていうの、と咄嗟に反論した心を押さえつけて、アンは頷く。
 
 
「わかってる、でもマルコはお客さんで」
「ごまかすなよ!」
 
 
アンは見るからに怯えた態で身を引いた。
サボの腕を掴む手が完全に離れる。
サボが声を荒げたことなんて、アンが覚えている限りなかったはずだ。
目の前の男が急に知らない人に思えた。
しかし心に流れ込んだのは、その恐怖だけではなかった。
同時に濃度の濃い怒りや不満が怒涛のように押し寄せる。
元来の喧嘩っ早さが災いした。
 
 
「なんで急にそんなこと詮索されなきゃいけないの!?」
「アンの帰りが遅いからだろ!」
「マルコに会ったって、サボだって知ってたじゃん!」
「お前自分の立場わかってんのかよ、相手は警察だぞって言ってんだ! アンは油断しすぎてる!」
「でもマルコと仲良くなれば手に入る情報もあるかもしれないって、サボだって思ってたんだろ!」
「だからって危険まで冒せなんて言ってない!」
「危険なことなんてあたしはなんにもしてない!」
「だからそれがわかってないって言ってるんだ!」
「あたしは自分のやりたいようにやっただけ! マルコが会いに来たから会った! それの何がいけないの!!」
「身体売るような真似までしてなにが」
 
 
乾いた音が室内に響いて、それきりサボの言葉は続かなかった。
開いた右手のひらがじんじんと熱くなる。
「おい」と別のところから声がした。
 
 
「なにやってんだよ!」
 
 
声のした方向に顔を向けると、見開いた目のルフィが立ち尽くしている。
いつからいたんだろうか。
階段を上ってくる足音も聞こえなかった。
サボの言葉が頭を埋め尽くして、耳さえ塞いでしまったのだ。
ルフィはドサドサとその場に荷物を落とし、大股でアンとサボに歩み寄ると二人の間に割り込んだ。
 
 
「ルフィ、」
「なんだよ、なんでふたりともそんな顔してんだよ」
 
 
ルフィはアンに背を向けて、サボを強い視線で見上げた。
アンは痺れる右手のひらを左手で包んで強く握りしめる。
サボは赤みの差した頬を手の甲で一度拭い、それきり顔を背けて俯いた。
その構図は、まるでルフィがアンをかばって立ちサボが責められているようだった。
叩いたのはアンのほうなのに。
 
 
「ごめん」
 
 
サボがぽつりと呟いた。
やっぱり先に手を出したのはアンのほうなのに、サボは折れることしか知らない。
アンの前にいきりたって仁王立ちするルフィは、サボが謝ったことで見るからに肩の力を抜いた。
喧嘩が起こるのは兄弟ならば日常茶飯事。殴り合うのも必要ならば仕方ない。最後に互いが謝って事が収まればすべて水に流れる。
3人の間に共通するその常識をそのまま持ち出せば、このままアンが「こっちこそごめん」と謝ることで事態は収束するのだ。
ルフィはそれを期待していた。
 
それでも、今のこの状況はその常識が通用しない不測の事態だった。
叩いたのは一方的にアンの方だけで、サボはやり返さない。
喧嘩の暗黙ルールである拳ではなく、アンは平手で叩いた。
そもそもこれは喧嘩などではないと思った。
「ごめん」では終わらない、決定的に変わってしまった何かがあると、アンもサボも気付いていた。
言ってはいけないことをお互いが乱暴にぶつけあった傷跡が、まざまざとその場に残っていた。
 
 
「……アン?」
 
 
ルフィが振り返る。
その目が珍しく不安げに揺れていた。
 
あたしはそんなにも取り返しのつかないことをしたのだろうか。
マルコとの関係は、ルフィにこんな顔をさせるほど悪いものなのだろうか。
 
『秘密は共有、隠し事はナシ』
 
その原則を破ってまで、あたしにとってマルコは手に入れたいものだったのだろうか。
そもそも、この原則が破れただけであたしたちは壊れてしまうような家族だったのだろうか。
秘密も隠し事も痛みも悲しみも怒りも不安も不満も猜疑も全部全部共有していれば、あたしたちはいつまでも素敵な家族でいられたのだろうか。
ただひとつわかるのは、この原則があろうとなかろうと、アンの居場所はここしかないということだった。
それと同時に、サボの居場所もここしかないのだ。
 
ああだから、とアンはパズルのピースが次々と合致していくような感覚を味わって、顔を上げた。
突沸の如く沸いた怒りが、現れたのと同じスピードで消えていく。
 
他に居場所を作ろうとしたあたしをサボは怒ったんだ。
別の場所に次々と自分の居場所を作り出すルフィにはきっとわからない。
ルフィが聞けば仲間外れにするなと怒りそうだが、それは事実だ。
あたしもサボも、居場所はここしかない。
どちらかが離れていけば、残された方は必然的に独りになる。
あたしたちは意外と窮地にいたんだな、とアンは静かに理解した。
 
 
「サボ」
 
 
名前を呼んで、頬に手を伸ばした。
サボは目を逸らしたまま、アンを見ようとしない。
 
 
「ごめん」
 
 
サボはゆっくりと、焦れるほどゆっくりとアンの目を見返した。
その目には、アンとルフィが重なって映っていた。
サボはしっかりと二人を見ている。
 
 
「ルフィ、冷やすもの持ってきて」
「おう」
 
 
すっかり安心しきったルフィが、さっさと冷凍庫の中を漁って保冷剤を探しに行った。
赤くなった頬に触れると、刺激が走ったのかサボが少し顔をしかめた。
しかしすぐに沈痛な面持ちに戻る。
 
 
「ごめん、痛いよね」
「いいんだ、ごめんな」
「サボは悪くないよ」
 
 
悪くない、サボは悪くないんだよ、と繰り返しながら高い場所にある肩に手を伸ばしてそれを掴み、引き寄せた。
抱きしめた身体は思ったより細かった。
 
 
「あたしはどこにも行かないよ」
 
 
顔の横にやって来たサボの耳に、直接そう言葉を流す。
身体の横にだらんとぶら下がったままのサボの腕が、ピクリと動いた。
背中を曲げてアンに抱き込まれて、サボは黙って首を振った。
ルフィが保冷剤をいくつか持ってきて差し出したので、アンがそれを受け取ってサボの頬を冷やす。
その間もずっとサボはアンの肩に顔をうずめたまま、「違うんだ」と呟いて、首を振っていた。
じっとしてよと言っても聞かず、「違う」と言い続けるその意味は、アンにはよくわからなかった。

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「家の掃除?」
「そう、びっくりするくらい綺麗だったんだ」
「少なくとも、私じゃないわ」
 
 
マキノは考え込むように首をかしげながら、酒のアテを作り続ける。
マキノとはカウンターをはさんで座る3人の背後では、酒を楽しむ大人たちがガヤガヤと騒いでいた。
とろんと甘い酒の匂いが漂う。
店の隅にいる若者3人をちらちらと不思議そうに見遣る酔っ払いたちに、マキノは「知った子たちなの。お邪魔はしないから置いてあげてくださいね」とやんわりと紹介した。
アンたちはカウンターの端の席に連なって並び、マキノの夕飯を頬張っている。
 
 
「ぜってぇマキノだと思ったんだけどなぁ」
「ガープさんにも、そんなこと言われたことなかったわ」
「でももう思い当る所がないんだ。じぃちゃんか、マキノくらいしか……」
 
 
そうよねぇ、とマキノも同意する。
「おかわり!」とルフィが4皿目を要求した。
食べ過ぎ、とたしなめるアンもいま3皿目なのだからいまいち説得に欠ける。
マキノは「あいかわらずね」と目を細くして笑い、皿を受け取った。
 
マキノの店の中で食事を終えると、アンたちは住居のほうへと引っ込んだ。
マキノとの会話を楽しむために来ている客だっている。
アンたちがいつまでもマキノをひとり占めしておくことはできないのだ。
奥で好きにしてていいわよ、とマキノは昔からアンたちが遊びに来るとそう言った。
3人はこじんまりとしたリビングに腰を落ち着け、しばらくの間マキノにまつわる昔話に花を咲かせていると、マキノが表からひょこりと顔を出して、「先にお風呂入っちゃいなさい」とアンたちを追いたてた。
ほら遅くなっちゃう、と3人を立たせて、お風呂も変わってないからわかるでしょうと言い残してまた表へ戻っていく。
立ち上がった3人はマキノが消えたドアを見つめて、それから同時に笑い出した。
もう3人一緒に風呂に入ることができるほど小さくないのだ。
順番な、とじゃんけんをして、負けたサボがお湯を張りに行った。
 
 
3人とも風呂を上がった後も寝に行こうとはしなかった。
アンは一人掛けのソファに、サボはマキノが書き物をする時の椅子に、そしてルフィは地べたに座っていつまでも話をしていた。
マキノの店が閉まるのは夜11時。
この界隈にしては早すぎる閉店だが、女一人でやっていくにはそれが精一杯でもありそれで十分でもある。
とはいえ、11時に店を閉めてそれから片付けやらをしていれば、マキノが戻ってくるのは12時あたりになるだろう。
それまで待とうと言いあったわけではなかったが、先に眠る気にはなれなかった。
それ以上に、3人とも昼食後に思いのほかぐっすり眠ってしまったので、たいして眠くもならなかった。
寝ろと言われたらストンと寝られる自信はあるが。
 
 
「じぃちゃんに聞けたらいいんだけどなー」
「そういえば連絡先も教えてもらってないよな」
「今まで特に連絡する用事もなかったからね」
「マキノやダダンが知ってればそれでいいかぁ」
「じぃちゃんの仕事も長いよな。何やってるのか知らないけど」
「ルフィがうちに来たときからずっと同じ仕事にかかってるんだとしたら、もう12年だよ」
「ルフィお前じぃちゃんが何してるのかとかちらっとでも聞いたことないのか」
「サボやアンが知らねぇのならおれだって知らねぇよー。警察ってことしか」
「少なくともこの街にはいないしねぇ」
 
 
考えれば考えるほど、奇妙な人物だ。
あたしたちのじぃちゃん、という基盤が骨格をなしているからいいものの、そうでなければ得体が知れない。
そのじぃちゃんとは、かれこれもう6年ほどあっていない。
アンたちがダダンの家に住みついてからたった1度だけ帰ってきたことがあった。
様子を見に来たとカラカラ笑うその大きな老人は、ひとしきり気のすむまで3人を構い倒すとさっさと帰ってしまったので、それきりだ。
 
 
「あら、まだ起きてたの」
 
 
エプロンとバンダナを外したマキノが、アンたちを見て少し目を丸くした。
たったひとりで数時間働いていたにもかかわらず、疲れも見せずむしろすっきりとした顔つきなのはさすがと言うべきか。
おつかれさま、と口々に声をかけると、なぜかマキノは照れ臭そうに笑った。
 
 
「なんだか私がお母さんになったみたい」
 
 
お風呂入ってくるから、とマキノはそそくさと奥へと引っ込んでいった。
だって本当にお母さんみたいだもんね、とアンたちは笑い合う。
 
 
 

 
「さて。あなたたちの寝床よね、問題は」
「だから床でいいって」
「だめよ床は。背が伸びなくなっちゃう」
 
 
どこで聞いてきたのか知らないが、マキノはそんな迷信ともつかない迷信を信じて床は駄目だと言い張った。
背が伸びないと言ったって、絶賛成長期のルフィはともかくアンとサボはもうこれ以上伸びる心配はなさそうだ。
ふたりとも男女それぞれの平均よりはいくらか高い。
マキノはそれでもうんうん唸って考えている。
あのさ、とアンはおずおずと挙手をした。
 
 
「あたしが昼間寝てたベッドでサボとルフィが寝て、あたしがマキノのベッドで一緒に寝たらだめ?」
「あぁ、それがいいな」
「あらそうね、でも……」
 
 
マキノは頬に手を当てがって、サボとルフィに目をやった。
 
 
「あなたたち二人が一緒に寝るにはベッドが少し小さいわ」
「だいじょうぶ!」
 
 
アンを含めて3人の声がぴたりと揃った。
マキノは気圧されて、そう? と納得している。
どうせあの小さなベッドにサボとルフィが朝まで収まっていられるわけがない。
寝ながらの攻防でどちらかが床に落ちて、気付かず朝を迎えるだろう。
それで特に支障はない。
アンは比較的寝ているときは動かないので、マキノに迷惑をかけることはないはずだ。
 
 
「それじゃあアンとサボはともかく、ルフィは明日から学校でしょう? もう寝なくちゃ」
「くそ、ずりぃな二人とも」
「おれたちはもう通過済みだからいいんだよ」
 
 
サボはルフィの頭の上に手を置いて、拗ねたように口を尖らせるルフィをからかうように笑って立ち上がった。
 
 
「おやすみ、マキノ本当にありがとう」
 
 
おやすみなさい、と柔らかく笑うマキノの隣で、アンも「おやすみ」と小さく手を振った。
昼間アンが休んだ部屋へと入っていくサボとルフィを見送って、マキノも「さて」と立ち上がった。
 
 
「私たちも寝ましょうか」
「狭くしてごめんね」
「アンは細いから平気よ」
 
 
マキノの部屋はリビングよりもずっと小さくて小奇麗な部屋だった。
アンにベッドに入るよう勧めて、マキノは灯りを消すために部屋に入ってすぐのスイッチの傍に立っている。
ぱちん、と軽い音ともに視界が真っ暗闇になった。
もぞもぞとベッドの壁側へと身を寄せるアンの隣に、静かにマキノの身体が滑り込む。
 
 
「そんなに端に寄らなくても平気よ。案外広いわ」
 
 
そう? とアンが少し体を真ん中へと寄せる。
触れそうで触れない距離に自分とは別の身体があると意識すると、触れてもいないのに開いた距離が熱を持ったように温かくなる。
その温度は心地よくアンの身体を弛緩させた。
シーツからは、薄く花のような甘いにおいがした。
ね? とマキノが笑った気配がしたので、アンは声を出さずに笑いながら頷く。
 
 
「アンと一緒に寝るのなんて、本当にひさしぶり」
「5年前くらい?」
「そうね……それよりもっとアンが小さかった気がするわ。大きくなってきたらあなた、照れて一緒に寝てくれなくなったじゃない」
「そ、そうだっけ?」
 
 
なんであたしが照れる必要があったんだろう、と今のマキノの言葉にこそ照れくささを感じながら、そういえばたしかに少し、マキノの優しさがむずがゆく感じたような時期があったことを思い出した。
そうよ、そうだったのよ、とマキノは懐かしそうに呟いた。
 
 
「もう、子供じゃないものね」
「……そんなことないよ」
「あら、ここは胸を張ってもいいところよ」
 
 
マキノはそう言ったが、アンは複雑な気持ちで軽く顔を伏せた。
もう少し、マキノのそばでは子供でいたい。
それがただの甘えであるとはわかっているけど、もう少しだけ、と。
マキノはしばらくの間じっと、まるで息をひそめるように静かだった。
アンを待っているみたいに。
 
 
「歳を取るのも悪いことばかりじゃないわ、アン」
「……そう?」
「考えることが多くなる分、知ることも多くなるから」
「あたし勉強は苦手だよ」
「勉強だけじゃないわよ」
 
 
マキノはくすくすと葉がこすれるような笑い声をあげた。
 
 
「そうね、たとえばアンたちはお店を始めた。お客さんが来て、お金をもらうでしょう?自分たちが作り出すものにどれくらいの価値があるのか、自分たちが決めたその値段でどれくらいのお客さんが満足してくれるのか、考えるでしょう。一方的に、『私たちの作ったものはこれだけの価値があるからいくらで買いなさい』って言ってもお客さんは買ってくれないわ」
「……わかる」
 
 
にこりとマキノが笑った気配がした。
 
 
「子供はそれがわからないけれど、大人になれば当たり前にそれがわかる。商売に必要なのはお金に見合う価値のある信用よ。お客さんがアンのことを好きになってくれれば、アンの作ったものだって好きになってくれる」
 
 
何年も、たったひとりでお酒を扱う商売を続けているマキノの言葉は、さすがに説得力があった。
 
 
「そうやってコミュニケーションを取るのも楽しいじゃない?」
 
 
うん、とアンは頷いたが、その声はいまいち煮え切らないふうに聞こえただろう。
お客さんが『おいしい』と言ってくれるのは嬉しい。
『また来るよ』と言ってくれるのだって。
だがその会話が楽しいか、と訊かれたらわからない。
サボやルフィ、マキノとこうして話しているときのほうがずっと楽しいし、楽だ。
マキノはそれについては何も言わず、たとえば、と言葉を足した。
 
 
「お客さんの中に友達ができるかもしれない。いろんな人たちが来るでしょう?」
 
 
ともだち、とアンは繰り返す。
いちばんに浮かんだのは、なんでだろう、サッチの顔だった。
できた、とアンは呟いた。
 
 
「え?」
「ともだち、もうできた」
「あら」
 
 
そうなの、とマキノが破顔したのが慣れてきた暗闇の中でぼんやりと見えた。
どんなひと? と先を促す。
 
 
「どんな……えぇと、おっさん。でもなんか、子供、みたいな」
「うんうん」
「目の上の、ここ、じぃちゃんと同じ場所に傷があって、ちょっと怖い顔したら悪い奴に見えそうだけどいっつも笑ってる」
「うん」
「あと……ルフィの友達にも初めて会ったの。コックで、そのおっさんが連れて行ってくれたお店で働いてて。料理がすごいおいしいの。あとなんかあたしが店に行くと歌ったりまわったりする変なヤツ」
「うんうん」
「あと、その店のオーナーも……たぶんサッチ、あ、そのおっさんのともだちで、イゾウって言って……サボくらい背が高くて、女の人みたいな顔してる。白くて、鼻が高くて、黒い髪の毛が長くって」
「そう」
「あと……」
 
 
もうひとり、と呟いたアンを、マキノは先を促すように黙って見つめた。
 
 
「サッチと一緒に来てくれるおっさんが、もうひとり」
「そう……たくさんいるのね」
 
 
よかった、とマキノは吐息と共に吐き出した。
そうか、サッチたちはアンのともだちなのか、とアンは順番に彼らの顔を思い出す。
言われてみれば彼らとの会話は、家族とのそれと同じくらいアンにとって楽しいものだった。
 
 
「あと、そうね、ともだちじゃなくても、誰かを好きになったり」
「好きに……」
「恋をしたり」
 
 
したことある? とマキノはまるで少女のような含み笑いをした。
「マキノが好きだよ」と平然と返すと、マキノは「やだ、それとは違うわよ」と大げさなアクションでアンの肩を軽く叩いて笑った。
わかんないよ、とアンは憮然と言い返す。
 
 
「マキノはしたことあるの?」
「あるわよぉ、私だってこれでもアンより何年も多く生きてるんだから」
「どんなの?」
「そうねぇ」
 
 
私のときは、あなたよりずっと小さい時が初恋だった。
背が高くて、強くて、優しくて、私を傷つけるすべてのものから守ってくれた。
一緒にいると安心できた。
離れていってしまうと寂しくて死にそうだった。
いつ会いに来てくれるのか、そればっかり考えてた。
会いに来てくれたら会いに来てくれたで恥ずかしくって、ろくに目を見て話すこともできなかった。
 
 
「……それ、何歳のとき?」
「9歳」
「きゅっ……!?」
 
 
なんて早熟な、とアンがあんぐりを口を開けている横で、マキノはカラカラと笑った。
 
 
「さてお相手は誰でしょう」
「え……あたしの知ってる人?」
「そうよぉ」
「えぇー……わかんないよ」
「ガープさん」
「え?」
「あなたのおじいちゃんよ」
 
 
一瞬思考が止まった。
それから、……どえぇぇ!!というあられもない悲鳴は、この家の数件先まで聞こえたかもしれない。
サボとルフィのいる隣の部屋が、ガタガタッと物音を立てた。
なんだなんだと微かな話し声も聞こえる。
マキノはしてやったりと言わんばかりの顔で、珍しく腹を抱えて笑っていた。
 
 
「う……うそだろ」
「うそじゃないわよ、失礼ね」
「だ、だってあんな……ジジイじゃん」
「やぁね、自分のおじいさんのことそんなふうに。それにその頃はまだおじいさんっていう年じゃなかったもの」
 
 
それにしたって、とアンは目玉を取り落さんばかりに目を見開いて驚いた。
あのじぃちゃんが、好きだとかなんだとかいう話の対象になるとは思ってもみなかった。
マキノはひとしきり笑うと、涙までこぼしていたのか目元をぬぐった。
 
 
「でもまぁこれは、叶うとか叶わないとかそういう話じゃなかったから。いつのまにかすぅっと溶けて消えるみたいになくなってたわ。今は別にそんなふうに思ってないから、安心して」
 
 
安心してと言われたって、とアンは後を引く驚きにまだ引っ張られている。
初恋ってそういうものなのよ、とマキノは明るく笑った。
 
 
「それからが本物」
「それから?」
「今のアンと同じくらいか、もう少ししてからね」
「……別の人?」
「そうよ」
 
 
ふふっと漏れたマキノの笑い声が空気を揺らした。
はにかむ、と言ってもいい。
暗くてよく見えないけれど、マキノの頬は程よく染まっているのかもしれない。
 
 
「その人のことは今でも好きよ」
「ど、どんな……」
「ガープさんほどじゃないけれど、私よりずっと年上ね。少なくとも10以上」
「ふーん……」
「もともと私のお店のお客さんだったの。その人も子供みたいなのよ。危ないこと平気でやったり、バカ笑いしたり。スプーンも子供みたいに持つのよ」
「あ、あたしの知ってる人?」
「たぶん知らない人」
 
 
へぇ……とアンは驚きと新鮮さの混じった声をこぼした。
知らないところで、マキノがそんな人と出会ってたなんて。
 
 
「その人にも……その、じぃちゃんに思ってたみたいなこと、思うの?」
「そうね、少し違うけど」
 
 
すこしちがう、というのがよくわからなくて気になったが、訊いてもわからない気がした。
マキノも「言葉にするのは難しいわ」と恥ずかしそうにしているので、訊かないでおく。
 
 
「だからアンも、きっといつかそういう人と出会うかもしれない」
「……でも、マキノたちより好きなヤツができるなんて考えられない」
「別に比べなくたっていいのよ」
 
 
家族は比べられるものじゃないから、とマキノは微笑んだ。
 
 
「家族とはまた別に、一緒にいたいと思うのよ」
「……でも、その人と一緒にいたら、サボやルフィと一緒にいられないじゃん」
「そうよ」
 
 
思わずマキノがはっきりとそう言ったので、アンはついマキノの目をまっすぐ捉えてしまった。
マキノのほうも、アンを強く見据えている。
こうも至近距離で目が合うと、その視線の力が強ければ強いほど目線を外せなくなる。
 
 
「そのときは選ばなくちゃいけないわ。アンがどっちと一緒にいたいのか」
「さっき比べるものじゃないって言ったのに」
「比べるのと選ぶのは別よ。同じくらいの「好き」は許されるけど、両方と都合よく一緒にはいられないから」
 
 
これは誰だってそうなのよ、とマキノは静かに、少し悲しそうにも聞こえる声で言った。
アンはマキノの視線から逃げるようにもぞもぞと姿勢を変え、枕に顔を突っ伏した。
 
 
「……それならあたしは恋なんていらないよ」
「いつかわかるわ」
 
 
話しこんじゃったわね、とマキノが姿勢を変える気配がした。
 
 
「明日は何時に起こそうか? ルフィと一緒に起きる?」
「うん」
「そう、じゃあおやすみなさい」
「おやすみ……」
 
 
それきり、しんとした静けさが部屋に充満した。
目を閉じると、シーツから香る花のにおいがより一層感じられた。
隣で眠るマキノの、懐かしさを感じるような人のにおいもする。
マキノはずっとこういう話をあたしとしたかったのかもしれない。
そう思いながらうとうとと夢とうつつをさまよい、いつの間にかすうっと落ちるように寝入っていた。
 
 
 

 
翌朝は、マキノの元気な声でたたき起こされた。
 
 
「ほらほら、もうサボもルフィも起きてるわよ!」
「んぅ」
「まったく、相変わらず目覚めが悪いわね!朝ご飯できてるんだから、早くいらっしゃい!」
 
 
夜の仕事をしているというのに、朝からマキノは元気だ。
アンたちのせいで間違いなくいつもより早起きをしてくれたはずなのに、その疲れを微塵も見せない。
アンはもぞもぞと起き上りながら、窓から差し込む朝日の光の筋に目を細めた。
 
マキノは朝からしっかりと食事を作ってくれ、ルフィのお弁当まで用意してくれた。
ルフィが学校へ向かう時間に合わせて、サボとアンもマキノの家を出ることにした。
 
 
「ルフィあなた制服はどうするの?」
「いいよそんなの」
 
 
いいわけがないのだが、きっと学校に置いてあるジャージか何かでやりすごすのかもしれない。
それくらい堂々とやってしまう程度にルフィが異端子であるのは、容易く想像がついた。
それじゃあ、と3人は店の入り口に立ってマキノにお礼と別れを告げる。
マキノは最後まで笑顔でアンたちの見送りに立ったが、不意に真剣さを目の奥に光らせてアンたち3人を見た。
 
 
「何も用事がなくても、たまにはこうやってうちにいらっしゃい。たいしたことじゃなくても、話をするだけでいいから。何があっても、私はあなたたちの味方よ」
 
 
つんとする刺激が鼻の奥を刺激した。
しかしそれよりも、思わぬ言葉がアンの口をついていた。
 
 
「──もしあたしが、捕まるような悪いことしても?」
 
 
隣でサボが目を瞠ってアンを見下ろした。
マキノはきょとんとアンを見つめ返してから、深くしっかりと頷いた。
 
 
「そのときは私が一番に叱ってあげるんだから!」
 
 
アンは眉をしならせながら、不恰好な笑顔を作った。
マキノは夏の花のような笑顔で、アンたちに手を振った。
3人は手を振りかえして、何度もその顔を振り返りながら、マキノの家を後にした。
 
ルフィはマキノの家を出て比較的すぐに、サボとアンの二人と別れて学校へと向かった。
教科書が入っているはずのカバンすら持たず、マキノが作ってくれた弁当だけを手に持ち、しかも私服で堂々と学校へ行くルフィをあたしたちはこうして見送っていいのだろうか、と言う話題でしばらくサボと話が続いた。
しばらくして話が途切れたところで、サボが不意に「行ってよかったな、マキノのところ」と呟いた。
アンもすぐさま頷く。
彼女はいつだって、サボやルフィとは別の意味でアンの指針となってくれる。
サボにとっても、ルフィにとってもそうなのだろう。
姉であり母であるマキノは、きっと彼女が自覚している以上に3人にとってかけがえのない人だ。
 
 
サボと二人、考えなしに大通りに合流して家へ向かってぶらぶら朝の道を歩いた。
すると、すれちがいかけた男がひとり、「あ!」と声をかけて二人に走り寄って来た。
おたおたとがに股で走るそのおじさんは、アンたちの店の常連の一人だ。
 
 
「なんだよ二人とも!珍しく土曜日に休みだと思ってたら、今日まで開いてないもんだからてっきり誰かが身体でも壊してたのかと」
「あ、ごめん。ちょっとあたしが体調悪くって」
「あ、ほんとにそうだったの」
 
 
心配げにアンの顔を覗き込むその男に、アンとサボは揃って何度もうなずいた。
そして「ごめんなさい」と慇懃に頭を下げる。
 
 
「ちょっと知り合いのところで療養してたんだ」
 
 
まんざら嘘でもないサボのセリフをすっかり信じて、男はそうかそうかと納得した。
 
 
「でも明日は開くだろう?」
「うん、もう大丈夫」
「ああよかった。こんなに長い間アンちゃんの朝飯食わないなんて耐えられないよ」
 
 
よかったよかった、と男はにこやかに立ち去った。
アンがサボの顔を黙って見上げると、同じタイミングでサボもアンを見下ろした。
 
 
「大通りは……あんまり通らない方がいいかもね」
「そんなこといったって、うちはこの通り沿いだぞ」
 
 
この道を通らずに家へ辿りつく方法はない。
アンたちは覚悟を決めて大通りを南へと下り続けた。
何度も常連たちに捕まり、時には責めと心配の混じった言葉を貰っては先の言い訳を繰り返す、というなんとも疲れることを繰り返して、アンとサボはやっとのことで家へと帰ったのだった。
 
 
翌日の火曜日は、常連さんたちとの約束通り店を開いた。
そっと顔を覗かせるように中を見やる客たちは、デリが営業していることを確認すると誰もがそろって安堵の表情を浮かべた。
臨時休業の理由はアンの体調不良、ということにしてあったので、そのうわさは昨日の間でまたたく間に常連たちの間に広まったらしく、アンにお土産や良治の品を持ってくる客さえいた。
アンはありがたく受け取って、お礼とお詫びを兼ねて彼らの料理にこっそり小さなおまけをつけたりする。
「特別だよ」と言って笑うと、その特別が誰もに平等に与えられるものだと知りながら、それでも常連客達は嬉しそうにした。
ああこの感じはあたしもすきだ、とアンは先日のマキノの言葉を思い出しながら、客たちに素直な笑顔を見せることができた。
 
 
「行ってくる!」
「行ってらっしゃい!」
 
 
今日も大合唱で学校へ向かうルフィを見送る。
戻って来たなんでもない日常に安心した。
サボも同じようで、その目にはいつものように穏やかな色が浮かんでいる。
それでもアンの耳には、時計の針の音がどこからともなく聞こえていた。
正しく時を打つその小さな響きは、アンの神経を爪の先でひっかくように気に障る。
耳を塞いでもその音は途切れず、目を閉じるとより鮮明に、頭の中で鳴りつづける針の音。
アンが行きつく先があるとすれば、そこまでの所要時間が数えられるほどになったことをアンに知らせる音だった。
 
 
 

 
先日手に入れた髪飾りは、その日やってきたラフィットの手に預けた。
「たぶん違うと思う」とぶっきらぼうに言うアンにラフィットは一切の感情を見せず、「一応こちらでもしっかり調べます」と言って、いつものアタッシュケースをひとつアンに差し出した。
黒ひげに手渡される金は、サボのバイクを買って以来使い道がなく貯め続けている。
その額はいつの間にか、小さな敷地を買って家を建てられる程度には膨れ上がっていた。
 
父さんと母さんが残した莫大な遺産。
丘の上のあの屋敷。
この店。
そしてこの金。
 
アンには未来のための着実な貯蓄が必要だった。
ラフィットが軽く帽子を上げて「それでは」と踵を返す。
 
 
「ちょっと待って」
 
 
足を止めたラフィットは、ほんの少し疑問を浮かべた顔をアンに向けた。
アンから呼び止めることは今までなかったはずだ。
 
 
「頼みがあるんだけど」
 
 
ラフィットは少し考えるように動きを静止したままアンを見つめ、「いつ迎えに上がりましょう」と訊いた。
 
 
「明日、夜8時。あたしが頼んだことはふたりには言わないで」
「わかりました、明日夜8時にまいりましょう」
 
 
ラフィットはアンの背後から通じる住居のほうへとちらりと視線を走らせた。
サボはもう裏へと引っ込んで、いつものように仕入れの確認をしている。
アンは頷いた。
片手に提げたアタッシュケースがずしりと重かった。


拍手[10回]

 
 
予定の時刻を30秒過ぎてアンがやきもきとしていたそのとき、予想以上に大きなざわめきが美術館の正面から昇った。
わあわあと聞こえる声は入り乱れぶつかって、まともな形を成さずにアンの耳に届いてくる。
その音量から、警察の人数が予想より多そうであることを感じた。
アンは濃い青の制帽を目深に被り直して、小さく駆けだした。
 
美術館の門衛は、小さな制服警官を目に留めたもののすぐに視線を外し、壁をよじ登る『エース』の背中を唖然と見上げていた。
アンの頭には大きすぎる制帽は顔を隠すにはちょうど良いがどこか不似合いで、警備隊内部に精通する少し上の地位のものに見咎められればすぐにも怪しまれる。
それが今回の作戦の一番の危険だったが、アンが今目の前を通り過ぎた門衛はまるで疑う素振りも見せなかった。
アンが着込んだ制服は、私立の警備会社のそれだ。
警官である門衛は、警備隊の人事まで把握はしていないらしく、アンはこれ幸いとエースの真下へと集まる人の波に沿って館へと近づいた。
エースが衆目にさらされた今、警官の出入りのために美術館の扉は片方だけだが完全に開かれており、アンは何ら障害もなく館内へと入り込むことができた。
赤い絨毯の広がる一階フロア内は外部ほど警備が多くなく、エースのダミーが位置する3階とエースを直接見ることのできる正面玄関側へと人手が分かれているためらしかった。
アンはさっと扉のわきに体をずらし、下っ端警備のふりをしてとりあえず状況確認をする。
 
今単体で上階に登るのはマズイ。
目立つし、見咎められたら逃げ場がない。
エースのダミーはまだ館内に入っていないのか。
焦りが冷たい汗となって、制服の背中をじっとりと濡らした。
 
突如、ざわっとひときわ大きなざわめきが上がった。
ダミーが館内に入り込んだようだ。
いくつかの足音が外から聞こえてくる。
1階フロアで所在なさ気にうろついていた数名が、外で上がったざわめきと足音に好奇心を剥きだして上階へ続く階段や正面玄関をちらちら眺めていた。
外から聞こえた足音の正体が、アンのわきの正面玄関から入り込んできた。
5名ほどの警官隊が連絡を受けたのか、階段へと一目散に走っていく。
アンは通り過ぎる彼らを横目で眺めて、その最後尾にさっと横入りした。
ざかざかと床をこするいくつもの革靴の一番後ろを、アンは音もなくついていく。
その小さな団体に紛れて、アンは一気に3階まで昇った。
 
3階はさながら閉じ込められた戦場のようだった。
煌々と士気をみなぎらせた制服警官と、異様に鋭い目つきの私服警官たち、そしてアンと同じ服装の私立警備隊が各々周りが目に入っていない様子で走り回っている。
4階に続く階段から、何人かが慌ててアンのいる3階へと降りてくる。
この階段からそのまま4階へ行っては、警官たちの流れを逆走してしまう。
アンはそっと警備隊のかたまりから離れ、右往左往する人の間を縫うように、館の反対側へと足早に進んだ。
 
俯いて歩くと逆に目立つ、堂々としていろと黒ひげは言ったが、どうしても顔は下がってしまう。
アンは自分のつま先の1メートルほど先ばかりを見て歩いた。
 
辺りの様子をうかがうために、アンはちらりと視線を上げる。
アンを気に留めるものなど一人もおらず、アンは誰一人に声をかけられることもましてや視線を留められた様子さえなく、拍子抜けするほどアンはするすると人の波を通り抜ける。
しかし、ちょうど道のりを半分ほど進んだ時、アンの心がひゅっ遠くへ引っ込むように尻込んだ。
目線を上げたその先に、マルコがいた。
明るくない館内の中で、マルコは苛立たしげに無線機のようなものに喋りかけている。
その声までは届かなかったが、マルコの顔色は土気色に近い、とても健康的とは言えないもので。
アンはぎゅっと拳に力を入れて、マルコの3メートルほど隣を通り過ぎた。
力を入れないと、足が止まってしまいそうだった。
マルコはまるでアンの存在に気付かずに、マルコのほうもアンから遠ざかっていった。
 

 
目的の館の最果てまで辿りついた。
既にここは人気がない。
ほとんどの人出が、ダミーが到達すると予測される部屋へと出払っているのだ。
アンは薄暗い非常階段をゆっくりと上った。
 
髪飾りの保管室は、アンが今いる非常階段の近くだ。
きっとここから2部屋先。
アンは階段の最後の段に足を乗せたまま、そっと首だけを壁から覗かせた。
 
思ったより近くに、2人の警官が間隔を置いて立っていた。
黒ひげに聞いていた通り、すばらしくガタイのよい男たちだ。
アンの横幅二人分はあるだろう。
アンは知らず知らずのうちに、ごくんと生唾を飲み込んでいた。
行くしかない、勢いあるのみ。
アンはだっと駆け出した。
 
ぎょっと身を引いた二人の警官の前に走り込んだアンは、目深に被った帽子の下で懸命に低い声を引っ張り出して喚いた。
 
 
「3階フロアにエースが入り込んだ!!暴れていて取り押さえられないんだ、援助に回ってくれ、警視長が呼んでいる!」
「なっ」
 
 
アンの頭上高くで二人の男が同時に息を呑み、ひとりはすぐさまアンが来た方とは反対の階段に向かって走り出した。
もうひとりも走り出した一人に釣られるように足を踏み出した。
だが、気付かず走り去って行くひとりと違ってその男は怪訝に足を止めた。
 
 
「……マルコ警視長からの連絡なら無線から……」
 
 
アンは男の顎に向かって、固めた拳を突き上げた。
ガツンと堅い衝撃が右手から痺れるように腕全体に広がった。
その衝撃のせいで緩んだアンの指の隙間から、ぽとりと小さな注射器が零れ落ちる。
顎への奇襲によって頭を後ろへ逸らせた男は、そのままよろよろと1,2歩後ろへ下がると、ずるんと滑り落ちるようにその場に倒れた。
 
アンは未だじんじんと疼く右手の拳を左手で包んで、荒い呼吸を何度か繰り返した。
黙って訝しがらずに行ってくれたらよかったのに。
落とした注射器を拾ってポーチにしまい込む。
それと引き換えるに、革製の筆箱のようなものを取りだした。
扉の鍵を開けなければならない。
倒れた男をまたいで扉に近づく。
アンは何度も練習した手順を口の中で唱えながら、保管室の鉤に細い器具を差し込んだ。
 
保管室はいつかのコレクションルームと違い、埃臭さより真新しいワックスの匂いが鼻についた。
アンは中に滑り込んで、まず手前の壁に背中を張り付けた。
部屋中に張り巡らされた赤外線の配線図は頭の中に入っている。
ただ、現実は平面のようにはいかない。
アンはほとんどを勘に頼りながら赤外線の網を避けて、部屋の隅まで辿りついた。
そして、電気のスイッチのような小さな突起を指で押し下げる。
ぶぅん、と小さな電子音が響いて、赤外線のスイッチが切れた。
 
街に古くからあるこの美術館の設計は現代的とはいいがたく、赤外線セキュリティがあるのはこの部屋だけだ。
だからスイッチもまるで灯りをつけるようにオンオフが手動で出来るのだ。
知らなければ最大の難所である赤外線も、情報さえあれば簡単に突破できる。
アンは部屋の隅から堂々と部屋の中心、小さなガラスケースへと歩いた。
 
今度こそ、本物でありますように。
髪飾りは薄暗い部屋の中でも濡れたように赤く光っている。
 
ピッキングと同じ要領で、ガラスケースは開けることができる。
しかしそうしてケースを持ち上げた瞬間、セキュリティシステムが作動して警備室に知らされてしまうので、安易にそれはできない。
アンはまた、ごそごそとポーチの中を探った。
小さなサーチライトを取り出した。
黒ひげに使い方を教わったら夢にまで出てきた小道具だ。
 
普通のライトのスイッチを入れるように、突起部分を時計回りに回す。
そしてライトたる部分を、軽くガラスケースに押し付けた。
しばらくすると、ガラスが溶ける湿った音とともに、つんと変わったにおいが鼻についた。
溶けたガラスはちょうどアンの拳が入るほど。
アンはそっと手を差し込んで、髪飾りを取り出した。
今すぐに髪飾りを隅々まで眺めて、本物に掘られているという母さんの名前を探したかったが、ぐっと堪えてアンはそれを子道具入れとは別のポーチに仕舞い、何も入っていない側のズボンのポケットに押し込んだ。
よし、あとは逃げるのみ。
 
そっと部屋のドアから外の様子をうかがう。
相変わらず足元には男が倒れており、人気はない。
それもおかしな話だな、と思いながらもアンにとっては好都合、そそくさと非常階段へと走り去った。
 
 
階下は行き来たときより雑然として、アンは単体一直線で玄関まで淡々と進むことができた。
美術館の表庭は館内以上の混乱をきたしているようで、蜂の子を散らしたような騒ぎになっていた。
アンは玄関ポーチを足早に駆け下りて、まっすぐに正門に向かう。
 
「本物のエースが別にいたのか!?」
「偽物が逃げたっていのは本当かよ」
「外部のどこを見張ればいいんだ!」
「おい警備隊は勝手に動くな、邪魔だ!!」
 
いくつもの怒鳴り声や金切り声がアンの頭上を通り過ぎぶつかり合う。
予想以上のパニックになっている。
情報も錯綜しているようだ。
アンのわきを2人の警備隊員が走り去る。
正門を出て左に曲がる彼らに紛れて、アンは静かに美術館からの脱走に成功した。
 
 
ふたりの警備員は、美術館の角までやってくると館の塀に沿うように角を曲がったが、アンはそれを見送って一人走り出した。
ここからまっすぐ走れば、住宅を抜けて大通りに出られる。
そこに黒ひげの車があるはずだ。
アンは帽子を落とさないようぐっと深く頭に押し付けてスピードを上げた。
黒ひげは危険を承知でアンと住宅街でおちあうことを提案したが、それでは警察が追いかけてきた際逃走劇になる確率が非常に高いのも事実、と懸念していた。
だからアンは、自分が大通りまで走るからいいと言った。
脚には自信があるから、と。
 
冷たい夜風を切りながら、目の前の大通りがどんどん近づいてくる。
大通りに合流するとすぐ、右側の道端にワゴンのようないつもの逃走車とはタイプの違う車が停まっていた。
フロントガラスの向こうで、運転席に座る男が頷く。
アンが素早く車に近づくと、扉が内側から開いた。
中に滑り込んで、丁寧に、静かに扉を閉める。
 
 
「上手くいったか」
 
 
頷いた。
男はバックミラーでアンの仕草を確かめて、静かにアクセルを踏み込んだ。
 
 
「通りを北に行ったところで検問がある。迂回するぞ」
 
 
車はじりじりと、アンがあせるほどゆっくりと大通りを歩くように動いていく。
 
 
「ねぇ、もっと急いだら」
「追ってにエンジン音を聞かれたらまずい。大丈夫だ、突破するときは突破するし策は打ってある」
「策って」
 
 
不意に、パァンとけたたましい破裂音が一つ、夜空に響いた。
足踏みのような小さな動きで車が停まる。
 
 
「……なに?」
「これが策ってやつだ。掴まれ、突破するぞ」
 
 
なにがなんだかわからないが、とりあえずアンは言われた通り後部座席から助手席のヘッドレストに捕まった。
窓の外にそっと目を走らせたが、夜である上にスモークガラスが邪魔をしてよく見えない。
ぐん、とアンの胸を突くように圧力がかかり、車が獣の唸り声のようなモーター音を出して走り出した。
 
 
「伏せろ!」
 
 
運転席の男が叫ぶ。
アンがその声を聞いた瞬間、後部座席左側の窓ガラスが弾け飛んだ。
咄嗟に身を伏せたが、うつ伏せのアンの上に割れたガラスがぱらぱらと落ちてくる。
ちくっとした痛みが後ろ首をかすめた。
車は猛烈なスピードでその場を離れている。
ちっと男の舌打ちが響いた。
 
 
「マルコか」
 
 
アンは顔を上げて、首筋にかかったガラスの粉を掃った。
今のは、マルコが撃ったの?
 
 
「おい大丈夫か」
「平気」
「この車は乗り捨ての普通車だからな、防弾ガラスじゃねぇんだ」
 
 
だから悪かった、とでも言うのか。
アンは後ろを振り返った。
追っ手がやってくる様子はない。
 
 
「……なんで追ってこないの」
「道に釘をばらまいてある。サツの車はパンクして使い物にならねぇだろうよ。だいぶ足止めになるからな」
 
 
それより、と男は少し先を見るように背筋を伸ばした。
 
 
「明るくなる前に車の乗り捨て場所まで急ぐが、お前どこまで一緒に行く」
 
 
アンはつと自分の姿を見下ろした。
この格好はいくら人目がなくても目立つ。
 
 
「脱ぐから適当にその辺で降ろして」
 
 
そう言うと、アンはおもむろに警備隊の制服を脱ぎ始めた。
男はバックミラーにちらりと目をやって、何事もないように車を走らせつづけた。
固い制服を脱いでTシャツ一枚になり、ズボンにくっついていた細々としたおもちゃのような無線機を取り外す。
下の替えはないので仕方ない。
車はちょうどアンの家まであと50メートルほどのところまでやってきていた。
 
 
「ここで降ろして」
「服は置いて行っていい。髪飾りはお前が持って行け。おれが運ぶより安全だ」
「わかった」
 
 
アンは左のポケットにあるふくらみを確認して、扉を開けた。
身体を外に出し静かにドアを閉めると、車はぐっとスピードを出してすぐに角を曲がり、アンの前から姿を消した。
アンは煌々と街灯の光る歩道を横切って、自宅のドアに手をかけた。
帰ってこれた。
 
 

 
Tシャツを脱ぐと、ぱらりとガラスの粉が足元に落ちたので、慌ててそれらを拾い、粉を落とさないよう気を配りながらそれを丸めてゴミ箱に突っ込んだ。
襟首のところに、後ろ首から流れた血が少し滲んでいた。
破片がかすった程度だったので、痛みはそれほどない。
ズボンも脱いで、自分の、比較的楽なものに履き替える。
ガチャリとドアが開いた。
 
 
「あ、着替えてた」
「うん、もう風呂は明日」
 
 
ルフィは、上半身下着姿で替えのTシャツをクローゼットから引っ張り出すアンの背後に歩み寄ると、どんと腰を下ろした。
アンは自然な仕草で、長い髪を後ろに払う。
もぞもぞと服にそでを通しながら、アンは後ろを振り返った。
 
 
「なに、どうしたの」
「そのTシャツ捨てんのか?」
 
 
ルフィの視線はゴミ箱を捉えていた。
あぁ、うんと曖昧にアンは頷く。
 
 
「ちょっと汚れちゃって」
「洗えばいいのに」
「取れそうにないから」
「フーン、珍しいな。アンが物捨てんの」
 
 
そうだね、と言いながらアンは立ち上がった。
ルフィはふわあと欠伸を漏らす。
 
 
「アンタももう寝るんでしょ」
「うん、ねみぃ」
「起きて待ってなくてもいいのに」
「いいんだ、それは」
 
 
サボもまだ起きてる、とルフィは立ち上がった。
 
 
「バンソウコウ、持ってこようか?」
「え?」
 
 
アンは咄嗟に首すじに手をやっていた。
その仕草を、ルフィはきょとんと眺める。
 
 
「……い、らないよ」
「そうか、じゃあ寝るぞ」
 
 
カチッ、と小さな音ともに灯りを落とした。
隣の寝室に入る。
サボはまだいない。
ルフィはすぐさま真ん中のベッドに倒れ込んだが、アンは左右に首を振ってサボを探した。
いない。
 
 
「サボは?」
 
 
ぐおぉ、と唸り声が返事をした。
もう寝てるし、とアンは呆れて真ん中のベッドに歩み寄った。
 
 
「ほら、腹冷えるんだからちゃんと布団着て」
「んんー……」
 
 
ばさりとルフィの上にかぶせた布団を、ルフィは器用に身体に巻き付けた。
アンはすとんとその隣、自分のベッドに腰を下ろす。
音もなく寝室にサボが入って来た。
 
 
「なんだ、もうこっちにいたんだ」
「ごめん、探してたの?」
「いや、いいんだ」
 
 
はわあああ、と声を上げてサボは大きな欠伸をする。
アンは窓の外に目をやった。
まだ空は暗いが、じきに朝がやってくる。
 
 
「今日は休業で明日は日曜だから、ちょうど2連休になるな」
 
 
サボは自分のベッドに這い上がりながら、どこか嬉しそうにそう言った。
そうだね、とアンも答える。
 
 
「どこか行こうか」
「どこかって、どこに?」
 
 
サボがバタンと体を横たえたので、アンも同じように身体を倒した。
 
 
「それは……また、あした、決めれば……」
 
 
はわあああ、とまた欠伸が聞こえた。
そうだね、と同じ返事をする。
 
 
「おやすみ……」
「おやすみ」
 
 
そのまま、サボはすぅと落ちるように寝入ったようだった。
アンは少し顔を上げて、並ぶ二人の顔を見比べる。
ふたりとも少し口を開けたまま、すぅすぅと健やかな寝息を立てていた。
疲れているんだな、と思った。
ルフィも、サボも、あたしも。
 
アンはそっと毛布を引き寄せながら、二人に背中を向けてブラインドのかかった窓を見つめた。
そろそろ考えなければいけない。
アンがいない、ふたりの未来を。
 
 
 

 
鍵はずっと、アンが持っていた。
街の東南の果てへと続くゆるやかな坂道を、3人分の足音が昇っていく。
中心街の喧騒はずっと遠くの下の方へと離れ、辺りは静かだ。
車がなければ生活できないような辺鄙な土地に、その家はあった。
アンたち3人は丘のふもとでバスを降り、長く続く坂を延々と上った。
徐々にその家の屋根、外壁、そして門構えと全貌が見えてくる。
一般家屋とはいいがたいその「屋敷」は、アンが人生の最初の半分を過ごした場所だ。
アンは坂を上る途中で、羽織ってきたカーディガンを一枚脱いだ。
大仰な門構えが目の前に迫ったときには、既に額が汗で濡れる程でもあった。
 
 
「思ったより、遠かったな……」
 
 
サボも、ふぅと息をついている。
ルフィだけが元気に、さっさと門へと走り寄って行った。
 
 
「この塀の上! よく3人で走ったよな!」
 
 
ルフィが家をぐるりと囲む塀を指さして大きく笑う。
つられて、アンとサボも顔に笑みをのせた。
絡まり合うような3つの甲高い声が、聞こえる気がした。
 
 
あらゆる花木が美しく繁茂していた庭は、今や小さな林のように無造作な緑一色になっていた。
広い庭は、知らない場所のように片付いて殺風景だ。
門の中に足を踏み入れた3人は、その光景をただじっと眺め渡していた。
小さなバケツも、赤いスコップも、3つの水鉄砲も、こっそり掘った宝物入れの穴も何もない。
アンは顔をのけ反らせるほど上を仰いで、屋敷の全貌を視界に収めた。
これがあたしの家だったなんて、嘘みたいだ。
 
昔の家へ行ってみようと言い出したのはアンだった。
暇を持て余して日曜を過ごすほど、3人とも出不精ではない。
むしろその逆、時間を勿体なく感じて仕方がない。
ではどうすると考えるものの、特に3人とも思い当たる行くべき場所もない。
そう広いわけでもないこの場所で、特にめぼしい場所もなかった。
だから、アンがあっと思いついた最初の案は、「ダダンの家に行ってみよう」というものだった。
 
 
「最近会ってないしさ、たまには顔見に行くのもいいんじゃない」
「えぇぇ、ダダンの?」
 
 
ルフィは顔をくしゃっとしかめたものの、それほど嫌なわけではないのだろう。
「絶対ェクソガキって言われるな」とすぐににしゃりと笑いだした。
そこでふと、思ったのだ。
どうせ昔の家へ行くのなら、本当の昔、アンたちの「本当」の家へと行ってみたらどうかと。
それを口に出してみると、ルフィは「あぁ」と至極普通に相槌を打ったが、サボが微かに眉根を寄せた。
 
 
「今まで、一度も行ったことないな」
「うん」
 
 
いいのか、とサボの目線が問うていた。
鍵はずっと、開けることのない引き出しの中にしまってある。
 
 
「ずっと、行かなきゃいけないと思ってた」
 
 
アンが食卓をはさんで向かいに座るサボの手元に視線を落としてそう言うと、ルフィが「すげぇ、何年ぶりだ?」とさっそくわくわくした声を出した。
そうして翌日、この屋敷へと赴くことが決まった。
 
 
屋敷の外壁はひび割れこそないものの蔦が這い、雨に打たれて色は風化していた。
朱色の屋根は薄黒くくすんで、まるで廃屋。
大きな扉はチョコレートの板のように深い茶色で、水を含んだ重たい木の色をしていた。
アンはその扉の金色の鍵穴に、そっと鍵を差し込んだ。
ガチャン、と何かを隔てるような重々しい音が響いて錠前が開いた。
 
重たい扉を両手で開けて中に踏み入った3人は、予想を裏切る家の中の様子に唖然として立ち尽くした。
埃臭く、濁った色に汚れ、蜘蛛の巣の張り巡らされた薄汚い屋内の想像と、現実はまったく反対だった。
薄茶色のフローリングはまるでワックスをかけたばかりのように、薄暗い中でもきらりと光っており、いくつか残っている下駄箱やローテーブルなどの調度品も埃ひとつ被ってはいない。
ローテーブルの上に置いてある大きな花瓶に花こそ生けられていないものの、そうであってもおかしくはなかった。
それほどに、磨かれていた。
 
 
「なんだ、めちゃくちゃキレイだ」
 
 
ルフィがぽかんと口を開けて言う。
アンもこくりと頷いた。
サボが一歩足を踏み出すと、木の床が微かに軋んだ。
 
 
「誰かが、掃除してくれてたのか……?」
 
 
サボは一通り周りを見渡してから、アンに尋ねるように向き直った。
アンは「わからない」と首をかしげる。
ダダンの家に住むようになって、そして今の家に住むようになってから、一度もここへ来たことはない。
定期的な掃除を誰かに頼んだ覚えも、そんな話も聞いたことはなかった。
 
 
「じぃちゃんかな」
 
 
ポツリとアンが呟くと、ルフィが顔をしかめて「それはねぇ」と言う。
 
 
「じぃちゃんがわざわざそんなことするかよ」
「でも、誰かに頼んでおいてくれたのかもしれないぞ」
 
 
ありえる、とアンはピカピカの壁に手を触れながら頷いた。
しかし、ルフィのじぃちゃんが人に頼んでくれていたなら、その旨をアンたちに伝えてくれていてもおかしくない。
そもそも、じぃちゃんは今この街にいない。自分の目の届かないところで見ず知らずの人間をアンたちの家に勝手に上げるような真似をするような人ではない。
無骨で乱暴だが、繊細でもあるのだ、あの人は。
 
あっ、とルフィが声を上げた。
 
 
「マキノじゃねぇか!? じぃちゃんが、マキノに頼んでくれていたのかも」
「あぁ、なるほど」
 
 
サボも合点した様子で頷いた。アンもそれがいちばんもっともらしいかも、と思う。
マキノは、ダダンの家の近くで小さな酒屋を営む若き女店主だ。
ダダンに放置されて無法図に育っていく3人を、かろうじて常道へと収めさせてくれていたのが彼女だった。
優しくて、温かくて、母代りには年若すぎるが頼りになる美しい姉。
3人とも、マキノが大好きだ。
 
 
「でももしそうだとしたら、こんな遠くまでこの広い家、掃除してくれてたなんて……しかもそれ、今まで知らなかった」
「じゃあここの帰りに、久しぶりにマキノの店に寄ろう。もしマキノが掃除してくれていたなら礼を言わなきゃだし、そうじゃなくても何か知ってるかもしれない」
 
 
そうしようそうしよう、とルフィが一二もなく賛同した。
口元が緩んでいるところを見ると、何かマキノの作る料理を期待しているに違いない。
ただアンも、久しく会っていないただ一人の姉の姿を思い浮かべて、すこしだけふわりと心が浮かんだ。
 
 
 
3人は長くて広い廊下を進んで、リビングへと足を踏み入れた。
ソファも、机の配置も、食卓のテーブルも、本棚も、すべてがそのままだった。
廊下と同じように、どこもかしこも埃をかぶっている様子はない。
室内の空気が多少こもっているくらいで、埃臭さや息苦しささえなかった。
しかし部屋に入りリビングの全貌を視界に収めたその瞬間、眩暈のように頭が強く揺さぶられ、頭の内側から流れ出す映像がとめどなくアンを襲った。
 
父さんがソファでだらしなく寝そべっている。
ルフィが床に座り込んで、おもちゃの電車を超高速で走らせる。
サボがそれを笑って覗き込む。
アン自身もその手に自分の電車を持っていた。
ルフィに張り合って線路の上を走らせる。
いつも開いたままだった大きな窓から、庭を吹き抜ける風が家の中を通りすぎた。
食事の匂いが身体を包んだ。
ごはんの前に手を洗ってらっしゃい、と左側から声がした。
そっちはキッチンだ。
エプロンを閉めた母さんが、振り返って微笑んだ。
ガツン、と頭の内側から石がぶつけられたように痛んだ。
「う、」と小さく呻くと、がしりと肩を掴まれる。
 
 
「アン、大丈夫か」
 
 
大人びたサボの声は全てを現実に引き戻した。
過去の記憶は霧散して消えていく。
大いびきをかくソファの上の父さんも、小さな手に電車を握るルフィも、サボも、自分自身も、振り返る母さんの笑顔も。
 
 
どうしてだれも、ここにはいないの?
 
 
「アン!!」
 
 
いつのまにか、自分のつま先がものすごく近くにあった。
しゃがみこんでいた。
そのまま前に視線を遣ると、食卓のテーブルの脚が林立する景色が視界に現れた。
ここは、アンたち3人のささやかな隠れ家だった。
大人の視界から隠れた3人だけの世界。
あの日、父さんも母さんも帰ってこなかったあの日、アンたち3人はこのテーブルの下にいた。
いつまで経っても帰ってこないふたりをここで待っていた。
突然上がりこんできた大勢の足音を、ここで聞いた。
 
背中全体を守られるような温度がアンを包んだが、それでも頭はクラクラと常に揺れ、視界はチカチカと白や緑の光にまたたく。
胃がぐっと上に持ち上がる、堪えがたい不快感が胸と喉元に広がる。
咄嗟に口元を押さえた。
強く目を瞑った。
不意に、背中を包むものとは別の温度が、しゃがみ込むアンの前方を包んだ。
そのぬくもりにほんのかすかに気が緩んだ時、ふわりと体が浮かぶ。
小さな子供がされるように前からアンを抱き上げたのは、ルフィだ。
細い肩はしっかりとアンを抱えて、淀みなくソファへと歩いていく。
アンは背中からソファの柔らかい生地に迎えられた。
サボの呆れ混じりのため息が聞こえた。
 
 
「いきなり動かして、吐きたくなったらどうすんだ」
「そしたら吐けばいいんだ。おれ『吐く』ってどんな感じかしらねぇけど」
 
 
だいじょうぶか、へいきか、とルフィはアンの顔を見下ろすように覗き込んだ。
目を開けると、至近距離にあるルフィの顔の後ろに高い天井が見えた。
視界はもうチカチカしていない。
だいじょうぶ、とアンは自身の手の甲を額に当てながら呟いた。
 
 
「ごめん、ちょっと……」
「いい、無理しなくていいんだ。今日はもう帰ろう」
 
 
ごめんな、とサボはアンの手を取って、強く握った。
頭が重たくて、喉も狭くなって、どうして謝るのとは訊けなかった。
 
 

 
サボはこのまますぐ帰ろうと言ったが、アンは「マキノにだけは会いに行きたい」と言った。
サボは心配げに眉根を寄せたが、もう本当に平気だから、とアンが笑うとサボは「じゃあマキノの家で休ませてもらおう」と言った。
ルフィは変わらず、マキノに会えるのでうれしそうにしている。
 
ソファから立ち上がると少し足元がふらついたが、歩けないほどではない。
アンはルフィとサボに挟まれて、屋敷を後にした。
しっかりと鍵をかけ、門を閉じる。
長い長い坂は、行きよりも短く感じた。
 
 
マキノの家は街の北東エリア、あまり治安がいいとは言えない場所にある。
しかし酒屋として生計を立てるならばそれくらいの治安でなければ儲からないのかもしれない。
実際マキノはそこで、果敢に店主を続けている。
アンたちは坂を下りて、またバスを拾った。
バスはマキノの店のすぐそばでアンたちを降ろす。
時刻は昼過ぎ、ルフィの腹が屋敷を出たあたりからうるさい。
 
マキノに訪問の連絡は入れていなかった。
買い物中などでなければ店にいないということはないだろうが、突然の訪問に驚くことは間違いない。
それが迷惑であると感じるような人ではないことを、アンたちは知っている。
店は準備中だったが、鍵は開いていた。
古い木の扉を開けると、ほの暗い店内の奥から「いらっしゃい」と闊達な声が聞こえた。
 
 
「ごめんなさい、いま、準備ちゅ、う……」
「マキノ」
 
 
マキノは目いっぱい背伸びをして、プルプルと足元を震わせながら、高い棚にある酒瓶を取ろうと手を伸ばしている最中だった。
アンの呼びかけに、震えていた身体がぴたりと止まる。
パッと振り向いた顔は、予想通り驚きに満ちていた。
 
 
「あなたたち……!!」
「マキノー!腹減った、なんか作ってくれ!!」
 
 
準備中の店内に他の客がいないからいいものの、ルフィはひとりでがやがやとカウンターまで歩いていく。
マキノは初めこそ目を丸めて驚いたものの、すぐに破顔してみせた。
 
 
「おどろいた、久しぶりね。あなたたち全然来ないんだから」
「ごめん、最近忙しくて。マキノもだろ?」
 
 
サボの言葉に、マキノは細い眉を少し寄せたまま笑って頷いた。
 
 
「順調みたいね。うわさは聞いてるわ。私も店がなかったらすぐに行きたいんだけど」
「いいよ、マキノの店が開かないと困る人が多いだろ」
 
 
それよりさ、とサボはちらりと横に目を走らせた。
マキノがその視線に引っ張られて、アンの方に目をやる。
そしてすぐ、白い額にいくつか皺を作った。
 
 
「アン、あなた、ひどい顔」
「ちょっと休ませてくれないか、アンが少し疲れて」
「当たり前よ、アン、こちらにいらっしゃい」
 
 
アンはマキノに手招かれ、サボに背中を軽く押されて、戸惑いながら歩き出した。
ひどい顔って、どんな顔をしているというんだろう。
マキノはアンの背中を支えるように触れると、カウンターの中から通じるマキノの自宅のほうへとアンを招き入れる。
 
 
「アンを休ませてからあなたたちのごはん、用意するからちょっと待ってて」
「おう!」
 
 
ルフィが鷹揚に返事をするのを、アンは背中で聞いた。
マキノに連れられて、狭いが小奇麗な家の中を歩いていく。
マキノはアンの顔を覗き込んで、少し眠りなさいと言った。
小さな一室の清潔なベッドにアンを連れていき、そこに横たわらせる。
 
 
「お腹が空いてるなら後で何か持ってきてあげる。どう?」
「いまは……いいや」
「そう」
 
 
ゆっくりしていいからね。そう言って、マキノはアンのお腹の辺りを一つ叩くと立ち上がった。
布団で顔を半分隠したまま「ありがとう」と呟くと、マキノは「あなたの顔を久しぶりに見られてうれしい」と笑い、そのまま部屋を後にした。
 
あたしも、マキノに会えてうれしい。会いたかったんだよ。
言いそびれた言葉を頭の中で再生して、アンは目を閉じた。
眠れそうにはなかった。
サボには平気と言ったが、まだ頭の中は収拾がつかない程度に混乱していた。
アンを襲った記憶にではない。
あんなふうに、記憶に襲われたことに戸惑っていた。
 
父さんと母さんがいないことは、この10年の間でアンの中ではすでに当たり前の事実だった。
到底納得のいく話ではなかったが、それでも整理をつけるのに十分な年月をアンは生きた。
親のいない子供など、世の中には山ほどいる。
アンより過酷な道を生きざるを得ない子供も、きっといる。
かけがえのない兄弟がいるアンはきっと、その中でも幸せな部類だ。
それなのに、あんなふうに、少し過去の破片を目にしただけでその「事実」は果てしなく理不尽なものに感じられた。
 
どうして父さんも母さんもいないのにこんな家があるの。
あたしたちはどうしてここに住んでいないの。
どうして3人ぼっちでしかないの。
どうして死んでしまったの。
どうしてあたしたちだけが生きているの?
 
十分だと、これ以上ないくらい幸福だと思っていた生活に、アン自身が実は満足していないということを、自分の手によって裏打ちしてしまった。
きっとあの家に戻ることさえしなければアンは今の生活を至福として過ごしていけた。
時々両親のことを思い出して、少し悲しくなって、それでもルフィとサボがいるから十分だと。
 
ずっと、逃げていた。
あの家にいつか戻って、少なくとも自分の目で今とは別の生活があったことを受け入れて、そして納得したうえで今の生活を続けていく。
その覚悟が必要であると分かりながら逃げていた。
忙しさにかまけて、なかったふりをして。
やっと覚悟を決めたと思えばあのザマだ。
サボとルフィだって、辛くないわけがないのに。
あたしはいつだって、自分のことばかりだ。
 
いやになる、とアンは仰向けの身体を転がして壁のほうを向いた。
こんなあたしを赦してくれるひとはきっといない。
赦してほしいと思ってはいけない。
サボとルフィの優しさはアンを赦しているわけではない。
甘やかしてくれているのだ。
あのふたりはきっと、頼まなくても一生アンを甘やかし続けてくれる。
それで赦された気になってはいけない。
誰も縛ってくれないあたしを、あたしは自分で縛らなければならない。
 
アンはけして弱音の洩れることのない唇をきゅっと噛みしめたまま、いつのまにか眠りに落ちた。
 
 

 
「アンは?」
 
 
アンの様子を見に行って、そして戻ってきたマキノにすかさずそう問うと、マキノは「寝てた」と口の形だけで返事を返してきた。
そう、とサボは張りつめていた肩の力を少し抜く。
本当ならば引きずってでもすぐに家に連れて帰りたかったが、マキノに会いに行くとアンは強情に言うし、言い出したら聞かないことも知っている。
結局、こうしてマキノの家でアンが休むことができたので、ここに来てよかったと思う。
マキノはカウンターの向こうで磨き終わったグラスを丁寧に棚に戻しながら「久しぶりに見たわ」と何気なく零した。
 
 
「なにを?」
「あんな顔のアンよ。真っ青で、見るからに気分悪そうな顔するなんてそうそうないわ」
「……そうだな」
 
 
言われてみれば、サボもあんな顔のアンを見たのはむしろはじめてな気がした。
いわゆるアンのつらい時期にアンがどんな顔をしていたかは、さすがにサボも鮮明には覚えていない。
「アンは腹も壊さねぇからな」とルフィが神妙な声で言った。
 
 
「あなたたちは平気?」
「おれたち?」
「えぇ、辛くない?」
 
 
辛くない、と言えば嘘になる。
辛かった。
平和だった暮らしの外面だけがそのままで、その中で生きるはずの人だけがいない有様を突きつけられて、その理不尽さに腹さえ立った。
ルフィも答えない。
口に咥えたジュースのグラスをゴロゴロとテーブルの上で転がしている。
 
 
「アンに比べたら」
「そう。あなたたちもゆっくり休んでいきなさいな。お店は開けなきゃならないけど、そしたら奥に入っていていいから」
 
 
マキノはわかっている。
そう思うだけで、幾分救われた気がした。
粗方片付けを終えたらしいマキノは、サボとルフィの向かいに腰を下ろした。
ずっと昔からマキノが使うバンダナは、3人でプレゼントした。
そんなこともあったのだ、と思うと幼いころがいとしくもあり、無性に切なくもなる。
マキノは座ったまま、サボのコーヒーを淹れ直してくれた。
 
 
「大きくなったわね」
「なに、いきなり」
 
 
サボが若干の照れ隠しに怪訝な声を出すと、マキノは頬杖をついたままサボとルフィを見てニコリと笑った。
 
 
「ふたりとも、すっかり男らしくなっちゃって」
「おれとアンが高校卒業したときに会っただろ。それにおれはもうさすがにあれから背は伸びてないよ」
「ちがうわよ、身長の話じゃないわ」
「おれはまだ伸びるぞ!」
「ハイハイ、期待してるわ」
「──ちょっとは大人っぽくなったってこと?」
 
 
そうね、とマキノは言葉を口の中で転がすようにして考えるそぶりを見せた。
 
 
「ふたりがいれば、きっとアンはだいじょうぶね」
 
 
その言葉のわりに、マキノの顔は明るくなりきれてはなかった。
サボはその表情の意味を手探りする。
 
 
「でも、アンは強いよ」
 
 
マキノはサボの言葉を聞き流すように、手元のコーヒーカップに視線を落とした。
そうかしら、と聞こえた気がして、サボはまじまじとマキノの顔を眺めた。
マキノは顔を上げない。
 
 
「──あの子もきっと、自分は強いと思ってるわ」
「だって本当に」
 
 
マキノはサボを制するように、静かに微笑んだ。
ただの微笑みにサボの言葉は飲み込まれてしまう。
マキノはまるで手を組んで祈りの言葉を口にするときのような顔をしている。
 
 
「私も、あなたたちがずっと一緒にいられたらいいのにって、思うのよ」
 
 
それはつまり、ずっと一緒にはいられないということを暗に言っていた。
婉曲にではあるが、こうも確かに言ったのがマキノでなければ、おれは間違いなく腹を立てていただろうとサボは静かに思う。
マキノが述べるのはただの事実だ。
それもかなり柔らかく包んでくれた。
サボが腹を立てる権利も意味もない。
 
「わかってるんだ」と口にした言葉は思ったより掠れていた。
それは死に別れるだとか、そういう話ではない。
ただ、現実として、3人の兄弟が大人になり歳を取り老いるまで共にいられるかというだけの話。
自分はそれでもいい。
どうせおれは、もう思いだせもしない姓を捨てたあの時から何も持っていない。
それならば、アンとルフィの生活を守りながら生きて死ねればそれがいい。
それは、これ以上にない自由だ。
 
ルフィはきっと、自分の手で何かを掴むことを知っている。
血のつながる家族もいる。
そんな家族を大切にすることも、それ以外の仲間を見つけることも知っている。
不器用ながらそのバランスを取って、それこそ『自由』に、ルフィは生きていける。
 
だがアンは知らない。
耐えることしか知らない。
だからこそもっと知ってほしい、外の世界を知ってほしい。
家族でなくとも、人を大切に思うこと。
なにかを欲しがること。
自分のためになにかをすること。
 
アンの背中を押すのはきっと自分の役目だ。
しかしマキノが口にしたことは、サボにとっては本物の祈りだった。
単純にずっと一緒にいたい。
それはきっと、食欲性欲睡眠欲に近しいただの欲望だ。
その欲求が満たされない時、自分がどう行動するのかわからない、それが一番怖かった。
ただひとつわかるのは、人と言うのは欲求不満に対処する防衛手段を持っているということ。
つまりサボの場合、アンを失いかけたそのとき、その防衛手段は発動する。
それがどんな形で出るのか、そのときが来ないとわからない。
 
 
「わかってるんだ」
 
 
わかってる、わかってる、とぶつぶつ呟く。
そうして自分に言い聞かせる。
 
サボ、お前はわかってるんだぞ。
アンを外に出してあげなければいけないと、わかってるんだぞ。
 
 
「サボ」
 
 
ぎゅうと、痛いくらい強く右の腕を掴まれた。
今までずっと大人しくグラスを転がしていたルフィが、サボの腕を掴んだまま立ち上がった。
 
 
「おれはねる」
 
 
きょとんと、マキノが顔を上げてルフィを見つめた。
ルフィは真っ黒な瞳をまっすぐマキノに向けて、それからサボに向けた。
 
 
「せっかくだから今日ここ泊まってこう!マキノ、いいだろ!」
「えぇ、もちろんいいけど」
 
 
目を白黒させて、マキノはルフィとサボを交互に見やる。
 
 
「サボも昼寝しとこうぜ!アンも寝てるし、晩メシ前に起きりゃちょうどいい!」
「と、泊まってくって……明日は店あるんだぞ」
「明日もやすみだ!」
 
 
ルフィは堂々と、それは堂々と何様かと言うほど胸を張って臨時休業を宣言した。
マキノがぷっと小さく吹き出す。
 
 
「ルフィあなた、明日学校よ」
「学校には行くだけなんだからここからでも行けるだろ!」
「荷物は」
「弁当!!」
 
 
マキノは変わらずくすくす笑いながら、明日作ってあげるわと言った。
 
 
「そういうわけらしいわよ、サボ。泊まっていきなさいね」
「でも……」
「食べ物屋さんならね、少し休んで人に「早くあれを食べたい!」って思わせるくらいが丁度いいのよ」
 
 
と、マキノは聞いたこともない持論を展開した。
マキノの言葉は、それが正しいか正しくないかを考えることさえ馬鹿らしく思わせるような力を持っている。
いつのまにか、「それじゃあ」とサボは頷いていた。
ただね、とマキノがたいして深刻でもなさそうに腕を組む。
 
 
「私の家、ベッドはふたつしかないの。今アンが寝てるベッドと私のベッド。あなたたちの場所をどうしようかしら」
「アンが寝てる部屋の床でいいぞ、おれは」
「そんなわけには」
「本当にいいよ、それで」
 
 
サボがルフィの言葉を後押しすると、マキノはしばらく逡巡してから「まぁそれは夜までに考えておくわ」とにっこり笑った。
 
 
「昼寝するなら奥の部屋から毛布とシーツだけ取ってらっしゃい。小さいけど、リビングの椅子とソファを使えばいいわ」
「おう!」
 
 
ルフィは勝手知ったる人の家、とばかりにずんずん中へと入っていった。
サボはその背中を呆れ顔で見送ってから、「急にこんな、ごめん」とマキノにしおらしく謝った。
にこにことルフィを見ていたマキノが、途端にきっと顔を厳しくする。
もともと柔和な彼女には似合わない表情で、サボは思わず背筋を伸ばした。
 
 
「サボったら、相変わらず変なところでおバカさんね。甘えるときは素直に甘えなさい。私にお姉さん面させる気くらい遣いなさい」
 
 
その気迫に押されて、サボは思わずまた「ごめん」と言う。
するとマキノは、いつものように穏やかに笑ってカウンターに片手をついた。
サボのほうへと手を伸ばす。
しかし「あら、届かないわ」と言い、サボの顔の少し下あたりで伸ばした手を手招きするように動かした。
サボがその動きに乗せられて少し屈むように頭を下げると、マキノは満足げな顔で、サボの頭に手を乗せた。
さくさく、とサボの短い髪が擦れて音を立てる。
 
 
「いい子ね」
 
 
歌うような声だった。
 
いい子よ、あなたはとてもいい子。
そう言ってマキノは気のすむまでサボの頭を撫でた。
 
誰かに頭を撫でられるのは、ひどく久しぶりな気がした。
高い高い場所にあるサボの頭に手を伸ばしてくれる人は、近頃誰もいなかった。
カウンターの上に落ちる水滴を見ないふりをして、マキノはいつまでもサボの頭を撫でていた。
 

拍手[10回]



一人で帰ってきたアンを、風呂上りの姿でテレビを見ていたサボはごく普通に出迎えた。
 
 
「おかえり。風呂先入ったよ。……ルフィは?」
 
 
事の顛末を話すと、サボはルフィが喧嘩を買ったところで笑い、男たちを追いかけていったところで呆れ顔を見せた。
 
 
「もう帰ってくると思うんだけど」
「しょうがないなアイツ……それがサンジの?」
「そう、でも中身どうなってるかな」
 
 
手にしたビニールの袋を食卓のテーブルの上に置いて、中身を取り出して見た。
プラスチックのパックに詰めてくれたサンジの料理はどうやら弁当のように配置が決まって並んでいたらしく、外に飛び出してしまった鳥の照り焼きを覗けばあとはパックの中でごちゃごちゃと動いているだけで食べられなくはなさそうだった。
そもそも中身が動いてしまったのは、ルフィがこれを手に握ったまま後ろへ一回転、など無茶をするからだ。
サンジが作った造形には戻らないかもしれないが、とりあえず見た目だけでももう少しよくしておくか、とアンはパックを開いてフォークを手に取った。
 
 
「楽しかった?」
「なにが?」
「なにって、サンジの店。いつものオッサンたちもいたんだろ」
 
 
あぁ、とアンはパックの中身をひょいひょいとそれぞれ皿に移し替えながら呟いた。
サボはテーブルに手をついて、アンのその手際を何ともなしに見ている。
 
「サンジの店っていうか、イゾウっていう人がやってる店なんだけどね」
 
 
楽しかったよ、と視線を手元に落としたまま答えた。
ぽーん、とボールを弾くような軽いインターホン代わりのベルが鳴り、「ただいまー!!」とルフィのがなり声がする。
帰ってきた、とサボが階段を下りていった。
アンも後から続いた。
 
 
「ったく足の速いボウズだよ。コイツさっきの男二人捕まえて何してたと思う」
 
 
サッチに捕まったルフィは、また別の袋を提げていた。口元がてらてらと光っているのを見れば、あらかた予想はついた。
 
 
「落としたメシの分っつって、スーパーのデリで骨付き肉買わせてんだよ。サイコーだな」
 
 
呆れてへとへとに疲れ果てているのかと思いきや、サッチは最後にけらけらと笑った。
「アンたちの分もあるぞ!」とキラキラ光る口元のままビニール袋を突き出すルフィの頭を、サボとアンが同時にはたく。
ご迷惑をおかけして、とサボが馬鹿丁寧に頭を下げると、いやいやかまいませんよ、とサッチは恭しく頭を下げ返した。
 
 
「市民の平和を守るのがオレらの仕事、つってね」
 
 
そんじゃおやすみ、とサッチはぶらぶらと通りを歩いて、おそらくはイゾウの店へと戻っていった。
ありがとうと慌てて背中に叫ぶと、ひらひらと顔の横で手のひらが揺れた。
 
 
「ほんとに!考えなしのバカだなっ!」
 
 
ルフィのよくのびる頬をつまんでぐいぐいと引っ張るが、ルフィはいっこうに堪えた様子は見せずに「ひゃってひょぉ」と口を開く。
 
 
「最初にあのデケェヤツ殴ってやったから気は済んでたんだ、でもサンジにもらったメシがダメになった分は返してもらわねぇとって思って」
 
 
さぁコレ食おうぜ!とルフィはさも普通の土産を持ち帰ったかのように、肉の入ったパックをテーブルの上に広げた。
「まったく」と口々に言いながら、アンもサボも結局は「これウマいな」などと言いながら楽しく食べてしまうから、いつまで経ってもルフィがこんな能天気バカなんだろうかと思わないでもないのだが。
 
 
 

 
言っていた通りサッチは翌日の昼すぎにやってきたが、ひとりだった。
マルコは? となんとなく聞きそびれたアンの代わりに、サボが「今日も一人なんだ」と言った。
 
 
「マルコのヤツ昨日休んでたからな、仕事してねぇと落ち着かねぇんだろ。まっ、あのお偉いマルコがどんな仕事してるかなんてオレァ想像もつかねぇけどな」
 
 
下っ端はいいぜ、お気楽でよー、とサッチは本当に気楽な口調で言った。
下っ端と言っても、サッチだってそれなりに忙しそうに見える。
そもそもアンにとってマルコとサッチは同じ職業の人間であって、課が違うやら階級が違うやら言われてもよくわからないのだ。
とりあえず大変なんだ、と身も蓋もないアンの返しに、サッチはそうそうと楽しそうに笑った。
 
 
「今日もうまかったよ、ごちそーさん」
 
 
財布を取り出したサッチに、今日は支払わなくていいという。
サッチは札入れに突っ込んだ指先をそのままに、きょとんとアンを見た。
 
 
「昨日の礼だっつーなら、大盛りにもしてもらったしデザートまでついたじゃん」
 
 
しかしアンはかたくなに「いいから」と首を振った。
ただのサービスではアンの気が済まない。
サッチはしばらく渋るようにうだうだ言っていたが、「ま、いいか」と割り切るとにぱっと笑った。
 
 
「悪ぃな、んじゃほんとにごちそーさん」
「また来てね」
「アンちゃんもまたオレに会いに来てね」
 
 
どこに、とは言わなくてもわかったので、アンは素直にうんと頷いた。
サッチはいつものようにひらりと手を振って、アンの店を出ていった。
金曜日の今日は、もう家に帰るだけだという。
そういえばサッチの家はどのあたりなんだろう、とアンが街の地図を頭に浮かべて思い当る地区に思いを馳せていたそのとき、カウンターの向かいに立つ人影に気付いた。
一瞬、忘れ物でもしたサッチが戻って来たのかと思いアンは洗い物中のシンクから顔を上げたが、そこに立つ人物が誰かに気付いてアンは隠す気もなく顔をしかめた。
ラフィットはアンの胸中には興味もないようで、いつものように笑みを見せて帽子を取って見せた。
 
 
「こんにちはゴール・D・アン。さっきの男は警視庁のサッチですね。たしか生活安全部の少年課」
「知らないよ」
 
 
アンはラフィットを跳ねつける声で切って捨てた。
サッチのことは知っているがサッチの所属がどこだとかは難しい言葉を並べられてもわからないと、先ほどアンが心中で思ったばかりのことだ。
それよりも、サッチとアンが話しているのを外から盗み見ていたのかとアンは目の前の男をじとりと睨む。
ラフィットは少し肩をすくめる仕草をして、外した帽子を頭に乗せた。
 
 
「ボスがお呼びです。今晩8時に迎えに上がりましょう」
 
 
アンはしかめ面のまま、黙って頷いた。
この男たちの前では、持っているはずの拒否権さえ見失いそうになる。
 
 
前回の『仕事』からかれこれ1か月が経とうとしていたので、そろそろかもしれないという気はしていなくもなかった。
しかしアンはあえてそれに気付かないふりをし続けて、ごまかしてごまかして黒ひげの言う『休養期間』を過ごしていた。
そうでもしなければ、1か月何食わぬ顔で生活などできない。
ましてやサッチたちと過ごす時間を楽しいと思うことさえ。
思えばこの1か月で、アンはイゾウと出会いサンジと出会い、マルコやサッチと一緒に過ごす時間を持ち、彼らが取り巻く世界に順々にして引き込まれていったのだ。
黒ひげがこの期間を『必要な期間』だというのは、アンにとって大切な期間でもあったという意味ではあながち間違いではないと、出会ってそうそう本人は世間話のつもりで並べているティーチの御託を聞きながらアンは考えていた。
 
 
「おいアン聞いてるか?」
 
 
聞いてない。
心の中で即答したが、わざわざ険を含ませるのもバカらしいとアンは適当に頷いた。
ティーチはアンの頷きをどう取ったのか知らないが、まぁいいと深いソファに腰を据え直した。
 
 
「ここからが本題だぜ、アン。次の仕事の段取りを考えた」
 
 
アンはだんまりを決め込んだまま、こくんと頷く。
銀行と財閥御曹司のコレクションルームを襲撃した。残るは美術館と宝石商。
 
 
「次は美術館で行こうと思ってる。異論はあるか」
 
 
ない、と首を振る。
初めは狙う場所もアンに選ばせていた黒ひげだったが、四分の二を消化して後は二択ともなれば、段取りをする黒ひげが選ぶ方が合理的だと思うので、アンはただ従うだけだ。
黒ひげは満足げに頷き返すと、手を上げたオーガーを呼んだ。
仕事の手順を説明するのは、いつもこの男の役割だ。
オーガーは美術館内部の地図をアンの目の前に広げ、時にはそれを指さしながら淡々と説明を施した。
アンはその言葉と手順をひとつひとつ洩れなく頭に叩き込む。
 
じっとりと頭の隅を侵食してくる黒いものの存在に気付きながら、アンの心にひっそりと、しかししっかりと根付いている潔癖さが必死で危険信号を発しているのに気付きながら、アンは耳を塞いだ。
目も閉じた。
オーガーの声はアンの脳内に直接響き、仕事の手順を脳に焼き写しのようにアンに覚えさせる。
割り切るとは、きっとこういうことだ。
実行は2週間後だとティーチが締めくくって、アンは事務所を後にした。
 
 

 
襲撃を3日後に控えた日曜日の早朝、アンはビクンと体が跳ねた衝撃で目を覚ました。
ハッハッと断続的に聞こえるのは自分の呼吸音、そしてそれに重なるように打つ鼓動に気付いて、アンは無意識に胸に手をやっていた。
夢を見ていた。
夢の中でアンは走っていた。
以前忍び込んだ御曹司の邸宅のときのように、アンは夢の中でも狭く埃臭い排気管の中を這い、黒ひげに仕込まれた小道具を駆使してガラスケースを破り髪飾りを手にしていた。
場所はきっと、美術館だ。
夢に出てきたその内装は、赤一色の絨毯しか覚えていない。
コレクションルームの内装と被っているのは、その記憶が夢に影響したからだろう。
排気口を使って侵入していたのも、以前がそうだったからだ。
今回の美術館襲撃では、アンに排気管の中を這う計画はない。
実際の美術館には下見に行ったが、当然髪飾りの展示はされておらず、それが保管されている部屋がどんな様子かは想像するしかない。
 
少しずつ、胸の動悸が収まっていく。
それと共に落ち着きを取り戻したアンは、そっと辺りを見渡した。
薄暗い夜明け前。
ブラインドから昇りかけの朝日と街灯の光が混じって少しだけ部屋の中に洩れてくる。
部屋の中は薄い青に染まっていた。
窓の反対側に首を向けると、少し離れた隣のベッドにはルフィが寝乱れており、そしてまたその隣にはすっぽりとブランケットをかぶったサボがいた。
なんらいつもと変わりないその様子に、アンは知らず知らずのうちにほっと息をついていた。
きっと、もうすぐ実行の日だという緊張が夢に出てしまったのだ。
せっかく今日は日曜だからゆっくり寝られるはずだったのに、とアンは冴えてしまった目をぱちぱちとしばたたいた。
 
不意に、小さな黒い丸がアンの目の前に突き付けられた気がして、ぞっと背中に悪寒がのぼった。
黒い丸すなわち銃口、倒れる警備員の青い制服、暗がりに浮かぶ人影、アンをエースと呼ぶ低い声、白い煙とその匂いまでが途端にアンの脳内を駆け巡るようにフラッシュバックする。
髪飾りを手にした後の夢の続きがアンに急襲をしかけてきて、アンは上体を起こしたままぐっと膝を抱きかかえた。
落ち着いたはずの動悸が、また激しく律動し始める。
夢の中で、アンは髪飾りの奪取に成功していたにもかかわらず、それは紛れもなく悪夢だった。
クソッと口の中で悪態吐く。
アンに銃口を向けるのは、いつだってマルコだ。
 
 
「うるせぇ!!」
 
 
突然上がった叫びに、アンはおもむろに肩を跳ねさせた。
声を上げたルフィは、それと同時にブランケットをベッドの下に投げ出して寝返りを打った。
ドクドクと音を鳴らしていた心臓は、今は違う意味でドキドキしている。
び、びっくりした、とアンはルフィを見下ろして、それから吹き出した。
うるさいのはアンタだろ、と思わず苦笑が漏れる。
遠くでサボが眉間に皺を寄せて、もぞもぞ動いてルフィに背を向けた。
うるさい寝言に慣れていればこの程度でサボが目を覚ますことはない。
アンはベッドから足を下ろして、ルフィが落としたブランケットを手に取った。
放り投げるようにルフィの上にかけてやると、ルフィはふごふごと何か言いながらそれに手を伸ばして自ら体を覆った。
既に秋の入り口を通ってしまった近頃は、早朝と夜中はブランケットなしではいられないほどの肌寒さだ。
一方のアンは寝汗をかいているが、これは夢見が悪いせいであって、身体を起こしている今肌に触れる空気は冷えている。
今回の仕事が終わったら衣替えをしよう、と明るくなっていく部屋の中で思った。
 
 
 

 
黒塗りの車を降りると、門衛と話をしていた警官たちがそろいもそろって目を丸くした。
そして、ザッと地面を削る音ともに仰々しい敬礼がマルコを囲む。
巨大な石を積み上げた5階建ての入り口、マルコの正面から慌てて警視のひとりが飛んできた。
 
 
「言ってくだされば公用車で迎えに上がりましたのに!!」
「いらねェ、待つ時間が無駄だ」
 
 
中の様子はと訊くと、警視は慌てながらも端的に警備の様子と警官の配置をマルコに述べる。
マルコは返事や頷きさえ返すことなく、懸命に話す警視を置いていく勢いで美術館の中へと足を進めた。
 
内部は警視が述べたとおり、どこもかしこも警察関係者で埋め尽くされていた。
マルコは頭に叩き込んだ館内地図を辿りながら、目的の部屋へと進んでいく。
最上階の一つ下の階、つまり4階最奥の保管室にて鎮座している髪飾りを確認しておくためだ。
この美術館に赴く前は、もうひとつの髪飾りを所有している宝石商のもとを訪ねていた。
鼻持ちならないたいした金持ちだった、とマルコはついさっきの記憶を吐き捨てる。
事実、マルコがエースを追うのは仕事であり、連続窃盗の多発するこの街の治安を貶めないためというのが実質的な目的であり、世の金持ちから何がどう奪われようがマルコにとって知ったことではない。
 
目的の部屋に着くと、部屋の前には2人の警備が立っており、その2人は警察内でも指折りの屈強者だった。
部屋の中には誰もいない。マルコでさえ部屋の中に入ることはできない。この3人が最後の砦だ。
窓もない保管室に入るには、この入口から入る以外方法はない。
ここさえ固めてしまえば、エースに手の出しようはないのだ。
前回使われた手である排気管はもちろん保管室にも通じているが、保管室の排気管につながるすべての排気口にさえ警備を回している。
扉の前に立つ2人に激励の言葉を軽く口にしてマルコは踵を返した。
 
いつ、それもどこにやってくるかわからない敵を待ち構えるのは至極骨が折れた。
警備の手を美術館と宝石商のどちらに偏らせることもできず、結果両方に全力を尽くすと警察内部が疲弊する。
だからといって力の入れる警備を一日交代などにすると、必ず警備が手薄な方の関係者(美術館であれば館長他各位、宝石商であれば本人)がそれを糾弾してくる。
文句を言うなら守りたいもんは自分で守って捕まえるくらいしてみやがれと怒鳴りたいところだが、公共の立場からマルコがそれを口にできるはずもなく、実際美術館も宝石商も警官のほかに私立警備隊を雇って入れているので、「金」の面では彼らも尽力しているにはちがいない。
しかしそれはそれで、警察側と私立警備隊側で行き違いや衝突があったりなかったりと、マルコの頭を痛める要因には事欠かない。
警察内部は美術館警備チームと宝石商警備チームと別れておりそれぞれにトップを立てているが、エース対策本部それ自体のトップに立つマルコの身体はどこをどうしてもひとつだ。
夜中の1時に車を飛ばして美術館と宝石商の邸を行ったり来たりなどここ数日日常茶飯事で、自宅に帰ったのは1週間以上前。
仮眠以外の就寝はした覚えがなく、警視庁に置き貯めてある着替えばかりが減っていく。
たしか今日着替えたこのシャツが最後の一枚だった、と思いながらマルコは携帯電話を取り出した。
3つのコールで「おう」と知った声が答えた。
 
 
「見てきたよい」
『そうか、だが見てきたっつっても中にゃあ入れねぇんだろう』
「あぁ、そう決めたのはオレだけどよい」
 
 
ニューゲートは受話器の向こうで豪快に笑い声を上げた。
そして笑い声を収めたついでのように、「じゃあ帰ってこい」と言った。
聞き返す声を上げなかったとはいえ、マルコは無言で眉を眇めた。
 
 
「……オレァ残るよい」
「バカ言ってんじゃねぇよアホンダラァ、テメェいつのまに放蕩息子になっちまったんだ、たまには帰ってきやがれ」
「庁舎には今日も戻ってるよい」
「オレに顔も見せねぇで何が戻ってるだ、いいからさっさと……」
 
 
わぁっと上がった複数のざわめきが、ニューゲートの声をかき消した。
マルコはハッと顔を上げ、雑然とし始めた方角を探す。
どうした、と張りつめた声が受話器越しにマルコに問いかけた。
 
 
「わからねぇ、また報告する」
「あァ、気をつけろ」
 
 
すばやく電話を切ったマルコは、ざわめきがすぐそこの階段に通じる階下からだと判断してすぐさま駆け出した。
 
 
ざわめきの発信源、美術館2階のフロア内はあっちへこっちへと警官が駆け回り、一つの窓にたかるように大勢が群がっていた。
何人かが窓から体を乗り出し、上を見上げて何か叫んでいる。
マルコは迷わず窓辺に歩み寄り、群がる警官の肩を掴んだ。
 
 
「何があった」
「けっ、警視長、今、この窓の上の外壁に『エース』が……!」
「あァ!?」
 
 
どけ、と警官たちをかき分けて窓に辿りつき、マルコは上を見上げた。
一番に目についたのは、ひらひらと風に揺れる黒い布地だった。
ぶわりと毛穴が広がるような興奮が、足の先から体の中を駆け上る。
一度対峙したことのある小さな身体は、蜘蛛のように外壁をスルスル登っていく。
どこに行くつもりだ、とマルコは目を細めたが、すぐにハッとして顔を引っ込めた。
近くにいる警官に怒鳴り散らす。
 
 
「ここから上の階の排気口とそれに通じる部屋をすべて塞げ!!外の排気口から直接保管室には行けねぇ、必ずどこかの部屋に一度降りるはずだ!!」
 
 
はっと答えた警官たちが、ばたばたとフロアの階段を駆け上っていく。
トランシーバーを所持する数人が、上の階の警備に連絡を取る声が近くで聞こえた。
マルコは再び窓から外へ顔を突き出す。
コートの裾を夜風にひらめかせるエースは、美術館の屋根から伸びるロープを辿っているようだった。
どうやって屋根にロープを仕掛けたのか見当もつかなかったが、とりあえず今ここにエースが現れていることが全てだ。
不意に、ギュンと鋭い音が空気を貫き、ほぼ同時にガンッと外壁に何かがぶつかる音がした。
壁を上るエースの動きが一瞬止まる。
壁にめり込んだ銃弾が、ぽろりと重力に負けて落ちた。
美術館の庭園を張っていた警備隊が発砲したのだ。
馬鹿野郎、とマルコは内心盛大に舌打ちした。
この街の法律では、ただの窃盗犯であるエースに対して発砲は、警視長であるマルコと十数人の警視にしか許されていない。
そしてこの状況下でエースに対して発砲するようなバカは警視にはいないはずだった。
となると発砲したのは私立警備隊である。
傭兵である彼らはエースに「盗ませない」ことが大事なのであり、その結果エースがどうなろうと知ったこっちゃないのだろうが警察側からすればそうはいかない。
殊にマルコは、エースを死なせる気はなかった。
今たとえエース自身に銃が当たらなかったとしても、ロープが切れれば約3階の高さからエースは地面に落ちる。
そんなことになるくらいなら一度館内に忍び込ませてそれから追っかける方が幾分ましだ。
逃げ続けるエースの膝から下めがけて発砲して怪我をさせ、それから捕まえるくらいは警察でもする。
早まりやがって、とマルコが発砲者を上から睨みつけたそのとき、カランと金属音が夜空に高く響いた。
再びエースを見上げると、マルコの数メートル上から40センチ四方の鉄格子がカラカラと落ちてくる。
慌てて頭を中に引っ込めると、鉄格子はマルコの目の前をまっすぐ落ちていった。
ほんの2,3秒後、金属音が地面にぶつかり弾けた音が響いた。
エースが中に入った。
マルコはもう窓から上を見上げることはせず、淀みない足取りで階段へと向かった。
 
階段をのぼりながらトランシーバーを取り、最上階の警備に屋根に仕込まれたエースの小道具と、侵入経路を探るよう命じる。
そして次に一階の警備に連絡を取り、エースの逃げ道を塞ぐよう指示した。
同時にマルコの脚は、エースが侵入した排気管が通じている3階へと向かっていた。
すれ違う警官たちは誰もがそろって興奮した顔をしていた。
マルコの指揮下で、フル装備の館内に入れてしまえばもう逃がす方が難しい。
勇み顔の警官たちがそう思っているのが、肌に沁み込むように伝わった。
 
しかし、何かがおかしい。
 
胸に燻る違和感はエースが現れた瞬間からマルコの中にこっそり発生し、館内にエースが侵入した今となっては既に違和感から懸念へと成長していた。
たしかにマルコはエースを見た。
壁を伝う小さめの身体。
あの身のこなし。
それなのになぜこうも不安ばかりが大きい、とマルコは3階フロアを闊歩しながら隠すことなく舌を打った。
 
なにかが間違っているかもしれない、という思いがもはや恐怖に近かった。
 
マルコは用意していた美術館の配管図を広げ、エースの侵入口から到達可能な部屋を絞る。
場所からして3階であることは間違いない。エースはこの階のどこかの排気管に潜んでいる。
じっと息を殺して、どういう手札があるのか知らないが、時が来るのを待っているに違いない。
 
エースが辿りつける部屋は3通り。
そのどれもに警官たちが待ち構えている。
すでに時間の問題だ。
 
そしてすぐ、その3通りのうち1つの部屋で、わぁっとざわめきが上がり、ばたばたといくつもの足音や人のぶつかる音が響いた。
3階の廊下で1階からの連絡を聞いていたマルコのトランシーバーには、別の連絡が横槍を入れた。
 
 
「マ、マルコ警視長、エースを捕えました!」
 
 
絶句するように短く息を吸ったマルコは、深く息を吐いて一拍置いてから「どこだ」と訊いた。
 
 
「3階の303……ちょうど真ん中の、陶芸品の部屋です!」
「すぐ行く。エースは?」
「今数名で取り押さえてます。暴れることもなく、伏せてじっとしています」
「気ィ抜くなよい」
 
 
すばやくトランシーバーを切り、目的の部屋へと足を向けた。
容易すぎる。
あまりに、他愛無さすぎる。
やっぱり何かがおかしい。
そう思いながらも、エースが捉えられているという部屋へと向かう足は止まらない。
高揚しているのだと気付いていた。
違和感という冷たい潮流と、ついにエースを捕えたかもしれないという熱い潮流がマルコの中でぶつかって渦を巻いている。
 
303と記された札の下がる展示室の扉は開いており、何人もの警官が捉えられたエースを一目見ようと吸い込まれるように入っていく。
彼らは歩み寄るマルコを見つけると途端に体を固くしたが、その誰もがエース確保という事実に浮足立っていた。
 
 
「警視長、中に」
 
 
敬礼と共にマルコに部屋の中を指し示す警官に頷きを返し、マルコは部屋の中に入った。
 
 
展示室の中には何人もの警官や警備隊が立っていたが、それ以外はガランと開けていた。
展示が自粛された一週間前から、ここにあったはずの展示物は全て髪飾りとは別の保管室にいったん収容されているので、展示室と言えどそこはただの空間だった。
そしてその部屋の、入り口から見て中央少し右側に伏せる人影と、それを取り押さえる2人の警官。
取り押さえられたエースはうつ伏せで後ろ手に手錠をかけられ、確かに身動きもせず諦めたようにじっと横たわっていた。
 
エース、とまるで親しいものに呼びかけるように声をかけそうになった。
俯せた身体は動かない。
エースを取り囲んでいた警官の一人がマルコを見て、「警視長」と呟いた。
すると、突如俯せていたエースがぐるりと首を回してマルコを目で捉えた。
そして、アイパッチの黒に囲まれた目がギラギラと油っぽく光り、口角がにっと上がった。
 
──ちがう、この男じゃない。
 
 
マルコはしばらく立ち尽くした。
唖然とするマルコの心を汲んだように、「エース」として捕えられた男はニヤニヤと脂ぎった笑みを浮かべ続ける。
マルコの様子の異変に気付いた警官たちが、おそるおそるとマルコの顔を覗き込んだ。
 
 
「……警視長?」
「まだだ」
「は?」
「外に車を回せ! 門の周りを固めろ! あと4階の警備に異変がないか連絡しろ!コイツはエースじゃねェ!!」
 
 
そう怒鳴ると共にマルコは踵を返して展示室を飛び出した。
背後から、捕えられた男のけたたましい笑い声が降りかかってきた。
 
手遅れかもしれない。
舌打ちをするのももどかしく、マルコは階下へと走りながら静かに、そしてきつく歯を噛みしめた。
初めからマルコを煽っていた違和感の正体は明らかになったが、だからといってもう遅い。
完全に騙しを打たれた後悔が波のように押し寄せたが、悔いている暇はない。
エースが、エースを操る黒ひげが周到な用意を踏むことや智略に長けていることはわかっていた。
その奴らが、また同じ排気管を使って侵入するという手でことを犯したことがまずありえなかったのだ。
そしてあっけなく捕まる。
捕まえさせるのだ、ダミーを。
本物のエースは別で動いている。
そしてきっともう、逃走経路をたどっているに違いない。
 
マルコの胸元に引っ掛かっていたトランシーバーが電子音を立ててマルコを呼んだ。
 
 
「よ、4階に警備が誰もいません!! 扉の前に配置されていた警官1名は行方不明、1名は床に倒れています! ほか、保管室の扉も開いていて……髪飾りがない!!」
 
 
受信機の向こうで警官が悲鳴を上げた。
やっぱりか、とマルコは無言でトランシーバーを切った。
1階のレセプションフロアを突っ切り正面玄関から外に出ると、そこは混乱した警官と私立警備隊が蜂の子を散らすように走り回り、明らかに統率を失っていた。
チームの長官はどうした、と目を瞠ったがその長官もエースのダミーが現れた時点で3階へと上がっているのをマルコもその目で見たことを思い出した。
 
 
「警備隊は裏門へ! 外門警備の1班は車を回して来い! 2班は二手に分かれて正門から館の周りを調べろ!」
 
 
行け! ともはや腹立ちをぶつけるようなマルコの怒鳴り声は騒然とする正門前に一瞬で響き渡り、すぐさま各自が指示に沿った動きを開始した。
マルコの指揮外にある警備隊ですら、突如現れた指揮官に従順にして裏門へと廻っていく。
そしてマルコ自身は、正門すぐの道路沿いに駐車してあった自分の車に迷わず飛び乗った。
部下には美術館の周りを固める指示を出しておきながら、実際エースはもう美術館内部にはいないだろうと思えた。
マルコが目の当たりにしたあの混乱に乗じて逃げたに違いない。
もしエースが「それ」とわからない格好で侵入していたとしたら。
正門を突っ切って逃げることすら可能だ。
特に、さっきマルコが指示したように美術館を門の外から見周りに行くようなふりさえしてしまえば怪しまれるはずがない。
マルコはイグニッションキーを目一杯回し、アクセルを踏み込んだ。
 
混乱が生じたのは、エースがダミーであるとマルコが気付いたそのときから。
本物がその瞬間を狙って外に逃げ出したのだとしたら、まだそう時間は経っていないはずだ。
逃走手段はおそらく車か何かだが、この近くに仲間が待機していればいやでも警察の目に着く。
エースはある程度自分の足で美術館から離れ、そこから車で待つ仲間と落ち合う手はずになっているのだろう。
 
美術館は街の北西、閑静な住宅街の少しはずれに位置している。
エースの仲間の車はその住宅街の細い路地に止めてあり、そこから一気にアジトかどこかへ帰るというのがもっともあり得る手段に思えた。
マルコは車を寝静まった住宅街の中に入れながら、トランシーバーを取った。
 
 
「異変あるかい」
『あ、ありません、どこから逃げたのかも』
「エースはもうそこにはいねェ。モルマンテまで車を出して来い。おそらくエースは住宅街の中で仲間に拾われる。お前らは一気に大通りまで向かえ。オレが住宅街の中から見つけて大通りまで煽り出す。サイレンは鳴らすなよい」
 
 
返事を聞かずにトランシーバーを切り、マルコは静かに住宅街の中に車を走らせた。
入り組んではいるが、そう広い区画ではない。必ずどこかにいる。
車の窓は開いている。
ライトなど付けているはずはないが、少しのエンジン音でもすれば気付けるはずだ。
しかしいっこうに耳を澄ましても、聞こえるはずのエンジン音やタイヤが地面をこする音はマルコの耳に届かない。
妙だな、と口の中で呟いた。
まさかもう住宅街を抜けてしまったのか、それともエースが仲間と落ち合う計画すらなく自力で逃げる手はずなのか。
もう目の前に、大通りが見えている。
街灯の灯りだけがぼんやりと照らす夜道には、ノラ猫が横切る影すらない。
マルコの車だけが、道路の上をぬるぬると進んでいく。
不意に、パァンと弾ける音が響いたかと思うと、がたんと車が左側に傾いた。
 
 
「なっ」
 
 
思わず洩れた声と共にハンドルを強く握りブレーキを踏んだ。
しかしそれ以降異変はない。
そっとブレーキから足を離すと、ずっずっずっと不吉な音を立てて車は進んだ。
まさか。
 
マルコはハンドブレーキを引いて車から降り、暗がりの中で前輪を覗き込んだ。
思った通り、タイヤは見事にひしゃげている。
よく見ると、暗闇の中でも異様に光る黒く大きな画鋲のような釘が、太くタイヤに突き刺さっていた。
すぐさま足元に視線を落とすと、それは進行方向にばらばらと無数に散らばっていた。
 
やられた。
 
その言葉が頭をよぎったそのとき、急にモーターを激しく回転させたようなエンジン音が爆発音のように前方から届いた。
素早く顔を上げたマルコの目の前を、一瞬で黒い車が駆け抜ける。
エンジン音を聞いた瞬間に抜いていた銃を前に構えた。
迷う暇もなく引き金を引いた。
銃弾は後部座席の窓に当たると、窓の一部を小さく砕いた。
まさか普通車か、と一瞬ぞくりとしたが、銃弾を撃ち込まれてもスピードを緩めずすでにマルコの目の前を通り過ぎた車が驚いて止まる気配など微塵もなく、間違いなく今の車はエースを乗せていたと確信する。
当然防弾ガラスだろうと踏んで撃ったので、実際にガラスが砕けて驚いたのはマルコのほうだ。
夜中の銃声とけたたましいエンジン音に驚いた住民たちが目を覚ましているかもしれない。
クソッ、とマルコの悪態が静かな住宅街に溶けた。
パンクした車で追いかけることはできない。
 
しばらくするとトランシーバーが鳴り、部下たちのパトカーが同じ被害を受けたことを情けなく訴える声に、マルコは「もういい」と吐き捨てた。
 
 
 
 

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さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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