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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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予定の時刻を30秒過ぎてアンがやきもきとしていたそのとき、予想以上に大きなざわめきが美術館の正面から昇った。
わあわあと聞こえる声は入り乱れぶつかって、まともな形を成さずにアンの耳に届いてくる。
その音量から、警察の人数が予想より多そうであることを感じた。
アンは濃い青の制帽を目深に被り直して、小さく駆けだした。
 
美術館の門衛は、小さな制服警官を目に留めたもののすぐに視線を外し、壁をよじ登る『エース』の背中を唖然と見上げていた。
アンの頭には大きすぎる制帽は顔を隠すにはちょうど良いがどこか不似合いで、警備隊内部に精通する少し上の地位のものに見咎められればすぐにも怪しまれる。
それが今回の作戦の一番の危険だったが、アンが今目の前を通り過ぎた門衛はまるで疑う素振りも見せなかった。
アンが着込んだ制服は、私立の警備会社のそれだ。
警官である門衛は、警備隊の人事まで把握はしていないらしく、アンはこれ幸いとエースの真下へと集まる人の波に沿って館へと近づいた。
エースが衆目にさらされた今、警官の出入りのために美術館の扉は片方だけだが完全に開かれており、アンは何ら障害もなく館内へと入り込むことができた。
赤い絨毯の広がる一階フロア内は外部ほど警備が多くなく、エースのダミーが位置する3階とエースを直接見ることのできる正面玄関側へと人手が分かれているためらしかった。
アンはさっと扉のわきに体をずらし、下っ端警備のふりをしてとりあえず状況確認をする。
 
今単体で上階に登るのはマズイ。
目立つし、見咎められたら逃げ場がない。
エースのダミーはまだ館内に入っていないのか。
焦りが冷たい汗となって、制服の背中をじっとりと濡らした。
 
突如、ざわっとひときわ大きなざわめきが上がった。
ダミーが館内に入り込んだようだ。
いくつかの足音が外から聞こえてくる。
1階フロアで所在なさ気にうろついていた数名が、外で上がったざわめきと足音に好奇心を剥きだして上階へ続く階段や正面玄関をちらちら眺めていた。
外から聞こえた足音の正体が、アンのわきの正面玄関から入り込んできた。
5名ほどの警官隊が連絡を受けたのか、階段へと一目散に走っていく。
アンは通り過ぎる彼らを横目で眺めて、その最後尾にさっと横入りした。
ざかざかと床をこするいくつもの革靴の一番後ろを、アンは音もなくついていく。
その小さな団体に紛れて、アンは一気に3階まで昇った。
 
3階はさながら閉じ込められた戦場のようだった。
煌々と士気をみなぎらせた制服警官と、異様に鋭い目つきの私服警官たち、そしてアンと同じ服装の私立警備隊が各々周りが目に入っていない様子で走り回っている。
4階に続く階段から、何人かが慌ててアンのいる3階へと降りてくる。
この階段からそのまま4階へ行っては、警官たちの流れを逆走してしまう。
アンはそっと警備隊のかたまりから離れ、右往左往する人の間を縫うように、館の反対側へと足早に進んだ。
 
俯いて歩くと逆に目立つ、堂々としていろと黒ひげは言ったが、どうしても顔は下がってしまう。
アンは自分のつま先の1メートルほど先ばかりを見て歩いた。
 
辺りの様子をうかがうために、アンはちらりと視線を上げる。
アンを気に留めるものなど一人もおらず、アンは誰一人に声をかけられることもましてや視線を留められた様子さえなく、拍子抜けするほどアンはするすると人の波を通り抜ける。
しかし、ちょうど道のりを半分ほど進んだ時、アンの心がひゅっ遠くへ引っ込むように尻込んだ。
目線を上げたその先に、マルコがいた。
明るくない館内の中で、マルコは苛立たしげに無線機のようなものに喋りかけている。
その声までは届かなかったが、マルコの顔色は土気色に近い、とても健康的とは言えないもので。
アンはぎゅっと拳に力を入れて、マルコの3メートルほど隣を通り過ぎた。
力を入れないと、足が止まってしまいそうだった。
マルコはまるでアンの存在に気付かずに、マルコのほうもアンから遠ざかっていった。
 

 
目的の館の最果てまで辿りついた。
既にここは人気がない。
ほとんどの人出が、ダミーが到達すると予測される部屋へと出払っているのだ。
アンは薄暗い非常階段をゆっくりと上った。
 
髪飾りの保管室は、アンが今いる非常階段の近くだ。
きっとここから2部屋先。
アンは階段の最後の段に足を乗せたまま、そっと首だけを壁から覗かせた。
 
思ったより近くに、2人の警官が間隔を置いて立っていた。
黒ひげに聞いていた通り、すばらしくガタイのよい男たちだ。
アンの横幅二人分はあるだろう。
アンは知らず知らずのうちに、ごくんと生唾を飲み込んでいた。
行くしかない、勢いあるのみ。
アンはだっと駆け出した。
 
ぎょっと身を引いた二人の警官の前に走り込んだアンは、目深に被った帽子の下で懸命に低い声を引っ張り出して喚いた。
 
 
「3階フロアにエースが入り込んだ!!暴れていて取り押さえられないんだ、援助に回ってくれ、警視長が呼んでいる!」
「なっ」
 
 
アンの頭上高くで二人の男が同時に息を呑み、ひとりはすぐさまアンが来た方とは反対の階段に向かって走り出した。
もうひとりも走り出した一人に釣られるように足を踏み出した。
だが、気付かず走り去って行くひとりと違ってその男は怪訝に足を止めた。
 
 
「……マルコ警視長からの連絡なら無線から……」
 
 
アンは男の顎に向かって、固めた拳を突き上げた。
ガツンと堅い衝撃が右手から痺れるように腕全体に広がった。
その衝撃のせいで緩んだアンの指の隙間から、ぽとりと小さな注射器が零れ落ちる。
顎への奇襲によって頭を後ろへ逸らせた男は、そのままよろよろと1,2歩後ろへ下がると、ずるんと滑り落ちるようにその場に倒れた。
 
アンは未だじんじんと疼く右手の拳を左手で包んで、荒い呼吸を何度か繰り返した。
黙って訝しがらずに行ってくれたらよかったのに。
落とした注射器を拾ってポーチにしまい込む。
それと引き換えるに、革製の筆箱のようなものを取りだした。
扉の鍵を開けなければならない。
倒れた男をまたいで扉に近づく。
アンは何度も練習した手順を口の中で唱えながら、保管室の鉤に細い器具を差し込んだ。
 
保管室はいつかのコレクションルームと違い、埃臭さより真新しいワックスの匂いが鼻についた。
アンは中に滑り込んで、まず手前の壁に背中を張り付けた。
部屋中に張り巡らされた赤外線の配線図は頭の中に入っている。
ただ、現実は平面のようにはいかない。
アンはほとんどを勘に頼りながら赤外線の網を避けて、部屋の隅まで辿りついた。
そして、電気のスイッチのような小さな突起を指で押し下げる。
ぶぅん、と小さな電子音が響いて、赤外線のスイッチが切れた。
 
街に古くからあるこの美術館の設計は現代的とはいいがたく、赤外線セキュリティがあるのはこの部屋だけだ。
だからスイッチもまるで灯りをつけるようにオンオフが手動で出来るのだ。
知らなければ最大の難所である赤外線も、情報さえあれば簡単に突破できる。
アンは部屋の隅から堂々と部屋の中心、小さなガラスケースへと歩いた。
 
今度こそ、本物でありますように。
髪飾りは薄暗い部屋の中でも濡れたように赤く光っている。
 
ピッキングと同じ要領で、ガラスケースは開けることができる。
しかしそうしてケースを持ち上げた瞬間、セキュリティシステムが作動して警備室に知らされてしまうので、安易にそれはできない。
アンはまた、ごそごそとポーチの中を探った。
小さなサーチライトを取り出した。
黒ひげに使い方を教わったら夢にまで出てきた小道具だ。
 
普通のライトのスイッチを入れるように、突起部分を時計回りに回す。
そしてライトたる部分を、軽くガラスケースに押し付けた。
しばらくすると、ガラスが溶ける湿った音とともに、つんと変わったにおいが鼻についた。
溶けたガラスはちょうどアンの拳が入るほど。
アンはそっと手を差し込んで、髪飾りを取り出した。
今すぐに髪飾りを隅々まで眺めて、本物に掘られているという母さんの名前を探したかったが、ぐっと堪えてアンはそれを子道具入れとは別のポーチに仕舞い、何も入っていない側のズボンのポケットに押し込んだ。
よし、あとは逃げるのみ。
 
そっと部屋のドアから外の様子をうかがう。
相変わらず足元には男が倒れており、人気はない。
それもおかしな話だな、と思いながらもアンにとっては好都合、そそくさと非常階段へと走り去った。
 
 
階下は行き来たときより雑然として、アンは単体一直線で玄関まで淡々と進むことができた。
美術館の表庭は館内以上の混乱をきたしているようで、蜂の子を散らしたような騒ぎになっていた。
アンは玄関ポーチを足早に駆け下りて、まっすぐに正門に向かう。
 
「本物のエースが別にいたのか!?」
「偽物が逃げたっていのは本当かよ」
「外部のどこを見張ればいいんだ!」
「おい警備隊は勝手に動くな、邪魔だ!!」
 
いくつもの怒鳴り声や金切り声がアンの頭上を通り過ぎぶつかり合う。
予想以上のパニックになっている。
情報も錯綜しているようだ。
アンのわきを2人の警備隊員が走り去る。
正門を出て左に曲がる彼らに紛れて、アンは静かに美術館からの脱走に成功した。
 
 
ふたりの警備員は、美術館の角までやってくると館の塀に沿うように角を曲がったが、アンはそれを見送って一人走り出した。
ここからまっすぐ走れば、住宅を抜けて大通りに出られる。
そこに黒ひげの車があるはずだ。
アンは帽子を落とさないようぐっと深く頭に押し付けてスピードを上げた。
黒ひげは危険を承知でアンと住宅街でおちあうことを提案したが、それでは警察が追いかけてきた際逃走劇になる確率が非常に高いのも事実、と懸念していた。
だからアンは、自分が大通りまで走るからいいと言った。
脚には自信があるから、と。
 
冷たい夜風を切りながら、目の前の大通りがどんどん近づいてくる。
大通りに合流するとすぐ、右側の道端にワゴンのようないつもの逃走車とはタイプの違う車が停まっていた。
フロントガラスの向こうで、運転席に座る男が頷く。
アンが素早く車に近づくと、扉が内側から開いた。
中に滑り込んで、丁寧に、静かに扉を閉める。
 
 
「上手くいったか」
 
 
頷いた。
男はバックミラーでアンの仕草を確かめて、静かにアクセルを踏み込んだ。
 
 
「通りを北に行ったところで検問がある。迂回するぞ」
 
 
車はじりじりと、アンがあせるほどゆっくりと大通りを歩くように動いていく。
 
 
「ねぇ、もっと急いだら」
「追ってにエンジン音を聞かれたらまずい。大丈夫だ、突破するときは突破するし策は打ってある」
「策って」
 
 
不意に、パァンとけたたましい破裂音が一つ、夜空に響いた。
足踏みのような小さな動きで車が停まる。
 
 
「……なに?」
「これが策ってやつだ。掴まれ、突破するぞ」
 
 
なにがなんだかわからないが、とりあえずアンは言われた通り後部座席から助手席のヘッドレストに捕まった。
窓の外にそっと目を走らせたが、夜である上にスモークガラスが邪魔をしてよく見えない。
ぐん、とアンの胸を突くように圧力がかかり、車が獣の唸り声のようなモーター音を出して走り出した。
 
 
「伏せろ!」
 
 
運転席の男が叫ぶ。
アンがその声を聞いた瞬間、後部座席左側の窓ガラスが弾け飛んだ。
咄嗟に身を伏せたが、うつ伏せのアンの上に割れたガラスがぱらぱらと落ちてくる。
ちくっとした痛みが後ろ首をかすめた。
車は猛烈なスピードでその場を離れている。
ちっと男の舌打ちが響いた。
 
 
「マルコか」
 
 
アンは顔を上げて、首筋にかかったガラスの粉を掃った。
今のは、マルコが撃ったの?
 
 
「おい大丈夫か」
「平気」
「この車は乗り捨ての普通車だからな、防弾ガラスじゃねぇんだ」
 
 
だから悪かった、とでも言うのか。
アンは後ろを振り返った。
追っ手がやってくる様子はない。
 
 
「……なんで追ってこないの」
「道に釘をばらまいてある。サツの車はパンクして使い物にならねぇだろうよ。だいぶ足止めになるからな」
 
 
それより、と男は少し先を見るように背筋を伸ばした。
 
 
「明るくなる前に車の乗り捨て場所まで急ぐが、お前どこまで一緒に行く」
 
 
アンはつと自分の姿を見下ろした。
この格好はいくら人目がなくても目立つ。
 
 
「脱ぐから適当にその辺で降ろして」
 
 
そう言うと、アンはおもむろに警備隊の制服を脱ぎ始めた。
男はバックミラーにちらりと目をやって、何事もないように車を走らせつづけた。
固い制服を脱いでTシャツ一枚になり、ズボンにくっついていた細々としたおもちゃのような無線機を取り外す。
下の替えはないので仕方ない。
車はちょうどアンの家まであと50メートルほどのところまでやってきていた。
 
 
「ここで降ろして」
「服は置いて行っていい。髪飾りはお前が持って行け。おれが運ぶより安全だ」
「わかった」
 
 
アンは左のポケットにあるふくらみを確認して、扉を開けた。
身体を外に出し静かにドアを閉めると、車はぐっとスピードを出してすぐに角を曲がり、アンの前から姿を消した。
アンは煌々と街灯の光る歩道を横切って、自宅のドアに手をかけた。
帰ってこれた。
 
 

 
Tシャツを脱ぐと、ぱらりとガラスの粉が足元に落ちたので、慌ててそれらを拾い、粉を落とさないよう気を配りながらそれを丸めてゴミ箱に突っ込んだ。
襟首のところに、後ろ首から流れた血が少し滲んでいた。
破片がかすった程度だったので、痛みはそれほどない。
ズボンも脱いで、自分の、比較的楽なものに履き替える。
ガチャリとドアが開いた。
 
 
「あ、着替えてた」
「うん、もう風呂は明日」
 
 
ルフィは、上半身下着姿で替えのTシャツをクローゼットから引っ張り出すアンの背後に歩み寄ると、どんと腰を下ろした。
アンは自然な仕草で、長い髪を後ろに払う。
もぞもぞと服にそでを通しながら、アンは後ろを振り返った。
 
 
「なに、どうしたの」
「そのTシャツ捨てんのか?」
 
 
ルフィの視線はゴミ箱を捉えていた。
あぁ、うんと曖昧にアンは頷く。
 
 
「ちょっと汚れちゃって」
「洗えばいいのに」
「取れそうにないから」
「フーン、珍しいな。アンが物捨てんの」
 
 
そうだね、と言いながらアンは立ち上がった。
ルフィはふわあと欠伸を漏らす。
 
 
「アンタももう寝るんでしょ」
「うん、ねみぃ」
「起きて待ってなくてもいいのに」
「いいんだ、それは」
 
 
サボもまだ起きてる、とルフィは立ち上がった。
 
 
「バンソウコウ、持ってこようか?」
「え?」
 
 
アンは咄嗟に首すじに手をやっていた。
その仕草を、ルフィはきょとんと眺める。
 
 
「……い、らないよ」
「そうか、じゃあ寝るぞ」
 
 
カチッ、と小さな音ともに灯りを落とした。
隣の寝室に入る。
サボはまだいない。
ルフィはすぐさま真ん中のベッドに倒れ込んだが、アンは左右に首を振ってサボを探した。
いない。
 
 
「サボは?」
 
 
ぐおぉ、と唸り声が返事をした。
もう寝てるし、とアンは呆れて真ん中のベッドに歩み寄った。
 
 
「ほら、腹冷えるんだからちゃんと布団着て」
「んんー……」
 
 
ばさりとルフィの上にかぶせた布団を、ルフィは器用に身体に巻き付けた。
アンはすとんとその隣、自分のベッドに腰を下ろす。
音もなく寝室にサボが入って来た。
 
 
「なんだ、もうこっちにいたんだ」
「ごめん、探してたの?」
「いや、いいんだ」
 
 
はわあああ、と声を上げてサボは大きな欠伸をする。
アンは窓の外に目をやった。
まだ空は暗いが、じきに朝がやってくる。
 
 
「今日は休業で明日は日曜だから、ちょうど2連休になるな」
 
 
サボは自分のベッドに這い上がりながら、どこか嬉しそうにそう言った。
そうだね、とアンも答える。
 
 
「どこか行こうか」
「どこかって、どこに?」
 
 
サボがバタンと体を横たえたので、アンも同じように身体を倒した。
 
 
「それは……また、あした、決めれば……」
 
 
はわあああ、とまた欠伸が聞こえた。
そうだね、と同じ返事をする。
 
 
「おやすみ……」
「おやすみ」
 
 
そのまま、サボはすぅと落ちるように寝入ったようだった。
アンは少し顔を上げて、並ぶ二人の顔を見比べる。
ふたりとも少し口を開けたまま、すぅすぅと健やかな寝息を立てていた。
疲れているんだな、と思った。
ルフィも、サボも、あたしも。
 
アンはそっと毛布を引き寄せながら、二人に背中を向けてブラインドのかかった窓を見つめた。
そろそろ考えなければいけない。
アンがいない、ふたりの未来を。
 
 
 

 
鍵はずっと、アンが持っていた。
街の東南の果てへと続くゆるやかな坂道を、3人分の足音が昇っていく。
中心街の喧騒はずっと遠くの下の方へと離れ、辺りは静かだ。
車がなければ生活できないような辺鄙な土地に、その家はあった。
アンたち3人は丘のふもとでバスを降り、長く続く坂を延々と上った。
徐々にその家の屋根、外壁、そして門構えと全貌が見えてくる。
一般家屋とはいいがたいその「屋敷」は、アンが人生の最初の半分を過ごした場所だ。
アンは坂を上る途中で、羽織ってきたカーディガンを一枚脱いだ。
大仰な門構えが目の前に迫ったときには、既に額が汗で濡れる程でもあった。
 
 
「思ったより、遠かったな……」
 
 
サボも、ふぅと息をついている。
ルフィだけが元気に、さっさと門へと走り寄って行った。
 
 
「この塀の上! よく3人で走ったよな!」
 
 
ルフィが家をぐるりと囲む塀を指さして大きく笑う。
つられて、アンとサボも顔に笑みをのせた。
絡まり合うような3つの甲高い声が、聞こえる気がした。
 
 
あらゆる花木が美しく繁茂していた庭は、今や小さな林のように無造作な緑一色になっていた。
広い庭は、知らない場所のように片付いて殺風景だ。
門の中に足を踏み入れた3人は、その光景をただじっと眺め渡していた。
小さなバケツも、赤いスコップも、3つの水鉄砲も、こっそり掘った宝物入れの穴も何もない。
アンは顔をのけ反らせるほど上を仰いで、屋敷の全貌を視界に収めた。
これがあたしの家だったなんて、嘘みたいだ。
 
昔の家へ行ってみようと言い出したのはアンだった。
暇を持て余して日曜を過ごすほど、3人とも出不精ではない。
むしろその逆、時間を勿体なく感じて仕方がない。
ではどうすると考えるものの、特に3人とも思い当たる行くべき場所もない。
そう広いわけでもないこの場所で、特にめぼしい場所もなかった。
だから、アンがあっと思いついた最初の案は、「ダダンの家に行ってみよう」というものだった。
 
 
「最近会ってないしさ、たまには顔見に行くのもいいんじゃない」
「えぇぇ、ダダンの?」
 
 
ルフィは顔をくしゃっとしかめたものの、それほど嫌なわけではないのだろう。
「絶対ェクソガキって言われるな」とすぐににしゃりと笑いだした。
そこでふと、思ったのだ。
どうせ昔の家へ行くのなら、本当の昔、アンたちの「本当」の家へと行ってみたらどうかと。
それを口に出してみると、ルフィは「あぁ」と至極普通に相槌を打ったが、サボが微かに眉根を寄せた。
 
 
「今まで、一度も行ったことないな」
「うん」
 
 
いいのか、とサボの目線が問うていた。
鍵はずっと、開けることのない引き出しの中にしまってある。
 
 
「ずっと、行かなきゃいけないと思ってた」
 
 
アンが食卓をはさんで向かいに座るサボの手元に視線を落としてそう言うと、ルフィが「すげぇ、何年ぶりだ?」とさっそくわくわくした声を出した。
そうして翌日、この屋敷へと赴くことが決まった。
 
 
屋敷の外壁はひび割れこそないものの蔦が這い、雨に打たれて色は風化していた。
朱色の屋根は薄黒くくすんで、まるで廃屋。
大きな扉はチョコレートの板のように深い茶色で、水を含んだ重たい木の色をしていた。
アンはその扉の金色の鍵穴に、そっと鍵を差し込んだ。
ガチャン、と何かを隔てるような重々しい音が響いて錠前が開いた。
 
重たい扉を両手で開けて中に踏み入った3人は、予想を裏切る家の中の様子に唖然として立ち尽くした。
埃臭く、濁った色に汚れ、蜘蛛の巣の張り巡らされた薄汚い屋内の想像と、現実はまったく反対だった。
薄茶色のフローリングはまるでワックスをかけたばかりのように、薄暗い中でもきらりと光っており、いくつか残っている下駄箱やローテーブルなどの調度品も埃ひとつ被ってはいない。
ローテーブルの上に置いてある大きな花瓶に花こそ生けられていないものの、そうであってもおかしくはなかった。
それほどに、磨かれていた。
 
 
「なんだ、めちゃくちゃキレイだ」
 
 
ルフィがぽかんと口を開けて言う。
アンもこくりと頷いた。
サボが一歩足を踏み出すと、木の床が微かに軋んだ。
 
 
「誰かが、掃除してくれてたのか……?」
 
 
サボは一通り周りを見渡してから、アンに尋ねるように向き直った。
アンは「わからない」と首をかしげる。
ダダンの家に住むようになって、そして今の家に住むようになってから、一度もここへ来たことはない。
定期的な掃除を誰かに頼んだ覚えも、そんな話も聞いたことはなかった。
 
 
「じぃちゃんかな」
 
 
ポツリとアンが呟くと、ルフィが顔をしかめて「それはねぇ」と言う。
 
 
「じぃちゃんがわざわざそんなことするかよ」
「でも、誰かに頼んでおいてくれたのかもしれないぞ」
 
 
ありえる、とアンはピカピカの壁に手を触れながら頷いた。
しかし、ルフィのじぃちゃんが人に頼んでくれていたなら、その旨をアンたちに伝えてくれていてもおかしくない。
そもそも、じぃちゃんは今この街にいない。自分の目の届かないところで見ず知らずの人間をアンたちの家に勝手に上げるような真似をするような人ではない。
無骨で乱暴だが、繊細でもあるのだ、あの人は。
 
あっ、とルフィが声を上げた。
 
 
「マキノじゃねぇか!? じぃちゃんが、マキノに頼んでくれていたのかも」
「あぁ、なるほど」
 
 
サボも合点した様子で頷いた。アンもそれがいちばんもっともらしいかも、と思う。
マキノは、ダダンの家の近くで小さな酒屋を営む若き女店主だ。
ダダンに放置されて無法図に育っていく3人を、かろうじて常道へと収めさせてくれていたのが彼女だった。
優しくて、温かくて、母代りには年若すぎるが頼りになる美しい姉。
3人とも、マキノが大好きだ。
 
 
「でももしそうだとしたら、こんな遠くまでこの広い家、掃除してくれてたなんて……しかもそれ、今まで知らなかった」
「じゃあここの帰りに、久しぶりにマキノの店に寄ろう。もしマキノが掃除してくれていたなら礼を言わなきゃだし、そうじゃなくても何か知ってるかもしれない」
 
 
そうしようそうしよう、とルフィが一二もなく賛同した。
口元が緩んでいるところを見ると、何かマキノの作る料理を期待しているに違いない。
ただアンも、久しく会っていないただ一人の姉の姿を思い浮かべて、すこしだけふわりと心が浮かんだ。
 
 
 
3人は長くて広い廊下を進んで、リビングへと足を踏み入れた。
ソファも、机の配置も、食卓のテーブルも、本棚も、すべてがそのままだった。
廊下と同じように、どこもかしこも埃をかぶっている様子はない。
室内の空気が多少こもっているくらいで、埃臭さや息苦しささえなかった。
しかし部屋に入りリビングの全貌を視界に収めたその瞬間、眩暈のように頭が強く揺さぶられ、頭の内側から流れ出す映像がとめどなくアンを襲った。
 
父さんがソファでだらしなく寝そべっている。
ルフィが床に座り込んで、おもちゃの電車を超高速で走らせる。
サボがそれを笑って覗き込む。
アン自身もその手に自分の電車を持っていた。
ルフィに張り合って線路の上を走らせる。
いつも開いたままだった大きな窓から、庭を吹き抜ける風が家の中を通りすぎた。
食事の匂いが身体を包んだ。
ごはんの前に手を洗ってらっしゃい、と左側から声がした。
そっちはキッチンだ。
エプロンを閉めた母さんが、振り返って微笑んだ。
ガツン、と頭の内側から石がぶつけられたように痛んだ。
「う、」と小さく呻くと、がしりと肩を掴まれる。
 
 
「アン、大丈夫か」
 
 
大人びたサボの声は全てを現実に引き戻した。
過去の記憶は霧散して消えていく。
大いびきをかくソファの上の父さんも、小さな手に電車を握るルフィも、サボも、自分自身も、振り返る母さんの笑顔も。
 
 
どうしてだれも、ここにはいないの?
 
 
「アン!!」
 
 
いつのまにか、自分のつま先がものすごく近くにあった。
しゃがみこんでいた。
そのまま前に視線を遣ると、食卓のテーブルの脚が林立する景色が視界に現れた。
ここは、アンたち3人のささやかな隠れ家だった。
大人の視界から隠れた3人だけの世界。
あの日、父さんも母さんも帰ってこなかったあの日、アンたち3人はこのテーブルの下にいた。
いつまで経っても帰ってこないふたりをここで待っていた。
突然上がりこんできた大勢の足音を、ここで聞いた。
 
背中全体を守られるような温度がアンを包んだが、それでも頭はクラクラと常に揺れ、視界はチカチカと白や緑の光にまたたく。
胃がぐっと上に持ち上がる、堪えがたい不快感が胸と喉元に広がる。
咄嗟に口元を押さえた。
強く目を瞑った。
不意に、背中を包むものとは別の温度が、しゃがみ込むアンの前方を包んだ。
そのぬくもりにほんのかすかに気が緩んだ時、ふわりと体が浮かぶ。
小さな子供がされるように前からアンを抱き上げたのは、ルフィだ。
細い肩はしっかりとアンを抱えて、淀みなくソファへと歩いていく。
アンは背中からソファの柔らかい生地に迎えられた。
サボの呆れ混じりのため息が聞こえた。
 
 
「いきなり動かして、吐きたくなったらどうすんだ」
「そしたら吐けばいいんだ。おれ『吐く』ってどんな感じかしらねぇけど」
 
 
だいじょうぶか、へいきか、とルフィはアンの顔を見下ろすように覗き込んだ。
目を開けると、至近距離にあるルフィの顔の後ろに高い天井が見えた。
視界はもうチカチカしていない。
だいじょうぶ、とアンは自身の手の甲を額に当てながら呟いた。
 
 
「ごめん、ちょっと……」
「いい、無理しなくていいんだ。今日はもう帰ろう」
 
 
ごめんな、とサボはアンの手を取って、強く握った。
頭が重たくて、喉も狭くなって、どうして謝るのとは訊けなかった。
 
 

 
サボはこのまますぐ帰ろうと言ったが、アンは「マキノにだけは会いに行きたい」と言った。
サボは心配げに眉根を寄せたが、もう本当に平気だから、とアンが笑うとサボは「じゃあマキノの家で休ませてもらおう」と言った。
ルフィは変わらず、マキノに会えるのでうれしそうにしている。
 
ソファから立ち上がると少し足元がふらついたが、歩けないほどではない。
アンはルフィとサボに挟まれて、屋敷を後にした。
しっかりと鍵をかけ、門を閉じる。
長い長い坂は、行きよりも短く感じた。
 
 
マキノの家は街の北東エリア、あまり治安がいいとは言えない場所にある。
しかし酒屋として生計を立てるならばそれくらいの治安でなければ儲からないのかもしれない。
実際マキノはそこで、果敢に店主を続けている。
アンたちは坂を下りて、またバスを拾った。
バスはマキノの店のすぐそばでアンたちを降ろす。
時刻は昼過ぎ、ルフィの腹が屋敷を出たあたりからうるさい。
 
マキノに訪問の連絡は入れていなかった。
買い物中などでなければ店にいないということはないだろうが、突然の訪問に驚くことは間違いない。
それが迷惑であると感じるような人ではないことを、アンたちは知っている。
店は準備中だったが、鍵は開いていた。
古い木の扉を開けると、ほの暗い店内の奥から「いらっしゃい」と闊達な声が聞こえた。
 
 
「ごめんなさい、いま、準備ちゅ、う……」
「マキノ」
 
 
マキノは目いっぱい背伸びをして、プルプルと足元を震わせながら、高い棚にある酒瓶を取ろうと手を伸ばしている最中だった。
アンの呼びかけに、震えていた身体がぴたりと止まる。
パッと振り向いた顔は、予想通り驚きに満ちていた。
 
 
「あなたたち……!!」
「マキノー!腹減った、なんか作ってくれ!!」
 
 
準備中の店内に他の客がいないからいいものの、ルフィはひとりでがやがやとカウンターまで歩いていく。
マキノは初めこそ目を丸めて驚いたものの、すぐに破顔してみせた。
 
 
「おどろいた、久しぶりね。あなたたち全然来ないんだから」
「ごめん、最近忙しくて。マキノもだろ?」
 
 
サボの言葉に、マキノは細い眉を少し寄せたまま笑って頷いた。
 
 
「順調みたいね。うわさは聞いてるわ。私も店がなかったらすぐに行きたいんだけど」
「いいよ、マキノの店が開かないと困る人が多いだろ」
 
 
それよりさ、とサボはちらりと横に目を走らせた。
マキノがその視線に引っ張られて、アンの方に目をやる。
そしてすぐ、白い額にいくつか皺を作った。
 
 
「アン、あなた、ひどい顔」
「ちょっと休ませてくれないか、アンが少し疲れて」
「当たり前よ、アン、こちらにいらっしゃい」
 
 
アンはマキノに手招かれ、サボに背中を軽く押されて、戸惑いながら歩き出した。
ひどい顔って、どんな顔をしているというんだろう。
マキノはアンの背中を支えるように触れると、カウンターの中から通じるマキノの自宅のほうへとアンを招き入れる。
 
 
「アンを休ませてからあなたたちのごはん、用意するからちょっと待ってて」
「おう!」
 
 
ルフィが鷹揚に返事をするのを、アンは背中で聞いた。
マキノに連れられて、狭いが小奇麗な家の中を歩いていく。
マキノはアンの顔を覗き込んで、少し眠りなさいと言った。
小さな一室の清潔なベッドにアンを連れていき、そこに横たわらせる。
 
 
「お腹が空いてるなら後で何か持ってきてあげる。どう?」
「いまは……いいや」
「そう」
 
 
ゆっくりしていいからね。そう言って、マキノはアンのお腹の辺りを一つ叩くと立ち上がった。
布団で顔を半分隠したまま「ありがとう」と呟くと、マキノは「あなたの顔を久しぶりに見られてうれしい」と笑い、そのまま部屋を後にした。
 
あたしも、マキノに会えてうれしい。会いたかったんだよ。
言いそびれた言葉を頭の中で再生して、アンは目を閉じた。
眠れそうにはなかった。
サボには平気と言ったが、まだ頭の中は収拾がつかない程度に混乱していた。
アンを襲った記憶にではない。
あんなふうに、記憶に襲われたことに戸惑っていた。
 
父さんと母さんがいないことは、この10年の間でアンの中ではすでに当たり前の事実だった。
到底納得のいく話ではなかったが、それでも整理をつけるのに十分な年月をアンは生きた。
親のいない子供など、世の中には山ほどいる。
アンより過酷な道を生きざるを得ない子供も、きっといる。
かけがえのない兄弟がいるアンはきっと、その中でも幸せな部類だ。
それなのに、あんなふうに、少し過去の破片を目にしただけでその「事実」は果てしなく理不尽なものに感じられた。
 
どうして父さんも母さんもいないのにこんな家があるの。
あたしたちはどうしてここに住んでいないの。
どうして3人ぼっちでしかないの。
どうして死んでしまったの。
どうしてあたしたちだけが生きているの?
 
十分だと、これ以上ないくらい幸福だと思っていた生活に、アン自身が実は満足していないということを、自分の手によって裏打ちしてしまった。
きっとあの家に戻ることさえしなければアンは今の生活を至福として過ごしていけた。
時々両親のことを思い出して、少し悲しくなって、それでもルフィとサボがいるから十分だと。
 
ずっと、逃げていた。
あの家にいつか戻って、少なくとも自分の目で今とは別の生活があったことを受け入れて、そして納得したうえで今の生活を続けていく。
その覚悟が必要であると分かりながら逃げていた。
忙しさにかまけて、なかったふりをして。
やっと覚悟を決めたと思えばあのザマだ。
サボとルフィだって、辛くないわけがないのに。
あたしはいつだって、自分のことばかりだ。
 
いやになる、とアンは仰向けの身体を転がして壁のほうを向いた。
こんなあたしを赦してくれるひとはきっといない。
赦してほしいと思ってはいけない。
サボとルフィの優しさはアンを赦しているわけではない。
甘やかしてくれているのだ。
あのふたりはきっと、頼まなくても一生アンを甘やかし続けてくれる。
それで赦された気になってはいけない。
誰も縛ってくれないあたしを、あたしは自分で縛らなければならない。
 
アンはけして弱音の洩れることのない唇をきゅっと噛みしめたまま、いつのまにか眠りに落ちた。
 
 

 
「アンは?」
 
 
アンの様子を見に行って、そして戻ってきたマキノにすかさずそう問うと、マキノは「寝てた」と口の形だけで返事を返してきた。
そう、とサボは張りつめていた肩の力を少し抜く。
本当ならば引きずってでもすぐに家に連れて帰りたかったが、マキノに会いに行くとアンは強情に言うし、言い出したら聞かないことも知っている。
結局、こうしてマキノの家でアンが休むことができたので、ここに来てよかったと思う。
マキノはカウンターの向こうで磨き終わったグラスを丁寧に棚に戻しながら「久しぶりに見たわ」と何気なく零した。
 
 
「なにを?」
「あんな顔のアンよ。真っ青で、見るからに気分悪そうな顔するなんてそうそうないわ」
「……そうだな」
 
 
言われてみれば、サボもあんな顔のアンを見たのはむしろはじめてな気がした。
いわゆるアンのつらい時期にアンがどんな顔をしていたかは、さすがにサボも鮮明には覚えていない。
「アンは腹も壊さねぇからな」とルフィが神妙な声で言った。
 
 
「あなたたちは平気?」
「おれたち?」
「えぇ、辛くない?」
 
 
辛くない、と言えば嘘になる。
辛かった。
平和だった暮らしの外面だけがそのままで、その中で生きるはずの人だけがいない有様を突きつけられて、その理不尽さに腹さえ立った。
ルフィも答えない。
口に咥えたジュースのグラスをゴロゴロとテーブルの上で転がしている。
 
 
「アンに比べたら」
「そう。あなたたちもゆっくり休んでいきなさいな。お店は開けなきゃならないけど、そしたら奥に入っていていいから」
 
 
マキノはわかっている。
そう思うだけで、幾分救われた気がした。
粗方片付けを終えたらしいマキノは、サボとルフィの向かいに腰を下ろした。
ずっと昔からマキノが使うバンダナは、3人でプレゼントした。
そんなこともあったのだ、と思うと幼いころがいとしくもあり、無性に切なくもなる。
マキノは座ったまま、サボのコーヒーを淹れ直してくれた。
 
 
「大きくなったわね」
「なに、いきなり」
 
 
サボが若干の照れ隠しに怪訝な声を出すと、マキノは頬杖をついたままサボとルフィを見てニコリと笑った。
 
 
「ふたりとも、すっかり男らしくなっちゃって」
「おれとアンが高校卒業したときに会っただろ。それにおれはもうさすがにあれから背は伸びてないよ」
「ちがうわよ、身長の話じゃないわ」
「おれはまだ伸びるぞ!」
「ハイハイ、期待してるわ」
「──ちょっとは大人っぽくなったってこと?」
 
 
そうね、とマキノは言葉を口の中で転がすようにして考えるそぶりを見せた。
 
 
「ふたりがいれば、きっとアンはだいじょうぶね」
 
 
その言葉のわりに、マキノの顔は明るくなりきれてはなかった。
サボはその表情の意味を手探りする。
 
 
「でも、アンは強いよ」
 
 
マキノはサボの言葉を聞き流すように、手元のコーヒーカップに視線を落とした。
そうかしら、と聞こえた気がして、サボはまじまじとマキノの顔を眺めた。
マキノは顔を上げない。
 
 
「──あの子もきっと、自分は強いと思ってるわ」
「だって本当に」
 
 
マキノはサボを制するように、静かに微笑んだ。
ただの微笑みにサボの言葉は飲み込まれてしまう。
マキノはまるで手を組んで祈りの言葉を口にするときのような顔をしている。
 
 
「私も、あなたたちがずっと一緒にいられたらいいのにって、思うのよ」
 
 
それはつまり、ずっと一緒にはいられないということを暗に言っていた。
婉曲にではあるが、こうも確かに言ったのがマキノでなければ、おれは間違いなく腹を立てていただろうとサボは静かに思う。
マキノが述べるのはただの事実だ。
それもかなり柔らかく包んでくれた。
サボが腹を立てる権利も意味もない。
 
「わかってるんだ」と口にした言葉は思ったより掠れていた。
それは死に別れるだとか、そういう話ではない。
ただ、現実として、3人の兄弟が大人になり歳を取り老いるまで共にいられるかというだけの話。
自分はそれでもいい。
どうせおれは、もう思いだせもしない姓を捨てたあの時から何も持っていない。
それならば、アンとルフィの生活を守りながら生きて死ねればそれがいい。
それは、これ以上にない自由だ。
 
ルフィはきっと、自分の手で何かを掴むことを知っている。
血のつながる家族もいる。
そんな家族を大切にすることも、それ以外の仲間を見つけることも知っている。
不器用ながらそのバランスを取って、それこそ『自由』に、ルフィは生きていける。
 
だがアンは知らない。
耐えることしか知らない。
だからこそもっと知ってほしい、外の世界を知ってほしい。
家族でなくとも、人を大切に思うこと。
なにかを欲しがること。
自分のためになにかをすること。
 
アンの背中を押すのはきっと自分の役目だ。
しかしマキノが口にしたことは、サボにとっては本物の祈りだった。
単純にずっと一緒にいたい。
それはきっと、食欲性欲睡眠欲に近しいただの欲望だ。
その欲求が満たされない時、自分がどう行動するのかわからない、それが一番怖かった。
ただひとつわかるのは、人と言うのは欲求不満に対処する防衛手段を持っているということ。
つまりサボの場合、アンを失いかけたそのとき、その防衛手段は発動する。
それがどんな形で出るのか、そのときが来ないとわからない。
 
 
「わかってるんだ」
 
 
わかってる、わかってる、とぶつぶつ呟く。
そうして自分に言い聞かせる。
 
サボ、お前はわかってるんだぞ。
アンを外に出してあげなければいけないと、わかってるんだぞ。
 
 
「サボ」
 
 
ぎゅうと、痛いくらい強く右の腕を掴まれた。
今までずっと大人しくグラスを転がしていたルフィが、サボの腕を掴んだまま立ち上がった。
 
 
「おれはねる」
 
 
きょとんと、マキノが顔を上げてルフィを見つめた。
ルフィは真っ黒な瞳をまっすぐマキノに向けて、それからサボに向けた。
 
 
「せっかくだから今日ここ泊まってこう!マキノ、いいだろ!」
「えぇ、もちろんいいけど」
 
 
目を白黒させて、マキノはルフィとサボを交互に見やる。
 
 
「サボも昼寝しとこうぜ!アンも寝てるし、晩メシ前に起きりゃちょうどいい!」
「と、泊まってくって……明日は店あるんだぞ」
「明日もやすみだ!」
 
 
ルフィは堂々と、それは堂々と何様かと言うほど胸を張って臨時休業を宣言した。
マキノがぷっと小さく吹き出す。
 
 
「ルフィあなた、明日学校よ」
「学校には行くだけなんだからここからでも行けるだろ!」
「荷物は」
「弁当!!」
 
 
マキノは変わらずくすくす笑いながら、明日作ってあげるわと言った。
 
 
「そういうわけらしいわよ、サボ。泊まっていきなさいね」
「でも……」
「食べ物屋さんならね、少し休んで人に「早くあれを食べたい!」って思わせるくらいが丁度いいのよ」
 
 
と、マキノは聞いたこともない持論を展開した。
マキノの言葉は、それが正しいか正しくないかを考えることさえ馬鹿らしく思わせるような力を持っている。
いつのまにか、「それじゃあ」とサボは頷いていた。
ただね、とマキノがたいして深刻でもなさそうに腕を組む。
 
 
「私の家、ベッドはふたつしかないの。今アンが寝てるベッドと私のベッド。あなたたちの場所をどうしようかしら」
「アンが寝てる部屋の床でいいぞ、おれは」
「そんなわけには」
「本当にいいよ、それで」
 
 
サボがルフィの言葉を後押しすると、マキノはしばらく逡巡してから「まぁそれは夜までに考えておくわ」とにっこり笑った。
 
 
「昼寝するなら奥の部屋から毛布とシーツだけ取ってらっしゃい。小さいけど、リビングの椅子とソファを使えばいいわ」
「おう!」
 
 
ルフィは勝手知ったる人の家、とばかりにずんずん中へと入っていった。
サボはその背中を呆れ顔で見送ってから、「急にこんな、ごめん」とマキノにしおらしく謝った。
にこにことルフィを見ていたマキノが、途端にきっと顔を厳しくする。
もともと柔和な彼女には似合わない表情で、サボは思わず背筋を伸ばした。
 
 
「サボったら、相変わらず変なところでおバカさんね。甘えるときは素直に甘えなさい。私にお姉さん面させる気くらい遣いなさい」
 
 
その気迫に押されて、サボは思わずまた「ごめん」と言う。
するとマキノは、いつものように穏やかに笑ってカウンターに片手をついた。
サボのほうへと手を伸ばす。
しかし「あら、届かないわ」と言い、サボの顔の少し下あたりで伸ばした手を手招きするように動かした。
サボがその動きに乗せられて少し屈むように頭を下げると、マキノは満足げな顔で、サボの頭に手を乗せた。
さくさく、とサボの短い髪が擦れて音を立てる。
 
 
「いい子ね」
 
 
歌うような声だった。
 
いい子よ、あなたはとてもいい子。
そう言ってマキノは気のすむまでサボの頭を撫でた。
 
誰かに頭を撫でられるのは、ひどく久しぶりな気がした。
高い高い場所にあるサボの頭に手を伸ばしてくれる人は、近頃誰もいなかった。
カウンターの上に落ちる水滴を見ないふりをして、マキノはいつまでもサボの頭を撫でていた。
 

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