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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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パン屋の朝は早いというが、農家の朝だって早い。
八百屋や街のスーパーが開店する前に、みかんを届けなければいけない。
ただ、今は私の家がメインに育てているみかん種の季節じゃないので、現実的な実入りは少ない。
とても厳しい時期であるはずなのに、ベルメールさんは毎年呑気にこの時期をやり過ごしている。
何かと物入りな春に収入が少ないのは実際彼女の頭をものすごく悩ませていただろう。
しかしベルメールさんは、私たちが余所でアルバイトをすることを許さなかった。
「他で働く暇があるならうちのことを手伝いなさい」と腰に手を当てて言ったものだ。
存分に学生を楽しむ時間をくれていたのだと、今ならわかる。
 
 
「いってきまーす……」
 
 
家そのものが眠りについているかのような静寂の中、私はひっそりと家を抜け出す。
みかん畑の横の倉庫から、その日出荷するみかんを予定通りの数だけトラックに積み込み、街へと下りる。
白けた朝の光が、視界の下方に見える街をぼんやりと霞がかって見せた。
 
街のはるか向こうには海がある。
とても天気が良くて、なおかつ空気の澄んだ日にしかそのきらめきは見ることができない。
今日だって、春霞のせいか海の青色は丘の上からも見えなかった。
 
私は一軒また一軒と八百屋を回り、トラックの後ろを軽くしていった。
白んでいた町がどんどん朝の活気に包まれていくと、自然に私の頭も冴えてきた。
全ての出荷を終えて、朝一番のスーパーマーケットの駐車場に車を停めた。
広々としたその空間にまだ車は少ない。
財布を持って運転席を降りた。
 
私がこうして街に下りて買い物をすることはめったいないが、それでもときたまベルメールさんやノジコに配荷のついでのお使いを頼まれることがある。
私はキンと冷えた生鮮食品売り場を通り抜け、籠に2リットルの牛乳のボトルを放り込んだ。
頼まれたのはそれだけだったが、朝日の照り返しで火照った頭を冷やそうと適当に店内をぶらぶらする。
秩序正しく並べられた食品たちの間をなんともなしに闊歩するのは、なんだか少し自分が偉くなったような気分にさせる。
保存食品の棚を通り過ぎ次の陳列棚へと角を曲がったそのとき、同じように向こうの棚から人の姿が現れたので、一瞬足を止め、慌てて体を横に滑らせ道を譲った。
俯いたまま少し頭を下げ、そしてそのまま通り過ぎようとしたその時、きゅっと肘の辺りを掴まれた。
驚いて顔を上げると、同じように丸くなった青い目があった。
「ナミさん」と彼は言った。
 
 
「偶然。こんな朝早くに、買い物? 家この辺なんだっけ」
 
 
サンジ君はすぐさま掴んだ手を離し、愛想よく微笑みを浮かべて言った。
彼も私と同じように、片手に買い物かごを下げている。
中には青い葉野菜がひとつ入っていた。
私が答えないでいると、サンジ君は訝しげに片眉をひそめた。
 
 
「ナミさん……だよな? 覚えてねェ? こないだゾロんちでも会った」
「覚えてるわ」
 
 
忘れるわけがない、と私が慌てて応えると、ひそめた眉は安堵したようにその形を緩やかな線に戻した。
それと同時に私は今の自分の格好を思い出し、急に恥ずかしくなってしまった。
だって私は今汚い作業服のままで、ズボンのポケットは軍手が突っ込んでありぽこりと膨らんでいるのだ。
おまけに頭は寝起きのまま、とてもじゃないが知った人に会う格好ではない。
ましてや彼になんて。
突然もじもじしだした私を知ってか知らずか、彼は私から視線を外してスーパーを見渡すように顔を上げた。
 
 
「ここ、オレの冷蔵庫代わり」
 
 
つまりは行きつけのスーパーということだろう。
私はおぼつかない口調で、家がこことは少し離れていることを伝えた。
 
 
「家の手伝いしてるんだっけ。朝から偉いね」
 
 
そういうサンジ君の口調は、子供のお手伝いを褒めるようなものだった。
私は内気な子供のように俯いて、そっけなく「別に」と言った。
なんとなく話が途切れたので、サンジ君は「それじゃあ今日はこれから学校行くから」と籠を持ち直して私に笑いかけた。
途端に、なぜか焦るような困るような気持ちが胸に流れ込んで、何としても彼を引き留めなければならないというような気分になり、私は慌てて口を開いた。
「あなたの絵を見たい」と口をついていた。
 
サンジ君はきょとんと私を見返して、ふわりと笑った。
 
 
「そういやあンときも、ウソップの絵見に来てたんだっけ」
 
 
そうそう、と頷いて彼を見つめ返すと、サンジ君はあっさりと「いいよ」と言ってズボンのポケットから携帯を取り出した。
 
 
「番号教えて? 空いてるときに連絡するよ。おれの番号も教えるから」
「私携帯電話持ってないの」
「まじで? じゃあどうしよっか」
 
 
彼は携帯電話で連絡を取る以外の方法を知らないようだった。
私は番号を教えてくれたらこちらから家の電話で連絡すると伝えた。
 
 
「わかった。えーと、何か書くモン持ってる?」
 
 
私がポケットから得意先の番号をメモした紙切れを取り出しその裏を指し示すと、彼は私が一緒に差し出したペンで電話番号をすらすらと書きこんだ。
 
 
「電話、出られない時もあるかもしれないけど」
 
 
私が紙を受け取ると、彼はにっこりと笑ってそれじゃあと言った。
いつのまにかスーパーの中には、ちらほらと人が増えている。
私はレジへ向かい、彼はまた陳列棚の間へと消えた。
受け取ったメモを胸のポケットにしまい、ビニール袋に入れられた牛乳を手に車に戻ると、私は急いで彼の番号をダッシュボードに入っていたメモ帳に書き写した。
 
 
 
 

 
その日の夜、ノジコが買い出しでベルメールさんが夕食の用意をしている間に、私は家の電話のボタンをポチポチと彼がメモした通りに押していた。
家の電話は固定式でしかもリビングに置いてあるので、私が電話を掛けようとしていることも話している声もキッチンにいるベルメールさんには筒抜けだ。
気恥ずかしいがどうしようもない話で、そういったもどかしさは幼いころ何度も経験済みだったのでいまさらということもあり、私は彼女に「ちょっと電話使うね」と軽く断りを入れていた。
 
受話器からは長い間コール音が流れていた。
私は一つずつそれを数えて、10回目を過ぎて諦めようとしたその時、11回目の一音節くらいの瞬間、ぷっと接続音が聞こえた。
 
 
「もしもし?」
 
 
聞き覚えのある声より少し低いが、それでもやはりサンジ君の声だった。
とんと胸がひとつ跳ねる。
 
 
「私、ナミです」
「あぁナミさんか。ありがとうさっそく電話くれて。いつくれるだろうって、今日は一日そわそわしちまったよ」
 
 
サンジ君は私を、女の子を喜ばせる言葉をいくつも知っていて、それらの中からそのセリフを選びだしたようだった。
私は落ち着いた声を出すのに一生懸命で、可愛くない低い声で「そう」と言っていた。
 
 
「そうだな、明後日の……昼間空いてる? 昼飯一緒に食べよう」
 
 
空いていると伝えると、彼はあぁよかったと言って「それじゃあどこで待ち合わそうか」と話を進めた。
電話の向こうで彼は、朝見たような薄らとした微笑みを浮かべているのだろう。
 
 
「大学の……バス停まで行くわ」
「分かった、それじゃあ正門前で会おう、昼の12時でいい?」
 
 
電話はこちらから切った。
無機質な接続音をどうしても聞きたくなかった。
「オトコー?」とキッチンから無遠慮な声が飛んでくる。
 
 
「ウソップの、大学の、先輩!」
 
 
あらそうと言ったくせに、キッチンからは相変わらずけらけらとベルメールさんが一人で楽しそうな笑い声を立てている。
私は二階に駆け上がって、とびきりお気に入りの小説の間に彼の電話番号を挟んで閉じこめた。
 
お風呂から出た後や、眠る前、そして朝起きたときなんかに、机の上に置いたその小説に目を走らせては、少しためらってから手を伸ばしてページを捲った。
電話番号のメモがちゃんとそこにあることを確認して、心を落ち着かせた。
ぞわぞわと心臓の下の方から細かい虫のようなものが這いあがってくる間隔は心地よくはないけど、悪くない。
 
 
 

 
約束の日、少し早いと知りながら私は11時に家を出た。
くたびれたTシャツを隠すようにまだ新しいカーディガンを羽織って、小ざっぱりとした白いパンツをはいた。
春の日差しは丸く角がなく、温かい。
てくてくと丘を下っているうちに体はほんのり温まる。
丘の下のバス停には腰のまがったおじいさんがひとり立っていて、私はおじいさんの後ろに並び、やってきたバスに一緒に乗り込んだ。
 
大学前のバス停に着いたのはまだ12時には20分ほど早かったにもかかわらず、もうすでに彼が待っていた。
薄い水色のシャツが良く似合っていた。
濃い色のデニムが彼の細さに寄り添っている。
サンジ君は「早いね」と驚いたように笑った後、「おはよう」と言った。
 
 
「そっちこそ」
「学校での用が早く済んじまったから。さ、行こう」
 
 
サンジ君はふわりと私の腰を一瞬前に押し出すように手を添えて、すぐに離した。
彼の誘導は風のようにさりげなく、また馴れたものだった。
出会ってまだ3回目の女の子をぼうっとさせる程度には素敵な所作ではあった。
 
 
「この辺はやっぱ学生の街だからさ、安くてウマい店も多くて」
「学食、みたいな?」
「いやぁさすがにあれほど安かねぇなぁ……でも学食よかよっぽどウマい」
 
 
シーフードは好き?と聞かれて、素直に頷く。
パエリアのうまい店があるから、と彼は長い足をゆっくり、私の歩調に合わせて動かした。
彼の隣を歩くのはとてもどきどきしたし、彼は隣に歩く女の子を誇らしい気持ちにさえさせる何かを持っていた。
カーディガンの下のよれたTシャツがのりのきいたシックなワンピースならどれだけよかったかと暗い気持ちが頭をもたげたが、サンジ君がどうでもいい些細な話題を私に振ってくれるたびに、そんな暗さは一瞬で塵となって飛んで行った。
彼はよく話した。
大学のこと、居酒屋でのアルバイトのこと、ウソップのこと、ゾロのこと。
彼はなんでもない話を舌の上に転がすだけで面白くする術を持っていて、私は感嘆の声を上げたり思わず吹き出したりで一人忙しくしていた。
 
 
黄色い外壁がかわいい小さなお店に入った。
こじんまりと飾られた店内はシックでそれでもどこか陽気で、可愛らしい。
「イカ墨のパエリアもウマいんだけど、でもやっぱりこれがおすすめかな」と彼はメニューを指差して、シーフードのたくさん乗ったメジャーなパエリアを指差した。
じゃあそれで、と私が頷くと、サンジ君は店員を呼び二人分のパエリアを注文した。
 
 
「ワインも美味いけど、飲む?」
 
 
私はいいわと首を振ると、サンジ君はにっこり笑って「じゃあそれはまた今度」とメニューボードを閉じた。
料理が届くまでも、届いてからも彼の話は続いた。
私もよく喋った、と思う。
ウソップとはどういう関係なのかと聞かれ、きょとんとしながら「友達よ、子供の頃からの」と答えたら彼が「てっきりいい関係なのかと」というものだから仰天した。
 
 
「まさか。あいつ、彼女いるわ」
「うそ、まじで」
「街を出て私立の大学に行ってるの」
 
 
大学名を口にすると、彼は「お嬢様か」と苦笑した。
私も映し鏡のように苦笑を浮かべて、「そう、それも超のつく」と彼らの身分ちがいの恋を明らかにする。
「あの長っ鼻、意外とやるな」と悔しそうにするのでそれがおかしくて私はまた笑った。
 
食事が終わって、一休みしたあと彼が伝票を掴んでそのまま会計へと進んでしまった。
私は彼が支払いを終えるのを待って、一緒に店を出てから手にしていた自分の分の会計を彼に差し出す。
サンジ君は「まさか」とゆるく笑いながら首を振った。
 
 
「おれが誘ったから、おれが持つよ」
「誘ったのは私だわ」
「ナミさんと食事したかったのはおれだ、いいんだよ今日は」
 
 
ね、と柔らかく手を押し返されて、仕方なくお金を財布に戻した。
彼が歩き出したので私もそれに従って付いていく。
どこに行くのだろうと思っていると、彼は新しい時計が見たいのだと言った。
てっきり次はもう彼の絵を見に行くのだと思っていた私はすこしたじろぎながらも、まるで普通の大学生のような日常の過ごし方にときめいていた。
街の女の子たちはいつもこんなふうに男の子の横に並んで、お昼を食べ、買い物に行くのかと改めて羨ましくなった。
そしてそのあと、羨んだ自分が少し恥ずかしくなるのだ。
 
私たちは小さな時計屋さんに入り、サンジ君は真剣な表情で時計を吟味した。
古風だけどデザイン性の高い時計が多い。
店内はまるで博物館みたいだ。
サンジ君はふたつの時計を手に取って、じっと見比べていた。
 
 
「あーどうしよ、迷うなこりゃ」
 
 
真剣な表情で呟いて、腕に付けてみたり目の前にかざして見たり、時計をひっくり返したりする姿を私はまるで神聖なものを見つめるみたいに、そっとそばで見ていた。
結局彼はどちらも買わず、付きあわせてごめんとしきりに私に謝りながら店を出た。
楽しかったから、と首を振った。
外は少し曇り空で、風が強くなっていた。
なんか微妙な天気になってきたなとサンジ君が空を見上げて呟く。
 
 
「よかったら今からうち来る?」
「家? サンジ君の?」
「汚い野郎の家だけど」
「家に絵が置いてあるの?」
 
 
絵? と聞き返したサンジ君はじっと私を見下ろしたので、私も思わず見つめ返してしまった。
何かまずいことを言ったのかと急に胸が騒ぎだす。
不安げな様子が表情に表れてしまったのだと思う、サンジ君は困ったように「あぁ」と声を洩らした。
 
 
「そうだよな、ナミさん絵を見せてくれっておれに言ったんだ」
 
 
確かめるようなその口調に、えぇそうよと返す言葉が出なかった。
こくりと頷くので精いっぱいだ。
ごめん、ごめん、と彼が謝ったので、私は驚いて顔を上げた。
 
 
「おれ、単なるデートの口実にしか思ってなかった。本当におれの絵が見たくて、言ってくれたんだ?」
 
 
カッと頬が赤くなった。
口実。
彼の絵がもう一度見たいと思ったのは本当だけど、サンジ君にまた会う理由が欲しいと思ったのも事実だった。
意識しないようにしていただけだった。
 
 
「ごめんな、おれの家に絵はねェんだ」
 
 
「じゃあ大学に?」と尋ねたが、それも違うと首を振る。
 
 
「自分の絵なんてもう持ってねェんだ。全部捨てちまった」
「うそ」
 
 
咄嗟に悲鳴のように甲高い声を上げていた。
サンジ君は静かに首を振る。
時計屋の前で立ち尽くして話す私たちに強い風が吹き付けた。
 
 
「本当に。おれは一枚も、自分が描いた絵を持ってない」
「でも、大学の教室にあった絵、あれは」
「あぁ……あれは確かにおれが描いたけど」
 
 
違うんだよ、とサンジ君は首を振った。
その瞬間彼の目が冷たい川の底みたいに昏く陰ったことに気付いた。
何が違うのか、と問いただす勇気はなかった。
 
 
「ごめん、だからナミさんに見せてやれる絵なんて一枚もねェんだ。本当にごめん」
 
 
私は呆然と彼の肩の向こうを見つめて、「そう」と呟いた。
残念だったけど、それ以上に何か触れてはならない深い場所に手を伸ばしてしまったみたいな後悔が先に立って、サンジ君に対して腹が立ったりとかそういう感情は一切湧いてこなかった。
彼は私を家に呼んで、それで、どうするつもりだったんだろう。
 
サンジ君は眉尻を下げて、壊れ物をくるむみたいな声で私を呼んだ。
 
 
「もしよかったら、お茶付き合ってくれる? そしたらバス停まで送るよ」
 
 
私は頷いて、近くのカフェまで彼の隣を歩いた。
重たく水分を含んだ雲が頭の上近くで揺れている。
カーディガンの繊維の隙間から肌に触れる風が少し冷たくなってきている。
 
 
暖かい飲み物を注文すると、それだけで一息つくことができた。
彼も背もたれに深く背中を預けている。
「本当に、絵が好きなんだな」とサンジ君が笑いかけた。
 
 
「好き……だけど、自分で描くわけじゃないし、見るだけで」
「それでも、こんなにおれの絵に執着してくれてると思ってなかったから」
 
 
ちょっとびっくりした、とサンジ君は初めて照れたような笑い方をした。
「執着って言い方悪いけど」とすぐに断りを入れて。
 
 
「アイツ……ウソップっていつから絵描いてたんだ?」
「私が初めてウソップの絵を見せてもらったのって中学のときなの。でも多分、本当に小さいころから描いてたんじゃないかしら。それも幼稚園のお絵かきとか、そういうレベルから」
「アイツは根っからの絵描きって感じがする。苦労するだろうけど、本当に絵で食ってくつもりなんだろうな」
「サンジ君は?」
 
 
サンジ君は静かに顔を上げ、私の目を真正面から見つめた。
強い視線だった。
のどがごくんと上下に動いた。
 
 
「なんで、描いた絵、全部捨てたの?」
「もう、いらないから」
 
 
店員が静かに私たちの間に割って入り、湯気の立つカップを二つテーブルに置いていった。
白い蒸気が彼の顔を曇らせて、私から隠そうとする。
 
 
「もう描かないってこと?」
「うん」
「大学、卒業するから?」
「そうそう。フツーに就職するんだよおれ。いやー単位はぎりっぎり危ねェんだけどね、なんとか4年で卒業できそうでよかった」
 
 
描かない理由はきっとそんなことじゃないんだろうとは思ったが、聞くことはしなかった。
サンジ君は意図的に、話を絵のことから逸らそうとしていた。
これ以上突っ込まれるのを避けているみたいに。
もう話すことはないと私とのコミュニケーションを完全に断とうとしていた。
サンジ君は就職活動のときのあれこれを、また面白おかしく私に話してくれた。
私は彼の絵が見れなかった無念さなんてすっかり忘れたふりをして、楽しげに相槌を打った。
カップの底がちらちらと見え出したころ、ふと窓の外を見ると外は雨になっていた。
どしゃ降りという程ではないが風が強そうだ。
私の視線を追って、サンジ君も窓の外を見た。
「雨、降って来ちまったな」と我に返ったように呟く。
 
 
「どこかで傘買おうか」
「私折りたたみの傘、持ってるわ」
 
 
そりゃいいやとサンジ君は笑って、カップの中身を飲み干した。
聞きたいことはまだあった。
でももうその話をするには遅すぎたと分かっていたし、話を掘り返す勇気もなかった。
タイミングというものが会話を左右するそのしくみに苛立ちながら、私はそれを押し隠してサンジ君と一緒に席を立った。
 
小さな折りたたみの傘に身を縮めて二人で入り、サンジ君は言っていた通り私を大学前のバス停まで送ってくれた。
バスが来るまで一緒に待ってくれるというので、断るのもなんだと思って素直に礼を言う。
「今日はありがとな」とサンジ君は涼やかな顔で笑った。
 
 
「絵のことは本当ごめんな」
「もういいわ。それよりこっちこそごちそうさま」
 
 
結局カフェの代金も彼が払ってくれたのだった。
 
 
「付き合ってくれてありがとう、気を付けて帰ってくれよな」
「サンジ君も……あ、傘」
「大丈夫、すぐそこで買って帰るよ」
 
 
それよりナミさん濡れてる、と不意に彼と反対側の肩を掴まれて、引き寄せられた。
彼が触れた肩のカーディガンからじわっと湿った感じが広がって、しかしすぐ彼の手のひらの熱が追いかけるように伝わった。
「すげぇ風」と彼がしっかり傘を掴みながら呟く。
少し先の交差点を、バスが曲がってきた。
バスが止まって、ため息のような音ともにドアが開く。
 
 
「それじゃあ」
「気を付けて」
「ありがとう」
 
 
列に並んだ数人が私より先にバスの中に吸い込まれていく。
サンジ君は私に傘を渡し、強い風にさらされる髪を押さえながら手を振った。
私は手を振り返してバスに足をかけたが、乗り込む寸前で振り返って「また、連絡してもいい?」と半ば叫ぶように口にしていた。
サンジ君は一瞬聞き返すように目を細めたが、すぐに理解したのかゆっくり笑って、頷いてくれた。
バスのドアが閉まり、バス停側の席に着いた私は窓の外を見下ろす。
サンジ君はまだ立っていて、細かい雨が横顔に吹き付けられていた。
髪はしっとりと下方を向いて、薄い水色のシャツが雨で色が変わりかけていたが、それでもサンジ君はサンジ君だった。
バスはゆっくりと、濡れた街の中を進み始めた。
 


拍手[44回]

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麗しき我らが航海士ナミさんの誕生日に今年ばかりは何もできなかったふがいないサンナミストのブログはこちらです。
 
 
ナミさんおめでとうあたしゃほんとにあんたのことが好きなんだよおおおおおおお
 
 
まぁ彼女はサンジのものですけどね(スクッ
 
 



 
はぁ、去年一昨年は現パロサンナミ更新できたのに…今年はあえなく。
そんでもサンジフランス行き現パロシリーズは、ちょっとずつ何かの機会に更新していきたいなあ。
 
 
えーと罪滅ぼしではありませんが、拍手お礼をマルアンからサンナミに交換しました。
完全なる罪滅ぼしです(言っちゃった
 
ちょっと前にぽろっと零していた(ツイッターだったかな?)大江戸設定サンナミです。
考えてるたのすぃー設定はむくむく山のようですが、とりあえずさわりということで。
よければぽちっとして覗いてやってくださいなー。


→こちらから
 

んでもマルアンお目当てで来ていただいてる方もいると思うので、マルアンでも一つ新しい小話を近いうちに追加しておきたいですね。
なにがいいだろー、サッチとアンちゃんの話を久しぶりに掘り下げたいなあ(マルアンはどうした)
 
 




 
 
 
どうでもいいこまつなの近況ですが、いま身の回りがちょーっと落ち着いて、ぼんやり本を読んでいたりします。
手元が空いたすきに読む本がないと途端に落ち着かなくなる程度の活字中毒ですが、最近は本読むひまありゃ勉強しろよな時期なので、少しずつ活字離れを試みてたりします。
勉強なんて単語、これが最後なんだろなーなんて思いつつ。
 
とても大事なことだと分かってるのに、気が進んだり進まなかったりブレブレでありゃりゃ。
でも身近に刺激になるものがたくさんあるのに、頑張んなきゃなーと思いながらときどきマルアンやサンナミもしゃもしゃしてるのです。
我ながら器用に。
 
 
7月後半は怒涛の週間がやってきて、8月からはお気楽生活の予定です。
ぼちぼち働きつつ勉強し、はっちゃけ、9月初日から一週間はまたもやこまつな海外ツアーです。
思えばサイト開いてからあっち行ったりこっち行ったり、せわしない管理人でまったく(反省の色ナシ)
 
今回は初ヨーロップなのですよ。
あれね、前回のトルコは位置的に微妙だから。
二国わたってきますん。
 
たくさんたくさん綺麗なものも萌えの原石も拾ってじっくり観察して爆ぜてきます。
 
石畳の街道をものすんごく楽しそうに歩くナミさんと、ナミさんのおしり見ながら買い物袋山ほど抱えてホイホイ後ついてくるサンジ君とか。
立ち食いのくせにこのボリューム最高――!!って叫びながらフィッシュ&チップスをムッシャァするアンちゃんと、彼女のために財布を開くオッサンズとか。
 
 
カァーーーーーッ!!
自家発電でここまで滾れて大層エコなこまつなです。
 
更新頑張るぞっと。
 
 
 

拍手[2回]

ごぶさたしております。


こまつな二等兵、恥ずかしながら生きております……!(誰)



ずうううっとサイト放置、ツイッターもほぼだんまりで更新も月イチとかいうありさまで
大変申し訳なかったです。

なにしとったかってーと、普通に生活してました。

身体を壊したわけでもなく、
また海の外へビューンと逃亡していたわけでもなく、
淡々と日常の雑事をこなしておりました。

春は何かと始まって忙しいですねというのは、脳内萌え供給源の枯渇の言い訳になりますか?



うーんと、あんまりパソコンの二次元に入り込む時間がなくなりまして、
約一年後に臨む大切な機会に向けての準備を始めましたこまつなです。

多分今後も更新ペースはずうっと低迷しつづけると思われます。

リバリバ、サンナミ、海賊版マルアンとか連載がいくつかありますが、
それらはちゃんと終わらせるつもりなんですよ。

ただそのペースがアメンボの徒歩くらいだと思ってもらえれば。


時間がなくて作れてないけどキューピーサンジくん制作にいつ取りかかろうとか、
いったい今年のプレミアサマーはどうなることやらとか、
ワンピへの思いは今もじんわり岩盤浴さながらに10年越しの保温効果を保ってます。

サイトの方針的なアレは、こんな雰囲気でしばらく行こうと思いますのでなにとぞよろしくおねがいしますん。
まったく更新のないここ最近にもかかわらず我が家を訪れてくれる方がみえるので
なんとまぁありがたいことかと。
涙にむせぶわけです。








話は変わって昨日有馬温泉に行ってきました。
うちから電車で1時間プラスバス1時間で行けるので、らくらく日帰りでも余裕なんですが
ちょっとぜいたくして一泊で。

私の実家の町が小さな温泉街なので、あの坂が多くて木々が多くて微かに硫黄の匂いがする
温泉街の雰囲気、だいすきです。

んでも有馬温泉はあんまり硫黄の匂いしなかったかもしれん。

金の湯、銀の湯、両方はいって蕩けた。


温泉ネタっていいなぁ(腐ってもヲタ)


白ひげ一家で温泉に行っても、男湯女湯で別れちゃうことにまずアンちゃんがすねますね。

「こればっかりはどうしようもねぇだろー」って言われても納得できずごねるすねる。
じゃあねぇさんたちと一緒に入ろうって思ったら、湯上りのオヤジのための準備に忙しいお姉さまたち。
「私たちも後から行きますから、隊長先入っててくださいます?」ってな具合。



壁一枚向こうからはわあーって騒ぎ声が聞こえて、
オヤジを呼ぶ声が錯綜して、たまにグラグラっと下が揺れて、そ
れを広い浴場の中でぽつーんと感じるアンちゃんの細い肩がいとしい。


そんでもちゃんと、壁の向こうから「おーいアーン」「おぼれてねェかー」とか聞こえてくるのに返事をして
アホ隊員をしかるマルコの怒鳴り声に一緒に笑う。


入れ替わりに入ってきたお姉さまに浴衣を着せてもらって、
お構いなしに大股で歩くもんだからすぐにはだける。
イゾウさんが着せなおしてくれます。



最後は別の秘境温泉を見っけて、ゆっくりオヤジと二人で入って和もうか。



あー温泉ヨカッタナー

拍手[7回]


 
シリュウが進んでいく通路は、不気味なほどに人気がなかった。
看守の姿どころか足音さえ聞こえず、この建物の中にはアンとこの男のふたりしかいないのではと錯覚しそうになる。
アンは始終きょろきょろと辺りを見渡し、足音忍ばせるように小走りを続けていたが、シリュウは自分の左右もアンがいる背後も一切振り返ることなく、淀みない足取りで進んでいく。
まるでこの建物全体がアンとシリュウの味方になり、外まで導こうとしているかのように感じた。
 
シリュウは薄暗い通路の突き当り、通用門のような扉の前まで来ると、懐から鍵を取り出して扉を開けた。
おそらく通常はそこにも門番が立っているはずだろうが、なぜだろう、人がいない。
外に足を踏み出すと、日差しのシャワーが頭のてっぺんから降り注いできて、目がくらんだ。
それはすでに西日だ。空が赤い。
シリュウは歩みを止めず、誰もいない裏庭を突っ切ろうとする。
あちこちにある監視カメラはほんとうに稼働していないのだろうかと、アンは気が気でない。
 
 
「この先に車を寄越してある。それでまっすぐいつもの事務所まで行ける」
 
 
いつもの事務所とは、あのティーチの税理士事務所だろう。アンは必死で足を動かしながら、無言で頷く。
シリュウの言うとおり、建物の角を曲がるとフェンスの裏手に黒塗りのセダンがアンたちを待っているのが見えた。
 
 
「……あんたは?」
「オレはまだここで仕事がある。先に行け」
 
仕事とは看守としての仕事だろうか、それでも黒ひげとしてのだろうか。
シリュウは四角い顎でアンに先を促した。
とはいえどうやってこのフェンスを越えるのだろうとアンが視線を前に戻すと、ちょうど目の前のフェンスには無理やりぶち抜かれたようなひしゃげた穴が開いていた。
短時間で無理にこじ開けたに違いない。
随分強引なやり方だ。
黒ひげの方も鬼気迫る状況に焦っているのかもしれない。
 
 
「それじゃ」
 
 
礼を言うのもおかしい気がして、アンは足早にシリュウから離れてフェンスに近づいた。
その自分の後ろ姿が、逃げるように見えていそうで悔しい。
事実逃げているのだから仕方がない。
穴をくぐる瞬間ちらりと背後を振り返ったが、シリュウの巨体はもうすでに煙のように掻き消えていた。
 
停まっていた車に近づくと、運転席に座る男が「早く」というように頷いた。
ラフィットだ。
アンは素早く助手席に体を滑り込ませた。
車は即座に、氷の上を滑るようなわずかな起動音とともに発進する。
ラフィットは顔をこちらに向けることなく口を開いた。
 
 
「お久しぶりですね、ゴール・D・アン」
「あっさり出てこられたけど、本当によかったの? 他の看守たちは?」
「……あなたが心配することは何もありません。そんなことよりも」
 
 
アンの勝手な行動をティーチは当然快く思っていないということを、ラフィットは回りくどいほど丁寧な言い回しで伝えた。
 
 
「ただし私たち黒ひげとあなたは、契約関係にあります。あなたは私たちの思惑通りエドワード・ニューゲートの地位を陥れてくれた。我々はそんなあなたの仕事ぶりへの対価を支払いきれていない。つまりあなたは結局、髪飾りを手に入れられていない。よってあなたの失敗によって警察に捕まったとしても、我々はあなたを救いださねばならない義務がある。これで説明はつきますか」
「……わかったよ」
 
 
黒ひげの本意がそれとは全く違うことを知りながら、アンはそうと言うしかなかった。
今はとりあえず、黒ひげのもとへ行くしかない。
 
 
「ふたりは……」
「はい?」
「……いい、なんでもない」
 
 
アンは言葉を打ち消すように首を振り、背もたれに背中を預けた。
ラフィットは見透かすような目を横には走らせてきたが、結局なにも言わなかった。
全てわかっているような口元の笑みが気味悪い。
 
サボとルフィの安否を聞きたかった。
しかしもし黒ひげがふたりを保護しているという答えを聞いてしまったら、サボとルフィはおそらく今向かっているティーチの事務室にいるはずだ。
ふたりを前にして、ティーチと対峙する気力を保つ自信がなかった。
またもしふたりが黒ひげの手から逃れられているとしても、それはつまりふたりが黒ひげから逃げたということ、アンが逃がしたということをさらけ出すことでもある。
わざわざこちらから言うことではない。
 
アンはむっつりと口を閉ざし、流れていく車窓を眺めていた。
日はとっぷりと傾いて、紺色に染まっていく街並みが滲んでいく。
不意に、ラフィットが激しくハンドルを左に切った。
アンは驚く間もなく身体を窓ガラスに押し付けられる。
 
 
「なっ」
「伏せてください」
 
 
ラフィットの口調はいつもとかわらず平坦なものだったが、アクセルを強く踏み込むよう足が動くのが見えた。
アンは素早く言われるがままダッシュボードの下に体を滑り込ませた。
 
 
「警察……?」
「行政府の人間です。いまやあなたの顔は割れている。車に濃いスモークはかかっていますが、念のためしばらくそのままで」
 
 
ラフィットは細い路地を猛スピードで潜り抜けていくようだった。
ただし誰かに追いかけられているようなひっ迫感をあまり感じない。
車の後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、耐えて大人しくじっとしていた。
 
しばらくすると、車はゆっくりとスピードを落とし、やがて停車した。
 
 
「お疲れ様です、降りてください」
 
 
いつもはアンを建物前に下ろし車を停めに行くラフィットが、このときはアンよりも早く車を降りた。
まるでアンを急かしているようだ。
アンは折りたたんでいたからだを伸ばしながら車を降りた。
そして違和感に気付く。
 
 
「……ここどこ?」
「いつもの事務所は今日ばかりは少し危険です。申し訳ありませんが今回はここでボスがお待ちしています」
 
 
ラフィットの感情の見えない口元の笑みはそのままだ。
上がった口角を見て、アンは凍りついた。
──やられた。
行政府の人間なんていうのは嘘だ。
アンは今、この場所が街のどのあたりに位置するのか全く分からない。
小さく息を呑むアンを意に介することなく、ラフィットは建物へと先立って歩き出した。
振り返り、早く、というようにアンを見つめる。
その目がぞっとするほど平らで冷たいことに、背筋が凍った。
 
行くしかない。
 
アンはラフィットの背中を追いかけて歩き出した。
 
 
 

 
建物の中は、いつもの事務室と何ら変わらない作りで、真ん中の皮張りのソファにはやはりティーチがどんと大きく座していた。
大きな窓が背後に並んでいる。
アンとラフィットが部屋に入ると、ティーチは顔を上げわざとらしいほど嬉しそうな笑みを見せた。
 
 
「おォアン、よく無事だったなオメェ!」
 
 
オレァお前が捕まったって聞いて心臓が止まっちまうかと思ったぜ。
ティーチはわざわざ立ち上がり、アンの元まで歩み寄ってきた。
ラフィットがすっとその場を離れ、広い部屋の書棚の方へと歩いていく。
固い顔のアンは、まるで激励されるようにティーチに強く肩を叩かれた。
 
 
「なんだって無茶しやがんだオメェはよ。作戦に納得いってねェのは気づいていたが、まさかこんな特攻やらかすたぁオレも計算違いだったぜ」
 
 
まぁいい座れ、とティーチはアンを促しつつ自身もソファに戻った。
アンは気を抜くと竦みそうになる足を叱咤して、ソファへと自分をいざなう。
どうしてだろう、今ばかりは初めて、この場所が怖い。
明るく電光が照らしているのに、いつかぽかりと闇が口をあけそうな空気がある。
アンは浅くソファに腰かけた。
 
 
「豚小屋はさぞかし陰気くせぇ場所だったろう、オメェにゃキツイ場所だ」
 
 
まるでかわいそうに、とでもいいたげな口調に寒気がした。
ティーチは懐から取り出した葉巻に火をつけた。
煙が瘴気のように部屋を蔓延し始める。
 
 
「シリュウの奴に聞かなきゃ、オレァ呑気に朝のニュースでお前の逮捕の知らせを聞くところだった。一歩遅けりゃお前を助け出す手筈もうまくいかなかったかもしれねェ」
 
 
いやあよかったよかった、とティーチはにやつきながら頷いている。
アンはいちばんに聞きたいことを胸の奥にぐっと押し下げて、当座の質問を口にした。
他に聞きたいこと、言いたいことがあるのはティーチも同じだろう。
腹の中を探り合うもどかしさ、禍々しさが向かい合う二人の間を行き来している。
 
 
「逃げるとき……看守がひとりもいなかったのはなんで」
「看守? あァ、シリュウのヤツが手を回したんだろう。アイツァオレの腹心だ、そこらで拾った使い捨てとは違う。そうか、ひとりもいなかったか!」
 
 
ティーチは玩具をもらって喜ぶ子供のように、いっそあどけないほどあけっぴろげに笑った。
大きく開いた口から灰色の煙が浮かぶ。
 
そう、ひとりもいなかったのだ。
あの建物の中にはまるでアンとシリュウだけのように静かで、物音も、足音さえしなかった。
 
アンが青い顔を上げてティーチを見据えると、ティーチはより一層嬉しそうに口角を上げた。
 
 
「……殺したの」
「看守が一人もいなかったってのなら、まぁそうだろうな。アイツにゃ5人だろうと10人だろうと手に掛けるのはお手のモンだ。オレァ『アンを逃がせ』と伝えたまでだがな」
 
 
ティーチは部下の仕事ぶりを純粋に喜んでいるだけに見えた。
その単純さが、より一層アンの血の気を引かせた。
膝の上で握った拳が震えるのを、抑えきれなかった。
 
あの建物には、収容所にはあの人が、ベイがいたかもしれないのだ。
アンの手を握って『しあわせになれる』と力強く言ったあの美しい女性が。
彼女の細い体の線を思い出した。
彼女の涼やかな色が、重たい赤黒さでかき消されていく。
 
収容所にいたすべての関係者が殺されたとは限らない。
ベイはアンの取り調べを終えて建物を出ていたかもしれない。
そうだ、そうに決まっている。
アンは震える拳をもう片方の手で掴み、無理やり押さえた。
その仕草をティーチがじっと見ている。
 
 
「結局髪飾りは、警察の手に行っちまったか」
 
 
ティーチは思い出を語るような口調でそう言った。
アンが顔を上げると、ティーチはやっとのことで笑みをしまいこんだようだ。
深呼吸するように葉巻を吸っていた。
葉が焼ける音が微かに部屋に落ちる。
街灯に集る虫の羽音のようだ。
 
 
「まだ欲しいか」
「……髪飾りを?」
「あァ、取り返したいか」
「……もういい……」
 
 
何を考えることもなく、言葉は自然と口をついていた。
疲れていた。
アンの身体も心もすべてが、ぼろぼろと、鳥に突かれた魚の身のように穴が開き崩れていた。
帰りたかった。
何も知らない、サボとルフィとアンの三人だけの日常に。
つまらないほど平和で刺激のない日々に。
 
きっと母さんは許してくれる。
よく頑張ったわねアン、と頭を撫でてくれる気がした。
そうだよあたしは頑張った、こんなにも頑張ったと母さんの膝にすがりたかった。
 
 
そうか、とティーチも静かに答えた。
 
 
「オレたちゃぁオメェのおかげでニューゲートを貶められた。ほっときゃそのうち警察は転覆する。政権は交替だ。この街の仕組みそのものががらりと変わるだろう。オメェさんらがそれにこれ以上巻き込まれる筋合いはねェ。オレらがオメェたちを外へ逃がしてやる」
 
 
ティーチはもたれさせていた背を上げて、ソファに座り直した。
 
 
「アン、オメェの弟たちはどこにいる?」
 
 
アンはティーチと正面から目を合わせた。
しまったと思ったのに、がっちりと視線を捉えられて逃げることができなかった。
ブラックホールのような底なしの闇色の目がアンを見つめる。
並びの悪い歯が覗く。
ティーチは笑っていた。
 
 
「アン、オメェ、弟たちをどこにやった?」
 
 
オレたちからふたりを逃がしただろう。
ティーチの笑みは、もはやそれとわかるほど大きくなっていた。
 
残念だぜアン、とティーチは言った。
 
 
「オメェがオレたちに全幅の信頼とは言わずとも、任せるべきところは任せてくれていりゃあこんなことにはならなかった。きちんとオメェに4つの髪飾りを手に入れさせてやれたし、オメェが無様にサツから逃げたり、無駄に弟たちを逃がしたりする手間もいらずに済んだ」
 
 
ティーチは咥えていた葉巻をガラスの灰皿に押し付けた。
燻る煙が淡く霧散していく。
──サボとルフィは黒ひげの手の中にいない。
クロコダイルは約束通り、ふたりを匿ってくれたのだ。
そのことに心底安堵すると同時に、先ほどのティーチの言葉に引っ掛かった。
「4つの髪飾りを手に入れさせてやれた」というのはどうもおかしい。
 
 
「……あたしが欲しかったのは母さんの、本物の髪飾りだけだ。もし初めに襲撃した銀行に本物があれば、あたしが手に入れる髪飾りは一つで済んでいた」
 
 
ティーチはきょとんとアンを見返すと、ゼハハ!と大きく笑い声をあげた。
 
 
「そうかそうか、そうだったな! いけねェ、いらんことまで言っちまった。まぁ今となっちゃどうでもいいことだ」
 
 
ティーチはあくまで楽しげに、懐から2本目の葉巻を取り出した。
一方アンの頭は、血液の代わりに冷水を入れらたようにしんしんと冷えていくのを感じていた。
同時に思考がはっきりとしていく。
 
この計画そのものが、仕組まれていたの?
 
もはや疑いようもないそれに、アンは止まっていた拳の震えがまた始まるのを手のひらでじかに感じていた。
 
ティーチはアンの顔色を覗き込むようにちらりと視線を上げ、大きく息を吐いた。
子供をなだめすかす前に大人がするため息のような音だ。
 
 
「髪飾りの話はほんとうだぜ、アン。オメェだって覚えてるんだろう、ルージュが髪飾りを持ってたことは」
 
 
ティーチは2本目の葉巻を吸う片手間のように、アンに話す。
 
 
「ただし偽の髪飾りをばらまいたのはニューゲートじゃねェ。オレだ」
「……あんたが」
「ルージュの髪飾りが稀代のものだと知っていた。これを使わねェ手はないと思った。偽の髪飾りをばらまいて、それらをまとめて街の重要資財に認定させた。本物にゃ劣るが、偽ものだって相当の金を出して作らせた立派な宝物だ。重要資財ってのはわかるか、街がそのものの価値を認めて、安全を保障してくれる財宝のことさ。そうすりゃ偽だろうとなんだろうと、街が髪飾りを守らにゃならねェ。ニューゲートの野郎はさぞかし腰を抜かしたこったろうなぁ、自分の預かった髪飾りのレプリカが、いつの間にやら本物を出し抜いて重要資財になんかなっちまってたら」
 
 
面白そうに笑うティーチを前に、アンはじっと座ってなどいられなかった。
立ち上がると、やっとこの男の顔が見下ろす位置にくる。
 
 
「……4つの髪飾りは、どれも偽物なんだな。本物は、警察が持ってるんだな」
「そうさ! ニューゲートの野郎が大事に大事に保管してやがるのさ! 馬鹿みてぇにロジャーに義理立てして、アイツァ本当に甘ったるい」
 
 
アンはずっとずっと、偽物の髪飾りを追いすがっていたのだ。
その事実よりも、本物が確かに存在するということに安堵する気持ちの方が大きかった。
母さんの髪飾りはこの街に実在する。
そう思うと、ついさっき折れかけていた気持ちがむくりと頭をもたげて立ち上がってきた。
 
もう終わりにしたい。
全てを放りだして逃げたい。
きっと母さんは許してくれる。
 
それでも、母さんが許しても、あたしは許せるの?
 
あたしはあたしを許せるの?
 
 
 
「ロジャーが死んだ時点で、オヤジがトップになるのはわかりきっていた。当然髪飾りの責任も奴にお鉢が回る。オレァ自分でばらまいた髪飾りをオヤジに押し付けて、それをまた自分で回収することでアイツを貶める作戦をずっと温めてたんだ。お前が育つまで、十年もの間な!」
 
 
オヤジとはニューゲートのことだろうとアンは考える。
ティーチは、自身がそう言ったことに気付いていない様子で話を続けた。
アン、オメェは上手くやってくれたと笑う。
 
 
「予想以上の働きぶりだった。もっと早く捕まっちまうかと思ったが、お前は最後までやりきった。多少動かしづれぇ所もあったが、些細なことだ。オレァ細かいことをぐちぐち言う性質じゃねェんだ」
 
 
ティーチはゆったりとソファに座ったまま、アンを見上げた。
この男が尋常な思考を持ち合わせていないのはよくわかった。
それでも、不気味に思わずにはいられない。
ロジャーが死んでから10年、いやもしかしたらそれよりもっと前から、ティーチはニューゲートを陥れるためだけに生きてきたのだ。
ひとつの計画のためにアンが成長するのを待ち、時が来れば嬉々としてそれを実行するいわば執念が異常だ。
ティーチはこの10年を、本人さえ知らないうちにニューゲートに捧げて生きてきたに違いない。
憎くてたまらない人物に自分が振り回されていることに気付かず悦に浸っている馬鹿馬鹿しさとはうらはらに、ティーチは真剣だ。
アンは目の前の男の果てしない闇の深さに、背中が冷たくなった。
 
 
「どうして、そんなにエドワード・ニューゲートを……」
「たまたまトップにいるのがあの男だというだけで、引きずりおろすのは誰だろうとかまやしねェんだ」
 
 
ティーチはどこか記憶の端に触れるように、目のぎらつきを奥に引っ込めた。
ぼんやりとどこか遠くを、遠い過去を見ている。
だが、そうだな、とティーチは息を継いだ。
 
 
「あの男のままごとみてぇな甘っちょろいやり方や、鬱陶しい信条にほとほと愛想が尽きたといやあ理由がつくか」
 
 
オレァあいつに行政府に登らされたんだ、とティーチは立ち上がったアンの膝のあたりを見るともなしに目をやった。
 
 
「だが行政府が転覆したとき、あいつは自分のお気に入りだけを警察内部に引き入れて、オレのことは目に掛けなかった。お前に警察なんて柄は似合わないとかなんとか、その場しのぎでしかない理由をつけて、オレを放りだしやがった」
「……あんた、行政府にいたのか」
「税理士は行政府が腐り落ちた後の肩書だ。……オレァ有能だった。警察との関係が険悪になって来たときも、当時はオヤジがオレを気にかけていたから、オレが橋渡しになって奔走した。すべては行政府──街のためさ。いつかオレァトップになってやると、そこらじゅうに脚ばかり運んで働いた。にもかかわらずあのジジイは」
 
 
いざ行政府が転覆したら、ニューゲートはティーチを救わなかった。
それはティーチの仕事ぶりの背後に後ろ暗い思惑があることを、現トップの男はわかっていたからではないかとアンにも想像できた。
ただそんな考えに至らないらしいティーチは、ただただ歯噛みしている。
徐々に脂ぎった黄色い目の光が戻ってきた。
 
 
「オレァあいつの『お気に入り』には入れなかった。今となっちゃその方が都合よく動けているが、とにかくあいつのそういうやり方がとことん気に入らねェんだ」
 
 
だがそれもここまでだ、とティーチはアンを見上げ、並びの悪い歯を見せて笑った。
 
 
「いずれそう遠くないうちに、ニューゲートは失脚する。警察内部はロジャーが死んだ時以上の混乱を見せる。行政府が力を盛り返す。そしたらおれの登場だ。オレァこの街のトップになってみせる」
「そ、そんなに上手くなんて」
「いくんだ、アン、オメェの緩んだ頭じゃ一生かけてもわからねェことがオレにはできる」
 
 
ティーチが不意に、アンの背後に目をやった。
その視線を辿り振り向きたい衝動に駆られたが、歯を食いしばって耐えた。
背後の扉から誰かが入って来た。
黒ひげの誰かだろう。
ラフィットは二人から離れた書棚の傍にじっと立っている。
振り返ってしまえば、顔を戻した時の景色が一変してしまう気がして、動けない。
 
 
「あとはオメェたちだけだ、アン。オメェとサボ、そんでもってルフィだったか。オメェら3人を片づけちまえば後腐れなくことは終わる」
「……最初から、そのつもりだったの」
「そうだ、オメェたちはここでお役御免だ。だがどうだ、幸せだったろう、母親の形見を追いかけるのは。最後の髪飾りを見つけたときゃあうれしくなかったか、アン」
 
 
どうだ、と笑いながら口もとをにやつかせるこの男に、アンは吐き気以上に胸が悪くなった。
瞬きすると立ちくらみのような眩暈が襲った。
いろいろな感情がせめぎあいながら、アンの喉を塞いでいく。
言葉にならない悔しさと怒りを、初めて感じた。
あたしは馬鹿馬鹿しいほど単純だったのだ。
馬鹿で、若く、無鉄砲だった報いかもしれない。
それでもここまで馬鹿をやらかしたのならもう一緒だ、とアンはわななく唇を開いた。
 
 
「あた、あたしはあんたらのこと、誰に言うつもりもない。もちろんサボとルフィだって」
「おいおいアン、まさかそんな口上が通るなんざ思ってねェよな?」
 
 
ティーチが立ち上がった。
優にアンの3倍はある横幅と、頭三つ分は高い位置にある視線がアンを圧迫した。
巨大な黒い塊に前方を遮られたような息苦しさに喘ぎそうになる。
思わず一歩後ろに足を引いたが、かかとがソファにぶつかってすぐに止まった。
ふたりの間を隔てるのは、低いテーブルだけだ。
 
 
「アン、オメェは甘かったんだ。欲しいモンを手に入れるのに、代償がないわけがねぇだろう? オメェは事あるごとに弟たちがどうだとか、人が死ぬのは嫌だとか、ったく反吐が出るぜ。オメェに関わる一連の事件で、どれだけ人が死んだか知っているか?」
 
 
ティーチは目を輝かせて、口の端に泡を浮かべ、憑かれたように話す。
 
 
「少なくともオレがオメェのために雇ったクズは全員死んだ。オレたちの仕事にゃ幹部以外の下っ端は入れ替え制なんだ。使い捨てさ。そんなことも知らねェでお前は」
「こ、殺してたの、あんたたちがずっと」
 
 
オレたちがじゃねェ、と言うティーチの目が黄色く光った。
 
 
「お前がだ。オメェに関わったせいで死んだんだ。そいつらのおかげでオメェは何にも知らずにのうのうと盗みを働いて、それが終わりゃあ呑気に生活して、全くいい気なもんだ。ちょっと考えりゃわかる話なのになァ。口止めと死は同義だ」
 
 
ちがう、と口をついた言葉はあまりに小さく、弱弱しかったがティーチには届いた。
しかしそれも鼻で笑い飛ばされる。
 
 
「何も違わねェさ、アン」
「あ、あたしが殺したんじゃない……」
「同じことだ。手を下したのはオレたちだが、原因を作ったのはオメェだ」
「殺さなくても方法はあっただろ!!」
「オレたちが始末しておかなかったら、オメェがここまでやってこれたか? 情報を金で売り買いできる時代だ。オレたちが金で雇った人間が、お前の情報を金で売らないとなぜ言い切れる」
 
 
乱暴に言葉を切ると、ティーチはおもむろにアンへと腕を伸ばした。
避ける間も与えられず、アンの襟首はティーチの太い指に絡め取られるように掴まれていた。
そのまま引き寄せられ、アンのかかとが浮く。
すねがテーブルにぶつかって鈍い音を立てた。
濁った葉巻のにおいが、生暖かい息となってアンの頬にぶつかった。
 
 
「まったく虫唾が走るぜ、ニューゲートと言いオメェと言いどうしてこうも甘い人間が生きてるのかオレには信じられねェ。ロジャーの奴も似たようなもんだ、オメェら家族のことを引き合いにだしゃ扱うのに事欠かねェんだからなァ」
「な、なんの話……」
 
 
ギリギリと締まる首元を解放しようと、アンは咄嗟にティーチの太い手首を掴んだ。
強く握るが、いっこうに堪える気配はない。
自然とアンの顔は歪んだ。
あぁ、とティーチは思いだしたような声を出した。
 
 
「そうか、オメェは知らねェよなァ。当たり前だ、知っていたらオレたちと手を組むはずがねぇもんなァ」
「だから、なんの話だっ……!」
「世の中には知らねェほうが幸せなこともあるって話さ」
 
 
不意に突き放されて、アンは後ろのソファに倒れ込んだ。
同時にひどく咳き込んで、生理的な涙がにじむ。
コイツの前で泣いてやるもんか、と言う意地がそれさえも飲みこんだ。
 
ティーチの言葉に、知りたくない事実が否応なくアンにも想像できた。
痛みや息苦しさとは別のものに反応する涙が滲みそうになるが、泣くわけにはいかないと必死で飲みこむ。
 
ティーチは足と手で無造作にテーブルを横へ押しやると、アンが転がったソファへと歩み寄った。
アンは即座に体を起こすが、腰を上げるより早く前髪を掴まれて無理やり上を向かされた。
ティーチの顔は逆光でもわかる、もう笑ってはいない。
 
 
「もう一度訊くぜ。弟たちをどこにやった」
「あいつらはもう関係ない……!」
 
 
途端に視界がぶれ、頭がい骨が振動するのを感じた。
頬の痛みより頭の揺れが先走り、一瞬なにが起きたのかわからなかった。
 
 
「クソ生意気な目をしてやがる。ロジャーと同じ目だ、胸糞悪ィ。この期に及んでまだそんな甘いこと言うったァ、根性が座ってるのかただの馬鹿なのか」
 
 
前髪を掴む力が強くなり、アンの頭はますます後ろへと反った。
口の中にじんわりと鉄くさい味が滲む。
ふん、とティーチは大きく息を吐いた。
 
 
「まぁいい。どうせ『黒ひげ』にかかりゃああんなガキ共なんざすぐに見つけてみせる。なに殺しゃしねェよ。若い身体ってのぁな、いくらでも金になるんだ」
 
 
そうだな、と目算するように黒いギョロ目が上を向く。
 
 
「内臓、目玉、角膜、血液……人の身体のパーツってのぁ貴重なんだぜ。しかも若けりゃ若いほどいいってもんだ」
 
 
濁流のように、ティーチの笑い声が部屋に響いた。
痛みや恐怖よりも大きな怒りがアンの胸に溜まっていくが、掴まれた頭も掴んだ太い腕もびくともしない。
サボ、ルフィ、お願いだから逃げ切って──
 
 
「ト、トップになんか、アンタがなれるもんか」
「あァ?」
 
 
開いている方の手で再び襟首を掴まれ、気道が狭まる。
それでもまっすぐにティーチを見ることはやめない。
目を逸らしたらその瞬間に負けて、飲みこまれてしまう。
 
 
「アンタは、この街のトップになんか、なれない。政権が代わろうと、絶対に」
「なぜ言い切れる。オメェに何がわかる!」
「マルコがいる!!」
 
 
叫び返したアンの声より、飛び出したその名前に虚を突かれたようにティーチは目を見開いた。
 
 
「マルコ?」
「エドワード・ニューゲートがいなくなっても、マルコがいる。他にも、アンタなんかには負けない人間が、警察にも、行政府にも、絶対にいる!」
 
 
ティーチはしばらくのあいだ、アンの勢いに飲まれたように黙っていたが、すぐに口元をゆるませて「そうか」と言った。
 
 
「マルコか……懐かしい、いたなそんな男も。確かにアイツァ少し面倒だが、オレたちの相手になりゃしねぇさ。アイツは典型的なオヤジの犬だ。オヤジが堕ちりゃあマルコが堕ちるも同じ話さ」
「ち、ちがう、マルコは絶対」
 
 
ぎゅっと襟首が締まり、否応なくアンの言葉は続かなかった。
ティーチの顔が近くなる。
 
 
「えらくマルコに肩入れすんじゃねェか。あいつとの追いかけっこがそんなに楽しかったか? それとも惚れたか? あの男に」
 
 
ティーチの冗談はどこかアンの琴線に触れて胸の奥が音を立てたが、気丈にアンは睨み返す。
こんなときにマルコの微かな笑い皺や穏やかな低い声がよみがえって、胸が詰まった。
まぁいい、とティーチは笑った。
 
 
「オメェにはしばらく眠ってもらう。よかったな、死ぬわけじゃねェ。まぁ次に目を覚ます頃にゃお前の身体の中身は空っぽだろうから、死ぬも同然か」
 
 
サービスだ、とティーチは付け加えた。
 
 
「抜け殻になったオメェの身体は、大好きな弟共の抜け殻と一緒に並べてやるよ」
 
 
冷え切った血液が、一瞬で沸騰した。
目の奥が真っ赤に染まる。
アンは渾身の力を込めて、両足でティーチの腹を蹴り込んだ。
長くて細い鋭利な脚はティーチのみぞおちに食い込み、巨体が九の字に折れ曲がった。
同時にアンを掴む両手が緩み、アンはすかさずその下から逃れる。
 
 
「オーガー!!」
 
 
嗚咽混じりにティーチが叫んだ。
出口を振り向いたアンの正面には、銃口がアンを見つめ返していた。
 
 
「動くな。いずれ貴様は撃たれる運命だが、ボスの命令がない限り今はそのときではない」
 
 
出口のドアに背をつけて、オーガーが細長い銃身を構えていた。
アンの背後で、のっそりとティーチが身を起こす気配がする。
 
 
「クソッ、調子に乗りやがってガキが……」
 
 
ティーチの腕がアンへと伸びる。
咄嗟に横に逸れて避けたが、その瞬間右足のあたりにキンと跳ねる尖った音が響いた。
 
 
「動くなと言った」
 
 
麻酔銃だと思っていたそれはどうやらそれほど穏やかなものではないらしいと、背中が冷たくなる。
一瞬竦んだ隙に、左横腹に激しい圧迫感と衝撃を感じてアンの身体は横に吹き飛んだ。
床に体をしたたかにぶつけ、倒れ込む。
リノリウムの冷たさが頬に触れた。
再び口の中が、温度のある生臭い味でいっぱいになる。
また別の場所を切ったらしい。
 
 
「テメェは今すぐにでも死にたいらしいな」
 
 
倒れたアンの身体を大きな足が跨いだ。
襟首を引き上げられて、少し開いた口の隙間から血が漏れた。
嘔吐感が何度もアンを襲い、それを抑え込むのに必死で生理的な涙を抑える余裕がどうしてもない。
左の目からだけ、一筋の液体が流れた。
霞んだ視界の中で見上げたティーチの顔は歪み、目は淀んでいた。
 
 
「もういい、テメェはもういらねェ、テメェは金になる価値さえねェ。さっさと大好きなオヤジ共のところへ送り込んでやる」
 
 
ティーチが腰からピストルを引き抜いた。
真っ黒の銃口がアンの眉間に触れ、ひやりとした金属の温度が伝わった。
 
 
「……ティーチ、それは予定とは違う」
「うるせぇ! お前らは黙って見てろ」
 
 
静かに反駁の声を上げたオーガーも、それ以上は言わず黙りこんだ。
まだ書棚の傍に立っているらしいラフィットも、微かに息を吐いた音だけをさせてなにも言わない。
至近距離にあるティーチの荒い鼻息だけがアンの耳に届いた。
拳銃の安全装置が外される音が、アンの人生の幕引きの音のように、重々しく響いた。
 
 
「じゃあな、アン。お前だけ人行き先に向こうに行ってろ」
 
 
ティーチの濁った白目が歪んだ笑と共にアンを見下ろす。
アンは生唾を飲み込んだ。
 
 
「あ、アンタが、アンタが殺したんだろ」
「あァ?」
 
 
ティーチが眉根を寄せて、引き金を引く指の動きを止めた。
 
 
「誰のことだ」
「父さんと母さんを、アンタが殺したんだろ!!」
 
 
悲鳴のように、室内に反響した。
意図しない涙が右の目からも、一すじ流れた。
自らの口から発したはずの言葉が、鋭く尖って胸を突き刺した。
 
ティーチが発する言葉のところどころに、ティーチがアンを見下ろす時の視線に、何も知らない愚か者を見るような優越感が混じっていることに気付いていた。
それがまさか、自分の殺した人間の子供が親の仇とも知らずにいることへの嘲笑とは思わなかったけれど、今ならわかる。
父さんと母さんはこの男が殺したのだと、アンの中に生きるふた親の血が告げていた。
 
ティーチは黙ったままピストルを下ろした。
 
 
「……なぜそう思う」
「と、父さんはニューゲートと一緒に街のトップだった。あんたがトップになりたいと思うのなら、ふたりとも始末したいって思うはずだ」
「それだけの理由で、オレたちが殺したってェのか」
 
 
アンが答えずにいると、ティーチはフンと鼻で大きく息を吐き、ピストルの柄を握り直した。
ティーチはたいして面白くもなさそうに、床に向かって言葉を落とした。
 
 
「そうだ。オレたちが殺した」
 
 
わかっていたはずなのに、それを自分の言葉で噛み締めたときよりもずっとずっと深く、おぞましいものが胸の奥に入り込んできた。
手が指の先から冷たくなっていく。
ティーチが不意にアンの襟首を離したので、アンは頭から床にぶつかった。
ごとりと鈍い音と痛みが響いたが、アンの頭は重たく、視界に映るティーチが父さんと母さんを殺し幸せな生活を奪ったのだという事実も、どこか遠いことのように感じた。
 
ティーチはアンにまたがったまま、銃口を覗き込んだ。
 
 
「悪運転する車とすれ違って運悪く? 交通事故? 馬鹿馬鹿しい。あの男がそんな理由で死ぬわけがねェだろう。とことんこの街の人間どもは呑気だ。ロジャーはニューゲートと一緒くたになってオレの邪魔をしようとしやがった。だから殺してやったんだ、仲良く夫婦一緒に、オレが雇った『当たり屋』にやらせてな」
 
 
ティーチは、体を起こさないアンを見下ろして、久しぶりの笑みを見せた。
 
 
「怒る気力もねェか。いっそすがすがしいだろ、死ぬ前に親の死因を知れてなァ。もうひとつ教えてやろう、ロジャーの野郎が死ぬ羽目になった要因だ」
 
 
ゼハハ、と短く笑ってティーチは目を光らせた。
 
 
「あの日、オレァあいつに教えてやったんだ。オレの仕事にいい加減口を挟むのをやめねェと、お前の大事なガキ共がどうなるか。例も出したな、そうだ、たとえば親の帰りを待つガキどものいる家が、くだらねェ放火犯の餌食になるとか──」
「ッ、アンタッ」
 
 
アンが上体を起こそうとした瞬間、強い力が肩を押さえつけ、アンの背中は再び床へと打ち付けられた。
 
 
「そうだ、オレァそう言ったんだ。もちろん直接じゃねェ、駒を介してだがな。ロジャーの奴ぁ馬鹿みてぇに狼狽えて、家へとんぼ返りよ。慌てりゃ運転も荒くなる。注意散漫にもなる。そこへ『当たり屋』がちょっと仕掛けりゃアイツの車は簡単に電信柱に突っ込んだ。呆気ねェにも程がある!」
 
 
ティーチは銃を持つ手を下ろし、どこか上を見上げてそう叫んだ。
それと同時にアンの肩を抑える手に力がこもる。
 
 
「オメェらはとことん馬鹿だ。家族だとか兄弟とか、守るモンを作るから結局自分自身が死んじまうのさ。現にロジャーはそうして死んだ。お前も兄弟を守りきれずに死ぬ。最後はオヤジだ、あいつも同じ末路さ!」
 
 
再び冷たい金属が、アンの眉間に触れた。
その冷たさに反して、熱を持った液体が目じりから溢れ、こめかみへと流れていく。
もう止めることなどできるはずがなかった。
サボでもルフィでもない、こんな男の前であたしは泣いている。
そう自分を詰ってみても、涙は止まらなかった。
ささやかな抵抗を示したアンの手は、ティーチの膝に踏みつぶされ、みしりと嫌な音を立てた。
 
 
「オメェはよくやった。ただしちと頭が悪かった。世の中生き延びるのは知恵と力のある者だ、今までだってそうやってこの街も作られてきたんだ」
 
 
ティーチの太い指が、再び引き金に引っ掛かった。
滲んで揺れる視界の向こうで、歯を見せて笑うティーチの顔が垣間見えて、最期の景色がこんなものだなんて、とアンは目を閉じた。
最後の一滴が両方の目から涙の軌跡を転がり落ちる。
 
 
押し付けられた床の冷たさは、水のようだった。
身動きの取れない身体は、重たく濡れた砂をまとっているようだ。
流れ続ける涙は、潮の味に似ているに違いない。
 
海を思い出した。
たった一度だけ家族5人で行った薄暮時のあの海を。
夕日が白浜を薄いピンクに染めて、その上に父さんと母さんが二人寄り添って立っている。
サボとルフィの甲高い声が水音と共に頭の中でよみがえる。
見上げた空には確か一本の飛行機雲があったはずだ。
いつかあそこにもう一度行けたら、そのときは真っ青な真昼の海に飛び込んでみたいと思った。



拍手[13回]

サッチ誕も終わりましたね、春だなあ……
相変わらず今年もなんにもできませんでした。
去年だったか一昨年だったかに意気込んでやりかけたサッチ誕のフリだけが、フォルダの隅にちんまりしているよ。
 
でもあれ、なんででしょう、イゾウ兄さんのときはツイッターもその他ネット上も結構な熱があった気がしたんだけど、今回のサッチ誕……あれ?
私のネット浮上率が急減したから気付かなかっただけですか?
 
機会があれば、サッチのお話も書きたいですなあ、サッチだけのお話を。
彼のポテンシャルは未知数ですからね。
言うに、イゾウ先生より未知数ですからね。
そんなこともないか。
イゾウさんも相当のキャパ持ってました。

 
サッチとマルコの腐れ縁だったり、
サッチのエースの放任風兄弟だったり、
サッチとイゾウのくだらないおとなの遊び仲間だったり。
サッチにはナースのお姉様たちとの割り切った関係があったりなかったりしてもいい。
島に女の人かかえててもいい。
そんな状態のときにアンちゃんが乗船すればいい。
 
完全サチアンもマルアンとはまた一風変わってたのしくなるし、(私はマルアンクラスタです)
マルアン+サッチの横恋慕は海賊版でのスタンスになりつつあるし、
現パロのお助け人サッチもいとしい。
まったく別世界でサチアン兄妹だってアリなんじゃないのーん。
あたしゃハナノリンのとこのサチアン兄妹話にゴロンゴロンして完全に手なづけられました。もはや下僕よ。
いつのまにこんなにおいしく楽しくハッピーなことになってんだろう、兄妹ネタ……
 
 
とにかくサッチ誕生日おめでとうござした!!!
あいしてるよ、みんなが!!
 
 



 
 
サッチへの愛を確認したところで、更新の報告です。
リバリバ22更新しましたー。
初登場ベイ姉さん。
彼女もいつの日かアンちゃんにとってマキノさんみたいな立場になってくれればいいなあと思ってます。
マキノさんとはまた雰囲気がだいぶ違うから、頼るべき面も違ってくるだろうけど。
 
あともうひとり、シリュウなんてこのお話以外で書くことは今後一切ないでしょう(断言)
そんでもやっぱり、いろんなキャラがぽいぽい出てきてくれるのは楽しいですねえ。
 
あともう少しで完結で、かつ連載開始から一年ほど経つのでどきどきします。
 
 


 
 
えーっと放置してるサンナミは、リバリバが片付いてからまたのんびり書きはじめます。
こっちはほんとのんびり。
リバリバみたいにスピード勝負的な雰囲気が私にないので、ぽやぽやと続く連載になりそうです。
 
あ、そうそう、前回の雑記で言ってたハナノリンのトンデモサンナミ爆弾の記事、私の雑記のコメントにハナノリンがURL乗っけてくれました。アリガトー!
自ら被爆する勇気のある方はどうぞ、行っておくんなまし。
 
※まじであぶないからね

 
 


 
 
さていただいたコメントにはすべてレス済みでっす!
いつもありがとうございますーーーーん!!!!
 
 

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 麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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