OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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2日前、アンの手に冷たい金属が触れたその直後。
立てと命じた声は、動揺を隠すような低く抑えた声だった。
抵抗しても仕方がない、とアンはのろのろ立ち上がった。
そのまま両脇を警官に挟まれ、否応なくアンは歩かされた。
マルコが去った道のりをアンも後を追う。
顔を上げることができなかった。
そうすれば、前を歩くマルコの背中が見えてしまうかもしれないと思うと、どうしても顔を上げることができなかった。
おぼつかない足取りで階段を降りながら考えたのは、家のことだった。
きっとサボとルフィはまだ眠っている。
何も知らずに、健やかな寝息を立てているに違いない。
布団をかけてきてやったけど、もうすでにはねのけているかもしれないなと考えるとほんの少し頬が緩んだ。
ふたりが目覚めた朝、きっとテレビもラジオもエース逮捕のニュースを流し始めるだろう。
ふたりがそれに目を留めないはずがない。
このまま何も知らず、眠り続けてくれればいいのにと思った。
しかしすぐ、あぁでも、と思い直す。
こうなることを見込んで、たった一本頼りの綱を作っておいたのだった。
どこまで信用できる人間かはわからない。
黒ひげを介して出会った弁護士だ、奴らと似たような組織かもしれない。
それでもアンの話を最後まで聞いてくれた。
男の方は面倒くさそうに、煩わしいことを言うなとばかりに縦皺を寄せていたが、それでも口を挟まなかった。
女の方も、男が「請け負った」と了解したと同時に強く頷いていた。
もうアンには信じられるものが限られている。
それならば、すがるべきところにはすがりたかった。
アンが捕まってしまった今、黒ひげは警察がアンの自宅やその家族に接触することを恐れて、サボとルフィを保護しにかかるだろう。
ふたりまで黒ひげの手に落ちてしまえば、もうアンに戻る場所はないように思えたのだ。
理屈より先に、サボとルフィには黒ひげと接触してもらいたくなかった。
それならば、昨日今日出会ったばかりの弁護士に頼った方がマシだと感じたのだ。
アンは歩かされるがままに階段を降り、屋敷の外へ出ていた。
その際応接間の横を通り過ぎたが、その中の様子は見えなかった。
宝石商はまだ薬のせいで眠っているはずだ。
目を覚まし、事の成り行きを知ったときに彼が知るはずのことを想像してみるが、少し前にそうしたときのように胸は痛まなかった。
もう痛むはずの心も止まってしまった、と思った。
夜は相変わらず月の光で明るかった。
アンは車に乗せられ、両側を同じく警官に挟まれる。
前を走り出した黒い車体を追うように、アンを乗せた車も始動する。
すると瞼が重くなり、アンはそれにさえ抵抗する気もなく目を閉じた。
こんなときによく呑気に眠くなるよなあと、我ながら呆れてしまう。
ただの現実逃避だとわかりながら、アンは車体の振動と眠気に身を任せて、車が停まるまでずっと目を閉じていた。
*
「でかしたな、マルコ」
一目散、というには必死さが足りないが、それでもマルコにしたらこれ以上ない程の猛進ぶりでニューゲートのもとを訪れたというのに、いつものソファにどっしりと腰かけたニューゲートがマルコの顔を見て一番に発したのは、そんな言葉だった。
扱っていた事件が収束を見た。
それは間違いない。
ただ、それだけでは終わらない何かがあるはずだと、そもそもこれはいったいどういうことなのだと突き詰めるつもりでやって来たマルコにとって、その言葉はあまりにも腑抜けたものに聞こえた。
憤慨したいがその行き場がないような、落ち着かない気分になる。
実際マルコは一瞬言葉を詰まらせ、ニューゲートの部屋の入り口で立ち止まった。
「どういうことだよい」
結局マルコが口にできたのは、シンプルなそんな言葉だった。
ニューゲートは、彼が白ひげと呼ばれる所以であるその大きなひげの下で、口角を上げて歯を見せるいつもの笑い方をして、マルコを目線で自分の向かいへといざなった。
全てを知る者の余裕の笑みのようにも、ひとまずマルコを落ち着けるための親が子に向けるそれのようにも見えた。
ニューゲートに逆らうことを知らないマルコは、やるかたない思いを消化不良のまま抱えながら、彼にしては荒々しい足取りで示された通りの位置へ腰を据える。
「……どういうことなんだよい、オヤジ」
結局はまた、同じ問いを投げかけるしかなかった。
もう自分の手に負えるものではないと、圧倒的な力の前にひれ伏したくなるような屈辱感を伴う圧迫感がひしひしとマルコを押しつぶそうとしていた。
気付けば、膝に肘をつき、目の前にやって来た手のひらで額を押さえていた。
痛んでもないのに、頭が痛む気がするのはもはや職業病だ。
「オヤジは、エースの正体を知っていた」
そうだろい、と押し付けるように問いかけた。
ニューゲートは何も言わない。
アンタはいつもそうだ、と子供のように喚きたくなった。
それでも、仕方なくマルコは言葉を続ける。
「エースが……アンだと、知ってたんだろい」
アンの名前を口にするときだけ、声がかすれた気がして、それがなぜかマルコの自尊心をわずかに削った気がした。
アン。
街の南に位置する小さな飯屋で、兄弟2人と共に店を営むあか抜けない娘だ。
サッチが初めにその店を気に入った。
マルコも次第にその店を、アン自身を気に入り頻繁に訪れるようになった。
アンは明るくどこかバカに真面目で抜けており、懸命に家計をやりくりする姿がけなげに映った。
いつのまにか、アンはおそるおそる店の外に、というより彼女が固く閉ざし続けた世界の外に踏み出すようになった。
その様子をすぐ近くで見守っていたと言っても、傲慢に過ぎることはないはずだ。
連れだしたのは誰だったか。
筆頭にサッチ、そしてイゾウ。あの元気玉のような弟も大きくアンの背中を押したはずだ。
そしてもうひとり、アンの背中を押したり引き戻したりするあの青年も、いずれにせよアンの何かを変えようとしたはずだった。
マルコの知らないところでも、アンを取り巻く多くの人間が彼女を導こうとしたのかもしれなかった。
アンがマルコと関係をもったことは、そのようなアン自身の挑戦の一つや、はずみではなかったはずだ。
自分がそう信じたいだけかもしれないと思いながら、マルコのその思いはすでに確信に近い。
ぼんやりとマルコを見上げたアンは男を知らなかった。
アンの意思を無視して、彼女に男を知らしめたとは思いたくなかった。
ほんの少しでもいい、自分が抱いたものと同じ温かみを、アンも持っていたと思いたかった。
一度でいいから、嬉しそうに、それもマルコのために笑う顔を見てみたかった。
わけのわからない仕事に翻弄されつつもどこか呑気にそんなことを考えていたと、自分を知る者が知れば世も末だと嘆くだろうが、マルコ自身はその感覚を悪くはないと感じていた。
そんな矢先だった。
そのわけのわからない仕事と、アンが一直線に結びつくことになる。
手錠を掛けられて、アンは収監された。
背中で聞いた細い金属音は、今も耳の奥にこびりついて離れない。
アンが今このときも、冷たい牢獄でひとり硬い壁に身を寄せているのかと思うと、いてもたってもいられないような久しく感じることのなかった焦燥を感じた。
それでもマルコはぐっと手を組み合わせて、深くソファに腰を下ろしている。
「アンは、アイツは誰なんだよい」
自身の手に遮られて、くぐもった声が落ちた。
ニューゲートが、大きく鼻を鳴らして息を吐く。
彼が話し始めようとすると、いつも空気がかきまぜられるような気配が満ちる。
「エースを動かしていたのは黒ひげだ」
ニューゲートの遠回りするような言葉に、マルコは微かに苛立った。
それはわかってるよい、と遠慮なく突っぱねる。
「アンは利用された駒だってのも想像がつく。オレが聞きたいのは、なんでオヤジが」
「オレがアンに初めて会ったのは」
ニューゲートに遮られ、マルコは途切れた言葉の先を飲み込んだ。
「アンが生まれたとき、その一回きりだ」
顔を上げると、ずいぶん高くにある金色の目は横にそらされ、広い窓の向こうを見ていた。
空はようやく白んできた明け方で、マルコは新しい一日を迎えようとするこの建物の外側が自分とは全く切り離された世界であるように感じた。
マルコの一日は、エース逮捕を挟んで、まだ昨日から終わっていない。
ニューゲートの低い声は、マルコにではなく、窓の外、それもずっと遠くにある誰かに投げかけられたかのように聞こえた。
「アンは、ロジャーの娘だ」
すぐには言葉が出なかった。
「ロ……ゴール・D・ロジャーのことかよい」
「あぁ、ロジャーとルージュの間に生まれた一人娘が、アンだ」
「……ロジャーに娘がいたのは知ってるが、その子供は街の外の施設に保護されたって」
「そりゃ通説だ。ロジャーが死んだのはお前が警察に入る直前か、いや、直後だったか? どっちにしろ若造だったテメェの知る所じゃねェ」
「……バカな」
そう呟いたものの、エースがアンであった今、何もおかしいものなどないような気がした。
というより、何が起こってもおかしくないような気がした。
アンがロジャーの娘であるとすれば、ロジャーと親交のあったニューゲートがアンを知るのも道理であり、当時から街の最上部の一端を担っていた彼がアンという秘密を知っているのも理解できた。
マルコは今は亡き男の姿と、たった一度だけ垣間見たことのあるその妻の姿を思い浮かべた。
思えば、アンはロジャーとルージュの血を継いでいる可能性がその容姿からも十分に見て取れる。
すべて、今となってはの話である。
「オレとガープの間で取り決めがあった。アンの出自を伏せること、その生活を守ること、オレァ直接アンにしてやれることはなかったが、気に掛けてはいた」
「ガープって、なんであのじいさんが」
「アンが一緒に暮らす兄弟に、黒髪のボウズがいるだろう。ありゃあガープの孫だ」
「まっ……ルフィってガキか」
「あぁ確かそんな名前だったか。そのボウズをガープがロジャーに預けた。2,3年ばかりはロジャーの家で過ごしたはずだ」
マルコは先程まで押さえていた頭がまた痛み出すのを感じていた。
アンがロジャーの娘で、ルフィはガープの孫で。
じゃあ、あのもうひとりのガキは?
「サボってボウズはルージュが拾った子供だったらしい」
マルコの考えを先回りして、ニューゲートが答えた。
「拾ったってのは」
「あいつはどこのだれとも知らねェ本物の孤児だ。いや、親はいるが……ロジャーとルージュが、頑としてあいつを生家にゃあ返さなかった。善意ある誘拐見てェなもんだ」
ニューゲートは自分の言った言葉が気に入ったのか、そこで声を上げて笑った。
ソファがぐらぐらと揺れる。
あの3人が本当の兄弟であるとは、マルコも思ってはいなかった。
ただ、それぞれの出自がマルコを取り巻く世界と思いのほか近くにあったことに目を剥いていた。
頭がくらくらする。
ニューゲートはマルコの混乱をわかったうえで、それがおさまるのをじっと待っているようだった。
空は完全に朝を迎え、腹立たしいほどの晴天がのっぺりと広がっている。
「黒ひげ……ティーチのヤツも、アンを知っていた」
ニューゲートは感情の見えない声で、そう零した。
何か大切なことが、今まで隠されてきた何かがこの男の口から話されるという予感がマルコにぶつかった。
『情』に疎いとさえ陰で言われるマルコだが、そこで聞いたことはおそらくマルコの情を揺さぶるものだった。
立ち上がり、今すぐアンのもとか、または黒ひげのもとへと行かなければならないと駆り立てられた。
話を聞き終えマルコが全てを知ることになるときには、いつのまにか朝を迎えたばかりのはずの一日が終わろうとしていた。
*
エース逮捕のニュースは、想像通り街中の紙面、テレビ、ラジオをにぎわせた。
マスコミはこぞってこれまでの事件を取り上げ、エース個人の情報を警察側から引き出そうと躍起になったが、それは警察がエースを捕えたことよりも難しいことであった。
エースが捕えられてから2日が経過したが、警視庁の石の扉は重く閉ざされたままである。
マスコミ各所は警察側のその態度に苛立ち、市民の声を持ち出して情報の開示を強く求めた。
その要求は今も続いている。
一方警察内部では、エース逮捕から2日後の午後、ある噂で持ちきりになっていた。
その情報が開くまで「噂」の形に留まっているのは、エースの事件に直接関係のない部署、交通課や生活安全部など、警視庁下部に所轄を構える面々の間においてである。
少年課のサッチなどはその噂が仲間の口々から囁かれる中で、ひとり知らぬ顔をしていた。
しかしエースに直接的な関連を持っていた各部署の間で、その情報は噂ではなく確かな事実であった。
我らが警視総監、エドワード・ニューゲートが直々にエースに会いに行く。
ようやく重い腰を上げたのであった。
エース事件に関係があると言っても、ニューゲートとエースの間にどんなつながりがあるのか知る者は一人としていない。
天と地がひっくり返るかもしれないという危機にさえ指を動かさなかった警視総監が、たった一人の泥棒が捕まったというだけで、なぜその泥棒に会いに行くのか。
歳をかさむにつれて徐々にではあるが大人しくなっていく警視総監が、実は破天荒な人物であることを誰もが知っている。
今度は何をするつもりだ、というおそるおそると言ったような好奇心の混じった興奮が、警視庁上部の間では渦巻いていた。
事実、ニューゲートは庁舎を出ると直属運転手が控える車に乗り込み、エースの収監される収容所へと着実に向かっていた。
縦にも横にも巨大な黒塗りのリムジンを、ニューゲートはひどく嫌っていた。
「これじゃオレが移動してるってのが筒抜けじゃねェか」と不満を漏らすのである。
しかし彼が収まるにはそれなりの空間が必要で、となるとこのリムジンが移動には最適であった。
まさかキャンピングカーを公用車にするわけにもいかない。
そういうわけでこのときも、ニューゲートはまたぶつぶつ文句を洩らしつつ、この巨大なリムジンに乗っていた。
後部座席に座る彼の正面には、マルコが位置している。
リムジンの中心を挟んで、彼らは向かい合っている。
彼らは乗車してから、一度も言葉を交わすことがなかった。
マルコがニューゲートのことをオヤジと呼んでいるのは、上層部の人間であれば多くが知っている。
また、その上層部とマルコの狭間に位置する数人もまた、ニューゲートをオヤジと呼んだ。
彼らはけして血のつながった親子ではなく、またマルコとその他の数人が本当の兄弟なわけでもないが、その呼び名が彼らの関係を形容するに最もふさわしいと誰もが思っていた。
しかし今は、マルコもニューゲートもむっつりと口を閉ざしている。
巨大なリムジンを苦も無く転がすのは、ニューゲート専用の運転手、クリエルである。
彼もまたニューゲートをオヤジと呼び、マルコと肩を並べて軽口も言い合える仲であった。
元来無口な男だが、クリエルはこのときも二人の沈黙に従って口を開きはしなかった。
ひたひたと忍び寄る何かに、自ら向かって行くような不気味さと緊張感が車内に張りつめていた。
クリエルは車を収容所の正面に付けると、素早く運転席から降り後部座席の扉を開いた。
のっそりと、しかし強く地面を踏みしめるような力強い足取りでニューゲートが降りる。
続いてマルコが降りた。
収容所は昨日から続く晴天の下でも、独特の陰鬱さと見えない臭気を放っているように感じた。
その平べったい屋根の上だけ、ぽこりと曇天が浮かんでいてもおかしくはない程、建物は暗く影が差している。
収容所の門前から入り口までの小さな庭だけがさんさんと健全に日の光を浴びているのが、どうも不似合に映った。
ぐるりと鉄網に囲まれた大きな犬小屋のようだ、とクリエルは歩いていく二人の背中を見送りながら思った。
ニューゲートとマルコはよどみない足取りで、収容所へと入っていく。
そこに収監されるアンに会いに行くためである。
アンは捕縛された2日前ここに収容され、今も変わらず囚われの身である。
看守の話によると、アンは警察の手から身柄を移される際も大人しく、一言も口をきかず俯いていたという。
アンへの事情聴取は昨日からすでに始まっている。
マルコたちのもとへは、アンが一言も言葉を発しないという苛立ち混じりの報告が上がっていた。
まるで抜け殻のように、人形のように、言われるがまま身体を動かすだけだという。
その報告を受けたマルコがあからさまに舌を打ったことに、報告を上げた部下は驚くよりも恐れおののいた。
感情をあらわにした上司を見るのは初めてで、かつこれ以上恐ろしいものはないと本能的に感じたからである。
そそくさとその上司の前を立ち去るほかはなかった。
エース対策本部内では、すでにエースが女であること、「アン」という名の女であることは知れ渡っていた。
さらにそのエース──アンが、黒ひげの手に握られていたことも周知である。
今後の彼らの仕事は、アンの口から黒ひげに関する情報を入手することであった。
エースという事件そのものが黒ひげによるものだと知りながら、警察が直接黒ひげと接触を試みなかったのは、黒ひげが警察より一枚も二枚も上手に行くことを恐れたからである。
マルコと同年代、もしくはそれ以上の年月を警察内部で過ごしたものは、黒ひげの、ティーチの抜け目なさをいやというほど知っていた。
エースより先に黒ひげに手を出せば、黒ひげは簡単にエースを切り捨てて手札を打ってくる。
最悪、警察が黒ひげと接触している間、黒ひげの手のものがエースの存在自体を消してしまうのは造作もないことであると知っていた。
デリートキーを押すのと同じ感覚で、黒ひげはエースを切り捨ててなかったことにしてしまうだろうと想像がついた。
もとより警察は市民の生活を保護し、安全を保障するために存在している。
犯罪者とは言え、警察までもエースを見捨てるわけにはいかなかった。
マルコの側からは、それをニューゲートが許すはずがないという事情も絡んでいる。
それらの理由を鑑みて、エースの事件を収束させるにはまずエース自身を捕まえる必要があった。
エースを捕えて、その口から黒ひげの情報さえ引き出せれば言質が取れる。
黒ひげは何よりそれを恐れるだろう。
エースの口を封じるために刺客を放つとも考えられなくもないが、エースを収監するということは警察側がエースを保護できると同義である。
エースを捕えてしまえば、同時に黒ひげから守ることができる。
そもそもこの事件は、おそらくエースつまりはアン自身が考えているよりももっと、大きな者同士が対立し合う事件であった。
警察と黒ひげであるとか、警察と行政府であるとか、街そのものとそれを脅かす組織であるとか、ともかくアンの頭上で行われるべき事件であり、それに巻き込まれたと言っても過言ではないアンに同情する対策本部の警察官は少なくなかった。
警察官としての正義感は、アンを捉えられたことによる高揚を感じている。
しかしそれよりも、たとえばマルコより上の世代であれば、アンのあまりの若さ、というより幼さに痛むものを感じずにはいられなかった。
聴取を取られる際に見せる憔悴しきった顔つきは痛々しい。
彼らの息子であるとか娘であるとかに近い歳のアンは、庇護すべき対象であると思わせた。
早くアンから言質を取り、黒ひげに詰め寄りたいというのが彼らの思いであった。
しかしそのアンが口を開かない。
聴取を取ってさっさと黒ひげを追い詰めたい警察側にとって、それは不測の事態であった。
アンと黒ひげが、たとえば「信頼」のようなものでつながっている可能性は少ない。
すぐさま黒ひげに関する情報を引き渡すべきである、そうすれば事件はほんとうの収束を見ると、警察は何度もアンを説得したが、彼女が口を開く気配はない。
アンの取り調べを行っている警官は、マルコの顔見知りである。
マルコとしてはその取調べ内容に問題があるのではと思わずにはいられないような人物であるため、一様にアンの口が堅いだけとは思えないのだが、その警官も腐っても警官である。
しなければならない仕事はしているはずだ。
そうして手をこまねいているうちに、ニューゲートが重い腰を上げた。
遅かれ早かれそうなっていただろうと、すべてを知ったマルコは思う。
ただの窃盗犯一人に警察総監が直接聴取を取りに出向くなど空前絶後の出来事ではあった。
その前代未聞の待遇に騒ぐ警察内で、アンの本来の出自と秘密を知る古株たちは大きな背中を黙って見送った。
ニューゲートの傍には、いつものようにマルコが控えている。
収容所そのものはとても小さな施設である。
もとより街自体が大きくなく、さらにはめったなことがない限り凶悪犯も現れることがないので、犯罪者の収容施設だって大きくある必要はない。
この小さな空き箱のような建物の中に、アンは収容されている。
ニューゲートとマルコは看守長の付添いのもと、アンのいる留置所へと案内される。
中は思いのほか明るかった。
鉄格子がはまっている窓がいくつもある。
底から外の光がふんだんに差し込んで入る。
寒々しいコンクリートの壁に囲まれたそこは清潔で、外から見たイメージとは必ずしも一致しない。
ふたりは建物の中で、何度めかのボディチェックを受ける。
最高権力者とは言えぬかりなく体中をまさぐられるが、ニューゲートはじっと耐えている。
マルコもそれに倣った。
「こちらの部屋です」
看守が立ち止まる。
マルコたちも足を止めた。
無機質な銀色の扉のむこうに、アンがいる。
扉には番号が振られている。421とある。
収容された囚人は、その番号が名前代わりとなる。
そこには小さな窓がついていた。中の様子を覗くことができる。
看守は自身のベルトから鍵を取り外した。
そして少し首を伸ばして、窓から部屋の中を確認する。
「421、開け……」
ハッと息を呑む音が、看守の口から飛び出し窓に跳ね返ってニューゲートとマルコにぶつかった。
「どうした」
マルコが短く問う。
看守は扉に張り付いて窓の中を覗きこんでいたかと思うと、泣きそうな情けない顔で振り返った。
「421が」
「扉を開けろ」
ニューゲートが低く、落ち着き払った声で命じた。
看守は必要以上に慌てふてめき、騒々しい音を立てて扉の鍵を開ける。
開いた扉の中は、しんと冷たい無人の部屋だった。
看守はもとよりニューゲートもマルコも、呆気なくいなくなってしまったアンの姿になすすべもなく、しばらくの間立ち尽くしていた。
*
留置所の中は、予想通りというか定例通りというか、ともかくアンが思ったそのままに味気なく冷たい場所だった。
しかし檻に放り込まれる家畜さながらの扱いを受けるかと思いきや、アンを引き渡した警察も引き受けた看守も、けして手荒な真似や乱暴な振る舞いは見せなかった。
事情聴取の時間までここで待機しろと命じ、警察と看守は部屋を出ていく。
アンを囲う留置所のさらにもう一つ向こうの扉の外に、見張りの看守は腰かけているようだった。
暗いコンクリートの箱の中でひとりになると、驚くほど一気に力が抜け、いつの間にか膝をついて座り込んでいた。
知らず知らずのうちに気を張っていたのだと思い知る。
コンクリートの壁は、外の音をすべて跳ね返しているのだろうか、アンの耳には何も聞こえない。
今は何時だろう、と周囲を見渡したが、牢の中に時計はない。
這うように扉へとスリより、立ち上がって小さな窓から外を覗くと、向かいの壁にちょうど壁時計がぶら下がっていた。深夜の3時だ。
そのままずるずると座り込み、扉に背をつけた。
冷たさが水のように背骨に沁みた。
結局あたしのしたことはなんだったんだろう。
四度も人の家に忍び込んで、泥棒沙汰を働き、結局なんにも手に入れられていない。
最後の最後に指先が触れた本物の髪飾りも、あっけなく奪われてしまった。
出来ることなら、誰かに尋ねてみたかった。
あたしがしたことは初めから意味なんてなかったのだろうか。
不思議なことに、涙は出なかった。
歯を食いしばるのは得意だ。
しかしそれは、サボやルフィの前では効かなかった。
あのふたりのまえでは気が緩む、タガが外れたように泣いたり怒ったりできる。
そうか、と思い当った。
今はあのふたりがいないから、泣くことができない。
一人では泣き方すらわからない。
そういえば、母さんたちが死んだときも大仰に泣き叫んだりしなかった。
状況の意味が分からなかったのと、それよりもサボとルフィと離ればなれになるかもしれないという目先の不安にいっぱいいっぱいで、落ち着いて両親の死を悲しんでいる余裕がなかったのだ。
ルフィは確か大泣きしていたな、と思った。
甘ったれで、末っ子のルフィを父さんも母さんも可愛がったから。
サボはどうだったろう。
不安で膝の折れそうなあたしが崩れ落ちないように、しっかりと手を繋いでいてくれたことは覚えている。
サボは泣いていただろうか。
急に、もう二人には会えないんだな、という事実が胸を突いて、心を硬くした。
哀しいと思うのに、涙はそれでも出なかった。
背中側のドアを叩く衝撃を感じて、顔を上げた。
ビクッと肩が跳ねたことで、自分が寝ていたのだと気付く。
「ゴール・D・アン。取調べだ。開けるぞ」
扉をあけられて、電灯の光ではない自然光がアンの顔を照らした。
いつのまにか朝が来ている。
アンを見下ろす看守がとても大きく見えた。
アンがのろのろ立ち上がると、看守は即座にアンの手を取り手錠をかけた。
そうして連れられるがまま、アンは聴取へと出向いた。
同じ建物の中の、事務室のような小さな部屋に通される。
無機質なテーブルを挟んで椅子が二つ。
ため息のようにけだるげに、暖房が吹き出し口から吐き出される音が満ちている。
アンは指示された椅子に腰かけ、言われた通り聴取の係が来るのを待った。
扉の前にはひとり、警官が見張りに立っている。
アンは手錠に繋がれた手を太腿の間に落とし、ぼんやりとテーブルの上に視線を流していた。
頭が重たく、ぼんやりとした状態が続いている。
脳みそはもう溶けて正常に働かない気がした。
なにを訊かれても、答えられる自信がない。
もうこの期に及んで何かを隠そうとする気はさらさらなかった。
黒ひげに関してもできることならすべてぶちまけてしまいたい。
しかし一方で、アンは自分がそれをできないことも知っていた。
もし、万一、あのクロコダイルという男がサボとルフィを匿うよりも早く黒ひげたちが接触していたら。
アンが黒ひげの情報を警察に売ったと知れば、黒ひげはサボとルフィを呑気に保護してはくれないだろう。
いや、そんなのどかな表現では済まない。
おそらくふたりは殺されてしまう。
ティーチはずっとアンに対し乱暴な扱いや凶暴な振る舞いをちらりとも見せることはなかったが、あのぎょろりと大きな眼の光はいつでもアンにその可能性を知らしめていた。
それがティーチの故意であれば、たいしたものだ。
思うつぼだと知りながら、アンはそれが怖くて口を割ることはできないだろう。
靴音が近づいてきた。
カン、と高い靴音が扉の前で止まり、扉をノックする。
見張りの警官が答えるより早く、外側から扉が開いた。
「何もこんな奥深くで聴取なんかしなくてもいいだろう、凶悪犯じゃあるまいし。迷っちゃったよ」
登場早々誰に向かってか文句を垂れた婦人警官を捉えて、アンは驚くよりも呆気にとられてぽかんと見上げてしまった。
スーツを着てはいるが、その着こなしはまるで私服のようにくだけている。
短いスカートから伸びる脚の先にはかかとの高いヒールをひっかけており、背は高くないのに姿勢がいいので天井から頭が吊られているみたいだ。
なにより目を引く水色の波打つ豊かな髪の毛が眩しかった。
アンに関する調書を手渡そうとする警官を「あんたもういいよ」の一言で追い払い、有無を言わさず部屋の隅に座らせると、婦人警官はアンを見た。
思わず背筋が伸びてしまう。
垂れた目は冷たい色の化粧できれいに縁どられていた。
「初めまして、アン。今日はあたしがあんたの話を聞くからね」
そう言って、アンの向かいの椅子を引いてそこにちょんと腰かけた。
テーブルに肘をついて、小さな顔を手で支える。
まるでアンと今からおしゃべりを楽しもうとするかのような姿勢だ。
「あたしはベイ。警察本部主任の、階級は一応警部補。本当ならもぉっと下っ端のヤツがあんたの取り調べをするもんなんだけど、可愛い子の相手は可愛い子がしないと。下衆な野郎じゃ話にならないじゃんねぇ、そう思わない?」
ベイはにっこり笑って、アンに同意を促した。
アンは頷けるわけもなく、まぬけ面のままベイを真正面から見つめるしかできない。
ベイはアンの返事を期待していたふうは見せず、「そんじゃ」とさっさと片手に持っていた封筒の中からばさっと紙束を引き出した。
「一応言っとかなきゃならないこともあるんだよねえ、あたしもこれ、仕事だからさ実は」と実はも何もないことを言い放ち、ベイはアンの名前に間違いがないことやアンには黙秘する権利があることなどを通り一遍に述べると、アンの理解を確認するそぶりも見せずに「はいおわり」と書類から目を上げた。
ベイがあまりにまっすぐ見つめてくるので、アンはいたたまれなくなって思わず目を逸らした。
何故かベイは嬉しそうに、うふふっと楽しげな笑みを漏らす。
「あんた、いくつだっけ、20?」
アンが頷くと、ベイも笑みを浮かべたまま頷く。
「朝ご飯は食べたの?」
朝……と考えた。
気付いたら眠っていて、聴取だと起こされて部屋を出てきたので、まだ何も食べていない。
腹の虫も気落ちしたようにアンに空腹を知らせないので、気付かなかった。
まだだと首を振ると、美しい笑みを湛えていたベイの顔が凍りついた。
その変容に、アンは何事かと肩を強張らせる。
ベイは後ろに椅子を飛ばす勢いでその場に立ち上がり、「ちょっとあんた!」と背後の見張り警官に向かって怒鳴り声を上げた。
「こんな若い子せまっ苦しい所にぶち込んで挙句メシも与えないなんて、あんたらどんな凶悪組織なんだい!!ぼけっとしてないで、何か食べられるモン持ってきな!!」
アンが口を挟む余地もないうちにベイが警官を怒鳴りつけると、その警官は血相変えて逃げるように部屋を飛び出した。
ベイは怒りを隠そうともせず荒い息を吐き、ドカッと椅子に座り直す。
「まったく、信じられないね。やっぱりオヤジの目の届ききらないところから腐ってきちまう」
すぐにメシが来るからね、とまるでアンをいたわるような口ぶりで言う。
ベイが現れてから戸惑い続きのアンは、まだ一言も口を開けていないのにおかまいなしだ。
結局ベイは、逃げるように飛び出した警官がサンドイッチを持って現れるまで、いかに職場の男たちがつまらないかを滔々と愚痴り、相変わらずアンには話す余地を与えず、いったいこの場は何のために設けられたのだろうかとアン自身が疑問に思うような時間が続いた。
警官が持って来たサンドイッチを勧められ、アンはおずおずそれを口に含んだが、乾ききった口の中はサンドイッチのパンにますます水分を奪われ、上手く飲み込むことができなかった。
何度もむせ返るアンを、ベイはまるで慈しむように見つめている。
その視線がまた、アンを戸惑わせて気になった。
やっとのことで胃の中にサンドイッチを収めたが、満腹感とは程遠く、腹の中はどんよりと重たい。
「食べられるときに何か食べておくのは、大事なことだよ。今は食べたくなかったかもしれないけど、これからどんどんエネルギーが必要になるからね」
ベイは目で警官に食事のトレイを下げるように示すと、軽く座り直した。
「約9か月前に始まる銀行、私人の邸宅、美術館にそれぞれ忍び込んだのは、アン、あんたで間違いないね」
隠すまでもない、とアンは頷いた。
「その目的はルビーの髪飾り、で合ってるかい」
それも頷く。
「それを狙った、理由を教えてくれるかい」
理由は簡単だ。
それがアンの母ルージュのものであったかもしれないからだ。
ただそれが、人の家に侵入した理由になるはずがない。
今ベイに、髪飾りがアンの母のものであったということを説明するのは比較的簡単だ。
ただそれを話してしまうと、その話をアンがどこで知ったのかというところに行きついてしまう。
するとどうしても黒ひげの話をするしかなく、それはアンにはできない。
よって、何も話すことができない。
アンが黙っていると、ベイは「質問を変えようか」と静かに言った。
「あんたの侵入方法は、今までずっと警察の裏をかいてきた。この街の最高峰の警戒をあんたはくぐりぬけていた。並大抵の下準備じゃ足らなかったはずだ。そういうのは、どうやって仕込んでいたんだい」
アンが恐る恐る顔を上げると、ベイは変わらずまっすぐアンを見つめている。
その真摯な顔を見ていると、もしかすると警察は黒ひげの存在を知っているんじゃないだろうかと思い当った。
思いつくと、もはやそうに違いないとさえ思えてくる。
それならさっさとティーチを探せばいいのに、どうしてこうもあたしに時間を割くのだろう。
やはりアンが答えないので、ベイはほんの少し口を尖らせて、鼻から息を吐いた。
あまり困ったり怒ったりしているようには見えない。
「あのね、アン。あんたは必死で何か大事なモン守るためにやってたのかもしれないけど、事実この事件に絡んで何人か人が死んでる。あんたの知らないところで、確実にコトは動いてる。もうあんたひとり足掻いたところで収まりきらない事態なんだよ。あたしはあんたを擁護することも責めることもできないけど、確実に言えるのは、あんたが黙ってたらなにも良くはならないってこと」
ベイは爪の先でとんとんと机の上にリズムを刻んだ。
アンもその仕草に自然と目を落としてしまう。
ベイの言葉は、まるでアンを圧迫する気迫はないのに、胸に重く落ちた。
だからといって、口を開くことはできない。
黒ひげのことを話すことはできない。
話したら、サボとルフィが殺されるかもしれない。
それすらも守ってとは、もう誰にも言えない。
黙りこくるアンを数秒見つめ、ベイは一度深く息を吐いた。
「うん、できればさっさと終わらせたいんだけどね、こんなこと」
こんなこと、というのはこの取調べというよりも、この事件そのもののように聞こえた。
というのも、ベイは別段アンとの話を切り上げようとしないからだ。
「あんたも昨日の今日で落ち着いてないことだし、また少し時間が経ったら話を聞きに来るよ。……ねぇアン、ちょっと手を出してみな」
手? と訝しがるアンを促すように、ベイは机の向こうに手を伸ばしてアンに手を出すよう示した。
アンはおそるおそる、手錠に繋がれた両手を机の上に乗せる。
ベイはそれを見てほんの一瞬嫌な顔をしたが、すぐさまアンの両手を取った。
ベイの手は、冷たい色の化粧や凛とした雰囲気に反してほんのりと温かったが、突然のことにアンはびくりと大仰に反応してしまった。
ベイはお構いなく、手を離さない。
「人ってのはね、だいたい手を見れば何をやってるのかわかるもんなんだ。あたしはそういうのが得意でね。……そう、あんたはね、薄い手のひらだ。指も細いし余計なモンがついてない。痩せすぎてはいないけど、苦労したんだね。でも指はちょっと荒れてるし、乾燥してる。料理するだろう、だからだね」
ベイは目を閉じて、アンの両手の甲をゆっくりと包みながら撫でる。
アンは不恰好に固まって、されるがままだ。
「指先まで冷えてる。当たり前だよねえ、こんなとこにいりゃ。こんな暗くて冷たいとこ、若い子の身体にはよくないんだよ。あんたはもっと、温かい所にいなくちゃいけない。ほら、あたしの体温でちょっと温かくなってきただろ」
ベイの言うとおり、アンの冷たい指先にベイの熱が移り始めていた。
アンはじわっと沁みるようなぬくもりを感じて、思わず肩の力を抜いていた。
ベイはアンの両手を包んでいた手を離すと、片手でアンの片手を握手のように握った。
「握り返してごらん」
何を考えることもなかった。
アンは自然と、ベイの手を握った。
ベイはゆっくりと、嬉しそうに笑う。
「しっかり握るんだね。あんたにはきっと強い力があるよ。しあわせを掴む強い力がある」
ベイは最後に、両手でアンの手を挟むように軽くパンと叩いて、手を離した。
「今回はこれで終わり。やっぱりちょっと顔が疲れてきてるね、当たり前だけど。時間はあるから、少しゆっくり眠るといいよ」
そう言うとベイは立ち上がり、書類を封筒に戻すとまた淀みない足取りで、振り返ることもなく部屋を後にした。
アンは自分で自分の片手を包んだ。
手錠の冷たさが、少し和らいだ気がする。
*
留置所に戻ると、アンはあまり経たないうちに眠った。
ベイに言われたからというより、身体が眠りたいと言っていた気がした。
簡素なベッドに横たわると、思考が途切れるのはすぐだった。
昼食で一度起こされたが、それもあまり喉が通らなかった。
しかしベイの言葉を思い出し、食べられそうなものだけいくつか選んで食べた。
少しずつ、溶けていた脳みそや霞がかってぼんやりした心が固まりだした気がする。
なにか、自分にできることが、やらなければならないことがあるような気がしてならないのだ。
こんな鎖につながれた牢の中で何ができるはずもないのに、なにかしなくちゃいけないというエンジンが少しずつかかり始めている。
そのためにはガソリンを燃やさなければならない。
アンは水でのどを潤しながら、少しずつ、それでも着実に食べ物を胃へと送り込む。
昼を少し過ぎた頃、また聴取に呼び出された。
同じ部屋に通され、今度はベイではない男の警官がやって来た。
しかめっ面の、堅苦しそうないかにも警官らしい男だ。
この警官とはベイとの様なやり取りがあるはずもなく、紋切り型の口調でベイが尋ねたのと同じようなことを尋ねられ、アンが答えないでいるとあからさまに苛立った表情を見せた。
他にも、侵入経路や逃走経路を図った方法や資金の出先などを尋ねられたが、すべて黒ひげにつながることだったのでアンも口を開かなかった。
結局この取調べでアンは一言も言葉を発さず、もういいと突き放されるように取調べは終わった。
アンはまた自動的に、留置所へと送り返される。
看守はアンを先に歩かせ、後ろからついてくる。
何度目かの往復にすっかり慣れたアンは、指示されるまでもなく留置所までの道を歩いていく。
留置所の手前のドアの前には、見張りの看守が一人座っていた。
看守たちは目配せし合いながら、アンを通過させる。
アンが留置所に入ると、看守は外側からアンの手錠を外した。
重たい扉が鼻先で音を立てて閉まる。
アンは楽になった手首を軽く振りながら、小さな窓から見える時計を覗いた。
すると、再び廊下に続く扉が開いた。
アンを連れて来た看守が一人、戻ってきたのだ。
この留置所にはアンしかいない。
他の囚人たちは別の部屋に留置されているようだった。
ということは、戻って来た看守はアンに用があるわけで、なんだろうと思っている矢先、看守はアンの留置所の扉の前まで歩み寄ってきた。
ガタイのいい大男だ。
深く帽子をかぶっているが、その影の下から覗く眼光は細く光って見える。
危なっかしいものを見たときのような冷やかさと緊張を同時に感じた。
「ゴール・D・アン。お前をここから逃がす」
看守は低く小さな声で呟くように言ったが、その言葉ははっきりとアンの耳に届いた。
それでも思わず、訊き返すような視線で男を見上げてしまう。
「黒ひげが近くまで迎えを寄越している。お前を助けに来た」
「あ、あんたは」
男はシリュウと名乗った。
「職はここの看守だが、オレも黒ひげの一人だ。見張りはオレが代わった、今はいない」
シリュウはアンの返事も聞かず、断ることもなく留置所の鍵を開け扉を開いた。
「そう時間はねェんだ、オレの後に付いて来い。まず見つかることはねェがな」
シリュウはさっさとアンに背を向け、外へとつながる廊下に向かって歩き出す。
アンは目の前で開け放たれた扉の前で立ち尽くしていた。
黒ひげが、助けに来たなんて、あるだろうか。
もう自分は見放されたものだとばかり思っていた。
それでいい、サボとルフィにさえ手を出してくれなかったらそれでいいと思っていたのに。
動かないアンを振り返り、シリュウは苛立たしげに「早くしろ」と急かす。
アンはちらりと頭上に視線を走らせた。
シリュウが目ざとくそれに気付き、「監視カメラなんざ潰してあるに決まってるだろう」と事もなげに言う。
そうか、これは助けに来たというべきではない。
奪いに来たのだ。
警察からアンを奪いに来た。
黒ひげはアンが余計なことを警察に話されてはならないと、駒のアンを回収しに来たのだ。
それなら納得がいく。
そうだとわかったうえで、今自分はシリュウについていくべきだろうか。
もしサボとルフィが無事クロコダイルに保護されていたら、アンが出向く必要はない。
このまま黒ひげと手を切ったっていい。
ただ、もし上手くいっていなかったら──そのときが怖い。
シリュウはアンが黙々と考えるのを、じっと見下ろしていた。
爬虫類じみた小さな目がアンを見透かすように光っている。
ベイの言っていたエネルギーは、今このとき要るのかもしれない。
「連れて行って」
シリュウは黙って歩き出した。
足音ひとつ立てずに素早く進んでいく巨体を、アンも静かに追いかけた。
→
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黄色い視界の中でこんにちは。こまつなです。
いや、というほど私の住む地区はきなこにまみれてはいないんですけどね。
でも車の窓やサンルームの天井は黄色くなりましたねえ。
洗濯物も外に干すのはちょっと考える。
さいわい我が家(私の実家ですが)には花粉症がひとりもいないので、あんまり神経質になってはいないです。
私がちょっと、春になると体痒くなるくらい。
もともと肌が弱いので。
関東の方はすっごいことんなってんなぁと、ニュースを見ながらぼんやり心配しております。
テレビ越しだと、うおー大変そうだなあって思うだけですが、そこで暮らす張本人の方々はそんなのんきな状況じゃねェよってかんじですよね。
石を投げないでください。イタッ
はい、更新報告が遅くなりましたが、サンナミいくつか更新しました。
サンジ誕にひとつ【奇跡の海までもう少し】
あともういっこ長編の連載始めちゃいました。【カンバスのある丘】
リンクを張ってみるというこの努力がいつまで続くのかが見物ですよ(そうでもない)
サンジ誕、お話書いて祝うのは初めてなんですよねえ。
ナミ誕は2011【恋は百万光年】2012【呼んでサファイア】とシリーズものでお祝いしましたし、
実はロビン誕も2011【昼下がりのベゴニア】2013【足音のオルゴール】としてるんですよねえ。
あとはチョッパー誕なんかもしてる。
それなのに、だいすきなサンジ君を祝っていないとは何事かと。
こまつなは立ち上がりました。
そして座りました。
座って、書きました、おはなしを。
誕生日だから、誕生日当日の様子を書くのが筋って言うかそう言うもんだろ誕生日って……と思いつつ、ガン無視しました。
最近そう言う傾向があります。
なんでもない日常だけど、誕生日の主役たちがしあわせな一コマみたいなのを切り取りたいなあと思ってます。
サンジ君の場合、やっぱりナミさんとのいちゃいちゃがしあわせ。
いつもは押してばっかりのサンジ君だけど、本当はちゃんと大事にされてるのよ、っていうナミさん視点。
あとこのお話ははじめての2Yでした。
以前いただいたメッセで、二年後の二人を見てみたい!というコメントをいただきましたので、今回が初めての試みであります。
離れてた期間とか、サンジはもうナミさんナミさんナミさんナミさんナミさんナミさんナミさん会いたい会いたいナミさんナミさん…状態だったと思いますが、
ナミさんだって寂しかったはずだ。
ごはんがおいしくないなぁっていう点では、クルーの誰もがサンジを思い出して切なくなったりしたでしょうが、ナミさんはそれに増してサンジのことを思い出す機会だって多かったに違いない。
だから2Yでサンジが鼻血吹いてまともにナミさんと向き合えなかったのは相当腹立たしかったでしょうよ。
そりゃ腹立つわ。
あんたあたしがどんだけ……!!って拳握ったはず。
ちなみにこのいちゃいちゃは、女子部屋なのかなぁ。
ロビンは見張り当番で、トレーニングルームに上がってるのかもしれません。
(そこにゾロがいれば私はお腹いっぱいになる)
そんでサンジ誕で思いだしましたが、この日爆弾投下機の二つ名を持つハナノリンがとんでもないサンナミ爆弾を落としました。
セ、セフレから始まるサンナミだと……!?
気になってしまったサンナミクラスタのあなたは、どうぞ爆弾投下基地へ。
彼女の雑記を漁ってみれば、辿りつくんじゃないかなあ。
四方八方からのやけどに注意です。
はい、もうひとつ長編について。
唐突な現パロですみません、サンジが絵をかいてますね。
ナミさんはあんまり綺麗な格好ではなく、トラックを転がしています。
変わらないのはウソップだけ。
もうウソップには愛しさばかりが募るよ。
彼の安定の「いい奴」ポジション。だいすき。だいすきすぎるウソップン…
誰からも相談されやすいし、相談されたらその人のために考えすぎるウソップ。
それで疲れるの。でも考えるのをやめない。一緒に困ってあげる。
やさしい彼がだいすきです。
おねがいカヤちゃん彼をしあわせにしてあげて…
サンジが絵を描くという設定は、ずーーーっとやってみたいと思っていたのでとてもドキドキしてます。
ただ、このお話で私はサンジとナミが手に負えなくなる予感しかない。
いつもの「んナミすゎぁあああん」「サンジ君うるさい」のふたりが安定すぎて、てか勝手に動いてくれるのに甘んじていましたが、このお話じゃぜんっぜん動いてくれない気がする。
まず、サン→ナミの勢いがない時点で私は心が折れそうよ…
ナミさん一本じゃないサンジなんて…
でも、こういう設定もやってみたかったアレですので、うん、楽しもう。
おつきあい願います。
あんまり長くなりすぎないといいなあ……
あとルフィとか、ゾロとかいつものメンツが出てきますが、今回のお話は多分他CPもそのうち現れる予定です。
そういうのが地雷な方は、被雷注意です。
どういうCPかは、まぁお楽しみにしておいてください。
サンナミはサンナミです。そうじゃないと私がつらいから。
でもしっちゃかめっちゃかしてほしいなぁと思ってます。
もうサンジが絵描いてる時点で突拍子ないんだから、もうどうなってもいいんじゃね、的なふっきれは正直ありますね。
ということでサンナミオンパレードの3月冒頭でした。
今はリバリバ書いております。
次はリバリバ更新できそうです。
リバリバは、上手くいけばあと…みっ…よっつ、かな…
記事にもっと文章突っ込めればコンパクトにまとまるのに、それは致し方ない、もう諦めてる…
あと、ずーーっと気付いておりませんでした、放置しすぎでした。
カウンターが10万回ってますね。いつだろう。
ありがとうございますうううううううううううう
10万行くまでに、マルコ200年後話あげるんだ!と意気込んでた頃が懐かしいなぁ…(遠い目
エ、なんの話?という方はスルーください。
リバリバとかサンナミとか手を出しすぎて、途中放置になっている私を許して…
いつか書き上げたいけど、やっぱりサイトの更新が中心になっちゃうなァ…
いつ書き上げてサイトにあげることができたら、あァあんときの……くらいに思っていただければ。
では今までにいただいたコメントにはすべてレスさせていただきました。
いつもありがとうございます…毎回舞い上がっていつまでたっても慣れることがありません。
お礼しか言えなくて私は…本当に…もう…バチンッ(平手バイマイセルフ)
いや、というほど私の住む地区はきなこにまみれてはいないんですけどね。
でも車の窓やサンルームの天井は黄色くなりましたねえ。
洗濯物も外に干すのはちょっと考える。
さいわい我が家(私の実家ですが)には花粉症がひとりもいないので、あんまり神経質になってはいないです。
私がちょっと、春になると体痒くなるくらい。
もともと肌が弱いので。
関東の方はすっごいことんなってんなぁと、ニュースを見ながらぼんやり心配しております。
テレビ越しだと、うおー大変そうだなあって思うだけですが、そこで暮らす張本人の方々はそんなのんきな状況じゃねェよってかんじですよね。
石を投げないでください。イタッ
はい、更新報告が遅くなりましたが、サンナミいくつか更新しました。
サンジ誕にひとつ【奇跡の海までもう少し】
あともういっこ長編の連載始めちゃいました。【カンバスのある丘】
リンクを張ってみるというこの努力がいつまで続くのかが見物ですよ(そうでもない)
サンジ誕、お話書いて祝うのは初めてなんですよねえ。
ナミ誕は2011【恋は百万光年】2012【呼んでサファイア】とシリーズものでお祝いしましたし、
実はロビン誕も2011【昼下がりのベゴニア】2013【足音のオルゴール】としてるんですよねえ。
あとはチョッパー誕なんかもしてる。
それなのに、だいすきなサンジ君を祝っていないとは何事かと。
こまつなは立ち上がりました。
そして座りました。
座って、書きました、おはなしを。
誕生日だから、誕生日当日の様子を書くのが筋って言うかそう言うもんだろ誕生日って……と思いつつ、ガン無視しました。
最近そう言う傾向があります。
なんでもない日常だけど、誕生日の主役たちがしあわせな一コマみたいなのを切り取りたいなあと思ってます。
サンジ君の場合、やっぱりナミさんとのいちゃいちゃがしあわせ。
いつもは押してばっかりのサンジ君だけど、本当はちゃんと大事にされてるのよ、っていうナミさん視点。
あとこのお話ははじめての2Yでした。
以前いただいたメッセで、二年後の二人を見てみたい!というコメントをいただきましたので、今回が初めての試みであります。
離れてた期間とか、サンジはもうナミさんナミさんナミさんナミさんナミさんナミさんナミさん会いたい会いたいナミさんナミさん…状態だったと思いますが、
ナミさんだって寂しかったはずだ。
ごはんがおいしくないなぁっていう点では、クルーの誰もがサンジを思い出して切なくなったりしたでしょうが、ナミさんはそれに増してサンジのことを思い出す機会だって多かったに違いない。
だから2Yでサンジが鼻血吹いてまともにナミさんと向き合えなかったのは相当腹立たしかったでしょうよ。
そりゃ腹立つわ。
あんたあたしがどんだけ……!!って拳握ったはず。
ちなみにこのいちゃいちゃは、女子部屋なのかなぁ。
ロビンは見張り当番で、トレーニングルームに上がってるのかもしれません。
(そこにゾロがいれば私はお腹いっぱいになる)
そんでサンジ誕で思いだしましたが、この日爆弾投下機の二つ名を持つハナノリンがとんでもないサンナミ爆弾を落としました。
セ、セフレから始まるサンナミだと……!?
気になってしまったサンナミクラスタのあなたは、どうぞ爆弾投下基地へ。
彼女の雑記を漁ってみれば、辿りつくんじゃないかなあ。
四方八方からのやけどに注意です。
はい、もうひとつ長編について。
唐突な現パロですみません、サンジが絵をかいてますね。
ナミさんはあんまり綺麗な格好ではなく、トラックを転がしています。
変わらないのはウソップだけ。
もうウソップには愛しさばかりが募るよ。
彼の安定の「いい奴」ポジション。だいすき。だいすきすぎるウソップン…
誰からも相談されやすいし、相談されたらその人のために考えすぎるウソップ。
それで疲れるの。でも考えるのをやめない。一緒に困ってあげる。
やさしい彼がだいすきです。
おねがいカヤちゃん彼をしあわせにしてあげて…
サンジが絵を描くという設定は、ずーーーっとやってみたいと思っていたのでとてもドキドキしてます。
ただ、このお話で私はサンジとナミが手に負えなくなる予感しかない。
いつもの「んナミすゎぁあああん」「サンジ君うるさい」のふたりが安定すぎて、てか勝手に動いてくれるのに甘んじていましたが、このお話じゃぜんっぜん動いてくれない気がする。
まず、サン→ナミの勢いがない時点で私は心が折れそうよ…
ナミさん一本じゃないサンジなんて…
でも、こういう設定もやってみたかったアレですので、うん、楽しもう。
おつきあい願います。
あんまり長くなりすぎないといいなあ……
あとルフィとか、ゾロとかいつものメンツが出てきますが、今回のお話は多分他CPもそのうち現れる予定です。
そういうのが地雷な方は、被雷注意です。
どういうCPかは、まぁお楽しみにしておいてください。
サンナミはサンナミです。そうじゃないと私がつらいから。
でもしっちゃかめっちゃかしてほしいなぁと思ってます。
もうサンジが絵描いてる時点で突拍子ないんだから、もうどうなってもいいんじゃね、的なふっきれは正直ありますね。
ということでサンナミオンパレードの3月冒頭でした。
今はリバリバ書いております。
次はリバリバ更新できそうです。
リバリバは、上手くいけばあと…みっ…よっつ、かな…
記事にもっと文章突っ込めればコンパクトにまとまるのに、それは致し方ない、もう諦めてる…
あと、ずーーっと気付いておりませんでした、放置しすぎでした。
カウンターが10万回ってますね。いつだろう。
ありがとうございますうううううううううううう
10万行くまでに、マルコ200年後話あげるんだ!と意気込んでた頃が懐かしいなぁ…(遠い目
エ、なんの話?という方はスルーください。
リバリバとかサンナミとか手を出しすぎて、途中放置になっている私を許して…
いつか書き上げたいけど、やっぱりサイトの更新が中心になっちゃうなァ…
いつ書き上げてサイトにあげることができたら、あァあんときの……くらいに思っていただければ。
では今までにいただいたコメントにはすべてレスさせていただきました。
いつもありがとうございます…毎回舞い上がっていつまでたっても慣れることがありません。
お礼しか言えなくて私は…本当に…もう…バチンッ(平手バイマイセルフ)
帰りはまた、ウソップがバス乗り場まで連れて行ってくれた。
ウソップは学校から家まで原付で帰っていく。
重たい原付を引っ張って、ヘルメットをもじゃっとした頭の上に乗せたまま私に手を振った。
「来たいときはいつでも来いよ。つって、お前も仕事忙しいだろうけど」
「うん、ありがと。またね」
「気を付けて帰れよ!」
ウソップは私がバスに乗り込むところまで見送ると、バスより先に原付にまたがってどんどん遠ざかっていった。
私はバスの一番後ろの二人席に腰かけて、窓の外を見る。
大きな大学の講堂を横目に、バスは動きだす。
橙色に染まっていく夕暮れ時の景色をうっとりと、というよりもぼんやりと眺めていると微かな眠気に襲われて、私は目を閉じた。
すると途端に、眩しい金色の髪色を思い出して私はハッと目を開けてしまった。
なに、いまのはなに、と私は人目を探すように辺りを見渡した。
バスの中は乗客が少なく、数名の美大生が前の方に座っている。
バスは信号に引っ掛かって、エンジン音を低く響かせながら停車した。
私はフラッシュバックのように襲われた映像にひとり驚いて、胸をどきどきさせている。
だって、あまりに綺麗な金髪だった。
目の色だって、あんなにはっきりとした青色。
私は色に弱いのか。
綺麗な色は好きだけど、だからといって綺麗な配色を持つ人を好きになるとは限らない。
だけどあの青年の持つ色に、私は確実に惹かれていた。
少なくとも、また会いたいと思うほどには。
*
丘の下でバスを降りると、ちょうど帰り道のルフィと行き会った。
「あ、おかえり」
「ただいま! 珍しいなナミ、どこ行ってたんだ?」
「ウソップの学校。あんた、送別会は終わったの?」
「おー、めっちゃいっぱい食ってきた。いいな、送られる側ってのは!」
陸上部だったルフィは、たくさんの後輩に別れを惜しまれたに違いない。
ルフィが彼らのセンチメンタリズムを理解できたとは到底思えないが、それなりの寂しさはルフィだって持ち合わせているはずだ。
しかしルフィは、唐揚げのにおいのするげっぷを吐きながら、「晩飯なにかなー」と呟いている。信じられない。
私たちは隣に並んで、丘を登り始めた。
薄緑色の家の壁が遠くに見えている。
「おれ、仕事始まったら家出ようと思う」
「え?」
突然の話に、私は思わず聞き返した。
聞こえていたからこそ驚いたのに、聞き返してしまう。
だってルフィがなんでもないことのように話すから。
「なんで、だってあんた、仕事先家から通えるじゃない」
「でも、街に住んだ方が近いし、それに社長に頼めば、社員の奴らの住む場所いろいろ考えてくれるんだってよ」
「社長さんが社員のためにアパートいくつか斡旋して、融通してくれるってこと?」
「難しいことば使うなよー」
ルフィが面倒くさそうに話を終わらそうとしたので、私は焦って「でも」と言葉を繋いだ。
「ベルメールさん、絶対そんなつもりでいないわよ。あんただって家にいたほうが、食べるもの困らないじゃない」
「おばさんにはおれがこれから話す。食いモンは、まあそうだけど。給料出るし」
「それでも」
私はあからさまに狼狽えて、歩きながら足元をきょときょとと見下ろした。
「あと、もしそういうアパートに入るんなら、一緒に住むやつも決まってんだ」
「え? 一人暮らしじゃないの?」
「おう。おれと似たようなやつが同居人探してんだってよ。おれはそこに入れてもらうだけでいい」
「なに、そんなの……」
そんなの、もう住む場所なんて決まってるんじゃないの。
ルフィは私にお構いなく、どこか楽しそうに話を続ける。
「そいつにも会ったんだ。でっかくてブアイソな感じだったけど、いい奴そうだったなー。おれは気に入ったからいいんだ」
私はどんどん近づいてくる家の壁を見つめて、ルフィの言葉を左から右に聞き流していた。
ルフィが家を出ていってしまう。
私は、私は──
「ナミ」
ルフィが私を呼んだので振り向くと、ルフィは私の一歩後ろで立ち止まっていた。
もうすぐそこに、家があるのに。
ルフィはほんの一瞬だけ、真摯な目をしたが、すぐにいつもの白い歯を見せる笑い方で、私に笑ってみせた。
「遊びに来ればいいじゃんよ、いつでも」
さあ腹が減った、帰ろうぜ、とルフィは私の手を取って、ずんずん家へと突き進んでいった。
ドアを開け「ただいま!!」とルフィが叫ぶと、気だるげにノジコが「おっかえりぃ」と返事をした。
夕飯はルフィの卒業祝いを兼ねて、唐揚げだった。
ルフィはとてもうれしそうに、全部平らげた。
*
ルフィの引っ越しは、そのままとんとん拍子に進んでしまった。
ベルメールさんは拍子抜けするほどあっけなくルフィの下宿を許してしまったし、下宿先は既に決まっているしで本当に話の展開は早かった。
引っ越しにはウソップが手伝いに来てくれることになった。
ベルメールさんとノジコは家から荷物をトラックに積むのを手伝い、あたしがトラックを転がしてルフィが助手席に乗る。
引っ越し先までウソップはやって来てくれるし、そこにはすでに住んでいるルフィの同居人がいる。
「そんじゃま、お世話になりました」
ルフィは深々と腰を折り、ベルメールさんと、ノジコと、小さな家と、みかん畑に頭を下げた。
ベルメールさんもノジコもなんの感慨もなさそうな顔で、はいはいとルフィの礼を聞き流した。
「お腹すいてどうにもならなくなったら、帰ってくんだよ」
「おう!」
「元気でな」
「おう!」
「行こうか」
私が促すと、ルフィは二人に大きく手を振りながら助手席に乗り込んだ。
車で30分もしない近くだ、いつでも会える。
私たちはいくつかの荷物と食料を乗せて、あっさりと丘を下って行った。
「あー腹減った」
「さっき朝ごはん食べてたじゃない」
「だって今から荷物入れたり、働くだろ? 考えただけで腹減るんだよ」
「あんたこれからそういう仕事するのに、だいじょうぶなの?」
「ううう」
ルフィは先行きの不安を思ったのか、唸り声をあげて窓に額をくっつけた。
がたがたと道が悪いので、ごつごつ額をぶつけている。
「あれだろ、引っ越ししたら、そば食うんだろ」
「あんたそういうことはよく知ってんのね」
「そば食いてェなあー」
「全部終わったら、みんなで食べようか」
「いいな、そうしよう!」
明るい声を上げたルフィと黙々と運転する私を乗せて、トラックは丘を下り、街に入った。
そこからさらに20分ほど車を走らせて、私たちはルフィの住まいへと到着した。
新しいとは言えないアパートだが、しがない新入社員には十分だろう。
2人住まいするのだから、部屋の広さもそこそこあるに違いない。
アパートの階段の傍には、既にウソップが立っていた。
ウソップとルフィは嬉しそうに「よぉ」とあいさつを交わし合う。
ふたりは歳も近いしいわゆるウマが合うというやつで、いつでも仲良くバカをやっている。
「さあ、ちゃっちゃと運んじゃいましょう」
「待てよ、まずは先に住んでるやつに挨拶すべきだろ」
ウソップが至極まっとうなことを言った。
それもそうね、と私たちはひとまずアパートの階段を上る。
部屋は二階だ。
ルフィが構わずドアを開けようとしたのを制して、ウソップがチャイムを鳴らした。
2回ほど鳴らしたら、中からドスンドスンと人の動く気配がした。
どん、どん、と重たい足音が近づいてきて、私は思わず生唾を飲み込んだ。
ドアが開く。
「……よぉ」
現れたのは、いかにも起き抜けと言った顔の男だった。
まだ若い。歳は私とそう離れていないはずだ。
しかし、印象的な緑色の髪とその険しい目つきに私は息を呑んだ。
ウソップも同じだったようで、固まっている。
ルフィだけが朗らかに「よーっす」と返した。
男は「来たか」と言った様子で、ドアを開け放ったまま中へと引き返していく。
ルフィがそのあとに続いた。
私とウソップは顔を見合わせ、ごくんと唾を飲む。
ルフィはいい奴と言っていたけど、何をもってそう判断したのだろう。
おそるおそると中に入った。
「あらかたスペースは空けておいたぞ」
「おう、サンキューな! さっそく荷物入れるぞ」
「ああ、手伝う」
ルフィの後に続いて部屋を出ようとした男は、そこでようやく私とウソップの存在に気付いたようだった。
む、としかめられた眉に私たちは意味もなく悲鳴を洩らしそうになる。
そうだ、とルフィが珍しく気が付いた。
「こいつはナミ、おれのねーちゃんみたいなもんだ。こっちはウソップ、ともだちだ」
そうか、と男は頷いた。
「ゾロだ」
よろしく、と手を差し出される。
ウソップがおずおずと握り、そのあとで私もなんとなく握手を交わした。
その手の分厚さに驚いた。
「さあー、そばまでがんばるぞ!」
ルフィがおかしな気合を入れて、部屋を出ていく。
私とウソップと、ルフィの同居人ゾロもそのあとに続いて、トラックから次々と荷物を運び始めた。
荷物はもともと多くはなかったが、それでも新生活に必要なものは何かと細々ある。
正直言って、荷物運びに関して私とウソップはほとんど役に立たなかった。
ルフィさえも、アイツすげーと目を剥く手際の良さでゾロがほとんどの荷物を運び入れてくれた。
本職が運び屋なのでそれもさもありなん、しかし速い。
重たい段ボール箱をいくつも重ねて片手で持ち上げ、もう片方の手にはいくつか紙袋をぶら下げ、そのまま階段をひょいひょいのぼっていくのだ。
立派なガタイは伊達ではない。
荷物は20分もしないうちにすべて、ゾロによって運び入れられてしまった。
私とウソップは役に立たなかった分を挽回しようと、荷物の解体に精を出した。
それはここにおいて、これはあっち、とルフィが勝手に場所を指示する。
ゾロは勝手にしろとばかりになにも言わない。
男の二人暮らしには少し手狭かもしれないが、不便はないだろう。
台所も使いやすそうで、清潔だ。
というよりゾロは自炊しないのだろうか、綺麗に片付きすぎている。
まあ男の一人暮らしなんてそんなもんか、と私は物珍しさに遠慮なく部屋の中を見渡した。
あらかた片付いたのは、昼の1時を回った頃だった。
「腹減った! もうだめだ!」
「おつかれー」
「おつかれさん、おれも腹減ったなあ、さすがに」
へたりこんだルフィとお腹を押さえたウソップ。
ゾロは何も言わないが、ルフィの引っ越しに巻き込まれて昼食を逃している。
私はお財布を持って立ち上がった。
「おそば作ろうか。買い物してくる」
「ナミが作るのか?」
「そばくらい作れるわよ。台所貸してくれる?」
「あぁ」
ゾロはどうでもよさそうに頷いた。
これはお腹が空いているに違いない、と私は踏んだ。
腹を空かせた若い男ほど扱いやすいものはない、ルフィを見ていてそう思う。
ここから一番近いスーパーはどこだろう、ゾロに訊いた方が早いかもしれない。
そう思った矢先、家の呼び鈴が鳴った。
私たちは一斉に、外につながるドアへと視線を走らせた。
「誰だ?」
「さぁ……」
首を傾げるルフィに、ゾロ自身見当がつかない様子で訝しげながらも腰を上げた。
私たち3人は、首を長く伸ばして玄関の方を覗き込む。
ドアを開けたゾロは、「テメ」と短く声を洩らした。
知り合いのようだ。
訪問者は、「よーっす」と呑気な声を上げている。
その声を聞いて、ウソップは「え!?」と腰を浮かせた。
「なに?」
「今の声……」
「知り合いか?」
「知り合いって言うか……」
ウソップは驚いたように目を丸め、玄関を覗き込むがゾロの背が盾になって訪問者はよく見えない。
ゾロは玄関口でその訪問者を追い返そうとしているようだった。
なにやら荒々しい応酬をしている声が聞こえる。
しかし、しばらくするとうんざり顔のゾロが戻ってきた。
そして、その後ろに続いて部屋に入って来た人の姿を見て、私は財布を掴んだ手を膝の上に落とした。
ウソップは「やっぱり」と目を見開いたまま呟いている。
金髪の青年は、「アッレー」と私たちを見てやっぱり目を丸くした。
「ゾロの同居人って、まさかお前? なんでこの子まで?」
「いや、おれじゃねぇけどよ……なんだよサンジ、ゾロと知り合いなのか?」
「おうよ、こいつが同居人が越してくるっつーし、気のよさそうな奴だって珍しいこと言うからよ。物見ついでに引っ越し蕎麦でもこしらえてやろうかと思って」
青年は片手にぶら下げたビニールの中身を、ホラと私たちに広げて見せた。
蕎麦麺が4束と、2リットルの容器に入った茶色い液体、そばつゆだろう。
「多めに持ってきてよかったなコリャ」
「テメェ勝手に……」
「んだよ、祝ってやろうってのに。テメェらも蕎麦食うだろ?」
「食う!!腹減ったー!!」
遠慮のないルフィの声に、青年は気安い笑顔を見せた。
「すぐできるからよ、ちょいと待ってろ」
青年は勝手知ったる人の家、とばかりに台所へ行くと、すぐさま調理を開始した。
私は突然の出来事に頭をクラクラさせながら、大人しく財布をカバンに仕舞った。
この青年の登場に、どうしてこれほど衝撃を受けているのか自分でもわからないまま、彼がそばを作る後姿をぼうっと追っていた。
*
私たち5人はそばをすすりながら、互いの関係を整理していった。
私とルフィが言わずもがな家族で、ウソップはその二人の友人で。
ルフィはゾロが務める運送屋にこの春就職し、そして今日からゾロと二人暮らしだ。
また、ウソップと青年──サンジ君は同じ学校同じサークルの先輩後輩の仲。
そしてゾロとサンジ君は、高校時代の友人だという。
「連絡くらいとってから来い」と不機嫌なゾロに対して、サンジ君はずっと飄々としている。
きっといつもこんな感じなんだろう。
「サンジお前、料理得意なんだな……」
ウソップが意外そうに、ずるずる蕎麦をすすりながら言う。
たしかにそばつゆは持参だったし、ゆでただけとは言えおいしい。
ルフィは3回おかわりした。
だしの効いたつゆに、こしのある麺が絡む。
散らしたねぎはシンプルでおいしい。
しかしサンジ君は「まあな」とあくまでドライだ。
「言って、そば茹でただけだしよ」
「いやなんつーか、手際がよ」
そうか、まあよかったとサンジ君は自分の手を握ったり開いたりしながら、軽く笑った。
ふっと鼻から抜ける笑い声に、前髪が揺れる。
それだけのことに私は何故か動揺し、慌てて目を逸らした。
「ふたり、よく会ってんのか?」
「まさか、気持ち悪ィ言い方すんな」
「でもわざわざ引っ越し蕎麦持ってくるなんてよ」
「コイツがいつも勝手に押しかけてくるだけだ」
あんなにびびっていたくせに、ウソップとゾロは早速打ち解けたようでくだけた会話をしている。
「とかいって、テメェおれのメシ大人しく待ってたりすんじゃねぇか」
歯を見せていたずらっぽく笑うサンジ君に、ゾロはちっと舌を打った。
図星らしい。
あーあ、とサンジ君は後ろに手をついて、天井を見上げた。
「いいなぁ、一人暮らしってのはよぉ」
「今日からふたりだ」
「あぁそうか……いや、そういうことじゃなくてよ。実家出てるってのが羨ましいっていうか」
サンジ君は心底羨ましそうに、息をついた。
変わらず実家暮らしの私とウソップは、彼の不満の源がわからず顔を見合わせて軽く首をかしげる。
「家、出ればいいじゃねぇか」
ゾロが事もなげにそう言った。
サンジ君は小さく舌を打ち、「簡単じゃねェんだよ」と零した。
「おまえんち、どの辺だ?」
一番年下のはずのルフィが怖気づいた様子も見せずにそう訊いた。
サンジ君は煙草を咥えながら面倒くさそうに答えた。
中心街から少し北にはずれた地区だ。
ふうん、とルフィは適当な相槌を打つ。
「いいじゃんよ、遊びに来いよここに。なぁ!」
すでに家主面をして、ルフィは事もなげにそう言った。
ゾロはそんなルフィの態度よりセリフに引っ掛かった様子で、「余計なこと言うな、馬鹿野郎」とたしなめる。
ハハハとサンジ君は乾いた笑い声をあげた。
「お前聞いてたとおり、いい奴じゃん。……っと、おれもう行かねぇと」
サンジ君は用事を思い出したのか部屋の時計にちらと視線を走らせると、慌ただしく腰を上げた。
「何かあるのか?」
「まぁな。そんじゃまみなさん、ごゆっくり」
サンジ君は人好きのする笑顔でにっこり笑うと、ゾロの「何様だテメェは」という威嚇をするりとかわして、さっさと家を出ていってしまった。
「落ち着かない奴だ」とウソップはわざとらしいため息をつく。
「面白れぇ奴だったな! メシもうめぇし」
ルフィは一杯になったお腹をさすって、満足そうに笑った。
あんたは美味しいごはん作れる人は誰でも好きだもんね、と私は半ば呆れている。
サンジ君がいた場所がぽっかり空いてしまったのが、私は何となく隙間風を感じるような、寂しい気分になった。
たった二回会っただけなのに。
「しっかしサンジのヤツ急いでたみてェだったけど、何があるんだアイツ。4年生なんて学校はあってないようなモンだし」
「女だろ」
腕を組んで思案するウソップに、ゾロがさらりと答えを口にした。
あぁ、とウソップはどうしてかきまり悪そうな顔をする。
それなのに、「納得」という表情で頷いた。
「もしかしてサンジって、高校の頃からああなのか」
「女好きって意味なら、そうだな」
「モテそうな綺麗な面してっからなー……」
男たちの会話は、次第にゾロとサンジ君の高校時代の話へと移っていった。
男子校で、これといった特徴もない公立でたらたらと時間を過ごし、ふたりは何度も喧嘩をしたがどういうわけか完全に離れてしまうことはなく、どちらかというとサンジ君の方が懐いているような態で、今もこうしてサンジ君がふらりとゾロのもとを訪れる。
ゾロは始終いやな顔でサンジ君の話をしたが、さっきのように結局は家にあげてしまうのだからゾロもやぶさかではないのだろう。
「でもあれだろ、男子校って、男ばっかじゃん。サンジのヤツ耐えられてたのか?」
「知るか。んでもどこから連れてくんのか知らねェが、いつも見たことねェ女連れてたな」
そうして彼は、今日もどこかの女のもとへといそいそ向って行ったのだろう。
男たちはすっかり意気投合して、そう決めつけては楽しそうに話した。
私はぽつぽつと彼らの話に口を挟んで、狭い窓から差し込む光が少しずつ赤く滲んでいくのを眺めていた。
「いっけね、おれ今日かーちゃんに家でメシ食うって言ってあったんだ」
唐突にウソップが腰を上げた。
西日が強く、畳の床を焼いている。
お、そういや腹が減ってきたなとルフィまでそわそわし始めたので、あたしは言ってやった。
「あんたは帰んないのよ。今日からここが家なんだから」
ルフィはハッとして、大真面目な顔で「そうか」と言った。
まったく心配になる。
私とウソップが靴を履いて家を出るのを、ルフィとゾロは玄関口で見送ってくれた。
楽しそうな顔で「またなー」と手を振るルフィを見ていると、私の無意味な懸念はそっと薄くなる気がした。
それでもどこか切ないような気持ちを振り切るように、私はあっさりと「じゃあね」と返し、アパートの階段を下りた。
トラックでウソップを家まで送ってあげると誘い、彼を助手席に乗せる。
シートベルトを締めたウソップが、「寂しくなるな」と呟く。
「やめてよ」と私は笑ったが、それがフリなのは彼にはばれているだろう。
*
ルフィが私たちの家族に加わったのは、私がほんの8歳の頃だ。
ルフィは孤児だった。
理由は知らない。
私だって孤児だった。
そう珍しいことではない。
ただ、ルフィはその腕白っぷりで孤児院1の問題児だった。
あまりある好奇心をもてあましたルフィは7歳の頃孤児院を抜け出し、はるかな丘を登り、私と出会った。
私たちは当然のように一緒に遊び、気付いたらルフィは私の家に住むようになった。
この展開はあまりにも突然すぎるが、幼い私にその間に存在する細かな出来事は理解できなかったのだろう、よく覚えていない。
ベルメールさんがルフィを孤児院から引き取ったことだけは確かだ。
私のときのように。ノジコのときのように。
私たちはつぎはぎの家族だ。
ベルメールさんも、ノジコも、私も、ルフィも、誰一人として血は繋がっていない。
それでも私たちは家族で、親子で、兄弟だ。
どんな4人家族でも、もとをただせば1人が4つ集まっているだけの話で、それを嘘だとか本物だとか区別するのは嫌いだ。
いま目に見える関係だけが本物だと、私は信じている。
→
土色が染みついた軍手と、ぴかっと光った段ボール箱。
箱の中にはいっぱいに詰まったつややかな橙色が、まあるく輝いている。
それらをトラックの荷台へ積み、私は緩やかな丘を下っていた。
丘の下にはなんてことのない平凡な街が広がっている。
我ながら鮮やかに、というよりも慣れた手つきでギアチェンジを行いながら坂を下った。
私の一日は、山盛りのみかんを街の八百屋やスーパーに卸すところから始まる。
「おはようございます」
「おはようナミちゃん、毎朝早くにえらいねぇ」
「ううん、はいこれ今日の分」
どさっとみかんの段ボールを3つ、足元に下ろした。
「言ってくれれば、あんたんとこまで取りに行くのに」
「トラックで持ってくるだけだもん、平気よ」
「でもこうして運ぶのも重いだろう」
「力持ちだから大丈夫」
私は頼りない自分の腕を大きく見せるよう目一杯力を込めて、パンと叩いてみせた。
八百屋のおじさんはハハッと快活に笑ってくれたが、その笑顔は少し苦い。
次があるからまたね、と私は手を振って店先を後にする。
よじのぼるように、運転席へと戻った。
*
春の気配が忍び寄るこの頃、街の中もなんだか浮足立ったように、ぼやけた色に染まって見える。
同じ年頃の女の子たちが、春から始まる新しい生活や出会いに胸をときめかせている中、私は重たいみかんを荷台に盛りだくさんにして、次のスーパーへと向かっている。
私の家は言わずもがな、みかん農家だ。
家主は私の母。彼女がみかん畑の主として君臨する。
家には姉が一人、そして私。
姉は高校を卒業すると、周囲に何の違和感も抱かせることなくするりと母のもとへと落ち着いた。
幼いころから母のみかんづくりの手伝いに駆り出されていた姉が、母のもとでみかんづくりに従事するようになることはなんの不思議もなかった。
だから当然私も、と思い、高校生だった私は教師に渡された進路調査票に何の迷いもなく「家業を継ぐ」と書いたら、母が学校に呼び出された。
私はなぜ母がわざわざ学校に呼び出しまで食らったのか不思議でならず、納得もできず、始終つんつんしていたが、母は教師が話している間ずっと落ち着いて、むしろ教師と分かり合っているようにさえ見えた。
教師は、私の成績で進学をしないのは非常に惜しいというようなことを何度も言った。
私は教師に何度も、進学するつもりは毛頭ないと言ってあったので、こいつは何にもわかってないという思いばかりが膨らんで、話す気さえ失せていた。
私の家はとても貧乏だ。
私の家のみかんはとてもおいしい。
だが、あまり大きな土地を持ってはいない。
だから作ることのできるみかんの量に限りがある。
それは、私たち家族を養うのに精いっぱい、ギリギリの広さだった。
お金がないというのも、私が進学しないと決めた理由の一つではある。
教師は国立大学であれば学費も安いし、奨学金という制度もあると私を、私の母をかき口説いた。
私の成績であれば、特待生を狙って学費が半分、もしくは無償になる可能性も無きにしも非ず、とまで言った。
母は真剣に考えていたようだ。
だが私は彼らの声に一切耳を貸さなかった。
進学はしない。
私はみかんを作りたかった。
あのすっぱくて甘いかんきつの香りに埋もれているときが、一番しあわせだ。
勉強は嫌いではないが、特筆して好きというわけでもなく続ける理由もなかった。
私を育ててくれたみかんを、私を育ててくれた母と、姉と、一緒に育ててみたかった。
さらに私たちにはもう一人、家族がいる。
弟だ。名前はルフィ。
黒い髪と黒い目がとてもつやつやしているのが印象的な男の子。
ルフィはとてもよく食べる。本当によく食べる。
そしてよく眠る。
とても健康的で元気な少年だ。
そして明るく、人を巻き込んでその中心で笑っているのが似合う。
ルフィが私たちの家族の一員になるにはまた別のエピソードが存在するのだが、私たちはあまりその話を重視していない。
それらの紆余曲折をとにかく私たちは忘れがちで、うっかりするといつからルフィがこの家にいるのかさえ忘れそうになる。
ルフィは私の一つ下で、歳が近い私たちは友達のようにも兄弟のようにも、どちらの立場であってもおかしくない関係になれた。
ルフィは今年の春高校を卒業し、大きくはない運送屋に就職が決まっている。
ルフィは紛れもなく私たちの家族だが、ルフィにはルフィの人生を選ぶ権利と義務がある。
それをないがしろにしてはいけない。
*
みかんの配達を終えると、私は一息つくためにいったん丘の上の家へと戻る。
おかえり、おつかれ、と母が声をかけてくれる。
強いコーヒーのにおいにほんのりとまじって、薄いパンが焼かれる焦げたにおいがただよう。
私と入れ替わりに、ルフィが慌ただしく家を飛び出していった。
いつもの朝だ。
「ノジコは?」
「畑の給水機の調子が悪くてさ、見に行ってくれてる。ナミ、ちゃんとパン食べな」
「いらない。あんまりお腹すかないんだもん」
「あんたねぇ。あんたくらいの歳の子が朝飯食わないでどうすんの。朝はちゃんと食べなきゃダメっていつも言ってるでしょう」
「ベルメールさんこそ、最近朝コーヒーしか飲んでないじゃん」
「私はいーの。成長期はとっくの昔に終えたんだから」
「私だって成長期なんてもう終わって」
「屁理屈言わない。さっさと食べる」
有無を言わさぬ口調で、母は私の目の前にトーストの皿をよこした。
渋々私は、焼きすぎてカリカリのトーストをくわえる。
尖ったパンの耳が口の端に刺さって痛い。
母は機嫌よく新聞を開き、椅子の上に片足を立てて行儀の悪い姿勢でコーヒーを飲み始めた。
朝ご飯が終われば、日の高いうちはみかんの世話に追われる。
土の様子、葉の様子、果実の様子を見て肥料を足したり、受粉の様子を確かめたり。
今は若木の剪定の時期だから、果実はない。
私たちはもっぱら軍手にはさみを持って、畑をうろうろしている。
朝の卸し作業が終わってしまえば、私が街に下りることはほとんどない。
買い物にはノジコかベルメールさんが行くし、新聞は丘の上まで新聞屋さんがバイクでぶうんと持って来てくれる。
ルフィは勝手に街の高校から走って帰ってくるので、迎えが必要なわけでもない。
私の生活と街の生活は、完全に切り離されていた。
それが別段いいとも悪いとも思わなかった。
ただ、数少ないが友達はいる。
そのひとりが、この日の夕方、丘を登ってうちまでやって来た。
「よーお、ルフィはまだ帰ってねェのか?」
「うん、今日は部活の送別会なんだって」
そうかそうか、とウソップは頷いて背中のリュックを下ろした。
私は軍手を外しながら、彼を家の中に招き入れる。
母が彼の顔を見て、楽しそうに歯を見せて笑った。
紅茶を入れる準備をしてくれる。
「新作ができたんだ」
「うそ」
ウソップはリュックの中から大きなスケッチブックを取り出して、私の前に広げて見せた。
そこには大きく描かれた花のつぼみと、背景に小さな粒のように見える街並みがある。
息を呑んで、私は身を乗り出して絵を見つめた。
ウソップの筆遣いや、色の選び方、切り取った景色が私は大好きで、こうしてときたま彼の絵を見せてもらっているのだ。
私はウソップになにひとつうまい褒め言葉を言ってあげられない。
ただ食い入るように彼の絵を見つめ、虜になるだけだ。
それでもウソップはいつでも満足そうに、飽きもせず私に絵を届けてくれる。
ベルメールさんがウソップと、私の前に温かい湯気の立つマグカップを置いてくれた。
ウソップは私の中学からの友人で、お調子者のいい奴で、よく嘘は吐くけど、その嘘はけして人を傷つけることがない。
私が道に迷った時に、こっちの道に行こうと手を引いてくれるのがルフィ。
どっちかわかんねえけど間違えたら落ちるときは一緒だぜ、というのがウソップ。
私の世界は家族と、みかんと、少しの友人。
ただそれだけで完成していた。
「完成したら、ナミ、お前オレの学校に見に来いよ」
「え? これ完成じゃないの?」
「これは下書きだもんよ。完成品はちゃんとキャンバスに、色もしっかり付けるんだぜ」
「じゃあ今までのも?」
「あぁ、全部じゃねェけど、完成させたやつはいくつか学校に置いてるぜ。見に来るか?」
私は一二もなく頷いた。
ウソップの学校は、街の真ん中にある市立の美大だ。
お父さんが仕事の都合で家を長い間開けているので、ウソップはずっとお母さんと二人暮らし。
学費のあまり高くない美大に推薦で入れる程度に、絵の実力はあるらしい。
明後日の金曜日、ウソップは2限目しか授業がないというので、その日の昼から絵を見せてもらえることになった。
私は母に許可をもらって、その日はみかんの仕事を抜け出し街に下りることにした。
*
約束の日、私は午前いっぱいみかん畑で過ごし、汚い作業服を大慌てで着替えた。
綺麗な服や流行の服は持っていない。
ノジコのお下がりのシャツにお下がりのパンツを合わせて家を出た。
お下がりと言ってもこの歳になれば、服は共有しているようなものだ。
カバンだって、ノジコにこれ貸して!と言ってひったくってきたのだから。
待ち合わせは大学最寄りのバス停で、家から丘を下ると丘の下からそこまで私はバスに乗った。
さすがに軽トラックで登場するわけにはいかない。
駐車場所にも困る。
変に人目を引くのだって好きじゃない。
バス停を降りると、既にウソップがそこで待っていてくれた。
「メシ食ってねェよな?」
「うん」
「学食行こうぜ、安くてウマいんだ」
「私も入れるの?」
「ヨユー」
軽やかにそう言って、ウソップは私を連れて構内へと歩き出した。
大学の中は、目の回るほど人であふれていた。
それも同じ年の頃の人ばかりのはずなのに、ものすごく子供のように見える人から、全く大人にしか見えない人まで様々だ。
服装だって十人十色。
美大だというからみんなベレー帽をかぶっているイメージだったが、そう安直にはいかないらしい。
そういえば、ウソップだってベレー帽なんか被ってはいない。
学食はそれに輪をかけて人、人、人の嵐だった。
私が目を回しているのを見かねて、ウソップが私を席に着かせると何が食べたいか尋ねた。
「何があるの?」
「なんでもあるぜ、そうだな、今のオレのブームは温玉チャーシュー丼」
「じゃあそれ」
ヨシと頷いて、ウソップは人の波に紛れていった。
あんなごったがえしたところによく飛び込んでいけるよなあ、と私は目を細めて彼を見送る。
慣れているのだろう、ウソップはすいすいと人ごみを避けて進んでいき、見えなくなった。
私の傍を通り過ぎる学生たちは一様に疲労感のようなものをにじませながら、それでも生き生きと歩いていた。
私がぼんやりと彼らの姿を眺めていると、「あの、ここ空いてる?」と声を掛けられる。
私に声をかけた男の子は、私が座る机の空いているスペースを指差した。
その机は8人掛けで、対岸の2席は別の二人組で埋まっており、私は机の端にウソップの分の座席を確保していたのである。
真ん中の空いた4つをその男の子がさしているのだとわかった。
私はその男の子を見上げて、首だけ縦に振る。
その子が軽く頭を下げると、後ろから3人ほど男の子がどやどやと出てきた。
そしてあっという間に席が埋まる。
なるほど、学食というのは知らない人とこんなに近くでご飯を食べる場所らしい。
これじゃ私はウソップと食べているのか、この男の子たちと食べているのかわからないじゃないか。
高校の狭い机を寄せ合ってひっそりと、家の食卓でこぢんまりと食事をする経験しかない私には、とんだ異文化体験だ。
そんなことを考えているうちに、ウソップがトレーを持って戻ってきた。
やっぱり相席などあたりまえなのだろう、ウソップは隣の席が埋まっていることになど気付いていない様子で、「いやお待たせ」と私の前に腰かけた。
そして私の前に、おそらく「温玉チャーシュー丼」であろうどんぶりと、小さなプリンを置いてくれた。
「これは?」
「オマケ。こういうデザートもあるんだぜ」
「ふうん、本当に何でもあるんだ。いただきます」
私は手渡されたスプーンで、躊躇なく温泉卵をぷつんと割った。
食べている途中で、あ、と思いだす。
「ウソップ、お金」
「あー、いいってことよ、今日はな」
「いいの?」
「学食なんて安いんだぜ、ほんとに。気にすんな」
そう言ってウソップはそばに乗ったかき揚げをばりっと噛んだ。
お言葉に甘えて、私は取り出しかけたお財布をカバンに戻す。
時計が昼の1時を回ると、あんなに溢れていた学生たちが少しずつ捌けていった。
「授業が始まるの?」
「ああ、おれはねェけど」
「なんであんたはないのよ」
「金曜の3限はとってねぇもんよ」
高校の時間割制しか知らない私に、その取るとか取らないとかいう授業の仕組みはさっぱりわからない。
やっぱり私が大学になんて来ていたら、この変わった仕組みに翻弄されて勉強どころじゃないに違いない。
「そろそろ行くか」
食べ終わると、ウソップは私を別の棟へと案内してくれた。
ようやく、お目当ての彼の絵を見せてもらえる。
私は浮ついた心を片手でそっと抑えて、ウソップの後に続いた。
ウソップの絵が置いてあるのは授業の教室とはまた別で、高校で言う部活のような集まりの、いわゆる部室のような場所にあるらしい。
そこはひっそりと静まった冷たい石の棟で、暖かい春の日差しが遮られてしんと冷えている。
中庭の見える渡り廊下を、私たちは静かに歩いた。
周りが静かだから、何故だか息をひそめてしまう。
柱と柱の間から差し込む光が作る黄色いスペースだけが、ほんのりと陽だまりのぬくもりを届けてくれる。
「あ、やべ」
ウソップが途中で立ち止まった。
「鍵、取って来ねぇと」
「鍵?」
「今から行く部屋、普段は閉まってんだ。わり、ちょっとおれひとっ走り事務室まで行ってくるから、ナミ先言って部屋の前で待っててくんねぇ? ここまっすぐ行ったつきあたりの部屋だからよ」
ウソップが指さす先を見遣ると、クリーム色の木の扉が見えている。
「わかった」
「悪い、すぐだから」
そう言って、ウソップは不恰好ながに股で走っていった。
私は見送るまでもないか、と背を向けてまた先を歩き出す。
つきあたりにはすぐついた。
奥まった場所だから、光は届かず辺りは冷えたままだ。
扉の上部に四角く切り取られたくもりガラスから、うっすらと白い光が漏れている。
部屋の中には太陽光が入り込んでいるようだ。
不意に、ゾクゾクっと冷気が背中を駆け上って震えた。
春の初めとはいえここは少し寒い。
私は曇りガラスからこぼれる光に惹かれるようにして、思わず鍵がかかっている扉に手をかけた。
扉はすんなりと、内側に開いた。
「えっ」
つんのめるようにして、私は中に入ってしまった。
まさか開くとは思わなかったのだから当然だ。
途端に、絵の具の独特のにおいがぶわっと広がって全身にまとわりついた。
ボンドのような鼻につくにおいもする。
目の前は大きな窓だった。
薄黄色いカーテンがひらひらと揺れている。
窓が開いているのだ。
窓の下はずらりと長く水道が並んでいて、その水道はもともとアイボリーの石のはずだろうに、色とりどりの絵の具が付着してなんともコミカルな態をさらしていた。
私はそんな事よりも、部屋中に散らばるキャンバスに目を奪われた。
文字通り、いくつものキャンバスが広い室内に点在しているのだ。
キャンバス台のみのものもあれば、きちんと絵がかかっているものもある。
無人の椅子がいくつか一緒に置いてあって、ウソップやその仲間たちはここで絵を描いているのだという感覚が、生々しく私に触れた。
私は勝手に室内に侵入してしまったことも忘れ、思わずそれらのキャンバスに歩み寄った。
絵は描きかけの線画や、単なるデッサンのものから、油絵具で着色しサインまで施された作品まで、色とりどりある。
私はその絵画の海の中を、夢中になって泳いだ。
中にはウソップのものだとすぐにわかる絵がかかったキャンバス台があり、私は立ち止まってそれをじっくり眺めた。
見せてもらったことのある絵だ。
でも、私が見せてもらったのはこれの下書き。
構図が少し変わり、色合いも濃くなっている。
力強い。
私が知るウソップの絵とは少し趣が違ったが、なぜだかそれがウソップのものだとはすぐに分かった。
「……きれい」
思わず声に出す。
か細い声は広い天井に吸い込まれていった。
私はウソップのキャンバスの隣にある絵を眺め、そして角を曲がる感覚で背中側のキャンバスを覗き込んだ。
「えっ」
男の子がいた。
キャンバスの中にではない。
そのキャンバスに向かい合うように、丸い椅子の上に男の子がいる。
朝ベルメールさんが新聞を読むときのように、小さな椅子の上に片足のかかとを少し乗せて、寄せた膝の上に頬を預けて目を閉じている。
こんなにもさらさらと音の流れそうな金髪は見たことがなかった。
伏せられた睫毛まで金色に輝いている。
大きな窓から遠慮なく差し込む日差しに照らされて、金髪は白く光っていた。
私は時間にすれば10秒ほど、息を詰めてその男の子の静かな寝顔を見ていた。
正直に言えば見とれていた。
白い頬に色はない。
伏せた睫毛は驚くほど長い。
この瞼が持ち上がったら、何色の瞳をしているのだろうか。
男の子は自分の脚を抱きしめるように眠っている。
私は夢から覚めたように、男の子から向かいのキャンバスに視線を転じた。
そして、またもや息を呑む。
白いキャンバスの真ん中には、大きく女性が描かれていた。
首から上の、顔のみで、デッサンだ。
キャンバス台には丸くなった鉛筆が転がっている。
描かれた女性の頬はすっと無駄がなく、つけられた明暗ははっきりと頬の丸みを表していたが、凛とした目元は涼やかで、大きな瞳はどこか遠くを見ている。
私の狭い世界には存在しえない美しい女性だった。
この男の子が描いたものだろうか。
そう思い再び眠る男の子に視線を戻すと、青色の瞳とかち合った。
私は声も出ずただただ悲鳴を飲み込み、一歩後ろへ後ずさる。
心臓がドンと跳ねてバウンドした。
眠っていたはずの顔が目を覚まして、私を見ている。
男の子だと思っていたそれは、男の子というより青年だった。
私よりも年上に見える。
眠る顔があんまりあどけないので、まるで少年のように見えていたのだ。
よく見たら足だって長い、私よりウソップよりずっと背が高そうだ。
(目は青いのね)
落ち着かない鼓動が響く中、私は妙に冷静にそんなことを思った。
「……入会希望?」
起き抜けの低い声が、そっと私の腕を捕まえるように絡みついた。
青年は足を下ろし、大きく背中を反りかえらせる。
イテ、と腰を押さえる仕草もした。
そしてまた私を捉え、今度はにっこり笑う。
「学部どこ? 専攻は? 何年生?」
「あっ……あた、し」
「うん?」
青年は私の声を聞き取ろうと、椅子に腰かけたままぐっと顔を寄せた。
膝で隠れていたほうの顔右半分は、長い前髪が隠している。
前髪の下で柔らかく弧を描く右目がうっすらと見えた。
青年は私の言葉を待っている。
何か言わなければ、と思う程言葉は何も出てこない。
喉がからからに乾いて、ヒューヒューと音を立てそうだ。
遠くから、平べったい足音が大きく近づいてきた。
「わりぃナミっ! 鍵がねぇから探し回ってたら、まさかもう開いてるとは……!」
開け放した扉の向こうに現れたウソップは、キャンバスの群れに隠れる私を探すように部屋の中に入って来た。
「ナミー?」
「こっ、ここ!!」
私はやっとのことで声を出す。
ウソップはすぐに、ひょこりと顔を出した。
「いたいた……って、お前か、サンジ」
「よっ」
サンジと呼ばれた青年は、ウソップに軽く手を上げ応えた。
「お前なー、鍵開けるならちゃんと事務に届け出せよな!」
呆れ顔で諭すウソップにハイハイと相槌を打ち、青年は大きな欠伸をかました。
ウソップは、ぼんやりとする私に青年を紹介した。
「サンジ。うちのサークルの先輩で4年生だ」
「こんちは」
青年はぺこりと私に頭を下げた。
2年生のウソップは後輩のくせに、彼とは随分仲がいいようだ。
まだ鍵のことでぶつぶつ文句を言っている。
青年は下げた頭を持ち上げると、垂れ気味の目を猫のように細くして笑いかけてきた。
「ナミさんって言うの? コイツの友達なら、2年生?」
「あ、ちげぇんだサンジ。ナミはここの学生じゃない」
「あ、そう。学校どこ?」
青年はさも当然のように、私に尋ねた。
言葉に詰まる私を、ウソップがさらりと掬い上げる。
「ナミは家の手伝いしてっから、学校には行ってねぇよ。オレと中高一緒で、同い年だ」
「ふうん」
青年は私のつま先から頭のてっぺんまで、さっと流れるような視線を走らせた。
私には理解できない意味ありげな目がどことなく怖い。
それなのに、青い目の綺麗さをずっと見ていたい。
「サンジおまえ、もう授業なんてねぇだろ? 描きに来たのか?」
「べっつに。暇だったから」
青年はキャンバス台に転がる鉛筆を何気なく手に取って、指先でもてあそび始めた。
女性のデッサンは、やはりこの青年が描いたに違いない。
まあいいや、とウソップが向き直った。
「絵、見るだろ?」
「あぁ、うん」
「あぁって、おま」
ウソップが呆れたように声を上げたので、私はごめんごめんと軽く笑った。
ウソップは部屋の隅から、無造作に積まれた額縁をいくつか掘り出してきた。
描かれた絵は大量の絵画たちの中で、毎日毎日埋もれていくしかないのだろうか。
こんなにもきれいな絵を描くのに、もったいないと思った。
それでも一枚一枚を、きちんと飾っておくスペースもないのだから仕方ないのだろう。
私はウソップから額を受け取って、その一つ一つにまたもや吸い込まれていった。
油絵具で力強く着色されたそれらは、下書き(私はそうは思っていなかったけど)のときとは雰囲気を変え、静かにどっしりとかまえている。
それとは反対に、繊細な筆遣いで精緻に書き込まれたこの街の景色などは触れるのもはばかられる。
ウソップの描きだす世界は、私の視界にどんどん可能性のようなものを増やしていく。
私が絵にのめり込んでいくのに慣れっこのウソップは、私を放って自分のキャンバスの周りを片づけ始めたようだ。
私もお構いなく、隣に積まれた次の絵に手を伸ばす。
気付いた時には、のっぽの影が私を覆っていた。
ぎょっとして隣に立つ人を見上げると、途端にふわっと煙のにおいが巻き上がった。
爽やかだが煙草の香りにはちがいない。
慣れない匂いに、私は鼻に皺を寄せた。
「絵、好きなの?」
口の端に煙草をくわえた青年は、柔らかい視線を私に下ろした。
彼の顔で影になった青い目にまた引き込まれながら、私は煙草の煙を嫌だと思ったことも忘れて頷いた。
青年はにっこり笑った。
私は驚いたが、額縁を取り落しそうになるとかそういうことはなかった。
ただ、顔を上げているのが辛いほどの強い眩暈のようなものを感じた。
「またおいで」
青年は薄らと煙を吐きながらそう言って、私の横をすり抜けて部屋から出ていった。
私はぼうっと、彼が消えていった扉の方を眺めていた。
振り返ったウソップが、「アレ」と呟く。
「なに、サンジ帰ったの?」
「そうみたい」
掠れ声で答える私に、ウソップは少し眉を上げて見せたがあまり気にしたふうではなかった。
それから私はたっぷり何枚か絵を見せてもらい、それらをむさぼるように堪能していれば碧眼の青年のことは少しずつ頭の隅に追いやられていった。
→
夢を見ている。
白いあぶくが浮かぶ水色の世界、視界の上から差し込む白い光の筋に照らされて、キラキラと光る水の中。
いろとりどりの鱗が太陽の光を吸い込んで、眩しくひらめいては素早く水の中を移動する。
その海の中には世界が溢れていた。
東も西も、北も南も、グランドラインの前半も後半も、まだ誰も見知らぬ海も、そのそれぞれに住まうすべての魚が生きている。
生命力にあふれて、水しぶきが音を立てて弾ける。
私の衣装箱にきらびやかな洋服が詰まっているように、その海には世界中の料理人の夢が詰まっている。
私の宝箱が蓋を閉じていてもキラキラと輝くように、彼らのまぶたの裏に描かれたその夢は褪せることなく輝いている。
彼は夢を見ている。
世界中の青色をぶちまけた奇跡の海を夢見ている。
*
身動きを許さない締め付けに身じろいで、目を覚ました。
薄目を開けて、突然入り込む光の刺激に備える。
しかし飛び込んできたのはまだほの暗い景色だった。
きめの細かい肌が目の前にある。
しっとりと湿った汗のにおいと、人のにおいがする。
サンジ君のにおいがする。
目の前に現れたのは、彼の鎖骨だった。
なめらかな肌は少し汗ばんでいるようだ。
私も汗をかいている。
暑いというのに、彼は私を抱き込んだまま眠っている。
なにも着ていない肌と肌が触れあって、熱が行き場をなくしてぼんやりとそこにある。
のどがかわいて、私は彼の腕を持ち上げようともがいた。
「んんっ、よいしょっ」
「……ナミさん……?」
ぎしっと木のベッドが軋んで、いやらしい音を立てた。
サンジ君の顎髭が、ざらざらと私の額をかすめる。
「どこ行く……」
「のどかわいた。お水飲んでくる」
「待って……」
サンジ君は離れた私の身体を探すように手を動かして、私の腕を捉えた。
「ナミさん……キス……」
「ンもう、寝ぼけてないで離して。すぐ戻ってくるわよ」
「いやだ……」
サンジ君は私の腕を強く引き、やっとのことで腕の下から逃れた私をまた彼のもとへと引きずり戻した。
汗のにおいが強くなる。
雄のにおいがする。
「ナミさん……」
サンジ君は目を閉じたままだった。
目を閉じたままにもかかわらず、私の上に乗ってくる。
顔を近づけて、私の唇を探している。
ついでに彼のいけない手が、私の肌に吸いついてくる。
ゆっくりと肌を押されるように触れられて、背中が粟立った。
唇がくっついて、離れて、頬に移動してまたくっついて離れる。
彼の手が両胸の真ん中を割るように動き、へその辺りを撫でた。
もう片方の手が太腿の裏に触れた。
「あ、ばかやめろ」
「ナミさ……」
サンジ君はさっきからそればかりだ。
相変わらず目を閉じたまま。
長い右側の前髪が頬に触れてくすぐったい。
懐かしい右目がちらりと見えたが、そちらも瞑ったままだった。
「ねえ、しないわよ、もう疲れたもん」
「いやだ……」
「いやだじゃないっ」
ゴンと彼の脳天に軽く拳を落とすと、彼の頭がカクンと私の胸の上に落ちて、「う」とひとつ呻いた。
しばらくの間、動きも音も停止した。
のろのろと彼の頭が動き出す。
頭をもたげた彼の目が相変わらず閉じたままだったので、私は思わず噴き出した。
「やだ、まだ目覚めないの?」
「クソ眠ィ……あぁ……」
威嚇する動物のような低いうなり声をあげて、彼はまた私の唇を求めた。
「ナミさん……ごめ……」
謝りながら彼の手は私の太腿の内側へと侵入してくる。
乾いたはずの場所が、また泉のように湧くのが自分でもわかった。
サンジ君にもわかったはずだ。
彼が嬉しそうに熱い息を洩らした。
私も同じくらい熱い息を吐いて、彼から顔を背けた。
私たちを取り巻く空気がぬめりを帯びる。
「のどかわいたって、言ってる……」
「あとで……」
サンジ君はそのまま、夢とうつつの間をさまよいながら私に埋もれた。
私は呆れ顔をさらしたにもかかわらず、既にカラカラの喉で、また、恥ずかしいくらい大きな声で啼いた。
*
「ごめんなさい……」
サンジ君はベッドの上にきちんと正座して、ぺしょんと項垂れた。
私は体を起こすのもだるく、枕に頭を預けたまま「もう」と口を尖らせる。
「信じらんない。半分寝たままなんて」
「や、起きてたよ、ほんとに……」
頼りない声でそう言いながら頭を掻く。
乗せられてしまった手前それ以上言い募ることもできなくて、「もういいけど」と私はそっぽを向いた。
伸びた髪が、汗で湿って肩に張り付いている。
首筋がべたべたして、髪が絡まっているのも増して気持ちが悪い。
寝ころんだまま、猫のようにつま先まで伸ばしてううんと伸びをした。
「つらいけど……シャワーしてこようかな」
「手伝う?」
「あんたの鼻血で汚れるから、いらない」
サンジ君は恥ずかしそうに片手で鼻のあたりを押さえて、えへへと笑った。
「ナミさんかわし方が大人になったね」
「そ?」
「昔だったら、『いらないわよバカっ』とか言われてた」
「そうかしら」
そうだよ、とサンジ君は垂れた目を細くした。
まだ見慣れない左目も右目と同じくらい、緩く下がっている。
こうしてまだうつうつと眠そうな空気に浸っているサンジ君は、大人しい大きな犬のようだ。
細い金髪が伸びたせいか、くるんとところどころ跳ねているのが愛らしい、本当に犬のようだ。
私はシャワーに行くと言ったくせに、やっぱり体を起こすのがだるくて、寝ころんだまましばらくサンジ君の顔の辺りをぼんやり見上げていた。
サンジ君が気付いて、目に気遣わしげな光を宿す。
「ナミさんだいじょうぶ? やっぱりオレ、無理させちまった?」
「ううん、そうじゃないの……」
そうじゃないのよ。ただ……
「ただ?」
サンジ君は優しい目で、私の隣に肘をついて顔を寄せた。
鼻の先と先が触れあう。
「サンジ君も変わったわ」
彼は一瞬キョトンと目を丸め、すぐにはにかんだような顔を見せた。
「変わるように、努力したからね」
「そうなの?」
「そうなの……」
サンジ君は思いを馳せるように仰向けになり、天井を見上げた。
そしてすぐ、ぶるるっと身を震わせる。
「もう戻りたくはねぇけど」
そうしてまたこちらを向いた。
「ナミさんは、ますます魅力的になってるし」
私がゆっくり微笑むと、サンジ君は一瞬さらに目を細めて私を見た。
「野郎共は揃ったし」
「そうね」
「もう怖いモンなしさ」
「そうね……」
そう言いながら、私は目を閉じた。
2年前だって、私たちは怖いモンなしだと思っていた。
自分たちがこの海で一番輝いていて、一番運が良くて、一番楽しいやつらだと信じていた。
ちっとも疑わなかった。
だって、2年前のあの日まで本当にそうだったから。
ルフィに手を伸ばした瞬間を覚えている。
涙を散らし、「たすけて」とみっともなく手を伸ばした。
ルフィはすごい形相で、歯を食いしばり、大きな黒目を見開いて私の名を呼んだ。
ルフィの指先が私の指先をかすめた瞬間、猛烈な風圧に意識が飛んだ。
サンジ君は「戻れ」と叫ぶ船長命令を無視して、駆け出した。
弾き飛ばされても向かって行った。
消えたブルックに手が届かなかったことに頭を掻きむしり、目と鼻の先で消えたウソップにきっと驚きも悔しさも感じる間もなく、彼も飛ばされた。
私たちは誰も助けられず、自分さえ守ることができず、一番だと信じてきた全てが呆気なく崩される様を突きつけられた。
きっとこれからも、似たようなことに何度もぶつかる。
そのときもまたぼろぼろと、私たちは崩れていくかもしれない。
「サンジ君」
彼の頬に手を伸ばした。
サンジ君は目を閉じて、好きなようにさせてくれる。
「サンジ君」
「なに」
頬から首に手を滑らせて、そのまま後ろまで伸ばし、彼の頭を引き寄せた。
両手で彼の頭を抱えて、まるで犬や子供にするように頬をすり寄せる。
薄いひげが痛かった。
私の髪が邪魔だった。
それでも構わず私は彼の頬に自分のそれをくっつけ、生暖かい体温を感じずにはいられなかった。
少し伸びた背。
厚くなった胸板。
私を抱きしめる力も強くなった。
「サンジ君……」
この人を連れて行かなければいけない、と思った。
どこにあるのかもわからない、世界の果てへ、夢の先へ。
実在するかもわからない、奇跡の海へ。
サンジ君は気持ちよさそうに目を閉じて、私に頭を預けてくれる。
よしよしと頭を撫でてみると、彼の口もとがむずがるように動いた。
シャワーはまたあとね、と耳元に言葉を落とし、彼の頭を抱きかかえたまま私も力を抜いて、ベッドに沈んだ。
次に起きたら一緒にシャワーを浴びて、少し慌てて朝の準備をして、みんなにおはようを言わなければいけない。
私が風を読むから、サンジ君は温かいごはんを作って。
奇跡の海までもう少し。
白いあぶくが浮かぶ水色の世界、視界の上から差し込む白い光の筋に照らされて、キラキラと光る水の中。
いろとりどりの鱗が太陽の光を吸い込んで、眩しくひらめいては素早く水の中を移動する。
その海の中には世界が溢れていた。
東も西も、北も南も、グランドラインの前半も後半も、まだ誰も見知らぬ海も、そのそれぞれに住まうすべての魚が生きている。
生命力にあふれて、水しぶきが音を立てて弾ける。
私の衣装箱にきらびやかな洋服が詰まっているように、その海には世界中の料理人の夢が詰まっている。
私の宝箱が蓋を閉じていてもキラキラと輝くように、彼らのまぶたの裏に描かれたその夢は褪せることなく輝いている。
彼は夢を見ている。
世界中の青色をぶちまけた奇跡の海を夢見ている。
*
身動きを許さない締め付けに身じろいで、目を覚ました。
薄目を開けて、突然入り込む光の刺激に備える。
しかし飛び込んできたのはまだほの暗い景色だった。
きめの細かい肌が目の前にある。
しっとりと湿った汗のにおいと、人のにおいがする。
サンジ君のにおいがする。
目の前に現れたのは、彼の鎖骨だった。
なめらかな肌は少し汗ばんでいるようだ。
私も汗をかいている。
暑いというのに、彼は私を抱き込んだまま眠っている。
なにも着ていない肌と肌が触れあって、熱が行き場をなくしてぼんやりとそこにある。
のどがかわいて、私は彼の腕を持ち上げようともがいた。
「んんっ、よいしょっ」
「……ナミさん……?」
ぎしっと木のベッドが軋んで、いやらしい音を立てた。
サンジ君の顎髭が、ざらざらと私の額をかすめる。
「どこ行く……」
「のどかわいた。お水飲んでくる」
「待って……」
サンジ君は離れた私の身体を探すように手を動かして、私の腕を捉えた。
「ナミさん……キス……」
「ンもう、寝ぼけてないで離して。すぐ戻ってくるわよ」
「いやだ……」
サンジ君は私の腕を強く引き、やっとのことで腕の下から逃れた私をまた彼のもとへと引きずり戻した。
汗のにおいが強くなる。
雄のにおいがする。
「ナミさん……」
サンジ君は目を閉じたままだった。
目を閉じたままにもかかわらず、私の上に乗ってくる。
顔を近づけて、私の唇を探している。
ついでに彼のいけない手が、私の肌に吸いついてくる。
ゆっくりと肌を押されるように触れられて、背中が粟立った。
唇がくっついて、離れて、頬に移動してまたくっついて離れる。
彼の手が両胸の真ん中を割るように動き、へその辺りを撫でた。
もう片方の手が太腿の裏に触れた。
「あ、ばかやめろ」
「ナミさ……」
サンジ君はさっきからそればかりだ。
相変わらず目を閉じたまま。
長い右側の前髪が頬に触れてくすぐったい。
懐かしい右目がちらりと見えたが、そちらも瞑ったままだった。
「ねえ、しないわよ、もう疲れたもん」
「いやだ……」
「いやだじゃないっ」
ゴンと彼の脳天に軽く拳を落とすと、彼の頭がカクンと私の胸の上に落ちて、「う」とひとつ呻いた。
しばらくの間、動きも音も停止した。
のろのろと彼の頭が動き出す。
頭をもたげた彼の目が相変わらず閉じたままだったので、私は思わず噴き出した。
「やだ、まだ目覚めないの?」
「クソ眠ィ……あぁ……」
威嚇する動物のような低いうなり声をあげて、彼はまた私の唇を求めた。
「ナミさん……ごめ……」
謝りながら彼の手は私の太腿の内側へと侵入してくる。
乾いたはずの場所が、また泉のように湧くのが自分でもわかった。
サンジ君にもわかったはずだ。
彼が嬉しそうに熱い息を洩らした。
私も同じくらい熱い息を吐いて、彼から顔を背けた。
私たちを取り巻く空気がぬめりを帯びる。
「のどかわいたって、言ってる……」
「あとで……」
サンジ君はそのまま、夢とうつつの間をさまよいながら私に埋もれた。
私は呆れ顔をさらしたにもかかわらず、既にカラカラの喉で、また、恥ずかしいくらい大きな声で啼いた。
*
「ごめんなさい……」
サンジ君はベッドの上にきちんと正座して、ぺしょんと項垂れた。
私は体を起こすのもだるく、枕に頭を預けたまま「もう」と口を尖らせる。
「信じらんない。半分寝たままなんて」
「や、起きてたよ、ほんとに……」
頼りない声でそう言いながら頭を掻く。
乗せられてしまった手前それ以上言い募ることもできなくて、「もういいけど」と私はそっぽを向いた。
伸びた髪が、汗で湿って肩に張り付いている。
首筋がべたべたして、髪が絡まっているのも増して気持ちが悪い。
寝ころんだまま、猫のようにつま先まで伸ばしてううんと伸びをした。
「つらいけど……シャワーしてこようかな」
「手伝う?」
「あんたの鼻血で汚れるから、いらない」
サンジ君は恥ずかしそうに片手で鼻のあたりを押さえて、えへへと笑った。
「ナミさんかわし方が大人になったね」
「そ?」
「昔だったら、『いらないわよバカっ』とか言われてた」
「そうかしら」
そうだよ、とサンジ君は垂れた目を細くした。
まだ見慣れない左目も右目と同じくらい、緩く下がっている。
こうしてまだうつうつと眠そうな空気に浸っているサンジ君は、大人しい大きな犬のようだ。
細い金髪が伸びたせいか、くるんとところどころ跳ねているのが愛らしい、本当に犬のようだ。
私はシャワーに行くと言ったくせに、やっぱり体を起こすのがだるくて、寝ころんだまましばらくサンジ君の顔の辺りをぼんやり見上げていた。
サンジ君が気付いて、目に気遣わしげな光を宿す。
「ナミさんだいじょうぶ? やっぱりオレ、無理させちまった?」
「ううん、そうじゃないの……」
そうじゃないのよ。ただ……
「ただ?」
サンジ君は優しい目で、私の隣に肘をついて顔を寄せた。
鼻の先と先が触れあう。
「サンジ君も変わったわ」
彼は一瞬キョトンと目を丸め、すぐにはにかんだような顔を見せた。
「変わるように、努力したからね」
「そうなの?」
「そうなの……」
サンジ君は思いを馳せるように仰向けになり、天井を見上げた。
そしてすぐ、ぶるるっと身を震わせる。
「もう戻りたくはねぇけど」
そうしてまたこちらを向いた。
「ナミさんは、ますます魅力的になってるし」
私がゆっくり微笑むと、サンジ君は一瞬さらに目を細めて私を見た。
「野郎共は揃ったし」
「そうね」
「もう怖いモンなしさ」
「そうね……」
そう言いながら、私は目を閉じた。
2年前だって、私たちは怖いモンなしだと思っていた。
自分たちがこの海で一番輝いていて、一番運が良くて、一番楽しいやつらだと信じていた。
ちっとも疑わなかった。
だって、2年前のあの日まで本当にそうだったから。
ルフィに手を伸ばした瞬間を覚えている。
涙を散らし、「たすけて」とみっともなく手を伸ばした。
ルフィはすごい形相で、歯を食いしばり、大きな黒目を見開いて私の名を呼んだ。
ルフィの指先が私の指先をかすめた瞬間、猛烈な風圧に意識が飛んだ。
サンジ君は「戻れ」と叫ぶ船長命令を無視して、駆け出した。
弾き飛ばされても向かって行った。
消えたブルックに手が届かなかったことに頭を掻きむしり、目と鼻の先で消えたウソップにきっと驚きも悔しさも感じる間もなく、彼も飛ばされた。
私たちは誰も助けられず、自分さえ守ることができず、一番だと信じてきた全てが呆気なく崩される様を突きつけられた。
きっとこれからも、似たようなことに何度もぶつかる。
そのときもまたぼろぼろと、私たちは崩れていくかもしれない。
「サンジ君」
彼の頬に手を伸ばした。
サンジ君は目を閉じて、好きなようにさせてくれる。
「サンジ君」
「なに」
頬から首に手を滑らせて、そのまま後ろまで伸ばし、彼の頭を引き寄せた。
両手で彼の頭を抱えて、まるで犬や子供にするように頬をすり寄せる。
薄いひげが痛かった。
私の髪が邪魔だった。
それでも構わず私は彼の頬に自分のそれをくっつけ、生暖かい体温を感じずにはいられなかった。
少し伸びた背。
厚くなった胸板。
私を抱きしめる力も強くなった。
「サンジ君……」
この人を連れて行かなければいけない、と思った。
どこにあるのかもわからない、世界の果てへ、夢の先へ。
実在するかもわからない、奇跡の海へ。
サンジ君は気持ちよさそうに目を閉じて、私に頭を預けてくれる。
よしよしと頭を撫でてみると、彼の口もとがむずがるように動いた。
シャワーはまたあとね、と耳元に言葉を落とし、彼の頭を抱きかかえたまま私も力を抜いて、ベッドに沈んだ。
次に起きたら一緒にシャワーを浴びて、少し慌てて朝の準備をして、みんなにおはようを言わなければいけない。
私が風を読むから、サンジ君は温かいごはんを作って。
奇跡の海までもう少し。
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