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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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ウソップは駅前のロータリーで私を下ろすと、言葉のかたまりをのどに詰まらせたような苦しげな顔で私を見たが、結局「おつかれさん」とだけ言って帰って行った。
駅前は明るくて騒々しく、まだ20時前にもかかわらず酔っ払いの高笑いが重なり合いながらその空間にこもっていた。
南口の明るい場所、と辺りを見渡すと、駅に隣接したベーカリーの灯りの下にサンジ君を見つけた。
半分ほど距離を縮めたところでサンジ君が私に気付き、ポケットに入れていた手を出してゆらゆらと振った。


「おつかれさん、打ち上げなくなっちゃったんだ」
「うん、また日を改めるんだって」
「そっか。じゃあメシ食ってねェのな」


頷くとサンジ君は「おれもまだなんだ」と嬉しそうに笑った。


「行くつもりのバー、メシも旨ェんだ。そこでいい?」


うん、と頷いたとき、すれ違う一団の大学生らしき一人が私の肩にぶつかった。
おっと、とよろけると、ぶつかったのと反対の手を引かれて身体がかたむく。


「おい気ィつけろ」


すんませーん、と軽い謝罪と共に遠ざかる彼らをサンジ君はたしなめるように見送り、すぐに「大丈夫?」と私の顔を覗き込んだ。
私と一緒にいるときに、彼のあんな低い声を聞いたのは初めてだ。
「平気」と答える私の手を握ったまま、「行こうか」と彼は歩き出した。


駅から10分と少し歩けば、喧騒から離れてひっそりとした夜の中に身体が溶けていくようだ。
今日はなにをしたのか、どうだった、とサンジ君が歩きながら尋ねる。
配置の手伝いと受付をした、ずっと座ってるのはつらかったけどアルバイトは初めてだから楽しかった、と私は答える。
そりゃよかった、とサンジ君は湿った空気を噛むように浅く笑った。


「ん、ここだ」


彼が立ち止まったのは、住宅アパートと民家の間に挟まれた小さな一軒家のような店だった。
看板が小さなライトで照らされていることで、かろうじて飲食店だと分かる。
にんにくとオリーブオイルの香ばしいかおりがふわふわとその店を取り巻いていた。
いいにおい、と呟く私を促して、サンジ君が扉を開けた。

右側にカウンターと椅子が6つ。その向かいに2人掛けのテーブル席が4つ並んでいた。
店の中は小さく、所狭しとお酒の瓶とグラスが壁に並んでいる。
地震が来たら怖いなあと場違いなことを考えて、店の中を見渡した。


「テーブルでいい?」
「うん」


カウンターとテーブルに1組ずつ先客がいて、サンジ君は彼らから一番離れた奥のテーブルに私を座らせた。
カウンターの向こうに立つ若いマスターが「お酒、何にします」と私たちに声をかける。


「おれウイスキーが飲みてェな。おすすめで。ナミさんどうする?」
「あ、じゃあ、白ワイン」
「あと料理のメニューください」


サンジ君の声で、ホールの女の子がメニューを持ってきてくれた。
彼とそれを覗き込み、おすすめとしるしのついたいくつかを注文する。
すぐにやってきたお酒で、小さく乾杯をした。
水割りのウイスキーを口に運んで「うわ結構キツイ」と眉をすがめたあと、サンジ君は私を見て照れたように笑った。


「おれ、実はあんまり酒強くねェんだ」
「そうなの? ウイスキーなんて飲むから」
「好きなんだけど、量は飲めない」


ナミさんは? と尋ねられて私は曖昧に首をかしげた。
お酒は好きだし、ふらふらになったり酔いつぶれたりした記憶もないけど、こんなふうにお店で飲む機会はきっと彼より少ない。


「飲むのは好きよ」


ははっと彼は声をあげて笑い、ナミさん強そうで怖ェなあと言った。
注文していたサラダやアヒージョ、パエリアがテーブルにやってくると、異国の香りと言ってもいいオイルの香りが強く私たちを囲った。


「あ、にんにく平気だった?」
「うん。家では食べられない料理だから、うれしい」
「ん、なんで?」


きょとんと私を見返したサンジ君の頬には、パエリアがギュッと詰まっている。
こんなあどけない顔で食べるんだなあと上下する喉元を眺めながら、「だって家で作れないじゃない」と言う。


「そんなことねェぜ。アヒージョもパエリアも、家で作れるよ」
「え、でもこういうオイルとか調味料って、売ってないでしょ」


サンジ君は口の中のものをごくんと大きく飲み下すと、あははと笑った。


「意識して探さねェから知らねェだけで、普通に売ってるもんで作れるんだよ」
「そうなの」


ベルメールさんは料理に関しては結構保守的で、私たちが子供の頃から好きだったメニューや自分が上手く作れるものを何度も何度も作る。
新しい料理に挑戦するとたいてい失敗して、私たちがからかって笑うのでへそを曲げてしまうのだ。


「じゃあサンジ君はよく作るのね」
「よくってわけじゃないけど」


いいなぁと自然と言葉が零れた。
サンジ君は顔を綻ばせて、「ナミさんは料理あんまりしねぇの」と尋ねる。


「うん、家で母がしてくれるからどうしても。たまーに作ったりするけど、簡単なものしか」


「ルフィも私が作るよりベルメールさんが作ったほうがやっぱり喜ぶし」と言うと、「贅沢ものめ」とサンジ君は顔をしかめた。


「じゃあ今度一緒に料理しよう。教えるから」


私は、いいわねと笑ってサラダに添えられたプチトマトを口に運んだ。
サンジ君が語る私と彼の『今度』は、まるで物語のスピンオフみたいにあってもなくてもいいような宙に浮かんだ未来だ。
そうとわかりながらも、私はふたりで並んだキッチンを想像せずにはいられない。
乾いたスポンジが水を吸うように、期待はどこまでもどこまでも胸を膨らませて、たとえ一時的にでも私を温めた。


「ナミさんのワインおいしい?」とサンジ君が訊くので、飲んでみるかと差し出したらサンジ君は迷わず口を付けた。


「美味いな。おれ次はその赤にしようかな。ナミさんは?」
「私は……別の種類の白にする」


サンジ君がホールの女の子をつかまえ、お酒を注文してくれる。
おなかはちょうどよく膨れ、眠気に似たほろ酔いが頭を重たくするが悪い気分ではない。
サンジ君はさっきのウイスキーでそこそこ目の下を赤くしているので、弱いというのは本当なんだろう。
ワイングラスをつまんでいた指先が冷え、私はテーブルの上で両手をもむように重ねていた。


「寒い?」


サンジ君が訊く。


「ううん、指だけ冷えたみたい」


なにも言わず、サンジ君の右手が私の指先を掴んだ。
ほのかに温かくて、少し湿っている。
ほんとだ、と彼は呟いた。


「何か温かいもの頼む?」
「もうおなかいっぱいよ」


じゃあこれ飲んだら出ようか、と彼は赤い液体を口に含んだ。



会計はいつもみたいにサンジ君が済ませてくれた。
わたしがトイレに席を立った間にしてしまうその手腕はスマートと言うか、抜け目がない。
店を出ると道路が濡れていて、どうやら雨が降ったらしい。
紺色の空を水で滲ませたみたいに、重たい雲が低い所にいっぱい詰まったようなどんよりした夜空だ。
ただ、暑くも寒くもない気温は心地よかった。
酒でほんのり火照った頬に外気が触れると洗われたような気分になる。
腕時計を確認すると、21時半だった。


「帰りは電車? バス?」


少し前を歩くサンジ君が、ほんの少し私を振り向くように顔を傾けて尋ねる。
街灯が照らす、白い魚の腹みたいな彼の頬をみつめて、私は言葉を詰まらせた。

どうして。
こんなにも、こんなにもままならない。

答えない私をいぶかしんで彼が振り返る。
私はその視線から逃げるように俯いて、ひたすら足を動かした。
やがて彼の隣に並び、同じ歩調で歩きだす。
6月の夜風でぬるくなった大きな手が、私のそれを掴んだ。


「狭いけど、うちでよければ」


返事の代わりに、すがるようにつながった手に力を込めた。
振り払われるはずもなく、かといって強く握り返されることもなく、サンジ君は私の手を握ったまま静かに駅へと歩いた。





彼の家は街の北はずれで、電車に20分くらい乗ってから少し歩いたところにある住宅街のうちの一軒だった。
奥に長いのか道路に面している部分はこじんまりとしていて、ひっそりと主張がない。
よくいえばさっぱりとした、悪く言えば飾りっ気のない印象を受けた。
誰もいないのか、窓からもれる灯りはない。
サンジ君は取り出した鍵で玄関扉を開けると、「どうぞ」と私を招き入れた。
だれもいない空間にあいさつの声をかけて、足を踏み入れる。


「ご家族、とかは」
「あー、帰りがおせぇんだ」
「レストランしてるんだっけ」
「よく覚えてるね」


覚えていてほしくなかったみたいな苦笑いが落ちる。
玄関の目の前は階段が続いていて、そこを上ってすぐの部屋がサンジ君の自室だった。
狭いけど、と家に入るときと似たようなことを言って扉を開ける。
6畳ほどの空間でいちばん存在を主張するベッド。
書き物机と可動式のイス。
あとはクローゼットと本棚がひとつずつ。
彼がここで今朝起きたときのままみたいなふうに、掛布団がいびつに丸くなっていた。


「適当に座ってて。お茶でいい? それか酒も確かあったけど」
「ううん、お茶がいい」


了解、と穏やかに笑ったサンジ君はいつもより近い場所にいるみたいに見えた。
ここが彼のパーソナルスペースだからか、そこに私がいるからか。
どちらでもいい、入ってしまったのだから。
みずから望んで飛び込んだのだと思うと、たまらなく心地よかった。

ベッドに背中を預けるように床に腰を下ろして、そういえば家に連絡を入れなきゃいけないと思い出す。
マグカップを二つ持って戻ってきたサンジ君に、申し訳ないのだけど携帯を貸してほしいと申し出る。
彼もウソップと同じように、あっさりと携帯を取り出してくれた。


「いいよ、家?」
「うん、姉に」


指が覚えているノジコの番号──彼女の携帯はベルメールさんのお下がりだ──をプッシュした。
数コールで電話を取ったノジコは、私の声を聞くとすぐに「泊まってくるの?」と言った。


「うん。悪いんだけどベルメールさんに」
「わかってるわかってる。これサンジ君の携帯?」
「うん」


そ、と興味なさ気に呟いて、ノジコは「帰り気を付けなよ」とだけ言って電話を切った。


「お姉様、仲いいね」
「歳もそんなに離れてないからかな」
「いくつ離れてんだっけ」
「たぶん2つ」
「たぶん?」


冗談だと思ったのか、サンジ君は笑みを浮かべてマグカップに口を付けた。
私も彼にならい、熱い紅茶を飲んだ。
唇にその熱さが痛いくらいだ。


「おいしい。上手に淹れるのね」
「そ? 慣れてるからかな」


サンジ君は言葉を濁したが、紅茶は本当においしかった。
湯気が目に染みて、軽く目を閉じる。


「ナミさん、シャワー浴びたかったらどうぞ。浴槽ためてもらっても全然構わねェし」
「ん……」


サンジ君がテーブルにカップを置く音が、やけに大きく響いた。
まだまだ直接もつには熱いカップの側面を、私は手のひらで包んだ。
じんじんと伝わる熱に耳を澄ましていると、サンジ君が私を呼んだ。
「ナミさん」と。


「ヤケんなってねェ?」


顔を上げると、サンジ君は変わった形の眉毛を下方にしならせて精一杯困った顔をしてみせた。


「正直ナミさんみてェな可愛い子がするするっと寄ってきてくれると、警戒しちまうっつーか。ナミさんはウソップの友だちで、ルフィのお姉様なわけだし」
「──ウソップや……ルフィは関係ないわ」
「ん、でも」
「いいの。ヤケなんかじゃない」


カップをテーブルに置くと、熱の余韻で手のひらが痒くなった。
きっと私は忘れない。
こんなふうに冷めない熱を手のひらに抱え込んだまま、じっとじっと耐えたことを。
サンジ君が私の頬に手を伸ばして、髪を耳にかけたことを。

身を引くともたれているベッドが微かな音を立てて軋んだ。
サンジ君が手をつくと、さらに遠慮のない音を立てる。
キスをするとき、サンジ君は私が目を閉じるまでじっと見ていた。
さらさらの前髪が私の頬に乗るように触れて、くすぐったさを感じるより前に頭の後ろに手が滑り込んできた。
私の頭を抱え込むみたいに両手で支えて、たくさんキスをする。
引き寄せようと首に手を回すと、応えるように舌が入ってきた。
服を脱がし、脱がされて、温度のないベッドになだれ込む。
サンジ君はあいかわらずやさしかった。
ぜんぶを知り尽くした指先が身体を這って、私の中をかき回して、着実に私をどこかに連れて行く。
その気持ちよさに身を委ねていたら急に怖くなって、私は逃げるようにベッドの上の方へとずり上がる。
するとすかさずサンジ君は私の肩や、腕や、ときには足首を持って引きずり戻した。

口から洩れた声が自分のものではないみたいで、咄嗟に唇を噛み締めた。
それに気付いたサンジ君が唇を重ねてきて、舌でこじ開けるように私の喉に空気を送り込む。
それでも半ば意地を張って、こぼれ出す声を抑え込んだ。
甲高い声は私ではなく、どこのだれかわからない別の女をサンジ君に思い出させてしまうような気がしておそろしかったのだ。

胸やお腹がぴったりと重なって肌と肌の隙間が限りなくゼロになるとき、その重さに意識が遠のきそうになるほど喜んだ。
初めて触れた男の人の身体は硬くて身がぎっしり詰まった木の実を連想させた。
下腹部がこじ開けられるような痛みも、関節がおかしな方へ曲がって二度と戻ってこないんじゃないかと思うような感覚も。
サンジ君が私の肩を掴んで額のあたりで吐いた荒い息も、まじりあった汗のにおいも、熱を逃がさないシーツの皺も。
すべて抱えて私のものだと叫びたくなるくらい、いとおしかった。





目覚めると狭いシングルベッドに私は広々と横たわっており、隣に誰もいなかった。
なにひとつ身に付けていない身体にはすっぽりと毛布と掛布団が覆いかぶさっており、寒さは感じないが足の先だけがやけに冷えていた。
カーテンが薄く開いていて、そこから光が線のように部屋を横切っている。
そのすぐそばの窓際に、サンジ君はいた。
下だけ何か衣服を身に付けて腰を下ろし、裸の背中をこちらに向けている。
窓が少し開いているのか、カーテンが揺れていた。

煙草だ、と気づくのに時間がかかったのは、早朝の光に煙が溶け込んで見えなかったからだ。
サンジ君は足元に引き寄せた灰皿にときおり灰を落とし、音も立てずに煙草を吸っていた。

どうしてにおいで気付かなかったんだろう。
ベッドにも、壁にも、染みついたように煙草のかおりが隠れるそぶりもなく存在を主張している。
顔の見えないサンジ君は、ただ煙草を口に持っていき、だらりと腕を下げて、ときどき灰皿に持っていく、その動作を繰り返した。
そのときどんなふうに背中の筋肉が動くのか目に焼き付くほど私は知っているのに、この人は私のものにはならない。
ひきつるような性器の痛みとともにそんなことを考えながら、目を閉じてまた眠った。



拍手[20回]

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丸く輪になって座る芸術家たちは、私を含め、真ん中に置いたイベント会場のフロアマップを覗き込んだ。ロビンが下から支えるようにコーヒーカップを持ちながら言葉を添える。


「開場は11時。搬入も含めて8時には集まったほうがいいわね。配置はこの間相談した通りで問題はない?」


皆の首が縦に動く。それを確認して、またロビンが話を続けた。
このイベントの話し合いは私が加わる前から何度か話し合いの場が持たれていたようだ。
私にはわからない専門用語が飛び出すこともあったが、不安な気持ちにはならなかった。
一番初めに私のする仕事を、ロビンの口から聞いていたからかもしれない。


「ナミには作品の搬入と配置、開場後の受付をお願いするわ」


力仕事は男性陣に任せていいからとにっこり微笑みかけられると、ときめくような胸の高鳴りと安心感が同時に押し寄せて不思議な感覚がした。
「ナミはふだん家の仕事してっから、力仕事も平気だぜ」とウソップが余計なことを言う。
心強いわね、と微笑むロビンから、私ははにかみながら視線を外した。






サンジ君から電話があったのは、イベントを三日後に控えた夜だった。
ノジコが受話器を取り、「ナミ、サンジくん」と慣れた調子で私を呼ぶ。
ウソップに手渡されたイベント会場の地図を眺めて、当日の予習をしていた私はその声に手を滑らせ、いらぬところに蛍光マーカーを引いてしまう。
それでも、なんでもないふりを装って、ノジコから受話器を受け取った。
ノジコはさっさと立ち去ればいいのに、顔いっぱいにニヤニヤ笑いを張り付けて私の隣に立っている。
受話器に手のひらで蓋をして、何よと剣呑な視線を彼女に走らせるが、ノジコは意にも介さない。
仕方がなくノジコから背を向けて受話器を耳に当てた。


「もしもし」
「ナミさん久しぶり。今時間いい?」


もちろんと首を勢いよく振ったが、口では小さく「うん」と言う。
彼の声を聞くのは10日ぶりだ。


「前に言ってたバーのこと、覚えてる?」
「うん」
「今度の日曜の夜、そこ行かねェ?」


今日は木曜日だから、日曜は三日後。
ウソップたちのイベントがある日だ。
壁の方を向いて、苦みを堪えるような表情になった。


「ごめん、その日はちょっと」
「あ、まずかった?」


ウソップにイベントの手伝いを頼まれてて、と説明するとサンジ君は「ああ、あれか。そういやそんな時期だな」と知ったふうに笑った。
彼のようにこのあたりで絵心のある人なら知っているようなイベントらしいと、思い当たる。


「じゃあその日は打ち上げとか、あるかもなんだ」
「わかんないけど……イベントが18時までだから、それから片付けってなると」
「なるほど」


どうしよっかなー、と誰にともなく呟く声を聞きながら、私は彼を逃すまいとするかのように受話器を強く握りしめていた。
せっかく誘ってくれたのに、と暗い気持ちが胸の中を淀みのように広がる。


「じゃあさ、会場までおれ迎えに行くわ」
「え?」
「おれもバイトやらでさ、その日しかなかなか時間が取れねェんだ。だからナミさんの用事が──打ち上げのあとでもいい、終わったら迎えに行くよ」
「そ、れは」


だめ? おれと二軒目ってのはやっぱりキツイか、と苦笑が落ちる。
どうしようどうしようと、私はしがみつくみたいに目の前の壁に手をついた。
日曜しかないという彼の誘いを逃したら、次に会えるのはいつだろう。
来週、再来週──リビングの壁にぶら下がるカレンダーに視線を走らせて、私は数を数えた。
今週がいい、今週じゃなきゃ。

でも、迎えに来られたら困る。


「ううん、じゃあ待ち合わせしましょ」
「待ち合わせ?」
「打ち上げがあるかどうかや、それが何時に終わるか、当日電話する。いつものバス停まで行くから、そこで待ち合わせするの」
「え、おれ会場も知ってるし迎えに行くよ?」
「いい、いいの」


見えないと知りながら首を振り、食い気味に彼を遮る。
少しの驚きとともに言葉を呑んだ彼は、少し間を開けて「分かった」と言った。
いつの間にか壁に爪を立てていて、壁紙のかけらがポロリと爪の先から剥がれ落ちる。


「もし20時になってもナミさんから連絡来なけりゃ、おれからウソップに連絡してもいい?」
「うん、おねがい」


彼がいつもの笑顔でにっこり笑うのが、電話越しに伝わった。


「よかった、じゃあまた日曜に」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ」


受話器を置くと、肺の奥に溜まっていた空気が逃げるように口から漏れた。
洩れたことで、自分が息を詰めていたのだと思い知る。
ほんの少し削ってしまった白い壁紙は、削っても白だったのでたいして目立たずほっとした。
思い出して後ろを振り返るが、いつの間にかノジコはリビングのソファに座って足の爪をいじっていた。
そこまで趣味の悪い姉ではないのだ。
ただ、すぐに「デートォ?」と私を見ることなくノジコが放った声に、私は眉根を寄せる。


「飲みに行くだけよ」
「へえ、あんたが夜に出かけるなんて珍しい」


私が答えずにいると、ノジコはちらりとキッチンに視線を走らせる素振りをして、言った。


「泊まりになるなら私に連絡しな」


一瞬目を丸める私に、ノジコがすかさず言う。


「私が黙って外泊したとき、ベルメールさんめちゃくちゃ怒ったでしょ」
「でも」
「ウソはつかないよ。上手いこと言っておいてあげる」


彼女特有の半分かすれたようなハスキーボイスは、冗談交じりの口調でそう言った。
私が返事をしないでいると、キッチンから「どっちか、さっさとお風呂入っちゃってー!」というベルメールさんの声が、上機嫌な猫が駆けてくるみたいに飛んできた。





イベント当日の日曜は、あいにくの雨だった。
梅雨らしく、ぐずぐずと細かい粒が朝から止まずに振り続けている。
ベルメールさんがみかん畑に出かけるより少し早く家を出た。
ノジコのお下がりの腕時計を確かめると、時刻は朝7時少し前。
高校生だった頃から使っている古い──よく言えばお気に入りの傘をさして、ぬかるみを避けながら慎重に丘を下った。
丘のふもとのバス停から、イベント会場である文化会館までバスで一本で行ける。
天候を考慮して早く家を出たこともあり、予定より一本早いバスに乗ることができた。
バスの中は眠たげな顔で朝練に向かうらしい中高生がちらほらと、おばあさんがひとりひっそりと目を閉じて椅子に座っている。
私は右奥の席に腰かけ、到着までの25分ほど、ずっと窓の外を見ていた。


会場の関係者入口前に8時集合の予定が、私は20分も早く着いた。
にもかかわらず私より早く到着する人影があることに気付いて、一瞬だけど足が止まった。
身体の線が細くしなるように動くのはロビンだ。
そしてもうひとり、ロビンの隣にいるととても背が小さく見えてしまう人がいる。
打ち合わせの時もよく目立っていた、ピンク色の髪をしたとんでもなくガーリーな女の子だ。
ロビンと彼女は特に話をしているわけでもなく、入り口前に佇んでいた。
私に気付いたピンク髪の彼女が顔を上げると、ロビンも気付いてやわらかく微笑んだ。


「おはよう、早いわね」
「雨だったから」


思い出したように「おはようございます」と付け加える。
ピンク髪の彼女が「よう」と思いがけず男らしい挨拶をしてくれたので、私は目を丸めてしまう。
次第にぽつぽつとイベント参加者たちが集まり始め、8時ぎりぎりにウソップがやってきて全員がそろった。
それぞれが控室に荷物を預け、輪になる。
ロビンは始終嬉しそうにしながら、彼らを見渡した。


「それじゃあ打ち合わせ通り。作品は資料室に保管してあるから、割り振り通りよろしくね」


がんばりましょ、という彼女の声で、参加者たちはわらわらと会場に散って行った。
去り際にウソップがぽんと私の肩を叩く。
よぉ、だとか、がんばろうぜ、だとか、そんな意味だと思う。
さて私も、と聞いていた通り動こうとしたところで、ロビンが「ナミ」と呼んだ。


「搬出の手伝いが終わったら、またここに戻ってきてくれる? 受付のやり方を説明するわ」
「あ、はい」


頷いてから踵を返した彼女の背中を見送っていると、「ナミぃー!」と苦しげなウソップの声が資料室の方から聞こえてきた。
両手に大きな額縁を抱えたウソップが肩でドアを押さえながら「ヘルプヘルプ」と呻いているので、私は慌てて駆け寄った。


十数人の作品をすべて所定の位置に納め、配置に間違いがないかを確認したり「順路」の矢印を記した看板を設置したりしていたら、ゆうに1時間は過ぎた。
こういうのって前日やもっと前から設置しておくものなのかと思ったが、それをウソップに言ったら、有名な展覧会やらはもちろんそうするが、こういった小さなイベントでは一日しか会場を借りることができないので当日準備するしかないのだとわざとらしい苦い顔で答えられた。
それにしてはウソップも他の参加者も、イキイキと動いて見える。

作業がひと段落ついたときにちらりと時計に目を走らせて、終わりまでの時間を逆算した。
夜の予定を、サンジ君を思い出して胸の中がふわっと浮かぶ感覚は悪くなかった。
ロビンのところに行ってくる、と周りの仲間に言い置いてその場を抜け出し、入り口のあたりに向かった。
長身をゆったりと壁に預けるようにして、ロビンは手元の資料を読んでいた。
私が声をかけるとぱっと顔を上げ、「おつかれさま」と屈託なく笑う。


「まずは受付の机を運ぶの、手伝ってくれる?」


そういうロビンのあとについて、会場の倉庫から長机を一つ、ふたりで両端を持って運んだ。
段差に気を付けて、とロビンの気遣いは余すことなく発揮される。
それからパイプ椅子を二つ運び出し、簡易受付を設置した。
空き箱を机の上に置いて、これが入場券入れ、これがパンフレット、と丁寧に説明してくれる。
招待状を出したお客さんには御礼を、参加者の誰かに言伝があれば名前を聞いておいて、などの言葉にうなずきながら説明を頭に叩き込む。
ロビンはカーディガンの袖をちらりとめくって、腕時計を確認した。


「もうすぐね。それじゃあナミ、よろしく」
「はい」


私は受付の椅子に腰を下ろす。
ロビンはそのまま奥へ引っ込むのかと思いきや、じっと私の顔を見つめていた。
ぱちぱちと目をしばたかせて彼女を見つめ返す私に、ロビンは少し考えて口を開いた。


「ずっと考えていたのだけど、どこかで会ったことあるのかしら」
「え?」


どんっと不可解にも心臓が跳ねた。
ロビンは私の目の奥の方を覗き込むみたいにして、首をかしげる。


「打ち合わせのときもそうだけど──あなたがまるで私のことを見たことあるみたいな顔をしていたから。でも、ごめんなさい、私の方は覚えがなくて……」


申し訳なさそうに照れ笑いをするロビンは、10代の少女のようだ。
彼女に見られると、自分がどんどん透明になってあけすけにされてしまうような気がした。
そんなふうにして、きっと私がロビンを見てサンジ君の絵を思い出して戸惑ってしまったことに気付いたのだろう。
アーモンドのように形のいい目が、「どう?」というように柔らかく弧を描いた。
やっとのことで、私は首を振る。


「ううん、初めましてなの。ごめんなさい、馴れ馴れしかったかも」


ロビンは慌てて首を振った。


「あら、そんな意味じゃないの。なら私の勘違いね、こっちこそごめんなさい」


じゃあよろしくね、と言い置いてロビンは私を残して控室の方へと歩いて行った。
するどい、と思ったが、すぐに違うなと感じた。
するどいんじゃなくて、まるでなんでもわかってるのよ、というみたいな目で彼女は私を見るのだ。
きっと私だけじゃなく、サンジ君のことも。
彼がロビンを描いたとき、サンジ君はモデルの彼女を見つめていたはずだ。
そのときロビンも、彼を見つめ返したりしたのだろうか。
そんなことを考えていたら開場の時間がやってきて、自動ドアが開くと共にチケットを持った入場者がぽつぽつと現れ始めた。

始めは手間取っていた受付作業も、一時間もすればスムーズに行えるようになった。
作品を展示している参加者たちは、シフト制で会場をうろついて解説にまわっている。
受付担当なのは私だけで、ずっとひとり椅子に座って閑散とした文化会館の廊下を眺めているのは思いのほかつらかった。
いつも畑でうろうろと仕事をしているぶん、じっとしているのが慣れないのだ。
入場者のほとんどが参加者の知り合いで、お愛想というか義理というか、そういうもので仕方なく見に来たのだという雰囲気をぷんぷん出している人もいれば、誰々の展示はどの辺にあるのかと尋ねてくるような人もいた。
12時を過ぎた頃、会館の廊下をぶらつく人影が目につき、思わず目を丸くした。
その男は受付という文字と私を見つけると、「なんだ」という顔をしてずいずいとこちらへ寄って来た。
彼とはルフィが引っ越してから、荷物を渡しに行ったときなど、あれから何度も顔を合わせている。


「ゾロ、あんたなんでこんなところに」
「これ見に来たに決まってんだろ」


そういって「ん」と彼の手には余るチケットを私の目の前に突き出した。
握りしめて皺のついた紙切れを受け取ると、確かにそれはこのイベントのチケットだ。
愛想のない顔を見上げて、私はあっけにとられて言う。


「ひとりで、わざわざ? あんたこういうのに興味あったの?」
「興味はねェ」


ずっこけそうなほどはっきりした物言いに、ため息もでない。
ゾロはきょろきょろと辺りに視線を走らせた。


「なに、誰か探してるの? そういえばあんたこのチケット誰にもらったの」
「るせェ、入るぜ」


ゾロは私の言葉を一蹴して、図々しく肩をそびやかして会場に入っていった。
なんなのよ、とゾロの背中を見送って、中で迷ってしまえと声に出さずに悪態をついた。

13時ごろ、参加者の一人が受付の交代を申し出てくれたので、ありがたく代わってもらった。
1時間の休憩をもらい、近くのコンビニに昼食を買いに行く。
外はまだ雨雲が垂れこめていたが、束の間の小康状態を保っているように雨は降っていなかった。
会場は夏を先取りしたように薄らと冷房が効いていて、足が少し冷えていたので温かいスープとおにぎり、それに紅茶のペットボトルを買って控室に戻った。
長机が二つ置いてあるだけの小さな会議室の中には所狭しと十数人の荷物が床に放置されているので、足の踏み場がない程だ。
控室には2人の参加者が昼休憩を取っていて、私に「お疲れさま」と声をかけてくれる。
いくつなの、仕事は、と彼らから飛んでくる質問に答えながら、私はコンビニで温めてきたスープのふたを開ける。
平凡なコンソメスープに何種類かの野菜が細かく浮かんでいて、私はちまちまとそれらをすくっては口に運んだ。


「そういえば、ナミちゃんも来る?」


不意にかけられた声に首をかしげると、もうひとりが「今日の打ち上げ」と言葉を添える。


「やっぱりあるんだ」
「うん、毎回駅前のどこかの店で適当にやってるな。二次会もあるんだけどそれはまぁ自由参加というか、行きたいやつは勝手に行けって感じなんだけど」


一次会だけでもおいでよ、と彼らは快く誘ってくれた。


「今日って、片づけまで全部終わるのは何時ごろになるの」
「20時までにきれいさっぱり片付いたら上出来ってとこかな」
「今日はナミちゃんもいるし、もっと早く終わるかも」


プレッシャーを与えるようなこと言わないで、と笑いながらおにぎりをほおばった。


14時少し前にトイレで軽くお化粧を直して、受付に戻る途中でばったりウソップに出くわした。
よう、と変わらず陽気に彼は片手をあげる。


「受付嬢、調子はどうよ」
「へーき。お客さん少ないもん」
「っが、はっきり言うなよー!」


おおげさに傷ついた顔をして、ウソップは身をよじる。


「ウソップは今日の打ち上げ、行くんでしょ?」
「もちろん、おれが幹事だもんよ。てかお前も数に入ってるぜ」


えっと声をあげると、ウソップは丸い目をぱちくりとまたたいた。


「あれ、だめだった? おれぁてっきり行くもんだと」
「ううん、行く」


ほっと息をついたのを隠すように、ウソップは声を張り上げて「っだよなー!」とからから笑った。


「そうだ、ちょっと携帯貸してくれない?」
「おう、いいぜ。家?」
「ううん、ちょっと」


ポケットからあっさり取り出した携帯を、私の手にぽんと置く。
ありがと、と拝む素振りをして少し彼から離れた。
すっかり覚えてしまった番号をプッシュして、電話を耳に押し当てる。
4コール目で呼び出し音が途切れて、「んだよ」と私が知るより低い声が聞こえた。


「もしもし、私、ナミ」
「ぅえっ? あれ? ナミさん?」
「ごめん、ウソップに携帯借りたの」
「あ、そうなんだ」


苦笑を噛み潰すみたいに小さく笑う、サンジ君の声に私はまた視界が狭まるのを感じる。


「今日、打ち上げあるみたい。早くて片付けが20時までに終わって、それから飲みに行ったら22時前になりそう」
「ああ、オッケーオッケー。ナミさんが遅くて構わないなら、22時に迎えに行くよ。駅前でいい?」


やっぱり彼は、イベントに出たこともあるのだろう。
うん、と私は頷く。


「少し早目に抜けるわ」
「嬉しいけど、おれのことは気にしなくていいぜ。楽しんで」


ありがとう、と言う私に、それじゃあと彼は電話を切った。
廊下の壁にもたれて髪の毛を触っているウソップに、お礼と共に電話を返す。
ハイハイと鼻唄交じりに電話を受け取って、そのままウソップはもとあったポケットに携帯を仕舞い込んだ。
それからすぐにじゃあなとウソップとは別れ、私はまた受付へと戻った。
暇そうにパイプ椅子に腰かけた参加者に礼を告げ、受付を交代する。
のんびりとしたお昼過ぎの空気は梅雨のせいですこし湿り気をおびて、ゆっくりと重たく流れているように感じた。
私がお昼休憩の間に帰ってしまったのだろう、ゾロが出てくるのを見ることはなかった。

17時頃までそのまま座りっぱなしだったが、参加者の一人が控室に差し入れがあるから少し休憩してきて、と受付を代わってくれたのでありがたく席を立った。
控室の扉を開けると、相変わらず荷物で埋まったそこに誰もおらず、机の上にお菓子の箱が3箱、開いた状態で置いてある。
それとこんぶ、うめ、おかか、とシールが貼られたおにぎりがころころとそのまま机の上にいくつか転がっていた。
お菓子の箱の上にメモ書きが置いてあり、『おかしは早い者勝ち、おにぎりは一人2つまで』と記してあった。
お腹は空いていなかったので、箱からマドレーヌをひとつつまみあげる。
お昼に買った紅茶と共に食べていたら、控室の扉が開いた。
ひょこっとウソップが顔だけ出して、私に目を留めるとまるでバツが悪いみたいな顔をしてそそくさと中に入って来た。
おつかれ、と声をかけても「あぁ」とか「まぁ」とか、様子がおかしい。


「どうしたの」
「や、おれも、休憩」
「あ、そう」


ウソップは机の上にさっと目を走らせて、ひょいひょいとおにぎりを二つ手に取って私の隣に腰を下ろした。
しかしすぐにおにぎりの包装を開けたりせず、手の中のそれらにじっと視線を落としている。
昼過ぎに話したときとは打って変わったウソップの様子に、私は気味悪さすら感じて「どうしたのよ」とマドレーヌのかけらを飲み込みながら言った。
ウソップはおにぎりの包装をぺりっとはがし、言う。


「わざとじゃねェんだけど、たまたま見ちまって」
「なにを?」


ウソップは私を見たが、視線が合うとすぐにそらし、それからたっぷり間をとって、決意したように一息で言った。


「さっき電話したの、サンジにだったんだな」


お前が打ち込んだ番号、おれの携帯に登録してあるから、と早口で言う。
ああそっか、そういうこともわかるんだよねと納得する一方で、ウソップがわざわざ私にそれを告げた意味や、言いにくそうにする彼の表情にわけもわからず不安な気持ちになる。


「今日、約束してんの?」
「うん。打ち上げのあと、迎えに来てくれる」
「そうか」


ウソップは落ち着きなく手元のおにぎりや目の前の壁に視線を行ったり来たりさせていたかと思えば、考え込むようにぴたりと視線を落として動かなくなった。
私は甘い紅茶で口を湿らしたが、甘さだけが舌に残ってちっとも味がしなかった。


「ナミ」


ゆっくりはっきり発音して、私を繋ぎとめようとするみたいにウソップは名前を呼んだ。


「サンジと、付き合ってたり、そういう感じの、アレにはなってんの?」
「別に……そういうわけじゃないけど」


妙に遠まわしのウソップの言葉は、不穏な空気を隠しもしない。
自然と私の声も低く重くなる。


「じゃあ、その、サンジのこと、好きだとかそういうのは」


答えないでいると肯定と受け取られる気がして、少しの間のあと口を開きかけたが、肯定してなにが間違ってるんだろうと気付くと言葉が出なくなった。
いつのまにかウソップは、まっすぐ私を見ていた。
その目がまるで突き放された犬みたいに哀しげでどきりとする。


「ナミ──サンジはやめとけ」


耳をふさぎたくても、顔を背けたくても、そうすればウソップを完全に突き放してしまうみたいな気がして──私が突き放される気がして、動けなかった。


「お前ほんとはわかってんだろ。サンジが、その……他にも、遊んだりしてること」


言葉を選びながら、慎重に慎重に私を掬い取ろうとするウソップの気持ちは胸にずどんとまっすぐ伝わった。
それでもその手に素直にすがることができず、私は黙りこくる。


「余計なお世話かもしんねェけどさ、おれはお前のこともサンジのことも、その、よく知ってっから」


ようやく私は「うん」と頷くことができた。
ウソップの肩がほんの少し緩むように下がった。
ウソップの言うことは、わかりたくないけどおのずと肌で感じるみたいに理解していた。言ってくれたのがウソップでなければ、私は「うるさい」「放っておいて」と即座に背を向けただろうことも容易く想像がついた。
それくらい後戻りができないところに来ていた。
戻りたくないとも思った。
だって、どうしてあんなふうに穏やかに笑うサンジ君のことを忘れることができるだろう。
私に笑いかけるその向こうに何人もの女の子がいたとしても、その時間だけは私だけのものになる。
私の目を見て、きちんと相槌を打って、面白い話も面白くない話も全部全部まるで夢みたいに彼の声で変わるのだ。
こんなふうに感じるのが私だけじゃないということが、棘のように足元に散らばってときおりつま先を傷つけるが、それがなんだというのだろう。


「無理やりとか、いますぐとか言うんじゃなくてさ。やっぱりおまえには、ちゃんとした人と上手くいってほしいっつーか」


もじゃもじゃの髪の中に手を突っ込んでもごもご喋るウソップに、私は「ありがとう」とだけ言った。
あからさまにほっとした顔でウソップは「おう」と照れたように笑った。
受付に戻り、閉場までの小一時間、私は開いたり閉じたりする自動ドアをぼんやり眺めて過ごした。


18時が過ぎ受付を閉じると、自然と参加者の口からわぁっと歓声が上がり、皆が伸びをするように両手を突き上げた。
おつかれさま、とロビンが皆をねぎらいながら寄り添うみたいに微笑む。


「それじゃあ切ないようだけど、さっさと片付けてしまいましょう。目標は19時半」


彼女の声でネジを巻き直されたみたいに、みんながてきぱきと動き始める。
私は彼らの指示を拾い集めながら、片づけに奔走した。

そうして会場の鍵を文化会館の管理人室に返しに行くことができたのは、19時半を少し過ぎた頃だった。
上出来ね、と満足そうにロビンが笑う。
「んじゃ」とウソップがハリのある声で耳目を集めた。


「打ち上げだー!!」
「それなんだけど」


おぉ、と盛り上がりかけたところに、ロビンの声が重なった。
綺麗な柳眉を下げて、ロビンが言う。


「とても申し訳ないのだけど、私今日はどうしても打ち上げに参加できなくて」


途端に「えぇー!!」と非難の声が上がる。
覚悟していたみたいにぐっとそれに耐え、ロビンはもう一度「ごめんなさい」としっかり頭を下げた。


「だからみんなで楽しんできて頂戴」
「それじゃ意味ねェって!」
「ロビンさんがいねェんじゃ」


口々に不平不満の声が上がり、ロビンは困ったように頬に手を当てる。
ざわめきが膨らみ始めた頃、それに針で穴をあけるみたいにパンと高らかに手が打ち鳴らされた。
ウソップだ。


「んじゃあ今日はこれで解散! ロビンが参加できる日に改めて打ち上げはしようぜ!」
「でも」
「みんながロビンがいねェとって言ってんだから、こうすんのが一番だ」


次第に場の空気が抜けるように落ち着きを取り戻し、そうだなと皆が口々に言い合う。


「はい、じゃあロビン締めのことばだけここでどうぞっ」
「えっ、じゃあ、みんな今日はおつかれさま。とても楽しかったわ。次も楽しみにしています」
「ハイかいさーん!!」


ロビンが締めたのかウソップが締めたのかわからないものの、その場は小気味よくみんなの「おつかれーっす」の声が重なってうまくひらけた。
わらわらと散っていく人々の中、ロビンが長身を縮めるようにしてウソップに手を合わせる。


「ありがとうウソップ。助かったわ」
「いいってことよ、その代わり次の幹事はロビンだぜ」


まかせて、というようにロビンが頷く。それからロビンはウソップの後ろにいた私に視線を滑らせて「ナミ、ありがとう」と言った。


「私は何も」
「あなたがいなかったら、こんなにスムーズに運営も片付けもできなかったから。当日券も全部捌いてくれたんでしょう?」
「家が商売やってっから、金の扱いは上手いんだ」


ウソップが余計な口をはさみ、ロビンが肩を揺らしてささめくように笑った。


ロビンが文化会館の管理人に礼を言ってくると管理人室に戻っていき、私は公衆電話を探して辺りを見渡した。
会館の外に街灯が小さく光っており、その下に緑色の箱が見える。
私がそこへ歩いて行こうとすると、「ナミ」と声がかかった。


「携帯使えよ」


真顔のようでいて、すねた子供のようにも見えるウソップは私に携帯を投げてよこした。
彼の顔をまっすぐ見ると、下方に視線を逸らされる。
それで、あぁ私はウソップの厚意を踏みつけて行こうとしていると実感する。


「──ありがと」
「家はいいのかよ」
「ノジコに言ってある」


駅まで送る、と言ってウソップは私に背を向けた。
携帯はサンジ君の番号を既に表示していて、ボタン一つで彼につながった。
早いね、と嬉しそうに聞こえる声で彼は笑う。
15分くらいで駅に着くと伝えると、南口の明るいところで待っててと言って電話は切れた。



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サンジと会ってんのかと、明太子パスタを口に運びながらウソップは尋ねた。
突然現れた彼の名前に、少なからず私は目を泳がす。
そんな必要もないとわかりながら、早口でうんと答える。


「ふーん」


ウソップはくるくる器用にフォークを回し、取り込まれて行く麺を眺めている。
ナミちゃん、と高い声が唐突に割り込んだ。


「おかわりあるのよ、どう?」
「もうお腹いっぱい、ありがとう」
「そう、あんたは?」


ウソップはその声に頷きながら、皿を持ち上げて中身を口に流し込んだ。
もぐもぐしながら、くぐもった声で「くう」と答える。
ウソップのお母さんは、汚いねまったく、とウソップをたしなめながら彼から空いた皿を受け取った。


土曜日の午後、私はたまにウソップの家にお邪魔する。
勝手知ったるもので、彼の優しい母親は私の分の昼食も用意しておいてくれるのだ。
だから私たちはまるで子供同士の友達みたいに、彼の家でお昼を食べる。
たわいもない話をしながら。
二人暮らしのウソップの家は大きくないが、そのぶん温かみが凝縮されているようで私は好きだった。
どこからともなく木材と絵の具の香りがするところも。

おかわりのパスタを啜るウソップはそれきりサンジくんのことを尋ねたりしなかったので、彼がどういうつもりで私に尋ねたのかわからないままだ。
そんなふうに中途半端に放り出されると、思わず聞かれてもないのにこちらから話してしまいそうになる。

サンジくんとは、あれから時々会っている。
それも、週に一度くらいのペースで。
いつも大学前のバス停で待ち合わせ、街でご飯を食べ、ぶらぶらと目的もなく歩き、カフェでお茶をして、話をする。
サンジくんはよく話し、私の話もしっかりと相槌を打って聴く。
いつもにこにこと愛想が良くて、ソツがない。
まるでそういうことに特化した機械みたいだと哀しいことを思いながらも、私は彼に呼び出されるとほいほいと丘を降りるのだ。
初めて一緒に歩いたあの日以来彼は私を自分の部屋に誘うことはなかった。
私のように、いちいちどうして?と疑問を抱かずに来てくれる女の子が、他にいくらでもいるのだろう。

どうして絵を描かないのかとあのとき尋ねなければ、さながら補欠のような今の立ち位置にはいなかったかもしれない。
そう思いながらも、彼は私に電話をよこし、私は彼からの電話を心待ちにし、時々こちらからも電話をかけた。
サンジくんのことを考えると、それどころか彼に似た背格好の男の人とすれ違ったり金髪の人を見かけたりすると、途端に視界がぎゅっと狭くなり息が苦しくなった。
とてもしあわせとはいえないその感情を、それでも私は嫌いではなかった。
サンジくんからの連絡は気まぐれで、会ったとしてもサンジくんはただひたすら優しいだけで、私が望む何かをしてくれるわけではない。
そもそも私は彼に何を望んでいるのか、自分でもわからなかった。
彼と会い、別れ、また次に会うその瞬間まで、私は甘い水をしっとりと吸った真綿を少しずつ喉に詰められるみたいに、苦しい日々を過ごすのだ。


「そのイベントスタッフを募集しててよ」


ウソップが話しながらフォークをテーブルに置いた。
その音で顔をあげる。
ウソップは律儀にごちそーさん!と言った。
私もそのすぐあとで、ごちそうさま!とウソップのお母さんに声をかける。
お皿をシンクまで運び、洗うのを手伝うと申し出たが、彼女にやんわりと断られた。
今日は随分調子がいいの、と。


「その代わり、コーヒーを入れてくれない?」


彼女に言われたとおり、私はお湯を沸かし、知った場所にあるコーヒー豆の缶を手に取った。
ウソップがカップを三つ取り出しながら、話を進める。


「それが思うように集まんなくてオーナーが困ってんだよ。もしよかったら、ナミやってくんねぇ?」
「なに?」


おいっ、とふざけ調子でウソップがツッコミを入れた。


「だから!展覧会のイベントスタッフだって。お前話聞いてなかっただろ」
「ごめんごめん、でもそういうの、ベルメールさんがいいって言うかなあ」


我が家はアルバイト禁止である。


「勿論ムリは言わねェさ。でも本気でオーナーが困っててよ。おれも絵出させてもらったり世話んなったことある人だから、なんとかしてぇんだ」


ナミさえ乗り気ならおれからもベルメールさんに頼むしさ、と拝まれたら、私はとりあえず保留で、と言うしかなかった。



その日はウソップのバイトの時間まで、だらだらとウソップの家で時間を過ごした。
ウソップとというより、彼のお母さんと話をしていた時間のほうが長い。
体調を崩しやすい彼女もその日は本人の言った通り調子がよかったらしく、会話を楽しんでくれた。
途中カヤさんから電話がかかってきて、ウソップはバイトの時間より少し早く家を出ることになった。
それに合わせて私も彼の家を後にした。


夕食のとき、ベルメールさんにそれとなくウソップに言われた件を話す。
詳しいことは私もわからないままだったので、ベルメールさんにも詳しく説明できるわけではない。
ベルメールさんは私の要領を得ない話を聞いて、ふーんと相槌を打った。


「いいよ、手伝いなんでしょ」


あっさり出た了承に私は拍子抜けして、向かいに座る母を見やった。
ベルメールさんは咀嚼をしながら、フォークに刺した鶏肉でみかんソースを掬う。


「あんたは頭も要領もいいし、迷惑かける心配ないから。それに今はうちが暇だし、いいよ」


そうね、暇暇、とノジコが相槌を打つ。
今の時期、みかん農家はオフシーズンなのだ。
オフシーズンと言ってもやることはあるが、受粉や出荷など大掛かりな仕事はない。

外で働いたことのない私にはたしてイベントのスタッフという仕事が務まるのかいささか不安だけれど、ウソップが私に頼んだのだからなんとかなるのだろう。
少しの好奇心もあって、私はウソップに承諾の返事をすることを決めた。






6月の日差しは薄い雲越しのためか、どこか丸みを帯びている。
梅雨の合間の晴れの日、私は丘を降りて待ち合わせ場所へ向かった。
サンジくんは清潔な白いシャツと、濃い紺色のパンツを合わせた姿で私を待っていた。
年相応の格好だと思うのに、彼はその中でも群を抜いてそれらの服装が似合うと思う。
けして子供っぽいわけでも大人びているわけでもない、彼らしいとしかいえない服を彼はよく知っている。
サンジくんは私を見つけると微笑み、「いい色だね」と私のラベンダー色のカーディガンを褒めた。

いつものように、私たちは彼が知る店で遅めの時間にお昼を食べる。
洒落たカフェやレストランのときもあれば、安くてボリュームのあることがウリの定食屋さんであったり、行列のできるラーメン屋さんであったりした。
そしてそれらの店はどれも、目が覚めるほどおいしいのだ。


「美味いカレーの店があるんだけど、辛いのは平気?」


今日はそう言って誘われた。
遅い時間にずらして繁忙時を避けたつもりが、店の外にはまだふた組ほど待っているらしい人の列があった。
あれ、とサンジくんは呟く。


「待ちになっちまうな。どうする?」
「いいわ、待つわよ」


平然とそう答えると、彼はにっこり笑った。
ぎゅっと心臓を鷲掴みにされ、あぁ、と息が漏れそうになる。
とんでもなく嬉しくなってしまったことがばれないように、私は少し俯いた。
結局並んだのは30分ほどで、異国の匂いがする薄暗い店内に入った頃には14時に近かった。
あー腹減った、と彼は言う。


「大学1年か2年のとき、毎日カレー食ってるヤツがいてさ。そいつ一人暮らしだったから、カレーは完全栄養食だーとかなんとかつって。次の年の健康診断のとき、まだ10代のくせに高血圧でひっかかってた」
「なにそれ」


私が口元に手を当てて吹き出すと、サンジくんもテーブルに肘を付いたまま笑った。


「頭おかしいだろ? つーかバカなんだよ。これがいいって思い込んだらそれしか知らないみてェに一直線でさ。そいつ最初はレトルトのカレーばっか食ってたから、おれがカレー作りにそいつの家行ってやったりして」
「料理、得意なのね」


んー、と頷くでもなく彼は水を飲む。


「嫌いじゃないけど」
「でもこの間、おそばおいしかった」
「そば?」
「ほら、ゾロの家で」


サンジくんは眉間にシワを寄せ、眼球だけを動かして斜め上のどこかを見た。
ルフィの引越しは四月のことだから、あれから二ヶ月ほどが経っている。
記憶をどこから引っ張り出して、あぁ!とサンジくんは大きな声を出す。


「そっか、あンときか!じゃあナミさん、ゾロのこと知ってんだったな」
「ルフィが一緒に暮らしてるもの」
「あぁそうだった!おれわりとルフィと会ってんだぜ。あいつおもしれぇから」
「そうなの?」
「ナミさんと全然似てねぇから忘れてた。そういやアイツ、ナミさんの弟だったか」


でも血は繋がってない。
そう言おうとしたとき、肌の色も髪の色も黒いエキゾチックな顔の男性がカレーを運んできたために言いそびれてしまう。
こんがりと焼き目を付け、オイルが表面でてらてら光るナンから香ばしいかおりが立ち昇る。
おいしそう、と声を漏らすと、サンジくんは嬉しそうに「美味いんだ」と言った。


「さっきのバカの話、ありゃゾロのことなんだ」


そう言って、私たちは食べている間ひとしきり数少ない共通の友人達の話をした。
カレーはバターのコクとスパイスがとてもよく合い、鼻に抜ける辛さもちょうどいい。
口の中に残るスパイスの辛味を食後のチャイで中和する。
サンジくんはチャイに砂糖を溶かしながら尋ねた。


「ナミさんちって、門限とか厳しい?」
「門限? あんまり言われたことないけど……そもそも私があんまり遅くまで出かけることが少ないし」
「ナミさんと行きたいバーがあるんだけど」


お酒は好き?と湯気の向こうで彼が尋ねた。
バー、と私は繰り返す。


「そういうとこ、行ったことない」
「じゃあちょうどいいじゃん、おれとデビューしようよ」


なにがちょうどいいのかわからないまま、私は頷いた。
店を出ると真昼から少し傾いたくらいの太陽が容赦なく身体を照らす。
この後は、サンジくんが好きだと言ったセレクトショップをひやかしに行くことが決まっていた。






ウソップに誘われたイベントは6月の下旬にあり、本番の一週間ほど前に打ち合わせと題して集まりがあった。

展覧会と言っても主催は企業でもなんでもない個人で、その人が知り合いの絵描きや芸術家と呼ばれる人々の作品を展示するものだった。
「金持ちの道楽っつっちまえばそうなんだけど」とウソップは言う。


「物好きな人でさ。評価されてるとか期待値が高いとか、そういうの関係ねェんだ。気に入ったら飾らせてもらえるっていう、そんだけ」


そう言いながらもウソップはどこか得意げに鼻を何度か触っていた。
ウソップの絵も数点飾られるらしい。
個人が行う展示会だから、スポンサーはオーナーただ一人。
だから運営は全て芸術家たち本人で行うが、今回はわりと大きなイベントになるため数人のアルバイトを雇うことが決まった。
私はその一人として選ばれたのだ。

打ち合わせはオーナーの経営するアンティークショップの二階で行われる。
街の中心から少し西へそれたところにある場所へ、私はバスで向かった。
指定されたバス停で降りると、ウソップがいつものもじゃもじゃ頭にヘルメットを乗せて、原付バイクに跨ったまま私を待っていた。
よぉ、と陽気に片手を上げる。


「ここからどれくらい?」
「すぐすぐ。歩いて五分くらい」


歩く私の隣を、ウソップは重たい原付をヒィヒィ言いながらも引いて歩いた。
道は細く、細々と分かれている。
周りは小さな民家がぽつぽつとあり、それ以外は背の高い木が生い茂る雑木林だ。
こんなところにお店があるんだろうかと思い始めたところで、その店は唐突に現れた。


「ここだ」


ウソップが足を止めたのは、小さな石造りの2階建ての前だった。
くすんだ茶色の石壁と、重厚な一枚扉が目の前に立ちはだかる。
扉の横に丸い看板が提げてあり、横文字の店名が記されていた。
外国の狭い通りに混じっていそうな店をぽっこりとくりぬいて、この場所に置いたみたいに見えた。
ウソップは店の前に原付を止めると、「ちわー」と声をかけながら扉を引いた。

店の外は木々に囲まれて日陰になっていたが、店内は不思議な明るさがあった。
ただ、所狭しと並ぶものすごい数のアイテムたちに圧倒された。
食器、花瓶、本棚、机、いす、ソファ、シャンデリアにピアノ。
用途不明の水瓶や地球儀、糸巻機や機織りのような古めかしい機械もある。
そしてなにより、壁一面が本で埋め尽くされていた。
ひんやりとした静けさが身体を包む。


「2階かな」


誰もいない店内を見回して、ウソップは勝手に店の中を進む。
私もキョロキョロと落ち着かないまま、彼の後に続いた。
えんじ色のアップライトピアノに半分塞がれるように、階段が上へと続いていた。
ピアノの横を通った時に気付く。
この店のアイテムたちはどれも、埃をかぶっていない。

階段を上ると、ショップの二階は右と左に部屋が分かれており、左は小さな給湯室のようになっていた。
ザー、と水を使う音が聞こえる。
ウソップが再び「ちわー」と声をかけながら、右側の部屋の扉を開けた。

正面に大きな窓があり、そこから木々の間をかいくぐってきた光が入ってくるのか、中は明るい。
グレーの絨毯が敷いてある床に、7,8人が車座になって座っていた。
彼らはウソップの姿を目に留めて、おぉ、だとかよぉ、だとか声をあげた。


「その子は?」


中の一人が私に目を留めて言う。


「ナミだ。来週のスタッフとして出てくれんだ」
「よ、よろしくお願いします」


慌ててぺこりと頭を下げると、口々に「よろしくー」と声が返ってきた。
彼ら一人一人をよく見ると、ウソップの大学にいそうな同じ歳格好の男女から、ベルメールさんかそれよりもっと上くらいに見える人までさまざまだ。


「こいつらは今回のイベントでみんな作品を出してるやつら。まぁ名前は一緒にやってくうちにおいおい覚えるだろ。スタッフはナミ以外に集まったんかな」


ウソップが怪訝な顔で座る芸術家たちを見回すが、誰もがそろって首をかしげるばかりだ。
ウソップは私を床に座らせ、その隣に腰を下ろす。


「スタッフがナミひとりとなると、必然的に仕事が増えるからなー」
「でもまぁそしたらそしたで、オーナーがナミちゃんの給料上げてくれるよ」


その言葉に、私の目は見るからに輝いたのだろう。
車座のまとまりがどっと笑う。
そのとき、私が背を向けていた扉が開いた。
風が動き、不意にコーヒーの香りが強く流れてきた。


「全員そろったみたいね」


おぉ、とウソップが答える。
私は腰をひねって振り向き、座ったまま入って来た人の顔を見上げ、短く息を吸う。
そのまま固まる私の肩を、ウソップが軽く叩いた。


「こいつがナミ。おれがスカウトしたアシスタントだ。働きモンだぜ」
「よろしくね」


肩の長さに切りそろえた黒髪を揺らして、『オーナー』は笑った。
両手で持ったトレンチの上に、コーヒーカップをいくつか乗せている。
私は飛び上がるように立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。


「ナミです。よろしくお願いします!」


あらあら、と落ち着いた声が頭上に振ってくる。


「礼儀正しいのね。来てくれてありがとう。ロビンよ」


さぁ座って、コーヒーを淹れたわ、と彼女は声で私の背中を押し、再び車座の一部に座らせた。
彼女が持って来たコーヒーを、絵描きたちが手際よく回していく。
膝をつき、口角を上げた柔らかい表情でコーヒーを手渡していく彼女を、私は斜め前から無遠慮に眺めた。

彼女の顔を知っていた。
ウソップの大学、たくさんのキャンバスが立てかけられた広い教室。
その中で静かに目を閉じていた金髪の青年の前に、彼女はいた。
黒一色で描かれたデッサン。
サンジくんが描いた人。



拍手[12回]


 
パン屋の朝は早いというが、農家の朝だって早い。
八百屋や街のスーパーが開店する前に、みかんを届けなければいけない。
ただ、今は私の家がメインに育てているみかん種の季節じゃないので、現実的な実入りは少ない。
とても厳しい時期であるはずなのに、ベルメールさんは毎年呑気にこの時期をやり過ごしている。
何かと物入りな春に収入が少ないのは実際彼女の頭をものすごく悩ませていただろう。
しかしベルメールさんは、私たちが余所でアルバイトをすることを許さなかった。
「他で働く暇があるならうちのことを手伝いなさい」と腰に手を当てて言ったものだ。
存分に学生を楽しむ時間をくれていたのだと、今ならわかる。
 
 
「いってきまーす……」
 
 
家そのものが眠りについているかのような静寂の中、私はひっそりと家を抜け出す。
みかん畑の横の倉庫から、その日出荷するみかんを予定通りの数だけトラックに積み込み、街へと下りる。
白けた朝の光が、視界の下方に見える街をぼんやりと霞がかって見せた。
 
街のはるか向こうには海がある。
とても天気が良くて、なおかつ空気の澄んだ日にしかそのきらめきは見ることができない。
今日だって、春霞のせいか海の青色は丘の上からも見えなかった。
 
私は一軒また一軒と八百屋を回り、トラックの後ろを軽くしていった。
白んでいた町がどんどん朝の活気に包まれていくと、自然に私の頭も冴えてきた。
全ての出荷を終えて、朝一番のスーパーマーケットの駐車場に車を停めた。
広々としたその空間にまだ車は少ない。
財布を持って運転席を降りた。
 
私がこうして街に下りて買い物をすることはめったいないが、それでもときたまベルメールさんやノジコに配荷のついでのお使いを頼まれることがある。
私はキンと冷えた生鮮食品売り場を通り抜け、籠に2リットルの牛乳のボトルを放り込んだ。
頼まれたのはそれだけだったが、朝日の照り返しで火照った頭を冷やそうと適当に店内をぶらぶらする。
秩序正しく並べられた食品たちの間をなんともなしに闊歩するのは、なんだか少し自分が偉くなったような気分にさせる。
保存食品の棚を通り過ぎ次の陳列棚へと角を曲がったそのとき、同じように向こうの棚から人の姿が現れたので、一瞬足を止め、慌てて体を横に滑らせ道を譲った。
俯いたまま少し頭を下げ、そしてそのまま通り過ぎようとしたその時、きゅっと肘の辺りを掴まれた。
驚いて顔を上げると、同じように丸くなった青い目があった。
「ナミさん」と彼は言った。
 
 
「偶然。こんな朝早くに、買い物? 家この辺なんだっけ」
 
 
サンジ君はすぐさま掴んだ手を離し、愛想よく微笑みを浮かべて言った。
彼も私と同じように、片手に買い物かごを下げている。
中には青い葉野菜がひとつ入っていた。
私が答えないでいると、サンジ君は訝しげに片眉をひそめた。
 
 
「ナミさん……だよな? 覚えてねェ? こないだゾロんちでも会った」
「覚えてるわ」
 
 
忘れるわけがない、と私が慌てて応えると、ひそめた眉は安堵したようにその形を緩やかな線に戻した。
それと同時に私は今の自分の格好を思い出し、急に恥ずかしくなってしまった。
だって私は今汚い作業服のままで、ズボンのポケットは軍手が突っ込んでありぽこりと膨らんでいるのだ。
おまけに頭は寝起きのまま、とてもじゃないが知った人に会う格好ではない。
ましてや彼になんて。
突然もじもじしだした私を知ってか知らずか、彼は私から視線を外してスーパーを見渡すように顔を上げた。
 
 
「ここ、オレの冷蔵庫代わり」
 
 
つまりは行きつけのスーパーということだろう。
私はおぼつかない口調で、家がこことは少し離れていることを伝えた。
 
 
「家の手伝いしてるんだっけ。朝から偉いね」
 
 
そういうサンジ君の口調は、子供のお手伝いを褒めるようなものだった。
私は内気な子供のように俯いて、そっけなく「別に」と言った。
なんとなく話が途切れたので、サンジ君は「それじゃあ今日はこれから学校行くから」と籠を持ち直して私に笑いかけた。
途端に、なぜか焦るような困るような気持ちが胸に流れ込んで、何としても彼を引き留めなければならないというような気分になり、私は慌てて口を開いた。
「あなたの絵を見たい」と口をついていた。
 
サンジ君はきょとんと私を見返して、ふわりと笑った。
 
 
「そういやあンときも、ウソップの絵見に来てたんだっけ」
 
 
そうそう、と頷いて彼を見つめ返すと、サンジ君はあっさりと「いいよ」と言ってズボンのポケットから携帯を取り出した。
 
 
「番号教えて? 空いてるときに連絡するよ。おれの番号も教えるから」
「私携帯電話持ってないの」
「まじで? じゃあどうしよっか」
 
 
彼は携帯電話で連絡を取る以外の方法を知らないようだった。
私は番号を教えてくれたらこちらから家の電話で連絡すると伝えた。
 
 
「わかった。えーと、何か書くモン持ってる?」
 
 
私がポケットから得意先の番号をメモした紙切れを取り出しその裏を指し示すと、彼は私が一緒に差し出したペンで電話番号をすらすらと書きこんだ。
 
 
「電話、出られない時もあるかもしれないけど」
 
 
私が紙を受け取ると、彼はにっこりと笑ってそれじゃあと言った。
いつのまにかスーパーの中には、ちらほらと人が増えている。
私はレジへ向かい、彼はまた陳列棚の間へと消えた。
受け取ったメモを胸のポケットにしまい、ビニール袋に入れられた牛乳を手に車に戻ると、私は急いで彼の番号をダッシュボードに入っていたメモ帳に書き写した。
 
 
 
 

 
その日の夜、ノジコが買い出しでベルメールさんが夕食の用意をしている間に、私は家の電話のボタンをポチポチと彼がメモした通りに押していた。
家の電話は固定式でしかもリビングに置いてあるので、私が電話を掛けようとしていることも話している声もキッチンにいるベルメールさんには筒抜けだ。
気恥ずかしいがどうしようもない話で、そういったもどかしさは幼いころ何度も経験済みだったのでいまさらということもあり、私は彼女に「ちょっと電話使うね」と軽く断りを入れていた。
 
受話器からは長い間コール音が流れていた。
私は一つずつそれを数えて、10回目を過ぎて諦めようとしたその時、11回目の一音節くらいの瞬間、ぷっと接続音が聞こえた。
 
 
「もしもし?」
 
 
聞き覚えのある声より少し低いが、それでもやはりサンジ君の声だった。
とんと胸がひとつ跳ねる。
 
 
「私、ナミです」
「あぁナミさんか。ありがとうさっそく電話くれて。いつくれるだろうって、今日は一日そわそわしちまったよ」
 
 
サンジ君は私を、女の子を喜ばせる言葉をいくつも知っていて、それらの中からそのセリフを選びだしたようだった。
私は落ち着いた声を出すのに一生懸命で、可愛くない低い声で「そう」と言っていた。
 
 
「そうだな、明後日の……昼間空いてる? 昼飯一緒に食べよう」
 
 
空いていると伝えると、彼はあぁよかったと言って「それじゃあどこで待ち合わそうか」と話を進めた。
電話の向こうで彼は、朝見たような薄らとした微笑みを浮かべているのだろう。
 
 
「大学の……バス停まで行くわ」
「分かった、それじゃあ正門前で会おう、昼の12時でいい?」
 
 
電話はこちらから切った。
無機質な接続音をどうしても聞きたくなかった。
「オトコー?」とキッチンから無遠慮な声が飛んでくる。
 
 
「ウソップの、大学の、先輩!」
 
 
あらそうと言ったくせに、キッチンからは相変わらずけらけらとベルメールさんが一人で楽しそうな笑い声を立てている。
私は二階に駆け上がって、とびきりお気に入りの小説の間に彼の電話番号を挟んで閉じこめた。
 
お風呂から出た後や、眠る前、そして朝起きたときなんかに、机の上に置いたその小説に目を走らせては、少しためらってから手を伸ばしてページを捲った。
電話番号のメモがちゃんとそこにあることを確認して、心を落ち着かせた。
ぞわぞわと心臓の下の方から細かい虫のようなものが這いあがってくる間隔は心地よくはないけど、悪くない。
 
 
 

 
約束の日、少し早いと知りながら私は11時に家を出た。
くたびれたTシャツを隠すようにまだ新しいカーディガンを羽織って、小ざっぱりとした白いパンツをはいた。
春の日差しは丸く角がなく、温かい。
てくてくと丘を下っているうちに体はほんのり温まる。
丘の下のバス停には腰のまがったおじいさんがひとり立っていて、私はおじいさんの後ろに並び、やってきたバスに一緒に乗り込んだ。
 
大学前のバス停に着いたのはまだ12時には20分ほど早かったにもかかわらず、もうすでに彼が待っていた。
薄い水色のシャツが良く似合っていた。
濃い色のデニムが彼の細さに寄り添っている。
サンジ君は「早いね」と驚いたように笑った後、「おはよう」と言った。
 
 
「そっちこそ」
「学校での用が早く済んじまったから。さ、行こう」
 
 
サンジ君はふわりと私の腰を一瞬前に押し出すように手を添えて、すぐに離した。
彼の誘導は風のようにさりげなく、また馴れたものだった。
出会ってまだ3回目の女の子をぼうっとさせる程度には素敵な所作ではあった。
 
 
「この辺はやっぱ学生の街だからさ、安くてウマい店も多くて」
「学食、みたいな?」
「いやぁさすがにあれほど安かねぇなぁ……でも学食よかよっぽどウマい」
 
 
シーフードは好き?と聞かれて、素直に頷く。
パエリアのうまい店があるから、と彼は長い足をゆっくり、私の歩調に合わせて動かした。
彼の隣を歩くのはとてもどきどきしたし、彼は隣に歩く女の子を誇らしい気持ちにさえさせる何かを持っていた。
カーディガンの下のよれたTシャツがのりのきいたシックなワンピースならどれだけよかったかと暗い気持ちが頭をもたげたが、サンジ君がどうでもいい些細な話題を私に振ってくれるたびに、そんな暗さは一瞬で塵となって飛んで行った。
彼はよく話した。
大学のこと、居酒屋でのアルバイトのこと、ウソップのこと、ゾロのこと。
彼はなんでもない話を舌の上に転がすだけで面白くする術を持っていて、私は感嘆の声を上げたり思わず吹き出したりで一人忙しくしていた。
 
 
黄色い外壁がかわいい小さなお店に入った。
こじんまりと飾られた店内はシックでそれでもどこか陽気で、可愛らしい。
「イカ墨のパエリアもウマいんだけど、でもやっぱりこれがおすすめかな」と彼はメニューを指差して、シーフードのたくさん乗ったメジャーなパエリアを指差した。
じゃあそれで、と私が頷くと、サンジ君は店員を呼び二人分のパエリアを注文した。
 
 
「ワインも美味いけど、飲む?」
 
 
私はいいわと首を振ると、サンジ君はにっこり笑って「じゃあそれはまた今度」とメニューボードを閉じた。
料理が届くまでも、届いてからも彼の話は続いた。
私もよく喋った、と思う。
ウソップとはどういう関係なのかと聞かれ、きょとんとしながら「友達よ、子供の頃からの」と答えたら彼が「てっきりいい関係なのかと」というものだから仰天した。
 
 
「まさか。あいつ、彼女いるわ」
「うそ、まじで」
「街を出て私立の大学に行ってるの」
 
 
大学名を口にすると、彼は「お嬢様か」と苦笑した。
私も映し鏡のように苦笑を浮かべて、「そう、それも超のつく」と彼らの身分ちがいの恋を明らかにする。
「あの長っ鼻、意外とやるな」と悔しそうにするのでそれがおかしくて私はまた笑った。
 
食事が終わって、一休みしたあと彼が伝票を掴んでそのまま会計へと進んでしまった。
私は彼が支払いを終えるのを待って、一緒に店を出てから手にしていた自分の分の会計を彼に差し出す。
サンジ君は「まさか」とゆるく笑いながら首を振った。
 
 
「おれが誘ったから、おれが持つよ」
「誘ったのは私だわ」
「ナミさんと食事したかったのはおれだ、いいんだよ今日は」
 
 
ね、と柔らかく手を押し返されて、仕方なくお金を財布に戻した。
彼が歩き出したので私もそれに従って付いていく。
どこに行くのだろうと思っていると、彼は新しい時計が見たいのだと言った。
てっきり次はもう彼の絵を見に行くのだと思っていた私はすこしたじろぎながらも、まるで普通の大学生のような日常の過ごし方にときめいていた。
街の女の子たちはいつもこんなふうに男の子の横に並んで、お昼を食べ、買い物に行くのかと改めて羨ましくなった。
そしてそのあと、羨んだ自分が少し恥ずかしくなるのだ。
 
私たちは小さな時計屋さんに入り、サンジ君は真剣な表情で時計を吟味した。
古風だけどデザイン性の高い時計が多い。
店内はまるで博物館みたいだ。
サンジ君はふたつの時計を手に取って、じっと見比べていた。
 
 
「あーどうしよ、迷うなこりゃ」
 
 
真剣な表情で呟いて、腕に付けてみたり目の前にかざして見たり、時計をひっくり返したりする姿を私はまるで神聖なものを見つめるみたいに、そっとそばで見ていた。
結局彼はどちらも買わず、付きあわせてごめんとしきりに私に謝りながら店を出た。
楽しかったから、と首を振った。
外は少し曇り空で、風が強くなっていた。
なんか微妙な天気になってきたなとサンジ君が空を見上げて呟く。
 
 
「よかったら今からうち来る?」
「家? サンジ君の?」
「汚い野郎の家だけど」
「家に絵が置いてあるの?」
 
 
絵? と聞き返したサンジ君はじっと私を見下ろしたので、私も思わず見つめ返してしまった。
何かまずいことを言ったのかと急に胸が騒ぎだす。
不安げな様子が表情に表れてしまったのだと思う、サンジ君は困ったように「あぁ」と声を洩らした。
 
 
「そうだよな、ナミさん絵を見せてくれっておれに言ったんだ」
 
 
確かめるようなその口調に、えぇそうよと返す言葉が出なかった。
こくりと頷くので精いっぱいだ。
ごめん、ごめん、と彼が謝ったので、私は驚いて顔を上げた。
 
 
「おれ、単なるデートの口実にしか思ってなかった。本当におれの絵が見たくて、言ってくれたんだ?」
 
 
カッと頬が赤くなった。
口実。
彼の絵がもう一度見たいと思ったのは本当だけど、サンジ君にまた会う理由が欲しいと思ったのも事実だった。
意識しないようにしていただけだった。
 
 
「ごめんな、おれの家に絵はねェんだ」
 
 
「じゃあ大学に?」と尋ねたが、それも違うと首を振る。
 
 
「自分の絵なんてもう持ってねェんだ。全部捨てちまった」
「うそ」
 
 
咄嗟に悲鳴のように甲高い声を上げていた。
サンジ君は静かに首を振る。
時計屋の前で立ち尽くして話す私たちに強い風が吹き付けた。
 
 
「本当に。おれは一枚も、自分が描いた絵を持ってない」
「でも、大学の教室にあった絵、あれは」
「あぁ……あれは確かにおれが描いたけど」
 
 
違うんだよ、とサンジ君は首を振った。
その瞬間彼の目が冷たい川の底みたいに昏く陰ったことに気付いた。
何が違うのか、と問いただす勇気はなかった。
 
 
「ごめん、だからナミさんに見せてやれる絵なんて一枚もねェんだ。本当にごめん」
 
 
私は呆然と彼の肩の向こうを見つめて、「そう」と呟いた。
残念だったけど、それ以上に何か触れてはならない深い場所に手を伸ばしてしまったみたいな後悔が先に立って、サンジ君に対して腹が立ったりとかそういう感情は一切湧いてこなかった。
彼は私を家に呼んで、それで、どうするつもりだったんだろう。
 
サンジ君は眉尻を下げて、壊れ物をくるむみたいな声で私を呼んだ。
 
 
「もしよかったら、お茶付き合ってくれる? そしたらバス停まで送るよ」
 
 
私は頷いて、近くのカフェまで彼の隣を歩いた。
重たく水分を含んだ雲が頭の上近くで揺れている。
カーディガンの繊維の隙間から肌に触れる風が少し冷たくなってきている。
 
 
暖かい飲み物を注文すると、それだけで一息つくことができた。
彼も背もたれに深く背中を預けている。
「本当に、絵が好きなんだな」とサンジ君が笑いかけた。
 
 
「好き……だけど、自分で描くわけじゃないし、見るだけで」
「それでも、こんなにおれの絵に執着してくれてると思ってなかったから」
 
 
ちょっとびっくりした、とサンジ君は初めて照れたような笑い方をした。
「執着って言い方悪いけど」とすぐに断りを入れて。
 
 
「アイツ……ウソップっていつから絵描いてたんだ?」
「私が初めてウソップの絵を見せてもらったのって中学のときなの。でも多分、本当に小さいころから描いてたんじゃないかしら。それも幼稚園のお絵かきとか、そういうレベルから」
「アイツは根っからの絵描きって感じがする。苦労するだろうけど、本当に絵で食ってくつもりなんだろうな」
「サンジ君は?」
 
 
サンジ君は静かに顔を上げ、私の目を真正面から見つめた。
強い視線だった。
のどがごくんと上下に動いた。
 
 
「なんで、描いた絵、全部捨てたの?」
「もう、いらないから」
 
 
店員が静かに私たちの間に割って入り、湯気の立つカップを二つテーブルに置いていった。
白い蒸気が彼の顔を曇らせて、私から隠そうとする。
 
 
「もう描かないってこと?」
「うん」
「大学、卒業するから?」
「そうそう。フツーに就職するんだよおれ。いやー単位はぎりっぎり危ねェんだけどね、なんとか4年で卒業できそうでよかった」
 
 
描かない理由はきっとそんなことじゃないんだろうとは思ったが、聞くことはしなかった。
サンジ君は意図的に、話を絵のことから逸らそうとしていた。
これ以上突っ込まれるのを避けているみたいに。
もう話すことはないと私とのコミュニケーションを完全に断とうとしていた。
サンジ君は就職活動のときのあれこれを、また面白おかしく私に話してくれた。
私は彼の絵が見れなかった無念さなんてすっかり忘れたふりをして、楽しげに相槌を打った。
カップの底がちらちらと見え出したころ、ふと窓の外を見ると外は雨になっていた。
どしゃ降りという程ではないが風が強そうだ。
私の視線を追って、サンジ君も窓の外を見た。
「雨、降って来ちまったな」と我に返ったように呟く。
 
 
「どこかで傘買おうか」
「私折りたたみの傘、持ってるわ」
 
 
そりゃいいやとサンジ君は笑って、カップの中身を飲み干した。
聞きたいことはまだあった。
でももうその話をするには遅すぎたと分かっていたし、話を掘り返す勇気もなかった。
タイミングというものが会話を左右するそのしくみに苛立ちながら、私はそれを押し隠してサンジ君と一緒に席を立った。
 
小さな折りたたみの傘に身を縮めて二人で入り、サンジ君は言っていた通り私を大学前のバス停まで送ってくれた。
バスが来るまで一緒に待ってくれるというので、断るのもなんだと思って素直に礼を言う。
「今日はありがとな」とサンジ君は涼やかな顔で笑った。
 
 
「絵のことは本当ごめんな」
「もういいわ。それよりこっちこそごちそうさま」
 
 
結局カフェの代金も彼が払ってくれたのだった。
 
 
「付き合ってくれてありがとう、気を付けて帰ってくれよな」
「サンジ君も……あ、傘」
「大丈夫、すぐそこで買って帰るよ」
 
 
それよりナミさん濡れてる、と不意に彼と反対側の肩を掴まれて、引き寄せられた。
彼が触れた肩のカーディガンからじわっと湿った感じが広がって、しかしすぐ彼の手のひらの熱が追いかけるように伝わった。
「すげぇ風」と彼がしっかり傘を掴みながら呟く。
少し先の交差点を、バスが曲がってきた。
バスが止まって、ため息のような音ともにドアが開く。
 
 
「それじゃあ」
「気を付けて」
「ありがとう」
 
 
列に並んだ数人が私より先にバスの中に吸い込まれていく。
サンジ君は私に傘を渡し、強い風にさらされる髪を押さえながら手を振った。
私は手を振り返してバスに足をかけたが、乗り込む寸前で振り返って「また、連絡してもいい?」と半ば叫ぶように口にしていた。
サンジ君は一瞬聞き返すように目を細めたが、すぐに理解したのかゆっくり笑って、頷いてくれた。
バスのドアが閉まり、バス停側の席に着いた私は窓の外を見下ろす。
サンジ君はまだ立っていて、細かい雨が横顔に吹き付けられていた。
髪はしっとりと下方を向いて、薄い水色のシャツが雨で色が変わりかけていたが、それでもサンジ君はサンジ君だった。
バスはゆっくりと、濡れた街の中を進み始めた。
 


拍手[44回]


帰りはまた、ウソップがバス乗り場まで連れて行ってくれた。
ウソップは学校から家まで原付で帰っていく。
重たい原付を引っ張って、ヘルメットをもじゃっとした頭の上に乗せたまま私に手を振った。
 
 
「来たいときはいつでも来いよ。つって、お前も仕事忙しいだろうけど」
「うん、ありがと。またね」
「気を付けて帰れよ!」
 
 
ウソップは私がバスに乗り込むところまで見送ると、バスより先に原付にまたがってどんどん遠ざかっていった。
私はバスの一番後ろの二人席に腰かけて、窓の外を見る。
大きな大学の講堂を横目に、バスは動きだす。
橙色に染まっていく夕暮れ時の景色をうっとりと、というよりもぼんやりと眺めていると微かな眠気に襲われて、私は目を閉じた。
すると途端に、眩しい金色の髪色を思い出して私はハッと目を開けてしまった。
 
なに、いまのはなに、と私は人目を探すように辺りを見渡した。
バスの中は乗客が少なく、数名の美大生が前の方に座っている。
バスは信号に引っ掛かって、エンジン音を低く響かせながら停車した。
私はフラッシュバックのように襲われた映像にひとり驚いて、胸をどきどきさせている。
 
だって、あまりに綺麗な金髪だった。
目の色だって、あんなにはっきりとした青色。
 
私は色に弱いのか。
綺麗な色は好きだけど、だからといって綺麗な配色を持つ人を好きになるとは限らない。
だけどあの青年の持つ色に、私は確実に惹かれていた。
少なくとも、また会いたいと思うほどには。
 
 
 

 
丘の下でバスを降りると、ちょうど帰り道のルフィと行き会った。
 
 
「あ、おかえり」
「ただいま! 珍しいなナミ、どこ行ってたんだ?」
「ウソップの学校。あんた、送別会は終わったの?」
「おー、めっちゃいっぱい食ってきた。いいな、送られる側ってのは!」
 
 
陸上部だったルフィは、たくさんの後輩に別れを惜しまれたに違いない。
ルフィが彼らのセンチメンタリズムを理解できたとは到底思えないが、それなりの寂しさはルフィだって持ち合わせているはずだ。
しかしルフィは、唐揚げのにおいのするげっぷを吐きながら、「晩飯なにかなー」と呟いている。信じられない。
私たちは隣に並んで、丘を登り始めた。
薄緑色の家の壁が遠くに見えている。
 
 
「おれ、仕事始まったら家出ようと思う」
「え?」
 
 
突然の話に、私は思わず聞き返した。
聞こえていたからこそ驚いたのに、聞き返してしまう。
だってルフィがなんでもないことのように話すから。
 
 
「なんで、だってあんた、仕事先家から通えるじゃない」
「でも、街に住んだ方が近いし、それに社長に頼めば、社員の奴らの住む場所いろいろ考えてくれるんだってよ」
「社長さんが社員のためにアパートいくつか斡旋して、融通してくれるってこと?」
「難しいことば使うなよー」
 
 
ルフィが面倒くさそうに話を終わらそうとしたので、私は焦って「でも」と言葉を繋いだ。
 
 
「ベルメールさん、絶対そんなつもりでいないわよ。あんただって家にいたほうが、食べるもの困らないじゃない」
「おばさんにはおれがこれから話す。食いモンは、まあそうだけど。給料出るし」
「それでも」
 
 
私はあからさまに狼狽えて、歩きながら足元をきょときょとと見下ろした。
 
 
「あと、もしそういうアパートに入るんなら、一緒に住むやつも決まってんだ」
「え? 一人暮らしじゃないの?」
「おう。おれと似たようなやつが同居人探してんだってよ。おれはそこに入れてもらうだけでいい」
「なに、そんなの……」
 
 
そんなの、もう住む場所なんて決まってるんじゃないの。
ルフィは私にお構いなく、どこか楽しそうに話を続ける。
 
 
「そいつにも会ったんだ。でっかくてブアイソな感じだったけど、いい奴そうだったなー。おれは気に入ったからいいんだ」
 
 
私はどんどん近づいてくる家の壁を見つめて、ルフィの言葉を左から右に聞き流していた。
ルフィが家を出ていってしまう。
私は、私は──
 
 
「ナミ」
 
 
ルフィが私を呼んだので振り向くと、ルフィは私の一歩後ろで立ち止まっていた。
もうすぐそこに、家があるのに。
ルフィはほんの一瞬だけ、真摯な目をしたが、すぐにいつもの白い歯を見せる笑い方で、私に笑ってみせた。
 
 
「遊びに来ればいいじゃんよ、いつでも」
 
 
さあ腹が減った、帰ろうぜ、とルフィは私の手を取って、ずんずん家へと突き進んでいった。
ドアを開け「ただいま!!」とルフィが叫ぶと、気だるげにノジコが「おっかえりぃ」と返事をした。
夕飯はルフィの卒業祝いを兼ねて、唐揚げだった。
ルフィはとてもうれしそうに、全部平らげた。
 
 
 

 
ルフィの引っ越しは、そのままとんとん拍子に進んでしまった。
ベルメールさんは拍子抜けするほどあっけなくルフィの下宿を許してしまったし、下宿先は既に決まっているしで本当に話の展開は早かった。
引っ越しにはウソップが手伝いに来てくれることになった。
ベルメールさんとノジコは家から荷物をトラックに積むのを手伝い、あたしがトラックを転がしてルフィが助手席に乗る。
引っ越し先までウソップはやって来てくれるし、そこにはすでに住んでいるルフィの同居人がいる。
 
 
「そんじゃま、お世話になりました」
 
 
ルフィは深々と腰を折り、ベルメールさんと、ノジコと、小さな家と、みかん畑に頭を下げた。
ベルメールさんもノジコもなんの感慨もなさそうな顔で、はいはいとルフィの礼を聞き流した。
 
 
「お腹すいてどうにもならなくなったら、帰ってくんだよ」
「おう!」
「元気でな」
「おう!」
「行こうか」
 
 
私が促すと、ルフィは二人に大きく手を振りながら助手席に乗り込んだ。
車で30分もしない近くだ、いつでも会える。
私たちはいくつかの荷物と食料を乗せて、あっさりと丘を下って行った。
 
 
「あー腹減った」
「さっき朝ごはん食べてたじゃない」
「だって今から荷物入れたり、働くだろ? 考えただけで腹減るんだよ」
「あんたこれからそういう仕事するのに、だいじょうぶなの?」
「ううう」
 
 
ルフィは先行きの不安を思ったのか、唸り声をあげて窓に額をくっつけた。
がたがたと道が悪いので、ごつごつ額をぶつけている。
 
 
「あれだろ、引っ越ししたら、そば食うんだろ」
「あんたそういうことはよく知ってんのね」
「そば食いてェなあー」
「全部終わったら、みんなで食べようか」
「いいな、そうしよう!」
 
 
明るい声を上げたルフィと黙々と運転する私を乗せて、トラックは丘を下り、街に入った。
そこからさらに20分ほど車を走らせて、私たちはルフィの住まいへと到着した。
新しいとは言えないアパートだが、しがない新入社員には十分だろう。
2人住まいするのだから、部屋の広さもそこそこあるに違いない。
アパートの階段の傍には、既にウソップが立っていた。
ウソップとルフィは嬉しそうに「よぉ」とあいさつを交わし合う。
ふたりは歳も近いしいわゆるウマが合うというやつで、いつでも仲良くバカをやっている。
 
 
「さあ、ちゃっちゃと運んじゃいましょう」
「待てよ、まずは先に住んでるやつに挨拶すべきだろ」
 
 
ウソップが至極まっとうなことを言った。
それもそうね、と私たちはひとまずアパートの階段を上る。
部屋は二階だ。
ルフィが構わずドアを開けようとしたのを制して、ウソップがチャイムを鳴らした。
2回ほど鳴らしたら、中からドスンドスンと人の動く気配がした。
どん、どん、と重たい足音が近づいてきて、私は思わず生唾を飲み込んだ。
ドアが開く。
 
 
「……よぉ」
 
 
現れたのは、いかにも起き抜けと言った顔の男だった。
まだ若い。歳は私とそう離れていないはずだ。
しかし、印象的な緑色の髪とその険しい目つきに私は息を呑んだ。
ウソップも同じだったようで、固まっている。
ルフィだけが朗らかに「よーっす」と返した。
男は「来たか」と言った様子で、ドアを開け放ったまま中へと引き返していく。
ルフィがそのあとに続いた。
私とウソップは顔を見合わせ、ごくんと唾を飲む。
ルフィはいい奴と言っていたけど、何をもってそう判断したのだろう。
おそるおそると中に入った。
 
 
「あらかたスペースは空けておいたぞ」
「おう、サンキューな! さっそく荷物入れるぞ」
「ああ、手伝う」
 
 
ルフィの後に続いて部屋を出ようとした男は、そこでようやく私とウソップの存在に気付いたようだった。
む、としかめられた眉に私たちは意味もなく悲鳴を洩らしそうになる。
そうだ、とルフィが珍しく気が付いた。
 
 
「こいつはナミ、おれのねーちゃんみたいなもんだ。こっちはウソップ、ともだちだ」
 
 
そうか、と男は頷いた。
 
 
「ゾロだ」
 
 
よろしく、と手を差し出される。
ウソップがおずおずと握り、そのあとで私もなんとなく握手を交わした。
その手の分厚さに驚いた。
 
 
「さあー、そばまでがんばるぞ!」
 
 
ルフィがおかしな気合を入れて、部屋を出ていく。
私とウソップと、ルフィの同居人ゾロもそのあとに続いて、トラックから次々と荷物を運び始めた。
 
 
荷物はもともと多くはなかったが、それでも新生活に必要なものは何かと細々ある。
正直言って、荷物運びに関して私とウソップはほとんど役に立たなかった。
ルフィさえも、アイツすげーと目を剥く手際の良さでゾロがほとんどの荷物を運び入れてくれた。
本職が運び屋なのでそれもさもありなん、しかし速い。
重たい段ボール箱をいくつも重ねて片手で持ち上げ、もう片方の手にはいくつか紙袋をぶら下げ、そのまま階段をひょいひょいのぼっていくのだ。
立派なガタイは伊達ではない。
荷物は20分もしないうちにすべて、ゾロによって運び入れられてしまった。
私とウソップは役に立たなかった分を挽回しようと、荷物の解体に精を出した。
それはここにおいて、これはあっち、とルフィが勝手に場所を指示する。
ゾロは勝手にしろとばかりになにも言わない。
男の二人暮らしには少し手狭かもしれないが、不便はないだろう。
台所も使いやすそうで、清潔だ。
というよりゾロは自炊しないのだろうか、綺麗に片付きすぎている。
まあ男の一人暮らしなんてそんなもんか、と私は物珍しさに遠慮なく部屋の中を見渡した。
 
あらかた片付いたのは、昼の1時を回った頃だった。
 
 
「腹減った! もうだめだ!」
「おつかれー」
「おつかれさん、おれも腹減ったなあ、さすがに」
 
 
へたりこんだルフィとお腹を押さえたウソップ。
ゾロは何も言わないが、ルフィの引っ越しに巻き込まれて昼食を逃している。
私はお財布を持って立ち上がった。
 
 
「おそば作ろうか。買い物してくる」
「ナミが作るのか?」
「そばくらい作れるわよ。台所貸してくれる?」
「あぁ」
 
 
ゾロはどうでもよさそうに頷いた。
これはお腹が空いているに違いない、と私は踏んだ。
腹を空かせた若い男ほど扱いやすいものはない、ルフィを見ていてそう思う。
ここから一番近いスーパーはどこだろう、ゾロに訊いた方が早いかもしれない。
そう思った矢先、家の呼び鈴が鳴った。
私たちは一斉に、外につながるドアへと視線を走らせた。
 
 
「誰だ?」
「さぁ……」
 
 
首を傾げるルフィに、ゾロ自身見当がつかない様子で訝しげながらも腰を上げた。
私たち3人は、首を長く伸ばして玄関の方を覗き込む。
ドアを開けたゾロは、「テメ」と短く声を洩らした。
知り合いのようだ。
訪問者は、「よーっす」と呑気な声を上げている。
その声を聞いて、ウソップは「え!?」と腰を浮かせた。
 
 
「なに?」
「今の声……」
「知り合いか?」
「知り合いって言うか……」
 
 
ウソップは驚いたように目を丸め、玄関を覗き込むがゾロの背が盾になって訪問者はよく見えない。
ゾロは玄関口でその訪問者を追い返そうとしているようだった。
なにやら荒々しい応酬をしている声が聞こえる。
しかし、しばらくするとうんざり顔のゾロが戻ってきた。
そして、その後ろに続いて部屋に入って来た人の姿を見て、私は財布を掴んだ手を膝の上に落とした。
ウソップは「やっぱり」と目を見開いたまま呟いている。
金髪の青年は、「アッレー」と私たちを見てやっぱり目を丸くした。
 
 
「ゾロの同居人って、まさかお前? なんでこの子まで?」
「いや、おれじゃねぇけどよ……なんだよサンジ、ゾロと知り合いなのか?」
「おうよ、こいつが同居人が越してくるっつーし、気のよさそうな奴だって珍しいこと言うからよ。物見ついでに引っ越し蕎麦でもこしらえてやろうかと思って」
 
 
青年は片手にぶら下げたビニールの中身を、ホラと私たちに広げて見せた。
蕎麦麺が4束と、2リットルの容器に入った茶色い液体、そばつゆだろう。
 
 
「多めに持ってきてよかったなコリャ」
「テメェ勝手に……」
「んだよ、祝ってやろうってのに。テメェらも蕎麦食うだろ?」
「食う!!腹減ったー!!」
 
 
遠慮のないルフィの声に、青年は気安い笑顔を見せた。
 
 
「すぐできるからよ、ちょいと待ってろ」
 
 
青年は勝手知ったる人の家、とばかりに台所へ行くと、すぐさま調理を開始した。
私は突然の出来事に頭をクラクラさせながら、大人しく財布をカバンに仕舞った。
この青年の登場に、どうしてこれほど衝撃を受けているのか自分でもわからないまま、彼がそばを作る後姿をぼうっと追っていた。
 
 

 
私たち5人はそばをすすりながら、互いの関係を整理していった。
私とルフィが言わずもがな家族で、ウソップはその二人の友人で。
ルフィはゾロが務める運送屋にこの春就職し、そして今日からゾロと二人暮らしだ。
また、ウソップと青年──サンジ君は同じ学校同じサークルの先輩後輩の仲。
そしてゾロとサンジ君は、高校時代の友人だという。
 
「連絡くらいとってから来い」と不機嫌なゾロに対して、サンジ君はずっと飄々としている。
きっといつもこんな感じなんだろう。
 
「サンジお前、料理得意なんだな……」
 
 
ウソップが意外そうに、ずるずる蕎麦をすすりながら言う。
たしかにそばつゆは持参だったし、ゆでただけとは言えおいしい。
ルフィは3回おかわりした。
だしの効いたつゆに、こしのある麺が絡む。
散らしたねぎはシンプルでおいしい。
しかしサンジ君は「まあな」とあくまでドライだ。
 
 
「言って、そば茹でただけだしよ」
「いやなんつーか、手際がよ」
 
 
そうか、まあよかったとサンジ君は自分の手を握ったり開いたりしながら、軽く笑った。
ふっと鼻から抜ける笑い声に、前髪が揺れる。
それだけのことに私は何故か動揺し、慌てて目を逸らした。
 
 
「ふたり、よく会ってんのか?」
「まさか、気持ち悪ィ言い方すんな」
「でもわざわざ引っ越し蕎麦持ってくるなんてよ」
「コイツがいつも勝手に押しかけてくるだけだ」
 
 
あんなにびびっていたくせに、ウソップとゾロは早速打ち解けたようでくだけた会話をしている。
 
 
「とかいって、テメェおれのメシ大人しく待ってたりすんじゃねぇか」
 
 
歯を見せていたずらっぽく笑うサンジ君に、ゾロはちっと舌を打った。
図星らしい。
あーあ、とサンジ君は後ろに手をついて、天井を見上げた。
 
 
「いいなぁ、一人暮らしってのはよぉ」
「今日からふたりだ」
「あぁそうか……いや、そういうことじゃなくてよ。実家出てるってのが羨ましいっていうか」
 
 
サンジ君は心底羨ましそうに、息をついた。
変わらず実家暮らしの私とウソップは、彼の不満の源がわからず顔を見合わせて軽く首をかしげる。
 
 
「家、出ればいいじゃねぇか」
 
 
ゾロが事もなげにそう言った。
サンジ君は小さく舌を打ち、「簡単じゃねェんだよ」と零した。
 
 
「おまえんち、どの辺だ?」
 
 
一番年下のはずのルフィが怖気づいた様子も見せずにそう訊いた。
サンジ君は煙草を咥えながら面倒くさそうに答えた。
中心街から少し北にはずれた地区だ。
ふうん、とルフィは適当な相槌を打つ。
 
 
「いいじゃんよ、遊びに来いよここに。なぁ!」
 
 
すでに家主面をして、ルフィは事もなげにそう言った。
ゾロはそんなルフィの態度よりセリフに引っ掛かった様子で、「余計なこと言うな、馬鹿野郎」とたしなめる。
ハハハとサンジ君は乾いた笑い声をあげた。
 
 
「お前聞いてたとおり、いい奴じゃん。……っと、おれもう行かねぇと」
 
 
サンジ君は用事を思い出したのか部屋の時計にちらと視線を走らせると、慌ただしく腰を上げた。
 
 
「何かあるのか?」
「まぁな。そんじゃまみなさん、ごゆっくり」
 
 
サンジ君は人好きのする笑顔でにっこり笑うと、ゾロの「何様だテメェは」という威嚇をするりとかわして、さっさと家を出ていってしまった。
「落ち着かない奴だ」とウソップはわざとらしいため息をつく。
 
 
「面白れぇ奴だったな! メシもうめぇし」
 
 
ルフィは一杯になったお腹をさすって、満足そうに笑った。
あんたは美味しいごはん作れる人は誰でも好きだもんね、と私は半ば呆れている。
サンジ君がいた場所がぽっかり空いてしまったのが、私は何となく隙間風を感じるような、寂しい気分になった。
たった二回会っただけなのに。
 
 
「しっかしサンジのヤツ急いでたみてェだったけど、何があるんだアイツ。4年生なんて学校はあってないようなモンだし」
「女だろ」
 
 
腕を組んで思案するウソップに、ゾロがさらりと答えを口にした。
あぁ、とウソップはどうしてかきまり悪そうな顔をする。
それなのに、「納得」という表情で頷いた。
 
 
「もしかしてサンジって、高校の頃からああなのか」
「女好きって意味なら、そうだな」
「モテそうな綺麗な面してっからなー……」
 
 
男たちの会話は、次第にゾロとサンジ君の高校時代の話へと移っていった。
男子校で、これといった特徴もない公立でたらたらと時間を過ごし、ふたりは何度も喧嘩をしたがどういうわけか完全に離れてしまうことはなく、どちらかというとサンジ君の方が懐いているような態で、今もこうしてサンジ君がふらりとゾロのもとを訪れる。
ゾロは始終いやな顔でサンジ君の話をしたが、さっきのように結局は家にあげてしまうのだからゾロもやぶさかではないのだろう。
 
 
「でもあれだろ、男子校って、男ばっかじゃん。サンジのヤツ耐えられてたのか?」
「知るか。んでもどこから連れてくんのか知らねェが、いつも見たことねェ女連れてたな」
 
 
そうして彼は、今日もどこかの女のもとへといそいそ向って行ったのだろう。
男たちはすっかり意気投合して、そう決めつけては楽しそうに話した。
私はぽつぽつと彼らの話に口を挟んで、狭い窓から差し込む光が少しずつ赤く滲んでいくのを眺めていた。
 
 
「いっけね、おれ今日かーちゃんに家でメシ食うって言ってあったんだ」
 
 
唐突にウソップが腰を上げた。
西日が強く、畳の床を焼いている。
お、そういや腹が減ってきたなとルフィまでそわそわし始めたので、あたしは言ってやった。
 
 
「あんたは帰んないのよ。今日からここが家なんだから」
 
 
ルフィはハッとして、大真面目な顔で「そうか」と言った。
まったく心配になる。
 
私とウソップが靴を履いて家を出るのを、ルフィとゾロは玄関口で見送ってくれた。
楽しそうな顔で「またなー」と手を振るルフィを見ていると、私の無意味な懸念はそっと薄くなる気がした。
それでもどこか切ないような気持ちを振り切るように、私はあっさりと「じゃあね」と返し、アパートの階段を下りた。
トラックでウソップを家まで送ってあげると誘い、彼を助手席に乗せる。
シートベルトを締めたウソップが、「寂しくなるな」と呟く。
「やめてよ」と私は笑ったが、それがフリなのは彼にはばれているだろう。
 
 
 

 
ルフィが私たちの家族に加わったのは、私がほんの8歳の頃だ。
ルフィは孤児だった。
理由は知らない。
私だって孤児だった。
そう珍しいことではない。
ただ、ルフィはその腕白っぷりで孤児院1の問題児だった。
あまりある好奇心をもてあましたルフィは7歳の頃孤児院を抜け出し、はるかな丘を登り、私と出会った。
私たちは当然のように一緒に遊び、気付いたらルフィは私の家に住むようになった。
この展開はあまりにも突然すぎるが、幼い私にその間に存在する細かな出来事は理解できなかったのだろう、よく覚えていない。
ベルメールさんがルフィを孤児院から引き取ったことだけは確かだ。
私のときのように。ノジコのときのように。
 
私たちはつぎはぎの家族だ。
ベルメールさんも、ノジコも、私も、ルフィも、誰一人として血は繋がっていない。
それでも私たちは家族で、親子で、兄弟だ。
どんな4人家族でも、もとをただせば1人が4つ集まっているだけの話で、それを嘘だとか本物だとか区別するのは嫌いだ。
いま目に見える関係だけが本物だと、私は信じている。



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