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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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子供の頃、家族で海に行ったことがあった。
父さんと母さんがいて、サボとルフィもその頃には既にいたから、アンとサボが学校に行き始めて少しした頃だったかもしれない。
母さんはきっとそのときも赤い髪飾りを左の耳の少し上につけていて、事故で二人と共にひしゃげた車の一代前のものを父さんが運転して、家から1時間と少し走ったところにある静かな海岸へ行ったのだ。
夏が始まる少し前の、ちょうどいまくらいの季節だった。
時刻はなぜか日暮れ時で、中途半端な季節と時間帯のせいで人は少なく、砂浜でランニングをする若い男や犬の散歩をする近所のおばさんくらいしかいなかった。
きっとその日の昼下がりになって、急に父さんが『海に行こう』と言いだしたに違いない。
アンにその覚えはなかったが、そう言って呆気にとられる家族の意見に耳を貸さずにいそいそと準備を始める父の背中は簡単に思い浮かべることができた。
 
ぺたっと頬にくっついてから過ぎ去っていくような独特の潮風と、思わず口を開けて吸い込みたくなる磯の匂いをアンは気に入った。
風が強く、べたつくそれが髪にまとわりついてこんがらがっていたがそんなことは気にも留めず、アンはサボとルフィと三人で一気に駐車場から砂浜へと坂を駆け下りた。
 
はじめての、海。
ざああっと迫りくる波は気迫がありまるでアンたちを脅かそうとしているように大きな音を出す。
アンはその音にひるむことなく両脇の二人と手をつないで、スニーカーの底で滑る砂を踏みしめ波間へ近づいた。
 
「おおい」と後ろで父さんが呼ぶ。
振り返ると、母さんが手招いていた。
せっかくここまで近づいたのに、と名残惜しく思いながら3人はまだ海水に濡れたことのないサラサラの砂の上にいる両親の下へ駆け戻った。
父さんがサボとルフィの、そして母さんがアンの靴を脱がせてサンダルをはかせてくれた。
明るい黄色と赤のストライプのゴムがアンの小さな足を包む。
母さんはマジックテープをしっかり止めてから、アンを見て笑った。
アンも笑い返して、既にサンダルに履き替えたサボとルフィの駆けだした背中を慌てて追った。
 
寄せる波に足を浸すと、ひんやりとした刺激が足の甲から膝のあたりまで駆け上る。
高い声でうひゃあと叫ぶ。
波の動きに合わせて、砂がさらさらと足の甲の上を転がっていく感覚が気持ち良くて笑った。
ルフィが高く足を蹴り上げて、水を蹴散らす。
赤さを増してきた夕日の光が透き通ってきらきら光る水滴に目を奪われ、しかし次の瞬間頬に冷たい飛沫がかかった。
Tシャツにも点々と飛沫が斜めに道を作った。
アンは口だけ怒りながら同じように足を蹴り上げる。
サボも同じことをした。
笑い声が途切れない。
アンは、細かい砂が巻き上がって茶色くなった波打ち際の水が小さな粒になるとこんなにもきれいだということに驚いていた。
そのことを口にすると、サボは「アンは変なことを考える」と言ってルフィは「本当だ」と素直に感心した。
 
笑い疲れて、はぁはぁ息を継ぎながら何気なく砂浜のほうに目をやった。
サボとルフィもアンの目の動きにつられて同じ方を見た。
父さんと母さんが並んでにこにこと3人の遊ぶ姿を眺めているはずだった。
 
ふたりは確かに並んで、テトラポットの手前の乾いた砂浜の上にシートを広げて腰を下ろしていた。
アンははしゃいでいた動きをぴたりと止めて、思わずじっと両親を見た。
サボとルフィも同じように二人を見ていたが、どちらかというとアンが動きを止めたのを不思議そうにしていた。
 
両親はアンたちの目の前でハグもするしキスもする。
そのハグとキスは、彼らがアンたちに行うハグとキスと同じだ。
いってきますのとき、おやすみなさいのとき、なんとなく母さんにくっついていたいとき、父さんが気まぐれに抱き寄せたとき、しあわせなとき。
 
サボの両親もルフィのじーちゃんもそんなことはなかったと言っていたので、アンは母さんに聞いたことがある。
『母さんと父さんはなんでそんなにぎゅってしたりすんの?』
母さんはきょとんとした顔をアンに向け、すぐにはにかむような笑顔を見せてアンを抱き寄せた。
『知りたいからよ』
 
アンはソファに腰かける母さんの膝に乗るような形で向かい合い、すべすべする鎖骨の下あたりに頬をくっつけたまま尋ねた。
 
『? なにを?』
『お母さんはアンが大好きだけど、アンが今何を考えてどう思ってるのか全部はわからないの。でもこうやってしてると、少しはわかる気がするの』
『いまも?』
 
母さんがくすくす笑って、甘い香りが広がる。
 
『そうね、アンは今眠くなってきた』
『! すごい…!』
 
母さんの穏やかな体温に包まれて、とろとろと緩んできた瞼。
アンはぼんやりし始めた頭で、ふと続けて疑問を口にした。
 
『母さんは…父さんのこともこうやってしてわかってんの…?』
 
アンから見ると、母さんは父さんのしたいこと考えていることなんでもわかっているように見えた。
父さんが欲しいと思ったものをすぐに差し出す。
父さんが捜しているものをなにも言わずに見つけ出す。
父さん自身分からない父さんのことを、母さんはすぐに答えてしまう。
そのたびにハグやキスをしているわけではなかった。
 
母さんは、少し考えるような間を開けてからふふっと笑いをこぼした。
今ならそれが、まるで少女のようなあどけなく若い笑い声だと分かる。
 
『そうね、全部はわからないから』
『…でも』
『お父さんはね、ずっとお母さんや、アンたちのこと抱きしめてるのよ。今もね。だからお母さんは、いつでもお父さんのことがわかるのよ』
 
母さんのその言葉には不思議なことが多かったが、アンはもう眠気にあらがうことができなくて、続く疑問を口にすることなく眠りに落ちた。
だから、父さんがずっとアンたちを抱きしめているとはどういうことなのか、それに言葉はいらないのか、わからないことはわからないままアンの心の奥の方に沈んでいって、静かに疑問の形で残り続けた。
 
砂浜の上で寄り添う二人は、何を分かり合っているんだろう。
アンは水打ち際で足を濡らしながら、そのことを思い出していた。
ふと思い立って、サボとルフィを手招く。
ふたりは大した疑問も持たずにすぐアンに近寄った。
荒いルフィの歩き方がアンの太腿を濡らす。
アンは近寄ってきた二人を、正面からがばっとぶつかるように抱きしめようとした。
ふたりの顔の間に顔を入れて、両手をそれぞれの脇の下に回す。
腕の長さが足らずに到底抱きしめているとは程遠い形だった。
 
『アン?』
 
ふたりが不思議そうに耳元で尋ねる。
アンは黙って吟味した。
 
あたしはわかるだろうか。
抱きしめたら、ふたりの考えていることが、言葉もなしに、わかるだろうか。
 
濡れたシャツ同士がくっついて、心地がいいとは言えない感触が腹のあたりに伝わったがアンは腕を離さなかった。
 
『あ、ひこうきぐも』
 
サボがアンに抱きしめられたまま空を仰いだ。
ルフィとアンも顔を上げた。
橙色と水色の狭間を突き抜けるようにまっすぐの白が伸びている。
アンはその直線のほど遠さにクラクラしながら考えた。
 
きっと抱きしめてわかることができるのは、父さんと母さんだけだ。
あたしはわからないから、「いま何考えてるの?」と言葉で聞いてしまうだろう。
わかるのは、触れた場所から伝わる体温。
 
どちらが始まりでどちらが終わりなのかわからないひこうきぐもは、広がりのあるはずの空をまるで水色の画用紙のように見せていた。
 
 
 
 

 
 
パチン、と金属音が静かな朝の空気を震わせた。
ビジネスケースの金具を留めたアンは、やっぱりそろそろ現金を家に保管するのは難しいかもしれないと考えた。
3人の衣服や季節外れの家具などが収納されている小さな小部屋。
そこにあるタンスの空いているスペースに、黒ひげから手渡された現金を詰め終わったところだった。
すっかり軽くなったビジネスケースは今度黒ひげに返さなければならない。
特にそうと要求されたわけではないが、別にアンの方もいらないのでそうしているだけだ。
空っぽのケースを手に立ち上がると、足に脱ぎ捨てられたルフィのパーカーが絡まった。
つまずいて、まったくとため息をつきながら足でそのままパーカーを隅に寄せる。
かなり雑な扱いをしたが、タンスの足元にうずくまったパーカーを見下ろし、思い直して拾い上げた。
一度ケースを下に置き片手で軽くパーカーをはたいて皺を伸ばし、目についた場所にかかっていたハンガーに手を伸ばす。
ルフィのパーカーをきちんとハンガーにかけて、観音開きのクローゼットのノブの部分にかけておいた。
 
散らかった部屋。
畳みかけの洗濯物。
埃の匂い。
3人がここで生活しているしるし。
 
ありふれたそれらのものを見て、近頃何かこみ上げるものが多くなった。
 
 
とんとんとん、と靴下をはいた足が床の上を歩いてくる音がして、サボがひょこりと顔を覗かせた。
 
 
「アン、めーしー」
「ん、ありがと。サンドイッチ?」
 
 
サボはアンの紺色のエプロンをつけたまま、木べらを片手に下がり眉で笑った。
 
 
「今日は違うって。オムライス。作りすぎてもない」
 
 
以前のように大量生産されたサンドイッチではないと思った通りの返事を聞いて、アンも笑いながら部屋を出た。
 
 
 
食卓はケチャップの酸味ある香りと卵の焼けた香ばしいにおいで満ちていた。
アンはその空気を吸い込んで、同時にぐうと鳴いたお腹がきちんと減っていることを確認する。
既に日は空の一番高いところまで昇りきり、むしろ下降線をたどっているが、サボのオムライスがアンにとって昨日の夜から数えて初めての食事だ。
なにしろ起きたのがほんの30分ほど前なのだから。
起きてすぐ胃袋に物を入れることになんのためらいのないアンは、すぐさま自分の席についてスプーンを取った。
 
 
「暑いから、ソーメンとかのがよかった?」
「んん、ソーメンだと食っても食ってもお腹膨らんだ気がしないから、こっちのがいい。おいしい」
 
 
サボはアンの向かいに腰をおろして、同じようにオムライスに手を付け始めた。
サボの作るオムライスは、冷蔵庫にある野菜をとにかく細かく刻んで、ベーコンをちぎるように小さくして、ひたすら炒め、ごはんを混ぜ、また炒め、そしてケチャップを混ぜて、皿に盛る。
それから薄焼き卵を作って、さっきのライスの上に被せて完成。
ケチャップは自分でかける。
一方アンが作れば、材料が一緒でも効率をよくするため野菜は同じ大きさに小さく刻み、できれば鶏肉を使いたいし、いろどりも考える。
そして卵は薄焼き卵ではなくて、牛乳や少しチーズを混ぜてとろけた風にしてみたり、上にかけるのはケチャップではなくてハヤシライスの残りで作ったデミグラスソースだったりする。
ルフィは「サボのオムライスの卵はパサパサしてる」とバッサリ切り捨てで、サボのほうも当然アンのオムライスのほうが美味しくて好きだという。
 
それでもアンは、サボのオムライスが好きだった。
たまに作るそれはアンのものより貴重に思えた。
ケチャップが多くて少しべたつくライスも、ところどころ焦げてカリカリになった卵もおいしい。
2人のためにご飯を作ることはアンにとって「すき」と種類分けする以上のもので、もはや生き甲斐に近かったが、サボに作ってもらい据え膳で食べるしあわせも知っていた。
ライスのオレンジと卵の黄色とケチャップの赤は穏やかにアンに活力を与える色だった。
 
 
「ルフィ普通に学校行った?」
「うん、今日は早く帰ってくるって」
「部活は?」
「今日金曜」
 
 
ああ、と頷きで納得して大きな一口分を口に含んだ。
ルフィが所属するバスケ部は、バレー部や卓球部やその他室内スポーツの部活と交代制で体育館のスペースが割り当てられるので、金曜日はその「ハズレ」の日らしい。
だから校内で軽くトレーニングだけして帰ってくるか、友達と遊びに行くのが常道の金曜日だが、今日はその後者を切り上げて帰ってきてくれるのだろう。おそらくアンが心配で。
 
金曜日か、とアンは心の中で呟いた。
毎週金曜にやってくるお客さんの顔を思い浮かべて、ああもうあたしも立派な商売人だとこっそり苦笑いを漏らす。
そして2日続いた不定休に不平不満を漏らすお客さんの姿を思って、ふとよぎった二人のスーツ姿にどきりとした。
そう、今日は金曜日。
 
マルコはきっと来なかっただろう。サッチは…わからないけど。
マルコの暗い灰色の背広の背中に、アンに向けてためらいなく引き金を引いた長身が重なった。
アンはゾッとする数日前の光景をかき消すようにギュッと強く目を瞑り、それからは一気にバクバクとサボのオムライスを平らげた。
サボはそんなアンの様子に何を言うこともなく、もくもくと食事を続けていた。
 
 
 

 
 
暗闇の中でマルコの深い蒼の目だけが妙に光ったように見えた。
思わずカーテンを握りしめる手が緩む。
しかしそのマルコから発される殺気に似た空気を感じ、アンはすぐさま正気を取り戻しカーテンでマルコの視界から自分を消した。
アンが感じた殺気に間違いはなく、カーテンに隠れるその一瞬で見えたマルコの指先には間違いなく引き金への力が加わっていた。
そしてアンがベランダの床を蹴ったその次の瞬間には、アンが今しがた立っていたその場所を銃弾が削っていた。
 
ひとつ上の階のベランダに鉤爪がしっかりと引っかかり、アンはシュンと耳元を風が切る音を聞いた。
辿りついたベランダの手すりに手を掛けると、そのまま前転する要領で中に転がり込み、腹筋を使い勢いよく立ちあがったアンは次にその上、屋根に向かってロープの先を投げた。
黒ひげがアンに示した邸宅の製図の通り、屋根のふちにある排水路に鉤爪が引っ掛かる。
そしてまた同じ要領でロープがアンを屋根へと運ぶ。
パンと乾いた音が響いてアンが屋根に両足をかけた矢先、そのすぐ左側の屋根のふちがぽろっと崩れ落ちた。
続いてパン、パンと2回銃声が鳴ったがアンは振り向かずに屋根の中央へと走りっていく。
まったくノーマークの屋根の上ではアンは身を隠す必要もなく、猫のような俊敏さで広く平らな屋根の上を横切った。
走りながら、正面少し下に3本の煙突の先端が見えてきた。
隣家のものだ。
黒ひげの言葉が正しいことを確信したアンは迷わず足を動かした。
下方には喧騒が増してくる。
アンはその煙突のある隣家に一番近い屋根の端まで来ると立ち止まり、下を確認した。
屋根から3メートルほど下に薄暗い中でぼんやりと、白濁色のプラスチック素材のような屋根が浮かんで見えた。
温室の屋根だ。
そしてその向こうにはこの邸宅を囲う塀があり、2メートルほどの幅の狭い道路を挟んですぐ向こうにはこの邸宅より背の低い隣家の屋根がある。
 
アンはすでに使い慣れたロープをぎゅっと握りこんでからその先端を隣家の煙突に向かって無造作に放った。
適度な質量をもった鉤爪はちょうど良い速さで隣家の煙突の吹き出し口に引っ掛かる。
アンはその強度を確かめてから、薄暗さでおぼつかない落下先に怯える余裕もなく屋根のふちを蹴っていた。
 
温室の屋根は格子のように鉄の骨組みが組まれており、その表面を透明の天板が覆っているだけの脆いものだと聞いていたので、アンは淀みなく骨組みの部分に足をつけ、その骨組みの上を器用に走り出した。
ミシミシっとしなる音がやけに大きく響いて心臓が跳ねたがだからといって止まることはない。
 
ふと昔、自宅を囲む2メートルの高さの塀の上を平均台のようにしてサボとルフィと追いかけっこをした、何とも平和な記憶を思い起こす。
「危ないからやめなさい!」と血相変えて叫んだのは母さんだったろうか、もしかすると父さんだったかもしれない。
しかしそれでもアンたちはやめず、奇妙なスリルと足元から駆け上る少しの恐怖に突き動かされて遊び続けた結果、驚異のバランス力が養われ、今こうして役立っているというわけだ。
思わぬ感傷に浸りながら、アンは温室のふちまで辿りつき、4メートル強の幅があいたその向こうにある目的の屋根に視線を移した。
 
背後で生ぬるい空気をかき混ぜるようなごちゃごちゃした喧騒が聞こえるが、温室とそこを囲むように屹立する樹木がアンをそれらの視界から隠してくれる。
アンは温室の屋根のギリギリふちに立っていたが4,5歩下がり、手に握るロープを引いてもう一度鉤爪がしっかり煙突を捉えていることを確かめる。
そして走り幅跳びの要領で、上体を低くし数歩の助走をつけて温室のふちを蹴りつけて跳んだ。
 
ふわっと内臓が浮かぶ、吐き気を催すような感覚が一瞬したと思った矢先にはもうアンのつま先は隣家の屋根を捉えていた。
しかし4メートル強の幅をしなやかに飛び越えたものの、そのかかとは宙に浮いていた。
 
 
「っ!」
 
 
体重が後方に移動し、アンの身体は後ろに倒れていく。
しかし右手に握りこんだロープがすぐさまぴんと張って、アンの身体が背中から落下するのを防いでくれた。
右腕の筋肉がきつく緊張する。
背中に流れかけた冷たいものがすっと引いていき、アンは思わずふうと息をつく。
 
アンは力を込めてロープを手繰り寄せて身を立て直すと、足音立てずに屋根の上を移動した。
煙突から鉤爪を外し、指示された通りその家の南西の角まで走ると一気に下へ飛び降りた。
2階程度の高さから降りることは、すでにアンにとって自分の足で支えられる衝撃だった。
 
 
「こっちよ」
 
 
背後から夜の闇に似つかわしい低い女の声がかかった。
アンはその声の主を確かめることなく振り向いてすぐその声の主が開いた裏口と思わしき扉の中へ身を滑り込ませる。
アンが中へ入ると、すぐさま何者かの腕がぬっと伸びて静かに扉を閉めるのが暗闇の中でかろうじて見えた。
 
外は弱弱しい月明かりと非常灯の灯りでぼんやりとした明度のある視界だったが、一方アンが踏み入った家の中は真の闇だった。
これも黒ひげの指示した通りだとはいえ、何も見えない視界の中で得体の知れない人の気配だけ感じるというのは心地いいものではない。
アンは警戒を張り巡らせた身体を固くして、じっとその『誰か』が声を出すのを待った。
『誰か』の気配はアンのすぐそばにあり、身動き一つしない。
アンのこめかみをべたついた汗が一筋トロリと伝った。
 
 
「…時間帯が時間帯だから、灯りは付けられないんだよ」
 
 
やっと声を発した女は歩き出したのか、すっと遠ざかる気配がした。
暗闇の中で目が慣れているのか、その人物は何かにぶつかったり物音ひとつさせることなく遠ざかっていく。
アンはその背に続こうか迷って、しばらく壁に背をつけて浅い呼吸を繰り返していた。
やっと今回の任務が『成功』したのだという実感が鼓動の音ともに蘇ってきてアンの胸を打つ。
アンはふっと頬を緩めた。
今更過ぎる、膝が笑っている。
 
アンはずるりとその場にしゃがみ込んだ。
膝がしらに額をつけて、まさぐるように右手を動かして腰のポーチを確認する。
つむじのあたりにそんなアンの姿をじっと見つめる視線を感じた。
 
 
「中に入ったらどうだい。歩いても大丈夫さ、物はあんまり置いてないからね」
 
 
アンはその声に顔を上げることなく、暗闇の中で固く目を瞑った。
視線はしばらくの間アンに留まっていたが、長くは続かず女がアンの傍から離れていく気配がした。
ひとりにしてくれるらしい。
黒ひげの中の一人だと分かっていながら、女のそれが心遣いだろうが単にアンに付き合ってられないと判断しただけだろうが、ただ今はその行動に感謝するしかなかった。
 
 
カタカタと痙攣するように震える脚はなかなか収まらず、それを留めようと膝を抱える腕にさえ力が入らなかった。
逃げ切った安心感と、のしかかる罪の重さがまたもやないまぜになってアンを襲う。
どこまでも煮え切らない自分に嫌気がさした。
綺麗ごとだ、と口だけ動かす。
この罪悪感は綺麗ごとだ。
 
罪悪感を感じるなら初めから犯さなければいい。
後悔するなら初めからしなければいい。
そう思いながらもアンの心にずんと残るしこりは紛れもなく罪悪感と後悔そのものだった。
初めてのときよりもそれは深い。
きっと慣れることはない。
 
暗闇の中アンを見つけ出そうと光るライト。
やたらに危険心を煽る赤いパトカーの光。
警官の怒声。
銃口の黒さと「敵」とみなされたときに向けられる目。
 
そのすべてを思い起こして、ああこれは罪悪感じゃないと気付いた。
怖い。
警察が、捕まることが怖いのだ。
完全に犯罪者の心理に染まっているということに愕然とした。
罪悪感だと認識していた心のしこりが一瞬で霧散し、すぐさま恐怖という感情が胸をいっぱいにした。
 
もう戻れない。
何度も何度も繰り返し脳裏をよぎる言葉が、このときもまたアンの鼓膜を内側から打った。
 
そうだ、もう戻れない。
母さんの髪飾りを取り戻したいという強い思いと使命感は今も変わらない。
それでも温かく光の差す家の匂いと兄弟の笑顔を思うと、もうそこには戻れないという実感が液体となって目元にじわっと滲んだ。
 
黒ひげとの関係をすべてゼロにして平凡な3人の暮らしを取り戻したいという思い。
取り返した髪飾りを両親の墓前にかざして見せたいという思い。
黒ひげの言葉を黙って受け入れたときの決意。
マルコとサッチからあわよくば情報を聞き出そうとした自分の卑小な考え。
マルコが見せた笑い方に物珍しさを感じてもっと見たいと思ったこと、そのマルコの目がアンを打ち抜くように見つめ銃口を向けた際紛れもなく哀しいと思ったこと。
そのすべてが本当で、だからこそ何を信じていいのかわからない。
 
泣くな、泣くな、泣いたら全部流れてしまう。
崩壊しかけた涙の蛇口を必死で固く締めようとするとその方法はもう思考を止める以外になく、こんな右も左もわからない場所でという警戒心に包まれながらも、アンはうずくまったまま意識が抜かれるように眠りに落ちた。
 
 

 
 
ハッと目を起こして目に入る天井の色を確認する暇もなく、アンはすぐさま上体を起こした。
すると突如ぐにゃりと視界の景色が歪み、顔をしかめて俯いた。
思わずうめく。
外からは平和にさえずる鳥の声が聞こえていた。
眩しさといまだ平衡感覚の定まらない頭に目を細めた。
肌に触れた布の柔らかさとその色に見覚えがあり、アンはゆっくりと辺りに視線を走らせた。
 
「…いえ…」
 
 
自宅の寝室だった。
3つのベッドの一番窓側、間違いなくアンのベッドの上だ。
アンはしばらくの間、何から考えればいいのかわからなくてぼんやり目の前のクローゼットを見つめた。
いつ帰って来たのか、どうやってここまで来たのか、今が何日の何時なのか。
とりとめない疑問が一気に押し寄せるがそれにひとつずつ回答を考える余裕はまだない。
 
とりあえず外は明るく、今は日中だ。
その平凡さに安心して、アンはサボとルフィはどこだろうとベッドから足を下ろした。
そしてそこにすぐ、自分のスリッパがきちんと揃えて置いてあることに気付く。
サボの気遣いの痕跡にアンは思わず頬を緩めた。
それに足を突っ込んで立ち上がってから、自分がちゃんとパジャマのTシャツを着ていると知った。
これまた記憶にないことだ、と思いながらアンはペタペタと平たい足音をさせながら寝室を出た。
 
 
リビングに入ると、ソファに腰かけるサボの後頭部が見えた。
何か読み物をしているらしく、俯いている。
サボ、と声をかけるとサボはアンが驚くほどのスピードで振り向いた。
まるで隠れていたのに思わぬところで見つかった泥棒のような顔をしている。
アンの方こそそれに驚いて少し目を丸くした。
しかしアンの顔を見て、少し強張っていたサボの表情がゆっくりと溶けていく。
 
 
「…ああ、アン、おはよ」
「おはよ…今何時?」
「13時」
「あたし…いつ帰ってきたっけ?」
 
 
サボは苦笑を隠さず「昨日の明け方くらい」と答えながら立ち上がった。
ローテーブルに置いてあった自分のグラスを手に取り台所へ向かう。
アンはサボの背中をぼんやり見つめながら、「昨日…?」とこぼした。
そしてすぐ、「えっ、あっ!」と声を上げてソファに放られていた新聞を慌てて手に取った。
新聞の上端に記してある小さな文字に目を凝らす。
虫のような文字の小ささにいらいらしながら今日の日付を読み取ると、アンはあんぐりと口を開けてサボの背中に呟いた。
 
 
「…あたし丸一日寝てた…?」
 
 
サボは笑いながら頷いた。
コップを濯ぐ音がさわやかに部屋の中で跳ねる。
きゅっ、と蛇口をひねる音までよく聞こえた。
 
 
「飯作っとくからさ、顔洗ってくれば?」
 
 
アンは素直にうなずいた。
ああ、また母さんのと違ったのかもしれないと理由もないのに確かに思った。
寝室に戻ると、2つのベッドの間にある小さなテーブルの下に隠すように置いてある黒いビジネスケースを見つけて、少し気分が沈んだ。
 
 

 
 
サボの計らいで店は2日間休業していた。
事件が起こるたびに休業になる怪しい店になってしまったが、まさか誰も宝石盗難事件と街の端にある小さなデリの開店状況を結び付けて考えたりはしないだろう。
少し心配なのは、あの刑事の二人の男だけだ。
マルコはアンの事件のせいでのんきに遅い昼食を取りに来る余裕もないはずだからいいとして、もしかしたら事件とは無関係のサッチはひとりでやってきたかもしれない。
そして店が休業であることをマルコに与太話のついでに伝えて、前回の事件のときも休業のことを万一覚えていて、少しでも怪しまれたら…とそこまで考えてアンはぎゅっと目を閉じて考えを追い払った。
考えすぎだ、明らかに。
 
アンは二日間の売り上げを取り返さなければと意気込みを込めて、午後はひたすら惣菜を作った。
野菜炒め、かぼちゃのサラダ、鶏肉とナッツのソテー、つみれ団子とほうれん草のスープ。
ルフィが帰ってくると作るそばからひょいひょい食べられて何のために作っているのかわからなくなる。
だからアイツが帰ってくる前にできるだけ作り貯めて置こうとアンはせっせと手を動かした。
サボはバイクに乗って、お得意の八百屋や魚屋に明日の注文を直接取り付けに行っている。
ビジネスケースのことを尋ねると、眠るアンと一緒にラフィットと、もう一人背の高い女が届けに来たらしかった。
 
 
『髪飾りは…』
『まだわかんねぇけど、留め具が外れかけててどう見ても紛いモンっぽいから違うだろうって』
 
 
そう、とアンは静かに頷いた。
驚きはそれこそ驚くほど少なくて、悔しがり残念だと涙をこぼしてもおかしくないサボの言葉はアンの中でしゅわっと炭酸の泡のように小さな粒となって広がり、溶けて染み込んでいった。
サボはアンの代わりに悔しがるようなそぶりを見せることもなく、アンが頷いたのを確認して発注に出かけてくる旨を伝えた。
 
 
フライパンの中で彩り鮮やかな野菜たちが油をまとってつやつや光っている。
ざっざっと機械的に動く手は慣れたもので、次々に惣菜を量産していってくれる。
 
静かで、落ち着いた気持ちがアンを満たしていた。
数か月前、銀行を破り手に入れた髪飾りがハズレだったときに流した涙と同じ種類のそれはもう出ない。
なんでだろうと自問するも、明確な答えは内側から帰ってこなかった。
ブゥンと大きな蜂が耳元を飛んだような低いバイクの音が店の前を横切った。
 
 
「ん、あぁー…」
 
 
ふと、驚きとため息が混じったような男の声が店の外から扉越しに聞こえてきた。
そしてすぐ、カシャンとシャッターに何かがぶつかったような音もする。
アンはフライパンの中身を皿に移し替えながら、思わず見えもしない外側に目を向けた。
通行人だろうか、もしかするとお客さんだろうかと思って壁の時計を見上げた。
15時を少し過ぎたところ、うちの店に来るには遅すぎる。
残念、ゴメンナサイと心の中で謝って聞き流すことはできた。
そうするべきだったのに、どうしてか、たった一言言葉でもない声がどこかにひっかかり、気付いたらシャッター横のドアに手をかけていた。
ドアを開けると、シャッターに背中を預けて携帯を覗き込む男の横顔が思いのほかすぐそこにあった。
男は開いたドアに気付いて振り向き、すぐさま顔を綻ばせた。
 
 
「…サッチ?」
「おお!アンちゃんだ!やりっ」
 
 
サッチは嬉しげな顔を隠そうともせずにかにかと笑いながら携帯を無造作にパンツのポケットに突っ込むと、「いやぁやっぱり今日は遅すぎたよなぁ」と眉を下げた。
なにが「やりっ」なのか理解できず、アンは微妙な顔のままサッチを見上げる。
 
 
「ちょっと仕事のほうでメンドーがあって遅くなって…あ、今日はマルコの奴はいねぇんだけどさ。ほら、もうテレビとかでやんややんや言ってる事件あるだろ?アレでさ」
 
 
アンは曖昧に頷いた。
サッチはつとアンを見下ろして、口元だけ笑ったまま考えるように動きを止めた。
サッチの笑顔から「ニコニコニコ」と効果音が出ているとするなら、ぷつ、と途中で途切れた感じに。
 
 
「アンちゃん疲れてんね。今日忙しかったんか?」
「え、や…」
 
 
そうか、サッチは今日店が休業だったことを知らない。
否定しかけたアンは、ええいいいかと「うん、まぁ」とぼかした返事をした。
するとサッチは、「んー」と考えるそぶりを続けて空を仰いだ。
アンはドアノブに手をかけて体は店の中に入ったままという中途半端な体勢で、サッチとの会話をどう切り上げていいのか、そもそも切り上げたいのかもわからない。
 
 
「よしアンちゃん、オレのメシ付き合ってくんない?」
「えっ」
「アンちゃんの店の片づけが終わってからでいいよ、待つから。夜は家のことしなきゃなんねーんだろ?なら夜までに帰ってくるからさ」
 
 
男の一人飯ってほんとつまんねーのよ、ほんと、とサッチはまるで拝むようにアンの前で手を合わせた。
 
 
「飯でもデザートでも奢るし!」となんとも魅力的なセリフを言われたが、アンが一も二もなく頷けるはずもない。
 
だって、サボやルフィはいかなくてあたしだけっていうのもなんかちょっとアレだし、そもそも今サボがいないから書き置きしていくしかないし…それってどうなの?
それにアンは目覚めてからまだ一度もルフィに会っていない。
店は実際今日はやってないから片付けもないし、作り置きの惣菜はさっきのを冷蔵庫に仕舞ったらおしまい。
今から夕飯の準備までは、自由の時間だ。
それでも、「えーっとぉ…」と間延びした返事をしながら、アンは自然とどう断ろうかという言葉を探していた。
アンの前で拝むように姿勢を低くしていたサッチが、ふと視線をアンからその背後へスライドさせた。
「あ」の形で口が開く。
ぶぶぶ、と低く空気を震わすような振動音が二人の真横で止まった。
サボはジェットヘルをかぶったまま、片足を地につけた。
 
 
「お客さん」
「にーちゃん、アンちゃんのにーちゃんだ」
 
 
サッチはわざわざサボを指さし確認する。
アンは二人の間で視線を行き来させ、どんな顔を作ればいいのかわからなくて、結果困ったような表情をサボに向けた。
サボはそんなアンの顔を見て、「ごめん、今日は店早く閉めたんだ」と気の利いたことを言った。
 
 
「おうおう、そりゃいいからよ、今お宅のお嬢さんをオレの遅いメシにつき合わそうって魂胆だったんだけど、こりゃまた優秀なボディガードがいるもんだ」
 
 
サッチはもともと下がり気味の眉を寄せて苦笑した。
サボとアンはまるで写し絵のように揃った表情できょとんとする。
しかしすぐ、「あぁ」とサボが呑気な声を上げた。
 
 
「メシ行くの?いいよ、行ってきなよ」
 
 
げっ、とまでは言わなかったものの、言ってもおかしくない形相でアンはサボに視線を走らせた。
ぎょっとするとはまさにこのことだ。
今度はサッチの方がきょとんとして、ぱちぱちと瞬いた。
そしてぱぁっと笑みが広がる。
目元の笑い皺が濃くなったのがアンには見えた。
 
 
「マジ?いいの?」
「晩飯オレやっとくし、ルフィにも言っとくから」
「やっ、それまでにはかえ…」
 
 
ハッと口をつぐんだアンの向かいで、サッチがヨッシャ―と高らかに叫ぶ。
サボは「出かける準備してこれば?」と何でもないように笑って、隣の空き地までまたバイクを走らせていった。
アンは続きの言葉も口をつぐんだ言い訳も言うことができず、ただただサボの言う通り出かける準備に中へ引っ込むしかなかった。
 
 
 

 
 
サッチがアンを連れて行ったのは、小奇麗なスタジオの上階にある小さなバーのような店だった。
バーのようというのは外見だけで、酒は置いてありそうだがまだ日も落ちてない時間帯のこと、怪しい雰囲気はないこじゃれた店だ。
アンの店からふたりでてくてく歩いて15分ほどというとんでもない近所だというのに、少し大通りを反れてしまえばそこはアンの知らない場所だった。
 
ふたりで道を歩いている間、サッチの口は壊れた電化玩具のようにぺらぺら動き続けたが、会話にそつがないのでアンからも自然と返事がこぼれ出る。
サッチが「ここよここ」と足を止めるまでの間に、サボとルフィのことや3人での生活などをうわべだけではあるが洗いざらい話させられていた。
サッチの声や目まぐるしい表情は、オッサンのくせになんとなくアンにとって眩しく思えた。
 
 
木の扉を引きあけて、サッチはそつなくアンを先に店へ入れる。
アンがおずおず足を踏み入れると、薄暗い店内の奥のカウンターの向こうですらりと綺麗な男が立っていた。
ぼんやりと白い灯りが店内を照らしているが、床に敷かれた絨毯が濃い青色なので店中が薄く青に染まっている。
まるで幽霊のように、その男は立っていた。
グラスを拭いている手がびっくりするほど白い。
男はアンが入って来たのにまったく気付いていない様子で顔も上げない。
それをいいことに、アンは思わずしばしの間男に見入った。
しかしすぐ、後ろから陽気な声が飛ぶ。
 
 
「よーう!オヒサシブリ」
 
 
さっ、立ってないで入った入った、とサッチに軽く肩を押されて、アンはおずおず中へと歩き出した。
サッチの声に反応してすいと顔を上げた長身の男は、まるで絵のように左右対称に目鼻がついていて、通った鼻筋はぴんとまっすぐ顔の真ん中にあり、切れ長の目が真っ黒で印象的だった。
こんなにきれいな人間は見たことがない。
背中に一本線を引くように垂れている髪束は女性のようだが、高い身長と何よりその見目の麗しさに目を奪われて立ち止まる女は多いだろうと思われた。
アンが男を凝視しているのに対抗するように、男もアンを捉えてじっと黙ったままだったが、それも納得できた。
美しいものはたいてい静かである。
 
男は手にしていたグラスを、カウンターの上のホルダーにぶら下げた。
 
 
「最近見ねぇと思ったら、今度は犯罪か」
 
 
凛とした見た目に反して低い声。
サッチは「バッカ、犯罪じゃねぇよ、立派なデートだ。しかも今度はってオレが前になにしたってんだ」
「羅列してほしいか?」
「…いいです」
 
 
しょぼんとしたサッチの声に思わずアンが噴き出すと、男は意外にも愛想のよい笑みを見せて、カウンター前の席を顎でしゃくった。
 
 
「立ちんぼしてねぇで座んな、そんなオッサンよりオレの方が数倍楽しい」
 
 
アンが曖昧にうなずいてサッチを振り向くと、若干しおれたように見えないでもないリーゼントを撫でつけながら、サッチは「座ろうぜ」とアンを促した。
 
 
 

 
「オレ腹減ってんだけど、お前んとこのコックは?」
「まだ来てねぇよ、こんな微妙な時間に客なんてこねぇからな」
「んだよ、店開けてんのはソッチだろ…アンちゃんなに飲む?」
「あ、えっと」
 
 
慌てて目線を彷徨わせてメニューを探したが見当たらない。
 
 
「オレは酒しか作れねぇぜ」
 
 
無駄の一切ない顔が、それに似合った淡泊な告白をした。
サッチが「飲みモンくらいできるだろー」と顔をしかめても、意に介した風もない。
 
 
「冷蔵庫の中いじるとあのガキに怒られんだよ」
「お前ほんとにオーナーかよ…」
「アン、お前さん甘いもんは食えるか」
 
 
ためらいを微塵も見せずアンの名を口にした男は、尋ねたにもかかわらず返事を待たずに背を向けて、長い足を二三歩動かして冷蔵庫の戸を開けた。
 
 
「た、食べられる、すき」
 
 
その背中に向かって返事をすると、冷蔵庫の中から目いっぱい白い何かが詰まったガラスケースを取り出して男は満足げにうなずいた。
白い冷気がその容器からすうっと煙草の煙のように立ち上る。
 
 
「うちのコックが昨日作っておいてったチーズケーキがある。売りもんじゃねぇけど、食うか?」
「ケーキ!?食べる!」
 
 
思わず子供のように勢いよく答えてしまい、ハッと気づけばサッチの物珍しげな視線を感じた。
少し気まずさをにじませて乗り出した身体を椅子に戻す。
 
 
「アンちゃん、チーズケーキ好きなんか?」
「や…うん、すき、だけど」
 
 
サッチが追求してくるのでますます萎縮する。
アンの向かいで白い手が同じくらい白いレアチーズケーキにスプーンを突き刺し、ぽこっと四角く取り出している。
ハハハ、と明るい笑い声がアンの隣で広がった。
なんで笑う、と少しむっとした顔をサッチに向けてみると、サッチは「いや、ごめん、いいじゃんと思って」と何が嬉しいのか目じりの皺を最大限に増やして言った。
 
 
「あんまり笑わねぇ娘だと思ってたからさ、なんだちゃんと元気じゃんって」
 
 
アンは目玉がぽろっと落っこちてしまいそうなほど目を見開いてサッチを見つめた。
笑わないって、笑わないって、
 
うそ、と言葉がこぼれかけたとき、カウンターの向こう側、デシャップと裏を繋ぐ扉が開いてちわーっすと気だるげな声が空気に溶け込むように入って来た。
アンとサッチは自然とそちらに目をやる。
長身の男が「おう」と応えた。
黒いエプロンの腰ひもを結びながら入って来た男は、つと視線を上げてまず客がいたことに驚いたように少し足を止めた。
そしてすぐ、アンとぱちっと視線を合わしてカクッと顎を外した。
 
 
「レ、レディがいる!!」
 
 
うるっせぇ、と長身が鬱陶しげに眉を眇めた。
 
 

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 麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
白ひげ一家を愛して12416中心に。
さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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