OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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※他CP(サンナミ)色が結構出ています。
わたしは連絡を待っていた。一週間前、もやもやと晴れない気持ちのまま別れてしまったナミさんが、まるでなんでもなかったみたいに「今日空いてる?」と電話をかけてくるのを。
一度気にし始めると、そわそわと仕事の手が落ち着かなくなる。もしもこのままあるいは、と嫌な想像をしては一人ぞっとした。
与えられたり、生み出したり、あるいは自ら手放したりすることはあっても、思いがけず何かを失うことはひどく私を消耗させる。
苛立った彼女の顔を思い出してため息が落ちた。ついでのように狂った手元が筆差しを倒し、細かな雑音を立てて何本かのペンが机の上に散らばった。電話が鳴り、私が手に取るよりも早く、向かい側から白手袋のように色のない大きな手が受話器を掴む。
「失礼」
ペルは私の目を見てそう言ってから、受話器を持ち上げた。子機を持ったままペルは手帳をめくり、几帳面な声で「はい」を三回ほど繰り返し、「承知しました、お伝えします」と言って電話を切った。
「イガラム様からですが、本日の会食にはビビ様も同席する様にと」
「なぜ? 今朝出なくていいって言われたわ」
「お相手のたってのご希望だそうです。ぜひわが社の未来を担うご令嬢とお会いしたいと」
「私は会いたくないわ」
散らばったペンを直しながらふてくされて呟いたが、ペルはわざと無視した。もういちどため息をついて、「何時?」と尋ねる。
「十八時にホテルのロビーでと。私が送りましょう」
「ペルも一緒にいて。最後まで」
「いいえ。私は終わるころにお迎えに上がります」
「いいえ。最後までいるのよ。私と一緒に」
「いいえ、それはできません」
私は短く息を吸い、「だめ」と鋭く言った。八つ当たりだとわかっている。
「急ぎの仕事はないでしょう? お父様も私と同席してるんだから。絶対よ。勝手に帰ったら許さない」
ペルはじっと私を見下ろして、しばらく押し黙ったのち「承知しました」と答えた。
その答えに安心して、私はプライベートの携帯を開く。連絡はない。当然だ。私からも特に連絡をしていないのだから、何の返事を待っているというわけでもないのだ。それにナミさんはまだ仕事の時間だろう。彼女は忙しいから、私との小さな言い争いなど忘れてしまったかもしれない。それはそれでいい気がしたが、彼女が忘れても私は忘れたりできないだろう。
ひどいことを言った。わざと傷つけるみたいに。
もう一度だけため息をついて、重い腰を上げる。
「着替えてくるわ。こんな学生みたいな恰好じゃ行けないもの」
「ええ、お待ちしております」
仕事部屋を出るとき、ちらりと振り返ってペルを見る。私の机と垂直に並んだペルの机にある大きなモニター、そこから洩れる青い光がペルの白い頬に映えて、彼もとても疲れて見えた。
*
会場の扉をペルが押し開ける。その腕にわざとすこしだけ肩を触れさせながら、個室の席へと向かった。
席は四つ。父と、取引先の相手方、そして若い男がその隣にいる。わかっていてもげんなりした。お見合い然とした四人の会話は、仕事の話の間にちょくちょくと個人的な話題を斬りこんでは私の反応を窺う相手の様子に心を殺し、ただただ出された料理を平らげることに終始する。
父に反感を買われては困るから、多少お愛想程度に微笑んで「ええ」と「いいえそんな」を繰り返す。意見を問われれば答えたが、私の向かいに座る若い男のPR的な話にはそっと口をつぐんでその場をやり過ごした。
食事が一通り終わり、デセールの前の一息ついたタイミングで中座した。個室を出ると扉のすぐわきにペルが立っていて、私が黙って通り過ぎてホテルのロビーに向かうと後ろからペルも付いてきた。
豪奢なシャンデリアが眩しい。スーツケースを持ったビジネスマンの姿が目立つ。人の行き交うロビーのソファに腰を下ろした。ひざ丈のスカートのレースを蹴り上げるみたいに足を上げて、ペルを見上げる。
「もう帰りたい」
「あと少しでしょう」
「もういや。疲れたわペル」
「子供ではないのですから。お父上はこれも仕事と立派に務められているのです」
「お父様はお見合いじみたことをしてないんだからいいわよ。私はじろじろ見られて、ご機嫌伺いされて、お稽古は何をなんて訊かれてばかみたい」
「ビビ様」
たしなめるようなペルの声にすかさず「分かってるわよ」と答えて、促されるより早く立ち上がる。
「ごめんなさいペル。本当は忙しいのに、付きあわせて」
「二時間前にそのお言葉を聞きたかった」
「それは無理よ」
毛足の長い絨毯にヒールのかかとをもつれさせないように慎重に、しかし早足で個室へと戻る。ペルは私が個室へ入る直前、少し腰をかがめて顔を近づけた。
「終わったらビビ様のお好きなところに寄り道して帰りましょう。イガラム様には私からお伝えしておきます」
「ありがとうペル大好き」
一息にそう言って、言い切るタイミングでペルが扉を開けた。ペルの脚にスカートの裾を触れさせて、私は自分の席へとにっこり微笑みながら戻っていく。
デセールのジェラートは、ストロベリーかピスタチオか選ぶよう給仕の女性が言う。ピスタチオを選んだら向かいの若い男はなぜかがっかりしたみたいな顔をして、そのことだけが印象に残って帰るころには名前も忘れてしまっていた。
「大変お疲れさまでした」
ペルが私の肩にカーディガンを羽織らせる。父に「先に帰っています」と伝え、ホテルのボーイがドアを開けた車に乗り込んだ。
「お食事はいかがでした」
「美味しかったわ」
考えることなくそう答える。運転手がいるので、今日はペルが隣に座っている。その肩にもたれかかりたい気持ちがうさぎみたいに胸中跳ねまわっていたが、こらえて少しだけ彼の方ににじり寄って座った。
「ねえ、私の携帯持ってる?」
思い出してそう尋ねると、ペルはすぐにふところから私の携帯を取り出した。わざわざ言わなくても、ちゃんとプライベート用の方を差し出してくれる。
開いて、何の連絡もないそれを確かめてまた重い気持ちがしこりのように喉の辺りに溜まり始める。
「なにかお約束でも」とペルが控えめに尋ねた。
「ううん。違うの」
ペルがその続きを待つように黙っているので、観念して私は言う。
「ナミさんとけんかしちゃった」
「けんかですか」
「取っ組み合ったわけじゃないわよ」
わかっています、とペルが少しだけ笑う。その顔を見上げた時、「あ」と思い当った。
「ねえ、寄り道していいんでしょ。行きたいところがあるの」
「ええ、しかしあまり遠いところだと」
「近くよ、ここなんだけど」
携帯で地図を示すと、ペルはその光を見下ろして目を細め、からかうように私を見た。
「先程お食事をされたばかりでは」
「ちがうのよ、ここ、夜までパティスリーが開いてるの。ケーキ、買って帰りましょ」
言ってから、なんにも「ちがうのよ」の言い訳になっていないことに気付いたが気付かないふりをして運転手に行き先を告げた。
*
住宅街、高い塀に囲まれた広い敷地の家々が並ぶ静かな通りの一角にその店はある。アイボリーの塀には看板がかかっていたが、それを照らすライトは灯っていなかった。
「やっていないようですね」
見た通りのことをペルが淡々という。
「うそお」
お店は明らかに営業していなかった。看板のライトだけでなく、エントランスも明かりが落ちている。車の窓に張り付いて目を凝らすと、店の中は明かりがついているようだったが従業員がいるだけで客は入っていないようだ。
「月曜日、お休みなのかしら」
「残念ですね」
ちっとも残念ではなさそうにペルが言う。私をさっさと家に帰したいのだ。
がっくりとうなだれる。お腹はいっぱいだったけれど、この店の美しいケーキを買いたかった。食べたかったというより、あれもこれもと買いたかったのだ。
「発車しても?」
運転手が尋ねる。頷きかけたそのとき、店の玄関扉がおもむろに開いた。
「あ」
真っ白なコックコートが、ぽかりと穴が開いたように暗い店のポーチに浮かび上がって見える。金色の髪も夜の闇に白く浮いていた。
「ちょっと待ってて」
車のドアに手を掛けると、ペルが素早く「ビビ様」と強く言う。無視して車の外に出ると、音に気付いた男性が顔を上げた。
ちょうど煙草を咥えたところだったその人は、火のつかないそれをキャンディのように口に挟んだまま私を見て目を丸くした。
あの、私、と繋ぐ言葉を考えながら口にしたら、男性は「わあお」と呟いてさっと煙草を手に取った。
「ナミさんのお友達のレディだ」
「えぇ、あの覚えて」
いらっしゃるのね、という私の言葉を遮って、男性は穏やかそうな見た目に似合わない大きな声で「もちろん!」と言った。
「可愛いレディの顔はみんな覚えてるさ。この前はありがとうよ。料理は気に入ってもらえたかな」
丁寧に頭を下げられて、慌てて手を振る。
「ええとても。あの、今日はやっぱり」
「ああ、定休日。ごめん、もしかして食事しに来てくれた?」
「いえ、ケーキを」
ああ、と男性が、サンジさんが眉を下げて首の後ろをさすった。
「ごめんな。今日は売り物にするもん用意してなくて」
「いえ、おやすみだもの当然だわ。私が知らなくて、こんな時間にごめんなさい」
何を言うつもりで車から降りたのかすっかり忘れて、私はもじもじと手元に視線を落とした。
その様子を見たサンジさんは黙って煙草を咥え直し、「よかったら」と思い出したように口にした。
「試作っつーか習作っつーか、売り物にするつもりじゃなかったやつならあるんだけど、持って帰る?」
「えっ、いえそんな」
「いいのいいの。仕込みも終わってるしあとは作ったやつ片っ端から自分で食ってくだけだから、もらってくれると嬉しいな」
「でも」
「時間あるなら店ん中でちょっと待っててよ。すぐ包むから」
サンジさんは私の返事を聞かずに踵を返す。いいのかしらと後を追いかけたら、背後から砂を踏む足音が聞こえて私とサンジさんは同時に振り返った。
「すんません、今日店休みで」
サンジさんが、私に対するのとは明らかに異なるぶっきらぼうな口調で投げるように言った。ペルは答えず、私を見ている。
「ペル、ちょっと待っててってば」
「君の連れ?」
ペルは私からサンジさんに視線を移し、じっと店の敷地と道路の際の辺りに立っている。「すぐに戻るから」と少し声を強めて言うと、ペルは「ここでお待ちしております」と硬い声で言った。
サンジさんが何か聞きたげに、でも口を閉ざしたまま私とペルを交互に見て玄関扉を開けた。
「どうぞ。あ、君の名前聞いていい? あと連絡先も」
背中に強いペルの視線を感じながら、薄明りのついた店内に足を踏み入れた。
サンジさんは私を入ってすぐのソファに座らせて、厨房と思わしき方へ戻っていった。
人気のないレストランは音が良く響く。広い店内のどこかで、金属のボウルやフライパン、食器のぶつかる音が細かい粒のように散らばっている気配がある。
「ビビちゃん、寒くない?」
すぐに戻ってきたサンジさんは、トレンチいっぱいに全部で9種類ほどのケーキを乗せて戻ってきた。選ばせてあげようというのだ。恐縮しても「どうせおれが食うんだから」と彼はにっこり笑って私の足元に跪き、目の高さにトレンチを差し出してくれた。
「いつもは持ち帰ってナミさんに食ってもらうんだけどさ。今日は会えねーし、あんまりたくさん持ってくと太るっつって怒られるし」
彼女のことを思い出したのか、そう言いながらサンジさんの顔は途端に柔らかくなった。
「全部持って帰ってもらってもいいんだけど、多いと逆に迷惑かと思って。何人家族?」
「何人……いえ、じゃあ二つ」
「それだけ? もっといいよ」
いいの、と断って、あめのような艶があるコーヒー豆の乗ったケーキと、キウイのタルトを指差した。ペルと食べよう。まださっきと同じ場所で、生真面目に突っ立っているだろうから。今日はペルを待たせてばかりだ。
サンジさんがケーキを包みにもどった隙に携帯を開き、ナミさんへのメールの画面を表示させる。『いまサンジさんの』『ケーキが食べたくなって』『前にナミさんたちと行った』書きはじめを散々迷って送れないでいるうちに、サンジさんは戻ってきて私に小さな箱を差し出した。
「ありがとう。御代を」
「いやいや、売りもんじゃねーんだって。本当もらってくれるだけでありがたいから」
「そんな、申し訳ないわ」
「いいよ。また店がやってる時間に来てくれたら」
それもそうだわ、と笑うとサンジさんも歯を見せて笑った。
店を出るとき、サンジさんは「ナミさんをよろしくね」と言った。振り返って曖昧に笑うと、サンジさんは少し不思議そうに「あれ、あんまり会ってない?」と尋ねる。
「ううん、そんなことないんだけど」
なんだか不思議な気がしたのだ。
「ナミさんによろしく」でも、私が彼に「ナミさんをよろしく」と言うのでもないことに。
手を振る彼に小さく会釈して、やはり立ち尽くして私を待っていたペルの元に駆け寄った。
「ケーキ貰っちゃった」
「お知り合いなのですか」
「ナミさんの彼氏なの。前にごはん食べに来たことがあって」
ああ、と納得したように顔を上げたペルは、玄関ポーチに立つ彼に向かって深々と一礼した。サンジさんも慌てて礼を返している。運転手が開けたドアに私が乗り込み、続いてペルが乗り込んだ。
「帰ったら部屋に来てね。一緒に食べましょう」
「ビビ様、帰りましたら私は仕事が」
「終わってからでもいいわ。遅くなってもいいから」
いえ、とペルは言ったが、そのあとの言葉は続けなかった。絵の具のついた筆を滑らすみたいに車が走る。十分ほどで家に着いて、玄関前でペルと一緒に下りた。
「では私は仕事に戻りますので」
「絶対来てね」
「ビビ様、今日はもう」
「お願い。ケーキが悪くなるわ。それにほら」
箱の中を開いて見せる。思った通り、ケーキは六つも入っていた。選んだ二つ以外にも、宝石みたいに並んでいる。持ったときからわかっていた。だって二つの重さじゃない。
「こんなにあるのよ。私ひとりじゃ食べきれない」
ペルは口を引き結び、「では」と慇懃に言う。
「二十二時までに仕事が終わりましたらお邪魔します」
「待ってる」
迎えに出た侍女にケーキの箱を渡し、冷蔵庫に入れておいてと頼む。そうこうしているうちに、いつのまにかペルはいなくなっていた。
*
二十二時半になったが、ペルはまだ来ていない。入浴を済ませ、いそいそと紅茶の準備をする。侍女にケーキを皿に移してもらい、部屋まで運んだ。二十三時近くになった頃、部屋の扉がノックされて迎えに出たらペルが立っていた。
「おつかれさま。今終わったの?」
「ええ。ビビ様も本日はお疲れさまでした」
「入って」
「いえ」
今日はこれで失礼します。ペルが几帳面にそう言う。はいはいと聞き流して、ペルの背後にある扉を無理やり閉めた。ペルの仕事が長引くことも、約束の時間が過ぎても必ず私のところに一言言いに来ることも、今日はこれで失礼しますの言葉も全部織り込み済みだ。こうして強引に私が押し切ることだって、ペルもわかっていたはずだった。
「さ、紅茶でいい? お腹がすいたでしょう」
アメジストのような薄い紫が気に入っているカップに紅茶を注ぎ、皿に乗せてきた六つのケーキの前にペルを座らせる。
取り分けようとすると「私がやりましょう」とペルが手を伸ばすので、「いいの」とぴしゃりとはねのけた。
「コーヒー好きでしょう。これでいい?」
いただきます、とコーヒーのケーキをペルが受け取る。
彼が座るソファの隣に腰掛けると、張り詰めた革がぎゅうと鳴ってペルが少しこちらに傾いた気がした。
「うん、おいしい」
サンジさんのケーキはまるでふわふわと実体のない空気みたいなのにしっとりと甘く、ときどきハッとするような仕掛けが織り込まれていて一口食べては目を見張るような美味しさだ。
おいしいでしょう、とペルの顔を覗き込むと「ええ」と彼もケーキを見つめたまま言った。
「ケーキなど久しぶりに食べましたが、これは」
「ね、別物なの。すごいの。ナミさんはいつもこんなの食べてるのね」
「羨ましいですね」
「うん、でも」
思い出してちりっと胸の奥が焼けた。
大事なものを大事だと言わない彼女を、いなくなったらそのときだと達観したふりをする彼女を、私は強く非難した。
でも、の続きを待つペルを見上げると、ペルは穏やかに私を見下ろして言葉を待った。
この人を、私はどんなに大事にしたくてもできないから、彼が私に与えてくれるものを越えることができないから、できるくせにしない彼女に苛立ったのだ。
私の気持ちと彼女は関係ない、わかっている。
「なんでもない。ねえペル」
はい、と答えたペルはあっという間にケーキ一つを平らげている。余程お腹が空いていたのかしらと思いながら、クリームの残る彼の皿に目を落とす。
「キスしたことある?」
ペルの持つフォークがかつんと皿に当たり、私が彼の顔を見るとペルの切れ長の目がほんのりと見開かれて私を見つめ返す。
逸らしたりしないのだ、どんなときでも。
「私ないの。取っておいたわけでもないのに」
「ええ」
「どう思う?」
ペルはゆっくりと皿を机に置き、足元を見て言葉を探した。
ソファに手をつくと、彼の背広の裾が指に触れた。
「ビビ様には、ビビ様のお気持ちやご事情がおありですから。大事になさればよいかと」
「ペルは」
ソファについた手にぎゅっと重心を乗せると、思いのほか体が彼の方に傾いた。
「私にキスされたら奪われたと思うかしら」
「ビビ様」
ペルがみじろぎ、私から離れようとする。
むっとするとペルもわざと怖い顔をした。
「ビビ様、失礼ながら私は、今日はあなたの我儘に付き合い尽くしているのです。このようにわざと困らせることをなさらないでいただきたい」
「よくしゃべるのね」
疲れた色のペルの顔に触れた。
何かが振り切れていた。
彼が私を大切にするように私も、なんて殊勝な思いは確かにあるのに、もうそんなことはどうでもいいからとにかくその胸に飛び込みたい、触れてほしいと焦れるみたいに叫びたくなる。
なんでって、きっと、羨ましかったからだ。
ナミさんは、考えるよりも早く、好きな人に触れたいときに触れるだろう。強く情熱的に、好きだとその目で言えるだろう。
サンジさんは私に、よろしくねと言った。私よりずっと、ナミさんに出会ってからの時間は短いはずなのに、有無を言わせぬ正しさで、「おれの」ナミさんをよろしくねと言えてしまう。
「選んで、考えてって言うから困るんでしょう。考えなくていいの、私がそうしてって言ってるんだから」
考えることを放棄して、目の前の顔だけ見て、その香りを見つけようと探してみる。冷めていく紅茶の香りが邪魔をする。
初めてのキスはどんな色だろう。
どんな味がして、どんな思いで目を閉じるのだろう。
何度も何度も夢見たそれが叶うかもしれない気配に、私は自分の唇に残るクリームの甘さを感じながら胸を膨らませて彼を見つめる。
するりと指に冷たい何かが絡まってハッとした。
革張りのソファに突っ張っていた私の指の間を這うように、別の指がゆっくりと動く。
思わず触れていた頬から手を離し、自分の手元に視線を落とした。
私の手が、と思い、そこから言葉が思いつかない。
手が、ペルのそれにすっぽりと隠される。
「ビビ様」
ふと近くでペルの声がする。あまりの近さに顔を上げることができない。
「ビビ様」
なに、と幼児みたいなか細い声で応えた。さっきまでの威勢は一体、とペルは笑いこらえているに違いないのに、一向に噴き出す気配はない。
耳元に息がかかる。
肩をすくめそうになるのを、息を止めることでこらえる。
もうペルは何も言わなかった。私の名前を呼ぶこともない。
ただ、私の耳に触れたような触れないような、よくわからないまま何かがかすめていく。
それが手に被さった温度と同じであることに気付いて、私はますます俯いて、宙に浮いた方の手をぎゅっと握り込む。
その「何か」はゆっくりとこめかみに移動して、肌をなぞるみたいにまぶたへと動いた。
呼気が、まつげを震わせる。
見知った香りが部屋中を満たしている気がする。花のような紅茶の香りも気高いケーキの甘い香りも全て飲み込んで、私の一番すきなその匂いが頭の奥に染み込んでいく。
ぼんやりと視界がかすむ。ひたいに触れた尖った感触は、すぐに離れた。それがペルの鼻先であることに気づいて、重なった手の下で私の指がぴくりと身じろぐ。
それが合図だったみたいに、ふっと香りが遠のいた。
恐る恐る顔を上げると、困ったような、私を叱ったあとのような、どこかで見たことのある顔をしたペルがいて、私は心のどこかでほっとする。
顔を上げたらペルが知らない顔をして私を見ていたらどうしようと、知らず知らずのうちにおびえていたのだ。
目を合わせたはいいものの、なんと言っていいのかわからず目も逸らせない。
ペルが口を開く気配に、どきりと身構える。
「──もう一つ頂いても?」
「え?」
「ケーキを」
えっ、と今度こそ声を上げると、ペルが視線をテーブルの上へと動かす。皿の上に並んだままの残りのケーキが、いまだ甘いにおいを撒き散らしている。
えぇ、と反射のように応えると、ペルはさっと私の手を離し、腰を伸ばしてケーキを覗き込んだ。
「どれをいただいても?」
「……どれでもいいわ」
そうですか、とペルは言い、うちひとつのミントの葉が乗ったケーキを手で掴んで皿に乗せた。
「ビビ様は?」
「私はもう」
そうですか、と再び言うと、フォークを手に取りペルは黙々とそれを口に運ぶ。
呆気にとられたように私はその姿を見上げるほかない。
あまりに黙々と食べ続けるので、つい「おいしい?」と口を突いた。
「ええ。疲れた時には甘いものと言いますし」
「そうね、疲れてるものね」
「ビビ様もいかがですか」
「私はもう」
さっきと同じ言葉を口にしかけて、目の前に差し出されたカシス色のムースに気付いて口をつぐむ。
いかがですか、とペルが再び言った気がしたが私の脳が勝手に再生しただけかもしれない。
ムースから目を離すことができないまま、そろそろと口を開いた。
そっと唇にぬるくてやわらかい甘さが触れ、撫でるように口の中に入ってくる。
冷たいフォークが舌にあたり、私が舐めとったのを確かめてからそっと出て行った。
口の中でムースを押しつぶすと、細かい泡が繊細にはじけて溶けていく。
おいしい、とつぶやくと、口からこぼれたその言葉を拾って口の中に戻してくれるみたいに、ペルが私の唇に今度は確かな質感を伴って唇で触れた。
まっすぐで高い鼻梁は、やはり私の頬にあたって窮屈そうだ。
目を閉じて、今このときを全身で感じようと耳をすますのだけど唇の感覚以外なにもわからなかった。
なにもわからない、ということだけを、触れるだけの長いキスの間何度も何度も胸の内で呟いた。
そのときはそのときよ、と言ったナミさんもこんな気持ちになるのかしらとどこか遠くの方で考えていた。
fin.
わたしは連絡を待っていた。一週間前、もやもやと晴れない気持ちのまま別れてしまったナミさんが、まるでなんでもなかったみたいに「今日空いてる?」と電話をかけてくるのを。
一度気にし始めると、そわそわと仕事の手が落ち着かなくなる。もしもこのままあるいは、と嫌な想像をしては一人ぞっとした。
与えられたり、生み出したり、あるいは自ら手放したりすることはあっても、思いがけず何かを失うことはひどく私を消耗させる。
苛立った彼女の顔を思い出してため息が落ちた。ついでのように狂った手元が筆差しを倒し、細かな雑音を立てて何本かのペンが机の上に散らばった。電話が鳴り、私が手に取るよりも早く、向かい側から白手袋のように色のない大きな手が受話器を掴む。
「失礼」
ペルは私の目を見てそう言ってから、受話器を持ち上げた。子機を持ったままペルは手帳をめくり、几帳面な声で「はい」を三回ほど繰り返し、「承知しました、お伝えします」と言って電話を切った。
「イガラム様からですが、本日の会食にはビビ様も同席する様にと」
「なぜ? 今朝出なくていいって言われたわ」
「お相手のたってのご希望だそうです。ぜひわが社の未来を担うご令嬢とお会いしたいと」
「私は会いたくないわ」
散らばったペンを直しながらふてくされて呟いたが、ペルはわざと無視した。もういちどため息をついて、「何時?」と尋ねる。
「十八時にホテルのロビーでと。私が送りましょう」
「ペルも一緒にいて。最後まで」
「いいえ。私は終わるころにお迎えに上がります」
「いいえ。最後までいるのよ。私と一緒に」
「いいえ、それはできません」
私は短く息を吸い、「だめ」と鋭く言った。八つ当たりだとわかっている。
「急ぎの仕事はないでしょう? お父様も私と同席してるんだから。絶対よ。勝手に帰ったら許さない」
ペルはじっと私を見下ろして、しばらく押し黙ったのち「承知しました」と答えた。
その答えに安心して、私はプライベートの携帯を開く。連絡はない。当然だ。私からも特に連絡をしていないのだから、何の返事を待っているというわけでもないのだ。それにナミさんはまだ仕事の時間だろう。彼女は忙しいから、私との小さな言い争いなど忘れてしまったかもしれない。それはそれでいい気がしたが、彼女が忘れても私は忘れたりできないだろう。
ひどいことを言った。わざと傷つけるみたいに。
もう一度だけため息をついて、重い腰を上げる。
「着替えてくるわ。こんな学生みたいな恰好じゃ行けないもの」
「ええ、お待ちしております」
仕事部屋を出るとき、ちらりと振り返ってペルを見る。私の机と垂直に並んだペルの机にある大きなモニター、そこから洩れる青い光がペルの白い頬に映えて、彼もとても疲れて見えた。
*
会場の扉をペルが押し開ける。その腕にわざとすこしだけ肩を触れさせながら、個室の席へと向かった。
席は四つ。父と、取引先の相手方、そして若い男がその隣にいる。わかっていてもげんなりした。お見合い然とした四人の会話は、仕事の話の間にちょくちょくと個人的な話題を斬りこんでは私の反応を窺う相手の様子に心を殺し、ただただ出された料理を平らげることに終始する。
父に反感を買われては困るから、多少お愛想程度に微笑んで「ええ」と「いいえそんな」を繰り返す。意見を問われれば答えたが、私の向かいに座る若い男のPR的な話にはそっと口をつぐんでその場をやり過ごした。
食事が一通り終わり、デセールの前の一息ついたタイミングで中座した。個室を出ると扉のすぐわきにペルが立っていて、私が黙って通り過ぎてホテルのロビーに向かうと後ろからペルも付いてきた。
豪奢なシャンデリアが眩しい。スーツケースを持ったビジネスマンの姿が目立つ。人の行き交うロビーのソファに腰を下ろした。ひざ丈のスカートのレースを蹴り上げるみたいに足を上げて、ペルを見上げる。
「もう帰りたい」
「あと少しでしょう」
「もういや。疲れたわペル」
「子供ではないのですから。お父上はこれも仕事と立派に務められているのです」
「お父様はお見合いじみたことをしてないんだからいいわよ。私はじろじろ見られて、ご機嫌伺いされて、お稽古は何をなんて訊かれてばかみたい」
「ビビ様」
たしなめるようなペルの声にすかさず「分かってるわよ」と答えて、促されるより早く立ち上がる。
「ごめんなさいペル。本当は忙しいのに、付きあわせて」
「二時間前にそのお言葉を聞きたかった」
「それは無理よ」
毛足の長い絨毯にヒールのかかとをもつれさせないように慎重に、しかし早足で個室へと戻る。ペルは私が個室へ入る直前、少し腰をかがめて顔を近づけた。
「終わったらビビ様のお好きなところに寄り道して帰りましょう。イガラム様には私からお伝えしておきます」
「ありがとうペル大好き」
一息にそう言って、言い切るタイミングでペルが扉を開けた。ペルの脚にスカートの裾を触れさせて、私は自分の席へとにっこり微笑みながら戻っていく。
デセールのジェラートは、ストロベリーかピスタチオか選ぶよう給仕の女性が言う。ピスタチオを選んだら向かいの若い男はなぜかがっかりしたみたいな顔をして、そのことだけが印象に残って帰るころには名前も忘れてしまっていた。
「大変お疲れさまでした」
ペルが私の肩にカーディガンを羽織らせる。父に「先に帰っています」と伝え、ホテルのボーイがドアを開けた車に乗り込んだ。
「お食事はいかがでした」
「美味しかったわ」
考えることなくそう答える。運転手がいるので、今日はペルが隣に座っている。その肩にもたれかかりたい気持ちがうさぎみたいに胸中跳ねまわっていたが、こらえて少しだけ彼の方ににじり寄って座った。
「ねえ、私の携帯持ってる?」
思い出してそう尋ねると、ペルはすぐにふところから私の携帯を取り出した。わざわざ言わなくても、ちゃんとプライベート用の方を差し出してくれる。
開いて、何の連絡もないそれを確かめてまた重い気持ちがしこりのように喉の辺りに溜まり始める。
「なにかお約束でも」とペルが控えめに尋ねた。
「ううん。違うの」
ペルがその続きを待つように黙っているので、観念して私は言う。
「ナミさんとけんかしちゃった」
「けんかですか」
「取っ組み合ったわけじゃないわよ」
わかっています、とペルが少しだけ笑う。その顔を見上げた時、「あ」と思い当った。
「ねえ、寄り道していいんでしょ。行きたいところがあるの」
「ええ、しかしあまり遠いところだと」
「近くよ、ここなんだけど」
携帯で地図を示すと、ペルはその光を見下ろして目を細め、からかうように私を見た。
「先程お食事をされたばかりでは」
「ちがうのよ、ここ、夜までパティスリーが開いてるの。ケーキ、買って帰りましょ」
言ってから、なんにも「ちがうのよ」の言い訳になっていないことに気付いたが気付かないふりをして運転手に行き先を告げた。
*
住宅街、高い塀に囲まれた広い敷地の家々が並ぶ静かな通りの一角にその店はある。アイボリーの塀には看板がかかっていたが、それを照らすライトは灯っていなかった。
「やっていないようですね」
見た通りのことをペルが淡々という。
「うそお」
お店は明らかに営業していなかった。看板のライトだけでなく、エントランスも明かりが落ちている。車の窓に張り付いて目を凝らすと、店の中は明かりがついているようだったが従業員がいるだけで客は入っていないようだ。
「月曜日、お休みなのかしら」
「残念ですね」
ちっとも残念ではなさそうにペルが言う。私をさっさと家に帰したいのだ。
がっくりとうなだれる。お腹はいっぱいだったけれど、この店の美しいケーキを買いたかった。食べたかったというより、あれもこれもと買いたかったのだ。
「発車しても?」
運転手が尋ねる。頷きかけたそのとき、店の玄関扉がおもむろに開いた。
「あ」
真っ白なコックコートが、ぽかりと穴が開いたように暗い店のポーチに浮かび上がって見える。金色の髪も夜の闇に白く浮いていた。
「ちょっと待ってて」
車のドアに手を掛けると、ペルが素早く「ビビ様」と強く言う。無視して車の外に出ると、音に気付いた男性が顔を上げた。
ちょうど煙草を咥えたところだったその人は、火のつかないそれをキャンディのように口に挟んだまま私を見て目を丸くした。
あの、私、と繋ぐ言葉を考えながら口にしたら、男性は「わあお」と呟いてさっと煙草を手に取った。
「ナミさんのお友達のレディだ」
「えぇ、あの覚えて」
いらっしゃるのね、という私の言葉を遮って、男性は穏やかそうな見た目に似合わない大きな声で「もちろん!」と言った。
「可愛いレディの顔はみんな覚えてるさ。この前はありがとうよ。料理は気に入ってもらえたかな」
丁寧に頭を下げられて、慌てて手を振る。
「ええとても。あの、今日はやっぱり」
「ああ、定休日。ごめん、もしかして食事しに来てくれた?」
「いえ、ケーキを」
ああ、と男性が、サンジさんが眉を下げて首の後ろをさすった。
「ごめんな。今日は売り物にするもん用意してなくて」
「いえ、おやすみだもの当然だわ。私が知らなくて、こんな時間にごめんなさい」
何を言うつもりで車から降りたのかすっかり忘れて、私はもじもじと手元に視線を落とした。
その様子を見たサンジさんは黙って煙草を咥え直し、「よかったら」と思い出したように口にした。
「試作っつーか習作っつーか、売り物にするつもりじゃなかったやつならあるんだけど、持って帰る?」
「えっ、いえそんな」
「いいのいいの。仕込みも終わってるしあとは作ったやつ片っ端から自分で食ってくだけだから、もらってくれると嬉しいな」
「でも」
「時間あるなら店ん中でちょっと待っててよ。すぐ包むから」
サンジさんは私の返事を聞かずに踵を返す。いいのかしらと後を追いかけたら、背後から砂を踏む足音が聞こえて私とサンジさんは同時に振り返った。
「すんません、今日店休みで」
サンジさんが、私に対するのとは明らかに異なるぶっきらぼうな口調で投げるように言った。ペルは答えず、私を見ている。
「ペル、ちょっと待っててってば」
「君の連れ?」
ペルは私からサンジさんに視線を移し、じっと店の敷地と道路の際の辺りに立っている。「すぐに戻るから」と少し声を強めて言うと、ペルは「ここでお待ちしております」と硬い声で言った。
サンジさんが何か聞きたげに、でも口を閉ざしたまま私とペルを交互に見て玄関扉を開けた。
「どうぞ。あ、君の名前聞いていい? あと連絡先も」
背中に強いペルの視線を感じながら、薄明りのついた店内に足を踏み入れた。
サンジさんは私を入ってすぐのソファに座らせて、厨房と思わしき方へ戻っていった。
人気のないレストランは音が良く響く。広い店内のどこかで、金属のボウルやフライパン、食器のぶつかる音が細かい粒のように散らばっている気配がある。
「ビビちゃん、寒くない?」
すぐに戻ってきたサンジさんは、トレンチいっぱいに全部で9種類ほどのケーキを乗せて戻ってきた。選ばせてあげようというのだ。恐縮しても「どうせおれが食うんだから」と彼はにっこり笑って私の足元に跪き、目の高さにトレンチを差し出してくれた。
「いつもは持ち帰ってナミさんに食ってもらうんだけどさ。今日は会えねーし、あんまりたくさん持ってくと太るっつって怒られるし」
彼女のことを思い出したのか、そう言いながらサンジさんの顔は途端に柔らかくなった。
「全部持って帰ってもらってもいいんだけど、多いと逆に迷惑かと思って。何人家族?」
「何人……いえ、じゃあ二つ」
「それだけ? もっといいよ」
いいの、と断って、あめのような艶があるコーヒー豆の乗ったケーキと、キウイのタルトを指差した。ペルと食べよう。まださっきと同じ場所で、生真面目に突っ立っているだろうから。今日はペルを待たせてばかりだ。
サンジさんがケーキを包みにもどった隙に携帯を開き、ナミさんへのメールの画面を表示させる。『いまサンジさんの』『ケーキが食べたくなって』『前にナミさんたちと行った』書きはじめを散々迷って送れないでいるうちに、サンジさんは戻ってきて私に小さな箱を差し出した。
「ありがとう。御代を」
「いやいや、売りもんじゃねーんだって。本当もらってくれるだけでありがたいから」
「そんな、申し訳ないわ」
「いいよ。また店がやってる時間に来てくれたら」
それもそうだわ、と笑うとサンジさんも歯を見せて笑った。
店を出るとき、サンジさんは「ナミさんをよろしくね」と言った。振り返って曖昧に笑うと、サンジさんは少し不思議そうに「あれ、あんまり会ってない?」と尋ねる。
「ううん、そんなことないんだけど」
なんだか不思議な気がしたのだ。
「ナミさんによろしく」でも、私が彼に「ナミさんをよろしく」と言うのでもないことに。
手を振る彼に小さく会釈して、やはり立ち尽くして私を待っていたペルの元に駆け寄った。
「ケーキ貰っちゃった」
「お知り合いなのですか」
「ナミさんの彼氏なの。前にごはん食べに来たことがあって」
ああ、と納得したように顔を上げたペルは、玄関ポーチに立つ彼に向かって深々と一礼した。サンジさんも慌てて礼を返している。運転手が開けたドアに私が乗り込み、続いてペルが乗り込んだ。
「帰ったら部屋に来てね。一緒に食べましょう」
「ビビ様、帰りましたら私は仕事が」
「終わってからでもいいわ。遅くなってもいいから」
いえ、とペルは言ったが、そのあとの言葉は続けなかった。絵の具のついた筆を滑らすみたいに車が走る。十分ほどで家に着いて、玄関前でペルと一緒に下りた。
「では私は仕事に戻りますので」
「絶対来てね」
「ビビ様、今日はもう」
「お願い。ケーキが悪くなるわ。それにほら」
箱の中を開いて見せる。思った通り、ケーキは六つも入っていた。選んだ二つ以外にも、宝石みたいに並んでいる。持ったときからわかっていた。だって二つの重さじゃない。
「こんなにあるのよ。私ひとりじゃ食べきれない」
ペルは口を引き結び、「では」と慇懃に言う。
「二十二時までに仕事が終わりましたらお邪魔します」
「待ってる」
迎えに出た侍女にケーキの箱を渡し、冷蔵庫に入れておいてと頼む。そうこうしているうちに、いつのまにかペルはいなくなっていた。
*
二十二時半になったが、ペルはまだ来ていない。入浴を済ませ、いそいそと紅茶の準備をする。侍女にケーキを皿に移してもらい、部屋まで運んだ。二十三時近くになった頃、部屋の扉がノックされて迎えに出たらペルが立っていた。
「おつかれさま。今終わったの?」
「ええ。ビビ様も本日はお疲れさまでした」
「入って」
「いえ」
今日はこれで失礼します。ペルが几帳面にそう言う。はいはいと聞き流して、ペルの背後にある扉を無理やり閉めた。ペルの仕事が長引くことも、約束の時間が過ぎても必ず私のところに一言言いに来ることも、今日はこれで失礼しますの言葉も全部織り込み済みだ。こうして強引に私が押し切ることだって、ペルもわかっていたはずだった。
「さ、紅茶でいい? お腹がすいたでしょう」
アメジストのような薄い紫が気に入っているカップに紅茶を注ぎ、皿に乗せてきた六つのケーキの前にペルを座らせる。
取り分けようとすると「私がやりましょう」とペルが手を伸ばすので、「いいの」とぴしゃりとはねのけた。
「コーヒー好きでしょう。これでいい?」
いただきます、とコーヒーのケーキをペルが受け取る。
彼が座るソファの隣に腰掛けると、張り詰めた革がぎゅうと鳴ってペルが少しこちらに傾いた気がした。
「うん、おいしい」
サンジさんのケーキはまるでふわふわと実体のない空気みたいなのにしっとりと甘く、ときどきハッとするような仕掛けが織り込まれていて一口食べては目を見張るような美味しさだ。
おいしいでしょう、とペルの顔を覗き込むと「ええ」と彼もケーキを見つめたまま言った。
「ケーキなど久しぶりに食べましたが、これは」
「ね、別物なの。すごいの。ナミさんはいつもこんなの食べてるのね」
「羨ましいですね」
「うん、でも」
思い出してちりっと胸の奥が焼けた。
大事なものを大事だと言わない彼女を、いなくなったらそのときだと達観したふりをする彼女を、私は強く非難した。
でも、の続きを待つペルを見上げると、ペルは穏やかに私を見下ろして言葉を待った。
この人を、私はどんなに大事にしたくてもできないから、彼が私に与えてくれるものを越えることができないから、できるくせにしない彼女に苛立ったのだ。
私の気持ちと彼女は関係ない、わかっている。
「なんでもない。ねえペル」
はい、と答えたペルはあっという間にケーキ一つを平らげている。余程お腹が空いていたのかしらと思いながら、クリームの残る彼の皿に目を落とす。
「キスしたことある?」
ペルの持つフォークがかつんと皿に当たり、私が彼の顔を見るとペルの切れ長の目がほんのりと見開かれて私を見つめ返す。
逸らしたりしないのだ、どんなときでも。
「私ないの。取っておいたわけでもないのに」
「ええ」
「どう思う?」
ペルはゆっくりと皿を机に置き、足元を見て言葉を探した。
ソファに手をつくと、彼の背広の裾が指に触れた。
「ビビ様には、ビビ様のお気持ちやご事情がおありですから。大事になさればよいかと」
「ペルは」
ソファについた手にぎゅっと重心を乗せると、思いのほか体が彼の方に傾いた。
「私にキスされたら奪われたと思うかしら」
「ビビ様」
ペルがみじろぎ、私から離れようとする。
むっとするとペルもわざと怖い顔をした。
「ビビ様、失礼ながら私は、今日はあなたの我儘に付き合い尽くしているのです。このようにわざと困らせることをなさらないでいただきたい」
「よくしゃべるのね」
疲れた色のペルの顔に触れた。
何かが振り切れていた。
彼が私を大切にするように私も、なんて殊勝な思いは確かにあるのに、もうそんなことはどうでもいいからとにかくその胸に飛び込みたい、触れてほしいと焦れるみたいに叫びたくなる。
なんでって、きっと、羨ましかったからだ。
ナミさんは、考えるよりも早く、好きな人に触れたいときに触れるだろう。強く情熱的に、好きだとその目で言えるだろう。
サンジさんは私に、よろしくねと言った。私よりずっと、ナミさんに出会ってからの時間は短いはずなのに、有無を言わせぬ正しさで、「おれの」ナミさんをよろしくねと言えてしまう。
「選んで、考えてって言うから困るんでしょう。考えなくていいの、私がそうしてって言ってるんだから」
考えることを放棄して、目の前の顔だけ見て、その香りを見つけようと探してみる。冷めていく紅茶の香りが邪魔をする。
初めてのキスはどんな色だろう。
どんな味がして、どんな思いで目を閉じるのだろう。
何度も何度も夢見たそれが叶うかもしれない気配に、私は自分の唇に残るクリームの甘さを感じながら胸を膨らませて彼を見つめる。
するりと指に冷たい何かが絡まってハッとした。
革張りのソファに突っ張っていた私の指の間を這うように、別の指がゆっくりと動く。
思わず触れていた頬から手を離し、自分の手元に視線を落とした。
私の手が、と思い、そこから言葉が思いつかない。
手が、ペルのそれにすっぽりと隠される。
「ビビ様」
ふと近くでペルの声がする。あまりの近さに顔を上げることができない。
「ビビ様」
なに、と幼児みたいなか細い声で応えた。さっきまでの威勢は一体、とペルは笑いこらえているに違いないのに、一向に噴き出す気配はない。
耳元に息がかかる。
肩をすくめそうになるのを、息を止めることでこらえる。
もうペルは何も言わなかった。私の名前を呼ぶこともない。
ただ、私の耳に触れたような触れないような、よくわからないまま何かがかすめていく。
それが手に被さった温度と同じであることに気付いて、私はますます俯いて、宙に浮いた方の手をぎゅっと握り込む。
その「何か」はゆっくりとこめかみに移動して、肌をなぞるみたいにまぶたへと動いた。
呼気が、まつげを震わせる。
見知った香りが部屋中を満たしている気がする。花のような紅茶の香りも気高いケーキの甘い香りも全て飲み込んで、私の一番すきなその匂いが頭の奥に染み込んでいく。
ぼんやりと視界がかすむ。ひたいに触れた尖った感触は、すぐに離れた。それがペルの鼻先であることに気づいて、重なった手の下で私の指がぴくりと身じろぐ。
それが合図だったみたいに、ふっと香りが遠のいた。
恐る恐る顔を上げると、困ったような、私を叱ったあとのような、どこかで見たことのある顔をしたペルがいて、私は心のどこかでほっとする。
顔を上げたらペルが知らない顔をして私を見ていたらどうしようと、知らず知らずのうちにおびえていたのだ。
目を合わせたはいいものの、なんと言っていいのかわからず目も逸らせない。
ペルが口を開く気配に、どきりと身構える。
「──もう一つ頂いても?」
「え?」
「ケーキを」
えっ、と今度こそ声を上げると、ペルが視線をテーブルの上へと動かす。皿の上に並んだままの残りのケーキが、いまだ甘いにおいを撒き散らしている。
えぇ、と反射のように応えると、ペルはさっと私の手を離し、腰を伸ばしてケーキを覗き込んだ。
「どれをいただいても?」
「……どれでもいいわ」
そうですか、とペルは言い、うちひとつのミントの葉が乗ったケーキを手で掴んで皿に乗せた。
「ビビ様は?」
「私はもう」
そうですか、と再び言うと、フォークを手に取りペルは黙々とそれを口に運ぶ。
呆気にとられたように私はその姿を見上げるほかない。
あまりに黙々と食べ続けるので、つい「おいしい?」と口を突いた。
「ええ。疲れた時には甘いものと言いますし」
「そうね、疲れてるものね」
「ビビ様もいかがですか」
「私はもう」
さっきと同じ言葉を口にしかけて、目の前に差し出されたカシス色のムースに気付いて口をつぐむ。
いかがですか、とペルが再び言った気がしたが私の脳が勝手に再生しただけかもしれない。
ムースから目を離すことができないまま、そろそろと口を開いた。
そっと唇にぬるくてやわらかい甘さが触れ、撫でるように口の中に入ってくる。
冷たいフォークが舌にあたり、私が舐めとったのを確かめてからそっと出て行った。
口の中でムースを押しつぶすと、細かい泡が繊細にはじけて溶けていく。
おいしい、とつぶやくと、口からこぼれたその言葉を拾って口の中に戻してくれるみたいに、ペルが私の唇に今度は確かな質感を伴って唇で触れた。
まっすぐで高い鼻梁は、やはり私の頬にあたって窮屈そうだ。
目を閉じて、今このときを全身で感じようと耳をすますのだけど唇の感覚以外なにもわからなかった。
なにもわからない、ということだけを、触れるだけの長いキスの間何度も何度も胸の内で呟いた。
そのときはそのときよ、と言ったナミさんもこんな気持ちになるのかしらとどこか遠くの方で考えていた。
fin.
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