OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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火曜日の昼に教えてもらった店へ出向くと、いらっしゃいませと爽やかな笑顔で振り返った店員が表情を固まらせた。あ、やっぱりまずかったかなと内心尻込みしながら、「こんにちは」と初めて昼間の挨拶を口にする。
「び……びびったー! 来てくれたんだ!」
「うん。時間休取れたから」
「ありがとう、席こっち」
サンジ君は、レジカウンターに差してあったメニューボードを手に取ると私の前を歩き出した。
店内は広く、ウッド調のテーブルが並ぶシックな作りになっている。テーブルにはスーツやドレスアップした人が歓談していて、結婚式の時間待ちをしているのだと容易に知れた。
入り口から入ってすぐの空間からさらに奥は、一段高いフロアになっていて、階段を上るとカウンターテーブルに椅子が並んでいた。
サンジ君は椅子を引いて私を座らせると、さっとランチメニューを開いてカウンターの内側へ回った。
店の一番奥、カウンターの隅で入り口からは見えない。一番上等な席。
「ありがとね。来てくれてすっげぇうれしい」
もう会ってくれないかと思ってた。そんな声が聞こえた気がする。実際言われたわけでもないのにそれを悟ってしまう自分に若干辟易しながら、「本当に来てみたかったんだもん」と笑ってみせた。
ランチは3種類あり、一番ボリュームの少ない日替わりを注文する。来てくれたお礼、と言ってサンジ君は厨房の目を盗むように紅茶を一杯サーブしてくれた。
「何時まで休み?」
「三時まで。職場からここまで一駅乗って、大目に見て30分前に出たら間に合うかな」
「忙しいのにありがとうな」
「お礼言い過ぎ。息抜きもしたかったし丁度よかったの」
「じゃあ、今度は職場の人とでもまた」
うん、と曖昧に頷いた。サンジ君はどこかひっかかる顔をして、でもすぐにぱっと温和な笑顔を取り戻した。
「今日も帰り、いつもと同じ時間?」
「ん、たぶん」
「そか、おれも」
照れたように、えりあしに手を伸ばす。その仕草はもう何度も見た。清潔なシャツに黒いサロン姿はよく似合っている。厨房から怒鳴るような声でサンジ君の名前が呼ばれると、彼は大仰に顔をしかめ、私に断ってから奥に引っ込んだ。
待ち合わせるわけでもなく、私たちはいつも同じ時間の同じ電車で会う。
サンジ君と出会ってから、残業も程よく切り上げて同じ時間に帰宅しているのでほぼ毎日の頻度で顔を合わせている。残業ゼロは厳しくても、早々と切り上げ続けているのは彼のせいじゃないんだけど、いっそそういうことにしてしまおうかと本気でもなく考えた。
仕事は好きだ。編集業はずっとやりたかった仕事で、配属されたジャンルは知識に不安はあったけど、よく言えば新鮮で、面白いと思った。
人と会うことにも気後れはないし、そこそこうまく立ち回りもできる。上司からの評判も良かったし、入社して3年でまだぺーぺーだけど、そこそこの信頼も積めたと思う。
ただ、職場に居場所がなかった。
一年ごとに少なからず誰かの異動はあり、新しい誰かを迎える。同じ部署には7名いて、男3の女4。私を省いたその他の女3があるとき私をはじいた。
理由はもうありふれていて、私が男の上司に取りいっただとか、取引先に色仕掛けをするだとか、主婦が読む三文小説のような稚拙な言いがかりだ。
たった3年目の私に仕事が回ってくるのは私がそれ相応の努力をしたからで、7年や8年務めているのにそれが来ない彼女たちに成果が出ないのは彼女たちの手落ちのせいだとどうしてわからない。
ただ、それを面と向かって言ってしまったのが私の3年目らしい幼さだった。今ならわかる。私は悪くないけど、幼かった。
徹底的に弾かれた。
昼食を一緒にする人がいなくなったくらいじゃへこたれない。
仕事関係の回覧が回ってこない。もちろんそれで業務に支障が出るにもかかわらず、彼女たちは平気な顔でそれをやってのけた。
指摘すると、しれっと「忘れてた」「もう知ってるかと思って回さなかった」だとかなんとでも言い逃れをした。だからってあんたたちの一存で仕事の回覧を打ち止めていいはずがない。同じいたずら──いたずらと言えるほど可愛くはないいやがらせ──が何度も続くと、もう正論で盾つくことが面倒になった。
同じ部内の男3は、もちろん異常な女たちの関係に早々気付いた。無能なバカ男ひとりは心配顔で私に近づき、ますます女たちのやっかみを買った。
上司二人は上についている人間だけあって、出先や残業で二人になったときなどにそれとなく私の様子を窺ってくれた。私が泣きつくことはないとわかっていただろうから、こちらが気付いているということだけを暗に示してくれて、泣きつけたらどんなにいいことかと歯噛みしながら笑顔で礼を言うしかなかった。
──ありがとうございます。でも私仕事楽しいんで。辞めたりしないので。
上司二人は一様にほっとして、君は悪くない、よくやっている、必ず来年には人事異動があるからそれまでがんばれと励ましてくれた。
男の上司にそれ以上のことはできないとわかるけど、励まされたからと何かが変わるわけではない。
針のむしろになって行う仕事は疲弊して疲弊して──
ある日、外回りを終えて夕方帰社した。金曜日で、月末だったこともあり、飲み会も多いのか、定時を一時間過ぎた社内にいつもより人は少なかった。
仕事場のフロアに上がってみると珍しく誰もいない。まれにあることなので、特に何も考えずパソコンを立ち上げる──と、セキュリティによってはじかれた。いつものパスワードを何度たたき込んでもシステムに入れない。
そうだ、同じ部内では、最後のひとりが総務に帰宅を告げると、その部内全員のハードがセキュリティのために封鎖される。それを解除するには、主任以上が持つ特別なピンコードが必要だ。
忘れられて、閉じられてしまったんだろうか。せっかく早くハードに保存したいデータを手に入れてきたばっかりなのに。
何気なく予定を書き込んだホワイトボードに目を遣って、顔が強張った。
青い文字で【帰社】と書いた字が、自分ではない筆跡で【帰宅】に直されている。
謎が解けた時ほど肩の力が抜けることはなく、しばらくそのまま立ち上がれなかった。予定を勝手に書き換えられて、社のハードからはじき出されて。
いつの間にこんなにこじれてしまったんだろう。修復する手間を惜しんだ私の怠惰のせいだとでも言うの。
総務に掛け合えばセキュリティは解除してもらえたかもしれないけど、結局そのままなにもせず会社を出た。総務に理由を訊かれたら面倒だということと、いい加減抗ってまで仕事をやり通すことに疲れていた。
そしてその帰り、そのときは無意識だったけどいつもより数本早い電車に乗れていた。疲れた頭が思考を止めて、ぼんやりとしているうちに最寄に着く。流れに身を任せて電車を降り、改札口へと昇るエスカレーターへと歩いているときにベンチが目に入ると、ふらふらと座り込んでしまった。
そこでサンジ君に会った。
隣に座った彼を見上げ、記憶を探る。私はその日まで、彼を彼だとは認識していなかった。既にその二日前から連日顔を合わせて言葉も交わしていたのに、失礼な話、記憶に残るほどの出会いじゃなかった。
サンジ君はいつの間にか私に向けられていた下衆な視線を蹴散らすと、連れ添って一緒に改札を出てくれた。
──いいひと。
サンジ君に抱いた感想は今も変わらない。一緒に飲んで騒ぐのも楽しかった。
真面目な顔で告白してきたのには唐突すぎて驚いたけど、それでも印象は変わらなかった。
いいひと。その評価をサンジ君が欲していないのは、よくわかっている。
15分ほど店の内装を眺めていると、ランチを持ったサンジ君が厨房のドアをくぐってカウンターの内側、私の目の前へやって来た。
「おまたせ」
サラダたっぷりのランチに、メインは白魚。スープとマリネもついている。キッシュは焼きたてでふっくらと湯気を立てていた。
ひとくち食べると、途端におなかが空いていることが自覚されるくらい、おいしい。味がはっきりしていて、サラダもメインもスープもさりげなく引き立てあう。
「おいしい!」と声をあげると、サンジ君は惜しげもなく嬉しそうな顔を見せた。
いい笑顔。
それからわりとすぐにサンジ君はまた呼び戻され、店内のあちこちで忙しく立ち働いているようだった。私は背中を向けているのでその姿は見えず、ひとりでゆったりと食事した。
思えば、肩ひじ張らずにお昼を食べたのは久しぶりかもしれない。
食べ終わった頃、デザートが出てきた。シフォンケーキとガトーショコラ。ベリーのソースが皿を彩って、チョコソースで文字が書いてあった。
それを読んで苦笑する。
「もう、こんなことして怒られないの?」
「デザートの盛り付けはもう一任されてるから。こんくらい平気平気」
得意げな顔でカウンターに手をついて、デザートを頬張る私を、食べている私より楽しそうに眺めている。
ああ、戻りたくないなあ。声に出すつもりはなかったのに、実際に出しはしなかったけど、代わりにため息がこぼれた。
怪訝そうに、というより心配顔で眉をすがめたサンジ君に、ちがうのよと言うふうに首を振る。
「仕事に戻るのが億劫で」
「ああ、そうだよな。ぎりぎりまでゆっくりしてって。紅茶、おかわりしない?」
差し出されたティーポットに、思わずうなずいてカップをかかげてしまう。
紅茶を注ぐ手元から、袖まくりをした腕、白すぎる襟、整えられた髭、ほんの少し上がった口角に伏せた目元まで辿るように見てしまった。
注ぎ切って「はい」と視線を上げた彼とおもむろに目がかちあう。
見られていたとは思わなかったのだろう、驚いて揺れる目、ほんの少し開いた口。私も自分が見ていたくせに、引き込まれるように視線を外せなかった。
サンジ君は私が視線を外さないのを見ると、揺れていた視線をゆっくりと私に据えた。その気があるなら逃さない。そう言われた気がした。
サンジ君はやさしいだろう。私がつらいと言えば諸手を広げて私を受け入れてくれる。何も知らないからこそ、余所者の寛大さで私を包んでくれるはずだ。
でもそれは今だけだ。今私は何かにすがりたいから、態よくそばにいてくれる彼が物欲しく感じているだけで、通常スタンスに戻れば忙しさにかまけてサンジ君をおろそかにしてしまう。今までの恋愛では何度も、何度も何度もそうやって関係を壊してきた。
目を伏せて彼から視線を外し、注いでもらった紅茶を口にする。二杯目もおいしかった。
「ナミさん」
顔を上げると、サンジ君はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
「帰るとき教えてね。それまでゆっくりして」
立ち去る彼の背中を、名残惜しいと思った。
予定通り二時半に店を出る。会計をしてくれたのは彼ではなかったが、店を出るときにサンジ君がやってきて「また電車で」と短く言った。
約束はできないけど、そんな面倒なことは言わず私も短く「うん」と頷く。そんなやりとりに満足したのか、サンジ君は私が来たときと同じ満面の笑みで送り出してくれた。
3時少し前に社に戻る。「もどりましたー」とどこにともなく一声かけながら席に向かうと、上司が困り顔で近づいてきた。その表情にこちらも顔を曇らせざるを得ない。なにかしでかしたっけ。咄嗟に不穏な想像がよぎる。
上司は私が担当している本の仮タイトルを口にした。
「あの主著者になる先生、2時40分ごろに来てるよ」
「え、その先生なら……」
「今日アポあるんでしょ」
「でも、4時の約束で」
そんなこと言っている場合じゃない。私は荷物を机の上に放り出し、かろうじて用意してあった書類をひっつかんで応接室へ向かった。
何度かやり取りをしたことのある年配の大学教授は、気難しいけどわからない人ではなく、仕事の話を重ねるうちに掴んだと思った著者の一人だった。
私が部屋へ駆けこむと、20分近く待たされた彼はむつりと口を閉ざし、私を見もしなかった。
彼のお茶を変えていたらしい女性社員が、私と入れ違いに部屋を出る。彼女と擦れるように視線が合った瞬間、悟った。
──やられた。
「も、申し訳ありません。お待たせしましたっ」
深く深く頭を下げる。ガラス窓の向こうから彼女たちがその姿を見ている。屈辱で、頭に昇った血が顔中を染めている気がして顔を上げられなかった。
謝り倒して謝り倒して、やっと仕事の話に持ち込めたのが3時半。もともと休みをとるつもりだったので、万一不測の事態があったらいけないと準備はしてあったのが幸いした。それでも帰社して一時間かけて詰められると思っていた気の緩みもあってか、ところどころ小さな痛いミスもあり、教授を送り出したときは疲れ切って椅子から腰が上がらなかった。
応接室の机に広がった書類を整理し、教授が手を付けなかったお茶を片づけていたら定時のチャイムが鳴る。
いつもなら、この時間から5時以降しか繋がらない著者に電話をしたり、翌日の軽い打ち合わせをしたりなんだで気付いたらいつもの電車の時間になっているのが常だが、今日はこの場に耐えていられる気がしない。
私のアポイントの時間を勝手に変えたのは誰か。いったいいつ。詰め寄ればシラを切られるに決まっている。教授の連絡先はもちろん私が保持しているデータだが、同じ部内の人間ならだれでも見られる。まさかこんなふうに使われるなんて、通常の社会人感覚ならだれが考えるだろう。同じ社内で利益を考えない足の引っ張り合いなんて、ばかばかしい。
定時に帰ったら、サンジ君には会えないな。ふと頭によぎった考えに手が止まる。いや、会えない方がいい。会ったらきっと、何かのタイミングに堰が切れてしまう。そんな姿をさらす気にはなれなかった。
デスクに戻り、上司に事の次第を報告して頭を下げる。珍しいねと労わられる声がざっくりと私を斬りつける。上司にはそのつもりはないのに、私が勝手にプライドで傷つく。きっと薄らと真相に思い当っている上司は、それでも根っから私のことも彼女たちのことも疑うことをしない。
来年になったら。異動の時期が来たら。そのときまでなるべく穏当に過ごせるように。
彼らの感覚が手に取るように分かって、救いがないなと肩を落とした。
おつかれさまです、という声がしぼまないよう、目一杯いつものようにハリを含ませて口にする。
どんなに強がっても、定時で逃げるように帰る私を見て笑う影がある。そろそろ折れそうだな、と他人事のように考えた。
『ごめん、今日は早く帰る』
あえて知らせる必要もないかと思ったけど、いつもの電車で私を見つけられなかったサンジ君がしょんぼりと項垂れる姿を想像すると、どうしても黙っていられなかった。
5時半でも帰宅者らしきサラリーマンは駅にたくさん溢れていて、ホームはいつもと同じかそれ以上に混んでいた。
明日も同じように朝が来て、仕事に行かなければいけないのだから。いつまでもへこんでいたって仕方がない。今日のは大層腐ったいやがらせではあったけど、幸い仕事に大穴を開ける羽目にはならなかった。私への嫌がらせできゅうきゅうしている彼女たちこそ、自分の仕事がおろそかになっているはずだ。私は私の仕事のことだけを考えて──
おかしくなりそうだ。
ホームに電車が滑り込んで、待っていた人々が車内に流れ込む。その様子をぼうっと眺めていると扉が閉まり、電車は行ってしまった。
人ごみの満員電車に乗るのはつらいから。次の電車、次の電車。
そう思うたびに次ぎに来る電車も満員で、都心の密度にげんなりする。
何度電車をやり過ごしても乗る気に慣れなくて、いつかのようにホームのベンチに腰を下ろす。
重たい鞄を隣の席に乗せた。そもそも鞄が重いのだって、一度ファイルを隠されて探し回ったことがあったから、持ち運ぶようになったのだ。
颯爽とサンジ君が現れて私の隣に座ったあのとき、私は随分と救われていたらしい。そう気付くと、無性に彼に会いたくなった。
丁度いいタイミングで、電車がホームに頭を突っ込んできた。
満員電車をいやがっていた足が驚くほど軽く動いて、電車に飛び乗った。
*
彼の店についたのがちょうど18時で、「close」 のプレートを提げたサンジ君が疲れた顔で入り口から出てくるところにちょうど鉢合わせた。
晩秋の18時は夜だ。初め、サンジ君は人の気配に気付かずあっさりとプレートをかけ、店のポーチに落ちていたビニールゴミを、顔をしかめて拾った。私の側からは店のライトでよく見えるのだ。
私が一歩踏み出すと、ようやくサンジ君が顔を上げる。見る見るうちに驚愕と喜びが入り混じった表情がそこに広がった。
「ナミさん……! え、ど、どして」
「ふふ」
可愛く含み笑いをして見たところで、何かが零れそうになる。「えへへ」と笑い方を変えてみると堪えられた。よし。
サンジ君は狼狽えながらも非常にわかりやすく嬉しそうで、「ちょ、ちょっと待っててすぐ片付けてくっから!」といったん店に引っ込んだ。しかしすぐに顔を出してきて、「やっぱ寒いから店ん中で待ってて!」と私を店内に引き入れる。
「閉店したんでしょ、悪いからいいわよ」
「へーきへーき、おれと店主しかいねェから」
押し切られて店内に入ると、厨房以外の灯りは落ちて昼間とは打って変わった寂しい雰囲気だ。サンジ君はレジカウンターのそばに丸椅子をひっぱりだしてきて、私をそこに座らせた。
「ちょっと騒がしいけど」と断ってから、店中のイスをひっくり返してテーブルに上げる。カウンター以外のすべてのテーブルのイスをそうしてしまうと、「よし」とサンジ君はサロンを解いた。その手ほどきに一瞬見惚れる。
「着替えてくる」
そう言って裏へと消えたサンジ君は、ものの2分ほどで戻ってきた。その間に、店の御主人と何か言いあっている声が聞こえたけど、私の前に現れたサンジ君は満面の笑顔だった。
「さ、おまたせ」
サンジ君は私がここへ来たことを、一体どう思ってるんだろう。なんにも聞かないで嬉しそうな顔で、慌てて着替えてきた私服は襟がよれている。
「うお、さみーね」
サンジ君はもう厚めのジャケットを羽織っていた。私は薄手のコートにストールで首元を隠していたけど、温かそうな彼の格好に目が行く。
サンジ君はポケットに勢いよく手を突っ込んで、「冬になっちまうなー」と空を見上げて呟いた。
「そういやさっきメール見た。わざわざ知らせてくれてありがとな」
「ううん」
結局会いに来ちゃったし。振った相手にどの面提げて、と思うと我ながらおかしかった。それでもサンジ君は気にもせず嬉しそうで、いつのまにかずいぶん私のことを気に入ってくれたらしい。
この人に優しくされたい。
ふいに突き上げた衝動に、自分の傷の深さが垣間見えた。
「──サンジ君」
「ん?」
「頭撫でて」
サンジ君が立ち止まる。私も足を止めた。人通りの多くない往来で、私たちは向かい合って黙りこくる。
ストールに口元を埋めてうつむいていると、彼の手が動いた。
ぽん、と頭に乗せられた重みがそのまま静止している。と思ったら、ゆっくりと髪をかき混ぜるように指先が動いた。
細い指。でも私のそれとは決定的に違う。
「サンジ君」
うん? ととびきり優しい声で彼が訊いた。
「抱きしめて」
頭を撫でていたのと逆の手が、私の手首を掴む。そのまま路地にひっぱり込まれ、自販機の横でぎゅっと抱き込まれた。
厚手のジャケットががさがさと鳴る。金具が顎に当たって冷たかった。顔を動かし、ちょうど良い場所に自ら収まる。ぎゅっと腕の力が強くなった。
「……いいの?」サンジ君がぽつりと訊いた。
「いいのよ」くぐもった声で答える。
「いまだけ?」
「……わかんない……」
サンジ君は私の脳天に直接吹き込むみたいに喋る。
小さな声で「ごめんね」と言うと、「いーよ」と小さく返ってきた。
サンジ君の腕の中は徐々に温かくなってきて、頬を預けると目が溶けそうに熱くなった。
がんばらなきゃ。
「──ナミさん」腕の力が少し弱くなり、サンジ君がためらいがちに口を開く。
「おれ、ナミさんなら便利な男でもいいよ」
「ごめん」とまた呟くと、大きく首を振る気配がした。
「いいんだって。便利だろうがなんだっていいから、いつでも来て。好きなように使って。だからいつかおれのこと好きになって」
うん、と答えた声は小さすぎて届かなかったかもしれない。
多分もう好きになってる。ためらいなく私を抱きしめた瞬間から、サンジ君は優しいいい人からとっくに抜け出していた。
最後に一度力強く抱きしめてから、サンジ君は私を離した。
サンジ君が照れ笑いで妙な雰囲気をごまかしたので、私も笑って「ありがとう」と言えた。
*
その日の夜は熱いお湯にたっぷりと浸かって、早く帰ったぶん頭をフル回転させて考えた。
そして次の日から逆襲のように私は動き始めた。
立ち上げすら難しいと言われて一度没になった企画を、もう一度起案し直して会議にぶちこんでやろうと目論んでいた。
一度没になったにはそれなりの理由があって、その筆頭が、著者たちがそろいもそろって企画そのものへの食いつきが悪くて原稿を出し渋ったせいだった。
もう一度起案し直してごり押せばなんとかなったのかもしれないのに、そのときは私もコスパが悪いと思ってやり抜かなかった。そしてそのままお蔵入り。
だけど時間をかけて案を練り直したら悪い企画じゃないと思えたし、なによりこれを通して名前を上げれば他部署からの引き抜きが期待できる。それが目的だった。
前々から声をかけていてくれたところがあったのだけど、そのとき断ってしまったせいもあってタイミングを失っていた。こちらから改めてその話を持ち出すのも厚顔な話ではあるんだけど、それをわかったうえで切出してみたら案外向こうも乗り気になってくれた。
「ただ、突然の引き抜きも不自然だから」
今回の企画を通せば、上からの人事考課がついて引き抜きも容易になろうという腹だ。
彼女たちの異動を待つのをやめて、私が出ていく。
逃げるんじゃない。私だけが先に行くのだ。
そう思うとずっと仕事に意味が見いだせた。
自然と会社にいる時間が短くなり、外回りに時間を使うようになった。相変わらず車内での私は女たちからはのけ者に、男たちからは腫れ物にされていたけれど、意識的に外へ目を向けるようにしていたらたいしたことではないと思えた。
なにより、歩き疲れてへとへとの足で帰りの電車に乗ればサンジ君がいた。
彼は、疲れた顔の私を大げさに心配してみせた。
「大丈夫? なんか目の色変わってね」
「平気。ちょっとね、狙ってるところがあるから仕事に力入れたくて」
「いーね、その上昇志向」
そういってサンジ君は自分のことのように嬉しそうに笑った。
まだ彼にはっきりと何かを伝えたわけでもなく、あれからもサンジ君はずっといいひとでい続けてくれている。
金曜日にはまた飲みに行って、今度は終電前にきちんと帰った。
健全な男友達みたいだと思いながら、グラスを握る手のこわばりだとか、満員電車の中で私をかばってくれる両腕だとかにいちいち動揺するようになって、私の中でも決定的に変わった気持ちが確かにあった。
実際に企画が現実的なものになり、机上に打ち出せたのが2か月後。手を組んでいたとも言える別の部署の上司から、私に正式に引き抜きのお声がかかった。
その日は折しもちょうど金曜日で、サンジ君が電車に乗ってくるまでの一駅を浮き足立って待った。
人の流れに押し込まれるように車内になだれ込んできた一軍の中にサンジ君を見つける。サンジ君も私を目に留めて、困ったような笑い方で目を細めた。
人が多すぎると、ときどき私たちは離れた場所で立ったまま視線を交わすことがある。次の駅について少し人が捌けるのを待ってから近付くのだ。
でもそのときは、私はサンジ君に会うのが待ち遠しくて待ち遠しくて、むっと顔をしかめる乗客の目をもろともせず人をかき分けるようにサンジ君の元へと近づいた。
「おつかれさま」
「おつかれさま。どしたの」
サンジ君は私の異様なほどの昂揚感に目ざとく気付いて、狭い車内で少し顔を寄せて小さな声で尋ねた。
うふふ、と含み笑いで応える。
私、サンジ君にいっぱい聞いてほしいことがあるのよ。
つらくてつらくて自分がいたたまれなかったことも、これからのびのびと叶えられそうな仕事のことも、自分本位に断った相手を今度は私から好きになったのだということも。
「あのね、今度──」
勢いよく話し始めたそのとき、がくんと身体が揺れた。
電車がカーブを描いて左に傾く。いつも通るコースだから慣れていたつもりが、興奮していたせいで気が散っていた。
ぎゅっとつり革が鳴る。たたらを踏む靴音。つんのめるように左へよろめいた私を、咄嗟にサンジ君の腕が支えた。
「あ、ありがとう」
「いんや。ここいっつも揺れるよな」
私に添えられていた手がそっと離れる。咄嗟にその手を逃がすまいと掴んだ。
愕いたように開いた目が私を見下ろす。見下ろされていることでようやく、彼がずいぶん私より背が高いことに気が付いた。いつも話すときは腰をかがめるように顔を寄せてくれていたから。
ぱっと窓の外が明るくなり、電車がホームに到達する。アナウンスが駅名を告げ、ゆるゆると景色が形をとどめて目に入り始める。
私の最寄駅だ。
手を離さない私に、困惑したようにサンジ君は何度も窓の外と私をかわるがわる見た。
空気の抜けるような軽い音と一緒に、重たい自動ドアがごーっと開く。
人並に押されて私は電車を降りる。サンジ君の手は離さなかった。
「えーと」
迷いない足取りで、人の流れは一斉にエスカレーターへと向かう。取り残された私たちは、閑散としたホームにぽつんと立っていた。
サンジ君は従順な子供のように私に連れられてまんまと電車を降りてしまい、困惑したまま不明瞭な声を発したきり続く言葉はなく、私の顔を窺った。
「……ナミさん?」
「えぇと」
気付けば私もサンジ君と同じ言葉を口にしていて、自分がまっすぐに気持ちを言葉にできるような素直さを持ち合わせていなかったことに思い当たる。
奇妙な沈黙が落ちて、いたたまれずに「飲みに行く?」と口をついていた。
「あ、うん、いく」
「じゃあこのへんチェーンとか少ないから、小さいけど私がときどき行く店が」
「じゃあ」
うん、いこう、ともごもごと言ってエスカレーターへと歩き出した。
なんで、こんな、急に恥ずかしくなるなんて知らなかった! と混乱しつつある頭が、それでもどこか楽しかった。
店に着くまでずっとどちらも手を離さなかったのがすごく、嬉しかった。
Fin.
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19時の電車に揺られる毛先を見ていた。橙色の髪色は頭頂部から毛先まで等しく一色で、綺麗に染まっている。手入れを怠らないんだろう。ふと横に目を滑らすと、扉の横に掛けられた車内広告と同じ色あった。鮮やかなオレンジ。
襟の少し広いかぎ編みのニットはあたたかそうで、人いきれのこもった電車の中では暑かろうと想像する。黒い細身のパンツは、彼女のバランスの良さをこれ見よがしに主張していた。
オフィス街から帰宅するサラリーマンでぎっちり押し固められた車内が、一駅停まるごとにゆるくほどけていく。
隣に立ったオヤジのとんがった整髪料のにおいを感じながら肩をちぢこめていたところ、ようやく自然と立っていられる余裕ができた。隣のオヤジは一つ空いたシートの端っこに滑り込むように座った。
そのとき、前に立つ彼女の存在に気付いた。
真っ黒い画用紙を張り付けたような車窓に、彼女の顔が写る。うつむいて前髪が目元にかかっているので、かたちのよい鼻筋だけが見えた。
綺麗な子だ。大学生のようにも見えるが、シンプルな服装からすると仕事帰りか。
持っている荷物に視線を移す。大きめの黒。革製のしっかりとした作り。彼女の肩が少し下がって持ち重りしているところを見ると、たっぷり中に入っているらしい。
自分の視線が、彼女の頭の先からつま先まで眺めまわしていることに思い当り、いかんいかんと視線を外す。これじゃ痴漢と言われても、罪悪感から否定がしどろもどろになる。
そのとき、ぐんと電車がスピードを落とした。
車内が一斉に左に揺れ、立っている乗客が粒のそろった人形のように同じ動きで左に傾く。ぎゅうっとつり革が鳴る。
目の前の彼女もおれと同じように左に揺れ、おれはふんばった左足でまっすぐ体勢を立て直したが、彼女はそのまま左へ小さく一歩よろめいた。
彼女は吊り革を持っておらず、左肩に賭けた荷物の重さに引っ張られたのだ。
「あ」
小さく声をあげた。彼女の声かと思ったら自分のだった。
咄嗟に差し出した手が彼女の腕を支える。黒い鞄の紐が彼女の肩から肘までがくんと落ちた。その衝撃に耐えるよう、手に力をこめる。
「大丈夫?」
「は、はい」
すみません、と小さく頭を下げてから、彼女は視線を上げた。初めて正面から目がかちあう。
「あ」
ぽかっと口をあけたおれを、彼女は不思議そうに見つめ返した。
電車がホームへ滑り込み、窓の外が途端に黄色く照らされる。降りようとする乗客が何人か、扉の前に立つおれたちのそばにわらわらと寄って来た。
「あ、ありがとうございました」
もう疲れたあ、とでも言うような気の抜ける音ともに扉が開く。他の乗客に押し出されるように、彼女は電車の外へと吐き出された。
最後に見えたのはほんの少し口角を上げた彼女の横顔で、その残像を追いかけるように人ごみに消える彼女を目で追う。遠慮なんてあるわけもなく無情に扉が閉まり、電車はまた左に傾いて動き出した。
とりあえず明日も同じ時間に乗ろう、とオレンジ色の広告を見つめながら思った。
*
閉店の18時になっても客が引かず、腰の重いマダム達にやんわりと閉店を告げることを繰り返してようやく店を出られたのが19時の15分前。
黒のサロンを外してロッカーに突っ込み、財布やらなんやらをケツのポケットに突っ込んで勢いよくロッカーの扉を閉めると反動でまた開いた。しかし放っておく。
駅まで走りながら、なんでこんなに急いでんだっけ、と首をかしげそうになったが、なにぶん走っているので頭まで酸素が回らず考えるのをやめる。どうでもいいわ。
改札を抜け、階段を駆け降りている最中ホームに電車が滑り込んできた。
ただ、昨日乗った車両は階段から20メートルほど先だ。そこが一番、最寄駅での階段に近いから。
チクショウ、と舌で転がして走るのをやめない。
ホームに辿りついたときに電車の扉が開き、待っていた数人がそわそわと車内に流れ込む。その最後の一人として、昨日と同じ扉から飛び乗った。
みっともねェ。顎が上がり、息を深く吸い、長く吐き出して呼吸を落ち着かせる。それに合わせるように扉が閉まって電車が動き出した。
店を出た瞬間から今このときまで一切止まらず走って来たのだ。
ひざ、が、おれ、そう、と心の声まで途切れ途切れになる。
「ふふ」
鼻先で笑う声に顔を下げる。かすむ視界が邪魔をする。でも、橙色の小さな頭。
「あ、きのう、の」
「こんばんは」
彼女は息を切らすおれを笑って見上げた。初めて真正面からその顔を見た。
膨らんだ前髪が車内の空調で揺れている。昨日見逃した目は、大きくて鮮やかな茶色だった。
いた、いた。
「こ、んばんは、ごめ、い、息が」
「すごい走って来たからびっくりした。足速いのね」
だめだ、やめろ、今すぐ止まれおれの呼吸。彼女の前でこんなハアハアしてたら不気味にも程がある。たとえそれが15分間全力疾走しつづけたせいだとしても。
彼女の言葉に返そうとしたが、ダメだ喋ってたらもたん、と彼女に手のひらをみせて「待って」を示す。彼女は眉を少し上げて応えてくれた。
まぬけな無言の時間を過ごしてから、ようやく口をあける。
「昨日はどうも」
「それは私の台詞でしょ。昨日はありがと」
彼女は今日も荷物がたっぷり詰まっていそうな革のカバンを提げていた。ただ、昨日の轍は踏むまいというように、一生懸命手を伸ばして右手で吊り革を掴んでいる。
扉の前のつり革は短く、彼女の腕はぴんとまっすぐ伸び切っていた。
「いつもこの時間?」
「んー、どうだろ。たまたま」
そりゃそうだ。見ず知らずの男に帰宅時間を知らせるほど軽率には見えない。ただ、会話を続ける気はあるようで「そっちは?」と尋ねられた。
「おれはいつも。バイト先が店閉めて、片づけて出るからだいたい同じ時間」
「ふーん。大学生?」
いや、と否定した矢先、扉が開いた。いつのまにか次の駅についていた。途端、さっきとは比較にならない容量の人間が車内になだれ込んできた。オフィス街ど真ん中の駅だ。
あれよあれよという間に、懸命に吊り革を掴んでいた彼女の手はそこを離れ、おれも彼女も奥へと押し込まれた。
さいわい、反対側の扉の隅に彼女を配置させることができたのですかさずその前に立ちはだかる。
「毎日のことだけど、げんなりするわね」
潜めた声で、彼女が少し背伸びをするようにおれに言う。その仕草がまるで、親しい恋人同士が内緒話をするようで無用にもときめいた。
電車が揺れるたびにぎゅうぎゅうと背中に他人の圧力が加わる。彼女は座席と扉で作られた角にすっぽりとはまっているので、安定して立っていられるようだ。
無意識のうちに、彼女に壁を作って知らん者どもがぶつかってこないようおれは両手両足を踏ん張っていた。
「あ」
「なに?」
すこし口ごもって、彼女はほんのり下唇を噛みながら恥ずかしそうに言った。
「おなか鳴りそう」
「はは、なんだ」
聞こえないよ、と笑いながら、内心なんだそれぇー!! と悶絶する。おれの知っている女子とは、腹が減ってもけして自分からお腹が減ったとは言わない生き物だった。こちらが気を回して、なんか腹減ってきたなと言いだすまで微笑んでいるものだと。
彼女の世紀末的な可愛さを前にして、おれの経験値がいかに浅はかであったかを思い知る。
「これから晩メシ?」
「うん」
じゃあ、よかったら、おれと。口をつきかけたその言葉をのみこむ。だめだ、急すぎる。が、そう尋ねておいて会話終了もいささかまずい。
彼女を見ると、ほら、おれと目を合わしてはいないが「誘われるかなー、どうだろ」的な顔をしている。「まぁ付いてかないけど」と結論が出ていることまでわかる。
無難な落としどころを探って、結局「おれも」と小学生のような会話になった。
一駅二駅と停まり、昨日と同じように乗客が減り、ついに彼女が降りた駅まで辿りついた。彼女が肩に掛けた荷物を掛けなおしたことでそれに気付く。
わきに退くと、「それじゃあ」と言って彼女は開く扉の前に近づいていった。
「あ、気を付けて」と手を振ると、彼女は笑って小さく手を振り返した。
扉が閉まってから、名前くらいさっさと聞けよクソがと膝に手をついたことは言うまでもない。
*
いつもと同じ時間の電車に、その日彼女は乗らなかった。車内にちらちらと視線を走らせて、あくまでさりげなく、しかし丹念に彼女を探したが、やっぱりいない。
毎日同じ時間というわけでもないんだろう。彼女はどうやら働いているようだし、残業だとか職場の飲み会だとか予定があるはずだ。
毎日重たい鞄を提げて満員電車に肩を縮こめながら、それでもまっすぐな背中で前を向いている彼女を目に留めてまだ三日目だ。それでも、街中にあふれる疲れた顔のサラリーマンやOLたちと彼女は一線を画しているのがわかった。
それを思い、裏表のように自分のことが同時に思い出されて口に苦いものが広がる。
自分は彼女と同じか、おそらく年上だ。にもかかわらず、「仕事は?」と訊かれたときに一瞬口がまごつく。
カフェレストランでアルバイトとして雇われている自分は、いわゆるフリーターになるんだろう。どういう経緯でそこに行き着き、何を考えてバイトでいるのかなどの詳しいことはすっぱ抜いて、世間的に見ておれはフリーターだ。
「仕事は?」と訊いた奴におれの事情まで斟酌しろというのは無茶だし、おれはおれの矜持で今の仕事についているわけで、けしてバイトの立場に甘んじているわけではないのだが、そんなことまでわかってもらわなくとも構わない。
ただ、彼女のことを思うと視線が下がった。
社会的に同じ土俵に立っていないというのは、わりとつらい。
くだらない男のプライドかもしれないが、得てしてそういうものなのだ。
電車がゆっくりとスピードを落とし、アナウンスが駅名を告げる。彼女がいつも降りる駅だった。
明日は同じ電車で会えるだろうか。ああ、でも明日は土曜だ。もし平日の会社勤めなら明日は休日で、この電車には乗らないかもしれない。
となると次に会える可能性があるのは月曜──ああ、おれが休みだ。いや構わん。バイトがなくたっておれが電車に乗りゃあいいんだ。
電話のベルのような警告音とともに、ドアが閉まる。そのとき、ホームに並んだ3人掛けのベンチの真ん中に、俯いて座る橙色の髪の長い女の子がいた。
──彼女だ。
あと15センチでドアが閉まるその隙間に、咄嗟に膝を割り込ませた。がつん、とドアが膝を噛み、渋々といった態でまた開く。おれの奇行に、周りの数人があからさまにびくっと反応したが構わず自動のドアを手でこじ開けるようにして電車を降りた。
冷ややかな視線を背中に感じながら、彼女のもとへと向かう。彼女はうなだれるように首を折り、片手で額を押さえていた。気分が悪いのかもしれない。知れずと足が早まった。
しかしあと数歩というところまで来て足が止まる。
なんと声を掛けよう。
ここは彼女の最寄であっておれのそれではないし、にもかかわらず連続三日で会うことになりゃまるでストーカーだ。
偶然を装うか。今日はここの最寄で飲み会が──無理がある、この駅の周りは確か住宅だらけだ。いっそ君が見えたから降りたと言ってしまおうか。
ふと、彼女を挟んだ向かいに目が移った。立ち悩むおれと同じように、彼女を見ている視線がある。
ニット帽をかぶった男と、黒縁の眼鏡をかけた男のふたりだ。大学生のようなざっくりとした服装をしている。改札口へと昇るエレベーター前に立って話す奴らはそっと顔を寄せ合い、彼女を見て、笑った。
カッとこめかみの辺りが熱くなり、迷う間もなくおれは彼女の元へと歩み寄ると、どかりと遠慮なく彼女の隣に腰を下ろした。
びくん、とベージュのトレンチコートを着た腕が怯える。
彼女が顔を上げたのがわかったが、その顔を見下ろすことができずに真正面を見たまま口を開いた。
「こんばんは」
「あ、で、電車の」
そう、と頷いたものの、聞こえた声に歯噛みしそうになる。彼女の声はどこか湿っていて、横目に映る頬は赤らんでいた。
「寒いだろ、ここは」
「そう……そうね」
「ああいう連中もいることだし、場所変えませんかね」
ちらりと視線を移すと、彼女もつられたようにそちらを見た。おれとまともに目の合ったニット帽が、すかさず顔を背ける。ふん、と思わず鼻息が荒くなった。
「──気付かなかった」
「だろうな」
答えてから、もしかして「おれに」という意味だろうかと危ぶんだ。しかし「だろうな」と答えたおれに、彼女は不本意そうに少し眉根を寄せた。そのとき初めてまともに彼女の顔を見て、ぎゅっと喉がつまる。
──あぁ。
おれが腰を上げると、彼女も鞄を掴んで立ち上がった。ニット帽と眼鏡に背を向けて改札行きのエスカレーターに乗る。
彼女を先に乗せ、一段空けて後ろに続いた。
「ねぇ」振り返らずに彼女が言った。
「なんで、ここに」
「電車の中から君が見えた。気分でも悪いのかと思って」
改札階に辿りつき、トンと一歩を踏み出す。
横並びで改札を抜けて、自然に彼女が曲がったのと同じ方へ足を向けた。
「あのね」
「うん?」
「ナミっていうの」
「え」
「私。あなたは?」
あ、ナミ、ナミさん。おれ、おれはサンジ。たどたどしくそう言うと、彼女──ナミさんは小さく笑って、「ありがとうね」と言った。涙に焼けたあとはいつのまにかわからなくなっていた。気のせいだったのかと思うくらい綺麗に。
「一緒に下りてくれたおかげで、変なのに捕まらずに済んだわ」
「ん、ああいうの、よくあるの?」
んー、そうでも、と答える彼女は迷いなく角を曲がり、一つの出口へと向って行く。勝手に、よくあるんだろうなきっと、と想像した。なにしろこんな美人だ。
重たい鞄を肩に提げたまま両手をコートにポケットに突っ込んで、彼女は確かな足取りで階段を上る。
「私、今日も夕飯まだなんだけど。サンジ君は?」
「おれも、まだ」
訊かれるがままに答えて、一瞬ぼーっとして、呆けている場合かと自分で自分のケツを叩くように目が覚めた。
「あ、メシ。よかったら、一緒に。っていうかこの辺全然わかんねェんだけど」
しどろもどろになりながらそう言うと、ナミさんは肩を揺らして、笑った顔はオレに見せずに、「奇遇ね」と言った。
「私もいま、誘おうと思ってた」
駅近においしい洋食屋さんがあるの、とショートブーツのかかとを鳴らしながら彼女は言う。その足音がさっきよりも沈んでいないように聞こえて、なんで泣いてたのかとか聞きそびれたこともどうでもよくなった。
*
「こんばんは」
「こんばんは。おつかれさま」
「ナミさんも」
電車の中で落ち合うたびに、彼女はおれを見上げて屈託なく笑うようになった。
彼女が休みの土日は会えない。おれが休みの日は不規則だが、その日も会えない。シフトも入ってないのに無理して電車に乗るのはやめた。
会える日に、会えるからこそ、自然と口から滑り出る決まりきったあいさつが心地いい。
「今日はちょっと人少ないわね」
「あー、金曜だからな。飲みに行ってまっすぐ帰んねェんじゃねぇかな」
「あ、なるほど」
「ナミさんは? そういうのねーの?」
「あんまり行かないけどね、たまにはあるわよ」
ふうんと相槌を打って、「じゃあさ」と朝から何度もシュミレーションした台詞を舌にのせる。
「今からちょっと飲みにいかね? 次の駅に好きな店があんだ」
おれの趣味でよければ、と咄嗟に口から滑り出たそれは遠慮のようでいて、断られた時や幻滅された時の無意識の予防線だ。
ナミさんはあっさりと「いいわね」と言ってくれた。
よっしゃ、と小さく決めたガッツポーズの肘が後ろに立つ人の背中に当たり、あ、すんませんと背中越しに謝る。なんともきまらない。
先週の金曜に、初めて彼女と夕食を共にした。彼女がうまいと言った店はこじんまりとした個営業の洋食屋で、昼には古き良きケチャップのオムライスなんて出す喫茶店をしていそうなレトロな様子。しかし彼女が言った通り、料理はうまかった。
ナミさんはミートソースのラザニアにサラダとスープのセットを、おれはボンゴレのパスタにサラダとスープ、パンもつけた。食事を頼んだ後、彼女が迷いなく店員に赤ワインを注文した。
「サンジ君は?」
「あ、じゃあおれは白で」
咄嗟に頼んでしまったが、キツくないのだといいなと情けなく考えていた。すぐに顔が赤くなるから。
届いたワインで軽く乾杯する。グラスをつまむ仕草まで、まじまじと見てしまう。
「んーおいし」
一口舐めたワインを、いとおしげに見下ろして彼女は微笑んだ。長い睫毛の影が頬に落ちる。うっとりと見惚れていて、「そっちは?」と訊かれた声に必要以上にまごついた。慌てておれもグラスに口をつける。
「ん、うまい。ぶどうの風味が濃い」
「今日はちょっと飲みたい気分だったから、ちょうどよかった。一人のご飯もつまんないしね」
その言葉に、おれが彼女の必要となれたことが裏付けされた気がして救われる。少なくとも、毎日出会う怪しい奴というレベルから抜け出せた気がする。
酒の力を借りて、一歩踏み込むことにした。
「どんな仕事してんのか、聞いてもいい?」
「もちろん。出版社よ。編集のしごと」
「へぇ。いそがしそうだ」
「うん。でもね、私の部署は専門書、それも科学、生物分野」
物珍しさから目が丸くなる。その表情を見抜いて、ナミさんは子どもに見せるような優しい目をした。
へえ。顔には出さずに胸で呟く。少しお姉さんみたいな顔。あたらしい、と素直にうれしくなる。
「きらびやかなファッション誌とか、今を時めく文学なんかとちがって地味で本屋さんなんかでも埃被っちゃうこともまあ多いんだけど、それでも需要はあるの。大学の先生や、企業の研究者なんかのところに出向いて話を聞いたりね」
「カッコイイね。好きなんだ」
うん、と彼女はてらいなく頷いた。
「サンジ君は?」私の次はあなたの番、とでもいうようにナミさんはおれを見た。話を聞きながらこの展開を半ば覚悟していたので、すんなりと口が開いた。
「カフェで働いてる。店が18時に閉まるから、いっつもあの時間の電車で」
「へー、バリスタ?」
「や、本当はメシ作る方やりたくて」
そっか、じゃあ修行中なのね、とナミさんは笑った。そのまま口を閉ざしてワインを飲む。
この子は。
おれに全部を言わせなくても、与えられた情報から口にしていいことを瞬時に選んで話している。
──バイトなんだ。お店で料理のお手伝い? いつか自分の店持ちたいとかいう、夢? がんばって。
他人だからこそ軽く、きつく言えば無責任に口にされるそれは何一つ間違っていなくて、でも言われるたびにおれのどこかが傷つく。それがプライドなんてくだらないものでも、傷は沁みる。
だからそれらを一切口にせず、上にも下にも評価しない彼女の姿勢は新鮮で、心地よかった。
「どこにあるの? お店」
訊いてから、「あ、あの駅の近くか」とナミさんはひとりでに了解した。
「うん、でも駅から結構遠くて。歩いて15分くらい」
「今度行きたいな。いつが休み?」
「月曜日。よかったら仕事が休みの日にでも」
うん、お店の名前教えて、と言う彼女に店の名前を告げる。口先だけじゃないんだと、またぞろ嬉しくなる。
そこに料理が運ばれてきて、夜も8時近くなり腹をすかせたおれたちは、わりと色気なくガツガツとメシを食った。
彼女の食いっぷりもまあ良くて、おいしそうに頬張る表情がずっと目に焼き付いていた。
いつかおれの料理で。そんなことを思うのも無理はない。
その日を境に、なんとなく打ち解けたような気がして、幸い彼女の方も一線警戒のラインをひっこめてくれたようで、次の火曜から金曜まで毎日同じ電車だ。
一日に話せるのは、おれが電車に乗って彼女が降りるまでのほんの十数分。
周りの目もあって、目どころかぎゅうぎゅうの電車の中じゃろくに落ち着いて話もできないが、同じ苦痛を共有していることにすら喜びを感じてしまう。
初めて同じ駅で電車を降りる。まるでこれから一緒に帰るようで、胸が高鳴る。ナミさんは平然な顔で足取り軽いところを見ると、この展開に対して特に思うところもないみたいだ。安心するような、ちょっと残念なような。
「どんな店?」
「スポーツバーなんだ。こないだ、一昨日だっけ? 話してただろ、サッカーチームの。それでナミさんも嫌いじゃねェかなーと思って」
「へぇ。あんまり行かないから、面白そう」
よかった、と本音がそのまま滑り出る。
都心部から少し外れた夜の街は、程よくおれたちを喧騒に紛れさせてくれた。
*
「い、け──っ!!」気持ちよく二人の声が重なる。
天井の隅に取り付けられた42インチのテレビに緑のフィールド、そこに小さな青い影がちらちらと横切る。その動きを目で追っかけて、ナミさんはこぶしを振り上げて声を張った。
店内は同じチームのサポーターたちが一様に盛り上がり、異様な熱気を発しながら一種の一体感に包まれ、おれたちもまんまと彼らと仲良く酒盛りしながらテレビに釘づけだ。
「あ、だめだめ、ああん」
「おら、そこだっ、いけっ」
「だぁ──っ!」二人同時に頭を抱えた。
「ありえないよねえ、今の」
「あぁ、ありゃ間違いねェ。レフリー買収されてんじゃねェだろうな」
「もう、ああ、ハーフタイム」
甲高い笛の音と共に、店内の客たちの肩が落ちる。一点に集まっていた視線がばらばらとほどけて、思い出したように注文する声があちこちから聞こえた。
ナミさんも握りしめていたジョッキをぐっと呷って、はぁと旨そうに息をつく。白い喉がやけに光ってみえた。
「ふふ」
「なに?」
「サンジ君、顔まっか」
「あ、あぁ、おれすぐ赤くなるんだ」
「興奮しすぎたのかと思った」
そういう彼女は素面と全く変わらない顔色で、いや、少し頬は赤らんでいるか。でもそれも、熱狂的な応援のせいだろう。
「かわいいなぁ」
俯いてピスタチオの顔を剥いていたナミさんは、おれの言葉で小さな丸いテーブルから顔を上げた。
その真顔に、おれは「え?」と答えた。「なに?」とナミさん。
「おれ、なんか言った?」
ナミさんは少し考えるように首を傾け、まぁいいやというふうに首を振った。
「ねぇねぇ、私は明日休みだけど、サンジ君は仕事でしょ。遊んでていいの」
「いーのいーの。おれ朝あんまり早くないから」
「タフねぇ」
「毎日遊び歩いてりゃアレだけど、たまのことだし」
そっか、とナミさんは薄く笑った。
「休みの日とか何してんの?」グラスを見つめながら訊いてみる。
「んー。生活品の買い物とか、掃除とかしてたら終わっちゃうなあ。次の日休みだと思うと夜更かししちゃっうこともあるし、友達の家遊びに行くこともあるわね」
その友達って、男? 聞けるはずもなく、ふうん、と相槌をうつ。
「仕事で忙しいとさ、休みの日に遊ぶぞーってならねぇんだよな。休みだ、休まねぇとってゆっくりしちまって」
「そう! わかる!」
「んで毎週同じような休日ばっかで、つまんねってなる」
「そうなのよねー。なんか楽しい趣味でもあるといいんだけど」
趣味か、と相槌を打つ。おれはこうして、週に一回でも彼女と二人で過ごす時間が作れたら、その次の一週間はフル稼働できる自信があるんだけど。
それもあいにくおれたちの休日は噛み合わないから、またこんな機会があるとしても、こうして仕事終わりの一杯になるだろう。
──今更だけど、まさか。彼氏いねェよな。
思いつくと、まさに身の毛もよだつといったふうに足の先がすっと冷たくなった。
男がいたらこんなふうにおれと飲みに付き合ってくれねェよな。自分を安心させる言葉をかけ、でも、と考える。
おれは男の範疇に入れてもらえてすらいないのだろうか。
彼女の交友関係が一切わからないからこそ、彼女が男友達とどんな距離の取り方をするのか全く想像がつかない。
まだ出会って2週間も経っていない。ナミさんはそんなことを考えさせないあけすけな笑顔を見せてくれるから、まるで旧知の仲──いや言い過ぎた。親しい飲み友達的な会話のテンポだ。
でもおれは、彼女の仕事内容も、友人関係も、単純な生活のことも、何も知らない。
まだ、これからだよな。自分に言い聞かせ、いつか手に入れたい彼女を見据える。
「あ、ハーフタイム終わった」
新しいドリンクを店員から受け取って、彼女の視線が他の客たちと同じようにまたテレビに集まった。
「さっ、巻き返さなきゃ」
「すげぇファンになっちゃったね。一日で」
「にわかでごめんねー」
「いんや、うれしい」
ナミさんは猫のようにニッと目を細くして笑った。
それからのおれたちは前半戦と同じく、こぶしを振り上げ、声を張って、ときには近くの客と肩を組んでテレビに向かって声援を送った。
ナミさんはノリよく誰ともそつなく会話をこなし、たっぷりとスポーツバーの空気を楽しんでいるようで安心した。
しかしそんなことを考えてぼんやりしていると、他の客やナミさんに「ほらしっかり見て!」とどやされるので、いつしかおれもテレビにのめり込んでわいわいと騒いでいた。
*
「あ、終電」
試合が終わったタイミングで、ナミさんが呟いた。彼女の目の動きにつられて、自分も左腕に目を落としたがそこに時計はなかった。水仕事が公私ともに多いので、付ける習慣がない。咄嗟に店内に視線を走らせ、掛け時計で時間を確かめた。
いつのまにこんな、と呟いてしまう。日が変わる5分前だ。ここから駅まで10分、地下鉄の階段を降りて、少し地下道を歩いたらもう間に合わない。
「ごめん」
思わず謝ると、ナミさんは「何謝ってんの」と呆れた顔をした。目じりが下がっている。彼女も騒ぎ疲れて、少し酒がまわったのかもしれない。
「まーお店も0時閉店みたいだし、出よっか」
会計を済まして外に出ると、夜風が途端に足元をすくった。
ひゃーさむい、とナミさんが首をすくめる。
なんとなしに駅に足を向けながら、歩き始めた。もう間違いなく終電には間に合わないのに。
「楽しかったわねー」
「な、勝ったし」
「それね! 勝ったし!」
やっぱり勝負事は勝たなきゃ、と呟く彼女は男らしい。
「どうする、タクシーでも拾おうか」
「やだ、もったいない。歩くわよ私」
「ここから!?」
思わず声を高くすると、ナミさんは歯を見せて笑った。コートに襟に顎を隠すように夜風から顔を守りながら、「酔い覚ましにいいじゃない」
「付きあう? 私の方が先に着いちゃうけど」
そんなことを言われて、ここで別れる馬鹿がいるだろうか。
ここから彼女の最寄まで三駅、おれの最寄までさらに二駅。着くころには一体何時になるのだろう。
「あ、でもサンジ君明日仕事なんだった。やっぱタクシー」
「いや! 大丈夫、歩こうよ」
ナミさんは少し考えるようにおれを見上げ、「そ」と前を見て歩き始めた。
飲み屋の連なる通りを抜け、シャッターの閉まった百円ショップや花屋の軒先を歩く。看板も出ていない飲み屋の灯りをときおり通り過ぎると、炭火のいい匂いがした。
商店街を抜けると、広い国道に出る。この下をずっと地下鉄が通っているのだ。だからこの道沿いに歩いていけば、次の駅に着く。
歩道は広くて歩きやすく、おまけに人が少ない。オレンジ色の街灯が舗装された道と、おれたちを照らす。ふたりぶん、巨大な影が伸びていた。
「きれいな夜ね」
ナミさんが伸びをするように少し上を見上げて言う。
何を見つけたんだろうと目線の先を追いかけたが、ひたすら似たような道が続いているだけだ。空は少し雲が多く、街明かりで星は見えない。月は頭の後ろの方にあるようで、振り返って確認したがラグビーボールのような中途半端な形をしていた。
「仕事は楽しい?」ふいに彼女が尋ねた。
「まぁ、好きでやってるからなぁ。バイトの身分で融通が利いて楽だけど、もっと作る方に身を入れてェなあ」
酔ったせいか、弱音のような愚痴なような言葉がこぼれ出る。彼女相手になにを情けない。
しかしナミさんは、興味深そうに相槌を打った。「具体的にどんなことしてるの?」
「基本的にはサーブばっかだな。デザートはときどき作らせてもらうけど、ランチなんかのメインは盛り付けすらやらせてもらえねェ」
「ねぇ、サンジ君がはたいてるカフェって、もしかしていいとこ?」
「いいとこって?」
「だってカフェって、もっとざっくばらんとしてて、大学生のアルバイト君がマニュアル通り盛り付けてたりするんじゃないの?」
「あーたしかに、そういうとことは違うかも」
いいとこかはわかんねェけど、と苦笑がこぼれる。身内のことを話すような気恥しさがある。
「結婚式場と併設してんだ。披露宴のあとの二次会とかよくやってる」
「なんだ、やっぱりいいとこじゃない」
「全然。普通にお茶のみに来てくれて構わねェからさ」
来てよ、と漏らした声は半ば懇願するみたいに響いた。
その切実さに引かれやしなかったか心配になり、彼女の顔をちらりと窺う。形のよい唇が「うん」と動いた。
「はい、一駅目到着―」
地下鉄のりばへと続く階段口を通り過ぎ、彼女が楽しげな声で宣言する。足を止めずにそこを通り過ぎる。彼女の駅まであと二駅。
「ナミさんは? 仕事、どう?」
「うん、たのしいよ。私も好きでやってるし、合ってると思う」
そりゃあむかつくことは死ぬほどあるけど、とぽつんと落とすが、その顔は暗くない。
「だから先週、サンジ君がかっこいいねって言ってくれたの嬉しかった」
「え?」
思いもよらない言葉に、聞こえたくせに聞き返す。だって、と彼女は言葉を続けた。
「専門書って、それも科学に生物って、なにそれって感じでしょ。編集者って言ったら、小説家を捕まえて書けーって原稿奪ったり、ファッションの流行を押さえに街にスナップ取りに行ったり、そういうのじゃない?」
「──それも随分偏ってるような」
「でも私は、実際に自分がなる前そう思ってたから。だから自分はそういうことがしたいんだと思ってたのよ」
車のほとんど通らない国道を、気持ちの良いほど法定速度をぶっちぎったスピードで車が通り過ぎる。おれたちのもとにとどこおった残響が消えるのを待って、ナミさんは言う。
「偏った理想とはいえ思い描いてた仕事とは随分違ったけど、すごくいい。もちろん大変だけどね」
──やっぱめちゃくちゃかっこいーじゃねぇか。
急に、暴発するみたいに気持ちがとめどなく溢れた。
まだ出会って数週間だ。もっと話をしたい。彼女のことを知って、知ってもらって、それから、それから──悠長にそんなことを考えていたくせに、ぶっ飛ぶときは一瞬だ。
好きだ。ナミさん。
「君が好きだ」
は? 返ってきた返事はそれだった。
「どうしたのサンジ君」
目を丸くしたナミさんは、おれを見上げながらも変わらず足を止めない。
おれは一瞬止めかけた足を、慌てて彼女に合わせて動かした。
「どうしたもこうしたも……ナミさんが好きだ」
「やだ、まだ会ったばっかなのに」
冗談にお愛想で笑うみたいに、ナミさんは口の中で笑いながら前を見て歩き続けた。
や、ちょ、まじで、とおれはみっともなく言葉をつぐ。ここまで相手にされないとは。
「本気だ。本当はナミさんを見つけた瞬間から思ってたけど、会って、話してるうちにますます好きになった」
気持ち足早になったナミさんは、「うーん」とあくまで軽い口調で唸る。
「嬉しいけど……」
嬉しいけど。そのあとに来るのは間違いなく否定だ。がくっと折れそうな膝を奮い立たせて続きを待った。
「サンジ君とは友達でいたいかな。ごめんね」
はい、二駅目。
彼女の視線の先、まだ遠いが、二駅目の灯りが見えた。
言葉を失ったおれをナミさんは覗き込み、「やっぱり訂正」と突然言った。
「ごめん、サンジ君とはっていうのは嘘。サンジ君と友達でいたいのは私の事情で、サンジ君の事情はなにひとつ関係ない。私は今、そういう関係の人はほしくないの」
ほしくないとまでばっさり切られたくせに、図々しいおれの思考は言葉尻をつかんだように猛然と食いかかった。
「てことは、彼氏がいるわけでは」
「ない」
なんだ、そうか。
一安心してから、でもおれ振られたんだった、とまぎれもない事実がどんとのしかかる。
「はあぁ」
「ごめんねー」
重たいおれのため息を、ふっと軽い息で吹き飛ばすようにナミさんは言った。
→
19時の電車に揺られる毛先を見ていた。橙色の髪色は頭頂部から毛先まで等しく一色で、綺麗に染まっている。手入れを怠らないんだろう。ふと横に目を滑らすと、扉の横に掛けられた車内広告と同じ色あった。鮮やかなオレンジ。
襟の少し広いかぎ編みのニットはあたたかそうで、人いきれのこもった電車の中では暑かろうと想像する。黒い細身のパンツは、彼女のバランスの良さをこれ見よがしに主張していた。
オフィス街から帰宅するサラリーマンでぎっちり押し固められた車内が、一駅停まるごとにゆるくほどけていく。
隣に立ったオヤジのとんがった整髪料のにおいを感じながら肩をちぢこめていたところ、ようやく自然と立っていられる余裕ができた。隣のオヤジは一つ空いたシートの端っこに滑り込むように座った。
そのとき、前に立つ彼女の存在に気付いた。
真っ黒い画用紙を張り付けたような車窓に、彼女の顔が写る。うつむいて前髪が目元にかかっているので、かたちのよい鼻筋だけが見えた。
綺麗な子だ。大学生のようにも見えるが、シンプルな服装からすると仕事帰りか。
持っている荷物に視線を移す。大きめの黒。革製のしっかりとした作り。彼女の肩が少し下がって持ち重りしているところを見ると、たっぷり中に入っているらしい。
自分の視線が、彼女の頭の先からつま先まで眺めまわしていることに思い当り、いかんいかんと視線を外す。これじゃ痴漢と言われても、罪悪感から否定がしどろもどろになる。
そのとき、ぐんと電車がスピードを落とした。
車内が一斉に左に揺れ、立っている乗客が粒のそろった人形のように同じ動きで左に傾く。ぎゅうっとつり革が鳴る。
目の前の彼女もおれと同じように左に揺れ、おれはふんばった左足でまっすぐ体勢を立て直したが、彼女はそのまま左へ小さく一歩よろめいた。
彼女は吊り革を持っておらず、左肩に賭けた荷物の重さに引っ張られたのだ。
「あ」
小さく声をあげた。彼女の声かと思ったら自分のだった。
咄嗟に差し出した手が彼女の腕を支える。黒い鞄の紐が彼女の肩から肘までがくんと落ちた。その衝撃に耐えるよう、手に力をこめる。
「大丈夫?」
「は、はい」
すみません、と小さく頭を下げてから、彼女は視線を上げた。初めて正面から目がかちあう。
「あ」
ぽかっと口をあけたおれを、彼女は不思議そうに見つめ返した。
電車がホームへ滑り込み、窓の外が途端に黄色く照らされる。降りようとする乗客が何人か、扉の前に立つおれたちのそばにわらわらと寄って来た。
「あ、ありがとうございました」
もう疲れたあ、とでも言うような気の抜ける音ともに扉が開く。他の乗客に押し出されるように、彼女は電車の外へと吐き出された。
最後に見えたのはほんの少し口角を上げた彼女の横顔で、その残像を追いかけるように人ごみに消える彼女を目で追う。遠慮なんてあるわけもなく無情に扉が閉まり、電車はまた左に傾いて動き出した。
とりあえず明日も同じ時間に乗ろう、とオレンジ色の広告を見つめながら思った。
*
閉店の18時になっても客が引かず、腰の重いマダム達にやんわりと閉店を告げることを繰り返してようやく店を出られたのが19時の15分前。
黒のサロンを外してロッカーに突っ込み、財布やらなんやらをケツのポケットに突っ込んで勢いよくロッカーの扉を閉めると反動でまた開いた。しかし放っておく。
駅まで走りながら、なんでこんなに急いでんだっけ、と首をかしげそうになったが、なにぶん走っているので頭まで酸素が回らず考えるのをやめる。どうでもいいわ。
改札を抜け、階段を駆け降りている最中ホームに電車が滑り込んできた。
ただ、昨日乗った車両は階段から20メートルほど先だ。そこが一番、最寄駅での階段に近いから。
チクショウ、と舌で転がして走るのをやめない。
ホームに辿りついたときに電車の扉が開き、待っていた数人がそわそわと車内に流れ込む。その最後の一人として、昨日と同じ扉から飛び乗った。
みっともねェ。顎が上がり、息を深く吸い、長く吐き出して呼吸を落ち着かせる。それに合わせるように扉が閉まって電車が動き出した。
店を出た瞬間から今このときまで一切止まらず走って来たのだ。
ひざ、が、おれ、そう、と心の声まで途切れ途切れになる。
「ふふ」
鼻先で笑う声に顔を下げる。かすむ視界が邪魔をする。でも、橙色の小さな頭。
「あ、きのう、の」
「こんばんは」
彼女は息を切らすおれを笑って見上げた。初めて真正面からその顔を見た。
膨らんだ前髪が車内の空調で揺れている。昨日見逃した目は、大きくて鮮やかな茶色だった。
いた、いた。
「こ、んばんは、ごめ、い、息が」
「すごい走って来たからびっくりした。足速いのね」
だめだ、やめろ、今すぐ止まれおれの呼吸。彼女の前でこんなハアハアしてたら不気味にも程がある。たとえそれが15分間全力疾走しつづけたせいだとしても。
彼女の言葉に返そうとしたが、ダメだ喋ってたらもたん、と彼女に手のひらをみせて「待って」を示す。彼女は眉を少し上げて応えてくれた。
まぬけな無言の時間を過ごしてから、ようやく口をあける。
「昨日はどうも」
「それは私の台詞でしょ。昨日はありがと」
彼女は今日も荷物がたっぷり詰まっていそうな革のカバンを提げていた。ただ、昨日の轍は踏むまいというように、一生懸命手を伸ばして右手で吊り革を掴んでいる。
扉の前のつり革は短く、彼女の腕はぴんとまっすぐ伸び切っていた。
「いつもこの時間?」
「んー、どうだろ。たまたま」
そりゃそうだ。見ず知らずの男に帰宅時間を知らせるほど軽率には見えない。ただ、会話を続ける気はあるようで「そっちは?」と尋ねられた。
「おれはいつも。バイト先が店閉めて、片づけて出るからだいたい同じ時間」
「ふーん。大学生?」
いや、と否定した矢先、扉が開いた。いつのまにか次の駅についていた。途端、さっきとは比較にならない容量の人間が車内になだれ込んできた。オフィス街ど真ん中の駅だ。
あれよあれよという間に、懸命に吊り革を掴んでいた彼女の手はそこを離れ、おれも彼女も奥へと押し込まれた。
さいわい、反対側の扉の隅に彼女を配置させることができたのですかさずその前に立ちはだかる。
「毎日のことだけど、げんなりするわね」
潜めた声で、彼女が少し背伸びをするようにおれに言う。その仕草がまるで、親しい恋人同士が内緒話をするようで無用にもときめいた。
電車が揺れるたびにぎゅうぎゅうと背中に他人の圧力が加わる。彼女は座席と扉で作られた角にすっぽりとはまっているので、安定して立っていられるようだ。
無意識のうちに、彼女に壁を作って知らん者どもがぶつかってこないようおれは両手両足を踏ん張っていた。
「あ」
「なに?」
すこし口ごもって、彼女はほんのり下唇を噛みながら恥ずかしそうに言った。
「おなか鳴りそう」
「はは、なんだ」
聞こえないよ、と笑いながら、内心なんだそれぇー!! と悶絶する。おれの知っている女子とは、腹が減ってもけして自分からお腹が減ったとは言わない生き物だった。こちらが気を回して、なんか腹減ってきたなと言いだすまで微笑んでいるものだと。
彼女の世紀末的な可愛さを前にして、おれの経験値がいかに浅はかであったかを思い知る。
「これから晩メシ?」
「うん」
じゃあ、よかったら、おれと。口をつきかけたその言葉をのみこむ。だめだ、急すぎる。が、そう尋ねておいて会話終了もいささかまずい。
彼女を見ると、ほら、おれと目を合わしてはいないが「誘われるかなー、どうだろ」的な顔をしている。「まぁ付いてかないけど」と結論が出ていることまでわかる。
無難な落としどころを探って、結局「おれも」と小学生のような会話になった。
一駅二駅と停まり、昨日と同じように乗客が減り、ついに彼女が降りた駅まで辿りついた。彼女が肩に掛けた荷物を掛けなおしたことでそれに気付く。
わきに退くと、「それじゃあ」と言って彼女は開く扉の前に近づいていった。
「あ、気を付けて」と手を振ると、彼女は笑って小さく手を振り返した。
扉が閉まってから、名前くらいさっさと聞けよクソがと膝に手をついたことは言うまでもない。
*
いつもと同じ時間の電車に、その日彼女は乗らなかった。車内にちらちらと視線を走らせて、あくまでさりげなく、しかし丹念に彼女を探したが、やっぱりいない。
毎日同じ時間というわけでもないんだろう。彼女はどうやら働いているようだし、残業だとか職場の飲み会だとか予定があるはずだ。
毎日重たい鞄を提げて満員電車に肩を縮こめながら、それでもまっすぐな背中で前を向いている彼女を目に留めてまだ三日目だ。それでも、街中にあふれる疲れた顔のサラリーマンやOLたちと彼女は一線を画しているのがわかった。
それを思い、裏表のように自分のことが同時に思い出されて口に苦いものが広がる。
自分は彼女と同じか、おそらく年上だ。にもかかわらず、「仕事は?」と訊かれたときに一瞬口がまごつく。
カフェレストランでアルバイトとして雇われている自分は、いわゆるフリーターになるんだろう。どういう経緯でそこに行き着き、何を考えてバイトでいるのかなどの詳しいことはすっぱ抜いて、世間的に見ておれはフリーターだ。
「仕事は?」と訊いた奴におれの事情まで斟酌しろというのは無茶だし、おれはおれの矜持で今の仕事についているわけで、けしてバイトの立場に甘んじているわけではないのだが、そんなことまでわかってもらわなくとも構わない。
ただ、彼女のことを思うと視線が下がった。
社会的に同じ土俵に立っていないというのは、わりとつらい。
くだらない男のプライドかもしれないが、得てしてそういうものなのだ。
電車がゆっくりとスピードを落とし、アナウンスが駅名を告げる。彼女がいつも降りる駅だった。
明日は同じ電車で会えるだろうか。ああ、でも明日は土曜だ。もし平日の会社勤めなら明日は休日で、この電車には乗らないかもしれない。
となると次に会える可能性があるのは月曜──ああ、おれが休みだ。いや構わん。バイトがなくたっておれが電車に乗りゃあいいんだ。
電話のベルのような警告音とともに、ドアが閉まる。そのとき、ホームに並んだ3人掛けのベンチの真ん中に、俯いて座る橙色の髪の長い女の子がいた。
──彼女だ。
あと15センチでドアが閉まるその隙間に、咄嗟に膝を割り込ませた。がつん、とドアが膝を噛み、渋々といった態でまた開く。おれの奇行に、周りの数人があからさまにびくっと反応したが構わず自動のドアを手でこじ開けるようにして電車を降りた。
冷ややかな視線を背中に感じながら、彼女のもとへと向かう。彼女はうなだれるように首を折り、片手で額を押さえていた。気分が悪いのかもしれない。知れずと足が早まった。
しかしあと数歩というところまで来て足が止まる。
なんと声を掛けよう。
ここは彼女の最寄であっておれのそれではないし、にもかかわらず連続三日で会うことになりゃまるでストーカーだ。
偶然を装うか。今日はここの最寄で飲み会が──無理がある、この駅の周りは確か住宅だらけだ。いっそ君が見えたから降りたと言ってしまおうか。
ふと、彼女を挟んだ向かいに目が移った。立ち悩むおれと同じように、彼女を見ている視線がある。
ニット帽をかぶった男と、黒縁の眼鏡をかけた男のふたりだ。大学生のようなざっくりとした服装をしている。改札口へと昇るエレベーター前に立って話す奴らはそっと顔を寄せ合い、彼女を見て、笑った。
カッとこめかみの辺りが熱くなり、迷う間もなくおれは彼女の元へと歩み寄ると、どかりと遠慮なく彼女の隣に腰を下ろした。
びくん、とベージュのトレンチコートを着た腕が怯える。
彼女が顔を上げたのがわかったが、その顔を見下ろすことができずに真正面を見たまま口を開いた。
「こんばんは」
「あ、で、電車の」
そう、と頷いたものの、聞こえた声に歯噛みしそうになる。彼女の声はどこか湿っていて、横目に映る頬は赤らんでいた。
「寒いだろ、ここは」
「そう……そうね」
「ああいう連中もいることだし、場所変えませんかね」
ちらりと視線を移すと、彼女もつられたようにそちらを見た。おれとまともに目の合ったニット帽が、すかさず顔を背ける。ふん、と思わず鼻息が荒くなった。
「──気付かなかった」
「だろうな」
答えてから、もしかして「おれに」という意味だろうかと危ぶんだ。しかし「だろうな」と答えたおれに、彼女は不本意そうに少し眉根を寄せた。そのとき初めてまともに彼女の顔を見て、ぎゅっと喉がつまる。
──あぁ。
おれが腰を上げると、彼女も鞄を掴んで立ち上がった。ニット帽と眼鏡に背を向けて改札行きのエスカレーターに乗る。
彼女を先に乗せ、一段空けて後ろに続いた。
「ねぇ」振り返らずに彼女が言った。
「なんで、ここに」
「電車の中から君が見えた。気分でも悪いのかと思って」
改札階に辿りつき、トンと一歩を踏み出す。
横並びで改札を抜けて、自然に彼女が曲がったのと同じ方へ足を向けた。
「あのね」
「うん?」
「ナミっていうの」
「え」
「私。あなたは?」
あ、ナミ、ナミさん。おれ、おれはサンジ。たどたどしくそう言うと、彼女──ナミさんは小さく笑って、「ありがとうね」と言った。涙に焼けたあとはいつのまにかわからなくなっていた。気のせいだったのかと思うくらい綺麗に。
「一緒に下りてくれたおかげで、変なのに捕まらずに済んだわ」
「ん、ああいうの、よくあるの?」
んー、そうでも、と答える彼女は迷いなく角を曲がり、一つの出口へと向って行く。勝手に、よくあるんだろうなきっと、と想像した。なにしろこんな美人だ。
重たい鞄を肩に提げたまま両手をコートにポケットに突っ込んで、彼女は確かな足取りで階段を上る。
「私、今日も夕飯まだなんだけど。サンジ君は?」
「おれも、まだ」
訊かれるがままに答えて、一瞬ぼーっとして、呆けている場合かと自分で自分のケツを叩くように目が覚めた。
「あ、メシ。よかったら、一緒に。っていうかこの辺全然わかんねェんだけど」
しどろもどろになりながらそう言うと、ナミさんは肩を揺らして、笑った顔はオレに見せずに、「奇遇ね」と言った。
「私もいま、誘おうと思ってた」
駅近においしい洋食屋さんがあるの、とショートブーツのかかとを鳴らしながら彼女は言う。その足音がさっきよりも沈んでいないように聞こえて、なんで泣いてたのかとか聞きそびれたこともどうでもよくなった。
*
「こんばんは」
「こんばんは。おつかれさま」
「ナミさんも」
電車の中で落ち合うたびに、彼女はおれを見上げて屈託なく笑うようになった。
彼女が休みの土日は会えない。おれが休みの日は不規則だが、その日も会えない。シフトも入ってないのに無理して電車に乗るのはやめた。
会える日に、会えるからこそ、自然と口から滑り出る決まりきったあいさつが心地いい。
「今日はちょっと人少ないわね」
「あー、金曜だからな。飲みに行ってまっすぐ帰んねェんじゃねぇかな」
「あ、なるほど」
「ナミさんは? そういうのねーの?」
「あんまり行かないけどね、たまにはあるわよ」
ふうんと相槌を打って、「じゃあさ」と朝から何度もシュミレーションした台詞を舌にのせる。
「今からちょっと飲みにいかね? 次の駅に好きな店があんだ」
おれの趣味でよければ、と咄嗟に口から滑り出たそれは遠慮のようでいて、断られた時や幻滅された時の無意識の予防線だ。
ナミさんはあっさりと「いいわね」と言ってくれた。
よっしゃ、と小さく決めたガッツポーズの肘が後ろに立つ人の背中に当たり、あ、すんませんと背中越しに謝る。なんともきまらない。
先週の金曜に、初めて彼女と夕食を共にした。彼女がうまいと言った店はこじんまりとした個営業の洋食屋で、昼には古き良きケチャップのオムライスなんて出す喫茶店をしていそうなレトロな様子。しかし彼女が言った通り、料理はうまかった。
ナミさんはミートソースのラザニアにサラダとスープのセットを、おれはボンゴレのパスタにサラダとスープ、パンもつけた。食事を頼んだ後、彼女が迷いなく店員に赤ワインを注文した。
「サンジ君は?」
「あ、じゃあおれは白で」
咄嗟に頼んでしまったが、キツくないのだといいなと情けなく考えていた。すぐに顔が赤くなるから。
届いたワインで軽く乾杯する。グラスをつまむ仕草まで、まじまじと見てしまう。
「んーおいし」
一口舐めたワインを、いとおしげに見下ろして彼女は微笑んだ。長い睫毛の影が頬に落ちる。うっとりと見惚れていて、「そっちは?」と訊かれた声に必要以上にまごついた。慌てておれもグラスに口をつける。
「ん、うまい。ぶどうの風味が濃い」
「今日はちょっと飲みたい気分だったから、ちょうどよかった。一人のご飯もつまんないしね」
その言葉に、おれが彼女の必要となれたことが裏付けされた気がして救われる。少なくとも、毎日出会う怪しい奴というレベルから抜け出せた気がする。
酒の力を借りて、一歩踏み込むことにした。
「どんな仕事してんのか、聞いてもいい?」
「もちろん。出版社よ。編集のしごと」
「へぇ。いそがしそうだ」
「うん。でもね、私の部署は専門書、それも科学、生物分野」
物珍しさから目が丸くなる。その表情を見抜いて、ナミさんは子どもに見せるような優しい目をした。
へえ。顔には出さずに胸で呟く。少しお姉さんみたいな顔。あたらしい、と素直にうれしくなる。
「きらびやかなファッション誌とか、今を時めく文学なんかとちがって地味で本屋さんなんかでも埃被っちゃうこともまあ多いんだけど、それでも需要はあるの。大学の先生や、企業の研究者なんかのところに出向いて話を聞いたりね」
「カッコイイね。好きなんだ」
うん、と彼女はてらいなく頷いた。
「サンジ君は?」私の次はあなたの番、とでもいうようにナミさんはおれを見た。話を聞きながらこの展開を半ば覚悟していたので、すんなりと口が開いた。
「カフェで働いてる。店が18時に閉まるから、いっつもあの時間の電車で」
「へー、バリスタ?」
「や、本当はメシ作る方やりたくて」
そっか、じゃあ修行中なのね、とナミさんは笑った。そのまま口を閉ざしてワインを飲む。
この子は。
おれに全部を言わせなくても、与えられた情報から口にしていいことを瞬時に選んで話している。
──バイトなんだ。お店で料理のお手伝い? いつか自分の店持ちたいとかいう、夢? がんばって。
他人だからこそ軽く、きつく言えば無責任に口にされるそれは何一つ間違っていなくて、でも言われるたびにおれのどこかが傷つく。それがプライドなんてくだらないものでも、傷は沁みる。
だからそれらを一切口にせず、上にも下にも評価しない彼女の姿勢は新鮮で、心地よかった。
「どこにあるの? お店」
訊いてから、「あ、あの駅の近くか」とナミさんはひとりでに了解した。
「うん、でも駅から結構遠くて。歩いて15分くらい」
「今度行きたいな。いつが休み?」
「月曜日。よかったら仕事が休みの日にでも」
うん、お店の名前教えて、と言う彼女に店の名前を告げる。口先だけじゃないんだと、またぞろ嬉しくなる。
そこに料理が運ばれてきて、夜も8時近くなり腹をすかせたおれたちは、わりと色気なくガツガツとメシを食った。
彼女の食いっぷりもまあ良くて、おいしそうに頬張る表情がずっと目に焼き付いていた。
いつかおれの料理で。そんなことを思うのも無理はない。
その日を境に、なんとなく打ち解けたような気がして、幸い彼女の方も一線警戒のラインをひっこめてくれたようで、次の火曜から金曜まで毎日同じ電車だ。
一日に話せるのは、おれが電車に乗って彼女が降りるまでのほんの十数分。
周りの目もあって、目どころかぎゅうぎゅうの電車の中じゃろくに落ち着いて話もできないが、同じ苦痛を共有していることにすら喜びを感じてしまう。
初めて同じ駅で電車を降りる。まるでこれから一緒に帰るようで、胸が高鳴る。ナミさんは平然な顔で足取り軽いところを見ると、この展開に対して特に思うところもないみたいだ。安心するような、ちょっと残念なような。
「どんな店?」
「スポーツバーなんだ。こないだ、一昨日だっけ? 話してただろ、サッカーチームの。それでナミさんも嫌いじゃねェかなーと思って」
「へぇ。あんまり行かないから、面白そう」
よかった、と本音がそのまま滑り出る。
都心部から少し外れた夜の街は、程よくおれたちを喧騒に紛れさせてくれた。
*
「い、け──っ!!」気持ちよく二人の声が重なる。
天井の隅に取り付けられた42インチのテレビに緑のフィールド、そこに小さな青い影がちらちらと横切る。その動きを目で追っかけて、ナミさんはこぶしを振り上げて声を張った。
店内は同じチームのサポーターたちが一様に盛り上がり、異様な熱気を発しながら一種の一体感に包まれ、おれたちもまんまと彼らと仲良く酒盛りしながらテレビに釘づけだ。
「あ、だめだめ、ああん」
「おら、そこだっ、いけっ」
「だぁ──っ!」二人同時に頭を抱えた。
「ありえないよねえ、今の」
「あぁ、ありゃ間違いねェ。レフリー買収されてんじゃねェだろうな」
「もう、ああ、ハーフタイム」
甲高い笛の音と共に、店内の客たちの肩が落ちる。一点に集まっていた視線がばらばらとほどけて、思い出したように注文する声があちこちから聞こえた。
ナミさんも握りしめていたジョッキをぐっと呷って、はぁと旨そうに息をつく。白い喉がやけに光ってみえた。
「ふふ」
「なに?」
「サンジ君、顔まっか」
「あ、あぁ、おれすぐ赤くなるんだ」
「興奮しすぎたのかと思った」
そういう彼女は素面と全く変わらない顔色で、いや、少し頬は赤らんでいるか。でもそれも、熱狂的な応援のせいだろう。
「かわいいなぁ」
俯いてピスタチオの顔を剥いていたナミさんは、おれの言葉で小さな丸いテーブルから顔を上げた。
その真顔に、おれは「え?」と答えた。「なに?」とナミさん。
「おれ、なんか言った?」
ナミさんは少し考えるように首を傾け、まぁいいやというふうに首を振った。
「ねぇねぇ、私は明日休みだけど、サンジ君は仕事でしょ。遊んでていいの」
「いーのいーの。おれ朝あんまり早くないから」
「タフねぇ」
「毎日遊び歩いてりゃアレだけど、たまのことだし」
そっか、とナミさんは薄く笑った。
「休みの日とか何してんの?」グラスを見つめながら訊いてみる。
「んー。生活品の買い物とか、掃除とかしてたら終わっちゃうなあ。次の日休みだと思うと夜更かししちゃっうこともあるし、友達の家遊びに行くこともあるわね」
その友達って、男? 聞けるはずもなく、ふうん、と相槌をうつ。
「仕事で忙しいとさ、休みの日に遊ぶぞーってならねぇんだよな。休みだ、休まねぇとってゆっくりしちまって」
「そう! わかる!」
「んで毎週同じような休日ばっかで、つまんねってなる」
「そうなのよねー。なんか楽しい趣味でもあるといいんだけど」
趣味か、と相槌を打つ。おれはこうして、週に一回でも彼女と二人で過ごす時間が作れたら、その次の一週間はフル稼働できる自信があるんだけど。
それもあいにくおれたちの休日は噛み合わないから、またこんな機会があるとしても、こうして仕事終わりの一杯になるだろう。
──今更だけど、まさか。彼氏いねェよな。
思いつくと、まさに身の毛もよだつといったふうに足の先がすっと冷たくなった。
男がいたらこんなふうにおれと飲みに付き合ってくれねェよな。自分を安心させる言葉をかけ、でも、と考える。
おれは男の範疇に入れてもらえてすらいないのだろうか。
彼女の交友関係が一切わからないからこそ、彼女が男友達とどんな距離の取り方をするのか全く想像がつかない。
まだ出会って2週間も経っていない。ナミさんはそんなことを考えさせないあけすけな笑顔を見せてくれるから、まるで旧知の仲──いや言い過ぎた。親しい飲み友達的な会話のテンポだ。
でもおれは、彼女の仕事内容も、友人関係も、単純な生活のことも、何も知らない。
まだ、これからだよな。自分に言い聞かせ、いつか手に入れたい彼女を見据える。
「あ、ハーフタイム終わった」
新しいドリンクを店員から受け取って、彼女の視線が他の客たちと同じようにまたテレビに集まった。
「さっ、巻き返さなきゃ」
「すげぇファンになっちゃったね。一日で」
「にわかでごめんねー」
「いんや、うれしい」
ナミさんは猫のようにニッと目を細くして笑った。
それからのおれたちは前半戦と同じく、こぶしを振り上げ、声を張って、ときには近くの客と肩を組んでテレビに向かって声援を送った。
ナミさんはノリよく誰ともそつなく会話をこなし、たっぷりとスポーツバーの空気を楽しんでいるようで安心した。
しかしそんなことを考えてぼんやりしていると、他の客やナミさんに「ほらしっかり見て!」とどやされるので、いつしかおれもテレビにのめり込んでわいわいと騒いでいた。
*
「あ、終電」
試合が終わったタイミングで、ナミさんが呟いた。彼女の目の動きにつられて、自分も左腕に目を落としたがそこに時計はなかった。水仕事が公私ともに多いので、付ける習慣がない。咄嗟に店内に視線を走らせ、掛け時計で時間を確かめた。
いつのまにこんな、と呟いてしまう。日が変わる5分前だ。ここから駅まで10分、地下鉄の階段を降りて、少し地下道を歩いたらもう間に合わない。
「ごめん」
思わず謝ると、ナミさんは「何謝ってんの」と呆れた顔をした。目じりが下がっている。彼女も騒ぎ疲れて、少し酒がまわったのかもしれない。
「まーお店も0時閉店みたいだし、出よっか」
会計を済まして外に出ると、夜風が途端に足元をすくった。
ひゃーさむい、とナミさんが首をすくめる。
なんとなしに駅に足を向けながら、歩き始めた。もう間違いなく終電には間に合わないのに。
「楽しかったわねー」
「な、勝ったし」
「それね! 勝ったし!」
やっぱり勝負事は勝たなきゃ、と呟く彼女は男らしい。
「どうする、タクシーでも拾おうか」
「やだ、もったいない。歩くわよ私」
「ここから!?」
思わず声を高くすると、ナミさんは歯を見せて笑った。コートに襟に顎を隠すように夜風から顔を守りながら、「酔い覚ましにいいじゃない」
「付きあう? 私の方が先に着いちゃうけど」
そんなことを言われて、ここで別れる馬鹿がいるだろうか。
ここから彼女の最寄まで三駅、おれの最寄までさらに二駅。着くころには一体何時になるのだろう。
「あ、でもサンジ君明日仕事なんだった。やっぱタクシー」
「いや! 大丈夫、歩こうよ」
ナミさんは少し考えるようにおれを見上げ、「そ」と前を見て歩き始めた。
飲み屋の連なる通りを抜け、シャッターの閉まった百円ショップや花屋の軒先を歩く。看板も出ていない飲み屋の灯りをときおり通り過ぎると、炭火のいい匂いがした。
商店街を抜けると、広い国道に出る。この下をずっと地下鉄が通っているのだ。だからこの道沿いに歩いていけば、次の駅に着く。
歩道は広くて歩きやすく、おまけに人が少ない。オレンジ色の街灯が舗装された道と、おれたちを照らす。ふたりぶん、巨大な影が伸びていた。
「きれいな夜ね」
ナミさんが伸びをするように少し上を見上げて言う。
何を見つけたんだろうと目線の先を追いかけたが、ひたすら似たような道が続いているだけだ。空は少し雲が多く、街明かりで星は見えない。月は頭の後ろの方にあるようで、振り返って確認したがラグビーボールのような中途半端な形をしていた。
「仕事は楽しい?」ふいに彼女が尋ねた。
「まぁ、好きでやってるからなぁ。バイトの身分で融通が利いて楽だけど、もっと作る方に身を入れてェなあ」
酔ったせいか、弱音のような愚痴なような言葉がこぼれ出る。彼女相手になにを情けない。
しかしナミさんは、興味深そうに相槌を打った。「具体的にどんなことしてるの?」
「基本的にはサーブばっかだな。デザートはときどき作らせてもらうけど、ランチなんかのメインは盛り付けすらやらせてもらえねェ」
「ねぇ、サンジ君がはたいてるカフェって、もしかしていいとこ?」
「いいとこって?」
「だってカフェって、もっとざっくばらんとしてて、大学生のアルバイト君がマニュアル通り盛り付けてたりするんじゃないの?」
「あーたしかに、そういうとことは違うかも」
いいとこかはわかんねェけど、と苦笑がこぼれる。身内のことを話すような気恥しさがある。
「結婚式場と併設してんだ。披露宴のあとの二次会とかよくやってる」
「なんだ、やっぱりいいとこじゃない」
「全然。普通にお茶のみに来てくれて構わねェからさ」
来てよ、と漏らした声は半ば懇願するみたいに響いた。
その切実さに引かれやしなかったか心配になり、彼女の顔をちらりと窺う。形のよい唇が「うん」と動いた。
「はい、一駅目到着―」
地下鉄のりばへと続く階段口を通り過ぎ、彼女が楽しげな声で宣言する。足を止めずにそこを通り過ぎる。彼女の駅まであと二駅。
「ナミさんは? 仕事、どう?」
「うん、たのしいよ。私も好きでやってるし、合ってると思う」
そりゃあむかつくことは死ぬほどあるけど、とぽつんと落とすが、その顔は暗くない。
「だから先週、サンジ君がかっこいいねって言ってくれたの嬉しかった」
「え?」
思いもよらない言葉に、聞こえたくせに聞き返す。だって、と彼女は言葉を続けた。
「専門書って、それも科学に生物って、なにそれって感じでしょ。編集者って言ったら、小説家を捕まえて書けーって原稿奪ったり、ファッションの流行を押さえに街にスナップ取りに行ったり、そういうのじゃない?」
「──それも随分偏ってるような」
「でも私は、実際に自分がなる前そう思ってたから。だから自分はそういうことがしたいんだと思ってたのよ」
車のほとんど通らない国道を、気持ちの良いほど法定速度をぶっちぎったスピードで車が通り過ぎる。おれたちのもとにとどこおった残響が消えるのを待って、ナミさんは言う。
「偏った理想とはいえ思い描いてた仕事とは随分違ったけど、すごくいい。もちろん大変だけどね」
──やっぱめちゃくちゃかっこいーじゃねぇか。
急に、暴発するみたいに気持ちがとめどなく溢れた。
まだ出会って数週間だ。もっと話をしたい。彼女のことを知って、知ってもらって、それから、それから──悠長にそんなことを考えていたくせに、ぶっ飛ぶときは一瞬だ。
好きだ。ナミさん。
「君が好きだ」
は? 返ってきた返事はそれだった。
「どうしたのサンジ君」
目を丸くしたナミさんは、おれを見上げながらも変わらず足を止めない。
おれは一瞬止めかけた足を、慌てて彼女に合わせて動かした。
「どうしたもこうしたも……ナミさんが好きだ」
「やだ、まだ会ったばっかなのに」
冗談にお愛想で笑うみたいに、ナミさんは口の中で笑いながら前を見て歩き続けた。
や、ちょ、まじで、とおれはみっともなく言葉をつぐ。ここまで相手にされないとは。
「本気だ。本当はナミさんを見つけた瞬間から思ってたけど、会って、話してるうちにますます好きになった」
気持ち足早になったナミさんは、「うーん」とあくまで軽い口調で唸る。
「嬉しいけど……」
嬉しいけど。そのあとに来るのは間違いなく否定だ。がくっと折れそうな膝を奮い立たせて続きを待った。
「サンジ君とは友達でいたいかな。ごめんね」
はい、二駅目。
彼女の視線の先、まだ遠いが、二駅目の灯りが見えた。
言葉を失ったおれをナミさんは覗き込み、「やっぱり訂正」と突然言った。
「ごめん、サンジ君とはっていうのは嘘。サンジ君と友達でいたいのは私の事情で、サンジ君の事情はなにひとつ関係ない。私は今、そういう関係の人はほしくないの」
ほしくないとまでばっさり切られたくせに、図々しいおれの思考は言葉尻をつかんだように猛然と食いかかった。
「てことは、彼氏がいるわけでは」
「ない」
なんだ、そうか。
一安心してから、でもおれ振られたんだった、とまぎれもない事実がどんとのしかかる。
「はあぁ」
「ごめんねー」
重たいおれのため息を、ふっと軽い息で吹き飛ばすようにナミさんは言った。
→
まったく関係のない2話が続きます。
背中にのしかかる重みは命そのままの重みだ。
吹雪く視界は灰色に霞んで、頬にぶち当たる雪にはもう冷たさも感じない。
なのに、背中はうっすらと汗ばんでいる。息が上がる。
しがみつく力をなくし、ゆっくりとずり下がっていくローを揺すりながら背負い直し、足跡すらつかない雪原の丘を登っていった。
なんでこんなところでおれは革靴を履いているんだろうと、雪に埋まる足元を見た。先の尖ったそれはつまさきを締め付け、長い道のりを、それも雪深い山道を歩くには適していなかった。
冷えと全身の痺れのせいで、じうじうと軋むような音が身体の中から響いた。音なんて聞こえるはずがないのに、不思議なもんだと思う。
──いつかこの、永遠のような冬を抜けたら、ローを連れて街に行こう。
こいつにあたらしい服と靴を買って、お気に入りの帽子は修繕に出してやろう。まっさらな格好をして照れながら怒るローを想像すると、知れずと口角が上がる。
ローは力なく頬を預け、目を閉じていた。
──あぁ、早く春は来ねェかなぁ。
あの春の日まで
「君は白鉛病だね」
しわがれた声がコラソンの足を止めた。ローは咄嗟に黒い羽根のコートに顔をうずめて身を隠した。
背中に回した腕に力がこもり、冷たい汗が首筋を這う。
振り返ると、上品な装いの老人がはるか高くにあるコラソンの顔と、その背中に乗った少年を見上げて目を細めていた。
のどかな町で、広場の中心から吹き上げる噴水の音が牧歌的に響き続けている。
──ばれた。
男を見下ろした数秒の間にいくつかの考えが頭をよぎる。逃げる、無視する、黙らせる──どれも実行できないまま、コラソンは口を開いた。
「──知っているのか」
おい、やめろよコラさん、とローがか細い声で、それでも痛々しく小さく叫ぶ。
「あぁ知っている。私は医者だ。いや、正確には医者だった」
「医者!? じゃあお前白鉛病を」
「治せやしない。それはもう、誰にも治せないんだよ」
ローが耳を塞ぐように帽子のつばを両手でつかんだ。小さな心を打ちのめした現実から自分を守るための、ローの癖だ。
どいつもこいつも、余計なことばかり言いやがる。
ローを支える方と逆の手で老人の胸ぐらをつかみ、枯れ枝のような老人の脚が宙に浮かぶほどまで引き上げた。
「おいジジイ、からかうだけなら余所を当たれ」
サングラスの下から睨みあげても、老人は怯えるでもなくただ息苦しそうに咳をして、「からかってなどいない」といやにはっきりと言った。
「ここでは話しにくい。私の家へ来なさい」
「いやだ、コラさん。もういい、行こう」
ローがコートの襟首を引っ張る。こんなに弱弱しい声を出す奴ではなかった。ガキらしくない低く呻くようなドスを聞かせた声で、斜に構えて人を睨みあげながらしゃべるような奴だった。
こんなふうにか弱い声を出すまで弱らせたのはおれだ。半年以上歩き回って実のない旅を続けるには、ローの心も体もひび割れすぎている。
それでも、だからか、コラソンはすぐさま老人の前から歩き去ることができない。ローが焦れて何度襟首を引っ張っても、怯まず見上げてくる老人を検分するように見つめ返した。
すがらせてくれるなら結構じゃないか。
「何かいい情報でも教えてくれるのか」
「情報……というより、提案がある。何よりその子供は衰弱しておろう。うちで休むといい」
きびすを返した老人の小さな背中を見つめ、ためらったのは最初の一歩だけだった。
コラさん、とローが怒ったようにとげのある声で今度は髪を引っ張り始める。
「まぁいいじゃねェかロー、白鉛病について何かわかるかもしれないぞ」
「信じらんねェ! 見ず知らずのジジイにほいほいついてくなんて、お前本当にドンキホーテファミリーの幹部なんて務まったのかよ! 罠だったらどうすんだよ!」
「そんときゃお前を連れて逃げるさ」
「またドジってひでェことになるのが目に見えてんだよ!!」
ぎゃんぎゃんわめくローをいなしながら確実に老人の後を追う。
コラソンに牙を剥くときのローが一番元気だ。弱りきった身体に血が巡り、目に光が灯り、歯を剥いてコラソンの名前を呼ぶ。
こんなにもいとおしい命はない。
*
頑丈な作りの塀。巨大な門扉。シンプルでありながら金をかけた匂いのする邸宅に、二人は案内された。
ひさしく座っていないスプリングの効いたやわらかいソファに腰を下ろす。ローは不思議そうに、革張りのそれを撫でていた。
あたたかい紅茶も久しぶりだった。一度目にまるごとカップをひっくり返したコラソンに給仕されたそれは二杯目だ。ローは甘いココアのカップを両手で支えて大事に飲んでいる。
「フレバンスの話は聞いているよ。私は医者として、何もできなかった」
老人が言う。
ローはカップから口を離し、また帽子の縁に手を遣った。
「フレバンスが外から医者を呼ぶことができなかったのは、もちろん進んで行く者がいなかったからだ。ただ、ゼロではない。馬鹿のように自分の中にある善意を信じてフレバンスに赴こうとした医者も少なからずいた」
「あんたもか、じいさん」
老人は答えなかった。
「まさか生き残りがいるとは思わなかったが、既に罹患した者を治療した報告は皆無だ。私に今すぐこの子を治療することはできん」
ただ、と老人は随分高くにあるコラソンの顔を見上げた。
「あんたらは治療法を探して旅していると言った。あてどなく彷徨っているに近い。苛酷すぎる。少なくとも、病んだ子供を連れて行うべきではない」
「そんなこと、コラさんもおれも重々承知してんだよ! 今更あんたにとやかく言われることじゃねェ!」
すかさず牙を剥いたローを静かに見下ろして、老人は小さく「すまない」と言った。
唐突な謝罪に、ローが言葉に詰まって息をのむ音が聞こえた。なだめるように、コラソンはローの帽子に手を置き、軽くその頭を引き寄せた。
「わかってんだ。でも、こいつやおれのいたところは異常だった。たとえ白鉛病じゃなくても、あのままではいられなかった」
老人は手元のカップを口に運び、「そうか」と小さく呟いた。そして一息置いた後、話し始める。
「私は今この家に一人でね」
ぐるりと家の中を見渡す老人の視線に釣られ、コラソンも顔を上げた。
整った調度品。質のいい家具と掃除の行き届いた室内は一人暮らしの老人らしくはない。だれか手伝う者を雇っているのだろう。
「妻に先立たれて仕事をやめてからも、細々と白鉛病の研究を続けていた。もはや症例が存在しないと思われている病だ。研究に学術的な価値はあっても実践的な価値は今現在見いだせない。少なくとも、それが共通見解だ」
生きた症例とも言えるローに、老人が目線を据える。ローは珍しく狼狽えるように、コラソンに身を寄せた。
「君を助けたい」
老人が吐き出すように言う。重たく、どしんと真正面からぶつかるようにローに、そしてコラソンに響いた。少なくともこの旅で初めて出会った、味方だった。
「治療法はわからない。この先見つかるかもわからない。しかし見つけたいと思う。少なくとも、君が大人になるまでの命を繋げるように」
ローが戸惑った顔で見上げてくるのがわかった。それでもコラソンは、その目を見つめ返すことができなかった。気付きながら、受け止め損ねた。老人が次に何を言うのかわかっていた。
「この子を私のところに置いていかないか」
「あ」とも「な」ともつかない小さな声をローはあげた。
人ごみの中で子供が母親を見失わないようにそのスカートの裾をぎゅっと握りしめる。そんな仕草で、ローはコラソンの太腿のあたりの生地を握った。
そのあとに続いた老人のさまざまな言葉は、コラソンの頭に物理的な痺れだけを与えて胸には届かなかった。
ただ、ローを手放すか手放さないか。そのことだけがぐるぐると頭を巡っては取り留めなく霧散して、しばらくするとまた集まって頭をぐるぐる回り始める。そんな感覚が熱を伴ってぼんやりとコラソンの頭を占めた。
もしコラソンがローを老人に預けたら、ということを老人は丁寧に説明した。その喋り口調は信頼できる気がしたし、会って数時間の男の話をこんなふうに聞いていること自体がやっぱり間違っているような気もした。
「どうする」
黙って話を聞くばかりだったコラソンに、老人が返事を促した。ローが服を握る力がぎゅっと強くなる。
いやだとも、ふざけんなとも、ローは言わなかった。ただ不安げに、呆けたように黙りこくるコラソンを睨みつけながら、コラソンの言葉を待っていた。試されているのだとわかった。
「──考えさせてくれ」
結局言えたのはこんなことで、老人はわかっていたかのように頷いた。
*
老人の屋敷を出ると、ローは堰を切ったように喚き始めた。
「なんだよあの態度は! 真面目な顔しやがって、『考えさせてくれ』だぁ!? 何を考えるってんだよ!」
「そ、そんな怒んなよ」
「煮え切らねェコラさんが一番腹立つんだよ! お前まさかおれをあんなジジイにおっつけようなんてつもりじゃねェだろうな」
「ち、」
ちがう、と言い切るより早く、何もない平らな地面に蹴つまずいて派手に転んだ。したたかにケツを打つ。
まったく、と言いながらローは小さな両手でコラソンの手を引っ張り上げた。
「すまん」
「そうやってドジばっかやってるくせに、妙なこと考えるんじゃねぇよ」
立ち上がってケツの砂埃を払う。ローは偉そうに腕を組んで、その顔を睨みあげた。
「もう出ようぜ、こんな街」
「待て待て、もう夕方だし、さっきのじいさんがせっかく泊めてくれるって言ってんだ。今夜はここに泊まろう」
老人は宿を持たない二人に、快く部屋を一室貸してくれると申し出た。
しかしローは依然として首を縦に振らない。
「いやだ! コラさんが変な気起こす前にさっさと街を出るんだ」
「次の街に着く前に夜になっちまう」
「そしたらいつもみたいに野宿すりゃいいだろ」
「馬鹿野郎、お前が」
お前がもう、野宿に耐えられる身体じゃないだろう。
言いかけて飲み込んだ。
一言でも自分の口が飛び出しかけたことが、とてつもなく哀しかった。
黙り込んだコラソンの顔を覗き込み、ローは「おれは絶対あんなところに泊まらないからな」とそっぽを向いた。
その小さな動きで、不意にローがよろめく。
「おい!」
慌てて受け止めると、ローは力なくコラソンの腕に寄りかかり、小さく「ちくしょう」と呻いた。
「馬鹿野郎、騒ぐからだ」
ローの身体から、何か大切なものが抜けていく。穴の空いた袋から空気が漏れていくように、かすかな音を立ててしぼんでいく。その穴は塞いでも塞いでも新しい穴が次から次に空いて、生かそうともがくコラソンを鼻で笑うようにローの何かを損なおうとしていた。
そっとローを抱き上げ、両手に抱えこむ。
随分と軽くなった。
ローを揺すればカラカラと乾いた音が鳴りそうで、そんな実感にぎゅっと胸が詰まる。喉と鼻に塩辛さが押し寄せ、コラソンは慌ててそれを飲み込んだ。
ぐったりと身体を預け、静かに息をするローをなるべく動かさないように、コラソンは老人の屋敷へと踵を返した。
*
ふくらみたてのパンのようにやわらかく盛り上がったベッドは、横たわるとどこまでも沈んでいった。
頬に触れる生地はなめらかで、さっぱりと乾いているのにひやりと冷たく、肌に心地いい。
老人が与えてくれてた寝室はその家具のどれもが上等に見える。ローの傷んだ身体を癒すには最適じゃないかと、やすらかに眠るローの額を撫でてコラソンは息をついた。
老人はローとコラソンに角部屋に静かな一室を与え、夕食の準備までしてくれた。温かいものを腹に入れて落ち着いたのか、ローは食事中からうとうとと微睡み、食事を終えるとどこかへ落ちていくように眠った。
白くまだらに染まったその手は、眠る子供のそれとは思えないほど冷たい。
ローがどこか、コラソンの手の届かないところに行こうとしている。それも追いつかないほどの速さで。
──それならいっそ、ここでゆっくりと暮らしながら少しでも延命する方法を探した方がローにとっていいんじゃないのか。
思えば思うほど、それよりほかにない気がして、いてもたってもいられなくなった。
そうだ、今すぐローを置いて出ていこう。
コラソンが悩む素振りをすればするほど、ローはふざけんなと怒るに決まっている。
そう、ローは怒るだろう。
おれを置いていくのかコラさんと、コラソンをなじるだろう。
それでもいい。
ローが少しでも長く生き延びて、自分の意志で生きられたらそれで。
善は急げだ、とコラソンは慌てて自分に触れる。
『凪』は全てを吸い込んで、コラソンの衣擦れの音さえ消した。
革靴に足を滑り込ませ、コートを羽織る。
荷物は──ローを背負う以外に、持っているものなんてなかった。
支度を終えると、コラソンは音も立てず扉を開け、そそくさと部屋の外に抜け出した。
ローが眠るベッドの方を振り向くことはできなかった。
ただ、諦めずに生きてくれよと、願うしかない。
静まり返った屋敷を抜け出すのは、造作もなかった。
あっけなく屋敷の門をくぐり、造りの立派なそれを一度だけ振り仰ぐ。
城のようだな、と思う。
幼いころのかすかな記憶がチリッと焼けるように脳裏に浮かんだ。
夜の街は静まり返っていたが、どこかに繁華街があるのだろう。遠くの方からざわめきが届く。
灰色の石畳を照らす街灯の光に沿って、あてどなく足を進めた。
どこへ行こうなあ、とたいして考えるつもりもなくぼんやりと思った。
もう兄の元へは帰れない。
いずれ海軍に戻るとしても、まずは本部と連絡を取ってルートを確認する必要がある。
その間、自分は何もすることがないのだと改めて気付いた。
ローの病気を治すという目的を失って、今こそ自分は自由なのかもしれない。
自由って、案外つまらないものだ。
おもむろにえりあしを引っ張る小さな手の感触もなければ、気に入らないと渾身の力で背中を蹴り上げてくることもない。
寝落ちたローの体温で暖まって背中が汗ばむこともないし、ローの帽子が風で飛ぶ心配をすることもないのだ。
本当に、これを自由というのだろうか。
じゃあローは、温かい飯を毎日食べてふかふかの布団でやすらかに眠って、あのじいさんにフラスコの中で育つ小さな芽みたいに大事にされたなら、たとえ長く生きたとしてもそれがローの望んだことだと。
おれは本気で思っているのだろうか。
ちがう、ちがう。
コラソンが歩みを止めると、街灯に照らされて長く伸びた影がぶれるように揺れた。
ちがう、きっとちがう。ローが望んでいるのは、おれがローに望んでいるのはそんなことじゃない。
ただ毎日一緒に繰り返す日々が明日も保証されていること。
たとえどんなに平凡でも、逆にどんなに荒れ狂った危険が伴っても、明日も一緒にいると言う当たり前がそこにあること。
おれたちが望んでいた自由は、そういうことだったはずだ。
思い立って屋敷を出たときと同じ性急さで、コラソンはすぐさま踵を返した。
「うおっ」
「ぎゃっ」
脛のあたりにどん、と柔らかい何かがぶつかる。ぶつかった何かは小さく叫び、跳ね返って尻もちをついた。
「ロ、ロー」
「馬鹿だなコラさん。『凪』だからって、周りの音まで聞こえねェのかよ」
いつもの帽子を深くかぶり、コートの代わりにシーツをぐるりと身体に巻きつけたローは両手を突っ張るようにして、自力で立ち上がった。
「い……いつからそこに」
「ずっと跡をつけてたんだよ。本当にコラさんは、ファミリーの幹部だったとは思えねェ気の抜けようだな」
呆れた息をついて、ローはいつものように腕を組む。吐く息は白い。
「急に立ち止まるから何かと思ったら、また急に振り返るんだ。びっくりするだろうが」
「そ……うか、びっくりしたか」
「うるせぇよ」
未だ状況が飲みこめずぼやっと立ち尽くすコラソンの脛を、ぺちんとローの手がはたく。
「おれを置いてこうとしやがって。馬鹿コラソン」
「す、すまん」
「ゆるさねェ。あんなジジイとなんか暮らすもんか」
ローがコラソンの足をよじ登ろうとしたので、いつものようにその身体を背中に乗せる。一連の動作が身体に染みついていた。
いつもの場所に収まって落ち着いたのか、ローの身体がすとんと重みを増した気がする。
「さあ行くぞ」
ロボットを操縦するコックピットに座ったように、ローはコラソンの襟足を握った。
「行くってどこに」
「コラさんやっぱりおれを迎えに行こうと思って、戻ろうとしたんだろ。でもおれから来てやったんだ。先へ行くんだよ」
さき、とコラソンは呟いた。
ローの冷たい頬が、コラソンの後ろ首に触れる。
その温度に刺激されるように、コラソンは歩き始めた。
「で、でもよロー。こんな夜更けに歩きはじめたら、今晩は確実に野宿だぞ」
「寝なきゃいいじゃねェか。おれはここで寝るけど」
「おまっ、ずるいやつだな!」
ローは小さく笑った。ひきつったしゃっくりのような下手くそな笑い方だった。
「寝る場所だとか、身体に障るだとか、そんなこと今更どうだっていいんだ」
「──そうか。そうだな」
よくはない。野宿は間違いなくローの身体に響くだろう。コラソンの背中で揺られながら眠ることも、冷たい夜風に頬をなぶられることも。
ただ、離れることよりは確実にマシだと思えた。
暗闇に沈んだ商店街のような通りを抜け、住宅の立ち並ぶ郊外へと足を進める。
ローとコラソンの吐く白い息が、短い軌道を描いた。
「──寒いな」
「まぁな」
「春島の春とかに行きたいなあ」
「フレバンスはずっと春みたいな陽気だった」
「いいところだったんだな」
うん、とローが頷いた。
「いつか春になったらよ、ロー。あったかい街で風船買ってアイスでも食おうぜ」
「風船なんていらねぇよ」
「そんで買い物するんだ。お前の着古した服と履きつぶした靴、新しいの買ってやる」
「コラさんもそのだせぇシャツ変えたら」
「うるせぇな!」
ひとしきり言い合ったのち口を閉ざすと、途端に夜の静寂が広がる。
とてつもなく静かで、もの悲しく、暗くて深い夜にのみこまれないようコラソンは必死で足を動かした。
どこかにあるはずの、ふたりの春の日まで。
「──楽しみだな」
ローは白い息をひとつ吐いて、「そうだな」と小さくこたえた。
fin.
************
おれの忠実なクルーたち。
死んだ人間と話をしたことがあるか。
おれはある。お前たちと離れているあいだ、ある男の船に乗っているときに。
正確には、『死んだことのある人間』だ。
そいつは、アフロで、女のパンツが好きだった。
最期の最期の最期まで
麦わらの一味の船は、ガイコツの奏でるバイオリンソロの音色で朝が始まる。
バイオリンと言えどその琴線が弾きだす音はけたたましく、一瞬で目が覚めた。驚いて顔の上の帽子を取り落したほどだ。
「うるせェな!」
「おやっ、ローさんお目覚めですか! おはようございます、相変わらずすごいクマ!」
ヨホホホホホ、と奇天烈な笑い声をバイオリンの音にからませながら、細身の身体はするすると船中を駆け巡って音楽を響かせ続ける。
毎日、毎日。
「どうにかならねぇのか、アイツのやかましさは」
「あら、ルフィよりましでしょ」
ナミが答えたそばから、船室の中、具体的にはキッチンの方からドシャーンとある程度の硬さを持ったいろんなものがこんがらかりながら床にぶちまけられる音があられもなく響いた。
すぐさま、サンジの怒声とそれにかぶさるルフィの笑い声が追いかける。
「ね」
何が「ね」だ。そろいもそろってやかましいだけじゃねぇか。
ノラ猫のようにふいっと顔を背けて立ち去るローの背中に、ナミが声をかける。
「静かな場所に避難するなら、アクアリウムバーがおすすめよ」
振り返ると、ウインクと共に指差された地下への階段。従うのは癇に障るが、いつか聞いた船の中の水槽というのも興味がある。
しかめ面を崩さないまま、しかし素直に階段を降りた。
*
「──静かに過ごせると聞いて来たんだが」
「ヨホホホホ奇遇! これまた奇遇ですね! ようこそショータイムへ! 何から行きます? ピアノ協奏曲? バイオリン交響曲? それかアカペラなんてのも」
次から次へとどこからともなく楽器を取り出すガイコツに眩暈すら感じて、思わず近くにあったソファへ座り込んだ。
薄青く染まった部屋は暗がりの中どこまでも広がっている気がして、ブルックの明るい声が遠くへと広がっていくように聞こえる。
あいかわらずヨホホ、ヨホホと笑い続けるガイコツに辟易として、ため息をふきだしながら顔を上げた。
その頭の後ろを、巨大な魚が一匹ゆったりと水中を横切った。
「こりゃあ、すげぇな」
思わず上げた声に、ブルックが動きを止める。
手にしていたバイオリンを、指の骨がポロンとひとつはじいた。
「ローさんは、静かな場所がお好きですか」
「──というより、うるせぇのは気に障る」
「無音というのもまた、寂しいものですよ」
そんな場所、地球上にはないかもしれませんが、とブルックはまたバイオリンをひとつはじく。
「いや、ある」
「え」
「ガキの頃、音のない空間を作り出せる人がいた」
ブルックの真っ黒な眼窩が、興味深そうに光った気がした。案外ホネでも表情はわかるもんだな、とローはその顔をまじまじと見た。
「悪魔の実、の能力者ですか」
「ああ」
「なんという」
「ナギナギの実」
ああ、凪、とブルックは呟いて、水槽を見上げた。
つられて水槽に目を遣ると、今度は小魚が群れを成して泳いでゆき、鱗が反射させた光で床がゆらめく。
「音楽家殺しの能力です」
「かもな」
「その人は?」
水槽からブルックに視線を戻す。
青白く照らされたホネの顔は、全部を知ったうえで聞いているように見えた。
口を開き、また閉じて、思いがけず答えあぐねる。
数秒間をおいて、「死んだ」と答えた。
「そうですか」
ところで、とブルックはバイオリンをおろし、ローの顔を覗き込んだ。
「問わず語りで恐縮ですが、私は一度目の人生を別の船で過ごしました」
もう50年以上前のことです、とブルックがおもむろに隣に腰を下ろした。
ローとの間に、人ひとり座れるより少し狭いくらい。男同士が隣り合うには少し近すぎる気もするが、このままの声音で離すにはちょうどいい。
「命を預けた人がいました。その船の船長です。それまでの人生の大半を彼と過ごした」
嵐が来て、宴を開き、敵襲もあればお宝にありつくこともあった。
歌が好きで、クルーの多くが楽器を奏でることができ、船はずっとずっと歌っていた。
「船長が船を去っても、私たちは歌うことをやめなかった」
「──死んだのか」
「いいえ。船を降りたのです」
ブルックの顔は、座ってもなおローよりずっと高いところにある。見上げるのが億劫で、水槽の作りだす淡い影を見ていた。
「病気でした。グランドラインを旅しながら治療を続けるにはあまりに過酷で、無謀と知りながら彼はグランドラインからの脱出を試みました」
離れてからの彼の行方も、生死もわからない。無事グランドラインを抜けることができたのか、そして病を治すことができたのか。はたまた、船を離れてすぐに海の底へと沈んだのか。
「海賊で、しかも船長です。冒険も半ばに、自らの船を離れることは死ぬより辛い。私も、彼を見送るとき、これは死ぬより辛いと思った。
──しかしいざ自分が死んで、ちがうとわかった」
アフロの影が、ゆっくりと動く。
なぜ自分はこんな話にまともに耳を傾けているのか、思考にぼんやりともやがかかったようになって考えられない。
アクアリウムバーが作り出す景色と、音のせいだ。そう決めつけてローは黙って続きを促した。
「肉のついていた私の身体から血が吹き出し、袋から破れたように魂が抜けていくのがわかります。ピアノの鍵盤をたたく力がなくなり、手を上げることもできず、まっすぐ椅子に座り続けることもできなくて私は倒れました」
ああ、死んでいく。そう思ったとき、はたとわかった。
「私の命が、この世からすぅっと離れていくと同時に、私が彼から、ヨーキ船長から、すぅっと遠ざかろうとしている感覚があった。そのときにわかったのです。彼は生きている。生きている彼の命から、私が離れていこうとしている。うれしくて、うれしくて──こんなにも辛いことはありません」
ブルックが立ち上がった。あまりの唐突さに目を剥いて、その背中を見上げる。ソファはきしみもしなかった。
「死ぬまでわかりませんよ。あなたが本当に死ぬときまで」
ブルックは長い足を軽やかに動かして、アクアリウムバーの中心にある太い柱をぐるりと廻ったカウンターに近づくと、柱に組み込まれた小さなドアのようなものを開けた。
「サンジさんからの差し入れです」
取り出したのは、こぶりのトレンチに乗ったティーカップ。湯気を立てていた。
「──からくり屋敷みてェだな。この船は」
「フランキーさんの力作だそうです」
温かい紅茶がなみなみと注がれたカップを受け取って、自分の手指が驚くほど冷えていることに気付いた。
*
何度も死にかけた。
意識が遠のくたびにあの船の奇妙なガイコツの言葉を思い出し、なにかがやってくるのを期待する。
そしてそのたびに、歯が軋むほど食いしばって涙をこらえた。
ああ、ほんとうの、ほんとうに、死んじまったんだなコラさん。
死のうとしている自分が生きたコラさんから離れていく感覚はちっとも訪れず、ただ痛みとぼんやりとした痺れを残して意識を手放す。
そして目を覚まして、あまりの安堵にえづくのだ。
まだだ、おれはまだ死なない。
だから、まだわからない。
おれが生きている限り、コラさんが生きている可能性はどこかにある。
最期の最期の最期まで、おれは諦めない。
fin.
背中にのしかかる重みは命そのままの重みだ。
吹雪く視界は灰色に霞んで、頬にぶち当たる雪にはもう冷たさも感じない。
なのに、背中はうっすらと汗ばんでいる。息が上がる。
しがみつく力をなくし、ゆっくりとずり下がっていくローを揺すりながら背負い直し、足跡すらつかない雪原の丘を登っていった。
なんでこんなところでおれは革靴を履いているんだろうと、雪に埋まる足元を見た。先の尖ったそれはつまさきを締め付け、長い道のりを、それも雪深い山道を歩くには適していなかった。
冷えと全身の痺れのせいで、じうじうと軋むような音が身体の中から響いた。音なんて聞こえるはずがないのに、不思議なもんだと思う。
──いつかこの、永遠のような冬を抜けたら、ローを連れて街に行こう。
こいつにあたらしい服と靴を買って、お気に入りの帽子は修繕に出してやろう。まっさらな格好をして照れながら怒るローを想像すると、知れずと口角が上がる。
ローは力なく頬を預け、目を閉じていた。
──あぁ、早く春は来ねェかなぁ。
あの春の日まで
「君は白鉛病だね」
しわがれた声がコラソンの足を止めた。ローは咄嗟に黒い羽根のコートに顔をうずめて身を隠した。
背中に回した腕に力がこもり、冷たい汗が首筋を這う。
振り返ると、上品な装いの老人がはるか高くにあるコラソンの顔と、その背中に乗った少年を見上げて目を細めていた。
のどかな町で、広場の中心から吹き上げる噴水の音が牧歌的に響き続けている。
──ばれた。
男を見下ろした数秒の間にいくつかの考えが頭をよぎる。逃げる、無視する、黙らせる──どれも実行できないまま、コラソンは口を開いた。
「──知っているのか」
おい、やめろよコラさん、とローがか細い声で、それでも痛々しく小さく叫ぶ。
「あぁ知っている。私は医者だ。いや、正確には医者だった」
「医者!? じゃあお前白鉛病を」
「治せやしない。それはもう、誰にも治せないんだよ」
ローが耳を塞ぐように帽子のつばを両手でつかんだ。小さな心を打ちのめした現実から自分を守るための、ローの癖だ。
どいつもこいつも、余計なことばかり言いやがる。
ローを支える方と逆の手で老人の胸ぐらをつかみ、枯れ枝のような老人の脚が宙に浮かぶほどまで引き上げた。
「おいジジイ、からかうだけなら余所を当たれ」
サングラスの下から睨みあげても、老人は怯えるでもなくただ息苦しそうに咳をして、「からかってなどいない」といやにはっきりと言った。
「ここでは話しにくい。私の家へ来なさい」
「いやだ、コラさん。もういい、行こう」
ローがコートの襟首を引っ張る。こんなに弱弱しい声を出す奴ではなかった。ガキらしくない低く呻くようなドスを聞かせた声で、斜に構えて人を睨みあげながらしゃべるような奴だった。
こんなふうにか弱い声を出すまで弱らせたのはおれだ。半年以上歩き回って実のない旅を続けるには、ローの心も体もひび割れすぎている。
それでも、だからか、コラソンはすぐさま老人の前から歩き去ることができない。ローが焦れて何度襟首を引っ張っても、怯まず見上げてくる老人を検分するように見つめ返した。
すがらせてくれるなら結構じゃないか。
「何かいい情報でも教えてくれるのか」
「情報……というより、提案がある。何よりその子供は衰弱しておろう。うちで休むといい」
きびすを返した老人の小さな背中を見つめ、ためらったのは最初の一歩だけだった。
コラさん、とローが怒ったようにとげのある声で今度は髪を引っ張り始める。
「まぁいいじゃねェかロー、白鉛病について何かわかるかもしれないぞ」
「信じらんねェ! 見ず知らずのジジイにほいほいついてくなんて、お前本当にドンキホーテファミリーの幹部なんて務まったのかよ! 罠だったらどうすんだよ!」
「そんときゃお前を連れて逃げるさ」
「またドジってひでェことになるのが目に見えてんだよ!!」
ぎゃんぎゃんわめくローをいなしながら確実に老人の後を追う。
コラソンに牙を剥くときのローが一番元気だ。弱りきった身体に血が巡り、目に光が灯り、歯を剥いてコラソンの名前を呼ぶ。
こんなにもいとおしい命はない。
*
頑丈な作りの塀。巨大な門扉。シンプルでありながら金をかけた匂いのする邸宅に、二人は案内された。
ひさしく座っていないスプリングの効いたやわらかいソファに腰を下ろす。ローは不思議そうに、革張りのそれを撫でていた。
あたたかい紅茶も久しぶりだった。一度目にまるごとカップをひっくり返したコラソンに給仕されたそれは二杯目だ。ローは甘いココアのカップを両手で支えて大事に飲んでいる。
「フレバンスの話は聞いているよ。私は医者として、何もできなかった」
老人が言う。
ローはカップから口を離し、また帽子の縁に手を遣った。
「フレバンスが外から医者を呼ぶことができなかったのは、もちろん進んで行く者がいなかったからだ。ただ、ゼロではない。馬鹿のように自分の中にある善意を信じてフレバンスに赴こうとした医者も少なからずいた」
「あんたもか、じいさん」
老人は答えなかった。
「まさか生き残りがいるとは思わなかったが、既に罹患した者を治療した報告は皆無だ。私に今すぐこの子を治療することはできん」
ただ、と老人は随分高くにあるコラソンの顔を見上げた。
「あんたらは治療法を探して旅していると言った。あてどなく彷徨っているに近い。苛酷すぎる。少なくとも、病んだ子供を連れて行うべきではない」
「そんなこと、コラさんもおれも重々承知してんだよ! 今更あんたにとやかく言われることじゃねェ!」
すかさず牙を剥いたローを静かに見下ろして、老人は小さく「すまない」と言った。
唐突な謝罪に、ローが言葉に詰まって息をのむ音が聞こえた。なだめるように、コラソンはローの帽子に手を置き、軽くその頭を引き寄せた。
「わかってんだ。でも、こいつやおれのいたところは異常だった。たとえ白鉛病じゃなくても、あのままではいられなかった」
老人は手元のカップを口に運び、「そうか」と小さく呟いた。そして一息置いた後、話し始める。
「私は今この家に一人でね」
ぐるりと家の中を見渡す老人の視線に釣られ、コラソンも顔を上げた。
整った調度品。質のいい家具と掃除の行き届いた室内は一人暮らしの老人らしくはない。だれか手伝う者を雇っているのだろう。
「妻に先立たれて仕事をやめてからも、細々と白鉛病の研究を続けていた。もはや症例が存在しないと思われている病だ。研究に学術的な価値はあっても実践的な価値は今現在見いだせない。少なくとも、それが共通見解だ」
生きた症例とも言えるローに、老人が目線を据える。ローは珍しく狼狽えるように、コラソンに身を寄せた。
「君を助けたい」
老人が吐き出すように言う。重たく、どしんと真正面からぶつかるようにローに、そしてコラソンに響いた。少なくともこの旅で初めて出会った、味方だった。
「治療法はわからない。この先見つかるかもわからない。しかし見つけたいと思う。少なくとも、君が大人になるまでの命を繋げるように」
ローが戸惑った顔で見上げてくるのがわかった。それでもコラソンは、その目を見つめ返すことができなかった。気付きながら、受け止め損ねた。老人が次に何を言うのかわかっていた。
「この子を私のところに置いていかないか」
「あ」とも「な」ともつかない小さな声をローはあげた。
人ごみの中で子供が母親を見失わないようにそのスカートの裾をぎゅっと握りしめる。そんな仕草で、ローはコラソンの太腿のあたりの生地を握った。
そのあとに続いた老人のさまざまな言葉は、コラソンの頭に物理的な痺れだけを与えて胸には届かなかった。
ただ、ローを手放すか手放さないか。そのことだけがぐるぐると頭を巡っては取り留めなく霧散して、しばらくするとまた集まって頭をぐるぐる回り始める。そんな感覚が熱を伴ってぼんやりとコラソンの頭を占めた。
もしコラソンがローを老人に預けたら、ということを老人は丁寧に説明した。その喋り口調は信頼できる気がしたし、会って数時間の男の話をこんなふうに聞いていること自体がやっぱり間違っているような気もした。
「どうする」
黙って話を聞くばかりだったコラソンに、老人が返事を促した。ローが服を握る力がぎゅっと強くなる。
いやだとも、ふざけんなとも、ローは言わなかった。ただ不安げに、呆けたように黙りこくるコラソンを睨みつけながら、コラソンの言葉を待っていた。試されているのだとわかった。
「──考えさせてくれ」
結局言えたのはこんなことで、老人はわかっていたかのように頷いた。
*
老人の屋敷を出ると、ローは堰を切ったように喚き始めた。
「なんだよあの態度は! 真面目な顔しやがって、『考えさせてくれ』だぁ!? 何を考えるってんだよ!」
「そ、そんな怒んなよ」
「煮え切らねェコラさんが一番腹立つんだよ! お前まさかおれをあんなジジイにおっつけようなんてつもりじゃねェだろうな」
「ち、」
ちがう、と言い切るより早く、何もない平らな地面に蹴つまずいて派手に転んだ。したたかにケツを打つ。
まったく、と言いながらローは小さな両手でコラソンの手を引っ張り上げた。
「すまん」
「そうやってドジばっかやってるくせに、妙なこと考えるんじゃねぇよ」
立ち上がってケツの砂埃を払う。ローは偉そうに腕を組んで、その顔を睨みあげた。
「もう出ようぜ、こんな街」
「待て待て、もう夕方だし、さっきのじいさんがせっかく泊めてくれるって言ってんだ。今夜はここに泊まろう」
老人は宿を持たない二人に、快く部屋を一室貸してくれると申し出た。
しかしローは依然として首を縦に振らない。
「いやだ! コラさんが変な気起こす前にさっさと街を出るんだ」
「次の街に着く前に夜になっちまう」
「そしたらいつもみたいに野宿すりゃいいだろ」
「馬鹿野郎、お前が」
お前がもう、野宿に耐えられる身体じゃないだろう。
言いかけて飲み込んだ。
一言でも自分の口が飛び出しかけたことが、とてつもなく哀しかった。
黙り込んだコラソンの顔を覗き込み、ローは「おれは絶対あんなところに泊まらないからな」とそっぽを向いた。
その小さな動きで、不意にローがよろめく。
「おい!」
慌てて受け止めると、ローは力なくコラソンの腕に寄りかかり、小さく「ちくしょう」と呻いた。
「馬鹿野郎、騒ぐからだ」
ローの身体から、何か大切なものが抜けていく。穴の空いた袋から空気が漏れていくように、かすかな音を立ててしぼんでいく。その穴は塞いでも塞いでも新しい穴が次から次に空いて、生かそうともがくコラソンを鼻で笑うようにローの何かを損なおうとしていた。
そっとローを抱き上げ、両手に抱えこむ。
随分と軽くなった。
ローを揺すればカラカラと乾いた音が鳴りそうで、そんな実感にぎゅっと胸が詰まる。喉と鼻に塩辛さが押し寄せ、コラソンは慌ててそれを飲み込んだ。
ぐったりと身体を預け、静かに息をするローをなるべく動かさないように、コラソンは老人の屋敷へと踵を返した。
*
ふくらみたてのパンのようにやわらかく盛り上がったベッドは、横たわるとどこまでも沈んでいった。
頬に触れる生地はなめらかで、さっぱりと乾いているのにひやりと冷たく、肌に心地いい。
老人が与えてくれてた寝室はその家具のどれもが上等に見える。ローの傷んだ身体を癒すには最適じゃないかと、やすらかに眠るローの額を撫でてコラソンは息をついた。
老人はローとコラソンに角部屋に静かな一室を与え、夕食の準備までしてくれた。温かいものを腹に入れて落ち着いたのか、ローは食事中からうとうとと微睡み、食事を終えるとどこかへ落ちていくように眠った。
白くまだらに染まったその手は、眠る子供のそれとは思えないほど冷たい。
ローがどこか、コラソンの手の届かないところに行こうとしている。それも追いつかないほどの速さで。
──それならいっそ、ここでゆっくりと暮らしながら少しでも延命する方法を探した方がローにとっていいんじゃないのか。
思えば思うほど、それよりほかにない気がして、いてもたってもいられなくなった。
そうだ、今すぐローを置いて出ていこう。
コラソンが悩む素振りをすればするほど、ローはふざけんなと怒るに決まっている。
そう、ローは怒るだろう。
おれを置いていくのかコラさんと、コラソンをなじるだろう。
それでもいい。
ローが少しでも長く生き延びて、自分の意志で生きられたらそれで。
善は急げだ、とコラソンは慌てて自分に触れる。
『凪』は全てを吸い込んで、コラソンの衣擦れの音さえ消した。
革靴に足を滑り込ませ、コートを羽織る。
荷物は──ローを背負う以外に、持っているものなんてなかった。
支度を終えると、コラソンは音も立てず扉を開け、そそくさと部屋の外に抜け出した。
ローが眠るベッドの方を振り向くことはできなかった。
ただ、諦めずに生きてくれよと、願うしかない。
静まり返った屋敷を抜け出すのは、造作もなかった。
あっけなく屋敷の門をくぐり、造りの立派なそれを一度だけ振り仰ぐ。
城のようだな、と思う。
幼いころのかすかな記憶がチリッと焼けるように脳裏に浮かんだ。
夜の街は静まり返っていたが、どこかに繁華街があるのだろう。遠くの方からざわめきが届く。
灰色の石畳を照らす街灯の光に沿って、あてどなく足を進めた。
どこへ行こうなあ、とたいして考えるつもりもなくぼんやりと思った。
もう兄の元へは帰れない。
いずれ海軍に戻るとしても、まずは本部と連絡を取ってルートを確認する必要がある。
その間、自分は何もすることがないのだと改めて気付いた。
ローの病気を治すという目的を失って、今こそ自分は自由なのかもしれない。
自由って、案外つまらないものだ。
おもむろにえりあしを引っ張る小さな手の感触もなければ、気に入らないと渾身の力で背中を蹴り上げてくることもない。
寝落ちたローの体温で暖まって背中が汗ばむこともないし、ローの帽子が風で飛ぶ心配をすることもないのだ。
本当に、これを自由というのだろうか。
じゃあローは、温かい飯を毎日食べてふかふかの布団でやすらかに眠って、あのじいさんにフラスコの中で育つ小さな芽みたいに大事にされたなら、たとえ長く生きたとしてもそれがローの望んだことだと。
おれは本気で思っているのだろうか。
ちがう、ちがう。
コラソンが歩みを止めると、街灯に照らされて長く伸びた影がぶれるように揺れた。
ちがう、きっとちがう。ローが望んでいるのは、おれがローに望んでいるのはそんなことじゃない。
ただ毎日一緒に繰り返す日々が明日も保証されていること。
たとえどんなに平凡でも、逆にどんなに荒れ狂った危険が伴っても、明日も一緒にいると言う当たり前がそこにあること。
おれたちが望んでいた自由は、そういうことだったはずだ。
思い立って屋敷を出たときと同じ性急さで、コラソンはすぐさま踵を返した。
「うおっ」
「ぎゃっ」
脛のあたりにどん、と柔らかい何かがぶつかる。ぶつかった何かは小さく叫び、跳ね返って尻もちをついた。
「ロ、ロー」
「馬鹿だなコラさん。『凪』だからって、周りの音まで聞こえねェのかよ」
いつもの帽子を深くかぶり、コートの代わりにシーツをぐるりと身体に巻きつけたローは両手を突っ張るようにして、自力で立ち上がった。
「い……いつからそこに」
「ずっと跡をつけてたんだよ。本当にコラさんは、ファミリーの幹部だったとは思えねェ気の抜けようだな」
呆れた息をついて、ローはいつものように腕を組む。吐く息は白い。
「急に立ち止まるから何かと思ったら、また急に振り返るんだ。びっくりするだろうが」
「そ……うか、びっくりしたか」
「うるせぇよ」
未だ状況が飲みこめずぼやっと立ち尽くすコラソンの脛を、ぺちんとローの手がはたく。
「おれを置いてこうとしやがって。馬鹿コラソン」
「す、すまん」
「ゆるさねェ。あんなジジイとなんか暮らすもんか」
ローがコラソンの足をよじ登ろうとしたので、いつものようにその身体を背中に乗せる。一連の動作が身体に染みついていた。
いつもの場所に収まって落ち着いたのか、ローの身体がすとんと重みを増した気がする。
「さあ行くぞ」
ロボットを操縦するコックピットに座ったように、ローはコラソンの襟足を握った。
「行くってどこに」
「コラさんやっぱりおれを迎えに行こうと思って、戻ろうとしたんだろ。でもおれから来てやったんだ。先へ行くんだよ」
さき、とコラソンは呟いた。
ローの冷たい頬が、コラソンの後ろ首に触れる。
その温度に刺激されるように、コラソンは歩き始めた。
「で、でもよロー。こんな夜更けに歩きはじめたら、今晩は確実に野宿だぞ」
「寝なきゃいいじゃねェか。おれはここで寝るけど」
「おまっ、ずるいやつだな!」
ローは小さく笑った。ひきつったしゃっくりのような下手くそな笑い方だった。
「寝る場所だとか、身体に障るだとか、そんなこと今更どうだっていいんだ」
「──そうか。そうだな」
よくはない。野宿は間違いなくローの身体に響くだろう。コラソンの背中で揺られながら眠ることも、冷たい夜風に頬をなぶられることも。
ただ、離れることよりは確実にマシだと思えた。
暗闇に沈んだ商店街のような通りを抜け、住宅の立ち並ぶ郊外へと足を進める。
ローとコラソンの吐く白い息が、短い軌道を描いた。
「──寒いな」
「まぁな」
「春島の春とかに行きたいなあ」
「フレバンスはずっと春みたいな陽気だった」
「いいところだったんだな」
うん、とローが頷いた。
「いつか春になったらよ、ロー。あったかい街で風船買ってアイスでも食おうぜ」
「風船なんていらねぇよ」
「そんで買い物するんだ。お前の着古した服と履きつぶした靴、新しいの買ってやる」
「コラさんもそのだせぇシャツ変えたら」
「うるせぇな!」
ひとしきり言い合ったのち口を閉ざすと、途端に夜の静寂が広がる。
とてつもなく静かで、もの悲しく、暗くて深い夜にのみこまれないようコラソンは必死で足を動かした。
どこかにあるはずの、ふたりの春の日まで。
「──楽しみだな」
ローは白い息をひとつ吐いて、「そうだな」と小さくこたえた。
fin.
************
おれの忠実なクルーたち。
死んだ人間と話をしたことがあるか。
おれはある。お前たちと離れているあいだ、ある男の船に乗っているときに。
正確には、『死んだことのある人間』だ。
そいつは、アフロで、女のパンツが好きだった。
最期の最期の最期まで
麦わらの一味の船は、ガイコツの奏でるバイオリンソロの音色で朝が始まる。
バイオリンと言えどその琴線が弾きだす音はけたたましく、一瞬で目が覚めた。驚いて顔の上の帽子を取り落したほどだ。
「うるせェな!」
「おやっ、ローさんお目覚めですか! おはようございます、相変わらずすごいクマ!」
ヨホホホホホ、と奇天烈な笑い声をバイオリンの音にからませながら、細身の身体はするすると船中を駆け巡って音楽を響かせ続ける。
毎日、毎日。
「どうにかならねぇのか、アイツのやかましさは」
「あら、ルフィよりましでしょ」
ナミが答えたそばから、船室の中、具体的にはキッチンの方からドシャーンとある程度の硬さを持ったいろんなものがこんがらかりながら床にぶちまけられる音があられもなく響いた。
すぐさま、サンジの怒声とそれにかぶさるルフィの笑い声が追いかける。
「ね」
何が「ね」だ。そろいもそろってやかましいだけじゃねぇか。
ノラ猫のようにふいっと顔を背けて立ち去るローの背中に、ナミが声をかける。
「静かな場所に避難するなら、アクアリウムバーがおすすめよ」
振り返ると、ウインクと共に指差された地下への階段。従うのは癇に障るが、いつか聞いた船の中の水槽というのも興味がある。
しかめ面を崩さないまま、しかし素直に階段を降りた。
*
「──静かに過ごせると聞いて来たんだが」
「ヨホホホホ奇遇! これまた奇遇ですね! ようこそショータイムへ! 何から行きます? ピアノ協奏曲? バイオリン交響曲? それかアカペラなんてのも」
次から次へとどこからともなく楽器を取り出すガイコツに眩暈すら感じて、思わず近くにあったソファへ座り込んだ。
薄青く染まった部屋は暗がりの中どこまでも広がっている気がして、ブルックの明るい声が遠くへと広がっていくように聞こえる。
あいかわらずヨホホ、ヨホホと笑い続けるガイコツに辟易として、ため息をふきだしながら顔を上げた。
その頭の後ろを、巨大な魚が一匹ゆったりと水中を横切った。
「こりゃあ、すげぇな」
思わず上げた声に、ブルックが動きを止める。
手にしていたバイオリンを、指の骨がポロンとひとつはじいた。
「ローさんは、静かな場所がお好きですか」
「──というより、うるせぇのは気に障る」
「無音というのもまた、寂しいものですよ」
そんな場所、地球上にはないかもしれませんが、とブルックはまたバイオリンをひとつはじく。
「いや、ある」
「え」
「ガキの頃、音のない空間を作り出せる人がいた」
ブルックの真っ黒な眼窩が、興味深そうに光った気がした。案外ホネでも表情はわかるもんだな、とローはその顔をまじまじと見た。
「悪魔の実、の能力者ですか」
「ああ」
「なんという」
「ナギナギの実」
ああ、凪、とブルックは呟いて、水槽を見上げた。
つられて水槽に目を遣ると、今度は小魚が群れを成して泳いでゆき、鱗が反射させた光で床がゆらめく。
「音楽家殺しの能力です」
「かもな」
「その人は?」
水槽からブルックに視線を戻す。
青白く照らされたホネの顔は、全部を知ったうえで聞いているように見えた。
口を開き、また閉じて、思いがけず答えあぐねる。
数秒間をおいて、「死んだ」と答えた。
「そうですか」
ところで、とブルックはバイオリンをおろし、ローの顔を覗き込んだ。
「問わず語りで恐縮ですが、私は一度目の人生を別の船で過ごしました」
もう50年以上前のことです、とブルックがおもむろに隣に腰を下ろした。
ローとの間に、人ひとり座れるより少し狭いくらい。男同士が隣り合うには少し近すぎる気もするが、このままの声音で離すにはちょうどいい。
「命を預けた人がいました。その船の船長です。それまでの人生の大半を彼と過ごした」
嵐が来て、宴を開き、敵襲もあればお宝にありつくこともあった。
歌が好きで、クルーの多くが楽器を奏でることができ、船はずっとずっと歌っていた。
「船長が船を去っても、私たちは歌うことをやめなかった」
「──死んだのか」
「いいえ。船を降りたのです」
ブルックの顔は、座ってもなおローよりずっと高いところにある。見上げるのが億劫で、水槽の作りだす淡い影を見ていた。
「病気でした。グランドラインを旅しながら治療を続けるにはあまりに過酷で、無謀と知りながら彼はグランドラインからの脱出を試みました」
離れてからの彼の行方も、生死もわからない。無事グランドラインを抜けることができたのか、そして病を治すことができたのか。はたまた、船を離れてすぐに海の底へと沈んだのか。
「海賊で、しかも船長です。冒険も半ばに、自らの船を離れることは死ぬより辛い。私も、彼を見送るとき、これは死ぬより辛いと思った。
──しかしいざ自分が死んで、ちがうとわかった」
アフロの影が、ゆっくりと動く。
なぜ自分はこんな話にまともに耳を傾けているのか、思考にぼんやりともやがかかったようになって考えられない。
アクアリウムバーが作り出す景色と、音のせいだ。そう決めつけてローは黙って続きを促した。
「肉のついていた私の身体から血が吹き出し、袋から破れたように魂が抜けていくのがわかります。ピアノの鍵盤をたたく力がなくなり、手を上げることもできず、まっすぐ椅子に座り続けることもできなくて私は倒れました」
ああ、死んでいく。そう思ったとき、はたとわかった。
「私の命が、この世からすぅっと離れていくと同時に、私が彼から、ヨーキ船長から、すぅっと遠ざかろうとしている感覚があった。そのときにわかったのです。彼は生きている。生きている彼の命から、私が離れていこうとしている。うれしくて、うれしくて──こんなにも辛いことはありません」
ブルックが立ち上がった。あまりの唐突さに目を剥いて、その背中を見上げる。ソファはきしみもしなかった。
「死ぬまでわかりませんよ。あなたが本当に死ぬときまで」
ブルックは長い足を軽やかに動かして、アクアリウムバーの中心にある太い柱をぐるりと廻ったカウンターに近づくと、柱に組み込まれた小さなドアのようなものを開けた。
「サンジさんからの差し入れです」
取り出したのは、こぶりのトレンチに乗ったティーカップ。湯気を立てていた。
「──からくり屋敷みてェだな。この船は」
「フランキーさんの力作だそうです」
温かい紅茶がなみなみと注がれたカップを受け取って、自分の手指が驚くほど冷えていることに気付いた。
*
何度も死にかけた。
意識が遠のくたびにあの船の奇妙なガイコツの言葉を思い出し、なにかがやってくるのを期待する。
そしてそのたびに、歯が軋むほど食いしばって涙をこらえた。
ああ、ほんとうの、ほんとうに、死んじまったんだなコラさん。
死のうとしている自分が生きたコラさんから離れていく感覚はちっとも訪れず、ただ痛みとぼんやりとした痺れを残して意識を手放す。
そして目を覚まして、あまりの安堵にえづくのだ。
まだだ、おれはまだ死なない。
だから、まだわからない。
おれが生きている限り、コラさんが生きている可能性はどこかにある。
最期の最期の最期まで、おれは諦めない。
fin.
目が覚めるとまず隣に手を伸ばす。
カーテンの隙間から漏れ出る朝日はいつも彼女の肩のあたりに光の筋をつくっていて、それを頼りに手を伸ばす。
どこか遠くで早起きの犬が鳴いて、家の前をランニングするじいさんの足音も聞こえて、紛れもない朝がやってきていたけど、ナミさんはそんなこと気にも留めずにすこすこと寝ている。そんな彼女の髪をふわふわと少し撫で、顔の向きによっては起こさないようそっとどっかにキスして、ようやくベッドから起き上がる。日課だ。
でも、今日は隣に手を伸ばした時からなにかがちがった。
「あれ」
思わず声が出る。隣の布団はぺたんとしぼんでいて、シーツは冷たくなっていた。
ナミさんがいない。
「あれえ」
寝ぼけている自覚があったので、夢かもしれないと思い、無作為に隣をまさぐる。信じられない寝相で彼女がうずくまっている可能性も無きにしも非ずだ。
しかし、手と足を使ってもぞもぞやっても、どこにも彼女はいなかった。
ここでようやくおれは目を開ける。開いたことで、今まで閉じていたのだと自覚した。
やっぱりいない。
なんで、なんで、と急に悲しくなった。
昨日は一緒に寝たのに、夜中目が覚めてちゃんと彼女が腕の中にいることまで確認したのに。
のろのろと頭をもたげ、起き上がる。
ベッドの横の小さなローテーブルに置いた目覚まし時計。午前7時半。
たしかナミさんは、今日は仕事も休みで、用事もなんにもないし、朝急がなくていいから泊まってってもいいかも、とそう言った。
帰っちゃったのかね。
朝は彼女のために特別うんまいコーヒーを入れて(パティの店からぶんどってきた50グラム1万2千円くらいのやつ)、さくっと朝食を作って朝からたのしませようとばかり思っていたのに。
「あーあー」
がっくり。ため息の反動で伸びをしたとき、隣の部屋からジャーと水音が聞こえた。
隣はリビングキッチン。
え、おれの音の部屋だよな。ナミさんいるの?
ミーアキャットのように首を伸ばし、音を感知すると、同時に香ばしくてほんのり甘い小麦の香りがふわんと音楽のように流れ込んできた。
──パンケーキ?
少し焦げの強い香りも感じて、やっぱりそうだ、パンケーキを焼くにおいだと確信する。
ナミさんだ。ナミさんがおれのキッチンで、パンケーキを焼いている。
お、おれのためにィ!? とぶっ飛んで天井に突き刺さる勢いで気分が浮上し、慌ててスリッパにつま先を突っ込み部屋を飛び出そうとした。
いやでも、待てよ。
ナミさんが黙っておれより先に起きて、ひとりで(おそらく)朝めしの用意をしている。きっと、たぶん、絶対、おれを驚かそうとしているのだ。
嬉しい、とじんわり胸の中に温かい水がしみこむ。
でも、だからこそ、彼女の気持ちを無碍にするわけにはいかない。おれはしっかり朝寝坊したように起きてきて、出来上がった彼女のパンケーキの前でわっと驚き感動しなければならない。
もう十分驚いたし、感動もしたけど。それこそひゅるんと顔が緩むくらい、喜んでいるが。
どうしよう、どうする、こっそりキッチンの前まで言って、様子を見るか。でも様子を見てんのがばれたら、ナミさんは怒るだろうしなあ。
思い立って、キッチン側の壁に近づいた。壁にくっつけてあるデスクの上のものを肘から下を使ってざっと退かし、浅く腰掛けて壁に頭を付けてみた。
至って静かだが、ときおりナミさんの声と思われる小さな独り言が届いた。
「よ、ほ、とりゃ」と掛け声らしきものが聞こえる。パンケーキをひっくり返そうとしているのかもしれない。
その声の可愛さの威力を前に、おれはひれ伏す。
がっくりと頭を垂れて、膝に額をくっつけたまま数十秒。彼女の可愛さに殺されかけたことなどあまた知れないが、その威力たるや。
おれはまた、懲りずに壁に耳を付けた。
ガチャガチャと皿の鳴る音がして、ぺちんと気の抜けた音もした。パンケーキを皿に移したんだろう。
完成かな、まだ焼くのだろうか、とソワソワ様子を見ているうちに、ナミさんはジャバジャバと激しく水を使い始めた。
どうも手を洗っているような様子ではない。完成したのなら、片付けは後にするだろう。皿に耳をくっつけて、神経を研ぎ澄ます。
キュッと歯切れよく水音がとまり、ざかざかと軽いものがこすれる音が聞こえる。
なるほど、野菜だ。レタスか何かを洗っていたのだ。
サラダを作るつもりなんだろう。パンケーキに添えるのかもしれない。
野菜を先に洗って準備しておけば、パンケーキは焼き立てで食えるのに、多分勢い余ってパンケーキから焼いちゃったんだろうなあ、とこれまた可愛らしさにもだえる。
でも、そろそろ完成だろう。おれもこっそり部屋を抜け出し、先に顔を洗ってこようか。
ナミさんが引き出しをいくつか開け、カトラリーを探している気配がある。
食器棚の右から二番目の引き出しさ、と頭の中で答えながらおれは机から腰を上げた。
と、隣の部屋から小さく声が聞こえた気がした。
「え」
足を止め、素早く壁に耳を付けるが、もう声は聞こえない。ときおりカトラリーのぶつかる音が聞こえるだけだ。
いま、いま、「いただきます」って聞こえた気がした。
さ、先に食べちゃうのかい。
しんとした朝のキッチンで、ナミさんが一人でもぐもぐやっている姿を思い浮かべるとやっぱり可愛かったが、ナミさんが嬉しそうにおれを起こしに来て、「朝ご飯作ったの」とちょっと照れながら言うところをばっちり期待していたおれは思わずへなっと座り込んだ。
しかしすぐに、笑いが込み上げる。
目が覚めてしまって、おなかがすいて、おれを起こそうか迷って、でも寝かしておいてやろうと思って、ひとりキッチンへ向かったんだな。
冷蔵庫の中、勝手に開けてもいいかなとかちょっと迷って、その中にパンケーキの材料が綺麗にそろっているのを見つけて、作ってみちゃおうかと手を伸ばす。
野菜は昨日の夕食でおれが作った残りがあったから、きっとそれを洗って。
「あれ、起きてたの」
唐突に壁越しではない彼女の声が届いて、びくっと情けなく反応した。しゃがみこむおれを怪訝な顔で見下ろして、ナミさんはおれが貸した寝間着代わりのTシャツ姿で入り口のところに立っている。
「なにやってんの」
「や……なにも。今起きたとこ。ナミさん早いね」
「うん、あのね」
てくてくとナミさんは歩み寄ってくると、おれの真横にすとんとしゃがみこんだ。
「朝ご飯の準備しようと思って。勝手に冷蔵庫の中使っちゃった。ごめんね」
「や、もちろん構わねェよ。あれ、でも、あれ」
盗み聞きしていたなんて言えず、「でも先に食べてたんじゃ」とも言えなくてもごもごするおれを不思議そうに覗き見てから、ナミさんは目を逸らして言った。
「でも、上手くできなかったから。やっぱりサンジ君が作って」
パンケーキ、焦げちゃった。
納得がいかないし、ふがいないし、気まずいけど、といった雰囲気満載の顔でナミさんは言った。
焦げちゃったのか。そうか。それで、焦げたやつを自分で片付けてたんだな。
「まだ一枚、焦げたのがあるんだけど」
「じゃあそれはおれにちょうだい。おれが焼いたのをナミさんが食って」
ナミさんの手を取って立ち上がる。
開いたままの扉からは、パンケーキのこうばしくて力強い香りがどんどん流れ込んできた。
彼女の手を引いてキッチンへ行くと、コンロの上にフライパンと、横にパンケーキの生地がそのまま余っていた。
彼女を座らせ、作ってもらったタネを使わせてもらう。
「また、朝めし作ってよ」
「もうやだ」
「なんで」
「なんでって、あんたの方が上手いからでしょ」
「でも、たまにはさ」
「まあ、たまにはね」
「普段はおれが作るから」
ねえ、と突然ナミさんが笑いだしたので、パンケーキをくるんとひっくり返してから彼女の方を見遣った。
肩を揺らして、彼女は言う。
「別に私たち一緒に住んでないのにね」
じゅう、と焼けていない面が音を立てる。
「じゃあ、一緒に暮らそうよ」
口をついて出た言葉に、ナミさんはおれを見上げる。
そのまま彼女がなにも言わないので、しまった、さいあくだ、しにたい、とどんどん焼けていくパンケーキを睨みながら自分を呪う。
「いいんじゃない」と彼女が答えたとき、おれは初めてパンケーキを焦がしたことに気付いた。
カーテンの隙間から漏れ出る朝日はいつも彼女の肩のあたりに光の筋をつくっていて、それを頼りに手を伸ばす。
どこか遠くで早起きの犬が鳴いて、家の前をランニングするじいさんの足音も聞こえて、紛れもない朝がやってきていたけど、ナミさんはそんなこと気にも留めずにすこすこと寝ている。そんな彼女の髪をふわふわと少し撫で、顔の向きによっては起こさないようそっとどっかにキスして、ようやくベッドから起き上がる。日課だ。
でも、今日は隣に手を伸ばした時からなにかがちがった。
「あれ」
思わず声が出る。隣の布団はぺたんとしぼんでいて、シーツは冷たくなっていた。
ナミさんがいない。
「あれえ」
寝ぼけている自覚があったので、夢かもしれないと思い、無作為に隣をまさぐる。信じられない寝相で彼女がうずくまっている可能性も無きにしも非ずだ。
しかし、手と足を使ってもぞもぞやっても、どこにも彼女はいなかった。
ここでようやくおれは目を開ける。開いたことで、今まで閉じていたのだと自覚した。
やっぱりいない。
なんで、なんで、と急に悲しくなった。
昨日は一緒に寝たのに、夜中目が覚めてちゃんと彼女が腕の中にいることまで確認したのに。
のろのろと頭をもたげ、起き上がる。
ベッドの横の小さなローテーブルに置いた目覚まし時計。午前7時半。
たしかナミさんは、今日は仕事も休みで、用事もなんにもないし、朝急がなくていいから泊まってってもいいかも、とそう言った。
帰っちゃったのかね。
朝は彼女のために特別うんまいコーヒーを入れて(パティの店からぶんどってきた50グラム1万2千円くらいのやつ)、さくっと朝食を作って朝からたのしませようとばかり思っていたのに。
「あーあー」
がっくり。ため息の反動で伸びをしたとき、隣の部屋からジャーと水音が聞こえた。
隣はリビングキッチン。
え、おれの音の部屋だよな。ナミさんいるの?
ミーアキャットのように首を伸ばし、音を感知すると、同時に香ばしくてほんのり甘い小麦の香りがふわんと音楽のように流れ込んできた。
──パンケーキ?
少し焦げの強い香りも感じて、やっぱりそうだ、パンケーキを焼くにおいだと確信する。
ナミさんだ。ナミさんがおれのキッチンで、パンケーキを焼いている。
お、おれのためにィ!? とぶっ飛んで天井に突き刺さる勢いで気分が浮上し、慌ててスリッパにつま先を突っ込み部屋を飛び出そうとした。
いやでも、待てよ。
ナミさんが黙っておれより先に起きて、ひとりで(おそらく)朝めしの用意をしている。きっと、たぶん、絶対、おれを驚かそうとしているのだ。
嬉しい、とじんわり胸の中に温かい水がしみこむ。
でも、だからこそ、彼女の気持ちを無碍にするわけにはいかない。おれはしっかり朝寝坊したように起きてきて、出来上がった彼女のパンケーキの前でわっと驚き感動しなければならない。
もう十分驚いたし、感動もしたけど。それこそひゅるんと顔が緩むくらい、喜んでいるが。
どうしよう、どうする、こっそりキッチンの前まで言って、様子を見るか。でも様子を見てんのがばれたら、ナミさんは怒るだろうしなあ。
思い立って、キッチン側の壁に近づいた。壁にくっつけてあるデスクの上のものを肘から下を使ってざっと退かし、浅く腰掛けて壁に頭を付けてみた。
至って静かだが、ときおりナミさんの声と思われる小さな独り言が届いた。
「よ、ほ、とりゃ」と掛け声らしきものが聞こえる。パンケーキをひっくり返そうとしているのかもしれない。
その声の可愛さの威力を前に、おれはひれ伏す。
がっくりと頭を垂れて、膝に額をくっつけたまま数十秒。彼女の可愛さに殺されかけたことなどあまた知れないが、その威力たるや。
おれはまた、懲りずに壁に耳を付けた。
ガチャガチャと皿の鳴る音がして、ぺちんと気の抜けた音もした。パンケーキを皿に移したんだろう。
完成かな、まだ焼くのだろうか、とソワソワ様子を見ているうちに、ナミさんはジャバジャバと激しく水を使い始めた。
どうも手を洗っているような様子ではない。完成したのなら、片付けは後にするだろう。皿に耳をくっつけて、神経を研ぎ澄ます。
キュッと歯切れよく水音がとまり、ざかざかと軽いものがこすれる音が聞こえる。
なるほど、野菜だ。レタスか何かを洗っていたのだ。
サラダを作るつもりなんだろう。パンケーキに添えるのかもしれない。
野菜を先に洗って準備しておけば、パンケーキは焼き立てで食えるのに、多分勢い余ってパンケーキから焼いちゃったんだろうなあ、とこれまた可愛らしさにもだえる。
でも、そろそろ完成だろう。おれもこっそり部屋を抜け出し、先に顔を洗ってこようか。
ナミさんが引き出しをいくつか開け、カトラリーを探している気配がある。
食器棚の右から二番目の引き出しさ、と頭の中で答えながらおれは机から腰を上げた。
と、隣の部屋から小さく声が聞こえた気がした。
「え」
足を止め、素早く壁に耳を付けるが、もう声は聞こえない。ときおりカトラリーのぶつかる音が聞こえるだけだ。
いま、いま、「いただきます」って聞こえた気がした。
さ、先に食べちゃうのかい。
しんとした朝のキッチンで、ナミさんが一人でもぐもぐやっている姿を思い浮かべるとやっぱり可愛かったが、ナミさんが嬉しそうにおれを起こしに来て、「朝ご飯作ったの」とちょっと照れながら言うところをばっちり期待していたおれは思わずへなっと座り込んだ。
しかしすぐに、笑いが込み上げる。
目が覚めてしまって、おなかがすいて、おれを起こそうか迷って、でも寝かしておいてやろうと思って、ひとりキッチンへ向かったんだな。
冷蔵庫の中、勝手に開けてもいいかなとかちょっと迷って、その中にパンケーキの材料が綺麗にそろっているのを見つけて、作ってみちゃおうかと手を伸ばす。
野菜は昨日の夕食でおれが作った残りがあったから、きっとそれを洗って。
「あれ、起きてたの」
唐突に壁越しではない彼女の声が届いて、びくっと情けなく反応した。しゃがみこむおれを怪訝な顔で見下ろして、ナミさんはおれが貸した寝間着代わりのTシャツ姿で入り口のところに立っている。
「なにやってんの」
「や……なにも。今起きたとこ。ナミさん早いね」
「うん、あのね」
てくてくとナミさんは歩み寄ってくると、おれの真横にすとんとしゃがみこんだ。
「朝ご飯の準備しようと思って。勝手に冷蔵庫の中使っちゃった。ごめんね」
「や、もちろん構わねェよ。あれ、でも、あれ」
盗み聞きしていたなんて言えず、「でも先に食べてたんじゃ」とも言えなくてもごもごするおれを不思議そうに覗き見てから、ナミさんは目を逸らして言った。
「でも、上手くできなかったから。やっぱりサンジ君が作って」
パンケーキ、焦げちゃった。
納得がいかないし、ふがいないし、気まずいけど、といった雰囲気満載の顔でナミさんは言った。
焦げちゃったのか。そうか。それで、焦げたやつを自分で片付けてたんだな。
「まだ一枚、焦げたのがあるんだけど」
「じゃあそれはおれにちょうだい。おれが焼いたのをナミさんが食って」
ナミさんの手を取って立ち上がる。
開いたままの扉からは、パンケーキのこうばしくて力強い香りがどんどん流れ込んできた。
彼女の手を引いてキッチンへ行くと、コンロの上にフライパンと、横にパンケーキの生地がそのまま余っていた。
彼女を座らせ、作ってもらったタネを使わせてもらう。
「また、朝めし作ってよ」
「もうやだ」
「なんで」
「なんでって、あんたの方が上手いからでしょ」
「でも、たまにはさ」
「まあ、たまにはね」
「普段はおれが作るから」
ねえ、と突然ナミさんが笑いだしたので、パンケーキをくるんとひっくり返してから彼女の方を見遣った。
肩を揺らして、彼女は言う。
「別に私たち一緒に住んでないのにね」
じゅう、と焼けていない面が音を立てる。
「じゃあ、一緒に暮らそうよ」
口をついて出た言葉に、ナミさんはおれを見上げる。
そのまま彼女がなにも言わないので、しまった、さいあくだ、しにたい、とどんどん焼けていくパンケーキを睨みながら自分を呪う。
「いいんじゃない」と彼女が答えたとき、おれは初めてパンケーキを焦がしたことに気付いた。
「ねえ、見てるんだけど」
思いの外とげとげしい声が出た。
サンジくんは振り返り、あぁそうだったのごめんねというふうな害のない顔で笑った。
なのに、チャンネルを変えない。
「ちょっと」
「前半だけ、前半だけ観させて」
サッカーの試合を観ているのだ。
どこ対どこだかわかりゃしない、青と黄色のユニフォームが緑色の画面をちょこちょこ行き来するのをいつより真剣に眺めている。
私は家計簿をつけていて、レシートを整理しながら面白くもないバラエティー番組を見ていた。
手元に集中すればテレビなんかほったらかしになる。
さっきまで携帯のネット情報で試合状況を確かめていたらしいサンジくんは、私がテレビを見ていないとみるやいなや、そっとチャンネルを試合中継に合わせた。
正直チャンネルなどどうでもよかった。
だけど、割引で買ったはずのかぼちゃが割り引かれていないのをレシートで確認してしまったこととか、ロビンにもらったパキラがどんなに丁寧に世話をしてもしおしおと枯れていこうとしていることとか、そういうつまらない気分が重なって、ついサンジくんに当たりたい気分になった。
私はテーブルの上のリモコンに手を伸ばし、さっとボタンを押す。
くだらないネタにどっと湧く会場の笑い声が突然溢れ出した。
「あっ」
恨みがましく私を振り返るサンジくんに、知らん顔して頬杖をつく。
恨みがましいと言っても睨んだりせず、ひたすら悲しそうな顔で見上げてくるのに良心が痛む。
が、私の痛む良心が何か言うより早くサンジくんは素早くリモコンのボタンを押した。
わーっと盛り上がる緑色の画面。
「見てるって言ったでしょ!」
「んーちょっと待って」
お、いけ、あーだめだだめだ、うわっやべぇ、っと危なかったー。
私には目もくれず画面に向かってつぶやき続ける背中を、足の裏でけりつける。
テーブルを挟んで直角に座っている私は足を上げた不恰好な格好だ。
「こらこら、はしたない」
サンジくんは私の足首を掴み、そっと床へ下ろした。
すかさず反対の足でもうひと蹴りする。
「ナミさん」
呆れた笑いを口に含んで、サンジくんは振り返る。
知らんぷりして手元の家計簿に視線を落とした。
ふと手元が翳る。
「えっ、わっ」
ふわっと体が持ち上がり、手からボールペンがぽろっと床に落ちた。
私を抱き上げたサンジくんはそのままソファへ登り、あぐらをかいて座る。
私はその足の間にスコンと収まっていた。
「捕獲」
サンジくんは私を見下ろして、鼻の頭に軽くキスを落とした。
「お、やべぇ負ける負ける」
慌てて画面に視線を戻した彼の顎髭を、このヤロウと摘んで引っ張った。
「イテテ」
あんたが応援しようとしまいと負けるもんは負けるのよ。
僻みながら、ゆらゆらと前後に揺れるサンジくんの中で私はまんまとうとうとした。
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