OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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リバリバ16、そんでちょっと間を開けての17更新しましたー。
読後、「…………んん?んんん?どういうこっちゃ?いつのまに?」となった方、正しい反応です。
あの、15.16でマキノとの邂逅があり3人が3人とも思うところがあるのよねーなんてあとがきを書いた後
突然のマルコ登場でサッパリワケガワカランヨなのはほんと、心中お察しします。
というか、わたしもよくわからなくて、多分マルコとアンちゃんもよくわかってなくて。
それを私に書けというのは無理だろ!!という言い分。(さいてい)
ちょっと歯切れが悪くて理解しがたいうえに気持ちの悪いところで終わってスイマセン。
今後のお話で、17話のことがちょっとずつ紐解かれていったらいいなあと思ってます。
いや、そうじゃないと困るんですけどね。
マルコが何であのタイミングで突然現れたのかとか
なんでアンちゃんがマルコについてっちゃったのとか
結局あのふたりってどういうことなの? っていうのを今後具体的に噛み砕いて書くかはわかりませんけど
なるべく、なるべくわかりやすく書いてきたいです。はい。
しかしパカッと外皮を剥いて終わりっていう単純明快な間柄ではないことは確かです。
あと、ASL兄弟の基盤のぐらつき。
本来持ってきたかったのはここで、一番揺らぐはずのなかったものが今ほんとぐらぐらです。
サボが今まで少しずつ漏らしてた不安とか、こないだマキノに露呈しちゃったこととかが一気に表面に出てきて畳み掛けてきてウオオオオな状態。
アンちゃんも、サボも。
今が正念場です。
えっと、こっからの更新ですが、今まで通りひとつずつ挙げて行こうか、最後まで一気に持って行こうか、少なくとも2つくらいに分けようか迷ってます。
どっちでもいいんだけどね。
どうせなら一気に読んでもらった方がテンポが崩れなくていいかなあとかそんな程度。
あんまり深くは考えてません。
うーん。
もうちょい悩もう。
あ、そだそだ、今さっき誤字教えてもらいました。直しました。
アホすぎてハゲ散らかす……ありがとうございます。
レスは明日の夜辺りにお返ししますよい!
ほんと、毎週金曜日の鬼畜スケジュールどうにかならんかなー。
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前日は朝からからっとした秋晴れで、高くて青い空を見ているだけでなぜかお腹がすくような日だったにもかかわらず、翌日は空一面に重たそうな雲が広がっていて、時折吹く風も冷たい冬を予感させる日だった。
そんな肌寒い日は人々も外に出たがらないからだろうか、今日はいつもと比べてほんの少しだけ、客入りがよくなかった気がする。
アンとサボはいつもより一時間近く早めに店を閉めることにした。
近頃日が落ちるのもずっと早くなってきたので、買い物も早めにいきたい。
夜は何か温まるものにしようと、アンはエプロンのひもを解いた。
「じゃあ買い物行ってくる。何か要るものある?」
「あー、仕入れ表用のノートがもうすぐなくなる」
「わかった、買ってくるね。あ、あと郵便局も行かなきゃ」
アンは財布に入っている金額を確かめ、それをいつものようにズボンの後ろポケットに突っ込む。
「そうだ、適当に何個かじゃがいもの皮剥いておいてよ」
「わかった」
じゃ、いってきますとアンがデシャップの外に出て、いってらっしゃいと答えたサボは背中を伸ばしながら住居へと続く階段を上がっていった。
シャッターのわきにある通用口のドアから外に出ると、途端に冷たい風が右頬にぶつかった。
風が強く、髪が一瞬で左へたなびく。
アンは空を見上げて、雨は降りそうにないなと確認した。
それでもこうも寒いとなるとあまり外に長居したくない。
アンは足早にいつものスーパーに足を進めた。
すれ違う人々はみな、昨日とは打って変わった寒さに身を縮めて帰り路を急いでいる。
二人以上で並んで歩く人々は、だれもが身を寄せ合って寒さをしのいでいるように見えた。
一人で歩くアンを冷たい風から防いでくれる人はいないので、アンは寒い寒いと口の中で呟きながらひたすら足を動かす。
そういえば最近サッチが店に来ないな、と思った。
サッチのことを思い出したのは、ガープのことを思い出したからだった。
ガープのことを思い出したのはマキノを思い出したからで、マキノを思い出したのはすれ違った喫茶店の女店主が彼女のように頭にバンダナを巻いていたからだった。
先日マキノがさらっと告白した思わぬ事実は、未だアンに動揺を与え続けていた。
マキノがルフィよりもずっと小さな子供だった時代があるというのは、想像しがたいが理解はできる。
きっと器量のいい愛らしい子供だったに違いない。
そんな可愛らしい少女が、あのじぃさんに……と思うとアンはなんだか意味もなく腕をさすりたいような気分になる。
いや、マキノも言っていたように、当時はまだガープだってじぃさんと言うにはまだ早い年だったはずだ。
しかし中年のガープを思い浮かべるのは、少女のマキノを想像するよりずっと難しかった。
白髪の混じった灰色の髪色は、当時は真っ黒だったのかもしれない。
顔の皺も少なかったことだろう。
ただ、老年である今よりパワフルなガープは想像するとぞっとした。
いやいやいや、と首を振る。
そしてサッチを思い出したのだ。
連想のキーになったのは言わずもがな目の上の傷だ。
サッチのあの傷を見るたびに、アンの脳裏にはうすぼんやりと、アンが意識しなくても常にガープが思い描かれた。
仕事でちょっとね、とその傷を撫でていた彼は近頃その仕事が忙しいのだろうか。
美術館の襲撃から一週間がたっていたが、その間サッチが店を訪れることはなかった。
しかし以前もときたまこうした間隔が開いて、最近来ないなあと思い始めた頃にふらりと現れるので、今回もそのパターンだろう。
アンはいつの間にか到着していた大型スーパーの自動扉をくぐった。
中は風がないぶん温かかったが、生鮮食品のコーナーはその一帯が冷えていて寒く、アンは肩に入れた力をそのままにスーパー内を歩いた。
サッチが店に来ないので、一緒にイゾウの店へ行くこともなかった。
あれからルフィもサンジのところへ行こうとは言いださないので、もうしばらくイゾウにもサンジにも会っていない。
アンは果物コーナーの前を横切りながら、この場所でイゾウとばったり出くわした時のことを思い出した。
真剣に果物を吟味する横顔や、口を開けて大笑いする整った顔がひどく懐かしかった。
アンは思いつくまま、いくつかの野菜と果物をかごに放り込んだ。
イゾウの店に行ったら、彼らに会えるだろうか。
少なくともイゾウには会えるはずだ。
サンジは、ルフィがもうすぐテストだと言っていたから夜遅くまで働いていないかもしれない。
サッチはアンの店に来なくても、イゾウの店には行っている気がした。
そういうとまるで小さく嫉妬しているようだが、ただそれがサッチなら至極自然なことに思えた。
会うたびにいがみ合ったり罵り合ったりしている彼らだが、年季が違うのだろうか、どこかアンには入り込めない場所がある。
それを見るのが、何故だかアンは好きだった。
ぶるっと背中を撫でるような寒気に体が震えて、アンは慌てて生鮮コーナーから移動した。
立ち止まって考え事をするには寒すぎる。
細かな日用雑貨を探しに、アンは食品コーナーより無秩序な気配のある雑貨コーナーへと足を運んだ。
マルコも、イゾウの店には行っているんだろうか。
事件から1週間たったとはいえ、マルコの肩にはいつもずっしりと仕事と責任がのしかかっているように見えた。
マスコミのほとぼりは冷めたとはいえ、今もマルコが自由に自分の時間を使う余裕があるとは思えなかった。
──あたしのせいなんだけど、と冗談を言うように心の中で付け加えた。
テレビや新聞、ラジオから目や耳に飛び込む「エース」の情報は事件後になると爆発したように熱を持って報道され、それが下火になると隙をつくように他の小さな事件や報道が流された。
初めの頃、アンはテレビをつけて「エース」の報道をしていれば無言でチャンネルを変え、「エース」をにおわす単語が耳に飛び込めばすぐさまラジオのスイッチを切っていた。
怖かったのだ。
いつその名前が「アン」に切り替わるかと、怖かった。
しかし今は、まるで他人事のようにそれらのニュースを聞いている。
テレビに映る被害者の屋敷を見ても、ただその場所をアンも知っているというだけで自分がここに忍び込んだという事実はたいしたことじゃないような気がした。
実際、アンは何度もこれが本当に他人事なんじゃないかと思った。
アンはアンとして今ここにいて、それとは別にエースと言う男がいて、小賢しい手で金持ちの家や美術館に忍び込んで盗みをし、世間を騒がす怪盗。
アンも一般市民の視線で、テレビ越しにエースの存在を知るだけの立場。
それならどんなにいいことか。
アンはあるはずのないことを空想しながら、籠に洗剤を放り込む。
午後三時過ぎのスーパーは少し混んでいた。
しかしいつもはもっと遅い時間に来ていて、これより混雑している。
平日の三時はどことなく怠惰な空気に満ちていた。
結局、スーパーで特に知った誰かに出くわすこともなく、アンはいつも通り大量の買い物を終えてスーパーを出た。
空は少し低くなっていた。
雲が厚みを増したのだ。
スーパーの中はやはりいくらか温かかったようで、途端に冷えた空気が身体の熱を奪う。
──どこか、アンの心の一番見られたくない、知られたくないものを隠す部分が少しだけ蓋を開けている感覚は、実のところ家を出たときから感じていた。
それが予感と言うのなら、そうなのだろう。
ただアンがあえて考えないように、気付かないようにしてやり過ごしていたから、その予感もじっとなりを潜めていたのだ。
スーパーを出て左に曲がると、そこにマルコがいた。
路肩に止めた見慣れた車に背中を預けて、たいしてうまくもなさそうに煙を吹き上げていた。
アンは足を止めた。
そうせざるを得なかった。
マルコがアンに気付いたからだ。
「よう」
マルコが声をかけた。
どうしてここにいるの。
なにをしているの。
あたしを待ってたの。
あたしも待ってたよ。
「買い物に行ったって、お前の弟が」
「家に行ったの」
ああ、とマルコは頷いた。
「仕事は?」
「忙しいよい」
それはアンの欲しい答えではなかったが、追求する気にはならなかった。
アンが一歩近づくと、マルコは開いたままの窓から車内に手を伸ばし、灰皿で煙草をもみ消した。
そのまま預けていた背を車から起こす。
アンの背後からやって来た2人連れが、笑い声を上げながらアンの横を通り過ぎる。
中途半端な位置に立つアンの肩と、通り過ぎる2人連れの1人の肩がぶつかった。
ぶつかった歩行者はちらりとアンを見たが、すぐに興味を失ったように相方との会話を続けて去っていく。
よろけたアンの身体は、マルコが差し出した腕に抱きとめられていた。
あたしはずっと、こうして欲しかったのだろうか。
きっかけを作ったのはマルコから。
あの雨の日、この車の中で、マルコがあたしにキスをした。
そうしたマルコの意図なんてわかるはずもなく、だからといって知りたいと強く思うこともなく、それでも確実に、少しずつでもマルコとの距離を埋めたいと思っていた。
そう感じるたびに、マルコが「エース」に向ける強い視線を思い出して身がすくんだ。
哀しかった。
あたしを見てほしかった。
アンは体の右側を支えるその腕に手を触れた。
深く呼吸をすると、意識がもって行かれそうにさえ感じるほど強く煙草の香りがした。
それは麻薬のように、アンの体内に沁み渡る。
「アン」
顔を上げると、ずっと近くでマルコが見下ろしている。
「車に乗れ」
左手に提げていたはずの買い物袋を、マルコの手が取り上げた。
マルコはそれを左側の後部座席に放り込み、アンに助手席に回るよう目で言った。
アンはふらふらと、中毒者のような足取りで助手席側に回り込んで扉を開け、中に乗り込む。
マルコがイグニッションキーを差し込むと、車は深いため息をつくような音を立ててエンジンを回し始めた。
「どこに行く」
マルコはフロントガラスに目を据えたままそう言った。
特に行くあてがあるわけではないようだ。
ヘッドレストに頭を預けて、アンは寝言を呟くように口を開いていた。
「ふたりになれるところ」
マルコは車を滑らすように発進させた。
*
20分ほど通りから外れた道を走った。
そしてマルコが車を停めたのは、中心街と郊外の境目あたりにある背の高いマンションの駐車場だった。
モルマンテ大通りのある中心街にはこのマンションほど大きな建物はいくつかあるが、このあたり一帯では群を抜いて目の前のマンションが高い建物で、夕日を浴びて銀色に光るその姿は気高い大型動物を思わせた。
「……マルコの家?」
「今は、一応」
一応、と言うその言葉に含むものを感じながら、アンはシートベルトを外した。
マルコも同じ動作をしたが、扉に手をかけることはしない。
どうする、とマルコが訊いた。
「行かなくてもいい。帰るかい」
マルコに顔を向けると、焦りや不安や怒りや悲しみなど、この世の動揺とは一切無縁に思える色をした目がそこにあった。
アンはぼんやりとその色を見て、ゆっくりと首を振る。
「帰らない」
車を降りると、冷たい空気が頬に触れて頭と視界がはっきりした。
車の中で感じていた眠気に似た心地よさを拭い取るように風が吹く。
マルコは慣れた足取りでマンションの玄関へ向かいオートロックを外すと、ホテルのロビーのようなホールを通り過ぎてエレベーターの前で立ち止まった。
アンはただ、黙って後についていく。
ホールの中は、人が住んでいる気配を微塵も感じさせない静けさが建物自体に染みついているようだった。
不意に、立ちくらみのように頭の中をかき回す感覚に襲われた。
立っていられないほどでも、身体がよろめくほどでもないそれは感じたことのない眩暈だった。
アンの内側にある意思が、アンに直接呼びかけているような気がした。
「早く、早く」と聞こえた。
なにが早くなのか、アンにはまだわからなかった。
エレベーターが小さな鈴の音を鳴らして到着を知らせる。
扉が開き、マルコが中に乗り込んだのでアンも後に続いた。
扉が閉まると、立ちくらみも頭の中の声もたちどころに消えた。
マルコが一つボタンを押したのでその手の先を目で追うと、そのボタンは「閉じる」のボタンだった。
それと「開く」、あとは緊急時のボタンしかない。
このエレベーターはマルコの家がある場所と地上を往復するためだけにあるのだ。
小さな舌打ちが聞こえた気がして、アンは顔を上げた。
舌を打ったのは間違いなくマルコで、下から覗いてもその眉間に微かな皺が寄っているのが見て取れた。
先程の穏やかさは微塵もなく、今は何かに苛立っているようにみえる。
マルコの名前を呼びたくなったが、少し口を開いただけでそれはできなかった。
マルコの手が、アンの手を掴んだからだ。
それに驚いて、声が出なかった。
エレベーターは上品な音とともに動きを止め、扉が開いた。
目の前には一枚の壁があり、他に行く手はなかった。
ドアらしきものもない。
マルコはアンの手を引いてその前まで突き進むと、壁にくっついた端末キーを叩いて何かを入力した。
すると、壁のように見えていたものの一部が横にスライドして口を開けた。
口の向こうに、ようやく部屋らしきものが見えた。
マルコはアンに驚く隙さえ与えず、アンの手を引いて中に入った。
「マル……」
アンが名前を呼ぶよりも早くマルコが振り向いた。
アンの背後で扉がスライドして閉じる。
閉じた扉に背中と頭が押し付けられた。
掴まれた手がきりきりと痛む。
呼吸を許さない荒々しさで口が塞がれていた。
思わず目を閉じた。
アンの手の甲を覆うように掴んでいた大きな手が動いて、アンの指を一本ずつ絡め取る。
つま先から下腹の辺りに電気のような刺激が走った。
咥内に入り込む舌の温かさを感じて鳥肌が立った。
それに応えたいという思いが、アンの舌を動かした。
空いている手がマルコの肩にかかる。
そのまま滑るように動いて、首に手を回していた。
息を継ぐ暇もなく、激しいキスが続いた。
少しの隙間から漏れる吐息とくぐもった声は全部マルコに吸い込まれる。
腰が引き寄せられて、掴まれていた左手が解放されたのでアンは両腕をマルコの首に回した。
アンの脚の間にマルコの膝が割って入る。
もつれあうように体が重なる。
唇が離れると、アンの口端から二人分の唾液が流れた。
マルコは構わずまたアンの手を引いて、部屋の中へと入っていく。
中の様子を見ている余裕などなく、アンは暗い廊下の一番奥の部屋へと連れられた。
灯りもなく、窓にはブラインドがかかり、外は秋の夕時で、暗闇の中で見えたのはぼんやりと浮かぶ大きなベッドだけだった。
アンもマルコも、靴を脱ぐことさえ忘れて、再び絡まるようにそこに倒れ込んだ。
*
その行為に意味や、ましてや目的なんてものがあるはずなかった。
強いて言うなら、それは空虚を埋める行為だった。
満たされていたはずの身体にマルコが穴をあけた。
それを埋めてもらわなければならなかった。
マルコがどういうつもりでアンに会いに来たのかはわからない。
仕事の忙しさに追われて、その憂さを晴らす場所が欲しかっただけかもしれない。
それとは別に、単純にアンの顔を見たいと思って来たのかもしれない。
どちらにしろ、アンが知る所ではなかった。
アンはゆっくり体を起こした。
ベッドの横に置いてあるシンプルな目覚まし時計で時刻を確認し、思ったほど遅くはないことを知った。
眠っていたのは20分ほど。まだアンが買い物に出ていたっておかしくはない時間だ。
右側を見下ろすと、アンに背を向けてマルコが寝ていた。
両腕を顔を向けた方向に伸ばして目を閉じる横顔をじっと見下ろす。
急に、この隣で眠る男が哀れに思えた。
アンが哀れむ立場ではないとは知りながら、それでもやりきれない気分になった。
一番哀れで惨めなのはアン自身だ。
甘さのかけらもない行為に満足した。
アンの上に乗るこの男に必死でしがみついた。
恋だとか愛だとかは一切なく、あるのは剥き出しの欲だけで、それを手放すまいと無様なほど必死になった。
可笑しなほど現実的だった。
そんなアンを抱いてしまったこの男が哀れだった。
「マルコ」
名前を呼ぶと、眇めた眉がピクリと動いて、分厚い瞼がゆっくり持ち上がった。
「……今、何時だい」
「5時半」
「あぁ……」
もぞもぞと体を起こしたマルコは、隣に座るアンをちらりと見て、少しだけ気遣わしげな視線を送った。
アンはそれをかわして衣服を身に着ける。
不意に腕が引かれて、アンはマルコの胸に倒れ込んだ。
「マルコ?」
問い返しても返事はなく、後ろ首から髪が掻き上げられて頭と肩を抱きかかえられる。
最後の最後に唯一ほんのすこしだけ甘さのある所作だった。
罪滅ぼし、同情、気遣いじゃなくて、なんというんだっけ。
そうだ、サービス。
最後に少しだけしあわせな気分にしてくれるサービスのようなもの。
アンは甘んじて受けることにした。
目を閉じて、頬に直接当たる胸の温かさ、その奥に潜む鼓動を感じる。
抱きしめ返すことはできなかったので、アンから離れた。
マルコは一度だけアンの髪を梳いて、服を着始めた。
「帰るよ」
「送るよい」
「うん、あ、車の中に買ったものそのまま」
「寒いから平気だろい」
それもそうか、とアンはベッドから足を降ろして窓らしき四角い枠に目をやった。
ブラインドがかかっているのでよく見えないが、5時半の秋の空はもう紺色の割合の方が多い。
今日は天気が悪かったので、特に外が暗く見えた。
アンは無意識のうちに下腹の辺りに手をやって、温めるように両手を置いていた。
立ち上がったマルコがそれを見て、少し眉を寄せる。
「痛いかよい」
「ううん、平気」
行こう、とアンが立ち上がる。
マルコはアンが外に出るのを待ってから、自分も部屋を出た。
帰りの車内は行きと同じく特に会話はなかったが、重たい空気と言うわけではなかった。
うっすらと漂う疲労感はどことなく心地よくさえあった。
家に着いたのは6時ごろで、マルコはいつものように扉の前に車を停めた。
アンが礼を言って出ようとすると、腕を掴まれた。
「また来るよい」
なんと返事をしていいのかわからず目を泳がせると、マルコは困った顔でアンの腕を掴む手を緩めた。
緩めただけで離しはしない。
アンはもう、以前のようにマルコとばったり出会ったりサッチと二人で来店してきた際、平常心で接することができる自信がなかった。
周囲にばれるからといって何が困るのかと訊かれたらわからないが、耳目にさらされて動揺する姿は見られたくない。
といっても、アンとマルコをうまく形容する関係とはいったいなんなのだろう。
マルコ、あたしたちっていったいなんなの?
「わかった」
とりあえずそう言うと、マルコは腕を離した。
その顔は了解したというより、諦めたという表情に近かった。
アンが車を降りて、家に入る前に一度振り返る。
いつもならそのときにはとっくにいなくなっているはずの車の影が、この日はまだ停まったままだった。
マルコはドアのノブに手をかけたまま振り返るアンを見て、微かに頷いたように見えた。
少しだけ笑っていた。
その日、マルコが笑うのを初めて見た瞬間だった。
*
家の階段を上がると、アンの視界には一番にダイニングの椅子に座るサボの背中が飛び込んできた。
ルフィはまだ帰ってきていない。
「おかえりー」
「ただいま」
サボは手元を動かしたまま振り向かなかった。
アンの方は何となく顔を合わせづらい理由があるので、そそくさと冷蔵庫の前に行って買ったものを詰め始める。
それと同時に今夜の夕食で使う材料を取り出して、そう言えばサボにじゃがいもの皮を剥いてもらうよう頼んでおいたのだったと思いだして振り返った。
そして、ぎょっとした。
「サッ、サボ……全部剥くつもり!?」
「え?」
なんのことだと言わんばかりの無垢っぷりで、サボは顔を上げた。
その手には半分だけ皮のむかれたじゃがいもが握られている。
サボの隣の椅子にはじゃがいものの箱がドンと置かれ、テーブルの右側には真っ白のじゃがいもがうず高く、左側には皮の残骸がこれまたうず高く積まれていた。
「数個って、あたし言わなかったっけ……?」
サボはじっとアンの顔を見上げて、それからようやく話がじゃがいものことだと気付いたらしかった。
というより、自分が今じゃがいもの皮を剥いているということに気付いた様子だった。
「う、わ! なんだこれ!」
「なんだこれじゃないよ」
サボの驚きっぷりに思わず吹き出して、アンは生ゴミのゴミ袋を手に取る。
ざかざかとじゃがいもの皮を袋に捨てながらサボを見ると、サボはいまだ信じられないといった様子で手の中でじゃがいもを転がしていた。
「どうしたの。そんなに皮むき楽しかった?」
「いや……ごめん」
サボはすっかり中身の減ったじゃがいもの箱を持ち上げて床に降ろし、ざるに積まれた白いじゃがいもを見下ろした。
「どうする、これ」
「うーん、できるだけ今日と明日で使い切るよ」
「いける?」
「うん、じゃがいもパーティーだ」
ひひひ、とルフィのような笑い声を上げてみたが、サボの笑い声は返ってこなかった。
不審に思って振り返ると、サボは白いじゃがいもを見下ろしたまま固まっている。
その目の中にアンの知った色がなくて、アンも顔に貼りついた笑みが一瞬で消えた。
虚ろといってもいい目の光が怖かった。
そっとサボに近づいて、その腕に触れる。
「……サボ? 大丈夫?」
「あぁ」
「でもなんか変だよ。顔色も悪いし……調子が悪いなら今日はもう早く」
アンが触れるサボの腕が、跳ねるように動いた。
アンの手は跳ね飛ばされて、アン自身驚いて身を引く。
振り払われたのだ、ということになかなか気づかなかった。
サボは何も言わない。
うつむいて、アンと目も合わせない。
背中に不可解な汗が流れた。
「サボ……?」
「マルコには会えたか?」
ドンっ、と心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
背中を流れる汗が一瞬で冷たいものにかわる。
サボは、アンがマルコと会ったことを知っている。
マルコにアンの居場所を教えたのはサボなのだ。マルコ自身がそう言っていた。
ただ、今のサボの口調はただその事実を確認するものではなかった。
「う、ん。スーパーの帰りに。サボ、会ったんでしょ……?」
「あぁ」
うしろめたいことをしたわけじゃない。
それなのに、なぜだか取り繕おうとする自分がいた。
「最近マルコ来ないから、少し話して」
「郵便局は結局行ったのか?」
「ゆ、」
行っていない。すっかり忘れていたし、そんな時間も余裕もなかった。
郵便局に行き忘れたことがサボにとって大して致命的なことであるはずもなく、そんなことをサボが言いたいわけではないと分かっていた。
サボがゆっくりと顔を上げた。
アンをまっすぐ見つめる視線は穏やかで、何も映っていなくて、アンは息を呑んだ。
待って、ちょっと待ってよ、と自分の声が頭の中で響いていた。
「……サボ、ねぇ、どうしたの?」
こんなにもおそるおそるサボに触れたのは初めてだった。
また振り払われるかもしれないと思うと、安易に手を伸ばすことができなかった。
もしまた振り払われてしまったら、心の脆い部分は一気に砕ける予感がする。
しかしサボはそうしなかった。
アンは両手でサボの両腕を軽く掴んで、正面からサボの顔を覗き込む。
近くで見ると、サボの茶色い目にはアン自身の姿だけが映っていた。
それなのに、サボがどこも見ていない気がするのはなんでだろう。
「アン」とサボが呟いた。
「なに?」
「マルコが好きか?」
サボの腕を掴んだ手の力が、一瞬緩んだ。
反射的に逃げようとしてしまった。
なんでそんなことを訊くの?
「マ……す、好きだよ、マルコも、サッチも」
「違うだろ」
違うだろ、とサボは繰り返した。
なに、なんなの、と疑問が混乱をきたしながら頭の中に浮かんでいく。
サボの考えていることがこんなにもわからない。
サボ、なんなの、どうしたの、と何もわからないふうなことを言いながら、しかしアンはどこかでサボの言いたいことを汲んでいた。
アンとマルコが何をしていたか、互いをどう思っているのか。
アン自身がいまいち把握しきれていない事実は、頭のいいサボになら簡単に想像できてしまうんだろう。
だから、どうしようもなくそれが理不尽な気がした。
「なんでそんなこと訊くの」という問いは、「なんでそんなこと訊かれなくちゃいけないの」に少しずつすり変わっていく。
あたしがマルコのことを好きだといったら、それでサボの何が変わるというの?
ただそれは、たったひとつの言ってはいけないことだと分かっていた。
だからアンは口を閉ざして、ただわからないふりをした。
「警察だぞ」
そんなことわかってるよだからなんだっていうの、と咄嗟に反論した心を押さえつけて、アンは頷く。
「わかってる、でもマルコはお客さんで」
「ごまかすなよ!」
アンは見るからに怯えた態で身を引いた。
サボの腕を掴む手が完全に離れる。
サボが声を荒げたことなんて、アンが覚えている限りなかったはずだ。
目の前の男が急に知らない人に思えた。
しかし心に流れ込んだのは、その恐怖だけではなかった。
同時に濃度の濃い怒りや不満が怒涛のように押し寄せる。
元来の喧嘩っ早さが災いした。
「なんで急にそんなこと詮索されなきゃいけないの!?」
「アンの帰りが遅いからだろ!」
「マルコに会ったって、サボだって知ってたじゃん!」
「お前自分の立場わかってんのかよ、相手は警察だぞって言ってんだ! アンは油断しすぎてる!」
「でもマルコと仲良くなれば手に入る情報もあるかもしれないって、サボだって思ってたんだろ!」
「だからって危険まで冒せなんて言ってない!」
「危険なことなんてあたしはなんにもしてない!」
「だからそれがわかってないって言ってるんだ!」
「あたしは自分のやりたいようにやっただけ! マルコが会いに来たから会った! それの何がいけないの!!」
「身体売るような真似までしてなにが」
乾いた音が室内に響いて、それきりサボの言葉は続かなかった。
開いた右手のひらがじんじんと熱くなる。
「おい」と別のところから声がした。
「なにやってんだよ!」
声のした方向に顔を向けると、見開いた目のルフィが立ち尽くしている。
いつからいたんだろうか。
階段を上ってくる足音も聞こえなかった。
サボの言葉が頭を埋め尽くして、耳さえ塞いでしまったのだ。
ルフィはドサドサとその場に荷物を落とし、大股でアンとサボに歩み寄ると二人の間に割り込んだ。
「ルフィ、」
「なんだよ、なんでふたりともそんな顔してんだよ」
ルフィはアンに背を向けて、サボを強い視線で見上げた。
アンは痺れる右手のひらを左手で包んで強く握りしめる。
サボは赤みの差した頬を手の甲で一度拭い、それきり顔を背けて俯いた。
その構図は、まるでルフィがアンをかばって立ちサボが責められているようだった。
叩いたのはアンのほうなのに。
「ごめん」
サボがぽつりと呟いた。
やっぱり先に手を出したのはアンのほうなのに、サボは折れることしか知らない。
アンの前にいきりたって仁王立ちするルフィは、サボが謝ったことで見るからに肩の力を抜いた。
喧嘩が起こるのは兄弟ならば日常茶飯事。殴り合うのも必要ならば仕方ない。最後に互いが謝って事が収まればすべて水に流れる。
3人の間に共通するその常識をそのまま持ち出せば、このままアンが「こっちこそごめん」と謝ることで事態は収束するのだ。
ルフィはそれを期待していた。
それでも、今のこの状況はその常識が通用しない不測の事態だった。
叩いたのは一方的にアンの方だけで、サボはやり返さない。
喧嘩の暗黙ルールである拳ではなく、アンは平手で叩いた。
そもそもこれは喧嘩などではないと思った。
「ごめん」では終わらない、決定的に変わってしまった何かがあると、アンもサボも気付いていた。
言ってはいけないことをお互いが乱暴にぶつけあった傷跡が、まざまざとその場に残っていた。
「……アン?」
ルフィが振り返る。
その目が珍しく不安げに揺れていた。
あたしはそんなにも取り返しのつかないことをしたのだろうか。
マルコとの関係は、ルフィにこんな顔をさせるほど悪いものなのだろうか。
『秘密は共有、隠し事はナシ』
その原則を破ってまで、あたしにとってマルコは手に入れたいものだったのだろうか。
そもそも、この原則が破れただけであたしたちは壊れてしまうような家族だったのだろうか。
秘密も隠し事も痛みも悲しみも怒りも不安も不満も猜疑も全部全部共有していれば、あたしたちはいつまでも素敵な家族でいられたのだろうか。
ただひとつわかるのは、この原則があろうとなかろうと、アンの居場所はここしかないということだった。
それと同時に、サボの居場所もここしかないのだ。
ああだから、とアンはパズルのピースが次々と合致していくような感覚を味わって、顔を上げた。
突沸の如く沸いた怒りが、現れたのと同じスピードで消えていく。
他に居場所を作ろうとしたあたしをサボは怒ったんだ。
別の場所に次々と自分の居場所を作り出すルフィにはきっとわからない。
ルフィが聞けば仲間外れにするなと怒りそうだが、それは事実だ。
あたしもサボも、居場所はここしかない。
どちらかが離れていけば、残された方は必然的に独りになる。
あたしたちは意外と窮地にいたんだな、とアンは静かに理解した。
「サボ」
名前を呼んで、頬に手を伸ばした。
サボは目を逸らしたまま、アンを見ようとしない。
「ごめん」
サボはゆっくりと、焦れるほどゆっくりとアンの目を見返した。
その目には、アンとルフィが重なって映っていた。
サボはしっかりと二人を見ている。
「ルフィ、冷やすもの持ってきて」
「おう」
すっかり安心しきったルフィが、さっさと冷凍庫の中を漁って保冷剤を探しに行った。
赤くなった頬に触れると、刺激が走ったのかサボが少し顔をしかめた。
しかしすぐに沈痛な面持ちに戻る。
「ごめん、痛いよね」
「いいんだ、ごめんな」
「サボは悪くないよ」
悪くない、サボは悪くないんだよ、と繰り返しながら高い場所にある肩に手を伸ばしてそれを掴み、引き寄せた。
抱きしめた身体は思ったより細かった。
「あたしはどこにも行かないよ」
顔の横にやって来たサボの耳に、直接そう言葉を流す。
身体の横にだらんとぶら下がったままのサボの腕が、ピクリと動いた。
背中を曲げてアンに抱き込まれて、サボは黙って首を振った。
ルフィが保冷剤をいくつか持ってきて差し出したので、アンがそれを受け取ってサボの頬を冷やす。
その間もずっとサボはアンの肩に顔をうずめたまま、「違うんだ」と呟いて、首を振っていた。
じっとしてよと言っても聞かず、「違う」と言い続けるその意味は、アンにはよくわからなかった。
→
「家の掃除?」
「そう、びっくりするくらい綺麗だったんだ」
「少なくとも、私じゃないわ」
マキノは考え込むように首をかしげながら、酒のアテを作り続ける。
マキノとはカウンターをはさんで座る3人の背後では、酒を楽しむ大人たちがガヤガヤと騒いでいた。
とろんと甘い酒の匂いが漂う。
店の隅にいる若者3人をちらちらと不思議そうに見遣る酔っ払いたちに、マキノは「知った子たちなの。お邪魔はしないから置いてあげてくださいね」とやんわりと紹介した。
アンたちはカウンターの端の席に連なって並び、マキノの夕飯を頬張っている。
「ぜってぇマキノだと思ったんだけどなぁ」
「ガープさんにも、そんなこと言われたことなかったわ」
「でももう思い当る所がないんだ。じぃちゃんか、マキノくらいしか……」
そうよねぇ、とマキノも同意する。
「おかわり!」とルフィが4皿目を要求した。
食べ過ぎ、とたしなめるアンもいま3皿目なのだからいまいち説得に欠ける。
マキノは「あいかわらずね」と目を細くして笑い、皿を受け取った。
マキノの店の中で食事を終えると、アンたちは住居のほうへと引っ込んだ。
マキノとの会話を楽しむために来ている客だっている。
アンたちがいつまでもマキノをひとり占めしておくことはできないのだ。
奥で好きにしてていいわよ、とマキノは昔からアンたちが遊びに来るとそう言った。
3人はこじんまりとしたリビングに腰を落ち着け、しばらくの間マキノにまつわる昔話に花を咲かせていると、マキノが表からひょこりと顔を出して、「先にお風呂入っちゃいなさい」とアンたちを追いたてた。
ほら遅くなっちゃう、と3人を立たせて、お風呂も変わってないからわかるでしょうと言い残してまた表へ戻っていく。
立ち上がった3人はマキノが消えたドアを見つめて、それから同時に笑い出した。
もう3人一緒に風呂に入ることができるほど小さくないのだ。
順番な、とじゃんけんをして、負けたサボがお湯を張りに行った。
3人とも風呂を上がった後も寝に行こうとはしなかった。
アンは一人掛けのソファに、サボはマキノが書き物をする時の椅子に、そしてルフィは地べたに座っていつまでも話をしていた。
マキノの店が閉まるのは夜11時。
この界隈にしては早すぎる閉店だが、女一人でやっていくにはそれが精一杯でもありそれで十分でもある。
とはいえ、11時に店を閉めてそれから片付けやらをしていれば、マキノが戻ってくるのは12時あたりになるだろう。
それまで待とうと言いあったわけではなかったが、先に眠る気にはなれなかった。
それ以上に、3人とも昼食後に思いのほかぐっすり眠ってしまったので、たいして眠くもならなかった。
寝ろと言われたらストンと寝られる自信はあるが。
「じぃちゃんに聞けたらいいんだけどなー」
「そういえば連絡先も教えてもらってないよな」
「今まで特に連絡する用事もなかったからね」
「マキノやダダンが知ってればそれでいいかぁ」
「じぃちゃんの仕事も長いよな。何やってるのか知らないけど」
「ルフィがうちに来たときからずっと同じ仕事にかかってるんだとしたら、もう12年だよ」
「ルフィお前じぃちゃんが何してるのかとかちらっとでも聞いたことないのか」
「サボやアンが知らねぇのならおれだって知らねぇよー。警察ってことしか」
「少なくともこの街にはいないしねぇ」
考えれば考えるほど、奇妙な人物だ。
あたしたちのじぃちゃん、という基盤が骨格をなしているからいいものの、そうでなければ得体が知れない。
そのじぃちゃんとは、かれこれもう6年ほどあっていない。
アンたちがダダンの家に住みついてからたった1度だけ帰ってきたことがあった。
様子を見に来たとカラカラ笑うその大きな老人は、ひとしきり気のすむまで3人を構い倒すとさっさと帰ってしまったので、それきりだ。
「あら、まだ起きてたの」
エプロンとバンダナを外したマキノが、アンたちを見て少し目を丸くした。
たったひとりで数時間働いていたにもかかわらず、疲れも見せずむしろすっきりとした顔つきなのはさすがと言うべきか。
おつかれさま、と口々に声をかけると、なぜかマキノは照れ臭そうに笑った。
「なんだか私がお母さんになったみたい」
お風呂入ってくるから、とマキノはそそくさと奥へと引っ込んでいった。
だって本当にお母さんみたいだもんね、とアンたちは笑い合う。
*
「さて。あなたたちの寝床よね、問題は」
「だから床でいいって」
「だめよ床は。背が伸びなくなっちゃう」
どこで聞いてきたのか知らないが、マキノはそんな迷信ともつかない迷信を信じて床は駄目だと言い張った。
背が伸びないと言ったって、絶賛成長期のルフィはともかくアンとサボはもうこれ以上伸びる心配はなさそうだ。
ふたりとも男女それぞれの平均よりはいくらか高い。
マキノはそれでもうんうん唸って考えている。
あのさ、とアンはおずおずと挙手をした。
「あたしが昼間寝てたベッドでサボとルフィが寝て、あたしがマキノのベッドで一緒に寝たらだめ?」
「あぁ、それがいいな」
「あらそうね、でも……」
マキノは頬に手を当てがって、サボとルフィに目をやった。
「あなたたち二人が一緒に寝るにはベッドが少し小さいわ」
「だいじょうぶ!」
アンを含めて3人の声がぴたりと揃った。
マキノは気圧されて、そう? と納得している。
どうせあの小さなベッドにサボとルフィが朝まで収まっていられるわけがない。
寝ながらの攻防でどちらかが床に落ちて、気付かず朝を迎えるだろう。
それで特に支障はない。
アンは比較的寝ているときは動かないので、マキノに迷惑をかけることはないはずだ。
「それじゃあアンとサボはともかく、ルフィは明日から学校でしょう? もう寝なくちゃ」
「くそ、ずりぃな二人とも」
「おれたちはもう通過済みだからいいんだよ」
サボはルフィの頭の上に手を置いて、拗ねたように口を尖らせるルフィをからかうように笑って立ち上がった。
「おやすみ、マキノ本当にありがとう」
おやすみなさい、と柔らかく笑うマキノの隣で、アンも「おやすみ」と小さく手を振った。
昼間アンが休んだ部屋へと入っていくサボとルフィを見送って、マキノも「さて」と立ち上がった。
「私たちも寝ましょうか」
「狭くしてごめんね」
「アンは細いから平気よ」
マキノの部屋はリビングよりもずっと小さくて小奇麗な部屋だった。
アンにベッドに入るよう勧めて、マキノは灯りを消すために部屋に入ってすぐのスイッチの傍に立っている。
ぱちん、と軽い音ともに視界が真っ暗闇になった。
もぞもぞとベッドの壁側へと身を寄せるアンの隣に、静かにマキノの身体が滑り込む。
「そんなに端に寄らなくても平気よ。案外広いわ」
そう? とアンが少し体を真ん中へと寄せる。
触れそうで触れない距離に自分とは別の身体があると意識すると、触れてもいないのに開いた距離が熱を持ったように温かくなる。
その温度は心地よくアンの身体を弛緩させた。
シーツからは、薄く花のような甘いにおいがした。
ね? とマキノが笑った気配がしたので、アンは声を出さずに笑いながら頷く。
「アンと一緒に寝るのなんて、本当にひさしぶり」
「5年前くらい?」
「そうね……それよりもっとアンが小さかった気がするわ。大きくなってきたらあなた、照れて一緒に寝てくれなくなったじゃない」
「そ、そうだっけ?」
なんであたしが照れる必要があったんだろう、と今のマキノの言葉にこそ照れくささを感じながら、そういえばたしかに少し、マキノの優しさがむずがゆく感じたような時期があったことを思い出した。
そうよ、そうだったのよ、とマキノは懐かしそうに呟いた。
「もう、子供じゃないものね」
「……そんなことないよ」
「あら、ここは胸を張ってもいいところよ」
マキノはそう言ったが、アンは複雑な気持ちで軽く顔を伏せた。
もう少し、マキノのそばでは子供でいたい。
それがただの甘えであるとはわかっているけど、もう少しだけ、と。
マキノはしばらくの間じっと、まるで息をひそめるように静かだった。
アンを待っているみたいに。
「歳を取るのも悪いことばかりじゃないわ、アン」
「……そう?」
「考えることが多くなる分、知ることも多くなるから」
「あたし勉強は苦手だよ」
「勉強だけじゃないわよ」
マキノはくすくすと葉がこすれるような笑い声をあげた。
「そうね、たとえばアンたちはお店を始めた。お客さんが来て、お金をもらうでしょう?自分たちが作り出すものにどれくらいの価値があるのか、自分たちが決めたその値段でどれくらいのお客さんが満足してくれるのか、考えるでしょう。一方的に、『私たちの作ったものはこれだけの価値があるからいくらで買いなさい』って言ってもお客さんは買ってくれないわ」
「……わかる」
にこりとマキノが笑った気配がした。
「子供はそれがわからないけれど、大人になれば当たり前にそれがわかる。商売に必要なのはお金に見合う価値のある信用よ。お客さんがアンのことを好きになってくれれば、アンの作ったものだって好きになってくれる」
何年も、たったひとりでお酒を扱う商売を続けているマキノの言葉は、さすがに説得力があった。
「そうやってコミュニケーションを取るのも楽しいじゃない?」
うん、とアンは頷いたが、その声はいまいち煮え切らないふうに聞こえただろう。
お客さんが『おいしい』と言ってくれるのは嬉しい。
『また来るよ』と言ってくれるのだって。
だがその会話が楽しいか、と訊かれたらわからない。
サボやルフィ、マキノとこうして話しているときのほうがずっと楽しいし、楽だ。
マキノはそれについては何も言わず、たとえば、と言葉を足した。
「お客さんの中に友達ができるかもしれない。いろんな人たちが来るでしょう?」
ともだち、とアンは繰り返す。
いちばんに浮かんだのは、なんでだろう、サッチの顔だった。
できた、とアンは呟いた。
「え?」
「ともだち、もうできた」
「あら」
そうなの、とマキノが破顔したのが慣れてきた暗闇の中でぼんやりと見えた。
どんなひと? と先を促す。
「どんな……えぇと、おっさん。でもなんか、子供、みたいな」
「うんうん」
「目の上の、ここ、じぃちゃんと同じ場所に傷があって、ちょっと怖い顔したら悪い奴に見えそうだけどいっつも笑ってる」
「うん」
「あと……ルフィの友達にも初めて会ったの。コックで、そのおっさんが連れて行ってくれたお店で働いてて。料理がすごいおいしいの。あとなんかあたしが店に行くと歌ったりまわったりする変なヤツ」
「うんうん」
「あと、その店のオーナーも……たぶんサッチ、あ、そのおっさんのともだちで、イゾウって言って……サボくらい背が高くて、女の人みたいな顔してる。白くて、鼻が高くて、黒い髪の毛が長くって」
「そう」
「あと……」
もうひとり、と呟いたアンを、マキノは先を促すように黙って見つめた。
「サッチと一緒に来てくれるおっさんが、もうひとり」
「そう……たくさんいるのね」
よかった、とマキノは吐息と共に吐き出した。
そうか、サッチたちはアンのともだちなのか、とアンは順番に彼らの顔を思い出す。
言われてみれば彼らとの会話は、家族とのそれと同じくらいアンにとって楽しいものだった。
「あと、そうね、ともだちじゃなくても、誰かを好きになったり」
「好きに……」
「恋をしたり」
したことある? とマキノはまるで少女のような含み笑いをした。
「マキノが好きだよ」と平然と返すと、マキノは「やだ、それとは違うわよ」と大げさなアクションでアンの肩を軽く叩いて笑った。
わかんないよ、とアンは憮然と言い返す。
「マキノはしたことあるの?」
「あるわよぉ、私だってこれでもアンより何年も多く生きてるんだから」
「どんなの?」
「そうねぇ」
私のときは、あなたよりずっと小さい時が初恋だった。
背が高くて、強くて、優しくて、私を傷つけるすべてのものから守ってくれた。
一緒にいると安心できた。
離れていってしまうと寂しくて死にそうだった。
いつ会いに来てくれるのか、そればっかり考えてた。
会いに来てくれたら会いに来てくれたで恥ずかしくって、ろくに目を見て話すこともできなかった。
「……それ、何歳のとき?」
「9歳」
「きゅっ……!?」
なんて早熟な、とアンがあんぐりを口を開けている横で、マキノはカラカラと笑った。
「さてお相手は誰でしょう」
「え……あたしの知ってる人?」
「そうよぉ」
「えぇー……わかんないよ」
「ガープさん」
「え?」
「あなたのおじいちゃんよ」
一瞬思考が止まった。
それから、……どえぇぇ!!というあられもない悲鳴は、この家の数件先まで聞こえたかもしれない。
サボとルフィのいる隣の部屋が、ガタガタッと物音を立てた。
なんだなんだと微かな話し声も聞こえる。
マキノはしてやったりと言わんばかりの顔で、珍しく腹を抱えて笑っていた。
「う……うそだろ」
「うそじゃないわよ、失礼ね」
「だ、だってあんな……ジジイじゃん」
「やぁね、自分のおじいさんのことそんなふうに。それにその頃はまだおじいさんっていう年じゃなかったもの」
それにしたって、とアンは目玉を取り落さんばかりに目を見開いて驚いた。
あのじぃちゃんが、好きだとかなんだとかいう話の対象になるとは思ってもみなかった。
マキノはひとしきり笑うと、涙までこぼしていたのか目元をぬぐった。
「でもまぁこれは、叶うとか叶わないとかそういう話じゃなかったから。いつのまにかすぅっと溶けて消えるみたいになくなってたわ。今は別にそんなふうに思ってないから、安心して」
安心してと言われたって、とアンは後を引く驚きにまだ引っ張られている。
初恋ってそういうものなのよ、とマキノは明るく笑った。
「それからが本物」
「それから?」
「今のアンと同じくらいか、もう少ししてからね」
「……別の人?」
「そうよ」
ふふっと漏れたマキノの笑い声が空気を揺らした。
はにかむ、と言ってもいい。
暗くてよく見えないけれど、マキノの頬は程よく染まっているのかもしれない。
「その人のことは今でも好きよ」
「ど、どんな……」
「ガープさんほどじゃないけれど、私よりずっと年上ね。少なくとも10以上」
「ふーん……」
「もともと私のお店のお客さんだったの。その人も子供みたいなのよ。危ないこと平気でやったり、バカ笑いしたり。スプーンも子供みたいに持つのよ」
「あ、あたしの知ってる人?」
「たぶん知らない人」
へぇ……とアンは驚きと新鮮さの混じった声をこぼした。
知らないところで、マキノがそんな人と出会ってたなんて。
「その人にも……その、じぃちゃんに思ってたみたいなこと、思うの?」
「そうね、少し違うけど」
すこしちがう、というのがよくわからなくて気になったが、訊いてもわからない気がした。
マキノも「言葉にするのは難しいわ」と恥ずかしそうにしているので、訊かないでおく。
「だからアンも、きっといつかそういう人と出会うかもしれない」
「……でも、マキノたちより好きなヤツができるなんて考えられない」
「別に比べなくたっていいのよ」
家族は比べられるものじゃないから、とマキノは微笑んだ。
「家族とはまた別に、一緒にいたいと思うのよ」
「……でも、その人と一緒にいたら、サボやルフィと一緒にいられないじゃん」
「そうよ」
思わずマキノがはっきりとそう言ったので、アンはついマキノの目をまっすぐ捉えてしまった。
マキノのほうも、アンを強く見据えている。
こうも至近距離で目が合うと、その視線の力が強ければ強いほど目線を外せなくなる。
「そのときは選ばなくちゃいけないわ。アンがどっちと一緒にいたいのか」
「さっき比べるものじゃないって言ったのに」
「比べるのと選ぶのは別よ。同じくらいの「好き」は許されるけど、両方と都合よく一緒にはいられないから」
これは誰だってそうなのよ、とマキノは静かに、少し悲しそうにも聞こえる声で言った。
アンはマキノの視線から逃げるようにもぞもぞと姿勢を変え、枕に顔を突っ伏した。
「……それならあたしは恋なんていらないよ」
「いつかわかるわ」
話しこんじゃったわね、とマキノが姿勢を変える気配がした。
「明日は何時に起こそうか? ルフィと一緒に起きる?」
「うん」
「そう、じゃあおやすみなさい」
「おやすみ……」
それきり、しんとした静けさが部屋に充満した。
目を閉じると、シーツから香る花のにおいがより一層感じられた。
隣で眠るマキノの、懐かしさを感じるような人のにおいもする。
マキノはずっとこういう話をあたしとしたかったのかもしれない。
そう思いながらうとうとと夢とうつつをさまよい、いつの間にかすうっと落ちるように寝入っていた。
*
翌朝は、マキノの元気な声でたたき起こされた。
「ほらほら、もうサボもルフィも起きてるわよ!」
「んぅ」
「まったく、相変わらず目覚めが悪いわね!朝ご飯できてるんだから、早くいらっしゃい!」
夜の仕事をしているというのに、朝からマキノは元気だ。
アンたちのせいで間違いなくいつもより早起きをしてくれたはずなのに、その疲れを微塵も見せない。
アンはもぞもぞと起き上りながら、窓から差し込む朝日の光の筋に目を細めた。
マキノは朝からしっかりと食事を作ってくれ、ルフィのお弁当まで用意してくれた。
ルフィが学校へ向かう時間に合わせて、サボとアンもマキノの家を出ることにした。
「ルフィあなた制服はどうするの?」
「いいよそんなの」
いいわけがないのだが、きっと学校に置いてあるジャージか何かでやりすごすのかもしれない。
それくらい堂々とやってしまう程度にルフィが異端子であるのは、容易く想像がついた。
それじゃあ、と3人は店の入り口に立ってマキノにお礼と別れを告げる。
マキノは最後まで笑顔でアンたちの見送りに立ったが、不意に真剣さを目の奥に光らせてアンたち3人を見た。
「何も用事がなくても、たまにはこうやってうちにいらっしゃい。たいしたことじゃなくても、話をするだけでいいから。何があっても、私はあなたたちの味方よ」
つんとする刺激が鼻の奥を刺激した。
しかしそれよりも、思わぬ言葉がアンの口をついていた。
「──もしあたしが、捕まるような悪いことしても?」
隣でサボが目を瞠ってアンを見下ろした。
マキノはきょとんとアンを見つめ返してから、深くしっかりと頷いた。
「そのときは私が一番に叱ってあげるんだから!」
アンは眉をしならせながら、不恰好な笑顔を作った。
マキノは夏の花のような笑顔で、アンたちに手を振った。
3人は手を振りかえして、何度もその顔を振り返りながら、マキノの家を後にした。
ルフィはマキノの家を出て比較的すぐに、サボとアンの二人と別れて学校へと向かった。
教科書が入っているはずのカバンすら持たず、マキノが作ってくれた弁当だけを手に持ち、しかも私服で堂々と学校へ行くルフィをあたしたちはこうして見送っていいのだろうか、と言う話題でしばらくサボと話が続いた。
しばらくして話が途切れたところで、サボが不意に「行ってよかったな、マキノのところ」と呟いた。
アンもすぐさま頷く。
彼女はいつだって、サボやルフィとは別の意味でアンの指針となってくれる。
サボにとっても、ルフィにとってもそうなのだろう。
姉であり母であるマキノは、きっと彼女が自覚している以上に3人にとってかけがえのない人だ。
サボと二人、考えなしに大通りに合流して家へ向かってぶらぶら朝の道を歩いた。
すると、すれちがいかけた男がひとり、「あ!」と声をかけて二人に走り寄って来た。
おたおたとがに股で走るそのおじさんは、アンたちの店の常連の一人だ。
「なんだよ二人とも!珍しく土曜日に休みだと思ってたら、今日まで開いてないもんだからてっきり誰かが身体でも壊してたのかと」
「あ、ごめん。ちょっとあたしが体調悪くって」
「あ、ほんとにそうだったの」
心配げにアンの顔を覗き込むその男に、アンとサボは揃って何度もうなずいた。
そして「ごめんなさい」と慇懃に頭を下げる。
「ちょっと知り合いのところで療養してたんだ」
まんざら嘘でもないサボのセリフをすっかり信じて、男はそうかそうかと納得した。
「でも明日は開くだろう?」
「うん、もう大丈夫」
「ああよかった。こんなに長い間アンちゃんの朝飯食わないなんて耐えられないよ」
よかったよかった、と男はにこやかに立ち去った。
アンがサボの顔を黙って見上げると、同じタイミングでサボもアンを見下ろした。
「大通りは……あんまり通らない方がいいかもね」
「そんなこといったって、うちはこの通り沿いだぞ」
この道を通らずに家へ辿りつく方法はない。
アンたちは覚悟を決めて大通りを南へと下り続けた。
何度も常連たちに捕まり、時には責めと心配の混じった言葉を貰っては先の言い訳を繰り返す、というなんとも疲れることを繰り返して、アンとサボはやっとのことで家へと帰ったのだった。
翌日の火曜日は、常連さんたちとの約束通り店を開いた。
そっと顔を覗かせるように中を見やる客たちは、デリが営業していることを確認すると誰もがそろって安堵の表情を浮かべた。
臨時休業の理由はアンの体調不良、ということにしてあったので、そのうわさは昨日の間でまたたく間に常連たちの間に広まったらしく、アンにお土産や良治の品を持ってくる客さえいた。
アンはありがたく受け取って、お礼とお詫びを兼ねて彼らの料理にこっそり小さなおまけをつけたりする。
「特別だよ」と言って笑うと、その特別が誰もに平等に与えられるものだと知りながら、それでも常連客達は嬉しそうにした。
ああこの感じはあたしもすきだ、とアンは先日のマキノの言葉を思い出しながら、客たちに素直な笑顔を見せることができた。
「行ってくる!」
「行ってらっしゃい!」
今日も大合唱で学校へ向かうルフィを見送る。
戻って来たなんでもない日常に安心した。
サボも同じようで、その目にはいつものように穏やかな色が浮かんでいる。
それでもアンの耳には、時計の針の音がどこからともなく聞こえていた。
正しく時を打つその小さな響きは、アンの神経を爪の先でひっかくように気に障る。
耳を塞いでもその音は途切れず、目を閉じるとより鮮明に、頭の中で鳴りつづける針の音。
アンが行きつく先があるとすれば、そこまでの所要時間が数えられるほどになったことをアンに知らせる音だった。
*
先日手に入れた髪飾りは、その日やってきたラフィットの手に預けた。
「たぶん違うと思う」とぶっきらぼうに言うアンにラフィットは一切の感情を見せず、「一応こちらでもしっかり調べます」と言って、いつものアタッシュケースをひとつアンに差し出した。
黒ひげに手渡される金は、サボのバイクを買って以来使い道がなく貯め続けている。
その額はいつの間にか、小さな敷地を買って家を建てられる程度には膨れ上がっていた。
父さんと母さんが残した莫大な遺産。
丘の上のあの屋敷。
この店。
そしてこの金。
アンには未来のための着実な貯蓄が必要だった。
ラフィットが軽く帽子を上げて「それでは」と踵を返す。
「ちょっと待って」
足を止めたラフィットは、ほんの少し疑問を浮かべた顔をアンに向けた。
アンから呼び止めることは今までなかったはずだ。
「頼みがあるんだけど」
ラフィットは少し考えるように動きを静止したままアンを見つめ、「いつ迎えに上がりましょう」と訊いた。
「明日、夜8時。あたしが頼んだことはふたりには言わないで」
「わかりました、明日夜8時にまいりましょう」
ラフィットはアンの背後から通じる住居のほうへとちらりと視線を走らせた。
サボはもう裏へと引っ込んで、いつものように仕入れの確認をしている。
アンは頷いた。
片手に提げたアタッシュケースがずしりと重かった。
→
こっそり、それはもうこっそりとマルコ誕を更新してまいりました。
10/5の22時半ごろ家に帰ってきて、すぐさま続きを書きはじめ、
ああ、あと40分、あと20分、あと5分、あと2分………
ぎゃあロー様お誕生日おめでとうございますうううう
たしぎちゃんもおめでとぉおおおお
の叫びのさなかマル誕を描き続け、0:47に更新、と……
何だろうね、何で私いつも、こういう企画的なものに間に合わすことができないんだろう…
明らかに手をつけ始めるのが遅いのと
ならばいっそ心の中でのお祝いの留めておくことができないのが
敗因。
ともあれ、更新できてよかったです。
いっぱい祝われてくださいよ隊長。
あ、私が書いたのは隊長じゃなかったただのうだつのあがらねェおっさんだった。
現パロです。
マルコ得じゃなくてごめんね!!!
誕生日にマルコが得たものと言えば、
アンちゃんを泣かせたことへの反省と、二人旅くらいでしょうか。
んでもさ、喧嘩も必要だよ。
いつもにこにこのんびり暮らしてるんだろうけども、こういうものすごいカップルにありそうな喧嘩も
経験しとくべきだと思うのですよ。
マルコも、アンちゃんも。
女が泣いて男が困って、という泥沼化をね。
誕生日だからって、幸せにしてもらえると思ったら、甘いんだよ!!(マルコへ)
いや、わたしはマルコさんだいすきですよ。
はあ、ともかく、今日はどう頑張ってもマルコ誕は終わっていてロー誕とたしぎ誕なので、
隅っこの方で私はふたりを祝うことにします。
オメデトオメデト!
あ、あと、設置したアンケート、答えていただいてありがとうございます。
思ったより早くざくざくっと回答が集まったのでとてもうれしいです。
回答追加してくれた方もありがとうございます!
おかげで【リバリバ】という回答欄が増えて、そちらに投票してくださる方もいて、
なんだかもうウワアアアアアとなりました。喜んでます。
もう少しおいておきますので、よろしければぽちぽちっとお願いします。
レスは明日中にしておきますよい。
拍手やコメント、ほんと、泣きますいつもありがとうございます……
想えばそれに見合った想いが返ってくると考えるのは、傲慢だ。
その考えが通じるのなら人はいくらでも相手に尽くすだろうし、そのあとにやってくる見返りをにこにこしながら待つに違いない。
それが真理でないからこそ、誰もが相手とのつながりを求めて試行錯誤して、少しずつ心の距離を測りながら自分と相手の想いを重ねていくプロセスを経る。
そうやって、自分とマルコもやって来たのだと、思っていた。
「ありえない、ありえない、ありえない」
アンはいつの間にか立ち上がっていた。
右手には、先ほどまで抱きしめていた四角いクッションの角を握っている。
無残にもクッションカバーにはアンが握りしめた皺がくっきりとついてしまうにちがいない。
しかし今のアンに、クッションの皺になど考えをおよばせる余裕はなかった。
クッションを握る手にも、踏ん張って立ち上がる脚にも力を込め、さらには目の前の男を見つめる視線にもこれ以上ない程力を込める。
ありえない、ともう一度呟いた。
マルコは、アンがなぜ突然目の色を変えて「ありえない」と連呼しているのか、いまいち理解していない顔をしていた。
その証拠に、マルコのほうは変わらずゆったりとデスクの前の回転いすに腰を落ち着けたまま、首だけでアンを振り返っている。
「なんで」とアンは声を絞り出した。
「言ったじゃん。明日は一日家にいるって、言ったじゃん」
「悪かったよい、だから日はまたずらせば」
「もう全部用意してあるんだもん!!」
アンはここで初めて声を荒げた。
ようやくマルコが身体全体で振り返る。
といっても回転いすをくるりとアンの方へと回しただけだ。
立ち上がって両手両足そして瞳にまで力を込めるアンと、その労力の程度はまったくちがう。
それさえも、アンが大事にしたものをマルコが軽んじて、あまつ蹴飛ばしたかのように感じた。
「なんでわざわざ明日行くの!?こ、こっちは一週間も前から」
「急に都合がついちまったんだよい、わかるだろい」
わかる。
マルコの仕事は突然舞い込んで、厳しいタイムリミットを要求する。
だけど今はわかりたくなかった。
それを理解してしまえば、もう二度とアンの望みは通らない気がした。
これからもその『仕事』がいつまでもアンとマルコの間を隔て続ける気がした。
アンはさらに、これ以上ないほど強く右手の拳を握りしめる。
「と、泊まりだとか、そんな」
言葉は続かなかった。
口を開くとそこから刺激が入り込み、瞼の奥の熱い部分に触れて涙が滲みそうだった。
マルコは困ったように頭をかきながら、もう一度「悪かったよい」と言った。
困らせているのはわかっていた。
だけど今いちばん困っているのはアンの方だ。
困るくらいなら初めからしないでよ、と言いたくなる。
そもそも、マルコの態度が気に入らなかった。
夕食後、ソファの定位置に収まりながら明日の朝ごはんから夜ごはんまで、一年のうちで一番素晴らしい食事にする算段をつけていたアンに、マルコは顔さえ向けることなく、明日から一晩家を空ける、と言い放ったのだ。
それはいうなれば出張で、マルコの職業柄取材旅行ともいい、数か月に1,2回ある程度の特に稀というわけでもないことだった。
それがどうして、どういう理由で、何の意図が働いて、明日だというの?
明日は朝から夜まで、マルコが好きなものしか作らない。
サッチにレシピはもらった。
こっそり練習もした。
冷蔵庫にはすでにその材料が全てつまっている。
乾杯のお酒は、夕食前の散歩にマルコと一緒に買いに行って選ぶつもりだった。
そのすべてが、マルコが顔も向けずに言った一言で白紙になったのだ。
マルコは座ったまま、立ち上がるアンの顔を見上げて、まるで諭すような目を向ける。
「こっちが無理言って通した企画だったからよい、これ以上融通が利かねェ。お前ェのならともかく、オレの誕生日ってだけなんだからよい。我慢してくれ」
「だっ……」
だけってなんだ、と食ってかかるよりも早く、手が動いていた。
握っていたクッションを、振りかぶって投げつける。
一瞬マルコの見開いた目が見えた。
顔面にぶち当たる。
「アンタが『だけ』っていうその日を楽しみにしてたあたしはなんだって言うの!?バカマルコ!!もう帰ってくんな!!」
クッションがずり落ちたその顔にめちゃくちゃに言葉を投げつけて、アンは駆け出した。
ここにはいたくない、こんなバカヤロウとはいたくない、とアンは震える手で玄関の鍵を開け、外へ飛び出す。
『帰ってくんな』と言った自分が家を出ていくことに、頭の片隅のどこか冷静な部分が疑問を感じていた。
*
夜はもうそろそろ深みを増してくる時間帯だった。
女の一人歩きは避けるべきだと一般には言われるような時間帯。
夜の10時を過ぎている。
家を飛び出したアンの脚は真っ先にある場所へと向かったが、今アンはとぼとぼと街中を歩いている。彷徨っているという方が近い。
繁華街と言うにはいくぶん活気がないけれど、比較的まだ開いている店がぽつぽつとあるような、どちらかと言うと商店街のような通り。
どこか店へ入れれば良かったが、体一つで飛び出したアンに手持ちはなく、行き場もなかった。
ジャージのズボンにマルコの古い長そでを着たアンの姿はどうも所帯じみていて、しょうもない男に引っかけられるような心配は必要なさそうだったが少し寒かった。
マルコはきっと今頃隣のアパートの一室の前で、アンを出せと怒鳴っているに違いない。
いつでもアンにシェルターを与えてくれる、左目に傷のある男のところだ。
アンがいないと聞いて、マルコは信じるだろうか。
サッチがアンを庇っていると疑われて盛大な怒りの矛先を向けられているのだとしたら、それは少し申し訳ないと思った。
だがそのすべてを承知したうえで、アンは一度向かいかけたその場所に行くのをやめたのだ。
なぜならアンがすぐにサッチのもとへ行こうとしたように、マルコもすぐにサッチのもとへと行くだろうから。
いつものように、アンが機嫌を損ねて家を出て、マルコが迎えに来て、という過程は今のアンに要らなかった。
追いかけてほしいと心の片隅で思いながら家を出るようなあざとさは、今のアンには微塵もなかった。
冷たい夜風に頭のてっぺんからつま先までなぶられる今も、アンの中心はぐつぐつと煮えていた。
このまま一晩アンが家に帰らなかったら、マルコはどうするだろう。
夜通し探すだろうか。
呆れて家に戻るだろうか。
それともサッチに限らずアンの数少ない知人のもとを訪ねて回るだろうか。
どうでもいい、と思った。
アンは帰らないのだから。
少なくとも今はまだ、マルコの顔を見る気にはならなかった。
マルコの所業に腹を立て、それに涙をにじませかけたのは確かだったが、マルコのために涙を流すことさえ腹立たしかった。
これは前代未聞の大喧嘩だ、とアンは歴史的瞬間に立ち会ったかのような貴重な気分を味わう。
それはさておき、とアンは足を止めた。
ぶらぶら歩いて、通りの端に来てはUターンし、また端に来てはUターンを繰り返すのはいくらか疲れてきた。
通りに並ぶ店の人間にもおかしく思われる。
あーあ、とアンは声に出してみた。
歩道に古いベンチがあったのでそこに腰を下ろす。
おしりに触れたベンチの冷たさが背中を這い登って、背筋が伸びた。
こんなところに座っていたんじゃ、いずれ誰かがアンを見つけてしまうだろう。
間違い探しの答えの一つになったような気分だった。
あたしがここにいるのは自然なことだよ、何も間違ってなんかないんだよ、だから見つけないでねと言い聞かせたくなる。
ああ寒い、とアンは自分の身体を抱きしめた。
そのときぶぅんとエンジンの音が聞こえて、アンは身を固くした。
エンジン音の発信源である車の黒い影を目の端に捉えて、アンの腰は浮かびかけた。
逃げるためだ。
しかしその車がマルコのものでも、サッチのものでもないことに気付いてまた座り直した。
ただの通りすがりだ。
そう思ったのに、その車はアンが座るベンチの目の前でぴたりと停車した。
ただでさえ暗い夜道、車の中がよく見えない。
少なくとも運転席に見える男は、アンが覚えのある顔ではないようだった。
怪訝な顔で中を覗こうとするアンの目の前で、上品な起動音と共に車のウィンドウがスライドし、車の中がよく見えた。
そこにいた人物が誰かに気付いて、アンは叫ぶように「あっ」と口にしていた。
*
温かいコーンスープは、ミルクとコーンの配分が素晴らしくちょうどよかった。
バジルが散っているあたり、アンがめんどくさくてよく省く手間をかけてくれているのがわかる。
腹は減っているかと訊かれて、思わずうなずいてしまったのでクロワッサンまでついてきた。
夜遅くまであまり物を食うもんじゃない、とよくいなされるアンにとってそれは多少の背徳感がありつつも爽快な行為だった。
なにはともあれおいしい、とアンはクロワッサンにかじりつく。
こんな夜遅くなのに、焼きたてのようにおいしいのはなんでだろう。
ぱくぱくと平らげるアンの背中に、ふわりと温かいものが掛けられた。
振り返ると、大人しい服装の背の高い女性がにこりと笑っていた。
アンの肩に掛けられたのは大きめのカーディガンのようだった。
ありがとう、と口にすると女性は小さく頭を下げて立ち去る。
お手伝いさん、メイドさん、使用人、そんな言葉が当てはまる人を初めて見た。
アンが一通り出されたスープとパンを食べ終わって一息ついたとき、ボーンと深い音色が広い部屋に響いた。
あと一時間で日付が変わる。
アンは目の前の、アンを拾ってくれた男に視線を向けた。
「ごちそうさま……すごく、おいしかった」
「今お前ェの寝床を用意させてる。それまでそこでゆっくりしてな」
男は大きな体をゆすって笑うが、アンは申し訳なさに身を縮める。
オヤジ、と小さく呼びかけた。
「ほんとに、いいの?泊まっても……」
「アホンダラァ、いらねェ気なんて使うんじゃねェ、お前には似合わねェよ。第一ただでさえ無駄な部屋ばっか持て余してんだ、たまには使ってやらねぇとな」
それでも、とアンはごにょごにょ言葉尻を濁しながら言い募る。
オヤジ──マルコやサッチがそう呼ぶのでアンもそう呼んでいる──はフフンと鼻を鳴らした。
「たまにはそうやってマルコのバカに制裁してやらねぇとな。アイツはいまいち大事なところが抜けてる節がある」
そう思わねぇか、とオヤジがアンに同意を求めたので、アンはおずおずと頷いた。
オヤジは機嫌よさげに「だろう」と頷き返す。
アンを拾ってくれた車の中で、事の顛末は全て話してあった。
話を聞いてオヤジは、たった一言「じゃあ今夜はうちに泊まってきな」と即決でアンを自宅に招いてくれた。
初めて赴くオヤジの自宅は、アンが想像した豪邸、お屋敷、大邸宅のどれでもなかった。
ただ敷地だけが、どこまでも続いている。
大手出版社の代表取締役の家は予想とは違ったが、それでもアンは息を呑んだ。
大きな門構えはオヤジの姿そのもののようだった。
古風な作りの屋敷は豪華さではなく風格を醸し出していて、中にあるすべての調度品はアンが考えにも及ばない破格の品ばかりだろうが、下品なけばけばしさは一切なく、あるべき場所に収まっているような気品を感じる。
広いのに掃除の行き届いた屋内には使用人が数人いると言っていたが、その数人でこの広い屋敷内をどうしてこうもきれいに保てるのか不思議でならなかった。
アンとマルコが住まうあの小さな部屋でさえ、たまに掃除の手が及ばない場所があるというのに。
風呂は入ったか、と訊かれてアンは黙って頷く。
すると、すっと大きな手が差し出された。
その手に乗るにはいくぶん小さすぎるように見える携帯電話。それをオヤジは差し出していた。
「今日は帰らねェってのくらい言っておきな。心労で殺すつもりならともかく、連絡は入れておくほうがいい」
アンはオヤジの顔を見上げて、その手の上の携帯に視線を落とす。
本当は今、マルコの声を聞く気には到底なれなかった。
それくらい、アンの怒りは深いのだ。
それでもオヤジがそう言うのなら、そうするべきだとは思う。
オヤジはアンの考えを読み取ったかのように、「嫌んなったらオレが変わってやる」と心強いセリフをはいた。
アンはおずおずと電話を受け取る。
画面はすでに、マルコの宛先をディスプレイの上に浮かべていた。
電話は、アンが通話ボタンを押して携帯を耳にあてた瞬間、コール音を一つも鳴らすことなくつながった。
「オヤジ!あぁ悪ィ、ちょっとアンが……いや、オヤジ、アンをどこかで見てねェかよい」
ちょっといろいろあってよい、というような言葉がぼそぼそと最後のほうに聞こえた。
電話口から突然流れてきたマルコの声を一通り聞いて、アンは言葉を継がずにじっと電話を握りしめる。
アンの前では、オヤジはその巨体に似合わず静かな様相でアンを見ていた。
電話の向こう側が、こちらの異変に気付く。
「オヤジ? ……悪ィ、なんか用だったかよい」
「今日は帰らないから」
向こうが息を呑む様子が伝わった。
「……アン? お前まさかオヤジのところに」
「今日はオヤジに泊めてもらう。帰らない」
「バカ言ってんじゃねェよい。へそ曲げてねぇで早く帰ってこい。今から迎えに」
「こなくていい!!」
アンが声を荒げると、また受話器の向こうのマルコが微かに息を呑む雰囲気が伝わったが、すぐにマルコのほうの怒りのボルテージも上がったのを感じた。
「予定が急に入ったのは悪かったって言っただろい。お前がいろいろ準備してくれてたのはわかってるよい。でもこればっかりはオレもどうしようもねェんだよい」
「そんなのわかってる」
聞きたいのはそんな事じゃない。
語尾に多少の険を含んだマルコの声は、アンに怒りよりずっと深い悲しみを与えた。
「仕事が入るのが仕方ないのはわかってる。忙しいのも知ってる。なんでわざわざ明日にって思ったけど、それがどうしようもないのもわかってるもん」
アンの言葉尻は、情けなくも震えていた。
マルコは黙って聞いている。
オヤジも黙って静観している。
「なんでいっつも一方的なの? 予定が埋まっちゃった、どうしようか、ってなんで聞いてくれないの? 明日ムリになったからって勝手に言って、簡単に日をずらせばいいだろって、なんで勝手に決めちゃうの? ちょっとはあたしにも相談してよ!!」
最後は悲鳴のように、受話器の向こうにぶつけた。
気付けば両手で携帯を握りこんでいる。
「あたしが馬鹿だから? なんにもわからないと思ってんの?」
「ちが」
「謝って丸め込んでちょどいい解決方法出しとけばそれでいいって、思ってんの?」
「……アン」
「マルコはいっつもそうだ。あたしになんにも話してくれない。勝手に自分の誕生日なんてどうでもいいみたいなこと言って、あた、あたしは」
ぽろぽろっと珠がこぼれるように涙が頬を転がった瞬間、両手で握った携帯電話がいともたやすく取り上げられた。
「おうマルコ。心配しねェでも、アンはうちで一晩預かってる。ちったぁ頭冷やしなアホンダラァ」
両者な、と付け加えたオヤジがちらりとアンを見下ろす。
アンは俯いて、顔を隠すように腕でごしごしと顔をこすった。
オヤジはそのまましばらくマルコと話をして、電話を切った。
ぽんとアンの背中を叩いて、今日はもう寝やがれと言う。
ごめんね、とありがとう、のないまぜになったような言葉をぐじゅぐじゅと零すと、ぐしゃぐしゃに頭を撫でながら「言う相手が違う」とオヤジは少し笑った。
アンは案内係の使用人に連れられて、とぼとぼと寝室へと歩いたのだった。
*
翌日、オヤジはアンを家の前まで送ってくれた。
朝はアンが自然に目を覚ますまでけして邪魔をせず、アンが上体を起こして差し込む朝日に目を細める瞬間を見計らったかのように、使用人が扉をノックした。
身体のことを一番に考えたような健康的な朝ご飯を、アンはオヤジと一緒に食べた。
部屋に運んでくれるというのを、オヤジと一緒に食べたいと申し出たのだ。
健康的なと言っても、その朝ご飯はアンが今まで食べたそれの中で一番おいしかった。
車を降りてもう何度目かになるありがとうを口にするアンを、白ひげは追い払うように手を振って押しとどめた。
わかってるな、と言うように金色の目がアンを捉える。
アンは黙って頷いて、少し笑って手を振った。
オヤジを乗せた車は、なめらかに動き出してアンの住まいの前から去っていった。
アンはマンションの階段手前にある鍵付の郵便受けを真っ先に覗き込んだ。
思った通り、鍵が入っていた。
それを取り出して階段を上る。
「今が最悪の状態だと思うなら、これ以上悪いことは起きねェよ」とオヤジは言ったが、アンは自分の乏しい想像力を思って、ため息をついた。
だって今が最悪だと思うのは、これ以上の最悪をアンが思いつかないだけかもしれない。
自宅の扉に手をかけたが、やはり鍵はかかっていた。
アンは郵便受けから取り出した鍵を使った。
家の中はいつも通りの朝だった。
まるで普通に、少し出かけたアンを出迎えてくれる部屋の景色と何ら変わりはなかった。
リビングのデスク前にマルコがいて、振り返って「おかえり」とそっけなく言ってくれてもいいはずの朝だった。
それでも家の中はがらんと静かだった。
空洞ばかりが目立つ箱庭のように、がらんどうのそこにアンは踏み入った。
マルコは予定通り、出張へと出てしまったのだ。
あまりに予想通りで、何の感慨も浮かばなかった。
とりあえず着替えて、洗濯を回した。
マルコが寝て起きた気配の残る布団を干した。
床に掃除機をかけた。
冷蔵庫を開けて、げんなりした。
パンパンに詰まっている。
アンはその中身を取り出して、今日中に食べなきゃいけないものと日持ちするものを分けた。
日持ちがするものは買ったままの姿から保存用に切り替えて包装しなおす。
大きさが邪魔なものは細かく切って、タッパに詰め直す。
そして、日持ちのしない生ものたちを片っ端から調理していった。
完全に料理を作り上げるのではなく、これらも少なくとも明日まで保存できる状態にするためだ。
せっかくマルコのために買ってきたものなのだからマルコに食べてもらいたい。
そう思ってなんとしても明日まで持たせる工夫を施している自分に嫌気がさして、少しいとしくも思った。
包丁を握る手の甲に、ぽつぽつ雨が降る。
土砂降りではないけれど、しっかりと濡れてしまう大粒の雨がとめどなく手元を濡らす。
滲む視界の向こう側で、アンは調理をし続けた。
一年で一番すてきな日になるはずだった。
この一年を一緒に過ごせてよかったねと確かめ合えるはずだった。
それなのに、アンもマルコも今ひとりで、アンの方はこうして泣いていることがまるで現実味のない話だった。
一日前の自分に今の現状を話しても、けして信じないだろう。
どうしてこうなってしまったんだろうと、考えても仕方のないことがぐるぐると頭を巡る。
マルコにぶつけた言葉の数々を思い出して、そのたびに心が切り刻まれた。
直接これらの言葉を浴びたマルコがそれ以上に傷ついているのは明らかだった。
それを行った張本人の自分が傷つく資格はないと思った。
──ほんとうにマルコが帰ってこなかったらどうしよう。
ガチャガチャ、と騒々しく玄関の鍵が音を立てて、アンはハッと顔を上げた。
玄関で音を立てた人影が、すたすたとリビングに歩み寄り、そこと廊下を繋ぐ扉を開ける。
アンはその人物を、ぽかんと口を開けて見上げていた。
マルコは、アンの姿を見てあからさまに安堵の表情を見せた。
「な、ん……出張は……」
「あぁ、行くよい」
すぐさま帰ってきた返事の意味が分からず、アンは変わらずぽかんとマルコを見つめた。
だって、もう行ったんじゃなかったの?
マルコは数歩でアンの元まで歩み寄ると、アンが握ったままだった包丁をやんわりと抑えるように取り上げた。
「メシ、作ってたのかよい」
「ち……がう……」
どれもこれも、マルコが明日食べるための準備だ。
パック詰めされたそれらの品々を一瞥して、マルコはそれに気付いたようだった。
それならちょうどいい、とわけのわからないことを言う。
筋張った指が乱暴にアンの頬を拭った。
その顔は、まるでひっぱたかれたかのように痛々しく引き攣っていた。
「泣くな」
短いその言葉とともに、身体全体がきつく締め上げられる。
「ごめんな」
昨日何度も聞いたありふれたその言葉に、アンの涙は堰を切った。
マルコの肩にあてた額をぐりぐりと動かして激しく首を振る。
ちがうの。あんなふうに怒りたかったわけじゃないの。
ただかなしかっただけ。
なんでもすぐにマルコが決めちゃうのが、つまらなかっただけ。
ほんとうは、今日の朝いちばんにお祝いして、いってらっしゃいって言うのでよかったのに。
そんなようなことを、涙でむせては喉を詰まらせながらアンは口にした。
マルコの腕の力が一層強くなった。
それにこたえるように、アンも腕を回す。
しばらくアンが鳴らす鼻声だけが響く部屋の中で、抱き合ったままだった。
少しして、マルコが口を開いた。
「あっちの社に、行ってきたんだよい」
あっち、とマルコが首を動かした方向を確認して、それがオヤジの会社ではなくこの家の近くにある、マルコがよく仕事を受けるもう一つの会社であることに気付いた。
はかなげなほど美しい外見に相反して、つよい女性が担当として君臨する出版社だ。
マルコが出張を申し出られたのもここの会社からだった。
マルコはズボンの後ろポケットに手を伸ばすと、おもむろに一枚の封筒を取り出した。
アンは目の前に現れたそれと、マルコの顔を見比べる。
マルコは片手にアンを抱いたまま、それをひらひらと動かした。
「今日行く予定だったところの、宿。二人分ぶんどってきた」
全部向こうの社が仕切って決めてくれた取材だったから、こっちで勝手に変更できなかったから直接掛け合いに行っていたのだ、とマルコは思い出しめんどくさい、というように顔をしかめて話す。
アンはまだわけがわからない。
「……どういうこと?」
「お前ェも行くんだよい。出張。一緒に。今日も明日も休みだろい」
「でも……仕事……」
「こうなったら仕事はついでだ。旅行のついでに事が済んで一石二鳥だと思っとくよい」
そう言って、マルコはキッチン台に並ぶ数々の品に目を走らせた。
「こいつらはちゃんと、明日帰ってきたら食うよい。明日まで誕生日が続くと思って、帰ってから作ってくれねぇかい」
アンは至近距離にあるその顔を、ぽかんと見上げつづけた。
なんと言っていいのかわからない。言葉が見つからなかった。
マルコのほうも言葉を探すようにアンから視線を外して、あーと不明瞭な声を発する。
「お前が勝手だっつって腹立てんのはよくわかるけどよい、もう四十路男の性格なんてそうそう治んねぇんだよい。結局これもオレが勝手に考えて、解決した気になってるだけだ。それがいやだっつーなら、オレはもうどうしようもねェ。我慢させることくれェしか思いつかん」
マルコにしては長いセリフを、言葉を手探りしながら、言った。
だから、と続く。
「怒ってもいい。なじって、昨日みてェに怒鳴り散らせばいい。ただ、ひとりで泣くのはやめろ。怒るのは聞いてやれるけどひとりで泣かれたらどうにもできねェ」
間近でそう言われて、アンは気圧されるように頷いた。
すっかり涙はもう引いている。
今はもう驚きの方が強い。
よし、とマルコは頷いて腕をほどいた。
「じゃあ出かける準備しろよい。一晩だから、簡単に荷物つめればいい」
すっかり通常モードに戻ったマルコは、さっさとリビングのほうへと向かって自身の荷物をまとめ始めた。
しばらくその丸くなった背中を呆然と見ていたアンは、おずおずと自分の支度をしなければと動き出す。
まるで昨日のひと悶着はなんだったのかと言うように、淡々と荷物を詰めた。
窓の鍵よし、エアコンよし、パソコンよし、火の元よし、とマルコが確認していくのをアンは荷物を肩に提げてみていた。
いつもはアンがするその作業を、今日はマルコが引き受けている。
その背中にアンは声をかけた。
「喧嘩も悪くないね」
「そうかよい」
「でももうしたくないよ」
「オレもだよい」
「マルコ誕生日おめでとう」
「ありがとよい」
「だいすきだよ」
「オレもだよい」
ふふ、と笑う。
いってきます、と部屋の中に呟いた。
その考えが通じるのなら人はいくらでも相手に尽くすだろうし、そのあとにやってくる見返りをにこにこしながら待つに違いない。
それが真理でないからこそ、誰もが相手とのつながりを求めて試行錯誤して、少しずつ心の距離を測りながら自分と相手の想いを重ねていくプロセスを経る。
そうやって、自分とマルコもやって来たのだと、思っていた。
「ありえない、ありえない、ありえない」
アンはいつの間にか立ち上がっていた。
右手には、先ほどまで抱きしめていた四角いクッションの角を握っている。
無残にもクッションカバーにはアンが握りしめた皺がくっきりとついてしまうにちがいない。
しかし今のアンに、クッションの皺になど考えをおよばせる余裕はなかった。
クッションを握る手にも、踏ん張って立ち上がる脚にも力を込め、さらには目の前の男を見つめる視線にもこれ以上ない程力を込める。
ありえない、ともう一度呟いた。
マルコは、アンがなぜ突然目の色を変えて「ありえない」と連呼しているのか、いまいち理解していない顔をしていた。
その証拠に、マルコのほうは変わらずゆったりとデスクの前の回転いすに腰を落ち着けたまま、首だけでアンを振り返っている。
「なんで」とアンは声を絞り出した。
「言ったじゃん。明日は一日家にいるって、言ったじゃん」
「悪かったよい、だから日はまたずらせば」
「もう全部用意してあるんだもん!!」
アンはここで初めて声を荒げた。
ようやくマルコが身体全体で振り返る。
といっても回転いすをくるりとアンの方へと回しただけだ。
立ち上がって両手両足そして瞳にまで力を込めるアンと、その労力の程度はまったくちがう。
それさえも、アンが大事にしたものをマルコが軽んじて、あまつ蹴飛ばしたかのように感じた。
「なんでわざわざ明日行くの!?こ、こっちは一週間も前から」
「急に都合がついちまったんだよい、わかるだろい」
わかる。
マルコの仕事は突然舞い込んで、厳しいタイムリミットを要求する。
だけど今はわかりたくなかった。
それを理解してしまえば、もう二度とアンの望みは通らない気がした。
これからもその『仕事』がいつまでもアンとマルコの間を隔て続ける気がした。
アンはさらに、これ以上ないほど強く右手の拳を握りしめる。
「と、泊まりだとか、そんな」
言葉は続かなかった。
口を開くとそこから刺激が入り込み、瞼の奥の熱い部分に触れて涙が滲みそうだった。
マルコは困ったように頭をかきながら、もう一度「悪かったよい」と言った。
困らせているのはわかっていた。
だけど今いちばん困っているのはアンの方だ。
困るくらいなら初めからしないでよ、と言いたくなる。
そもそも、マルコの態度が気に入らなかった。
夕食後、ソファの定位置に収まりながら明日の朝ごはんから夜ごはんまで、一年のうちで一番素晴らしい食事にする算段をつけていたアンに、マルコは顔さえ向けることなく、明日から一晩家を空ける、と言い放ったのだ。
それはいうなれば出張で、マルコの職業柄取材旅行ともいい、数か月に1,2回ある程度の特に稀というわけでもないことだった。
それがどうして、どういう理由で、何の意図が働いて、明日だというの?
明日は朝から夜まで、マルコが好きなものしか作らない。
サッチにレシピはもらった。
こっそり練習もした。
冷蔵庫にはすでにその材料が全てつまっている。
乾杯のお酒は、夕食前の散歩にマルコと一緒に買いに行って選ぶつもりだった。
そのすべてが、マルコが顔も向けずに言った一言で白紙になったのだ。
マルコは座ったまま、立ち上がるアンの顔を見上げて、まるで諭すような目を向ける。
「こっちが無理言って通した企画だったからよい、これ以上融通が利かねェ。お前ェのならともかく、オレの誕生日ってだけなんだからよい。我慢してくれ」
「だっ……」
だけってなんだ、と食ってかかるよりも早く、手が動いていた。
握っていたクッションを、振りかぶって投げつける。
一瞬マルコの見開いた目が見えた。
顔面にぶち当たる。
「アンタが『だけ』っていうその日を楽しみにしてたあたしはなんだって言うの!?バカマルコ!!もう帰ってくんな!!」
クッションがずり落ちたその顔にめちゃくちゃに言葉を投げつけて、アンは駆け出した。
ここにはいたくない、こんなバカヤロウとはいたくない、とアンは震える手で玄関の鍵を開け、外へ飛び出す。
『帰ってくんな』と言った自分が家を出ていくことに、頭の片隅のどこか冷静な部分が疑問を感じていた。
*
夜はもうそろそろ深みを増してくる時間帯だった。
女の一人歩きは避けるべきだと一般には言われるような時間帯。
夜の10時を過ぎている。
家を飛び出したアンの脚は真っ先にある場所へと向かったが、今アンはとぼとぼと街中を歩いている。彷徨っているという方が近い。
繁華街と言うにはいくぶん活気がないけれど、比較的まだ開いている店がぽつぽつとあるような、どちらかと言うと商店街のような通り。
どこか店へ入れれば良かったが、体一つで飛び出したアンに手持ちはなく、行き場もなかった。
ジャージのズボンにマルコの古い長そでを着たアンの姿はどうも所帯じみていて、しょうもない男に引っかけられるような心配は必要なさそうだったが少し寒かった。
マルコはきっと今頃隣のアパートの一室の前で、アンを出せと怒鳴っているに違いない。
いつでもアンにシェルターを与えてくれる、左目に傷のある男のところだ。
アンがいないと聞いて、マルコは信じるだろうか。
サッチがアンを庇っていると疑われて盛大な怒りの矛先を向けられているのだとしたら、それは少し申し訳ないと思った。
だがそのすべてを承知したうえで、アンは一度向かいかけたその場所に行くのをやめたのだ。
なぜならアンがすぐにサッチのもとへ行こうとしたように、マルコもすぐにサッチのもとへと行くだろうから。
いつものように、アンが機嫌を損ねて家を出て、マルコが迎えに来て、という過程は今のアンに要らなかった。
追いかけてほしいと心の片隅で思いながら家を出るようなあざとさは、今のアンには微塵もなかった。
冷たい夜風に頭のてっぺんからつま先までなぶられる今も、アンの中心はぐつぐつと煮えていた。
このまま一晩アンが家に帰らなかったら、マルコはどうするだろう。
夜通し探すだろうか。
呆れて家に戻るだろうか。
それともサッチに限らずアンの数少ない知人のもとを訪ねて回るだろうか。
どうでもいい、と思った。
アンは帰らないのだから。
少なくとも今はまだ、マルコの顔を見る気にはならなかった。
マルコの所業に腹を立て、それに涙をにじませかけたのは確かだったが、マルコのために涙を流すことさえ腹立たしかった。
これは前代未聞の大喧嘩だ、とアンは歴史的瞬間に立ち会ったかのような貴重な気分を味わう。
それはさておき、とアンは足を止めた。
ぶらぶら歩いて、通りの端に来てはUターンし、また端に来てはUターンを繰り返すのはいくらか疲れてきた。
通りに並ぶ店の人間にもおかしく思われる。
あーあ、とアンは声に出してみた。
歩道に古いベンチがあったのでそこに腰を下ろす。
おしりに触れたベンチの冷たさが背中を這い登って、背筋が伸びた。
こんなところに座っていたんじゃ、いずれ誰かがアンを見つけてしまうだろう。
間違い探しの答えの一つになったような気分だった。
あたしがここにいるのは自然なことだよ、何も間違ってなんかないんだよ、だから見つけないでねと言い聞かせたくなる。
ああ寒い、とアンは自分の身体を抱きしめた。
そのときぶぅんとエンジンの音が聞こえて、アンは身を固くした。
エンジン音の発信源である車の黒い影を目の端に捉えて、アンの腰は浮かびかけた。
逃げるためだ。
しかしその車がマルコのものでも、サッチのものでもないことに気付いてまた座り直した。
ただの通りすがりだ。
そう思ったのに、その車はアンが座るベンチの目の前でぴたりと停車した。
ただでさえ暗い夜道、車の中がよく見えない。
少なくとも運転席に見える男は、アンが覚えのある顔ではないようだった。
怪訝な顔で中を覗こうとするアンの目の前で、上品な起動音と共に車のウィンドウがスライドし、車の中がよく見えた。
そこにいた人物が誰かに気付いて、アンは叫ぶように「あっ」と口にしていた。
*
温かいコーンスープは、ミルクとコーンの配分が素晴らしくちょうどよかった。
バジルが散っているあたり、アンがめんどくさくてよく省く手間をかけてくれているのがわかる。
腹は減っているかと訊かれて、思わずうなずいてしまったのでクロワッサンまでついてきた。
夜遅くまであまり物を食うもんじゃない、とよくいなされるアンにとってそれは多少の背徳感がありつつも爽快な行為だった。
なにはともあれおいしい、とアンはクロワッサンにかじりつく。
こんな夜遅くなのに、焼きたてのようにおいしいのはなんでだろう。
ぱくぱくと平らげるアンの背中に、ふわりと温かいものが掛けられた。
振り返ると、大人しい服装の背の高い女性がにこりと笑っていた。
アンの肩に掛けられたのは大きめのカーディガンのようだった。
ありがとう、と口にすると女性は小さく頭を下げて立ち去る。
お手伝いさん、メイドさん、使用人、そんな言葉が当てはまる人を初めて見た。
アンが一通り出されたスープとパンを食べ終わって一息ついたとき、ボーンと深い音色が広い部屋に響いた。
あと一時間で日付が変わる。
アンは目の前の、アンを拾ってくれた男に視線を向けた。
「ごちそうさま……すごく、おいしかった」
「今お前ェの寝床を用意させてる。それまでそこでゆっくりしてな」
男は大きな体をゆすって笑うが、アンは申し訳なさに身を縮める。
オヤジ、と小さく呼びかけた。
「ほんとに、いいの?泊まっても……」
「アホンダラァ、いらねェ気なんて使うんじゃねェ、お前には似合わねェよ。第一ただでさえ無駄な部屋ばっか持て余してんだ、たまには使ってやらねぇとな」
それでも、とアンはごにょごにょ言葉尻を濁しながら言い募る。
オヤジ──マルコやサッチがそう呼ぶのでアンもそう呼んでいる──はフフンと鼻を鳴らした。
「たまにはそうやってマルコのバカに制裁してやらねぇとな。アイツはいまいち大事なところが抜けてる節がある」
そう思わねぇか、とオヤジがアンに同意を求めたので、アンはおずおずと頷いた。
オヤジは機嫌よさげに「だろう」と頷き返す。
アンを拾ってくれた車の中で、事の顛末は全て話してあった。
話を聞いてオヤジは、たった一言「じゃあ今夜はうちに泊まってきな」と即決でアンを自宅に招いてくれた。
初めて赴くオヤジの自宅は、アンが想像した豪邸、お屋敷、大邸宅のどれでもなかった。
ただ敷地だけが、どこまでも続いている。
大手出版社の代表取締役の家は予想とは違ったが、それでもアンは息を呑んだ。
大きな門構えはオヤジの姿そのもののようだった。
古風な作りの屋敷は豪華さではなく風格を醸し出していて、中にあるすべての調度品はアンが考えにも及ばない破格の品ばかりだろうが、下品なけばけばしさは一切なく、あるべき場所に収まっているような気品を感じる。
広いのに掃除の行き届いた屋内には使用人が数人いると言っていたが、その数人でこの広い屋敷内をどうしてこうもきれいに保てるのか不思議でならなかった。
アンとマルコが住まうあの小さな部屋でさえ、たまに掃除の手が及ばない場所があるというのに。
風呂は入ったか、と訊かれてアンは黙って頷く。
すると、すっと大きな手が差し出された。
その手に乗るにはいくぶん小さすぎるように見える携帯電話。それをオヤジは差し出していた。
「今日は帰らねェってのくらい言っておきな。心労で殺すつもりならともかく、連絡は入れておくほうがいい」
アンはオヤジの顔を見上げて、その手の上の携帯に視線を落とす。
本当は今、マルコの声を聞く気には到底なれなかった。
それくらい、アンの怒りは深いのだ。
それでもオヤジがそう言うのなら、そうするべきだとは思う。
オヤジはアンの考えを読み取ったかのように、「嫌んなったらオレが変わってやる」と心強いセリフをはいた。
アンはおずおずと電話を受け取る。
画面はすでに、マルコの宛先をディスプレイの上に浮かべていた。
電話は、アンが通話ボタンを押して携帯を耳にあてた瞬間、コール音を一つも鳴らすことなくつながった。
「オヤジ!あぁ悪ィ、ちょっとアンが……いや、オヤジ、アンをどこかで見てねェかよい」
ちょっといろいろあってよい、というような言葉がぼそぼそと最後のほうに聞こえた。
電話口から突然流れてきたマルコの声を一通り聞いて、アンは言葉を継がずにじっと電話を握りしめる。
アンの前では、オヤジはその巨体に似合わず静かな様相でアンを見ていた。
電話の向こう側が、こちらの異変に気付く。
「オヤジ? ……悪ィ、なんか用だったかよい」
「今日は帰らないから」
向こうが息を呑む様子が伝わった。
「……アン? お前まさかオヤジのところに」
「今日はオヤジに泊めてもらう。帰らない」
「バカ言ってんじゃねェよい。へそ曲げてねぇで早く帰ってこい。今から迎えに」
「こなくていい!!」
アンが声を荒げると、また受話器の向こうのマルコが微かに息を呑む雰囲気が伝わったが、すぐにマルコのほうの怒りのボルテージも上がったのを感じた。
「予定が急に入ったのは悪かったって言っただろい。お前がいろいろ準備してくれてたのはわかってるよい。でもこればっかりはオレもどうしようもねェんだよい」
「そんなのわかってる」
聞きたいのはそんな事じゃない。
語尾に多少の険を含んだマルコの声は、アンに怒りよりずっと深い悲しみを与えた。
「仕事が入るのが仕方ないのはわかってる。忙しいのも知ってる。なんでわざわざ明日にって思ったけど、それがどうしようもないのもわかってるもん」
アンの言葉尻は、情けなくも震えていた。
マルコは黙って聞いている。
オヤジも黙って静観している。
「なんでいっつも一方的なの? 予定が埋まっちゃった、どうしようか、ってなんで聞いてくれないの? 明日ムリになったからって勝手に言って、簡単に日をずらせばいいだろって、なんで勝手に決めちゃうの? ちょっとはあたしにも相談してよ!!」
最後は悲鳴のように、受話器の向こうにぶつけた。
気付けば両手で携帯を握りこんでいる。
「あたしが馬鹿だから? なんにもわからないと思ってんの?」
「ちが」
「謝って丸め込んでちょどいい解決方法出しとけばそれでいいって、思ってんの?」
「……アン」
「マルコはいっつもそうだ。あたしになんにも話してくれない。勝手に自分の誕生日なんてどうでもいいみたいなこと言って、あた、あたしは」
ぽろぽろっと珠がこぼれるように涙が頬を転がった瞬間、両手で握った携帯電話がいともたやすく取り上げられた。
「おうマルコ。心配しねェでも、アンはうちで一晩預かってる。ちったぁ頭冷やしなアホンダラァ」
両者な、と付け加えたオヤジがちらりとアンを見下ろす。
アンは俯いて、顔を隠すように腕でごしごしと顔をこすった。
オヤジはそのまましばらくマルコと話をして、電話を切った。
ぽんとアンの背中を叩いて、今日はもう寝やがれと言う。
ごめんね、とありがとう、のないまぜになったような言葉をぐじゅぐじゅと零すと、ぐしゃぐしゃに頭を撫でながら「言う相手が違う」とオヤジは少し笑った。
アンは案内係の使用人に連れられて、とぼとぼと寝室へと歩いたのだった。
*
翌日、オヤジはアンを家の前まで送ってくれた。
朝はアンが自然に目を覚ますまでけして邪魔をせず、アンが上体を起こして差し込む朝日に目を細める瞬間を見計らったかのように、使用人が扉をノックした。
身体のことを一番に考えたような健康的な朝ご飯を、アンはオヤジと一緒に食べた。
部屋に運んでくれるというのを、オヤジと一緒に食べたいと申し出たのだ。
健康的なと言っても、その朝ご飯はアンが今まで食べたそれの中で一番おいしかった。
車を降りてもう何度目かになるありがとうを口にするアンを、白ひげは追い払うように手を振って押しとどめた。
わかってるな、と言うように金色の目がアンを捉える。
アンは黙って頷いて、少し笑って手を振った。
オヤジを乗せた車は、なめらかに動き出してアンの住まいの前から去っていった。
アンはマンションの階段手前にある鍵付の郵便受けを真っ先に覗き込んだ。
思った通り、鍵が入っていた。
それを取り出して階段を上る。
「今が最悪の状態だと思うなら、これ以上悪いことは起きねェよ」とオヤジは言ったが、アンは自分の乏しい想像力を思って、ため息をついた。
だって今が最悪だと思うのは、これ以上の最悪をアンが思いつかないだけかもしれない。
自宅の扉に手をかけたが、やはり鍵はかかっていた。
アンは郵便受けから取り出した鍵を使った。
家の中はいつも通りの朝だった。
まるで普通に、少し出かけたアンを出迎えてくれる部屋の景色と何ら変わりはなかった。
リビングのデスク前にマルコがいて、振り返って「おかえり」とそっけなく言ってくれてもいいはずの朝だった。
それでも家の中はがらんと静かだった。
空洞ばかりが目立つ箱庭のように、がらんどうのそこにアンは踏み入った。
マルコは予定通り、出張へと出てしまったのだ。
あまりに予想通りで、何の感慨も浮かばなかった。
とりあえず着替えて、洗濯を回した。
マルコが寝て起きた気配の残る布団を干した。
床に掃除機をかけた。
冷蔵庫を開けて、げんなりした。
パンパンに詰まっている。
アンはその中身を取り出して、今日中に食べなきゃいけないものと日持ちするものを分けた。
日持ちがするものは買ったままの姿から保存用に切り替えて包装しなおす。
大きさが邪魔なものは細かく切って、タッパに詰め直す。
そして、日持ちのしない生ものたちを片っ端から調理していった。
完全に料理を作り上げるのではなく、これらも少なくとも明日まで保存できる状態にするためだ。
せっかくマルコのために買ってきたものなのだからマルコに食べてもらいたい。
そう思ってなんとしても明日まで持たせる工夫を施している自分に嫌気がさして、少しいとしくも思った。
包丁を握る手の甲に、ぽつぽつ雨が降る。
土砂降りではないけれど、しっかりと濡れてしまう大粒の雨がとめどなく手元を濡らす。
滲む視界の向こう側で、アンは調理をし続けた。
一年で一番すてきな日になるはずだった。
この一年を一緒に過ごせてよかったねと確かめ合えるはずだった。
それなのに、アンもマルコも今ひとりで、アンの方はこうして泣いていることがまるで現実味のない話だった。
一日前の自分に今の現状を話しても、けして信じないだろう。
どうしてこうなってしまったんだろうと、考えても仕方のないことがぐるぐると頭を巡る。
マルコにぶつけた言葉の数々を思い出して、そのたびに心が切り刻まれた。
直接これらの言葉を浴びたマルコがそれ以上に傷ついているのは明らかだった。
それを行った張本人の自分が傷つく資格はないと思った。
──ほんとうにマルコが帰ってこなかったらどうしよう。
ガチャガチャ、と騒々しく玄関の鍵が音を立てて、アンはハッと顔を上げた。
玄関で音を立てた人影が、すたすたとリビングに歩み寄り、そこと廊下を繋ぐ扉を開ける。
アンはその人物を、ぽかんと口を開けて見上げていた。
マルコは、アンの姿を見てあからさまに安堵の表情を見せた。
「な、ん……出張は……」
「あぁ、行くよい」
すぐさま帰ってきた返事の意味が分からず、アンは変わらずぽかんとマルコを見つめた。
だって、もう行ったんじゃなかったの?
マルコは数歩でアンの元まで歩み寄ると、アンが握ったままだった包丁をやんわりと抑えるように取り上げた。
「メシ、作ってたのかよい」
「ち……がう……」
どれもこれも、マルコが明日食べるための準備だ。
パック詰めされたそれらの品々を一瞥して、マルコはそれに気付いたようだった。
それならちょうどいい、とわけのわからないことを言う。
筋張った指が乱暴にアンの頬を拭った。
その顔は、まるでひっぱたかれたかのように痛々しく引き攣っていた。
「泣くな」
短いその言葉とともに、身体全体がきつく締め上げられる。
「ごめんな」
昨日何度も聞いたありふれたその言葉に、アンの涙は堰を切った。
マルコの肩にあてた額をぐりぐりと動かして激しく首を振る。
ちがうの。あんなふうに怒りたかったわけじゃないの。
ただかなしかっただけ。
なんでもすぐにマルコが決めちゃうのが、つまらなかっただけ。
ほんとうは、今日の朝いちばんにお祝いして、いってらっしゃいって言うのでよかったのに。
そんなようなことを、涙でむせては喉を詰まらせながらアンは口にした。
マルコの腕の力が一層強くなった。
それにこたえるように、アンも腕を回す。
しばらくアンが鳴らす鼻声だけが響く部屋の中で、抱き合ったままだった。
少しして、マルコが口を開いた。
「あっちの社に、行ってきたんだよい」
あっち、とマルコが首を動かした方向を確認して、それがオヤジの会社ではなくこの家の近くにある、マルコがよく仕事を受けるもう一つの会社であることに気付いた。
はかなげなほど美しい外見に相反して、つよい女性が担当として君臨する出版社だ。
マルコが出張を申し出られたのもここの会社からだった。
マルコはズボンの後ろポケットに手を伸ばすと、おもむろに一枚の封筒を取り出した。
アンは目の前に現れたそれと、マルコの顔を見比べる。
マルコは片手にアンを抱いたまま、それをひらひらと動かした。
「今日行く予定だったところの、宿。二人分ぶんどってきた」
全部向こうの社が仕切って決めてくれた取材だったから、こっちで勝手に変更できなかったから直接掛け合いに行っていたのだ、とマルコは思い出しめんどくさい、というように顔をしかめて話す。
アンはまだわけがわからない。
「……どういうこと?」
「お前ェも行くんだよい。出張。一緒に。今日も明日も休みだろい」
「でも……仕事……」
「こうなったら仕事はついでだ。旅行のついでに事が済んで一石二鳥だと思っとくよい」
そう言って、マルコはキッチン台に並ぶ数々の品に目を走らせた。
「こいつらはちゃんと、明日帰ってきたら食うよい。明日まで誕生日が続くと思って、帰ってから作ってくれねぇかい」
アンは至近距離にあるその顔を、ぽかんと見上げつづけた。
なんと言っていいのかわからない。言葉が見つからなかった。
マルコのほうも言葉を探すようにアンから視線を外して、あーと不明瞭な声を発する。
「お前が勝手だっつって腹立てんのはよくわかるけどよい、もう四十路男の性格なんてそうそう治んねぇんだよい。結局これもオレが勝手に考えて、解決した気になってるだけだ。それがいやだっつーなら、オレはもうどうしようもねェ。我慢させることくれェしか思いつかん」
マルコにしては長いセリフを、言葉を手探りしながら、言った。
だから、と続く。
「怒ってもいい。なじって、昨日みてェに怒鳴り散らせばいい。ただ、ひとりで泣くのはやめろ。怒るのは聞いてやれるけどひとりで泣かれたらどうにもできねェ」
間近でそう言われて、アンは気圧されるように頷いた。
すっかり涙はもう引いている。
今はもう驚きの方が強い。
よし、とマルコは頷いて腕をほどいた。
「じゃあ出かける準備しろよい。一晩だから、簡単に荷物つめればいい」
すっかり通常モードに戻ったマルコは、さっさとリビングのほうへと向かって自身の荷物をまとめ始めた。
しばらくその丸くなった背中を呆然と見ていたアンは、おずおずと自分の支度をしなければと動き出す。
まるで昨日のひと悶着はなんだったのかと言うように、淡々と荷物を詰めた。
窓の鍵よし、エアコンよし、パソコンよし、火の元よし、とマルコが確認していくのをアンは荷物を肩に提げてみていた。
いつもはアンがするその作業を、今日はマルコが引き受けている。
その背中にアンは声をかけた。
「喧嘩も悪くないね」
「そうかよい」
「でももうしたくないよ」
「オレもだよい」
「マルコ誕生日おめでとう」
「ありがとよい」
「だいすきだよ」
「オレもだよい」
ふふ、と笑う。
いってきます、と部屋の中に呟いた。
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足りん
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