OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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朝の最繁期を過ぎて一息ついたと思えば、次にはお昼の客がやってくる。
11時を過ぎると早めの昼を求めて、ちらほらと新しい客が入り始めた。
だからいつもアンは朝から昼過ぎまで働きづめである。
朝早くに起きだして、前日の番に仕込んでおいたモーニングを手早く準備して店を開ける。
途端に流れ込んでくる客を捌きながらスタートを切る。
息をつく暇もないのは今日と同じだ。
そして朝の客がいなくなり、少しの間体を休めたら、次は昼の準備に取り掛からねばならない。
サンドイッチやパニーニのセットであるモーニングと違って、昼は『デリ』らしくお菜屋さんである。
ショーウィンドウの中身をごっそりと入れ替えて、そこはアイスクリーム屋にも負けないほど色とりどりの惣菜を並べる。
数種の豆の煮物、カレー風味の野菜いため、旬の野菜を使ったスープ。
家庭料理のようなその品揃えも、朝とはまた違った趣で人気の一つだ。
量り売りもしているので、近所のおばさんがアンのおかずを買っていくこともある。
店にちらほらと客が増えると、裏から作業を終えたサボが手伝いにやってくる。
そもそも、アンひとりでは店内にウェイターがいないのだ。
朝の客に男性サラリーマンが多いのに比べて、昼は女性客が多い。
町一番の大通りに面していることもあって、アンの店の近くには大きな社ビルがいくつもあるので、そこからOLがわらわらと群れを作ってやっくる。
そしてなにより、女性は『ランチ』と名のつくものが好きである。
そうなると自然と、サボはお姉様方の格好の餌食となった。
欠けた歯がチャーミング、とからかわれて曖昧な愛想笑いでもしたら、店の中は黄色い歓声でいっぱいになるのだ。
よって昼がすぎると、サボはぐったりと満身創痍の兵士のようによろめいて、片づけや皿洗いをしていたりする。
「おつかれ」
そんな姿を見慣れているアンは少しの苦笑と共に、皿洗いするサボのわき、カウンターの上に冷たいカフェオレを置いた。
「お、サンキュー」
サボが濡れた手のままグラスを掴み、のどを鳴らしてカフェオレを飲み下す。
プハーッと、乾杯後のオヤジのような息をついた。
「サボのおかげでうちの店も安泰だ」
「なに言ってんだ、アンの料理がなきゃお客さんもこねぇだろ」
ま、それもそだけど、と率直に認めたアンはサボの隣に立って、サボが洗った皿を渇いた布巾で拭きはじめた。
「今日はちょっと早い目に店閉めてもいいかな」
「ああ、行かなきゃなんねぇんだろ」
「…うん、ごめん」
「ばか、謝んなよ」
「晩メシ、上の冷蔵庫に入れとくから」
「え、なんでだよ。食ってから行けばいいだろ」
「…ちょっと、早い目に行こうかと思って」
きゅ、と乾いたグラスが布と擦れて音を立てた。
サボが不安げな顔で蛇口をひねって水を止めた。
「おれ送ってくよ」
「ダメ!」
思わず声を高くしたアンに、サボは少し目を丸めてアンを見つめた。
アンはすぐに小さくごめんと言って目を逸らす。
「…サボはルフィと一緒にいて」
「でも、」
「アイツらにサボのこと、見られたくない」
アンは苦しげな声でそう言った。
それはこっちも一緒だ馬鹿野郎、と喉元まででかかったがそれを声にはしないすべをサボはもう知っている。
このことに関してはすでにもう何度もサボはアンを叱り、ときには責めるようにして苦言を漏らしていた。
それでも首を縦に振らないアンに、サボはため息をついて諦めるしかなかった。
アンに代わってやれたら、どれだけいいだろう。
何度もそう思ってが、結局いつも、同じことだと首を振った。
サボがアンの立場に成り代わったとしても、アンは今のサボと同じようにして不安と心配に胸を痛めるのだろう。
そのつらさを知っているサボは、どちらの立場に立っていても苦しいことに変わりはないのだと諦めた。
これが痛みを共有することだとするなら、それはこんなにもつらいことなのだろうか。
アンが必死で取り戻そうとしているものは、サボにとっても、そしてルフィにとっても大切なはずだった。
そういう意味での「幸福な」共有以外は、こんなにも、身を裂くほどつらいことなのだろうか。
それならば、
(おれが全部、背負ったっていいのに)
*
ダダンの家での生活は、3兄弟の厄介な子供心を絶妙に刺激した。
まず、ダダンの家は敷地のだだっ広い大きな家だったが、ものすごくボロかった。
ルフィが走れば腐った床が抜け、アンがぶつかった壁はへこみ、ダダンに命じられてサボがそれらの傷を修復するそばから家の破片がポロポロと崩れるような、相当の古さ。
そんな危険に満ちていて、それでも走り回るスペースは売るほどある家など、子供にとって遊び場以外の何物でもない。
3人は毎日ダダンの怒鳴り声を聞きながら走り回った。
ぐちぐち小言を言うダダンが鬱陶しくて、3人で笑えないイタズラを計画したこともある(あえなくばれて、2日間納屋から出られなかった)。
それでもダダンは元気すぎる子供3人を追い出すこともなく、それどころか3人共を高校にまで行かせてくれた。
ルフィの入学式の日、学校の門の外からダダンがこっそり覗いていたのを長女と長男は知っていた。
しかし3人は、少なくともサボは、成人するまで自立を待つつもりはなかった。
アンとサボが高校を卒業した年、つまりはルフィが入学する年、サボはアンとルフィに「飯屋をしないか」と持ちかけた。
場所はこの街で一番栄えるモルマンテ大通りのすこし南、空きビルが借りられそうだという。
そこの一階を店に、2,3階を住居にしようという提案だった。
小さなビルなので店にするつもりの部分はとても狭いが、3人で切り盛りするつもりなら十分だ。
『でもそれって、つまりは』
『うん、アンがコックだ』
『すげぇ!かっこいいな!』
『経営とか金のことはおれが管理するから、アンは美味いメシをつくってお客さんにふるまってくれればいいんだ』
『サボ!おれは!?おれはなにをすればいい!?』
『ルフィはおれと一緒にウェイターだな。料理を運んだり、アンの手伝いだ』
『ちょ、ちょっと待って、あたしそんな』
商売のためのごはんなんて作れない、とアンは不安げに訴えた。
しかしサボは自身に満ちた顔で言った。
『大丈夫さ、保証する』
そう言い切れるほどサボにはうまくやる自信があった。
アンがコックでサボが経営でルフィが力仕事を主とする雑務、という配役は完ぺきだと思えたし、なによりアンの飯は美味い。
ダダンの家に住まうことになり、まず言い渡されたのは次のような条件だった。
『あたしゃあんたらガキ3人の面倒見る余力なんてないんだよ。家においとくだけで精一杯さ。だから交換条件だ。家の家事は全部あんたらにやってもらうよ。食事も洗濯も掃除も、全部さ』
なんとなく難しい言い回しがよくわからなかったが、とりあえず自分のことは自分でしなければならないのだということはわかった。
もうルージュはいない。
待っていたって、温かいごはんもきれいな服もでてこないのだ。
多分一番初めに手を付けたのがアンで、それが成功したからだろう。
食事を作るのは、いつのまにかアンの役目になっていた。
掃除と洗濯、その他ダダンから言い渡される雑用はサボとルフィで上手く配分し、アンも手伝ってこなしていく。
そのような日々が続けば自然とアンの料理の腕は上がっていくし、サボとルフィも日常の雑務であれば一通りできるようになっていた。
そのことにサボがふと気づき、そして思った。
そろそろ自立できるのかもしれない、3人で、と。
サボの提案にすっかり乗り気なルフィと自信満々なサボに押し切られる形で、アンもようやく賛成した。
誰の手を煩わせることもなく3人で生活したいというのは、アンだって同じなのだ。
そしてルフィの入学式の日、3人はダダンにそのことを告げた。
ダダンは一瞬ぽかんとし、すぐにフンと顔を背けた。
『いいさ、好きにしな。だいたいあたしゃガープに頼まれていやいやあんたらの世話してたんだ。やっと静かな暮らしに戻れるってもんさ』
『どっちかっていうとおれたちがダダンの世話してたみたいなもんだけどな。メシつくったり洗濯したり』
『屁理屈いうんじゃないよ!ったく、恩知らずなガキだ』
『わかってるよ』
3人は顔を見合わせて笑った。
アンとサボとルフィと、3人で暮らせる場所を与えてくれたダダンには言葉で伝えきれないほど感謝しているのだ。
出発の日、『ありがとなダダン』と笑う3人を追い出すように追っ払ってその背中から顔を背けてこっそり泣いていたのは見て見ぬふりをした。
ダダンの家から3人の新しい新居までそう遠くない、車を使って15分ほどの場所にある。
会えなくなるわけではない。
それも心強かった。
さて新しい生活を手に入れたわけだが、ここからがまた正念場だとサボは力んだ。
まずアンにはメニューを考えてもらわなければならない。
店を開く時間は日の高いうちだけと決めていた。
治安がいいとはいえ、何かと物騒な夜にわざわざ子供だけの店を開いておくのは得策ではない。
危険の誘因は少ないに越したことはないのだ。
それにより、店はカフェバーではなくデリにしようという方針が決まった。
アンがデリのメニュー考案にうんうん唸っている間に、サボはルフィを連れて店の内装を組み立てていった。
アンみたいに明るくて、ルフィみたいににぎやかで楽しい場所がいい。
でも不思議と落ち着ける、街に一つあるお気に入りの場所になるようなそんな店。
作れるものは自分たちで作った。
ここでもダダンの家で培われた日曜大工の腕が役に立った。
貸ビルや新居の費用に加えて、内装の費用、メニュー考案のための材料費などは小さくはなかったが、それらは3人で今まで貯めたアルバイト代、そしてダダンを通してガープが渡してくれたロジャーとルージュの遺産を少し使うことで賄うことができた。
実のところ、この遺産とは莫大なものだった。
ダダンの持つ敷地にきれいで新しい小さな城を立ててあげられるくらいの分は十分にあった。
ゴール家の遺産に加え、ロジャーとルージュの生命保険金が全てアンに相続されたのである。
アンが幼いころにそれらはすべてガープが管理してくれているらしかった。
おかげでアンが18になった今も、それらは全てアンのものである。
そうして、アンとサボ、ルフィの新しい住処、新しい店が出来上がった。
拾ってきた平らな木材にルフィが緑のペンキで勢いよくDeliと書く。
それを店の入り口に掛けて完成した。
開店の前日、アンはドキドキして眠れなかった。
ごろんと寝返りを打つと、3つくっついて並んだベッドのうちアンから遠いベッドの中も寝返りを打ったところだった。
サボも眠れないのかな。
アンとサボの真ん中でぐうすか寝ているルフィがよく眠っていることに少し安心しながらアンは身を起こした。
すると、一番遠いベッドの中身がひょこりと顔を出した。
「…明日朝早いだろ、横になっといたほうがいいよ」
「やっぱり起きてた」
サボはきまり悪そうに笑った。
「…なんか、緊張して」
「うん」
ぽす、とアンは再びベッドに背中を預けた。
「お客さん来るかな」
「来るよ。最初は来なくても、絶対アンの飯好きになるやつがいる」
「嫌な客、来たりして」
「そんな奴きたらおれよりさきにアンがぶっとばすだろ。いや、ルフィかな」
「そうかも」
鼻より先を布団の下に隠して、くぐもった声でくすくす笑った。
ルフィの頭越しにサボの色素の薄い髪がぼんやりと浮かんでいる。
寝室に唯一ある狭い窓から小さい月が覗いていて、部屋の中を青く照らした。
アンはもぞもぞと動いて、真ん中のルフィのベッドへと侵入した。
ルフィは小さく「んが」と言ったが仰向けのまま起きる気配はない。
「ルフィ、あったかい」
「どれどれ」
おどけるような口調で、サボも身を転がしてルフィのベッドに入り込んだ。
途端にルフィのベッドは一杯になり、すこし軋んだ。
サボはルフィの頭の上に顎を置くような位置でルフィに、そしてアンに腕を回した。
長身のサボはルフィの頭の上に顔を出しても、足先は2人と同じくらいの位置、もしくは少し下なくらいだ。
アンとサボはルフィをはさんで向かい合った。
「ぉわ、ほんとだ。ってかアンもあったかい」
「サボ足冷たい」
つま先の向きを変えるように動かすと、こつんと足が触れあった。
するとサボも脚を動かして、ルフィとアンの脚を丸ごと挟み込んだ。
「あーあったけぇ」
「あいかわらずサボ、冷え症だな」
「いいんだおれは」
アンとルフィがいるから、という言葉は言わなくても伝わっただろう。
しばらくぬくもりをわけあう。
サボの足が少しずつ温まってきた。
部屋の中はルフィの健やかな寝息で満たされていた。
アンがぽつりと口を開いた。
「なんか、小さいころみたい」
「おれもいま、同じこと思ってた」
「ルフィっていっつも一番いい場所にいるよね」
「まあ、末っ子だからな」
つんつん、とアンはルフィの頬をつついた。
相変わらず夢の中だ。
むに、とつねってひっぱってみるが起きたりしない。
サボが声を出さずに笑った。
目の前のルフィの顔を、そしてその向こうに見えるサボの肩を見た。
しばらくすると、健やかな寝息はふたつに増えた。
サボの長い腕はルフィ越しにアンの背中にまで少し届いている。
ルフィの髪からはせっけんと少し汗のにおいがした。
そのままくっついているとアンは少し暑くなってきたが、離れることなくそのまま眠った。
眠る直前、何故だか少しなみだがでた。
翌朝、7時に店を開けて少しすると、ひとり、またひとりとぽつぽつ客が入ってきた。
一週間ほど前から近所への宣伝はぬかりなく済ませてあるので、その宣伝を目にして人たちが興味本位でやってきてくれたのだろう。
勝手の分からない一週間目は3人ともてんてこまいで、お客さんに心配されるほど慌てふためいてしまうこともあった。
だが2週間3週間と経っていくと噂が噂を呼ぶのか、訪れる人は増えていく。
サボは自分の自信が空回りしていなかったことを確信した。
そうして2か月が経ち、怖いくらい滞りなく店が軌道に乗ろうとしていたとき、店にふらりと一人の男が現れた。
その男は気味が悪いほど色白で、眉がなく、ざくろの果汁を塗ったような色の唇で黒のシルクハットをかぶっているという奇妙ないでたちでカウンター席に座った。
時刻は昼の最繁期を終えようというところで、ぽつぽつと人の数は減り始めていた。
サボが注文を取りに行くと、男はサボのほうを見ることもなく「紅茶をください。ホットで」と言った。
丁寧なのに無表情を感じさせるその口調にどこか引っかかったが、気にしていても仕方ないのでサボは愛想よく返事をしてオーダーをアンに告げた。
去り際、なんとなく気になってサボはもう一度男のほうを振り向いたが男は一点を見つめたまま、カウンターテーブルに肘をつき、組んだ両手の上に顎をのせて微動だにしない。
その視線の先を何気なく追ってから、サボはつい険しい顔で男をまじまじと見つめなおしてしまった。
男の視線は、カウンターの向こう側でくるくると立ち働くアンを追っていた。
しかしサボの心配をよそに、その日その男は大人しく紅茶を飲んで長居することもなく席を立った。
厨房が落ち着いてきたのでアンが会計を受け取ろうとしていたのでサボは思わず声をかけそうになったが、今ここで自分が出るのもおかしな気がして押し留まった。
アンとその男は特別な会話をすることもなく事務的に会計を済ました。
そして男は丁寧にアンに礼を告げ、店を出ていった。
アンはいつも通り笑顔で男を見送った。
男が出ていくと、サボは知らず知らずのうちに詰めていた息をほっと吐き出した。
少し背が高めでスラリと細い大人じみた体形をしているのに、造詣の整った顔であどけない笑顔を見せるアンは、兄弟という贔屓目を抜きにしてもきっと、おそらく、多分、絶対、綺麗なんだろう。
これまでも店に来た男たちがからかいまじりにアンに声をかけてきたことはいくらでもあった。
あの奇妙な男がアンを目で追っていたのも、男の性というやつなのかもしれない。
それはいちばんもっともらしい理由だったが、サボはそれだけでは収まらない何かを感じていた。
それがなにかはわからないもやもや感がもどかしい。
ふと気づくと、まだ新しいリュックを背負ったルフィがサボに寄り添うようにくっついて、今男が去っていった店の外をじっと見つめていた。
「ルフィ、おかえり。早いな」
「今日は部活がねぇんだ。ただいま」
そうか、と相槌を打っても、ルフィはサボの隣で店の外を睨んでいる。
「ルフィ?」
「さっき出てったおっさん、なんか変だぞ」
「…シルクハットの男か?」
ルフィはうんと頷いた。
「おれのことちょっと見て、すぐに逸らしたけど、なんかトカゲとかヘビとか、そういうのみたいな目してた」
爬虫類みたいだと言いたいらしい。
「おれあいつ嫌いだ」
「ルフィ」
客だぞ、とたしなめたがルフィは意にも介さずサボの脇をすり抜けて、カウンターの向こうのアンにただいまと叫んだ。
その後ろ姿にため息をつきながらも、自分の声に説得力がないことは承知していた。
サボもルフィほど率直ではないが、同じことを思っていた。
なんとなく不可解な思いを抱えたままその日を終えたが、同じ男が訪れてくるということはなかったのでそのまま記憶は薄れていこうとしていた。
しかしあれから2週間後、また同じ男が店にやってきた。
しかも今度は他の客と同じように席に着こうとはせず、まっすぐカウンターまで歩み寄りアンに声をかけた。
3時ごろで、客は全員引けて、そろそろ閉めようかというときだったのでアンは厨房の中を掃除しており、突如かけられた声に手を止めて顔を上げた。
ルフィはまだ学校で、サボはカウンターの一番奥の席で店の経費を計算していた。
『貴女はゴール・D・アンですね』
『そうだけど』
客なのかよくわからない男に、アンは最近覚えた外向けの笑顔を見せようかどうか迷ったあいまいな表情で返事をした。
アンの声で、サボも男の来訪に気付いた。
男は失礼、と以前と同じシルクハットを脱いだ。
『私はラフィットと申します。私の上司が、大切なお話があるということで貴女に私どもの事務所までお越しいただくよう申しておりますので、代わりに私がお願いしに参りました』
『話ぃ?』
赤黒い唇を笑った形にしたまま話す男に、アンはあからさまに「うさんくさい」と言いたげな顔をした。
サボは手にしていたペンをサロンのポケットに放り入れながらカウンターの内側に回り込みアンの背後に歩み寄った。
『アン、お客さん?』
『ううん、なんか話があるとかなんとかって』
『あなたはサボですね』
ラフィットはサボのほうをちらりと見てそう言った。
名前を知っているくらい不思議ではないが、どこかいやな感じがした。
この男、笑っているけど目が死んでるみたいだ。
『そうだよ。で、アンになんの話?』
『その話を私の上のものが致しますので、アン殿には私どものもとまで来ていただきたいのです』
『そっちからの用向きなら、呼びつけずにあんたの上司って人が出向くのが筋じゃないのか』
男はサボの言葉に、肩をすくめながら手の中のシルクハットをくるりと回した。
『ごもっとも。しかし内密な話でして、貴女に出向いていただくのが一番安全なのです。なにせ、アン殿のご両親にかかわる話でして』
最後の言葉に、アンとサボが同じ仕草で眉を動かし目を瞠った。
『両親って、』
『いかにも、ゴール・D・ロジャーとその妻ルージュのことですね』
アンが不安げな視線をサボに走らせた。
サボも思わず同じ顔でアンを見つめそうになったが、思い返して目の前の男を睨むように見た。
『あんた、誰だ?』
『私はラフィットと申します』
男は紋切り型の口調で、どこかからかうような風味を混ぜながらそう言った。
これ以上の情報はここでは引き出せそうにないという確固たる雰囲気があった。
サボはごくりと唾を飲み下してから口を開いた。
『いつ?』
『今晩の7時、私がまたお迎えに上がりましょう』
『わかった』
サボ、とアンがサボのシャツを握りこむ。
サボはその手を丸ごと包んだ。
ラフィットは満足げにシルクハットをくるりと回して頭に乗せた。
『ああしかし、私どもがお迎えするのはアン殿だけですよ』
『ハァ?』
サボが驚いて声を上げると、男はさも当たり前だと言いたげに肩をすくめた。
『私の上司は、アン殿に、アン殿の両親に関する話があると申しておりますので。──あなたは、ゴール家の人間ではないでしょう?』
ぐ、とサボは押し黙った。
悔しくてもこればかりは、サボには言い返す手札がない。
しかしアンが強気な声で言い返した。
『でもサボもあたしも、ずっと一緒の家で育ったんだ。あたしの父さんと母さんはサボの父さんと母さんだ』
ラフィットはアンの言葉に困ったように少し眉を下げた。が、口元は笑っている。
『私どもはなにもアン殿を捕って喰おうというわけではないのですよ。ご安心ください、日が変わる前にアン殿はお返しします。あなたは弟君と落ち着いて待っていればよいのです』
サボは押し黙ったまま、飄々とした男の顔を睨んだ。
ルフィのことをわざとらしく口にしたのは、まるで「お前たちの情報は粗方掴んでいる」と先手を打ったように聞こえた。
『ご了解いただけましたかな?』
サボとアンは顔を見合わせた。
サボは目線でアンに問う。
アンは案外力強く頷いた。
『わかった』
『ご理解いただけてよかった。それでは今晩7時に店の外に車をつけますので、アン殿はそちらにお乗りください』
男はひらりと身をひるがえすと、さっと外の通りの人並に飛び込んであっというまにのまれてしまった。
アンとサボはしばらく横に並んで、黙ったまま外の人の流れを呆然と見遣る。
はたと、サボは自分がアンの手を握りこんでいたことを思い出した。
ぱっと手を離すとアンも思いだしたようにサボのシャツを離した。
握りこまれていたその部分は皺が寄っている。
『…大丈夫か、アン』
『うん…なんだろ、父さんと母さんのことなんて…』
いまさら、というつぶやきがサボには聞こえた気がした。
忘れろとは言わない。忘れるわけがないし、忘れたらいけないとも思う。
それでも、幸せだった過去の記憶としてぼんやりとアンの胸に残っているだけの方が楽なのは確実だ。
それをいまさら、あれから8年も経って、なんだというのだ。
『ルフィにも、言わなきゃ』
『そうだな』
ルフィに今さっき生じた出来事を話すには少し難しいというか手間がかかりそうな気がしたが、こうした面倒事の気配さえも共有するのが3人のやり方だ。
はてルフィにはどこから説明するのがわかりやすいだろう、とサボが腕を組みながら話の骨組みを立てていると、アンがずっと片手で握りっぱなしの布巾を握りしめたまま小さくサボ、と呟いた。
『父さんと…母さんのことでなんかわかったら、絶対、サボにもルフィにも、話すから』
アンは握りしめた布巾に約束するようにそう言った。
ラフィットがサボに向かって言った、『あなたはゴール家の人間ではない』という言葉を気にしているようだった。
サボ自身、それを聞いたときは少しくるものがあったが、それよりもっと考えることがあったのであまり頓着していなかった。
不意にアンの優しさに触れて胸が詰まった。
『うん、頼むよ』
サボが欠けた歯を覗かせて笑顔を見せると、アンもつられて安心したように頬を緩めた。
その日の晩、約束通りの時間、店の前に車が静かに停まった。
その音を聞いて、アンはサボとルフィに頷きかけた。
『行くよ』
『ああ、変だと思ったらすぐに逃げろよ』
『やっぱり跡つけたほうがよくねぇか?なぁ、サボ』
ルフィの言うことはサボも考えたことだったが、アンが大丈夫だと言い切った。
『なんとなく、あいつら父さんたちに関係あることであたしに頼みたいことあるみたいな感じしたんだ。だから多分、物騒なことにはならないよ』
じゃあね、とアンは店の半分閉じたシャッターの下をくぐって出ていってしまった。
すぐにドアが開く音がして、車が発車する。
サボとルフィはその音を、真っ暗な店内で立ち尽くしたまま聞いていた。
そしてこれも約束通り日が変わる1時間前に戻ってきたアンは、サボとルフィの想像もしていなかった言葉を伝えた。
「あたし、泥棒しなくちゃいけない」
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11時を過ぎると早めの昼を求めて、ちらほらと新しい客が入り始めた。
だからいつもアンは朝から昼過ぎまで働きづめである。
朝早くに起きだして、前日の番に仕込んでおいたモーニングを手早く準備して店を開ける。
途端に流れ込んでくる客を捌きながらスタートを切る。
息をつく暇もないのは今日と同じだ。
そして朝の客がいなくなり、少しの間体を休めたら、次は昼の準備に取り掛からねばならない。
サンドイッチやパニーニのセットであるモーニングと違って、昼は『デリ』らしくお菜屋さんである。
ショーウィンドウの中身をごっそりと入れ替えて、そこはアイスクリーム屋にも負けないほど色とりどりの惣菜を並べる。
数種の豆の煮物、カレー風味の野菜いため、旬の野菜を使ったスープ。
家庭料理のようなその品揃えも、朝とはまた違った趣で人気の一つだ。
量り売りもしているので、近所のおばさんがアンのおかずを買っていくこともある。
店にちらほらと客が増えると、裏から作業を終えたサボが手伝いにやってくる。
そもそも、アンひとりでは店内にウェイターがいないのだ。
朝の客に男性サラリーマンが多いのに比べて、昼は女性客が多い。
町一番の大通りに面していることもあって、アンの店の近くには大きな社ビルがいくつもあるので、そこからOLがわらわらと群れを作ってやっくる。
そしてなにより、女性は『ランチ』と名のつくものが好きである。
そうなると自然と、サボはお姉様方の格好の餌食となった。
欠けた歯がチャーミング、とからかわれて曖昧な愛想笑いでもしたら、店の中は黄色い歓声でいっぱいになるのだ。
よって昼がすぎると、サボはぐったりと満身創痍の兵士のようによろめいて、片づけや皿洗いをしていたりする。
「おつかれ」
そんな姿を見慣れているアンは少しの苦笑と共に、皿洗いするサボのわき、カウンターの上に冷たいカフェオレを置いた。
「お、サンキュー」
サボが濡れた手のままグラスを掴み、のどを鳴らしてカフェオレを飲み下す。
プハーッと、乾杯後のオヤジのような息をついた。
「サボのおかげでうちの店も安泰だ」
「なに言ってんだ、アンの料理がなきゃお客さんもこねぇだろ」
ま、それもそだけど、と率直に認めたアンはサボの隣に立って、サボが洗った皿を渇いた布巾で拭きはじめた。
「今日はちょっと早い目に店閉めてもいいかな」
「ああ、行かなきゃなんねぇんだろ」
「…うん、ごめん」
「ばか、謝んなよ」
「晩メシ、上の冷蔵庫に入れとくから」
「え、なんでだよ。食ってから行けばいいだろ」
「…ちょっと、早い目に行こうかと思って」
きゅ、と乾いたグラスが布と擦れて音を立てた。
サボが不安げな顔で蛇口をひねって水を止めた。
「おれ送ってくよ」
「ダメ!」
思わず声を高くしたアンに、サボは少し目を丸めてアンを見つめた。
アンはすぐに小さくごめんと言って目を逸らす。
「…サボはルフィと一緒にいて」
「でも、」
「アイツらにサボのこと、見られたくない」
アンは苦しげな声でそう言った。
それはこっちも一緒だ馬鹿野郎、と喉元まででかかったがそれを声にはしないすべをサボはもう知っている。
このことに関してはすでにもう何度もサボはアンを叱り、ときには責めるようにして苦言を漏らしていた。
それでも首を縦に振らないアンに、サボはため息をついて諦めるしかなかった。
アンに代わってやれたら、どれだけいいだろう。
何度もそう思ってが、結局いつも、同じことだと首を振った。
サボがアンの立場に成り代わったとしても、アンは今のサボと同じようにして不安と心配に胸を痛めるのだろう。
そのつらさを知っているサボは、どちらの立場に立っていても苦しいことに変わりはないのだと諦めた。
これが痛みを共有することだとするなら、それはこんなにもつらいことなのだろうか。
アンが必死で取り戻そうとしているものは、サボにとっても、そしてルフィにとっても大切なはずだった。
そういう意味での「幸福な」共有以外は、こんなにも、身を裂くほどつらいことなのだろうか。
それならば、
(おれが全部、背負ったっていいのに)
*
ダダンの家での生活は、3兄弟の厄介な子供心を絶妙に刺激した。
まず、ダダンの家は敷地のだだっ広い大きな家だったが、ものすごくボロかった。
ルフィが走れば腐った床が抜け、アンがぶつかった壁はへこみ、ダダンに命じられてサボがそれらの傷を修復するそばから家の破片がポロポロと崩れるような、相当の古さ。
そんな危険に満ちていて、それでも走り回るスペースは売るほどある家など、子供にとって遊び場以外の何物でもない。
3人は毎日ダダンの怒鳴り声を聞きながら走り回った。
ぐちぐち小言を言うダダンが鬱陶しくて、3人で笑えないイタズラを計画したこともある(あえなくばれて、2日間納屋から出られなかった)。
それでもダダンは元気すぎる子供3人を追い出すこともなく、それどころか3人共を高校にまで行かせてくれた。
ルフィの入学式の日、学校の門の外からダダンがこっそり覗いていたのを長女と長男は知っていた。
しかし3人は、少なくともサボは、成人するまで自立を待つつもりはなかった。
アンとサボが高校を卒業した年、つまりはルフィが入学する年、サボはアンとルフィに「飯屋をしないか」と持ちかけた。
場所はこの街で一番栄えるモルマンテ大通りのすこし南、空きビルが借りられそうだという。
そこの一階を店に、2,3階を住居にしようという提案だった。
小さなビルなので店にするつもりの部分はとても狭いが、3人で切り盛りするつもりなら十分だ。
『でもそれって、つまりは』
『うん、アンがコックだ』
『すげぇ!かっこいいな!』
『経営とか金のことはおれが管理するから、アンは美味いメシをつくってお客さんにふるまってくれればいいんだ』
『サボ!おれは!?おれはなにをすればいい!?』
『ルフィはおれと一緒にウェイターだな。料理を運んだり、アンの手伝いだ』
『ちょ、ちょっと待って、あたしそんな』
商売のためのごはんなんて作れない、とアンは不安げに訴えた。
しかしサボは自身に満ちた顔で言った。
『大丈夫さ、保証する』
そう言い切れるほどサボにはうまくやる自信があった。
アンがコックでサボが経営でルフィが力仕事を主とする雑務、という配役は完ぺきだと思えたし、なによりアンの飯は美味い。
ダダンの家に住まうことになり、まず言い渡されたのは次のような条件だった。
『あたしゃあんたらガキ3人の面倒見る余力なんてないんだよ。家においとくだけで精一杯さ。だから交換条件だ。家の家事は全部あんたらにやってもらうよ。食事も洗濯も掃除も、全部さ』
なんとなく難しい言い回しがよくわからなかったが、とりあえず自分のことは自分でしなければならないのだということはわかった。
もうルージュはいない。
待っていたって、温かいごはんもきれいな服もでてこないのだ。
多分一番初めに手を付けたのがアンで、それが成功したからだろう。
食事を作るのは、いつのまにかアンの役目になっていた。
掃除と洗濯、その他ダダンから言い渡される雑用はサボとルフィで上手く配分し、アンも手伝ってこなしていく。
そのような日々が続けば自然とアンの料理の腕は上がっていくし、サボとルフィも日常の雑務であれば一通りできるようになっていた。
そのことにサボがふと気づき、そして思った。
そろそろ自立できるのかもしれない、3人で、と。
サボの提案にすっかり乗り気なルフィと自信満々なサボに押し切られる形で、アンもようやく賛成した。
誰の手を煩わせることもなく3人で生活したいというのは、アンだって同じなのだ。
そしてルフィの入学式の日、3人はダダンにそのことを告げた。
ダダンは一瞬ぽかんとし、すぐにフンと顔を背けた。
『いいさ、好きにしな。だいたいあたしゃガープに頼まれていやいやあんたらの世話してたんだ。やっと静かな暮らしに戻れるってもんさ』
『どっちかっていうとおれたちがダダンの世話してたみたいなもんだけどな。メシつくったり洗濯したり』
『屁理屈いうんじゃないよ!ったく、恩知らずなガキだ』
『わかってるよ』
3人は顔を見合わせて笑った。
アンとサボとルフィと、3人で暮らせる場所を与えてくれたダダンには言葉で伝えきれないほど感謝しているのだ。
出発の日、『ありがとなダダン』と笑う3人を追い出すように追っ払ってその背中から顔を背けてこっそり泣いていたのは見て見ぬふりをした。
ダダンの家から3人の新しい新居までそう遠くない、車を使って15分ほどの場所にある。
会えなくなるわけではない。
それも心強かった。
さて新しい生活を手に入れたわけだが、ここからがまた正念場だとサボは力んだ。
まずアンにはメニューを考えてもらわなければならない。
店を開く時間は日の高いうちだけと決めていた。
治安がいいとはいえ、何かと物騒な夜にわざわざ子供だけの店を開いておくのは得策ではない。
危険の誘因は少ないに越したことはないのだ。
それにより、店はカフェバーではなくデリにしようという方針が決まった。
アンがデリのメニュー考案にうんうん唸っている間に、サボはルフィを連れて店の内装を組み立てていった。
アンみたいに明るくて、ルフィみたいににぎやかで楽しい場所がいい。
でも不思議と落ち着ける、街に一つあるお気に入りの場所になるようなそんな店。
作れるものは自分たちで作った。
ここでもダダンの家で培われた日曜大工の腕が役に立った。
貸ビルや新居の費用に加えて、内装の費用、メニュー考案のための材料費などは小さくはなかったが、それらは3人で今まで貯めたアルバイト代、そしてダダンを通してガープが渡してくれたロジャーとルージュの遺産を少し使うことで賄うことができた。
実のところ、この遺産とは莫大なものだった。
ダダンの持つ敷地にきれいで新しい小さな城を立ててあげられるくらいの分は十分にあった。
ゴール家の遺産に加え、ロジャーとルージュの生命保険金が全てアンに相続されたのである。
アンが幼いころにそれらはすべてガープが管理してくれているらしかった。
おかげでアンが18になった今も、それらは全てアンのものである。
そうして、アンとサボ、ルフィの新しい住処、新しい店が出来上がった。
拾ってきた平らな木材にルフィが緑のペンキで勢いよくDeliと書く。
それを店の入り口に掛けて完成した。
開店の前日、アンはドキドキして眠れなかった。
ごろんと寝返りを打つと、3つくっついて並んだベッドのうちアンから遠いベッドの中も寝返りを打ったところだった。
サボも眠れないのかな。
アンとサボの真ん中でぐうすか寝ているルフィがよく眠っていることに少し安心しながらアンは身を起こした。
すると、一番遠いベッドの中身がひょこりと顔を出した。
「…明日朝早いだろ、横になっといたほうがいいよ」
「やっぱり起きてた」
サボはきまり悪そうに笑った。
「…なんか、緊張して」
「うん」
ぽす、とアンは再びベッドに背中を預けた。
「お客さん来るかな」
「来るよ。最初は来なくても、絶対アンの飯好きになるやつがいる」
「嫌な客、来たりして」
「そんな奴きたらおれよりさきにアンがぶっとばすだろ。いや、ルフィかな」
「そうかも」
鼻より先を布団の下に隠して、くぐもった声でくすくす笑った。
ルフィの頭越しにサボの色素の薄い髪がぼんやりと浮かんでいる。
寝室に唯一ある狭い窓から小さい月が覗いていて、部屋の中を青く照らした。
アンはもぞもぞと動いて、真ん中のルフィのベッドへと侵入した。
ルフィは小さく「んが」と言ったが仰向けのまま起きる気配はない。
「ルフィ、あったかい」
「どれどれ」
おどけるような口調で、サボも身を転がしてルフィのベッドに入り込んだ。
途端にルフィのベッドは一杯になり、すこし軋んだ。
サボはルフィの頭の上に顎を置くような位置でルフィに、そしてアンに腕を回した。
長身のサボはルフィの頭の上に顔を出しても、足先は2人と同じくらいの位置、もしくは少し下なくらいだ。
アンとサボはルフィをはさんで向かい合った。
「ぉわ、ほんとだ。ってかアンもあったかい」
「サボ足冷たい」
つま先の向きを変えるように動かすと、こつんと足が触れあった。
するとサボも脚を動かして、ルフィとアンの脚を丸ごと挟み込んだ。
「あーあったけぇ」
「あいかわらずサボ、冷え症だな」
「いいんだおれは」
アンとルフィがいるから、という言葉は言わなくても伝わっただろう。
しばらくぬくもりをわけあう。
サボの足が少しずつ温まってきた。
部屋の中はルフィの健やかな寝息で満たされていた。
アンがぽつりと口を開いた。
「なんか、小さいころみたい」
「おれもいま、同じこと思ってた」
「ルフィっていっつも一番いい場所にいるよね」
「まあ、末っ子だからな」
つんつん、とアンはルフィの頬をつついた。
相変わらず夢の中だ。
むに、とつねってひっぱってみるが起きたりしない。
サボが声を出さずに笑った。
目の前のルフィの顔を、そしてその向こうに見えるサボの肩を見た。
しばらくすると、健やかな寝息はふたつに増えた。
サボの長い腕はルフィ越しにアンの背中にまで少し届いている。
ルフィの髪からはせっけんと少し汗のにおいがした。
そのままくっついているとアンは少し暑くなってきたが、離れることなくそのまま眠った。
眠る直前、何故だか少しなみだがでた。
翌朝、7時に店を開けて少しすると、ひとり、またひとりとぽつぽつ客が入ってきた。
一週間ほど前から近所への宣伝はぬかりなく済ませてあるので、その宣伝を目にして人たちが興味本位でやってきてくれたのだろう。
勝手の分からない一週間目は3人ともてんてこまいで、お客さんに心配されるほど慌てふためいてしまうこともあった。
だが2週間3週間と経っていくと噂が噂を呼ぶのか、訪れる人は増えていく。
サボは自分の自信が空回りしていなかったことを確信した。
そうして2か月が経ち、怖いくらい滞りなく店が軌道に乗ろうとしていたとき、店にふらりと一人の男が現れた。
その男は気味が悪いほど色白で、眉がなく、ざくろの果汁を塗ったような色の唇で黒のシルクハットをかぶっているという奇妙ないでたちでカウンター席に座った。
時刻は昼の最繁期を終えようというところで、ぽつぽつと人の数は減り始めていた。
サボが注文を取りに行くと、男はサボのほうを見ることもなく「紅茶をください。ホットで」と言った。
丁寧なのに無表情を感じさせるその口調にどこか引っかかったが、気にしていても仕方ないのでサボは愛想よく返事をしてオーダーをアンに告げた。
去り際、なんとなく気になってサボはもう一度男のほうを振り向いたが男は一点を見つめたまま、カウンターテーブルに肘をつき、組んだ両手の上に顎をのせて微動だにしない。
その視線の先を何気なく追ってから、サボはつい険しい顔で男をまじまじと見つめなおしてしまった。
男の視線は、カウンターの向こう側でくるくると立ち働くアンを追っていた。
しかしサボの心配をよそに、その日その男は大人しく紅茶を飲んで長居することもなく席を立った。
厨房が落ち着いてきたのでアンが会計を受け取ろうとしていたのでサボは思わず声をかけそうになったが、今ここで自分が出るのもおかしな気がして押し留まった。
アンとその男は特別な会話をすることもなく事務的に会計を済ました。
そして男は丁寧にアンに礼を告げ、店を出ていった。
アンはいつも通り笑顔で男を見送った。
男が出ていくと、サボは知らず知らずのうちに詰めていた息をほっと吐き出した。
少し背が高めでスラリと細い大人じみた体形をしているのに、造詣の整った顔であどけない笑顔を見せるアンは、兄弟という贔屓目を抜きにしてもきっと、おそらく、多分、絶対、綺麗なんだろう。
これまでも店に来た男たちがからかいまじりにアンに声をかけてきたことはいくらでもあった。
あの奇妙な男がアンを目で追っていたのも、男の性というやつなのかもしれない。
それはいちばんもっともらしい理由だったが、サボはそれだけでは収まらない何かを感じていた。
それがなにかはわからないもやもや感がもどかしい。
ふと気づくと、まだ新しいリュックを背負ったルフィがサボに寄り添うようにくっついて、今男が去っていった店の外をじっと見つめていた。
「ルフィ、おかえり。早いな」
「今日は部活がねぇんだ。ただいま」
そうか、と相槌を打っても、ルフィはサボの隣で店の外を睨んでいる。
「ルフィ?」
「さっき出てったおっさん、なんか変だぞ」
「…シルクハットの男か?」
ルフィはうんと頷いた。
「おれのことちょっと見て、すぐに逸らしたけど、なんかトカゲとかヘビとか、そういうのみたいな目してた」
爬虫類みたいだと言いたいらしい。
「おれあいつ嫌いだ」
「ルフィ」
客だぞ、とたしなめたがルフィは意にも介さずサボの脇をすり抜けて、カウンターの向こうのアンにただいまと叫んだ。
その後ろ姿にため息をつきながらも、自分の声に説得力がないことは承知していた。
サボもルフィほど率直ではないが、同じことを思っていた。
なんとなく不可解な思いを抱えたままその日を終えたが、同じ男が訪れてくるということはなかったのでそのまま記憶は薄れていこうとしていた。
しかしあれから2週間後、また同じ男が店にやってきた。
しかも今度は他の客と同じように席に着こうとはせず、まっすぐカウンターまで歩み寄りアンに声をかけた。
3時ごろで、客は全員引けて、そろそろ閉めようかというときだったのでアンは厨房の中を掃除しており、突如かけられた声に手を止めて顔を上げた。
ルフィはまだ学校で、サボはカウンターの一番奥の席で店の経費を計算していた。
『貴女はゴール・D・アンですね』
『そうだけど』
客なのかよくわからない男に、アンは最近覚えた外向けの笑顔を見せようかどうか迷ったあいまいな表情で返事をした。
アンの声で、サボも男の来訪に気付いた。
男は失礼、と以前と同じシルクハットを脱いだ。
『私はラフィットと申します。私の上司が、大切なお話があるということで貴女に私どもの事務所までお越しいただくよう申しておりますので、代わりに私がお願いしに参りました』
『話ぃ?』
赤黒い唇を笑った形にしたまま話す男に、アンはあからさまに「うさんくさい」と言いたげな顔をした。
サボは手にしていたペンをサロンのポケットに放り入れながらカウンターの内側に回り込みアンの背後に歩み寄った。
『アン、お客さん?』
『ううん、なんか話があるとかなんとかって』
『あなたはサボですね』
ラフィットはサボのほうをちらりと見てそう言った。
名前を知っているくらい不思議ではないが、どこかいやな感じがした。
この男、笑っているけど目が死んでるみたいだ。
『そうだよ。で、アンになんの話?』
『その話を私の上のものが致しますので、アン殿には私どものもとまで来ていただきたいのです』
『そっちからの用向きなら、呼びつけずにあんたの上司って人が出向くのが筋じゃないのか』
男はサボの言葉に、肩をすくめながら手の中のシルクハットをくるりと回した。
『ごもっとも。しかし内密な話でして、貴女に出向いていただくのが一番安全なのです。なにせ、アン殿のご両親にかかわる話でして』
最後の言葉に、アンとサボが同じ仕草で眉を動かし目を瞠った。
『両親って、』
『いかにも、ゴール・D・ロジャーとその妻ルージュのことですね』
アンが不安げな視線をサボに走らせた。
サボも思わず同じ顔でアンを見つめそうになったが、思い返して目の前の男を睨むように見た。
『あんた、誰だ?』
『私はラフィットと申します』
男は紋切り型の口調で、どこかからかうような風味を混ぜながらそう言った。
これ以上の情報はここでは引き出せそうにないという確固たる雰囲気があった。
サボはごくりと唾を飲み下してから口を開いた。
『いつ?』
『今晩の7時、私がまたお迎えに上がりましょう』
『わかった』
サボ、とアンがサボのシャツを握りこむ。
サボはその手を丸ごと包んだ。
ラフィットは満足げにシルクハットをくるりと回して頭に乗せた。
『ああしかし、私どもがお迎えするのはアン殿だけですよ』
『ハァ?』
サボが驚いて声を上げると、男はさも当たり前だと言いたげに肩をすくめた。
『私の上司は、アン殿に、アン殿の両親に関する話があると申しておりますので。──あなたは、ゴール家の人間ではないでしょう?』
ぐ、とサボは押し黙った。
悔しくてもこればかりは、サボには言い返す手札がない。
しかしアンが強気な声で言い返した。
『でもサボもあたしも、ずっと一緒の家で育ったんだ。あたしの父さんと母さんはサボの父さんと母さんだ』
ラフィットはアンの言葉に困ったように少し眉を下げた。が、口元は笑っている。
『私どもはなにもアン殿を捕って喰おうというわけではないのですよ。ご安心ください、日が変わる前にアン殿はお返しします。あなたは弟君と落ち着いて待っていればよいのです』
サボは押し黙ったまま、飄々とした男の顔を睨んだ。
ルフィのことをわざとらしく口にしたのは、まるで「お前たちの情報は粗方掴んでいる」と先手を打ったように聞こえた。
『ご了解いただけましたかな?』
サボとアンは顔を見合わせた。
サボは目線でアンに問う。
アンは案外力強く頷いた。
『わかった』
『ご理解いただけてよかった。それでは今晩7時に店の外に車をつけますので、アン殿はそちらにお乗りください』
男はひらりと身をひるがえすと、さっと外の通りの人並に飛び込んであっというまにのまれてしまった。
アンとサボはしばらく横に並んで、黙ったまま外の人の流れを呆然と見遣る。
はたと、サボは自分がアンの手を握りこんでいたことを思い出した。
ぱっと手を離すとアンも思いだしたようにサボのシャツを離した。
握りこまれていたその部分は皺が寄っている。
『…大丈夫か、アン』
『うん…なんだろ、父さんと母さんのことなんて…』
いまさら、というつぶやきがサボには聞こえた気がした。
忘れろとは言わない。忘れるわけがないし、忘れたらいけないとも思う。
それでも、幸せだった過去の記憶としてぼんやりとアンの胸に残っているだけの方が楽なのは確実だ。
それをいまさら、あれから8年も経って、なんだというのだ。
『ルフィにも、言わなきゃ』
『そうだな』
ルフィに今さっき生じた出来事を話すには少し難しいというか手間がかかりそうな気がしたが、こうした面倒事の気配さえも共有するのが3人のやり方だ。
はてルフィにはどこから説明するのがわかりやすいだろう、とサボが腕を組みながら話の骨組みを立てていると、アンがずっと片手で握りっぱなしの布巾を握りしめたまま小さくサボ、と呟いた。
『父さんと…母さんのことでなんかわかったら、絶対、サボにもルフィにも、話すから』
アンは握りしめた布巾に約束するようにそう言った。
ラフィットがサボに向かって言った、『あなたはゴール家の人間ではない』という言葉を気にしているようだった。
サボ自身、それを聞いたときは少しくるものがあったが、それよりもっと考えることがあったのであまり頓着していなかった。
不意にアンの優しさに触れて胸が詰まった。
『うん、頼むよ』
サボが欠けた歯を覗かせて笑顔を見せると、アンもつられて安心したように頬を緩めた。
その日の晩、約束通りの時間、店の前に車が静かに停まった。
その音を聞いて、アンはサボとルフィに頷きかけた。
『行くよ』
『ああ、変だと思ったらすぐに逃げろよ』
『やっぱり跡つけたほうがよくねぇか?なぁ、サボ』
ルフィの言うことはサボも考えたことだったが、アンが大丈夫だと言い切った。
『なんとなく、あいつら父さんたちに関係あることであたしに頼みたいことあるみたいな感じしたんだ。だから多分、物騒なことにはならないよ』
じゃあね、とアンは店の半分閉じたシャッターの下をくぐって出ていってしまった。
すぐにドアが開く音がして、車が発車する。
サボとルフィはその音を、真っ暗な店内で立ち尽くしたまま聞いていた。
そしてこれも約束通り日が変わる1時間前に戻ってきたアンは、サボとルフィの想像もしていなかった言葉を伝えた。
「あたし、泥棒しなくちゃいけない」
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布巾を握ってアンがカウンターへ戻ると、二人の男はかすかに頭を寄せ合って、互いの手帳を覗き込むようにぼそぼそ会話していた。
アンは二人分のコーヒー豆をメーカーにセットする。
セットしてから、あ、と呟いていた。
「コーヒーでよかった?」
振り向きながらそう問えば、「コーヒー以外もあるんだ?」とリーゼントが聞き返す。
「紅茶と、あとミルクとか」
野菜ジュースなんてのもあるけど、と言うとリーゼントはコーヒーよろしくと笑った。
男が笑ったとき、左目の上に薄く縫い痕があるのに気付いた。
だいぶ薄いので目立ちはしないが、笑ったときに少し引き攣ったのだ。
リーゼントはアンの視線の先に気付いたのか自分の傷を指でなぞった。
「これ?やっぱ縫い痕は見えるんだよなー」
「え、やっ、ごめん」
無遠慮に見ていたことに気付いて、慌てて詫びる。
しかし男は軽い笑いでいやいやと首を振った。
「おしごとで、ちょっとね」
「…なんの?」
少し迷ったが、思い切って白々しく尋ねてみた。
「おじさん刑事さんなのよ」
しかし続いた言葉は予想外のものだった。
「少年課担当でね」
「少年課?」
そう、不良少年少女をおうちに帰すおしごとです、と男は伸びをしながら気楽に言った。
隣の男が、べらべらしゃべるなと言いたげにリーゼントを一瞥する。
一方アンは何となく拍子抜けした。
このリーゼントも、「マルコ」と同じ部類の警察だと思っていたのだ。
「えと…じゃあ、そっちの」
「こいつはマルコ、オレはサッチ。覚えてね」
リーゼント、もといサッチのウインクを曖昧に受け取ってアンはマルコをちらりと見た。
マルコは言葉を探すように薄く唇を開いたまま少しかたまって、やっとのことでこれだけ言った。
「…こいつとは、別のところだよい」
こいつぁエリートなんだ、似非エリート、とサッチが隣でイヒヒと笑った。
「だからまぁさ、偉そうなことは言えないけど、困ったことあったら頼ってちょーだい。オレここ気に入ったし」
なっ! と明るく笑ったサッチの目を、アンはまっすぐ見られなかった。
これから遅い出勤なのだという二人が店を去ると、肩の上に乗っていた重しがすっと消えてなくなり、思わず深い息をついていた。
まだ緊張の名残がカウンターの上の方に溜まっているような、もやもやした空気が残っている。
秘密を抱えるのが元来得意ではないのに、重大な秘密を胸に抱えたまま警察と向かい合うなんてとんだストレスだ。
しかし一方で、アンはどこかドキドキと逸る胸で別のことも思っていた。
彼らがアンの正体に気付かないことを前提に、ここを気に入って、さっきのように少しでも仕事の話をしてくれるなら。
そしてそれを情報として役立たせられたら。
利用価値があるかもしれない。
そこまで考えて、後ろ暗いその考えに後ろめたさも感じたが、それも圧倒的な期待の前に掻き消えた。
「アン」
名を呼ばれて、ハッと店の奥を見遣る。
サボが微妙な顔つきのまま佇んでいた。
「どうした? アン」
「サボ…」
「ルフィが、アンが変な顔してるって言うから」
見にきたら確かに変な顔はしていたが、別段表には出ず客の誰も気付いていないようだったし、アンも気付いてほしくなさそうだったので遠くから様子を見ていたのだという。
歩み寄ってきたサボはアンを厨房の中の椅子に座らせて自分はカウンターに背中を預けた。
気のまわりすぎる兄弟たちのおかげで、アンはようやく頬を緩める。
「大丈夫、ごめん」
「さっきのオッサンたちが、どうかしたのか」
「…」
言おうか言わまいか、一瞬逡巡した。
しかし突然、むにゅ、と両頬が外側に伸びた。
「いひゃっ!?」
「隠し事はなし、秘密は共有。約束だろ」
こくこくっ、と涙目で頷くとサボはよしと手を離した。
ついでにアンの頭に巻かれた赤いバンダナを外してくれる。
肩に落ちた長い黒髪に、サボの指が丁寧に手櫛を通した。
アンはぴりぴりとする頬を擦って、目の前にあるサボのシャツのボタンを見つめながらようやく口を開いた。
店の中に客はおらず静かだが、外のざわめきが適度に溶け合ってちょうどいい。誰に聞かれることもないだろう。
彼らが警察であること、彼らのうち片方が『エース』のために設置された警察組織特別班の総監、「マルコ」であることを伝えると、アンの髪を梳くサボの手がぴくりと動いた。
「2週間前、結局なんにもしなかったけど、下見に行っただろ?あのとき張ってたのがあの男で…あとからニュースで「マルコ」って知った。あのオッサン、本部から送り込まれてきたみたい」
「…ってことは」
「エドワード・ニューゲートの手下だ、多分」
そうか、と呟いたきりサボは押し黙って宙をにらんだ。
絶句しているように見えないでもない。
少しの間沈黙を味わって、サボから口を開いた。
「黒ひげの奴らは知ってるのか?」
「「マルコ」のことは知ってると思う。でも「マルコ」が「アン」を知ってるってのは知らないと思う。なにしろ今さっき初めて会ったんだから」
「ああ、そうか」
サボは考えるように目を眇めてから、なあアン、と言いにくそうに言った。
「…お前が危ないと思うなら、無理しなくてもいいんじゃないか」
アンはその言葉を黙って聞いた。
サボが前々からそう思っていたのは、分かっていた。
アンの気持ちを汲んで、今まで言わなかったことも。
「アンが、その、捕まっちまったりしたら、元も子もないだろ」
「うん…わかってるよ。わかってるけど」
出来る限りやりたい。
サボの優しさを断ち切るようで心苦しかったが、それ以上に思いはきっぱりと決まっていた。
アンの返答にサボは困ったように笑ったが、驚きはしなかったのでサボもわかっていたのだろう。
「ルージュさんも、アンがこんなお転婆始めるとは思わなかっただろうなあー」
「ハハッ、分かってた気もするけど」
「案外そんなもんかな」
サボは「よっ」とカウンターに預けていた背中を戻した。
アンは座ったまま、目の前にある腰に腕を回した。
驚いたサボが少しよろめいたが、すぐにしっかりと立ってちゃんと抱きしめられてくれる。
肩に温かい手が乗せられて、そのままぽんぽんと叩かれる。
「サボだいすき」
サボのお腹に顔をうずめたままくぐもった声を出せば、頭上から穏やかな声が「オレもだよ」と言った。
*
初めて出会ったサボは、欠いたばかりの歯を握りしめて汚いなりをしていた。
しかし着ている服はどうもアンが知っている、アンと同じ年代の男の子が着る服とは少し違って、今ならそれがとても上等なものであったのだと分かる。
アンがまだ、普通の子供のように両親と生活していたとき。
アンの母ルージュが、モルマンテ大通りの隣の小さな通り、リトルモルマンテ通りで行き倒れているサボを見つけて拾い持ち帰ってきた、らしい。
そのときのことをアンは覚えていない。
サボは覚えているらしい。
「迎えが来たのかと思ったよ、あの世から」
つまりはルージュを天使だと思ったらしい。
アンの家に連れてこられたサボに食事を与えると、サボは不安げにルージュたちを見たが、すぐに勢いよく食べ始めた。
食事が終わり、薄汚れところどころ破れた衣服を脱がされ全身くまなく洗われ、きれいさっぱりになったところでアンと対面した。
突如現れた同じ背丈の少年を見ても、アンはぽかんとしていた。
今までたった3人しかいなかったアンの世界の中に、突然別のものが飛び込んできたのだ。
しかしもう、アンが維持している記憶の中のサボは兄弟としてそこにいる。
初めて出会ったあの時から、兄弟になるまでにあったはずのあらゆることをアンは覚えていない。
単に頓着していなかっただけかもしれない。
しかしサボはそうではないと言う。
「オレ結構覚えてるよ」と大きくなってから言っていたのを聞いたことがあった。
ルージュに拾われた時のこと、アンと初めて出会った時のことに始まり、アンの両親がサボを家族として受け入れるためにしてくれたこと。
「やっぱりさ、犬猫拾ったのと同じってわけにはいかないだろ? おれにも一応、おれを生んだ親はどこかにいるわけだから」
詳しいことはサボも成長してから自然と気づいたが、なおさら彼らに感謝したという。
「おれの名前からおれの本当の家、探してくれてたんだ。おれが勝手に飛び出してきた家出小僧だったら親がさぞや血眼で探してるだろうって」
「…でも結局」
「うん、ロジャーさんがさ、おれんちこっそり見に行って、怒って帰ってきた。んでその日おれに言ったんだ」
『お前は今日からうちの子だ』
野垂れ死に覚悟で、いるに堪えなかった生家を飛び出してきたサボにとって、たった5歳のサボにとって、アンの家に辿りつけたのは奇跡に等しい大成功の脱走劇だったわけである。
アンがその話を初めて聞いたのは15くらいの時。
その歳になって、サボが自分の出自を話すまで、アンはサボが兄弟であることに何の疑問も持っていなかったのだ。
ちなみに今も、何故サボが家を飛び出して、ロジャーがサボの家で何を見たのかアンは知らない。
ただ、それらのことがあったおかげで今サボはアンの傍にいてくれる。
その事実だけで十分すぎるほどだった。
アンはサボの手を引いて遊びに行き、サボもためらいなくアンの手を握り返す。
そんな毎日が続いたころ、二人の前にポンとルフィが現れた。
ルフィを連れてきたのは、アンとサボが見上げても逆光で顔が見えないほど大きな年寄りで、ルフィがじーちゃんと呼ぶので今は二人も同じように呼んでいる。
とにもかくにも、その年寄りとはいいがたい体躯の男が連れてきた小さな少年が、二人より3つ年下のルフィだった。
じーちゃん、名をガープと言う彼は唐突にゴール家を訪れ、ロジャーにルフィを託した。
その時のロジャーの顔だけは、今でもアンは覚えている。
まず、ガープがゴール家におとないを入れた際ロジャーが激しく抵抗した。
どうやらロジャーの仕事の上司だったらしいガープはいともたやすくそれを無視し、ルフィの手を引いて家の中に上がった。
『家屋侵入罪だガープ!あと権力乱用!パワハラだパワハラ!』
門前払いに失敗してわめきたてるロジャーを黙らせたのはルージュだった。
しかし上司に対する言葉とは思えない口調だったのを思うと、おそらく上下関係のうんぬんより強い関係が既に結ばれていたのだろうと、今ならわかる。
『というわけで、わしはちょいとこの街を離れにゃならん。可愛いルフィを連れていくにはちと都合が悪い。聞けばお前、子供が一人増えたそうじゃな。ついでにわしの孫も預かってくれ。ルフィは人見知りなどせんから、お前の子供らとうまくいかんこともないじゃろう』
『何が「というわけで」だ!』
『うちは、いいですけど』
『ルージュ!』
『アンもサボも遊び相手が増えれば喜ぶから。でも、この子はいいのかしら』
大人たちの話し合いを、部屋の外から少し身を乗り出して聞いていたアンとサボは、ソファに腰かけ床につかない足をぶらぶらさせる小さなルフィが、おれはへいきだ!と元気に叫ぶのを聞いた。
『決まりじゃな、頼むぞルージュ』
『オレにも言えよ!』
ガープはルフィの荷物を預け、一通りの連絡を告げるとルフィをそのままゴール家に残して、あっさりと帰ってしまった。
去り際、こっそりのぞき見るアンとサボの下に歩み寄ったガープは二人の頭上に大きな影を落として、皺だらけの顔をますます皺だらけにして大きく笑った。
『ルフィを任せたぞ、お前さんたちの弟じゃ』
大きく重たいガープの声を、アンは今でも思いだせる。
サボもきっと同じだろう。
そうしてゴール家に仲間入りしたルフィは、今現在も発揮している持ち前の人懐っこさですぐさま二人に馴染んだ。
年下のルフィは適度に二人の兄(姉)心をくすぐり、ちょうど良い緩衝剤にもなり、二人兄弟は三人兄弟へと発展した。
この時点でアンとサボは7歳、ルフィは4歳である。
その歳からアンとサボは学校へ通い始め、二人が学校へ行っている間はひとり留守番のルフィがおれもいきたいとルージュにごねたのはいい思い出だ。
いつもちょこちょこあとをついてくるルフィが可愛くて、いつでもサボがそばにいてくれるのがうれしくて、屈託なく笑う二人がいとしくて、アンが一番しあわせに満ちていたとき、両親が死んだ。
10年以上も前の記憶はおぼろげで、擦り切れた布のようにふわふわとおぼつかず穴も開いている。
その日のことをよく覚えていないのは、アンが記憶に蓋をしてしまったからかもしれないし、単なる時間の経過のせいかもしれない。
抱きしめる父の腕の強さや、笑う母の温かささえ忘れてしまった今となっては、もうわからないことばかりだ。
このことに関しても、アンには事実だけが残った。
軍人都市というものがあるように、アンたちが住まう街はいわば警察都市である。
つまるところ、警察が最も大きな権力を握ることで回る世界。
政治を執り行う機関はあるがその肩身は狭く、いわば形だけの行政府。
しかしそれが一面的に見てよいかどうかはともかく、この形でこの街はうまく回っていた。
その昔、腐敗しきった生臭い政治状況をひっくり返し一掃したのが警察幹部で、それから警察組織が今も権力を握り続けているというわけである。
当然この一見おかしな体系に、街の外から来たものは「警察組織がでかい顔をして支配する独裁国家の縮図だ」と笑うが、街に住まう当人たちから見ればそうではなかった。
彼らにとって行政など、上手く動くならだれが手にしてもいいのだ。
現にこの街の経済は多少の揺れ動きはありながらも安定しているし、治安のいいところがあれば悪いところも多少ある、『普通に』平和な町として機能している。
いま、警察組織本部の頂点に立つ男はエドワード・ニューゲートという。
現在この街の実質上のトップである。
「いま」というのは代替わりして彼になったという意味ではなく、トップが彼一人になってしまったということである。
警察組織は大きく4つに分かれており、その4つの権力は等しい。
4つに分けているのはただの権力分立のためであり、会社に総務課、営業課、人事課、その他諸々があるような感覚に近い。
その4つのうち1つのトップにエドワード・ニューゲートが位置し、一つのトップにロジャーがいた。
そのロジャーが死んだ。
隣に妻を乗せた車で、悪運転をした対向車をよけるために電信柱に突っ込んで、拍子抜けするほどあっけなく死んだ。
その日のことをアンは覚えていないが、サボは嫌になるほどよく覚えている。
いつだって、アンの忘れたことを代わりに記憶しておくのがサボだった。
ルフィがやってきて3年後、アンとサボは10歳でルフィは7歳、今年からルフィも学校だという年。
その日、庭で遊んでいた3人は買い物に出かけただけのはずの両親の帰りが遅いことに気付いた。
多少帰りが遅くとも、夕飯が遅くなるなぁと最初はその程度の心配だった。
しかしそれも、一時間、二時間と時が経つほどにおかしいという思いは大きくなっていった。
同じように不安な顔をするアンと、相変わらず無邪気なルフィ。
お腹は減り、あたりは暗くなり始め、夜の闇が家の中に忍び込むにつれて増していく不安。
たがいに抱きしめあうようにかたまって、いつまでたっても帰ってこない両親を待っていた3人のもとにはたくさんの大人がやってきた。
告げられた事実を知るにはサボもアンも幼すぎたが、それを理解するには十分大人だった。
街の最大勢力の幹部の一人として、私生活からは想像もできないほど大きな権力を握っていたロジャーの家は、警察によって機密秘匿のため一斉捜査の対象となり3人は警察の寮へと送られた。
泣き喚くルフィと、ルフィの泣く勢いにのまれて言葉も出ないアンを前に、サボもただ呆然とするしかなかった。
生まれた初めて好きになった大人が、一度に二人ともいなくなってしまったということに心は悲鳴を上げていた。
彼らが実の両親であるアンの心のうちは誰にも測ることはできない。
こうして4つの権力のうち1つのトップが欠けた警察組織は、バランスを保つために形を変えた。
いうなれば、今まではちょうど四角形の頂点として存在していた4つの権力。
それを、その中の一つ、つまりはエドワード・ニューゲート率いる部を“本部”と名付け、残りの3つを“支部”とした。
勢力均衡を絶対的なヒエラルキーに変えてしまえばそれもまた安定である。
これらの社会の動きなど、小さな3人にとっては目にも見えず耳にも聞こえず知ることもないずっとずっと頭上高くで行われていたことで、そういうことがあったのだとまるで歴史を習うような感覚で事実を知った。
そしてこのとき、もしかしたら3人はバラバラになっていたのかもしれないと思うと今でもゾッと背筋が冷たくなる。
全てあとから知ったことだが、まず両親を失ったアンは間違いなく孤児の施設に送られることとなった。
考えてみれば、サボとルフィの保護者は健在であり、何も最も弱い存在が3人で集まっていることはないのだ、とこれは大人の判断である。
そもそも、まずサボの存在が物議の対象となった。
ルフィは、ガープが預けたのだというまっとうな理由があるからいいとする。
しかしサボがなぜゴール家にいるのかは、ゴール家の家族しか知らないことだった。
迷子を保護していたのではないか、家を探せばいいことではないか、という応酬の末、もしやロジャー夫婦は何らかの思惑がありサボを家に置いていたのではないかといういわれのない中傷を示唆する意見まで飛び交った。
大人たちがこのような物議を醸していることも3人の知るところではなかったが、両親の死に引き続いて不穏なことが起こるかもしれないという予感が3人を包んでいた。
温かい家の灯り、人の温度で暖まった寝床、おやすみという優しい声。
それらすべてを欠いた四角いコンクリートのかたまりである警察寮で、3人は誰の入る隙もないと示すみたいに、ぎゅうと抱き合って眠った。
いつもルフィを真ん中に挟んで、アンとサボはそのぬくもりを分け合って、ルフィは二人の体温に守られて眠った。
大人はいつも、正しい判断を下す。
正しいことが当人たちにとってよいことであるかを顧みずに、いつも正しさだけを一番に求める。
孤児院へ送られるアンと、親元へ帰されるサボと、ガープが迎えにくるルフィ。
今離れてしまえばもう二度と会えないかもしれない。
そんな予感が、幼い3人の身体を電気のように走った。
「離れたくない」
「おれたちは兄弟だ」
「ずっと一緒にいたい」
3人のどの言葉も聞き入れることのない大人たちと、戦わねばならなかった。
アリと象のような戦い。
7歳と10歳がひねり出す言葉で勝てないと分かると、もう体で示すしかなかった。
てこでも動かない。
3人抱き合って、ぴたりとくっついて、近づくなと威嚇する動物のように目を光らせて唸る。
そうこうして大人たちが手をこまねいているうちに、アンたちに思わぬ援軍が現れた。
ガープがルフィを迎えに来るために帰ってきたのだ。
ガープは団子のようにかたまる3人を見て笑った。
『なんじゃお前ら、ノラ猫の子供じゃあるまいに』
『じーちゃん!おれじーちゃんとくらしたくねぇよ!』
『なんじゃとっ』
『まちがえた!おれサボとアンと一緒にいたい!』
『しかしなぁ、お前ら3人でどうやって生きてくというんじゃ』
『ルフィのじーちゃん!おねがいだ、アンを連れてかせないでくれ!』
『なに?』
『おれ、家に帰るから!本当の家に帰るから!3人ならだめかもしれないけど、2人なら…ルフィと一緒に、アンもじーちゃんのところに連れてってやってくれ!』
『サボ!?』
『なんだよそれ!じーちゃん、そんならサボもつれてってくれよ!おれら3人、一緒につれてってくれよぉ!』
おねがいだから、ばらばらにしないで、離さないで。
言葉少なのアンの代わりに、サボとルフィが祈るように頼んだ。
頑是ない子供に、他愛もないようで難しい願いを託されたガープはひとしきりぬううと唸ると、よしわかったと強く頷いた。
まずガープはエドワード・ニューゲート率いる本部に直接掛け合い、なんとサボの出自に関する問題をもみ消した。
ロジャーがサボを引き取っていたのは、サボの言い分によれば『かくまって』いたように聞こえる。
それはおそらく、ロジャーなりにサボの一番を考えてのことだったのだろうと判断した。
ガープが本部統帥に「サボという子どものことじゃがな、ありゃあもういいんじゃないか、帰さんで。本人が帰りたくないと言っておることじゃしなあ。ナシで!」と率直すぎる直談判を行い、それがなぜ通ってしまったのかはガープとニューゲートしか知らない。
次に、3人が3人で新しい生活を始めるにあたって、ガープはアンを養子として迎えた。
そうすればアンが孤児院に行く必要はなくなる。
ただし養子縁組はしない。そうすることでアンの両親はロジャーとルージュであるという紛れもない事実が戸籍として残るからだ。
そして問題の3人の居場所であるが、やはりガープが仕事に子供3人を引き連れていくのは難しかった。
そこで、3人の保護者としてガープは知り合いの名を上げた。
『ダダンっちゅう、まあ柄の悪いババアなんじゃがな。信頼はしとる。とりあえずはそいつの家に預けることにしよう。3人が自立できる時が来たなら、その時好きにすればよかろう、なあ』
こうして、他の警察官たちがガープのフットワークの軽さに目を回しているうちにあれよあれよと事を運び、すべてを丸く収めてしまったというわけである。
すべての解決を確認すると、ガープはそれじゃあとさっさと今の仕事場に戻ってしまった。
去り際に、ガープはルフィをロジャーに預けに来たときと同じ笑顔を見せてアンに言った。
『アン、お前はしあわせもんじゃ。自分がしあわせであることを忘れるな。お前の両親はお前を残して死んでしまったがな、卑屈になるな。そんなことを理由に自分を不幸だと思ってはいかん。味方は必ず近くにいると覚えておれ』
それからサボの頭を撫でた。
『守りたいと思うなら、守られてることもわからにゃならん。お前はしあわせになれる』
そしてルフィに拳骨という名の喝を入れて、『強くなれ』と言った。
*
ダダンの家に送り込まれた3人はまず、ダダンの見た目に圧倒されて、ガープの言うとおりの柄の悪さに驚き、そしてこれからも3人一緒の生活を送れる喜びをかみしめてその日も警察寮でしていたように3人ぎゅうとくっついて布団に入った。
そしてそのとき、3人が3人とも、言葉にすることなく誓った。
なにがあってもこの3人は離れない、兄弟である。
お互いを守って、ときには守られて、喜びも痛みも共有して大人になる。
たとえ世界が壊れても、共に生きるのだと。
→
アンは二人分のコーヒー豆をメーカーにセットする。
セットしてから、あ、と呟いていた。
「コーヒーでよかった?」
振り向きながらそう問えば、「コーヒー以外もあるんだ?」とリーゼントが聞き返す。
「紅茶と、あとミルクとか」
野菜ジュースなんてのもあるけど、と言うとリーゼントはコーヒーよろしくと笑った。
男が笑ったとき、左目の上に薄く縫い痕があるのに気付いた。
だいぶ薄いので目立ちはしないが、笑ったときに少し引き攣ったのだ。
リーゼントはアンの視線の先に気付いたのか自分の傷を指でなぞった。
「これ?やっぱ縫い痕は見えるんだよなー」
「え、やっ、ごめん」
無遠慮に見ていたことに気付いて、慌てて詫びる。
しかし男は軽い笑いでいやいやと首を振った。
「おしごとで、ちょっとね」
「…なんの?」
少し迷ったが、思い切って白々しく尋ねてみた。
「おじさん刑事さんなのよ」
しかし続いた言葉は予想外のものだった。
「少年課担当でね」
「少年課?」
そう、不良少年少女をおうちに帰すおしごとです、と男は伸びをしながら気楽に言った。
隣の男が、べらべらしゃべるなと言いたげにリーゼントを一瞥する。
一方アンは何となく拍子抜けした。
このリーゼントも、「マルコ」と同じ部類の警察だと思っていたのだ。
「えと…じゃあ、そっちの」
「こいつはマルコ、オレはサッチ。覚えてね」
リーゼント、もといサッチのウインクを曖昧に受け取ってアンはマルコをちらりと見た。
マルコは言葉を探すように薄く唇を開いたまま少しかたまって、やっとのことでこれだけ言った。
「…こいつとは、別のところだよい」
こいつぁエリートなんだ、似非エリート、とサッチが隣でイヒヒと笑った。
「だからまぁさ、偉そうなことは言えないけど、困ったことあったら頼ってちょーだい。オレここ気に入ったし」
なっ! と明るく笑ったサッチの目を、アンはまっすぐ見られなかった。
これから遅い出勤なのだという二人が店を去ると、肩の上に乗っていた重しがすっと消えてなくなり、思わず深い息をついていた。
まだ緊張の名残がカウンターの上の方に溜まっているような、もやもやした空気が残っている。
秘密を抱えるのが元来得意ではないのに、重大な秘密を胸に抱えたまま警察と向かい合うなんてとんだストレスだ。
しかし一方で、アンはどこかドキドキと逸る胸で別のことも思っていた。
彼らがアンの正体に気付かないことを前提に、ここを気に入って、さっきのように少しでも仕事の話をしてくれるなら。
そしてそれを情報として役立たせられたら。
利用価値があるかもしれない。
そこまで考えて、後ろ暗いその考えに後ろめたさも感じたが、それも圧倒的な期待の前に掻き消えた。
「アン」
名を呼ばれて、ハッと店の奥を見遣る。
サボが微妙な顔つきのまま佇んでいた。
「どうした? アン」
「サボ…」
「ルフィが、アンが変な顔してるって言うから」
見にきたら確かに変な顔はしていたが、別段表には出ず客の誰も気付いていないようだったし、アンも気付いてほしくなさそうだったので遠くから様子を見ていたのだという。
歩み寄ってきたサボはアンを厨房の中の椅子に座らせて自分はカウンターに背中を預けた。
気のまわりすぎる兄弟たちのおかげで、アンはようやく頬を緩める。
「大丈夫、ごめん」
「さっきのオッサンたちが、どうかしたのか」
「…」
言おうか言わまいか、一瞬逡巡した。
しかし突然、むにゅ、と両頬が外側に伸びた。
「いひゃっ!?」
「隠し事はなし、秘密は共有。約束だろ」
こくこくっ、と涙目で頷くとサボはよしと手を離した。
ついでにアンの頭に巻かれた赤いバンダナを外してくれる。
肩に落ちた長い黒髪に、サボの指が丁寧に手櫛を通した。
アンはぴりぴりとする頬を擦って、目の前にあるサボのシャツのボタンを見つめながらようやく口を開いた。
店の中に客はおらず静かだが、外のざわめきが適度に溶け合ってちょうどいい。誰に聞かれることもないだろう。
彼らが警察であること、彼らのうち片方が『エース』のために設置された警察組織特別班の総監、「マルコ」であることを伝えると、アンの髪を梳くサボの手がぴくりと動いた。
「2週間前、結局なんにもしなかったけど、下見に行っただろ?あのとき張ってたのがあの男で…あとからニュースで「マルコ」って知った。あのオッサン、本部から送り込まれてきたみたい」
「…ってことは」
「エドワード・ニューゲートの手下だ、多分」
そうか、と呟いたきりサボは押し黙って宙をにらんだ。
絶句しているように見えないでもない。
少しの間沈黙を味わって、サボから口を開いた。
「黒ひげの奴らは知ってるのか?」
「「マルコ」のことは知ってると思う。でも「マルコ」が「アン」を知ってるってのは知らないと思う。なにしろ今さっき初めて会ったんだから」
「ああ、そうか」
サボは考えるように目を眇めてから、なあアン、と言いにくそうに言った。
「…お前が危ないと思うなら、無理しなくてもいいんじゃないか」
アンはその言葉を黙って聞いた。
サボが前々からそう思っていたのは、分かっていた。
アンの気持ちを汲んで、今まで言わなかったことも。
「アンが、その、捕まっちまったりしたら、元も子もないだろ」
「うん…わかってるよ。わかってるけど」
出来る限りやりたい。
サボの優しさを断ち切るようで心苦しかったが、それ以上に思いはきっぱりと決まっていた。
アンの返答にサボは困ったように笑ったが、驚きはしなかったのでサボもわかっていたのだろう。
「ルージュさんも、アンがこんなお転婆始めるとは思わなかっただろうなあー」
「ハハッ、分かってた気もするけど」
「案外そんなもんかな」
サボは「よっ」とカウンターに預けていた背中を戻した。
アンは座ったまま、目の前にある腰に腕を回した。
驚いたサボが少しよろめいたが、すぐにしっかりと立ってちゃんと抱きしめられてくれる。
肩に温かい手が乗せられて、そのままぽんぽんと叩かれる。
「サボだいすき」
サボのお腹に顔をうずめたままくぐもった声を出せば、頭上から穏やかな声が「オレもだよ」と言った。
*
初めて出会ったサボは、欠いたばかりの歯を握りしめて汚いなりをしていた。
しかし着ている服はどうもアンが知っている、アンと同じ年代の男の子が着る服とは少し違って、今ならそれがとても上等なものであったのだと分かる。
アンがまだ、普通の子供のように両親と生活していたとき。
アンの母ルージュが、モルマンテ大通りの隣の小さな通り、リトルモルマンテ通りで行き倒れているサボを見つけて拾い持ち帰ってきた、らしい。
そのときのことをアンは覚えていない。
サボは覚えているらしい。
「迎えが来たのかと思ったよ、あの世から」
つまりはルージュを天使だと思ったらしい。
アンの家に連れてこられたサボに食事を与えると、サボは不安げにルージュたちを見たが、すぐに勢いよく食べ始めた。
食事が終わり、薄汚れところどころ破れた衣服を脱がされ全身くまなく洗われ、きれいさっぱりになったところでアンと対面した。
突如現れた同じ背丈の少年を見ても、アンはぽかんとしていた。
今までたった3人しかいなかったアンの世界の中に、突然別のものが飛び込んできたのだ。
しかしもう、アンが維持している記憶の中のサボは兄弟としてそこにいる。
初めて出会ったあの時から、兄弟になるまでにあったはずのあらゆることをアンは覚えていない。
単に頓着していなかっただけかもしれない。
しかしサボはそうではないと言う。
「オレ結構覚えてるよ」と大きくなってから言っていたのを聞いたことがあった。
ルージュに拾われた時のこと、アンと初めて出会った時のことに始まり、アンの両親がサボを家族として受け入れるためにしてくれたこと。
「やっぱりさ、犬猫拾ったのと同じってわけにはいかないだろ? おれにも一応、おれを生んだ親はどこかにいるわけだから」
詳しいことはサボも成長してから自然と気づいたが、なおさら彼らに感謝したという。
「おれの名前からおれの本当の家、探してくれてたんだ。おれが勝手に飛び出してきた家出小僧だったら親がさぞや血眼で探してるだろうって」
「…でも結局」
「うん、ロジャーさんがさ、おれんちこっそり見に行って、怒って帰ってきた。んでその日おれに言ったんだ」
『お前は今日からうちの子だ』
野垂れ死に覚悟で、いるに堪えなかった生家を飛び出してきたサボにとって、たった5歳のサボにとって、アンの家に辿りつけたのは奇跡に等しい大成功の脱走劇だったわけである。
アンがその話を初めて聞いたのは15くらいの時。
その歳になって、サボが自分の出自を話すまで、アンはサボが兄弟であることに何の疑問も持っていなかったのだ。
ちなみに今も、何故サボが家を飛び出して、ロジャーがサボの家で何を見たのかアンは知らない。
ただ、それらのことがあったおかげで今サボはアンの傍にいてくれる。
その事実だけで十分すぎるほどだった。
アンはサボの手を引いて遊びに行き、サボもためらいなくアンの手を握り返す。
そんな毎日が続いたころ、二人の前にポンとルフィが現れた。
ルフィを連れてきたのは、アンとサボが見上げても逆光で顔が見えないほど大きな年寄りで、ルフィがじーちゃんと呼ぶので今は二人も同じように呼んでいる。
とにもかくにも、その年寄りとはいいがたい体躯の男が連れてきた小さな少年が、二人より3つ年下のルフィだった。
じーちゃん、名をガープと言う彼は唐突にゴール家を訪れ、ロジャーにルフィを託した。
その時のロジャーの顔だけは、今でもアンは覚えている。
まず、ガープがゴール家におとないを入れた際ロジャーが激しく抵抗した。
どうやらロジャーの仕事の上司だったらしいガープはいともたやすくそれを無視し、ルフィの手を引いて家の中に上がった。
『家屋侵入罪だガープ!あと権力乱用!パワハラだパワハラ!』
門前払いに失敗してわめきたてるロジャーを黙らせたのはルージュだった。
しかし上司に対する言葉とは思えない口調だったのを思うと、おそらく上下関係のうんぬんより強い関係が既に結ばれていたのだろうと、今ならわかる。
『というわけで、わしはちょいとこの街を離れにゃならん。可愛いルフィを連れていくにはちと都合が悪い。聞けばお前、子供が一人増えたそうじゃな。ついでにわしの孫も預かってくれ。ルフィは人見知りなどせんから、お前の子供らとうまくいかんこともないじゃろう』
『何が「というわけで」だ!』
『うちは、いいですけど』
『ルージュ!』
『アンもサボも遊び相手が増えれば喜ぶから。でも、この子はいいのかしら』
大人たちの話し合いを、部屋の外から少し身を乗り出して聞いていたアンとサボは、ソファに腰かけ床につかない足をぶらぶらさせる小さなルフィが、おれはへいきだ!と元気に叫ぶのを聞いた。
『決まりじゃな、頼むぞルージュ』
『オレにも言えよ!』
ガープはルフィの荷物を預け、一通りの連絡を告げるとルフィをそのままゴール家に残して、あっさりと帰ってしまった。
去り際、こっそりのぞき見るアンとサボの下に歩み寄ったガープは二人の頭上に大きな影を落として、皺だらけの顔をますます皺だらけにして大きく笑った。
『ルフィを任せたぞ、お前さんたちの弟じゃ』
大きく重たいガープの声を、アンは今でも思いだせる。
サボもきっと同じだろう。
そうしてゴール家に仲間入りしたルフィは、今現在も発揮している持ち前の人懐っこさですぐさま二人に馴染んだ。
年下のルフィは適度に二人の兄(姉)心をくすぐり、ちょうど良い緩衝剤にもなり、二人兄弟は三人兄弟へと発展した。
この時点でアンとサボは7歳、ルフィは4歳である。
その歳からアンとサボは学校へ通い始め、二人が学校へ行っている間はひとり留守番のルフィがおれもいきたいとルージュにごねたのはいい思い出だ。
いつもちょこちょこあとをついてくるルフィが可愛くて、いつでもサボがそばにいてくれるのがうれしくて、屈託なく笑う二人がいとしくて、アンが一番しあわせに満ちていたとき、両親が死んだ。
10年以上も前の記憶はおぼろげで、擦り切れた布のようにふわふわとおぼつかず穴も開いている。
その日のことをよく覚えていないのは、アンが記憶に蓋をしてしまったからかもしれないし、単なる時間の経過のせいかもしれない。
抱きしめる父の腕の強さや、笑う母の温かささえ忘れてしまった今となっては、もうわからないことばかりだ。
このことに関しても、アンには事実だけが残った。
軍人都市というものがあるように、アンたちが住まう街はいわば警察都市である。
つまるところ、警察が最も大きな権力を握ることで回る世界。
政治を執り行う機関はあるがその肩身は狭く、いわば形だけの行政府。
しかしそれが一面的に見てよいかどうかはともかく、この形でこの街はうまく回っていた。
その昔、腐敗しきった生臭い政治状況をひっくり返し一掃したのが警察幹部で、それから警察組織が今も権力を握り続けているというわけである。
当然この一見おかしな体系に、街の外から来たものは「警察組織がでかい顔をして支配する独裁国家の縮図だ」と笑うが、街に住まう当人たちから見ればそうではなかった。
彼らにとって行政など、上手く動くならだれが手にしてもいいのだ。
現にこの街の経済は多少の揺れ動きはありながらも安定しているし、治安のいいところがあれば悪いところも多少ある、『普通に』平和な町として機能している。
いま、警察組織本部の頂点に立つ男はエドワード・ニューゲートという。
現在この街の実質上のトップである。
「いま」というのは代替わりして彼になったという意味ではなく、トップが彼一人になってしまったということである。
警察組織は大きく4つに分かれており、その4つの権力は等しい。
4つに分けているのはただの権力分立のためであり、会社に総務課、営業課、人事課、その他諸々があるような感覚に近い。
その4つのうち1つのトップにエドワード・ニューゲートが位置し、一つのトップにロジャーがいた。
そのロジャーが死んだ。
隣に妻を乗せた車で、悪運転をした対向車をよけるために電信柱に突っ込んで、拍子抜けするほどあっけなく死んだ。
その日のことをアンは覚えていないが、サボは嫌になるほどよく覚えている。
いつだって、アンの忘れたことを代わりに記憶しておくのがサボだった。
ルフィがやってきて3年後、アンとサボは10歳でルフィは7歳、今年からルフィも学校だという年。
その日、庭で遊んでいた3人は買い物に出かけただけのはずの両親の帰りが遅いことに気付いた。
多少帰りが遅くとも、夕飯が遅くなるなぁと最初はその程度の心配だった。
しかしそれも、一時間、二時間と時が経つほどにおかしいという思いは大きくなっていった。
同じように不安な顔をするアンと、相変わらず無邪気なルフィ。
お腹は減り、あたりは暗くなり始め、夜の闇が家の中に忍び込むにつれて増していく不安。
たがいに抱きしめあうようにかたまって、いつまでたっても帰ってこない両親を待っていた3人のもとにはたくさんの大人がやってきた。
告げられた事実を知るにはサボもアンも幼すぎたが、それを理解するには十分大人だった。
街の最大勢力の幹部の一人として、私生活からは想像もできないほど大きな権力を握っていたロジャーの家は、警察によって機密秘匿のため一斉捜査の対象となり3人は警察の寮へと送られた。
泣き喚くルフィと、ルフィの泣く勢いにのまれて言葉も出ないアンを前に、サボもただ呆然とするしかなかった。
生まれた初めて好きになった大人が、一度に二人ともいなくなってしまったということに心は悲鳴を上げていた。
彼らが実の両親であるアンの心のうちは誰にも測ることはできない。
こうして4つの権力のうち1つのトップが欠けた警察組織は、バランスを保つために形を変えた。
いうなれば、今まではちょうど四角形の頂点として存在していた4つの権力。
それを、その中の一つ、つまりはエドワード・ニューゲート率いる部を“本部”と名付け、残りの3つを“支部”とした。
勢力均衡を絶対的なヒエラルキーに変えてしまえばそれもまた安定である。
これらの社会の動きなど、小さな3人にとっては目にも見えず耳にも聞こえず知ることもないずっとずっと頭上高くで行われていたことで、そういうことがあったのだとまるで歴史を習うような感覚で事実を知った。
そしてこのとき、もしかしたら3人はバラバラになっていたのかもしれないと思うと今でもゾッと背筋が冷たくなる。
全てあとから知ったことだが、まず両親を失ったアンは間違いなく孤児の施設に送られることとなった。
考えてみれば、サボとルフィの保護者は健在であり、何も最も弱い存在が3人で集まっていることはないのだ、とこれは大人の判断である。
そもそも、まずサボの存在が物議の対象となった。
ルフィは、ガープが預けたのだというまっとうな理由があるからいいとする。
しかしサボがなぜゴール家にいるのかは、ゴール家の家族しか知らないことだった。
迷子を保護していたのではないか、家を探せばいいことではないか、という応酬の末、もしやロジャー夫婦は何らかの思惑がありサボを家に置いていたのではないかといういわれのない中傷を示唆する意見まで飛び交った。
大人たちがこのような物議を醸していることも3人の知るところではなかったが、両親の死に引き続いて不穏なことが起こるかもしれないという予感が3人を包んでいた。
温かい家の灯り、人の温度で暖まった寝床、おやすみという優しい声。
それらすべてを欠いた四角いコンクリートのかたまりである警察寮で、3人は誰の入る隙もないと示すみたいに、ぎゅうと抱き合って眠った。
いつもルフィを真ん中に挟んで、アンとサボはそのぬくもりを分け合って、ルフィは二人の体温に守られて眠った。
大人はいつも、正しい判断を下す。
正しいことが当人たちにとってよいことであるかを顧みずに、いつも正しさだけを一番に求める。
孤児院へ送られるアンと、親元へ帰されるサボと、ガープが迎えにくるルフィ。
今離れてしまえばもう二度と会えないかもしれない。
そんな予感が、幼い3人の身体を電気のように走った。
「離れたくない」
「おれたちは兄弟だ」
「ずっと一緒にいたい」
3人のどの言葉も聞き入れることのない大人たちと、戦わねばならなかった。
アリと象のような戦い。
7歳と10歳がひねり出す言葉で勝てないと分かると、もう体で示すしかなかった。
てこでも動かない。
3人抱き合って、ぴたりとくっついて、近づくなと威嚇する動物のように目を光らせて唸る。
そうこうして大人たちが手をこまねいているうちに、アンたちに思わぬ援軍が現れた。
ガープがルフィを迎えに来るために帰ってきたのだ。
ガープは団子のようにかたまる3人を見て笑った。
『なんじゃお前ら、ノラ猫の子供じゃあるまいに』
『じーちゃん!おれじーちゃんとくらしたくねぇよ!』
『なんじゃとっ』
『まちがえた!おれサボとアンと一緒にいたい!』
『しかしなぁ、お前ら3人でどうやって生きてくというんじゃ』
『ルフィのじーちゃん!おねがいだ、アンを連れてかせないでくれ!』
『なに?』
『おれ、家に帰るから!本当の家に帰るから!3人ならだめかもしれないけど、2人なら…ルフィと一緒に、アンもじーちゃんのところに連れてってやってくれ!』
『サボ!?』
『なんだよそれ!じーちゃん、そんならサボもつれてってくれよ!おれら3人、一緒につれてってくれよぉ!』
おねがいだから、ばらばらにしないで、離さないで。
言葉少なのアンの代わりに、サボとルフィが祈るように頼んだ。
頑是ない子供に、他愛もないようで難しい願いを託されたガープはひとしきりぬううと唸ると、よしわかったと強く頷いた。
まずガープはエドワード・ニューゲート率いる本部に直接掛け合い、なんとサボの出自に関する問題をもみ消した。
ロジャーがサボを引き取っていたのは、サボの言い分によれば『かくまって』いたように聞こえる。
それはおそらく、ロジャーなりにサボの一番を考えてのことだったのだろうと判断した。
ガープが本部統帥に「サボという子どものことじゃがな、ありゃあもういいんじゃないか、帰さんで。本人が帰りたくないと言っておることじゃしなあ。ナシで!」と率直すぎる直談判を行い、それがなぜ通ってしまったのかはガープとニューゲートしか知らない。
次に、3人が3人で新しい生活を始めるにあたって、ガープはアンを養子として迎えた。
そうすればアンが孤児院に行く必要はなくなる。
ただし養子縁組はしない。そうすることでアンの両親はロジャーとルージュであるという紛れもない事実が戸籍として残るからだ。
そして問題の3人の居場所であるが、やはりガープが仕事に子供3人を引き連れていくのは難しかった。
そこで、3人の保護者としてガープは知り合いの名を上げた。
『ダダンっちゅう、まあ柄の悪いババアなんじゃがな。信頼はしとる。とりあえずはそいつの家に預けることにしよう。3人が自立できる時が来たなら、その時好きにすればよかろう、なあ』
こうして、他の警察官たちがガープのフットワークの軽さに目を回しているうちにあれよあれよと事を運び、すべてを丸く収めてしまったというわけである。
すべての解決を確認すると、ガープはそれじゃあとさっさと今の仕事場に戻ってしまった。
去り際に、ガープはルフィをロジャーに預けに来たときと同じ笑顔を見せてアンに言った。
『アン、お前はしあわせもんじゃ。自分がしあわせであることを忘れるな。お前の両親はお前を残して死んでしまったがな、卑屈になるな。そんなことを理由に自分を不幸だと思ってはいかん。味方は必ず近くにいると覚えておれ』
それからサボの頭を撫でた。
『守りたいと思うなら、守られてることもわからにゃならん。お前はしあわせになれる』
そしてルフィに拳骨という名の喝を入れて、『強くなれ』と言った。
*
ダダンの家に送り込まれた3人はまず、ダダンの見た目に圧倒されて、ガープの言うとおりの柄の悪さに驚き、そしてこれからも3人一緒の生活を送れる喜びをかみしめてその日も警察寮でしていたように3人ぎゅうとくっついて布団に入った。
そしてそのとき、3人が3人とも、言葉にすることなく誓った。
なにがあってもこの3人は離れない、兄弟である。
お互いを守って、ときには守られて、喜びも痛みも共有して大人になる。
たとえ世界が壊れても、共に生きるのだと。
→
※原作、または【ハロー隣の~】の現パロとも全く異なる世界観です。苦手な人は注意!
暗闇の中、だだっ広い床の上にぼんやりとした灯りが丸を描いていた。
その明かりに照らされた床は夕日のような鮮やかな朱色のじゅうたんが敷かれている。その上を走ったところで足音ひとつしなさそうだ。
その、唯一明るい丸の中心には人の腰辺りまでの高さの黒い台座、そしてその上には透明のケースが置かれている。
黒い台座も相当値の張るものだろう、うすくらい灯りの中でもすこし角度を変えてみればきらりと光る。大理石のようだ。
透明のケースは一見何の変哲もないガラスケースのように見えるが、ただのガラスのわけがない。
普通のピストルでは傷もつかないような特殊加工を施された防弾ガラスのはずだ。
ケースの中では血のように真っ赤な花が咲いていた。
天井の排気管の狭さに息が詰まりそうになりながら、手元の紙を音のしないようにそうっと開いた。
5センチほどの小さなライトを咥えて灯りを紙にあてる。
紙面には真下にあたる部屋の見取り図と、警備員の配置、そして赤外線レーダーの配置図が記されていた。
ざっと目を通して、頭に叩き込んだそれらを今一度確認した。
そして頭の中で今後の算段を予習し、チリひとつないこの場所のように完璧なそれによしとひとり頷く。
排気管の出口、排気口の金網の目からもう一度真下を覗くがさっきと何一つ変わりはない。
音も立てずふたを持ち上げた。
フックのついたワイヤーをすとんとまっすぐに落とす。
ワイヤーが赤外線レーダーに触れない位置であることも確認済みである。
フックを排気口のふたがついていたネジの部分に固定して、その硬度を確かめる。問題なし。
光を吸収する素材でできたワイヤーは、灯りの真っただ中に落としても人の目には見えない。
その証拠に、照らされた台座に向かって立っている二人の警備員はワイヤーが目の前に垂らされても身動き一つしなかった。
胸糞悪い奴らから与えられた用具たちが役に立ちすぎて、内心は実際のところ穏やかではない。
しかし背に腹は代えられないというやつで、まあよく言えば利用価値のあるものは何でも使わなきゃ損ということもありこうして利用している。そして役立っている。
次に、薄いコートのポケットに手を突っ込み堅い感触を確かめ、それを取り出す。
物騒なそれは暗闇の中でも一層黒い。
しかし中に詰められているのは銀色の弾丸ではなく、麻酔薬のぬられた針、つまりはただの麻酔銃だ。
その銃口をしっかりと、ひとりの警備員の首根に定めた。
その距離5メートルほど。外す距離ではない。
引き金を引いた。
「!? おい!?」
あやまたず青い制服の男の首根に突き刺さった麻酔は一瞬にして彼の身体を駆け巡り、ガタイの良い大きな男はどうとその場に倒れた。
目の前で突然倒れた仲間に、もう一人の警備員は驚いて駆け寄る。
その瞬間を見逃さなかった。
蜘蛛のように、もしかすると蜘蛛よりも早くワイヤーを掴み排気口から滑り出る。
そのまますっとガラスケースの前まで降り立った。
すぐ目の前には、倒れた警備員と彼の容体を確かめるもう一人の男の背中が見えている。
彼らがこちらに目を向けないのは、きっとせいぜい30秒ほどだ。
急がなければ。男は無線で管理会社に倒れた男のことを伝えている。
咥えていた小さなライトの先を、ケースの表面に押し当てた。
そして灯りをつけるのとは逆側に突起を倒す。
するとじわじわとケースが丸く溶けだした。
弾丸をはじく特殊樹脂は、ある一定の高さの熱に弱いのだ。
これもアイツラの情報と特殊道具のたまものだが憎らしいので考えないことにする。
ケースに開いた穴は人の拳ほどの大きさになっていた。
降り立ってから現在まで、約20秒。
怖いくらい予定通りだった。
開いた穴に、そうっと黒い手袋をはめた手を差し入れる。
人並より小さめなそれは容易くケースの中に侵入した。
ケースの中心に鎮座する赤い花に触れると、つるりひやりとした感触が皮手袋越しに伝わってぞくりとしたが、昂揚感で胸は痛いほど熱かった。
花は片手のひらにのるほどの大きさで、手に乗せたままケースから取り出す。
自動収縮性のワイヤーを、花を持つのとは反対の手にもう一周巻きつけて強く握り直した。
「敵ながらあっぱれだよい」
背中側から聞こえた声にハッと振り返る。
同じように振り返った警備員は、予想外の姿二つに声も出ないのか振り返ったまま固まった。
思わずついた舌打ちはおそらく誰にも聞こえない程度だったが、舌打ってしまったことが悔しくて今度はぎりりと歯噛みする。
しかしそれを悟られないよう、口元はゆっくりと弧を描いた。
「賞賛より、欲しいのはこっち」
手の中の赤を持ち上げて見せると、対峙する黒い姿は闇にまぎれて揺れた。
笑ったように見えないでもない。
「なんでここにいんの? お偉いマルコ警部」
「お前ェに会いたかったんだよい。エース」
「そりゃ光栄だ」
けらけら笑うと、カチャリと冷たい金属の音が響いた。
「お前が持ってるそれとは違う、勿論本物だよい」
「そうだろうな」
「銀行の金庫に始まり財閥御曹司のコレクションルーム、次は美術館とはお前も趣味がいいよい」
「あのクソ財閥のバカ息子の趣味も結構なもんだったろ? 見たか、あのコレクションルーム。気色悪ぃ」
「ああ、バカ息子らしい部屋だった」
ノリのいい反応に気をよくして笑うと、もういちど冷たい金属が鳴る。
銃口はまっすぐに額に向いていた。
きっと、背後の警備員も震える手で銃を握っているはずだ。
「3度目の正直ってな。もう終わりだよい、エース」
「悪いけど、まだ終わるわけにはいかないんだ」
「この状況でお前に終わり以外の未来があるかい?」
「──未来なんてクソくらえだ」
視界が白く染まるその一瞬見えた顔は驚きと悔しさと、そして自分と同じような昂揚感に満ちている気がした。
背後に警備員のいる自分をマルコがむやみに撃つことはないとわかっていた。
手の中の赤い花を軽く握って存在を確かめる。
心臓のように脈打った気がした。
*
町の中心に走る一番大きな通り、モルマンテ大通りは朝の活気に満ちていた。
大きな二車線道路を走る車の数はそう多くないが、車線の両脇に沿って伸びる歩道を歩く人と人はすれ違うたびに肩がぶつかりそうになる。
しかしそれは必ずしも人が多すぎるわけではなく、単に歩道が狭いのだ。
そこに住まう町の人々はそれをよく理解し、相互に通行人とぶつからないよう歩くすべを身に着けている。
そんなモルマンテの通りで、この朝の時間一番人に溢れ、なおかつもっとも明るく生気に満ちた場所がある。
その店に扉はなく、通りに向かって大きく口を開けている。
店の入り口には申し訳程度に掲げられた木製の看板があった。
そこには深緑のペンキで“Deli”とだけシンプルに記されている。
歩道と店内を隔てる低い段差の手前には本日の一押しメニューが小さな黒板に記されて、描きかけの絵画のようにスタンドに置かれている。
人々はそれを見て足を止め、満足げに店の中に吸い込まれていくのだ。
そうでなくても、この店の前はつねに誘惑に満ちた香りが漂っている。
あでやかで華やかで、煽られるような匂いではない。
強いて言うならば煽られるのは食欲のみだ。
香ばしいパンの香り、オリーブオイルが熱される音、瑞々しい野菜の声が店内には余すことなく満ちていた。
明るい通りに比べて若干暗い店内だが、暗いのは照明の問題だけで活気の話ではない。
現に店の中は全席既に満席で、客が勝手に引っ張り出した椅子が通りに少しはみ出しているほどだ。
そして、店の中を走り回る店員はふたり。加えてカウンターの向こう側でくるくると立ち回り次々と料理を作る姿がひとつ。
モルマンテ通りでもっとも繁盛するデリは、たったの3人、それもまだ年端もいかない3人によって切り盛りされていた。
「にーちゃん!おれ朝のいつもの!」
「おれはBLCテイクアウト」
「はいよー!」
「アン!Aが4つとCが2つ!」
「了解、っとサボ!Bできたからコショウ振って持ってって!」
「わかった、っておいルフィ!お客さんのメシ食ってんじゃねぇ!」
「だってくれるっていうから」
「もらうな!」
若い3人の掛け合いは、常に客の笑いを誘う。
味の良さと立地の便利さだけではない。
店の人気はこの3人の絶妙な掛け合いで保っている方が大きいのだ。
「この店は…カフェか?モーニングがあるのか」
「いらっしゃい、お客さんはじめて?」
「ああ、いいかな」
「もちろん、でもごめん、今満席かもしんない。ちょっと待ってもらうか、テイクアウトなら早くできるけど」
「そうか、それなら…その、ショーケースの中のそれをひとつテイクアウトしよう。あとコーヒーも」
「チキンサンドな、了解!」
「…君たちは兄弟かい?」
「ああ、そうだよ」
「そうか、よく似ている」
老紳士風の男性は、穏やかな笑みを浮かべて帽子を脱いだ。
「似ている」ということばに一瞬きょとんと固まったサボは、すぐににやりと悪ガキっぽく口角を上げた。
「おれはあのふたりと違って、髪の色が違うけど」
「ああ、しかし兄弟だろう?」
「なんでそう思ったの、お客さん」
「似ているよ、笑い方がとても」
へへ、お客さん目がいいねと笑ったサボの横から黒髪の少年が紙袋を手渡した。
「あ、お客さんのできたみたい。はい」
「…私はドーナツは頼んでないよ」
「店主に聞こえてたみたいだ、もらってくれよ」
男性がカウンターの向こうに目をやると、フライパンを握った黒髪の娘がにぃと笑っていた。
「お客さん、また来てね!」
一言そう声を上げ、娘は額の汗を拭いて再びフライパンと向かい合う。
男性は静かに袋を受け取った。
「ありがとう、また来るよ」
「待ってるよ、ありがとう!」
*
朝の7時から9時は店が一番栄え、それゆえ一番忙しい時間帯だ。
仕事に向かうおおむねサラリーマンたちが朝食をとりに来てくれる。
この街の人たちは外で朝食をとるのが好きだ。
そのためにわざわざ早く起き、仕事の前のモーニングを楽しむために早く家を出ると言う変わった傾向がある。まあ、新婚ならば別だろうが。
サボが考案した朝食セットはA,B,Cと三種類ありどれも栄養バランスは最高で、どれも等しく人気だった。
厨房をたった一人で取り任されたアンがこの大盛況の中なんとかやっていけてるのは、モーニングがこの3種類しかなくあとはドリンクとデザートのみだからだ。
仕上げはウェイターであるサボとルフィに任せてあるので、アンは大まかを作り皿に盛ればいいだけで、その流れが一番いいのではないかとこれもサボの提案だった。
しかし今は一番忙しい時間帯を過ぎ、ぽつぽつと客たちは仕事に向かい始め、仕事始めが遅い人や今日は休みと言う人たちがのんびりと朝食をとりながら新聞を読んでいる姿が目立ち始めた。
余裕のできたアンは、ふうと厨房の中にひとつだけある背の高い椅子に腰を下ろした。
「お疲れ、アン」
「サボもお疲れ。ルフィは学校行った?」
「ああ」
「宿題してあったかな、見てやんなかったけど」
「オレ見といたよ。ちゃんとしてあった。メッチャクチャだったけどな」
アハハと顔を見合わせて笑う。
アンが頭に巻いたバンダナをしゅるりと解く。
長い黒髪がパサンと音を立てて肩に落ちた。
つと、サボの手がアンの顎の下あたりに伸びた。
少しごつごつした指が顎の輪郭を少しなぞる。
「アンここ、怪我してる」
「ああ…一昨日のがまだ残ってんだ。大丈夫、痕だけだから」
「だからだろ。どうすんだ、痕なんか残ったら」
妙に真面目な顔をするサボに、アンは思わず噴き出した。
「なに変な顔してんのサボ、痕くらいどってことないって」
「ダメだ。…無茶すんなよ」
「…ごめん、でも擦っただけだからすぐ治るよ」
「ああ、薬ぬっとけよ」
サボは腰から足首まであるサロンを紐解いてそれを軽く手でたたみ、小脇に挟んだ。
「じゃあおれは裏で搬入のチェックしてくるから、表任せてもいいか?」
「うん、もうそんなに混まないと思うから」
よろしく、とサボは振り向きざまにひらりと手を振った。
アンはその背中を見送って、先ほどサボが触れていた傷を同じように指でなぞる。
かすり傷はもうかさぶたになっていて、早ければ明後日には綺麗に取れているだろう。
(帰り、急いだからな)
狭苦しいあの場所を思い出して辟易とした。
ドブネズミのように暗闇を這いずり回る自分の姿には慣れたが、仕事のあとに何があっても向わなければならないあの場所は思い出したくもない。
今夜もいかなければならないのだが。
「ごちそうさん」
思わず眉間に皺を寄せて鬱々としていたアンの前を通り過ぎながら男が挨拶を寄越した。
ハッと意識を店にひっぱりもどし、いつもの笑顔を顔に乗っける。
「ありがと、また来てね!」
自営業の彼はこれから店を開けるのだろう、アンの笑顔を振り向いて確かめると意気揚々と去っていった。
この笑顔がいくぶんか人をしあわせにする効果があることは、店を始めてわりとすぐに気付いた。
それも、アン・サボ・ルフィと揃えば最高だと客は口を揃えて言う。
アンはそれが、どうしようもなくうれしかった。
こどもが3人、つたない頭をひねり弱い力を振り絞ってやっとのことで開いたこの店。
サボとルフィの次に続く宝物だ。
ここを守るためならなんだってする。なんだって。
ちらりと正面の柱にかかった時計を見上げた。
10時少し前、そろそろだ。
今日は少しブレンドしてみようかな。
コーヒー豆をミルに入れ、ハンドルを回し始めたそのとき、ちょうど予想通りの姿が2人アンの前に現れた。
「はよー、アンちゃん」
「いらっしゃい、いま豆挽いたところだから。何にする?」
「まだ10時前だよな?んじゃあオレBで」
「そっちは?」
「…C」
無愛想にも聞こえるその声を意にも介さず、はいはーいと元気に返事を返したアンは早速ベーコンと卵を焼きにかかった。
10時少し前、決まった曜日に現れる2人の男はすでに顔なじみだ。
この店の客のほとんどが顔なじみではあるものの、彼らは特別アンをかまうのでアンの方も覚えてしまった。
アンをかまうのは2人組のうち一方だけで、無口らしいもう一方はペラペラ喋る相方を鬱陶しげに横目で見るか、はたまた存在を無視するだけだ。
そのなんとも不思議なオッサンコンビがアンは何となく好きになった。
──あまりいいことではないと、わかってはいたけど。
「今日もいい天気だねー、アンちゃんどう、仕事終わりにおじさんとデートでもしない?」
「何言ってんの、今から仕事行くんでしょ」
「おじさんは君と天国に行きたいなっ」
「はいはい、どうぞ」
ドンドン、とカウンターテーブルにそれぞれのモーニングセットを置く。
カウンターに腰かけた二人の男が狭そうにしながらもいつも隣に並んで食べる姿も、どことなくおもしろい。
食事を始めた彼らに背を向けて、アンは彼らのためのコーヒーを淹れにかかった。
粉になった豆の粗さを確かめて、今度はコーヒーメーカーにセットする。
豆を挽き始めたころから漂っていた香りが一層濃くなった。
二人の男が座るカウンターに背を向けて作業するアンの耳には、男たちのぽつぽつとした会話が飛び込んできた。
「始末書、今日だろ」
「あんなもん昨日のうちに叩きつけて来たよい」
「うっへぇ、おこらりた?」
「ガキじゃねぇんだ、始末くらい自分でつけるよい」
「怒られたんだ…」
ぐじゃ、っと片方の男のきっちり決まった髪型が無残につぶれる音を聞いてから、二人の前に入れたてのコーヒーを差し出した。
「お、さんきゅ」
「こないだサッチがウマイって言ってたやつブレンドしてみたんだけど、どう?」
「うまい」
答えたのは潰れたリーゼントを整える方ではなく、その隣。
アンが意外に思ってその男に視線を合わせると、男の視線はコーヒーに落ちたままだったがもう一度口を開いた。
「うまいよい」
よかった、とアンが呟くと男はもう何も言わず黙ってコーヒーをすすった。
彼らがアンたちの店に通い始めたのは4か月ほど前から。
アンが夜にもう一つの仕事(と言うよりも使命に近い)を持ってからちょうど2か月後のことだった。
その日も変わらず忙しい朝の時間を3人でこなしていたが、休日だった。
ゆえにルフィは学校へ行かなくてもいいので、最後まで店を手伝うことができ、多少は楽ができる。
サボはいつものように忙しい時間帯を超えると裏方に回り搬入のチェックをする。
ルフィは店の一番端の席に座って、疲れた身体をだらりと伸ばして休息を取っている。
そしてアンはぽつぽつ訪れる遅い客を捌けていた。
「へえ、変わった店がある」
ふとよく通る声がアンの耳に届いて顔を上げた。
店の入り口で、背の高い男が二人並んで、一人が腰をかがめながらメニューボードを覗いていた。
そしてメニューを見ていた男がアンの方を向き、愛想のよい顔で「これまだやってる?」と首をかしげた。
見たところ30後半、もしかすると40に片足を突っ込みかけているかもしれないオッサンがする動作ではないと思ったが、特に嫌悪感はなく、アンは笑顔で頷いた。
「10時までだから。席空いてるよ」
「だってさマルコ。ここで食ってから行こうぜ、女の子超かわいいし」
始終愛想のいいその男はもう一人の男にそう言ながら、すでに店の中に足を踏み入れていた。
マルコと呼ばれた男も黙って後に続いてくる。
二人の男がアンの目の前に位置するカウンター席に腰を下ろして壁にかかるメニューを眺め始めたが、一方アンはすぐさま彼らに背を向けた。
『マルコ』
その名前を聞いてすうと全身が寒くなった。
心臓が喉から出てきそうなほど跳ね回る。
冷や汗が背中を伝い、鳥肌が立った。
大丈夫。あたしのこと、わかるはずがない。
わかっているのに、むしろばれるはずがないのに、どうしても顔を向けられなかった。
だめだ、今はただのお客なんだから、背中向けてたら、だめだ。
そう思うのに、身体が動かない。
「お嬢ちゃん?」
背中から声をかけられて、思わず手がびくっと変に動いた。
愛想のいい方、リーゼント頭の男は訝しげな顔をアンに向けたが、振り向いたアンを見てすぐに破顔する。
「やっぱり、超かわいーなあ。せっかくなんだからこっち向いてくれよ」
「わ、悪いけどうちそういう店じゃないし。今、朝だし」
一瞬で乾いてしまった唇をやっとのことで開いて何とかそう言うと、リーゼント頭は一瞬ぽかんとしたがすぐにニカニカと笑った。
「ごめんごめん、あぶね、オレが若い子にちょっかいだして御用になったら笑い話じゃすまねぇわな」
「まったくだよい」
アンは苦しい愛想笑いを返して、ぎこちない手つきで野菜の下準備を続ける。
やっぱり、リーゼント頭が言ったことからして、ふたりとも警察だ。
それも、制服じゃない方、アンが今一番会いたくない種類の。
リーゼント頭のほうに見覚えはなかったが、マルコと呼ばれたもう一人は一か月前に最悪な形でであった等本人だ。
どうしよう。
そればっかりが頭の中を回っていた。
店をルフィとサボに任して引っ込んでしまおうか。
いやしかし料理はアンにしか作れない。
今のところ全くばれている気配はないけれど、いつどこでぼろが出るかわからない。
声も聞かれているのだ。
不安に満ちた考えが頭を埋め尽くし、冷や汗は止まらない。
ふと視線を感じて顔を上げると、遠くの席からルフィがアンを見つめていた。
その顔には「どうした?」と書いてある。
相変わらず変なところで敏感だ。まるで野生動物。
だめだ、このままじゃ変に心配をかけてしまう。
アンはなんでもない、と少し笑って微かに首を振った。
「お嬢ちゃん、このAセット、ってのお願い」
「あ、はーい。…そっちの人、は?」
おそるおそる、目の前の男に視線をやる。
重たそうな瞼の向こうにある青と、がっちり視線がぶつかった。
おもわずたじろぎそうになるがなんとかふんばる。
しかし視線はすぐ、男のほうから外された。
「…コーヒー、ホット」
「そんだけか?」
いつのまに厨房側に回ったのか、ルフィがアンの隣からひょっこり顔を出して不躾に尋ねた。
男は細い目をさらに細めて無言でルフィを見る。
アンは慌ててルフィの頭を押しやった。
「ごめん、失礼なこと、」
「オッサンたち朝飯食いに来たんだろ?んでそっちのオッサンはA食うんだろ?朝飯はちゃんと食わねぇとだめなんだぞ!じゃないと昼飯まで力入んねぇぞ!」
「ルフィ!」
「うちはカフェじゃねぇ、アンの飯屋なんだ。朝飯はちゃんと食わなきゃだめだ!」
ゴッと鈍い音が店内に響いた。
カウンターに座る二人の男は、ぱちくりと瞬きする。
「いっ…てぇぇぇ!」
「バカ!アホ!偉そうになに説教してんの!ご、ごめん、こいつバカだから」
拳をルフィの頭の上でぐりぐりひねりながらそう言えば、青い顔のアンと涙目のルフィを交互に見ていたリーゼント頭が吹き出した。
「ハハッ、お嬢ちゃんたち姉弟?そっくりだな」
今度はアンとルフィが固まる方で、二人は顔を見合わせた。
しかしすぐにルフィがニヤリと笑う。
「似てるか?おれたち」
「ああ、そっくりじゃねぇか、なあマルコ」
同意を求められたマルコは、物憂げな仕草でアンを見上げ、それからルフィを見て、肩をすくめた。
マルコの仕草をどう受け取ったのかわからないが、そうかそうかと満足げにうなずいたルフィは立ち上がり、ぐいとアンの肩を抱き寄せて自分の頬とアンの頬をくっつけた。
「家族だからな!似てるんだ!」
な!と至近距離でアンの方を向き直り同意を求める。
はいはい、とアンがおざなりな返事をすると、それでも嬉しそうにニシシと笑った。
「おれ上行ってるぞ!」
「わかった、部屋掃除しといて」
まかせろー!とこの上なく信用できない返事を聞いて、アンははあと詰めていた息を吐き出した。
ルフィが思わぬところで真剣な顔をするから、先ほどまで抱えていた不安が一気に吹き飛んでしまったみたいだ。
「ごめん、お客さん本当。すぐ作るから」
「いーよいーよ、面白いもん見せてもらったし」
「そっちの人も、ゴメンナサイ」
「いや…」
何か考えるそぶりで、青い目の男、マルコはアンの背後を見つめた。
その視線の先を頭の中で描いて、どうやらメニューを見ているようだと気付く。
「じゃあ、コイツと同じのくれよい」
「えっ、やっ、ごめん、本当、無理しなくても…さっきのはアイツが勝手に」
「いや、違ぇ、あのボウズがあんだけ押してたメシが食ってみたくなっただけだい」
んじゃ、A2つね!と隣のリーゼントが高らかに言った。
本当にいいのか、と確かめるような視線を送ってもマルコは覆すそぶりもない。
それならまあ、とアンは準備に取り掛かった。
「なあ、お嬢ちゃん。や、アンちゃんだっけ」
「アンでいいよ」
「さっきあの弟くん、『うちはカフェじゃない』って言ってたけど」
「ああ…別にあたしはどうだっていいんだけどね、言い方の問題で」
すとん、とパプリカをまっぷたつに分けるといい音がした。
背後でパンが焼ける音がする。
「ほら、カフェってもちろんここみたいにサンドイッチとコーヒーとか出して、お昼にはケーキとかあって、夜はバーになるところ多いじゃん?うち、昼飯で店じまいなんだ。アフタヌーンティーとか酒とかないの。たまに勘違いした客が来るけど…基本的に、ただのごはん屋さん」
「なるほど、だからCaféじゃなくてDeliなわけね」
「そゆこと。はいどうぞ」
喋りながら作り上げていった料理たちを二人の前に差し出す。
さくさくのトーストで作ったサンドイッチとスクランブルエッグがほわほわと湯気を立てて二人の男とアンの間を隔てた。
「表に書いてあった今日の一押し、って」
「うん、サンドイッチの具のこと。その日届いた野菜で作るから」
「へえ、そりゃまた」
んではご賞味。と呟いたリーゼント頭は豪快にがぶりとサンドイッチにくらいついた。
隣の男も同じようにサンドイッチを口にする。
「…やべぇ、うめぇよ」
「…よい」
「良い?」
「や、それこいつの相槌。まあ今の場合意味的に間違っちゃいねぇけど」
それにしてもウマいよ、と。
目を輝かせる男に照れ笑いを返すと、なぜか男はこぶしを握って俯いた。
心なしか震えている。
「くっ…この街にこんな可愛い子がいたなんて…ぬかったぜ、オレ!」
「知ってたからってお前にゃどうすることもできねぇよい」
「うるせぇ!オレのささやかな夢を壊すんじゃねぇよ!」
「それは夢じゃなくてただの願望だよい」
ケッ、と吐き捨てたリーゼントは、「でも」とニヤニヤした顔を隣の男に向けた。
「可愛い子ちゃんであることはお前ぇも否定しねぇのな」
ウヒヒヒ、といささか品のない笑い声を上げるリーゼントを、青い目の男は本っ当に嫌なものを見るような目でちらりと見て、それからはもう見るまいと心に決めたのか、リーゼントのちょっかいに1ミリたりとも動じることなく食事をつづけていた。
言ってることはよくわかんないけど、このオッサンたち、超おもしろい。
思わずそんな感想が頭をよぎって、ハッとしてぶるぶる頭を振った。
リーゼントが不思議そうにアンを見たがごまかすようにカウンターの向こうにしゃがみ、冷蔵庫を物色するふりをした。
そうしていればおかしな顔を見られることもない。
アンの顔が見えなくなっても、男たちは相変わらずの調子でテンポの良い応酬を繰り返していた。
これ幸いとアンはカウンターを抜け出して、フロアの片づけに取り掛かった。
フロアに残った客は随分と減り、空いている席が目立つ。
残った客は、いつもこの時間に新聞を読みにやってくるおじいさんと、工具店のオヤジとその娘婿。
新聞を読むじいさんはただ静かにそこにいるだけで、10時半になればきっかり店を出ていく。
工具店のオヤジと娘婿は話好きで、いつも話のネタが尽きるか当人たちが話疲れるまで店にいることが多い。
彼らは声が大きいので噂話には向かないが、男であるだけあってそうネクラな話題を繰り広げるわけでもないので、店に活気が出ていい、とアンたちは思っている。
彼らの話題はネタというより情報で、新聞を読まないアンの耳にいつも新しいニュースを届けてくれていた。
そして今日も彼らは話に高じているわけだが、その内容がふとアンの耳に触れたとき、つい一瞬テーブルを拭く動きを止めてしまった。
「一昨日、あっただろう、美術館に強盗が入ったって」
「あれだろう、なんとかって宝石が盗まれた」
「宝石でできたなんとかって飾りらしいがな、犯人、やっぱりアイツらしいぞ」
「オレもアイツだと思ってたっすよ。今回で3回目でしょ」
「警察は何やってんだか」
「なんでしたっけ、呼び名」
「アレだろう、『エース』」
「ああ、最初に盗みに入った銀行の金庫が“A”だったからっていうソレか」
「単純だな」
ハッハッハーと声を合わせて笑う二人は、血の繋がりがない割に随分似たような話し方をするもんだ、とアンはどこか遠くで思った。
話題の中心にいるはずの自分が、とても非現実的に思える。
そして心配すべきは自分の身であるはずなのに、なぜかそのときは彼らが言った「警察は何やってんだか」の言葉が引っ掛かり、思わずカウンターに座る二人の背中に視線を走らせてしまったその事実が、アンをやりきれない気分にさせた。
なんとかって宝石でできたなんとかって飾りは、このデリの上階で今も輝いているはずだ。
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