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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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入り組んだ入り江の端に船を泊めていた。
港町は酒盛りの時間を過ぎて静まり返っている。
散歩でも、という下心が見えるような見えないようなおれの言葉にナミさんはきまぐれに乗り、一緒に船を降りた。

しばらく海辺を歩くと、漁港らしい海産施設が見えなくなり、代わりに森というより雑木林のような木々が生い茂る一帯に行き着いた。
他愛無い話をしていたはずだ。
この間停泊した島でルフィが起こした珍騒動や、ウソップが釣り上げた奇妙な魚の調理法や、そんなことをかわるがわる話していた。

不意に彼女が足を止めた。
横を歩くおれの肩が彼女のそれに軽くぶつかり、「あ、ごめん」と反射で口にしかけたおれをきつく短い声が遮った。


「黙って」


彼女のその言葉に吸い込まれるように、静寂がすっと広がった。
風のない夜だ。
虫や鳥のささめく声がどこか遠くから聞こえるようでもあり、とても近くから感じるようでもある。
コップに入ったひたひたの水が表面張力でぷっくりと膨らんでいるときみたいな、妙な緊張感がナミさんからおれにダイレクトに伝わっていた。
そして、そのときに聞こえた。
ずっ、と何か大きく重たいものが短い距離を這うような音。
同時に、本当に小さく、がさっと葉や枝がこすれあった。
そして何より、押し殺したような息遣いがたしかに聞こえていた。

ナミさんは突然、猛然と走り出した。
暗闇を怖がりおれに半歩近く歩いていた彼女の姿は嘘のように、今はおれのことなど忘れて一目散に音のする方へと駆けていく。
牝鹿のように鋭い足音で走る彼女をおれもまた慌てて追いかける。
距離はたった50mほどだったと思う。彼女が立ち止まるのと、追いかけたおれが立ち止まるのはほとんど同時だった。

複雑に重なり合った背の低い木々の生い茂った茂みの中、うずくまる人の背中があった。
いや、うずくまるというより四つん這いになっている。
そして四つんばいになった脚の間から、また別の足が伸びていた。
半分欠けているとはいえ、月の光がその醜悪な光景をあきらかにしていた。

四つん這いになっているほうが、ハッとおれたちを振り返る。
二回りは歳が上だろうかという冴えない男のツラが光にさらされた。
そしてその隙間から、男の手が押しつぶすように小さな顔を覆っていた。
長い髪が四方に広がり乱れている。

男が何か言葉を発したり、ましてや逃げるようなそぶりをするよりもはやく、おれの右隣りで二回ほど金属が噛み合うような短い音が響いた。
ナミさんのサンダルがやわらかい海辺の土を削る。
コーラ瓶のようにくびれた腰を斜めにひねると、彼女の手にしたタクトは風を切ってあやまたず男の横っ面にめり込んだ。
男は声も出さずにただ鈍い音だけを立てて文字通り吹っ飛んだ。
素早くその身体をナミさんが追いかける。
ようやく「う」と一言男が呻いたところでまたもやタクトが男を襲った。
今度は腹を一突き。
男は身体をくの字に折り曲げ、うずくまるように座り込んだ。
そこをまた彼女のタクトは振り子のように大きなカーブを描いて男の頭頂部を殴りつける。

おれはその場から動くこともできず、ただひたすらタクトを的確に動かして男を殴りつけるナミさんの顔を見ていた。
健康的に焼けている肌が今ばかりは月の光に照らされ青白い陶器のようで、少しばかり歯を食いしばった真剣な顔は美しく、どこかでみた教会の女性像を思い出した。

そのとき、ハッと短い息遣いが耳に飛び込んできて、ようやくおれは倒れたままのもう一人の存在を思い出した。
見ると、襲われていた長い髪の持ち主はまだ年端もいかない少女で、彼女はボタンのないシャツを胸の前でかき寄せてずり下がった長いスカートをもう一方の手で必死に握りしめていた。
ああ、と思わず呻きながらジャケットを脱ぎ、細い肩にそれを羽織らせようと近づいた。
しかし少女は、短い悲鳴を上げて逃げるように後ずさる。
──おれが怖いのか。
ストレートにおれを拒絶した少女に、おれまでがひるみ手が止まってしまった。
助けを求めるようなつもりはなかったがおもわずナミさんの方を振り向くと、仁王立ちする彼女のタクトから細い針のような光が男に突き刺さり、男がビクッと大きく痙攣する。そしてそのまま動かなくなった。

戦闘のとき、大勢を相手に彼女が作り出す雷雲から降り注ぐような稲光は、浴びると強烈な電撃でその身体は黒く焼け焦げる程だった。
正直彼女がタクトを振りかざした後は身の毛もよだつような黒焦げの山ができあがり悲惨な光景になるが、今目の前で大きく身体を跳ねあげて動かなくなった男を少し荒くなった息を吐きながら見下ろす彼女の後姿の方が、ずっと背筋を冷たくするものがあった。

おもむろに振り向いたナミさんは、おれを見ることなく少女にまっすぐ視線を注いでずんずんと歩み寄ってきた。
おれの手からジャケットをもぎとると、風呂敷を広げるような仕草で少女を覆った。
片腕で小さな少女の肩を抱き、「サンジ君」と言う。


「あとお願い」
「──了解」


ふたりを残し、伸びた男の方へと近づく。
顔を覗き込むと、両頬は青く膨れ上がりまぶたも腫れて、さんざん彼女に殴られたひどいありさまのまま血の混じった液体を口の端から滴らせていた。
ちょい、と靴の先で脇腹をつつく。
触れたらおれまで感電しやしないかと少しびびったのだ。
どうやらその心配がないらしいので、手首を取って脈を確認した。

──ああ、こりゃ死にかけだ。

ということはまだ生きている。
ちらりと足の方に視線を走らせると、だらしなくベルトが緩みズボンのチャックが開いていた。

かわいそうに。
おれを見上げて引き攣った顔であとずさった少女の身体が、間に合ったのか間に合っていなかったのかはわからない。
種火から炎があがるときのようにひらっと怒りが立ち上がったが、天誅は十分彼女からくらっている。
おれは伸びた男の上体を起こすと、男を肩に担ぎあげて歩き出した。


5分も歩かないうちに、港町の入り口に辿りついた。
入り口にはアーチがあり、そのすぐ下に男を乱雑に振り落す。
町に入ってすぐのところに確か駐在所があった。そこの人間がいずれ男を見つけるだろう。
町のはずれでいやしく若い娘を襲っていた男だ、きっと前科か何かあるはずだ。
腹立ちまぎれに一蹴りしてやりたくなったが、馬鹿馬鹿しくて踵を返した。

振り返ると、ナミさんと、その横を頼りない足取りで歩く少女がおれのジャケットに腕を通さない状態できっちり前のボタンを留めているのが見えた。
少女が目の前に立つおれに気付くと、表情の薄い顔でナミさんを見上げ、ジャケットを脱ごうともがく。
おれは首を振り、「あげるよ」と言った。
少女は掬い上げるような目でおれを見上げ、ほんの少し頭を下げた。
そして、手のでないてるてる坊主のような格好のままおれの横を通り過ぎ、街へと走り去って行った。
ナミさんはとても静かな顔をして、その後ろ姿を黙って見送っていた。

彼女と向かい合う格好のまま、おれはどうしたもんかと空を見上げたが、どうしようもないので「帰ろうか」と声をかける。
ナミさんが小さく「うん」と答えてくれたことに、思いのほかほっとしていた。

船までの数分の距離を並んで歩いた。
ナミさんの足取りはいつもより少し遅く、おれはその風下側で煙草を咥えながら付いていく。
手を繋ごうかと考えたが、結局手を伸ばすことができないまま船についた。

タラップを上がったすぐそこにチョッパーがいて、おれより先に上がった彼女が驚いて名前を呼んでいた。
確か船を降りたのは日付が変わるころのはず、チョッパーにしては随分なよふかしだ。


「あれ、ナミ、サンジ」


寝ぼけ気味の声でチョッパーはおれらを見上げ、首をかしげる。


「どっか行ってたのか? さんぽ?」
「うん。チョッパーこそどうしたの」


ナミさんが尋ねると、チョッパーは大きな頭をふらふらと揺らしながら答えた。


「トイレに起きたんだ。ロビンが甘いワインをあっためてくれて……それ飲んだらしたくなちまって。部屋から出たら月が綺麗だったから、見てた」


そう、とナミさんがうなずく。


「うん、でももう寝るよ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」


ふらふらと蹄を振って、チョッパーはとことこ男部屋へと戻っていった。
チョッパーが去ると、まるで毒気が抜かれたような気分になってぬるい夜の空気が身体を弛緩させた。
ナミさんを見ると、彼女も同じようでおれと目が合うと少し口の端に笑みを見せた。


「何か飲む?」


尋ねると、特に考えた様子もなくナミさんは頷いた。
キッチンの扉を開けると甘いワインの香りが開いた扉から外へと溢れていった。
コンロにかけたままの鍋には、赤ワインが少し、ちょうど二人分は残っている。
おそらくロビンちゃんがおれたちが帰ってくることを見越して、少し多めに用意してくれていたのだろう。
彼女の気の利いた厚意に甘えておれは鍋に火をつけた。
ナミさんはカウンターの端の席に座り、ゆったりと肘をついている。
壁にかかったスパイスの瓶からクローブの実とシナモンを取り出し、小さく薄い布の袋に詰めて鍋に放り込んだ。
少し味見をすると、ワインのアルコールはほとんど飛んでいた。
チョッパーが飲んだのだからお子様仕様になっているのだろう。
おれはとても飲む気分ではなかったのでよかったが、一応ナミさんに確認するとかまわないと一言かえってきた。

ことことと、ワインが煮える音が足音のようにキッチンに響いた。
時折大きな波の音が覆い被さり、足元を揺さぶる。
ナミさんはその動きに身を任せるみたいに目を閉じていた。


「眠い?」
「──少し」


そっとナミさんが剥き出しの腕を擦った。


「寒い?」
「ううん、だいじょうぶ」


赤く染まったスパイスの袋を取り出し、ワインを鍋からカップに移しているとナミさんが立ち上がった。


「アクアリウムバーに行っててもいい?」
「いいよ。持っていくから先行ってる?」
「うん」


ナミさんがキッチンを出ると、すっと部屋の中が暗くなった気がした。
トレンチにカップを二つと、残しておいたおやつのクッキーを皿に移しておれも後を追った。

アクアリウムバーの中は水槽だけがぼんやりとした光に照らされて、青く染まっていた。
ソファにぽつんと座るナミさんまで全身が青く照らされ、水に溶けたように見える。
ワインのカップを差し出すと、ナミさんは慎重に両手で受け取った。


「おいしい。ワインの香りはするのに……アルコールの味がしない」
「あっためると随分飛んじまうからな。酒の方がよかった?」


ナミさんは悩まず首を振り、また一口カップに口を付けた。
隣に腰を下ろし、おれも熱いそれを口に含む。
とん、と肩に小さな重みが乗ったのは、黙って飲み始めて数分経った頃だった。


「殺しちゃうかと思った……」


ぽつりと零した物騒な言葉に、思わず笑いそうになるがぐっとこらえて飲み込んだ。


「自分のことでも、仲間のことでもないのにあんなに腹が立つなんて」
「おれがトドメ刺しといたほうが良かった?」
「ううん」


どうでもいい、とナミさんは呟く。
少し顔を傾けると、鼻先に彼女の頭頂部の髪が触れた。
おもいがけずといったふうにナミさんの濃い香りが鼻腔をくすぐった。


「サンジ君がいてくれてよかった……」


頬擦りをするように、ナミさんがおれの肩に頬を押し付けた。
その仕草を見て、彼女があんなありふれた犯罪を目の当たりにしてひどく傷ついているのだと気付き、驚いた。
知らないはずがない、海のほかにも、陸にも山にもどこにでもあんな暗く汚い場面があふれていることを。
でもおれは、それを知った頃の彼女にジャケットを掛けてあげることはできないのだ。
その代わり、カップを持たない方の手で彼女の背中側に腕を回し、指の腹で小さな頭を撫でた。
おれの肩に頭を預けていた彼女が、おもいだしたようにカップを口に運び、ホットワインを飲む。
それを繰り返し、彼女が「美味しい」と呟くたびに生きた心地とでもいうべき温かい血が足の先まで広がる感じがした。
そして彼女が少しでも明日に傷つかないように、おれはメシを作り続けるんだろうと思った。

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*現パロ注意です

















10本の細長い指がキーボードの上をしなやかに踊る。
そのたびに整った爪がぱちぱちと、真剣な顔でモニターを睨む彼女のまなざしとそのコミカルな音は不似合いだった。
音を立てないよう、そっとソーサーを狭いテーブルの端に置く。
音を立てようが立てまいが、彼女の視界に入ってしまえば気付かれることはわかっていたがそれでもいらぬ気遣いとばかりに丁重な仕草で腕を動かした。
ぱっと顔を上げたナミさんは、近くのモニターを見ていたせいか少し焦点の合わない顔でおれを見上げた。
あぁ、というふうなため息をついてコーヒーカップに目を落とす。


「ありがとう」
「すっげ集中してたね。忙しい?」
「うん、年度末だし。でもサンジ君も」
「おれぁ年度末とか関係ねェけどよ」


ざわめく店内はいつもに増して人の出入りが多い。
近くでなにかコンサートイベントが行われているらしく、その待ち合わせをする客や終わった後の一服をする客で店は朝からはやっていた。
ナミさんは仕事の書類を雑な手つきでテーブルの片隅に寄せ、コーヒーカップに手を伸ばす。
中身に少し目を落とし、口をつける。
眉間のあたりから上唇までカップが落とした影を見るのがおれは好きだった。
カップから口を離したナミさんが中身を検分するように覗き見て、おれを見上げる。


「キャラメルマキアート?」
「ご名答。煮詰まってんじゃねぇかなって」


常連と言うべき頻度で来てくれる彼女に給仕するものは、その日のおすすめ。
それがいつのころからか、おれが彼女を見てその気分を憶測し、勝手にメニューを決めるようになった。
ナミさんは文句を言うどころか、それを楽しんでいてくれる。
暑い日差しの日にはさっぱりとしたオレンジソーダ。
肌寒い秋の夕暮れには温かいミルクたっぷりのチャイにシナモンを散らして。
そして時折ここで仕事を片づけるナミさんの表情が穏やかでなくなってきたなら、心ほぐすような甘いモカコーヒーにクッキーなんかを付けて。
ナミさんはもう一口カップを傾けて、息をついた。


「──おいし」
「そりゃよかった。腹減ってねェ?」
「うん。それよりサンジ君、いい加減戻らないと」


ナミさんがおれの肩越しにデシャップの方を見遣る。
きっとカウンターやパーテーションの向こう側でパティやカルネが、殺人犯の目をしておれを睨んでいるのだろう。
ひょいと肩をすくめて「そうだな」と言ってから、思い出したような口ぶりで──それを装って、「そういえばナミさん」と口を開いた。


「明日も仕事なんだっけ?」
「うん」
「忙しそうだけど、帰りは遅ェの?」
「んー、残業すれば20時は回るけど……だらだら仕事してるの好きじゃないから、何もなければいつもどおり18時には帰るんじゃないかな。なんで?」


意図するもののない素朴な疑問が、最後にくっついてくるだろうことは予測済みだった。
「いんや」と軽い口調で首を振って笑う。


「日が落ちるの遅くなってきたとはいえ、忙しくて残業が多いんじゃ夜道帰るのあぶねぇんじゃねぇかなって思って」


サンジ! とついに爆発した声が鋭くおれを呼んだ。
おれは振り向くのも億劫でハイハイと手を振り、あらためてナミさんに向き直る。


「ゆっくりしてって」
「ん、ありがと」


名残惜しく彼女を最後まで視界の中にとどめておいてから、おれは足早にホールを横切って戦場のようなデシャップに滑り込んだ。


──明日、明日。
彼女に食ってほしいショコラとオレンジのケーキはうまい具合に焼き上がった。
丁寧に箱に詰め、想いを込めたカードも差し、ふたをする。
彼女の家は共通の友人に教えてもらった。
ストーカーにでもなるんじゃないかと気味悪がるそいつを宥めるのにひと手間あったが、あのとき聞いておいて本当に良かった。
彼女の家へ行く途中にたしかちいさな花屋があったはずだ。そこで何か彼女に似合う花を買おう。そんで贈ろう。
おれにとっての彼女はただの常連客の一人からさっさとランクアップして、いまや世界にただ一人おれのために現れたレディとしか考えられないが、はたして彼女にとってのおれはいかに。
ただのよく行く店の店員から、なんらかのランクアップははたしているだろうか。
そのあたりのことは何ひとつわからないが、ただひとつ言えるのは、明日──それはおれの誕生日であったりもするのだが──彼女に思いを伝えたい。

わざわざ自分の誕生日にしゃちほこばって告白しに行くなど格好悪いことこの上ないが、その日が誕生日だったことなんて後から気付いた。
たまたまその前日が普段の定休日だったのに、結婚式の二次会の貸切予約があったため営業することになって、代わりに次の日を休みに──ということはせず、閉店を早めることとなった。
ナミさんの都合はいま聞いた。
店を閉めてから急げば、彼女の帰宅に合わせて家の前で待つことができるはずだ。
勝率は正直さっぱりわからん。
なにしろおれは彼女と店以外でほとんどあったことがないのだ。
当たって砕けろと叫ぶおれと同時に、いや砕けてたまるかと足を突っ張るおれがいる。
なんにせよどうなることか予測がつかない賭けみたいな告白に、気持ちが昂ぶって前日眠れないことは請け合いだった。





片手にぶら下げた紙袋を見下ろして、早まったかなあと何度も立ち止まりかけ、そのたびにもう買っちゃったんだから、と自分を鼓舞して足を進めた。

定時を過ぎ、だらだらと残業に突入する同僚や上司に「お先っ」と声をかけ、要らない仕事を持ち込まれる前にさっさと退社した。
会社から家まで徒歩20分ほどの道のり、その道中によく行くカフェレストランがある。
最近はやりのお洒落な店内、どこの国のものかわからない音楽に、無秩序な植物が並べられているようなよくあるカフェとは違って、きちんとした服を着ていきたくなるような小奇麗な店だ。
店内には控えめなジャズピアノが流れ、昼時はコーヒーの香りが店の外にまでほろほろとこぼれ出ている。
こんなお店あったんだ、と初めて立ち寄ってからすっかりお馴染みになってしまった。
コーヒーが美味しいのはもちろんのこと、料理もはやりのカフェごはんとはちがって味がぼんやりしていない。
素材の味がしっかりと個性を主張しながらも、作った人の技量が感じられる繊細な味つけは私をぞっこんにした。
そしてその店にいるひとりの店員。
私が来店するたびに目を細めて笑うその穏やかな雰囲気は、いつしか行くたびに目で探すようになった。
気まぐれで「おすすめは?」と尋ねた日から、ドリンクのオーダーは彼に任せている。
気持ちにぴったり寄り添った飲み物が出てくるときもあれば、うーんイマイチというときもあり、どちらにせよそれが面白くてたのしかった。
何度か行くうちに私たちに共通の友人がいることが分かり、先日その友人から彼の誕生日を聞いた。
何の話の流れだったのか思い出せないが、ふーんと気のない相槌を打ちながらもその日付はしっかり私の脳裏に刻みこまれていた。

そして今日も帰り道に彼の店の前を通り過ぎる。
広いガラス窓から中の様子が見えた。
そろそろディナーメニューが始まる時間だが、いつもより客が少ないように見える。
少し閑散とした店内をスーツ姿が一瞬横切り、彼だと分かった。
彼の店を通り過ぎ、誕生日だという友人の声が耳の奥で控えめに響く。
顔見知りだもん、ちょっとした誕生日プレゼントくらい、渡してもいいはずだ。
帰り道に小さな紳士服のセレクトショップがあり、心当たりのままにふらっと入店。
そのままなんとなくネクタイを買った。
「贈り物ですか?」と訊かれてはいと答えれば、「メッセージカードを付けましょうか」と言われたので提示されるがまま、ハッピーバースデーのカードを入れてもらった。

そして今、彼の店まで徒歩3分ほどのところを歩いている。
店に入ってコーヒーでも飲みながら、仕事終わりをまとうか。
それともさっさと渡して帰ってきた方が迷惑にならないだろうか。
でも仕事中にこんなものを押し付けたらどちらにせよ困らせるのかもしれない。
彼のことだ、きっと喜んで受け取ってくれるだろうけど、もしそれがサービス精神から来るものだったりしたら──

考えているうちに店の前についてしまった。
まだちらほら客の姿は見えるが、やっぱりその数は落ち着いている。
とりあえず店の横の壁に背を向ける形で立って、しばらく様子を見ることにした。
ちらりと店内を覗くが、彼の姿はない。
厨房に引っ込んでしまったのかな、と考えて、腕時計に目を落とす。
18時少し前。
閉店する時間まではとても待っていられないけれど、もう少し店が混んでくる時間になったら、他の客に紛れて入ってさっさと渡して帰ればいい。
迷惑だとかは考えてもきりがないので、このさい考えないことにした。
3月とはいえ初旬の夜はまだまだ冬だ。
冷え込んできた夜の空気に首をすくめたまま、早く次の客がこないかなあとぼんやり行きかう人の姿を眺めていた。




17時半にラストオーダーを聞いて、closeの看板をかかげた。
18時まで最後のお客には店内で過ごしてもらえるが、おれは早々と引っ込んで慌ただしく片付けに入る。
「やけに急いでんじゃねェか」と不良コックどもが野次を飛ばすがかまっていられない。
誕生日なんて生易しい理由で手を抜くことの許されない仕事場だ。わかっているけどどうしても急ぐ手が雑になる。
余った食材の保存を済ませると、おれは逃げるように裏へと引っ込んだ。
後は頼むという無言のメッセージを残したが、訊いてもらえるかどうかはわからない。
きっと明日中チクチク嫌味を言われるに違いない。
だがそんなことはどうでもよかった。
なんとしてでもナミさんの帰宅に合わせて、待ち伏せといえば聞こえが悪いがとにかく彼女を待ちたい。
まな板に載せられた活きエビのように飛び跳ねながらスーツを脱ぎ、乱暴にロッカーに押し込んで私服を身に付ける。
手で皺を伸ばし、埃を払い、財布やらなんやらをポケットに突っ込んで裏口から飛び出した。
時計に目を走らせると、17時半を10分ほど過ぎたばかり。
もう慌てなくてもよさそうだと、おれは足を緩めて、それでも気が急いて早足で彼女の家へと向かった。
手には店の冷蔵庫から出してきたケーキの箱を持っていることだし、慎重に歩くことも忘れず、途中で予定通り小さな花屋に立ち寄る。
黒髪が魅力的なレディが花を選んでくれた。
オレンジ色の細かい花弁がナミさんによく似合う。
花束を作りながら、花屋の店主らしい彼女がおれの意気込みを知ってか知らずか「うまくいくといいわね」と背中を押してくれた。
そこから歩いてさらに10分。
小さなアパートに彼女は一人暮らしだ。
時計を見ると18時少し前、多分まだ彼女は帰っていない、はずだ。たぶん。
帰っていたらどうしようと、とたんに落ち着かない気持ちになって意味もなく辺りを見渡した。
彼女の部屋番号までは知らない、ここで待ち伏せする以外おれになすすべはない。
仕方なく、近くの植え込みを囲う石段の上に腰を下ろして彼女を待つことにした。
きっと大丈夫だ、彼女は今帰り道を歩いている頃だろう。
店に来てくれる彼女の退社時間を考えれば、それが妥当だ。

思えばおれはナミさんの電話番号も、メールアドレスも知らない。
本当はこんな強行突破に出る前にデートに誘いたかったが、土日が休みの彼女を誘うにはおれの都合がつかなかった。
急な告白に彼女は戸惑うだろう。いきなりOKをもらえるとは思っていない。
でも彼女が少しでもおれを憎からず思っていてくれるなら、きちんとデートの約束を取り付けて、そこからゆっくり仲を深めて行けるはずだ。
3階建てのアパートを見上げ、彼女の部屋はどれだろうと考えても仕方ない思いを巡らす。
ここで寝起きをし、飯を食い、毎日懸命に会社に勤める彼女の小さな背中を思うだけで思わず顔をしかめてしまうほど甘酸っぱい何かが喉元までせり上がる。
我ながらアホらしいと思うが、仕方がない。これが恋と言うやつだ。
聡明な彼女は、ここで待つおれを簡単に家に上げたりしないだろう。
おれだって一人暮らしのレディの家にそうやすやすとお邪魔すべきではないと心得ている。
心得ているが、入りたい。
よかったら夕飯作ろうか、なんて。
狭い2コンロのキッチンでおれがフライパンをふるい、わずか数畳の部屋でナミさんがお腹を減らして待っている。
温まった食べ物のにおいが部屋に充満し、ナミさんが「できた?」と嬉しそうに様子を見に来る。
2枚の皿に料理を盛り付け、それをテーブルまで運んで、おれたちは同時に箸をつける。
「やっぱりサンジ君のごはんはおいしいわね」なんつって──

夢いっぱいの妄想から目が覚めたとき、時計を確かめたら18時半を回っていた。
いつのまにかずいぶん時間が経っている。そして彼女の帰りが遅い。
薄い彼女の髪色に染まっていた空は、いつの間にか暖色の気配すらなくとっぷりと闇にのみこまれている。
アパート前の街灯がちらちらと明滅する。
もしかしたら残業することになったのかもしれない。
何時になったっていい、彼女が帰ってくるまで待つ腹積もりだ。
ナミさんのことを考えていれば、時間なんてあっという間に過ぎていく。
おれはコートのチャックを一番上まで引き上げ、ポケットに手を突っ込んで再び空想の世界へと飛び込んだ。







店の中から伸びていた光が、瞬きした次の瞬間には掻き消えていた。
驚いて店を振り返ると、店内はすっかり照明を落とされて中で数人が動いている気配があるだけだ。
どういうことかさっぱりわからず店の前で立ち尽くす私は、そこにcloseの看板が下げられているのが薄暗がりの中目に留まった。
腕時計を確認するが、まだ18時を過ぎたばかりだ。
なんで、どうして閉まっちゃってるの。
道理で随分客が少ないはずだ。今日は臨時営業か何かだったのかもしれない。


「そんな……」


情けない声がぽとんと落ちた。
急に恥ずかしさに似た感情がこみあげてきて、唇を引き結ぶ。
──私、ばかみたい。

でも、サンジ君、仕事が終わったらもうすぐ帰るんじゃない?
もう少し待っていたら、出てくるかもしれない。
それでも店の玄関はふつうスタッフの出入りに使わない。裏口から帰ってしまうだろう。
どうしよう、入ってみようか。
立ち尽くした私を訝しんだ店員の一人が、中から歩み寄ってきた。
私が気付くよりも早く扉をあけられてしまう。
カフェレストランの店員というからにはサンジ君のような若い人なのかと思いきや、出て来たのがひげの青いおじさんだったので目を丸くしてしまった。


「やーすいません、昨日臨時営業したもんでね、今日は早く閉まるんです」
「あ、あの、サンジ君は?」
「サンジ?」


コック服の彼は少し身を引いて、私の全身を眺めてからなぜかゴホンと咳ばらいをした。


「サンジのお知り合いかなにかかな?」
「えぇ、まあ」
「アイツはラストオーダー終わった途端すっとんで帰っちまいやがったんですわ」
「あ、そう……」


悪いねと何度も頭を下げて、強面だけど愛想のいいその人は店の中へと引っ込んでいった。
いつも温かい光の洩れる店の入り口は、今日はうそみたいにそら寒い。
踵を返して家路をたどると、足元をすくうみたいに冷たい風が吹いた。

誕生日だものね、と自分自身に頷いた。
急いでいたなら、何か約束があったのだろう。
誕生日だもん、とまた言い聞かせる。
仕事のバッグとは逆の手に提げた紙袋の中を、からからとネクタイの箱が転がる。
これ、どうしよう。
明日にでも「そういえば誕生日だったんだって?」みたいなふうにして渡そうか。
それにしてはネクタイって、手軽に用意したにしては随分カタイ贈り物じゃないだろうか。
なんでこんなもの買っちゃったんだろう。

大通りの角を曲がり、住宅の並ぶ横道に入る。
街灯があかるくて、健全な雰囲気がよくてこの場所を選んだ。
それにしても私は、彼にどんな顔で誕生日プレゼントを渡すつもりだったのか、今考えると自分がまったく考えなしだったことに思い当りお腹のあたりがすっと冷えた。
思いつきで、ただサンジ君が誕生日なら私も何か贈りたいと、ただそれだけで動いていたのだ。
──失敗してよかったのかも。
胸のうちで呟いて、それが空しく自分を慰めるだけのことばだということが痛いくらいに沁みた。

本当は会いたかった。
会って、プレゼントを渡して、驚いたり喜んだりする顔が見たかった。

アパートの駐車場を照らす街灯が、ぱちぱちと光ったり消えたりを繰り返しているのが遠目に見えた。
今から一人夕飯の支度をすることを思うとたまらなく億劫だ。
やっぱりどこかで食べてこればよかった。
そう考えると頭の中は最近食べた美味しいものの記憶をさらいだしてきて、それらはあますことなくサンジ君とつながってますますげんなりした。
追い打ちを立てるように胃がくるくると動き、私にしか聞こえない音で呻く。

オートロックの玄関が見えてきて、カバンから小さなキーホルダーがついた鍵を指先に引っかけて取り出した。
鍵がぶつかりあって奏でるちゃらちゃらとした軽率な音に歩幅を合わせて歩いてみると、重たい足が少し楽になる気がする。
カコンとネクタイの箱が紙袋の中で音を立てたとき、すぐ横の植え込みに座り込んでいた人がすっくと立ち上がり、まったく意識の範疇になかったその動きに私は飛び上がるほどびっくりしてしまった。


「ナミさん」





シャンッと軽い金属の音がめくるめくふたりの世界からおれを引き戻した。
顔を上げたその目の前を、待ちに待った彼女がいままさに通り過ぎていく。
頭よりも心よりも、身体が一番速かった。
突然立ち上がったおれに、ナミさんがびくっと身をすくめて素早くこちらを振り返る。
名前を呼ぶと、いつも以上に丸くなった目がすっとおれを捉え、「あ」の形に口が開く。

さあ、言え、彼女に考える隙を与えるな。


「ナミさんおれ」


きみが好きだ。
どんっと胸にこぶしが刺さって「うっ」と情けない呻き声が漏れたことによって、その言葉は途中で掻き消えた。
同時にぽすんと何か軽いものがこぶしの下に当たる。


「え?」


俯く彼女の顔は見えないが、何か差し出されている。
真下を覗くと、紙袋の中にころんと小さな箱が見えた。


「おめでとう」
「え?」
「誕生日」


ナミさんはもう一度押し付けるように、紙袋を持ったこぶしでおれの胸をとんと叩く。


「──早く受け取りなさいよ」
「えっ、あ、ありがと」


両手で紙袋を持ち上げると、ナミさんは逃げるようにさっと一歩後ろに下がって少し顔を上げた。
怒ってるみたいに口を引き結んでいる。
寒いのか、街灯に照らされた鼻が少し赤い。
こころなしか耳も。


「おなかすいた」


怒ってるみたいな口もとのまま、ナミさんがつぶやく。


「え、あ、じゃあ、ごはん作ろうか」
「うん」


口から滑り出たことばに、ナミさんが驚くほどの素直さで頷いた。
そのまま早足でアパートまで歩いていく彼女の背中を一瞬遅れて追いかける。

──そんなことよりおれの告白聞こえてた?
食事のあとそう尋ねたら、ナミさんは「聞いてない」と不自然に目を逸らした。




15/03/02 Sanji Happy Birthday!!

拍手[34回]

何回いくねん、て話ですがシンガポール行ってきました。
初シンガ。
8メートルの有名な水を吐くマーライオンとセントーサ島の37メートルのマーライオンに、マリーナベイサンズにスーパーツリーにチャイナタウンにリトルインディアに、チリクラブを食べシンガポールスリングを飲み、初心者ゆえガイドブックに載っているところあらかたまわりましたー。

しかも今回は、なんと海外旅行初めての相方を連れての旅行。
荷造りの際に「パスポートはスーツケースにいれる?」と言ったり
機内食にやたら感動したり
「英語で言ってみる」と意気込んで私が教えたとおりの英語を言おうとしたら普通に「レギュラーサイズひとつ」って言ったり。
まあ面白かったです。

ひとつひとつピックアップしたら、面白いこともやさしい人もいろいろ遭遇しましたが、
全体的に抱いた感想は「潔癖すぎるなー」と言うかんじでした。
シンガポールはとてもきれいで、街並みやビル群は先日行った東京ととても似ていて
なによりトイレが日本並みに綺麗なところが一番びっくりしました。
もちろん汚いとこもあったけど。
言い換えれば、シンガポールらしさってなんだろな~とずっと考えてました。
移民の国ゆえ、中国系にインド系に中東系に日系、ほんっとにいろんな国の人がいてそこに観光客が混じっているので国籍に関しては超無秩序。
だからこそ、素敵な国にしよう綺麗な国にしよう! と頑張って頑張っていろんな国が手を差し伸べて出来上がったのがシンガポールで、それはそれで面白くて楽しい素敵な国だと思うのですが、私には何か物足りなかったです。
チャイナタウンに中華!リトルインディアにインド!大都会はワールドワイドに!みたいな境目がはっきりしていたからかな~と思います。

とはいえ食べ物はとてもおいしかったし、なにより清潔なのがうれしかったです。
相方も言っていましたが、かなり初心者にやさしい国だと思いました。
海外初めて行くの!という方におすすめかもしれませぬ。

そしてそんな私は来週の月曜からハワイに行きます。
いえーーいハワイだいすきーーー大学で4年間研究テーマにするくらいだいすきです。
もうハワイは何度目になるかわかりませんが、今回は友人と3人で行ってきます。
なにするって、とりあえず友人が行きたいところについて行ってダイアモンドヘッドには今回も登りたいなと思ってます。


イェイェイ♪(合いの手)


シンガポールの帰りの飛行機に乗るべくチャンギ空港に向かうバスの中、ぼーっと景色をみつめていたときに思いついた妄想をお話にして、サンナミ更新しました。
タイトル長くてすんません。
なんとなくタイトルは日本語がすきなんですが、いつも悩みます。

サンナミ二人の言葉が通じなかったら面白いかなー面白いよなーという思いつきでした。
設定はおだっちの回答を参考にして、サンジをフランス、ナミさんをスウェーデン出身に。
始めはシンガポールを舞台にする気はあんまりなくて、書きはじめまたらなんとなくつい最近見た景色をなぞっていたので、やんわりとシンガポールの雰囲気があるようなないような。
それくらいの気持ちで読んでいただけたらなあと思います。


で!
twitterで私がフォロワーさんのRTかなんかでお見かけしてフォローさせていただいて一方的に素敵!!かわいい!!と思っていたイラストを描かれる方がおりまして。
そのゆーこ様が、このサンナミを更新した翌日、拙作を読んでそのワンシーンをイラストにしてくださいましたウ、ウワァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
許可をいただいて小説ページの最後にも掲載させていただきましたが、ここにも載せちゃう。



かーーばーーいーーいーーー(滂沱)
二人の格好がね!南国の観光客然とした二人の若者ファッションがかわいすぎてまず感動しました!
ナミさんはシンプルで着る人が着ればボーイッシュにさえ見えるファッションでもかわいく着こなしちゃうのでTシャツ短パンがよく似合ってるんですが、リボンと裏地にヒョウ柄があしらわれたハットがお洒落でカンワイイじゃあありませんか!!
あとよく見て!見て!!(うるさい)
ナミさんがぶら下げたカメラに、財布を入れてるらしき小さなバッグ、左手に握るメモ(サンジに手渡されたやつ)、サンジの胸ポケットのメモ帳とペン!
話の中で用いられてる小物がいたるところでちりばめられていて、アアアアアアアアアアア
もう、めっちゃくちゃ嬉しかったですごめんなさいね私だけ興奮してて!!!!
最後のサンジの悪戯キスのシーンを切り取って下さったのもうれしかた。
あとナミさんの髪色がとっても綺麗で、そこもお気に入りなのです~
何度も見ちゃうチラッチラッ

ゆーこさんのイラストは二人が身近に感じられるようなあったかテイストで、そのくせサンナミはしっかりイチャイチャしてて、正直クソ萌えます(まがお)
ほんっとうにありがとうございました!!

拍手[3回]

肩と肩がぶつかっても振り向きもしないくらい、人と人の距離が近い。
オレンジ色のライトがそこら中から煌々と光っているにもかかわらず中は薄暗く、そのくせばかみたいにさわがしい。
人の声はもちろんのこと、熱したフライパンの上で野菜がいためられる音やお金を受け渡す無機質な音がごちゃまぜになって、あちこちから飛び込んでくる。
取り出した財布を小さなカバンの奥にしっかりと押し込み、注意深くカバンのチャックを閉めた。
両手でつかんだトレンチの上からは湯気と一緒に慣れないスパイスの香り。
フードコートの席はどこもいっぱいで、失敗したなあと思う。
ひとりなんだからどこかにもぐりこめないものかと、トレンチを抱えたままうろうろしてみるが、ただでさえ飽和しているフードコートに空いている席は見当たらなかった。
空いてるかと思えばいったいここで何が起こったのかと言うくらい凄惨と机が汚れていたりして、座ることができない。
すっかり途方に暮れて立ちつくしていたとき、視線がぶつかったのが彼だった。
この国では珍しい、金髪と碧眼が薄暗がりの中でもよく光っていた。
私が気付くよりも早くこちらに気付いていたようで、私と目が合うとすぐにさっと席を詰めて椅子においていた荷物を足元に下ろし、自分の隣にスペースを作ってくれた。
あ、と私が彼の意図に気付くより早く、彼はおいでと手招きをする。
ぼけっとしていたらその席もとられてしまう。彼の厚意に甘えるつもりで、私は彼に向かって人波を縫って歩いた。


「ありがとう」


そう言うと、彼はにっこり笑って柔らかな目をこちらに向けた。
彼はまだ食事中のようで、テーブルには食べかけの麺にフォークを浮かべていた。


「どこにも席がなくて、助かったわ」


たいして聞かせるつもりもなくそう口にしたが、彼から何も返事がないので私のことばだけが宙に浮かんでしまう。
ちらりと隣を見遣ると、彼はほんのり困った顔で私を見ていたので、そこでようやく思い当った。


「もしかして、英語わからない?」


ますます困り顔で首を傾げられ、あぁと私も眉根を寄せた。


「ええと、英語、ダメ?」


簡単な単語だけを並べて口にすると彼の顔がぱあっと明るくなり、「そうなんだそうなんだ、ごめん」と片言の英語で彼が叫ぶ。
気にしないでと首を振って、私は自分の食事に取り掛かった。
どうやら私と同じ旅行者のようだが、同伴者の姿は見当たらないしそのうえこの国の公用語である英語も簡単な単語でしか理解できないみたいだ。
ずいぶんチャレンジャーだなと思いながら、私も異国の料理を口にした。
スパイスがずいぶんきついし少し油っぽいが、そう言うものだと思えばそれなりにおいしかった。

食事が終わるころ、ふと視界にまだ彼の存在を感じた。
この込み合ったフードコートでずいぶんゆっくりするんだなと思ったとき、そっと窺うように声がかけられた。
顔を上げると、少し控えめに笑う彼がこちらを見ている。
彼の口からゆっくりとどこかの国の言葉がこぼれ出たが、当然それは私の国のものでもなくこの国のものでもなく、何を言っているのかちっともわからない。
もしかして私が理解できるかもしれないと思って話しかけたのだろうが、残念ながらさっぱりだ。
私が曖昧に首をかしげると、しょげたように目を伏せたが、すぐにまた意味もなくにこにこと笑いだした。
あんまりこちらを見てにこにこしているので、何か話さなければならないような気がしてしまい、私は「ええと」と口を開いた。


「どこから来たの?」


んっと目を細くして、彼は一本の指を目の前にかざした。「もういっかい」ということらしい。


「あなたは、どこから、来たの?」
「ああ、えぇと、フランス」
「へぇ、いいわね」


なるほどさっきの言葉はフランス語だったわけか。
彼が「君は?」と言うように私を指差した。


「私? スウェーデン」
「スウェーデン?」
「そう、スウェーデン。知らない?」


彼の国のことばとスウェーデンと言う英語の響きは遠いのだろうか、結局彼はスウェーデンがどこか理解してくれなかったが、お得意の笑顔でごまかそうとするので思わず笑ってしまった。
すると彼は私を指差して、首をかしげながらたどたどしく「ナマエは?」と尋ねる。


「ナミよ」


「ナミさん」と呟いた後、彼は自分を指差して「サンジ」と名乗った。


「サンジ君?」
「そう」
「いい名前ね」


なんとなく意味が分かったのだろう、彼は英語で「アリガトウ」と口にして、それから「キミも」と笑った。


相変わらずフードコートは混んでいるし騒がしいので、私は次の行き先をどうしようかとカバンからガイドブックを取り出した。
サンジ君は相変わらず隣に座ったまま私の様子を眺めている。
ひとまず気にしないことにして、私は目についたメジャーな観光地に行こうと決めた。

とんとんと細長い指がテーブルを叩いたとき、私は行き方を調べていた地図から視線を上げた。
サンジ君は私が手にしたガイドブックのページを指差し、それから私を指差し、「ココいく?」と尋ねる。


「うん。そのつもり」
「おれ、行った」


片言と共に自分とガイドブックを交互に指差す彼はなぜか必死な表情で、思わずこちらの顔も硬くなる。


「そうなの」
「おれ、キミ、ガイド」
「ガイド? 案内してくれるって言うの?」


私に意味が通じたのがよほどうれしいのか、ぶんぶん首を振って彼は親指まで立てた。
しかし私は俯いて考えてしまう。

知らない国で行き方も怪しい場所に一人で行くよりは、案内してくれる人がいればスムーズだし時間もお金も節約できるだろう。
ただそもそも彼自体が今出会ったばかりで怪しいのかどうかもわからない。健全な女の子ならついていくべきじゃない。ひとりであれこれ試行錯誤する旅も嫌いじゃないのだ。
それに彼とは言葉もろくに通じないのだから、会話が弾むとは思えない。
むしろ私は大学である程度英語を学んでいるから英語が公用語のこの国で特に不自由することなく一人旅を楽しめているが、彼の方が通訳が必要なのではないだろうか。

私が悩んでいるのを不安そうに眺めていた彼が、急に私を指差し、自分を指差し、ガイドブックを指差し、両手の人差し指と中指をテーブルに立たせてとことこと並んで歩かせ、「グッドグッド! タノシイ!」と怪しいことこの上ない誘い文句を言い放った。
その仕草と言葉に気が抜けて、というよりそう言ってにこにこする彼がどうしても悪い奴には見えなくて、私は「仕方ないなぁ」と吹き出した。
一人旅も4日目になり、私もそろそろ喋り相手が欲しかったのかもしれない。







今まで後悔というものを人より少なく経験してきたつもりのおれが、いま人生で最大の紅海にさいなまれている。
高校生にのおれを捕まえて襟首掴みあげ眉間をかち合わせてこう言ってやりたい。
「とにかく英語をがんばれ」と。

当時のおれは勉強なんてつゆほどもできず、頭の中はどうしたらジジイを唸らせることができるかや隣のカワイコちゃんをデートに誘えるかでいっぱいだった。
大学に進学するつもりはさらさらなく、卒業後はすぐにジジイのもとで料理の修行をした。
数年専門学校に放り込まれたこともあった。
周りは同じく料理で頭がいっぱいのやつばかりで、いわゆる学才とは程遠い場所にいたおれが自国のことば以外を操れるはずもなく今に至る。
今はジジイの店で働いているが、数週間前知人に料理のコンペへ誘われて、ジジイは遠い街に一人遠征に出かけてしまった。
そのため店は急きょ臨時休業となり、店のやつらはジジイの都合に振り回される形で突如として長期休暇を得ることとなった。
もれなくおれもである。
どうしたものかとふんわり考えた結果、海外旅行でもしてみるかとふんわり思いついた。
その日のうちに航空券とホテルを予約し、次の日には飛行機に乗っていた。
アジアの小さな島だ。
ただおれにとってはどこであれ、自分の国ではないということが全て新鮮だった。
英語を話すことができないおれのコミュニケーションツールは身振り手振りで、実際きちんと意思疎通ができているのかは怪しいもんだが、わからないなりにニコニコしていれば相手も悪い気分にはならないだろうと、始終ニコニコしていた。
するとやっぱりなんとかなるもんで、その小さな国の人たちは快くおれを受け入れてくれた、ような気がした。

旅が5日目に差し掛かった日、もう何度目かになるフードコートで、何度目かになるスープに浮かんだ麺をフォークに絡めていたとき彼女を見つけた。
メシを買ったはいいものの座る場所がなく困っているらしい彼女は、一人旅らしく小さくまとめた荷物を肩から下げて、首からカメラを垂らしていた。
その困って眉を寄せた表情のなんと美しいことか。
しばし呆然としてから、おれは急いで自分の隣に無理やりスペースを作った。
隣の席のヤツが急に席を詰めたおれを嫌そうにちらりと見たが、構ってられるもんか。
思惑通り隣にやってきた彼女は、流暢な英語で礼を言い、それからまた何か英語で呟いた。
だがなんと言ったのかわからない。
答えないおれを訝しがるように窺った彼女は、すぐにおれが英語のできないやつだと気付いたらしい。
勘も冴えていて頭がいい。ますます惹かれた。
食事を始めた彼女を、失礼にならない程度、存分に眺めた。
おれの視線に気付いた彼女は、おずおずと話しかけてくれる。
そのことに舞い上がりかけたが、簡単な英語にもかかわらず聞き返さないと理解できない自分が情けない。
彼女の出身は聞いたことのない国だった。
というより英語名だったので、どこのことだかわからなかった。
随分うまく英語を操るので英語を母国語とする国からやって来たのかと思いきや、どうやらそうではないらしい。
次の行先を考え始めたらしい彼女──ナミさんと言った──は、きっとそのうち席を立って行ってしまう。
小さな国とはいえ、このフードコートでさえこの人ごみだ。きっともう会えない。
そう思うとはやるように頭が空回りし、必死で彼女と一緒に行きたい旨を身振り手振りと片言で伝えた。
滑稽なほど必死なおれに彼女はついに吹き出して、首を縦に振る。
両手を突き上げて快哉を叫びたいのを、おれは歯を噛みしめて耐えた。


雨季の南国はカッと空が晴れているかと思えば、急に分厚い雲がどこからともなく現れて、バケツをひっくり返したような雨を降らせた。
フードコートを出たときはさんさんと照っていた日が陰る一瞬前、ナミさんは何か呟いて、おれを店の軒下へと誘った。
見たい店でもあるのかとのんきに後をついていったおれが屋根の下に入った瞬間、急に鋭い風が吹き始める。
なにごとかと空を見上げたら、黙々と黒い雲がやってきて1分もしないうちにスコールが始まった。
驚いて彼女を見下ろすと、ナミさんはなんでもない顔で「雨宿りしましょ」と言った、のだと思う。

雨が止んでまた歩き出した時、おれは必死で彼女とコミュニケーションを取ろうと知っている単語を無茶苦茶に並べて質問をつらねた。
年はいくつ、仕事はなに、ここにどれくらいいるの、どうして来たの、いつまでいるの。
ナミさんはゆっくりと、口を大きく開けてはっきりした発音で答えてくれた。
年はおれの一つ下、まだ学生で、ここは4日目。今は大学が春休みで、母国はとても寒いから南国に来たかった。そして帰るのは明日だと。
随分帰るのが早いなと言いたかったのだが、なんというのかわからず諦めた。
しかし彼女はおれの訊きたいことを読み取ったかのように、「何日もホテルに泊まるお金もないから」と付け足した、のだと思う。

言葉が通じないのは不便だ。
だがそのぶん、彼女が何を言っているのか読み取ろうと懸命にその表情をみつめることができたし、おれのためにゆっくり発音してくれる彼女の気の利いた優しさに触れることもできた。
寒いところから来たという。
おれの国も今は冬だが、彼女の国はもっと寒そうだ。
そういうことをもっと聞きたい。
なにを言ってるのかわからなければわからないほど、知りたいことが増えては重なっていく。
もっと知りたい。
何と尋ねていいのかわからないもどかしさに身をよじりながら、おれは自分の言葉で「あぁ好きだ」と呟いていた。





自分も行ったという彼の言葉は本当だったようで、地下鉄の乗り換えもどの出口から出るのが一番近いのかも、全部教えてくれた。
地下鉄を降りてからは、他の観光客についていけばあっさり目的の場所に辿りついた。
ガイドブックの表紙にもなる有名な白亜の像の前には観光客が群がり、きゃあきゃあと楽しげな歓声があちこちで弾けている。
なるほど立派だな、と私はそれを見上げてひとり静かに思う。
感想を言い合う相手がいないことにはじめは少し寂しく感じたが、今は慣れてしまった。
ただ、隣にいたサンジ君が「ナミさん」と声をかけたので、今はひとりじゃないことを思い出した。
サンジ君は私のカメラを指差して、渡せと言うように手を差し出している。
言われた通りカメラを手渡すと、さっと私をいい位置に立たせぱしゃりと軽い音で一枚写真を撮ってくれた。
ありがとう、と言ってカメラを受け取ろうとしたとき、彼が急に近くにいた観光客の一人に声をかけ、カメラを指差しながら「シャシンシャシン」とにこにこしている。
話しかけられたその人は、快くカメラを受け取り、構えた。
呆気にとられる私の隣にサンジ君はさっと並び、どさくさに紛れて肩に手まで回した。
おいっと思いつつもなんだか流されて、私は自分のカメラに不思議な記録が増えたことを奇妙な風景に偶然立ち会ったラッキーくらいには感じていた。


写真スポットのそこから抜け出すと、サンジ君は「次は?」と言うように私を見た。
特に考えていなかったので、「いいところある?」と尋ね返す。
首を傾げた彼に、「おすすめは?」と問い直すと、納得がいったように目を見開いてからにっこり笑い、ここから近い有名な植物園の名を口にした。


「もう行った?」
「ううん、まだ」
「行く?」
「そうね、行こうかな」


ここなら歩いていけるわね、と地図を見ながら思わず自国のことばで呟いた私に、それを理解できたはずのないサンジ君が自信満々に頷いたのがおかしかった。

道中、サンジ君もこの植物園に行ったことがあるのかと尋ねたら、ここはまだだと言う。だから私と来ることができてうれしいと。
さっきのように道案内を頼むことはできなかったが、サンジ君は私より地図を見るのが上手く、あっさりとその場所まで連れて行ってくれた。
この国が誇る植物園は巨大な公園のように出入り自由になっていて、世界中の温かい国の草花が一年中咲き誇っているという。
園の中はランニングする若者や犬の散歩をするおじいさん、腕を組んで幸せそうに歩く男女が広い歩道を好きなように行き来していた。


「へぇ、ずいぶん広いのね」


サンジ君は、不思議な形の花びらを広げる植物の写真を撮る私の後ろで「きれいだね」と一言つぶやく。
そうねと相槌を打つと、とてもうれしそうに顔を綻ばせた。
肩から下げたカバンが大した重さもないくせに辛くなってきた頃、サンジ君が休憩しようと言って私を屋根のあるベンチに座らせると、少し離れたところにあるコーヒースタンドまでさっさとコーヒーを買いに行ってくれた。
笑顔で湯気の立つそれを手渡され、私は半ば呆気にとられつつも素直に受け取る。
サンジ君はそれを一口飲むと、むっと少し顔をしかめた。


「どうかした?」
「もっと美味い、おれの国、コーヒー」


片言なりにはっきりとそう言って、サンジ君はちらりと私を見る。
機嫌を窺うように、神妙な顔で。


「美味い?」
「うーん、そうね、私の国のももう少し美味しいかな」


特にまずいとも思わなかったが彼に合わせてそう言うと、サンジ君は悪戯っぽく笑った。


「君に、コーヒー。おれが、あげたい」
「淹れてくれるってこと?」
「うん」


そういえばサンジ君は私について山ほど質問したが、私は彼のことを何も知らない。


「サンジ君も、学生?」
「いや。おれは、コック」
「へぇ!」


若くして料理人とは驚いた。
言われてみれば節くれだった薄い手のひらは器用そうで、指にはいくつもの傷跡があった。


「レストランに勤めてるのね」
「ええと、家が、レストラン。おれの、家」
「あぁ、そういうこと! じゃあ今はお休みでももらってるの」


サンジ君は答えようと口を開き、懸命に瞳をきょろきょろ動かして言葉を探してあーとかうーとか唸っていたが、結局何のことばも引き出せなかったらしく申し訳なさそうに肩をすくめた。
わざとらしいその仕草も様になるなと考えて、様になるってなんだろと首をひねった。
ゆっくりとコーヒーを飲み干す私の隣に腰かけたサンジ君は、少し背中を丸めて私と目線の高さを合わせながら話をした。
つたない英語にときおり意図せず彼の国の言葉が混ざる。
そのたびにサンジ君は慌てて、言葉をかき消すように手を振った。
フランス語、大学で専攻しておけばよかったかなという考えがちらりと脳裏をかすめていった。


日陰のベンチは快適で、私たちはそこでゆうに30分近く座って話をしていた。
16時前の太陽はまだ真昼のように高く、赤道付近のこの国は夜の訪れがずいぶん遅い。
日差しが弱まる気配のないところに出るのは少し億劫だったが、私たちはそろそろ行こうかと腰を上げた。
植物園のテーマごとに分けられたガーデンをいくつか回り、よかったらそのあと夕飯を一緒にしないかとサンジ君が誘ったのだ。
ここまでよくしてもらって断る理由もなかった私は、比較的あっさりと「いいわよ」と頷いた。
彼が小さく拳を握るのを見て、本当にわかりやすい人だなと思わず笑ってしまった。






シティの中心を蛇行する大きな川沿いは小さなレストランやバーが立ち並ぶ一種の飲み屋街のようになっている。
着いたその日の夜、おれはひとりでふらふらとそこを歩いてみたが、まだまだ明るい16時ごろからオヤジ連中が集まりワイワイとやっているのを見て羨ましくなり、ひとりでふらりとバーに入ってビールなんかを飲んでしまった。
観光の遊覧船やリバータクシーがゆっくりと流れる川を見つめながら、向こう岸に林立するビルが反射する光に目を細めて飲む酒はなんだか気取っているようで恥ずかしくなった。
ただ雰囲気だけは抜群で、明るく健康的なくせにどこかロマンティックな趣もありなかなかの立地である。
そこにシーフードのうまい店があるというのをバラティエ──つまりはジジイの店──の連中から聞いていたおれは、勢いごんでナミさんをそこへ誘った。
半ば強引に観光についてきてはあれこれ聞き出そうとするおれを、ナミさんが煩わしく思い始めても不思議ではないと覚悟していたのに、彼女はあっさりと「オーケー」と口にした。
本当に? と聞き返そうとして、やっぱりやめたと言われたら困るので口を閉ざしこっそりガッツポーズで喜んだ。
少し傾き始めた日の光を浴びる彼女の肌は透き通るように白く、そのくせ明るい光を宿す茶色い目は真夏のこの場所によく似合い、Tシャツから伸びるすらりとした腕を快活に振って彼女はおれの隣を歩いてくれた。

だいたいの店がディナーメニューを出し始める17時ごろ目的の店に到着し、込み合う寸前におれたちは席に滑り込むことができた。
英語と、その他のアジアのことばで書かれたメニューを前にして黙り込んだおれに、ナミさんは丁寧にメニューを説明してくれる。
おれは話に聞いていたおすすめの一品だけを指定し、あとは彼女に任せることにして二人でビールを頼み、乾杯した。
ナミさんの飲みっぷりは気持ちいいほどで思わず見とれてしまう。
おれが見ているのに気付くと、彼女は「何よ」と言いたげにじとりとおれを睨んだが、それが照れ隠しだと分かるとまるでおれたちの距離が少し縮んだかのように感じて一人で舞い上がった。
ナミさんが頼んでくれたサラダも、辛みの効いた鶏肉のツマミも、おすすめのシーフードもどれもが美味く、おれたちは休むことなくフォークを動かしては食べ続けた。
食事の合間に挟まれる会話はおれの「うまいな」と彼女の「おいしいわね」がほとんどを占めていたがけして息苦しいことはなく、むしろ腹が膨れていくのに反比例してどんどん頭がふわふわと浮かぶような気がした。
酒のせいだけではないはずだ。
表情をコロコロ変えては料理を味わうナミさんを前に、おれは腹だけでなくどこかもっと深い場所も満たされていくのを感じていた。


店を出るとまだ空は明るく、ようやく西日が赤く照りだしたくらいだった。
これからどうする? と尋ねると、ナミさんは初めて困った顔で笑い、言った。


「そろそろホテルに帰るわ。明日の朝の飛行機だから、荷造りもまだだし」


帰る、と言ったことだけがわかった。
そのあとに付け加えたのはきっと理由だ。
明日帰ると言っていたし、今日は早く休みたいのだろう。
そう、と頷いたおれは自分の顔が情けないくらいしょげていくのがわかったが、ここまで散々彼女を振り回したついでとばかりに、「ホテルまで送らせて」と図々しく懇願した。
ナミさんは少し大人びた顔で微笑んで、「ここから歩いて行けるところなの」とおれを促すように歩き始めた。
彼女の泊まるホテルは本当に近く、歩いて10分ほどで玄関ホールまで辿りついてしまった。
ナミさんはおれを振り仰ぐと、はっきりした声で「今日はありがとうね」と笑ってくれた。
そこでやっと、彼女がおれと過ごした半日を決して厭わないでいてくれたのだと安心する。
ただ、ここで別れてしまったら彼女は遠い北の国へ帰り、おれもやがて自分の国へと帰ってしまう。
何らかの形でつなぎ留めなければやがてこの気持ちもなかったことにされてしまう。
自分のことながらそれが恐ろしく、おれは彼女に「待って!」と乱暴に叫んでカバンからメモとペンを取り出した。
レストランの名前と、街の名前。それにおれの電話番号とメールアドレスを書きなぐって彼女によれた紙切れを押し付けた。

どうか忘れないで、気が向いたら連絡して、もしフランスに来ることがあれば会いに来て。
こんなにも夢中になったのは初めてで、君に会えたこの国は最高だ。
──好きだ、好きだ。君が好きだ。

思いだけが火砕流のようにあふれ出し、我先にと口から飛び出そうとしたがどれも英語で伝えることができなかった。
簡単になら言えるかもしれない。
それでもひねり出したその言葉はおれのものではない気がした。

黙って紙を押し付けるおれに圧倒され、彼女は「あ、ありがと」と受け取ってくれた。
立ったまま無理やり書いた汚いそれを彼女はちらりと流し見ると、おれに手を差し出し紙とペンを渡すよう促した。
なんのことかわからずオロオロするおれからついに彼女はメモとペンを奪い取り、さらさらと自分も鞄を下敷きに何かを書き、「はい」とおれに突き返した。
発音できないアルファベットの並びに、数字。


「国際電話は高いから。電話はあんたからね」


自分が手にしたメモを見下ろし、彼女の言葉をゆっくりと噛みしめる。
気付けばおれは、彼女の肩を掴んでいた。






手渡したメモを見下ろし固まってしまったかと思えば、急に腕を伸ばし肩を掴んできたのでぎょっとした。
顔を上げると、目を血走らせんばかりに必死の形相のサンジ君が何事かをぺらぺら話し出した。
私が彼の国のことばを理解できないと知ったうえで、言わずにおけなかったらしい何かを彼は怖いくらい懸命に伝えようとしている。
フランス語は耳にやわらかく、意味は分からずとも心地よいほどだ。
必死の演説を終えた後、彼はふうと一息つくと照れたように今までと同じ顔で笑ったので、私も思わず笑ってしまう。
彼がなにを言ったのか、まだ訊く機会はあるはずだ。

サンジ君にもらったメモを握ったまま、私は別れを告げて踵を返す。
「待って」という彼の声に振り向くと、サンジ君は一本指を目の前にかざして言った。


「お別れ、あいさつ、イイ?」


お別れのあいさつ、つまりは頬にキス。
私は余裕ぶるつもりで「いいわよ」と頷き、一歩彼に近づいた。
さっと目の前に影が差し、彼が顔を近づける。
片方の頬を差し出すように顔を傾けた私の唇に、ふわっと上下の唇を挟むような柔らかなものが触れた。
驚いて目を見開く私に、顔を離したサンジ君はにっこり笑うと「またね」と彼のことばで言った。



twitterでお知り合いになった大好きな描き手さんゆーこ様(@5210O)にイラストいただきました!!


拍手[36回]



ウソップは駅前のロータリーで私を下ろすと、言葉のかたまりをのどに詰まらせたような苦しげな顔で私を見たが、結局「おつかれさん」とだけ言って帰って行った。
駅前は明るくて騒々しく、まだ20時前にもかかわらず酔っ払いの高笑いが重なり合いながらその空間にこもっていた。
南口の明るい場所、と辺りを見渡すと、駅に隣接したベーカリーの灯りの下にサンジ君を見つけた。
半分ほど距離を縮めたところでサンジ君が私に気付き、ポケットに入れていた手を出してゆらゆらと振った。


「おつかれさん、打ち上げなくなっちゃったんだ」
「うん、また日を改めるんだって」
「そっか。じゃあメシ食ってねェのな」


頷くとサンジ君は「おれもまだなんだ」と嬉しそうに笑った。


「行くつもりのバー、メシも旨ェんだ。そこでいい?」


うん、と頷いたとき、すれ違う一団の大学生らしき一人が私の肩にぶつかった。
おっと、とよろけると、ぶつかったのと反対の手を引かれて身体がかたむく。


「おい気ィつけろ」


すんませーん、と軽い謝罪と共に遠ざかる彼らをサンジ君はたしなめるように見送り、すぐに「大丈夫?」と私の顔を覗き込んだ。
私と一緒にいるときに、彼のあんな低い声を聞いたのは初めてだ。
「平気」と答える私の手を握ったまま、「行こうか」と彼は歩き出した。


駅から10分と少し歩けば、喧騒から離れてひっそりとした夜の中に身体が溶けていくようだ。
今日はなにをしたのか、どうだった、とサンジ君が歩きながら尋ねる。
配置の手伝いと受付をした、ずっと座ってるのはつらかったけどアルバイトは初めてだから楽しかった、と私は答える。
そりゃよかった、とサンジ君は湿った空気を噛むように浅く笑った。


「ん、ここだ」


彼が立ち止まったのは、住宅アパートと民家の間に挟まれた小さな一軒家のような店だった。
看板が小さなライトで照らされていることで、かろうじて飲食店だと分かる。
にんにくとオリーブオイルの香ばしいかおりがふわふわとその店を取り巻いていた。
いいにおい、と呟く私を促して、サンジ君が扉を開けた。

右側にカウンターと椅子が6つ。その向かいに2人掛けのテーブル席が4つ並んでいた。
店の中は小さく、所狭しとお酒の瓶とグラスが壁に並んでいる。
地震が来たら怖いなあと場違いなことを考えて、店の中を見渡した。


「テーブルでいい?」
「うん」


カウンターとテーブルに1組ずつ先客がいて、サンジ君は彼らから一番離れた奥のテーブルに私を座らせた。
カウンターの向こうに立つ若いマスターが「お酒、何にします」と私たちに声をかける。


「おれウイスキーが飲みてェな。おすすめで。ナミさんどうする?」
「あ、じゃあ、白ワイン」
「あと料理のメニューください」


サンジ君の声で、ホールの女の子がメニューを持ってきてくれた。
彼とそれを覗き込み、おすすめとしるしのついたいくつかを注文する。
すぐにやってきたお酒で、小さく乾杯をした。
水割りのウイスキーを口に運んで「うわ結構キツイ」と眉をすがめたあと、サンジ君は私を見て照れたように笑った。


「おれ、実はあんまり酒強くねェんだ」
「そうなの? ウイスキーなんて飲むから」
「好きなんだけど、量は飲めない」


ナミさんは? と尋ねられて私は曖昧に首をかしげた。
お酒は好きだし、ふらふらになったり酔いつぶれたりした記憶もないけど、こんなふうにお店で飲む機会はきっと彼より少ない。


「飲むのは好きよ」


ははっと彼は声をあげて笑い、ナミさん強そうで怖ェなあと言った。
注文していたサラダやアヒージョ、パエリアがテーブルにやってくると、異国の香りと言ってもいいオイルの香りが強く私たちを囲った。


「あ、にんにく平気だった?」
「うん。家では食べられない料理だから、うれしい」
「ん、なんで?」


きょとんと私を見返したサンジ君の頬には、パエリアがギュッと詰まっている。
こんなあどけない顔で食べるんだなあと上下する喉元を眺めながら、「だって家で作れないじゃない」と言う。


「そんなことねェぜ。アヒージョもパエリアも、家で作れるよ」
「え、でもこういうオイルとか調味料って、売ってないでしょ」


サンジ君は口の中のものをごくんと大きく飲み下すと、あははと笑った。


「意識して探さねェから知らねェだけで、普通に売ってるもんで作れるんだよ」
「そうなの」


ベルメールさんは料理に関しては結構保守的で、私たちが子供の頃から好きだったメニューや自分が上手く作れるものを何度も何度も作る。
新しい料理に挑戦するとたいてい失敗して、私たちがからかって笑うのでへそを曲げてしまうのだ。


「じゃあサンジ君はよく作るのね」
「よくってわけじゃないけど」


いいなぁと自然と言葉が零れた。
サンジ君は顔を綻ばせて、「ナミさんは料理あんまりしねぇの」と尋ねる。


「うん、家で母がしてくれるからどうしても。たまーに作ったりするけど、簡単なものしか」


「ルフィも私が作るよりベルメールさんが作ったほうがやっぱり喜ぶし」と言うと、「贅沢ものめ」とサンジ君は顔をしかめた。


「じゃあ今度一緒に料理しよう。教えるから」


私は、いいわねと笑ってサラダに添えられたプチトマトを口に運んだ。
サンジ君が語る私と彼の『今度』は、まるで物語のスピンオフみたいにあってもなくてもいいような宙に浮かんだ未来だ。
そうとわかりながらも、私はふたりで並んだキッチンを想像せずにはいられない。
乾いたスポンジが水を吸うように、期待はどこまでもどこまでも胸を膨らませて、たとえ一時的にでも私を温めた。


「ナミさんのワインおいしい?」とサンジ君が訊くので、飲んでみるかと差し出したらサンジ君は迷わず口を付けた。


「美味いな。おれ次はその赤にしようかな。ナミさんは?」
「私は……別の種類の白にする」


サンジ君がホールの女の子をつかまえ、お酒を注文してくれる。
おなかはちょうどよく膨れ、眠気に似たほろ酔いが頭を重たくするが悪い気分ではない。
サンジ君はさっきのウイスキーでそこそこ目の下を赤くしているので、弱いというのは本当なんだろう。
ワイングラスをつまんでいた指先が冷え、私はテーブルの上で両手をもむように重ねていた。


「寒い?」


サンジ君が訊く。


「ううん、指だけ冷えたみたい」


なにも言わず、サンジ君の右手が私の指先を掴んだ。
ほのかに温かくて、少し湿っている。
ほんとだ、と彼は呟いた。


「何か温かいもの頼む?」
「もうおなかいっぱいよ」


じゃあこれ飲んだら出ようか、と彼は赤い液体を口に含んだ。



会計はいつもみたいにサンジ君が済ませてくれた。
わたしがトイレに席を立った間にしてしまうその手腕はスマートと言うか、抜け目がない。
店を出ると道路が濡れていて、どうやら雨が降ったらしい。
紺色の空を水で滲ませたみたいに、重たい雲が低い所にいっぱい詰まったようなどんよりした夜空だ。
ただ、暑くも寒くもない気温は心地よかった。
酒でほんのり火照った頬に外気が触れると洗われたような気分になる。
腕時計を確認すると、21時半だった。


「帰りは電車? バス?」


少し前を歩くサンジ君が、ほんの少し私を振り向くように顔を傾けて尋ねる。
街灯が照らす、白い魚の腹みたいな彼の頬をみつめて、私は言葉を詰まらせた。

どうして。
こんなにも、こんなにもままならない。

答えない私をいぶかしんで彼が振り返る。
私はその視線から逃げるように俯いて、ひたすら足を動かした。
やがて彼の隣に並び、同じ歩調で歩きだす。
6月の夜風でぬるくなった大きな手が、私のそれを掴んだ。


「狭いけど、うちでよければ」


返事の代わりに、すがるようにつながった手に力を込めた。
振り払われるはずもなく、かといって強く握り返されることもなく、サンジ君は私の手を握ったまま静かに駅へと歩いた。





彼の家は街の北はずれで、電車に20分くらい乗ってから少し歩いたところにある住宅街のうちの一軒だった。
奥に長いのか道路に面している部分はこじんまりとしていて、ひっそりと主張がない。
よくいえばさっぱりとした、悪く言えば飾りっ気のない印象を受けた。
誰もいないのか、窓からもれる灯りはない。
サンジ君は取り出した鍵で玄関扉を開けると、「どうぞ」と私を招き入れた。
だれもいない空間にあいさつの声をかけて、足を踏み入れる。


「ご家族、とかは」
「あー、帰りがおせぇんだ」
「レストランしてるんだっけ」
「よく覚えてるね」


覚えていてほしくなかったみたいな苦笑いが落ちる。
玄関の目の前は階段が続いていて、そこを上ってすぐの部屋がサンジ君の自室だった。
狭いけど、と家に入るときと似たようなことを言って扉を開ける。
6畳ほどの空間でいちばん存在を主張するベッド。
書き物机と可動式のイス。
あとはクローゼットと本棚がひとつずつ。
彼がここで今朝起きたときのままみたいなふうに、掛布団がいびつに丸くなっていた。


「適当に座ってて。お茶でいい? それか酒も確かあったけど」
「ううん、お茶がいい」


了解、と穏やかに笑ったサンジ君はいつもより近い場所にいるみたいに見えた。
ここが彼のパーソナルスペースだからか、そこに私がいるからか。
どちらでもいい、入ってしまったのだから。
みずから望んで飛び込んだのだと思うと、たまらなく心地よかった。

ベッドに背中を預けるように床に腰を下ろして、そういえば家に連絡を入れなきゃいけないと思い出す。
マグカップを二つ持って戻ってきたサンジ君に、申し訳ないのだけど携帯を貸してほしいと申し出る。
彼もウソップと同じように、あっさりと携帯を取り出してくれた。


「いいよ、家?」
「うん、姉に」


指が覚えているノジコの番号──彼女の携帯はベルメールさんのお下がりだ──をプッシュした。
数コールで電話を取ったノジコは、私の声を聞くとすぐに「泊まってくるの?」と言った。


「うん。悪いんだけどベルメールさんに」
「わかってるわかってる。これサンジ君の携帯?」
「うん」


そ、と興味なさ気に呟いて、ノジコは「帰り気を付けなよ」とだけ言って電話を切った。


「お姉様、仲いいね」
「歳もそんなに離れてないからかな」
「いくつ離れてんだっけ」
「たぶん2つ」
「たぶん?」


冗談だと思ったのか、サンジ君は笑みを浮かべてマグカップに口を付けた。
私も彼にならい、熱い紅茶を飲んだ。
唇にその熱さが痛いくらいだ。


「おいしい。上手に淹れるのね」
「そ? 慣れてるからかな」


サンジ君は言葉を濁したが、紅茶は本当においしかった。
湯気が目に染みて、軽く目を閉じる。


「ナミさん、シャワー浴びたかったらどうぞ。浴槽ためてもらっても全然構わねェし」
「ん……」


サンジ君がテーブルにカップを置く音が、やけに大きく響いた。
まだまだ直接もつには熱いカップの側面を、私は手のひらで包んだ。
じんじんと伝わる熱に耳を澄ましていると、サンジ君が私を呼んだ。
「ナミさん」と。


「ヤケんなってねェ?」


顔を上げると、サンジ君は変わった形の眉毛を下方にしならせて精一杯困った顔をしてみせた。


「正直ナミさんみてェな可愛い子がするするっと寄ってきてくれると、警戒しちまうっつーか。ナミさんはウソップの友だちで、ルフィのお姉様なわけだし」
「──ウソップや……ルフィは関係ないわ」
「ん、でも」
「いいの。ヤケなんかじゃない」


カップをテーブルに置くと、熱の余韻で手のひらが痒くなった。
きっと私は忘れない。
こんなふうに冷めない熱を手のひらに抱え込んだまま、じっとじっと耐えたことを。
サンジ君が私の頬に手を伸ばして、髪を耳にかけたことを。

身を引くともたれているベッドが微かな音を立てて軋んだ。
サンジ君が手をつくと、さらに遠慮のない音を立てる。
キスをするとき、サンジ君は私が目を閉じるまでじっと見ていた。
さらさらの前髪が私の頬に乗るように触れて、くすぐったさを感じるより前に頭の後ろに手が滑り込んできた。
私の頭を抱え込むみたいに両手で支えて、たくさんキスをする。
引き寄せようと首に手を回すと、応えるように舌が入ってきた。
服を脱がし、脱がされて、温度のないベッドになだれ込む。
サンジ君はあいかわらずやさしかった。
ぜんぶを知り尽くした指先が身体を這って、私の中をかき回して、着実に私をどこかに連れて行く。
その気持ちよさに身を委ねていたら急に怖くなって、私は逃げるようにベッドの上の方へとずり上がる。
するとすかさずサンジ君は私の肩や、腕や、ときには足首を持って引きずり戻した。

口から洩れた声が自分のものではないみたいで、咄嗟に唇を噛み締めた。
それに気付いたサンジ君が唇を重ねてきて、舌でこじ開けるように私の喉に空気を送り込む。
それでも半ば意地を張って、こぼれ出す声を抑え込んだ。
甲高い声は私ではなく、どこのだれかわからない別の女をサンジ君に思い出させてしまうような気がしておそろしかったのだ。

胸やお腹がぴったりと重なって肌と肌の隙間が限りなくゼロになるとき、その重さに意識が遠のきそうになるほど喜んだ。
初めて触れた男の人の身体は硬くて身がぎっしり詰まった木の実を連想させた。
下腹部がこじ開けられるような痛みも、関節がおかしな方へ曲がって二度と戻ってこないんじゃないかと思うような感覚も。
サンジ君が私の肩を掴んで額のあたりで吐いた荒い息も、まじりあった汗のにおいも、熱を逃がさないシーツの皺も。
すべて抱えて私のものだと叫びたくなるくらい、いとおしかった。





目覚めると狭いシングルベッドに私は広々と横たわっており、隣に誰もいなかった。
なにひとつ身に付けていない身体にはすっぽりと毛布と掛布団が覆いかぶさっており、寒さは感じないが足の先だけがやけに冷えていた。
カーテンが薄く開いていて、そこから光が線のように部屋を横切っている。
そのすぐそばの窓際に、サンジ君はいた。
下だけ何か衣服を身に付けて腰を下ろし、裸の背中をこちらに向けている。
窓が少し開いているのか、カーテンが揺れていた。

煙草だ、と気づくのに時間がかかったのは、早朝の光に煙が溶け込んで見えなかったからだ。
サンジ君は足元に引き寄せた灰皿にときおり灰を落とし、音も立てずに煙草を吸っていた。

どうしてにおいで気付かなかったんだろう。
ベッドにも、壁にも、染みついたように煙草のかおりが隠れるそぶりもなく存在を主張している。
顔の見えないサンジ君は、ただ煙草を口に持っていき、だらりと腕を下げて、ときどき灰皿に持っていく、その動作を繰り返した。
そのときどんなふうに背中の筋肉が動くのか目に焼き付くほど私は知っているのに、この人は私のものにはならない。
ひきつるような性器の痛みとともにそんなことを考えながら、目を閉じてまた眠った。



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