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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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         7.5(サナゾ注意) 




なあお前どうしちゃったの、とカルネに声をかけられたのは平日の閉店間際、最後の客が店を出た直後だった。人の気配と薄く効いた冷房で霞んだようなフロアは、赤っぽいライトに照らされて突然安っぽいセットのようになる。遠くの席でがちゃんと大きくグラスが鳴った。かがみこむゾロのでかい背中が見えた。大方また、無理やり積み重ねたグラスを倒したのだろう。

「なにが」

煙草に火をつけ、わざとカルネの顔を見上げて煙を吐き出す。心底嫌そうに顔を背けて、「やる気あんのかてめぇ」と久しぶりにドスの効いた声でおれをねめつけた。

「──あるからこうして毎日来てやってんだろうが」
「だったらもっと飲んで飲ませろよ。最近同伴だって全然してねぇだろ。ちゃんと営業してんのか」

カルネが不機嫌なのは何もおれのせいだけではない。閉店より前に店がカラになるのは今日だけじゃない。昨日も、先日の日曜もだった。
目減りする売上にぴりついているのは知っていたが、カルネの言い分があてつけじゃないこともまた、おれが一番良くわかっている。
かつて一日中ひっきりなしだった営業のメールは朝に挨拶程度送るだけになっていたし、初見の客に熱心に売り込むこともしなくなった。
別に理由なんてない。なんとなく気が乗らないだけだ。たとえそのせいで給料が減ろうと、まあいいかと思えた。仕事中に早く帰りてぇなと思うことも増えたし、あー酔った、と思えばそれ以上は飲まなかった。
以前のようにどろどろに酔って帰ってしがみつくようにリビングのドアを開け、誰のかわからないコップで浴びるように水を飲んでシンクに手を付きはぁはぁ言うおれを、ぽちりとひとつだけつけたソファのライトのそばでナミさんがじっと見ている。
情けねぇとか、かっこわりィとか思わないわけではないが、別にその姿を見られたくないから歯止めをかけているわけではない。と思う。
別に理由なんてないのだ。

「へーへー努力しますよって」

立ち上がりながらカルネの肩を叩く。噛み付いてこないおれに拍子抜けしたのか、ぽかんとした顔でおれを見上げた。

「明日おれ同伴だからさ。22時入りな」
「ああ、おう」
「おれ今日は先帰っから。あのマリモに言っとけよ」

同じアパートなことは店も知っている。面倒だからとまとめて送られることが多いが、黒服のゾロのほうが後片付けや閉店作業で遅くなる。ただ、閉店後のソファでしばらく死んでいるおれが目を覚めるころ、ちょうどゾロの仕事が終わるのだ。またグラスが雪崩を起こす音が響いた。盛大な舌打ちが聞こえる。雪崩の元凶の本人だ。

「おつかれさん」

送迎の車を待たず、店を出た。しばらく歩き、大通りでタクシーに乗った。家の近くの路肩で金を払うとき、やっぱ車を待てばよかったとちらりと後悔した。
リビングは真っ暗だった。近頃こんな日が多い。ナミさんは自室で仕事をしているのか、それとも深夜の作業をやめてただ規則正しく眠っているのか。煙草臭いシャツを洗濯機に放り込むとき、向かいにあるナミさんの部屋からことりと物を動かす音がした。引き寄せられるように扉に近づく。小窓もない扉は、その向こうに明かりがついているのかさえわからない。

「──ナミさん?」

驚くほど心細そうな声が出た。何呼びかけてんだ。寝ていて、起こしたらどうする。
3つある洗濯機はどれも稼働していない。夜の22時以降は使用禁止だ。明日の朝いちで回す気だった。ランドリールームに戻り、使用中の札をシャツを放り込んだそれに貼る。洗濯機のひとつには、洗いっぱなしの濡れた洗濯物がしわくちゃの団子になって入っていた。大方ウソップかルフィが入れたまま忘れて寝たのだろう。よくあることなのでそのままにして、シャワーを浴びた。
いくぶんさっぱりした体で自室へ戻るとき、諦め悪くナミさんの部屋の前でもう一度立ち止まりかけたが、脚に力を込めて通り過ぎる。

「おやすみなさい」

はっとして振り返ったが、扉は開いたりしなかった。聞きたくて聞きたくて、ついに幻聴を聞いたのかもしれなかったし、たしかに扉を隔てた向こうからおれに向かって呼びかけられたような気もした。
すぐそこの薄い扉を今すぐ蹴り破って、中にいる彼女の顔を見たいと思った。いっそ扉越しでもいいから彼女と手のひらを合わせるだけでもいいとすら思った。

「おやすみ、ナミさん」

当然返事はなかった。濡れたタオルを首にぶら下げて、音を立てないように階段を登った。




今日の同伴客はおれと同じ歳ほどの若いレディだ。比較的年上の客がつくことが多いおれには珍しいタイプの固定客だ。太客というほどではないが、でも月に2回ほどはやってきておれを指名し、ボトルも毎回入れてくれる。まるで友人のように「そろそろ飯行かねぇ?」と誘えば同伴してくれるし、誕生日や入店記念日のようなイベントには欠かさずプレゼントを持ってやってきた。
彼女がいわゆる普通の恋をしていることはわかっていた。おれに同じものを求めていることも。
同伴先で飯を食ってから店に着き、ソファに腰を下ろした彼女の指先をギュッと握って視線を合わせる。

「待ってて、すぐに着替えてくる」

ほどけた顔でうなずいた彼女を黒服とサポートのスタッフに託し、裏に引っ込む。言葉通り急いで着替え、急いでいるくせに裏口を出て一本煙草を吸う。そこへ唐突に、ゴミ袋を両手に4つずつ鷲掴んだゾロが現れた。

「おう」
「おう」

短くうなずいたゾロがおれにケツを向けてゴミ箱にゴミを放り捨てる。その足元、スーツの裾が濡れて光っていることに気づいた。

「お前足元」
「あ? あー、さっき酒こぼした」
「着替えろよ。身だしなみ第一」

こんくらい、と面倒そうに顔をしかめたゾロを睨むと、珍しくそれ以上言わなかった。まだ長い煙草をもみ消し、裏口の扉に手をかける。

「お前のあの客」

不意にゾロが思い出したように言った。

「若ぇな。学生か」
「あ? いや、働いてる、さすがに」
「ふーん。お前のいつもの、いかにも金持ってる年上の女とはちげぇのな」

何が言いたいのか、ゾロにしては妙に饒舌な様子を怪訝に思い振り返る。濡れた足元を確かめるように覗き込みながら、ゾロはなんでもないことのように言う。

「必死こいて金ためて、ここに来てんだろ」
「……そうなんじゃね」

話を遮るように重たい鉄の扉を引き開けた。従順な飼い犬のようにつつましくおれを待つ彼女は、ごめん遅くなった、と腰をかがめて歩み寄るおれを見上げてほっとしたように笑った。その顔を見て、ぎっと腹の奥のほうがきしむ。同時にゾロの言葉が蘇る。
必死こいて金ためて、おれに会いにきてんだな。
言われなくとも、ずっとわかっていた。一軒目に行ったエスニックレストランも、2軒目でコーヒーを飲んだ洒落たカフェも、支払いは当然彼女がした。今も彼女は当然のように黒服から手渡されたワインリストを眺めている。
いつまで経ってもそのたびにぎしぎしと体のどこかをきしませるおれは、絶対にこの仕事が向いていない。
それをゾロに遠回しに、しかしある意味まっすぐと指摘されたような気がして気が重くなった。

「どれにしよう」

どれを飲みたいか迷っているのではない。どれくらいの価格のボトルを入れたらおれが喜ぶのか、自分の懐具合と相談しながらおれの顔色をうかがっているのだ。
美味いとか美味くないとか、つまみに合うとか合わないとか、ここではそんなことは一つも関係がない。
おれが顔を寄せて一緒にリストを覗くのをそっと待っている。痛ましくさえあるそのいじらしさに、「もういいよ」と言いたくなった。
おれも好きな人がいるんだ。何もかも放り出して、必死こいて働いてああ会いたいと思うこと、一つの心のように彼女の気持ちがわかる。
だからおれは1ミリも好きではない彼女の目を覗き込んで、あたかも好きだというかのように微笑むことができる。おずおずと上から3番目のワインを指差す彼女に指を絡めて、幸せな時間を共有しているかのように話ができるのだ。
おれの好意をそのままの好意として受け取って嬉しそうにする彼女を見て、ああ好きなんだなあと何度も思う。
おれも好きだ。
おれもナミさんが好きだ。
彼女の笑顔を見るたびに、ずっとそればかり考えていた。その日の売上は一位だった。

アパートに帰るとリビングも廊下も明かりがついていた。今日はゾロも一緒だ。まるで「やればできるじゃねぇか」と言いたげな顔で近寄ってきたカルネに「んでも別に飛び抜けてお前がよく売れたわけじゃねぇからな。今日もあいにく低空飛行だったんだからよ、もっと気合い入れてやってくれ、な」とケツを叩かれているうちにゾロと帰りの時間が重なった。

「明るいな。誰かいんのか」

ゾロも驚いたらしく、眠たげなあくびをさらしながらまっすぐ階段へと向かう。風呂も入らず寝る気らしい。2階の明かりは消えていた。
ゾロと別れてリビングの扉を開ける。

「あ、おかえりぃ」

ソファに半分寝そべったような形のナミさんが鷹揚に手を挙げる。隣に腰掛けたロビンちゃんがふわりと笑い、「お疲れ様」と言った。ふたりともワイングラスを手にしている。

「こりゃまた随分遅くまで」
「ねー、もうこんな時間か、びっくりしちゃう」

酔っているのか、ナミさんがけらけらと笑う。四肢を投げ出してソファに身を預けている。

「何かあった?」
「んーん、なんにも。久しぶりにロビンと夕食重なったから、それからずっと飲んでるの」
「サンジも飲む? まだあるのよ」

一体何本開けたのだろう。キッチンにおびただしい数の空きボトルが並んでいるのを想像し、苦笑する。

「もらおうかな」

美女が揃う空間にまじりたくて、いそいそと自分の分のグラスを取りに行く。一人がけのローソファに腰掛け、ロビンちゃんにワインを注いでもらうおれを、ナミさんがじっと見ている。

「今日は泥酔してないのね」
「なんとか」

ワインはキンと冷えていた。頭が冴える。しかし同時にぐっと喉のあたりに胃から酒臭い息がこみ上げるのをなんとか飲み下す。

「サンジくんって仕事中どんな感じなの」

興味があるのかないのか、おれの方を見もせずグラスの中身をしげしげと確かめながらナミさんが尋ねた。

「さあ、変わんねぇと思うけどなぁ。紳士で通ってるよ」

「でしょうね」と言うナミさんとロビンちゃんの声が重なった。二人は姉妹のように顔を見合わせ、くすくすと笑う。

「やさしー顔で笑って、甘い声で嬉しいこと言ったりしてるんでしょ」
「それよりサンジはきっと聞き上手だから、根気よく話を聞いてくれそう」

はは、と明らかな愛想笑いのおれを意にも介さず、二人は好きなことを言い合う。
ホストクラブってどんなのかなぁ、ロビン言ったことある? ないわ、前住んでて街にはたくさんあったけど。 私もない、高いんでしょ。 普通のお店でお酒を飲むのとはわけが違うでしょうね。 ふーん、どんないいことしてくれるんだろ。 男の人がみんな、自分のことが好きなような気になるんじゃないかしら。 それって楽しいの?

あははと声を上げて二人は笑った。明るくてまじりっ気のない彼女たちの声を聞きながら、おれはまぶたが重くなる。

あ、サンジくん寝てる。おーい。 やめなさい、疲れてるのよ。 飲むって言ったのに全然飲んでないわね。 仕事で飲んで帰ってきたんだもの。

そっとグラスが取り上げられたとき、顔を上げたがナミさんもロビンちゃんもおれを見てはいなかった。気のせいか、と思いグラスを持っていた手もだらりと下がる。

いっつもサンジくんすごいテイで帰ってくるのよ。でろでろに酔って、死にそうな感じであそこで水飲んでる。 まぁ。 なんかちょっとかわいいなーって思うのよね。 かわいいの?死にそうなんでしょ? うん、死にそう。でもなんか必死に帰ってきた感じが。 それ、サンジに言ったの? え、ううん、別に言ってないけど。

船を漕いでいた頭を自分の手で支える。まどろむというより、もう体のほとんどが眠気に浸っていて身動きが取れない。だからなんとか口と、舌だけを動かした。

「必死で帰ってきてんだよ」

二人の会話が止まった。笑いを噛み殺すような、こちらを伺う気配を感じる。

「なあに、サンジくん」

いつもより甘やかな声でナミさんが尋ねた。

「──会いたくて、ナミさん、寝る前に」
「うん」
「だから、帰ってきてんの」

ろれつが回っているのか、果たして言いたいことを言えているのかすらわからなかった。猛烈な眠気に思考を引きずり込まれながら、なんとか言う。

「おれを待って、起きて、たらいいのに」

そこでぷつりと途切れた。
気づいたら朝で、ぎしぎしとこわばった体を無理矢理に起こす。体には薄い毛布がかけられていた。キッチンはきれいに片付き、3つのグラスが洗ってすっきり乾いていた。しかしやっぱりゴミ箱付近の床には10本近いワインの空瓶が並んでいて、夢じゃなかったかと思った。

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つらい、とだだ漏れの感情を呟くとナミさんは初めて共感するように黙ってうなずいた。
ふたりだけのキッチンで、9人分の料理が並ぶ大きなダイニングテーブルを挟んで向かい合って座るおれたちはちょうど手を伸ばせば触れ合えるけれど、そうしようとしなければ触れ合うこともできなくて、お互いに伸ばすことのない手を胸の前に折りたたんでうつむいていた。

「こんなふうに終わるなら」

ナミさんが言う。

「始めなきゃよかった」

強く芯の通った声が、今ばかりはわずかにふるえている。おれにはわかる。

「あんたもそう思ってるでしょう」

答えることができず、言葉を探す時間をかせぐようにたばこに火を付ける。
船の揺れに合わせるみたいに、煙も不規則にただよう。

始めなきゃよかったのかもしれない。でも、今までの時間が全部無駄だったのかと言うとそうではない。絶対に違う。
どうしようもなくおれたちはそばにいたかったし、必要だったから求めたのだ。
なくてもよかった時間は思い返すほど一寸たりともなかったはずだと思えるのに、その時間をこれ以上つむぐことができないのはどうしてだろう。

「少なくとも」

声がふるえそうになる。みっともなくて、息を継ぐようにたばこを吸う。

「おれは本当にナミさんが」
「わかってる」

強く彼女が言った。

「そんなことはわかってるのよ」

だからもう言ってくれるなと封じられた気がして、口をつぐんだ。

「私だって」

ナミさんもそれ以上言わなかった。聞きたくてたまらないのに、いつものように気安くねだることができない。
ナミさんは一度顔を手のひらで覆い、振り切るように立ち上がった。音もなく、急に時間が進みページがめくられたような感覚になり不安が押し寄せる。

「なんの話し合いをしてるんだろうね、わたしたち」

見上げると少し笑っていた。見たい見たいといつだってほしがっていた笑顔ではなかった。

「もう遅いから、寝るわね」

はっと顔を上げる。甲板へ続く窓は黒く、海は静かだ。そうか今は夜か。
おやすみなさい。
ナミさんがそっと押し込むように言う。踵を返し、テーブルを離れる。ドアノブに手をかけて、空いたドアの隙間から潮の匂いが流れ込み、入れ替わりに彼女が外に出ていく。
ひび割れた空気がさっと入れ替わり、ひび割れていたっていいからもっと彼女と一緒にいたかった、と思っていたことに気づく。
ひとりきりになったキッチンでひとりきりだと強く思う。
会いたい。明日の朝には会えるのに、その彼女はもう、今死ぬほど会いたいナミさんではない。




どでかいくしゃみをして目が覚めた。
驚いて跳ね起きて、したたかに額を天井にぶつけた。
いってェ、クソがと悪態づいたところでふと部屋が明るいことに気がついた。さーっと血の気と額の痛みが引いていく。
部屋を飛び出し、扉を開ける前から香ばしい匂いが甲板にまで漏れていたのでなおさらちくしょーと思いながらドアを開けた。
テーブルを4,5人が囲み、ナミさんとウソップがこちらに背を向けてコンロのあたりで手元を覗き込んでいる。カウンターではロビンちゃんがコーヒーを入れていて、まるでいつもの朝を俯瞰しているような錯覚を覚える。

「あ、サンジだ」
「おう起きたか、サンジも寝坊なんてすんだなー」

からかう男たちの声を一切無視してまっすぐにナミさんの方を見つめると、振り返った彼女が「あ」とつぶやきどこか誇らしげに少し顎を上げたまま「おはよ」と笑った。

盛大に寝坊をかましたおれがキッチンに駆け込んだのは既にクルーが食事を終えようとしていた頃で、ナミさんが有料で作った朝食を平らげた野郎どもはあっというまに船のどこかにそれぞれ散っていった。

「そんなに落ち込まないで、サンジ。たまにはいいじゃない」

肩を落とすおれに慰めの言葉をかけて、何杯目かのコーヒーを入れたロビンちゃんが部屋を出ていく。
ナミさんが作ったハムと卵の朝食をありがたくいただきながら、向かいの席で海図を開くナミさんをチラチラと盗み見る。やがて鬱陶しそうに「なに?」とナミさんが顔を上げた。

「寝坊はもういいじゃない。お金ももらったし」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「体調悪いの?」

不意にナミさんが手を伸ばす。ぺたりと薄い手のひらがおれの額に張り付いて、離れる。つめたい、と一言。
胸の前へと戻っていくその手をすがるように掴んだ。掴めるときに、後悔する前に掴んでおかなければと思った。
ぎょっと目を丸めたナミさんが「なによ」と問う。

「ナミさんと別れる夢見た……」

はあ? と大きく口を開いたナミさんは一拍考える間をおいて、あははっと朗らかに笑った。

「あんたそれでそんなに落ち込んで、寝坊までして、ばかみたい」くくっとあくまでおかしそうにナミさんは笑い続ける。
「すげぇ、すげぇつらい夢だった。怖ェ……」
「あのねぇ、そういう夢見るんだったら、付き合ってからにしてくれる」

ちらりとナミさんを見上げると、おれの手を振り払った彼女も不敵におれを一瞬見てからコーヒーに手を伸ばした。

「予知夢だったらどうしよう」
「だからね、その前にあんた私たち踏むべき段階踏んでないから。要らぬ皮算用しなくていいの」
「これから踏むのかも」

ごくりとコーヒーを飲み下して、ナミさんは肩をすくめて答えない。
食べ終えた皿を脇に避けて、下から覗き込むように彼女の顔を見上げる。

「『私も』って言ってた、ナミさん」
「何がよ」かたくなにナミさんは海図から目をあげない。
「『私だって』だったかな」
「だからなにが」
「おれが好きだって言ったら」

あれ、言ったんだっけ。結局言えなかったんだっけ。あんなにも胸を刺したあの時間が、今や既に輪郭もおぼろにしか把握できない。

「夢でしょ。願望でしょ、あんたの」
「そうだけど、おれもつらかったけど、ナミさんもつらそうだったよ」

ナミさんはふと顔を上げ、「そりゃあつらいでしょうね」と妙にまっすぐおれを見て言った。
適当にあしらわれたような気もしたが不意に深くて熱い部分に触れたような気もして、すぐに次の言葉が継げない。
代わりに手を伸ばし、するすると彼女の指を撫でる。好きにさせてくれるナミさんはやはりおれの会いたかったナミさんだ。
あとで金取られるんだろうなあとわかりながら、すべらかな指先を少しこちらに引き寄せた。

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         7.5(サナゾ注意)



8

ナミさんてなんの仕事してんの。
彼女が伸びをしたすきに尋ねた。大方書き物をしているだろうことは見当がついていたので、彼女の気を引くためだけに尋ねたようなものだ。
うーん? と語尾の上がった、応える気のない返事だけが帰ってきて空白が落ちる。集中してるときに話しかけちまったかな、と若干の申し訳なさとともに顔を覗き込むと視線がかち合った。

「翻訳。と、ちょっとした記事を書いたり」

へえ、と素直な声が出た。

「すげえな、英語?」
「ううん、ノルウェー語」

ノルウェー? と素っ頓狂な声を上げるとナミさんはほんの少し口角を上げた。リビングにはおれとナミさんしかいない。ルフィは最近帰ってこなくなった。ふらりとどこかに旅立って、長いとふた月以上帰ってこないこともあるらしい。その間の家賃はもちろん支払われないので、帰ってきたルフィは身ぐるみ剥がされる勢いで手持ちの現金をナミさんに徴収されることになるだろう。
今日は仕事が休みのおれは、日がなナミさんのそばにいる。
あいかわらずこのアパートの中でちょこちょこと雑務をこなしつつパソコンの前で仕事に没頭するナミさんを、飽きずに構っては若干うっとうしがられる気配を感じながら、でも結局呆れ混じりにナミさんがおれを見るまで根気よくそばにいる。

「ふるーい書物とか、研究書とか、翻訳された時期が古いと解釈も若干違ったりして。そういうのを今風にわかりやすく修正して、記事を書くときは考察を入れたりして、そうやって書いたものを売ってる」
「すげ、そんなのどこで勉強したの? 大学?」

ナミさんは顔を上げ、おれを見つめてにっこり笑った。

「サンジくんお腹すいた」
「はいただいま」

すくっと立ち上がってから、流された、と感じるがなにも言えない。ナミさんもぱたんとパソコンを閉じた。

「ロビンいるかしら。なにかお酒飲みたい」
「付き合うよ」
「休みの日くらい飲みたくないでしょ。いいわよ無理して付き合わなくて」

軽い足取りでパントリーに向かうナミさんに、おれは黙って苦笑するしかない。
毎晩酒臭さにげんなりして帰ってくるおれを見慣れている彼女には返す言葉がない。換気扇を回し、タバコに火をつけた。

「ロビンがいるならボトル開けるんだけどなー。いっか、ビールで」
「いねぇの?」
「たぶんね。午前中留守みたいだったし、帰ってきた気配もないから」

ぷしゅっと景気のいい音でナミさんが冷えていないビールを開ける。冷やしたやつを開ければいいのに、ナミさんはあんまり頓着しない。

「なに食いたい? 肉? 魚? 米?」
「なんでもいー。おいしいの」
「そういうのが一番得意なんだよなあ」

ナミさんが笑う声に気分を良くし、タバコを咥えたままフライパンやら片手鍋やらを取り出す。壁にぶら下がっているにんにくを取り出し、なにを作るとも決めないまま習い性で刻みだす。

「サンジくんて恋人いないの?」

背中から聞こえた声に、ぎくりと振り向いた。どうしてぎくりとしたのか自分でもわからないまま、ぎこちない口元で「なに?」と問い返す。
ナミさんはパントリーに背中を預けておいしそうにビールを傾けてから、「休みの日、いっつも家にいるから」と笑った。
口元からのぼる煙に視界を遮られ、それを振り払うようにまな板に向き直る。

「見ての通り。レディとは毎日のように話すんだけどなあ」
「みんなサンジくんに会いに来るのにね」
「なあ」
「そういやゾロ、あいつちゃんとやれてんの」

冷蔵庫のチルド室を覗く。切り身のサワラを発見する。取り出し、骨を抜く。

「やー以外にも。黒服の仕事はなかなか覚えねぇとかって店のやつがぼやいてたけど。客には妙に人気あるんだよな」
「ゾロってそういうとこあるわよね」

親しげに笑う声には返事ができなかった。愛想笑いすらできない顔を隠すように、うつむいてフライパンを火にかける。

「そのうちホストになっちゃうかな」
「さー、なれなれってカルネは、あー、店長は、言ってっけど」
「そしたらサンジくん辞めたら」

にんにくの香りが立つ。いいにおーいとナミさんが華やいだ声を上げる。おれは半分だけ振り向いて、彼女を見た。

「──なんで?」
「だって好きじゃないんでしょ。向いてないって言ってたじゃない」
「まあでも、辞めたら食ってけねぇからなぁ」
「何か他にしたいことないの?」

ぱちん、とにんにくが跳ねる。飛び出たそれをつまみ、口に運ぶ。

「ナミさんのところに永久就職しようかな」
「募集してません」

笑いながらナミさんが缶を置いた。かつんと高い音が小さく鳴った。

「ところでなに作ってるの?」
「あー、なんだろ。アクアパッツア? それかパスタにする?」
「決まってないの?」

じゃあアクアパッツァ、といいながらナミさんが白ワインを取り出した。おれは砂抜きして冷凍したアサリを凍ったままフライパンに放り込む。
なれた手付きでコルクを抜いたワインをどんとキッチンカウンターに置いたナミさんは、ふと思いついたみたいな口調で「でも、いいかもね」と言った。彼女が開けたワインをフライパンに注ぎながら「なにが?」と尋ねる。

「永久就職」
「え、まじで?」
「うん、ここでずっとこうやってごはん作るのは?」
「ナミさん雇ってくれんの?」
「あそっか、お給料払わないといけないんだった。じゃあなし」

からからと笑ってナミさんは背を向けた。グラスグラス、とつぶやきながら戸棚を漁っている。
なにを本気にしかけてるんだおれは。自分の心をなだめてフライパンに蓋をする。
確かに、こうやってめしばっか作っていられたらたしかにどんなにいいか。
ただそれが金銭の発生する労働となればまた話は別なのだろう。趣味を仕事にしたことはないので、漠然としたなんだかよさそうな気配があるだけで想像がつかない。
趣味を仕事にしているルフィに深いことを聞いたところでまともな返事は帰ってこないだろうが、一度尋ねていみたい気になった。
またひとつぱちんとフライパンの中が弾け、我に返る。
冷蔵庫の中、自分のスペースにしなびたプチトマトが転がっていたので、半分に切ったそれらを放り込む。魚も並べて、ナミさんが開けた白ワインを注いで蓋をした。

「結局ボトル開けちゃった」

2つのグラスを、頬を挟むように掲げてナミさんは笑っている。どうやら今日はご機嫌だ。

「少しは飲む? 無理しなくてもいいけど」
「のむのむ。ナミさん、パンかなにかあるとうめーんだけど」
「パンかあ。朝食用の食パンなら」

レンジ台の上のかごをのぞきこみ、ナミさんは「あ」と落胆の声を漏らす。

「しまった切れてる。いつもウソップが補充してくれるから任せてたんだけど、あいつ最近忙しそうなのよね。朝も早いし帰りも遅くて」
「んまー、じゃあシメはパスタか、米を入れてリゾットかな」
「それもおいしそうなんだけど……パン、つけて食べたいなあ」

ナミさんがちらりと時計を見上げる。18時を少し回ったところで、一番帰ってきそうなのはウソップだが、ナミさんいわく期待はできない。
意地悪をしたいわけでも困らせたいわけでもなかった。言うならば好奇心だ。彼女がどんな顔をして、おれになんと答えるのか知りたかっただけだ。

「んじゃナミさん、おれもう一品作るから買ってきてくれねぇかな」

フライパンを見下ろす。蓋の窓から中身が見える。クツクツと自ら出した水分で野菜と魚が煮込まれている。
いや、とおれは考える。もしかするとおれは、彼女を困らせてみたいのかもしれない。訊かれたくないことをあえて訊いて、口ごもる顔や逸らした視線の先を見たいのかも知れなかった。
ナミさんは、手に持ったグラスのふちをつーと細い指でなでた。

「それならいい、いらない」
「すぐそこのコンビニでいいんだけど」
「めんどくさい。いらない」

ナミさんはおれを捉え、「先に飲んでていい?」と微笑んだ。もちろん、とおれは応える。

フライパンごとテーブルにどんと置くと、ナミさんはおれのグラスに上手にワインを注いでくれた。跳ねた最後の一滴がまたグラスに落ちるところまで見て、グラスを持ち上げる。

「乾杯」
「いただきまーす、おいしそ」

もう一ヶ月以上、このテーブルが埋まる人数で食事をしていない。このアパートに越してくるまで、狭い自室の一人用のテーブルで食事することも、何ならキッチンで立ったまま食べることだってあったのに、ほのかに感じるこの物足らなさはなんと贅沢なことだろう。しかし目の前ではふはふと熱い白身を頬張るナミさんがおれをまっすぐに見て「おいしい」と笑うとその物足らなさも吹き飛んだ。つま先からしびれるような充足感に満たされる。

「よかった。いいワインだから魚もうまくなる」
「ネットで買ったやつよ。そんなに高くなかったし、飲みにくくてもサンジくんが料理に使うかなーと思って」
「十分うまいよ。ナミさん、酒選ぶの上手いよな」
「そう? ねぇサンジくん、さっき私にパン買ってきてって言ったのはわざと?」

ナミさんはフライパンからプチトマトをすくい、あぶなっかしい手付きで自分の皿まで運んだ。その動きを目で追って、おれはつい口ごもる。
くっきりとした目でおれの顔を見上げた彼女は、大人びた表情で笑った。

「怒ってないわよ、大丈夫」
「──ごめん」
「ううん、ずっと家にいるんだもん、気になるわよね」
「そういうわけじゃ」

ないんだけど、というおれの声は説得力なくテーブルに落ちた。ナミさんが小さく笑ったその息で吹き飛んでしまう。

「ロビンか誰かになにか聞いた?」
「いや」
「別になんでもなにも、理由なんてないんだけどさあ」

外は嫌い。
ナミさんはぽつりと、それでも断固たる、という感じでつぶやいた。

「ほんと便利な時代よね。パソコンがあればなんだって手に入る」
「そうだな」塩気の強いスープを口に含み、やっぱりパンがあればと諦め悪く考える。
「ロビンが意外とコンピューター関係詳しいのよ。インターネットの接続だとか、全部してくれたの。反対にウソップは全然だめ。役所ってそういうの疎いもんね」

サンジくんは? ナミさんはアサリの殻をフォークの先でカラカラと揺らしながら尋ねた。

「一通り自分でできるつもりだけど、詳しくはねぇかな。パソコン使って仕事したことねぇし」
「あそっか、サンジくんってずっとホストしてるの?」

おれは、と口を開いたところで玄関扉がぎいと大きな音を立て、おれとナミさんは同時に顔を向けた。廊下からひょこりと顔を出したのはウソップで、おれたちを目に止めて「おお」と意味のない声を上げた。随分疲れた顔をしている。

「おかえり。早いじゃない」
「おう、やっと一息ついたぜー。なにサンジ、お前休みなの」

おうと応えると、振り払うようにリュックやら帽子やらを身体から取り去ったウソップはそのままソファに脱力して倒れ込んだ。

「だああ疲れたああサンジめしいいい」
「おう作ってやるからよ、朝食用のパン買ってきてくれね?」
「いや鬼か!」

叫ぶウソップに、ナミさんが声を上げて笑った。
ごろんと寝返りを打って仰向けになったウソップは、瀕死の体で床に打ち捨てたリュックサックを指差した。

「買ってある。あん中、入ってる」
「え、まじで。お前やるな」
「すごいウソップよくやったわ」
「軽ぅ……」

そのままウソップはがくりと首を垂れ、目を閉じた。リュックをあさると5枚切りの食パンが一本、駅前のパン屋のロゴの袋のものが入っていた。
さすが、仕事のできるやつはちがう、見直したわ、お前もてるだろ、などなどナミさんと交互に囃し立てながらウソップが買ってきたパンをトーストし、おれはフライパンの中にウソップのぶんの具材を足して再び火にかけた。
いいにおーいと、ナミさんと全く同じセリフなのに震えるような死にかけの声がソファの方から聞こえた。

「おらできたぞ、食え食え」

よろよろと立ち上がり席についたウソップは、「あったかいめしだ……!」と涙ぐむようにして魚とパンを頬張った。

「なんでおまえそんな忙しいんだよ。公立図書館だろ、本のバーコードぴっぴってするだけじゃねぇの」
「ばっかお前、おれぁ司書じゃねぇんだよ。本の整理だけじゃなくてその管理も会計関係も人事も、役所のほか部署と連携取りながらいろいろやんなきゃなんねーの! 特にこの時期一斉の整理期間で……まあいいや終わったから。つーか図書館司書だってバーコードぴっぴが仕事じゃねぇからな」

トーストをスープに浸す。強い塩味とにんにくの香りで激しく美味いと感じる。顔を上げると、同時にトーストを口に含んだナミさんと目があった。通じ合ったような微笑みを交わし、しっとりと嬉しくなる。

「サンジのめしはほんとうめぇなあ、お前料理人になればいいのに」
「趣味だよ、プロに通用する味かねぇ」
「またまた謙遜しちゃって」

ナミさんまで囃し立てるように言うので、また本気にしそうになる。浮ついた心をなだめて、「なんにせよ食ってけねぇさ」とわざとそっけなく答えた。

「じゃあこのアパートで食堂のおばちゃんしてくれよ。金払うからさ」
「私とおんなじこと言ってる。どう、サンジくん」
「そりゃ平和そうだなあ」

笑って流したが、ウソップは「いい案だと思うんだけどなあ」と半ば本気のような口調でなおも言い募っていた。
ふとウソップは知っているのだろうかと気になる。
ナミさんが外に出ないことをどのように思っているのか二人のときに訊いてみたい気がしたが、いざ二人になったときにその場にいないナミさんのことを訊くのはどうも陰湿なように思えて、きっと話題にはできないだろうとわかっていた。

「あーごっそさん、うまかった」

にんにくの香りがいまだ強く残るダイニングで、三人共が満足げな息をつく。

「……寝よ」

すでに半目になっているウソップは立ち上がり、「めしさんきゅーな」と言い残してふらふらとリビングをあとにした。
ワインの最後の一杯を自分のグラスに注いだナミさんは、ウソップが階段を上る足音を聞きながら「こういうことなのよねぇ」と急につぶやく。

「どういうこと?」
「ほしいなあと思うと、私が外に出なくても向こうからやってくる」

立ち上がって、ナミさんはおれのぶんの皿とグラスも手にとった。

「作ってくれたお礼に片付けは私がやるわ。戻ってくれていいわよ」
「──もう少し二人でいてぇな」
「私まだ仕事があるの」

きっぱりとそう告げて、ナミさんは皿をシンクへと運んで洗い始めた。
どうしたもんかね、と一人になったテーブルで空いたボトルを眺める。洗い物を終えたナミさんは、おれの前を素通りしてソファのいつものスペースに収まるとメガネを掛け、パソコンを開いた。
どうしたいのか自分でもわからなかった。諦め悪くしばらくそこに居座り続け、煙草を二本灰にした。

「サンジくんの煙草の匂い、結構好きよ」

唐突にナミさんが言った。21時をまわり、パソコンを睨んだナミさんが一ミリもこちらを気にかけないのでそろそろ部屋に引き上げようかと思ったときだった。

「懐かしくて、ちょっと安心する」

疲れたのか少し目をしばたたかせてこちらを見た。なんと言っていいかわからず、真正面から彼女を見つめ返す。ナミさんは少し恥じらうように目を逸らし、またキーボードを叩き始めた。
灰皿を汚した吸い殻を、惜しい気持ちで捨てたのは初めてだった。

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その日は暑くて、洗濯を回して少し掃除をしただけでとんでもなく汗をかき、背中に張り付いたTシャツは気持ち悪くしわを作って色を変え、フローリングに乗せた足の裏が湿っているのもうんざりして、まだ昼だというのにもう自室に帰って冷やした部屋でシーツをかぶって丸まりたい気持ちになっていた。
でもそんな日に限って、いつ頼んだのかわからない荷物が、それも抱えるくらい大きな段ボール箱で届き、また汗をかきながら梱包を開いたら巨大な寸胴鍋で、二週間ほど前にテレビでどこかの国の老婦人が大鍋で魔女のようにシチューを煮る姿がなぜかとても魅力的に思え、作るあてもないのに彼女を真似て大きな鍋を通販で購入したことを思い出した。

「どうすんのよこれ」

誰にいうでもなくつぶやいて、つるりと輝く赤銅色の鍋肌に自分の顔を映してみる。いびつに歪んだ輪郭がぼんやりとうかびあがったのをため息を付きながら眺め、とりあえず鍋はコンロに置いた。
キッチンの壁にかけたホワイトボードに目を移す。今夜帰ってくるのはゾロだけか。ウソップは職場の飲み会で、ロビンは2,3日あけると言って出たきり帰ってきていない。ルフィもしかり。住人の予定を記すために立て掛けたホワイトボードだけど、まめに予定を書くのは私とウソップだけで、ほとんどが私の仕事上のメモで埋め尽くされている。宅配の予定だとか、家賃を集める日だとか。
冷蔵庫を開けてみたら使いかけの野菜がころころと所在なく横たわっていて、玉ねぎだけ5個入りが二袋も入っている。誰が買ったやつだっけ、と取り出してくるくる回してみるが記名もない。やっぱり各人の仕分けボックスを冷蔵庫内にも入れるべきか、と前から思っていたことを改めて思い直して、キッチンカウンターにとりあえず野菜を出してみる。
窓の外から差し込む光が暑い。ゴミ袋が切れそうだから、近くのドラッグストアに買いに行きたいのに、こんなに暑いんじゃ今日も結局出かけることはしないだろう。
3分の2ほどの人参の皮を向き、一口大に切る。
前に出かけたのは、こんなにも暑くなる前、そうだまだ桜の葉が青々と爽やかに茂っていたときだった。ルフィの大道芸を見るために駅前まで出かけたのが最後だ。
玉ねぎを無心で4つ皮を向き、つるりと美しい白いその実に包丁を差し入れる。しゃりりと心地いい音を手に感じながらまな板からあふれるほど薄切りにする。
今やパソコン一つあれば、ここで暮らす5人の日用品は私が一歩も動かなくたって届けてもらえる。チャイムが鳴ったら玄関を開けて、サイン一つでさっきみたいに荷物を受け取って、あるべき場所にそれらを収めてしまえばもうまるではじめからそこにあったみたい。
にんにくを刻み、油を注いだ鍋に包丁の先で払うようにそのかけらを入れる。威勢よくじゃらじゃらぱちぱちと音を立てて、ふわりと香りがたった。
管理人って楽じゃない。このアパートを引き継いだ当初はそれは大変だった。共用部分の掃除、日用品の補充、ゴミ出し、お金の管理、地域との些末なやり取り。住人同士のトラブルがそうなかったのは幸いだったけれど、自分以外の身の回りの世話をするのはここからここまでという線引が自分の中でできるまで、それは疲弊した。
それが今や、自分の生活の延長線上で管理人が務まっているのだから楽なものだ。瓶に入ったミックススパイスを振り入れて、色の変わった玉ねぎのかさがどんどん減っていくのを面白く眺めた。

「変わったにおいがする」

不意に音もなく開いたドアからゾロが入ってきた。おかえり、とつぶやいた声は炒める音にかき消されたが、ゾロは答えるようにうなずいた。

「んなでかい鍋で何作ってんだ。死体でも煮てんのか」
「そーよ今夜は血のシチューよ」
「そらいいな」

シンクの前でごくごくと水を飲んだゾロはコップを洗わず乾燥棚に戻し、鍋の中を覗き込んだ。

「今日、あいつらも帰ってくんのか」
「ううん。あんたと私だけ」

ゾロは怪訝そうに私の顔を覗き見た。その顔に答えるように言う。

「なんか大きい鍋買っちゃったのよね。あんたも食べるでしょ」
「血のシチュー?」

ぱちっと水分がはねた。あつ、と舐めた指の先をゾロがじっと見ている。その視線を感じる。無視して、わたしは淡々と鍋の中をかき混ぜた。

トマト缶を入れて塩で味を整えて煮込んだカレーを一口食べてゾロは「なんだ、うまいな」と意外そうに言った。

「でしょう。お肉入れなくてもおいしいの」
「辛くなくていい」
「あんた辛いのきらいだもんね」
「ウソップが作るカレーもうまいがなんでもかんでも辛くするから駄目だ」
「あいつ、相当こだわって作ってるわよ。スパイスの調合とか肉の仕入れとか」

6人用の食卓でふたり向かい合って食べるのはさみしいと思っていた。でも今夜は不思議と落ち込んだ気持ちにならない。華やかで慣れ親しんだスパイスの香りがわたしたちの間を元気に行き交うから、ふたりを意識せずに済んだ。
会話がなくても、わたしたちは気にもとめずそれぞれの食事を進めていく。ゾロは何を考えているのか、時折スプーンの動きを止めて宙をじっと見上げた。そういうとき、声をかけても答えはない。
ゾロは造形作家だ。
部屋にはよくわからない針金の人形みたいな骨組みや、大量の粘土や絵の具が散らばっている。売れているのかいないのかその世界のことはさっぱりだがここの家賃は滞りなく支払うし、ときおり豪華な肉や酒を買って帰ってくることもあった。でも、日中でかける仕事の殆どは食いつなぐためのアルバイトで肉体労働をしている。工事とか、足場組みとか。

「ごちそうさま。洗い物はあんたしてよ」

返事は期待していなかった。にもかかわらず、ゾロはいやに明瞭に「ナミ」と私を呼んだ。振り返るとゾロはあと二口ほど残したカレーの皿にスプーンを差すように置いて、まっすぐ私を見ている。
おまえ、とゾロの薄い唇が動く。

「おまえ、おれと寝られるか」

じっとその目を見つめ返すと同じ強さの視線が返ってくる。あと二口だけ残されたカレーがやけに貧相に皿に残っている。ごはんと混ざって、ちっともおいしそうじゃない。

「寝られるけど」
「そうか」

ゾロは残りのカレーをさらさらと流し込むように食べたあと「ごっそさん」と立ち上がり、私の横をすり抜けてたった30秒ほどで私のぶんの皿も洗ってしまうとこちらを振り返って「んじゃ」と言った。

「寝るか」
「……インスピレーション?」

ゾロは本気でわからない、といった顔で首を傾げた。
立ったままカレーの匂いの残る唇を重ね、ゾロの部屋で事を終えた。気だるい頭をぼんやりと持ち上げたら、隣で横たわっていたゾロが唐突に体を起こしてベッドの下に散らばっていた廃材のようなものをかきあつめ、床の上で組み立て始めた。
その丸まった背中を見下ろしながら、芸術家なんて嫌いだとはっきりと感じたことを覚えている。

ゾロに「寝るか」と言われたら寝たし、なんとなくそんな気分になって勝手にゾロの部屋に入ってみたら、始め部屋にいる私を見て一瞬ぎょっとした顔をするものの、ゾロはすぐにその状態を受け入れて当たり前のように私を抱いた。
ゾロに私は必要かといえば必ずしもそうではないだろうし、私にとってもそうだ。お互い、かけがえのない存在にはなりえない。
でも管理人としての私はゾロにとっては必要で、私だってこのアパートからゾロが出ていってしまえばさみしいと感じるだろう。ウソップやルフィ、ロビンでもそうだ。

サンジくんは秋風みたいにするりとこのアパートにやってきた。とらえどころのない身のこなしであっという間に人の懐に入り込む。ホストをしていると聞いて、ああ彼にとってはきっと天職なのだろうと思った。柔らかくほどける笑顔は甘く、低い声は落ち着いていて女性の心を持ち上げる。ひやりと首筋を撫でるような乾いた視線さえ見せなければ、私は誘ったりしなかった。
明らかに酒に飲まれてふらつく姿は夜の仕事をする人間とは思えない頼りなさで、苦しそうにシンクに手を付き水を飲んだサンジくんは酔っ払いらしく顔をほてらせているかと思いきや、存外どこか遠くに体温を忘れてきたみたいな冷えて乾いた目をしていた。
かわいそう。
手を伸ばし頬に触れたらきちんと温かくてほっとした。私の身体を見下ろして上下した喉仏は大きくてその動きを一瞬いとしく思った。
なにかをいとしく思ったことなど、もう、どれくらいぶりだろう。

私は満たされている。
隅々まで知り尽くしたこのアパートと、そこに暮らす人たち。気のいいやつらで、暮らしは快適だ。理解ある女友達だっている。遠く離れたところに暮らす姉は健康で、私を求める男の人はなんとふたりもいる。
どうしてこの場所から動く必要なんてあるだろう?
全部、集まってくるのだから。



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さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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