OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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*
目を覚まし、いの一番に見えたのは無機質な白い壁で、聞こえたのは電子機器の稼働音のような、低い音だった。
そのまま天井をぼうっと見上げていると、いつの間にか医師や看護師がやってきて、アンの身体をあちこち見て回った。
されるがまま、アンは目を開いたり閉じたり、口を開いたり閉じたり、肩の傷を消毒してもらったりしていると、お腹が空いてきた。
お腹が空いたと言うと、もうすぐお昼だから、と看護師が言う。
「あ、やっぱりいいや。もう帰ってもいい?」
「ダメよぉ。怪我は肩以外大したことないけれど、今日一日は安静に」
たしなめるようにアンをベッドに押し戻し、看護師は部屋を出ていく。
アンはベッドからひょいと軽く足を下ろす。
「あたしの服、ないよね。これ借りて行ってもいい?」
「ちょ、だめよ!待ちなさい!」
「手当ありがとう。一旦帰るね」
慌てて伸ばしてきた看護師の手をするりと抜けて、アンはさっさと病院を後にした。
ぼんやりと、まだ夢を見ているような心地で歩いていたが、気付けば慣れた道を足が勝手に歩き、家に辿りついていた。
なんだか、すごく久しぶりな気がする。
家の扉の前に立ち、アンは妙な懐かしさを覚える。
実際家に帰るのは数日ぶりだった。
家の鍵は開いていた。
静かに扉を開き、閉める。
階上でがたごとと物音がしていたかと思うと、四足の動物が蹄で駆けてくるような勢いで、ルフィが二階から階段を駆け下りてきた。
「アンッ!」
「ルフィ」
久しぶりに見る弟は、相変わらず顔のパーツすべてを使うような笑い方をした。
「ただいま。留守番しててくれたの」
「おうっ!病院から、アンが目ェ覚ましたって聞いてすぐに行こうとしたんだけどよ、家の鍵は一個だろ。もしすれ違いになったらだめだと思って、待ってたんだ!」
「ありがと、ごはんは?」
「マキノが置いてってくれた!」
思った通り、彼女が世話を焼いてくれているようだ。
どうりでルフィが元気なはずだと思いながら、腰にまとわりつくような勢いで話しかけてくるルフィを連れて二階に昇った。
そうだ、とルフィがアンを見上げる。
「マキノ、今日も来るって言ってたぞ!」
「今日?」
ちょうどそのとき、まるでルフィとの会話を聞いていたみたいなタイミングで、インターホンがポーンと軽快な音を立てた。
「ほらな!」
ルフィが自慢げに鼻息を荒くする。
「ほんとだ。ルフィ、開けてあげて」
「おうっ」
ルフィが再び1階へと駆け下りる。
その背中を見送り、アンは自室へと戻った。
部屋で着替えていると、マキノとルフィの話し声が微かに聞こえる。
久しぶりに袖を通す私服は、慣れた洗剤の淡いにおいがして気が休まった。
すぐにアンもまた、階段を降りていく。
「マキノ!」
「あらっ!今ちょうどルフィに聞いたところよ、よかったわね、アン……!」
相変わらずシンプルないでたちで、マキノはアンを見上げた。
泣いた後のように、目の下を少し赤らめている。
実際少し泣いたのだろう。
途端に照れくさくなり、アンは俯き加減で笑った。
「お茶入れるね」
「ありがとう。怪我はひどくない?あれだったら私がするわ」
「大丈夫、ありがと」
ルフィが嬉しそうに、まぁ座れよとカウンターの椅子を引っ張り出している。
マキノは相変わらず声を出さずにくすくす笑って、ルフィのエスコートに従い背の高い椅子に腰かけた。
店のメニューにある紅茶を3人分作り、カウンターを挟んでお茶を飲んだ。
相変わらず働き者ね、とマキノが笑う。
「今日退院したばかりでしょう。つらくない?」
「全然。よく眠ってすっきりしてる」
マキノはにっこりと目を細めた。
「一応、今日と明日のぶんくらいの食べ物は2回の冷蔵庫に入れておいたわ。温めたら食べられるから」
「ごめん、なにからなにまで」
「いいのよ」
当然のようにマキノは微笑んだ。
聞きたいことがあるのに、あまりにほのぼのとルフィとマキノが笑い合うのでなかなか話を切り出せないでいた。
「そうだ、あたしお腹が空いてたんだ」
「アンッ、おれのも!」
二階にあがり、自宅用の冷蔵庫を開けると、二段の棚にぎっしりと、タッパ―が詰まっている。
惣菜のなつかしいにおいが、マキノの店の匂いがした。
適当にいくつか手に取り、温め直してルフィと分け合った。
マキノがアイスティーをすすりながら、にこにことそれを見ている。
食事を終え、一息つくと、マキノが立ち上がる。
「それじゃあ私、そろそろ帰るわね。アンも本調子じゃないし、今晩の分も冷蔵庫にあるからそれを食べなさい」
「あ、待って!」
慌ててアンも立ち上がると、マキノが可愛らしい仕草で首をかしげる。
「なあに?」
「……あのとき、なんであそこにいたの?」
あぁ、とマキノはなぜか照れくさそうに笑った。
「買い物に来ていたの。あのときはもう帰りのバスに乗っていて」
マキノは穏やかに笑いながら、再び椅子に腰かける。
「バスが止まったと思ったら、しばらく動かないの。何かなーと思って前を見たら、すごい渋滞で、びっくりしたわ。何事かと思ったら、検問をしていたのね。たくさんの車がすごくクラクションを鳴らしていて、それでも渋滞が全然動かないの。そしたらバスの運転手さんが、しばらく動きそうにないから降りる人はどうぞって言うの」
マキノの指先が、意味もなく空っぽのコップについた水滴をなぞった。
「仕方がないから降りるでしょ。でも荷物もそこそこあるし、歩いて帰るには遠いし、検問を抜けたら別のバスを拾おうかなって考えていたの。そしたら歩道にたくさん警察の人がいて、ここから先は歩行者もいけないっていうのよ。びっくりしていたら、大きな車が近くに停まって、そこからたくさん機動隊の人が出てきた。それで、ああ何か大変なことが起きてるんだって思ったところで、騒ぎの真ん中にあなたの姿が見えた」
マキノがアンを見る。
目を逸らせなかった。
マキノの隣でルフィが、妙に真面目な顔つきで話を聞いている。
「大きな男が、あなたの首根っこを摑まえていて、その男に向かって、よくニュースに乗ってる警察の方が銃を構えているの。息が止まりそうだった。咄嗟に、強盗か何かにあなたが巻き込まれたのだと思ったわ。その間も警察の人がぐいぐい私を押してどかそうとするから、突き飛ばして中に入ってやったの」
「マキノすげぇ!!」
ルフィが純粋な歓声を上げる。
「そしたら男があなたの頭に銃を突きつけた」
マキノはそのときを再現するように、ルフィの頭に人差し指を突きつける。
ルフィが、しししっと笑う。
「そしたらもう何もわからなくなって、機動隊の人を後ろから踏み倒して、男とあなたに向かって走っていって……そこからはよく覚えていないんだけど、気付いたら私は銃を握っていて、あなたの隣に倒れてた」
呆気にとられるアンを前に、マキノはずっと微笑んでいる。
いつのまにかガープさんもいて、とマキノが続ける。
「あなたが病院に運ばれてから、私、すっごくガープさんに怒られたわ。小さい頃みたいに、頭の上からそれはもうガミガミと。拳骨をもらわなかっただけマシね」
「じいちゃんの拳骨はすげぇ痛いんだ」
ルフィが思い出したように相槌を打つ。
マキノはルフィに笑い返して、アンを見上げた。
「あなたのしたことは全部聞いたわ。辛かったわねって言うのは簡単だけど、でも、辛かったわね」
マキノは立ち上がり、さて、と言う。
泣いたらいいのか笑えばいいのかわからないまま、アンはマキノを目で追った。
「ごちそうさま。そろそろ店を開ける準備をしなきゃ」
「メシありがとな!」
ルフィが元気に手を振る。
マキノも手を振り返し、それじゃあと踵を返した。
「なんで」
アンの声に、マキノが振り返る。
声をあげたものの、なにを訊くべきかわからず視線が彷徨った。
マキノもしばらくキョトンとしたままアンを見つめていたが、ふふっと零れるような笑い方をした。
「私が一番に叱ってあげるって、言ったでしょ」
じゃあね、と手を振って、マキノは店先の小さな扉をくぐり、出て行った。
「そんなこと言ってたっけ?」
ルフィがうぅんと首をひねってから、唐突にあくびする。
「片付け手伝って」と言うと、ルフィが渋々カウンターのこちら側へやって来た。
泡のついたスポンジを握りしめる。
「アン?」
ルフィが怪訝な顔で覗き込む。
──もしあたしが、捕まるような悪いことしても?
──そのときは、私が一番に叱ってあげるんだから!
目の前が、霞んで仕方がない。
*
片づけを終え、ルフィに自室の片づけを言い渡してから、アンもリビングの掃除を始めた。
案の定、脱ぎ散らかした服、食べこぼしが散乱している。
昨日一日ルフィ一人にしただけで、このありさまだ。
呆れかえりながら、簡単に部屋を整理する。
あらかた片付いたところで、ルフィがひょっこり顔を出した。
「終わったぞ」
「そ。ねぇ、ルフィ、サボがどこにいるか分かる?」
ルフィは、神妙な顔で頷いた。
「行こっか」
*
サボは、アンが目覚めた場所より大きな病院で眠っていた。
後で聞いたところによると、アンがいたのは警察病院だったらしい。
しかしサボは町一番の大病院で、口元を透明なカップのようなものに覆われたまま、目を閉じていた。
広い部屋だ。
ルフィに連れられて病室に足を踏み入れた瞬間、膝が折れそうになるのを必死でごまかした。
ルフィは一生懸命サボの容体を説明しようとしてくれたが、ルフィ自身がよく理解しておらず、いまいち要領を掴めなかった。
見たところサボは口元にマスクをしているものの、それ以外に物々しい機械に繋がれているわけでもなく、頬に大きなガーゼを貼って、眠っていた。
「サボ」
声を絞り出し、なるべきはっきり聞こえるように発音する。
サボはピクリとも動かなかった。
「ずっと寝てんだ。手術は終わったって言ってたけど」
個室の真ん中に位置するベッド、そのわきにあるサイドテーブルには、綺麗に2種類の花が生けられていた。
マキノかな、と思った。
ベッドのわきに、ちょうどふたつ丸椅子が置いてあったので、ルフィとそこに座る。
近くで見るサボの顔は、傷ついているもののとても穏やかで、シュコー、シュコー、と奇妙な呼吸音だけが違和感を残していた。
不意に、こつこつと硬い音がした。
ルフィと同時に、音のした方を見遣る。
開きっぱなしの扉のむこうには、ガープと、戸枠に入りきらないほど巨体のエドワード・ニューゲート、そしてマルコがいた。
壁をノックしたのはガープだ。
「じいちゃん」
ルフィと声が重なる。
いいかの、と断りを入れ、3人が病室に入って来た。
病院の個室とは思えないほど広い部屋にもかかわらず、途端に部屋は一杯になる。
威圧的な顔をした3人は、みな神妙な面持ちでアンたちを見下ろしていた。
「お前さんが目を覚ましたというから慌てて行ってみれば、勝手に帰ってしもうたというから、ここじゃろうと思って待っておった」
「じいちゃん、サボは助かったの?」
白髪の頭が首を動かしかけて、止まる。
少し考えて、ガープは口を開いた。
「わからん。爆発で下半身を火傷しておるし、地面に落ちた衝撃で両足は複雑骨折、内臓も傷ついてるそうじゃ。幸い頭を強く打たんかったらしいから、脳に異常はない。咄嗟に受け身を取ったんじゃろう。今はショックで眠っておるが、いつ目が覚めるかわからんらしい」
清潔な布団の中で、サボの足はぐるぐると包帯に巻かれ、固定されているのだろう。
サボは変わらず涼しい顔をしている。
じいちゃんを見たら、どう言うかな。
「アン」
顔をあげると、ガープは部屋の隅からがそごそとパイプ椅子をひっぱりだしてきて、座った。
ニューゲートも狭そうにしながら、それに倣う。
「すまんかった」
ガープは深く頭を下げた。
白くなったな、とアンはふさふさした髪を見下ろす。
皺だらけの顔が上がり、真正面からアンを見た。
「今更謝るのは卑怯じゃと思う。だがすまんかった。お前を危険な目に合わせた」
なんだったの?
純粋に、それが知りたかった。
「わしはロジャーが生きている頃から、黒ひげを追い続けた。あの手この手で証拠を隠し姑息に生きていくアイツを仕留めるには、証拠が足りず、20年も追いかけることになってしもうた。ティーチがアンを利用しようと考えているとは、初め、つゆとも思っとらんだ。今、奴はさるぐつわのまま刑務所にぶちこまれておる。舌を噛んで死なれたりしたら敵わんからな。いずれ吐かせるつもりだが、おそらく、あやつは初めからお前を狙っておった。ロジャーが死んだ、あのときから」
アンが浅く頷くと、ガープは少し驚いた表情をしたが、すぐに真顔を取り戻す。
「それならばと、わしらも黒ひげを泳がせた。いずれアンに危険が及ぶのは百も承知じゃったが、元よりアンはこちら側の人間、社会的な保護は絶大じゃ。わしも……白ひげもいる。言い方は悪いが死にさえせんだら、どうとでもしてやれる。アン、お前を餌に黒ひげをおびき出し、証拠が明確なうちに拿捕することが目的だったんじゃ。黒ひげは使ったコマを必ず殺す。じゃがそのコマがアンであれば、と考えた」
「…じゃあ、『エース』はあたしだって」
「知っておった」
思わずマルコに視線を走らせた。
ニューゲートの少し後ろに座る男は、静かにアンを見つめ返す。
アンの視線の先を心得てか、ガープが言う。
「知っていたのはわしと白ひげだけじゃ。マルコも、それ以外の人間は誰も知らんかった。お前が捕まる、あの日まで」
アンは、おそらくガープの意味する白ひげという男を見上げた。
天井近くに顔がある。
金貨のような瞳が、じっとアンを見下ろしていた。
「あんたはだれ?」
「……ロジャーと、仕事をしていた。アン、オメェが生まれた日も、アイツに呼ばれて一緒にいた」
低い声は、すぐ近くで太鼓を鳴らした時のように、足元からお腹のあたりまでをびりびりと揺すった。
「おれもそうだが、あいつも、ロジャーも命を狙われやすい立場だ。死ぬ前から任されていた。娘たちを頼むと」
「ロジャーとルージュが事故に遭った日のことを、話そうか」
ガープが口を挟んだが、アンはすぐさま首を振った。
「いい。知ってる」
正面の男3人が息を呑む。
それまで大人しくしていたルフィが、なに、なんだ、と騒ぎ出す。
「……ティーチが言ったか」
「うん」
なんだよっ!とルフィがむきになる。
「父さんと母さんは、黒ひげに殺されたんだ。事故は仕組まれてたんだって」
アンは床を見つめたまま、言葉を落とすように言った。
聞いたときは内臓がひっくり返るほど怒りが爆発したが、今はそれを口にしても、ただただしんしんと冷たい悲しみが足元に広がるだけで、不思議と怒りはあまり湧いてこなかった。
ただ、ルフィが「なんだとぉ!?」と形相を変えて立ち上がる。
「あいつ!!ぶん殴ってやる!!」
「ばか、いいから落ち着け」
ルフィの腕を引き椅子に座らせたが、ルフィはふんふんと鼻息を荒くして、わかりやすく腹を立てていた。
話を促すと、ニューゲートがおもむろに「マルコ」と呼んだ。
マルコが小さな黒い箱を取り上げ、ニューゲートに手渡す。
ニューゲートはまっすぐ、それをアンの前に差し出した。
受け取った箱は重くも軽くもなかったが、中に何かが入っているのはわかった。
箱は簡単に開く。
アンはそっと蓋を持ち上げた。
「これ」
宝石が緻密な曲線を描き、花弁を見事に表現している真っ赤な髪飾り。
箱から取り出し、手のひらに乗せるとあまるほどの大きさだ。
よくみると、花弁の一枚には母の名前が彫られていた。
それは本当に薄く、目を凝らさなければわからないほど薄く。
母さんのだ。
「裏を見てみろ」
ニューゲートが促すまま、アンは素直に髪飾りを裏返す。
髪を止める金属のバレッタ部分と、花弁の裏側が見えるだけだ。
ただ、よく見ると、ちょうどルージュの名が彫られた裏側に、何か細い線が彫ってある。
アルファベットが3文字。
「『アン』……」
「お前が生まれた日、ルージュが望んだんじゃ。いずれこれはアンのものになるからと」
そう言い、ガープは何かを堪えるように固く目を閉じた。
「それは確かにお前のモンだ、アン」
腰かけたアンのちょうど顔くらいの高さにあるニューゲートの膝。
その上に大きな握りこぶしがあり、それがぐっと強く握られたのがわかる。
アンは顔をのけ反らせて、ニューゲートを見上げた。
ガープと同じく皺だらけの顔は、彼の年齢を感じさせた。
確かニュースで、その容体は芳しくないと言っていた。
しかし目の前の大男はそれをつゆとも感じさせない威厳と、そして若々しさすら感じさせる目で、アンを見下ろす。
「ずっとお前を見ていた」
ニューゲートは、一音ずつ発音するかのようにとてもゆっくりと喋る。
彼が喋るたびに、相変わらず足元が揺れる感覚を覚える。
ただアンは、なにも言わずに金色の瞳を見上げつづけた。
「お前たちが学校へ行ったり、店を出したり、そういうことにおれァなにもしてやってねェ」
だがな、と言う。
「ずっとお前を見てきた。エースの逮捕はおれに取っちゃァお前の保護と同義だった。危険なことに巻きこんじまったが、おれァこの街ごと、お前を守りたかった」
それだけで十分だ、と思った。
「おれァ勝手に、娘みたいに思って」
紐にできた小さな結び目みたいな謎が、するりとほどける。
昔の家が、ロジャーとルージュ、3人の兄弟が暮らした家が、今もきれいであった理由。
この人はずっとあたしたちを見ていた。
あの大きな庁舎のてっぺんから、街ごとあたしたちを見ていた──
「わしを差し置いて勝手なことを抜かすな白ひげ」
ガープがニューゲートを非難すると、彼はうるさそうに大きな鼻に皺を寄せ、聞こえないふりをした。
*
サボがこんこんと眠り始めて、6日が経つ。
アンは日中のほとんどをこの病室で過ごしている。
ルフィはアンに追い払われるように学校へ行き、終わるとすぐさまここへ来る。
そして面会時間が終わる午後7時に、ふたりは家へと帰った。
マキノが持ってきてくれたのだろう花瓶の花は、もう2,3本だけになり後はしおれてしまった。
茶色く萎んだ花を抜き取り、アンは毎日水を変える。
看護師が毎日甲斐甲斐しくサボの身体を世話してくれるので、アンがサボに対してしてやれることはほとんどない。
ただ毎日そばにいて、ひとりごとを聞かせたりしているだけだ。
今日も何もすることがなくて、ベッドのそばに置いた低い椅子に座り、伏せるようにベッドに顎を置いていた。
スリ傷だらけの長い腕がすぐそこにある。
マキノが暇つぶしにと持ってきてくれた料理雑誌は粗方読んでしまったので、ページを捲るのが億劫になり閉じてしまった。
学校で居眠りするような格好で、雑誌の縁をなぞるように指を動かす。
遠くで子供の泣き声が聞こえた。
病院というのはとても静かな場所だと思っていたが、案外そうでもない。
医師たちの声で不吉な騒がしさが起こることもあるし、子どもが注射を嫌がって泣き叫ぶ声も聞こえる。
サボがいるこの部屋も、耳を澄ますと時計の針の音や点滴の落ちる音がわりと大きく響く。
うんと耳を澄ませば、サボの鼓動すら聞こえた。
なんとなしに、覚えのある歌が口をついた。
母さんが歌ってくれたことがあるのかもしれない。
歌詞の意味も曖昧で、よくわからない。子守唄だろうか。
アンは何小節か口ずさみ、途中でメロディがわからなくなってやめた。
自分で歌った子守唄に、うとうと微睡む。
ふわっと風がつむじあたりの髪をかすめていった。
窓、開けっぱなしだったかな。
とろとろとした睡魔がアンを絡め取る。
また、やけにゆっくりと風がアンの髪を揺らした。
何度かそれが繰り返され、気持ちよさに意識が遠のきかける。
風に温度があることに気付いたのは、その瞬間だ。
身体は動かなかった。
顔を伏せたまま、アンはくぐもった声を出す。
「……いつから起きてた?」
一呼吸置いて、掠れた声が降ってきた。
「アンの……下手くそな、歌で……起きた……」
血の通った手のひらが、ぽとんとアンの頭の上に落ちた。
涙が止まらない。
*
朝のうちに掃除に洗濯、ルフィの弁当など家事を済ませ、病室に行く。
ルフィが来て、夜の7時に家に帰る。
そのサイクルに、サボの着替えを工面する時間が加わった。
目を覚ましたサボは、当然すぐさま担当の医師らに囲まれ、まだ何度も何度も検査を受けている。
もちろん意識を取り戻しただけで、内臓の傷も完治していないし、両足の全快には4か月以上かかるだろう。
それでも、病室に行けばサボがふりむいて、よぉと声をあげる。
ルフィと大口を開けて笑う。
そのあとは決まって痛そうに、少し身をよじった。
「昼間ずっとおれのとこにいなくていいよ。家のことや店のことも、やることあるだろ」
「ここにいたら家は散らからないし、店だって埃払うくらいしかすることないし」
3人の店はアンが最後の仕事に出る前日から、ずっと閉店している。
知った客に会うと必ずと言っていいほど休業の理由を訊かれた。
ときおり察しのいい客は3人の誰かが病の床に伏しているのだろうと勝手に勘ぐって、大変ねぇなどの言葉をかけてくれた。
それがただの好奇心であれ心からの慰めであれ、アンはありがたく受け取る。
「休業中」の旨を伝える張り紙は、ひらひらと頼りなく風にさらされていた。
「病院なんてずっといるもんじゃねぇよ。辛気臭いし、ちょっとした風邪だって流行りやすい」
「あたしがかかると思ってんの?」
サボは動きにくそうに、鼻の頭を掻いた。
とにかく、と教師のようにアンに指を突きつける。
「ずっといなくていい。ルフィが来るし、そうだ、ルフィと交代で来てくれればおれも暇しなくていいや」
あとなんか読むもん買って来て、と体のいい御託で、病院を追い出された。
仕方のないので本屋に寄ってから、自宅に戻った。
本屋の紙袋を腕に引っかけて歩いていると、店のシャッターに寄りかかる人影を見つけた。
なで肩の長身が、アンに気付く。
サボの病室にガープとニューゲートと来た、あの時以来だ。
「目ェ覚ましたってねい」
マルコは薄いジャケットを羽織って、いつもの仕事服ではなかった。
アンが頷くと、よかったなとそっけなく言う。
通用口をくぐらせて、マルコを店のカウンター席に座らせておき、アンは2階へコーヒーを取りに行った。
即席で悪いけど、と差し出したカップを受け取り、マルコは店の中を見渡すように視線を動かした。
「店は、さすがにまだ開かねェのかい」
「サボがいないとね。あたしひとりじゃ何もできないし」
「あいつの怪我はどうだよい」
「順調だって聞いてるけど……」
アンにはそう思えなかった。
痛みに耐えて眠れない姿や、身体が抵抗して頻繁に熱を出す姿のサボを見ているから。
そのたびにどこかアンのお腹の底の方から、ちりっと何かが暴れ出そうとする。
マキノに止められなければ、アンは迷わずティーチを殺していた。
今でもきっと、目の前にあの男が現れたら同じことをするだろう。
それが怖くもあり、そしてそう思うことは間違ってないと自分を勇気づける気持ちもわいてくる。
マルコはじっと、カウンター席からアンを見ていた。
「サッチとイゾウの野郎が」
マルコは店の扉に話しかけるように、横を向いている。
「お前さんのメシを食いたがってるよい」
「あ、イゾウ……あのふたりにも、お礼しなきゃ」
マルコにしては大きな動作で、首を振った。
「んなもん要らねェだろよい。特にイゾウは自分のやらかしたことわかってねェからな。一度どこかにぶちこんだ方がいいかもしれねェ」
「でもあれはルフィが」
あとで聞いた話によると、ルフィを乗せてイゾウはまっすぐ黒ひげのアジトに向かわず、なじみの酒屋にバイクを向かわせた。
ルフィに、目的を訊いていたからだ。
てっきり目的はアンの救出かなんかだと思っていたイゾウに、ルフィが言う。
『アンは自分で逃げてくる。おれはおれたちの証拠を消しに行くんだ』
そういうことなら話が早い、燃やしちまえ。
その一言で、イゾウはバイクの小さな荷入れに入るだけのアルコールを、しかもとびきり度数の高いものをしまいこみ、黒ひげのアジトへ向かった。
なんだか楽しそうなイゾウに釣られ、楽しくなってしまったルフィは二人そろって陽気に酒を撒き、火をつけ、さっさと逃げてきたのだという。
建物を出てイゾウがすぐに消防隊を呼んだため、被害は目的の建物一軒で済んだ。
それだって偶然だ、とマルコは渋い顔をする。
「黒ひげの一件は絡んだ人間が多すぎる。逃げた奴も、ただ被害だけを受けた奴もいる。まだ処理が山ほど残ってる」
アンが盗んだ車の持ち主も、一方的に被害を受けた人の一人だろう。
マルコがついと顔を上げる。
「お前は」
背の高い椅子に腰かけたアンは、応えるようにマルコを見下ろした。
「そうしてカウンターの向こうで、ちょこまか動いてんのが性に合ってんだろうよい」
「ちょこまか……」
マルコは、インスタントコーヒーをやけに旨そうにすする。
眠たそうなその目が気になり始めた頃のことを思い出す。
「お前はもう好きなようにやりゃあいい。おれは」
おれは? 無言で促すと、マルコは肩を揺らして笑った。
「お前さんから飛び込んでくるのを待ってるよい」
ぱちぱちっと鳥のように瞬くアンを見て、マルコがまた笑った。
慌てて言葉をつなげる。
「じ、じいさんになるかもよ」
「いいよい」
「そしたらあたしもおばさんになっちゃう」
「構わねェな」
アンは狼狽え、目の前のカウンターを掴む。
「二度とここからでないかも……!」
マルコは子どもをあしらうように、鼻で笑った。
「そんときは、引きずり出してやるよい」
「さ、さっき待ってるって言った……!」
「おれァ耐え性がねェんだ」
言葉に詰まりアンが押し黙ると、マルコはついに声をあげて笑い出した。
*
知らないうちに季節はあっという間に春を通りこし、夏になっていた。
サボは車いすから松葉杖に変わり、ルフィは高校を卒業した。
サボが動き回るにはまだ不自由があるため、店に客を入れることはできなかった。
だから、カフェではなくデリだけを再開させた。
店内で食べるのではなく、アンの作った惣菜を店頭で売り、客はそれを持ち帰る。
多くの喜んだ顔が見られた。
サボの治療費は、見舞金と言って、警察と行政府の両方から莫大な金が降りた。
これまでエースが窃盗したレプリカの髪飾り、それに値する金額は各被害者に返金されたが、ニューゲートは一言もアンたちに黒ひげから渡された金を返せとは言わなかった。
申し出れば断られることもわかっていたので、残ったそれはありがたく生活費に使わせてもらっている。
その金の一部で買ったバイクはあのとき当然破損し、鉄くずに戻ってしまった。
サボが全快したら、お金を貯めて新しいのを買おうと思う。
しかし今は、ルフィがサボを羨ましがって免許を取りに教習所へ通っている。
免許が取れたら、配達サービスをするのだと意気込んでいる。
「うわっ冷てェー!」
ルフィが歓声を上げる。
海へ来ていた。
朝ごはんの後に誰かが言い出し、慌てて電車に乗ったから、ちょうど昼ごろだ。
ルフィは靴を脱ぎ散らかし、じゃぶじゃぶと蹴散らすように波間を歩いた。
「アンはまだ泳げないのか?」
「だって、卒業してから泳いだことなんてないもん」
サボは茶色い砂の上で、松葉杖にもたれて笑った。
「結局泳げるのはおれだけなのに、おれはこんなんだ」
ギブスに巻かれた足に日差しがかかる。
今日は朝方に雨が降っていた。
けしていい天気とは言えない曇り空だったが、分厚い雲の狭い隙間から差し込む光も、悪くない。
「腹減ってきたなァ」
波を踏みつけながら、ルフィが呟く。
「あ」
ルフィが鼻先を空へ向けた。
つられてアンとサボが顔を上げると、長い飛行機雲が雲の割れ目に沿うように走っていた。
もう飛行機雲に喜ぶような歳ではなくなり、海に来ても歩くしかすることがなく、靴が波にさらわれるのを心配したり。
アンは潮のにおいを浅く吸い込む。
ふと顔を戻すと、ふたりはまだ空を見上げていた。
口をあけて、鼻の穴を膨らませ、同じ顔をしている。
──まずはルフィを突き飛ばした。
顎を大きくのけ反らせ、ルフィは手足を大きく振って後ろへ倒れていく。
サボが目を丸めてルフィを見つめる。
すかさずサボの松葉杖を奪い取り、サボが短く叫びを上げた瞬間その肩を軽く突いた。
バランスを崩したサボは、簡単に背後へ倒れていく。
「えっ」
腕を引かれた。
ルフィ、サボ、アンが重なりながら浅い海の上に倒れ込む。
派手に水しぶきが上がった。
顔が思いっきり水の中に浸かる。
見計らったかのように、3人の頭上に波が被さった。
「ぅえっ、クソ、アンのやつ!」
3人もつれ合いながら身体を起こし、ルフィとサボの反撃はいつのまにか水の掛け合いの応酬になった。
砂まみれになってドロドロのまま電車に乗ったこの日のことを、ずっと覚えていようと思う。
FIN
目を覚まし、いの一番に見えたのは無機質な白い壁で、聞こえたのは電子機器の稼働音のような、低い音だった。
そのまま天井をぼうっと見上げていると、いつの間にか医師や看護師がやってきて、アンの身体をあちこち見て回った。
されるがまま、アンは目を開いたり閉じたり、口を開いたり閉じたり、肩の傷を消毒してもらったりしていると、お腹が空いてきた。
お腹が空いたと言うと、もうすぐお昼だから、と看護師が言う。
「あ、やっぱりいいや。もう帰ってもいい?」
「ダメよぉ。怪我は肩以外大したことないけれど、今日一日は安静に」
たしなめるようにアンをベッドに押し戻し、看護師は部屋を出ていく。
アンはベッドからひょいと軽く足を下ろす。
「あたしの服、ないよね。これ借りて行ってもいい?」
「ちょ、だめよ!待ちなさい!」
「手当ありがとう。一旦帰るね」
慌てて伸ばしてきた看護師の手をするりと抜けて、アンはさっさと病院を後にした。
ぼんやりと、まだ夢を見ているような心地で歩いていたが、気付けば慣れた道を足が勝手に歩き、家に辿りついていた。
なんだか、すごく久しぶりな気がする。
家の扉の前に立ち、アンは妙な懐かしさを覚える。
実際家に帰るのは数日ぶりだった。
家の鍵は開いていた。
静かに扉を開き、閉める。
階上でがたごとと物音がしていたかと思うと、四足の動物が蹄で駆けてくるような勢いで、ルフィが二階から階段を駆け下りてきた。
「アンッ!」
「ルフィ」
久しぶりに見る弟は、相変わらず顔のパーツすべてを使うような笑い方をした。
「ただいま。留守番しててくれたの」
「おうっ!病院から、アンが目ェ覚ましたって聞いてすぐに行こうとしたんだけどよ、家の鍵は一個だろ。もしすれ違いになったらだめだと思って、待ってたんだ!」
「ありがと、ごはんは?」
「マキノが置いてってくれた!」
思った通り、彼女が世話を焼いてくれているようだ。
どうりでルフィが元気なはずだと思いながら、腰にまとわりつくような勢いで話しかけてくるルフィを連れて二階に昇った。
そうだ、とルフィがアンを見上げる。
「マキノ、今日も来るって言ってたぞ!」
「今日?」
ちょうどそのとき、まるでルフィとの会話を聞いていたみたいなタイミングで、インターホンがポーンと軽快な音を立てた。
「ほらな!」
ルフィが自慢げに鼻息を荒くする。
「ほんとだ。ルフィ、開けてあげて」
「おうっ」
ルフィが再び1階へと駆け下りる。
その背中を見送り、アンは自室へと戻った。
部屋で着替えていると、マキノとルフィの話し声が微かに聞こえる。
久しぶりに袖を通す私服は、慣れた洗剤の淡いにおいがして気が休まった。
すぐにアンもまた、階段を降りていく。
「マキノ!」
「あらっ!今ちょうどルフィに聞いたところよ、よかったわね、アン……!」
相変わらずシンプルないでたちで、マキノはアンを見上げた。
泣いた後のように、目の下を少し赤らめている。
実際少し泣いたのだろう。
途端に照れくさくなり、アンは俯き加減で笑った。
「お茶入れるね」
「ありがとう。怪我はひどくない?あれだったら私がするわ」
「大丈夫、ありがと」
ルフィが嬉しそうに、まぁ座れよとカウンターの椅子を引っ張り出している。
マキノは相変わらず声を出さずにくすくす笑って、ルフィのエスコートに従い背の高い椅子に腰かけた。
店のメニューにある紅茶を3人分作り、カウンターを挟んでお茶を飲んだ。
相変わらず働き者ね、とマキノが笑う。
「今日退院したばかりでしょう。つらくない?」
「全然。よく眠ってすっきりしてる」
マキノはにっこりと目を細めた。
「一応、今日と明日のぶんくらいの食べ物は2回の冷蔵庫に入れておいたわ。温めたら食べられるから」
「ごめん、なにからなにまで」
「いいのよ」
当然のようにマキノは微笑んだ。
聞きたいことがあるのに、あまりにほのぼのとルフィとマキノが笑い合うのでなかなか話を切り出せないでいた。
「そうだ、あたしお腹が空いてたんだ」
「アンッ、おれのも!」
二階にあがり、自宅用の冷蔵庫を開けると、二段の棚にぎっしりと、タッパ―が詰まっている。
惣菜のなつかしいにおいが、マキノの店の匂いがした。
適当にいくつか手に取り、温め直してルフィと分け合った。
マキノがアイスティーをすすりながら、にこにことそれを見ている。
食事を終え、一息つくと、マキノが立ち上がる。
「それじゃあ私、そろそろ帰るわね。アンも本調子じゃないし、今晩の分も冷蔵庫にあるからそれを食べなさい」
「あ、待って!」
慌ててアンも立ち上がると、マキノが可愛らしい仕草で首をかしげる。
「なあに?」
「……あのとき、なんであそこにいたの?」
あぁ、とマキノはなぜか照れくさそうに笑った。
「買い物に来ていたの。あのときはもう帰りのバスに乗っていて」
マキノは穏やかに笑いながら、再び椅子に腰かける。
「バスが止まったと思ったら、しばらく動かないの。何かなーと思って前を見たら、すごい渋滞で、びっくりしたわ。何事かと思ったら、検問をしていたのね。たくさんの車がすごくクラクションを鳴らしていて、それでも渋滞が全然動かないの。そしたらバスの運転手さんが、しばらく動きそうにないから降りる人はどうぞって言うの」
マキノの指先が、意味もなく空っぽのコップについた水滴をなぞった。
「仕方がないから降りるでしょ。でも荷物もそこそこあるし、歩いて帰るには遠いし、検問を抜けたら別のバスを拾おうかなって考えていたの。そしたら歩道にたくさん警察の人がいて、ここから先は歩行者もいけないっていうのよ。びっくりしていたら、大きな車が近くに停まって、そこからたくさん機動隊の人が出てきた。それで、ああ何か大変なことが起きてるんだって思ったところで、騒ぎの真ん中にあなたの姿が見えた」
マキノがアンを見る。
目を逸らせなかった。
マキノの隣でルフィが、妙に真面目な顔つきで話を聞いている。
「大きな男が、あなたの首根っこを摑まえていて、その男に向かって、よくニュースに乗ってる警察の方が銃を構えているの。息が止まりそうだった。咄嗟に、強盗か何かにあなたが巻き込まれたのだと思ったわ。その間も警察の人がぐいぐい私を押してどかそうとするから、突き飛ばして中に入ってやったの」
「マキノすげぇ!!」
ルフィが純粋な歓声を上げる。
「そしたら男があなたの頭に銃を突きつけた」
マキノはそのときを再現するように、ルフィの頭に人差し指を突きつける。
ルフィが、しししっと笑う。
「そしたらもう何もわからなくなって、機動隊の人を後ろから踏み倒して、男とあなたに向かって走っていって……そこからはよく覚えていないんだけど、気付いたら私は銃を握っていて、あなたの隣に倒れてた」
呆気にとられるアンを前に、マキノはずっと微笑んでいる。
いつのまにかガープさんもいて、とマキノが続ける。
「あなたが病院に運ばれてから、私、すっごくガープさんに怒られたわ。小さい頃みたいに、頭の上からそれはもうガミガミと。拳骨をもらわなかっただけマシね」
「じいちゃんの拳骨はすげぇ痛いんだ」
ルフィが思い出したように相槌を打つ。
マキノはルフィに笑い返して、アンを見上げた。
「あなたのしたことは全部聞いたわ。辛かったわねって言うのは簡単だけど、でも、辛かったわね」
マキノは立ち上がり、さて、と言う。
泣いたらいいのか笑えばいいのかわからないまま、アンはマキノを目で追った。
「ごちそうさま。そろそろ店を開ける準備をしなきゃ」
「メシありがとな!」
ルフィが元気に手を振る。
マキノも手を振り返し、それじゃあと踵を返した。
「なんで」
アンの声に、マキノが振り返る。
声をあげたものの、なにを訊くべきかわからず視線が彷徨った。
マキノもしばらくキョトンとしたままアンを見つめていたが、ふふっと零れるような笑い方をした。
「私が一番に叱ってあげるって、言ったでしょ」
じゃあね、と手を振って、マキノは店先の小さな扉をくぐり、出て行った。
「そんなこと言ってたっけ?」
ルフィがうぅんと首をひねってから、唐突にあくびする。
「片付け手伝って」と言うと、ルフィが渋々カウンターのこちら側へやって来た。
泡のついたスポンジを握りしめる。
「アン?」
ルフィが怪訝な顔で覗き込む。
──もしあたしが、捕まるような悪いことしても?
──そのときは、私が一番に叱ってあげるんだから!
目の前が、霞んで仕方がない。
*
片づけを終え、ルフィに自室の片づけを言い渡してから、アンもリビングの掃除を始めた。
案の定、脱ぎ散らかした服、食べこぼしが散乱している。
昨日一日ルフィ一人にしただけで、このありさまだ。
呆れかえりながら、簡単に部屋を整理する。
あらかた片付いたところで、ルフィがひょっこり顔を出した。
「終わったぞ」
「そ。ねぇ、ルフィ、サボがどこにいるか分かる?」
ルフィは、神妙な顔で頷いた。
「行こっか」
*
サボは、アンが目覚めた場所より大きな病院で眠っていた。
後で聞いたところによると、アンがいたのは警察病院だったらしい。
しかしサボは町一番の大病院で、口元を透明なカップのようなものに覆われたまま、目を閉じていた。
広い部屋だ。
ルフィに連れられて病室に足を踏み入れた瞬間、膝が折れそうになるのを必死でごまかした。
ルフィは一生懸命サボの容体を説明しようとしてくれたが、ルフィ自身がよく理解しておらず、いまいち要領を掴めなかった。
見たところサボは口元にマスクをしているものの、それ以外に物々しい機械に繋がれているわけでもなく、頬に大きなガーゼを貼って、眠っていた。
「サボ」
声を絞り出し、なるべきはっきり聞こえるように発音する。
サボはピクリとも動かなかった。
「ずっと寝てんだ。手術は終わったって言ってたけど」
個室の真ん中に位置するベッド、そのわきにあるサイドテーブルには、綺麗に2種類の花が生けられていた。
マキノかな、と思った。
ベッドのわきに、ちょうどふたつ丸椅子が置いてあったので、ルフィとそこに座る。
近くで見るサボの顔は、傷ついているもののとても穏やかで、シュコー、シュコー、と奇妙な呼吸音だけが違和感を残していた。
不意に、こつこつと硬い音がした。
ルフィと同時に、音のした方を見遣る。
開きっぱなしの扉のむこうには、ガープと、戸枠に入りきらないほど巨体のエドワード・ニューゲート、そしてマルコがいた。
壁をノックしたのはガープだ。
「じいちゃん」
ルフィと声が重なる。
いいかの、と断りを入れ、3人が病室に入って来た。
病院の個室とは思えないほど広い部屋にもかかわらず、途端に部屋は一杯になる。
威圧的な顔をした3人は、みな神妙な面持ちでアンたちを見下ろしていた。
「お前さんが目を覚ましたというから慌てて行ってみれば、勝手に帰ってしもうたというから、ここじゃろうと思って待っておった」
「じいちゃん、サボは助かったの?」
白髪の頭が首を動かしかけて、止まる。
少し考えて、ガープは口を開いた。
「わからん。爆発で下半身を火傷しておるし、地面に落ちた衝撃で両足は複雑骨折、内臓も傷ついてるそうじゃ。幸い頭を強く打たんかったらしいから、脳に異常はない。咄嗟に受け身を取ったんじゃろう。今はショックで眠っておるが、いつ目が覚めるかわからんらしい」
清潔な布団の中で、サボの足はぐるぐると包帯に巻かれ、固定されているのだろう。
サボは変わらず涼しい顔をしている。
じいちゃんを見たら、どう言うかな。
「アン」
顔をあげると、ガープは部屋の隅からがそごそとパイプ椅子をひっぱりだしてきて、座った。
ニューゲートも狭そうにしながら、それに倣う。
「すまんかった」
ガープは深く頭を下げた。
白くなったな、とアンはふさふさした髪を見下ろす。
皺だらけの顔が上がり、真正面からアンを見た。
「今更謝るのは卑怯じゃと思う。だがすまんかった。お前を危険な目に合わせた」
なんだったの?
純粋に、それが知りたかった。
「わしはロジャーが生きている頃から、黒ひげを追い続けた。あの手この手で証拠を隠し姑息に生きていくアイツを仕留めるには、証拠が足りず、20年も追いかけることになってしもうた。ティーチがアンを利用しようと考えているとは、初め、つゆとも思っとらんだ。今、奴はさるぐつわのまま刑務所にぶちこまれておる。舌を噛んで死なれたりしたら敵わんからな。いずれ吐かせるつもりだが、おそらく、あやつは初めからお前を狙っておった。ロジャーが死んだ、あのときから」
アンが浅く頷くと、ガープは少し驚いた表情をしたが、すぐに真顔を取り戻す。
「それならばと、わしらも黒ひげを泳がせた。いずれアンに危険が及ぶのは百も承知じゃったが、元よりアンはこちら側の人間、社会的な保護は絶大じゃ。わしも……白ひげもいる。言い方は悪いが死にさえせんだら、どうとでもしてやれる。アン、お前を餌に黒ひげをおびき出し、証拠が明確なうちに拿捕することが目的だったんじゃ。黒ひげは使ったコマを必ず殺す。じゃがそのコマがアンであれば、と考えた」
「…じゃあ、『エース』はあたしだって」
「知っておった」
思わずマルコに視線を走らせた。
ニューゲートの少し後ろに座る男は、静かにアンを見つめ返す。
アンの視線の先を心得てか、ガープが言う。
「知っていたのはわしと白ひげだけじゃ。マルコも、それ以外の人間は誰も知らんかった。お前が捕まる、あの日まで」
アンは、おそらくガープの意味する白ひげという男を見上げた。
天井近くに顔がある。
金貨のような瞳が、じっとアンを見下ろしていた。
「あんたはだれ?」
「……ロジャーと、仕事をしていた。アン、オメェが生まれた日も、アイツに呼ばれて一緒にいた」
低い声は、すぐ近くで太鼓を鳴らした時のように、足元からお腹のあたりまでをびりびりと揺すった。
「おれもそうだが、あいつも、ロジャーも命を狙われやすい立場だ。死ぬ前から任されていた。娘たちを頼むと」
「ロジャーとルージュが事故に遭った日のことを、話そうか」
ガープが口を挟んだが、アンはすぐさま首を振った。
「いい。知ってる」
正面の男3人が息を呑む。
それまで大人しくしていたルフィが、なに、なんだ、と騒ぎ出す。
「……ティーチが言ったか」
「うん」
なんだよっ!とルフィがむきになる。
「父さんと母さんは、黒ひげに殺されたんだ。事故は仕組まれてたんだって」
アンは床を見つめたまま、言葉を落とすように言った。
聞いたときは内臓がひっくり返るほど怒りが爆発したが、今はそれを口にしても、ただただしんしんと冷たい悲しみが足元に広がるだけで、不思議と怒りはあまり湧いてこなかった。
ただ、ルフィが「なんだとぉ!?」と形相を変えて立ち上がる。
「あいつ!!ぶん殴ってやる!!」
「ばか、いいから落ち着け」
ルフィの腕を引き椅子に座らせたが、ルフィはふんふんと鼻息を荒くして、わかりやすく腹を立てていた。
話を促すと、ニューゲートがおもむろに「マルコ」と呼んだ。
マルコが小さな黒い箱を取り上げ、ニューゲートに手渡す。
ニューゲートはまっすぐ、それをアンの前に差し出した。
受け取った箱は重くも軽くもなかったが、中に何かが入っているのはわかった。
箱は簡単に開く。
アンはそっと蓋を持ち上げた。
「これ」
宝石が緻密な曲線を描き、花弁を見事に表現している真っ赤な髪飾り。
箱から取り出し、手のひらに乗せるとあまるほどの大きさだ。
よくみると、花弁の一枚には母の名前が彫られていた。
それは本当に薄く、目を凝らさなければわからないほど薄く。
母さんのだ。
「裏を見てみろ」
ニューゲートが促すまま、アンは素直に髪飾りを裏返す。
髪を止める金属のバレッタ部分と、花弁の裏側が見えるだけだ。
ただ、よく見ると、ちょうどルージュの名が彫られた裏側に、何か細い線が彫ってある。
アルファベットが3文字。
「『アン』……」
「お前が生まれた日、ルージュが望んだんじゃ。いずれこれはアンのものになるからと」
そう言い、ガープは何かを堪えるように固く目を閉じた。
「それは確かにお前のモンだ、アン」
腰かけたアンのちょうど顔くらいの高さにあるニューゲートの膝。
その上に大きな握りこぶしがあり、それがぐっと強く握られたのがわかる。
アンは顔をのけ反らせて、ニューゲートを見上げた。
ガープと同じく皺だらけの顔は、彼の年齢を感じさせた。
確かニュースで、その容体は芳しくないと言っていた。
しかし目の前の大男はそれをつゆとも感じさせない威厳と、そして若々しさすら感じさせる目で、アンを見下ろす。
「ずっとお前を見ていた」
ニューゲートは、一音ずつ発音するかのようにとてもゆっくりと喋る。
彼が喋るたびに、相変わらず足元が揺れる感覚を覚える。
ただアンは、なにも言わずに金色の瞳を見上げつづけた。
「お前たちが学校へ行ったり、店を出したり、そういうことにおれァなにもしてやってねェ」
だがな、と言う。
「ずっとお前を見てきた。エースの逮捕はおれに取っちゃァお前の保護と同義だった。危険なことに巻きこんじまったが、おれァこの街ごと、お前を守りたかった」
それだけで十分だ、と思った。
「おれァ勝手に、娘みたいに思って」
紐にできた小さな結び目みたいな謎が、するりとほどける。
昔の家が、ロジャーとルージュ、3人の兄弟が暮らした家が、今もきれいであった理由。
この人はずっとあたしたちを見ていた。
あの大きな庁舎のてっぺんから、街ごとあたしたちを見ていた──
「わしを差し置いて勝手なことを抜かすな白ひげ」
ガープがニューゲートを非難すると、彼はうるさそうに大きな鼻に皺を寄せ、聞こえないふりをした。
*
サボがこんこんと眠り始めて、6日が経つ。
アンは日中のほとんどをこの病室で過ごしている。
ルフィはアンに追い払われるように学校へ行き、終わるとすぐさまここへ来る。
そして面会時間が終わる午後7時に、ふたりは家へと帰った。
マキノが持ってきてくれたのだろう花瓶の花は、もう2,3本だけになり後はしおれてしまった。
茶色く萎んだ花を抜き取り、アンは毎日水を変える。
看護師が毎日甲斐甲斐しくサボの身体を世話してくれるので、アンがサボに対してしてやれることはほとんどない。
ただ毎日そばにいて、ひとりごとを聞かせたりしているだけだ。
今日も何もすることがなくて、ベッドのそばに置いた低い椅子に座り、伏せるようにベッドに顎を置いていた。
スリ傷だらけの長い腕がすぐそこにある。
マキノが暇つぶしにと持ってきてくれた料理雑誌は粗方読んでしまったので、ページを捲るのが億劫になり閉じてしまった。
学校で居眠りするような格好で、雑誌の縁をなぞるように指を動かす。
遠くで子供の泣き声が聞こえた。
病院というのはとても静かな場所だと思っていたが、案外そうでもない。
医師たちの声で不吉な騒がしさが起こることもあるし、子どもが注射を嫌がって泣き叫ぶ声も聞こえる。
サボがいるこの部屋も、耳を澄ますと時計の針の音や点滴の落ちる音がわりと大きく響く。
うんと耳を澄ませば、サボの鼓動すら聞こえた。
なんとなしに、覚えのある歌が口をついた。
母さんが歌ってくれたことがあるのかもしれない。
歌詞の意味も曖昧で、よくわからない。子守唄だろうか。
アンは何小節か口ずさみ、途中でメロディがわからなくなってやめた。
自分で歌った子守唄に、うとうと微睡む。
ふわっと風がつむじあたりの髪をかすめていった。
窓、開けっぱなしだったかな。
とろとろとした睡魔がアンを絡め取る。
また、やけにゆっくりと風がアンの髪を揺らした。
何度かそれが繰り返され、気持ちよさに意識が遠のきかける。
風に温度があることに気付いたのは、その瞬間だ。
身体は動かなかった。
顔を伏せたまま、アンはくぐもった声を出す。
「……いつから起きてた?」
一呼吸置いて、掠れた声が降ってきた。
「アンの……下手くそな、歌で……起きた……」
血の通った手のひらが、ぽとんとアンの頭の上に落ちた。
涙が止まらない。
*
朝のうちに掃除に洗濯、ルフィの弁当など家事を済ませ、病室に行く。
ルフィが来て、夜の7時に家に帰る。
そのサイクルに、サボの着替えを工面する時間が加わった。
目を覚ましたサボは、当然すぐさま担当の医師らに囲まれ、まだ何度も何度も検査を受けている。
もちろん意識を取り戻しただけで、内臓の傷も完治していないし、両足の全快には4か月以上かかるだろう。
それでも、病室に行けばサボがふりむいて、よぉと声をあげる。
ルフィと大口を開けて笑う。
そのあとは決まって痛そうに、少し身をよじった。
「昼間ずっとおれのとこにいなくていいよ。家のことや店のことも、やることあるだろ」
「ここにいたら家は散らからないし、店だって埃払うくらいしかすることないし」
3人の店はアンが最後の仕事に出る前日から、ずっと閉店している。
知った客に会うと必ずと言っていいほど休業の理由を訊かれた。
ときおり察しのいい客は3人の誰かが病の床に伏しているのだろうと勝手に勘ぐって、大変ねぇなどの言葉をかけてくれた。
それがただの好奇心であれ心からの慰めであれ、アンはありがたく受け取る。
「休業中」の旨を伝える張り紙は、ひらひらと頼りなく風にさらされていた。
「病院なんてずっといるもんじゃねぇよ。辛気臭いし、ちょっとした風邪だって流行りやすい」
「あたしがかかると思ってんの?」
サボは動きにくそうに、鼻の頭を掻いた。
とにかく、と教師のようにアンに指を突きつける。
「ずっといなくていい。ルフィが来るし、そうだ、ルフィと交代で来てくれればおれも暇しなくていいや」
あとなんか読むもん買って来て、と体のいい御託で、病院を追い出された。
仕方のないので本屋に寄ってから、自宅に戻った。
本屋の紙袋を腕に引っかけて歩いていると、店のシャッターに寄りかかる人影を見つけた。
なで肩の長身が、アンに気付く。
サボの病室にガープとニューゲートと来た、あの時以来だ。
「目ェ覚ましたってねい」
マルコは薄いジャケットを羽織って、いつもの仕事服ではなかった。
アンが頷くと、よかったなとそっけなく言う。
通用口をくぐらせて、マルコを店のカウンター席に座らせておき、アンは2階へコーヒーを取りに行った。
即席で悪いけど、と差し出したカップを受け取り、マルコは店の中を見渡すように視線を動かした。
「店は、さすがにまだ開かねェのかい」
「サボがいないとね。あたしひとりじゃ何もできないし」
「あいつの怪我はどうだよい」
「順調だって聞いてるけど……」
アンにはそう思えなかった。
痛みに耐えて眠れない姿や、身体が抵抗して頻繁に熱を出す姿のサボを見ているから。
そのたびにどこかアンのお腹の底の方から、ちりっと何かが暴れ出そうとする。
マキノに止められなければ、アンは迷わずティーチを殺していた。
今でもきっと、目の前にあの男が現れたら同じことをするだろう。
それが怖くもあり、そしてそう思うことは間違ってないと自分を勇気づける気持ちもわいてくる。
マルコはじっと、カウンター席からアンを見ていた。
「サッチとイゾウの野郎が」
マルコは店の扉に話しかけるように、横を向いている。
「お前さんのメシを食いたがってるよい」
「あ、イゾウ……あのふたりにも、お礼しなきゃ」
マルコにしては大きな動作で、首を振った。
「んなもん要らねェだろよい。特にイゾウは自分のやらかしたことわかってねェからな。一度どこかにぶちこんだ方がいいかもしれねェ」
「でもあれはルフィが」
あとで聞いた話によると、ルフィを乗せてイゾウはまっすぐ黒ひげのアジトに向かわず、なじみの酒屋にバイクを向かわせた。
ルフィに、目的を訊いていたからだ。
てっきり目的はアンの救出かなんかだと思っていたイゾウに、ルフィが言う。
『アンは自分で逃げてくる。おれはおれたちの証拠を消しに行くんだ』
そういうことなら話が早い、燃やしちまえ。
その一言で、イゾウはバイクの小さな荷入れに入るだけのアルコールを、しかもとびきり度数の高いものをしまいこみ、黒ひげのアジトへ向かった。
なんだか楽しそうなイゾウに釣られ、楽しくなってしまったルフィは二人そろって陽気に酒を撒き、火をつけ、さっさと逃げてきたのだという。
建物を出てイゾウがすぐに消防隊を呼んだため、被害は目的の建物一軒で済んだ。
それだって偶然だ、とマルコは渋い顔をする。
「黒ひげの一件は絡んだ人間が多すぎる。逃げた奴も、ただ被害だけを受けた奴もいる。まだ処理が山ほど残ってる」
アンが盗んだ車の持ち主も、一方的に被害を受けた人の一人だろう。
マルコがついと顔を上げる。
「お前は」
背の高い椅子に腰かけたアンは、応えるようにマルコを見下ろした。
「そうしてカウンターの向こうで、ちょこまか動いてんのが性に合ってんだろうよい」
「ちょこまか……」
マルコは、インスタントコーヒーをやけに旨そうにすする。
眠たそうなその目が気になり始めた頃のことを思い出す。
「お前はもう好きなようにやりゃあいい。おれは」
おれは? 無言で促すと、マルコは肩を揺らして笑った。
「お前さんから飛び込んでくるのを待ってるよい」
ぱちぱちっと鳥のように瞬くアンを見て、マルコがまた笑った。
慌てて言葉をつなげる。
「じ、じいさんになるかもよ」
「いいよい」
「そしたらあたしもおばさんになっちゃう」
「構わねェな」
アンは狼狽え、目の前のカウンターを掴む。
「二度とここからでないかも……!」
マルコは子どもをあしらうように、鼻で笑った。
「そんときは、引きずり出してやるよい」
「さ、さっき待ってるって言った……!」
「おれァ耐え性がねェんだ」
言葉に詰まりアンが押し黙ると、マルコはついに声をあげて笑い出した。
*
知らないうちに季節はあっという間に春を通りこし、夏になっていた。
サボは車いすから松葉杖に変わり、ルフィは高校を卒業した。
サボが動き回るにはまだ不自由があるため、店に客を入れることはできなかった。
だから、カフェではなくデリだけを再開させた。
店内で食べるのではなく、アンの作った惣菜を店頭で売り、客はそれを持ち帰る。
多くの喜んだ顔が見られた。
サボの治療費は、見舞金と言って、警察と行政府の両方から莫大な金が降りた。
これまでエースが窃盗したレプリカの髪飾り、それに値する金額は各被害者に返金されたが、ニューゲートは一言もアンたちに黒ひげから渡された金を返せとは言わなかった。
申し出れば断られることもわかっていたので、残ったそれはありがたく生活費に使わせてもらっている。
その金の一部で買ったバイクはあのとき当然破損し、鉄くずに戻ってしまった。
サボが全快したら、お金を貯めて新しいのを買おうと思う。
しかし今は、ルフィがサボを羨ましがって免許を取りに教習所へ通っている。
免許が取れたら、配達サービスをするのだと意気込んでいる。
「うわっ冷てェー!」
ルフィが歓声を上げる。
海へ来ていた。
朝ごはんの後に誰かが言い出し、慌てて電車に乗ったから、ちょうど昼ごろだ。
ルフィは靴を脱ぎ散らかし、じゃぶじゃぶと蹴散らすように波間を歩いた。
「アンはまだ泳げないのか?」
「だって、卒業してから泳いだことなんてないもん」
サボは茶色い砂の上で、松葉杖にもたれて笑った。
「結局泳げるのはおれだけなのに、おれはこんなんだ」
ギブスに巻かれた足に日差しがかかる。
今日は朝方に雨が降っていた。
けしていい天気とは言えない曇り空だったが、分厚い雲の狭い隙間から差し込む光も、悪くない。
「腹減ってきたなァ」
波を踏みつけながら、ルフィが呟く。
「あ」
ルフィが鼻先を空へ向けた。
つられてアンとサボが顔を上げると、長い飛行機雲が雲の割れ目に沿うように走っていた。
もう飛行機雲に喜ぶような歳ではなくなり、海に来ても歩くしかすることがなく、靴が波にさらわれるのを心配したり。
アンは潮のにおいを浅く吸い込む。
ふと顔を戻すと、ふたりはまだ空を見上げていた。
口をあけて、鼻の穴を膨らませ、同じ顔をしている。
──まずはルフィを突き飛ばした。
顎を大きくのけ反らせ、ルフィは手足を大きく振って後ろへ倒れていく。
サボが目を丸めてルフィを見つめる。
すかさずサボの松葉杖を奪い取り、サボが短く叫びを上げた瞬間その肩を軽く突いた。
バランスを崩したサボは、簡単に背後へ倒れていく。
「えっ」
腕を引かれた。
ルフィ、サボ、アンが重なりながら浅い海の上に倒れ込む。
派手に水しぶきが上がった。
顔が思いっきり水の中に浸かる。
見計らったかのように、3人の頭上に波が被さった。
「ぅえっ、クソ、アンのやつ!」
3人もつれ合いながら身体を起こし、ルフィとサボの反撃はいつのまにか水の掛け合いの応酬になった。
砂まみれになってドロドロのまま電車に乗ったこの日のことを、ずっと覚えていようと思う。
FIN
PR
ハンドルを切るたびに、左肩を無数の針で刺されたような痛みが走る。
北に向かって車を走らせていたアンは、いったん車を路側帯へ寄せた。
下手くそな運転のせいで、車輪は歩道に乗り上げ、不恰好な斜めの状態で停車したが、幸い通勤時間前の通りは閑散としている。
弾がかすった左肩からは、今でも絶えず血が流れ、アンの囚人服の袖を真っ赤に染め上げていた。
左手の指先が、ちりちりと痺れている。
あいにく車の中にはタオルのようなものもないので、止血をすることもできない。
肩から腕にかけて血が流れる感覚や、火が出ているような熱さのせいで頭ははっきりしていた。
この状態では、いずれ運転もままならなくなる。
それ以前に、黒ひげの誰かに見つかれば逃げることができないかもしれない。
瞬時にこれからの行先を考え直した。
家はだめだ、回り込まれているかもしれない。
これから行くつもりだった警視庁は遠い。そこまでアンの腕が持つかどうか、アン自身にもわからなかった。
ここから一番近い、手当のできる場所──
窓から外を見渡した。
雲の多い空、立ち並ぶ石造りの建物、シャッターの閉まった商店、植木鉢、電柱・・・
ハッと目の前が明るくなった。
お願い、まだ止まらないで。
痺れて感覚を失いかけた左腕を叱咤し、アンはアクセルを踏みこむと同時に大きくハンドルを切った。
北へ向かっていた車の頭を、南側に方向転換する。
ちらほらと通勤の車が姿を見せだし、乱暴な運転をするアンの車を驚いた顔や迷惑そうな顔で一瞥しては上手く避けて通り過ぎていく。
対向車とぶつからないことだけを念頭に、アンは南へと車を走らせた。
シートを流れる血が、太腿を濡らしていた。
*
「──うちは11時からしか診療はしない。しかも木曜は休みだ」
「でも開けてくれた」
下から覗き込むように顔を見上げると、ローは引き結んだ口元を少し動かしただけで、なにも言わなかった。
ローはアンの上半身に道を敷いていくように、真っ白な包帯を手際よく巻いていく。
すぐそばのサイドテーブルには血を吸ったガーゼが山を作っていた。
測ったかのようにちょうどよい長さで包帯が切れ、アンの肩のあたりに小さな金具でとめられた。
「ありがとう」
礼を聞き流すように背を向けたローは、机の上の小さな箱から、錠剤を取り出してアンに差し出した。
「飲んでおけ」
「なに?」
「増血剤だ」
ビタミン剤となんら外見の変わらないそれを受け取って、素直に飲み下した。
左肩を少し動かすと、痛みは走るが、断然動かしやすく痛みもひどくない。
先程飲んだ痛み止めもそろそろ効いてくるころだろう。
囚人服の上着にそでを通そうとしていると、器具を片づけていたローが呆れたように「お前」と言った。
暗殺犯だってもう少し景気のいい顔をしている、と思いながらローを見上げた。
「その服で行くつもりか?」
「だって、これしかない」
ローは言葉を紡ごうと口を開くそぶりを見せたものの、そのまま黙って踵を返し、奥へと引っ込んでいった。
その間に、アンは囚人服を頭から被った。
戻ってきたかと思うと、ローはおもむろに布きれを投げてよこした。
「着ていけ」
手に持って広げてみると、大きめのTシャツとハーフパンツ、まるでパジャマのような衣服だ。
ローの顔を見上げると、まずいものでも食べたように顔に皺を寄せてアンを見下ろしていた。
「そんな血まみれの服を着てうろうろしていれば、一般人に通報されてもおかしくねェ」
「そ、そっか。ありが」
「早く出ていけ」
憮然とした顔のまま、出口のドアを顎で指し示す。
言われなくとも腰を上げかけていたアンは、大きく頷いてもう一度「ありがとう」と言った。
ローは街の南側のはずれに位置する小さな診療所で、たった一人看護師もつけずに、医者をしている。
やってくるのは街の大きな病院まで辿りつくことのできない、町はずれに住む年寄りだとか、見るからに堅気ではない種類の人だとか、わりと特徴的な病人が多い。
なぜローがこんな場所で、と思わないでもなかったが、妙に威圧感を与える十数階建ての大病院の中で大勢の医者と働いているより、町はずれの小さな診療所でひとり無愛想に医者をしている方が、彼には似合っていた。
アンは車の中で行き先を考えたとき、電柱に書かれたとある別の病院の看板を目にして、ここを思い出した。
ローはアンたちの店に数回来たことがある、顔なじみだった。
身に付けかけていた囚人服をその場で脱ぎ捨て、ローに手渡された衣服を着る。
少し大きかったが、清潔な包帯がさらさらと擦れる感触は囚人服を着ているときよりずっといい。
「車で来たのか」
窓の外を見ていたローが、唐突に言う。
そうだけど、と言うと、ローは無言で背を向け、再び奥へと入っていった。
何事かとアンも窓の外をみやり、そして強く唇を引き結んだ。
診療所に少しぶつかったまま停められたアンの車から、少し離れた広い空間に、黒塗りのワゴン車が一台停車したところだった。
「跡つけられてたみてェだな」
戻ってきたローは、もっとうまくやれなかったのかとアンを詰るようにため息を吐いた。
「ご、ごめん、あんたにまで迷惑……なにそれ」
ローは肩に引っかけるように、黒く長い刀を持っていた。
隈に縁どられた目はアンを見ることもなく、出口へと向かう。
「迷惑なんてお前がここに来た時点で大迷惑だ。おれが相手してる間に、早く出ていけ」
「でも」
「どうせ近々この街を出ようと思っていたとこだ。追い出される方が後腐れなくていい」
アンが何かを言う前に、ローが扉を開けた。
淀みない足取りで、ローはワゴン車の方へと歩いていく。
慌ててあとを追いかけ、背中に向かって何度目かのありがとうを叫んだ。
目の端でローが長い刀を抜くのを見ながら、急いで車に乗り込み、適当にギアをいじる。
やけくそだ、とアクセルを踏み込むと、車はすごい勢いで後ろへ進んだ。
慌ててハンドルにしがみつき、再びギアを動かすと、車は前進に切り替わった。
ワゴン車から降りた二人のうち、一人の男がアンの車に銃を向けた。
すぐに銃声が響いたが、車に衝撃はない。
ちらりと後ろを振り返ると、ローが刀を振り下ろしたところだった。
坂を下り、再び北を目指す。
運転席の目の前にある様々なメーターはどれも訳が分からなかったが、デジタル時計だけが唯一確認できた。
時刻は朝の9時。
明けて数時間後の空は、まだ夜のような静かさを含んでいた。
いくつも浮かんだ雲はゆったりと流れていて、猛スピードで走り抜けるアンの車とはまったく似合わず、そのちぐはぐな加減が妙に目に焼き付いた。
*
ルフィからの連絡が鳴るはずの携帯を前に、動物園の熊以上にうろうろと、落ち着きを失っていた。
ときたまクロコダイルが鬱陶しそうにサボを一瞥するが、別段何を言うでもなくそこにいる。
イゾウはサボをクロコダイルの屋敷に送ると、代わりにルフィを乗せてバイクを走らせていった。
まるで散歩にでも出かけるような軽快さで、「んじゃ、行ってくらァ」と。
本来は、ロビンがルフィを連れて行き、イゾウは万一ロビンが追われた場合の足となる手はずだった。
しかしイゾウは、ロビンの説明を「しちめんどくせえ」と一蹴した。
「んなもん、おれがこのガキを乗せて行って、拾って帰ってくりゃいい話だろうが」
なにするか知んねェがよ、と付け加えたその顔は何の含みもなく、ただ本当にややこしい手順を面倒がっているように見えた。
ロビンは「あなたがそれでいいのなら」とあっさりと首肯してしまい、ルフィが反駁するはずもない。
サボすら、もはやすがるところがこの男しかないとわかっていたからか、反論する気にもならず、ただ「ありがとう」と呟いた。
イゾウは、今から行く場所にアンはいるのか、何か必要なものはあるのかと手短に尋ね、サボが簡単に答えると、浅く頷きルフィを連れて出て行った。
「うさんくせェ野郎だな」
クロコダイルが爬虫類の目つきでイゾウが消えたあたりを睨む。
あんたも似たようなもんだろう、と心の中で思った。
「あなたも似たようなものよ、サー」
サボがぎょっとしてロビンを見ると、白い陶器でできたような顔でロビンは平然としている。
クロコダイルはちらりと自分の秘書を一瞥したかと思えば、突然大きな声で笑い出した。
「違いねェ」
クハハ、と口をあけて笑う大男の姿を、サボは呆然と見上げる。
──それから数時間。イゾウとルフィが屋敷を出たのが午前3時だった。
そろそろ空も白みかけた頃だろう。
部屋にある大きな窓は、分厚いカーテンが閉じており外の様子は見えないが、端から白い光が漏れている。
もう最後に眠ったのはいつだったろうかとサボは重い頭を振る。
そしてそれが、アンが仕込んだ睡眠薬によって眠らされた時が最後だと思い当って、ずんと胃のあたりが苦しくなった。
クロコダイルがおもむろに、手元を操作して部屋の隅のテレビをつける。
途端にあらゆる音が箱から飛び出して、部屋の中にばらばらと降ってきた。
クロコダイルは椅子の手元を何度か操作してチャンネルをいくつか変えたが、めぼしいものはないのかすぐに電源を落とした。
「……なんだ?」
「ゴール・D・アンの脱獄は、まだばれてねェみてぇだな。それとも情報を伏せてるだけか」
「伏せているのでしょうね」
ロビンが口を挟む。
「気付かないなんて、拘置所に見張りがいる限りありえない」
「見張りがいればな」
クロコダイルは太い葉巻を口からは外し、静かに煙を吐き出す。
サボはロビンとクロコダイルを、交互に見つめた。
「どういう……」
そのとき、ロビンの胸元で電話が鳴った。
思わず立ち上がったサボには目もくれず、ロビンは落ち着いた手つきで携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「イゾウか?」
サボの問いには誰も答えない。
ロビンは、えぇ、えぇ、わかった、と短く答え、すぐに電話を切った。
クロコダイルはそもそも興味なさ気に煙を量産している。
「黒ひげのアジトを、燃やしたそうよ」
「燃や……アンは!?」
「ゴール・D・アンがいるところとは別の建物ね。むしろ燃やした方が本地と言ってもいいかもしれない。あの人たちは、彼女のところに乗り込む前に、証拠隠滅を図ったようね」
ロビンの声はひたすら淡々としていたが、珍しく長く喋る顔はどこか生き生きとしたふうにも見えた。
「それで、アンとルフィは」
「モンキー・D・ルフィたちはなじみの酒屋によって、大量のアルコールを持っていった。それを黒ひげのアジトに撒いて、火をつけた」
恐ろしい人、とロビンは感情のこもらない声で呟いた。
サボは呆気にとられ、しばらく口をあけたままロビンを見上げていた。
「……滅茶苦茶だ」
「まったくね」
それでも、なんてルフィらしい。
弟の破天荒ぶりに口角を上げかけて、それでもすぐにアンのことを思い出す。
アンは、どうなった?
「ゴール・D・アンは逃げただろうって。彼らもよくわかっていないみたいだったけれど」
「情報の詰まった本拠地を燃やされたんだ、奴らも相当焦っただろう。逃げていてもおかしくねェな」
ぱらっと葉巻の灰が落ちる。
サボが立ち上がった。
「おれ、アンを探しに行く」
ロビンが慣れた口調で、サボをたしなめるように口を開いた。
「あなたはじっとしていなさいと」
「アンが逃げたならもう同じことだ。アンには足がない。おれが拾ってやる」
「あなたこそ足がないでしょう」
いや、と首を振る。
「おれたちの家まで乗せて行ってくれ。家にはおれのバイクがある」
ロビンはちらりと、上司の顔を覗き見た。
クロコダイルはどうでもいいと言いたげに、だるそうに手を振った。
「行きましょう」
ロビンが踵を返し、ドアへと歩き始める。
サボも勇み足で付いて行こうとしたが、思い正して、振り返った。
「ありがとう、いろいろ──」
クロコダイルは顔を向けず、返事もしなかった。
サボもすぐに背を向けて、ロビンの後を追った。
ちらりと柱時計を見ると、時刻は朝の6時を回っていた。
*
マルコが大通りの歩道へと飛び出すのと、サイレンを鳴らした車が大きなカーブを描いて大通りに侵入してくるのとは、ほとんど同時だった。
運転席のサッチがマルコに気付き、強引に路側帯に停車する。
マルコが素早く乗り込んだ。
サッチは車道をろくに確認もせず、すぐさま車を車線に移して走り出した。
助手席のマルコは上がった息を整えながら、ネクタイを乱暴に取り去った。
それで?と促しながら、サッチはサイレンをいったん切る。
「黒ひげのアジトだ、D地区にある」
「乗り込む気か? アンちゃんはそこにいんのか」
アンが脱獄した知らせは、マルコがサッチに電話をして二人が合流するまでの間に、サッチの耳にも入ったようだった。
マルコは答えず、シャツのボタンをいくつか外して額の汗をぬぐう。
「オヤジは知ってんのか」
「さあ」
サッチは運転席から横目を走らせて、唇を尖らせた。
「反抗期?」
「だまれ」
マルコがサッチを睨んだそのとき、視界の端で対向車線を猛スピードの車が北に向かって駆け抜けていった。
そしてそのすぐ後、別の黒い車が同じくスピードを出してサッチの車とすれ違う。
「速度違反だ。ジョズー」
サッチが呑気に交通課の同僚の名を呼ぶ。
しかしマルコは助手席の窓を開け、身を乗り出すように後ろを振り返った。
異変に気付いたサッチが、速度を緩める。
「止めろ!」
アンだ、とマルコが低く呟く。
しかしサッチはブレーキを浅く踏んだまま、止まることはしなかった。
「追やぁいいんだろ」
サッチが大きくハンドルを切る。
車が中央分離帯代わりの小さなブロックに乗り上げた。
「はいはいすまんよー!」
誰にともなく断りを入れて、サッチは強引に対向車線に車を押し入れ、北に頭を向けて走り出した。
指先でボタンを弾き、腹のあたりに響くような大音量でサイレンが鳴る。
穏やかでないその音に慄いたように、前を走る車たちが端に寄った。
すると前方遠くに、小さくなっていく車の背中が見える。
サッチがスピードを上げた。
「追ってどうするつもりだ」
「一台目の前に割り込め。二台目はおそらく黒ひげだ」
「一台目がアンちゃんってわけね」
サッチが前傾姿勢で、アクセルを踏み込んだ。
前を走る二台の車も、サイレンに気付いてかスピードを上げる。
しかし猛スピードの二台の前には、まだのんびりと走る車が数台いるのだろう、思うように進められていない。
ものの数秒で、サッチが距離を詰めた。
「撃つか?」
「持ってきてたのかよい」
気持ち悪いほどの準備のよさにマルコが鼻に皺を寄せる。
いや、とサッチが呟いた。
「おれのじゃねェよ。テメェのだ」
「おれの?」
ほらよ、とおもむろにサッチが腰から引き抜き、差し出してきた拳銃は、確かにマルコの型番が刻まれていた。
「ネタバレすっと、オヤジが電話寄越したんだ。持ってってやれってな」
──オヤジ。
いつでもまるですぐそこで見ているように、口角を上げ白い歯を見せて、笑っている。
ここにはいない父と呼ぶ男の姿を思い描いて、目がくらむような感覚を一瞬覚えた。
「構えろ」
サッチの車が、二台の車が走る車線から右車線に移動した。
斜め後ろからマルコは窓の外に身を乗り出し、2台目の車に銃口を向ける。
同じように、後部座席から身を乗り出してマルコの車に銃を向ける男と目があった。
マルコの方が速かった。
2発の銃声が響く。
両方マルコのものだ。
一発目は後部座席の窓ガラスを、二発目は前車輪をあやまたず打ち抜いた。
空気が空に向かって勢いよく抜ける音ともに、2台目がバランスを崩して中央分離帯のブロックにぶつかった。
その車を追い抜きながら、マルコはもう一発をフロントガラスに打ち込む。
1台目の車は背後の喧騒に混乱したのか、スピードは出ているもののふらふらと運転がおぼつかない。
あっというまにサッチが抜き去り、まるで行き止まりを作るように車体で1台目の進路を塞いだ。
フロントガラス越しに、目を見開いたアンの顔が見える。
急ブレーキにタイヤと地面が悲鳴を上げ、火花が散り、アンの車はサッチの車に半ばぶつかりながらも急停止した。
「行け!」
サッチが叫ぶ。
助手席から飛び降りると、コンクリートの地面に照り返した日差しが眼球を焼いた。
霞む視界の中、運転席でアンが哀れなほど狼狽した顔をしているのが見える。
サッチがすぐさま車を発進させた。
マルコは、アンが座る運転席側のドアに手をかけた。
*
「どけっ!!」
急に前方を塞いだ車から飛び出してきたのは、マルコだった。
ブレーキを踏みしめた右足が、まだジンジンしている。
何が起きたのかまだわからないアンの前に、突然マルコは現れ、アンが座る側のドアを開け、こう叫んだのだ。
「あ、」
アンの口から頼りない一音が零れる。
その瞬間、ふわっと体が浮き上がり、助手席側に体が飛んだ。
マルコが持ち上げ投げたのだと分かったときには、助手席のドアにしたたかに身体をぶつけていた。
脚も車内のそこらじゅう滅茶苦茶にぶつかり、アンは四肢を投げ出した不恰好なようすで尻だけが助手席のシートに着地する。
左肩に鮮烈な痛みが走り、顔をしかめたそのとき、車はもう走り出していた。
数メートル進んで、思い出したようにマルコが運転席側のドアを閉める。
「マル、コ」
マルコは汗をかいていた。
この男がこんなふうに汗を流しているところを、アンはほとんど見たことがない。
ただ一度、薄暗いマルコの部屋。あのときだけだ。
マルコはアンに目もくれず、手早くハンドルを切って大通りから横道に入った。
車の幅とほとんど同じくらいの細い路地を、マルコは迷うことなく大通りと同じスピードで駆け抜けてゆく。
時折ゴミ袋などをひき潰す鈍い音が足元から伝わる。
「どこに行くつもりだったんだよい」
マルコが問う。
アンは足を折りたたみながら、シートに座り直した。
湿った黒い壁が一瞬で目の前に迫って来ては、すぐさま遠ざかる。
頭の中が真っ白で、ただただすごいスピードで流れていく車窓の景色と、隣でハンドルを操るマルコの姿だけがくりぬかれたように、視界に映っていた。
「サボと、ルフィを」
「どこにいるかわかってんのかい」
わからない、と言いかけたアンは急ブレーキで舌を噛んだ。
驚いて前を見据えると、対面から猛スピードで車が直進してくる。
思わず叫んだ。
「マルコ!!」
無骨な手がギアをわしづかみ、マルコの車は前進していたときと同じスピードで後退する。
エンジンが焦げ付くような油臭さが鼻についた。
アンは思わずシートのヘッドレストにしがみつく。
身体をねじって背後を見るマルコが、小さく舌を打った。
唐突に、前方ですさまじい破裂音が響いた。
すぐさま振り向くと、フロントガラスに蜘蛛の巣のようなひびが入っている。
マルコがもう一度舌を打つ。
「掴まれ!」
マルコの声に、身体が無条件で従う。
アンは両腕で抱えるようにヘッドレフトにしがみついた。
車は急ブレーキをかけ、勢いよく前に向かって進んだかと思えばすぐに右折した。
身体が遠心力で外側に大きく振られる。
マルコの方へ飛ばされそうになるが、力の入る右腕だけでアンは必死にシートにしがみついた。
マルコの車が右に折れてすぐ、追っ手の車も同じ路地に侵入したのが見えた。
「追ってくる……!」
「そりゃそうだろい」
「ど、どこに向かってんの」
「サッチが上に連絡を入れる。そしたら街全体に厳戒態勢が敷かれる。それまで逃げるよい」
マルコは何度も、追っ手を振り払うように右折左折を繰り返した。
アンには今どこを走っているのかさっぱりわからない。
「逃げ……マルコは、なんで、逃げる必要ない!」
「アン」
マルコはバックミラーで背後を確認するそぶりをした。
「後ろ見ろ。いるかよい」
アンは振り返って背後を確認したが、追っ手の車は同じ路地にはいなかった。
「い、いない」
「一旦大通りに出るよい」
そう言って、マルコはすいすいと細い路地を進んであっという間に大通りへと車を出した。
さいわいひびの入ったフロントガラスはアンの面前で、マルコの視界は開けている。
南北に走る大通りを、マルコは南へと車を走らせた。
どこへ向かっているという様子もなかったが、マルコの運転には迷いがない。
先程大通りで発生した騒ぎのせいか、大通りには車が多かった。
マルコは何度か車線変更を繰り返しながら、南へと下っていく。
どこに行くの、と何度も聞きそうになった。
口を開くと泣き言が零れそうだった。
マルコが来てくれた。
今になってやっと実感した。一人じゃない実感。
「おい」
マルコが前を向いたまま、顎を指し示すように動かした。
その方向に顔を向けると、対向車線を走る小さな影がある。
「サボ!」
バイクにまたがるサボは、マルコが示したライトの点滅に気付き、道の端に停まった。
マルコはちょうど交差点に差し掛かったところで強引にUターンして、サボのすぐ横に車を付けた。
アンはドアを引っ掻くようにして開け、外に飛び出す。
「サ、サボ!」
「アン!無事か、怪我は!」
バイクから降り、サボはアンの両腕を掴んで頭のてっぺんからつま先まで点検するように、アンを見回した。
「平気、サボは?」
「おれも平気だ。ルフィには会ったか?」
アンが首を振ると、サボが大丈夫だとでも言うように頷いた。
「ルフィはイゾウが一緒だ。多分、無事だ」
「イゾウ?」
アンの声に、マルコの声が重なる。
ドア越しにサボとマルコが視線を交わし、サボが頷いた。
「協力してくれたんだ。ルフィを運んでくれた」
「なんで……」
おい、とマルコの声が遮った。
「お前、どこへ行くつもりだったんだよい」
「ルフィを迎えに行くつもりだ」
「じきに街中に検問が張られる。そうすりゃ自由に動けなくなる。なんでか知らねェがイゾウが一緒なら心配ねェよい。テメェは警察庁へ行け。保護してもらえる」
口を開いたサボを、アンの言葉が遮る。
「行って、サボ。ルフィもあたしも、大丈夫だから」
「ア、アンはどうするんだ」
「マルコがいるから」
不思議なほど、自然に口が動いた。
サボが言葉に詰まり、少し傷ついた顔をする。
アンはサボの手を握り、大丈夫、と言った。
「早く帰るから」
サボの返事を聞かず、アンは車に乗り込んだ。
ドアを閉めると、窓の向こうでサボがヘルメットをかぶっているのが見える。
なにに対してかわからないまま、ふたりは視線を交わして小さく頷いた。
サボがエンジンをふかし、北へと走り出した。
北に頭を向けていたマルコの車はサボを追いかけて少し走り、次の交差点で南方向にUターンする。
車とバイク、二つの車体が反対方向に走り始めて数秒後、アンの背後から一切合財の建物が崩れ落ちたような爆発音が響いて、地面が揺れた。
振り返り、声にならない悲鳴を上げる。
喉と喉がはりついて、声が出なかった。
50mほど背後、ついさっき別れたばかりの小さな車体が、ちょうど地面にぶつかって、バウンドした。
そのすぐそばに、倒れる影がある。
ガシャガシャと複雑な音を立てて、バイクが横倒しのまま地面を滑走する。
黒くて細長い煙が、逃げるように上空へと伸びていく。
──サボ。
息を呑み、自分たちだけ時間が止まったかのように、アンとマルコは振り返って立ち上る煙を見つめた。
しかし、すぐさま前に向き直ったマルコは車を停めなかった。
ドアに手をかけていたアンは、愕然として運転席を振り返る。
「と、止めて!!」
車は走り続ける。
マルコは深く眉間に皺を寄せて、アンを見ようとしなかった。
言葉にならない。
焦りと、怒りと、膨大な不安がむくむくとかさを増して心を埋め尽くした。
「止めてってば!!」
アンはマルコの掴むハンドルに飛びついて、無理やり足をねじ込んでマルコの足ごとブレーキを踏んだ。
車体が大きくぐらつき、轟音を立てて歩道に乗り上げ停車する。
歩道を歩く数人が、悲鳴を上げて車を避けた。
ぐ、とマルコが呻き声を洩らしたかと思ったら、次の瞬間、シートに叩きつけられるように抑え込まれた。
「ティーチが!!」
ブレーキを踏んだまま、アンをシートに押さえつけたマルコが叫ぶ。
首筋から汗が流れていた。
「お前を探している、バイクに爆弾でもしこまれてたんだろうよい、罠だ、お前を、引っ張り出すための」
「はっ、離し……」
もがいても、不自由な左肩と女の力ではマルコはピクリともしなかった。
悔しさと、憤りで涙があふれる。
サボ、サボ。
「ここでお前が出ていきゃ相手の思うつぼだ、ましてや今お前が駆け寄ってあいつに何ができる」
お前は逃げなきゃならねェ。
鼻と鼻が触れあいそうな距離で、マルコが言った。
薄い唇を、血が出る程噛み締める。
もう逃げるのはいやだ。
マルコの腕の力が弱まった瞬間、その手を払いのけてドアに手をかけた。
マルコの怒号が背中にぶつかる。
転げ落ちるように車から降りた。
コンクリートを掴み、地面を蹴って煙の方へと走り出す。
人だかりができていた。
通りがかった一般人が、血相を変えて倒れる人影を覗き込んでいる。
救急車、警察を、と人々が切迫した声でどこかに叫ぶ。
アンは人を薙ぎ払いながら人ごみの中を泳いだ。
「サボ、サボッ!!」
人をかき分けていくと、足元に転がる身体が目に入った。
長身がまっすぐ足を伸ばして横たわっている。
頬に大きな擦り傷を付けてサボは目を閉じていた。
「サ……」
甲高い悲鳴が人ごみの中からあがる。
大きな手に薙ぎ払われた野次馬が、サボのわきに倒れる。
アンが振り向くより早く、強い力が首根をわしづかんだ。
生臭く、淀んだ息が後ろから肩のあたりを滑り降りていく。
同時に、頬にねじ込まれるように硬く冷たい感触があった。
「アン。お前だけは許さねェ」
「ティーチッ……!」
無理やり首を回して背後を睨むと、すぐ近くに脂ぎったティーチの目がアンを見つめていた。
地面から引きはがすようにアンを引っ張り上げ、その頬に銃口をめり込ませたままティーチは歩き出した。
物騒な男の登場に初めは呆気にとられていた野次馬が、誰かの叫びをきっかけに騒然として逃げ惑う。
ティーチはそれらには目もくれず、道の脇に止めてある車までアンを引きずろうとしているようだった。
足をばたつかせコンクリートを必死で蹴ると、アンの抵抗をあざ笑うかのように右足の靴が脱げた。
横たわるサボだけがただ静かに、目を閉じていた。
黒い液体が、サボの背中から染み出ている。
「アン!」
顔を上げると、さらに強く頬に銃口が押し込まれる。
口が上手く動かない、情けない顔のままマルコを見上げた。
「マルコか」
ティーチが笑ったのが、手の揺れから伝わった。
マルコは銃を構えていた。
遠目に見えたマルコの瞳はいつもの通り青かったが、ただひたすら後悔の色が滲んでいるのがアンにも見てとれた。
見たこともない、追い詰められた顔。
「テメェひとりでどうするつもりだ。あぁ?」
高らかな笑い声が、騒然とした空間の中大きく響いた。
「ひとりじゃなかろうが」
ティーチの背中から、低く、それでも足の裏から沁み込むような声がアンにも届いた。
久しく聴いていない、それでも確かに知っている声だった。
ティーチが振り向く。
笑ったときと同じように、ティーチの動揺はアンの手に取るように伝わる。
じいちゃん、と上手く動かない口がくぐもった声を出した。
唐突にガチャガチャとした金属音がどこからともなく響きはじめ、首が回らないアンの前にも防護服を着て銀色の盾を構えた警備隊が現れる。
ティーチとアンをぐるりと囲み、それらはきっちりと隙間なく並んだ。
「アンを離せ。お前はもう終わりじゃティーチ」
「ガープ……テメェどこからきやがった」
「ずっとお前を追っていた。お前の手下も、ほどなく捕まる」
アンにはティーチの巨体が邪魔で、その姿は見えなかった。
それでも確かにガープと言った。
それに間違いない、低くてしわがれた声。
アンの視界には、銀色の盾と、マルコの姿しか見えなかった。
マルコも、細い目を見開いてティーチのさらに向こうにいる人物を見ていた。
ガープとティーチの会話だけが、ティーチの肩越しに聞こえる。
「ロートルが。とっくに引退したんじゃなかったのかよ」
「言ったろうが。ずっとお前を追ってたんじゃ。お前のねぐらは全部しらみつぶしに漁らせてもらうぞ。もう捜査員が入ってるがな」
ふんっとティーチが鼻息を吐きだす。
急に首を掴みあげられて、振り子のように足が大きく振れた。
ガープの姿が目に映る。
じいちゃん、と口が動くが、声が出ない。
ガープの顔に深く刻まれた皺は険しく、アンごとティーチを睨み殺すようだった。
「おれは死なねェ。こいつがいる限り、お前はおれを撃てねェ!」
ざらざらした笑い声が耳を突き抜ける。
あぁ、安っぽいサスペンスみたいだと、アンは他人事のように感じる。
「ガープ。おれがこいつを殺して、お前がおれを捕まえるのと、おれがこいつを解放して、お前はおれを逃がすのと、どっちがいい?」
「お前に退路はない、ティーチ」
「バカ言え」
ティーチが鼻で笑う。
自信に満ちた声だった。
その声が表す通り、アンから見てもガープの顔は引き攣り、青ざめていた。
「どうするガープ。おれを逃がすか。そうしてェだろうなぁ」
アンの首根を掴む指が締まる。
足が地面から浮き、つま先がコンクリートをかする。
「だがそれはナシだ。逃げるのはやめた。おれはここでアンを殺す」
耳の上に銃口が突き付けられた。
火薬のにおいが鼻につく。
視界に映るガープの姿が急に遠ざかるように、見えなくなった。
泣いているのだと気付いて、急に周りが静かになった。
死ぬんだな、と思った。
最期の景色が、血相変えたじいちゃんの顔なんて最悪だ。
急に、ティーチの身体ががくんと前につんのめり、銃口が頭から外れた。
硬い感触が消えた瞬間、アンはほとんど反射で手足をばたつかせる。
銃声が響く。
ティーチが断末魔の叫びをあげ、ますます身体を傾かせた。
身をよじると、ティーチの手が首から離れ、アンは地面に落ちて転がった。
ほとんど同時に、隣に何かが落ちる。
人だった。あと、なぜかそのすぐそばにニンジンがひとつ転がっている。
白くて細い指が、一丁の拳銃を掴んでいる。その手に拳銃はとてつもなく不似合いだった。
そして、見知ったオレンジ色のバンダナ。
アンは口をわななかせながら叫ぶ。
「──マキノ!!」
ぐふっと生き物が潰れた音がすぐそばから聞こえた。
ガープがティーチの上に馬乗りになり、押さえつけている。
ガープに殴られたのだろう、ティーチは顔から、そして足からも血を流していた。
素早く別の警官が走り寄り、ティーチの両手両足に鉄枷をはめ、さらにはさるぐつわまで噛ませた。
そのすべてが一瞬の出来事だった。
ティーチは憤怒の形相でガープを、そしていつのまにかそばにいたマルコを睨んでいる。
マキノは抱きしめるように胸に抱えていた拳銃を、驚いた顔でおぞましいものを振り払うように地面に落とした。
「アン、アン」
マキノの顔は青ざめ、深緑の瞳は涙の膜を張っていた。
細い指がアンの手を掴む。
マキノの手は、血が通っていないように冷たい。
ぶるぶると音が聞こえる程震えている。
アン、アン、とひたすら名前を呼ぶ唇は不健康な紫色に染まっていた。
頭の中がぐちゃぐちゃで、未だ死の縁に立たされているかのように心臓がバクバクと音を立てている。
マキノが滑り落とした拳銃が目に入った。
途端に、記憶と感情がごちゃ混ぜになって洪水のようにあふれ出した。
頭が壊れてしまう程痛む。
ティーチの汚い笑い声と、サボやルフィの笑い声が重なって響く。
アンの手がしなるように動き、拳銃を掴んだ。
膝立ちになり、取り押さえられたティーチに銃口を向けた。
洪水のように溢れた記憶と感情が過ぎ去ると、残ったのはただただどす黒い怒りだった。
「アン!」
何人もの怒声が聞こえたが、ひと際高い声がアンの手を止めた。
その瞬間に腕を引かれ、振り向きざまに平手が容赦なくアンの頬を打った。
指の間を拳銃が滑り落ち、無機質な音をたてて地面にぶつかる。
息を切らし、マキノはアンを睨む。
「バカなことはやめなさい」
感情を押し殺し、震えを必死で我慢している声だった。
マキノはアンの膝の横に落ちた拳銃を薙ぎ払うように遠くへ滑らせる。
腕を引かれ、アンはマキノの身体に倒れ掛かった。
「もう大丈夫よ」
マキノの身体は細く、しかも震えていて、これ以上ない程頼りなく、間違いなく自分より弱いのに、アンは咄嗟にすがるように目の前の身体を抱きしめた。
どうしよう、どうしよう、と弱弱しい声が口から零れ落ちる。
全身が大きく震えていた。
助けて、と口を突きかけた言葉が、唇の上で足を止めた。
誰にたすけてと言えばいいのか、わからなかった。
今まで誰にも、願ったり祈ったりしたことがないのだ。
マキノの肩越しに視線を走らせた。
集まる人だかりの中に知った人は何人いるだろう。
あのひとも、あのひとも、あのひとも違う。
願いも祈りも行き先がなかった。
マキノの震える手が、おぼつかないままアンの背中を撫でる。
喉が引くついた。
膝が笑い、身体が揺れる。
サボが横たわっていた場所に、もうその姿はなかった。
ただ黒い染みのようなものが不吉に広がっている。
おねがい連れて行かないで。
額をマキノの肩にこすり付け、音にもならない声で叫ぶ。
──父さん母さん、サボを助けて。
→
北に向かって車を走らせていたアンは、いったん車を路側帯へ寄せた。
下手くそな運転のせいで、車輪は歩道に乗り上げ、不恰好な斜めの状態で停車したが、幸い通勤時間前の通りは閑散としている。
弾がかすった左肩からは、今でも絶えず血が流れ、アンの囚人服の袖を真っ赤に染め上げていた。
左手の指先が、ちりちりと痺れている。
あいにく車の中にはタオルのようなものもないので、止血をすることもできない。
肩から腕にかけて血が流れる感覚や、火が出ているような熱さのせいで頭ははっきりしていた。
この状態では、いずれ運転もままならなくなる。
それ以前に、黒ひげの誰かに見つかれば逃げることができないかもしれない。
瞬時にこれからの行先を考え直した。
家はだめだ、回り込まれているかもしれない。
これから行くつもりだった警視庁は遠い。そこまでアンの腕が持つかどうか、アン自身にもわからなかった。
ここから一番近い、手当のできる場所──
窓から外を見渡した。
雲の多い空、立ち並ぶ石造りの建物、シャッターの閉まった商店、植木鉢、電柱・・・
ハッと目の前が明るくなった。
お願い、まだ止まらないで。
痺れて感覚を失いかけた左腕を叱咤し、アンはアクセルを踏みこむと同時に大きくハンドルを切った。
北へ向かっていた車の頭を、南側に方向転換する。
ちらほらと通勤の車が姿を見せだし、乱暴な運転をするアンの車を驚いた顔や迷惑そうな顔で一瞥しては上手く避けて通り過ぎていく。
対向車とぶつからないことだけを念頭に、アンは南へと車を走らせた。
シートを流れる血が、太腿を濡らしていた。
*
「──うちは11時からしか診療はしない。しかも木曜は休みだ」
「でも開けてくれた」
下から覗き込むように顔を見上げると、ローは引き結んだ口元を少し動かしただけで、なにも言わなかった。
ローはアンの上半身に道を敷いていくように、真っ白な包帯を手際よく巻いていく。
すぐそばのサイドテーブルには血を吸ったガーゼが山を作っていた。
測ったかのようにちょうどよい長さで包帯が切れ、アンの肩のあたりに小さな金具でとめられた。
「ありがとう」
礼を聞き流すように背を向けたローは、机の上の小さな箱から、錠剤を取り出してアンに差し出した。
「飲んでおけ」
「なに?」
「増血剤だ」
ビタミン剤となんら外見の変わらないそれを受け取って、素直に飲み下した。
左肩を少し動かすと、痛みは走るが、断然動かしやすく痛みもひどくない。
先程飲んだ痛み止めもそろそろ効いてくるころだろう。
囚人服の上着にそでを通そうとしていると、器具を片づけていたローが呆れたように「お前」と言った。
暗殺犯だってもう少し景気のいい顔をしている、と思いながらローを見上げた。
「その服で行くつもりか?」
「だって、これしかない」
ローは言葉を紡ごうと口を開くそぶりを見せたものの、そのまま黙って踵を返し、奥へと引っ込んでいった。
その間に、アンは囚人服を頭から被った。
戻ってきたかと思うと、ローはおもむろに布きれを投げてよこした。
「着ていけ」
手に持って広げてみると、大きめのTシャツとハーフパンツ、まるでパジャマのような衣服だ。
ローの顔を見上げると、まずいものでも食べたように顔に皺を寄せてアンを見下ろしていた。
「そんな血まみれの服を着てうろうろしていれば、一般人に通報されてもおかしくねェ」
「そ、そっか。ありが」
「早く出ていけ」
憮然とした顔のまま、出口のドアを顎で指し示す。
言われなくとも腰を上げかけていたアンは、大きく頷いてもう一度「ありがとう」と言った。
ローは街の南側のはずれに位置する小さな診療所で、たった一人看護師もつけずに、医者をしている。
やってくるのは街の大きな病院まで辿りつくことのできない、町はずれに住む年寄りだとか、見るからに堅気ではない種類の人だとか、わりと特徴的な病人が多い。
なぜローがこんな場所で、と思わないでもなかったが、妙に威圧感を与える十数階建ての大病院の中で大勢の医者と働いているより、町はずれの小さな診療所でひとり無愛想に医者をしている方が、彼には似合っていた。
アンは車の中で行き先を考えたとき、電柱に書かれたとある別の病院の看板を目にして、ここを思い出した。
ローはアンたちの店に数回来たことがある、顔なじみだった。
身に付けかけていた囚人服をその場で脱ぎ捨て、ローに手渡された衣服を着る。
少し大きかったが、清潔な包帯がさらさらと擦れる感触は囚人服を着ているときよりずっといい。
「車で来たのか」
窓の外を見ていたローが、唐突に言う。
そうだけど、と言うと、ローは無言で背を向け、再び奥へと入っていった。
何事かとアンも窓の外をみやり、そして強く唇を引き結んだ。
診療所に少しぶつかったまま停められたアンの車から、少し離れた広い空間に、黒塗りのワゴン車が一台停車したところだった。
「跡つけられてたみてェだな」
戻ってきたローは、もっとうまくやれなかったのかとアンを詰るようにため息を吐いた。
「ご、ごめん、あんたにまで迷惑……なにそれ」
ローは肩に引っかけるように、黒く長い刀を持っていた。
隈に縁どられた目はアンを見ることもなく、出口へと向かう。
「迷惑なんてお前がここに来た時点で大迷惑だ。おれが相手してる間に、早く出ていけ」
「でも」
「どうせ近々この街を出ようと思っていたとこだ。追い出される方が後腐れなくていい」
アンが何かを言う前に、ローが扉を開けた。
淀みない足取りで、ローはワゴン車の方へと歩いていく。
慌ててあとを追いかけ、背中に向かって何度目かのありがとうを叫んだ。
目の端でローが長い刀を抜くのを見ながら、急いで車に乗り込み、適当にギアをいじる。
やけくそだ、とアクセルを踏み込むと、車はすごい勢いで後ろへ進んだ。
慌ててハンドルにしがみつき、再びギアを動かすと、車は前進に切り替わった。
ワゴン車から降りた二人のうち、一人の男がアンの車に銃を向けた。
すぐに銃声が響いたが、車に衝撃はない。
ちらりと後ろを振り返ると、ローが刀を振り下ろしたところだった。
坂を下り、再び北を目指す。
運転席の目の前にある様々なメーターはどれも訳が分からなかったが、デジタル時計だけが唯一確認できた。
時刻は朝の9時。
明けて数時間後の空は、まだ夜のような静かさを含んでいた。
いくつも浮かんだ雲はゆったりと流れていて、猛スピードで走り抜けるアンの車とはまったく似合わず、そのちぐはぐな加減が妙に目に焼き付いた。
*
ルフィからの連絡が鳴るはずの携帯を前に、動物園の熊以上にうろうろと、落ち着きを失っていた。
ときたまクロコダイルが鬱陶しそうにサボを一瞥するが、別段何を言うでもなくそこにいる。
イゾウはサボをクロコダイルの屋敷に送ると、代わりにルフィを乗せてバイクを走らせていった。
まるで散歩にでも出かけるような軽快さで、「んじゃ、行ってくらァ」と。
本来は、ロビンがルフィを連れて行き、イゾウは万一ロビンが追われた場合の足となる手はずだった。
しかしイゾウは、ロビンの説明を「しちめんどくせえ」と一蹴した。
「んなもん、おれがこのガキを乗せて行って、拾って帰ってくりゃいい話だろうが」
なにするか知んねェがよ、と付け加えたその顔は何の含みもなく、ただ本当にややこしい手順を面倒がっているように見えた。
ロビンは「あなたがそれでいいのなら」とあっさりと首肯してしまい、ルフィが反駁するはずもない。
サボすら、もはやすがるところがこの男しかないとわかっていたからか、反論する気にもならず、ただ「ありがとう」と呟いた。
イゾウは、今から行く場所にアンはいるのか、何か必要なものはあるのかと手短に尋ね、サボが簡単に答えると、浅く頷きルフィを連れて出て行った。
「うさんくせェ野郎だな」
クロコダイルが爬虫類の目つきでイゾウが消えたあたりを睨む。
あんたも似たようなもんだろう、と心の中で思った。
「あなたも似たようなものよ、サー」
サボがぎょっとしてロビンを見ると、白い陶器でできたような顔でロビンは平然としている。
クロコダイルはちらりと自分の秘書を一瞥したかと思えば、突然大きな声で笑い出した。
「違いねェ」
クハハ、と口をあけて笑う大男の姿を、サボは呆然と見上げる。
──それから数時間。イゾウとルフィが屋敷を出たのが午前3時だった。
そろそろ空も白みかけた頃だろう。
部屋にある大きな窓は、分厚いカーテンが閉じており外の様子は見えないが、端から白い光が漏れている。
もう最後に眠ったのはいつだったろうかとサボは重い頭を振る。
そしてそれが、アンが仕込んだ睡眠薬によって眠らされた時が最後だと思い当って、ずんと胃のあたりが苦しくなった。
クロコダイルがおもむろに、手元を操作して部屋の隅のテレビをつける。
途端にあらゆる音が箱から飛び出して、部屋の中にばらばらと降ってきた。
クロコダイルは椅子の手元を何度か操作してチャンネルをいくつか変えたが、めぼしいものはないのかすぐに電源を落とした。
「……なんだ?」
「ゴール・D・アンの脱獄は、まだばれてねェみてぇだな。それとも情報を伏せてるだけか」
「伏せているのでしょうね」
ロビンが口を挟む。
「気付かないなんて、拘置所に見張りがいる限りありえない」
「見張りがいればな」
クロコダイルは太い葉巻を口からは外し、静かに煙を吐き出す。
サボはロビンとクロコダイルを、交互に見つめた。
「どういう……」
そのとき、ロビンの胸元で電話が鳴った。
思わず立ち上がったサボには目もくれず、ロビンは落ち着いた手つきで携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「イゾウか?」
サボの問いには誰も答えない。
ロビンは、えぇ、えぇ、わかった、と短く答え、すぐに電話を切った。
クロコダイルはそもそも興味なさ気に煙を量産している。
「黒ひげのアジトを、燃やしたそうよ」
「燃や……アンは!?」
「ゴール・D・アンがいるところとは別の建物ね。むしろ燃やした方が本地と言ってもいいかもしれない。あの人たちは、彼女のところに乗り込む前に、証拠隠滅を図ったようね」
ロビンの声はひたすら淡々としていたが、珍しく長く喋る顔はどこか生き生きとしたふうにも見えた。
「それで、アンとルフィは」
「モンキー・D・ルフィたちはなじみの酒屋によって、大量のアルコールを持っていった。それを黒ひげのアジトに撒いて、火をつけた」
恐ろしい人、とロビンは感情のこもらない声で呟いた。
サボは呆気にとられ、しばらく口をあけたままロビンを見上げていた。
「……滅茶苦茶だ」
「まったくね」
それでも、なんてルフィらしい。
弟の破天荒ぶりに口角を上げかけて、それでもすぐにアンのことを思い出す。
アンは、どうなった?
「ゴール・D・アンは逃げただろうって。彼らもよくわかっていないみたいだったけれど」
「情報の詰まった本拠地を燃やされたんだ、奴らも相当焦っただろう。逃げていてもおかしくねェな」
ぱらっと葉巻の灰が落ちる。
サボが立ち上がった。
「おれ、アンを探しに行く」
ロビンが慣れた口調で、サボをたしなめるように口を開いた。
「あなたはじっとしていなさいと」
「アンが逃げたならもう同じことだ。アンには足がない。おれが拾ってやる」
「あなたこそ足がないでしょう」
いや、と首を振る。
「おれたちの家まで乗せて行ってくれ。家にはおれのバイクがある」
ロビンはちらりと、上司の顔を覗き見た。
クロコダイルはどうでもいいと言いたげに、だるそうに手を振った。
「行きましょう」
ロビンが踵を返し、ドアへと歩き始める。
サボも勇み足で付いて行こうとしたが、思い正して、振り返った。
「ありがとう、いろいろ──」
クロコダイルは顔を向けず、返事もしなかった。
サボもすぐに背を向けて、ロビンの後を追った。
ちらりと柱時計を見ると、時刻は朝の6時を回っていた。
*
マルコが大通りの歩道へと飛び出すのと、サイレンを鳴らした車が大きなカーブを描いて大通りに侵入してくるのとは、ほとんど同時だった。
運転席のサッチがマルコに気付き、強引に路側帯に停車する。
マルコが素早く乗り込んだ。
サッチは車道をろくに確認もせず、すぐさま車を車線に移して走り出した。
助手席のマルコは上がった息を整えながら、ネクタイを乱暴に取り去った。
それで?と促しながら、サッチはサイレンをいったん切る。
「黒ひげのアジトだ、D地区にある」
「乗り込む気か? アンちゃんはそこにいんのか」
アンが脱獄した知らせは、マルコがサッチに電話をして二人が合流するまでの間に、サッチの耳にも入ったようだった。
マルコは答えず、シャツのボタンをいくつか外して額の汗をぬぐう。
「オヤジは知ってんのか」
「さあ」
サッチは運転席から横目を走らせて、唇を尖らせた。
「反抗期?」
「だまれ」
マルコがサッチを睨んだそのとき、視界の端で対向車線を猛スピードの車が北に向かって駆け抜けていった。
そしてそのすぐ後、別の黒い車が同じくスピードを出してサッチの車とすれ違う。
「速度違反だ。ジョズー」
サッチが呑気に交通課の同僚の名を呼ぶ。
しかしマルコは助手席の窓を開け、身を乗り出すように後ろを振り返った。
異変に気付いたサッチが、速度を緩める。
「止めろ!」
アンだ、とマルコが低く呟く。
しかしサッチはブレーキを浅く踏んだまま、止まることはしなかった。
「追やぁいいんだろ」
サッチが大きくハンドルを切る。
車が中央分離帯代わりの小さなブロックに乗り上げた。
「はいはいすまんよー!」
誰にともなく断りを入れて、サッチは強引に対向車線に車を押し入れ、北に頭を向けて走り出した。
指先でボタンを弾き、腹のあたりに響くような大音量でサイレンが鳴る。
穏やかでないその音に慄いたように、前を走る車たちが端に寄った。
すると前方遠くに、小さくなっていく車の背中が見える。
サッチがスピードを上げた。
「追ってどうするつもりだ」
「一台目の前に割り込め。二台目はおそらく黒ひげだ」
「一台目がアンちゃんってわけね」
サッチが前傾姿勢で、アクセルを踏み込んだ。
前を走る二台の車も、サイレンに気付いてかスピードを上げる。
しかし猛スピードの二台の前には、まだのんびりと走る車が数台いるのだろう、思うように進められていない。
ものの数秒で、サッチが距離を詰めた。
「撃つか?」
「持ってきてたのかよい」
気持ち悪いほどの準備のよさにマルコが鼻に皺を寄せる。
いや、とサッチが呟いた。
「おれのじゃねェよ。テメェのだ」
「おれの?」
ほらよ、とおもむろにサッチが腰から引き抜き、差し出してきた拳銃は、確かにマルコの型番が刻まれていた。
「ネタバレすっと、オヤジが電話寄越したんだ。持ってってやれってな」
──オヤジ。
いつでもまるですぐそこで見ているように、口角を上げ白い歯を見せて、笑っている。
ここにはいない父と呼ぶ男の姿を思い描いて、目がくらむような感覚を一瞬覚えた。
「構えろ」
サッチの車が、二台の車が走る車線から右車線に移動した。
斜め後ろからマルコは窓の外に身を乗り出し、2台目の車に銃口を向ける。
同じように、後部座席から身を乗り出してマルコの車に銃を向ける男と目があった。
マルコの方が速かった。
2発の銃声が響く。
両方マルコのものだ。
一発目は後部座席の窓ガラスを、二発目は前車輪をあやまたず打ち抜いた。
空気が空に向かって勢いよく抜ける音ともに、2台目がバランスを崩して中央分離帯のブロックにぶつかった。
その車を追い抜きながら、マルコはもう一発をフロントガラスに打ち込む。
1台目の車は背後の喧騒に混乱したのか、スピードは出ているもののふらふらと運転がおぼつかない。
あっというまにサッチが抜き去り、まるで行き止まりを作るように車体で1台目の進路を塞いだ。
フロントガラス越しに、目を見開いたアンの顔が見える。
急ブレーキにタイヤと地面が悲鳴を上げ、火花が散り、アンの車はサッチの車に半ばぶつかりながらも急停止した。
「行け!」
サッチが叫ぶ。
助手席から飛び降りると、コンクリートの地面に照り返した日差しが眼球を焼いた。
霞む視界の中、運転席でアンが哀れなほど狼狽した顔をしているのが見える。
サッチがすぐさま車を発進させた。
マルコは、アンが座る運転席側のドアに手をかけた。
*
「どけっ!!」
急に前方を塞いだ車から飛び出してきたのは、マルコだった。
ブレーキを踏みしめた右足が、まだジンジンしている。
何が起きたのかまだわからないアンの前に、突然マルコは現れ、アンが座る側のドアを開け、こう叫んだのだ。
「あ、」
アンの口から頼りない一音が零れる。
その瞬間、ふわっと体が浮き上がり、助手席側に体が飛んだ。
マルコが持ち上げ投げたのだと分かったときには、助手席のドアにしたたかに身体をぶつけていた。
脚も車内のそこらじゅう滅茶苦茶にぶつかり、アンは四肢を投げ出した不恰好なようすで尻だけが助手席のシートに着地する。
左肩に鮮烈な痛みが走り、顔をしかめたそのとき、車はもう走り出していた。
数メートル進んで、思い出したようにマルコが運転席側のドアを閉める。
「マル、コ」
マルコは汗をかいていた。
この男がこんなふうに汗を流しているところを、アンはほとんど見たことがない。
ただ一度、薄暗いマルコの部屋。あのときだけだ。
マルコはアンに目もくれず、手早くハンドルを切って大通りから横道に入った。
車の幅とほとんど同じくらいの細い路地を、マルコは迷うことなく大通りと同じスピードで駆け抜けてゆく。
時折ゴミ袋などをひき潰す鈍い音が足元から伝わる。
「どこに行くつもりだったんだよい」
マルコが問う。
アンは足を折りたたみながら、シートに座り直した。
湿った黒い壁が一瞬で目の前に迫って来ては、すぐさま遠ざかる。
頭の中が真っ白で、ただただすごいスピードで流れていく車窓の景色と、隣でハンドルを操るマルコの姿だけがくりぬかれたように、視界に映っていた。
「サボと、ルフィを」
「どこにいるかわかってんのかい」
わからない、と言いかけたアンは急ブレーキで舌を噛んだ。
驚いて前を見据えると、対面から猛スピードで車が直進してくる。
思わず叫んだ。
「マルコ!!」
無骨な手がギアをわしづかみ、マルコの車は前進していたときと同じスピードで後退する。
エンジンが焦げ付くような油臭さが鼻についた。
アンは思わずシートのヘッドレストにしがみつく。
身体をねじって背後を見るマルコが、小さく舌を打った。
唐突に、前方ですさまじい破裂音が響いた。
すぐさま振り向くと、フロントガラスに蜘蛛の巣のようなひびが入っている。
マルコがもう一度舌を打つ。
「掴まれ!」
マルコの声に、身体が無条件で従う。
アンは両腕で抱えるようにヘッドレフトにしがみついた。
車は急ブレーキをかけ、勢いよく前に向かって進んだかと思えばすぐに右折した。
身体が遠心力で外側に大きく振られる。
マルコの方へ飛ばされそうになるが、力の入る右腕だけでアンは必死にシートにしがみついた。
マルコの車が右に折れてすぐ、追っ手の車も同じ路地に侵入したのが見えた。
「追ってくる……!」
「そりゃそうだろい」
「ど、どこに向かってんの」
「サッチが上に連絡を入れる。そしたら街全体に厳戒態勢が敷かれる。それまで逃げるよい」
マルコは何度も、追っ手を振り払うように右折左折を繰り返した。
アンには今どこを走っているのかさっぱりわからない。
「逃げ……マルコは、なんで、逃げる必要ない!」
「アン」
マルコはバックミラーで背後を確認するそぶりをした。
「後ろ見ろ。いるかよい」
アンは振り返って背後を確認したが、追っ手の車は同じ路地にはいなかった。
「い、いない」
「一旦大通りに出るよい」
そう言って、マルコはすいすいと細い路地を進んであっという間に大通りへと車を出した。
さいわいひびの入ったフロントガラスはアンの面前で、マルコの視界は開けている。
南北に走る大通りを、マルコは南へと車を走らせた。
どこへ向かっているという様子もなかったが、マルコの運転には迷いがない。
先程大通りで発生した騒ぎのせいか、大通りには車が多かった。
マルコは何度か車線変更を繰り返しながら、南へと下っていく。
どこに行くの、と何度も聞きそうになった。
口を開くと泣き言が零れそうだった。
マルコが来てくれた。
今になってやっと実感した。一人じゃない実感。
「おい」
マルコが前を向いたまま、顎を指し示すように動かした。
その方向に顔を向けると、対向車線を走る小さな影がある。
「サボ!」
バイクにまたがるサボは、マルコが示したライトの点滅に気付き、道の端に停まった。
マルコはちょうど交差点に差し掛かったところで強引にUターンして、サボのすぐ横に車を付けた。
アンはドアを引っ掻くようにして開け、外に飛び出す。
「サ、サボ!」
「アン!無事か、怪我は!」
バイクから降り、サボはアンの両腕を掴んで頭のてっぺんからつま先まで点検するように、アンを見回した。
「平気、サボは?」
「おれも平気だ。ルフィには会ったか?」
アンが首を振ると、サボが大丈夫だとでも言うように頷いた。
「ルフィはイゾウが一緒だ。多分、無事だ」
「イゾウ?」
アンの声に、マルコの声が重なる。
ドア越しにサボとマルコが視線を交わし、サボが頷いた。
「協力してくれたんだ。ルフィを運んでくれた」
「なんで……」
おい、とマルコの声が遮った。
「お前、どこへ行くつもりだったんだよい」
「ルフィを迎えに行くつもりだ」
「じきに街中に検問が張られる。そうすりゃ自由に動けなくなる。なんでか知らねェがイゾウが一緒なら心配ねェよい。テメェは警察庁へ行け。保護してもらえる」
口を開いたサボを、アンの言葉が遮る。
「行って、サボ。ルフィもあたしも、大丈夫だから」
「ア、アンはどうするんだ」
「マルコがいるから」
不思議なほど、自然に口が動いた。
サボが言葉に詰まり、少し傷ついた顔をする。
アンはサボの手を握り、大丈夫、と言った。
「早く帰るから」
サボの返事を聞かず、アンは車に乗り込んだ。
ドアを閉めると、窓の向こうでサボがヘルメットをかぶっているのが見える。
なにに対してかわからないまま、ふたりは視線を交わして小さく頷いた。
サボがエンジンをふかし、北へと走り出した。
北に頭を向けていたマルコの車はサボを追いかけて少し走り、次の交差点で南方向にUターンする。
車とバイク、二つの車体が反対方向に走り始めて数秒後、アンの背後から一切合財の建物が崩れ落ちたような爆発音が響いて、地面が揺れた。
振り返り、声にならない悲鳴を上げる。
喉と喉がはりついて、声が出なかった。
50mほど背後、ついさっき別れたばかりの小さな車体が、ちょうど地面にぶつかって、バウンドした。
そのすぐそばに、倒れる影がある。
ガシャガシャと複雑な音を立てて、バイクが横倒しのまま地面を滑走する。
黒くて細長い煙が、逃げるように上空へと伸びていく。
──サボ。
息を呑み、自分たちだけ時間が止まったかのように、アンとマルコは振り返って立ち上る煙を見つめた。
しかし、すぐさま前に向き直ったマルコは車を停めなかった。
ドアに手をかけていたアンは、愕然として運転席を振り返る。
「と、止めて!!」
車は走り続ける。
マルコは深く眉間に皺を寄せて、アンを見ようとしなかった。
言葉にならない。
焦りと、怒りと、膨大な不安がむくむくとかさを増して心を埋め尽くした。
「止めてってば!!」
アンはマルコの掴むハンドルに飛びついて、無理やり足をねじ込んでマルコの足ごとブレーキを踏んだ。
車体が大きくぐらつき、轟音を立てて歩道に乗り上げ停車する。
歩道を歩く数人が、悲鳴を上げて車を避けた。
ぐ、とマルコが呻き声を洩らしたかと思ったら、次の瞬間、シートに叩きつけられるように抑え込まれた。
「ティーチが!!」
ブレーキを踏んだまま、アンをシートに押さえつけたマルコが叫ぶ。
首筋から汗が流れていた。
「お前を探している、バイクに爆弾でもしこまれてたんだろうよい、罠だ、お前を、引っ張り出すための」
「はっ、離し……」
もがいても、不自由な左肩と女の力ではマルコはピクリともしなかった。
悔しさと、憤りで涙があふれる。
サボ、サボ。
「ここでお前が出ていきゃ相手の思うつぼだ、ましてや今お前が駆け寄ってあいつに何ができる」
お前は逃げなきゃならねェ。
鼻と鼻が触れあいそうな距離で、マルコが言った。
薄い唇を、血が出る程噛み締める。
もう逃げるのはいやだ。
マルコの腕の力が弱まった瞬間、その手を払いのけてドアに手をかけた。
マルコの怒号が背中にぶつかる。
転げ落ちるように車から降りた。
コンクリートを掴み、地面を蹴って煙の方へと走り出す。
人だかりができていた。
通りがかった一般人が、血相を変えて倒れる人影を覗き込んでいる。
救急車、警察を、と人々が切迫した声でどこかに叫ぶ。
アンは人を薙ぎ払いながら人ごみの中を泳いだ。
「サボ、サボッ!!」
人をかき分けていくと、足元に転がる身体が目に入った。
長身がまっすぐ足を伸ばして横たわっている。
頬に大きな擦り傷を付けてサボは目を閉じていた。
「サ……」
甲高い悲鳴が人ごみの中からあがる。
大きな手に薙ぎ払われた野次馬が、サボのわきに倒れる。
アンが振り向くより早く、強い力が首根をわしづかんだ。
生臭く、淀んだ息が後ろから肩のあたりを滑り降りていく。
同時に、頬にねじ込まれるように硬く冷たい感触があった。
「アン。お前だけは許さねェ」
「ティーチッ……!」
無理やり首を回して背後を睨むと、すぐ近くに脂ぎったティーチの目がアンを見つめていた。
地面から引きはがすようにアンを引っ張り上げ、その頬に銃口をめり込ませたままティーチは歩き出した。
物騒な男の登場に初めは呆気にとられていた野次馬が、誰かの叫びをきっかけに騒然として逃げ惑う。
ティーチはそれらには目もくれず、道の脇に止めてある車までアンを引きずろうとしているようだった。
足をばたつかせコンクリートを必死で蹴ると、アンの抵抗をあざ笑うかのように右足の靴が脱げた。
横たわるサボだけがただ静かに、目を閉じていた。
黒い液体が、サボの背中から染み出ている。
「アン!」
顔を上げると、さらに強く頬に銃口が押し込まれる。
口が上手く動かない、情けない顔のままマルコを見上げた。
「マルコか」
ティーチが笑ったのが、手の揺れから伝わった。
マルコは銃を構えていた。
遠目に見えたマルコの瞳はいつもの通り青かったが、ただひたすら後悔の色が滲んでいるのがアンにも見てとれた。
見たこともない、追い詰められた顔。
「テメェひとりでどうするつもりだ。あぁ?」
高らかな笑い声が、騒然とした空間の中大きく響いた。
「ひとりじゃなかろうが」
ティーチの背中から、低く、それでも足の裏から沁み込むような声がアンにも届いた。
久しく聴いていない、それでも確かに知っている声だった。
ティーチが振り向く。
笑ったときと同じように、ティーチの動揺はアンの手に取るように伝わる。
じいちゃん、と上手く動かない口がくぐもった声を出した。
唐突にガチャガチャとした金属音がどこからともなく響きはじめ、首が回らないアンの前にも防護服を着て銀色の盾を構えた警備隊が現れる。
ティーチとアンをぐるりと囲み、それらはきっちりと隙間なく並んだ。
「アンを離せ。お前はもう終わりじゃティーチ」
「ガープ……テメェどこからきやがった」
「ずっとお前を追っていた。お前の手下も、ほどなく捕まる」
アンにはティーチの巨体が邪魔で、その姿は見えなかった。
それでも確かにガープと言った。
それに間違いない、低くてしわがれた声。
アンの視界には、銀色の盾と、マルコの姿しか見えなかった。
マルコも、細い目を見開いてティーチのさらに向こうにいる人物を見ていた。
ガープとティーチの会話だけが、ティーチの肩越しに聞こえる。
「ロートルが。とっくに引退したんじゃなかったのかよ」
「言ったろうが。ずっとお前を追ってたんじゃ。お前のねぐらは全部しらみつぶしに漁らせてもらうぞ。もう捜査員が入ってるがな」
ふんっとティーチが鼻息を吐きだす。
急に首を掴みあげられて、振り子のように足が大きく振れた。
ガープの姿が目に映る。
じいちゃん、と口が動くが、声が出ない。
ガープの顔に深く刻まれた皺は険しく、アンごとティーチを睨み殺すようだった。
「おれは死なねェ。こいつがいる限り、お前はおれを撃てねェ!」
ざらざらした笑い声が耳を突き抜ける。
あぁ、安っぽいサスペンスみたいだと、アンは他人事のように感じる。
「ガープ。おれがこいつを殺して、お前がおれを捕まえるのと、おれがこいつを解放して、お前はおれを逃がすのと、どっちがいい?」
「お前に退路はない、ティーチ」
「バカ言え」
ティーチが鼻で笑う。
自信に満ちた声だった。
その声が表す通り、アンから見てもガープの顔は引き攣り、青ざめていた。
「どうするガープ。おれを逃がすか。そうしてェだろうなぁ」
アンの首根を掴む指が締まる。
足が地面から浮き、つま先がコンクリートをかする。
「だがそれはナシだ。逃げるのはやめた。おれはここでアンを殺す」
耳の上に銃口が突き付けられた。
火薬のにおいが鼻につく。
視界に映るガープの姿が急に遠ざかるように、見えなくなった。
泣いているのだと気付いて、急に周りが静かになった。
死ぬんだな、と思った。
最期の景色が、血相変えたじいちゃんの顔なんて最悪だ。
急に、ティーチの身体ががくんと前につんのめり、銃口が頭から外れた。
硬い感触が消えた瞬間、アンはほとんど反射で手足をばたつかせる。
銃声が響く。
ティーチが断末魔の叫びをあげ、ますます身体を傾かせた。
身をよじると、ティーチの手が首から離れ、アンは地面に落ちて転がった。
ほとんど同時に、隣に何かが落ちる。
人だった。あと、なぜかそのすぐそばにニンジンがひとつ転がっている。
白くて細い指が、一丁の拳銃を掴んでいる。その手に拳銃はとてつもなく不似合いだった。
そして、見知ったオレンジ色のバンダナ。
アンは口をわななかせながら叫ぶ。
「──マキノ!!」
ぐふっと生き物が潰れた音がすぐそばから聞こえた。
ガープがティーチの上に馬乗りになり、押さえつけている。
ガープに殴られたのだろう、ティーチは顔から、そして足からも血を流していた。
素早く別の警官が走り寄り、ティーチの両手両足に鉄枷をはめ、さらにはさるぐつわまで噛ませた。
そのすべてが一瞬の出来事だった。
ティーチは憤怒の形相でガープを、そしていつのまにかそばにいたマルコを睨んでいる。
マキノは抱きしめるように胸に抱えていた拳銃を、驚いた顔でおぞましいものを振り払うように地面に落とした。
「アン、アン」
マキノの顔は青ざめ、深緑の瞳は涙の膜を張っていた。
細い指がアンの手を掴む。
マキノの手は、血が通っていないように冷たい。
ぶるぶると音が聞こえる程震えている。
アン、アン、とひたすら名前を呼ぶ唇は不健康な紫色に染まっていた。
頭の中がぐちゃぐちゃで、未だ死の縁に立たされているかのように心臓がバクバクと音を立てている。
マキノが滑り落とした拳銃が目に入った。
途端に、記憶と感情がごちゃ混ぜになって洪水のようにあふれ出した。
頭が壊れてしまう程痛む。
ティーチの汚い笑い声と、サボやルフィの笑い声が重なって響く。
アンの手がしなるように動き、拳銃を掴んだ。
膝立ちになり、取り押さえられたティーチに銃口を向けた。
洪水のように溢れた記憶と感情が過ぎ去ると、残ったのはただただどす黒い怒りだった。
「アン!」
何人もの怒声が聞こえたが、ひと際高い声がアンの手を止めた。
その瞬間に腕を引かれ、振り向きざまに平手が容赦なくアンの頬を打った。
指の間を拳銃が滑り落ち、無機質な音をたてて地面にぶつかる。
息を切らし、マキノはアンを睨む。
「バカなことはやめなさい」
感情を押し殺し、震えを必死で我慢している声だった。
マキノはアンの膝の横に落ちた拳銃を薙ぎ払うように遠くへ滑らせる。
腕を引かれ、アンはマキノの身体に倒れ掛かった。
「もう大丈夫よ」
マキノの身体は細く、しかも震えていて、これ以上ない程頼りなく、間違いなく自分より弱いのに、アンは咄嗟にすがるように目の前の身体を抱きしめた。
どうしよう、どうしよう、と弱弱しい声が口から零れ落ちる。
全身が大きく震えていた。
助けて、と口を突きかけた言葉が、唇の上で足を止めた。
誰にたすけてと言えばいいのか、わからなかった。
今まで誰にも、願ったり祈ったりしたことがないのだ。
マキノの肩越しに視線を走らせた。
集まる人だかりの中に知った人は何人いるだろう。
あのひとも、あのひとも、あのひとも違う。
願いも祈りも行き先がなかった。
マキノの震える手が、おぼつかないままアンの背中を撫でる。
喉が引くついた。
膝が笑い、身体が揺れる。
サボが横たわっていた場所に、もうその姿はなかった。
ただ黒い染みのようなものが不吉に広がっている。
おねがい連れて行かないで。
額をマキノの肩にこすり付け、音にもならない声で叫ぶ。
──父さん母さん、サボを助けて。
→
どでかい空間の真ん中に立つと、どこからともなく風が吹いてえりあしの髪を揺らした。
平日のパンテオンは数人の観光客がちらちらと歩いているだけで、とても静かだ。
一番広い空間のつきあたりには、白い彫像が立っている。
右側には、馬上の騎士とその取り巻き、彼を鼓舞するように太鼓をたたく鼓笛隊。
左側には手を差し伸べてその先を見上げる群衆。
そして中央に、刀を持った女性像。
似ても似つかないくせに、そのたおやかな顔はナミさんを思い出させた。
恋の振り子は僕に傾く
休みをもらった。
「明日は休みだ、サンジ」そう言われて、えっ、と思わず声が跳ねる。
しかしチーフは、相変わらずの強面にほんの少しの憐憫をにじませて、首を横に振った。
「明日だけだ。悪いが、明後日には出てもらわないと」
「あぁ……そうっすよね、了解」
去り際に肩を叩かれ、照れくさくなった。
同時に、やはり期待してしまったぶん残念で、少し肩が落ちた。
1日で日本へ帰ることはできない。
仕事終わりの午前2時、コック帽を脱いで階上の自室へととぼとぼ昇った。
*
翌日目が覚めて、時間を確認してからすぐさま電話を手に取った。
短いコール音の後、ぷつんと接続音が小さく響く。
『もしもし?』
「んナミさんっ!おはよう!誕生日おめでとう!!ごめんな、昨日仕事終わったらもう夜中でさ、本当は電話したかったんだけどもう寝てるだろうと思って。メール見た?」
『おはよ、見た見た。ありがとね』
数千キロの距離をつなぐ頼りない電波は、少し呆れた彼女の声を伝えてくれた。
彼女の返事にほっとすると同時に、たまらなく愛しさがこみ上げる。
「ごめんな…帰りたかったんだけど」
『いいわよ、前々から帰れないって言ってたんだし。今は仕事前?』
「いや、今日は休みなんだ。今日1日だけ休みもらえた」
『ふうん、なにするの?』
……なにをしよう。
おれが黙り込むと、ナミさんがふふっと笑う息遣いが聞こえた。
『仕事人間だから、休みもらってもなにしたらいいかわからないんでしょ』
「そうかも」
『観光でもしたら?』
「観光か…そういやこっち来てからしたことねェな」
『えっ、一度も?』
「うん、フランスパンは死ぬほど食ったけど」
もったいない!とナミさんは叫ぶ。
『せっかくだからいろいろ見て回ってきなさいよ』
「えぇ…一人で?」
『意外と息抜きになるかも』
ナミさんがそういうなら。
そう言うと、彼女は「いってらっしゃい」と笑った。
そのときのナミさんは、きっとびっくりするくらいやさしい顔をしていたはずだ。
*
部屋着以外の私服に久しぶりに袖を通した。
自室を出ると、向かいの部屋からちょうどアランが顔を出したところだった。
これから仕事へ向かうアランは、私服のおれに目を留めて、「珍しい、休みか?」と片眉を上げた。
「あぁ、急にな」
「へぇ、出かけるのか。デート?」
「黙れクソ野郎」
ナミさんの存在を知っているくせに軽口を叩く男を睨むと、アランは涼しい顔で肩をすくめて、おれの前を通り過ぎて行く。
出ばなをくじかれたような気分で、部屋を後にした。
煙草をくわえて歩きなれた道を行く。
呆れるくらいそこらじゅうにあるパン屋とカフェの中から適当に一つを選び、コーヒーとパニーニを買った。
歩きながらパニーニをくわえ、むしゃむしゃと食べる。
ドレッシングが少し濃い。
しかしレモンの酸味が効いている。
口の中に、ゴロンと大きなオリーブの実が転がった。
噛みつぶすと、じゅわりと瑞々しく美味かったが、オリーブが苦手なナミさんは食べられないだろう。
ナミさんは、おれがサラダに和えたものしかオリーブを食べない。
カフェのサンドウィッチやサラダに入っているオリーブを、眉をしかめていつもおれの方へ寄せていた。
「オリーブはお肌にいいんだぜ」と促すと、彼女は「じゃあサンジ君が料理してよ」となぜか怒った顔で言っていたことを思い出す。
食べ終わった後のパニーニの包み紙をくしゃくしゃと潰し、おれはメトロに乗るために階段を降りた。
パリの街中を入り乱れて錯綜するメトロをいくつか乗り換えて、かの有名な塔を目指した。
メトロの駅から地上に顔を出すと、もうすぐそこに塔の上半分くらいが見えている。
その足元を目指してぶらぶらと歩いた。
塔に登るつもりはなかった。
ひとりで街を上から見ていたって、高ェな、とか、あの辺が店だな、とか、至って無機質な感情しか芽生えないことがわかりきっていたからだ。
塔の正面には、だだっぴろい芝生の広場が広がっている。
平日の午前、人は多い。
学生、子供連れ、若い夫婦。
芝生の上になにも敷かずに座り込み、飲み物や食べ物を広げてわいわいとやっていた。
誰もたいして塔を見上げてやしない。
飲み干したコーヒーの紙コップをその辺のゴミ箱に捨て、煙草に火をつけた。
これがナミさんの言う、観光なのか?と改めて考えると、何か違う気がした。
せめてここに彼女がいればな、と恨めしく塔を見上げた。
離れた距離と思いの大きさは比例も反比例もしない。
わかっているが、会えない時間は無情にも刻まれていく。
ナミさんが耐えると決めたのだ、おれも耐えねばならん。
結局塔の下周辺をうろうろとして、煙草を3本ほど灰にした。
足が疲れたが、この際だから行ってしまえとメトロに乗ることなく歩き続けた。
この街には、一本大きな川が蛇行している。
街を半分に割るその川沿いを、相変わらずぼんやりと歩いた。
平日の真昼間でも、カフェのテラスにはビールやワインを飲む連中がちらほら見られる。
時折知った顔に出会い、飯をどうだと誘われたが丁重に断った。
ナミさんの誕生日に、たとえ野郎とであれ、他の誰かと一緒に過ごすことに不義理を感じたのかもしれないし、ちがうかもしれない。
ただ今日はひとりでいたかった。
傍にいるのは彼女がよかった。
何度か橋を横目に通り過ぎた。
橋の両側の柵は、金銀の南京錠で埋め尽くされている。
上手いこと言ったもんだ。
恋人と一緒に、南京錠を橋の柵に取り付け、鍵をかける。
そしてその鍵を川に捨ててしまうのだ。
そうすればその恋人たちは永遠に一緒と、そんな噂ともまじないともつかないジンクスがある。
橋の中央には南京錠を売る露天商の姿が見えており、観光客がいい金づるになっていることはあからさまであるにもかかわらず、南京錠はどんどん増えていく。
川の中に沈んだ鍵も、どんどん増えていく。
いつか錠の重さで橋が落ちてしまうかもしれない。
その場合、鍵をかけた恋人たちはどうなるのか。
気付けばずいぶん歩いていたようで、目の前に有名な大聖堂がそびえたっていた。
さすがに疲れたのでどこかへ入ろうと辺りを見回した。
学生街が近い。
相変わらずパン屋もカフェもアホほど多いが、学生街には安くてウマい店が多い。
そういや欲しい本があるんだったと思い出し、最後の煙草に火をつけて学生街へと足を踏み入れた。
なじみの本屋へ顔を出すと、愛想のいい老婦人が声をかけてくれた。
毎月出版される料理雑誌を買い、婦人と立ち話をする。
観光しているのだと言うと、あんた何年ここに住んでるのと笑われた。
「パンテオンには行った?」
「いや、行くつもりは」
「もうすぐそこなんだから、見てきたらどう?」
パンテオンか、と店の外に目をやった。
偉人が眠る巨大な廟のようなそれ自体に興味はない。
しかし時間はある。
「近いんだっけ」
「ほんの5分程度歩けばつくよ」
「んじゃ、行こうかね。ありがとうマダム」
店を出ると、大学の校舎やアパルトマンの隙間から、どでかい石造りの屋根が覗いていた。
なるほどすぐそこだ。
ちらりとのぞくそれを目印に、横断歩道を2つほどわたり、パンテオンを目指した。
近くまで来ると、なるほどさっきの塔ほどの高さはないが、立派なもんだ。
建物前の真っ白な階段が、照り返しでひどく眩しい。
受付で金を払い、中に入った。
入り口付近は薄暗かったが、中はわりと明るい。頭上から光が入っている。
数枚の絵画が、壁に飾られていた。
ぼんやりとそれを見上げながら、通路を進む。
だだっぴろい空間が広がっていた。
床には円形の文様が彩られており、正面には絵画と彫像が立っている。
たしかここに、有名な実験に使われた振り子がそのまま残されているはずなのだが、見当たらない。
見当たらないような大きさのモンじゃねぇはず、と受付で受け取った冊子をぱらぱらとめくっていると、背後からおれを追い抜いて行った観光客が「振り子は修理中だ」と話しているのが聞こえた。
なるほど、まぁそんなもんだ。
なめらかに続く床の中心に断ち、真上を見上げると目が回りそうだった。
遠くから細々と人の話し声が聞こえる。
世界の偉人達がこの地下に眠っている。
足の裏がひんやりと冷えた。
とても心もとない。
ナミさんに会いたいな、と思った。
「お兄さん、ひとり?」
不意に背中に声がかかった。
振り向いて、ふらりと足元がよろめく。
上を見上げていたから立ちくらんだのだ。
頭上から降り注ぐ日の光の下、ナミさんは少し得意げな顔で立っていた。
「え?」
ナミさんはにまにまとおれを笑っている。
「お兄さん、おひとり?」
彼女は確かに、フランス語でそう言った。
「……ナミさん?」
「来ちゃった。びっくりした?」
そう言って歩み寄る彼女はとても身軽で、Tシャツにショートパンツ、肩から小さなショルダーバッグを一つ提げているだけだ。
いつまでもぼうっとしているおれに、ナミさんが「ちょっと」と口を尖らせる。
「せっかく来たのに何よその反応は。嬉しくないの?」
「えっ、いや……え?本当にナミさん?」
「じゃなかったらなんなのよ」
「いやいや……いやいや待って」
ごくりと生唾を飲み込み、乾いた咥内が余計にかさつく。
「な、なんで?」
おそるおそる問いかけると、ナミさんはにまーっと可愛らしく口角を上げた。
「サンジ君にお休みくださいってお店に電話したの」
「えっ、うちの?」
「そう。そしたらいいよって」
「いいよ……」
突然舞い込んだ休日の真相があまりにあまりだったので、思わず言葉を失う。
ナミさんはするりとおれの腕を取った。
「さっ、どこ行く?私もう明日帰るの。サンジ君も明日は仕事でしょ」
おれと腕を組むナミさんを呆然と見下ろすと、彼女はまた顔をしかめた。
「いい加減シャキッとしなさいよ!半日しかないって言ってんでしょ!」
「ハイッ!」
思わず背筋を伸ばしたおれに、ナミさんは満足げな顔でヨシと言う。
どうしてナミさんがここまで来てくれたのかとか、なんでこの場所で出会ったのかとか、そもそもおれの休みはそんな簡単に取れるもんだったのかとか、いろいろ不可解なことは多かったが、腕に当たるナミさんの柔らかさにそんなものはすべて吹き飛んだ。
「そうだ」と呟いて、ナミさんはごそごそとカバンから雑誌を取り出した。
「私ね、これ見たいの。別に観光地じゃないんだけど。橋にいっぱい鍵がついてるんでしょう?」
別に私たちもしたいとかじゃなくて、と小声で言い添えた顔はほんのり赤い。
「こりゃ、橋が落ちるどころの騒ぎじゃねェな」
「なに?」
「いやいや」
行こうか、と彼女の身体を引き寄せた。
平日のパンテオンは数人の観光客がちらちらと歩いているだけで、とても静かだ。
一番広い空間のつきあたりには、白い彫像が立っている。
右側には、馬上の騎士とその取り巻き、彼を鼓舞するように太鼓をたたく鼓笛隊。
左側には手を差し伸べてその先を見上げる群衆。
そして中央に、刀を持った女性像。
似ても似つかないくせに、そのたおやかな顔はナミさんを思い出させた。
恋の振り子は僕に傾く
休みをもらった。
「明日は休みだ、サンジ」そう言われて、えっ、と思わず声が跳ねる。
しかしチーフは、相変わらずの強面にほんの少しの憐憫をにじませて、首を横に振った。
「明日だけだ。悪いが、明後日には出てもらわないと」
「あぁ……そうっすよね、了解」
去り際に肩を叩かれ、照れくさくなった。
同時に、やはり期待してしまったぶん残念で、少し肩が落ちた。
1日で日本へ帰ることはできない。
仕事終わりの午前2時、コック帽を脱いで階上の自室へととぼとぼ昇った。
*
翌日目が覚めて、時間を確認してからすぐさま電話を手に取った。
短いコール音の後、ぷつんと接続音が小さく響く。
『もしもし?』
「んナミさんっ!おはよう!誕生日おめでとう!!ごめんな、昨日仕事終わったらもう夜中でさ、本当は電話したかったんだけどもう寝てるだろうと思って。メール見た?」
『おはよ、見た見た。ありがとね』
数千キロの距離をつなぐ頼りない電波は、少し呆れた彼女の声を伝えてくれた。
彼女の返事にほっとすると同時に、たまらなく愛しさがこみ上げる。
「ごめんな…帰りたかったんだけど」
『いいわよ、前々から帰れないって言ってたんだし。今は仕事前?』
「いや、今日は休みなんだ。今日1日だけ休みもらえた」
『ふうん、なにするの?』
……なにをしよう。
おれが黙り込むと、ナミさんがふふっと笑う息遣いが聞こえた。
『仕事人間だから、休みもらってもなにしたらいいかわからないんでしょ』
「そうかも」
『観光でもしたら?』
「観光か…そういやこっち来てからしたことねェな」
『えっ、一度も?』
「うん、フランスパンは死ぬほど食ったけど」
もったいない!とナミさんは叫ぶ。
『せっかくだからいろいろ見て回ってきなさいよ』
「えぇ…一人で?」
『意外と息抜きになるかも』
ナミさんがそういうなら。
そう言うと、彼女は「いってらっしゃい」と笑った。
そのときのナミさんは、きっとびっくりするくらいやさしい顔をしていたはずだ。
*
部屋着以外の私服に久しぶりに袖を通した。
自室を出ると、向かいの部屋からちょうどアランが顔を出したところだった。
これから仕事へ向かうアランは、私服のおれに目を留めて、「珍しい、休みか?」と片眉を上げた。
「あぁ、急にな」
「へぇ、出かけるのか。デート?」
「黙れクソ野郎」
ナミさんの存在を知っているくせに軽口を叩く男を睨むと、アランは涼しい顔で肩をすくめて、おれの前を通り過ぎて行く。
出ばなをくじかれたような気分で、部屋を後にした。
煙草をくわえて歩きなれた道を行く。
呆れるくらいそこらじゅうにあるパン屋とカフェの中から適当に一つを選び、コーヒーとパニーニを買った。
歩きながらパニーニをくわえ、むしゃむしゃと食べる。
ドレッシングが少し濃い。
しかしレモンの酸味が効いている。
口の中に、ゴロンと大きなオリーブの実が転がった。
噛みつぶすと、じゅわりと瑞々しく美味かったが、オリーブが苦手なナミさんは食べられないだろう。
ナミさんは、おれがサラダに和えたものしかオリーブを食べない。
カフェのサンドウィッチやサラダに入っているオリーブを、眉をしかめていつもおれの方へ寄せていた。
「オリーブはお肌にいいんだぜ」と促すと、彼女は「じゃあサンジ君が料理してよ」となぜか怒った顔で言っていたことを思い出す。
食べ終わった後のパニーニの包み紙をくしゃくしゃと潰し、おれはメトロに乗るために階段を降りた。
パリの街中を入り乱れて錯綜するメトロをいくつか乗り換えて、かの有名な塔を目指した。
メトロの駅から地上に顔を出すと、もうすぐそこに塔の上半分くらいが見えている。
その足元を目指してぶらぶらと歩いた。
塔に登るつもりはなかった。
ひとりで街を上から見ていたって、高ェな、とか、あの辺が店だな、とか、至って無機質な感情しか芽生えないことがわかりきっていたからだ。
塔の正面には、だだっぴろい芝生の広場が広がっている。
平日の午前、人は多い。
学生、子供連れ、若い夫婦。
芝生の上になにも敷かずに座り込み、飲み物や食べ物を広げてわいわいとやっていた。
誰もたいして塔を見上げてやしない。
飲み干したコーヒーの紙コップをその辺のゴミ箱に捨て、煙草に火をつけた。
これがナミさんの言う、観光なのか?と改めて考えると、何か違う気がした。
せめてここに彼女がいればな、と恨めしく塔を見上げた。
離れた距離と思いの大きさは比例も反比例もしない。
わかっているが、会えない時間は無情にも刻まれていく。
ナミさんが耐えると決めたのだ、おれも耐えねばならん。
結局塔の下周辺をうろうろとして、煙草を3本ほど灰にした。
足が疲れたが、この際だから行ってしまえとメトロに乗ることなく歩き続けた。
この街には、一本大きな川が蛇行している。
街を半分に割るその川沿いを、相変わらずぼんやりと歩いた。
平日の真昼間でも、カフェのテラスにはビールやワインを飲む連中がちらほら見られる。
時折知った顔に出会い、飯をどうだと誘われたが丁重に断った。
ナミさんの誕生日に、たとえ野郎とであれ、他の誰かと一緒に過ごすことに不義理を感じたのかもしれないし、ちがうかもしれない。
ただ今日はひとりでいたかった。
傍にいるのは彼女がよかった。
何度か橋を横目に通り過ぎた。
橋の両側の柵は、金銀の南京錠で埋め尽くされている。
上手いこと言ったもんだ。
恋人と一緒に、南京錠を橋の柵に取り付け、鍵をかける。
そしてその鍵を川に捨ててしまうのだ。
そうすればその恋人たちは永遠に一緒と、そんな噂ともまじないともつかないジンクスがある。
橋の中央には南京錠を売る露天商の姿が見えており、観光客がいい金づるになっていることはあからさまであるにもかかわらず、南京錠はどんどん増えていく。
川の中に沈んだ鍵も、どんどん増えていく。
いつか錠の重さで橋が落ちてしまうかもしれない。
その場合、鍵をかけた恋人たちはどうなるのか。
気付けばずいぶん歩いていたようで、目の前に有名な大聖堂がそびえたっていた。
さすがに疲れたのでどこかへ入ろうと辺りを見回した。
学生街が近い。
相変わらずパン屋もカフェもアホほど多いが、学生街には安くてウマい店が多い。
そういや欲しい本があるんだったと思い出し、最後の煙草に火をつけて学生街へと足を踏み入れた。
なじみの本屋へ顔を出すと、愛想のいい老婦人が声をかけてくれた。
毎月出版される料理雑誌を買い、婦人と立ち話をする。
観光しているのだと言うと、あんた何年ここに住んでるのと笑われた。
「パンテオンには行った?」
「いや、行くつもりは」
「もうすぐそこなんだから、見てきたらどう?」
パンテオンか、と店の外に目をやった。
偉人が眠る巨大な廟のようなそれ自体に興味はない。
しかし時間はある。
「近いんだっけ」
「ほんの5分程度歩けばつくよ」
「んじゃ、行こうかね。ありがとうマダム」
店を出ると、大学の校舎やアパルトマンの隙間から、どでかい石造りの屋根が覗いていた。
なるほどすぐそこだ。
ちらりとのぞくそれを目印に、横断歩道を2つほどわたり、パンテオンを目指した。
近くまで来ると、なるほどさっきの塔ほどの高さはないが、立派なもんだ。
建物前の真っ白な階段が、照り返しでひどく眩しい。
受付で金を払い、中に入った。
入り口付近は薄暗かったが、中はわりと明るい。頭上から光が入っている。
数枚の絵画が、壁に飾られていた。
ぼんやりとそれを見上げながら、通路を進む。
だだっぴろい空間が広がっていた。
床には円形の文様が彩られており、正面には絵画と彫像が立っている。
たしかここに、有名な実験に使われた振り子がそのまま残されているはずなのだが、見当たらない。
見当たらないような大きさのモンじゃねぇはず、と受付で受け取った冊子をぱらぱらとめくっていると、背後からおれを追い抜いて行った観光客が「振り子は修理中だ」と話しているのが聞こえた。
なるほど、まぁそんなもんだ。
なめらかに続く床の中心に断ち、真上を見上げると目が回りそうだった。
遠くから細々と人の話し声が聞こえる。
世界の偉人達がこの地下に眠っている。
足の裏がひんやりと冷えた。
とても心もとない。
ナミさんに会いたいな、と思った。
「お兄さん、ひとり?」
不意に背中に声がかかった。
振り向いて、ふらりと足元がよろめく。
上を見上げていたから立ちくらんだのだ。
頭上から降り注ぐ日の光の下、ナミさんは少し得意げな顔で立っていた。
「え?」
ナミさんはにまにまとおれを笑っている。
「お兄さん、おひとり?」
彼女は確かに、フランス語でそう言った。
「……ナミさん?」
「来ちゃった。びっくりした?」
そう言って歩み寄る彼女はとても身軽で、Tシャツにショートパンツ、肩から小さなショルダーバッグを一つ提げているだけだ。
いつまでもぼうっとしているおれに、ナミさんが「ちょっと」と口を尖らせる。
「せっかく来たのに何よその反応は。嬉しくないの?」
「えっ、いや……え?本当にナミさん?」
「じゃなかったらなんなのよ」
「いやいや……いやいや待って」
ごくりと生唾を飲み込み、乾いた咥内が余計にかさつく。
「な、なんで?」
おそるおそる問いかけると、ナミさんはにまーっと可愛らしく口角を上げた。
「サンジ君にお休みくださいってお店に電話したの」
「えっ、うちの?」
「そう。そしたらいいよって」
「いいよ……」
突然舞い込んだ休日の真相があまりにあまりだったので、思わず言葉を失う。
ナミさんはするりとおれの腕を取った。
「さっ、どこ行く?私もう明日帰るの。サンジ君も明日は仕事でしょ」
おれと腕を組むナミさんを呆然と見下ろすと、彼女はまた顔をしかめた。
「いい加減シャキッとしなさいよ!半日しかないって言ってんでしょ!」
「ハイッ!」
思わず背筋を伸ばしたおれに、ナミさんは満足げな顔でヨシと言う。
どうしてナミさんがここまで来てくれたのかとか、なんでこの場所で出会ったのかとか、そもそもおれの休みはそんな簡単に取れるもんだったのかとか、いろいろ不可解なことは多かったが、腕に当たるナミさんの柔らかさにそんなものはすべて吹き飛んだ。
「そうだ」と呟いて、ナミさんはごそごそとカバンから雑誌を取り出した。
「私ね、これ見たいの。別に観光地じゃないんだけど。橋にいっぱい鍵がついてるんでしょう?」
別に私たちもしたいとかじゃなくて、と小声で言い添えた顔はほんのり赤い。
「こりゃ、橋が落ちるどころの騒ぎじゃねェな」
「なに?」
「いやいや」
行こうか、と彼女の身体を引き寄せた。
(更新お待ちくださってどうもありがとうございます)
世のサンナミストならば誰もが知る
BLUE FORESTの管理人konohaさま。
ご縁があって、konohaさまといくつかコラボした作品を書かせていただきました・・・
生きているといいこともあるもんです。
それらを以下でまとめようとおもいます。
ネット上で読めるものはすべてkonohaさまのサイトに掲載していただいておりますので、
上記リンクからkonohaさま宅へ遊びに行ってくださいませ~。
(indexにつながりますので、注意書きをお読みになってからバナークリックで入場)
以下が作品たちですが、時系列になっております。+ネットでは読めない紙媒体も含まれます。
①いただいた年賀状(konohaさま)+それにまつわる小話(こまつな)
→BLUE FOREST→バナークリックで入場→
→「サンナミ」リンクから「サンナミ絵」クリック
→「S 2014年賀状」
で、konohaさまのお年賀絵をたのしめるスンポー。
で、下部の追記から、私の小話へ繋がります。
②「So Deep」にゲスト寄稿させていただきました。
「So Deep」はkonohaさまが2014/5/4のスパコミで出されたサンナミ漫画(R-18)で、
現在はサイトで自家通販されております。(B5/P40/400円)
私が寄稿させていただいたお話は全年齢向け。
詳細はオフラインページをご覧ください。
→BLUE FOREST→バナークリックで入場→
→「オフライン」で詳しい通販の説明ページへ続きます。
※大人向けですので、注意書きをよくお読みください。
③拍手絵「壁ドンキス」
これは私が滾って滾って滾ってしゃーないkonohaさまの拍手絵に、
勝手に小話を送りつけたらなんと一緒に拍手に飾って下さったという
私の失礼とkonohaさまの愛を物語るコラボです。
→BLUE FOREST→バナークリックで入場→
→かわいらしいサンジがわーわー叫んでいるウェブ拍手ボタン からおねがいします。
④さんなみ時計
Twitterにてサンナミストが有志で参加し、
各時刻をイラストや文章で報告するという素敵アカウント(主催:相澤萌さま)
そこでも、konohaさまとイラストと文章で時刻をお知らせさせていただいてます。
こちらは我が家での掲載許可をいただきましたので、リンクはこのサイトのページに繋がっています。
あ、上記のコラボもkonohaさまはうちに載せていいよーとおっしゃってくださんですよ。
わざわざリンクをつなげたのは私のわがままですのであしからず。
→さんなみ時計
⑤ぜんぶほしい GLC7無配小説
私がイベントで配った無配小説に、konohaさんがイラストをつけてくださいました。
我が家に遊びに来て下さっているミストさまと、数年来の猛者だぜ!という古くからのkonohaファンが繋がったなら無上の喜びです。
どうぞkonohaさんと私のしあわせなご縁が、他のミスト様へも伝染しますように!!
(リンクの掲載はすべてkonohaさんの許可をいただいておりますゆえ)
世のサンナミストならば誰もが知る
BLUE FORESTの管理人konohaさま。
ご縁があって、konohaさまといくつかコラボした作品を書かせていただきました・・・
生きているといいこともあるもんです。
それらを以下でまとめようとおもいます。
ネット上で読めるものはすべてkonohaさまのサイトに掲載していただいておりますので、
上記リンクからkonohaさま宅へ遊びに行ってくださいませ~。
(indexにつながりますので、注意書きをお読みになってからバナークリックで入場)
以下が作品たちですが、時系列になっております。+ネットでは読めない紙媒体も含まれます。
①いただいた年賀状(konohaさま)+それにまつわる小話(こまつな)
→BLUE FOREST→バナークリックで入場→
→「サンナミ」リンクから「サンナミ絵」クリック
→「S 2014年賀状」
で、konohaさまのお年賀絵をたのしめるスンポー。
で、下部の追記から、私の小話へ繋がります。
②「So Deep」にゲスト寄稿させていただきました。
「So Deep」はkonohaさまが2014/5/4のスパコミで出されたサンナミ漫画(R-18)で、
現在はサイトで自家通販されております。(B5/P40/400円)
私が寄稿させていただいたお話は全年齢向け。
詳細はオフラインページをご覧ください。
→BLUE FOREST→バナークリックで入場→
→「オフライン」で詳しい通販の説明ページへ続きます。
※大人向けですので、注意書きをよくお読みください。
③拍手絵「壁ドンキス」
これは私が滾って滾って滾ってしゃーないkonohaさまの拍手絵に、
勝手に小話を送りつけたらなんと一緒に拍手に飾って下さったという
私の失礼とkonohaさまの愛を物語るコラボです。
→BLUE FOREST→バナークリックで入場→
→かわいらしいサンジがわーわー叫んでいるウェブ拍手ボタン からおねがいします。
④さんなみ時計
Twitterにてサンナミストが有志で参加し、
各時刻をイラストや文章で報告するという素敵アカウント(主催:相澤萌さま)
そこでも、konohaさまとイラストと文章で時刻をお知らせさせていただいてます。
こちらは我が家での掲載許可をいただきましたので、リンクはこのサイトのページに繋がっています。
あ、上記のコラボもkonohaさまはうちに載せていいよーとおっしゃってくださんですよ。
わざわざリンクをつなげたのは私のわがままですのであしからず。
→さんなみ時計
⑤ぜんぶほしい GLC7無配小説
私がイベントで配った無配小説に、konohaさんがイラストをつけてくださいました。
我が家に遊びに来て下さっているミストさまと、数年来の猛者だぜ!という古くからのkonohaファンが繋がったなら無上の喜びです。
どうぞkonohaさんと私のしあわせなご縁が、他のミスト様へも伝染しますように!!
(リンクの掲載はすべてkonohaさんの許可をいただいておりますゆえ)
長い間更新が滞ってしまって、待っててくださる方がいたらほんとうに申し訳ないです。
管理人の個人的な都合により、8月ごろまで更新をおやすみさせてください。
マルアン、サンナミとも連載が途中(しかも次で最後とかさいあくな)で、心苦しい限りです。
必ずや舞い戻って更新します。
ツイッタにはちらほら現れるかと思いますので、アカウントをお持ちの方はぜひそちらで絡んでいただければよろこんでニヤニヤしながら擦り寄ります。
もっと早くお知らせすればよかったのに、ずるずるひっぱってしまいました。
今までにいただいたコメントには全てお返事させていただいてます。
レスが遅いにもかかわらず、たくさん話しかけていただいて本当にうれしい。
休止期間中は、レスもおやすみさせてくださいませ。
それでもよいよとコメントくださった場合は、再開時にお返事させていただこうと思います。
こんなこと書いてると、貴様は何様か、と恥ずかしくなりますね。
戻ってきたときにはぜひつついてかまってくださいませ。
しばしのさよならです。
管理人の個人的な都合により、8月ごろまで更新をおやすみさせてください。
マルアン、サンナミとも連載が途中(しかも次で最後とかさいあくな)で、心苦しい限りです。
必ずや舞い戻って更新します。
ツイッタにはちらほら現れるかと思いますので、アカウントをお持ちの方はぜひそちらで絡んでいただければよろこんでニヤニヤしながら擦り寄ります。
もっと早くお知らせすればよかったのに、ずるずるひっぱってしまいました。
今までにいただいたコメントには全てお返事させていただいてます。
レスが遅いにもかかわらず、たくさん話しかけていただいて本当にうれしい。
休止期間中は、レスもおやすみさせてくださいませ。
それでもよいよとコメントくださった場合は、再開時にお返事させていただこうと思います。
こんなこと書いてると、貴様は何様か、と恥ずかしくなりますね。
戻ってきたときにはぜひつついてかまってくださいませ。
しばしのさよならです。
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麦わら一味では基本オールキャラかつサンナミ贔屓。
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さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。
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