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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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突然首裏にひやりと感じて、一番に連想したのはきらりと光る刃だった。
白い制服に青のライン、同じデザインの帽子をかぶった、海賊の真向の敵がサーベルの切っ先を首に突き付けている姿が瞼の裏に鮮やかに広がった。
しかしハッと目を開いた瞬間、がつりと細かく鋭いものが肌に食い込んだ。
 
 
「…イッタ!なに!?」
 
 
身体を起こそうとして、すぐにそれができないと気付く。
シーツに縫い付けられた体の上に、覚えのある重さが乗っていた。
呆気にとられて言葉の出ないアンの代わりに、頭上から押し殺した笑いが聞こえる。
 
 
「…マルコ?何やってんの?」
「起きたかよい」
「起きるよそりゃ!もう、なに、いたい…」
 
 
うつ伏せのまま手を伸ばし、どうやら噛みつかれたらしい首筋をさするとぽこぽこといくつか小さなくぼみができていた。
歯型だ、マルコの。
 
 
「…おなかすいたの?」
 
 
思いつく精一杯の理由を口にしてみると、一息置いた後マルコはアンの肩に顔をうずめるようにして爆笑した。
 
 
「ちょっ…重い!」
「…くっ…ふ、」
「笑いすぎ!」
「は、ああ、確かに旨そうだよい」
 
 
マルコの手が、アンのまとう毛布の中に滑り込む。
毛布以外に身を包むものが何もないアンの肌に、その手は容易く吸い付いた。
へその辺りから上へ上へと大きな手がゆるゆる這う。
 
 
「おいっ!…おいっ!!」
「ふっ」
「楽しむな!!」
 
 
身をよじって逃れようにも、上から押しつぶすようにのしかかるマルコの重さがそれを許さない。
ぬぉおおと呻きながらナメクジよろしく這うようにマルコの下から抜け出そうともがく。
必死なアンをからかうみたいに、そしてそれを無駄だと伝えるみたいに、マルコの両腕がついにがっちりとアンの腰に巻き付いた。
 
 
「…はあ…なにこの、スシみたいな状態…」
「特上だよい」
「聞いてない!」
 
 
ふっと息を抜くように笑う音がして、マルコの身体から力が抜けたのがアンの身体にも伝わった。
重みは増すが、背中に伝わる温度はよりマルコそのものになる。
つられて力を抜くと、ぎしりとベッドが軋む音がした。
さっきまでふざけていたのが恥ずかしくなるくらい穏やかな沈黙が訪れる。
 
 
「おはよう」
 
 
脳髄に直接吹き込まれるように、マルコの声がアンの鼓膜を震わせた。
ああ、と思わず感嘆がこぼれそうになる。
 
 
「…おはよ」
 
 
よっこらしょい、とオッサンくさい掛け声とともに背中の上の重みが消えた。
アンを包む温度が急激に冷えた気がして、なんとなく寂しくなってしまう。
 
 
「腹、減ったろい」
「ああ、そういえば」
 
 
意識した瞬間、アンに応えるようにぐうと腹が鳴った。
 
 
「食いに出ようかい」
「いま、何時?」
「10時前」
「…あたし今日なんもナシだ、昨日までずっと仕事あったし」
「オレァ今日の分はもう終了だよい」
 
 
どういうこと?と尋ねながら毛布を巻きつけた体を起こした。
ん、とマルコが顎で指し示した方に目をやると、備え付けの古いデスクの上に数枚の海図が散らばっていた。
アンが寝ている間に手に入ってしまったということだろうか。
それは気楽でいいことだ。
アンはきょろきょろとあたりを見渡して衣服を探す。
するとぽんと膝の上に丸まった服類が投げられた。
脱ぎ捨てたまま朝まで放置だったので、シャツなら皺くちゃになっているところだがアンのブラと短パンには何ら影響はない。
 
 
「あ、あんがと」
 
 
いそいそとそれらを身にまとっている間、マルコはアンに背を向けて煙草をふかしていた。
 
 
 

 
 
「エビのパニーニと、そっちのツナのサンドイッチ。あ、あと卵サンド。そのタンドリーチキンもおいしそうだね、それふたつ。飲み物?アイスチョコレートちょうだい。あ、そこのドーナツと」
「…コーヒー、ホット」
「マルコ朝飯そんだけ!?いくらもう仕事ないからってそれは少ないよ、サッチが聞いたら絶対怒る」
「オレより問題があるのはお前ェだろい。人の金だと思って、朝からどんだけ食うつもりだよい」
「え、マルコ出してくれんの!?ラッキー!」
「お前が律儀に自分の分出すつもりだっとは知らなかったよい」
 
 
ため息とともに後ろのポケットから財布を引っ張り出すマルコの肩をサンキューと軽く叩くと、ため息はそのまま深くなった気がした。
 
 
 
 
狭い通りに軒を並べるカフェはどこも同じような店だったので、一番いいにおいのする店を選んだ。
そしてどの店も狭い通りをさらに狭くするように、店の外にまで席を用意している。
そのテラス席のうち一つに腰を下ろして丸テーブルに注文の品を置くと、マルコが頼んだ一つのコーヒーすら置く場所がなくなった。
慌ててサンドイッチの上にパニーニを重ね、卵サンドは手に持った。
 
 
「置ける?」
「よい」
「んじゃ、いっただきまっす」
 
 
はむ、と卵サンドにくらいついた一瞬からもう目の前の愛しい食べ物たちしか見えなくなった。
カリカリのパンは香ばしくていいにおい、エビはぷりぷり、野菜はシャキシャキ、ドーナツもアイスチョコレートも申し分ない。
やっぱこの店にしてよかったサイコ―!とテーブルの下でいつのまにかグッと親指を立てていた。
そして最後のドーナツのかけらを口に放り込んで、ふうと余韻に浸りながら咀嚼していると、向かいに座ったマルコがおかしな顔をしてアンを見ているのに気付いた。
 
 
「なに?」
「……いや」
 
 
なぜか少しの逡巡のあとそう答え、マルコはカップの中身を飲み干した。
 
 
「マルコも欲しくなった、とか」
「アホか、ちげぇよい」
 
 
呆れた声とともに、マルコは不意にアンへと腕を伸ばした。
アンが虚を突かれて動きを止めると、伸びたマルコの指先はアンの口端をかすめるように拭い、そのままマルコのもとへと返っていく。
アンはその指がマルコの口へと運ばれるところまで見届けた。
 
 
「…ついてた?」
「あぁ」
 
 
どうやらドーナツのかけらか、頼んで添えてもらった生クリームが付いていたらしい。
なめとったマルコがその甘さに少し顔をしかめている。
 
 
(きらいなら、食べなきゃいいのに)
 
 
そう思いながら、なぜだかそのままマルコの口元から目が離せなくなった。
 
 
(キスした、みたい)
 
 
そう思ってから、あの口がドーナツやケーキなんかと同じようにアンを食べてしまいそうなほど強く食らいついた昨夜を思い出した。
ついでに今朝のことも。
思いだして恥ずかしくなる、みたいなことはなかったけど、マルコは甘いものがきらいだから、もしかすると今のあたしはあんまり好きじゃないかもしれないと思うと少し悲しくなった。

拍手[23回]

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ぶるっと、腰のあたりから首筋まで走った寒気で目が覚めた。
目の前には、こんもりと盛り上がった毛布。
下着一枚のマルコの身体は惜しげもなく外気にさらされていた。
 
 
(…寒いわけだよい)
 
 
共有していたはずの毛布を体に巻きつけて、マルコの伸ばした腕の一番遠いところに頭を置いて背を向けているからだは心持ち丸くなっている。
寒くてすり寄ってくるのなら可愛げがあるものだが、毛布をひとり占めするとはいい度胸だ。
マルコは体を起こして、冷えた身体を包む衣服を探した。
アンの頭から腕を抜いてもアンはピクリとも動かない。
服はベッドの下に散らばっていた。
アンの服と自分のそれが入り混じっている。
とりあえずズボンをはいた。
 
ベッドの外側に足を下ろして腰かけると、ちょうど正面には窓がある。
いい天気だ。
確かこの島は春島だった。春島の、春だろうか。
 
波に揺られないベッドはやはりよく眠れる。
マルコはサイドボードに置いてある煙草に手を伸ばし、マッチを擦った。
大きな火種がすぐそこにあるというのにマッチを使うのは、いくらか馬鹿馬鹿しい気分にさせる。
煙を吸い込むと、慣れた苦さが肺を満たして落ち着いた。
煙草をくわえたままアンを振り向いたが、先ほどマルコが起きたときと一寸たりとも違いはない。
寝ている時のアンは静かだ。
 
ちりちりと、煙草は短くなっていく。
備え付けの灰皿で煙草をもみ消し、2本目に手を伸ばしかけたが思い直した。
この島と近海の海図を手に入れられる場所を、ここの宿主に聞いておかなければならない。
昨夜でもよかったが、夜より朝の方がアウトローっぽくなくていい。
そうとなれば、アンが起きる前に済ましておいた方が効率が良さそうに思えた。
 
 
アンの肩に手を置くと、相変わらず子供のように熱かった。
名前を呼ぶと、こちら側に顔を向けたがそれはただの寝返りで、起きてはいない。
もう一度呼ぶと、ピクリと眉を動かした。
先に起きる要件を伝えると、自分も起きると言う。
船の上と間違えているようだった。
起き抜けに他の男の名前を聞くのはいささか気分のいいものではない。
が、突き詰めても面白いわけではないので軽く流す。
顔にかかる髪を後ろに流してやりながら寝ていろと言うと、わかったのかわかっていないのか、もぞもぞと寝相を変えた。
すっぽりとアンを覆っていた毛布が肩のあたりまで落ちる。
細い肩が白い。
 
アンは薄く目を開けたまま、うつらうつらしていた。
猫みたいだ。
撫で続けるマルコの手が心地いいのか、マルコの指先がこめかみから後頭部に辿りつく瞬間気持ちよさ気に目を細める。
その仕草が猫に似ていた。
その呑気な様子に、思わず顔がゆるむ。
アンからは見えていないので、まあいい。
 
すると、アンが乾いた唇を開いてぽつぽつと何か言った。
猫がどうだとか、あったかいからなんだとか。
まったく意味が分からなかったが、ちょうどマルコの考えをなぞったようなその言葉に思わず笑った。
アンは笑われたのに気付いたのか、少し眉を眇めるが、頭はまだ完全に機能していないらしい。
ふたたび船を漕ぐように目が閉じたり開いたりしている。
 
いつまでもアンを見ていたって仕方がない。
アンの黒髪を掻き上げて、つるりと白い額に唇を当てる。
肩まで下がった毛布をもう一度引き上げてから、部屋を出た。
 
 
 
 

 
マルコを商船に乗る船乗りだと勘違いした老宿主は、ご親切なことに海図のつまれた古本屋まで案内してくれた。
いつもサッチやらビスタやらに、お前は黙っていても無法者の気配しかしないと言われているのでこんなことは珍しい。
場所だけ聞くつもりがあっさり手に入ってしまった。
アンと二人であればこうはいかなかった。
鼻の利かない老人と言えど、若い女が商船に乗っているのはやはりおかしいと気付くだろう。
数枚の海図を担いで宿に戻った頃には9時半を過ぎていた。
 
部屋に戻ると、出たときと何の違いもない静かなままだった。
ベッドの上は薄く盛り上がっている。
海図を適当に机の上に置き、ベッドに近寄るとようやくアンの寝息が聞こえた。
アンはうつ伏せの状態で、顔だけこちらに向けて左頬をつぶした状態で寝ている。
揺れないベッドだと、アンもよく寝られるのだろうか。全く起きる気配がない。
寝ることに関しては心配無用だとは思うが、それなら昨日は早く寝かしてやればよかったかもしれないと埒のあかない後悔をする。あまり本気ではない。
 
そろそろ起こそうか、きっと腹も減っているだろうとベッドに腰を下ろしてアンの顔の横に手をついたそのとき、ふとアンの後ろ髪に隠れた首が目に入った。
厳密に言えば、見つけたのはアンの首すじではなくそこにぽんと乗った暗い赤色だ。
それは昨夜の行為があったという事実をまざまざと見せつけていた。
そう仕向けたのは他でもない、マルコだ。
それに気付くと、途端に、欲が満たされたような得も言われぬ満足感が広がった。
男というのはつくづくバカな生き物だ。
 
後ろ髪の、短い毛先を掻き上げると眩しいほど白いうなじが現れた。
アンに覆いかぶさるようにして、そこに軽く歯を当てる。
この支配欲はキスの痕なんかで表せるもんじゃない。
噛みついたらアンは起きるだろうか。
目が覚めるほど強く、鮮やかに、歯型を残した。
 
 

拍手[20回]

 
とろとろ、脳みそが溶けているようなかんじ。
朝だ。
窓から差し込む光が閉じた瞼を刺激してそれを告げているけれど、溶けた脳みそをかき集めてまでして何かを考える気にはならない。
細く高い声の鳥が細かくさえずる。
思考停止、ふたたび。
 
 
──アン。
そうっと、身体を掬い上げるみたいな柔らかい声がお腹に響いた。
──アン。
もういちど。
ゆっくり目を開けると、眩しすぎる光が飛び込んできて一瞬なにも見えない。
白い。
白いのはシーツだ。
しかしすぐ、視界に影が差した。
 
垂れた前髪が掻き上げられる。
乾いた指先がこめかみから頭の後ろまで撫でる。
冷たい温度がアンの目を覚まさせた。
 
 
「先、起きるよい」
「…あたしも」
「まだいい、寝てろい」
「…でも、朝ごはん…サッチ…」
 
 
頭の上にある気配が揺れた。
笑っている。
 
 
「今日の朝飯は残念ながらサッチのじゃねぇよい」
 
 
お前が起きたら外に食べに行こう、とマルコはもう一度こめかみから後頭部への軌跡をなぞる。
 
 
…なんで? と聞き返そうとして、ああそういえばと口を閉ざした。
ここは船の上じゃない。モビーじゃない。
とある島の、小さな宿だ。
たまには揺れないベッドで寝るのもいいんじゃねぇかい、とマルコが言ったから。
 
アンの視界に映るのは、ベッドに腰かけているマルコの脚と、くしゃりと盛り上がったシーツの皺と、向かいに備え付けられたデスクと灯り。
 
マルコはどうして、あたしを起こしたんだろう。
 
 
「ちょいと宿主と話してくるから、出てるよい」
 
 
わかった、とかすれた声を出す。
広いベッドで一人目を覚まし、隣にマルコがおらず、しかもそこは知らない場所で、あれ? と一瞬不安になるアンの胸を先回りして救ってくれたのだと気付いた。
 
窓の外においしい実をつける木でもあるのだろうか。
ぴろぴろと鳥が鳴く。
 
外に出ると言ったのに、マルコは一向に腰を上げない。
あいかわらず手は緩くアンを撫で続ける。
アンはぼんやりと目を開けたまま、撫でられた。
 
 
猫になったみたいな気分だ。
アンの知る猫はだいたいが汚れているみすぼらしい猫で、よく喩えられたりもしたけれど、猫は心地いい場所をよく知っている。
自分が落ち着ける場所をよく知っている。
ほこほこと温まった屋根の上で丸くなって眠る猫を夢想した。
 
あたしは猫よりましだ。
マルコがいる。
 
 
アンの視界には、マルコの太腿あたりしか見えないので、いま、マルコがどんな顔をしているのかわからないのが残念だった。
マルコからはきっと、アンの表情はまる見えなのに。
 
 
「…マルコ」
 
 
ぽつりと呼ぶと、ん、と返事ともつかない返事を寄越してきた。
マルコの声は低い低いと思っていたけれど、平均的な男の声の中で低い方なのかと言われるとわからない。
怒るときは、地を這うような低い声を響かせるけど。
 
 
「…ねこは…あったかいとこに、いるから…あたし…」
 
 
うつうつと、瞼が重くなってきた。
マルコは、「寝ぼけてんのかよい」と笑う。
やっぱりお腹に響いた。
 
マルコってうたうのかな。
ふとそんなことを思って、想像して、にやっと笑ったらマルコの手が一瞬びくっとした。
マルコが、マルコの声で、旋律を辿って、メロディーを奏でるなんて。
海賊は歌うけど、マルコは歌うのか?
がなるように、どなるように、宴のとき家族は歌う。
楽しく明るくなる歌が多く、どの歌も海の素晴らしさやら海賊の楽しさやら男の意地やらを謳っている。
マルコは歌うのか?
 
 
すっと、顔に風が当たる気配がした。
ほぼ同時に前髪が全部掻き上げられる。
ほとんど閉じかけていた瞼を持ち上げた。
 
不意に目の前にマルコの喉が現れた。
陰になって暗いけれど、その中でかろうじて見えるマルコの首。突き出た喉仏。
来た時と同じように唐突にそれは遠ざかった。
額に唇が当てられた感触があとからやってくる。
マルコは立ち上がった。
アンに毛布を掛け直して、もう何も言わずに出ていく。
ぱたんと静かな音がした。
 
開けた視界にマルコがいないので目を閉じる。
うたうマルコが頭をいっぱいにして、ひとりにやにやする。
もう眠くないかもしれない。
暗い中見えたマルコの喉仏が上下して音を奏でるところを想像すると、笑わずにはいられなかった。
しかしあの喉仏が少し震えてアンの名を呼ぶのだとはたと気づく。
マルコの声はお腹に響く。
マルコの声を拾うのに、耳が役立っている気はしない。
いつだって直接、アンのお腹に響いた。
お腹が響くと、お腹のもっと上の辺りが少し震える。
マルコがアンを呼ぶたびにいちいち、震える。
それは嬉しいことなのだ。
 
いつかマルコの喉仏にかぶりついてやろうと心に決めて、アンは再び眠りについた。

拍手[18回]

 
 
「おいこれ誰かオヤジんとこに」
 
 
持って行ってくれよ、という言葉は、かすめとられた書類が風を切る音に邪魔されて続かず、ことばの尻はぽとりとどこか下の方に落ちた。
 
 
「あたしが行く!」
 
 
書類を掴んだアンは、既にシャツの裾を翻らせて駆け出していた。
ブーツが床を叩く音は、太鼓のように高らかにその場に響く。
書類を手にしていたクルーと、その周りにいた数人は一瞬ぽかんとその後ろ姿を眺めるが、すぐに小さくなっていく黄色いシャツの背中に向かって朗らかな笑い声を上げた。
 
 
 
 

 
 
「オヤジっ」
 
 
船長室にぴょこりと顔を出すと、白ひげはいつものベッドの上で少し不機嫌そうに眉根を寄せて上体を起こしていた。
不機嫌の理由はその巨体から伸びる2,3本のチューブらしいと、パッと見ただけで簡単にわかる。
昨日は検診の日だった。
しかし白ひげはアンを捉えると、くいと眉と口角を上げて応える。
 
 
「おうアン、えらくご機嫌じゃねぇか」
「オヤジは、その、つまんなさそうだね」
「見ての通りだ」
 
 
こんな面白くないことはねぇ、と白ひげは大きく鼻を鳴らした。
その姿に苦笑しながらどこどこどこっとブーツの重い音を鳴らして白ひげに近づく。
白ひげのための大きなベッドはアンの身長3つ分くらいあるので、ドアから枕元まで非常に遠い。
さらに床の上に立つアンから、ベッドの上に腰かける白ひげの顔までもこれまた遠い。
アンは零れそうになるため息を飲み込んで、白ひげを見上げた。
憂鬱なため息ではない。感嘆の、ため息だ。
 
 
「これっ、オヤジにって、書類」
「あァ」
 
 
白ひげは薄黄色のチューブを嫌なものを見る目で一瞥してから、それを鬱陶しそうによけてアンに手を伸ばした。
アンから書類を受け取った手は、そのままアンの頭上へと伸ばされる。
 
 
「ありがとな、アン」
 
 
アンの頭なんぞすっぽりと包みこんでしまえるほど大きな手のひらが、アンに影を作りながらぽんぽんと軽くアンを撫でた。
同時に書類がガサガサと鳴る。
白ひげの手が離れると、アンは両手を後ろに回してもじもじと後ずさりした。
下唇を軽く噛んで、赤く頬を染めながらはにかむアンの姿は唯一このときしか見られない。
 
 
「あ、あたし今から、用事、ある」
「あァ、行ってきな」
 
 
こくこくっと頷いたアンは、最後に白ひげの顔をちらりと仰ぎ見て、一瞬交わった視線を大事そうにゆっくりと外してから、一目散に駆け出して部屋を後にした。
 
顔が熱い。息が上がる。
アンは目的の場所、医務室へと走りながら頬に手を当てた。
すれ違う隊員たちが、訝しげにアンを振り返る。
 
ああ、今日もオヤジがかっこいい!!
 
 
 
 
 

 
 
「もったいない」と数人の船医は何度も零したが、船医長である老人は黙って施術の準備を始めた。
彼はおそらく白ひげと同じくらい、もしくはそれ以上の年配のように見える。
年季の点で言えばこれ以上に信頼できる医者はいない。
本当にいいのかと何度も念押しする彼らを一喝して黙らせたのも彼だった。
 
 
「そこにうつぶせで寝ろ」
「なあ、背中じゃなくてもいいんじゃないか。その、反対の腕とか…首とか」
「うっさいなあ、いいの背中が」
 
 
アンはおもむろにシャツを脱ぎ捨てると、言われた通りのベッドにうつ伏せになった。
ベッドというより木のテーブルに薄いクッションとシーツを引いただけのような代物で、固い。
アンはドキドキと高揚する胸を自分の身体で圧迫して押さえつけた。
そうすると、余計に鼓動が内側で響く。
 
 
「それで、マークはどれにするんじゃ」
「え?みんなと同じの」
「みんなと同じっつったっていろいろあるんだよ、ホラ」
 
 
その場にいる船医たちは、それぞれ腹やら肩やらの服を捲りそのしるしをさらした。
なるほど、たしかに一種類ではない。
アンはひとりの船医の肩を指さして、それって、と呟いた。
 
 
「一緒だ、あの…一番隊の」
「ああ、マルコ隊長の?そうだぜ」
 
 
ふーん、と鼻を鳴らした。
交わる十字はおそらくどくろとぶっちがいを模したもの。U字に反り返ったしるしはいわずもがな。
抽象的なしるしもいいけれど、もっとはっきりと白ひげを示すものがいいと思った。
マルコの胸にあるあの目立つマークはマルコにしっかり馴染んでいるけど、それはマルコだからのような気がした。
ああそうだとアンは顔を上げる。
 
 
「オヤジは、しるし入れてないの」
「オヤジ?もちろんいれてるぜ、背中にでっかくどどーんとな」
「ああ、ありゃあ格好いい、壮観だ」
「どのマーク?」
「旗と一緒のだ」
 
 
アンはメインマストの上で風に翻るどくろを頭に浮かべた。
特徴的な白いひげと、その下で不敵に笑う口元がまさしくオヤジそのものだ。
アンはバタバタと両手足を動かして「それ!」と叫んだ。
 
 
「あたしもオヤジと同じの彫って!」
「あのどくろか?」
「そう!まったく一緒のな!」
「しかしありゃあ細けぇから痛みも長ぇぞ」
 
 
そんなのいいから、とアンはもどかしさに歯噛みしながら訴えた。はやく、はやくと白い背中をさらしている。
船医の老人はため息とともに、ガーゼに消毒液を垂らした。
とたんにツンとするどい匂いが充満する。
他の船医たちはしぶしぶといった顔で器具の消毒を始めた。
 
 
「これじゃな」
 
 
わくわくと弾む胸に自然と顔がほころんでいたアンの前に、ピッと一枚の紙が示された。
たしかに、海賊旗と同じどくろ。
アンは大きくうなずいた。
背中にひやりとした感触があって、絵を転写するための紙が貼られる。
アンは顎の下に置いた両手に顔を伏せて、緩む口元を隠す。
ぺらりと紙がはがれる音がした。
彫るのは手練れの老船医で、いる必要のない他の船医たちは遠巻きにうつ伏せのアンを見守っている。
怪我人が出ないただの航海中、船医というのは暇なものらしいとアンはこっそり思った。
いれるぞ、とドスの聞いた老船医の声にアンはまた大きくうなずく。
途端に、火の粉が一点集中したような熱い痛みが右の肩甲骨の下あたりを貫いた。
痛みを逃がすために浅い息を繰り返しながら、アンは嬉しくてシーツを強く握った
 
 
 
 
 

 
指にインクのにおいが染みつくほどの長い時間、それも強く、島の地図を手にしてしかめ面を継続させていたマルコのもとにノックの音が届いた。
遅い昼食の知らせだ。
この場合遅いのは昼食の準備ではなく食堂に赴くマルコのほうで、いつまでたってもやってこない一番隊隊長を案じてクルーが呼びに来るのだ。
そうでもしないとマルコは一食だろうと二食だろうと平気で抜く。
マルコは手にした地図が表す島にすっかり飛んでしまっていた意識を、ノック音で引っ張り戻された気がしてしばらく呆然とした。
机に向かって斜め右前にある四角い窓に目をやると、白い大きな鳥が呑気に横切ったところだった。
昼から夜になるのであれば明るさで時間の経過がわかるが、朝から昼になるのは同じ時間の経過でもまったくわからない。
自分はどれだけの間ここに座っていたのだろうと、どうでもいいことを考えながらマルコはメガネをはずした。
そういえば腹が鳴る。
時計を確認して、マルコは立ち上がった。
ドアの方へ歩きかけて、そう言えば新入りの書類に手を入れたのだったと思いだしてそれを取りに踵を返す。
隊長のいない2番隊は、『全員が交代でその日の日記のように』というのを自分たちで決めて報告書を書いている。
昨日は、まわりまわって新入りが初めてその報告書を書いたのだった。
 
「活動内容」
「朝めし、そうじ、ひるね、昼めし、やすみ、手合せ(4番隊)、ひるね、姉さんの手伝い、ひるね(すぐサッチに起こされたので10分)、晩めし、これを書く、ふろ(予定)、ねる(予定)」
 
全員が交代制で書くのだから、個性が出るのはわかる。
だがこれは出すぎだ。
「消耗品」の欄に、「甲板の後ろの方」という文字と、少し小さめに書かれた「ごめん」。
マルコが後甲板に確かめに行くと、既に補修されていたが大きくへこんだ跡があった。
やっぱり2番隊にも隊長が必要だろうかと思ったが、それはオヤジの采配に寄るのでマルコがどうすることでもない。
 
 
 
 
 
開きっぱなしの扉をくぐると、食べ物と男のちゃんぽんのような匂いの食堂の中はすでに人もまばら、非番のクルーが食後の一服をふかしている姿がぽつぽつとみられる。
厨房のカウンターへ歩いていくと、奥からサッチが遅いだの呼ばれる前に来いだの口うるさく叫んでいた。
そして、一番右端のテーブルに突っ伏した黒い頭を見つけて、ぎょっとした。
思わず足が止まる。
マルコの視線の先に気付いてサッチが苦笑した気配が伝わった。
 
 
「…なんであいつ裸なんだよい」
「やー、残念ながら素っ裸ではねぇよ」
 
 
むき出しの肩につながる薄っぺらい手はフォークを握ったままだ。
おそらく飯の乗ったままだろう皿に顔面を突っ込んだアンの姿はもう見慣れたもので、船の上では笑いの種になっているし、マルコも気が向けば頭をはたいて起こす程度だ。
しかしだな、とマルコがざらつく顎に手をやったそのときアンはがばりと顔をあげた。
 
 
「ああ、寝てた」
 
 
睫毛の上に米粒をのせたままアンはぱちぱちと数回瞬きをして、近くにあった布巾で顔を一度拭う。
そして何事もなかったかのように食事を開始した。
アンはすっかり気を抜いて、斜め前に立ってアンを凝視するマルコの視線には気付かない。
そしてマルコは、サッチが「素っ裸ではない」と言った意味を飲み込んだ。
なるほど、いつも着ているシャツを羽織っていないだけで、水着のようにも下着のようにも見える心もとない布を胸元にくっつけていた。
しかし、なぜ。
 
 
「おいマルコさんや、見過ぎ」
 
 
サッチの呆れた声にハッとして、それから的を得たその言葉に幾分ムッとしながらカウンターの上に置かれた自分の昼食を手に取った。
目に嬉しい格好をした年若い娘を見つめるなら鼻の下の一つでも伸びているべきだろうが、マルコの頭は「シャツはどうした」に支配されているので怪訝な顔になるだけだ。
マルコは皿を手にアンの向かいに座った。
 
 
「…ども」
 
 
マルコに気付いて、随分控えめな挨拶をする。
アンは上目遣いにマルコをうかがいながらマグカップの中身をすすった。コーンスープ。
マルコの昼食には付いていないところを見ると、コックの誰かがアンに貢いだものと思われる。
 
 
「今日はそんなに暑いかよい」
「は?」
「シャツ」
 
 
言外に「なぜ着ていない」という意味を含めたつもりだったが、何故かアンは途端に目を輝かせた。
ドン、と音を立ててマグを置く。
 
 
「じゃんっ」
 
 
跳ねるように立ち上がったアンは、机を挟みマルコの前でくるんと背中をさらして見せた。
幾つもの死線をくぐり抜け、偉大なる航路の後半の海の上で、それも世界最強とうたわれる男の下についてこの歳になり、もう驚くこともそうそうなかろうと高をくくっていたマルコは、眼前の背中に目を丸めた。
アンの背中でオヤジが不敵に笑っている。
 
 
「…こりゃぁまた」
 
 
でかく彫ったねい、とだけ言うと、アンはマルコの反応が不満だったのか少し口を尖らせた。
しかしすぐにいひひと笑う。
 
 
「いいねぇ、アン。それでこそ白ひげ海賊団って感じ」
 
 
サッチがおだてるように遠くから声をかけるとアンは素直にうれしそうな顔をした。
なるほど、だからシャツを脱いでいるわけか。
アンは限界まで首をひねって自らの背中を見下ろした。
緩くS字を描く腰のカーブが際立つ。
 
 
「昨日の朝彫ってもらって、昨日はずっとガーゼ貼ってたから今日がお披露目なんだ」
 
 
背中に大きく描かれた刺青を、宝物を自慢する子供のようにマルコに見せつける。
ここのところアンを笑わせるのは、いつだってオヤジだ。
 
 
「似合ってるよい」
 
 
そう口にすると、アンは少し驚いた顔を見せてマルコを見た。
そして変に口元を引き結んだ顔で再び椅子に腰を下ろす。
にやけてしまいそうな顔を引き締めるときのアンの常套手段だ。効果はゼロに等しい、ばれている。
 
 
「だが明日は上、羽織ってから降りろよい」
「なんで」
 
 
アンと視線を交わさず昼食のピラフを口に運ぶ。
目の前のアンが一気に不機嫌になったのが手に取るようにわかった。
 
 
「あたしもう上は着ないって決めた」
「男前な意気込みは船の上だけにしとけよい、明日は駄目だ」
 
 
む、と眉を寄せて反駁の声を上げようとしたアンは、途中でどこか引っかかったのか口を開いたまま、ん? と首を傾けた。
 
 
「…あした?降りるってどこに?」
 
 
気の抜けるアンの問いにガクッと目には見えない肩を落とし、アホウとたしなめた。
 
 
「昨日の夜、お前が報告書持ってきたときに言っただろい。明日は上陸だよい。寄港するから準備しとけっつったろい」
 
 
気付けば子供を叱るような声を出していた。
子供を叱ったことなんかないので実際のところ分からないが、その時はきっとこんな声が出る気がする。
基本、立ち回り的に叱る側の位置が多いマルコだが、他の隊員をたしなめるのとはどこか勝手が違った。それがどこかはわからない。
しかし叱られている当のアンには叱られているという自覚はてんでないらしく、のんきに「そうだっけ?」と首をかしげた。
 
 
「準備って、なにすればいいの?」
 
 
それも昨日言っただろうがこのバカタレがと、サッチあたりを叱るときのお決まりのセリフが飛び出しかけたが、それもこの娘には何の効果もない気がして思いとどまった。
エネルギーは大切に。
 
 
「…お前さんたちゃあ、身ひとつで白ひげに加わっただろうが。だから明日の島では自分の服やら身の回りのものやらを揃えるんだよい。部屋もからっぽだろい」
 
 
何がいるかわかんねぇならナースたちに聞きゃあいい、と昨日とまるで同じセリフを口にした。
「ああなるほど」とアンが昨日と同じようにうなずく。
 
 
「刺青を隠せとは言わねぇ。だがそんなデカデカと主張してわざわざ一般人を刺激すんのは考えモンだってことだよい」
 
 
だから明日はシャツを羽織れ。
しばし考えるように口をすぼめて両目を真ん中に寄せていたアンは、しかし神妙にわかったという。
刺激も何も、どうアングル変えても一般人には見えない輩ばかりの中で今更、という気もしたが口にはせず頷いた。
 
 
「じゃ、早速ねーさんたちのとこ行ってくる」
「ああそうしろ」
 
 
ガタゴト、騒々しく椅子を鳴らして立ち上がったアンは綺麗になった皿をカウンターまで運びサッチに声をかける。
 
うまかったありがとー。
はいよ、おそまつさん。
 
カウンターから踵を返したアンは、マルコの方を振り返らずに一直線に出口へと歩いていく。
歩幅は大きく、重そうなブーツが床を叩く。
扉の少し手前でアンは背中に垂らしていたテンガロンハットを掬い上げて小さな頭に深くかぶせた。
白く、背骨のラインがくっきりとわかる背中の上で白ひげが笑っている。
マルコの胸の刺青が、さわりと疼いた気がした。




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*ホスト・兄妹パロネタです。こちら参照。
アンちゃん7歳、マルコ24歳で、まだオヤジと3人暮らしです。
ちょっとこのネタ無理だわーという人はご注意くださいな!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ネクタイを結ぶマルコの黒い背中を、床に座ったアンはぼんやりと見上げていた。
一日の中で、アンの一番嫌いな時間。
黒いシャツが照明を反射して白い光の筋を映した。
この、夜の闇よりも暗い色の服を着たときのマルコは夜になる前にアンを残してどこかへ行ってしまうから、黒は幼いアンにとって何より不吉な色だった。
不吉ということばをまだ知らないので、アンの胸の中には「あ、またこのいやな感じ」という形の分からない不安がもわんと浮かんでいる。
骨ばった手がきゅっと首元を絞めて、それからアンを振り返った。
 
 
「夕飯はマキノが来てくれるからよい」
「…ん」
「店の厨房には入んじゃねぇぞい」
「うん」
「寝るときは」
「マキノと一緒に戸締り」
 
 
マルコが口にしようとした言葉を先取りして呟くと、マルコは一瞬ぽかんとしてから少し笑ってアンを抱き上げた。
ふわっと身体の中身がひっくりかえるようなこの感覚が、アンは大好きだ。
マルコは片腕にアンを座らせるように抱き上げて、自分の顔より上にあるアンを見上げた。
 
 
「なにしょぼくれてんだよい」
「マルコなんじにかえってくるの?」
「アンが朝起きる頃には帰ってきてるよい」
「ねるときはいないの?」
「…いつもと一緒だよい」
「…ちがうもん」
 
 
不機嫌にちがうと言ったアンにマルコは返事をせず、じっとその黒い瞳を見つめた。
肩に置かれた小さな手が動いて、ぺたりとマルコの頬に触れた。
少し湿っていてほんのり温かい。
もう片方の手が反対の頬に触れる。
小さな指がそろそろと動いて、マルコの目の下の浅いくぼみをなぞった。
アンの視線は自分が動かす指先を辿っているが、目の奥深くに映しているのは別物だ。
マルコはアンを支えているのと逆の手でアンの手を包み、それからゆっくりとアンを下へ下ろした。
 
 
「行ってくるよい」
「…いってらっしゃい」
「マキノが来るまで大人しくしてろよい」
 
 
アンは黙って手を振った。
マルコはアンの少し尖った唇を見てから、裏口のドアを開けてその向こう側へと消えた。
 
 
 
 
 

 
オヤジの体調が近頃芳しくないのは、一緒に生活していれば火を見るよりも明らかだった。
顔色がよくない。楽しそうに酒を飲んだ後でも、必ず最後に呻くようなため息をついた。
それを指摘して病院に行くよう言ってもオヤジは笑い飛ばすか、逆にまるで子供を叱るようにマルコをいなしてごまかしてしまう。
飲み屋をしていれば酒に体を蝕まれるのは覚悟のうえ、むしろ本望くらいのつもりで彼の人はいるのだろうが、家族からしたらそれはとんだ未来だ。
だからマルコは、強行突破に出ることにした。
店ののれんを隠したのだ。
 
 
「おいマルコォ、うちののれんがねぇんだが」
「店はしばらく休業だよい」
「あぁん?」
 
 
怪訝な顔で眉間に皺を寄せたオヤジの目の前で、白い紙に赤のペンで太く『都合によりしばらく臨時休業』の文字を躍らせた。
呆気にとられるオヤジをカウンターに残し、マルコはすたすたと店の入口へと進みその紙を引き戸の表に貼りつける。
味気なく意味だけを伝えた張り紙の割には、「だれがなんと言おうと休みったら休み」という有無を言わさぬ強さがあった。
入り口から戻ってきたマルコは、オヤジがすぐさま反駁しようとするのを飲み込むように口を開いた。
 
 
「オヤジが病院に行くまで店は開かない。オレも手伝わない。酒も飲ませない。隠れて飲むなら全部捨てる」
 
 
な、の形に口を開いたオヤジに、マルコはとどめの一撃を刺した。
 
 
「アンはマキノの家に預けるよい」
 
 
顎を落としたオヤジを、マルコは初めて見た。
そのまま開いたオヤジの口にツバメが巣を作ってしまうんじゃないかというくらいたっぷりと時間が経ってから、ただいまー!と馬鹿に明るいアンの声が裏口から飛び込んできたのとオヤジが諦めてどでかいため息をついたのはほぼ同時だった。
 
 
 
 
「オレァ思うがな、マルコ。ありゃあ詐欺だ」
 
 
検査入院中のオヤジは、着替えを届けに来たマルコに向かって嫌味っぽくそう言った。
 
 
「アンをマキノんところに預けちまえば確かにオレはアンに会えねえ。マキノがそう計らうだろうからな。だが今こうしてオレが入院しちまったら、どのみちアンと会えねぇじゃねぇか」
「オレの心持ちが違うよい。今は別にアンをここに連れて来たらアンタと会わせられる」
「縁起の悪い病院なんてとこガキのくるところじゃねぇ」
「そりゃぁオヤジの都合だよい」
「お前は悪い息子だ、本当に悪い息子だ」
 
 
腕から信じられない量の血液を抜かれたり、逆に薄気味悪い液体を注ぎ入れられたり、はたまた白い箱の中に全身を通されたりをここ数日繰り返しているオヤジは、子供のように不機嫌になっていて、マルコにそっぽを向いた。
 
オヤジが入院することになって、それは半ば覚悟していたことだったのでマルコは特に慌てることもなかった。
病院にアンと一緒に見舞いに行けばいいと思っていたのだ。
しかしそれはオヤジが駄目だと言った。
おかしな理屈をこねくりまわして意味不明な形に形成してマルコに押し付けてきた。
 
 
『アンは病院に連れてくるな』
 
 
強く念を押すようにそう言われたので、いくらなんでも無理にアンを連れてくることはできない。
そのことで逆にアンの方が寂しそうなのが気にかかった。
アンにはすべてを話している。
 
 
「オヤジは身体の調子があんまりよくねぇから、調べてもらうためにしばらく病院に泊まりに行ってるよい」
「びょういんにおとまりできんの?」
「泊まらなきゃなんねぇんだよい、オヤジの身体のために」
 
 
少しの羨ましさをにじませたアンに、マルコは慌てて付け足した。
アンは病院を、絵本や教科書の挿絵による知識でしか知らない。
幸い信じられないことに、病気をしたことがないからだ。
まさか生まれた産婦人科病院のことを覚えてはいないだろう。
 
 
「しばらくオヤジには会えねぇが、我慢できるな?」
 
 
『会えない』ということばを聞いた途端、キラキラさせていたアンの目にすとんと影が落ちた。
少し寂しそうではあったが、それでもアンは笑って言った。
 
 
「マルコがいるからだいじょうぶ」
 
 
マルコも、アンがいるから大丈夫だと思った。
 
 
 
オヤジの店を閉じたからには稼ぎ手は今マルコしかいない。
焦って働かなければならないほど貯蓄に窮してはいないが、それでも検査の結果によってはオヤジがすぐに復帰できるのは難しいかもしれない。
それを思うと、少しでも今のうちに稼いでおきたかった。
きっとオヤジは家に帰ってこればすぐさま店を開こうとするに違いない。
しかし前と同じ量のメシを作り接待をできるとは限らないので、その分はマルコが補佐をしなければならない。
そうすると自然と夜の仕事に入る量が減るので稼ぎも減る。
いつのまにか、マルコが夜に稼ぐ額はオヤジの店で稼ぐ額をはるかに超えていた。
 
 
今までは常にオヤジが家にいたので、アンを残して仕事に行くことに何のためらいもなかった。
初めのうちは「どこにいくの」「なにしにいくの」「アンもいきたい」を繰り返していたが、今はもう笑っていってらっさーいと手を振ってくる。
しかしそれもオヤジがいたからだ。
 
今日は初めてアンをひとり家に残して仕事に行かなければならない。
なるべくアンが一人で家にいる時間をなくすべく、マキノやオヤジの店の常連の中で信頼できる誰かがアンを見ていてくれるときにだけ仕事を入れていた。
しかし今日はどうしても店に人が足らない、お願いだから来てくれと連絡が入った。
これがただの欠員であればマルコは躊躇なく蹴っていた。
しかし店から、今日はお得意さんが予約を入れているからいつもの倍、いや三倍は見越していると言われて心動いた。
金に流されたわけではない。
実際そうではあるが、金を手に入れることの向こう側にある安寧がちらついたのだ。
この仕事は、客の入れた金が自分の稼ぎにだいぶと反映される。
もし今日いつもの倍稼ぐことができたなら、オヤジにもしものことがあっても対応できる。
マルコは一瞬迷ってから、出勤の返事を返した。
元来迷う性質ではない。
 
ただ、アンをひとりで家に置いてきたときのあの何とも言えない息苦しさだけは勘弁してほしいと思った。
アンの湿った手の感覚が今もまだ頬に残っている。
柔らかい指の腹が目の下をなぞった、あの感覚が馬鹿みたいに名残惜しかった。
 
マキノはおそらく夜になる前に来てくれるだろうから、アンが一人でいる時間はほんの数時間だ。
心配事は何もない。
きっとアンが本のページを捲ってみたり見えない敵と戦ってみたりしているうちにマキノが来る。
『アンが一人』という事実に耐えられないのはマルコの方だった。
開店の1時間前に店に着いたが、気になることが多すぎて腹がすかなかったので夜は食べないことにした。
 
 
翌朝日が昇る前に家に帰って、アンが布団で変わりなく寝ていて、台所のテーブルにマキノからの置手紙があったのを見つけてやっと肩の力を抜いた。
 
 
 
 

 
 
「きょうもおしごといくの」
 
 
朝から不機嫌だったアンは、夕方になるにつれその度合いを増していた。
アンをひとりにさせたのはあの日一日きりだったが、あれから今日が4連勤目だった。
今日はオヤジの店の常連がアンの世話をしに来てくれる。
マキノに頼んだが、今日はあっちの店で宴会の予約が入っているのだとか。
アンが一人になるようなことであればなんとかして行くけどと言ってくれたが、他がいないわけではないので大丈夫だと言った。
他がいないわけではない。たしかに、そうだ。
ただ、マキノが一番安心で、適役だと思っているのでできれば毎回頼みたいだけだ。
今日来る奴がどうぞアンに何らかの悪影響を及ぼしませんようにと祈りながらネクタイを締めた。
頭が重いのは、きっとそういうアンにまつわる心配事がこんもりと山を作って頭の中に蓄積しているからだ。
そんな折に、後ろからアンのくぐもったような声が聞こえた。
マルコは振り返らず、ズボンのポケットの中身を確かめながら返事をした。
 
 
「ああ、夕飯は冷蔵庫に入ってるからよい」
「いかないで」
 
 
か細い声がひょろひょろっと飛んできて、マルコの背中にぶつかってぽとんと落ちるようだった。
驚いたのはその勢いのなさだ。
朝からアンの機嫌がよくないのはわかっていたが、虫の居所が悪いときがあるのはこの歳の頃にはよくあることだ。
だからマルコは若干目を瞠ってアンを振り返った。
 
 
「アン?」
「いっちゃやだ」
 
 
和室の、マルコのクローゼットの向かいに置いてある箪笥に背をもたれさせてぺたんと座っているアンは、マルコの顔を見上げずに呟いた。
 
 
「きょうはいかないで」
 
 
マルコはしばらくの間アンの頭頂部を見下ろしてから、ため息と一緒に腰を落とした。
アンと同じようにしゃがみこんでも、俯いているアンと視線は合わない。
 
 
「明日の朝には帰ってくるよい。昨日と一緒だろい?」
「きのういったならきょうはいかないで」
「そういうもんじゃねぇんだよい」
「きょうはいっちゃやだ」
「わがまま言うな」
 
 
少し声を鋭くさせても、アンは怯まなかった。
むしろ黒い目をこぼれそうなほど大きくさせて、マルコと視線を合わせる。
 
 
「きょうはマルコのおしごとはおやすみ!」
 
 
そういうや否や、アンはぱっと立ち上がって一目散に居間へと駆けていった。
なんだなんだと慌ててあとを追えば、居間と台所の境にある勝手口の三和土(たたき)の上で、アンは両手を後ろに回してドアを背につけてこちらを見据えていた。
台所のテーブルの上に置いてあった財布と車のキーが、ない。
アンとテーブルの上を数回視線を行き来させて、ますます驚いてアンを見つめた。
こんな意味のないわがままは初めてだった。
 
 
「アン、返せ」
「やだ」
「アン」
 
 
アンは無言で首を振る。
仕事に遅れるだろい、とまっとうな理由を口にしたが、口にしてからそんなことアンにとってはどうでもいいのだと気付いた。
アンがたまにとる不可解な行動は、たいていマルコが20前後の男であるがために理解できないことがほとんどだった。
そういうときはマキノや、時にはオヤジが答えを教えてくれてマルコにとってはほうと単純に新鮮な発見であったりする。
しかし今回の場合、どうもそういうわけではなさそうだ。
ずんと重い頭は、ただの重さから重石がごろんごろんと頭の中を転がっているような鈍い痛みに変わっていた。
その痛みと、変わらない状況に対する苛立ちが自然とマルコの眉間に皺を集める。
 
 
「…勘弁してくれよい」
 
 
思わずこぼれた深いため息とともにそういうと、アンはふにゃりと顔を歪めた。
鋭い声で咎めるよりも、アンはこういう人の気分に敏感だ。
それをわかっているからいつもは気を付けているのだが、今回は苛立ちが先だってその余裕がなかった。
アンは後ろ手にしていた両手を前に回して、手の中に納まりきらない財布とキーを抱きしめる。
歪んだ顔はいつしか涙目になっていた。
 
 
「マルコいかないで」
 
 
埒が明かない。
マルコは黙ってアンに歩み寄りその腕を取った。
アンがびくりと肩をすくめる。
アンの手には大きすぎる財布は、マルコによってひょいと取り上げられた。
あぅ、と震えた呻きが上がる。
車のキーはアンが握ったままだったが、もういいと思った。
 
 
「今日は電車で行く」
 
 
大人気ないと分かっていた。
アンに背を向ける瞬間、呆然とするアンの目からぽろぽろっと涙がこぼれるのも見えた。
それでも今はとりあえず仕事に行かなければということが先決で、アンのわがままはきっとオヤジがいないことへの不満もあるだろうから、明後日の休みにはオヤジに後から怒られてもいいからアンを病院へ連れて行ってやろうと思った。
 
アンが立ちふさがる勝手口からは出られないので店の玄関から出ようと一歩進んだそのとき、腰のあたりにぽんと小さな何かがぶつかった衝撃があり、すぐに足元でガチャンと金属音がした。
見下ろすと、車のキー。
この期に及んでとアンを振り返ったそのときに見えたのは、泣き濡れたアンの顔ではなく茶色い天井の木目だった。
 
 
 
 

 
 
電車で行くと言って踵を返してしまったマルコの背中は、アンのきらいな黒一色だった。
マルコが背を向ける前に見えた目と目の間にできたいくつもの線は、アンのすることに困り苛立ち疲れていることをアンに分かりやすく示していた。
それでもどうしても、今日は行ってほしくなかった。
マルコがここ数日ろくに寝ていないのを知っている。
アンが眠るときにいないのはもちろんのこと、朝目が覚めるとマルコはすでに台所でコーヒーを飲んでいた。
いつもはアンが学校に行っている間寝ているはずだが、学校から帰ってくると家の掃除洗濯夕飯の用意などすべて済ませてあるところを見るとマルコが眠る時間を家事に割いていることは明らかだった。
オヤジがいない今、すべてのことがマルコの肩にのしかかっている。
その中の一つに自分がいるのだと、アンはそこはかとなくわかっていた。
だからこそ今日は夜までアンと一緒に過ごして、同じ時間に隣で寝てほしかった。
それなのに、それを訴えれば訴えるほどマルコは遠くへ行ってしまう。
ゆらゆらと目の下の方に溜まって震えている涙は、マルコが行ってしまうことよりも思いが上手く伝わらないもどかしさによるものだった。
 
マルコが一歩踏み出す。
マルコの黒い背中は、もう二度とアンのところへは帰ってこないと言っているように見えた。
そう思いつくと、息と心臓が止まってしまうかと思った。
マルコがもう一度振り向いてくれるなら何でもいい、そう思って握りしめていたキーをマルコの背中に投げつけた。
投げつけて、とにかく何でもいいから、今は困らせてもいいから、思いっきり泣き喚いてでもしてマルコを引き留めようと思ったのだ。
キーは背中にぶつかる予定が、飛距離が足らず、緩い放物線を描いてマルコの腰にぶつかった。
 
マルコが足を止めた。
よしっ、とアンは息を吸い込む。
しかしその瞬間、目の前の大きな体がぐらりと傾いた。
アンは吸い込んだ息をどこに持って行っていいかわからないまま固まった。
どたんと大きな音がして、床が揺れた。
 
 
「あ」
 
 
ぽかんと開いた口から、意味のない音が漏れた。
マルコの脚がこちらに向いている。
長い腕が力なく床の上に横たわっていた。
倒れた勢いで黒いシャツがめくれて肌が見えていた。
 
アンは急いで三和土から上がりマルコの頭の方に回り、顔を覗き込んだ。
色のない頬と閉じた瞼、日に日に濃くなっていく目の下の濃さがアンに事態を飲み込ませた。
 
 
「マルコ」
 
 
叫んだつもりが、声にならなかった。
ぶわっと全身に虫が這ったような寒気が走り、両手足が震えだす。
横向きに倒れたマルコの腕と顔に両手を置いて、意味もなく辺りを見渡した。
 
だれもいない。
そうだ、いまはオヤジがびょういんだから、マルコとふたり──
 
震えるアンの手からも血の気が引いて、白くなってきた。
色の変わっていく自分の手を見つめながら、アンは横たわるマルコの隣で呆然と膝立ちになっていた。
 
 
「マルコ」
 
 
今度はか細い声が出た。
しかしマルコはピクリとも動かず分厚い瞼は閉じたままだ。
 
吐き気がした。
アンはぺたりとその場に座り込み、倒れたマルコの腕に額をつけた。
 
だれか、だれかを呼ばなくちゃ。
マキノが一番に浮かんだが、マキノの店まで歩いて行ったことはない。
いつもマルコかマキノの車で行っていたので、道がわからない。
オヤジの顔も浮かんだが、すぐに無理だと思った。
オヤジが病院に行ってから、一度も話さえしていない。
そこではっと思い当り、マルコの尻のポケットを探って携帯を引っ張り出した。
マルコがいつもこれを使ってオヤジやマキノと喋っていた。
震える手で携帯を開いた。
紺色の幾何学模様のディスプレイに目が回った。
右下に見える数字はおそらく時計。
それしかわからなかった。
圧倒的な不安がアンを押しつぶした。
 
 
 
「アンー」
 
 
カシャカシャ、と店の引き戸が揺れる音とアンの名前を呼ぶ声がした。
白いくもりガラスの向こうに細長い影が見える。
アンは顔を上げてそれを見つけると、一目散に店へと駆け出した。
震える足がもつれ一度床の上で派手に転んだがすぐさま立ち上がる。
家と店を繋ぐ廊下を駆け抜け、低い段差を降りて店の中を突っ切り、ぶつかるように入り口に到着した。
引き戸の向こう側の影はその勢いに驚いたように一歩下がったが、アンが戸を引くよりも先にその影が戸を開けてくれた。
 
 
「アン?なに走っ」
 
 
アンは現れたジーンズの脚に噛り付き、火がついたように泣き出した。
泣き叫ぶ声の間に、「マルコ」と「たすけて」が入り混じる。
店の入り口でアンにしがみつかれた男は、アンを見下ろして、それから廊下の向こう側で見えた不吉な人影に気付き軽く目を瞠った。
しかしそこからすぐさま倒れるマルコに歩み寄るわけでもなく、その場でひょいとアンを抱き上げる。
長い後髪が風に煽られ跳ねるように揺れた。
 
 
「ハイハイ、大丈夫大丈夫」
 
 
男はポンポンとアンの背を叩きながら「邪魔すんぞー」と誰にともなく行って、店を横切りアンとマルコの住居に足を踏み入れた。
抱き上げられたアンはとりあえず目の前にある肩にしがみつく。
もう「マルコ」ということば以外は忘れていた。
 
アンを抱いたまま、男は足元に倒れるマルコをじっと無表情で見下ろした。
あまりにその時間が長いので、アンは思わず泣き止んで男の横顔を見た。
倒れたマルコと同じくらい頬が白い。
 
そしてすっとしゃがみこみ、片手でマルコの顔をわしづかむとぐるんと仰向かせる。
男の指圧でマルコの頬が軽くつぶれた。
いっ、と息を呑むアンを傍らに男は「ああ」と呟いた。
アンは男の腕の中でマルコを見下ろし、ぎゅっと目を瞑る。
一度止まったはずの涙がまた目の端からじわじわと滲んできた。
マルコ、と小さく呟いた。
 
 
「こんなでけぇのがいきなり倒れてきたら誰でも怖い」
 
 
男は味気ない口調でそう言った。
女性の手のように白いそれでアンの後頭部を包むように支える。
そのままアンの頭を軽く肩に押さえつけるようにしてぽんぽんとあやした。
 
 
「マルコは大丈夫だよ。お前はちぃと寝ろ」
「だいじょうぶ…?」
「ああ、オレは医者だ」
 
 
まだ卵だけどな、と注釈を加えた声は低く穏やかで、質のいいシーツのようにアンをくるんだ。
それに加えて、男が言った「マルコは大丈夫」の言葉があとからアンの中に滑り込んでくる。
 
 
「大丈夫だよ」
 
 
アンの右目から一筋最後の涙がこぼれて、もう一度聞こえた大丈夫との言葉に守られるようにしてアンは男の腕の中で眠りに落ちた。
それでも最後までマルコの目が開かなかったことが怖くて怖くて、男の服の肩口を強く握りしめていた。
 
 
 
 
 

 
 
たった一日の入院は、入院前よりマルコの精神を疲弊させた。
まず、目が覚めて目に飛び込んだのが病院の天井ではなくオヤジの拳で、あれと思った瞬間には目の前に星が散り、再び暗闇に意識が落ちた。
二度目に起きたのは、明らかに腕に何か鋭利なものが突き刺さった痛みを感じたからだ。
 
 
「…いってェ!」
「おう、起きたか」
「てめぇ、点滴の針を患者の腕に垂直に刺すバカがどこにいる」
「そのバカはぶっ倒れるまで働くバカよりか幾分頭がいいらしい」
 
 
それを聞いて、ああオレは倒れたのだと思い当った。
そして同時に何より大切なことを思い出す。
イゾウはマルコの腕に墓標のように突き刺さる針をひょいと抜くと、今度は確かな場所にすいと針を入れた。
痛みもない。
 
 
 
「アンは」
「酒屋のねえちゃんところにいるよ。オヤジに聞いたらそこに連れてけって言うから」
 
 
自然と安堵の息が漏れた。
マキノのところにいるなら心配はない。
 
 
「なに安心してんだ過労死予備軍」
「誰が予備軍だよい」
「かわいそうに、オレァあのとき転がってるお前より先にアンの方が死んじまうんじゃねぇかと思ったぜ」
 
 
爆発したように泣くアンは、あのままだと確実に過呼吸になっていた。
それを防ぐにはとにかくこの状況から逃がすことが先決だと、イゾウはアンを眠らせた。
「大丈夫だ」ということばの効果は絶大で、素直なアンはすぐさま信じて眠りに落ちた。
おかげでイゾウは救急車を手配し取るべきところに連絡を取り、淡々と事態を好転させていくことができた。
 
 
「アンはお前と一緒に病院に来たのかよい」
「いや、お前さんを救急車ん中放り込んですぐオヤジに連絡取って、そのまんまあっちの家に送ってったから」
「そうかい」
 
 
それはよかったと心の中で呟いた。
いまならオヤジがしつこくアンを病院に連れてくるなと言っていた意味が分かる。
病院が辛気臭く縁起悪いのは確かだ。
そんな場所がガキには似合わないのもわかる。
しかしアンが来てはいけないのではない、マルコたちがアンに来てほしくないのだ。
病院服を着て白いベッドに横たわる姿の情けなさと言ったら、とマルコは溢れるリアリティを持って体感していた。
倒れ落ちるその瞬間を見られていたくせにという若干の今更感は否めない。
イゾウはマルコの頭の中を勝手にふたを開けて覗いたかのように言った。
 
 
「アンが格好悪い兄貴はいらねぇって言いだしたら言っといてくれよ。良品質の良物件がここにあるぜって」
「…最悪の欠陥品が何言ってんだよい」
 
 
イゾウはけらけらと笑って、手元のローテーブルに置いてあったファイルの中身にサラサラ何かを書きこんだ。
『バカ末期』とでも書いていたのかもしれない。
 
 
 
 
 

 
ほぼゼロと言っていい荷物を持って家に帰ると、家の中はがらんとしていた。
アンが家にいるはずだと思って帰ってきたのだが、誰もいないように見える。
マキノがアンを返してくれているはずだった。
 
 
「アン?」
 
 
静かな部屋に声が滲んでいく。
ガタン、と物音がした。いるらしい。
トタタタタと小さな足音が聞こえる。
風呂場へと続く廊下からアンが駆けてきた。
アンはマルコの姿を捉えると、パアアと顔中をきらめかせた。
この笑顔があれば世の中物騒なことなどなくなるのではと錯覚するほど眩しい笑顔だった。
 
 
「マルコ!」
 
 
アンは走り続ける足を止めることなく、そのままマルコに突進した。
どん、とマルコの脚にぶつかりよろめいたところをマルコが掬い上げる。
 
 
「おかえり!」
「ただいま、何してたんだよい」
「せんたく!」
 
 
洗濯?と聞き返した時、風呂場の方から微かにごぉおんと洗濯機が回る音が聞こえているのに気付いた。
 
 
「お前、洗濯機の使い方なんて知ってたのかよい」
「しらない!」
 
 
カニのように泡を吹く洗濯機を想像して、マルコは目を回しかけた。
退院早々重労働が待ち構えていそうな気配がぷんぷんしていた。
一方終始笑顔のアンは、んふふと笑ってうれしそうにマルコの頬に触れる。
 
 
「マルコ、げんきになったね!」
「ああ、もう大丈夫だ、悪かったよい」
 
 
アンは笑顔のままぶんぶん首を横に振ってから、つ、と人差し指をマルコの目の下にあてた。
 
 
「ここがくろくない」
 
 
アンはもう一度嬉しそうにくふくふ笑った。
アンがマルコの目の下をなぞるあの行為は、マルコの隈を心配していたのだとようやく合点がいく。
そして同時に、あのアンの不可解な行動はすべてマルコの心配につながっていたのだと気付いた。
こんな小さな少女に健康の心配をされていたのかと思うと、自分の不甲斐なさに眩暈がする。
 
マルコは頬に添えられたアンの手に自分のそれを重ねた。
アンは笑いながらもう片方の手もマルコの反対側の頬にぺたりと当てる。
マルコの手の中でアンの手はじんわりと温かく、それだけでとりあえずすべて大丈夫のような、そんな気がした。

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さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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