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OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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カッ、カッ、カッ、と細いヒールがわざとコンクリートの床を痛めつけようとするかのように高い音を鳴らす。
かかとの高いパンプスの少し暗めの茶色は、彼女のオレンジの髪を余計明るく際立たせた。
 
 
「んなぁ~、ナミさーん」
 
 
カッ、カッ、カッ、と淀みない足取りでナミは歩き後ろを振り返りもしない。
薄い灰色の、かぎ編みのマフラーからはみ出た彼女の短い髪の毛が歩調に合わせてぴょこぴょこ跳ねる。
その動きが、まるで怒っているみたいだ。
いや、怒っていることは確かなんだけど。
彼女は足取りを緩めることも、サンジの声に振り向くこともせず歩き続ける。
ああ、とポケットに手を突っ込んだまま寒空を見上げた。
そろそろ夕暮れ時だ。
今日はあまり天気が良くなかったが、夕日だけはかろうじて見えた。
西の空がほんのり赤く染まっている。
 
喧嘩なんて些細なことをきっかけに、たやすく沸騰する。
理由はわからない。
ナミに言わせると、わからないことが既にダメ、らしい。
 
女の子の気持ちには敏感なつもりだった。
喜ばせようと計らったことはたいてい思い通りに事が運び、見たいと思った笑顔をちゃんと手に入れられる。
 
それがどうだ。
 
ナミのことになると途端に手に負えない。
あっちこっちする彼女の心についていくので精いっぱいで、強い人だと思って感心していればちょっとしたことでぽきりと折れてしまうこともある。
守ろうと体を張れば彼女はしたたかに立ち上がる。
そして振り向いて笑うのだ。
 
──バカね、サンジくん。
 
 
そんな顔をされてしまえば何も言えない。
そうやって振り回されることが少し楽しいんじゃねぇの、と言われたら否定できない。
 
それはともかくとして。
いま彼女は怒っている。
きっと、いや、絶対、オレに。
 
サンジは左手にぶら下げた紙袋をちらりと見下ろして、またため息をついた。
するとナミがぴたりと立ち止まった。
俯いていたサンジはそれに気付かず、ナミにぶつかる寸でのところで立ち止まった。
目の前でふわんと揺れた髪の毛から微かな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 
もしかして許してくれんの、と顔がほころびかけたそのとき、ナミが勢いよく振り向いた。
だめだ、怒ってる。
 
 
「なんでアンタがため息つくのよっ!バカ!」
 
 
ナミは見上げざまに言葉をぶつけるように放つと、またくるりと踵を返して歩き出した。
虚を突かれて、しばらくその場に立ち尽くした。
ナミの背中はどんどん離れていく。
 
ああ、とまた空を仰いでしまった。
だって、わからないものはわからないんだ。
彼女の気持ちなんて。
わかりたくても教えてくれないんだから。
左手にかかる微かな重さがむなしい。
 
 
 
今日はバレンタインだ。
街の中は腕を組むカップルか、小さな紙袋を片手に提げ頬を染めて歩くレディたちであふれている。
例にもれずサンジとナミも今日はデートと銘打ってふたりで街に出かけた。
 
サンジは今年も、バラティエの厨房ではなく自宅のキッチンを使ってチョコレートを作った。
毎年ルフィが、サンジが持ってきた大半をあっという間に平らげてしまうが、ナミのだけはきちんと別に用意してある。
オレンジピールを混ぜ込んだプラリネショコラ。
チョコはビターとミルクをブレンドした。
素材は店でも使う一級品。
 
毎年と言っても、やはり今年は去年とは違う。
今年は彼女が隣にいる。
断りなく手をつなぐことができる。
なんならキスだってできるはずだ。
それなのに。
 
 
『んナミさぁん!はいっ、オレから愛のカタマリをプレゼント!』
『…バレンタインだから?手作り?』
『そだよ、今年も頑張っちまった』
 
 
デートの途中、お茶をしに入ったカフェでチョコレートを渡した。
ナミは渡された箱をテーブルに置き、じっと見つめている。
開けて開けてと促すと、ナミはしゅるりとリボンを紐解いた。
我ながらよくできたと思っていた。
いつもなら、キャアと可愛い悲鳴を上げて笑顔を見せてくれる彼女がそのときは黙ったままだった。
一瞬、アレ、とよぎった不安も、もしかして感動でうち震えちゃってんの?と調子のいい憶測を思いついて再び口を開く。
 
 
『これな、プラリネショコラなんだけど中にオレンジピールとナッツを混ぜ込んであってナミさん用にしてあんの。ちょっぴしリキュールも入っててな、コアントローっつってみかんの皮の…ぶっ』
 
 
冷たい紙袋がサンジの顔面に張り付くようにぶつかった。
紙袋が顔から膝にずり落ちるまで、何が起こったのかわからなかった。
視界が開けると、歪んだナミの横顔が見えた。
え、なんで。
 
 
『バカ!知らない!』
『え、ちょ、ナミさん?』
『帰る!!』
 
 
ナミは渡されたチョコレートの箱をテーブルの上に置いたまま、自分のカバンをひっつかみ本当にカフェを出ていく。
サンジはその後ろ姿をぽかんと見送り、自分がいかにまぬけ面をさらしていたかに気付いて慌ててナミを追いかけた。
渡したチョコレートを再び紙袋に収めるのを忘れない。
バレンタインなのに…という周囲の視線が痛かった。
もどかしさに歯を噛みしめがら急いで会計を済まし、慌てて店を飛び出した。
 
 
 
 
 
立ち止まって上を向いていた顔をナミへと戻すと、どんどん遠ざかっていく小さな背中が20メートルほど先の橋の上でぴたりと止まった。
それに気付いて、サンジは外国の映画で見るようなしぐさで額に手を当てた。
「オゥ…」と声が出てしまった。
小さな背中はますます小さくなり、オレンジの頭は俯いている。
きっと形のいい唇をかみしめて、自分のつま先を睨んでいるに違いない。
背中に「なんで追いかけてこないのよ」と書いてある。
こういうことをするからオレはいつまでたっても離してもらえないのだ。
離れる気なんてさらさらないが。
 
サンジは足早にナミの背中に近づいた。
 
 
「ナミさん、ごめんって」
「…理由もわかんないくせに、簡単に謝るんじゃないわよ…」
「そうだけど」
 
 
それ以外にどう言えって言うんだ。
 
 
「な、ごめん。こればっかりは本当オレわかんないよ。オレ何がダメだった?」
 
 
チョコは嫌いじゃないはずだ。
プラリネショコラが嫌だったんだろうか。
いや、彼女はそんな小さなことでいちいち腹を立てたりしない。
…いや、小さなことでよく怒りはするがすぐに収まる。
こんなに長引かせたりしたことはなかった。
 
俯いたナミの肩からマフラーの先が流れ落ちた。
それと同時にナミの顔を覗き込み、ぎょっとした。
 
 
「な、泣くほど!?ぅえ、ちょ、待ってナミさ、」
 
 
ナミは唇をかみしめて、口げんかに負けた小さい女の子のように震えながらぽろぽろ涙をこぼしていた。
 
 
「…ま、待って!ここじゃなくて……オレんち!オレんち行こう、ナミさんちより近い」
 
 
なっ?と問いかけてもナミは顔を上げず立ち尽くしている。
日はもう半分は沈み、あたりは薄暗く人の顔が見にくくなってくる時間帯だ。
もういいやと強引に腕を掴みサンジが歩くと、ナミもおぼつかない足取りで付いてきた。
ああもう今日は、なんなんだ。
 
 
 

 
 
「落ち着いた?」
 
 
顔を覗き込むように尋ねると、未だ目を潤ませたままこくんと頷いた。
赤い目に赤い鼻のままだがとりあえず泣き止んでくれた。
しかし泣き止んだら泣き止んだで、まだ怒りは収まっていないらしい。
ナミの目はサンジを見ようとしない。
 
ナミをベッドに腰掛けさせて、自分は小さな丸椅子に腰かけた。
ぽりぽり頬を掻いて、ああと声には出さず呻いた。
 
今日のナミさんはまるで子供だ。
意地を張ってしまったのか口を開こうとしない。
少し頬が膨れているのが、「あたし怒ってるんだから」と強調しているようだ。
 
少し考えてから、そっとナミの手を取った。
振り払われるかな、と少し思ったが、ナミはどうすることもしない。
 
 
「な、ナミさん。オレマジでわかんない。教えて?なんで怒ってんの?」
 
 
なるべく下から、下から、と意識して、懐柔するよう柔らかい声を出したつもりだった。
ナミはつながった二人の手から反らしていた視線を、そっと戻した。
 
 
「チョコを…」
「うんうん」
「なんであんたが作るのよ」
「え?」
 
 
きょとんと、思わずではあるが目を丸めると、ナミはまた浮かんできた涙をそのままにサンジを睨むように見据えた。
 
 
「なんでバレンタインなのにあんたが作っちゃうのよ」
「え…だってオレ、毎年作ってるよ?」
「…あんたが作ったやつになんか、勝てるわけないじゃない…」
 
 
ぽろっと珠になった涙がナミの肌に染み込むことなく転がるようにひとつ落ちた。
それを目で追ってから、やっと気づいた。
 
オレが先に手作り渡しちまったから、いけなかったのか。
 
 
「さ、サンジくんの、お店で売ってるやつみたいなんだもん…あんなの見たら、あたしが渡せなくなるじゃない…」
 
 
もうひとつ涙が転がり落ちる前に親指で拭ってから、ナミの顔を覗き込んだ。
期待で頬が緩みそうになるのを慌てて引き締める。
 
 
「じゃあナミさん、オレにチョコ作ってくれたの?」
 
 
ナミは頷くことも、うんと言うこともしなかったがたぶん当たっている。
もう駄目だ。
ベッドに腰掛けるナミの腕を引いて腕の中に閉じ込めた。
 
 
「オレナミさんのチョコ超欲しい」
「…いやよ、もう渡さない」
「えぇー…あ、ナミさん、カニってなんで高いかわかる?」
 
 
唐突な質問に、ナミがは?と問い返す。
 
 
「じゃあキャビアは?なんで高いかわかる?」
「…値段の話?」
「そう」
「…あんまり採れないからじゃないの」
「そう、希少価値ってやつだな。で、それを基に考えてみるわけよ。その気になれば売れそうなモンをいくらでも作れるオレのチョコ。かたやいつもバレンタインは箱のチョコを買ってばらして済ますナミさんがオレのために作ってくれた初めてのチョコ。どっちが値段は高くつくでしょうかっ」
「……」
「あんたのに決まってんだろーっ!まぁこの価値はオレにしかわかんねぇっつーか、オレにしかわかんなくていいけどもだな。オレだけがナミさんのチョコにとんでもない価値を見いだせるの」
 
 
オワカリ?と耳元で問うと、くぅ、と返事ではないが何か声が漏れた。
背中のシャツがナミの手に握りこまれる。
サンジがナミの手を引いて抱きしめていたので、ナミの腰はベッドから浮いている。
これじゃ辛いだろうと気付いて、ナミを再びベッドに深く座らせて自分は床に膝をついた。
 
 
「バレンタイン、してくれる?」
 
 
ナミはサンジを見下ろして、少し逡巡する顔をしてからおずおずとかばんを漁りだした。
取り出した小さな箱を、サンジに差し出す。
 
 
「…見た目も味も、サンジくんのには」
「だからんなの関係ねぇっつってんだろ、いい加減にしなさい」
 
 
怒られたナミはう、と口をつぐんだ。
嬉々として箱の包みを開いていくサンジの手の上を、嫌そうに目を眇めて眺めている。
 
 
「…ガトーショコラだ」
 
 
長方形に切り取られたケーキは、片隅に生クリームとみかん一粒をのせていた。
 
 
「…焦げた端っこ切ってったら小さくなっちゃった」
「言わなきゃわかんねぇのに」
 
 
くくっと笑うと、上の方にあるナミの顔も少し笑った気がした。
 
 
「あとでフォーク持ってくるよ。一緒に食おう」
 
 
箱のふたをきちんと元に戻すと、ナミは意外そうな顔をした。
 
 
「なんであとでなの?」
 
 
それには返事はせず、元通りにしたケーキの箱をそばにある小さなテーブルに置く。
ナミはそれをきょとんと見下ろしていた。
膝をついたままナミの手を取った。
少し長い爪の先に唇を寄せる。
ぱくっと口に含んだ。
 
 
「ちょっ!」
「──可愛いオレのナミさん。本当可愛い。どうにかなっちまいそうだ。つーかどうにかしちまいてぇ」
 
 
頭から食っちまいてぇよ、と呟くと、小さくばか、と聞こえた。
指の先を少し舐めて、ちゅっと音を立てて指を離す。
 
 
「可愛い。本当、もうオレだめだ」
 
 
今日振り回されて、ああもう、となんどため息をついたかわからない。
それでも募るのはいとしさばかりだ。
オレはもう相当のところまで来ている。
末期も末期。
病院に行けばご自宅で最期の時をご家族と過ごしてくださいと言われるだろう。
 
 
まるで懇願するように、ナミの膝に額をつけた。
ひんやりしている。
 
 
「すきだよ。ナミさん、すきだ、すげぇすきだ」
 
 
すきだすきだ。
いつもは自分でも驚くくらい流暢に甘い言葉があふれ出るのに、今日はダメだ。
ナミもそれに気付いたのか、くすくす笑い出した。
さっきまでぼろぼろ泣いてたくせに、もう笑ってる。
 
 
「いっつもペラペラ口説き文句言うのに、今日はそれしかないの?」
「…十分甘いだろ?」
 
 
俯いて額をナミの膝に付けているのでその顔は見えないが、ナミがふわりと微笑んだ気配がした。
 
 
「いつも甘すぎるのよ」
「…甘いのは嫌いかいレディ」
 
 
少し額を浮かせてちらりとナミを仰ぎ見ると、そうねとナミは考え込むふりをした。
 
 
「甘すぎるのは好きじゃないけど、嫌いじゃないわ」
 
 
それはよかったと呟くと、ナミはサンジの顎に手をかけて顔を持ち上げる。
そのまま腰をかがめてキスをした。
 
 
「でもたまにはベッタベタに甘いのも欲しくなるわ」
「オーケー、オレはエキスパートだ」
 
 
 
どうぞお望みのままに。




 
 
 
中毒にならない程度でよろしく


拍手[59回]

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一度自分の部屋へ戻って、着替えの用意を持ってもう一度外に出た。
階段を下り、4番隊の部屋群の方へと角を曲がると突き当りに部屋が見える。
上の階と構造は同じなのだからわかりやすい。
4番隊の部屋群は静まり返っていた。
時刻はもう夜の3時に近いだろう。
4番隊の隊長室は鍵が閉まっていなかった。
鍵を持ったままアンが中に入り、内側から鍵をかければ誰も入ることができないというわけか。
そっと覗くように顔だけ中に突っ込み、それからそろそろと扉を開いていき中に足を踏み入れる。
向かって右側にベッド。左側に本棚。正面にデスク。
この配置は確か2番隊の隊長室も同じだった気がする。
ただこの部屋は、やっぱり人の匂いがした。
デスクの上は数枚の書類が開かれたファイルから覗いていたり、カップが置かれていたり、ペンが散乱していたりと遠目に見ても結構汚い。
鍵は──悩んだがかけなかった。
もしかしたらサッチが、仕事に関する急用でどうしても部屋に入る必要が出てくるかもしれない。
 
アンは部屋の左奥の扉に近づきながら、大きな本棚に目いっぱい詰め込まれたたくさんの本の背表紙を目で追っていった。
やっぱり隊長だからだろうか、小難しい題の本がいくつかある。
しかし本棚の下方に集中していた分厚い本はアンにでも何かわかる。レシピ本だ。
そして上方には比較的薄い本が収まっている。雑誌らしい。
思わず立ち止まって眺めていたアンは、ハッとして歩き出した。
人の部屋の風呂を借りるだけならまだしも、ついでに部屋の物色なんて趣味が悪い。
 
風呂場の扉は開いていた。
中は白い浴槽と備え付けのシャワー。
入り口前の床にはアイボリーのタオルがひいてあった。
手前でブーツを脱いでそっとタオルの上に裸足をのせるとふわりと気持ちよく乾いていた。
着替えを入り口手前の小さな机に置いて服を脱ぎ、中に足を踏み入れた。
いつも使うシャンプーや石鹸はナースの風呂場に備え付けてあったのを借りていたので、アンに手持ちはない。
言えば快く貸してくれるサッチの顔が思い浮かんだが、熱いお湯を浴びて体を流せればそれでいい。
そう思いながら壁にかけてあったシャワーを手に取ったとき、ふと足元に薄い桃色がちらついた。
男の風呂場にはそぐわない色だと、何気なく視線を落とすと桃色の形の異なるボトルと同じく桃色のソープがシャワーの真下に置いてある。
コックをひねる手を止めてそれを凝視したが、どうも女物らしい。
まさかこれがサッチの愛用品か。…いや人の私物に口をはさむのはよくないけど、なんとなくフクザツ。
しかしすぐ、バスルームの左隅に立つ灰色のボトルが目についた。
どうもこれは男物らしい。となるとこれがサッチの使っているやつか。
じゃあどうして、こっちが隅っこにあってピンクのこれが真ん中に?
 
しばらく裸のまま冷たい床の上に立ち尽くしてから、思い当った事実にああと顔を歪めた。
勢いよくコックをひねると突然頭の上に冷水が降りかかったが、すぐに冷水はお湯へと変わっていき強張った肩の筋肉が弛緩する。
 
使用済みのはずなのに乾いていたバスマット。
真ん中に位置する女物のシャンプーと隅に寄せられた男物。
アンが部屋へと着替えを取りに戻ったあの少しの間で、と思うとますますアンを困らせた。
ぬかりない。し、そこがつかめない。
女物のシャンプーは、ナースの姉さんが使うものと同じ甘い花の香りがした。
 
 
 
 

 
 
翌朝は少し寝坊した。
明るい部屋の中で起きるのは、この船に乗ってから初めてだったので少し戸惑った。
 
昨日ようやくベッドに入れたのは3時半ごろだったと思う。
アンが手早くシャワーを終えて着替え、部屋の外に出てもサッチは見当たらなかった。
シャワーを終えたこともその礼も伝えたいのに、当人が見つからないのではどうしようもない。
仕方なく、濡らしてしまったバスマットは入り口手前においてあったタオルラックにかけて、部屋の鍵をデスクに置いて出てきた。
熱い湯を浴びてしばらくは目が冴えていたが、部屋に戻ると思い出したように眠気が再発し、ベッドに横たわると落ちるようにすとんと寝た。
 
 
(…すっきりしてる…)
 
 
時間や場所の間隔が全部吹っ飛んでしまったかのようにつかめず、しばらくベッドで上体を起こしたままぼうっと壁を眺めていた。
 
 
「アンー、メシ食いっぱぐれるぞー」
 
 
ドンドンと通り際に隊員がアンの部屋を叩いてくれた音で、やっと意識が下方から引っ張り上げられた。
 
 
慌てて食堂に行くと、中はすでに食後のブレイクモードでコーヒーの香りが満ちていた。
ブランデーの匂いがいつでもするのは、海賊船なのだからまあ仕様だ。
アンは食堂に駆け込んで、いつものカウンターにセルフ形式の朝食が置いてないことに愕然として立ち尽くした。
 
 
「く…くいっぱぐれ…」
 
 
通りすがりの3番隊隊員が苦笑付きで励ましてくれたがろくに返事も返せなかった。
アンにとって三食のうち一食を逃すことは一日の3分の1のエネルギーを取り損ねたということで、つまり有事の時は3分の2の力しか出ないということだ。
生存本能の危機に等しい。
 
マルコが忠告した通りになってしまった。
心配いらないと大口をたたいたのに、そもそもあの時は大口だなんて思ってもいなかったのに。
食堂の入り口に膝をつく勢いでアンは肩を落とした。
 
 
「何やってるんだ?」
 
 
随分上の方から聞こえた声に、アンが陰の差す顔を上げると大きな体がアンの背後に立ちアンを覗き込むように背をかがめている。
どうやらアンが入り口前に立ち尽くしているので、巨体が食堂に入ることができなかったらしい。
しかしアンは「朝飯逃した」ことに頭がいっぱいでそこまで考えが回らず、へにゃりと歪んだ眉のままその巨体を見上げた。
 
 
「…朝メシ…」
「寝坊したのか?」
 
 
コクコクと頷くと、巨漢──ジョズは困ったような苦笑いで少し笑いごそごそと身に着けた鎧の腰辺りを漁った。
 
 
「オレも昔は何度かやったよ」
 
 
すっと差し出された大きな掌の上には、小さな白い布袋。
アンがそれをぽかんと見つめ、同じ顔のまま高くにある顔を見上げるとジョズは促すように手のひらを揺らす。
 
 
「腹の足しにはならないかもしれないが」
 
 
アンは顔の前のそれをそっと持ち上げて中を覗いた。
ふっと甘い香りが広がる。
 
 
「…クッキーだ…」
「もうそろそろ仕事始まるだろう。もらいものだが、よかったら食え」
「いいの?」
 
 
強面の顔は、にこりと笑いながら大きく頷いた。
 
 
「ありがと…!」
 
 
小さな袋のクッキーを宝物のように手のひらで包み、アンが顔を上げてそう言うと、ジョズは一瞬戸惑ったように視線を彷徨わせたが、すぐに笑顔を取り戻してアンの頭に大きな掌を置いた。
 
アンはすぐさまその場でクッキーを一つ取り出し口に放り込む。
 
 
「うまい!」
「そ、うか」
 
 
それはよかった、ともう一度笑ってジョズはそそくさとアンを残し食堂の奥へと歩いていく。
アンは大きなその背を見送って、ジョズの微妙な違和感に首をかしげながらもうひとつクッキーを口へ放り込んだ。
ウマイ!
 
 
 

 
 
午前中の仕事(今日は洗濯当番だった)が終わると、アンはいの一番に食堂へと駆けだした。
もらったクッキーはウマかったけどさすがに腹の足しにはならなかった。
異臭を放つ洗濯物を詰め込んだ巨大な籠をいくつも洗濯槽まで運び、全手動の洗濯機を回し、それらすべてを甲板に干すだけで半日が簡単に過ぎてしまう。
クッキーから得たエネルギーは、クルーの洗濯物を回収し始めたころにはすでに切れていた。
 
セルフ形式の朝食・夕食とちがって、昼食はワンプレートだ。
アンが食堂に着いたころには、既に食堂と厨房を隔てるカウンター前にプレートを受け取るクルーが列をなしていた。
3番隊クルーが多いところを見ると今日は非番らしい。
アンも意気込んで彼らの後ろにぴたりと並んだ。
腹の音がうるさい。
 
アンの腹の音が届いたのか、前に並んでいた数人のクルーが振り向いた。
ぱちりとアンと目があった途端、人相のいいとは言えない彼らの顔がぱあっと明るくなった。
 
 
「おうアン、やけに早ェな」
「腹減ったの」
 
 
そうかそうかと一様に頷く彼らは、また一様に自身の上着やズボンのポケットをまさぐりだす。
異様なその光景にアンがぽかんとしていると、またたく間にアンの目の前にいくつものごつい手が差し出された。
 
 
「これやるよ!」
「こないだの島で買ったヤツだけどまだ食えるぜ!」
「こっち!そんな腐りかけのよりこっちのが旨いぜ!」
「テメェのこそ明らかに色おかしいだろ!」
 
 
目の前で屈強な男たちが押し合いへし合いしながら、アンに様々な小さな包みを渡そうとアンを取り囲む。
自分の物の方がおいしい、いやこっちのほうがとどうやら食べ物らしいそれらを手に喧嘩まで始まる。
虚を突かれたアンは、やっとのことで言葉を発した。
 
 
「…もらっていいの?」
「もちろん!」
 
 
男たちの怒声のような野太い声が重なった。
アンの薄い手のひらに次々と包みが置かれていく。
片手では受け取りきれず両手を差し出したがそれでも積み重なるそれらは手の隙間からこぼれていく。
アンの背後からも、「抜け駆けすんな!」と叫びながら何人かが駆け寄ってきた。
細かい菓子がアンの腕で抱えきれないほど山積みにされていく。
ひとつもらうごとに「ありがと」「さんきゅー」と返していたアンも、その数の多さにいつしか目が回ってしまった。
気の利く一人がアンに大きな麻袋を一つ手渡してくれたのでそれに入れていったが、突如始まったプレゼント攻撃が一息ついたころにはその袋もいっぱいになっていた。
まるで泥棒のようにお菓子のつまった袋を肩に担いだアンは、なにもしていないのに得た収穫に自然と顔がほころんだ。
 
 
「すごい、おやつ何日分もある!」
 
 
アンがひひっと笑うと、先ほどまで隣り合う敵を押しのけながらアンの前まで進み出ていた男たちの頬がだらんと緩んだ。
 
しかし突如、カンカンッと鋭い金属音が食堂に鳴り響いた。
 
 
「そんなモンでアンを釣った気になってんじゃねぇぞ野郎共!」
 
 
片手に金属のお玉杓子を掲げたサッチは、カウンターの向う側で鼻息荒く仁王立ちしていた。
虚を突かれた男たちとアンはぽかんとサッチを見つめ返す。
 
 
「コックを出し抜いてアンの胃袋掴もうなんて百年早ェんだよ!」
 
 
顎を反らせながら、サッチはカウンターにどかりと大きな皿を置いた。
昼食用のワンプレートよりひとまわりもふたまわりも大きい皿に、いつもと変わらない昼食が山盛りと、大きな骨付き肉が肉汁を滴らせて二本。
皿の隅には小皿に盛られたプリンとたっぷりの生クリーム。
アンの目が一瞬で奪われ輝いたのと同時に、男たちはまずいものを飲んだかのようにゲッと顔をしかめた。
そして一斉に反駁の声が上がる。
 
 
「ズリィっ!サッチ隊長それはずりぃっすよ!」
「アンタそれでも隊長か!」
「うるせぇ、テメェ今権力使わねぇでいつ使う!」
 
 
いーっと子供のように歯を剥いたサッチは、アンに向かってにぃっと笑う。
 
 
「サッチ特製・対アン用スペシャルプレートだ!」
「あ、あたしの?」
 
 
目の前のカウンターに突き出された大きなプレートの料理たちは、アンを待ち構えてキラキラしているように見えた。
 
 
(…肉が光ってる…!)
 
 
「ありがとサッチ!!」
 
 
両腕で抱きかかえるようにプレートに手を伸ばしながらそう言ってサッチの鼻の下が伸びたのと、右側からサッチのリーゼントにさくっと細長い何かが刺さったのはほぼ同時だった。
 
 
「テメェその食費はどっから落ちてると思ってんだよい」
「おっまえ、オレのリーゼント傷つけやがって!」
 
 
ぷすりとサッチが頭から抜いたのはペン先のついた鋭利な羽ペンで、それを投げたマルコは少し離れたカウンターの先、そしらぬ顔でカップにコーヒーを注いでいる。
サッチはそのマルコにもいーっと子供のように歯を剥いて、アンに顔を寄せた。
 
 
「いいじゃんなー、アンが笑うってんだからこんくらいの食費なんて安いもんだっての」
 
 
いつもに増して口を尖らせたサッチは、アンに「はいっ」とプリン用の小さなスプーンを差し出した。
サッチの権力行使に口をはさんだマルコも、たいして本気でないようでもう何も言わない。
アンはマルコの顔をちらりと盗み見て、サッチの笑顔を見上げて、またあの何とも言えない困った感情が表れていたたまれなくなった。
それを隠すようにもう一度、今度は少しぶっきらぼうにサッチに礼を言って皿を抱え、ブーツを高く鳴らしてカウンターを離れた。
そして席に着くと、一息入れる間もなくプレートの中身をかきこんだ。
もらった菓子が詰まった袋は足元に下ろしてある。
 
 
知らなかった。
あたしが笑うとみんながよろこぶ。
あたしがよろこぶとみんながそれはうれしそうに笑う。
 
感情の共有はとても心地よかった。
 
 




 
 
 

 
 
「ロジャーの子?」
 
 
そう問うた白ひげは特にアンの返答を求めたわけではなく、ぐびりと酒の壺を傾けた。
白ひげのベッドの向かいにある手ごろな木箱に腰かけたアンは、俯いた顔を上げることができない。
神妙な顔で訪れたアンを白ひげは至極楽しげに迎え入れ、アンにとっては不吉なその言葉を聞いても顔色一つ変える様子がない。
それさえもアンにとっては恐ろしかった。
海賊王と唯一互角に渡り合ったという伝説の男は、どのようにその海賊王の子を突き放すのだろう。
 
 
「…そうか驚いたな。そうだったのか…性格は親父に似つかねェがなァ」
 
 
口では驚くと言いつつも、グラララと笑う声には少しの変化もにじまない。
アンは自分の脚の先を見つめたままぽつりと零した。
 
 
「敵だったんだろ」
 
 
白ひげは酒壺を口から離すと、じっとアンを見据えた。
 
 
「追い出さないの」
 
 
賭けのようなものだった。
それもアンにとって、限りなく負けに近い賭けだ。
アンが持つ手札はこれ以上ない程弱く、突かれたらすぐにも崩れる、もうイカサマでごまかしようもない。
負けを認めたも同然の気分でさらに深く俯いたアンの耳に届いたのは、変わりなく豪快な笑い声だった。
 
 
「大事な話ってェから何かと思えば小せェ事考えやがって」
 
 
誰から生まれようとも、人間みんな海の子だ。
 
 
アンが見開いた目を白ひげに向けると、ようやく交わった視線に白ひげがさらに口角を上げた。
笑うと白ひげは深く刻まれた皺が目元に増えた。
巨大な男の視線は初めて対峙した時と変わりなく鋭く光っている。
それでも、小さなアンの身体を柔らかく包んだ。
 
 
「オレのことはオヤジと呼べ」
 
 
オヤジ。
声には出さず呟いた。
忌々しくて仕方のなかった言葉が魔法のようにアンを包む。
 
 
「家族はいいぜ、アン」
 
 
白ひげは、ベッドのわきのサイドテーブルに酒壺をどかりと置いた。
とぷんと中身の揺れる音がやけに響いた。
 
 
 
「かぞ、くなんて」
 
 
震える下唇を押さえつけるように噛みしめた。
ギッと睨みつけると、金色の双眸が静かにアンを見つめている。
いつのまにか立ち上がっていた。
両脇で握りしめた拳がアンの意思とは別に小刻みに震える。
格好悪いと思ったが、どうしようもなかった。
 
 
「…『家族』なら…ずっとここにいていいって言って!あたしから絶対にもう何も奪わないって約束してよ!!」
 
 
白ひげはアンを見据えたまま、瞬きするような微かな動作で頷いた。
 
 
「約束しよう」
 
 
アンの頬を伝い輪郭をなぞり、鎖骨を辿る水滴が肌に染み込む。
ぼやけた視界の向こうにいるはずの男が、なによりも大切なものに思えた。
 
 
「──あたしとずっと一緒にいるって約束して…」
 
 
白ひげは、また同じ動作で頷いた。
 
 
「あァ、約束しよう、アン」
 
 
アンが白ひげの胸にしがみつくように飛び込むと、白ひげの大きな腕がそっとアンを包み込んで抱きしめた。
 
 
 
 

 
それからのことはよく覚えていない。
海に出てから、自分以外の誰かに弱さをさらしたのは初めてだった。
もしかすると自分自身に自分の弱さを突きつけたこともなかったかもしれない。
 
白ひげの膝の上で、固い腹筋に頭をのせて横になった。
膝を抱えて丸くならずに身体を伸ばして横になったのは、子供の頃もなかった気がする。
それでも温かい白ひげの膝の上にいると、10歳にも7歳にもそれより幼いころにも戻ったようだと思った。
10歳のアンも7歳のアンもこんなにも大きな温かさを知っているはずはないのに、なぜか懐かしい気分になる。
白ひげの大きな指が鼓動のように、規則的なテンポでアンの肩を叩いた。
 
…少し、ジジイに似ているかもしれない。
昨日と今日は、サッチといい白ひげといいよくガープのジジイを思い出す。
ガープに頭を撫でられた記憶はない。
ルフィとまとめて強引に抱きすくめられたことはある。
すぐそこに感じた身体は堅く大きく、頬にあたった髭が痛く、何より照れくさくて仕方なくて暴れるように抵抗した。
似ているのは、そのときの温度かもしれない。
 
 
 
じんわりと体温が上がってきた。
それと同時にうとうととまどろむ。
少し体を動かして横向きになると白ひげの膝からカクンと右足が落ちた。
しかしすぐに白ひげがひょいとつまんで戻してくれる。
目は開いているはずなのに、見える景色はどこまでもぼんやりしていてつかめない。
あたしなにしてんだろ、と何度も疑問が頭をよぎったがそれさえも考えられない。
ふぅーん、と白ひげが大きく息をついた。
 
まどろみの中で聞いた声は夢だったかもしれない。
 
 
『アン──お前にゃあ、ちぃと生きにくい世の中かもしれねェなァ…』
『特にお前みたいな我の強い奴はな』
『…だがお前にはもう父親と、兄貴が1600人もいる。みんながお前を守るだろうよ』
『アイツらァおめぇが可愛くて仕方ねェみてェだ。まさか妹ができるなんて思ってなかっただろうからなァ…』
『誰かがお前の傍にいる。一人にゃあなりたくてもなれねェだろう』
『何も奪いやしねェさ。与えたくて仕方ない奴らだ』
『家族ってのはいいぜ、アン。理由も理屈もいらねェで、無条件で愛してやれる』
 
 
 
目に映る景色はゆっくりと滲み、こめかみを温かい水が流れた。
 
 
 
 
 
 
 
The best way to make children good is to make them happy.
(良い子を育てる最良の方法はしあわせにしてやることだ)

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「おっ、はよー、アン」
「はよう」
「おう、今から朝飯か!?」
「うん」
「アン、飯食ったら今日は二番隊中央甲板だかんなー!」
「わかった」
 
 
白ひげに仲間入りしてひと月ほど。
船が4つもあり、あまつ1600人もの大所帯ともなると顔を合わせるのは同じ隊のクルーばかりと限られてくるが、少なくともその二番隊の彼らとは、馴染んだと、思う。
入団4日目の朝から2番隊隊員を筆頭に流行したアンの頭を撫でる行為は、どうしてこうなった、と今でも思うがまだ続いている。
朝の挨拶、寝る前の別れを告げるとき、ほんの些細なやり取りの間に、彼らは勇み喜んでアンの頭を撫でる。
ひとりだけ、ぽんぽんと軽く叩く仕草では収まらずしつこく撫で続けてきた奴がいたが、一度牽制をかけてしまえばそれ以上はなかった。
もしかしてそういう習慣なのだろうかとも思ったが、アンのほかにそんなことをされているクルーは見当たらない。
それはいつのまにか2番隊内では収まらずにほかのクルーにも伝播され、今ではアンの前に列をなす勢いだ。
ただひたすら不思議な気分にはなるが別に不快なものではなかったので、アンは黙って受け入れ続けている。
いつのまにか自然と呼ばれるようになった名前にも違和感がない。
「船長」という肩書を失って、アンという単体になって、身ひとつで受け入れられることに初めは抵抗があったが、いざ「アン」と声をかけられたら、迷わず振り向けた。
振り向いてから、あ、と思い当ることもしばしばあった。
 
 
また、散らばってしまった元スペードの仲間たちに偶然会った時には近況を聞いてみるが、彼らも自分の隊でそこそこうまくやっていると聞く。
難しい性格の奴はいたが悪い奴はいないのだから当然だ。
それに彼らの寝床はきっと、各隊の大部屋に割り振られている。
寝食を共にしていれば、馴染まない方が難しいだろう。
 
しかし一方アンは、ひとり個室だ。
隣の部屋から聞こえてくるのは男たちがかけに講じたりバカ話に大笑いするにぎやかな声。
一人寝には慣れていた。
しかしそのにぎやかさがスペード海賊団を思い出させて、少ししんみりしたりもする。
だから夜は早く寝た。
遠くのざわめきを聞きながら目を閉じると潮騒と混じって耳に心地よい気がしたが、夢見はずっと良くなかった。
朝は早く目覚めた。
部屋の中にある小さな長方形の窓から光が入ってくる。
日が昇るのとほぼ同じくらいで起きた。
まだ誰も、少なくとも2番隊のクルーは誰も起きていない。
静かで、穏やかで、微かに揺れるベッドの上でアンはひとりだった。
 
一日のうちで交わす会話は朝の挨拶と、日中の雑務での事務的なやりとり。
気さくに掛けられる声はいくつもあったが、そのどれもにどう返していいのかわからず曖昧な顔をしている間に相手は苦笑いを残して行ってしまう。
こんなにも自分がコミュニケーションが下手くそだとは思わなかった。
頭を撫でられた後も、どんな顔をしていいのかわからない。
スペードの仲間と話すときはそうではないのだ。
近況を報告し合い、船が広すぎてなかなか合わないなと小さく笑って、他の仲間がどの隊で何をしているなどの情報を交換して、じゃあまたと別れるそのときまではとても楽しいひと時だ。
それに、たまたま袖擦りあった見知らぬ人間と酒場で飲み明かす機会があったとしたら、その時の方がきっとアンは上手に話ができる。
それくらいできなければ今まで女の体一つで海を渡ってこられたはずがない。
この、まだ相手のことを何も知らないのに突然確約されてしまった仲間という関係を持て余して仕方がない。
 
 
アンが夜中トイレなど野暮用でひとり廊下を歩いていると、すれ違った2番隊は声をかけてくる。
それこそ他愛のないもので、だからこそ返答に困る。
さらに重ねて言葉をかけようか、このまま会話を終わらせようか相手が悩んでいるのがはっきり伝わった。
そして今このときも、同じ状況だったが今度は勝手が違った。
 
 
「あ、アンは風呂まだなのか」
「うん、今日は11時」
「そうか」
「…」
 
 
また、だ。
必要ないのにお互いを困らせる嫌な種類の沈黙。
アンに声をかけた若い隊員は、あーっと、と困り顔でこめかみを掻いている。
もう最近はこうなったら、アンはサッサと立ち去ることにしていた。
「じゃあ」と止めた足を一歩踏み出したその時、「そうだ!」と隊員が大きな声を出した。
 
 
「な、に」
 
 
大きな声に思わず目を丸めて振り返ると、彼は遊びを思いついた子供のような顔で笑っている。
キラキラしてるぞ、こいつ。
 
 
「水曜の夜はな、あそこ、一番端の大部屋でポーカー大会なんだ。知らなかっただろ?」
 
 
空の隊長室の隣を指さした隊員は、キラキラした顔のままアンにずいと寄る。
うんと頷きながらアンは思わず身を引いた。
 
 
「そう、これに誘えばよかったんだ!これぁ2番隊だけしかいねぇんだからお前がいない理由がねぇ!そう、そうさ!」
 
 
自分の発案に隊員は何度もうなずく。
引き気味のアンはお構いなしだ。
 
 
「まぁどの隊でも同じようなことはやってるだろうがよ、うちの隊は水曜日で、あそこの部屋で、つまり今やってるわけよ!アンも来い!」
「えーっと、」
 
 
でもそれってあたしが行っていいの、の言葉は続かなかった。
隊員の大きな声を聞きつけて、どこからともなくわらわらと2番隊員が集まってきたからだ。
 
 
「あ、アンだ」
「なに、お前水曜日のポーカー知らなかったのか」
「じゃあ来いよ、今日はアンの初日だかんな、掛け金は誘ったこいつが出すってよ」
「おい勝手に決めんな!」
「まあなんでもいいから」
 
 
早く来い!と誰もが笑顔でアンを手招く。
面食らったアンはしばらく立ち尽くしたままぽかんとしていたが、おずおずと一歩踏み出すとアンを囲んだ男たちの勢いに押されて流されるように大部屋へと入ってしまった。
なんだかみんな、やけに嬉しそうな顔をしている。
 
 
 
そして始まったポーカー大会。
そこらじゅうに酒瓶が散乱し、イカサマがあっただのなかっただのという喧嘩はすぐに始まるしで部屋の中は無秩序極まりなかったが、それはアンが戸惑うくらい──楽しかった。
正直ポーカーは……得意ではない。
元スペードの船員いわく、「アンはすぐ顔に出る」から。
今回もそれはきちんと発揮された。
 
 
「はっ、アンの奴また負けてらぁ!」
「うるさいな、もう一回!」
「お前今日は掛け金ねぇからいいけど、本当だったらもう無一文になるところだぜ!」
 
 
ううう、と唸る顔からは持ち前の負けず嫌いがにじみ出る。
世の中にポーカーフェイスというものがあるのだとしたら、アンとは無縁に違いない。
男たちは酒を飲みながらかけに高じ、真っ赤な顔をして大きく笑った。
一方アンが見せる笑顔は手持ちがいいカードになったときのニヤリとした顔だけだったが、くるくる回るアンの表情は見ていて飽きない。
その表情の目まぐるしさ故にポーカーには向いていないのだが。
 
そろそろ夜も更けてきた頃、ふとアンがああ!と思い出したように顔を上げた。
 
 
「どうしたアン」
「風呂入るの忘れてた!!」
「あー」
 
 
そう言えば、風呂はまだだとかいう会話を交わしていたんだったとアンを最初に誘った隊員は記憶をたどる。
しかしアンはま、いっかと再び手元のカードに顔をうずめ始めた。
 
 
「風呂いいのかよ」
「一日くらいいい」
「ハッ、男らしくていいぜ!」
 
 
確かに今日は日中2番隊と3番隊で手合せがあり、アンも参加したので汗をかいた。
少し気持ち悪いと言えば気持ち悪いが、朝一でナースのもとに駆け込めば風呂を開けてくれるかもしれない。(ナースの風呂は覗き防止のため、ナース長によって鍵が管理されていた)
 
そうしてポーカーの熱は冷めることなくむしろどんどん上がっていったが、今日の朝も例にもれずアンは早かった。
現在時刻は夜中の2時。
アンを唐突に眠気が襲った。
 
 
「…ン、アン!」
 
 
ハッと覚醒すると、アンを含め輪を作る数人がアンの顔を覗き込んでいる。
 
 
「お前の番だぜ」
「あ、ごめ」
「なんだアン眠いのか」
「お子様だなあ」
 
 
うるさいっと歯を剥いても、今はもう笑ってあしらわれてしまう。
しかし眠いことは確かだ。
アンは小鼻に皺を寄せて、あくびをかみ殺した。
 
 
「…ねむい」
 
 
ぽつりとつぶやくと、男たちは一斉に笑った。
もう部屋に戻んな仔猫ちゃんとまで言われるが、反抗する思考能力さえとろとろと溶けて流れていく。
一度眠いと認めてしまうと眠気は猛烈な速さでアンを眠らせにかかった。
こっくり、と船を漕ぐ。
 
 
「おいおいアン、本当もう部屋戻れって」
「んー…」
 
 
返事はするが、行動が伴わない。
男たちは困り顔で顔を見合わせた。
思わぬところで子供っぽさが前面に出てきた、そのことへの驚きも少々混じっている。
 
 
「ほらアン立てって」
 
 
アンの隣に座った男が、既に肩を落とし何度も船を漕ぐアンを立たせようと腕を取った。
しかしすぐさま、男は顔を歪めてアンの腕を振り払うように手を離した。
 
 
「っつ…!」
「おいおいおい、なんだよお前」
 
 
周りの男たちが半ば引き攣った顔でからかうような声を上げる。
男に腕を振り払われたことで、アンの意識もハッと覚醒して今自分が何をしでかしたのかに気付いた。
 
 
「あ…ごめん…」
「…いや、急に悪かった…」
 
 
アンの腕から手のひらに伝わった熱は、触った本人にしかわからない。
男は赤くなった手のひらを隠すようにもう片方の手で包み込んだ。
妙な沈黙が落ちて、アンはごめんともう一度呟き立ち上がった。
 
 
「やっぱ眠い、もう寝るな」
「ああ、そうしろそうしろ」
 
 
男たちは思い出したように笑みを見せ、一様にアンに手を振った。
誘ってくれてあんがと、と去り際に言うと男たちは一層笑みを深くした。
 
 
 

 
 
やっちゃったなー、と口の中で呟きながら薄明りのついた廊下を歩いた。
こればっかりは、特に眠りなどで意識が飛んで行ってるときなどはアン自身にもどうしようもないのだ。
悪魔の実を食べて、この能力を手に入れて、自然とできるようになった自己防衛。
初めは単純に、無駄に手を下す必要がなくなったと喜んでいたけれど。
この力で何人ものスペードクルーを灼いた。
アンに触れられると触れられないの境はアン自身にもわからない。
相手がその境界線を越えてくれるのを待つしかほかはないのだ。
いつかそのときはやってくるのだろうが、そのときはまだだったらしい。
男くさくて酒くさい、物の散乱した大部屋のにぎやかさを思い出して胸の奥でどこかがツンとひっかかった。
たしかに楽しかったのに──
 
 
アンは大部屋から自分の部屋には直帰せず、一つ階段を上った。
外の空気に当たりたかったのだ。
甲板へつながる扉を開けると、外は少し冷えていた。
ここは──春島海域と言っていたっけ。
比較的暖かな海域でも、夜はやはり冷えるのかもしれない。
今日の空は曇っていた。
紺色の空は分厚い雲に覆われていて霞んでいる。
かすかに月明かりが一部からにじみ出ていた。
眠気はいつの間にかどこかへ行ってしまった。
冷たい空気を目いっぱい鼻から吸い込んだそのとき、背後の扉が開いた。
 
 
「あれ」
 
 
アンが驚いて飛び退いたのに反して、扉を開けた相手はまるでアンがそこにいるのを知っていたからドアを開けたかのように平然としている。
気配がなかった。驚いて当然だ。
 
 
「まだ起きてたのアンちゃん」
「…えーっと、」
 
 
誰だコイツ。
明るい茶色の長髪が夜目でもよくわかる。
長い前髪は生え際からピンでとめてあった。
黒いTシャツと七分丈のボトムスといったラフな格好の男は、人当たりの良い笑顔でニッと笑った。
その笑顔で、ああなんだか見覚えがあると思ったがどこで見たのかも名前も何も思い出せない。
 
 
「風邪ひいちまうぜー」
「ええ、と、2番隊…?だっけ」
 
 
アンが顔を覚えている人物と言えば2番隊か1番隊の隊長くらいしかいない、そう思って口に出してみたが、男が心外そうに眉をひそめたのを見てしまったと思った。
 
 
「ええーっ!オレのこと忘れちまったの!?」
 
 
ショック!超ショック!泣く!と夜中とは思えないテンションで男が叫んだので、アンは思わず辺りを見渡した。
メインマストから見張り当番の男が一人、驚いた顔をして見下ろしてきたが誰かが起きて出てきた気配はない。
男はハアアアと予想以上の落胆を示して膝に手までついた。
 
 
「ごっ、ごめんっ…誰?」
「サッチってんだよおお、4番隊の隊長ですよおお」
「うそ」
 
 
アンが即答すると、男はますます肩を落とした。というよりガクッと前につんのめった。
だって、とアンは言い訳をするように言葉を重ねる。
アンの知っているサッチという男は、たしかコックで、いつも白い服を着ていて、日によって違うスカーフを巻いていて、何より目立つのはそのリーゼントだ。
確かにそのサッチが4番隊隊長であるという情報はあとから聞いた。
だが今目の前にいる男は、アンが知っているサッチたるべき情報を何も持ち合わせていないように見える。
まるで別人だ。
 
 
「まあね、オレのかっちょいいリーゼントが今はないからね…」
 
 
男はやっと顔を上げ、そう言ってひとり納得したらしい。
アンは何となくもう一度ごめんと謝った。
 
 
「で、なにやってたの」
「…別に…ちょっと外出てみただけで」
 
 
そっちはと聞こうとしたら、サッチが急に腰をかがめてアンに近づいたのでアンはつい言葉を飲み込んだ。
代わりに「なに」と怪訝さを含んだ言葉がこぼれる。
 
 
「いや、お前風呂入った?」
「…やっぱクサイ?」
「いやいやそうじゃねぇけどさ。髪が潮っぽいからさ」
 
 
なんとなく。違った?と間近で首を傾げられる。
小首をかしげるおっさんなんて初めてだ。
 
 
「今日は…ちょっと気付いたら風呂の時間過ぎてて…入りそびれた」
「あらら」
 
 
そうなの、と苦笑いを返した男の左のこめかみに、大きく走る傷が見えた。
この傷は確かにあのサッチという男にもあった。
ジジイの傷と同じ場所だと思ったからなんとなく印象に残っている。
 
 
「風呂場は一応空いてっけどー…この時間じゃ水しか出ねぇしな…」
 
 
アンはすでに風呂に入ることなどすっかり諦めていたのに、サッチが真面目に思案し始めたのでアンは慌てて首を振った。
 
 
「風呂は別にもう」
「ああ!そうだ、2番隊の隊長室の使えよ」
「隊長室?」
「おー、隊長の部屋にゃぁ個人用のバスタブとシャワーがついてんだな」
 
 
特権ってやつだ、と悪戯っぽく笑う。
つまり誰も使っていない2番隊の隊長室のシャワーを使えと。
 
 
「隊長室のシャワーにだけはいつでも湯が出るんだよ。使ってないっつっても2番隊んとこのも出ると思うぜー。見に行くか」
 
 
えっと声を上げたアンに背を向けて、サッチは今自分が出てきた扉から船室へと戻っていく。
条件反射か、アンはつい遠ざかる背中を追いかけた。
 
 
「別にいいってば」
「まーまー見てみるくらいいいじゃん。それに潮ついたまま寝ると次の日の方がくっせぇぞ」
 
 
カラカラと笑う男は足を止めない。
結局数分もしないうちに2番隊の隊長室まで来てしまった。
鍵は閉まっていなかった。
初めて見た隊長室は、アンの個室の2倍以上は大きく、大部屋よりは一回り小さい。
しかし部屋に向かって左奥に一つ扉がついていた。あれが隊長専用の風呂場へ続くのかもしれない。
 
 
「うわっ、きたねぇなぁ」
 
 
とサッチがこぼした通り、たしかに部屋の中は空き箱やごみが適度に散らかり、埃を薄くかぶっていていかにも使われていない部屋だ。
サッチは迷わずアンが風呂場と検討をつけたドアに向かって歩いていく。
アンもおずおずとそのあとに続いた。
 
 
「ああー、こりゃ」
 
 
無理だな、とサッチが肩をすくめた。
その肩口から風呂の中を覗き込むと、風呂の中は部屋以上に衛生的に問題がある気がした。
水回りというのは汚れやすい。
きっと排水溝には埃がつまっているだろうし、床のタイルは水垢が目立つ。
さすがのアンでも少し腰が引けた。
せっかく連れてきてもらったけど、という言葉はでも頼んでないしという気持ちが先走って口にしなかったが、
 
 
「やっぱりいいよ」
 
 
そう言っても、サッチはアンに背を向けたまま何やら思案するよう腕を組み立ち尽くしている。
アンの言葉が聞こえなかったはずはない、聞こえているならどうして返事をしないの、どうしてあたしのことをそんなに真剣に考えるの。
 
急にサッチが振り向いた。
 
 
「これ使え」
 
 
ぱっと手を突き出されて、反射で手をだし何かを受け取った。
 
 
「鍵…?」
「オレの部屋のシャワー使え」
「はっ」
「だいじょぶだいじょぶ!アンが使ってるときはオレ部屋出てるから」
「えっ」
 
 
鍵預けときゃあ安心だろ?とサッチはぽふぽふアンの頭を軽く叩く。
 
 
「でもっ、それじゃあたしが使ってる間アンタどこにいるの」
「さあー、まあ場所なんていっくらでもあるし。隊員の部屋にでもいるからよ」
 
 
ニッと笑いながらも、サッチはまだアンの頭から手を離さない。
 
 
「…いやー…いいよ」
「えっ、なんで!オレッチの風呂そんな汚くないぜ?」
「や、そうじゃないけど…悪いし」
 
 
そういうや否や、突然アンの額にピシッと小さな衝撃が走った。
サッチの指がアンの額をはじいたらしい。
アンが虚を突かれた顔で見上げると、サッチは憤懣やるかたなしとでも言いたげな顔で「おバカちゃん」と呟いた。
 
 
「な…なんだよ」
「下手くそな気ぃ使ってる暇あったらさっさと行ってその潮くせぇ頭洗ってこい!ほら行った行った!オレの部屋はこの部屋のちょうど真下!」
 
 
サッチはアンの腕を掴み2番隊の隊長室から追い出すと、ゴー!と叫んで廊下の先を指さした。
行けと言っているらしい。
サッチの声の大きさに、ポーカーをしていた部屋の中から2番隊隊員が一人顔を出して怪訝な顔で覗いている。
なんだよやっぱり潮くさいんじゃないか、とアンはすんすん自分の肩口の匂いをかきながら、仕方なく歩き出した。

変なオッサン!



拍手[14回]

湯気が充満し視界を曇らせる脱衣所の中は、筋骨隆々の男たちでひしめいている。
浴場は海賊船とは思えないほどの広さを誇るが、その分脱衣時はとても狭く、服を脱ごうと腕を動かせば必ず横の誰かにぶつかる。
ついでに言えば、船での雑務に加え戦闘訓練などで一日を過ごした男たちから発せられる熱気は同じ男同士でも避けたいほどすさまじく、よって狭い脱衣所の空気は熱気とにおいでむわんと淀んでいた。
しかし何年もの月日をここで過ごしてきた彼らはそんなことを気にする繊細な感性を持ち合わせていないし、何よりそんな理由で風呂に入らない方がよほど汚い。
 
大浴場は週に数回決まった曜日にお湯が張られて、基本はシャワーで済ます。
今日は数少ない方の、湯が張られた日だった。
原則風呂の時間は隊別に割り振られており、深夜に近い今の時間帯は2番隊が自由に使える時間である。
一日の疲れた体を持て余した男たちがどんどんと風呂場へ吸い込まれていく。
50人近くが一斉に入ったので、一瞬で脱衣所は蒸されて熱気がたちこめた。
 
 
「おい、お前服からメシのかけら落ちたぞ。ガキかてめぇは」
「お前オレの服の上にパンツ乗せんな汚ぇな」
「…オレ今日はあの日だからシャワー」
「男のお前に何の日があるっつーんだよ風呂ギライめ。ほらいくぞ」
「ねぇこの籠使っていいの?」
「ああ、そこに服入れんだ。間違われねェようにな」
 
 
ばさりとシャツを脱ぎながら答えた2番隊員は、襟元から頭を抜く一歩手前の状態で動きを止めた。
聞き違いでなければ、今発せられたのは男にしては随分高い、聞きなれない声だった気がする。
ああ、聞きなれないのはそれもそのはず、最近一気に仲間が増えたのだ。
この騒がしさの中だ、声の高さは聞き間違いかもしれないし、風邪ひいてるやつがいるのかもしれない。
でも…見るのが怖い。
男は半脱ぎのシャツの中で数秒逡巡し、それからそっとシャツから頭を抜いて隣を確認した。
 
 
「シャワールームだけ使うときもここで脱ぐんだよね?」
 
 
ヒッと情けない声が出た。
 
 
「おまっ!…え!?なんっ……!?」
 
 
シャツから頭を抜いて開けた視界の中いの一番に見えたのは、むき出しの細い肩だった。
アンは脱いだシャツを無造作に籐の籠の中に放り込むと、次は大ぶりの珠のネックレスを外しだした。
隣の男の慌てっぷりはまったく視界に入っていないようである。
 
 
「なんでここにいるんだよ!」
 
 
悲鳴に近い男の声によって、脱衣所中の男の視線が一斉にアンに集まった。
 
 
「なんでって…シャワー浴びるんだけど」
「!?」
 
 
湯気で曇る視界のなか、がたいの良い野郎共の間でひと際小さなアンを認識した瞬間、一斉に男たちはタオルを自身の下半身の前に広げた。
タオルを持たずに悠々と歩いていた男などは、ただ右往左往して誰かの陰に隠れるしかない。
かぽーんと高らかな音が遠くで響いた。
 
 
「ずっと思ってたけどさ、この風呂場のかぽーんって、なんの音なんだろう…」
 
 
硬直した男たちの中で、アンは真面目くさった顔でそう言った。
 
 
 
 
 

 
 
「私たちのお風呂場?」
 
 
アンの言葉をそのまま返したナースは、気まずそうに切り出したアンを見てからぽんと手を打った。
 
 
「そう言えばあなたとお風呂で会ったことないわね。時間が合わないだけかと思ってたけど。今までどうしてたの?」
 
 
そう聞かれても、アンはうんまあ、と口ごもるしかない。
しかしナースは特に気に留めたふうもなく、場所は知ってるかしらとアンに使い方の説明を施してくれた。
 
あの日、アンが初めての大風呂へと赴いた日は、週に数回の大浴場が解放される日だと聞いていた。
しかしまだ慣れない場所で丸腰になって、しかも水につかるなんて能力者にとっては致命的だ。
あくまで丸腰であることがではなく、浴場で水につかってしまうことが問題なのだ。
だから仕方ない、風呂は諦めてシャワーだけの日々になるのだろうと半ば覚悟していた。
風呂場と脱衣所の使用時間は隊によって割り振られているとマルコに聞いていたので、アンは大部屋の前に貼ってあった表を確認してきちんとその時間帯に部屋を出た。
タオルと、着替えと、石鹸とかはあるのかな。
わからなかったので隣の部屋の隊員に聞くと、大浴場にもシャワー室にもあるとのこと。
衛生用品に関しては何の手持ちもなかったアンは、それはよかったと勇んで部屋を出た。
風呂場が近づくにつれて、中から喧騒が漏れ出して廊下にまで響いている。
扉を開けると、中からいろんなにおいの混じった熱気がアンの顔にぶち当たってきた。
 
うっわ、と思ったものの、ここは男所帯なのだから当然だと思えばなんてことはない。そのあたりの順応性はあるほうだ。
正面のくもりガラスの向こう側が大浴場らしい。
脱衣所の床には薄いカーペットが引いてあったが、既に濡れそぼっていてブーツでふむとぐちゃりとなって少し不快だ。
脱衣所の中はいくつかの本棚のようなものが立っていて、その棚は四角く区切られている。
中には籠が収まっていた。
着替えをしている男たちはその壁のほうを向いてごそごそと脱ぎ着していた。
アンは裸、もしくは半裸の男たちの中をてくてく歩いて行って、まずはシャワールームを確認する。
こっちが大浴場、ここがシャワールーム。
あ、着替えを入れるものがない、ってことはあの脱衣所で脱いでここまでこなきゃなんないのか、めんどうだな。
随分混んでたけど着替える場所はあるのかな、そんなことを思いながらまた脱衣所へと戻ると、壁際の棚に人ひとり分入ることのできる隙間を見つけたのでアンはすかさずそこに滑り込んだ。
隣の男に聞くによると、この籠は脱いだ服や着替えを入れて置くものらしい。
それなら、この籠ごと持ってシャワールームに入ってしまえばいいじゃないか。
そうすればその中で全て済ますことができる。
そう思い立ったアンは、先にシャツだけ脱いでおこうとボタンに手をかけた。
そして事は起こった。
 
アンを見て硬直した裸の男たちは、はっと我に帰るや否や蜂の子を散らすように慌てふためき押し合いへし合いの末大浴場へ引き返してしまった。
入浴前か入浴後で服を着ている男たちは、生唾を飲み込んだ自分を叱咤してそそくさと出ていく。
あっというまに脱衣所は閑散としてしまった。
 
 
「…なんだよ…」
 
 
まるでアンを避けるように目を逸らして出ていった男たちの態度に、アンは鼻白んだ顔でつぶやいた。
実際、男たちが突然の「女」の登場に驚き逃げたのは事実である。
これがもしアンではなくただの女であれば、あれよあれよというまにハエのようによってたかっていたかもしれないが、白ひげとアンの戦いをその目で見たクルーたちには生唾を飲み込むのが精いっぱいだ。
おかしな目で見て燃やされたらたまったもんじゃない。
その場に残っていたのは、アンと数人のそれなりに歳を取った古株だけだった。
古株の男の一人が、アンに向かって苦笑する。
 
 
「お前、いきなり入ってきたらいくらなんでも驚くだろうが」
「だって今2番隊の時間だろ?」
 
 
どこに驚くところがある、とアンは半ば憤慨して言い返したが男の苦笑はますます深くなるばかりだ。
 
 
「船乗りには目の毒だっつってんだよ」
「着替えはシャワールームでするつもりだし」
「そうだとしても、まぁ野郎どもの恥じらいをわかってやってくれよ」
 
 
苦笑いで目元に浅く皺を刻んだ男は、脇の間に服の塊を持ってそのまま脱衣所を後にしてしまった。
恥じらいをと言われても、スペード海賊団の時にそんなもの男たちが感じている気配はなかった。
少なくともアンは感じなかった。
こんなに大きな大浴場などもちろんなかったので誰かと一緒に入るということはなかったが、クルーが脱衣中のところにアンが『忘れ物!』と言って突然入り込んでも誰も動じはしなかった、はずだ。
そのクルーたちと白ひげの彼らの違いがわからない。
結局アンはその日、納得のいかない気持ちを抱えたまま手早くシャワーを済ました。
 
次の日は浴槽に湯は張られないので全員シャワーを使わねばならないが、脱衣所は変わらず大盛況となる。
しかしアン乱入という当然だが未だかつてない事態を経験した彼らは、おちおちパンツを脱いではいられない。
結果、アンの動向をうかがうことになった。
浴場が2番隊の時間になって、アンがまだ部屋にいると確認した瞬間一斉に2番隊員は風呂場へ押しかける。
見張り役の隊員が残って、アンが風呂に入る準備をして部屋を出たらすぐさま報告し一斉に風呂を出る。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、それなりに中年に近づいた者が多い彼らは、うら若き娘に裸体を見せるのは非常に苦痛で、かつ申し訳ないようなやりきれない気分になるのだから仕方ない。
 
そんなふうにして3日はやり過ごした。
だがこれから毎日風呂の時間になればアンを避けているのでは非常に面倒だし、なによりアンとの距離がいつまでたっても埋まらなかった。
事実アンは自分が風呂に入る時間になると誰もいなくなることに気付いていたし、それに対して納得がいっていないことにも気付いていた。
もうこれはアンに、ナースの風呂を使ってくれと頼むべきではないかという案が立ち上がり始めていた4日目の夜、アンの隣の大部屋のドアがコツコツと誰かの来訪を知らせた。
扉の外側に立っていたのはきまり悪そうな顔をするアンで、肩をすぼめているので小さく見える。
アンは「あたしはナースの風呂を借りるからもうあたしに気ぃ使ったりとかそういうのはいい」と俯きながらはっきりと言った。
 
 
「…そ、うか?」
 
 
アンに対面した古株のクルーは安堵を隠しきれず問い返した。
アンはこくりと頷く。
その場にいた数人のクルーたちも、なんとなくアンに申し訳ないような気まずい気持ちを抱えながらそれでもやはり安心して、思わず頬を緩める。
 
 
「いや、オレたちも悪かったな。いやな気分にさせて」
「…あたしが、マルコの言うこと聞かなかったから…」
 
 
少し尖らせた唇でそう言った意味はよくわからなかったが、とにかくこっちこそごめん、と殊勝に謝ったアンの頭にクルーは思わず手を伸ばした。
 
 
「ありがとな」
 
 
ぽんぽん、とアンの頭の上で二回手を跳ねさせてから、しまったと思った。
気が強くついこの間までぐるると警戒心むき出しだった者に、まるで子供にするように頭を撫でてしまった。これは気を悪くされても仕方ない。
手を微妙な位置で宙に浮かせたまま、クルーは反応のないアンの顔を覗き込むように窺った。
きょと、と大きな瞳が男を見つめ返していた。
予想外の表情に男が驚いて思わず顔を引くと、アンはついさっき男に軽く叩かれた部分にぽんと自分の手を置いた。
 
 
「今のなに?」
 
 
なにって、とたじろいだ男もアンに倣って目を丸くする。
 
 
「…こう…頭を…ぽんぽんって…撫で…」
 
 
って何の説明をしてるんだオレは、とセルフ突込みを入れかけたところで、背後のクルーが息を呑んだ音が聞こえた。
 
目の前の娘が、はにかんだ。
笑っているとは随分遠い気がするが、それでも頭に手を置いたまま、ほんの少し頬を緩めた。
ぽかんとアンを見つめ返した男に、アンは自身がはにかんだことにも気付いてないそぶりで「じゃあそういうことで」と勝手に話を切り上げ立ち去ってしまった。
残された男はアンがいなくなってもしばらくその場に立ち尽くしたままである。
後ろのクルーの呟き声で、やっと我に返った。
 
 
「…超かわいい…」
 
 
 
 
 

 
 
かくして風呂騒動は決着がつき、アンはだいたい決まった時刻にナースの風呂場を借りることとなったらしいとマルコはその翌朝食堂にて2番隊隊員に聞いた。
 
 
「まじでー、オレ2番隊ならよかったのに」
 
 
テーブル挟んで向かいのサッチが本気とも冗談ともつかない戯言を呟いたが聞き流して、マルコはあのとき「好きにしろ」と言った自分が正しかったのか間違っていたのか判断しかねる、と隠れて渋い顔をした。
まあ今更悩んでも詮無いことではあるし、結局ナースの風呂を使うことに落ち着いたのなら文句はない。
 
 
「ナースの風呂場か…桃源郷だな」
「お前その顔絶対外でさらすんじゃねぇぞい。オヤジに悪い」
 
 
サッチが朝からだらしない顔をさらにだらしなく緩めたことを諌めてコーヒーをすすったとき、視界の端で食堂の扉が開いたのが見えた。
渦中の人物、アンである。
マルコの言葉に口を尖らせていたサッチは、アンの登場にお、と心なしかテーブルに身を乗り出した。
 
 
「そろそろ馴染んでくれましたかねぇ」
「さぁな」
「なに、冷たいじゃん。隊長様自ら世話焼き係申し出たんじゃなかったっけ」
「誰が」
 
 
フンとマルコが鼻を鳴らし、サッチが肩をすくめた少し遠くで、一人の2番隊員がアンに声をかけた。
ざわめいた食堂の中声までは聞こえないが、動作でわかる。
おそらく朝の挨拶だろう。
愛想よく声をかけたその男に、アンは相変わらずの仏頂面で言葉を返した。
男の陽気そうな顔は変わらない。
そして彼はアンとすれ違う瞬間、アンの頭をぽんぽんと二回ほど撫でた。
 
 
サッチもマルコも、思わず自身の動作を止めて見入ってしまった。
愛想がいいというより、あれは馴れ馴れしすぎやしないかと思わせるそぶりだったからだ。
あんなことをすれば、牙むき出しでフーフー言われるのは目に見えている。
しかしアンは、少し眉間に皺を寄せてその手を受け止めただけで、何を言うでもなく普通にその男とすれ違った。
眉間に寄ったその皺も、いやがっているというより困っているように見える。
マルコとサッチが呆気にとられているうちに、アンとすれ違う2番隊の男たちは次々にそろいもそろってアンの頭を撫でていく。
その顔は気味が悪いほどの笑顔、笑顔、笑顔だ。
その男たちに比べて、当のアンは何となくげんなりしているように見えないでもない。
気付けば呆気にとられているのは二人だけではなく、その場にいた2番隊以外のほとんどがその光景に目を奪われていた。
 
 
「…どゆこと?」
「…オレが知るかよい」
 
 
他の隊が知らぬ間に、どうやら随分と馴染んでしまったみたいだ。
 
 
「なんなのあいつら全員、孫にほだされたジジイみたいな顔しやがって」
 
 
たしかに、と頷きはしなかったがマルコは否定もしなかった。
 
 
「なんにしたって羨ましいじゃないの」
 
 
たしかに、と頷きはしなかった。


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小さな水面に数滴水を垂らすと波紋は広がり水は波立つ。
しかし海に数滴の雨が落ちたところで海面に何ら大した変化はない。
スペード海賊団が白ひげ海賊団に吸収され従うべき船長を変えたのは、そういうことだった。
しかし数滴の雨は雨なりに、小さな波紋をいくつか作るわけで──
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンを含むスペード海賊団のクルーたちが『白ひげ』に加わってまず行われたのは、16ある隊への振り分けだった。
これは15人の隊長が会議により話し合い、最終判断を白ひげに仰ぐことで決定する。
しかしアンが2番隊であることは、白ひげが会議の前から決めていた。
隊長席が空席のその隊は、これというまとめ役がおらずともひとりひとりの芯が太いので特に揺らぐこともなく保っている唯一の隊だ。
 
 
『アンは2番隊だ』
 
 
マルコが相談を持ちかけると、白ひげは一も二もなくそう言った。
随分と上方にある金色の瞳は淀みなくマルコを見下ろし、そしてどこか楽しそうで、マルコはただ黙って頷いた。
そして決めなければいけないアン以外の元スペード船員たちだが、彼らの中には専門職のものもいる。
手に職を持つ彼らは、同じく手に職を持つ白ひげ海賊団の職人たちによってサクサクと拾われていった。
コックはサッチの4番隊へ、航海士は航海士長のもとへ、といった具合である。
アンが白ひげに降伏を示した翌日、全員の振り分けが終わった。
アンを含む全員が静かに受けいれ、各隊長たちが彼らにあらゆる指示を与える。
そうして彼らが各隊長に従い去っていくと、中央甲板には自然と一人ぽつんとアンだけが残った。
アンを迎えに来る二番隊隊長は存在しないのだから当然だ。
アンは去って行った元スペードのクルーたちの背中を見て、少し首をひねり、そしてまた小さくなっていく彼らを見る。
どこか心許なさそうな顔つきは年相応だ。
アンが佇むのは甲板のメインフロア。そこは大きな円形にくぼんでいて、正面には白ひげの椅子。周りは3段ばかりの階段が囲んでいる。
白ひげの椅子の横でその陰に半ば隠れながらマルコはそんなことを思い、手元の書類に視線を落としたまま口を開いた。
 
 
「アン」
 
 
アンがぴっと顔を上げ、その視線がマルコを見つけた。
すぐさまとたとたと駆け寄ってくると、マルコの目の前でぴたりと止まった。
書類から顔を上げると、所在なげな表情でうつむきがちに立つアンの後頭部が見えた。
どこか釈然としない表情なのは、まあ昨日の今日だからということで黙認する。
アンはちらりと視線だけ上げてマルコを見上げた。
 
 
「…あんたが2番隊?」
「マルコ」
「え?」
「アンタじゃねぇ、マルコだ。最初に言ったろい」
 
 
きょと、と黒い瞳が丸くなった。かと思えば見る見るうちにむっと眉間に皺が寄り、アンは見上げていた視線をすぐさま外し「隊長」と呟いた。
まったく可愛げのない。
 
マルコは書類を筒状に丸め、ペンを尻のポケットに突っ込むとアンに背を向けて歩き出した。
「付いて来い」と後から言葉だけ投げられる。
アンは明らかにいやいやという様子でその言葉を受け取り、マルコの数歩後ろを歩きだした。
むすっとした顔つきが背を向けていてもわかるようだ。
 
 
マルコの長い足は船上を行き来し、一つずつ船の中を案内していく。
細かい生活のルールなど、覚える事はアンの頭の中に山となって積み重なる。
初めはマルコの説明に無言で頷きを返すか、あるいはわかったと不愛想に呟くだけだったが、そうして幾つもの説明を施して歩いていくうちに、ふとマルコが気付いた時にはアンはマルコのぴったり横へ、そしてマルコの声を一つも聞き漏らすまいとするかのように真摯な様子で頷きを繰り返している。
あいかわらず言葉少なだったが、それだけアンの必死さがうかがえる。
この船での生活に慣れようと、もしくは腹をくくったのかもしれない。
結構なことだとマルコはこっそり笑った。
 
 
「ここが大浴場とシャワールーム。野郎はここを使うがお前は違う」
「なんで?」
 
 
タンとシャワールームへと続く扉の背を手の甲でたたいたマルコは、ぽっかりと開かれたアンの口をしばらく見つめた。
なんで?ともう一度言葉が出てくる。
マルコは扉に手の甲を預けたまま、先の言葉を繰り返した。
 
 
「ここは、野郎共が使う」
「うん、じゃああたしも」
「お前は違う」
 
 
すると今度は、なんでだよと険を含む声が返ってきた。
アンの言わんとすることが何となくわかってきたマルコは、ああーと不明瞭な声を天に向かって発してからアンを見下ろした。
 
 
「お前はナース達の風呂場を使え」
「あたしはナースじゃないっ」
「んなこたわかってるよい、そうじゃなくてお前は」
「あたしは戦闘員だっ!」
 
 
マルコの言葉を遮り、アンは息まいてそう言った。
風呂場を誰が使うかのくくりは戦闘員かそうじゃないかは関係ないだろうと、この娘に言ったところで聞き入れられる気がしない。
マルコは半ば投げやりな気分になって、放り投げるように言った。
 
 
「じゃあ好きにしろい」
 
 
途端にアンは満足げに顔を緩めて、「次!」と案内を迫った。
もう知るもんか。
 
 
 
 
 
「食堂の場所はわかるだろい。飯は三食時間になれば鐘が鳴る。敵襲の鐘と間違えんなよい。席はまあ好きなところに座れ」
「わかった」
 
 
長い廊下を歩きながら、マルコは思いつくまま船の中での生活のルールを説明していく。
マルコがこぼすように話していくそれを、アンは丁寧に一つずつ拾いながら飲み込んでいるようだった。
 
 
「大所帯だからねい、気ぃ抜いてると食いっぱぐれるよい」
 
 
まんざら嘘でもないそれをついでのように言ってみると、隣を歩くアンからふっと息の音が聞こえた。
気のせいかと思ってちらりと横目で見てみると、気のせいじゃない、笑っている。
 
 
「そこんとこは心配いらない」
 
 
初めて見た、自身に溢れた顔。
きっとこれが何も着ていない、コイツの素顔。
そりゃあ結構と頷いた。
 
 
 
 
「雑多だがこれが船ん中の地図だ。今いるこの階の階下が1,2番隊の部屋群。その下が3,4番隊。一番下がナースたちの部屋と倉庫だ」
 
 
アンの手の中で広げさせた地図を指さしながら淡々と説明を加えていくと、アンは地図の視線を落としたままこてっと首をかしげた。
 
 
「なにかあるかい」
「…隊って…確か16こじゃ」
「そうだよい」
「なんで1から4番隊までの部屋しかないの?」
 
 
当然と言えば当然の疑問だが、マルコにとって当たり前すぎて考えたことがなかった。
 
 
「いくらこの船がでかくても、さすがに1600人全員の寝床はねぇよい。見たことねえかい、モビーのほかに白ひげの船はあと3つある」
「…まじか」
「その3つに5~8番隊、9~12番隊、13~16番隊の部屋があるんだよい」
 
 
そんじょそこらの海賊とは規模が違うのだ。
改めてそれを思わぬ形で知らしめられたアンは目を丸めたままぽかんと口を開いた。
 
 
「各隊の隊長どもはだいたいモビーに…この船にいるがな」
 
 
さあ次だ、とマルコがさっさと歩を進めると、後ろから慌てた足音がついてきた。
 
 
 
 
 

 
 
淡々と船内の説明をしていく男の声を一つも取りこぼすまいと思うと、自然と肩は横に並んだ。
ここで新しい生活を始めなければならないと腹をくくったのだから、覚えるべきことは全部頭に叩き込んで人の手を焼かせることはしたくない。
持ち前の意地が幸いして、マルコの説明はするすると頭に入ってきた。
それにしてもこの男の喋り方は、淡泊だが簡潔で要点をついていて、いかにも人の上に立ち説明を施すことに慣れているというタイプ。
 
 
「洗濯は当番制。大部屋の前に表が貼ってある。洗濯室はここ。やり方は適宜聞け。以上、次」
 
 
といった具合だ。
 
アンはちらりと横の男の顔を盗み見た。
変な髪型。揺れてる。
眠そうな目。ずっと不機嫌そうな顔ばかりしている。
分厚い唇はたくさん話していてもあまり動かない。それでも声はよく通るバリトン。
目のふちに刻まれた小皺が少し年齢を感じさせた。
 
マルコと言った。
この男が、これからあたしの上に立つ。
 
 
「照れるだろい」
 
 
マルコはアンの方を見ることもなく、事務的な説明の間に挟むようにそう言った。
ぎょっとして、思いっきりマルコの顔を見上げても当人の顔は至極平静としている。
 
見てるのばれてた。
 
不意を突かれたことに驚いて、ついでになぜか悔しくて、アンは思いっきりフンと鼻息付きで顔を背けた。
何が照れるだ、顔色一つ変えないくせにつまんねぇ顔しやがって!
 
 
 
 
 

 
 
そうして一通り船の中を巡り廻った頃には、廊下の丸窓から差し込む日の光がだいぶと赤くなっていた。
アンがその光にふと目をやっていると、マルコもそれに気付いたのか「ああ随分かかっちまったねい」と言った。
 
 
「まあ概略はこんなもんだろい」
 
 
概略にしては随分多い。
 
 
「そのうち晩飯だが、その前にお前さんの寝床だけ言っとかなきゃなんねぇな」
「寝床?ここの大部屋だろ?」
 
 
今二人が歩く廊下には、突き当りの隊長室からずらりと20ほどの部屋のドアが向かい合いながら林立している。
そこが数人ずつの隊員に割り当てられているのだと、アンは教わったばかりだ。
しかしマルコはアンの問いは無視して、並び立つ部屋の一番端、階段の隣にあたる部屋の扉を開けた。
 
 
「ここがお前さんの部屋だよい」
 
 
促された気がして、アンはひょいと首を伸ばして部屋の中を覗いた。
先程覗いた大部屋よりも随分と小さい。
大部屋が5,6人用だとすればここは明らかに一人用、頑張っても二人というところか。
 
 
「もともと空き部屋で倉庫代わりだったから空樽やら空き箱やらとっちらかってるが、その辺は自分で好きに捨てるなりしろい。片づけは飯の後だな、同じ隊の奴に手伝ってもらえよい」
「えっ、ちょっと」
 
 
待って、とアンはマルコを見上げた。
 
 
「あたし、ここで寝るの」
「不満かい」
「そうじゃねぇよ!」
 
 
どこか揶揄するようにひょいと片眉を上げながら言われたことにカッとして、声を荒げてしまった。
おっとっと、と慌てて俯きながら言葉を足した。
 
 
「その、別にもう今更寝首かいたりするつもりないんだけど」
 
 
ぼそぼそ言った言葉に返事が返ってこなかった。
怪訝な顔を上げると、目の前の男は、顔の下半分を大きな手で覆ってアンから顔を背けている。
アンが眉をひそめたままマルコの顔を覗き込むと、細長い指の隙間から見えた口元が笑っていた。
 
 
「おいっ!」
 
 
抗議の声を上げると、悪いと簡単に謝られた。それも悔しい。
 
 
「誰もお前が夜襲しかけてくるから部屋分けるなんて言ってねぇだろい」
「じゃあなんで」
「社会的配慮だ」
「しゃかいてきはいりょ?」
 
 
なんだそれはと問うと、マルコはあっさり
 
 
「船の上で男数人の中に女一人放り込むほど、うちは人道外れちゃいねェよい」
 
 
いくら海賊といえどな、と答える。
その返答にすかさず反駁の声を上げようとしたアンの眼前に、マルコはまるで『ストップ』というように手のひらをかざした。
 
 
「『女だから』は聞き飽きたかい」
 
 
今まさにアンが口にしようとしていたことを先に掬われて投げられた。
アンが言葉に詰まると、マルコは軽く口元を緩めた。
 
 
「別にお前さんの性別上、保身が必要だからっていうわけだけじゃねぇ。だが確かにお前は女で、それ以外は男で、飢えた男は据え膳の女をほっとかねぇ。いくら同じ船の仲間だとしても、だ。お前さんが自分の手で自分の身くれぇ守れるっつっても、いらねぇいざこざは起こさないに越したことはない。違うかい」
 
 
返す言葉はなかった。
アンが投げつけるはずだった文句も責め苦も全て綺麗に包装されてリボンまでついて帰って来たみたいな感じだ。
 
 
「お前の部屋はここ」
 
 
いいな、と無言で問われてアンは黙って頷いた。
 
 
「じゃあそのうち晩飯だ、食堂行くかい」
「あっ、ちょっと待って」
 
 
マルコが立ち止まり振り向くと、アンはずっと遠くに小さく見える突き当りの部屋を指さした。
 
 
「じゃあアンタ…マルコの部屋はあそこ?」
 
 
一応の確認に、と思って聞いたつもりで、すぐに肯定が帰ってくるとばかり思っていたアンは、マルコの「いや」という返答に目を丸くした。
 
 
「だ、だってアンタ2番隊の隊長だろ?」
「いや、オレァ1番隊だよい」
 
 
さらりと帰ってきた予想外の返答にアンがますます目を丸めると、マルコは「言ってなかったかよい」としれっとした顔で答えた。
 
 
「スペードの奴はたまたまオレの隊にこなかったし、2番隊には隊長がいねェ。そういうわけでオレがお前さんの面倒を見たってわけだ」
「そ…なの」
 
 
なんだ、同じ隊じゃないのか。
そんな声が頭の中をよぎって、慌てて振り払った。
だからなんだというのだ。
 
他に質問は、と問われて首を横に振ると、じゃあ食堂だとマルコは先に立って歩き出した。
アンは背中側に落としていたテンガロンハットを、ギュッと頭の上に押し付けて目深にかぶった。
 
 
 
 
 
マルコはアンを食堂まで連れて行くと、「野郎どもの中に交じってりゃあメシの仕組みは教えてもらえるよい」と言って目線でアンに進むよう促した。
 
 
「…マルコは行かないの」
「オレァちょっとやることがある」
「…くいっぱぐれるよ」
 
 
そう言うと、マルコは初めて声を上げて笑った。
 
 
「その分お前が食え」
 
 
そのまま踵を返したマルコは、食堂に背を向けて来た道を戻りだした。
もしかしてあたしを食堂まで連れてきただけだったのか、とアンが思い当った矢先、アンの視線の先でマルコに一人のクルーが歩み寄り何か言葉の応酬をしながら数枚の紙を手渡した。
そこでようやく、そうだあの男にはあたしを船中見て回らせる以外に、毎日の仕事があったはずだと気付いた。
書類を受け取ったマルコは、朝から変わらない気だるげな足取りでアンから遠ざかっていく。
 
いやだな、と思わず口の中だけで呟いた。
感謝してしかるべきかもしれないのに、それより早く悔しいと思ってしまう。
あの男はいつもアンの言おうとする言葉を先回りして解釈し、かみ砕いて返してきた。
ことあるごとにカッとしてしまうアンに反して、マルコはそのアンの熱を静かに冷ますようなことばかり言う。
まるでお前は子供だと言外に言われているような気がした。
けしてバカにしているような目はしていなかったのに。
 
 
アンは角を曲がっていったマルコの残像を振るい落とすと、いいかげん減って仕方のなかった腹を満たすべくいい匂いのする方へと歩き出した。
 

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さらにはエース女体化でポートガス・D・アンとマルコの攻防物語。



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