OP二次創作マルコ×アン(エース女体化)とサンジ×ナミ(いまはもっぱらこっち)を中心に、その他NLやオールキャラのお話置き場です
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子供の頃、家族で海に行ったことがあった。
父さんと母さんがいて、サボとルフィもその頃には既にいたから、アンとサボが学校に行き始めて少しした頃だったかもしれない。
母さんはきっとそのときも赤い髪飾りを左の耳の少し上につけていて、事故で二人と共にひしゃげた車の一代前のものを父さんが運転して、家から1時間と少し走ったところにある静かな海岸へ行ったのだ。
夏が始まる少し前の、ちょうどいまくらいの季節だった。
時刻はなぜか日暮れ時で、中途半端な季節と時間帯のせいで人は少なく、砂浜でランニングをする若い男や犬の散歩をする近所のおばさんくらいしかいなかった。
きっとその日の昼下がりになって、急に父さんが『海に行こう』と言いだしたに違いない。
アンにその覚えはなかったが、そう言って呆気にとられる家族の意見に耳を貸さずにいそいそと準備を始める父の背中は簡単に思い浮かべることができた。
ぺたっと頬にくっついてから過ぎ去っていくような独特の潮風と、思わず口を開けて吸い込みたくなる磯の匂いをアンは気に入った。
風が強く、べたつくそれが髪にまとわりついてこんがらがっていたがそんなことは気にも留めず、アンはサボとルフィと三人で一気に駐車場から砂浜へと坂を駆け下りた。
はじめての、海。
ざああっと迫りくる波は気迫がありまるでアンたちを脅かそうとしているように大きな音を出す。
アンはその音にひるむことなく両脇の二人と手をつないで、スニーカーの底で滑る砂を踏みしめ波間へ近づいた。
「おおい」と後ろで父さんが呼ぶ。
振り返ると、母さんが手招いていた。
せっかくここまで近づいたのに、と名残惜しく思いながら3人はまだ海水に濡れたことのないサラサラの砂の上にいる両親の下へ駆け戻った。
父さんがサボとルフィの、そして母さんがアンの靴を脱がせてサンダルをはかせてくれた。
明るい黄色と赤のストライプのゴムがアンの小さな足を包む。
母さんはマジックテープをしっかり止めてから、アンを見て笑った。
アンも笑い返して、既にサンダルに履き替えたサボとルフィの駆けだした背中を慌てて追った。
寄せる波に足を浸すと、ひんやりとした刺激が足の甲から膝のあたりまで駆け上る。
高い声でうひゃあと叫ぶ。
波の動きに合わせて、砂がさらさらと足の甲の上を転がっていく感覚が気持ち良くて笑った。
ルフィが高く足を蹴り上げて、水を蹴散らす。
赤さを増してきた夕日の光が透き通ってきらきら光る水滴に目を奪われ、しかし次の瞬間頬に冷たい飛沫がかかった。
Tシャツにも点々と飛沫が斜めに道を作った。
アンは口だけ怒りながら同じように足を蹴り上げる。
サボも同じことをした。
笑い声が途切れない。
アンは、細かい砂が巻き上がって茶色くなった波打ち際の水が小さな粒になるとこんなにもきれいだということに驚いていた。
そのことを口にすると、サボは「アンは変なことを考える」と言ってルフィは「本当だ」と素直に感心した。
笑い疲れて、はぁはぁ息を継ぎながら何気なく砂浜のほうに目をやった。
サボとルフィもアンの目の動きにつられて同じ方を見た。
父さんと母さんが並んでにこにこと3人の遊ぶ姿を眺めているはずだった。
ふたりは確かに並んで、テトラポットの手前の乾いた砂浜の上にシートを広げて腰を下ろしていた。
アンははしゃいでいた動きをぴたりと止めて、思わずじっと両親を見た。
サボとルフィも同じように二人を見ていたが、どちらかというとアンが動きを止めたのを不思議そうにしていた。
両親はアンたちの目の前でハグもするしキスもする。
そのハグとキスは、彼らがアンたちに行うハグとキスと同じだ。
いってきますのとき、おやすみなさいのとき、なんとなく母さんにくっついていたいとき、父さんが気まぐれに抱き寄せたとき、しあわせなとき。
サボの両親もルフィのじーちゃんもそんなことはなかったと言っていたので、アンは母さんに聞いたことがある。
『母さんと父さんはなんでそんなにぎゅってしたりすんの?』
母さんはきょとんとした顔をアンに向け、すぐにはにかむような笑顔を見せてアンを抱き寄せた。
『知りたいからよ』
アンはソファに腰かける母さんの膝に乗るような形で向かい合い、すべすべする鎖骨の下あたりに頬をくっつけたまま尋ねた。
『? なにを?』
『お母さんはアンが大好きだけど、アンが今何を考えてどう思ってるのか全部はわからないの。でもこうやってしてると、少しはわかる気がするの』
『いまも?』
母さんがくすくす笑って、甘い香りが広がる。
『そうね、アンは今眠くなってきた』
『! すごい…!』
母さんの穏やかな体温に包まれて、とろとろと緩んできた瞼。
アンはぼんやりし始めた頭で、ふと続けて疑問を口にした。
『母さんは…父さんのこともこうやってしてわかってんの…?』
アンから見ると、母さんは父さんのしたいこと考えていることなんでもわかっているように見えた。
父さんが欲しいと思ったものをすぐに差し出す。
父さんが捜しているものをなにも言わずに見つけ出す。
父さん自身分からない父さんのことを、母さんはすぐに答えてしまう。
そのたびにハグやキスをしているわけではなかった。
母さんは、少し考えるような間を開けてからふふっと笑いをこぼした。
今ならそれが、まるで少女のようなあどけなく若い笑い声だと分かる。
『そうね、全部はわからないから』
『…でも』
『お父さんはね、ずっとお母さんや、アンたちのこと抱きしめてるのよ。今もね。だからお母さんは、いつでもお父さんのことがわかるのよ』
母さんのその言葉には不思議なことが多かったが、アンはもう眠気にあらがうことができなくて、続く疑問を口にすることなく眠りに落ちた。
だから、父さんがずっとアンたちを抱きしめているとはどういうことなのか、それに言葉はいらないのか、わからないことはわからないままアンの心の奥の方に沈んでいって、静かに疑問の形で残り続けた。
砂浜の上で寄り添う二人は、何を分かり合っているんだろう。
アンは水打ち際で足を濡らしながら、そのことを思い出していた。
ふと思い立って、サボとルフィを手招く。
ふたりは大した疑問も持たずにすぐアンに近寄った。
荒いルフィの歩き方がアンの太腿を濡らす。
アンは近寄ってきた二人を、正面からがばっとぶつかるように抱きしめようとした。
ふたりの顔の間に顔を入れて、両手をそれぞれの脇の下に回す。
腕の長さが足らずに到底抱きしめているとは程遠い形だった。
『アン?』
ふたりが不思議そうに耳元で尋ねる。
アンは黙って吟味した。
あたしはわかるだろうか。
抱きしめたら、ふたりの考えていることが、言葉もなしに、わかるだろうか。
濡れたシャツ同士がくっついて、心地がいいとは言えない感触が腹のあたりに伝わったがアンは腕を離さなかった。
『あ、ひこうきぐも』
サボがアンに抱きしめられたまま空を仰いだ。
ルフィとアンも顔を上げた。
橙色と水色の狭間を突き抜けるようにまっすぐの白が伸びている。
アンはその直線のほど遠さにクラクラしながら考えた。
きっと抱きしめてわかることができるのは、父さんと母さんだけだ。
あたしはわからないから、「いま何考えてるの?」と言葉で聞いてしまうだろう。
わかるのは、触れた場所から伝わる体温。
どちらが始まりでどちらが終わりなのかわからないひこうきぐもは、広がりのあるはずの空をまるで水色の画用紙のように見せていた。
*
パチン、と金属音が静かな朝の空気を震わせた。
ビジネスケースの金具を留めたアンは、やっぱりそろそろ現金を家に保管するのは難しいかもしれないと考えた。
3人の衣服や季節外れの家具などが収納されている小さな小部屋。
そこにあるタンスの空いているスペースに、黒ひげから手渡された現金を詰め終わったところだった。
すっかり軽くなったビジネスケースは今度黒ひげに返さなければならない。
特にそうと要求されたわけではないが、別にアンの方もいらないのでそうしているだけだ。
空っぽのケースを手に立ち上がると、足に脱ぎ捨てられたルフィのパーカーが絡まった。
つまずいて、まったくとため息をつきながら足でそのままパーカーを隅に寄せる。
かなり雑な扱いをしたが、タンスの足元にうずくまったパーカーを見下ろし、思い直して拾い上げた。
一度ケースを下に置き片手で軽くパーカーをはたいて皺を伸ばし、目についた場所にかかっていたハンガーに手を伸ばす。
ルフィのパーカーをきちんとハンガーにかけて、観音開きのクローゼットのノブの部分にかけておいた。
散らかった部屋。
畳みかけの洗濯物。
埃の匂い。
3人がここで生活しているしるし。
ありふれたそれらのものを見て、近頃何かこみ上げるものが多くなった。
とんとんとん、と靴下をはいた足が床の上を歩いてくる音がして、サボがひょこりと顔を覗かせた。
「アン、めーしー」
「ん、ありがと。サンドイッチ?」
サボはアンの紺色のエプロンをつけたまま、木べらを片手に下がり眉で笑った。
「今日は違うって。オムライス。作りすぎてもない」
以前のように大量生産されたサンドイッチではないと思った通りの返事を聞いて、アンも笑いながら部屋を出た。
食卓はケチャップの酸味ある香りと卵の焼けた香ばしいにおいで満ちていた。
アンはその空気を吸い込んで、同時にぐうと鳴いたお腹がきちんと減っていることを確認する。
既に日は空の一番高いところまで昇りきり、むしろ下降線をたどっているが、サボのオムライスがアンにとって昨日の夜から数えて初めての食事だ。
なにしろ起きたのがほんの30分ほど前なのだから。
起きてすぐ胃袋に物を入れることになんのためらいのないアンは、すぐさま自分の席についてスプーンを取った。
「暑いから、ソーメンとかのがよかった?」
「んん、ソーメンだと食っても食ってもお腹膨らんだ気がしないから、こっちのがいい。おいしい」
サボはアンの向かいに腰をおろして、同じようにオムライスに手を付け始めた。
サボの作るオムライスは、冷蔵庫にある野菜をとにかく細かく刻んで、ベーコンをちぎるように小さくして、ひたすら炒め、ごはんを混ぜ、また炒め、そしてケチャップを混ぜて、皿に盛る。
それから薄焼き卵を作って、さっきのライスの上に被せて完成。
ケチャップは自分でかける。
一方アンが作れば、材料が一緒でも効率をよくするため野菜は同じ大きさに小さく刻み、できれば鶏肉を使いたいし、いろどりも考える。
そして卵は薄焼き卵ではなくて、牛乳や少しチーズを混ぜてとろけた風にしてみたり、上にかけるのはケチャップではなくてハヤシライスの残りで作ったデミグラスソースだったりする。
ルフィは「サボのオムライスの卵はパサパサしてる」とバッサリ切り捨てで、サボのほうも当然アンのオムライスのほうが美味しくて好きだという。
それでもアンは、サボのオムライスが好きだった。
たまに作るそれはアンのものより貴重に思えた。
ケチャップが多くて少しべたつくライスも、ところどころ焦げてカリカリになった卵もおいしい。
2人のためにご飯を作ることはアンにとって「すき」と種類分けする以上のもので、もはや生き甲斐に近かったが、サボに作ってもらい据え膳で食べるしあわせも知っていた。
ライスのオレンジと卵の黄色とケチャップの赤は穏やかにアンに活力を与える色だった。
「ルフィ普通に学校行った?」
「うん、今日は早く帰ってくるって」
「部活は?」
「今日金曜」
ああ、と頷きで納得して大きな一口分を口に含んだ。
ルフィが所属するバスケ部は、バレー部や卓球部やその他室内スポーツの部活と交代制で体育館のスペースが割り当てられるので、金曜日はその「ハズレ」の日らしい。
だから校内で軽くトレーニングだけして帰ってくるか、友達と遊びに行くのが常道の金曜日だが、今日はその後者を切り上げて帰ってきてくれるのだろう。おそらくアンが心配で。
金曜日か、とアンは心の中で呟いた。
毎週金曜にやってくるお客さんの顔を思い浮かべて、ああもうあたしも立派な商売人だとこっそり苦笑いを漏らす。
そして2日続いた不定休に不平不満を漏らすお客さんの姿を思って、ふとよぎった二人のスーツ姿にどきりとした。
そう、今日は金曜日。
マルコはきっと来なかっただろう。サッチは…わからないけど。
マルコの暗い灰色の背広の背中に、アンに向けてためらいなく引き金を引いた長身が重なった。
アンはゾッとする数日前の光景をかき消すようにギュッと強く目を瞑り、それからは一気にバクバクとサボのオムライスを平らげた。
サボはそんなアンの様子に何を言うこともなく、もくもくと食事を続けていた。
*
暗闇の中でマルコの深い蒼の目だけが妙に光ったように見えた。
思わずカーテンを握りしめる手が緩む。
しかしそのマルコから発される殺気に似た空気を感じ、アンはすぐさま正気を取り戻しカーテンでマルコの視界から自分を消した。
アンが感じた殺気に間違いはなく、カーテンに隠れるその一瞬で見えたマルコの指先には間違いなく引き金への力が加わっていた。
そしてアンがベランダの床を蹴ったその次の瞬間には、アンが今しがた立っていたその場所を銃弾が削っていた。
ひとつ上の階のベランダに鉤爪がしっかりと引っかかり、アンはシュンと耳元を風が切る音を聞いた。
辿りついたベランダの手すりに手を掛けると、そのまま前転する要領で中に転がり込み、腹筋を使い勢いよく立ちあがったアンは次にその上、屋根に向かってロープの先を投げた。
黒ひげがアンに示した邸宅の製図の通り、屋根のふちにある排水路に鉤爪が引っ掛かる。
そしてまた同じ要領でロープがアンを屋根へと運ぶ。
パンと乾いた音が響いてアンが屋根に両足をかけた矢先、そのすぐ左側の屋根のふちがぽろっと崩れ落ちた。
続いてパン、パンと2回銃声が鳴ったがアンは振り向かずに屋根の中央へと走りっていく。
まったくノーマークの屋根の上ではアンは身を隠す必要もなく、猫のような俊敏さで広く平らな屋根の上を横切った。
走りながら、正面少し下に3本の煙突の先端が見えてきた。
隣家のものだ。
黒ひげの言葉が正しいことを確信したアンは迷わず足を動かした。
下方には喧騒が増してくる。
アンはその煙突のある隣家に一番近い屋根の端まで来ると立ち止まり、下を確認した。
屋根から3メートルほど下に薄暗い中でぼんやりと、白濁色のプラスチック素材のような屋根が浮かんで見えた。
温室の屋根だ。
そしてその向こうにはこの邸宅を囲う塀があり、2メートルほどの幅の狭い道路を挟んですぐ向こうにはこの邸宅より背の低い隣家の屋根がある。
アンはすでに使い慣れたロープをぎゅっと握りこんでからその先端を隣家の煙突に向かって無造作に放った。
適度な質量をもった鉤爪はちょうど良い速さで隣家の煙突の吹き出し口に引っ掛かる。
アンはその強度を確かめてから、薄暗さでおぼつかない落下先に怯える余裕もなく屋根のふちを蹴っていた。
温室の屋根は格子のように鉄の骨組みが組まれており、その表面を透明の天板が覆っているだけの脆いものだと聞いていたので、アンは淀みなく骨組みの部分に足をつけ、その骨組みの上を器用に走り出した。
ミシミシっとしなる音がやけに大きく響いて心臓が跳ねたがだからといって止まることはない。
ふと昔、自宅を囲む2メートルの高さの塀の上を平均台のようにしてサボとルフィと追いかけっこをした、何とも平和な記憶を思い起こす。
「危ないからやめなさい!」と血相変えて叫んだのは母さんだったろうか、もしかすると父さんだったかもしれない。
しかしそれでもアンたちはやめず、奇妙なスリルと足元から駆け上る少しの恐怖に突き動かされて遊び続けた結果、驚異のバランス力が養われ、今こうして役立っているというわけだ。
思わぬ感傷に浸りながら、アンは温室のふちまで辿りつき、4メートル強の幅があいたその向こうにある目的の屋根に視線を移した。
背後で生ぬるい空気をかき混ぜるようなごちゃごちゃした喧騒が聞こえるが、温室とそこを囲むように屹立する樹木がアンをそれらの視界から隠してくれる。
アンは温室の屋根のギリギリふちに立っていたが4,5歩下がり、手に握るロープを引いてもう一度鉤爪がしっかり煙突を捉えていることを確かめる。
そして走り幅跳びの要領で、上体を低くし数歩の助走をつけて温室のふちを蹴りつけて跳んだ。
ふわっと内臓が浮かぶ、吐き気を催すような感覚が一瞬したと思った矢先にはもうアンのつま先は隣家の屋根を捉えていた。
しかし4メートル強の幅をしなやかに飛び越えたものの、そのかかとは宙に浮いていた。
「っ!」
体重が後方に移動し、アンの身体は後ろに倒れていく。
しかし右手に握りこんだロープがすぐさまぴんと張って、アンの身体が背中から落下するのを防いでくれた。
右腕の筋肉がきつく緊張する。
背中に流れかけた冷たいものがすっと引いていき、アンは思わずふうと息をつく。
アンは力を込めてロープを手繰り寄せて身を立て直すと、足音立てずに屋根の上を移動した。
煙突から鉤爪を外し、指示された通りその家の南西の角まで走ると一気に下へ飛び降りた。
2階程度の高さから降りることは、すでにアンにとって自分の足で支えられる衝撃だった。
「こっちよ」
背後から夜の闇に似つかわしい低い女の声がかかった。
アンはその声の主を確かめることなく振り向いてすぐその声の主が開いた裏口と思わしき扉の中へ身を滑り込ませる。
アンが中へ入ると、すぐさま何者かの腕がぬっと伸びて静かに扉を閉めるのが暗闇の中でかろうじて見えた。
外は弱弱しい月明かりと非常灯の灯りでぼんやりとした明度のある視界だったが、一方アンが踏み入った家の中は真の闇だった。
これも黒ひげの指示した通りだとはいえ、何も見えない視界の中で得体の知れない人の気配だけ感じるというのは心地いいものではない。
アンは警戒を張り巡らせた身体を固くして、じっとその『誰か』が声を出すのを待った。
『誰か』の気配はアンのすぐそばにあり、身動き一つしない。
アンのこめかみをべたついた汗が一筋トロリと伝った。
「…時間帯が時間帯だから、灯りは付けられないんだよ」
やっと声を発した女は歩き出したのか、すっと遠ざかる気配がした。
暗闇の中で目が慣れているのか、その人物は何かにぶつかったり物音ひとつさせることなく遠ざかっていく。
アンはその背に続こうか迷って、しばらく壁に背をつけて浅い呼吸を繰り返していた。
やっと今回の任務が『成功』したのだという実感が鼓動の音ともに蘇ってきてアンの胸を打つ。
アンはふっと頬を緩めた。
今更過ぎる、膝が笑っている。
アンはずるりとその場にしゃがみ込んだ。
膝がしらに額をつけて、まさぐるように右手を動かして腰のポーチを確認する。
つむじのあたりにそんなアンの姿をじっと見つめる視線を感じた。
「中に入ったらどうだい。歩いても大丈夫さ、物はあんまり置いてないからね」
アンはその声に顔を上げることなく、暗闇の中で固く目を瞑った。
視線はしばらくの間アンに留まっていたが、長くは続かず女がアンの傍から離れていく気配がした。
ひとりにしてくれるらしい。
黒ひげの中の一人だと分かっていながら、女のそれが心遣いだろうが単にアンに付き合ってられないと判断しただけだろうが、ただ今はその行動に感謝するしかなかった。
カタカタと痙攣するように震える脚はなかなか収まらず、それを留めようと膝を抱える腕にさえ力が入らなかった。
逃げ切った安心感と、のしかかる罪の重さがまたもやないまぜになってアンを襲う。
どこまでも煮え切らない自分に嫌気がさした。
綺麗ごとだ、と口だけ動かす。
この罪悪感は綺麗ごとだ。
罪悪感を感じるなら初めから犯さなければいい。
後悔するなら初めからしなければいい。
そう思いながらもアンの心にずんと残るしこりは紛れもなく罪悪感と後悔そのものだった。
初めてのときよりもそれは深い。
きっと慣れることはない。
暗闇の中アンを見つけ出そうと光るライト。
やたらに危険心を煽る赤いパトカーの光。
警官の怒声。
銃口の黒さと「敵」とみなされたときに向けられる目。
そのすべてを思い起こして、ああこれは罪悪感じゃないと気付いた。
怖い。
警察が、捕まることが怖いのだ。
完全に犯罪者の心理に染まっているということに愕然とした。
罪悪感だと認識していた心のしこりが一瞬で霧散し、すぐさま恐怖という感情が胸をいっぱいにした。
もう戻れない。
何度も何度も繰り返し脳裏をよぎる言葉が、このときもまたアンの鼓膜を内側から打った。
そうだ、もう戻れない。
母さんの髪飾りを取り戻したいという強い思いと使命感は今も変わらない。
それでも温かく光の差す家の匂いと兄弟の笑顔を思うと、もうそこには戻れないという実感が液体となって目元にじわっと滲んだ。
黒ひげとの関係をすべてゼロにして平凡な3人の暮らしを取り戻したいという思い。
取り返した髪飾りを両親の墓前にかざして見せたいという思い。
黒ひげの言葉を黙って受け入れたときの決意。
マルコとサッチからあわよくば情報を聞き出そうとした自分の卑小な考え。
マルコが見せた笑い方に物珍しさを感じてもっと見たいと思ったこと、そのマルコの目がアンを打ち抜くように見つめ銃口を向けた際紛れもなく哀しいと思ったこと。
そのすべてが本当で、だからこそ何を信じていいのかわからない。
泣くな、泣くな、泣いたら全部流れてしまう。
崩壊しかけた涙の蛇口を必死で固く締めようとするとその方法はもう思考を止める以外になく、こんな右も左もわからない場所でという警戒心に包まれながらも、アンはうずくまったまま意識が抜かれるように眠りに落ちた。
*
ハッと目を起こして目に入る天井の色を確認する暇もなく、アンはすぐさま上体を起こした。
すると突如ぐにゃりと視界の景色が歪み、顔をしかめて俯いた。
思わずうめく。
外からは平和にさえずる鳥の声が聞こえていた。
眩しさといまだ平衡感覚の定まらない頭に目を細めた。
肌に触れた布の柔らかさとその色に見覚えがあり、アンはゆっくりと辺りに視線を走らせた。
「…いえ…」
自宅の寝室だった。
3つのベッドの一番窓側、間違いなくアンのベッドの上だ。
アンはしばらくの間、何から考えればいいのかわからなくてぼんやり目の前のクローゼットを見つめた。
いつ帰って来たのか、どうやってここまで来たのか、今が何日の何時なのか。
とりとめない疑問が一気に押し寄せるがそれにひとつずつ回答を考える余裕はまだない。
とりあえず外は明るく、今は日中だ。
その平凡さに安心して、アンはサボとルフィはどこだろうとベッドから足を下ろした。
そしてそこにすぐ、自分のスリッパがきちんと揃えて置いてあることに気付く。
サボの気遣いの痕跡にアンは思わず頬を緩めた。
それに足を突っ込んで立ち上がってから、自分がちゃんとパジャマのTシャツを着ていると知った。
これまた記憶にないことだ、と思いながらアンはペタペタと平たい足音をさせながら寝室を出た。
リビングに入ると、ソファに腰かけるサボの後頭部が見えた。
何か読み物をしているらしく、俯いている。
サボ、と声をかけるとサボはアンが驚くほどのスピードで振り向いた。
まるで隠れていたのに思わぬところで見つかった泥棒のような顔をしている。
アンの方こそそれに驚いて少し目を丸くした。
しかしアンの顔を見て、少し強張っていたサボの表情がゆっくりと溶けていく。
「…ああ、アン、おはよ」
「おはよ…今何時?」
「13時」
「あたし…いつ帰ってきたっけ?」
サボは苦笑を隠さず「昨日の明け方くらい」と答えながら立ち上がった。
ローテーブルに置いてあった自分のグラスを手に取り台所へ向かう。
アンはサボの背中をぼんやり見つめながら、「昨日…?」とこぼした。
そしてすぐ、「えっ、あっ!」と声を上げてソファに放られていた新聞を慌てて手に取った。
新聞の上端に記してある小さな文字に目を凝らす。
虫のような文字の小ささにいらいらしながら今日の日付を読み取ると、アンはあんぐりと口を開けてサボの背中に呟いた。
「…あたし丸一日寝てた…?」
サボは笑いながら頷いた。
コップを濯ぐ音がさわやかに部屋の中で跳ねる。
きゅっ、と蛇口をひねる音までよく聞こえた。
「飯作っとくからさ、顔洗ってくれば?」
アンは素直にうなずいた。
ああ、また母さんのと違ったのかもしれないと理由もないのに確かに思った。
寝室に戻ると、2つのベッドの間にある小さなテーブルの下に隠すように置いてある黒いビジネスケースを見つけて、少し気分が沈んだ。
*
サボの計らいで店は2日間休業していた。
事件が起こるたびに休業になる怪しい店になってしまったが、まさか誰も宝石盗難事件と街の端にある小さなデリの開店状況を結び付けて考えたりはしないだろう。
少し心配なのは、あの刑事の二人の男だけだ。
マルコはアンの事件のせいでのんきに遅い昼食を取りに来る余裕もないはずだからいいとして、もしかしたら事件とは無関係のサッチはひとりでやってきたかもしれない。
そして店が休業であることをマルコに与太話のついでに伝えて、前回の事件のときも休業のことを万一覚えていて、少しでも怪しまれたら…とそこまで考えてアンはぎゅっと目を閉じて考えを追い払った。
考えすぎだ、明らかに。
アンは二日間の売り上げを取り返さなければと意気込みを込めて、午後はひたすら惣菜を作った。
野菜炒め、かぼちゃのサラダ、鶏肉とナッツのソテー、つみれ団子とほうれん草のスープ。
ルフィが帰ってくると作るそばからひょいひょい食べられて何のために作っているのかわからなくなる。
だからアイツが帰ってくる前にできるだけ作り貯めて置こうとアンはせっせと手を動かした。
サボはバイクに乗って、お得意の八百屋や魚屋に明日の注文を直接取り付けに行っている。
ビジネスケースのことを尋ねると、眠るアンと一緒にラフィットと、もう一人背の高い女が届けに来たらしかった。
『髪飾りは…』
『まだわかんねぇけど、留め具が外れかけててどう見ても紛いモンっぽいから違うだろうって』
そう、とアンは静かに頷いた。
驚きはそれこそ驚くほど少なくて、悔しがり残念だと涙をこぼしてもおかしくないサボの言葉はアンの中でしゅわっと炭酸の泡のように小さな粒となって広がり、溶けて染み込んでいった。
サボはアンの代わりに悔しがるようなそぶりを見せることもなく、アンが頷いたのを確認して発注に出かけてくる旨を伝えた。
フライパンの中で彩り鮮やかな野菜たちが油をまとってつやつや光っている。
ざっざっと機械的に動く手は慣れたもので、次々に惣菜を量産していってくれる。
静かで、落ち着いた気持ちがアンを満たしていた。
数か月前、銀行を破り手に入れた髪飾りがハズレだったときに流した涙と同じ種類のそれはもう出ない。
なんでだろうと自問するも、明確な答えは内側から帰ってこなかった。
ブゥンと大きな蜂が耳元を飛んだような低いバイクの音が店の前を横切った。
「ん、あぁー…」
ふと、驚きとため息が混じったような男の声が店の外から扉越しに聞こえてきた。
そしてすぐ、カシャンとシャッターに何かがぶつかったような音もする。
アンはフライパンの中身を皿に移し替えながら、思わず見えもしない外側に目を向けた。
通行人だろうか、もしかするとお客さんだろうかと思って壁の時計を見上げた。
15時を少し過ぎたところ、うちの店に来るには遅すぎる。
残念、ゴメンナサイと心の中で謝って聞き流すことはできた。
そうするべきだったのに、どうしてか、たった一言言葉でもない声がどこかにひっかかり、気付いたらシャッター横のドアに手をかけていた。
ドアを開けると、シャッターに背中を預けて携帯を覗き込む男の横顔が思いのほかすぐそこにあった。
男は開いたドアに気付いて振り向き、すぐさま顔を綻ばせた。
「…サッチ?」
「おお!アンちゃんだ!やりっ」
サッチは嬉しげな顔を隠そうともせずにかにかと笑いながら携帯を無造作にパンツのポケットに突っ込むと、「いやぁやっぱり今日は遅すぎたよなぁ」と眉を下げた。
なにが「やりっ」なのか理解できず、アンは微妙な顔のままサッチを見上げる。
「ちょっと仕事のほうでメンドーがあって遅くなって…あ、今日はマルコの奴はいねぇんだけどさ。ほら、もうテレビとかでやんややんや言ってる事件あるだろ?アレでさ」
アンは曖昧に頷いた。
サッチはつとアンを見下ろして、口元だけ笑ったまま考えるように動きを止めた。
サッチの笑顔から「ニコニコニコ」と効果音が出ているとするなら、ぷつ、と途中で途切れた感じに。
「アンちゃん疲れてんね。今日忙しかったんか?」
「え、や…」
そうか、サッチは今日店が休業だったことを知らない。
否定しかけたアンは、ええいいいかと「うん、まぁ」とぼかした返事をした。
するとサッチは、「んー」と考えるそぶりを続けて空を仰いだ。
アンはドアノブに手をかけて体は店の中に入ったままという中途半端な体勢で、サッチとの会話をどう切り上げていいのか、そもそも切り上げたいのかもわからない。
「よしアンちゃん、オレのメシ付き合ってくんない?」
「えっ」
「アンちゃんの店の片づけが終わってからでいいよ、待つから。夜は家のことしなきゃなんねーんだろ?なら夜までに帰ってくるからさ」
男の一人飯ってほんとつまんねーのよ、ほんと、とサッチはまるで拝むようにアンの前で手を合わせた。
「飯でもデザートでも奢るし!」となんとも魅力的なセリフを言われたが、アンが一も二もなく頷けるはずもない。
だって、サボやルフィはいかなくてあたしだけっていうのもなんかちょっとアレだし、そもそも今サボがいないから書き置きしていくしかないし…それってどうなの?
それにアンは目覚めてからまだ一度もルフィに会っていない。
店は実際今日はやってないから片付けもないし、作り置きの惣菜はさっきのを冷蔵庫に仕舞ったらおしまい。
今から夕飯の準備までは、自由の時間だ。
それでも、「えーっとぉ…」と間延びした返事をしながら、アンは自然とどう断ろうかという言葉を探していた。
アンの前で拝むように姿勢を低くしていたサッチが、ふと視線をアンからその背後へスライドさせた。
「あ」の形で口が開く。
ぶぶぶ、と低く空気を震わすような振動音が二人の真横で止まった。
サボはジェットヘルをかぶったまま、片足を地につけた。
「お客さん」
「にーちゃん、アンちゃんのにーちゃんだ」
サッチはわざわざサボを指さし確認する。
アンは二人の間で視線を行き来させ、どんな顔を作ればいいのかわからなくて、結果困ったような表情をサボに向けた。
サボはそんなアンの顔を見て、「ごめん、今日は店早く閉めたんだ」と気の利いたことを言った。
「おうおう、そりゃいいからよ、今お宅のお嬢さんをオレの遅いメシにつき合わそうって魂胆だったんだけど、こりゃまた優秀なボディガードがいるもんだ」
サッチはもともと下がり気味の眉を寄せて苦笑した。
サボとアンはまるで写し絵のように揃った表情できょとんとする。
しかしすぐ、「あぁ」とサボが呑気な声を上げた。
「メシ行くの?いいよ、行ってきなよ」
げっ、とまでは言わなかったものの、言ってもおかしくない形相でアンはサボに視線を走らせた。
ぎょっとするとはまさにこのことだ。
今度はサッチの方がきょとんとして、ぱちぱちと瞬いた。
そしてぱぁっと笑みが広がる。
目元の笑い皺が濃くなったのがアンには見えた。
「マジ?いいの?」
「晩飯オレやっとくし、ルフィにも言っとくから」
「やっ、それまでにはかえ…」
ハッと口をつぐんだアンの向かいで、サッチがヨッシャ―と高らかに叫ぶ。
サボは「出かける準備してこれば?」と何でもないように笑って、隣の空き地までまたバイクを走らせていった。
アンは続きの言葉も口をつぐんだ言い訳も言うことができず、ただただサボの言う通り出かける準備に中へ引っ込むしかなかった。
*
サッチがアンを連れて行ったのは、小奇麗なスタジオの上階にある小さなバーのような店だった。
バーのようというのは外見だけで、酒は置いてありそうだがまだ日も落ちてない時間帯のこと、怪しい雰囲気はないこじゃれた店だ。
アンの店からふたりでてくてく歩いて15分ほどというとんでもない近所だというのに、少し大通りを反れてしまえばそこはアンの知らない場所だった。
ふたりで道を歩いている間、サッチの口は壊れた電化玩具のようにぺらぺら動き続けたが、会話にそつがないのでアンからも自然と返事がこぼれ出る。
サッチが「ここよここ」と足を止めるまでの間に、サボとルフィのことや3人での生活などをうわべだけではあるが洗いざらい話させられていた。
サッチの声や目まぐるしい表情は、オッサンのくせになんとなくアンにとって眩しく思えた。
木の扉を引きあけて、サッチはそつなくアンを先に店へ入れる。
アンがおずおず足を踏み入れると、薄暗い店内の奥のカウンターの向こうですらりと綺麗な男が立っていた。
ぼんやりと白い灯りが店内を照らしているが、床に敷かれた絨毯が濃い青色なので店中が薄く青に染まっている。
まるで幽霊のように、その男は立っていた。
グラスを拭いている手がびっくりするほど白い。
男はアンが入って来たのにまったく気付いていない様子で顔も上げない。
それをいいことに、アンは思わずしばしの間男に見入った。
しかしすぐ、後ろから陽気な声が飛ぶ。
「よーう!オヒサシブリ」
さっ、立ってないで入った入った、とサッチに軽く肩を押されて、アンはおずおず中へと歩き出した。
サッチの声に反応してすいと顔を上げた長身の男は、まるで絵のように左右対称に目鼻がついていて、通った鼻筋はぴんとまっすぐ顔の真ん中にあり、切れ長の目が真っ黒で印象的だった。
こんなにきれいな人間は見たことがない。
背中に一本線を引くように垂れている髪束は女性のようだが、高い身長と何よりその見目の麗しさに目を奪われて立ち止まる女は多いだろうと思われた。
アンが男を凝視しているのに対抗するように、男もアンを捉えてじっと黙ったままだったが、それも納得できた。
美しいものはたいてい静かである。
男は手にしていたグラスを、カウンターの上のホルダーにぶら下げた。
「最近見ねぇと思ったら、今度は犯罪か」
凛とした見た目に反して低い声。
サッチは「バッカ、犯罪じゃねぇよ、立派なデートだ。しかも今度はってオレが前になにしたってんだ」
「羅列してほしいか?」
「…いいです」
しょぼんとしたサッチの声に思わずアンが噴き出すと、男は意外にも愛想のよい笑みを見せて、カウンター前の席を顎でしゃくった。
「立ちんぼしてねぇで座んな、そんなオッサンよりオレの方が数倍楽しい」
アンが曖昧にうなずいてサッチを振り向くと、若干しおれたように見えないでもないリーゼントを撫でつけながら、サッチは「座ろうぜ」とアンを促した。
*
「オレ腹減ってんだけど、お前んとこのコックは?」
「まだ来てねぇよ、こんな微妙な時間に客なんてこねぇからな」
「んだよ、店開けてんのはソッチだろ…アンちゃんなに飲む?」
「あ、えっと」
慌てて目線を彷徨わせてメニューを探したが見当たらない。
「オレは酒しか作れねぇぜ」
無駄の一切ない顔が、それに似合った淡泊な告白をした。
サッチが「飲みモンくらいできるだろー」と顔をしかめても、意に介した風もない。
「冷蔵庫の中いじるとあのガキに怒られんだよ」
「お前ほんとにオーナーかよ…」
「アン、お前さん甘いもんは食えるか」
ためらいを微塵も見せずアンの名を口にした男は、尋ねたにもかかわらず返事を待たずに背を向けて、長い足を二三歩動かして冷蔵庫の戸を開けた。
「た、食べられる、すき」
その背中に向かって返事をすると、冷蔵庫の中から目いっぱい白い何かが詰まったガラスケースを取り出して男は満足げにうなずいた。
白い冷気がその容器からすうっと煙草の煙のように立ち上る。
「うちのコックが昨日作っておいてったチーズケーキがある。売りもんじゃねぇけど、食うか?」
「ケーキ!?食べる!」
思わず子供のように勢いよく答えてしまい、ハッと気づけばサッチの物珍しげな視線を感じた。
少し気まずさをにじませて乗り出した身体を椅子に戻す。
「アンちゃん、チーズケーキ好きなんか?」
「や…うん、すき、だけど」
サッチが追求してくるのでますます萎縮する。
アンの向かいで白い手が同じくらい白いレアチーズケーキにスプーンを突き刺し、ぽこっと四角く取り出している。
ハハハ、と明るい笑い声がアンの隣で広がった。
なんで笑う、と少しむっとした顔をサッチに向けてみると、サッチは「いや、ごめん、いいじゃんと思って」と何が嬉しいのか目じりの皺を最大限に増やして言った。
「あんまり笑わねぇ娘だと思ってたからさ、なんだちゃんと元気じゃんって」
アンは目玉がぽろっと落っこちてしまいそうなほど目を見開いてサッチを見つめた。
笑わないって、笑わないって、
うそ、と言葉がこぼれかけたとき、カウンターの向こう側、デシャップと裏を繋ぐ扉が開いてちわーっすと気だるげな声が空気に溶け込むように入って来た。
アンとサッチは自然とそちらに目をやる。
長身の男が「おう」と応えた。
黒いエプロンの腰ひもを結びながら入って来た男は、つと視線を上げてまず客がいたことに驚いたように少し足を止めた。
そしてすぐ、アンとぱちっと視線を合わしてカクッと顎を外した。
「レ、レディがいる!!」
うるっせぇ、と長身が鬱陶しげに眉を眇めた。
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車が吐き出す排気ガスがどんどん空に溶けていくのを眺めていると、ドアが開く音ともに「アン!」とまるで叱るような声に呼ばれた。
「サボ」
振り向くと、サボはすぐさまつかつかとアンに歩み寄った。
その目があまりに必死の形相であることに気付いて、ぎょっとして思わず少し身を引く。
サボは遠慮なく勢いをそのままにアンの肩を強く掴んだ。
「どこ行ってたんだよ!」
「あ、え、買い物…」
サボは蒼白と言っていい顔で、珍しく大きな声を出した。
アンたちの横を通り過ぎる人たちは、若い男女が近距離でもめる様子に興味深そうにちらちら視線を投げかけてくる。
しかしアンは、血相を変えたサボの勢いにのまれてそんなことを気にする余裕もなく、ただ当たり前の答えを単語で伝えるしかできなかった。
なに、なに、と言葉にならない疑問がアンの脳裏を駆け抜けていく。
サボはアンの答えを聞いて、ハッとしたように肩を掴む手を緩めた。
そしてアンの手の先を見下ろして、ハァと大きな息をついた。
そのまま肩から、腕の表面を撫でるように手を滑らせて買い物袋を手に取った。
アンはまだサボのどこかおかしな様子が理解できずただただ取られるがまま袋を手放す。
なんでさっき怒鳴ったの、なんでそんなでかい溜息ついたの、とたくさんの疑問が浮かび上がってくるが、呆気にとられて言葉にならない。
サボは買い物袋を受け取ったのと逆の手でアンの手首を掴んで、そのまま黙って店の中へと歩き出した。
目の前の、けして広くはない背中が白い壁のように見えた。
サボはアンの手を取ったまま、店を突っ切り階段を上り、3人の住居へと黙りこくったまま上がった。
ダイニングのテーブルに買い物袋を音を立てておくと、そこでようやくアンの手を離した。
そして振り向いたサボの顔からさっきの剣幕が消えていて、アンは知らず知らずのうちに詰めていた息をほっと吐き出す。
しかしサボの顔は、怒ってはいなかったけど、苦しげに歪んでいた。
「買い物、行ってたのか」
「うん、牛乳、なくて」
「いつものとこ?」
「うん」
簡単な答えばかりの質問に、アンはただただ素直に答えるしかない。
サボの意図がわからずただ困惑ばかりが募る。
サボはまた、はぁと深い息をついた。
そして寄りかかるように、アンの肩にごつんとサボの額がぶつかった。
「…帰ってきたら、アンがいないから」
くぐもった声は弱弱しい。
「ちょっと出かけてるだけかなって、おれも思ったけど、メシの準備もしてねぇから、おれが出てすぐ、アンも出たんだなって、わかって、それにしては帰ってこないし」
途切れ途切れに息を継ぐような話し方をするサボの声を聞いて、そうかこれは心配か、とアンはようやく合点が行った。
サボはアンの肩から額を離し、ごめんと呟いた。
そのあまりの弱弱しさに、アンは苦い笑いでサボの横腹の辺りをポンポンと軽く叩いた。
「心配かけてごめん。ちょっといろいろ買っちゃって。すぐに夕飯準備するから」
サボもつられたように少し頬を緩める。
アンのほうもその表情に安心して、よしと頷いて買ったものたちを冷蔵庫に収めるべくサボの脇を通り過ぎた。
「サボ、洗濯たたんでくんない?ルフィの学校ジャージとか準備してやんないと」
「ん、了解」
背中越しにそう言うとサボがすぐさま返事を返し、遠ざかる足音が聞こえた。
振り向いて、サボが部屋を出たのを確認して、アンは手にしていたコーヒーのボトルを形が変わるほど強く握りしめた。
そんなに神経質にならないで。
「何か」なんてあるわけないじゃん。
帰りは「マルコ」に送ってもらったの。
なんでだろう、どれも言えなかった。
*
アンたちの店を覚えてくれる人が増えると、逆にアンたちのほうも常連さんの顔を覚える。
この人は月曜日の朝。この女の人のグループは水曜以外の昼。この作業着のおじさんたちは木曜日の11時ごろ、という具合だ。
そうすると客のほうも余計アンたちの店を居心地良く思ってくれるので、足が途切れることはなく、この店を訪れることが彼らの習慣となっていくというなんともいい循環ができつつあった。
そしてかの私服警察官の中年二人も、決まった週に二度、店を訪れるようになった。
火曜日の朝、遅い時間。そして金曜日の昼遅く。
金曜日の昼に来るときはたいてい彼らが最後の客となる。
たまに二人ともこない時もあれば、サッチだけが来るときもあった。
「警官ってのぁ時間に不自由な職業でさ」
というのがサッチのお決まりのセリフだ。
どうやら金曜の遅い時間に来るのは、その前日の木曜がたいてい署に泊まり込んでいて、木曜の朝から金曜の午後までぶっ通しで働いてやっと解放されるかららしかった。
ふたりがたいてい一緒なのは──まぁただ仲良しなんだろう。
サッチとマルコはまるで火と水のように対極の性格であるとアンは思っている。
朗らかで明るくてよくしゃべるサッチと、静かで常に落ち着きのある無口なマルコ。
性格が似ているから必ずしも意気投合できるわけではないのは20年近く生きているアンにもわかる。
サッチとマルコも、そのまるで反対の性分の中にどこかぴたりと合わさる部分を持っているのだろう。
金曜日の今日も、例にもれずふたりは14時ごろ店にやってきた。
慣れた調子で会話をなしていく二人を見ていると、平和な日々が続いていることもあいまって、本当に何もかも忘れそうになった。
相変わらず黒ひげからの連絡はない。
このままなかったことになればいいのにと、調子のいいことを思って嫌気がさす。
それでも幾分気が楽なのは確かだった。
サッチとマルコは、既に指定席となったカウンターに腰かけている。
ふたりは食事を終え、どちらともなく(もしくは同時に)煙草を取り出した。
その一服の間にアンは二人のコーヒーを準備した。
アンは空の食器を下げるとき、ふと二人の手元にある煙草の箱が目に入った。
煙草の銘柄なんてわからないけれど、二人は違う銘柄の煙草を吸っていてなんとなく「へぇ」と思う。
サッチの煙草の箱は黒地で、サッチの手のひらにちょうど収まりが良さそうなサイズ。なんというか、スタイリッシュなかんじだ。
その隣にあるマルコの煙草の箱はサッチのものと比べるとだいぶ小さくて、アンの手にも余るようなサイズ。どこか古い印象がした。
ははっとサッチが明るく笑う。
「煙草気になんの?あれ、アンちゃんは吸わねぇ…よな?」
「あ、うん吸わない。煙草の箱ってかっこいいなと思って」
そういうとサッチが大仰に顔をしかめたのでアンはおや、と思う。
サッチは天井の換気扇に向かって、ふぅーっと高く紫煙を吐き出した。
「やっぱそう思うよなァ、オレもガキん頃そう思ってたもん。だからこそ背伸びするガキが後をたたねぇんだ」
「あ、仕事の」
「そうそう。あー週末だってのに嫌なこと思いだした」
あ、アンちゃんのせいじゃねぇぜ?とサッチはしっかり念押しすることを忘れない。
アンはいたわりの言葉と一緒に二人の前にコーヒーを出した。
並んで座る二人を少し高い位置から見下ろしたアンは、アンから見て右側の眠たい目をしたマルコを見てなんとなく違和感というには少し朧すぎる違和感を感じる。
マルコと交わした会話は店で少しと、あの日、通りで会って送ってもらった時に少し。
だからこの男のことで知らないことは少ししかないのに、今のマルコがあの時とは違うということがなぜかアンにははっきりとわかって、それが違和感となってアンの心に引っ掛かった。
嫌な音を立てて爪で掠るような引っかかり方ではなくて、ぽわんと心の真ん中に浮かんだようなそれはコロコロと形を変えて動くので定まりがない。
さらに言うと、そのときのマルコと、今のマルコ、そしてテレビで見た警視長としてのマルコもまた違う。
きっとこの違和感はいやでもマルコを意識しなければならないアンの立場のせいなのだろう、ということに落ち着かせて、アンはコーヒーメーカーのスイッチをオフにした。
空いている席を片づけていたサボが厨房側に回ってくる。食器洗いをしてくれるのだろう。
サッチとマルコは、そろいの仕草で煙草をもみ消してコーヒーに手をかけた。
「ってことでマルコ、夜付き合えよ」
「なにが『っていうことで』なのかさっぱりわからねぇよい。前置きがあるようなフリすんじゃねぇ」
「んだよぉ、週末だし仕事のこた忘れて飲みに行こうっつってんじゃねぇか」
「気分じゃねぇ」
「お前が陽気に一杯ひっかけようなんて気分のときなんざ見たことねぇし関係ねぇよ。行くったら行くんだよ」
「オレァ明日の午後に回ってくんだよい。一人で行け」
「んだよつれねぇな…ってことでアンちゃん、おじさんと一杯どう?」
「へっ?」
あたし?と目で問うと、サッチはにっこり笑顔で頷いた。
「…てめぇ、オレをだしにしやがったろい」
「いんや、オレァ本気で誘ったぜ?乗らなかったお前が悪い」
不機嫌にいなすマルコをサッチは飄々として意に介さない。
マルコが放つ苛立ちのボールをサッチはポケットに手を突っ込んでひょいひょいと避けてしまうように、するりとかわす。
そして今度はアンがサッチの標的となったようだった。
今まで何度か、サッチより年上のおじさんやときには同年代の男に似たような誘いを受けたことがあった。
そういうとき、たいていその客は席からニヤニヤとアンに意味ありげな視線を投げかけてから帰り際ふらりと近寄り声をかけるのだ。
しかし今回はあまりに突然だったので勝手が違った。
アンは驚いて目をぱちぱち瞬く。
サッチは依然にこにことアンを見てくるのだ。
「えっと、サッチ?冗…」
「冗談じゃねぇさ、今夜どう?ひま?」
まるで警察官とは思えない軽さで、サッチは上目がちにアンに問う。
アンはその身軽さに、実のところ「楽しいオッサン」と認識し始めていた気持ちが若干引いた気がした。
なんていうか、このオッサン、オッサンのくせに、オッサンだからか、手練れだ。
アンはこっそり引いた気持ちを隠してお決まりの愛想笑いを浮かべた。
「悪いけど…夜は家のことがあるから」
「んじゃぁそっちの兄ちゃん、お宅のお姉ちゃん、ん?妹ちゃん?ちょこっとお借りしちゃだめ?」
今までまったく無干渉でひたすら手を動かしていたサボが、きゅっと蛇口をひねって水を止めてサッチを見た。
サボが口を開いて言葉を発しようとしたが、その寸前でアンが遮るように言葉を重ねた。
「ごめん、ほんと、夜は忙しいんだ」
「えぇー」
オレアンちゃんと飲みてぇよ、とサッチは子供のように口を尖らせた。
「お前サッチ、外であんまりみっともねぇ面さらすんじゃねぇよいアホウ」
「うるせっ、もとはと言えばお前が行かねぇっつーから」
「だからってなんでお前は適当に引っかけようとすんだよい」
「適当じゃねぇもん、オレはアンちゃんと飲みてぇんだ」
呆れ顔のマルコにすねたサッチ。
アンは苦笑付きでもう一度「ごめん」と言ってから、ちらりと隣の高い位置にある顔を窺った。
サボはアンが言葉を遮った時点で、また何食わぬ顔で皿洗いを始めた。
いつもは手に取るようにわかるはずのサボの心が、曇りガラスの向こう側を見るように不鮮明にしかわからなくて、心もとない気分になった。
「オレは諦めねぇっ」とサッチは変に気合いを入れて、マルコはもう我関せずの顔つきで代金をカウンターに置いて、いつものように15時を少し過ぎた頃店を去った。
アンは笑顔で見送って、彼らのコーヒーカップに手を伸ばす。
溜まっていた洗い物を全て済ましてくれたサボが、アンに向かって「ん」と手を伸ばした。
ありがと、とカップを手渡す。
特に感情の浮かんでいない横顔が遠く思えて、アンは思わず「サボ」と名を呼んでいた。
「ん?」
「…さっき、なんて言おうとした?」
サボはきょとんとした目をアンに向けると、ふっと吹き出すように頬を緩めた。
「アンが遮ったんじゃないか」
「…そだけど」
アンは手の中でその辺においてあった布巾をもてあそびながらも、サボが笑ったことでゆっくり立ち上ってきた安堵にほっとした。
サボはその笑みを微かに浮かべたまま言う。
「オレは…アンが行きたいならいいけどって言おうとしたんだ」
「え?だ、だって」
「あのオッサンらが警察なのはわかってるけど、今のアンは微塵も疑われてないわけだし、ボロも出場所がないだろ。それに」
サボは手早くカップを洗い終わって、濡れてつやつや光るそれらをそっとシンクの隣に置いた。
「あの人たちと喋ってるときのアンは楽しそうだ」
息抜きできればいいって思ったんだ、となんでもないことのように言った。
アンはただ予想外の言葉にきょとんとするしかない。
サボがいつもどれだけアンの所業について心煩わせているかわかっているつもりだ。
だからむしろ、アンがサッチやマルコと客の中でもひときわ仲良く話すようになったことをサボはよく思ってないだろうと思っていた。
確かめたわけではないし、二人に対してサボはいつも通り愛想よく接する。
それでも絶対二人が来たとき、どれだけ接客に余裕があろうともサボは奥に引っ込まない。
…だからサボはあたしをサッチと出かけさせたりなんかするはずなくって、でも今は「行けばいい」って言ってくれて、そんでもいつもは絶対あたしだけにしないのに…あれ、分かんなくなってきたぞ、とアンが混乱している間に、サボはてきぱきと手を拭きサロンを外してシャツの一番上のボタンも外した。
「さ、さっさと閉めちまおうぜ」
「う、ん。サボ、」
厨房側から出ていこうとカウンターの戸に手をかけていたサボは、ん?と振り返った。
「あたし、毎日の、みんなのごはん準備したり家のことしたりするの、息がつまるなんて思ってないよ」
サボは戸に手をかけたまま、言葉をゆっくり飲み込むようにじっとアンの目を見つめて、すぐににぱっと笑った。
「わかってるよ。おれだって同じだ」
サボが胸の高さにあるカウンターの戸を押し開ける。
その蝶番がキィッと高く鳴る音は、固い革靴とステッキが床を叩く音にかき消された。
「お久しぶりです。ゴール・D・アン」
ラフィットはシルクハットを脱ぎ、白い肌に生える紅い口をにっと釣り上げた。
*
アンが黒ひげの事務所に出向くと、ティーチはいつものように鷹揚な態度でソファに深く腰掛けてアンに向かって手を上げた。
その隣にはオーガーが能面のような無表情で立っている。
「ようアン、久しぶりだな」
ティーチは視線でアンに向かいに座るよう示す。
アン離れた足取りで迷うことなくそこへ腰を下ろした。
「休息はしっかりとれたか、ん?」
世間話かはたまたご機嫌取りのつもりなのか、ティーチは機嫌よくアンに話しかけた。
アンはむっつりと黙った余計なことは離さない。
そんなやりとりも既にデフォルトとなった今では、ティーチも特に気にした風もなくラフィットを呼んだ。
「おい、アレ」
「はい」
ラフィットは静かな返事をして奥の部屋へ引っ込む。
アンはそれを横目で見て、視線で「何?」と問うた。
ティーチは「すぐにわかる」と嬉しそうな顔を隠さない。
すぐにラフィットがビジネスケースを片手にぶら下げて戻ってきた。
そのケースはアンとティーチ二人の間のテーブルに置かれる。
「もうわかるだろう。てめぇの前の稼ぎの残り半分だ。やっとうっぱらった金が入ってきたからなぁ」
重いだろうが持って帰るといい、とティーチはそれをアンの方へ少し押した。
アンはそれを見下ろして、黙って頷く。
したたかになれなければと何度も自分に言い聞かせた。
サボとルフィのためにも、せめて自分のためにも。
「前も言ったがお前ぇが銀行口座を作ってくれりゃあナマのやりとりがなくて楽なんだがなぁ」
「…あたしみたいな奴が簡単に入れるところに預けられるかよ」
精一杯の皮肉のつもりが、ティーチはますます嬉しそうに声を上げて笑っただけだった。
そして、さあ本題だといわんばかりにティーチは座り直した。
「次の仕事の段取りが整ったぜ、アン」
そうだろうと思っていた。
アンは黙って頷く。
オーガーが横から、ティーチの顔を見ることもなくすっと紙を差し出した。
ティーチは慣れたしぐさでそれを受け取る。
「今回は前とは勝手が違うぜ。そうだな、ざっと10倍は前より警備が固いだろうな」
それはアンも危惧していたし、覚悟していたところでもあった。
「それにお前自身前言ってたな、対策本部ができていやがる。ニューゲートの野郎が直々に勘付いたんだろう。そう簡単にはいかねぇぜ」
「前置きはいいから」
早く説明して、とアンはティーチの手元の用紙に視線を落としたまま促す。
ティーチはにやりと笑って、後ろ暗い計画を口にし始めた。
*
決行の日は太り気味の三日月に少し雲がかかるような、いわば何でもない夜だった。
すっかり夜の帳が下りて街が寝静まった午前1時ごろ、アンは静かな住宅街区の入り口で放り出されるように車から降りた。
夜の背景に馴染んだ黒い車は控えめな音を立ててアンを残し去っていく。
アンの方もその車を見送ることはせず、すぐさま目的の場所へと足早に歩き始めた。
相変わらず死んだような地区だ。
夜だと一層ひやりとした冷たさをはらんでいる。
まだ初夏だからか、場所がそういう空気をまとっているのか。
どちらにしろ動きやすい気温で、静かさも好都合だ。
このまま死んだように眠り続けて、いっそ死んでくれればやりやすいとまで思った。
ゆるやかな坂を足音立てずに登って行き、見覚えのある門が見えたところでさっと手前の角を右に曲がった。
すべて黒ひげの指示の通りだ。
そしてアンはちらりと顔だけ覗かせて、門の前に3人の警備員が屹立しているのを確認した。
アンは自分が認識される前に角を曲がったので、きっと彼らはアンに気付いていないはずだ。
気付いていたとしてもただの通行人のふりをすればいい話だが、危惧は増す。
これも黒ひげの説明通りだ。
アンは高鳴りすぎて痛いくらいの胸に拳を当てて、一度深呼吸した。
二回目でも緊張する。
当たり前だ。
犯罪の重みはアンは隙あらば押しつぶそうとした。
アンはウエストポーチに手を伸ばし、マスクを取り出すと顔に貼りつけた。
そして背中を張り付けていた壁をよじのぼり、目的の邸宅よりはだいぶと小さい、しかし豪奢な家の敷地に入り込んだ。
ふわりと豊かに育てられた芝生がアンをやさしく出迎えて、足音を消してくれる。
アンは壁伝いにその家の内側を横切って行き止まりの壁まで到達すると、今度はまた右に曲がって壁に沿って歩いていく。
アンがお邪魔しているこの家は、家自身はこじんまりとしているが広大な庭が自慢らしく、よってアンの移動できる場所は広くあったので足場に選ばれたのだ。
そしてアンは入り込んだ地点のちょうど対角点に行きつくと、そこでようやく壁をよじ登り外の様子を覗き見た。
右は、なにもない。
真っ暗の道がまるで通るものを吸い込むように黒く塗りつぶされている。
正面は目的の邸宅、の右端。塀のちょうど曲がり角の部分だ。
そして左側の遠くには正門と3人の門番。
3人皆が正面を向いていたら3人いる意味がないので、当然彼らは3方向を向いて立っている。
今は夜の闇が黒衣をまとったアンの姿を隠してくれているが、このままひらりとアンが塀から飛び降りれば一番近くにいる門番がすぐさま気づくだろう。
だからこそ、アンは待った。
黒ひげの指示通り、じっと息をひそめて蜘蛛のように壁に貼りついたままそのときを待つ。
(ああ腕が痛い)
腕と肩の力だけで体を支えて宙ぶらりん状態のアンは、もはや体力耐久レースになるだろう今回の計画に顔をしかめた。
プルルルル、と唐突に電子音が静寂の中で細くアンの耳に届いた。
一番アンに近い場所にいる門番がポケットに目を落とす。
(今だ)
アンは支えていた両腕で体を持ち上げて壁の向こう側に飛び降りた。
アンの耳には風を切る音が聞こえたが、遠く離れた門番の彼らには全く無音のはずだ。
黒ひげが与えたブーツも衝撃を音ともに吸収してくれた。
「はい、こちら正門」
静かすぎるからか、そこそこの距離があるのに門番の声が聞こえた。
彼の顔は今正面を、つまりは坂の方向を向いていてアンからそれている。
アンは一目散に道を横切って邸宅の壁に貼りつき、角を曲がって門番の死角に入った。
とりあえず第一段階クリアだ、とアンはいつの間にか額を流れる汗をぬぐった。
涼やかな夜だというのに、流れる汗はべとべとして嫌な気分になる汗だ。
アンは壁に貼りつけた背中から伝わる無機質な冷たさと、肌からじわじわ空中に放たれる熱のちぐはぐさに若干の気持ち悪さを感じならが、次の「時」を待った。
次の部分の計画に関してはアンと黒ひげで小さなやり取りがあった。
黒ひげはこの一連の犯罪をどこまで重いものにしてもかまわないと思っているのか、アンには全く判断がつかない。
ティーチが始め口にした計画はこうだった。
「お前が門の死角に着いたら、一人の男が正門にやってくる。俺らの手のもんさ。そいつはちいせぇ包みを持ってくる。で、真夜中の訪問者を門番たちが追い返そうとしたそのときに、」
ドーン、と手のひらを開く仕草をして、ティーチはにやりと笑った。
アンはティーチの手と奥深くで光る瞳を何度も交互にみた。
「…それって」
「爆弾さ、ちいせぇやつくらいこいつは今この場で作って見せられるんだぜ、なぁ」
ティーチはその隣で棒のように突っ立ったままのオーガの腰を馴れ馴れしく叩いた。
オーガはちらとティーチを見下ろして、なにも言わずまた視線を正面へ戻す。
「そしたら家ん中の連中は多少正門に集まるだろう、そしたらお前ぇが」
「ちょ、ちょっと待っ…」
アンはこの日初めてティーチの目をまっすぐに見た。
ドーン、と子供のような口調で言ったティーチの声が耳から離れない。
「爆弾って、そんな」
ティーチは一瞬なにを言われているのかわからないといった顔でアンを見たが、すぐに「ん?」と笑みを広げてアンを促した。
アンの言葉の続きをわかっているのに、それでもあえてアンの言葉を待つ。
やっぱりこの男、大嫌いだ。
アンは苦い思いをかみつぶしながら口を開いた。
「…人が死ぬとかは、いやだ」
ティーチは訳知り顔の癖に口だけは「ほお」と言って、アンの方に乗り出していた身を引いてソファにもたれ込んだ。
「だがよ、その爆弾抱えて突っ込むコマの野郎は俺が今まで面倒見てやって、その「仕事」の取引も済んでる。いつ死んでもいいような奴だ。爆弾だってちいせぇ、子供の遊び道具みてぇなもんさ。必要なのは『騒ぎ』なんだ」
「…それなら爆弾じゃなくてもいいだろ。もっと、害のない…もしその、爆弾、とかならあたしは嫌だ」
かたくなに拒むアンを見据えて、ティーチはあくまで楽しそうに太い腕を組んだ。
「綺麗ごとからは身を引くんじゃなかったのか、アン」
「…綺麗ごとじゃ、」
ない、と言葉の最期は部屋のエアコンの音にかき消されるほど掠れてしまった。
同時に前を見据えていたアンの顔も徐々に俯いていく。
綺麗ごとじゃないと、本当に言い切れるのだろうか。
人が死なない方がいいのは当たり前だ、それくらいの理性はある。
それでも他人の死を自分の目的と秤にかけて揺らしてしまった自分が、もう後には戻れないと知っている。
既に「綺麗」でなどいないのは、分かっているのだ。
「…できるだけ、音だけとか、そういう…」
「…よし、わかった。考えようじゃねぇか」
アンが顔を上げると、変わらず何かを楽しむティーチと、不満げに彼を見下ろすオーガがいた。
そうしてその計画にある程度アンの意思が組み込まれた結果、爆弾は子供だましの閃光弾と煙幕になったと聞いた。
アンは塀に背中を預けたまま、真っ暗に塗りつぶされた正面の道の続く先を見遣る。
『後には戻れない』
自分で気づいたその言葉が思った以上にアンの肩にのしかかり苦しくさせる。
アンは小さく身震いした。
『戻りたい』と願う自分は消えていないのだ。
湿り気を含んだ弱い風が頬をかすめていったその時、遠くから人の話し声が聞こえた。
アンはそれを来るべき時が来たと判断して、塀伝いに正門から遠い方へと早足に歩く。
そして、暗闇を引き裂くような鋭い破裂音が耳に届いて、アンは背の高い塀の一番上に手をかけた。
塀を超えてしまえば簡単に敷地内である。
正門と裏門、玄関、そして目的のものがある部屋の周りには雇われたガードマンがついていると黒ひげから聞いていたが、その他の何でもない塀などはただの塀に過ぎず、乗り越えてしまえば障害でも何でもなかった。
アンの目の前には、夜の闇の中でぼんやりと浮かび上がる白い噴水があった。
玄関に向かって右手にあるその噴水は庭の隅に備え付けられているが、場所が場所だからか、くすんだ風味が暗いながらも伝わる。
陶器の天使がうつろな白い目でアンを見ていた。
アンはその噴水のモニュメントの陰に身を隠して息をひそめた。
噴水の向こう側、正門と玄関を繋ぐ直線状を次から次へと人が走る。
黄色い灯りの灯る正門から立ち上る白い煙がよく見えた。
その光の方向へ走る人たちはさながら夜光虫のようだ。
アンは事の起こった正門に吸われて、邸宅の中から人の数が減っていく様子を想像しながら、暗く広い庭を正門から離れるように走った。
家の側面に沿ってかれこれ100メートルほど走ったというのにまだ壁が途切れることはない。
アンは騒がしくなってきた玄関口の気配に耳をそばだてながら、ある地点で足を止めた。
玄関での不審な事件は警察を呼ぶだろう。
特にマークされて警備されていたこの家なら、あと数分と言ったところか。
アンは壁に向かって上方を仰ぎ、3階ほどの高さからアンの頭上を覆うように突き出しているベランダの底を見上げた。
そしてすぐさまウエストポーチからロープを取り出し、烏の鉤爪のような器具のついた先端を狙いを定める余裕もなく3階のベランダへと思いっきり放り投げた。
鉤爪がベランダのコンクリートの段差に引っ掛かってキィンと高い音が響く。
縄でもないゴムでもない、全く未知の素材でできたロープがぴんと張る。
その音が思ったより大きかったのでどきりとしたが、ビビッている暇はないのですぐさま反対側のロープの先端を手首にくくりつけ、その先端から1メートルほど距離を取った場所にある腕時計の画面のような形の小さな機械の、ただひとつあるボタンを押した。
シュッと風を切る音がして、アンの身体はみるみるベランダへと引っ張られていく。
ベランダの手すりの下部が手に届く辺りまで来ると、アンは自身の手でそこを掴んで体を持ち上げた。
黒ひげにこれを与えられてから1週間ほど練習した成果か、手間取ることなく上階に上がってこれた。
アンは自身の身体をベランダに収めてから、残りのロープを一気に巻きとった。
帰りに使う時のため、まだ手首に巻きつけたままにしておく。
ガチャン、と耳慣れない音がした。
すぐさまその音の先を見遣ると、アンの正面にある大きな窓のカーテンの隙間から人の手が伸びて窓の鍵をひねり、そのまま手さぐりで窓枠に手をかけようとしている。
アンは口から飛び出そうな心臓を生唾と一緒にのみこんで、右の腰にそっと手を伸ばした。
暗闇のせいでよくわからないが、おそらく濃いワインレッドのような色の分厚いカーテンのおかげであちらはアンの姿が見えていない。
手の様子からして男らしいその人物は、カーテンを開ける手間を面倒くさがってカーテン越しに窓を開けようと試みたらしい。
そして窓が開き、ほぼ同時にカーテンも開いた。
現れたスーツ姿の若い男がみるみる目を大きくする。
そしてぱかっと開いた口から声が発されるより前に、アンはかまえた銃で男の首すじを撃った。
その距離は1メートルあるかないか。
はずれるわけもなく、あやまたず打ち抜かれた男は後ろに向いてどうと倒れた。
アンは男の身体の上から首だけを部屋の中に入れ、中の様子を見る。
灯りの消えた室内は暗いが、乾いた空気がアンの頬に触れ、古い家具の匂いがした。
人はいない。
アンが鉤爪を引っ掻けた音を聞きつけてやってきたのだろう、この家の使用人らしいその男の身体をまたいで中に踏み入った。
中に入り、アンはまた流れ始めた新しい汗をぬぐった。
思った以上の軽さで引かれた引き金にはじめて指をかけた感触。
命を奪ったわけではないのに、人に銃口を向けるのはきっとそれに似た重さを伴う。
アンは横たわって目を閉じる男を見下ろして、帰りのために窓は開けたまま部屋の扉へと近づいた。
急がなければ、タイムリミットが迫っている。
この部屋は今はもう使われていない使用人の部屋だと聞いていたので、人が現れたのは予想外だった。
しかしアンの代わりに鍵を開けてくれたので、麻酔を一本使ってしまった代わりに手間はだいぶと省けた。
アンのウエストポーチには、窓の鍵を開けるための小道具が皮生地の内側に備え付けられてくるくるとまかれた簡易作業セットが収められているのだが、今回は使わずに済みそうだ。
アンは扉に近づいたもののその前を素通りし、扉の右上方に位置する排気口に目を止めた。
50センチ四方のそこには鉄格子がついている。
アンはまた、鉤爪のロープを力強く放り投げた。
狭く埃臭い排気口をずるずるとほふく前進で這う。
ともすると両膝をついて四つん這いで進めそうな空間だったが、そうしていたらさっき急に狭くなって頭をしたたかにぶつけたので、ほふく前進で通すことにした。
咥えたペンライトが先を照らす。
アンの腹の下からは、微かに人の話し声や動作音が聞こえた。
頭に叩き込んだ経路の通りにいくつもに枝分かれした排気路の中を進み、目的の部屋と思われる排気口の出口まで辿りついた。
そっと耳を近づけるが、物音はしない。
静かだということは、まだ玄関口での騒動から数分しかたっておらず家の者も警官も髪飾りの守備にまで回ることができていないのだ。
騒動からすでに何時間も経過したような気分だったが、左腕の時計を確かめる確かにまだ10分立ったかどうかというところ。
足の速さと手際がスムーズだったことが幸いしたらしい。
アンは内側からネジを外し、押し出すようにして排気口の鉄格子を外した。
部屋の中はぼんやりとした灯りに照らされていた。
正面と左右に一つずつ監視カメラがあると聞いている。
アンは排気口に体を横たえたまま左側の腰に備え付けていた銃を構え、向かいにある大きな扉の上あたりを狙って引き金を引いた。
一瞬のタイムラグの後、パシャンと水音のような音が返ってきてペイントが監視カメラもろとも壁に塗りつけられたことを確認する。
左右も同じようにして、その『目』を塞いだ。
監視カメラは首ふり式だが常に床に向かって目を動かしているので、同じ高さにあるアンの姿は認知されないのだ。
それから2メートルほどの高さを怖がっている暇もなく床に飛び降りた。
高級そうな絨毯が衝撃をいささか吸収してくれたが少し足がじんとわななく。
そして、目を上げたアンはその光景に一瞬ぎょっとしたものすぐにげんなりした気分になった。呆れに近い。
降り立ったアンの周りはショーケースに入っていたりはたまた剥き出しだったり、とにかくあらゆる調度品で埋め尽くされていた。
絵画、金髪のドール、骨董の壺、輝く指輪。
それは観賞用だったり展示だったりといったものではない。
ただここは詰め込まれるだけの倉庫だ。
きっとこの屋敷の主は、価値あるものが好きなのではなく価値あるものを集めることが好きなのだ。
そして、価値あるものを集める自分が好きなのだ。
古臭い埃の匂いと錆のような貴金属の匂いとともに、鼻持ちならない成金のにおいがする。
呆れていても仕方ないし時間もないので、アンはすぐさま目的の髪飾りを探しにかかった。
きっとショーケースの中に入っているだろうと黒ひげは言っていたが、場所まで彼らにもわからなかったらしい。
たしかに、こんな有象無象の詰め込まれた部屋の中でありかまでわかっていたら驚きだ。
この『コレクションルーム』の位置とそこまでの経路を割り出した彼らの「伝手」に感服するまでだろう。
アンはとりあえず道なき道を歩いて、ときには巻かれたまま倒れた絨毯のようなものをまたいで、ショーケースを覗き込んでまわった。
…ちがう。
…これもちがう。
…これも。
ひとつずつ「ちがう」を重ねていくたびに、左手の腕時計が刻む秒針の音が心臓の鼓動とリンクする。
焦りの汗が流れ始めたそのとき、アンの目がぴたりと止まった。
…これだ。
ぼやっとした灯りの中、埃の被ったショーケースの中で真紅の髪飾りが寂しげに光っていた。
アンはダメもとでショーケースに両手をかけてそれを持ち上げてみる。
すると、予想外なことにガラスのケースは簡単に持ち上がり、驚いたアンの手から少しケースがずり下がる。
あわててしっかりとつかみなおしてケースを床に置き、髪飾りに手を伸ばした。
皮手袋を隔てていても、硬質な手触りが感じられた。
(よし)
目的達成あとは帰るのみ、と意気込んで髪飾りをしまおうとウエストポーチのチャックに手を伸ばしたその時、金属が小さくぶつかる音と重たい木の扉が床をこする音がして、眩しすぎる光がアンを背後から照らした。
まずい、と声が頭の中で響いた瞬間手は腰の銃に伸びていた。
暗闇と光の狭間に立つドアを開けた人物は、闇の中でぼんやりと浮かび上がった人型のシルエットに数秒経って気付いた。
しかしその人物が声を上げるより早く、アンは引き金を引く。
パッションピンクのペイント弾が男の身体と両脇の扉を丸ごと色鮮やかに染めた。
麻酔銃にするはずが髪飾りにふさがれて開いているのは左手だけで、よってついペイント弾のほうを撃ってしまった。
ぎゃっと無様な悲鳴を上げたスーツの男は、驚いたのとペイント液に足を取られたのとでその場にドタンと腰を打ち付けて転んだ。
アンはすぐさま髪飾りをポーチに放り込むようにしまうと、散らかったコレクションたちをかき分けて排気口の真下まで走り寄り、すぐさまロープを使って登って体を排気口の中に押し込んだ。
つま先を排気口の中に引っ込めたちょうどそのとき、コレクションルームのほうからは騒然とする人の話し声が聞こえてきた。
今度こそ時間との勝負だ。
ドアを開けた男は使用人が来ていたスーツではなかった。
あれは警察だ。
アンの目の前で派手に転んだ姿を思い出すとおそらく下っ端の冴えない刑事だろうが、なんにせよ敵は確実にアンに気付き動いている。
まさかあそこで扉を開けられるとは思わなかった、はじめての失態だ。
あの警察がなぜあのタイミングで扉を開けたのかはわからない、しかも一人で。
彼はアンが排気口へと逃げたのを見ていただろうか。
目を潰されて何もわかっちゃいないといいけどと願いながらも、帰りついたあの部屋で大勢の警官がアンを出迎えている光景が目の奥をちらついて仕方ない。
アンは動転して散らかりかける思考を必死につなぎとめながらも帰路を急いだ。
目的の部屋に近づいてきて、その方向から何の声も聞こえないことにほっと息をついた。
開きっぱなしの排気口から部屋を覗き込んで、そこがいまだ薄暗く、開いたままの窓から吹き込むささやかな風がカーテンの裾を小さく揺らしているのを見下ろす。
アンはコレクションルームに入るときにしたように、いったん狭い中で体の前後を逆にして、足から部屋の中へとおろして最後は飛び降りた。
髪飾りを目的とするあの泥棒が入り込んだと警察が決め込んでいるなら、おそらくこの家はもう包囲されているはずだ。
一見逃げ場のないその状況を想像して、早まる鼓動だけは止めようがない。
だからもう今は黒ひげの言葉を忠実に信じるしかないのだ。
アンは開いた窓に近づき、未だ伸びたままの男を来たときのようにまたいで外に視線を走らす。
人の声がたくさんした。
ベランダの真下にいるような気配はしないが、きっと近くにいるのだろう。
アンは右手に巻きつけたロープをぎゅっと握りしめて、そっとベランダに足を踏み出した。
「ああ、思ったより小せぇな」
癇に障るような蝶番の音に対して重たい木が擦れる音。
アンの真後ろの扉が開いて、廊下から差し込む光がまたしてもアンを照らした。
アンは忍び込んでから初めて聞いた自分に向けられた声が、近頃聞きなれたものであることを確信して振り返った。
片側の扉をあけ放った男はたった一人で、右手はまだ扉に掛けたまま、左手には何か用紙を握ってアンに対峙していた。
マルコ、とアンは呟いた。
「オレを知ってんのかい?」
マルコはよもや怪盗を追い詰めた刑事とは思えないのんきな口調で尋ねた。
アンはつい口をついて出てしまった先程の自分の言葉を呪う。
しかし怪盗が「マルコ」を知っていたって何の不思議もないのだ。
「有名人だろ、あんた」
緊張のせいか、掠れた低い声が出た。
咳払いしようとして、待てよと気づく。
マルコはそうだったねいと軽く答えた。
アンに近づこうともしない。
「まさか本当に排気口から出入りできるような奴とは思わなかったよい」
アンは下から睨みあげるようにマルコを黙って見つめる。
この時間がタイムロスだ。
マルコはきっと既に手下をこの部屋やベランダに呼び集めているのだろう。
アンはほぼ真っ黒に染まりかけた近い未来を考えて眩暈がした。
しかしマルコは、そんなアンの考えを読み取ったように自嘲的に笑った。
「まさかだったもんで、オレ一人ここに突っ走ってきちまって、まだ誰も呼べてねぇ」
まぁ仲間はその辺にごろごろいるが、とマルコはアンが知るいつもより少し饒舌に喋った。
そして扉から一歩、アンに近づいた。
灰色のジャケットスーツはいつものものだ。視線は思わずその胸ポケットに走った。
そこからのぞく色の違う何かを確認して、同時にやっぱりこれはマルコなんだとまるで諦めのような感慨がわきあがる。
アンは掠れた低い声のまま口を開いた。
「…なんでわかった」
「ああ、お前さんが現れたかもしれねぇって言うんで来たら通報から20分も立たねぇうちに保管室の『宝』が既に盗られちまってる。こりゃあ正規の廊下以外にどこか通り道があるんだろうと踏んで、思いついたままに排気管の配置図を家主に探させて辿ってみたらこの部屋が一番怪しかったんで、来てみたら当たりだったっていうだけだよい」
「だけ」というには随分長い前置きを踏んで、マルコはさらりと思考の手順を述べた。
たったひとりで、黒ひげと同じ思考回路をすぐさまたどったこの男の頭脳がやはり『警視長』たる肩書きの所以だろうか。
アンは長々と答えてくれたマルコに返す言葉を思いつかず、窓のサッシに乗せていたもう片方の足をベランダに踏み入れた。
マルコは「ああ」と思いついたような声を上げる。
「いくらまだ応援がねぇからって、さすがにもう逃げられねぇよい。塀の周りはサツだらけだ」
金儲けなら、前の一つじゃ足りなかったのかい?とまるで子供に尋ねるようなその口ぶりにカッと腹の底が熱くなった。
「――捕まらねぇよ」
「あ?」
「絶対、捕まらない」
アンはマルコに背を向けて、ベランダの手すりに手をかけた。
背後で、カチャリと質の違う金属音が響いた。
振り返ると真っ黒の銃口がアンを指している。
(──ああ、狙われるのってこういう)
哀しい、とよぎってしまった思いをかき消す思いで強くマルコを睨み返した。
「お前ェ、名前は」
「名前?」
なんでそんなこと、と口をつきかけた考えを覆い隠すように、テレビで聞いた誰かの声をと画面の隅で派手に躍り出ていた文字を思い出した。
アンを指し示す『A』の文字。
窓から吹き込んだ風が部屋の空気をかき混ぜて、吸いだされるように外に戻ってくる。
その空気の動きに揺られて、ワインレッドのカーテンの裾がベランダにいるアンの手に触れた。
アンはそれをつまむように掴んだ。
「…エース」
マルコが、アンの知らない顔で笑った。
「いい名前だよい」
引き金にかかるマルコの指が微かに動いて、アンが分厚いカーテンをふたりの間に引き、銃弾がコンクリートの床にぶつかる激しい音に気付いた他の警官が庭を回ってそのベランダの下に集まった頃には、既に誰の姿もなかった。
→
アンが初めての仕事を成功させたその日、ルフィが帰ってきて何気なくテレビをつけた。
箱のように四角くて重く、しかし画面は小さいという古風なテレビだ。サボが中古で見つけてきた。
アンとサボは意図してテレビをつけることなく一日を過ごしていたので、突然しゃべりだしたテレビについハッと身を固くしてしまう。
そしてテレビがいの一番に伝え始めた内容は、アンたちの予想を裏切らずに、突如街に現れた泥棒についてだった。
テレビにはでかでかとルージュの髪飾りの画像が映し出されていた。
「あ、これ」
ルフィがテレビを指さして、夕飯の支度をするアンを振り返った。
夕飯はやはり残ったサンドイッチだが、ルフィが大半を平らげてしまうこととアンとサボが朝から同じものしか食べていないことから栄養面を考慮して、簡単なサイドメニューを作っていた。
アンは頷いて曖昧に笑った。
食卓で店の経費を計算していたサボも、今更避けてもしょうがないといったようにテレビに視線を移している。
「すげぇな、アン有名人になっちまった」
「アンだってばれてないからな」
サボが苦笑いでそう言うと、ルフィはふーんとテレビから視線を離さず相槌を打った。
「なんか普通だな」
ルフィは夕飯の匂いに鼻をひくつかせながら呟いた。
「なにが?」
「だってよ、こんなテレビにまで出ちまうことやってんのに、アンはここにいる。つーかテレビがアンのこと喋ってんのに、なんにも変わってねぇ」
ま、いいけど。今日の飯なに?とルフィは立ち上がりアンに近寄って、背中からその手元を覗き込んだ。
「サンドイッチ。いっぱいあるから」
「夜に珍しいなー!」
「お昼のあまり。ルフィ制服着替えておいで」
「おー」
「ズボンその辺に放っておくなよ」
「おー」
ルフィは靴下を脱ぎながら、とっとっ、と一本足で器用に歩いていく。
ルフィの言った通り、アンの周りは何も変わっていなかった。
変わってしまったら困るのに、変わらないようにとしたのは自分なのに、まるで変わらない生活が自分のしでかしたことの対価として見合っていないような、おかしな気分になる。
テレビのコメンテーターが、複数の髪飾りが存在することを理由にこの窃盗事件が連続する可能性をもっともらしく喋っていた。
*
アンは静かな住宅地の中を歩きながら、額からこめかみを通って流れる汗をぬぐった。
周りが静かな分、細かな自然の音が耳に届く。
アンは自分の足音を聞いていた。
最初の仕事から1か月の空白を置いて、次の仕事はとある御曹司のコレクションルームを狙うことに決まった。
今回は黒ひげが決めた。
「コネで成金息子の知り合いがいてな、粗方の家の内地図が手に入った。オレたちぁここから詳しい情報を集めてくからお前は家の場所だけでも大体の下見に行ってこりゃあいい」
アンは黒ひげに託された家の地図を手にして、前回よりも深い覚悟を胸にその邸宅へと向かった。
邸宅は町はずれの高級住宅街と呼ばれる一角の中でもひときわ大きな建物で、アンはそこまでバスを乗り継いでいかなければならない。
夏の兆しをたたえた太陽がカッとアンを照り付ける。
日なたにいると汗が垂れるほど暑い陽気だったが、時折吹く風が初夏を感じさせた。
店を早めに閉めて出てきたので時刻は3時ごろ。
一日のうちで最も暑い時間を少し過ぎて、アンは圧迫するように並んだ装飾の多い豪邸たちの間を、どこか気の引けるような落ち着かない思いで進んだ。
地図を握りしめて高級住宅街でうろうろする怪しい女がいると通報されたらたまらないので、万が一誰かに不審な目で見られた時のための言い訳も考えてきた。
地図と一緒に、アンは自分の店のチラシも数枚手にしていた。
それを目についた家のポストに適当に放り込んで歩く。
そうすれば、街から来た世間知らずの娘が場違いな場所で自分の店の宣伝をしているだけのように見えるだろう。
しかしアンは肩透かしを食らうような気分で、ぽてぽてと目的の邸宅を探す。
誰かに怪しまれるも何も、このきらびやかな家々が立ち並ぶ一角に歩行者は誰もいないのだ。
肩がぶつかりそうなほど人であふれかえっている街の中心やモルマンテ大通りと比べると、信じられないほど静かな場所だ。
本当に生きた人がここに住んでいるのかと訝しむくらいだった。
バスを降りて20分ほど歩くと、目的の家らしい門が見えてきた。
近づけば近づくほど、まるで来客を圧倒するためにあるような黒光りする門構えが大きくなる。
今日は場所の確認だけだから、家の前まで言って周りを半周したら家の裏手でバスを拾って帰ろうと思っていた。
アンは邸宅の地図をポケットに無造作に突っ込んで、用無しのチラシだけを握りしめて大きな門に近づいた。
門の前には門番が2人立っていた。
この太陽の照り返す中、真っ黒のスーツをピシリと着込んだいかつい男が二人正面を向いてピクリとも動かない。
あまりにもまっすぐ立っているので、遠くから見るとまるで大きな木炭が立っているように見える。
人がいなければ立ち止まることもできたかもしれないが門番がいるのでは話は別だ。
素通りすることにしようと、アンは素知らぬ顔を作った。
素知らぬ顔というのを初めてする。
門番はとっくにアンに気付いているだろうが、特に目立ってじろりと見たりはしない。
通りすがりの一般人にいちいち気を留めていたらやっていられないだろうし、あるいはアンほどの小娘がこの家に用があるはずないと判断されたのかもしれない。
それはそれで好都合か、とアンが流れる汗をもう一度片手で握ったとき、アンを後ろから車が追い越した。
その姿形を何気なく目に入れて、アンは思わず踏み出しかけた一歩を止めた。
白地に青のライン。
警察だ。
そう認識した瞬間、心臓が早鐘のように打ちだして流れる汗は即座に冷えた。
どうしよう、戻ろうか。
でも、踵を返すところを門番に見られたら怪しまれる。
それどころか警察にも不審に思われるかもしれない。
それに今帰ってしまえばもう一度同じ手でここに来ることができない。
いやしかし、もう道順はわかったのだから帰っても問題はない。
今日の目的は果たしたも同じだ。
今立ち止まってしまった時点で十分怪しいかもしれないが──
アンの頭の中がせめぎあいで混乱していくのをよそに、警察車両は塀に沿って門の右手に車を横付けした。
助手席とその後ろから人が下りる。少し遅れて運転席から一人。
どれも警察だろう。
助手席から降りた男が門番の一人に何かを告げる。
すると門番は自身の襟をつまんで口元に引き寄せると、何かを話すようなそぶりをした。
門番と話す男の少し後ろに二人、後部座席と運転席から降りた男が立っている。
運転席の男はともかく、後部座席の男の気だるげな様子は後ろ姿からもにじみ出ている。
はやく背広を脱ぎたいという心の声が聞こえてくる気がする。
しばらくすると、ぴっちりと口を閉ざしていた門が左右に動き出して玄関への道を開けた。
門番のあとに続いて3人の男が庭へと足を踏み入れた。
不意に、後部座席の男が後ろを振り返った。
「!」
立ち尽くしていたアンは咄嗟に顔を伏せ、しゃがみ込んで靴紐を結ぶふりをした。
もともと固く結んであった靴紐を躍起になってほどいてからそっと顔を上げると、3人の男の背中はすでに小さく、再び音を立てて門が閉じようとしていた。
門番が門の向こう、重たそうな茶色い玄関扉に背を向けてこちらに戻ってくる。
アンは手早く靴紐を結び直すと、足早に邸宅の前を通り過ぎた。
*
アンが見た彼らが、警察支部に新しく作られた『怪盗A対策本部』の一部だというのは、その日の夜見たテレビで知った。
怪盗Aというのはマスメディアがとりあえずつけた呼称で、少年犯罪の際使用される『少年A』とか『少女B』とかそういうノリらしい。
「破られた金庫番号がA庫だったこともありますしね」とどうでもいい理由づけをするコメンテーターもいた。
とにかく、その『対策本部』の第一責任者はメディアの前に立ち、まるで面倒くさいと顔に描いたような気のない顔つきで紙面を読み上げるようなコメントをしていた。
一緒にテレビを見ていたルフィが、「このオッサンほんとに警察かよ」と的確なことを言う。
本部から派遣されたらしいその男、「マルコ」は本部において警視総監の次に準ずる位である警視長のひとりで、警視総監の命を直々に受けて今回の事件にあたるのだという。
この男が、目下のところの敵だ。
アンが心の中で確かにそう判断した矢先、その「マルコ」はふらりと店にやってきたわけである。
アンはサボと相談し、次に黒ひげのもとに出向いた際そのことを告げた。
「ほう」とティーチは興味深そうに顎を反らして腕を組む。
「そりゃあけったいなことになったじゃねぇか、おもしれぇ」
「…あたし、店やってていいの」
「お前ぇはどう思う、アン」
まただ、とアンはティーチから視線を外して考えるふりをした。
ティーチは常にアンに考えさせる。
どうでもいいことから命運を分ける大切なことまで、まるで思いつきという様子でアンに決めさせて、大概それにOKを出す。
アンは本当にそれでいいのかと不安ばかり膨らむが、問い直すことは悔しいので絶対にできない。
アンは黒ひげが用意した道の中からたった一つを自分で選び、その平均台のように不安定な細道の上を手放しで歩かなければならない。
ティーチがそれを楽しんでいる風なのも一層アンを腹立たせた。
アンはピリピリする苛立ちを飲み込んで答えた。
「…よっぽどヘマしなきゃばれないし、店は…続けたい」
「ああ、じゃあそうするといいさ。警察だってまさか街の飯屋の娘が話題の怪盗だなんて思いやしないだろうからなぁ!」
ティーチはアンの思った通り快く肯定を示して、用意していたようなセリフを吐いた。
アンは浮かび上がるあれやこれやの言葉を口に出さないのに精いっぱいで、これ以上何を言うこともできない。
「銀行ってのぁな、どこも大概一緒で、さらに警察の治下にあるヤツときたら警備は堅いがプロトタイプだ。だから内図を手に入れるのも暗証番号の入手も簡単だった。だが次は私邸だからなぁ、ちょいと時間がかかっちまうがまぁ滋養期間だと思ってのんびりしてりゃあいいさ。お膳立ては任せろ」
そうしてアンは、次に黒ひげから連絡が来るまでひたすら待つ日々となった。
待つというのはその間何もないのと同じで、ひたすら同じ毎日が続いていく。
平和で、幸せで、一瞬黒ひげのことも髪飾りのことも全て忘れてしまいそうになるけれど、アンの心に残った質量のあるしこりがそれを掴んで離さない。
離すつもりもないのでアンはそれにほっとして、それでも気分は重たい。
*
警視長とそのお供のリーゼントが店に初めてやってきて一週間後、彼らはまた姿を見せた。
しかし今度は遅い朝の時刻ではなく、昼過ぎの客が捌けてきた頃だった。
「よっ」
陽気な男の声にアンが振り向くと、相変わらず愛想のよい笑顔と目立つリーゼントの男と、打って変わって愛想のないお偉い警視長サマだ。
アンはやはり無意識のうちにこくんと小さく生唾を飲んだ。
「いらっしゃい、また来てくれたんだ」
「来るよー何度でも来ちゃうよー!アンちゃんに会いにねっ」
なんで名前知ってんだこのおっさん、と内心引き気味ながらもうまくなった愛想笑いを浮かべると、男は少し口を尖らせた。
「アンちゃん今「なんで名前知ってんだろう」って思ったろ」
「えっ」
「ふっふっふ、かぁーわいいなぁ。顔に全部出ちまってら。前に名前聞いたもんねーオレッチはサッチだもんねー」
きゅぅーと音を立ててやかんが沸騰するみたいに顔に熱が昇った。
そんなこと初めて指摘されたし、こんな熱くなりかたも初めてだ。
しかしリーゼントの後ろにいた男、マルコがリーゼントの後頭部を容赦なくはたいた。
「突っ立ってないで入るよい」
「あっ、待てよマルコおれカウンターがいい、アンちゃんの近くがいい」
「うるっせぇ…」
サッチは騒がしい足取りでカウンター席に歩み寄り背の高い椅子に腰かけた。
「外あっちかったー」とサッチは黒の上着を脱ぎ、金属パイプのささやかな背もたれにそれをかける。
店の隅の席へと行こうとしていたマルコはその背中を鬱陶しそうに見てから、黙ってサッチの隣の席に座った。
同じように深い灰色の上着を脱いだ。
アンは一瞬の隙にちらりとサボに目配せすると、遠くのテーブル席を片していたサボもやはりアンを見ていた。
大丈夫、と目で伝えるとサボは微かにうなずいた。
「あー腹減った。アンちゃん、お昼はどんなの?」
「あ、えっと、この中からパンかチキンライスか選んで、こっちの中からおかず3種類選んで、日替わりのサラダとスープと、あとコーヒーのセットがある」
「んじゃオレライスで、これとこれとこれ。で、コーヒーよろしく!」
「はいはい」
アンは手元のメモにサラサラッと注文を移してから、ちらりとマルコに視線をやった。
「…そっちの人は?」
また「コーヒー」とだけ言うのかな、と半ば期待のようなおかしな感覚を抱いていたアンは、マルコが静かな声で確かにセットのオーダーを伝えたので少し驚いた。
「…結構、量あるけど」
思わずそう言うと、マルコは驚いたようにメニューからアンへ視線をやった。
テレビ越しに見たときや、サッチと並んでいる時の気のない顔つきだけが印象に残っていたアンは、その時のマルコの視線が案外強かったことに一瞬たじろいだ。
「…別に小食ってわけじゃねぇよい。朝は…前まで食べねぇ方だっただけで」
「そうそう、こいつあれからちゃんと朝飯食ってんだぜ。アンちゃんの弟の…あのボーズに言われてからきちんとな」
サッチはえらいえらいと一人頷いて、マルコは心底鬱陶しそうな顔を浮かべた。
ああそうなんだ、と全く気の効かない返事をしてアンは調理にかかった。
先に作り置きのサラダとスープだけ出して、おかずも基本的に作ってあるのであとは盛るだけ、パンを焼いてチキンライスを軽く炒める間にすべてできてしまう。
その短い間でも、アンの耳は二人の男の会話に向いていた。
サッチは少年課の刑事だというし、かたや一方は怪盗を相手にする警視長で、お互いに仕事の話がかぶるはずもなく二人は一切アンにとって有益な会話をしてくれない。
少し期待したのが馬鹿みたいだと冷めた気持ちになって、でもそれが何となくほっとするような清々しいような気もして、アンは対・客用の自然な笑顔を浮かべてランチセットを給仕した。
「おお、うまそう」
つんとスパイスの効いた香ばしいにおいにサッチは鼻をひくつかせてフォークを手に取った。
マルコもサッチと同時におかずを口に運ぶ。
うめぇ、とサッチが唸るように言った。
「アンちゃん本当にうめぇな、メシ。いい嫁さんになるぜ」
ハハ、と愛想笑いしか返せない。
サッチはカレー粉で和えたごろごろチキン入りの野菜炒めを一口口に入れて、うんとひとり頷いている。
「アンちゃん、これ普通に野菜とチキンカレー粉で炒めただけ?もし企業秘密とかそんなんじゃなかったら教えてほしいんだけど」
「ああ、それは炒める前にチキンにレモン汁と塩コショウで下味つけて…あとはふつうに炒めただけだけど」
「へぇ…野菜は何でこんな甘いの?」
「たぶん元がおいしいんだと思う」
アンが淡泊に答えると、サッチは皿の中身からアンに視線を移してにへっと笑った。
アンがきょとんと目を丸めると、サッチは何が嬉しいのかにこにことアンを見る。
アンは視線の置き場所に困って、下準備をしていた手元の野菜に逃げて適当な言葉を紡いだ。
「お客さん料理するの?」
「うん、サッチね。するよ、結構すき」
「へぇ、奥さんは?」
「薄給の公務員に添い遂げてくれる女神なんてそういなくてね…」
一瞬サッチの言葉の意味が分からなくて、アンは会話のテンポを崩した。
しかしすぐ意味を掴み直して少し慌てた。
「ごめん、余計なこと」
「いーのいーの、警官なんてそんなもんよ。独身寮なんて名前の通りそんなやつらの集まりだぜ、なあマルコ」
相変わらずマルコはうんともすんとも言わないが、サッチもマルコの返事を求めていたわけではないのだろう、気にした様子はない。
ということはこのおっさんたち二人とも独身で、こうして仲良くつるんでるわけかと少し状況を把握した。
アンは下準備の終えた野菜たちをトレーに入れラップをかけ冷蔵庫にしまうと、皿洗いに移ろうとシンクの前に立った。
しかしいつのまにかカウンターを回って厨房側にやってきたサボが、おれやるからとアンの手からスポンジを取った。
アンはきょとんとして、しかしすぐにありがとと場所を譲る。
「あれ、そういやおにーちゃん前いなかったな、バイト?」
サッチはフォークを咥えたままアンとサボを交互に見上げた。
ふたりは顔を見合わせて、少し笑う。
「違うよ、家族。ここうちの3人だけでやってるから」
「へぇ!兄妹?珍しいな、兄弟だけでやってる店なんて」
「お客さん、刑事さんなんだろ?アンが前言ってた」
ちょっ、と思わず声を漏らしてサボを振り向くと、サボはアンの方を見ることなくサッチに向かってにこにこしている。
アンは思わず隣にいるサボにしか聞こえないほど小さなため息を漏らした。
サボはこういう思いがけないところでしたたかだ。
「おうそーよ。ってかアンちゃんオレのこと話してくれてたんだなーおじさん嬉しい」
「刑事さんがこの辺にいてくれるなら安心だなって喋ってたんだ。最近物騒だろ?ほら、銀行やぶりとか」
ごとっ、と切った人参の半分が分厚いまな板から落ちた。
切り口ががたがただ。
「おうおう、それな。オレァ結構専門外だからいたいけな少年少女をやさしく指導してやるしかできねぇんだけどよ、こっちのマルコさんは、アレだ、ほら、テレビで見たことねぇ?」
「あるある、お客さん警察の偉い人でしょ。『怪盗A対策本部』の」
愛想のよいサボのにこにこ顔にもマルコは無反応で、少しサボのほうを見ただけであとは食事を続けている。
サッチが代わりに「ごめんな、こいつコミュニケーションのハウトゥーしらねぇんだ」と苦笑いを返した。
サボは気にした風もなく笑顔で首を横に振る。
「どう?怪盗A、捕まえられそう?」
「まだなんともわかんねぇよなー、なっマルコ」
サッチが気を利かせたのか、それともその返答が守秘義務のある警察の精一杯なのか、とにかくサッチは肘でマルコを小突いた。
マルコはサッチに応えることなくひたすら咀嚼のために口を動かしていて、このまま無視かと思ったときになって低い声がサボとアンの耳に届いた。
「捕まえるよい、絶対ェ」
足元をぐらつかせるような低い声が確かに聞こえて、アンはもう一度唾を飲み込んだ。
ふたりが来店したのは14時頃で、二人はゆっくり食事を味わい、アンとサボにちょいちょい会話をはさみつつゆっくり食後のコーヒーを飲んでいたので彼らが店を去ったのは15時半頃だった。
いつもこの時間になると客の数はがっくりと減る。
店を開いて2か月以上たち、そのうわさはまたたく間に広がり多くの人が足を運んでくれたので、店の運営状況を理解してもらうのも早かった。
おかげでティータイムや早いディナーを求めてくる客は減り、いつも15時ごろにはスムーズに店を閉めることができる。
それでも午後に用事を持たない客がランチのあとゆっくりしていくことも少なからずあるので、そういう客を追い出したりはしない。
ゆえに店を閉める時間は特に決めていないので、このときもサッチとマルコが帰った15時半になってようやくデリは閉店した。
ふたりとの会話中にサボが食器洗いを粗方済ませてくれたものの、いつもより少し遅い閉店は自分たちの生活にも少し影響が出る。
ルフィが帰ってきたときに夕飯ができていないという事態はできれば避けたいのだ。
学校から帰ってきて、家に上がったときに香る夕飯のにおいは宝物だ。
ルフィにとってはもちろん、アンにとってもサボにとってもそれは大事にしたかった。
だからアンとサボは閉店後、言葉で確認し合うことはなくともなんとなく片づけを急いだ。
客席をざっと片づけて椅子を上げ、厨房の中はひとかけらの野菜クズを残すことなく磨き上げる。
店内の床の掃除はルフィが風呂の前にすると決まっているので、以上で片付けは終わりである。
しかしアンとサボの仕事が終わるわけではない。
アンは次に夕飯の支度にかかり、サボは自分の足でパン屋や雑貨屋に回って店の必需品を調達に行く。
野菜は毎朝届けてもらえるが、これらの品はいつもサボが閉店後直接出向いているのだ。
「じゃあ行ってくる」
「うん、気を付けてね」
サボが西日の差す通りの人並に紛れていった。
アンたちの住居の隣の駐車場には、サボのバイクがとめてある。
一か月前は、そのバイクはタイヤが大きくて籠のついた自転車だった。
3人は相談の末、黒ひげから渡された金でバイクを買ったのだ。
普段使いもできるし、有事の際に足があった方がいいという判断である。
今のところバイクに乗れるのはサボだけなので、サボしか使っていないしそれで不自由はない。
ルフィは「オレも乗りたい」とごねるが乗っても精一杯のところサボの後ろだ。
運転免許に年齢制限があるので致し方ない。
この国の免許取得は気の抜けるほど簡単なので、ルフィもそのときが来ればきっとあっというまに免許を取るのだろう。
しかしアンはそんな簡単な免許を取る時間もないし、サボが乗れるのでまあいいかと思っている。
この街の人の帰宅は早い。
基本的に大型スーパーやレストランバー以外の小売店は平日なら17時に閉まるし、休日は半日だったりまるっと閉店だったりする。
もちろん夜の仕事の人はこれから出勤だろうし、残業の人もいるだろうが、17時前のモルマンテ通りは基本的に帰宅途中の人でごった返すのだ。
そうして行きかう人々の隙間から、バイクに乗ったサボが店の前を通り過ぎるのが見えた。
厨房の水気を隅から隅まで拭き取ったアンは、ようやく頭のバンダナを取った。
同時に髪を止めていたダッカールピンを外すと髪が音を立てて肩に落ちて、途端に汗で湿った首すじに貼りついた。
そのなんとも言えない気持ち悪さに顔をしかめながらエプロンも外す。
店の中は一応冷房で冷やされているが、片づけが粗方終わった時点で切ってしまったので既に熱い空気がたまっていた。
なんとなく伸ばしているだけなら切ろうかとも思うが、黒ひげとの仕事中にあのウィッグをつけていることを思うと、実際とのギャップが必要だ。
そう思うと踏み切れず、きっとこのまま伸ばし続けるのだろうとも思っている。
あと4か月ほどすれば、写真の母さんと同じくらいの髪の長さになるだろう。
アンは店の売り上げが入った箱を持ってカウンターの外側に出た。
シャッターのかぎが閉まっていることを確認し、反対に出入り口が開いているのを確認する。
そして二階の自宅に上がろうとカウンターの前を横切ったとき、つま先にコンと何かが当たりそれは床の上を滑って壁にぶつかった。
「わっ」
なんだ? と視線を下げると、手のひらサイズの紺色の手帳が壁の手前に落ちていた。
アンは慌てながらも慎重に金のつまった箱を客席において、手帳を拾い上げた。
サボがこんなものを持っていた覚えはないのできっとお客さんの忘れものだろう。
掃除は客席の上と厨房しかしていないので、カウンターの下は死角になっていてアンからは見えないし椅子に隠れてサボからも見えなかったのかもしれない。
手触りのいい柔らかいレザーの表紙を手で払って埃を落とす。
常連さんので取りに来てくれるといいけど、と考えてからハッとした。
アンが手帳を蹴ってしまった場所は、ちょうどマルコが座っていた席の後ろだ。
そしてその椅子の背にマルコは上着をかけていた。
その上着からこの薄い手帳が落ちたとしても、あの時のざわめきに紛れて気付かないのは十分あり得る。
もしかしたらサッチのかもしれない。
それでもなんとなく、いやほぼ確信に近く、アンはこれはあの男のだと思った。
あの静かな男は、この深い紺色を選ぶ気がした。
マルコのことをまだ何も知らないのに、どうしてそんな気がするんだろうと胸がざわつく。
そしてまた別の意味で胸が騒いだ。
もしこれが仕事の手帳ならば、なにかアンにとって有益なことが記してあるかもしれない。
そんな秘密事項を記した手帳をただ昼飯を食べただけの場所で落とすようでは警察幹部など務まらないかもしれないが、ありえないことではない。
アンは手帳を両手で挟むように持って、そっと出入り口の方に目をやった。
誰が来るはずもないのに、人目をはばかってしまう。
アンは手帳の表紙を捲った。
1ページ目は白紙。
もう一枚を繰って、ぎょっとした。
細かい字がぎっしりと、それはもうアリの大群のようにぎっしりと詰まっているのだ。
しかも下手な字ではないが特徴的な書き方の上に筆記体の文字は非常に読みにくい。
アンはいちばん上端の文字から読み始めてさっそくげんなりした。
しかし書いてあるのはどうも単語の羅列や数字だったり、時刻だったりがほとんどだ。
「PM5.20」や「○○駅前」というどう見てもただ覚えておかないことを走り書きするだけのためのメモらしい。
簡単な言葉ばかりなのにきちんとメモをするのはオッサンの特徴だろうか。
アンはがっかりしたような、それでもすこし安心したような中途半端な思いでメモを閉じた。
サッチはまた必ず来るといっていた。
アンもそんな気がしている。
そしてそのときはきっと、マルコを連れてくるだろう。
寡黙な男でサッチの言動を鬱陶しがっているが、アンの店にいやいや来ているようには見えなかった。
コーヒーもおいしいといってくれた。
ごはんも残さず食べてくれる。
きっとまた来てくれるだろう、それまで保管しておこうとアンはとりあえずそれを自分のジーンズのポケットに皺にならないよう突っ込んだ。
そしてはっとして時計を確認した。17時を回っている。
今日の朝、自宅用の冷蔵庫を覗いたとき牛乳が足らないなと思ったのを思い出して、アンは急いで売り上げを自宅の鍵のかかる部屋に保管して、一息を入れる暇もなく買い出しに家を飛び出した。
*
家から一番近いスーパーまで歩いて15分ほどだ。
基本的に移動手段は公共交通機関か自分の足しかないアンは、せっせと歩いてスーパーに向かう。
スーパーは夜の9時ごろまでしているので慌てることはないが、急ぐ理由はこっちにある。
18時前にサボが帰ってきて、18時半にルフィが帰ってくるから、のんびりしていると二人を待たせてしまう。
待てといったら文句を言いつつ待つだろうけど、牛乳の買い忘れはアンのミスなのだからできれば影響させたくない。
ゆえにアンはせっせと足を動かして10分ほどでスーパーについた。
真っ先に乳製品コーナーへ足を向けて、2リットルのボトルを2本カゴに入れる。
それで用事はさっさとすんだのだが、習い性というか職業病というか、アンの目は食材を吟味していた。
主婦の性のような自分の癖に少し苦笑いのようなものが漏れる。
だが急いでいることに変わりはないので、アンは牛乳と、サボの好きなメーカーのボトルコーヒーとルフィのお弁当の材料を少し買って店を出た。
計5リットルの飲料と食材を1つのビニール袋にまとめていれると相当な重さだったが、基本的に野菜のつまった段ボールを自身で移動させているアンにとってはたいした労働ではない。
それよりそろそろサボが帰っているかもしれないと思うと気が急いだ。
時刻は18時少し前だ。
夏になると日が落ちるのが遅いこの地域では、初夏の今はいちばん日没が遅いころだろう。
西の方が少しオレンジに滲んでいるが、真上はまだ青い。
通りの人通りはピークより少し減り、まだ歩きやすい方だ。
アンは流れる汗で貼りつく髪を片手で後ろに払いながらせっせと歩いた。
「アン」
ふと名前を呼ばれた気がして立ち止まり、あたりを見渡した。
突然足を止めたアンに、アンの後ろを歩いていた男性が迷惑そうに避けて通り過ぎていく。
きょろきょろと辺りを見渡しても、アンの周りの人々はアンを追い越していくか前から通り過ぎていくだけで誰も足を止めないし、見知った人も見当たらない。
車道に車は少なく、路上駐車が禁止区域でない限り一般的な街なので、アンの近くにも車が2台止まっているだけだ。
知った声ではなかったし気のせいか、とアンが再び足を進めたそのとき、今度は少し慌てたような声がまたアンを呼んだ。
気のせいじゃない。
アンは今度は的確に声のした方を振り向いた。
車道の端、歩道に身を寄せるように停まった2台の車のうち前に停まった黒い車。
黒光りするボディと程よい車高のその車の運転席の窓を見て、アンは思わずアッと声を上げた。
人の間を縫って慌てて駆け寄る。
マルコは半分ほど開けていた窓を全開にした。
「今お前さんの店に行ったんだけどよい、もう閉まってたから今日は無理かと思ったよい」
ふっと、マルコは息を吐くついでのように少し目元を緩めた。
サッチと一緒のとき、店で見るときとは少し雰囲気が違う。
上着は来ているけど、ネクタイは少しゆるくて、ハンドルにかかる片手はこの男らしくどこか気だるげで…
「お前の店に忘れもんしちまったかもしれねぇんだが」
「あっ、あの、これ?」
慣れない奇妙な雰囲気にのまれかけていたアンは、ハッとしてポケットに入れていた手帳を取り出した。
マルコが驚いたように手帳に目を止める。
「持ってたのかい」
「さ、さっき店閉めるときに気付いて、お客さんのかなって思ったからとっとこうと思ってポケットに入れて、そのまんま買い物に、」
マルコは手帳を持つのとは反対の、下に伸びた買い物袋を下げたアンの右手を見下ろして、「ああ」と言った。
アンは少し屈んでマルコに手帳を差し出した。
「ありがとよい」
マルコは手帳を受け取って、それを上着の胸ポケットにそのまましまう。
暗い灰色から少し覗く紺色のそれは、あるべき場所に戻って落ち着いて、色の深みを増したように見えた。
「じゃあ」
アンはぺこりと少し頭を下げて歩き出した。
しかしすぐに、「アン」と名を呼ばれる。
不思議な響きがした。
サボやルフィが呼ぶのとは違う。
サッチが「アンちゃん」と嬉しそうに呼ぶ声とも違う。
この短い時間の間で3回よばれた自分の名前が別の響きを持ってふわりとアンに寄り添った。
アンが振り向くと、マルコは顔の横で自分の隣、右側の席を指さした。
「礼だ。送ってくよい」
「や、でも反対方向…」
「車なら5分もしねぇだろい。乗れ」
軽いのに、有無を言わせない響きを持つ。
普通に街で暮らしていればあまり関わることのない、人の上に立つ人間の声だ、と思った。
言葉だけをとれば命令口調のそれに従わざるを得ないような気分にさせるのはこの男がそれなりの人徳を積んでいるからで、アンはそれじゃあと呟いて後部座席のハンドルに手をかけた。
「あー、後ろはちょいと荷物が乗ってるからよい、悪ぃがこっちに回ってくれねぇかい」
マルコが再びちょいちょいと助手席を指さした。
暗いスモークガラスの向こうはよく見えなかったが、アンは言われた通り車道側に回って車が来ないのを確認し、ドアを引いた。
「重っ」
八百屋のおっさんがついでに送ってくれるときの大衆車のドアの重さを想像していたアンは、逆にドアに引っ張られるほどのその重さに目を剥いて思わず声が漏れた。
マルコが苦笑するような顔をしてアンに手を伸ばした。
やっとのことでドアを開けたアンは、マルコのその仕草に首をかしげる。
見たことのない顔でアンに手を差し伸べるマルコは、端的に「荷物」と言った。
「あ、あぁ、ありがとう」
慌てて5リットルのボトルが詰まった袋を両手で引っ張り上げて体より先にマルコに手渡す。
マルコはそれを片手で受け取り引き寄せた。
「おじゃまします…」
アンはそろそろと車内に踏み入れて、今度は重さを覚悟してドアを手前に引く。
重さに見合った音ともにドアが閉まった。
車内に入った瞬間、冷えた冷気と共に、うわっと思わず少し顔をしかめるほど煙草の匂いがアンにまとわりついた。
もしかしたら少し顔に出ていたのか、マルコは苦笑しながらアンに袋を差し出した。
「悪ぃな」
何を、と言わないのでやはり顔に出ていたのだろう。
少し気まずい思いでアンは買い物袋を受け取った。
皮張りのシートは深く、おしりが安定して座りやすい。
「ベルト閉めろよい」と律儀に言うマルコに従って、アンはシートベルトをおずおずと引っ張った。
その間マルコは運転席と助手席の間にある備え付けのボタンやハンドルを押したり回したりして少しの間かちゃかちゃいじっていた。
そしてアンがしっかりシートベルトを締めて、膝の上に乗せた買い物袋を抱えているのを確認してから、すっと車を発進させた。
マルコはまず反対方向に進み、アンが買い物をしたスーパーに車を入れ方向転換をしてアンの家へ向かった。
アンは車が発進してすぐ、たいしてスピードも出ていないのにおしりがすべってずり落ちそうになったことに驚いた。
本革のシートに座ったのなど初めてなので、すわり心地はいいのに安定は悪いというそのちぐはぐさに焦る。
よってアンは右手で買い物袋を抱え、左手でシートを掴んでおしりが動かないようにするといった落ち着かない格好でどうにか耐えた。
自分の座席の安定に精一杯だったアンは、ふうと位置を固定してから会話のない車内の空気に気付いてしまい、今度は別の意味で落ち着かなくなった。
通り過ぎていく見慣れた景色を見るふりをして、運転席の男の顔を覗き見た。
奇妙な髪型。サボの髪より暗めの金髪。細い目と高い鼻。あごひげ。喉仏。
スーツ。薄い水色のシャツ。ハンドルを握る手。分厚いのに長く節くれだった指。
くっ、と押し殺したような声がして、マルコの肩が揺れた、
「お前さんのまわりにゃあ、こんなおっさんはいねぇのかい」
随分もの珍しそうに見てくれるよい、とマルコは口角を上げて、もう一度くくっと喉を鳴らした。
覗き見たつもりが、いつの間にかじっと観察してしまっていた。
アンが口を開けてぱくぱくと空気を吐き出し、出ない言い訳にまた焦っているうちに車はアンの店の前に停車した。
アンはこれ幸いとドアに手をかけた。
「あ、ありがとう」
「いやこっちこそ」
気を付けてドア開けろい、と言った顔はまだ笑いの余韻が残っている。
アンはおたおたとシートベルトを外し、車が通らないのを確認して外に出た。
ドアを閉める前にもう一度ぺこりと少し頭を下げる。
マルコはそれを見て、微かに口元を緩めた。
アンが車の後ろを回って歩道側に立つと、車はゆっくりと発信して遠ざかっていった。
薄い橙色と白と水色のグラデーションが広がりつつある空の下で、アンは重たい荷物をぶら下げて、サボがアンを心配して外に様子を見に来るまでそこに立っていた。
去りゆく車を見ながら気付いたことに愕然としたのだ。
マルコの隣に座っている間、自分とあの男が絶対に相容れない立場にいることを忘れていた自分に、愕然とした。
→
犯罪に手を貸すことに対する罪の意識は不思議となかった。
サボもルフィもそのことに対してなにも言わなかった。
しかしティーチは、肯定の返事をしに再び事務所に赴いたアンに何度もそのことを問うた。
「途中で腰が引けて、やっぱりやめにするなんてのぁなしだぜ、アン」
「わかってるよ…そんなことしない」
「あァ信じてるぜアン。そりゃあ立派な裏切りだ」
ニヤニヤと品のない笑みで念押しを繰り返すティーチから顔を背けて、アンはもう一度わかってると呟いた。
『裏切り』という言葉が飛び出してきたことで、悟った。
これは契約なのだ。
ティーチたち一味の手引きで髪飾りを取り返すアンと、アンの仕事によってニューゲートの地位を貶め恨みを晴らすティーチ。
ティーチはニューゲートに対する具体的な恨み言を口にしなかったので、かの地位からニューゲートを引きずり落とすことでティーチにどんな益があるのかアンには想像がつかない。
ただの憂さ晴らしのようにも見えた。
大人の喧嘩に巻き込まれたような馬鹿馬鹿しさを感じないでもなかったが、アンにも大事な対価が用意されているので、それについて特にアンは触れていない。
結局なぜティーチがニューゲートを嫌っているのかはわからないままだ。
「オレたちのことは黒ひげと呼べ。総称だ」
そう言われたので、サボたちとの話に出すときはその名を使っている。
おそらく個人名を出すと社会的にいろいろまずいのだろう。
ティーチにとってまずいことは、今のアンにとってもまずいことなので、基本的に筋が通っていることなら言われたことには従うしかない。
「オレたちと、アン、お前はいわば運命共同体だ。上手くやろうぜ」
──冗談じゃない。
一回目の仕事は、その次の日からアンと黒ひげの間で相談が交わされ始めた。
ほぼ一日おきの頻度でラフィットがアンを迎えに来る。
次の会合の予定は帰りに伝えられた。
基本的にアンの予定を黒ひげの側がうかがうことはなく、一方的だ。
それで困ることがないのが少し悔しい。
黒ひげの事務所では、アンとティーチは初めて互いをまみえたときと同じように向かい合って話を進めた。
「4つの髪飾りを順に盗っていくしか手立てはねぇわけだが、アン、お前はどれが本物だと思う?」
そう言われても、と心のうちで呟きながら、アンは手元の資料に目を通した。
ひとつはこの街の年老いた金持ちが運営する私立美術館。
ひとつは財閥創始者の妻が髪飾りを預けた銀行。
もうひとつは成金息子のコレクションルーム。
そして最後の一つは宝石商の店だ。
「…こいつらの中で『アタリ』の奴は、自分の持ってるのが本物だって知ってんの?」
「ゼハハハ!奴ぁ全員自分の持ってるのが本物だと思ってるさ!そもそも偽物の存在さえ意識してないバカどもだ」
「それじゃあどこから狙っても同じじゃんか」
アンは資料を見比べた。
ティーチはその姿を面白そうに見ている。
「いいさ。どこから行くかはテメェで決めな」
美術館、銀行、成金の家、宝石商の店。
一番目が利きそうなのはやはり宝石商か。
いやしかし、本物は偽物より高く売られたはずだからそれを商売にする宝石商が手を出すかと言われたら考えてしまう。
この宝石商は、髪飾りを売り物にせずずっと店の中に非売品として飾っているのだと言う。
おおかた店の核を上げる道具のようなつもりなのだろう。
じゃあと残りの3つを見比べてから、アンは言った。
「ここ、銀行にする」
「ほう」
ティーチはニヤリと笑った。
「またどうしてだ?」
「一番警備が固そうだから、本物が預けられてんのなら銀行じゃないかと思って」
ティーチはアンの推理を聞くと、大きな笑い声を上げて喜んだ。
「いいぜ、アン、オレァお前のそういう肝っ玉の座ったとこが好きだ。よし、じゃあ銀行から行くとしよう」
その日はそれだけ決めると、ラフィットが車を出してアンを送った。
「銀行内の仕組みや具体的な『やり方』はこっちに任せてもらうぜ。何、ヘマ踏ますようなこたぁさせやしねぇから安心しな」
ティーチは帰り際にそう言ってアンを見送った。
黒ひげの手引きがどれだけ煩雑であろうとヘマなんか踏むもんか。
あたしは捕まるわけにはいかない。
母の形見が流されたその源泉なんかに、サボとルフィを残して捕まるわけにはいかないのだ。
*
後ろ暗い計画が遂行していくその一方で、アンたちの店は誰の目に見ても明らかなほど、街に新しくできた飯屋として軌道に乗ろうとしていた。
店のメインとして位置付けたモーニングは大人気で、朝の時間店を開けてすぐが一番忙しい。
とくにたった一人で料理を仕上げなければならないアンはおおわらわである。
しかし同じくして慌ただしく働いた後、休むまもなく学校へ行かなければならないルフィも相当の気力・体力が必要だし、サボさえもホールと経理の2足のわらじだ。
つまりはアンがアンであり、サボがサボであり、そしてルフィがルフィたるがために店はなんとかまわっている。
この胆力に気付いた街の人々は口々にアンたちの店の噂を語り、評判は布に水が染み込んでいくようにじわじわと、しかし確実に広まっていた。
喜ばしいことである。
売り上げは伸び、店の明度は増し、アンたちも近所に溶け込みやすくなった。
しかし皮肉なことに、そのぶん危惧は増した。
アンが犯そうとしている罪は、アンの顔が割れてしまえばすぐに露見してしまうだろう。
それを黒ひげに伝えると、心配いらねぇさと大き目の紙袋を手渡された。
「家帰ってから中身あらためてみやがれ。問題ねぇとわかるだろう」
その言葉の通り、アンはその日の夜、サボとルフィと紙袋を囲みながらその中身を床にぶちまけた。
出てきたのはシルクのような生地の薄いコート、皮の手袋、ペロンとしたよくわからないゴムのような薄いシートと、短髪のかつらだった。
「すげぇ、変装セットだ!」
とルフィは妙に興奮したが、アンは思わず「なんだ」と声を出していた。
黒ひげが自信満々に大丈夫だと言うので何かと思えば、まるで安い映画のような変装をして臨めと言うのか。
「…こんなんでばれないかなあ」
不安をそのまま口にすると、いや、とサボがかつらに視線を落としたまま呟いた。
「ちょっとアン、うしろ向け」
言うや否やサボはアンの肩を掴んでぐりんと後ろを向かせた。
なんだ?と問う間もなくサボはアンの長い髪を手で束ねると、リビングのテーブルの上に放ってあった髪ゴムに手を伸ばし、それでアンの髪をくくった。
そしてアンの頭の上にすっぽりとかつらをかぶせる。
「おぉー!すげぇ!」
アンの正面でルフィが歓声を上げた。
「なに?なに?」
「うん、案外わかんねぇかもよ。ルフィ、鏡」
手鏡がさっとアンの顔の前にかざされた。
鏡の中に映るのは間違いなくアンだが、まるで同じ髪色の少年のようだ。
大きいがアーモンド形で少しつり気味のアンの目と高い鼻は男顔の要素も備えているのである。
顔が小さいぶん青年と言うより少年ではある。
「そんなに変わってる?」
「まあ今のアンを見ても知ってるやつはアンだってわかるけど、コレすれば完璧だろう」
そう言ってサボはアンには使い道の分からなかったゴム生地のような薄い膜を手に取った。
それなに?と振り向きながら問おうとしたアンの顔にそのシートがぺたりと貼り付けられた。
ひやりとした感触にアンは思わずうひゃっと声を上げた。
「なに!?」
「マスクだろ。アン、目のとこ穴開いてるから目開けても平気だぞ」
「すげぇぞアン!本物の怪盗みてぇだ!」
アンはおそるおそる目を開いた。
目の前の鏡の中、耳の下あたりまでと言う短い髪の自分の顔に、黒いマスクが口から上をぺたりと覆っていた。
「なんだこれ!」
真っ黒に染まった顔はまさしく映画で見る怪盗のような姿で、どこか真の抜けるその様相に思わず噴き出した。
「え、あたしこのカッコで行かなきゃなんないの?」
「カッコいいぞーアン!」
「うん、これでこのコート羽織ってればまず女には見えないな」
そう言って笑いながらサボが薄手のコートを差し出すので、アンも調子を合わせてそれを受け取り、羽織った。
軽くて動きやすい。
とっとっと、と後ずさってルフィが手に持つ小さな手鏡に映る全身を確かめた。
「全身真っ黒だ」
「らしくていいんじゃないか」
「アンッ、次オレも着てぇ!」
「ルフィにはちょっと小さいよ」
「ちぇっ、あーオレも怪盗やりてぇ!」
じゃあ3人でやるか、とサボが言ってルフィが笑うのでアンも笑った。
この一連の会話が嘘くさく思えるのはきっと限りなく嘘に近いからだ。
重たい事実から逃げるために笑うしかないのは、あたしたちが子供だからだと思い知る。
*
決行は実に簡単だった。
アンは「その日」の2週間前に銀行の地図を手渡され、計画の一連の流れを黒ひげによって説明された。
その説明を施したのはティーチでもラフィットでもない、オーガーと言う名の陰険な顔つきの男だった。
「黒ひげ」の頭脳要員らしい。
彼は初めてアンの前に現れたにもかかわらずろくな挨拶も交わさず、事務的な説明をいきなり始めた。
馴れ合うつもりのないアンにとってもそれはただの好都合である。
アンは2週間かけて、銀行内部の地図と計画を頭に叩き込んだ。
黒衣をまとったアンは午前1時の銀行の警備員を麻酔銃で2人倒し、頭に刷り込んだ地図を頼りに一つずつ黒のスプレーで防犯カメラの画面を塗りつぶしていく。
それが終われば、もうあとは問題の金庫の前へ行くのみである。
金庫の暗証番号と指紋サンプルはなんと既に黒ひげによって用意されていた。
アンはそれらを持って、金庫の扉を開き、中のものを取ってくるだけでいい。
つまるところアンはただの駒にすぎない。
黒ひげが整えたすべての手順に沿って、少し危険な仕事をこなしていくだけの被雇用者。
アンは淡々と作業を進めながら、この行為の目的に自分の思惟も含まれることを忘れそうになった。
暗証番号を正確に入力し、指紋サンプルを張り付けた皮手袋の指で液晶を押せば赤色のランプが緑色に変わる。
闇をも吸い込みそうな静寂の中、ガッチャンと大仰な音と共に金庫の扉が開く。
ここからが正念場だ、というオーガーの声を思い出した。
金庫の扉が開くと、自動的に警察の管理局に情報が行く。
管理局で睡魔と闘っている夜勤の警備員がそれに気付いたら、明らかに不審者の侵入が確認されてしまう。
そこから警察が動き、銀行へと向かうまでの間にアンは目的のものを盗って逃げなければならない。
『だが心配はいらない。逃げ道はここに示してある通りのルートを辿ればすぐに外へと出られる。外に出れば黒ひげがお前を拾い逃げる。警察が腰を浮かすまでの時間で全てが終わる』
5畳ほどの広さがある部屋のような金庫に足を踏み入れたアンは、その広さの中たったひとつ、ショーケースのようなものが部屋の真ん中に置かれているのを見つけた。
すばやく近づいて、小型の懐中電灯でそれを照らす。
ショーケースの中には真っ赤な花が咲いていた。
(ああ、)
これだ。いや、これかはまだわからない。
でもあたしはこれと同じ形のものをやっぱり知っている。
アンはショーケースを持ち上げ中のものを手に取ると、それを慎重に腰のウエストポーチの中にしまった。
ウエストポーチはこの髪飾りを入れるためだけのものなので、中はふかふかとクッションのようなわたでいっぱいだ。
アンは確かにウエストポーチを閉めたことを確認すると、一目散に金庫から飛び出した。
金庫が開いたことはすでに知られているので、丁寧に扉を閉める必要はない。
真っ暗闇の中で働いているのは頭の中に描いた地図だけで、それを頼りに出口を目指す。
今にもパッと灯りが付き、黄色い光がアンを指さすのではないかと思うと吐きそうなほど緊張し、それでいて胸が痛いほど昂揚した。
アンは銀行の社員給湯室の窓を開け、そこから身を滑りだす。
排水くさい裏手を走り抜けて道路に出ると、黒い車が一台停まっており中の人物がアンを手招く。
アンが飛び込むように車に乗ると、車はまるで待ち合わせた人物を乗せただけのような冷静さでスムーズに動き出し、素早くその場を去っていった。
*
翌日は店を臨時休業とした。
シャッターの外からは何度も何度も、客の不満げな声が聞こえたがごめんなさいと耳を塞ぐしかない。
アンは寝室の3つのベッドを占領して大の字で寝こけている。
ルフィはそわそわと何度も寝室を振り返りながらも仕方なく学校へ行った。
そしてサボは、アンが起きた時のために朝食の準備をしている。
アンが帰ってきたのは朝の4時ごろだった。
計画の粗方を知っていたサボは、きっとアンの帰りは明け方になるだろうと踏んですでに店の外に「臨時休業」の張り紙を張っておいたものの、アンが帰ってくるまで寝ていることなどできなかった。
つまりサボの方が一睡もしていない。
ルフィはサボと一緒にアンを待ちながらソファでうとうとしていた。
アンが初めて黒ひげの事務所へ出向いたときのことを思い出す。
いつでも自分は待ってばかりだと思うと歯噛みした。
そして今も、アンの朝食に大量のサンドイッチを作りながらもちりちりと胸を焼く悔しさに息が詰まっている。
サンドイッチが増産され続けていくのは、サボがその行為で考えを紛らわそうとしているからだ。
逆さになった新聞をぼうっと眺めていたサボは、外に止まった車の気配にハッと顔を上げた。
サボの膝の上に足を投げ出して寝ていたルフィも寝ぼけ眼のままむくりと頭を上げた。
『帰ってきたか?』
『ああ』
ルフィが落ちるようにソファの下に転がってから体を起こす。
寝ぼけているのかもたつくルフィを残してサボはすぐさま階下へと続く階段へ向かった。
店につながる階段を下りると、店の入り口あたりにアンがいた。
出ていったときと同じ格好、普段着で、手には大きめのビジネスケースのようなものを持っていた。
どっと重たい安堵が体にのしかかって、思わず膝が折れそうになった。
『…ただいま』
アンがふにゃっとした顔で笑った。
怪我はない、見たところ不調はなさそうに見える。
しかしその笑顔を見て、悟れるものは多かった。
サボは大股でアンに歩み寄って、覆いかぶさるように抱き込んだ。
サボの安堵とアンの悲しみが混じり合いながら互いの心の中に流れ込んでくる。
『良かった、アン…おかえり』
『サ、ボ。あたし…』
『ごめんな』
気付いたら謝っていた。
顎の下あたりで、アンが小さく首を振る。
『母さんのじゃなかった』
ごめん、と吐息に吹き飛ばされそうな声でアンは呟いた。
ゴト、と音を立ててアンが手にしていたビジネスケースを床に落とした。
はずみで開いたケースの中から弾けるように詰まっていた紙幣が溢れ出て床に散らばる。
後ろから近付いてきたルフィが、サボの背中にゴツンと額をぶつけて寄りかかった。
シャワーを浴びたアンは、昇ってきた朝日から目を逸らすように寝室へ直行して今も死んだように眠っている。
今日一日分の店の食材が余ってしまったが、新鮮を売りにしている以上パンはともかく野菜を明日へ回すことはできないので全てアンの朝食に使い切ってやった。
サンドイッチ作りは気づいたらレタスがなくなっていたので終わりだ。
シャッターを閉めた店の中は暗く、外の光は小さな窓からしか入ってこない。
暗いのは光のせいだけじゃない、と思いながらサンドイッチを冷蔵庫へ一度しまう。
大きな業務用冷蔵庫の上の段はすべてサンドイッチで埋まってしまった。
これは今日の夕飯もサンドイッチかもしれないな、とひとり苦笑した。
サンドイッチ作りが終了してしまったので他の仕事を探し、とりあえず手あたりしだい店を掃除することにした。
気が紛れていいし、いつも掃除はルフィに任せていたのでたまには自分がやるのもいい。
すべての客席の椅子をテーブルの上にあげていく。
アンが起きてきたら何から聞こうか、とぼんやり考えた。
怪我はなさそうだったし体調も特におかしくはなさそうだったが、黙っているだけかもしれないからまずはその確認。
それから、アンが持ち帰ってきた大金の出所。
アンは言いたくないかもしれないし、聞かなくても想像はつく。
黒ひげに握らされた金をアンがどんな思いで持ち帰って来たか。
考えるだけで頭がぼっと燃えるように熱くなる。
めったにサボが感じることのない感情。
これは怒りだ。
床を掃きテーブルを拭き電球を替え、まるでぜんまい仕掛けのロボットのように無駄のない動きで店中を磨き上げていく。
頭の芯を燃やすような感情はエネルギーへと変換した。
堅く絞った雑巾で店の壁中を拭きまくっていたサボは、手を動かしながら自分は怒るとこういう方向にエネルギーが出力されるのか、と妙に冷静な気分で分析していた。
時計の針が昼の12時を回り、店の外から臨時休業を嘆く声がまた聞こえ始めたころ。
階段を一段ずつ降りてくるおぼつかない足音が聞こえた。
「…サボ?」
ルフィのTシャツのお古をパジャマ代わりにしているアンは、よれたシャツに逆に着られているように見える。
サボがおはようと言うと、アンはまだ半分夢の中、と言った表情でおはようと返した。
「…掃除してたの」
「うん、暇で。アン、ちゃんとズボンは履きなさい」
「いま、なんじ?」
「ちょっと昼回ったとこ。腹減ったろ」
「ああ…」
アンはお腹に手を当てる仕草をし、自分の腹に問いかけるように首を傾げたあと、はらへった、とぽつりと呟いた。
「冷蔵庫にサンドイッチ、入ってる」
「おお~」
ただの返事なのか歓声なのかよくわからない応答をして、アンはぺたぺたと平べったいスリッパを鳴らしながら冷蔵庫へ近づき、その扉を開けてギャッと声を上げた。
振り向いた顔にはすっかり目が覚めたと書いてある。
「なんでこんなサンドイッチあんの!?」
「野菜余ったから…作りすぎた?」
「うはぁ…こりゃあ今日の夕飯もサンドイッチだねえ」
サボと全く同じことを口にしながら、アンはガタゴトとサンドイッチのトレーを取り出してカウンターに置いた。
「サボは?昼飯食った?」
「そういえばまだだ」
掃除に夢中になっていて、すっかり忘れていた。
とりあえず中断しよう、と雑巾をバケツに放り投げてから、やっぱり掃除はもう十分かと思い直してバケツごと裏手に運んだ。
サボが手を洗って戻ってくると、アンは相変わらずのパジャマ姿のまま、しかしてきぱきと動いて2人分のコーヒーを淹れていた。
「お客さん用の、使っちゃった」
たまにはいいじゃん、と言うとそだねとアンはたっぷりコーヒーを注いでくれた。
ふたりカウンターに並んで、もくもくとサンドイッチを口に運んでいく。
さすがに作りすぎたようで、食べても食べてもトレーの上のサンドイッチは減らない。
このトレーはまだあと2枚冷蔵庫に入っているはずだ。
さらにいうと、すべて同じ具材で作った上にアンのように料理に対する技術がないので全て同じ味である。
アンがサボと同量食べて折り返し地点に到達したあたりからサボはもう早々と飽きてしまい、コーヒーばかり飲んでいた。
「終わんないねぇ…」
サンドイッチを口に含んでもそもそとした口調のまま、アンがぽつんと呟いた。
それはサンドイッチの話なのか、はたまた別のことなのか判断しかねてサボは返事をしなかった。
「金、どうした?」
「二階の…タンスの中突っ込んである。うち、金庫とかないし」
「そう、だよな…びっくりした?」
うんと素直にうなずくと、アンは顔をくしゃっとして笑いながらごめんと言った。
「黒ひげの奴らが、とりあえず前金だって」
「前金?なんの…」
「偽物だったけど、髪飾りの。アレを裏で売った金の…どんだけって言ってたっけ…3分の1?それをあたしにくれるって言って…その3分の1のうちのそのまた半分がアレ」
まさか金もらえると思わなかったから、びびったよ。
そう言ってごくんと口の中のものを飲み込むと、はーっと深く息をついた。
その金にまつわるアンと黒ひげのやり取りは、見なくとも目に浮かんだ。
本物の髪飾りだけを欲して黒ひげの言いなりになり犯罪を犯し、結局盗ったものは偽物で、落胆するアンに「報酬だ」と大金を手渡す黒ひげ。
アンにとって本物の髪飾り以外価値なんてないのに、黒ひげはアンが盗ってきた者が偽物であろうと本物であろうとそれが成功する限り利益しかない。
「そんなのいらない」と拒むアンに下卑た笑みと共に金のつまったケースを押し付けて、おおかたアンを満足させた気になっているのだろう。
「…車の中にそのまま置いてきてやろうかとか…道でぶちまけてやろうかとか…思った、けど」
これじゃ本物の泥棒だ。
アンはカウンターに肘をついて、小さく肩をすぼめて縮こまった。
浅しい金、汚い金。
でもこれがあれば、「もしも」のとき、アンになにかがあったとき、サボとルフィを生かしてくれるかもしれない。
罪悪感と現実的な本心が渦巻いてアンの胸を押しつぶすのが目に見えるようだった。
(アンは優しすぎる)
「アン」
サボは震えるアンの腕を握った。
細く、サボの指が作る輪の中にアンの腕はすっぽりと入ってしまう。
ぎゅっと強めに握るとアンはようやくその力に気付いたように顔を上げた。
「迷うならもうやめろ」
アンは殴られたような目でサボを見た。
その目から目を逸らさないよう、サボもぐっと心を押さえつける。
迷ったらいけないのはおれも同じだ。
「続けるなら覚悟を決めろ。汚いことにはとことん汚いものがつきまとう。金だってそうだ。それが嫌なら…もうやめたほうがいい」
「やめ…やめらんない、よ。もう」
「逃げればいい。3人で逃げるんだ」
そんな、とアンは絶句して、ほろほろと眼から水滴を転がした。
逃げるとは、この店も、この街も全部捨てて出ていくということ。
簡単じゃないのはわかっていた。
アンは泣き続けながらサボを見つめて、もう一度首を振った。
「逃げない」
サボは思わずアンの腕を握る力をぐっと強めてしまった。
アンはそれに顔をしかめて、サボの顔が険しくなったのには気付かない。
(泣きながら何言ってんだ)
アンはサボが握るのと反対の腕でごしごしと顔をこすると、ギュッと唇を固く結んで、揺れないまっすぐな瞳でサボをもう一度見た。
「ごめん、あたしやるから。…金も、上手に使おう」
「…わかった」
サボがアンの腕を緩く離すと、そこはうっすらと赤く色づいていた。
アンは無意識にそこをさすりながら、まだ泣き跡の残る顔で笑って見せる。
「弱弱しいこと言ってごめん。もう大丈夫!」
アンは椅子をくるんと回して、体操選手よろしくぱっと椅子から飛び降りた。
サンドイッチの残りにサランラップをかけ直してそれを冷蔵庫にしまう。
「洗濯機回してくれた?」
「あ…まだだ」
「じゃ、ルフィが帰ってくるまでにやっちゃおう」
先程までの弱弱しさはどこへやら、アンはきびきびと動いてさっさと階段を上っていってしまった。
残されたサボは、ぽかんとその背中を見送るしかできない。
(アンは強い)
強すぎて、たまに折れ所を間違える。
「逃げる」と言ってくれていたらどんなに楽か。
いや実際楽なのはサボの気持ち的な面だけで、現実は厳しさを増すだろう。
それでもアンが逃げると言ってくれたら。
サボはアンとルフィの手を引いてどこまででも逃げる自信があった。
本物の髪飾りを手に入れるまで、アンはこの苦しさを繰り返さなければならないのかと思うとどうにもやりきれなくて、ちがう逃げたいのはおれのほうだと気付いた。
→
サボもルフィもそのことに対してなにも言わなかった。
しかしティーチは、肯定の返事をしに再び事務所に赴いたアンに何度もそのことを問うた。
「途中で腰が引けて、やっぱりやめにするなんてのぁなしだぜ、アン」
「わかってるよ…そんなことしない」
「あァ信じてるぜアン。そりゃあ立派な裏切りだ」
ニヤニヤと品のない笑みで念押しを繰り返すティーチから顔を背けて、アンはもう一度わかってると呟いた。
『裏切り』という言葉が飛び出してきたことで、悟った。
これは契約なのだ。
ティーチたち一味の手引きで髪飾りを取り返すアンと、アンの仕事によってニューゲートの地位を貶め恨みを晴らすティーチ。
ティーチはニューゲートに対する具体的な恨み言を口にしなかったので、かの地位からニューゲートを引きずり落とすことでティーチにどんな益があるのかアンには想像がつかない。
ただの憂さ晴らしのようにも見えた。
大人の喧嘩に巻き込まれたような馬鹿馬鹿しさを感じないでもなかったが、アンにも大事な対価が用意されているので、それについて特にアンは触れていない。
結局なぜティーチがニューゲートを嫌っているのかはわからないままだ。
「オレたちのことは黒ひげと呼べ。総称だ」
そう言われたので、サボたちとの話に出すときはその名を使っている。
おそらく個人名を出すと社会的にいろいろまずいのだろう。
ティーチにとってまずいことは、今のアンにとってもまずいことなので、基本的に筋が通っていることなら言われたことには従うしかない。
「オレたちと、アン、お前はいわば運命共同体だ。上手くやろうぜ」
──冗談じゃない。
一回目の仕事は、その次の日からアンと黒ひげの間で相談が交わされ始めた。
ほぼ一日おきの頻度でラフィットがアンを迎えに来る。
次の会合の予定は帰りに伝えられた。
基本的にアンの予定を黒ひげの側がうかがうことはなく、一方的だ。
それで困ることがないのが少し悔しい。
黒ひげの事務所では、アンとティーチは初めて互いをまみえたときと同じように向かい合って話を進めた。
「4つの髪飾りを順に盗っていくしか手立てはねぇわけだが、アン、お前はどれが本物だと思う?」
そう言われても、と心のうちで呟きながら、アンは手元の資料に目を通した。
ひとつはこの街の年老いた金持ちが運営する私立美術館。
ひとつは財閥創始者の妻が髪飾りを預けた銀行。
もうひとつは成金息子のコレクションルーム。
そして最後の一つは宝石商の店だ。
「…こいつらの中で『アタリ』の奴は、自分の持ってるのが本物だって知ってんの?」
「ゼハハハ!奴ぁ全員自分の持ってるのが本物だと思ってるさ!そもそも偽物の存在さえ意識してないバカどもだ」
「それじゃあどこから狙っても同じじゃんか」
アンは資料を見比べた。
ティーチはその姿を面白そうに見ている。
「いいさ。どこから行くかはテメェで決めな」
美術館、銀行、成金の家、宝石商の店。
一番目が利きそうなのはやはり宝石商か。
いやしかし、本物は偽物より高く売られたはずだからそれを商売にする宝石商が手を出すかと言われたら考えてしまう。
この宝石商は、髪飾りを売り物にせずずっと店の中に非売品として飾っているのだと言う。
おおかた店の核を上げる道具のようなつもりなのだろう。
じゃあと残りの3つを見比べてから、アンは言った。
「ここ、銀行にする」
「ほう」
ティーチはニヤリと笑った。
「またどうしてだ?」
「一番警備が固そうだから、本物が預けられてんのなら銀行じゃないかと思って」
ティーチはアンの推理を聞くと、大きな笑い声を上げて喜んだ。
「いいぜ、アン、オレァお前のそういう肝っ玉の座ったとこが好きだ。よし、じゃあ銀行から行くとしよう」
その日はそれだけ決めると、ラフィットが車を出してアンを送った。
「銀行内の仕組みや具体的な『やり方』はこっちに任せてもらうぜ。何、ヘマ踏ますようなこたぁさせやしねぇから安心しな」
ティーチは帰り際にそう言ってアンを見送った。
黒ひげの手引きがどれだけ煩雑であろうとヘマなんか踏むもんか。
あたしは捕まるわけにはいかない。
母の形見が流されたその源泉なんかに、サボとルフィを残して捕まるわけにはいかないのだ。
*
後ろ暗い計画が遂行していくその一方で、アンたちの店は誰の目に見ても明らかなほど、街に新しくできた飯屋として軌道に乗ろうとしていた。
店のメインとして位置付けたモーニングは大人気で、朝の時間店を開けてすぐが一番忙しい。
とくにたった一人で料理を仕上げなければならないアンはおおわらわである。
しかし同じくして慌ただしく働いた後、休むまもなく学校へ行かなければならないルフィも相当の気力・体力が必要だし、サボさえもホールと経理の2足のわらじだ。
つまりはアンがアンであり、サボがサボであり、そしてルフィがルフィたるがために店はなんとかまわっている。
この胆力に気付いた街の人々は口々にアンたちの店の噂を語り、評判は布に水が染み込んでいくようにじわじわと、しかし確実に広まっていた。
喜ばしいことである。
売り上げは伸び、店の明度は増し、アンたちも近所に溶け込みやすくなった。
しかし皮肉なことに、そのぶん危惧は増した。
アンが犯そうとしている罪は、アンの顔が割れてしまえばすぐに露見してしまうだろう。
それを黒ひげに伝えると、心配いらねぇさと大き目の紙袋を手渡された。
「家帰ってから中身あらためてみやがれ。問題ねぇとわかるだろう」
その言葉の通り、アンはその日の夜、サボとルフィと紙袋を囲みながらその中身を床にぶちまけた。
出てきたのはシルクのような生地の薄いコート、皮の手袋、ペロンとしたよくわからないゴムのような薄いシートと、短髪のかつらだった。
「すげぇ、変装セットだ!」
とルフィは妙に興奮したが、アンは思わず「なんだ」と声を出していた。
黒ひげが自信満々に大丈夫だと言うので何かと思えば、まるで安い映画のような変装をして臨めと言うのか。
「…こんなんでばれないかなあ」
不安をそのまま口にすると、いや、とサボがかつらに視線を落としたまま呟いた。
「ちょっとアン、うしろ向け」
言うや否やサボはアンの肩を掴んでぐりんと後ろを向かせた。
なんだ?と問う間もなくサボはアンの長い髪を手で束ねると、リビングのテーブルの上に放ってあった髪ゴムに手を伸ばし、それでアンの髪をくくった。
そしてアンの頭の上にすっぽりとかつらをかぶせる。
「おぉー!すげぇ!」
アンの正面でルフィが歓声を上げた。
「なに?なに?」
「うん、案外わかんねぇかもよ。ルフィ、鏡」
手鏡がさっとアンの顔の前にかざされた。
鏡の中に映るのは間違いなくアンだが、まるで同じ髪色の少年のようだ。
大きいがアーモンド形で少しつり気味のアンの目と高い鼻は男顔の要素も備えているのである。
顔が小さいぶん青年と言うより少年ではある。
「そんなに変わってる?」
「まあ今のアンを見ても知ってるやつはアンだってわかるけど、コレすれば完璧だろう」
そう言ってサボはアンには使い道の分からなかったゴム生地のような薄い膜を手に取った。
それなに?と振り向きながら問おうとしたアンの顔にそのシートがぺたりと貼り付けられた。
ひやりとした感触にアンは思わずうひゃっと声を上げた。
「なに!?」
「マスクだろ。アン、目のとこ穴開いてるから目開けても平気だぞ」
「すげぇぞアン!本物の怪盗みてぇだ!」
アンはおそるおそる目を開いた。
目の前の鏡の中、耳の下あたりまでと言う短い髪の自分の顔に、黒いマスクが口から上をぺたりと覆っていた。
「なんだこれ!」
真っ黒に染まった顔はまさしく映画で見る怪盗のような姿で、どこか真の抜けるその様相に思わず噴き出した。
「え、あたしこのカッコで行かなきゃなんないの?」
「カッコいいぞーアン!」
「うん、これでこのコート羽織ってればまず女には見えないな」
そう言って笑いながらサボが薄手のコートを差し出すので、アンも調子を合わせてそれを受け取り、羽織った。
軽くて動きやすい。
とっとっと、と後ずさってルフィが手に持つ小さな手鏡に映る全身を確かめた。
「全身真っ黒だ」
「らしくていいんじゃないか」
「アンッ、次オレも着てぇ!」
「ルフィにはちょっと小さいよ」
「ちぇっ、あーオレも怪盗やりてぇ!」
じゃあ3人でやるか、とサボが言ってルフィが笑うのでアンも笑った。
この一連の会話が嘘くさく思えるのはきっと限りなく嘘に近いからだ。
重たい事実から逃げるために笑うしかないのは、あたしたちが子供だからだと思い知る。
*
決行は実に簡単だった。
アンは「その日」の2週間前に銀行の地図を手渡され、計画の一連の流れを黒ひげによって説明された。
その説明を施したのはティーチでもラフィットでもない、オーガーと言う名の陰険な顔つきの男だった。
「黒ひげ」の頭脳要員らしい。
彼は初めてアンの前に現れたにもかかわらずろくな挨拶も交わさず、事務的な説明をいきなり始めた。
馴れ合うつもりのないアンにとってもそれはただの好都合である。
アンは2週間かけて、銀行内部の地図と計画を頭に叩き込んだ。
黒衣をまとったアンは午前1時の銀行の警備員を麻酔銃で2人倒し、頭に刷り込んだ地図を頼りに一つずつ黒のスプレーで防犯カメラの画面を塗りつぶしていく。
それが終われば、もうあとは問題の金庫の前へ行くのみである。
金庫の暗証番号と指紋サンプルはなんと既に黒ひげによって用意されていた。
アンはそれらを持って、金庫の扉を開き、中のものを取ってくるだけでいい。
つまるところアンはただの駒にすぎない。
黒ひげが整えたすべての手順に沿って、少し危険な仕事をこなしていくだけの被雇用者。
アンは淡々と作業を進めながら、この行為の目的に自分の思惟も含まれることを忘れそうになった。
暗証番号を正確に入力し、指紋サンプルを張り付けた皮手袋の指で液晶を押せば赤色のランプが緑色に変わる。
闇をも吸い込みそうな静寂の中、ガッチャンと大仰な音と共に金庫の扉が開く。
ここからが正念場だ、というオーガーの声を思い出した。
金庫の扉が開くと、自動的に警察の管理局に情報が行く。
管理局で睡魔と闘っている夜勤の警備員がそれに気付いたら、明らかに不審者の侵入が確認されてしまう。
そこから警察が動き、銀行へと向かうまでの間にアンは目的のものを盗って逃げなければならない。
『だが心配はいらない。逃げ道はここに示してある通りのルートを辿ればすぐに外へと出られる。外に出れば黒ひげがお前を拾い逃げる。警察が腰を浮かすまでの時間で全てが終わる』
5畳ほどの広さがある部屋のような金庫に足を踏み入れたアンは、その広さの中たったひとつ、ショーケースのようなものが部屋の真ん中に置かれているのを見つけた。
すばやく近づいて、小型の懐中電灯でそれを照らす。
ショーケースの中には真っ赤な花が咲いていた。
(ああ、)
これだ。いや、これかはまだわからない。
でもあたしはこれと同じ形のものをやっぱり知っている。
アンはショーケースを持ち上げ中のものを手に取ると、それを慎重に腰のウエストポーチの中にしまった。
ウエストポーチはこの髪飾りを入れるためだけのものなので、中はふかふかとクッションのようなわたでいっぱいだ。
アンは確かにウエストポーチを閉めたことを確認すると、一目散に金庫から飛び出した。
金庫が開いたことはすでに知られているので、丁寧に扉を閉める必要はない。
真っ暗闇の中で働いているのは頭の中に描いた地図だけで、それを頼りに出口を目指す。
今にもパッと灯りが付き、黄色い光がアンを指さすのではないかと思うと吐きそうなほど緊張し、それでいて胸が痛いほど昂揚した。
アンは銀行の社員給湯室の窓を開け、そこから身を滑りだす。
排水くさい裏手を走り抜けて道路に出ると、黒い車が一台停まっており中の人物がアンを手招く。
アンが飛び込むように車に乗ると、車はまるで待ち合わせた人物を乗せただけのような冷静さでスムーズに動き出し、素早くその場を去っていった。
*
翌日は店を臨時休業とした。
シャッターの外からは何度も何度も、客の不満げな声が聞こえたがごめんなさいと耳を塞ぐしかない。
アンは寝室の3つのベッドを占領して大の字で寝こけている。
ルフィはそわそわと何度も寝室を振り返りながらも仕方なく学校へ行った。
そしてサボは、アンが起きた時のために朝食の準備をしている。
アンが帰ってきたのは朝の4時ごろだった。
計画の粗方を知っていたサボは、きっとアンの帰りは明け方になるだろうと踏んですでに店の外に「臨時休業」の張り紙を張っておいたものの、アンが帰ってくるまで寝ていることなどできなかった。
つまりサボの方が一睡もしていない。
ルフィはサボと一緒にアンを待ちながらソファでうとうとしていた。
アンが初めて黒ひげの事務所へ出向いたときのことを思い出す。
いつでも自分は待ってばかりだと思うと歯噛みした。
そして今も、アンの朝食に大量のサンドイッチを作りながらもちりちりと胸を焼く悔しさに息が詰まっている。
サンドイッチが増産され続けていくのは、サボがその行為で考えを紛らわそうとしているからだ。
逆さになった新聞をぼうっと眺めていたサボは、外に止まった車の気配にハッと顔を上げた。
サボの膝の上に足を投げ出して寝ていたルフィも寝ぼけ眼のままむくりと頭を上げた。
『帰ってきたか?』
『ああ』
ルフィが落ちるようにソファの下に転がってから体を起こす。
寝ぼけているのかもたつくルフィを残してサボはすぐさま階下へと続く階段へ向かった。
店につながる階段を下りると、店の入り口あたりにアンがいた。
出ていったときと同じ格好、普段着で、手には大きめのビジネスケースのようなものを持っていた。
どっと重たい安堵が体にのしかかって、思わず膝が折れそうになった。
『…ただいま』
アンがふにゃっとした顔で笑った。
怪我はない、見たところ不調はなさそうに見える。
しかしその笑顔を見て、悟れるものは多かった。
サボは大股でアンに歩み寄って、覆いかぶさるように抱き込んだ。
サボの安堵とアンの悲しみが混じり合いながら互いの心の中に流れ込んでくる。
『良かった、アン…おかえり』
『サ、ボ。あたし…』
『ごめんな』
気付いたら謝っていた。
顎の下あたりで、アンが小さく首を振る。
『母さんのじゃなかった』
ごめん、と吐息に吹き飛ばされそうな声でアンは呟いた。
ゴト、と音を立ててアンが手にしていたビジネスケースを床に落とした。
はずみで開いたケースの中から弾けるように詰まっていた紙幣が溢れ出て床に散らばる。
後ろから近付いてきたルフィが、サボの背中にゴツンと額をぶつけて寄りかかった。
シャワーを浴びたアンは、昇ってきた朝日から目を逸らすように寝室へ直行して今も死んだように眠っている。
今日一日分の店の食材が余ってしまったが、新鮮を売りにしている以上パンはともかく野菜を明日へ回すことはできないので全てアンの朝食に使い切ってやった。
サンドイッチ作りは気づいたらレタスがなくなっていたので終わりだ。
シャッターを閉めた店の中は暗く、外の光は小さな窓からしか入ってこない。
暗いのは光のせいだけじゃない、と思いながらサンドイッチを冷蔵庫へ一度しまう。
大きな業務用冷蔵庫の上の段はすべてサンドイッチで埋まってしまった。
これは今日の夕飯もサンドイッチかもしれないな、とひとり苦笑した。
サンドイッチ作りが終了してしまったので他の仕事を探し、とりあえず手あたりしだい店を掃除することにした。
気が紛れていいし、いつも掃除はルフィに任せていたのでたまには自分がやるのもいい。
すべての客席の椅子をテーブルの上にあげていく。
アンが起きてきたら何から聞こうか、とぼんやり考えた。
怪我はなさそうだったし体調も特におかしくはなさそうだったが、黙っているだけかもしれないからまずはその確認。
それから、アンが持ち帰ってきた大金の出所。
アンは言いたくないかもしれないし、聞かなくても想像はつく。
黒ひげに握らされた金をアンがどんな思いで持ち帰って来たか。
考えるだけで頭がぼっと燃えるように熱くなる。
めったにサボが感じることのない感情。
これは怒りだ。
床を掃きテーブルを拭き電球を替え、まるでぜんまい仕掛けのロボットのように無駄のない動きで店中を磨き上げていく。
頭の芯を燃やすような感情はエネルギーへと変換した。
堅く絞った雑巾で店の壁中を拭きまくっていたサボは、手を動かしながら自分は怒るとこういう方向にエネルギーが出力されるのか、と妙に冷静な気分で分析していた。
時計の針が昼の12時を回り、店の外から臨時休業を嘆く声がまた聞こえ始めたころ。
階段を一段ずつ降りてくるおぼつかない足音が聞こえた。
「…サボ?」
ルフィのTシャツのお古をパジャマ代わりにしているアンは、よれたシャツに逆に着られているように見える。
サボがおはようと言うと、アンはまだ半分夢の中、と言った表情でおはようと返した。
「…掃除してたの」
「うん、暇で。アン、ちゃんとズボンは履きなさい」
「いま、なんじ?」
「ちょっと昼回ったとこ。腹減ったろ」
「ああ…」
アンはお腹に手を当てる仕草をし、自分の腹に問いかけるように首を傾げたあと、はらへった、とぽつりと呟いた。
「冷蔵庫にサンドイッチ、入ってる」
「おお~」
ただの返事なのか歓声なのかよくわからない応答をして、アンはぺたぺたと平べったいスリッパを鳴らしながら冷蔵庫へ近づき、その扉を開けてギャッと声を上げた。
振り向いた顔にはすっかり目が覚めたと書いてある。
「なんでこんなサンドイッチあんの!?」
「野菜余ったから…作りすぎた?」
「うはぁ…こりゃあ今日の夕飯もサンドイッチだねえ」
サボと全く同じことを口にしながら、アンはガタゴトとサンドイッチのトレーを取り出してカウンターに置いた。
「サボは?昼飯食った?」
「そういえばまだだ」
掃除に夢中になっていて、すっかり忘れていた。
とりあえず中断しよう、と雑巾をバケツに放り投げてから、やっぱり掃除はもう十分かと思い直してバケツごと裏手に運んだ。
サボが手を洗って戻ってくると、アンは相変わらずのパジャマ姿のまま、しかしてきぱきと動いて2人分のコーヒーを淹れていた。
「お客さん用の、使っちゃった」
たまにはいいじゃん、と言うとそだねとアンはたっぷりコーヒーを注いでくれた。
ふたりカウンターに並んで、もくもくとサンドイッチを口に運んでいく。
さすがに作りすぎたようで、食べても食べてもトレーの上のサンドイッチは減らない。
このトレーはまだあと2枚冷蔵庫に入っているはずだ。
さらにいうと、すべて同じ具材で作った上にアンのように料理に対する技術がないので全て同じ味である。
アンがサボと同量食べて折り返し地点に到達したあたりからサボはもう早々と飽きてしまい、コーヒーばかり飲んでいた。
「終わんないねぇ…」
サンドイッチを口に含んでもそもそとした口調のまま、アンがぽつんと呟いた。
それはサンドイッチの話なのか、はたまた別のことなのか判断しかねてサボは返事をしなかった。
「金、どうした?」
「二階の…タンスの中突っ込んである。うち、金庫とかないし」
「そう、だよな…びっくりした?」
うんと素直にうなずくと、アンは顔をくしゃっとして笑いながらごめんと言った。
「黒ひげの奴らが、とりあえず前金だって」
「前金?なんの…」
「偽物だったけど、髪飾りの。アレを裏で売った金の…どんだけって言ってたっけ…3分の1?それをあたしにくれるって言って…その3分の1のうちのそのまた半分がアレ」
まさか金もらえると思わなかったから、びびったよ。
そう言ってごくんと口の中のものを飲み込むと、はーっと深く息をついた。
その金にまつわるアンと黒ひげのやり取りは、見なくとも目に浮かんだ。
本物の髪飾りだけを欲して黒ひげの言いなりになり犯罪を犯し、結局盗ったものは偽物で、落胆するアンに「報酬だ」と大金を手渡す黒ひげ。
アンにとって本物の髪飾り以外価値なんてないのに、黒ひげはアンが盗ってきた者が偽物であろうと本物であろうとそれが成功する限り利益しかない。
「そんなのいらない」と拒むアンに下卑た笑みと共に金のつまったケースを押し付けて、おおかたアンを満足させた気になっているのだろう。
「…車の中にそのまま置いてきてやろうかとか…道でぶちまけてやろうかとか…思った、けど」
これじゃ本物の泥棒だ。
アンはカウンターに肘をついて、小さく肩をすぼめて縮こまった。
浅しい金、汚い金。
でもこれがあれば、「もしも」のとき、アンになにかがあったとき、サボとルフィを生かしてくれるかもしれない。
罪悪感と現実的な本心が渦巻いてアンの胸を押しつぶすのが目に見えるようだった。
(アンは優しすぎる)
「アン」
サボは震えるアンの腕を握った。
細く、サボの指が作る輪の中にアンの腕はすっぽりと入ってしまう。
ぎゅっと強めに握るとアンはようやくその力に気付いたように顔を上げた。
「迷うならもうやめろ」
アンは殴られたような目でサボを見た。
その目から目を逸らさないよう、サボもぐっと心を押さえつける。
迷ったらいけないのはおれも同じだ。
「続けるなら覚悟を決めろ。汚いことにはとことん汚いものがつきまとう。金だってそうだ。それが嫌なら…もうやめたほうがいい」
「やめ…やめらんない、よ。もう」
「逃げればいい。3人で逃げるんだ」
そんな、とアンは絶句して、ほろほろと眼から水滴を転がした。
逃げるとは、この店も、この街も全部捨てて出ていくということ。
簡単じゃないのはわかっていた。
アンは泣き続けながらサボを見つめて、もう一度首を振った。
「逃げない」
サボは思わずアンの腕を握る力をぐっと強めてしまった。
アンはそれに顔をしかめて、サボの顔が険しくなったのには気付かない。
(泣きながら何言ってんだ)
アンはサボが握るのと反対の腕でごしごしと顔をこすると、ギュッと唇を固く結んで、揺れないまっすぐな瞳でサボをもう一度見た。
「ごめん、あたしやるから。…金も、上手に使おう」
「…わかった」
サボがアンの腕を緩く離すと、そこはうっすらと赤く色づいていた。
アンは無意識にそこをさすりながら、まだ泣き跡の残る顔で笑って見せる。
「弱弱しいこと言ってごめん。もう大丈夫!」
アンは椅子をくるんと回して、体操選手よろしくぱっと椅子から飛び降りた。
サンドイッチの残りにサランラップをかけ直してそれを冷蔵庫にしまう。
「洗濯機回してくれた?」
「あ…まだだ」
「じゃ、ルフィが帰ってくるまでにやっちゃおう」
先程までの弱弱しさはどこへやら、アンはきびきびと動いてさっさと階段を上っていってしまった。
残されたサボは、ぽかんとその背中を見送るしかできない。
(アンは強い)
強すぎて、たまに折れ所を間違える。
「逃げる」と言ってくれていたらどんなに楽か。
いや実際楽なのはサボの気持ち的な面だけで、現実は厳しさを増すだろう。
それでもアンが逃げると言ってくれたら。
サボはアンとルフィの手を引いてどこまででも逃げる自信があった。
本物の髪飾りを手に入れるまで、アンはこの苦しさを繰り返さなければならないのかと思うとどうにもやりきれなくて、ちがう逃げたいのはおれのほうだと気付いた。
→
アンが行ってから、サボはルフィと暗い店内で電気もつけずにアンを待った。
あえてそうしていたのではなく、アンを送り出してそのまま店のテーブル席に座ってしまったので電気をつけるのも忘れていただけだ。
だから8時を回った頃、ルフィが気付いて灯りをつけた。
サボが座ってから一度も腰を上げてない一方で、ルフィは落ち着かないのか立ったり座ったりを繰り返し、無意味に店の冷蔵庫を開けようとしてかぎがかかっていることにあぁと呻いていたりする。
動物園の熊のほうがまだ落ち着きがある。
サボは思わず声をかけた。
「ルフィ、お前がうろうろしたって仕方ないだろ。ちょっと落ち着け」
するとルフィは少し口を尖らせてサボを振り返った。
その手はまた冷蔵庫の取っ手を掴んでいる。
「サボも、さっきからカツカツうるせぇ」
なにを、と眉間に皺を寄せてから気付いた。
無意識のうちにサボの指は、正確には爪の先が同じリズムでテーブルを叩いていた。
サボはぎゅっと、爪を手のひらに食い込ませるように握りこんだ。
「…ごめん、とにかく座れよ。なんか飲もうか」
おれらがいらいらしたって仕方ないもんな、と苦笑いを混じらせて言うと、やっとルフィも少し顔を緩めた。
サボは一度二階に上がり、家庭用の冷蔵庫から牛乳とボトルコーヒーを取り出して店に降りた。
店では豆から引いてドリップしたコーヒーを淹れているというのに、自分たちが飲む分にはスーパーに売っている安いペットボトルのものを常備している。
アンもルフィもそれについては特にどうとも思っていないらしいしサボも気にしたことはない。
たまにアンがきちんと豆から淹れたコーヒーを休憩中などに飲ませてくれると、それはそれでやっぱり美味い。
ルフィは大人しくサボが座っていた隣に腰かけて、壁に貼ってあるどこかの国の色褪せた地図をぼうっと見ていた。
乾燥棚にぶらさがっていたグラスを二つ取り出してそこにコーヒーと牛乳を注ぐ。
ルフィにはコーヒー半分牛乳半分。自分用にはコーヒーに少し牛乳を垂らした。
「ほら」
「おぉ、ありがと」
たぷたぷと中身の入ったグラスを渡すと、ルフィはいつものように一気に半分以上飲み下した。
しかし珍しくけほ、と少しむせている。
冷たいそれに口をつけると、幾分頭が冷えた。
「アン、もうすぐ帰ってくるよな」
「たぶんな」
「おれ、外まで迎えに行ってみようか」
「落ち着けって言っただろ」
そうだけど、とやはりルフィはむくれた。
「ルフィお前風呂入ってこいよ」
「いやだ、おれが風呂入ってる間にアンが帰ってきたらどうすんだ」
「いいだろ別に」
「いやだ!ずるいだろそんなの」
なにがだよ、と言ってもルフィはとにかくいやだの一点ばりで、結局二人ともそこに座っているしかない。
ルフィは背中を丸めて顎をテーブルに置き、グラスを唇の間に挟んだまま器用に口を開いた。
「アンの父ちゃんと母ちゃんの話って、なんだろな」
「…さあ」
「じいちゃんの知ってる話かな」
「それならおれらも知ってることなんじゃないか」
「だよなー…」
謎の男が持ち出した『アンの両親の話』が腑に落ちないのはルフィも同じのようだった。
だれだろうと自分の親のすべてを知っているはずはない。
だが、それを見ず知らずの他人から持ち出されるのはとても不愉快だ。
まったくやりきれない、ああアン早く帰ってこいとサボは組んだ両手に顔を隠して俯いた。
そのままサボとルフィがぽつぽつと会話を交わし、それよりもずっと長い沈黙の時を過ごして11時をほんの少し回った頃、シャッターの向こう側に車が止まった気配がした。
うつらうつらと船を漕いでいたルフィが野生動物のようにぱっと耳を立てて顔を上げた。
ゆらゆらするルフィのつむじを長い間見つめていたサボも、その気配にぱちんと夢から覚めるように顔を上げた。
「帰ってきた!」
ルフィが顔中綻ばせて入口へと駆けだす。
続いてサボもその場に立ち上がったとき、ルフィがドアを引くより一瞬早く外からドアが開いた。
「アン!」
「わっ」
現れたアンに、ルフィはためらうことなく飛びついた。
「びっくりした、ずっとここにいたの?」
「よかったアン!変なことされてねぇか!?」
「変なことってなに」
ぷっとアンが吹き出して、その顔を見てサボもやっと肩の力を抜いた。
「おかえりアン。良かった」
何が良かったのかサボ自身分からなかったが、アンは笑顔で頷いた。
少し顔色が白い気もするが、見たところ怪我も変わったふうもないので、サボはアンに貼りついたままのルフィを引き剥がした。
「とりあえずアンは風呂入んなよ。疲れただろ」
「じゃあ、そうする」
腹減らないか、痛いところはないかとまとわりつくルフィを笑いながら押しのけて、アンは階上へ上がっていった。
アンは烏の行水で、いつも10分と立たずに出てくる。
このときもそうだったので、続いてサボとルフィもさっさと風呂を済ました。
ホカホカと温まった体で3人縦に並び、アンはルフィの髪をタオルで拭き、サボはアンの髪をドライヤーで乾かした。
そうして一通りのことが済むと、さて、という雰囲気になる。
自然とアンの言葉を待つ空気になった。
ソファに座ったアンは沈黙を持て余すように手の中でミネラルウォーターのペットボトルをもてあそび、その隣でサボはアンが話し始めるのを待ち、地べたに胡坐をかいたルフィはそわそわと体を揺らしている。
あのな、とアンが口を開く。
迎えの車に乗ったその時のことから語り始めた。
*
アンが乗り込んだ黒い車の運転席にはラフィットが乗っていた。
丁寧な口調でアンにシートベルトを促してから車を発進した。
「あなたの弟たちは今頃さぞ気をもんでいることでしょうね」
ラフィットは相変わらずどこかからかうような風味を持たせてそう言った。
アンが返事をしないでいると視線をちらりと動かしたが、それからは何も話すことなく運転し続けた。
車はモルマンテ大通りを北へと上って行き、途中で交差する道を右へ曲がり次は左に曲がり、とくねくね進む。
まるでアンの目をくらませようとするかのようにわざと遠回りしているとしか思えない道筋を進んだが、どこまで行ってもアンには見知った街だからあまり意味はない。
ラフィットもなんとなくそれをわかっているようで、意味を持たないその行動はただ誰かの命令に従っているだけのような、若干辟易としているような顔が無表情の中に一瞬覗いた。
だから結局、30分以上走ってラフィットが車を止めた場所も、アンがよく知る本屋の裏手にある建物の前だった。
降りるよう目線で促され、そろそろと車を降りる。
アンを下ろすと車は発進し、アンは暗い路地に一人ぽつんと残された。
(…なんだってんだ)
どうすれば、とアンがその場に立ち尽くしていると、3分とせずにラフィットが、今度は歩いて戻ってきた。
「お待たせしてすみません、どうぞ」
ラフィットは目の前のコンクリートビルの重たそうな扉を開けた。
ラフィットの背中を追いながら、入ってすぐに現れた階段を上っていく。
暗いそこはキンと冷えていた。
階段を上りきったすぐ目の前に曇りガラスの扉が現れて、ラフィットは一声かけてそれを押し開け中に踏み入った。
アンも後に続くしかない。
中に入ったラフィットは、さっと横に身を滑らせてアンの前から退いた。
目の前の男の暗いスーツしか見えていなかったアンの視界が急に開けた。
電灯に照らされた室内は外よりずっと明るかったが、ちっとも暖かくない。
正面にはローテーブルと、それをはさんで向かい合う茶色い革張りのソファがあった。
それはアンに高校の校長室を思い出させた。
そしてソファの一つには、男が座っていた。
「ゼハハハハ、よく来てくれたゴール・D・アン」
会いたかったんだぜ、と男は抜けた歯並びを見せつけるように大きく口を開いて笑った。
お座りください、とラフィットが背後から囁く。
アンは仕方なく歩み寄った。
近くで見るとその男はとても大きかった。
肩幅はガープか、もしかするとそれ以上あるかもしれない。
座っているのでわからないが、男が立ったらアンは首が痛くなるほど見上げなければならないだろう。
男はぎょろりと大きな目でアンがソファに腰かけるまでをにやにやしながら追った。
嫌な目だ。
男はアンの顔からつま先までを舐めつくし味わうかのように眺め渡す。
アンはせいぜい弱気に見られないよう、顎を反らせるほど顔を上げて男を睨み返した。
どす、と音を立ててソファに腰かけた。
「何、話って」
つっけんどんにアンがそう言うと、男はまた奇妙な笑い声を上げた。
「まぁそうぴりぴりすんじゃねぇよアン。おいラフィット、客人に茶でもださねぇか」
「今作っています」
四角い部屋の隅にあるらしいキッチンからラフィットの声がすっと入ってきた。
「まぁまずは自己紹介と行こうじゃねぇか。お前さんはゴール・D・アン、たしかだな?」
アンは返事をすることもうなずくこともしなかった。
しかし男は特にアンの反応を気にすることなくニヤリとする。
「間違うはずねぇ、なんにせよお前ェはロジャーにそっくりだ」
アンの眉がピクリと動いた。
その反応を楽しむように、男はニヤニヤを濃くした。
「オレはティーチ。ここで税理士をしてる」
「税理士?」
確かにこの部屋は税理士の個人事務所のように見えないでもなかったが、この男はどこをどう見たってまっとうな職の人間には見えない。
太い指に豪奢な指輪をいくつもはめたこの男に客がつくのだろうか。
「お前ェを迎えにやったラフィットって男は俺の秘書だ。他にも人員はいくつかいるが…まぁおいおい紹介することにしよう」
ラフィットがトレンチにコーヒーをのせて持ってきた。
慣れたしぐさでアンの前に置く。
ティーチは出されたコーヒーを音を立ててすすった。
「どこから話すのがわかりやすいんだろうなぁ、オレァややこしい話がきらいでな。おいアン、お前ェは聞きたいことねぇか?話し出しを決めてくれ」
ティーチはソファの背もたれに背をつけたまま、ふんぞり返った姿勢でアンに尋ねた。
聞きたいことなど山ほどある。
「…あんた、父さんと母さんのなに」
ティーチは歯を剥きだしてにぃと笑った。
「よし、いいな、そこから話すか。アン、お前ェのオヤジは警察だった。知ってるだろなぁ?だがただのおまわりでも、私服警官でもねぇ。幹部も幹部、この街を牛耳るトップの一人だった」
そのことはアンも大人になるにつれて徐々に知っていった。
過去の政治家のように、ときたまテレビで見るような存在。
「お前ぇはこの街の気違いじみた政治の仕組みを知ってるか?」
アンはあいまいにうなずく。
この街の権力図を糾弾する声は、大人になればいやでも耳に付いた。
おそらくそのことだろう。
ティーチは満足げに話を続けた。
「オレァ昔行政府で職についててな。そうすりゃ名目上の権力と実質上の権力だ、行政府のオレと警察幹部の奴らは事実のすり合わせのために顔を合わせて話をする機会が何度か必要になる。そこでお前ェのオヤジとも出会ったってわけよ。まぁ別段よろしくやってたわけでもねぇし、特別犬猿の仲だったわけでもねぇ。お前ぇだってそういうやつはいるだろう?」
アンは黙って話を促した。
行政府と警察組織には火を見るより明らかな権力差があるので、仲良くやっているわけではないが、衝突を避けるために互いが互いを上手く立てているのだと聞いたことがある。
「そういう意味でオレらぁただの仕事上の付き合いしかしてねぇ。お前ェの母親…ルージュだったか?そのことだって何かの折に聞いたことがあるだけだ。どういう関係って、まぁそんだけだ」
アンは男の大きな黒い目の中をじぃと見た。
嘘やごまかしの気配はないように見えた。
ティーチは話の流れを掴んだのか、饒舌に話を続けた。
「聞くがアン、お前ェ、エドワード・ニューゲートという男を知ってるか」
エドワード・ニューゲート。
それこそニュースか何かで耳にしたことがある。
この街の最高権力を握る警察組織のトップに立つ男。
アンは頷いた。
「…名前は」
「それでいい。オレァロジャーよりずっと、その男に関係があってな。
…オレァ、あの男が死ぬほどきらいなんだ」
ティーチの声は、その場の気温をすっと下げてしまえるほど冷えていて、憎しみに満ちているように聞こえた。
アンはごくりと唾を飲み込む。
しかしティーチはまぁそれは後で話すにして、と急に声音を変えた。
「時にアン、お前の二親が死んじまったのぁ、お前が10のときらしいな」
アンはこくんと頷いた。
「そんなガキの頃ともなると覚えてねぇかもしれねぇが…あえて聞こうじゃねぇか。アン、お前ェ、おふくろがいつもつけていた髪飾りを覚えてるか?」
「髪飾り?」
なんだそれ、と口をつきかけた言葉が記憶によってくんと後ろに引っ張り戻された。
ぼんやりと母の顔が浮かぶ。
それはアンの記憶に残る顔ではなく、唯一アンの手に渡された一枚の写真だ。
どこかわからない、この街じゃないどこかにあるエメラルドグリーンの海。
それを背景に、大きく笑う栗色の髪の女性。
ルージュだ。
まだ若く、どこか子供っぽささえ残る笑顔。
しかし彼女の腕には小さな赤ん坊が抱えられていた。
考えなくてもそれが自分であることは、その写真を初めて見たときから知っていた。
ルージュがまるではにかむように笑っているのは、写真を撮っている人物がおそらくロジャーだからだ。
だから家族写真なのに、写っているのは2人だけ。
ルージュの腕に抱かれたアンは、眠いのか機嫌が悪いのかむすりと顔をしかめていて全然可愛くない、と自分のことながら思っていた。
やけに若い母の顔だけが瞼に残っている。
そして、青い背景がひと際目立たせている一点があった。
ルージュの髪、左耳の少し上にあてられた大ぶりの花の髪飾り。
太陽の光を吸い込んで鮮やかに光っている。
その花は、南のほうの国で夏になると咲く花であるらしい。
そう、写真を手掛かりにすればいくらでも思いだせる。
ルージュは、母はときどきその髪飾りを身に着けていた。
ぽけっと口を開いたまま記憶をたどるアンから肯定を読み取ったのか、ティーチは満足げに口角を上げた。
「わかるだろう、赤い花の髪飾りだ。お前の母親はとりわけそれを大事にしていた。なにしろありゃ、国宝級の宝石で出来てたんだからな」
「国宝!?」
「値段にすりゃぁ…いや、オレには想像もつかねぇ。とにかく桁違いの額になるはずだ」
「…なんで」
なんでそんなものをただの主婦が。それもあたしの母親が。
アンの疑問が顔に出ていたのか、ティーチは偉そうに息をつきながら呆れた声を出した。
「おいおい、そりゃああの品は相当な逸品だが、お前の母親がそれを持ってることにゃあなんの不思議もねぇんだぜ。なにしろあのロジャーの女だ。金はもちろんのこと、あの髪飾りを作るだけの伝手だって持ち合わせていて当然よ。アン、お前ぇはちょいと自分の親のデカさをわかってねぇな」
そんなこと言われても、とアンは呆気にとられながら押し黙った。
アンにとってロジャーもルージュも他の子供にとって親がそうであるようにただ「家族」という少なくとも一番近しい人間で、たしかに家は少し大きかったが遊び盛りのアンにはちょうどよく、サボとルフィもいたのでかくれんぼで使う隠れ場所も限られて、手狭に感じるときさえあった。
よくよく考えてみれば、簡単に他人の子を育てる経済力はあったということなのだが。
しかしロジャーが社会的にどれほど大きな影響力を持っていて云々、などを語られたところで、アンには想像さえできないのだ。
アンとはたった10年しか一緒にいられなかった父親。
その10年で与えられた父の印象も、アンからしてみれば、正直結構どうでもいいかんじだ。
アンがサボとルフィとばかり遊んで父との時間を全く割かないことを子供じみた言葉で糾弾されて、鬱陶しいというかめんどくさいというか、とにかくそういう思いを抱いたことは覚えている。
そんな父がこの街のトップで、その妻は国宝級の髪飾りを食事の準備中髪が邪魔だから留めておこうとかそんなために使うような人間だなんて。
いやいやいや、ないだろ。
アンは思わずふっと笑ってしまった。
昼間ラフィットが訪れてから、初めて気を抜いた瞬間かもしれない。
「嘘だろ」
「あぁ?」
「たしかに覚えてるよ。母さんが花の髪飾りつけてたこと。でもあれがものすごい高い宝石で出来てるとか価値のあるもんだとか、ありえない」
そもそもアンの覚えている限り、それはその辺の雑貨屋に売っている代物に見えていたのだ。
ティーチはアンの言葉に目を白黒させたかと思ったら、しかしすぐに不敵に笑って鼻の穴を広げた。
「ゼハハハハ、そりゃあおもしれぇ。だがな、アン。事実は事実。これを見ろ」
気付いたらラフィットがすぐ近くまで来ていた。
ティーチと何を示し合わせたわけでもないのに、それとも前から打ち合わせてあったのか、アンの目の前にすっと積み重なった雑誌が現れた。
それらはすべてとあるページを開いて4冊重ねられていて、アンはいちばん上に積まれた雑誌に視線を落として目を瞠った。
この街随一の美術館に今世紀最大の宝が展示されているとかなんとかと謳ったそのページに、でかでかとルージュの髪飾りの写真が載っていたのだ。
「これ、」
「まぁ次の雑誌も見やがれ」
楽しそうにするティーチに構っている暇はない。
アンは見ていた雑誌を横にスライドさせて、次の雑誌に目を移した。
そのページにもルージュの髪飾りはいた。
しかし今度は美術館云々を語る記事ではなく、とある財閥の人物を特集したページらしかった。
財閥を一代で成したたぐいまれなる能力らしいおっさんと、その妻が寄り添い立っている写真が載っていた。
その妻の頭にくっついてでかでかと存在感を放っているのがルージュの髪飾りだ。
記事には、インタビューアーが髪飾りをつけたオバサンにその髪飾りについて言及しており、それに対して彼女は、この髪飾りはいつも銀行の貸金庫に保存してあるのだと応えていた。
文面からこの女の高飛車な雰囲気が匂ってくるようだった。
アンはティーチに促されずとも、次の雑誌を引っ張り出した。
そして思った通り、そこにもルージュの髪飾りがあった。
ナントカという伯爵の子孫であり御曹司だとかいう、なすのように長い顔に小さな目をくっつけた若い男の写真が載っていた。
どうやらその男のコレクションが特集されているらしい。
コレクションの品は何点か乗っていたが、その中にひと際赤が目立つ髪飾りも紛れていた。
そしてアンは最後の一冊を取り出した。
そこにも当然のように乗っていたルージュの髪飾り。
今度は、とある有名な宝石商の特集だった。
アンは黙りこくったまま、何度も何度もそれら4つの写真を見返した。
どれも同じものだ。
写真で見るとアンの記憶もようやく形を成してきた。
そうだ、これは母さんの、あたしは知ってる。
「国宝級の宝が、しかも全く同じモンが4つもあるなんておかしな話だろう?」
アンは答えなかったが、胸の中では違う、と言っていた。
母さんのを入れたら5つだ。
「おかしな話なんだ。この宝はたった1つしか作られていねぇはずだ。ロジャーが死ぬ間際の宝石細工職人を掴まえて作らせたらしいからな。言葉のとおりそいつぁこの髪飾り作り終わってからぽっくりよ」
「…じゃあ、」
「ああ、偽モンだ。レプリカ、イミテーション、なんでもいい。とにかく似せて作らせた紛いモンなんだ。3つはな」
4つのうち3つが偽物。
じゃあひとつは。
「…どれかが、母さんの髪飾り…」
「そう、4つのうちたった1つだけ、お前の母親のもんだ。ただの金持ちが趣味で持ってていいもんじゃねぇ」
アンは言葉を失った。
だがすぐに雪崩のような疑問が流れ込んできた。
母さんが事故で死んだとき、この髪飾りをつけていたのだろうか。
幼いアンには母が事故でどのように死んでどんな様子だったかなんて想像も及ばなかったし、考えたくもなかった。
しかしよくよく考えてみたら、少なくともアンに手渡された両親の遺品の中にその髪飾りがあってもおかしくなかった。
なのに今、それはアンの手元にない。
「なんでって顔してやがるな」
ティーチはすっかり気を抜いていて、ラフィットにコーヒーのお替りを持ってこさせていた。
アンは膝の上で、ギュッと拳を握りしめた。
あたしが小さくて、まだ何もわからない子供だったから、母さんの髪飾りがこんなふうに世間に紛れてしまったんだ。
「お前の親が死んだとき…警察が家に来ただろう」
アンは小さく頷いた。
覚えている。
とても嫌な記憶だ。
一様に黒い服を着た大人が、心細さで消し飛んでしまいそうなこころをなんとか掴んでいたアンたちのもとに突然なだれ込んできた。
皆が皆沈痛な面持ちで、アンたちに両親の不幸を告げ、これから起こることをなんとか簡単な言葉で説明しようとしていた。
アンにはその言葉の半分さえわからなかった。
今ならわかる、そのあと行われたのは家宅捜査だ。
アンはハッと顔を上げた。
「そうさ、わかるだろう。ロジャーが死んで、奴の家は隅から隅まで警察に調べつくされた。まぁそれは元公務員のオレから見たって全うなことだ。ロジャーの立場を考えたら仕方がねぇ。だがおそらくそのときだ。髪飾りは警察の手のうちに行っちまった。
…んでこりゃあ間違いねぇことだが、そのとき警察の指揮を執ってたのはエドワード・ニューゲートだった」
またティーチの口調に憎々しさが沸いた。
「あいつがお前の母親の髪飾りを余所に流した。レプリカを作らせて人の目をごまかして金儲けさ。あの野郎はそういう、抜け目のねぇところがあった」
頭の中がぐるぐるする。
新しく出てきた事実がアンを押しつぶす。
アンはなんとか口を開いた。
「でも、そんなこと」
「できるのさ、あの男は。自分の周りに置く奴らを全部手の内に入れ込んじまって、何をしたって咎められやしねぇ。しかもアイツの守備範囲は警察の中だけじゃあなく行政府にまで伸びている。行政府のほうから気に入ったヤツを引っこ抜いては手下に組み込んで、ぶくぶくぶくぶく太ってったってわけよ」
アンは机の上に広がったままの雑誌を見るともなしに見ながら、憎々しげに語るティーチの言葉をぼんやりと聞いていた。
ティーチの話すことはどれもつじつまが通っているように思えた。
ラフィットが、アンの手の付けられていないコーヒーを新しいものに替えた。
ティーチはコーヒーをすすって、大仰なため息をつく。
「なあアン。お前ェ悔しくねぇか。お前の母親の形見が見ず知らずの金持ちのコレクションになって、勝手に自慢されて。4つのうちどれも相当な値がついて世間にゃ知られているが、本当はそんなもんじゃねぇんだ。なにより髪飾りはアン、母親の死んだ今、お前のものだろう?」
アンは膝の上で握りしめたままの拳を一度ゆるゆる開いて、またぎゅっと握りしめた。
悔しい。
父と母が死んだとき、呆けてばかりいた自分が悔しい。
ルフィとサボと離れたくないと、自分のことばかり考えていた自分が情けない。
断片的な記憶がアンの中にひとつ、またひとつと湧き上がる。
その中の一つで、ルージュが嬉しそうにアンの髪にあの髪飾りをつけたことがあった。
『やっぱり、アンには赤が似合うわね』
あのときあたしはなんて言ったっけ。
そんなのつけてたらサボたちと遊べない、とかなんとか言った気がする。
ルージュは笑って、それもそうねと言ったのだろうか。
死んでしまった母さんは、世間に流れてしまった髪飾りをどう思っているだろう。
あたしが髪飾りを持っていないと知ったら、どう思うんだろう。
ティーチはアンの顔と、握られた小さなこぶしを見比べるようにして「よく聞け」と言った。
「髪飾り、取り返したかねぇか」
ずく、と胸の奥が騒いだ。
取り返す──母さんの髪飾り。
ティーチはアンの返事を待たずに言葉を重ねた。
「オレなら手伝ってやれる。どうだ、のらねぇか」
「…ど、どうやって」
「盗むのさ」
アンがぎょっとして顔を上げると、ティーチはさも当たり前、とでもいうように笑いながら身を乗り出した。
「驚くこたぁねぇだろう。それ以外に何の方法がある?一軒一軒成金の家回って、それは私のなんで返してくださいとでも言うか?」
馬鹿馬鹿しい、とティーチは吐き捨てた。
「それがお前のである証拠は何一つとしてねぇんだ。玄関先で追っ払われるのが関の山だ。買戻しという手がないでもないが、お前にそんな金があるか?」
ティーチはアンの返答をわかりきっているようだった。
金なんて、宝石を買う金なんてあるわけない。
両親が残した遺産は20の娘が一人で背負うにはまだまだ莫大すぎるほど残っているが、それをすべて使って髪飾りを買い戻すなど──買い戻せたとしても、それからサボとルフィとどうやって暮らしていけばいいのか。
まだまだ始めたばかりのデリだけで生活していけるゆとりはない。
「アン、お前が腹ぁくくったなら、オレらはできる限りの手伝いをしようじゃねぇか。幸いオレの手下にゃいろんな面で役に立つ奴が多くてな。道具も手に入れられるし裏の顔も効くし、頭のいい奴もいる。そいつらの全動力をかけてお前をサポートできる。どうだ、なかなか頼りがいのある面子だと思わねぇか」
ぐらりと心が揺れて、しかしすぐに揺れた心を掴み直した。
じとりと下からティーチを睨みあげる。
「なんで…あんたはそんなことあたしに教えてくれるの」
精一杯不信と欺瞞を込めた顔つきでティーチを見返したつもりだったが、ティーチは心得顔でにやりとした。
「ゼハハハ、それを聞かれるのを待ってたぜ。
言っただろう、オレァエドワード・ニューゲートが嫌いだと。オレはずっと、何とかしてアイツのでかっぱなをへし折ってやろうと思っていた。偉そうに上から見下せるあの地位から引きずり落としてやりてぇんだ。ずっと、その方法を考えていた。そこでやっとお前ェの存在と髪飾りのことを知ったんだ。あのジジイはオレのことを扱いづらいがただのバカだと思ってやがるし、他の手下にするように甘い顔をする節もある。それを利用して髪飾りの情報を引き出した。これだと思ったんだ」
ティーチは沼から目だけを覗かせるワニのように底光りする目をギラギラと光らせた。
「4つの髪飾りを持っている奴らもまた、ニューゲートと手を結んでやがる。髪飾りを好き放題うっぱらってからも目を光らせ続けてんだ。だがそこでお前がまんまと宝石を盗んでみろ。エドワード・ニューゲートの信用は地に落ちる。そこでさらに、盗まれた宝石が世に流されて、それを目にしたお前がそれは自分の母親のものだと主張してみたとしよう。お前の主張が本物だと証明されたら、宝石の出所が問題になる。つまりはすべてニューゲートの責任問題に帰ってくるってわけだ」
どうだ出来た話だろう、とティーチは憑かれたように煌々と光る目で一気にしゃべった。
すべてがもっともらしく思えてくる。
「ニューゲートの話によるとな、お前ぇの本物の髪飾りには浅く、本当にわからねぇくらいに浅くお前の母親の名前が彫ってあるらしい。それを知っていねェとわからないくらい小さくな。だからお前が盗ってきたモンの中で本物を見分けることがオレたちならできる。そうしてお前は母親の形見を手に入れて大団円、オレァにっくきニューゲートを貶められて万々歳と、こういうわけだ。
どうだ、ちっとは信用できたか?」
アンはじっと、石のように固まって口を閉ざした。
少し考えたい。
ティーチはそれを汲み取ったのか、アンと同様に口を閉ざしてアンを待った。
──信用など、していない。
もっともらしいし筋が通った話ではあるが、ティーチという男のあの目にはアンの心に付け込もうとするような嫌な光が灯っている。
手下のラフィットでさえたまに同じ目の光を宿す。
サボもルフィも、ラフィットのことを当たり前だが好いてはいない。
しかし同時に、ティーチの話を簡単にはねつけられない思いも大きく膨らんでいた。
母さんの髪飾り。
あたしのせいで、簡単に金に換えられてしまった。
取り返したい。
父さんが母さんのために贈ったという髪飾りは、アンがちゃんと持っているのだと示してやりたかった。
ああ、と顔を覆ってしまいそうになる。
そんな弱弱しいところをこんなところで晒すわけにはいかないという理性が働いて体は動かないが、心はいろんな考えが渦巻いてぐちゃぐちゃしている。
気持ちは大きく一方に傾きかけていた。
「なに、今すぐ決めろとは言わねぇ。猶予期間をやろう。1週間だ。いい返事を聞かせてくれ」
アンの右側で、ラフィットが「車の準備をしてまいります」と言った。
*
サボとルフィの相槌は、話の途中からぷつりと途絶えた。
途中から質問や驚きの声などがさしはさまれることがなくなったので、アンの言葉もすらすらと口をついた。
サボはきつく唇を引き結んで、ルフィはぽかんと口を半開きにしてアンの話に聞き入った。
アンが話し終えると、しばらく呆然とした雰囲気の沈黙がぽとりと落ちた。
話の最後に、アンが決めた心のうちも伝えていた。
「本気か」
サボがぽつ、と低く呟いた。
アンが頷くと、そうかと言う。
「ならおれがする」
「はっ!?」
「ルージュさんの形見を取り返したいのはおれも同じだ。ならわざわざアンがすることない。おれが盗む」
「何言ってんの、そんなのダメに決まって」
「そんならサボよりおれの方がいいだろ!おれが一番身軽だ!」
アンの言葉を遮ってルフィまで声を高くした。
いいやおれがする、と堅い顔で繰り返すサボと、いいやおれだと一歩も引かないルフィ。
間に挟まれて、アンはますます頭がぐるぐるした。
「ちょ、ちょ、ストップ!待って!聞いて!」
慌ててソファを降り、ぐるると顔を突き合わせて今にも掴み合いに発展しそうな二人を裂くようにして間に入った。
アンに肩を押されて、サボがハッとしたように上げかけていた腰を下ろす。
ルフィはまだ納得のいかない顔でむすりとしている。
「ちがう、あたしがやりたいの。自分で」
自分の手で取り返したい。
そう言って、アンは二人の間にぺたんと座り込んだ。
ふたりの目を見られなかった。
ふたりにとってもルージュは母親なのに、やっぱり取り返すのは血の繋がった自分でありたいと思ってしまうことがとても浅ましく思えたのだ。
気まずさに目を逸らしてしまったアンに、ルフィがのんきな声で「それもそうか」と言ったので、アンは思わず怪訝な顔でルフィを見た。
さっきの喧嘩腰はどこへ行ったのか、ルフィはけろりとした顔で床に座り直して言った。
「アンの母ちゃんのだもんな。うん、アンがやるべきだ」
「ルフィ、でも」
「サボでもオレでもねぇ、アンが取り返した方が母ちゃんも喜ぶだろ」
反駁しようとしたサボは言葉を飲み込んだ。
ルフィは淡々とした声で、至極まともなことを言う。
サボのほうをちらりと見ると、何とも言えない顔つきでアンとルフィを見つめていた。
ルフィは場の雰囲気にそぐわないほど明るい笑顔を見せた。
「大丈夫だろ、アンなら。なんてたってアンだし、何かあればそのときおれたちが助けてやれる」
なっ!と同意を求められて、サボは渋い顔のまま微かにうなずいた。
アンが一人胸に抱えていた決意に、2人分の重みが増した。
→
あえてそうしていたのではなく、アンを送り出してそのまま店のテーブル席に座ってしまったので電気をつけるのも忘れていただけだ。
だから8時を回った頃、ルフィが気付いて灯りをつけた。
サボが座ってから一度も腰を上げてない一方で、ルフィは落ち着かないのか立ったり座ったりを繰り返し、無意味に店の冷蔵庫を開けようとしてかぎがかかっていることにあぁと呻いていたりする。
動物園の熊のほうがまだ落ち着きがある。
サボは思わず声をかけた。
「ルフィ、お前がうろうろしたって仕方ないだろ。ちょっと落ち着け」
するとルフィは少し口を尖らせてサボを振り返った。
その手はまた冷蔵庫の取っ手を掴んでいる。
「サボも、さっきからカツカツうるせぇ」
なにを、と眉間に皺を寄せてから気付いた。
無意識のうちにサボの指は、正確には爪の先が同じリズムでテーブルを叩いていた。
サボはぎゅっと、爪を手のひらに食い込ませるように握りこんだ。
「…ごめん、とにかく座れよ。なんか飲もうか」
おれらがいらいらしたって仕方ないもんな、と苦笑いを混じらせて言うと、やっとルフィも少し顔を緩めた。
サボは一度二階に上がり、家庭用の冷蔵庫から牛乳とボトルコーヒーを取り出して店に降りた。
店では豆から引いてドリップしたコーヒーを淹れているというのに、自分たちが飲む分にはスーパーに売っている安いペットボトルのものを常備している。
アンもルフィもそれについては特にどうとも思っていないらしいしサボも気にしたことはない。
たまにアンがきちんと豆から淹れたコーヒーを休憩中などに飲ませてくれると、それはそれでやっぱり美味い。
ルフィは大人しくサボが座っていた隣に腰かけて、壁に貼ってあるどこかの国の色褪せた地図をぼうっと見ていた。
乾燥棚にぶらさがっていたグラスを二つ取り出してそこにコーヒーと牛乳を注ぐ。
ルフィにはコーヒー半分牛乳半分。自分用にはコーヒーに少し牛乳を垂らした。
「ほら」
「おぉ、ありがと」
たぷたぷと中身の入ったグラスを渡すと、ルフィはいつものように一気に半分以上飲み下した。
しかし珍しくけほ、と少しむせている。
冷たいそれに口をつけると、幾分頭が冷えた。
「アン、もうすぐ帰ってくるよな」
「たぶんな」
「おれ、外まで迎えに行ってみようか」
「落ち着けって言っただろ」
そうだけど、とやはりルフィはむくれた。
「ルフィお前風呂入ってこいよ」
「いやだ、おれが風呂入ってる間にアンが帰ってきたらどうすんだ」
「いいだろ別に」
「いやだ!ずるいだろそんなの」
なにがだよ、と言ってもルフィはとにかくいやだの一点ばりで、結局二人ともそこに座っているしかない。
ルフィは背中を丸めて顎をテーブルに置き、グラスを唇の間に挟んだまま器用に口を開いた。
「アンの父ちゃんと母ちゃんの話って、なんだろな」
「…さあ」
「じいちゃんの知ってる話かな」
「それならおれらも知ってることなんじゃないか」
「だよなー…」
謎の男が持ち出した『アンの両親の話』が腑に落ちないのはルフィも同じのようだった。
だれだろうと自分の親のすべてを知っているはずはない。
だが、それを見ず知らずの他人から持ち出されるのはとても不愉快だ。
まったくやりきれない、ああアン早く帰ってこいとサボは組んだ両手に顔を隠して俯いた。
そのままサボとルフィがぽつぽつと会話を交わし、それよりもずっと長い沈黙の時を過ごして11時をほんの少し回った頃、シャッターの向こう側に車が止まった気配がした。
うつらうつらと船を漕いでいたルフィが野生動物のようにぱっと耳を立てて顔を上げた。
ゆらゆらするルフィのつむじを長い間見つめていたサボも、その気配にぱちんと夢から覚めるように顔を上げた。
「帰ってきた!」
ルフィが顔中綻ばせて入口へと駆けだす。
続いてサボもその場に立ち上がったとき、ルフィがドアを引くより一瞬早く外からドアが開いた。
「アン!」
「わっ」
現れたアンに、ルフィはためらうことなく飛びついた。
「びっくりした、ずっとここにいたの?」
「よかったアン!変なことされてねぇか!?」
「変なことってなに」
ぷっとアンが吹き出して、その顔を見てサボもやっと肩の力を抜いた。
「おかえりアン。良かった」
何が良かったのかサボ自身分からなかったが、アンは笑顔で頷いた。
少し顔色が白い気もするが、見たところ怪我も変わったふうもないので、サボはアンに貼りついたままのルフィを引き剥がした。
「とりあえずアンは風呂入んなよ。疲れただろ」
「じゃあ、そうする」
腹減らないか、痛いところはないかとまとわりつくルフィを笑いながら押しのけて、アンは階上へ上がっていった。
アンは烏の行水で、いつも10分と立たずに出てくる。
このときもそうだったので、続いてサボとルフィもさっさと風呂を済ました。
ホカホカと温まった体で3人縦に並び、アンはルフィの髪をタオルで拭き、サボはアンの髪をドライヤーで乾かした。
そうして一通りのことが済むと、さて、という雰囲気になる。
自然とアンの言葉を待つ空気になった。
ソファに座ったアンは沈黙を持て余すように手の中でミネラルウォーターのペットボトルをもてあそび、その隣でサボはアンが話し始めるのを待ち、地べたに胡坐をかいたルフィはそわそわと体を揺らしている。
あのな、とアンが口を開く。
迎えの車に乗ったその時のことから語り始めた。
*
アンが乗り込んだ黒い車の運転席にはラフィットが乗っていた。
丁寧な口調でアンにシートベルトを促してから車を発進した。
「あなたの弟たちは今頃さぞ気をもんでいることでしょうね」
ラフィットは相変わらずどこかからかうような風味を持たせてそう言った。
アンが返事をしないでいると視線をちらりと動かしたが、それからは何も話すことなく運転し続けた。
車はモルマンテ大通りを北へと上って行き、途中で交差する道を右へ曲がり次は左に曲がり、とくねくね進む。
まるでアンの目をくらませようとするかのようにわざと遠回りしているとしか思えない道筋を進んだが、どこまで行ってもアンには見知った街だからあまり意味はない。
ラフィットもなんとなくそれをわかっているようで、意味を持たないその行動はただ誰かの命令に従っているだけのような、若干辟易としているような顔が無表情の中に一瞬覗いた。
だから結局、30分以上走ってラフィットが車を止めた場所も、アンがよく知る本屋の裏手にある建物の前だった。
降りるよう目線で促され、そろそろと車を降りる。
アンを下ろすと車は発進し、アンは暗い路地に一人ぽつんと残された。
(…なんだってんだ)
どうすれば、とアンがその場に立ち尽くしていると、3分とせずにラフィットが、今度は歩いて戻ってきた。
「お待たせしてすみません、どうぞ」
ラフィットは目の前のコンクリートビルの重たそうな扉を開けた。
ラフィットの背中を追いながら、入ってすぐに現れた階段を上っていく。
暗いそこはキンと冷えていた。
階段を上りきったすぐ目の前に曇りガラスの扉が現れて、ラフィットは一声かけてそれを押し開け中に踏み入った。
アンも後に続くしかない。
中に入ったラフィットは、さっと横に身を滑らせてアンの前から退いた。
目の前の男の暗いスーツしか見えていなかったアンの視界が急に開けた。
電灯に照らされた室内は外よりずっと明るかったが、ちっとも暖かくない。
正面にはローテーブルと、それをはさんで向かい合う茶色い革張りのソファがあった。
それはアンに高校の校長室を思い出させた。
そしてソファの一つには、男が座っていた。
「ゼハハハハ、よく来てくれたゴール・D・アン」
会いたかったんだぜ、と男は抜けた歯並びを見せつけるように大きく口を開いて笑った。
お座りください、とラフィットが背後から囁く。
アンは仕方なく歩み寄った。
近くで見るとその男はとても大きかった。
肩幅はガープか、もしかするとそれ以上あるかもしれない。
座っているのでわからないが、男が立ったらアンは首が痛くなるほど見上げなければならないだろう。
男はぎょろりと大きな目でアンがソファに腰かけるまでをにやにやしながら追った。
嫌な目だ。
男はアンの顔からつま先までを舐めつくし味わうかのように眺め渡す。
アンはせいぜい弱気に見られないよう、顎を反らせるほど顔を上げて男を睨み返した。
どす、と音を立ててソファに腰かけた。
「何、話って」
つっけんどんにアンがそう言うと、男はまた奇妙な笑い声を上げた。
「まぁそうぴりぴりすんじゃねぇよアン。おいラフィット、客人に茶でもださねぇか」
「今作っています」
四角い部屋の隅にあるらしいキッチンからラフィットの声がすっと入ってきた。
「まぁまずは自己紹介と行こうじゃねぇか。お前さんはゴール・D・アン、たしかだな?」
アンは返事をすることもうなずくこともしなかった。
しかし男は特にアンの反応を気にすることなくニヤリとする。
「間違うはずねぇ、なんにせよお前ェはロジャーにそっくりだ」
アンの眉がピクリと動いた。
その反応を楽しむように、男はニヤニヤを濃くした。
「オレはティーチ。ここで税理士をしてる」
「税理士?」
確かにこの部屋は税理士の個人事務所のように見えないでもなかったが、この男はどこをどう見たってまっとうな職の人間には見えない。
太い指に豪奢な指輪をいくつもはめたこの男に客がつくのだろうか。
「お前ェを迎えにやったラフィットって男は俺の秘書だ。他にも人員はいくつかいるが…まぁおいおい紹介することにしよう」
ラフィットがトレンチにコーヒーをのせて持ってきた。
慣れたしぐさでアンの前に置く。
ティーチは出されたコーヒーを音を立ててすすった。
「どこから話すのがわかりやすいんだろうなぁ、オレァややこしい話がきらいでな。おいアン、お前ェは聞きたいことねぇか?話し出しを決めてくれ」
ティーチはソファの背もたれに背をつけたまま、ふんぞり返った姿勢でアンに尋ねた。
聞きたいことなど山ほどある。
「…あんた、父さんと母さんのなに」
ティーチは歯を剥きだしてにぃと笑った。
「よし、いいな、そこから話すか。アン、お前ェのオヤジは警察だった。知ってるだろなぁ?だがただのおまわりでも、私服警官でもねぇ。幹部も幹部、この街を牛耳るトップの一人だった」
そのことはアンも大人になるにつれて徐々に知っていった。
過去の政治家のように、ときたまテレビで見るような存在。
「お前ぇはこの街の気違いじみた政治の仕組みを知ってるか?」
アンはあいまいにうなずく。
この街の権力図を糾弾する声は、大人になればいやでも耳に付いた。
おそらくそのことだろう。
ティーチは満足げに話を続けた。
「オレァ昔行政府で職についててな。そうすりゃ名目上の権力と実質上の権力だ、行政府のオレと警察幹部の奴らは事実のすり合わせのために顔を合わせて話をする機会が何度か必要になる。そこでお前ェのオヤジとも出会ったってわけよ。まぁ別段よろしくやってたわけでもねぇし、特別犬猿の仲だったわけでもねぇ。お前ぇだってそういうやつはいるだろう?」
アンは黙って話を促した。
行政府と警察組織には火を見るより明らかな権力差があるので、仲良くやっているわけではないが、衝突を避けるために互いが互いを上手く立てているのだと聞いたことがある。
「そういう意味でオレらぁただの仕事上の付き合いしかしてねぇ。お前ェの母親…ルージュだったか?そのことだって何かの折に聞いたことがあるだけだ。どういう関係って、まぁそんだけだ」
アンは男の大きな黒い目の中をじぃと見た。
嘘やごまかしの気配はないように見えた。
ティーチは話の流れを掴んだのか、饒舌に話を続けた。
「聞くがアン、お前ェ、エドワード・ニューゲートという男を知ってるか」
エドワード・ニューゲート。
それこそニュースか何かで耳にしたことがある。
この街の最高権力を握る警察組織のトップに立つ男。
アンは頷いた。
「…名前は」
「それでいい。オレァロジャーよりずっと、その男に関係があってな。
…オレァ、あの男が死ぬほどきらいなんだ」
ティーチの声は、その場の気温をすっと下げてしまえるほど冷えていて、憎しみに満ちているように聞こえた。
アンはごくりと唾を飲み込む。
しかしティーチはまぁそれは後で話すにして、と急に声音を変えた。
「時にアン、お前の二親が死んじまったのぁ、お前が10のときらしいな」
アンはこくんと頷いた。
「そんなガキの頃ともなると覚えてねぇかもしれねぇが…あえて聞こうじゃねぇか。アン、お前ェ、おふくろがいつもつけていた髪飾りを覚えてるか?」
「髪飾り?」
なんだそれ、と口をつきかけた言葉が記憶によってくんと後ろに引っ張り戻された。
ぼんやりと母の顔が浮かぶ。
それはアンの記憶に残る顔ではなく、唯一アンの手に渡された一枚の写真だ。
どこかわからない、この街じゃないどこかにあるエメラルドグリーンの海。
それを背景に、大きく笑う栗色の髪の女性。
ルージュだ。
まだ若く、どこか子供っぽささえ残る笑顔。
しかし彼女の腕には小さな赤ん坊が抱えられていた。
考えなくてもそれが自分であることは、その写真を初めて見たときから知っていた。
ルージュがまるではにかむように笑っているのは、写真を撮っている人物がおそらくロジャーだからだ。
だから家族写真なのに、写っているのは2人だけ。
ルージュの腕に抱かれたアンは、眠いのか機嫌が悪いのかむすりと顔をしかめていて全然可愛くない、と自分のことながら思っていた。
やけに若い母の顔だけが瞼に残っている。
そして、青い背景がひと際目立たせている一点があった。
ルージュの髪、左耳の少し上にあてられた大ぶりの花の髪飾り。
太陽の光を吸い込んで鮮やかに光っている。
その花は、南のほうの国で夏になると咲く花であるらしい。
そう、写真を手掛かりにすればいくらでも思いだせる。
ルージュは、母はときどきその髪飾りを身に着けていた。
ぽけっと口を開いたまま記憶をたどるアンから肯定を読み取ったのか、ティーチは満足げに口角を上げた。
「わかるだろう、赤い花の髪飾りだ。お前の母親はとりわけそれを大事にしていた。なにしろありゃ、国宝級の宝石で出来てたんだからな」
「国宝!?」
「値段にすりゃぁ…いや、オレには想像もつかねぇ。とにかく桁違いの額になるはずだ」
「…なんで」
なんでそんなものをただの主婦が。それもあたしの母親が。
アンの疑問が顔に出ていたのか、ティーチは偉そうに息をつきながら呆れた声を出した。
「おいおい、そりゃああの品は相当な逸品だが、お前の母親がそれを持ってることにゃあなんの不思議もねぇんだぜ。なにしろあのロジャーの女だ。金はもちろんのこと、あの髪飾りを作るだけの伝手だって持ち合わせていて当然よ。アン、お前ぇはちょいと自分の親のデカさをわかってねぇな」
そんなこと言われても、とアンは呆気にとられながら押し黙った。
アンにとってロジャーもルージュも他の子供にとって親がそうであるようにただ「家族」という少なくとも一番近しい人間で、たしかに家は少し大きかったが遊び盛りのアンにはちょうどよく、サボとルフィもいたのでかくれんぼで使う隠れ場所も限られて、手狭に感じるときさえあった。
よくよく考えてみれば、簡単に他人の子を育てる経済力はあったということなのだが。
しかしロジャーが社会的にどれほど大きな影響力を持っていて云々、などを語られたところで、アンには想像さえできないのだ。
アンとはたった10年しか一緒にいられなかった父親。
その10年で与えられた父の印象も、アンからしてみれば、正直結構どうでもいいかんじだ。
アンがサボとルフィとばかり遊んで父との時間を全く割かないことを子供じみた言葉で糾弾されて、鬱陶しいというかめんどくさいというか、とにかくそういう思いを抱いたことは覚えている。
そんな父がこの街のトップで、その妻は国宝級の髪飾りを食事の準備中髪が邪魔だから留めておこうとかそんなために使うような人間だなんて。
いやいやいや、ないだろ。
アンは思わずふっと笑ってしまった。
昼間ラフィットが訪れてから、初めて気を抜いた瞬間かもしれない。
「嘘だろ」
「あぁ?」
「たしかに覚えてるよ。母さんが花の髪飾りつけてたこと。でもあれがものすごい高い宝石で出来てるとか価値のあるもんだとか、ありえない」
そもそもアンの覚えている限り、それはその辺の雑貨屋に売っている代物に見えていたのだ。
ティーチはアンの言葉に目を白黒させたかと思ったら、しかしすぐに不敵に笑って鼻の穴を広げた。
「ゼハハハハ、そりゃあおもしれぇ。だがな、アン。事実は事実。これを見ろ」
気付いたらラフィットがすぐ近くまで来ていた。
ティーチと何を示し合わせたわけでもないのに、それとも前から打ち合わせてあったのか、アンの目の前にすっと積み重なった雑誌が現れた。
それらはすべてとあるページを開いて4冊重ねられていて、アンはいちばん上に積まれた雑誌に視線を落として目を瞠った。
この街随一の美術館に今世紀最大の宝が展示されているとかなんとかと謳ったそのページに、でかでかとルージュの髪飾りの写真が載っていたのだ。
「これ、」
「まぁ次の雑誌も見やがれ」
楽しそうにするティーチに構っている暇はない。
アンは見ていた雑誌を横にスライドさせて、次の雑誌に目を移した。
そのページにもルージュの髪飾りはいた。
しかし今度は美術館云々を語る記事ではなく、とある財閥の人物を特集したページらしかった。
財閥を一代で成したたぐいまれなる能力らしいおっさんと、その妻が寄り添い立っている写真が載っていた。
その妻の頭にくっついてでかでかと存在感を放っているのがルージュの髪飾りだ。
記事には、インタビューアーが髪飾りをつけたオバサンにその髪飾りについて言及しており、それに対して彼女は、この髪飾りはいつも銀行の貸金庫に保存してあるのだと応えていた。
文面からこの女の高飛車な雰囲気が匂ってくるようだった。
アンはティーチに促されずとも、次の雑誌を引っ張り出した。
そして思った通り、そこにもルージュの髪飾りがあった。
ナントカという伯爵の子孫であり御曹司だとかいう、なすのように長い顔に小さな目をくっつけた若い男の写真が載っていた。
どうやらその男のコレクションが特集されているらしい。
コレクションの品は何点か乗っていたが、その中にひと際赤が目立つ髪飾りも紛れていた。
そしてアンは最後の一冊を取り出した。
そこにも当然のように乗っていたルージュの髪飾り。
今度は、とある有名な宝石商の特集だった。
アンは黙りこくったまま、何度も何度もそれら4つの写真を見返した。
どれも同じものだ。
写真で見るとアンの記憶もようやく形を成してきた。
そうだ、これは母さんの、あたしは知ってる。
「国宝級の宝が、しかも全く同じモンが4つもあるなんておかしな話だろう?」
アンは答えなかったが、胸の中では違う、と言っていた。
母さんのを入れたら5つだ。
「おかしな話なんだ。この宝はたった1つしか作られていねぇはずだ。ロジャーが死ぬ間際の宝石細工職人を掴まえて作らせたらしいからな。言葉のとおりそいつぁこの髪飾り作り終わってからぽっくりよ」
「…じゃあ、」
「ああ、偽モンだ。レプリカ、イミテーション、なんでもいい。とにかく似せて作らせた紛いモンなんだ。3つはな」
4つのうち3つが偽物。
じゃあひとつは。
「…どれかが、母さんの髪飾り…」
「そう、4つのうちたった1つだけ、お前の母親のもんだ。ただの金持ちが趣味で持ってていいもんじゃねぇ」
アンは言葉を失った。
だがすぐに雪崩のような疑問が流れ込んできた。
母さんが事故で死んだとき、この髪飾りをつけていたのだろうか。
幼いアンには母が事故でどのように死んでどんな様子だったかなんて想像も及ばなかったし、考えたくもなかった。
しかしよくよく考えてみたら、少なくともアンに手渡された両親の遺品の中にその髪飾りがあってもおかしくなかった。
なのに今、それはアンの手元にない。
「なんでって顔してやがるな」
ティーチはすっかり気を抜いていて、ラフィットにコーヒーのお替りを持ってこさせていた。
アンは膝の上で、ギュッと拳を握りしめた。
あたしが小さくて、まだ何もわからない子供だったから、母さんの髪飾りがこんなふうに世間に紛れてしまったんだ。
「お前の親が死んだとき…警察が家に来ただろう」
アンは小さく頷いた。
覚えている。
とても嫌な記憶だ。
一様に黒い服を着た大人が、心細さで消し飛んでしまいそうなこころをなんとか掴んでいたアンたちのもとに突然なだれ込んできた。
皆が皆沈痛な面持ちで、アンたちに両親の不幸を告げ、これから起こることをなんとか簡単な言葉で説明しようとしていた。
アンにはその言葉の半分さえわからなかった。
今ならわかる、そのあと行われたのは家宅捜査だ。
アンはハッと顔を上げた。
「そうさ、わかるだろう。ロジャーが死んで、奴の家は隅から隅まで警察に調べつくされた。まぁそれは元公務員のオレから見たって全うなことだ。ロジャーの立場を考えたら仕方がねぇ。だがおそらくそのときだ。髪飾りは警察の手のうちに行っちまった。
…んでこりゃあ間違いねぇことだが、そのとき警察の指揮を執ってたのはエドワード・ニューゲートだった」
またティーチの口調に憎々しさが沸いた。
「あいつがお前の母親の髪飾りを余所に流した。レプリカを作らせて人の目をごまかして金儲けさ。あの野郎はそういう、抜け目のねぇところがあった」
頭の中がぐるぐるする。
新しく出てきた事実がアンを押しつぶす。
アンはなんとか口を開いた。
「でも、そんなこと」
「できるのさ、あの男は。自分の周りに置く奴らを全部手の内に入れ込んじまって、何をしたって咎められやしねぇ。しかもアイツの守備範囲は警察の中だけじゃあなく行政府にまで伸びている。行政府のほうから気に入ったヤツを引っこ抜いては手下に組み込んで、ぶくぶくぶくぶく太ってったってわけよ」
アンは机の上に広がったままの雑誌を見るともなしに見ながら、憎々しげに語るティーチの言葉をぼんやりと聞いていた。
ティーチの話すことはどれもつじつまが通っているように思えた。
ラフィットが、アンの手の付けられていないコーヒーを新しいものに替えた。
ティーチはコーヒーをすすって、大仰なため息をつく。
「なあアン。お前ェ悔しくねぇか。お前の母親の形見が見ず知らずの金持ちのコレクションになって、勝手に自慢されて。4つのうちどれも相当な値がついて世間にゃ知られているが、本当はそんなもんじゃねぇんだ。なにより髪飾りはアン、母親の死んだ今、お前のものだろう?」
アンは膝の上で握りしめたままの拳を一度ゆるゆる開いて、またぎゅっと握りしめた。
悔しい。
父と母が死んだとき、呆けてばかりいた自分が悔しい。
ルフィとサボと離れたくないと、自分のことばかり考えていた自分が情けない。
断片的な記憶がアンの中にひとつ、またひとつと湧き上がる。
その中の一つで、ルージュが嬉しそうにアンの髪にあの髪飾りをつけたことがあった。
『やっぱり、アンには赤が似合うわね』
あのときあたしはなんて言ったっけ。
そんなのつけてたらサボたちと遊べない、とかなんとか言った気がする。
ルージュは笑って、それもそうねと言ったのだろうか。
死んでしまった母さんは、世間に流れてしまった髪飾りをどう思っているだろう。
あたしが髪飾りを持っていないと知ったら、どう思うんだろう。
ティーチはアンの顔と、握られた小さなこぶしを見比べるようにして「よく聞け」と言った。
「髪飾り、取り返したかねぇか」
ずく、と胸の奥が騒いだ。
取り返す──母さんの髪飾り。
ティーチはアンの返事を待たずに言葉を重ねた。
「オレなら手伝ってやれる。どうだ、のらねぇか」
「…ど、どうやって」
「盗むのさ」
アンがぎょっとして顔を上げると、ティーチはさも当たり前、とでもいうように笑いながら身を乗り出した。
「驚くこたぁねぇだろう。それ以外に何の方法がある?一軒一軒成金の家回って、それは私のなんで返してくださいとでも言うか?」
馬鹿馬鹿しい、とティーチは吐き捨てた。
「それがお前のである証拠は何一つとしてねぇんだ。玄関先で追っ払われるのが関の山だ。買戻しという手がないでもないが、お前にそんな金があるか?」
ティーチはアンの返答をわかりきっているようだった。
金なんて、宝石を買う金なんてあるわけない。
両親が残した遺産は20の娘が一人で背負うにはまだまだ莫大すぎるほど残っているが、それをすべて使って髪飾りを買い戻すなど──買い戻せたとしても、それからサボとルフィとどうやって暮らしていけばいいのか。
まだまだ始めたばかりのデリだけで生活していけるゆとりはない。
「アン、お前が腹ぁくくったなら、オレらはできる限りの手伝いをしようじゃねぇか。幸いオレの手下にゃいろんな面で役に立つ奴が多くてな。道具も手に入れられるし裏の顔も効くし、頭のいい奴もいる。そいつらの全動力をかけてお前をサポートできる。どうだ、なかなか頼りがいのある面子だと思わねぇか」
ぐらりと心が揺れて、しかしすぐに揺れた心を掴み直した。
じとりと下からティーチを睨みあげる。
「なんで…あんたはそんなことあたしに教えてくれるの」
精一杯不信と欺瞞を込めた顔つきでティーチを見返したつもりだったが、ティーチは心得顔でにやりとした。
「ゼハハハ、それを聞かれるのを待ってたぜ。
言っただろう、オレァエドワード・ニューゲートが嫌いだと。オレはずっと、何とかしてアイツのでかっぱなをへし折ってやろうと思っていた。偉そうに上から見下せるあの地位から引きずり落としてやりてぇんだ。ずっと、その方法を考えていた。そこでやっとお前ェの存在と髪飾りのことを知ったんだ。あのジジイはオレのことを扱いづらいがただのバカだと思ってやがるし、他の手下にするように甘い顔をする節もある。それを利用して髪飾りの情報を引き出した。これだと思ったんだ」
ティーチは沼から目だけを覗かせるワニのように底光りする目をギラギラと光らせた。
「4つの髪飾りを持っている奴らもまた、ニューゲートと手を結んでやがる。髪飾りを好き放題うっぱらってからも目を光らせ続けてんだ。だがそこでお前がまんまと宝石を盗んでみろ。エドワード・ニューゲートの信用は地に落ちる。そこでさらに、盗まれた宝石が世に流されて、それを目にしたお前がそれは自分の母親のものだと主張してみたとしよう。お前の主張が本物だと証明されたら、宝石の出所が問題になる。つまりはすべてニューゲートの責任問題に帰ってくるってわけだ」
どうだ出来た話だろう、とティーチは憑かれたように煌々と光る目で一気にしゃべった。
すべてがもっともらしく思えてくる。
「ニューゲートの話によるとな、お前ぇの本物の髪飾りには浅く、本当にわからねぇくらいに浅くお前の母親の名前が彫ってあるらしい。それを知っていねェとわからないくらい小さくな。だからお前が盗ってきたモンの中で本物を見分けることがオレたちならできる。そうしてお前は母親の形見を手に入れて大団円、オレァにっくきニューゲートを貶められて万々歳と、こういうわけだ。
どうだ、ちっとは信用できたか?」
アンはじっと、石のように固まって口を閉ざした。
少し考えたい。
ティーチはそれを汲み取ったのか、アンと同様に口を閉ざしてアンを待った。
──信用など、していない。
もっともらしいし筋が通った話ではあるが、ティーチという男のあの目にはアンの心に付け込もうとするような嫌な光が灯っている。
手下のラフィットでさえたまに同じ目の光を宿す。
サボもルフィも、ラフィットのことを当たり前だが好いてはいない。
しかし同時に、ティーチの話を簡単にはねつけられない思いも大きく膨らんでいた。
母さんの髪飾り。
あたしのせいで、簡単に金に換えられてしまった。
取り返したい。
父さんが母さんのために贈ったという髪飾りは、アンがちゃんと持っているのだと示してやりたかった。
ああ、と顔を覆ってしまいそうになる。
そんな弱弱しいところをこんなところで晒すわけにはいかないという理性が働いて体は動かないが、心はいろんな考えが渦巻いてぐちゃぐちゃしている。
気持ちは大きく一方に傾きかけていた。
「なに、今すぐ決めろとは言わねぇ。猶予期間をやろう。1週間だ。いい返事を聞かせてくれ」
アンの右側で、ラフィットが「車の準備をしてまいります」と言った。
*
サボとルフィの相槌は、話の途中からぷつりと途絶えた。
途中から質問や驚きの声などがさしはさまれることがなくなったので、アンの言葉もすらすらと口をついた。
サボはきつく唇を引き結んで、ルフィはぽかんと口を半開きにしてアンの話に聞き入った。
アンが話し終えると、しばらく呆然とした雰囲気の沈黙がぽとりと落ちた。
話の最後に、アンが決めた心のうちも伝えていた。
「本気か」
サボがぽつ、と低く呟いた。
アンが頷くと、そうかと言う。
「ならおれがする」
「はっ!?」
「ルージュさんの形見を取り返したいのはおれも同じだ。ならわざわざアンがすることない。おれが盗む」
「何言ってんの、そんなのダメに決まって」
「そんならサボよりおれの方がいいだろ!おれが一番身軽だ!」
アンの言葉を遮ってルフィまで声を高くした。
いいやおれがする、と堅い顔で繰り返すサボと、いいやおれだと一歩も引かないルフィ。
間に挟まれて、アンはますます頭がぐるぐるした。
「ちょ、ちょ、ストップ!待って!聞いて!」
慌ててソファを降り、ぐるると顔を突き合わせて今にも掴み合いに発展しそうな二人を裂くようにして間に入った。
アンに肩を押されて、サボがハッとしたように上げかけていた腰を下ろす。
ルフィはまだ納得のいかない顔でむすりとしている。
「ちがう、あたしがやりたいの。自分で」
自分の手で取り返したい。
そう言って、アンは二人の間にぺたんと座り込んだ。
ふたりの目を見られなかった。
ふたりにとってもルージュは母親なのに、やっぱり取り返すのは血の繋がった自分でありたいと思ってしまうことがとても浅ましく思えたのだ。
気まずさに目を逸らしてしまったアンに、ルフィがのんきな声で「それもそうか」と言ったので、アンは思わず怪訝な顔でルフィを見た。
さっきの喧嘩腰はどこへ行ったのか、ルフィはけろりとした顔で床に座り直して言った。
「アンの母ちゃんのだもんな。うん、アンがやるべきだ」
「ルフィ、でも」
「サボでもオレでもねぇ、アンが取り返した方が母ちゃんも喜ぶだろ」
反駁しようとしたサボは言葉を飲み込んだ。
ルフィは淡々とした声で、至極まともなことを言う。
サボのほうをちらりと見ると、何とも言えない顔つきでアンとルフィを見つめていた。
ルフィは場の雰囲気にそぐわないほど明るい笑顔を見せた。
「大丈夫だろ、アンなら。なんてたってアンだし、何かあればそのときおれたちが助けてやれる」
なっ!と同意を求められて、サボは渋い顔のまま微かにうなずいた。
アンが一人胸に抱えていた決意に、2人分の重みが増した。
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